「防諜小説の評価」
英国で『007』が戦後も映画化されている。
日本では、スパイ・防諜ものは急激に廃れた。
娯楽小説の地位か低いか、八つ当たりか、あるいは本当につまらないかは検討されない。
反動というか、揺れが激しい。
そこには、軍部の検閲という暗黒の歴史から目を背ける面もありそうだ。
軍事闘争が舞台ならば、仮想敵が必要だがそこに検閲や軍部の意向が反映されれば避けたい気持もありそうだ。
実は作者側にも、いやいや書いた場合も多く、忘れたい消したい意味もあるようだ。
後の社会派とプロレタリア派と、防諜軍事小説との差は、著者に選択肢があったかの差だ。(2016/07/14)
「旺盛な執筆量の作家」
日本の作家特に大衆小説作家は、書誌が不十分だ。
そもそも、複数のペンエームを使うし、編集者経験者も多い。
編集者時代は、無記名または記号またはペンネームを混在させて書いている事が多い。
そこに合作や、複数作家の共用のペンエームのハウスネームがある。
そして、ジャンルによって発表先もペンネームも違う事もある。
さらに限られた地方の新聞等に掲載する事もある。
そして、大衆文学は図書館等での保管がされにくい性格で来ている。
簡単に言えば、発表の有無が判らない、発表が判っても実物が読めない事になる。
徐々にではあっても明らかにされてくると、驚く程の執筆量の作家が複数に見付かり驚く。(2016/07/29)
「戦後直ぐは翻訳権で揺れた」
戦中は海外小説の翻訳は出版は難しかった。
だが翻案という分野があり、舞台を日本に変え登場人物も日本人中心に変えたものがある。
これは、戦中に限らず、明治時代から戦後のある時期まで多かった。
今でも無い訳でないが、翻訳権の問題は絡むし、需要の有無はもっと深刻だ。
ただ、名手・名翻訳家の手における翻案は、逆に人気が高くなる事も多い。
ただ、その元になった作品が不明になる事があるのが翻案の問題点だ。
原作・原案が存在すれば、明確にしてほしいと思う。
ただし、戦後直ぐは翻訳権が大きく変わる時期であり、小さな雑誌では対応出来なかった。
「ロック」でも、コール夫妻の翻訳やダンセイニの翻訳で混乱が酷い。(2016/08/13)
「戦前本の行方」
古くなる程に資料もないし、興味は中途半端だ。
資料的な研究対象にはなりにくい。
読書的な面白さも薄い。
だが何事にも例外はある。
まだ、評価の曖昧な現在は古書価も未確定だ。
むしろ雑誌や全集は、ほぼ確定している。
数が少なくて、不明というもにの惹かれる人もいる。
ただ商業出版での再版は難しい。
さてどのようになるかは、監視状態だ。(2016/08/28)