展覧会の怪画

展覧会の怪画

北 洋

ロック別冊・新作探偵小説傑作集(1948/3/1)

展覧会の怪画

 私はこの不吉な手紙の裏表をひつくり返へしてみて、仔細にそれが誰によつて送られたものであるかを知らうと努めた。勿論差出人はない。宛名はルタン紙から切抜いた活字をはりつけたものであることは歴然だ、消印はルクサンブール局になつてゐる。

 中には写真が一枚、皮肉にも芸術写真のやうに美しいルクサンブール公園のマロニエの花の蔭で男女二人が接吻せんばかりに顔を寄せ合つた所が撮られてゐた。男は私だ。女はS・M・・・・嬢であつた。

 実に不愉快にもこの忌はしい写真は時もあらうに私がマドレーヌと婚約しようと云ふこの日に・・・・・してみると彼はこの日を知つてゐたに違ひない。彼は私がマドレーヌと別れることが出来ないことをよくよく知つてゐて、之を種に私にとりついて私から莫大な致命的な金をゆすり取る積りなのである。私は歯ぎしりしてこの写真を力一杯引破つて小さく小さく引裂いた。

 こんなものがマドレーヌやその父親にみつかつたらこの婚約の話などは忽ち解消してしまふ。・・・

 私は熱くなつた頭をかかへていろいろな可能性を想像してみた。彼女が之を発見する、これ誰?

 と来る。まあ、あきれた人! 臆面もなく私に結婚を申込んだりして! もうこれまでと思つて頂戴と来る! だが私は彼女と別れることは出来ない、決して! 彼女と別れることが出来ないのだ、私は、おお恐ろしいことだ彼女は私の魂を握つてゐるのだ!

 さうだやはり写真の原板を取戻さなくてはならない、しかし之は誰が持つてゐるのだらう。

 私は当時のことを思ひ出した、当時S・H・・・・嬢と公園でランデブーしたことを知つてゐるのは誰も居ない筈なのだ。誰も居ない、勿論友人のシヤーレマンを除いては。シヤーレマン!

 彼はそんな筈はない、彼と私とは生れ落ちたときからの友人だ。一度は数年間離れ離れになつたことはあつても影と形のやうに一緒につきまとつてきた間柄だ。彼が私を脅迫すると云ふことなどあり得る筈はない。しかし、あつ!

 彼もマドレーヌに恋してゐるのではないだらうか? そう考へれば!

 恋はオールマイテイだ、さう考へると此頃急に顔を見せなくなつたぢやないか。いつも私から隠れるやうにしてゐる。さうだ彼だ!

 彼より他にない、あの時彼は公園の植込の中に隠れてゐたのだ、さうだ!

 彼はあの時妙ににやにやしてゐた。(僕はちよつと今面白いことをやつてゐるのでね)と云つた。

 おお彼はそんなに深いたくらみを以て私を破滅させようとしてゐたのか、何と云ふ悪魔だ、私は彼のために今迄どんなに骨折つてやつたか!

 生活を踏み外して野良犬のやうにモンパルナツスを歩いてゐた彼をひろひあげて・・・・ええ何と云ふ馬鹿だ!

 女学生のセンチメンタリズムだつたのだ。・・・いや、しかしここで私は気を落してはならないのだ、断乎として、さうだ彼を抹殺しなければならないのだ、それにしても之と同時に脅迫状が来ないと云ふのはどう云ふわけだらう?

 所が翌日この手紙が来た。

「僕の傑作を見たかい? 之で僕は之で一万フランを釣る積りだ」

 正しく彼の字だつた!

 どうだ、何と云ふ厚かましさだ。一万フラン!

 傑作! 全く傑作だ! そのとき部屋のドアを叩いて迄事をしない中に入つて来たものがあつた、それがシヤーレマンだつた!

「シヤーレマン! 君は! 何と云ふ・・・」

「どうだい? 僕の傑作は!」

 彼は実に皮肉に上機嫌だつた。

「こいつ!」 と私は彼に躍りかかつたが、彼は素早くくぐり抜けて精悍な目を据えて、

「何をするんだ! 僕は」 だが終ひまで云はさずに私は必死になつて夢中で彼に飛びかかつた。彼は巧みに私のタツクルを外して戸外に逃れ去つた。私はがつかりして床にべつたり座つてしまつた。私は実に淋しかつた。私と彼との友情も之で終つた。或ひは唯一の希望であるマドレーヌとの恋も終りになるかもしれない、そして親父の遺産の一万フランも彼に奪はれてしまふだらう、何と云ふ不幸な男だ、それと云ふのも・・・・

 私は遂に最後の勇を振つて目的を達すべくラスコリニコフの例にならひ小さい鉈を門番の納屋から盗み出した。(人に知られてはいけない)これだけで私の神経は全く疲れてしまひどんな失敗を仕出かすか不安で仕方がなかつた。

 私はしかし疲れた頭で現場不在証明を熱心に考へた。そして翌日の午後六時、サン・クルー街のアパルトマンの門番にソルボンヌに行くと云つて出掛けた。そしてソルボンヌ大学の物理実験室へ入ると赤いランプを点け「実験中危険」の札を下げて、真空ポムプのモーターのスウイツチを入れた。又煙草の火をつけて灰皿に入れてから実験室を出た。幸ひにも誰にも見つからずにすんだ。一度私は歩きながら記憶を喪失して一体どこに行くのだらうとふと忘れて道の真中に立止つた、何と云ふ弱い神経だ、之からどんな失敗を仕出かすかわからない。

 サン・ミシエル街の彼の下宿の前には生憎、アンヌ小母さんが誰かを待つて立つてゐた。仕方がないので私はそこを通り過ぎた。そして小石を拾つてプラターヌの木の陰から、果物屋の鎧戸へそれを投げつけた。ガチヤンと慄へ上るやうな音がすると、サンミシエル街からわいわい男女が飛び出して果物屋の店先に集つた。アンヌ小母さんも飛上つて走り出した。パリ人は物見高い、私はこの思ひ付きに大いに愉快になつて口笛さへも吹き度くなつたが慌ててシヤーレマンの下宿へ入り込んだ。この騒ぎに誰もそれを注意してゐるものはなかつた。

 鍵穴からのぞいて見ると中は真暗だつた。私はずつと以前に作つておいた合鍵を取り出して鍵穴に入れようとしたが、ガタガタ慄へて入らずカチカチと鍵が触れて鳴つた。冷汗をかきながらーーああ誰かに見られはしなかつただらうか? 私は漸く鍵を入れて廻した。カチリ。私は把手を取つてそつとドアを開けた。中には電灯がついてゐなかつたが、夜の光でぼんやり明るかつた。

 私はもう引返さうかと思つて何度も逃げ出しかけたが、漸く踏み止まつてなほよく部屋の中を見ると、見覚えのある彼のベッドの中に彼が寝てゐた。戸外の光で彼の顔は死人のやうに蒼かつた。私はぶるぶる慄へる手で外套から鉈を取り出し、それをふりあげたーーああ何度この瞬間私は手の力の萎えるのを感じたらうーーそしてそれを力一杯彼の頭の上に打下ろした。がつと云ふやうな音がして彼は声もたてなかつた。

 私は鉈を拾ひあげて毛布でよく拭ひ外套にかくしてーーーああ振返つた私は血が凍つて髪が逆立つた。ああ何と云ふことだ!

 ドアを開け放しにしてゐた!

 もうだめだ。私はもう我慢が出来なくなつて走り出したが、幸ひに、非常に幸ひに誰とも会はなかつた。私はサンクルー街のアパルトマンへ帰るつもりでそこまで来たが慌てて之はいけないと思ひ出してソルボンヌへ引き返して、物理実験室へ入ると、愕然として身体がジーンとして膝の力がぬけ立つてゐることが出来なかつた。

 モーターが止まつてゐるのだ。万事休した。ああ折角の不在証明が! 私は実験室へ入つてモーターのスイツチを調べて見た。確かに切れてゐた。がつかりしてもうどうでもいいと長椅子に体を投げ込んだ。そのとき机の上に白く光るものがあつたので取上げて見ると厚い論文用紙であつた。

 危険につき、モーターのスウイツチを切つておく。

                         H・シヤーレマン

 え! シヤーレマン!

 彼は今殺して来たばかりだ。彼は殺される前にここへ寄つたのだな、そして自動車で下宿へ帰つて寝たのだ。私は歩いて行つた、この時間の差だ、私は咽喉の奥が掻ゆくなつてせきをし、それからアハアハアハ大声で笑ひ出した。この笑ひ声が誰も居ない事件室で何度も反響した。私はこの重要な証人も一度に殺してしまつたもだ。一石二鳥だ!

 もう安心だ。何も心配はない! 証拠はない、アリバイは完全だ、彼は居ない! ハハハハ・・・・あつ! いけない! 写真の原板を探すのを忘れた。 ああ何のために彼を殺したんだ!

 私はびつくりして飛上り、又駆け出した。そしてもう一体何のために駆け出したのかも忘れて夢中になつてシヤーレマンの下宿へ飛び込んだ。彼に冷静になつたとき何と云ふ無鉄砲なことをしたのだらうと自分の無暴さに呆れ、且つ戦慄したものであつた。しかし幸ひにも又しても非常に幸ひにも誰にも見つからずにすんだ。彼の部屋は前同様ひつそりとしてゐた。

 誰もまだ私の犯行に気づいて居ないらしかつた。私はふつとポケツトに手をやると懐中電灯に手をふれて愕然として立止つた。私は無意識に実験室にあつた懐中電灯を持つて来たのであつた。私はこの無意識状態が不安になつた。今まで何をしてゐるかわからない、しかし私はもう崖から跳下りた気持で、ドアを開き又閉め、そつと寝台のあたりを照すと、水を浴せられたやうにぎよつとして懐中電灯を取落した。ベツトの上には彼の死体はなく、きれいに片付いてゐた。血液の附着したあとさへもなかつた。

 私はもう本当に声をあげて逃げ出したくなつたけれども、絶大な勇気を振つて、見慣れてゐる原板の整理棚を開き、一枚一枚調べ始めた。

 何と云ふ長い長い忍耐を要する仕事だつたらう。私は何度途中で何もかも投げ出してしまはうかと思つたかしれなかつたが瀕死の力をふるつてとうとう目的の原板を探し出しそれをポケツトにおさめてーーー之はたしかに陰画である。私はまだ之が果してあれの写真の原板であるか自信はなかつたーーー漸く下宿を出てサン・ミシエル橋からこれをセーヌ河の中に投げ込んでアパルトマンに帰り、長椅子に倒れるやそのまま寝てしまつた。悪夢の一夜であつた。

 私はそれからの三日間を重苦しい、しかし何か歓喜に満ちた喜ばしい気持で過した。マドレーヌは私の愛情が急に狂熱的になつたのに驚いてゐた。ああ誰が知るものか!

 所が四日目に又差出人なしの白封筒が来た、私は不可解な不安な気持で封を切つた。中には、

  光風会光画展招待券

     (招待日二月二十八日)

 が二枚入つてゐたのである。二枚!マドレーヌと私のか? 私は之が一体何を意味するのか暫く判断に苦しんだ。しかし圧へつけられるやうな不安が之を黙視してしまへないのであつた。私は独りで行くことにした。

 会場はサン・ジエルマンの美術商フロマンタンの店の二階であつた。部屋の壁には思ひ思ひの額に入れた写真がかけてあつた。二、三十人の人が入つてゐたであらうか。私は落着かない気持で写真を追つて歩いてゐたが、ふと四五人立止つて見てゐる写真に目をとめた。

 それはこの展覧会の第一の傑作らしくここに立止る人が多かつた。それは「復讐」と云ふ画題の実に鬼気せまる陰惨なしかし迫力のある人の足を引止めずにはおかないものであつた。

 一人の目をむき出した蒼ざめた男が鉈をふりあげてゐる写真であつたが、彼の眼は怪しく燃えて次の瞬間には確かに死体が彼の足もとに倒れる音さへも聞えるやうであつた。出品者の名を見ると、私はなぐられたやうによろよろとした。全身の血が逆流した。それはシヤーレマンであつた!

 ああこの男は自分だ! 自分の殺人現場の赤外線写真だ! 実に殺された彼はこの写真を公衆の面前にさらして自分に「復讐」したのだ。

 こんな歴然たる証拠は又とない。誰でも之を見たものはこの写真の男が殺人したことを疑ふものはあるまい!

 破滅だ! 私は貧血を起して卒倒してしまつた。

 私は夢のなかで必死になつてわめき、もがいた。気がついた時は誰が運んでくれたのか、私に部屋のベツトに寝てゐた。気がついて今まで起つたことをくり返して私はもう死を決意した。

 そして人を殺すと云ふことがいかに私にとつて困難なことであつたかに気が附いたが、もう何にもならなかつた。丁度そのとき家政婦のフレーシユ夫人が入つて来た、そして騒がしく喜び、あれから三日間自分がどんなに親身になつて看病したかを述べたてた。マドレーヌも昨日来たさうである。

「あの、警察の人は来ませんでしたか?」

「ええ? 警察の人? 来ませんでしたよ」

 やれやれまだ自分の犯行は知られてゐないのか、殊によつたら、うまく逃れることが出来るかもしれないと又ちよつとした希望も湧いて来るのであつた。

「ああ、忘れて居た、御手紙が来てゐましたよ」

 と云つてフレーシユ夫人がポケツトから出した白い封筒を見ると、私はまた愕然として色を失つた。

 それはM・シヤーレマンから差出されたものであつた!

 私はめまひを感じながら、わなわな慄へる手で封を切つた。

 親愛なる友よ、僕は死ななかつた。展覧会へ出品出来るほどピンピンしてゐる。君が殺したのは不幸にも僕ではなく別の人間だつた。しかしとにかく君が僕を殺さうとしたことは絶対に忘れられないし又許すことも出来ない。しかし君は僕の幼い頃からの友人であつた。幼い頃の記憶は君を警察の手に渡すに忍びない。

 そこで僕は僕にとつても君にとつても貴重な証拠であるあの写真の原板を君に譲つてあげる積りでゐる。代償としては一万フランを要求するが、之は君にとつて決して高いものではないと信ずる。なぜなら僕が黙つてさへ居ればこの殺人事件に君が疑はれることは先づなささうだから。

 勿論君もこのことを誰にも告げることは出来ないと思ふが、このことを人に告げることを僕も同様に好まない。従つて一読の後はこの手紙を火中にしてくれ給へ、なほ一万フランはなるべく小額紙幣にして新聞紙へ包んだ上、左記へ君一人で持参されたい。

 先づ午後七時頃自動車でルクサンブール公園へ行き給へ。そして君の思ひ出のベンチの前にある、マロニエの木に登り給へ。さうすればその木の二番目の枝に次に行くべきところが示されてある。

 なほ之は銀行で金を引出す手数を考へて明後三月四日までには出来る筈である。之以上僕は待てない。

     M・シヤーレマン

 私は奇怪なこの手紙を読んで救はれたやうにほつとした。一万フラン位が何であらう。しかし実に腹立たしかつた。この私嘲弄した手紙の文句は何だ!

 私はうるさくつきまとふフレーシユ夫人をもうよくなつたとつつけんどんに云つて部屋から追ひ出した。彼女は腹を立てて帰つてしまつた。私が金包みを作つたのは三月三日であつた。

 私は七時になるのを待つてルクサンブール公園へ出掛けた、そしてあのいまいましいベンチの前のマロニエに登り始めた。しかし慣れない私には木登りは大変だつた。

 幸ひそこは暗く、人通りもなかつたからよかつたものの、気狂ひのやうに滑稽な恰好をしてマロニエの木に囓りついてゐる私を見たら人は何と思ふだらう。私は外套も上衣もぬぎ、汗をかいて漸く一番上の枝に手をかけた。後は簡単ですぐ二番目の枝の根元に一枚の紙がはりつけてあるのがわかつた。そこでそれを持つて降りると、ああ何と云ふことだ!

 ベンチにおいてあつた外套も上衣も一万フランの紙包みもなくなつてゐた! 私はがつかりしてベンチに坐り込んでしまつた。仕方なしに公園内の巡査派出所へ盗難を届け出ようと思つて派出所の前まで来た。中には若い巡査が一人居つて一枚の写真を見てゐた。ああそれがあの「復讐」なのである。私は何も云はずに追かけられるやうに逃げ出してしまつた。

 私は泣き度い気持で一万フランを調達する方法を考へた。家財道具や書物などを売払つても五千フランにしかならなかつた。伯父や友人から無理を云つて借りたのが三千フランになつた。あと二千フランはどうしてよいかわからなかつた。彼は明日までしか待たないのである。

 私は思ひ余つて幸福をみつける積りで、ぶらぶら歩いてゐるうちにモンパルナツスへ出た。私は丁度、トロカデロから出て来たらしい太つた酔ぱらひを撲り倒してとうとうその二千フランを手に入れたのであつた。

 そこで私は木の上にあつた指示の通り、翌日午後四時頃一万フランを新聞紙に包んでバツシイ橋からボートを借りてまだ釣糸がすだれのやうに垂れてゐるセーヌ河を下つた。

 右岩の石垣を注意しながらボートを流して行くと果して書いてあつた通りセーブル橋から十米ほど行つた所に白墨のX印があつてその上の石垣の割れ目に一個の鍵が突込んであつた。私はそれを取つてラフアイユ街に引返した。そして白墨のX印のついてゐる赤錆びた鉄格子にその鍵を入れて門を開けた。なかはひつそりとした庭で楡の裸の樹が夕暮の中に黒々と立つてゐた。その下にベンチがある。私はその上に一万フランの新聞紙の包みをおいた。さうして又鉄格子の門をあけて街路に出ようとしたとき、楡の樹の蔭になつてゐた灰色の建物から、二人の人影が出て来たので慌ててマロニエの街路樹の蔭に隠れた。そして見るとはつと息を飲んだ。

 二人の人影は一人はM・シヤーレマンであつた! そしてもう一人はマドレーヌであつた! ああ私はシヤーレマンに始めから終りまで欺されてゐた!

 全世界が崩れ去つたやうな恐ろしい空漠が身体を吹き通つた。だが私はマロニエの幹にかぢりついて声も立て得ずに彼等を血走つた眼でにらんだ。

 彼等は腕を組み、寄り添ひながらプラターヌの樹の蔭から出て白いベンチの上に腰かけた。シヤーレマンはマドレーヌの身体を抱へてゐた。夕暮の黄色い疲れた光が二人の影を長く落してゐた。彼等の影は見動きもせず抱き合つて唇を合せてゐた。私は無念の拳を握つてわなわな体を慄はせてゐた。

 彼等は静かにーーーシヤーレマンはああ新聞包みを持つてーーー又灰色の建物のなかに入つて行つた。私は気狂ひのやうにわあわあ泣き喚きながら駆け出し鉄格子の門を開けて、灰色の建物へ突進し、灰色の壁を獣のやうにばたばた叩いた。

 気がつくとやはり私は自分の部屋に寝てゐた。私の神経は滅茶滅茶になつてゐた。フレーシユ夫人がベツドの足許に坐つてゐたが、私が身を起さうとするとびつくりしたやうに私を毛布に押し込んで慌てて出て行つてしまつた。私はふらりと起きて、二階の窓から下の中庭を眺めてゐると、フレーシユ夫人の他に研究室の君と門番が入つて来て私を又ふとんの中に押し込んだ。

「どうするんだ! 君達は!」

「いや、心配はないよ、安静してゐればいいのだ」

 とM君は云つたが、彼等の妙な眼附が私の神経に触つた。

 そのとき門番の娘のイレーヌが小包と手紙を持つて来た。私はすべての人を部屋から追ひ出しーー彼等は案外おとなしく室外に出たーーその小包をあけた。中には約束通りのイーストマンの写真原板が何枚もの紙に包まれて入れてあつた。私はそれを取り出し、長い間眺めてゐた。それから之を又紙に包んで机の抽出しに入れた。それから手紙の封を切つた。勿論シヤーレマンからであつた。

 親愛なる友よ。約束に従つて僕は君にあの原板を譲る、之は光風会展で異常な好評を博し、二万フランで原板を譲つてくれと云つたアメリカ人があつた位であるが、僕はモデルである君の請ひをいれるのが当然であると思ひ、特別安価で君に贈つたのだ。(ええ、何と皮肉な!)

 君と僕との間には始め少しばかりの誤解があつたやうに思ふ、それが意外にも発展して君にとつて不幸な大事件となつたのだ。僕はその誤解を解き、改めて君との友情を快復したいと願つてゐる。(誰が!)

 ここで正直に云つておくが僕もマドレーヌに少なからぬ思ひを寄せてゐたのだ、だから僕がねたましさから少しばかりのいたづらしてルクサンブール公園の写真を匿名で送つたとしても君は許してくれるだらうと思つてゐた。勿論、あの写真は現実の写真ではない。トリツクの写真である。(あつ、トリツク?

 何と云ふことだ! 私は頭の中が滅茶滅茶にかき廻されるのを感じた、何と云ふ軽率なことだつたらう!)実は僕はあの写真をある写真展へ出して一万フランの賞金をとるつもりだつたのだ。所が意外にも君は誤解した。君は、僕のこれまでの友情を裏切つた。僕の純真な友情を踏みにじつた。君は僕をそんな男と考へてゐたのか!

 僕の心は憤つた。そしてひそかに君にある種の復讐をしようと思ひついた。

 君に云はせればそれはあまりにも残酷だつたと云ふだらう、しかし僕に云はせれば君は僕を殺すところだつたではないか?

 僕は君の異常な昂奮から何事か起ることを察してゐたが、あの日大学へ行くと、居るべき君が居ない。そこで或ひは之は君のアリバイの偽造ではないかと思つた。そこで急いで下宿へ帰り、ベツトには人形を寝かせ、赤外線写真装置をアレンヂして君の来るのを待つたのだ。案の定君はやつて来た。僕は一世一代の緊迫した写真が撮れるとわくわくしながら待つてゐた。

 果して君は例の恐ろしい鉈をふり上げた。私の赤外線写真機は之をうまくキヤツチした。(おお、僕は殺人者ではない!

 人形を殺しただけだつた!万歳! 私の手は殺人者の血に塗れてゐないのだ!)君は原板を探して持つて行くかと思つてゐたが来なかつた。しかし又暫くするとやつて来て持つて行つた。このとき僕は例の頭を割られた人形を片附けておいたから君がびつくりするのも無理はない。

 君は首尾よく僕を殺し得たと思つてゐた。僕は君のその怪しからぬ安心をうち殺して真実を知らせるために展覧会の招待券を送つておいた。君はある忌はしい予感を抱きつつ展覧会にやつて来た。君は卒倒した。君を絶へず注意してゐた僕は君を抱きかかへて君のアパルトマンまで送つて行つた。

 実を云ふと僕はそれから君が僕を殺しに来るのではないかと警戒し、君に一万フランを持つて来て貰つた鉄格子ーー之は裏門だがーーの家、伯父の家へひそかに移つて来た。しかし君にはその闘志も衰へたらしく何事もなかつた。

 そこで私は人形の損害賠償としてーーあれは僕の苦心して作つた傑作だつたのだーー一万フランを要求することにした。以下は君の知る通り、もはや書くまでのことはないだらう。僕とマドレーヌはこの事件が始まつて二週間目に、つまり君が金を持つて来てくれた日に婚約することになつた。(ああマドレーヌ)

 君に一言の挨拶もせずに婚約するのは大変心苦しいが、君はまだ彼女と婚約しなかつたさうであるし君も病気で会ふ機会を得られなかつたのだから止むを得ない。この婚約はまた僕の意図から出たものでなく、マドレーヌの両親と私の両親との話し合ひから先に決つたので、僕としては君を出しぬいた積りは全然ない、従つて僕は君に後めたい感じも持つてゐない。

 まだ書かなければならぬこともあるが、それは後にしよう。最後に君の病気の一日も早く全快されむことを祈つてゐり。

         M・シヤーレマン

 私はこの手紙をむかむかする気持で読んだ。読み終ると呆然として何も考へることが出来なかつた。しかし漸く頭の片隅にあつた考へがクローズ・アツプして来ると猛然とその手紙を破り、細かく細かく破り、口に入れてねちねち噛んでのみ込んでしまつた。それから毛布をかぶつて子供のやうにワーワー泣いた。

 翌日もシヤーレマンから手紙が来た。

 親愛なる友よ、僕はある所から君がルクサンブールで一万フランを盗まれたことを聞いた。実に気の毒だと思つてゐる。予めそれを知らせてくれたら、もう一万フランを持つて来てくれるには及ばなかつたのだ。勿論その一万フランは僕が盗んだのではない。僕が君にあんな奇怪な指示をしたのは、君が木登りしてゐるーー必死になつてーー写真を取りたかつたからに他ならない。大の男が必死になつて木登りしてゐる図ほど愉快なものはあるまい。(写真?

 侮辱だ! 私は胸をしめつけられるやうな気持であつた)之は今僕の製作の中で最も傑作の中の一つになつてゐる。

 近々僕の個展を開く積りだからそのとき見てくれ給へ。病気はどうかね、早く全快され んことを祈る。

         M・シヤーレマン

 私は痴呆のやうにベツトの上で一週間暮した。この間に私は生れ変つたやうな新鮮な力を感じ出した。それは門番の娘イレーヌが与へてくれたものであつた。彼女は私の苦しみに真実同情し、優しくいたはつてくれた、私は子供のやうに彼女の手から食事を食べさせて貰ひ、彼女に甘えてだんだん元気を快復した。すべてのことが悪夢に過ぎなかつたやうに思へるのであつた。

 漸く外出も出来るやうになつたころシヤーレマンから個展の招待券を送つてよこした。イレーヌが心配してついて来てくれた。私はあの血走つた真剣な顔をして必死にマロニエにしがみついてゐる滑稽な自分のカリカチユアを見て気狂ひのやうに大声をあげてワハワハ笑い出した、笑つてゐるうちに涙が出て来たが、それを拭ひもせずに私はとめどなく笑つた。

   ー完ー

北洋の作品について(5)

北洋の科学知識が、犯罪捜査への利用に向いていました。

本作は、フロイトの精神分析へと変わっています。

作風も大きく変わっています。

精神分析は、今で振り返ると複数の作者が取り上げています。

この作者の独自性が薄いと思います。