清瀧川の惨劇(2)

清瀧川の惨劇(2)

北 洋

「ロック」第3巻第3号(1948/5/1)

清瀧川の惨劇(2)

 私が金庫の明け方を発明したと云ふ事は別に特筆すべき事でもないのだ。清水警部が普通の鍵でなく別に開け方があるのであらうと暗示したとき、私は既に電子管応用の開閉装置に想当してゐた。電子管が現代に於ける科学工業の進展にいかに大きな寄与をしてゐるかと云ふ事は既に1932年に雑誌エレクトロニクスが編纂した理化学及工業界に於ける電子管の応用概観を見ればそれに就いて知識を有してゐるものもその広汎さに驚くであらう。測光装置としての応用、照度計露出計、高温度計から転換装置としての応用であるトーキー・写真電送や特に光電管によれば光が電気的に転換されこれによつて種々の動作を自動的に行はせることが出来、今まで肉眼が受持つて居た役目を一層確実に果してくれるのであるから、この種の応用、即ち制御装置としての応用は殆んど際限を知らない。光継電装置の応用としての扉開閉の例も私は知つて居た。実際この装置は有効であらうが、その確実性の点では多少の不安があるのである。例へば電源が停止した場合とか真空管の寿命が来た場合のこと等を考へ常に保安と調整が必要であるし、殊に光源として普通のランプを用ひるーーーつまり金庫の光電管へ普通の光を照射するーーーとすると例へば夜間盗賊が鍵穴を照すためにラムプを点けた場合等に開く恐れがあるし、又一度人に開ける所を見られると意味をなさなくなるから光電として余程特殊な秘密なものを使はねばならないことになる。だから之等を確実にするためには特殊の光源、特性のわかつた光電管装置を使ふ筈であるから、簡単には開け方がわかるまいと少々悲観して居たのであるが、ふと机のラヂオの前面が丁度金庫に相対してゐるし、ボックスにスリツトが明いてゐるのに気が附いたのでラヂオをあけてみると、果して真空管を挿入する穴がある。しかもこの回路がラヂオの回路とパラレルになつてゐるから、ラヂオを聞くふりをしてスウツチを入れ、光源ラムプのこの真空管を点けるのだなと始めてわかつたのである。しかもその真空管は抜いてあつたけれど、その特性と番号と思はれる数字がボックスに書入れてあつたので案外早く光源ラムプを探し出せたと云ふわけであつた。次にこの光源用真空管ーー熱電子管ーーを抜いたのは誰だらうかと云ふことが疑問だつた。三木氏が抜いたとすれば手近においてあるだらう。と思つて一先づこの書斎の中を探したが見当たらなかつた。こんな大きなものはさう面倒な所へ隠せない。どうも三木氏が抜いて秘密な場所へ隠したとするのは不自然に思つた。してみるとこのこの扉開閉の秘密を知つた侵入者が抜いて行つたものであらうか、とすれば事は重大である。それで私は今朝念のため、ラヂオの真空管を入れ換へておいたのであつた。

 さて扉を開いてみると果然中の貴重品は全て紛失してゐた。しかもわれわれの留守にラヂオのスウツチを入れたものがある! それは勿論金庫を開く為であらう。

 私共はこの秘密をお互の胸にだけしまつておくことにした。まだ果たして盗難があつたかどうかーー或ひは三木氏が他の所へ保管してゐるのではないかーー判然としないからである。

 又盗難があつたとしても我々がそれに気附いて居ないと見せた方がより都合が良いだらう。ここで私共はこれから捜査方針と分担を相談した。この捜査はまづ検事局に報告せず秘密りに我々だけの力でやらう。第一に新吉君は、誰がラヂオに触れたか、又光源用真空管を持つてゐるものがこの邸内に居るか、それは誰かを調査すること。次に清水警部はM製作所内に於いて起つた事実及び三木氏の足取りを探査することにした。私は金庫か光源を細工してともかく一応金庫に、警部ベルをつけることにした。之も今は全く空になつてゐる金庫には不必要とも思はれたが私はこの用心が無意味ではないと思つた。それから別に考へる所があつて、捜査の技術面だけを受持つことにした。とにかくこの様な分担が決まつたので我々はカーテンを降した蒸暑い書斎から出ると丁度応接室から眼を泣きはらした夫人に送られて元外交官谷川氏が出てきた。

「いま、奥様に御詫びを申上げたのですが、本当に申訳なくて・・・ああ之は新吉さん、此度は御力落しでせう。実際三木氏の遭難の責任は私にあるのでせう・・・。」

 と新吉君に私共が聞いたと同し事情を話した。清水警部は清瀧川の岩石落下の事が忘れられないので谷川氏に対しては感情を押し殺した様な態度で挨拶した。彼は谷川氏を怪しいとにらんで居たのであつた。何らの根拠もなかつたけれど、彼は今に高原療養所の秘密を暴いてやると心に誓つてゐたのである。

 三木邸を出てから、清水警部はふと私にこんな事を云つた。

「この金庫の一番下の引出しですね、Yと書いてありましたね、あれは由紀子の頭字ぢやないかと思ふんですが、どうでせう?」

「なるほど、すると・・・」

「三木氏と谷川夫人とは表面以上に相当深い関係にあるのぢやないですかね。でそれの証拠になる様なもの、例へばラヴ・レターの様なものがあそこに入つて居たと考へられると思ひます。

 とにかく誰にも開けさせない金庫に入れておいたと云ふことからしても・・・そして谷川夫人が療養所へ三木氏を呼んだと云ふ事も考へ合せて見て・・・谷川氏は何等かの方法で、このラヴ・レターを手に入れた。そして之を種に三木氏を難詰罵倒し遂に嫉妬の余り、彼の乗つて居た自動車を突き落した・・・いや、三木氏の頭の傷からすれば、嫉妬の余りふと三木氏が後を向いた時何か鉛の器物で一撃した。三木氏がこの致命的な打撃で即死してしまつたのに驚いて彼を自動車にのせ、自動車諸共清瀧川に突き落し、遭難に見せかけたのではないでせうか、どうも彼が三木氏の惨死を遭難遭難と宣伝し過ぎた様な気がするのですがね」

「なるほど、一応それで説明がつきますね。唯三木氏が何故自分の自動車で療養所へ行かなかつたかと云ふ事と、三木氏の自動車が十時から二時までどうして居たかと云ふことが疑問ですね」

「しかし自分の自動車で行けば、人に知れる心配があるぢやないですか? 谷川夫人と三木氏との関係は人に知れてはいけないんですからね」

「さうも云へますね。さうすると三木氏の自動車はーー会社にあの時確かに居たのは並木技師ですねーー彼が失敬して用を足して来たと云ふわけでせうか」

「なるほど、さうかも知れません。これから行つて探つて来ます。それからもう一度高原療養所に行つて兇器を見つけて来ようと思つてゐますがね」

 翌朝私は現場から採つて来たサムプルのスペクトル分析を研究室の同僚に依頼し、三木邸に出かけた。金庫に警報装置をつけるためである。現場から採つて来たサムプルと云ふのは例の大破した京3205のタクシーの後部には破損した箇所があるのでそれを調べて見ると後から他の自動車が追突した為に出来たものの如く判断された。それでそこに附着したペイントを分析して見ればどう云ふペイントで塗つた自動車が追突したか判るわけである。尤もこの痕が何時出来たと云ふことは分からないから、その時受けたものと確信することは出来ないが、重要な参考資料にはなるであらう。

 三木邸に着いてから私は早速新吉君に収穫をきいてみた。だが、今の所まだラヂオに触れた者は分かつてゐないと云ふことがあつた。彼があの部屋から問題の時間内に眼を離したのは、一度便所に立つた時と、昼食の時である。便所に立つたのは極く短時間であるから、その間に侵入者があつたと云ふことは考へられない。殊に金庫をあける目的のもとに入つたとは考へられない。昼食の時は新吉君はお母さんと食膳についたのだから、三木氏夫人は問題でない。又女中一人が給仕してゐたから之も該当者ではない。小間使ひともう一人の女中は別々に食事したので新吉君の眼を逃れて入ることが出来た筈である。しかし彼等はそれを否定してゐる。なほ江上君は会社に行つて居て問題にならぬ。又この時間に外部より入つたと思はれぬ事もないが、今の所その証拠はない。と云ふのが彼の報告であつた。この点最も嫌疑の色が濃いのは小間使ひであらうと思はれた。しかし彼女は身元は確かな者である。

 私は例の書斎のラヂオの光源用回路を切り、それにベル装置を挿入しておいた。ベルは机の下の紙屑箱に入れ、配線は書物などで隠した。かうしておけば侵入者がラヂオのスイツチを入れるとベルが鳴るわけである。之だけの細工をして私はスペクトル分析の結果を見に、研究所へ帰つた。所が途中でばつたり清水警部に会つた。

「どうも困りました。M製作所へ行つて並木技師に会つたのですが、彼は工場に居たから三木氏の自動車のことは少しも知らないと云ふのです。それは確からしいのです。看守の部屋で看守達と昼食をしたんですからね。それから看守三人と巡査五人が当日来ていたのですとね。お互ひにその時間には居たことを認めてゐます。尤も当日来て今日来てゐないのが二人ありますが、看守達はあまり問題にならないと思ひます。江上さんと庶務課長は映画に行つてゐたのですから、当日来てゐた人間で三木氏の行動だけが判らないと云ふわけです。しかもそれに就いては誰も知つてゐないのですよ。之ぢや何もならない・・・。新吉君の方はどうでした」

 私はその報告を彼に伝へた。それから現場で採つたサムプイの話をし、これからそのスペクトル分析の結果を見に行くから、一緒に来ませんかと誘つた。分析の結果は友人が表にしてくれたが今それを書く必要もないであらう。唯スペクトルにはアルミニユームが顕しく現はれアルミニユーム・ペイントであると云ふのであつた。之は重大な結果である。アルミニユーム・ペイントで塗つた自動車は三木氏のを除けば京都市内に何台あるだらうか。清水警部は省営バスを除いて恐らく一台もないだらうと云つた。尤も之は調べればすぐわかることである。もし塗り替へないとすれば確かに谷川氏のではない。

 彼のは黒エナメルのである。清水警部はこの結果に大分ショツクを打けたらしかつた。

「して見るとどうしてもM製作所を出た三木氏の自動車が怪しいわけですね・・・。いやそれは三木氏の自動車ですよ。タクシーでそんなペイントに塗つたのは見たことはありませんよ」

 と云つて彼はあたふたと飛び出して行つてしまつた。私は慌てて彼の後を追つた。私もM製作所の捜査に協力する積りであつた。しかしそれは丁度都合が悪かつたのである。今までの試行錯誤的無方針の捜査のため、私は顔は知られてしまつてゐるし、既に社内で専務惨死事件に対してある風説が立つて居たから、もし犯人がこの内部に居ても警戒して尻尾を掴まれるやうな失錯は見せないだらう。私は丁度大学生の夏期勤労を製作所に依頼するために来たと云へば以前にもその事で来たことがあるから、怪まれずに庶務課長に会へるから、それとなく当日の様子に探りを入れることも出来るであらう。

 私は金井氏に会ふと、早速大学生の経済的な苦境を述べ、もし使つて下されば十分役に立つだらうと云ふ様な事から、会社経営上の問題等を話し・・・専務の急死にちょつと哀悼の意を述べ、頗る如才がなかつた。

「丁度日曜日にもこちらに見えて居られると聞きましたので雨が大分降つて居りましたが、伺つたのですが御留守の様でした・・・」

「日曜日? ああ、退屈だつたもので秘書の江上君とちよつと映画を見に出ましたが、その時に来られたのですね。どうも失礼しました・・・」

 当日の様子を少し聞いて見たが、疑ふべき事もない。私は物足りなさを感じつつ部屋を出たが、多分机の上の文鎮に使ふのであらうが鉛の獅子の置物がちよつと気になつた。之を借りて帰つて分析して見たかつた。

 丁度その頃清水警部は製作所から二町ほど離れた映画館、太秦映画劇場の管理人を掴まへてこんな問答をしてゐたのである。

「M製作所の金井さんと江上さんを君は知つてゐるかね」

「へえ、よく存じて居ります。時々見えますのでね。」

「この前の日曜日にも来られたかね?」

「ええと、さうでした。憶えてゐます。何か新しいフイルムの事で話かけられたのを憶えてゐます」

「それは何時頃かね」

「さうですね。まだ一回目が写る前ですから十時二十分よりも前でしたでせうね」

「ぢやあ、そのときはまだ館の非常口なんかは開いてゐたわけだね」

「まあ、さうでせうね・・・、はあ、お帰りになつたのは私は憶えて居りませんが」

 清水警部は江上君と金井氏のアリバイに多少の不安を覚えた。開いてゐる非常口から抜けたのではないだらうか。

 私が製作所を出ると警部は道路の電柱の蔭に私を待つてゐてくれた。私共は以上の情況をお互ひに交換した。それまでに彼は警察部へ電話をかけて市内の自動車全部についてペイントのリストを作成してくれる様に依頼しておいた。私共は歩きながら次の様な意見を述べ合つた。

「どうも私が昨日云つた谷川氏への嫌疑は改訂する必要がありますね。・・・・私はかう思ふんですがね。三木氏の殺害がどこで行はれたか知る必要がありますが、ともかく三木氏は谷川氏から電話を聞いてタクシーで出掛けた。それを知つたM製作所の誰かーー之は少くとも江上君は知つてゐるわけですねーーが三木氏の自動車で後を逐ひ、途中或ひは高原療養所かで惨殺しておいてからタクシー諸共突き落し、と云ふのはどうでせう」

「しかし唯殺すためだつたら、三木氏がタクシーで行くのを後から突き落すだけで十分と思ひますがね。何か三木氏と彼等の間に悶着があつてちよつとしたはづみで殺されたのではないでせうか」

「なるほど、さうですね。それが何だつた分ればいいわけだ。そしてそれが何処で起つたか分れば・・・。どつちにしても江上君も金井氏も一応疑つて見る必要がありますね。スペクトル分析の結果からしても、それにアリバイも完全なものぢやない」

「私はやはり、M製作所で三木氏と庶務課長の間に何かがあつたと思ひますね、あの机の上の置物はどうも気になる。江上君はそれを知つて居たか何か庶務課長と利害関係があつて却つて金井氏の犯跡を隠すのに助力したのぢやないかと思ひます。そして丁度谷川氏からの電話があつたのを知つてゐたので、しかも谷川氏は何処に居るかも知つてゐたのでせう。ーーー三木氏が小野郷へ行く途中の遭難と見せようとしたのぢやないでせうか?」

「しかし今迄の事は谷川氏が三木氏を殺したとしても云へそうですね・・・」

 その日はそれで私共は別れた。

 翌朝早く私は三木邸からの電話で起された。

「もしもし光岡君ですね。実は昨晩、いや今朝の三時頃書斎に泥棒が入つたんですよ。残念な事に逃がしてしまひました。今江上君と捜査してゐるんですが、すぐ来て戴けませんか」

 さては私がかけておいた罠にひつかかつたんだな、しかし逃がしたとは! 私は大急ぎで三木邸に駆けつけると清水警部はいち早く来てゐて既に書斎の捜査に当つて居た。書斎から廊下で続いてゐる最も近い部屋に寝てゐた新吉君は例の私が仕掛けておいた警報ベルによつて起された。犯人は一旦ドアを開けて廊下に出たが、新吉君が廊下を走つて来るのを見るや、引返して書斎の窓をあけて庭の植込の中に身を躍らした。新吉君がその窓まで来たときは犯人の姿は見えなかつた。江上君もベルの音に目を覚したと見え、ーー彼の部屋は新吉君の部屋の西隣であつたーー半分裸体のまま出て来た。之は午前三時十分頃であつた。庭は一面に芝生がしいてあるので足跡は歴然としてゐない。

 又犯人は黒い布で顔から体を蔽つてゐたと見えた。新吉君は廊下で彼をちらと見ただけなのである。邸の周囲の築地は高さ五尺ばかりだから乗り越えることが出来る。門の扉は閉つてゐた。之が新吉君の情況報告であつた。事実南側窓下の植込のつつじの枝は幾箇所か折れて散乱してゐた。建物に沿ふて芝生が倒れてゐる部分もあつたが、それで犯人の足跡を判断することは危険であらう。又築地を乗り越えた跡もない。その他足跡の様な歴然たる証拠は見出されなかつた。この犯人の捜査は困難と思はれた。丹念に小さな遺失物を探すのが賢明であらうか。清水警部は植込の蔭に私を呼んで耳打した。

「かう云ふ思ひがけない故障で逃亡して犯人が証拠を残してゐない時は経験上邸内の人間が犯人の場合が多いですからね。私は邸内のすべての部屋を秘密裡に調べ度いのですがね。新吉君に頼んで皆集めて貰ひ、書斎で金庫の秘密の話でもして居てくれませんか?・・それから之は書斎の窓下で拾つたものですがね・・。どうですか。さうですか、やつぱり」

 清水警部の依頼で私は金庫の見えぬ鍵に就いて説明し、ついでにベル警報の罠まで実演した。素人眼には光電管を使ふ扉開閉は神秘的に見えるから、皆驚いて聞いてゐた。四十分も経つたであらうか突然清水警部が入つて来た。

「ちよつと女中さんに伺ひますが、このガウンは誰方のですか? 貴女方の部屋の押入に入つて居たのですが」

 と絹の黒いガウンを差出した。之を見て二人の女中は吃驚し、決して自分のではない、見たこともないと強く主張した。

「さうですか。それでは犯人が押入に突込んで逃げたものと見える。・・今度は江上さんに、・・おや貴方の足に血がついてますよ」

「え、気がつきませんでしたが、先刻新吉さんと植込の中を探したときに引掻いたのでせう」

「さうですか。血はこのガウンにも少しついてゐるのですが。しかしさう云うことはなさらない方がよかつたですね。もし貴方に嫌疑がかけられてゐるとすると、犯跡を昏ましたのではないかと却つて疑われます。・・・それはさうと之は貴方の部屋にあつたのですが、貴方のものですか?」

 と一箇の毀れた真空管を出した。光源用熱電子管である。

「えつ、之はどこにあつたんですか? 私は全然知りません」

「机の鍵のかかつてゐる引出しの中です。まあ指紋を採れば誰のだかはぢきに分ります。それはさうと貴方は大分嘘を仰言いましたね。事件当日十時から一時半まで金井さんと映画館に入つてゐたと云はれましたが、十時に入られたのは確かですが、すぐに二人で映画館を出られたのです。之は調査が出来てゐます。それから三木さんの自動車のことは何も知らないと仰言つたが、十時から二時まで、貴方と金井さんがその自動車に乗つて居られたのです。その自動車でどこへ行かれたか、それは清瀧川へ転落大破した車の後部についてゐたペイントで分ります。(江上君の顔色は漸次に蒼白になり、警部の言がいかに彼にショツクを与へたかを証明して居た)それからまだあります。貴方はその金庫の明け方は知らないと云はれましたが、実は知つて居られたのです。と云ふのは貴方が何を仰言らうとこの真空管が貴方のものであると云ふことは確かですから。なぜかと云ふとこの真空管のガラス片が貴方のズボンのポケツトに・・・」

 と云つて彼は江上君のズボンのポケツトに手を入れて一片のガラスを取り出し

「この通り入つて居りますから」

 江上君は倒れる様に長椅子へ腰を下した。

「しかし貴方が三木氏殺害の犯人でないことはわかつてゐますから御安心下さい」

 ここに集まつた人達にはこの意外な事実と捜査経過を一つも知らされてゐなかつただけにその驚愕は大変であつた。三木氏未亡人は卒倒して新吉君に抱かれて書斎を出た。あまり警部の芝居は強過ぎた。勿論諸君も気附かれた様に警部の最後の真空管のガラス片云々は彼の打つた手品である。

 清水警部は昨日は多忙であつた。もう三時も過ぎてゐたのに高原療養所へ行つてアルミペイントの自動車が日曜当日ここへ来なかつたのを確かめるや急遽引返して、府警察部へ行き既に作つてあつた自動車のペイントのリストを見た。果した彼の云つた通り省営自動車を除きアルミペイントの車は市内に一つもないことが判明したので、今度は私が気にしてゐた金井氏の鉛の置物を盗み出したのださうである。それを顕微鏡で見ると赤血球が附着してゐたので私の予想が大分確実になつた。そこへ今朝の事件である。彼は勇躍してやつて来たのである。彼の此処で発見したものは書斎の下のガラス片だけであつた。之が光源用真空管のガラス片であることを私から聞くと、予て怪しいとにらんでゐた江上君の部屋から真空管を見つけ出した。そして彼はこのガラス片を江上君のポケツトから取り出すと云ふ手品を使つたのである。彼は真空管の事を江上君に訊ねた時彼の右手がズボンのポケツトに触れたことを見逃さなかつた。又植込に窓から飛び降りた時に出来たのであらう江上君の脛のかすり傷と彼のみ今朝取つた活動を説明するには之で十分と思つたのである。真空管からは果して江上君の指紋が発見された。

 しかし江上君の告白によつて知られたこの事件の全貌は清水警部や私が予想してゐたのとは余程違つて居たのである。

 江上君は三木氏の友人の息で、早く孤児になつたのを三木氏に引き取られ養育された。三木氏の信用を得て秘書になり、又偶然の事から金庫の謎も一部知つて居たのである。唯彼はそれを利用しようとは思つてゐなかつたのである。一方金庫のYと云ふのは警部が予想した様に由紀子の頭字であつた。その中にはやはりパリ時代に取交した谷川夫人とのラブ・レターが入つて居た。そのことを知つた谷川氏は実際ひどく三木氏を嫉妬し、何とかして彼に復讐し度いと思つて居たのである。それで谷川氏は元彼の下の属であつた金井氏によからぬ考へを吹き込んだのである。即ちこのラブ・レターを手に入れそれで三木氏を恐喝しやうと云ふのであつた。江上君は都合の悪い事に太秦にある某撮影所の映画女優に引かかつて金井氏に少なからざる金額を融通して貰つて居たので金井氏にラヴ・レターの所在も探してくれと依頼されたとき断り切れないのであつた。そしてそれが金庫の中にあることが分ると金井氏にそれを窃盗することを強要された。ここで彼は拒絶すればよかつたかもしれない。しかし彼は金庫を開ける秘密を知つて居た。それが誘惑になつたのである。

 彼はある夜Yの引出しからレターを盗みだした。どうせ知れることならすべてを盗み出す積りだつた。しかし入つてゐる筈の金品は見当たらなかつた。金井氏はレターを手に入れると三木氏を恐喝し始めた。三木氏は少しづつ法外な金額を出してそれを買ひ取つた。しかしとうとう我慢し切れなくなつた三木氏と厚顔な金井氏の間は決裂し、彼等の間に必死の格闘が起つた。それが日曜日の午前九時頃雨が漠然と降つてゐる時であつた。金井氏のふと触れた鉛の置物はとうとう三木氏の生を奪つたのである。金井氏は死体の始末に窮したが、江上君は詭計を案じ過失死と見せかけるため、自動車で死体を運び、呼んだタクシーを先行させ之を例の現場で突き落し、後で三木氏の死体を投げ落したのであつた。それからすぐに谷川氏に電話をかけ谷川氏から三木氏に夫人が重態であると云ふ電話をかけたことにして貰つて三木氏が高原療養所へ行く途中で遭難した様に筋書を作つたのであつた。谷川氏は三木氏の死に対しては勿論快哉を叫んだ位であるから、この計画に喜んで協力したのであつた。この芝居がいかに巧妙であつたかは、物的反証を持ちながら私共も度々眼を昏まされた事でも分るのである。実際現場からのサムプルのスペクトルと云ふ退つ引きならぬ証拠がなければこの事件を単なる過失による遭難と誰でも信じたであらう。なほ江上君は金庫の中にあるべきものを探すために昨日一度と今朝倉庫を開けて見たのである。この性急なやり方は自らの破滅を招いたのであつたが、彼はこの莫大な金額の金品を盗んで三木邸から姿を消す積りであつたのだ。尤もかうすれば彼等の芝居の破綻となつただらうが彼に唯一身のみの安全を願つて居た。三木氏は江上君が最初に金庫を開ける以前にレターを残して金庫内のものを全部を某銀行に金庫を借りそれに保管しておいたのであつた。三木氏は自分が不慮の死を遂げることがあつたそれより五日後に嫡子の新吉君にこの金庫の符号を知らせて貰い度いと依頼してあつたことが後に銀行から係員が来て始めて知れたのであつた。五日後と云ふのは慎重な考へであつた。それから例の清瀧川で私共を墜殺しようとした岩石投下は何人の手によつて行はれたものか、清水警部の執心な調査にも拘らずやはり判明して居ない。彼は始めから谷川氏であると思つてゐたし今でもさう信じてゐるが、谷川氏はそれを否定しその証拠もないのである。なほ忘れたが江上君と谷川氏が映画館に入つたのは勿論アリバイを作るためですぐに非常口から抜けたと云ふことは警部の推察通りである。

 附記 この話は1935年、ニューヨーク警視庁編纂の「犯罪捜査に於ける分光学の応用」(三百五十頁)に掲載されてゐる事件を当事者の友人光岡博士の記憶や公演記録を参照して筆者が幾分興味本位に紹介したものである。この書物はこの表題の問題に対し興味ある多くの例が集録され、警察当局は勿論、探偵小説愛好家に取つて一読すべきものであると愚考するにも拘らず一度も紹介されたと云ふことを聞かないから、文学的才能の欠除せる一学究である筆者は内心ぢくぢくたるものがあつたのであるが敢て発表したねである。しかも他の国々に於いてはこの報告はよく読まれて居り、光岡の名が相当専門家の間に知られてゐるにも拘らず我国に於いて却つて少しも知られてゐないと云ふことは甚だ残念である。なほこの報告には光岡の取扱つたもう一つの例が掲載されてゐるからそれも機会あれば紹介し度いと思つてゐる。

 実にスペクトル分析のこの方面に於ける貢献がいかに有力であるかはこの一例を見ても諸君は了解されるであらう。(終)

北洋の作品について(4)

北洋の科学知識は、犯罪捜査への利用に興味が向いています。

解決後の附記では、明確に科学捜査の重要性を述べています。

本作品の執筆動機ともしています。

赤外線と種として金属分光分析が登場します。

分子レベルの分光学であるラマン分光が実用化されるのは、まだこの後です。