異形の妖精

異形の妖精

北 洋

「ロック」第3巻第1号(1948/1/1)

異形の妖精

・夢みる人々に! 嘲笑う人々に!(ヴェリス・ド・リラダン)

 ル・アーブルには海洋気象台がある、私がそこに居つた頃であるからもう十年にもなるだらうか、しかし今だにあのとき経験した不思議な感動を忘れることが出来ない。

 いまならば無線探測法を使ふのであるが、当時はまだ十分実行化されてゐなかつたので吾々は探測気球を使つて上層気象の観測をやつてゐた。このときは例へば霧の深いとき、可視光線は遠距離まで到達しないので灯台が役に立たなくなつてしまふが、赤外線ならば透過度がよいから、或ひは之を使へばかなり視野が効かないときでも有効かもしれないと思はれたので、赤外線の大気による吸収率を測り度いと思ひ気球に自記赤外線強度計を載せた。ル・アーブルから五哩ほど北に軍用飛行場がある。

 ある初夏のよるであつたが私達はそこで探測気球を揚げた、航空灯台を点け、之からの赤外線が距離によつてどれ程強さが違ふかをみるのであつた、気球には綱をつけて繋留した。特に選んだ風のない静かな夜であつた。積層雲が低く垂れ込めて地上の空気を してゐた。なほ晩くなつてから雨が降つた。さて気球は自記赤外線強度計を載せてだんだん上つて行つたが、二百米も上らぬ中に思ひがけぬ突風に吹き倒され、あつと云ふ間に綱が切れて気球は暗い闇に流されてしまつた。

 私達は翌日新聞広告を出して気球を拾つて貰はうと思つてゐると、この飛行場に勤務してゐた若い伍長がもう見つけて来てくれた。彼はその夜、オートバイでル・アーブルに出張したのだが、途中で流されながら気球が落ちて来るのをヘッドライトで認めたので、それを追つて拾つて来てくれたのであつた。

 そこで早速装置を開いて自記赤外線強度計の記録を見ると、意外にも丁度地上へ達する直前に強いキックが現れてゐた。之はそのとき強い赤外線に照射されたことを意味する。 そこで私はあの若い伍長をつかまへて之がどんな所ーー例へば焚火とか電灯の近くとかーーに落ちてゐたのかをきいたが、彼はただ白楊の林のなかーー附近には百米ほど先に別荘風の家二軒あるだけーーの稍ひらけたクローバーの原の上に落ちてゐたと云ふのであつた。そんな筈はないので私は彼に案内して貰つてその現場へ行つてみることにした。行つてみればわかる。つまらぬ好奇心を起したものだとその時は思つたのだが、ある予感が当たつて些細な記録でもそれを無視し得ない科学者の潔白が、思ひがけない事件を発掘したのである。

 行つてみたところは確かに人家から離れた林の中であつたが、別荘風の家の屋敷内と見えて別に垣もしてゐないが、丁度崖が三方をふさいで崖の上の白楊の林がこんもりした築地のやうに家をとり囲んで居り、開いてゐる一方は自然の道になつて開けた林のなかの牧場につながつて居り、この別荘からみるときつと牧場が林に囲まれた青々とした湖のやうに美しく絵画的に見えるだらうと私は少しくロマンチックな興味をそそられたのであつた。しかしとにかく赤外線の光源になるやうなものは何一つ見当たらなかつた。又昨日そこで焚火したと云ふやうな様子も見えないし、ただ本当に湖のやうにしんとすまして静まりかへつてゐた。私はこの閑けさに腹が立つて来た。別荘の住人に訊いてみようかと思つて人気のないやうに黙つてゐるこの煉瓦造りの家にふと眼をやると、確かに窓に人影が動いたやうに思つたので決心してこの家の玄関で案内を乞ふた。

 この閑かな牧場では誰が入つて来ても物珍しいのであらう。丁度待つてゐたかのやうにこの家の主人らしい眞挙な眼附をした端麗な男が玄関に彫像のやうに立つてゐた。私は赤外線強度計の結果を話して、この異常現象に該当するやうなことがなかつたかと聞いた、勿論ある筈だと思つた私の語気には答を促すやうな勢があつた、それが意外にも冷たくかへつて来たので私は愕然としたのであつた。

「そのやうな事は全く心当りがありません、一体そのキックは記録計が地に衝突したときのシヨツクではないのですか?」

 私は改めて敵意を以て主人の動かない面を見上げた。

 そこには決断の青白さが熟して居り、人を反発させる排他的な冷酷さがあつたが、それが悲しい眞挙な眼附によつて神秘的にやはらげられてゐた。

 その言ひ方から私はこの男が科学技術的な教養があることを見てとつたので、落下傘に取附けた記録計が、さう云ふシヨツクには影響されぬことを説明して、私も科学者らしい断乎さで必ず別の原因がなければならぬことを主張した。彼の期待したやうに私が諦めなかつたので、彼の顔には困惑の色がふつと浮んだが、すぐ消えてどうもさう云ふことはなかつたと思ふと繰返した。私はただ彼が赤外線を使ふ実験でも戸外でしたので、それを早く云つてくれればすぐに快く話が出来る。ーー科学者は無邪気な好奇心の強い子供であるーーと好意的に云つたのであるが、固い反撃にあつて私は突然、よし彼の秘密を暴いてやるとむらむらした敵意を感じた。

 私はこの家を辞すと、気象台に引返してポータブルの赤外線強度計を持つて又この静まりかへつた湖にやつて来た。赤外線の光源をどうしても探し出して彼をうんと云はせる積りであつた。

 強度計の針を見ながら、私は崖にかこまれた邸の稍手前から入つて行つた。丁度崖がせまつて自然の塀の門をしてゐるところを横切ると驚いたことに針が大きく揺れた、万歳!私はこの針の動きに導かれてとうとうその光源を突きとめた。

 それは門柱のやうに立つてゐる長い年月の風雨で奇妙に曲つた楡の老樹の地上一米程の高さの洞の中に装置された発振管であつた。何のために? それから私は反対側の楡の木を探すと予想通り、受信用の光電管装置が見えた。

 私は彼のーーーおお彼以外に之を装置した人間があるだらうか?ーーー彼の意図を半ば了解した。

 即ち之は普通に使はれてゐる盗難予防装置と同様に、発振管から赤外線の見えない糸を引き、之を切ると光電管リレーを使つて人の入つて来たのがわかると云ふ仕組みになつてゐるのである。私はこの発見に元気づいて彼に会つてこの事を詰問してやる積りだつた。何故あんな装置をし、ーーここは泥棒も来さうもない人里離れた所ではないかーーしかも私に隠したのか? さうだ、彼には絶対に人を警戒すべき理由、即ちある深刻な秘密があるのだ。その秘密を知らなくては! 私はふと彼の端正な異常に強靱な顔に浮んでゐた思ひがけない悲哀を不可解な気持で思ひ出した。

 彼の隠遁的な生活のなかには他人のうかがふことを断乎として許さぬ複雑な深い精神生活がある、或ひは悲劇的な魂が独り苦悩してゐる精神地獄があるのかもしれない。私には却って知つてはいけないやうな気もするし又それにもまして彼の精神生活に対する強い好奇心が湧いて来るのであつた。私は精神世界にさまよふユダヤ人である。私の無遠慮なロマンチシズムを許せ!

 私は持つて来た計器を頼りにこの赤外線の警戒網をくぐり抜ける方法を知つた。私は露骨に赤外線警防装置を探つて歩きながら、背後に恐ろしい憎悪を以て私を見つめてゐるであらう彼に肩をそびやかして公然と挑戦した。しかし私は何も云はずにそのまま帰ることにした。私は日の落ちるのを期待してゐたのである。

 この夜は生憎輝やかしい月光が楡の樹の影を小径の上に描き出してゐた。しかし私は出掛けた。白楊の林の中の広い牧場の濡れた草は月の光を映して湖のやうに小波を立ててゐた。その湖の中の黒い島のやうに楡の樹に囲まれた別荘が立つてゐるのである。遠くの方では夜鶯が緩やかに連続する楽の音を投げてゐた。別荘に近づくと壁にはひのぼつた忍冬が甘いこまやかな吐息を吐き出し、ほの温い朗らかな夜のなかに香気を帯びた一種の生気を漂はせてゐた。私は自分の盗賊のやうな心ない仕わざがこの蒼白い壮麗な夜にそぐはない、ひとりだけこの空気から抜け出した醜悪なもののやうに思へて後めたかつた。

 こんな接吻のために作られたやうな月夜、天から地上へ投げられた豊富な誌のやうな月夜の宏大な装飾は恋する者達を飾るのにふさはしいのである。

 おお確かに、みると私が立つてゐた壁から十米程先のテラス(であらうか?)から二つの影が寄り添ふて出て来たのであつた。男の方が稍背が高くて、相手の顎もとをかかへ、時々その額に接吻した。この二人は、彼等のために造られた額縁のやうに、彼等を包んでゐるこの静かな光景を、活気立たせてゐた。

 私は立ちすくんで華やかな光彩で取り囲まれた恋をうつとりと眺めてゐた。人里離れたこの牧場に妖精のやうな男女がただ二人だけの時空を楽しんでゐるのである。

 女の髪はときどき颯と散つて男の肩へかかつた。女は手を男の肩へ載せ伸び上つて接吻した。男は堅く女を抱擁した。私は身内が熱くなつて激情で燃え上つた。ところが見てゐるうちに私は背筋を冷たいものが通つたやうに慄然として眼を見張つた。

 そのとき庭を囲んでゐる楡の樹が怪しくざわめいた。

 女のひらひら月の光を切つて流れる腕が多い・・・四本あるやうな気がしたからであつた!。おお確かにその腕の動きがあまりに微妙で豊すぎる。その四本の腕が複雑な表情をして男の身体にまつはりついて動いてゐるた。私はその異様な光景に血が逆流して全身ささけ立つた。そして危く声を出して逃げ出さうとした。しかし石のやうに動けないぶであつた。なほ私は眼を見開いて女をみつめた。そしてだんだん銀色に光つた女の腕の軽妙な曲線運動の韻律と調和の美しさのために魂の底まで貫かれた。やはり二本ではいけないどうしても四本でなければいけないのだ。

 一本の腕は男の首に廻りついた、一本の手は男の手をまさぐつてゐた、そして残りの腕は男の肩を抱へて固く抱きしめてゐた。たとへその一本が缺けても女の愛情の表現はぎこちないものになるのである。女の大きな豊かな髪と、しなやかな腰はこの四本の腕の重さとつり合ひ、軽々と柔かな月の光のなかに浮ひてゐるのであつた。

 たゆたふ女の腕の描く影は美しい関連を持つて曲線群の交響詩をかなでてゐるのであつた。そして澄み切つた夜の柔い魅力に溺れて全広野がうつとりとこの不思議な女の銀色の光彩を眺めてゐるのであつた。二人は相抱きながらテラスからまた淡い光に美しいひだを作つてゐるカーテンの蔭に隠れてしまつた。ランソン飛行場の宿舎に帰つて来ると私は肉体の倦怠と魂の感動にぐつたりとしてしまつた。

 翌朝、太陽の輝やきのうちに眼をさますと私は寝床の中で昨夜の出来事を考へて見た。そして一見グロテスクである筈の、四本の腕が思ひがけなくもいかに豊かな表情を持ち私を震撼させたかを知つた。彼女のゆらめく腕の曲線の示す愛情が、むしろエロテイツクにさへ思へたのであつた。

 そしてありふれたただ二本の腕の日常的な人間の姿がいかに殺風景で無味で表情力のないものであるかに思ひ到つたのである。そして又人間の空想がいかに貧弱で四本腕の像さへも作り出せなかつた。ーー美をいつもありふれた自然的な二本腕の人間にしか見出すことが出来なかつたのを罵倒したことにさへなるのだつた。

 その日も十三夜の月が上る頃、私は憑かれたやうに楡の別荘へオートバイをとばした。車を乗り捨てて私は再び赤外線網をのり越えて忍冬の壁に石像のやうに身を寄せ、月光に誘はれてテラスに出て来る四手の女神の影を待つて居た。

 その夜は繊細な靄がすき透る綿のやうにかかつて居り、白い水蒸気が、月の光に射通されて銀色に光つてゐた。

 私は心の旋律を感じながら夢見るやうに長い間立ちすくんでゐた。彼等は出て来なかつた。そのうちに一つの茫漠とした不安が私を包んだ。私はそろそろと動き出し一つ一つの窓下に立つた。更紗のカーテンの奥は柔かい淡い光に照らされてゐたが、なかは見えなかつた。しかしそのうちに一つの窓の中には確かに火の暖かさが感ぜられ、こまやかな息づかいがわかるのであつた。私は恐るべき忍耐力でその窓下に立つてゐた。

 照り輝く靄は私の上衣を濡らし、しつとりした重みが肩にかかつて来たけれども私はなほ立つて待つてゐた。そのうちにはつと窓際に人の動く気配がして、カーテンがさつと揺れ一瞬、カメラのやうに私の心になかの光景が焼きついた。私が見たものは純白なベツドに投げられたブロンドの髪と淡紅色の腕とそして白い仕事着を着た男の持つてゐる金属のキラリとした冷い光であつた。

 私は一体なかで何事が起つてゐるか了解出来なくて暫く茫然と息を殺して立すくんでゐたが、ふと恐ろしい予感にとらはれ、当惑して逃げ出してしまつたのである。

 この当惑した気持を私はどう処理してよいかわからなかつた。今迄に経験したことのない異常な思想が頭のなかで駆け回り私を苦しめた。そこで私は楡の別荘の主人ギユスターフ・ド・ラトール伯爵あてに夢中で書いた一通の手紙を残して私の魂を底から感動させた夢のやうなランソン飛行場を去つてパリ・ラテン街の下宿へ帰つた。

 私はソルボンヌの研究室で赤外線吸収の計算をしながらも。ふと眼の前に妖精のやうに軽やかに歩いてゐた女神の微妙な四本の腕の愛情を思ひ出して恍惚としてしまふのであつた。そして私は非常な熱望を以てラトール伯爵の返事を待つてゐたのである。私はこのことを誰にも話さなかつた。返事は遂に来なかつた。

 所がそれから二週間経つたある日、私はカフェ・アングレエで夕食をとつてゐるとランソン飛行場でオートバイを貸してくれた例の活発な若い伍長が入つて来たので思はず立上つた。

 彼は懐かしさうに手を握り、ややもじもじしながら一緒に来たまだ若い愛くるしい娘を、許嫁だと云つて紹介した。私達は一緒のテーブルで夕食をとつた。いろいろ話した末、彼は秘密さうに声をひそめてーーー貴方の・・・・例の楡の別荘ですね、あそこに最近事件が起つたのですよ、ああさうだ新聞を持つてゐますから之をごらんになつた方が早いーーー

 と云つて彼は昨日の日附のルアーブル日報と云ふ地方紙を鞄から取り出してみせてくれた。私は愕然とし慌ててそれに眼を落した。

 それはラトール伯爵がその夫人を殺して自殺したと云ふ記事であつた! 私は体が下へ下へ落ちて行くのを感じた、眼に涙が溢れて来て記事が読めなくなつてしまつた。私は伯爵夫人のあのこの世ならぬ美しさ、熱情的に憧憬してゐたあの神秘的な美が失はれた! と云ふ絶望に落莫とした取返しのつかない空虚感に襲はれた。

 アンブレエで伍長と別れて、私は下宿に帰り、貰つてきたルアーブル日報を気を落着けて再び読み始めた。新聞は伯爵がその夫人を殺害した原因は不明で遺書もなく又日記類等原因探求の手掛りが一つもないこと、それから重大なことは伯爵がこの世界への通信として唯一つ死の直前に血で床に不明の記号を残してゐると報じてゐた、記号と云ふのはかすかに、

 23、L・・・・9320・・・と読めると云ふことであつた。それから私にとつて非常に重大なことは伯爵は夫人の死体を暖炉で焼却するつもりであつたのだが、漸く上半身だけが焼け、足の一部と靴、身についてゐた装身具二三点が焼け残つたことが記されてあつた。

 あああの美しい女神の秘密は遂に世間の無慚な好奇心の餌食とはならずにすんだのである。私は深い息をして月の出てゐない暗い窓からオリオンのまたたきを眺めた。ふと頭の片隅で無意識に考へてゐたことが、わつと頭一杯にひろがつて私はあつと云つて、もう一度その新聞を見た。23、L と云ふのは私の住所ではないだろうか? 私は書き慣れてゐるこの数字 23Latin(ラテン街二十三番地)をふつと頭の中でくり返したのである。さうだ之は私に残した通信ではないのだらうか?それでは次の 9320 と云ふのは? ああさうか、もしかすると・・・・

 私はとるものも取あへずサン・ラザール停車場から急行に乗り、ルアーブルから自動車でランソン飛行場の宿舎に現はれた。

 ルアーブルで当日のルアーブル日報を買つてラトール家の事件を探したが、小さくラトール伯爵の身分、経歴等が出てゐるに過ぎなかつた。彼は隠れた電気学者で、別荘内には複雑巨大な電気装置がおいてあつたと書いてあつた。なほ宏壮な本邸はパリ・マルテイル街にある。

 私はルアーブル署長レニール警部に会つて私の予想を述べて自分で調べて見たいと切りだした。彼は之に非常に興味を持ち、私と一緒に自動車に乗り込んだほどであつた。私共は一度ランソン飛行場に寄り、すぐに楡の別荘に向つた。

 別荘の玄関のアーチの上には石の楯形が浮き出して、古いラトール伯爵家の紋所が附いてゐた、即ち青地に、中央に銀の星、エルミヌ模様の縁のついた王冠の下にパリルダ・ヴイクトリツクス(蒼白の勝利ーー死のこと)と云ふ銘が誌されてあつた。この別荘、ただ二度しか訪れたことのないこの家には私にも神秘な思ひ出がある!

 窓のなかには意外にも変電室があり、三千ボルト高圧まで出るやうになつてゐる、之は高周波発振び使ふためらしく巨きな発振器が別室に並んでゐた。内部の照明は柔かい蛍光灯を用ひてゐる。

 家具はすべて金属と透明なプラスティクで出来た簡潔なそして近代的なものであつた。彼自身もさうであつたと思ふが私は血腥ぐさい現場ーー彼の寝室ーーをみるに忍びなかつた。

 この近代的な部屋には知性に溢れた、精神美に輝いた人間のみがふさはしい。しかるにこれが人間の原始的、ゴリラ的な血の醜悪さで無情にも汚穢され、私の肉体的嫌悪感を呼び起したのである。

 私は彼が居室にしてゐたと思はれるテラスから庭へ出られる部屋に立立つて彼の超現実的芸術的な幻影を追想した。私は持つて来た赤外線発振器から 9320オングストローム(おお、之も見慣れた数字の組であつた!)の波長を持つ赤外線を部屋中にあてて見た、死に当つて彼が私に残してくれた唯一の暗示に従つて。

 私は部屋を注意深く見回した、そしてマリアの像を飾つた聖含龍の上のラトール家の紋章をはめこんだ楯形を赤外線をあてながら引いて見た。中は二段の棚になつて居り、上の段に一通の手紙があつた。

 それは果してパリラテン街二十三番地の私宛てであつた。私は事の意外に驚いて立すくんで見つめてゐた警部に、

 ーーああ。日記がありますよーー

 と云つてそれを下の棚から取り出して彼に渡した、そのとき私は例の手紙を誰にも知られずに無事に自分のポケツトにしのばせた。

 死後火中にすべき日記には人知れぬある種の苦痛が綿々と悲壮な調子で書き綴られてあつた。そして時々ぱつと燃え上るやうに伯爵夫人マドレーヌに対する熾烈な愛情を吐露してあつた。全体に具体的な事は一つも書かれてなかつた!

 ーー伯爵夫人は何か不治の病気を持つてゐたらしいですね、ーーえーーそれとも不具だつたのかな、そんな風に見えなかつたがーーとレニール警部が私に云つた、彼は生前の夫人に二度ほど会つたことがあると云つた。

 私は実を云ふとそんなことはどうでもよかつたのである。ただ一度伯爵が真実の叫びを綴つたであらうあの手紙を読みたくてうずうずしてゐたのである。私は警部のうるさい質問をふり切つて宿舎に帰り、部屋に鍵をかけて伯爵家の定紋のついた固い四角な封筒の封を切つた。

 親愛なるH.ミツオカ君唯一度お眼にかかつたに過ぎませんが永遠に唯一人の親しい友と呼ぶことをお許し下さい。

 愛情のこもつた思ひがけない御手紙を戴き、私はまづどんなに驚いたことでせう。そして秘密を持つ身に殆んど慣習的になつてゐる深い疑惑を抱きながら、どんなに身を打慄はせながら拝見したでせう。しかし御手紙を読んでゐるうちに私はこれまで決して味はつたことのない深い深い歓喜の情が心の底からほのぼのと上つて来るのを感じ、どんなに貴方が懐しく又嬉しく思つたでせう。

 しかし読み進むうちに私は貴方の仰有つてゐる恐るべきあやまちをもう既に犯してゐると云ふことをはつきりと取返しのつかない苦痛を以て意識し始めました。貴方の御手紙は、実に! 実に残念ながらあまりに遅すぎたのでした。貴方の危惧は正確に適中しました。私はいま悲痛な思ひを以てマドレーヌの形骸を抱き幻の喪に服してゐます。ただ彼女のみが哀れでなりません。貴方が歌つて下さつた歓喜の歌はマドレーヌのためには悲しい挽歌になりました。返す返すも無念です。

 私は私がまだ少年の頃に懐しい父と母とを失ひました。私は後見人から莫大な金額の遺産を示されました。私は当時高等工芸学校の学生でしたが、この使ひ切れそうもない遺産で年来の望みであつた小さなアトリエを建てました。そしてそれが私達の若い賑やかなグループの集会所になりました。このアトリエで私達は今世紀最大の隠れた芸術家であると尊敬してゐたアンドレ・ド・モレージユ氏から美の形態について教へを受けました。

 彼は平俗な無味な現実に捉はれた美からの解放を私達に説き、彼自ら例へば妖しく美しいスフインクスや牧羊神を製作して見せてくれました。私達はこの奇異な姿態の投げるこの世ならぬ美に打たれてギリシヤ彫刻に養はれた私達の心のなかに美の価値判断に対する巨きな転回が起こつてゐるのを感じました。

 このグループのなかにマドレーヌーーシヤリエ嬢ーーが居たのです。彼女はまだ十八のあどけない小さな娘でした。しかし美に対する感受性は異常に鋭くて、モレージユ氏の作品に先づ肉体的の共感を示すのは彼女でした。彼女は生理学者の父ジユリアン・シヤリエ氏と二人で暮らしてゐたのです。シヤリエ氏はド・モレージユの少年の頃からの親友で彼に絶大な敬意を払つて居り、実験発生学の権威であると同時に芸術に衰へぬ情熱を示してゐましたが、之はド・モレージユ氏の感化であると考へられました。

 このマドレーヌはわれわれのグループの女王でしたから、秘かに彼女に思ひを寄せてゐた者は少くなかつたでせう。しかしやがて私は彼女と親密になり度々彼女の家へも出入するやうになりました。後に思ひ当ることがあつたのですが、その頃私は彼女に何か異常なものを感じて不思議でなりませんでした。しかしその原因がどこにあるかはつきりわかりませんでした。

 多分異常に鋭い彼女の感受性のためだらうと思つてゐました。そしてある夜彼女のためにセレナードを歌はうと彼女の窓下に忍び寄つた私はあつと云つて立すくんでしまひました。

 丁度貴方が私の家で見たのと同じ彼女の不思議な美しさを見たのでした。そして又貴方と同様に魂の底まで揺ぶられて扉を突破るばかりに彼女の部屋に飛込み、驚いてゐる彼女を堅く抱きしめたのでした。そして青年の無邪気な性急さから将来を誓つたのでした。

 彼女の父シヤリエ氏も私の申出を大変喜びました。何故なら彼女のこの妖しい魅力に感動出来る人は稀であるからです。

 彼は貴方の想像されたやうに彼女の芸術そのものの美を実験発生学的に創造されたのではありませんでした。しかし彼女が生れたときーー彼女の母は彼女を生み落すと亡くなりましたーーーその異形に一時は慄然としましたが、その中に既にただならぬ美のあることを認めて整形手術をさせなかつたのです。

 私は今にしてシヤリエ氏剛毅な芸術的精神に深く敬意を払つて居ります。なぜならかうして生れた彼女には並々ならぬ多難な前途が想像されるからです。しかし彼は俗見に対抗して敢然と彼女の美を育て上げたのでした。

 無遠慮な好奇心から護るために人前では寛い上衣を着せて彼女の多すぎる腕を隠させましたが、家にあるときは彼女の腕の表現がいかに豊で多彩で妖しく美しいものであるかを彼女自身が知るやうに自然に彼女を教育したのでした。彼女もやがて自分の異様な美がいかに力であるかを意識し始め、父から譲られた雄勁な精神で新しい異形の美の創造に熱情を持つやうになりました。

 私は彼女と結婚しました。そして「二人だけの孤独」をどんなに歓喜の思ひで享受したことでせう。私達は真に自身が芸術作品であり、絵の中にあるニンフとパンのやうに楽しく絢爛たる世界でくらしました。

 しかしやがて貴方が鋭く警告された悲痛な事態がやつて来たのです。私は自分の芸術的幻影を彼女の上に繋ぎとめることがだんだん苦痛になり、自然でなくなり虚偽に見えるやうになつたのです。何と云ふ精神の淋しい変化でせうか。ああ私は彼女が美しく見えなくなりました。怪しいいまはしいものにさへ見えて来たのです。彼女及び私の死滅がやがて来ることが予感されました。彼女の美が、いかに私の想像力によつてゐたかを知るやうになりましたーーーああこの偉大な想像力はもう私のものではなかつたのです。

 私は彼女の不具に気が苛々して一層熱心に不具を確認しようとその機会を探すーー憂鬱な時が来たのです。私は大謄に彼女の美を誇る勇気がなくなりました。彼女の不具を恥るやうになりました。そして世を隠れてこの牧場に住むやうになりました。

 彼女も私と共にその創造的熱情を失つてしまひました。美と云ふものは相手の幻想のなかに力を得るものです。私達はユダヤ人のやうに楡の樹の蔭にじめじめと生きて来ました。とうとう私は彼女の(本質である)余分の腕を切り取つてしまはうと考へました。

 貴方がごらんになつたあの夜私は自分で設計した電気メスで彼女の二本の腕を落しました。ああしかしそのときこんなに精神の堕落した私に当然の報いが冷酷にしかも今になつて突然やつて来たのでした。

 二本の腕になつた彼女は今迄よりも却つて無気味なちぐはぐな姿になつてしまつたのを私は取返しのつかない悔恨に苦しめられながら気がついたのでした。貴方が注意して下さつたそのことが正しく起つたのでした。私は泣きながら自分の愚かさを呪ひ、彼女を不具にしてしまつたことを彼女にどんなに悲痛な思ひで許しを乞ふたことでせう。

 彼女の神秘的な異形美は永遠に失はれたのでした! ただ私とそして貴方の心に深い感動を残して!

 彼女は徒に歎いたりはしませんでした。もはや自分が失はれたことを肉体を以て感じたのです。自らの生命を断つた私達が今後どうするか、それをお話しすることは益ないことです。しかしどんなことがあらうと貴方が私達を憶えてゐて下さるだらうとそして私達の途方もない愚かさを憐んで下さるだらうと私は信じて居ります。

 この手紙はまだ差上る積りではありませんがそのときになつたら確かに貴方の御手許に届くことと思ひます。それではさようなら。

     伯爵 ギユスターフ・ド・ラトール

 私は茫然として窓から虚天を眺めた。そして恐らく寒さのためであらう身慄ひして立上つた。一条の白光が無限の蒼穹を横切つて流れた。私はふと窓の外にじつとこちらを見つめてゐるある影を認めた。    (終)

北洋の作品について(2)

北洋は、物理学者ですのでその知識を活かした作品を特徴にしたいと述べています。

それがトリックそのものとは限りませんが、展開の過程で登場します。

その様な展開ならば、本格ミステリ指向の作者と考えてよいと思います。

上記は勝手な分類ですが、それからすると本作はかなり異色作になります。

最終的には自然科学的に終わらせようとしていますが、それも含めても全編が幻想小説・SF小説風に書かれています。

本作の記述者は、伯爵の手紙の冒頭から、この作者のレギュラー探偵の光岡と分かります。