閏4月13日 流山
本隊から分離した伊地知の隊三千は幸手に入ってきた北陸道隊の一部と上州各藩の兵士に向けて伝令を放ち、流山から進発して古利根川(江戸川)と利根川に挟まれた野田の町に入り関宿を目指していた。
本隊は柏で二手に別れ海江田は小金牧の中を木下街道の手前初富から馬込という場所まで索敵を繰り返しながら南へ進んでいた。
本隊は佐倉を目指して街道を進んで木下(きおろし)街道を横切り、後二里で成田街道に出るというところで先鋒隊と分かれて下野牧の賊軍の脇を突くために本隊の八千名にのぼる銃で装備された部隊は島田台に入って帯陣した。
有栖川宮を守る後衛千五百と輜重隊警備の八百が糧食弾薬と共に残ることになり斥候に出した兵が土地の者を探して連れてきた。
土地の者に聞くと此処は木戸場と言う場所。
高台の東福寺に宮を守る兵と共に東海道鎮撫総督橋本実梁、副総督柳原前光、
東山道総督岩倉倶定、軍監林玖十郎(宇和島)が陣を引いた。
勝の本陣は成田街道の実籾村に置かれたと話す男に道案内を頼むと「おらは年寄りだて息子で良いかね」それを疑いもせず本営参謀の野村は案内を頼む息子に「わき道から賊軍の本営に出る道を案内できるなら褒賞をとらす」と言う約束で雇ってきた。
西軍は気がつかなかったがその息子が付近の見取り図で示した道は、林の守る高根木戸に入る道だった。
出発は明14日6時と各隊に伝令が飛んだ。
閏4月13日13時 下野牧
勝と大鳥は参謀たちと天気のことを話しながらテントの外でビスケットにラスクを出して紅茶を甘くしてそこにブランデーを垂らして飲んでいた。
ラスクは横浜から持ってきたパンの固くなったのを調理人が油で揚げたものに砂糖をまぶした物だ。
「どうやら敵さんはこちらの策に乗ってくれたようだ。此処に来るのに成田街道から直接こられると厄介だと思ったがうまく伏せておいた者のうちから道案内を雇ってくれたようだ」
「ハイそれと隠し部隊ですが本営が下野牧攻撃に向かうまで我孫子の兵は気取られぬように厳重に管理させています」
「愕くぜ、あそこに仙台始め奥羽の兵が潜んでいて藤沢さんが指揮を取っているなど知られていないのが不思議なくらいだ」
「あの星と言う赤い洋服の隊長は中々の者のようです」
「横浜でヴァンリードから銃器の取り扱いを習って、兵学を習ってきたというだけ有ってよくわかっているようだ、あいつの指揮する八百の若い兵は使いようによってはこの戦の勝敗も左右できる働きをしてくれるよ」
佐倉に向かうのは三千名の先鋒隊で下野牧に一万の大軍が二方向から押し寄せることまで筒抜けになっていることなど、大村はもとより西軍は知る由もなかった。
表向き徳川連合軍の下野牧決戦の兵力は関宿軍六千、横浜防衛軍四千、下野牧本営五千と大砲部隊三百と発表されていた。
この三百には裏があり三百人ではなく三百門の砲が下野牧一帯に散開していて福田の号令ひとつで予め決められた地点での砲撃をして勝の本営近くまで下がり防衛ラインを築くことになっていた。
砲と砲弾に装薬ごと移動するのではなく決められた場所においてあり、砲手が其処に移動してくるのだから移動はすばやく行く事が出来、黒鍬や工兵が後から空の大砲を動かして移動するのだ。
もし大村の本営が成田街道から勝と大鳥の本部をつくようなら反対に後ろに回りこむ予定だったが簡単に罠に入ってきてくれた。
勝の本営は実際に実籾村に置かれていた、此処には大鳥直属の千三百の兵と騎馬伝令隊がつめて各部隊に馬での伝令が30分おきに出ていた。
これは何もなくとも今日からは昼夜を問わず出て連絡のつかないときは異変があったことがすぐにわかる仕組みに成っていた。
成田街道は5日前から完全封鎖されていたし、その10日前から街道沿いの各宿場には閏4月に入ったら街道は封鎖されるから通行は出来なくなると触れが廻っていた。
西軍の斥候、隠密にこの付近に勝の陣営があるということを知らせるためでもあった。
野馬よけの土手はそのまま塹壕に見立ててエンフィールド銃隊が各所に配置されていた。
13発連射のM1866
Turkish infantryは下野牧には三番町大隊に五百挺装備されていて突撃に活躍させる予定であった。
大村が越谷に入ったとの情報で続々と部隊が下野牧へ移動してきていた。
補給部隊は各隊に食料弾薬の補充にと忙しく動いていた。
ついこの間五千と発表した下野牧軍は一万三千名ほどの部隊へと変身していたのだ。
騎馬によるWinchester
M1866 CarbineとYellow Boyの部隊はついに各地での訓練を終えて此処に四百頭の騎馬隊が一隊三十六人編成で十隊、指揮官太田の下にも四十頭の斥候伝令兵を含めて組織されていた。
太田の元には同じWinchesterでも佐々木が指揮するM1866 Carbine部隊の歩兵のうち八十名も此処に来ていた。
このときの陣地配列は次のようになっていた。
横浜防衛軍を松平太郎に任せて林がいち早く此処に来ていて先鋒に出ていた。
前面 指揮官 林昌之助 (本営高根木戸)
スナイドル銃部隊千八百名白井木戸の南に散開( 本田幸七郎 )
スナイドル銃部隊千二百名勢子土手沿いに散開( 秋月登之助 )
本隊 M1866
Carbine銃部隊三百名( 林昌之助 )
騎馬斥候伝令部隊 スペンサー銃装備二百名( 林昌之助 )
中段 指揮官 太田資美 (本営夏見木戸)
M1866 Turkish infantry突撃部隊 五百名 ( 平岡芋作 )
騎馬突撃隊 Yellow Boy部隊 二百五十二名 ( 太田資美 )
騎馬突撃隊M1866
Carbine部隊 百八名 ( 太田資美 )
Yellow Boy突撃部隊 五百名 ( 太田資美 )
M1866 Carbine歩兵部隊 八十名 ( 佐々木孝右衛門 )
騎馬斥候伝令隊Yellow
Boy装備四十名 ( 太田資美 )
大砲三百輌に砲兵 千五百名 ( 福田八郎右衛門 )
本営 指揮官 大鳥圭介
Chassepot銃隊 千三百名 ( 大鳥圭介 )
騎馬伝令隊スペンサー銃装備三百名 ( 大鳥圭介 )
軍事総裁 勝麟太郎 総指揮官 大鳥圭介
情報操作 長吏弾左衛門
後衛 指揮官 大築尚志(佐倉防備隊)
エンフィールド銃隊千六百名
スペンサー銃隊 三百名
騎馬士官M1866
Carbine八十名
輜重隊 二千六百名
黒鍬隊 四百六十名
騎馬隊はすべてCarbineを二挺所持して鞍の両脇に下げていた。
そのほかに寅吉と共に長吏配下の乞胸、猿飼など多くのものが関宿、野田、松戸、柏にかけて網を張って西軍の情報を集めていた。
閏4月13日 16時 浦安
浦安と行徳にはすでに町田で訓練を終えた各地の脱藩兵や横浜から此処に船で来た兵が三千六百名、阿部邦之助と信太歌之助に率いられてエンフィールド銃隊とスナイドル銃隊で装備されて船橋方面に向けて進軍できる体制を整えていた。
連絡員が来て「明日には西軍の先鋒と戦闘状態に入る予定だそうです。流山付近で関宿に向かう兵が駐屯しております。海江田隊は下野牧へ向けて進軍中で今は初富を目指して進軍中で御座います。本隊は街道から佐倉に向かい途中で二手に分かれ下野牧に向かう兵と佐倉を突く兵に分かれるようで御座います」
「よく調べられたな。歌さんこの具合だと明日の午前中には戦いが始まりそうだ。こちらはそれまでお休みだ」
「次は夜に連絡が参りますが、本隊に何かお託が御座いますか」
「今のところ順調だと伝えてくれ」
「承知いたしました、すぐに補充の弾薬と2日分の糧食が届きます」
「了解した」
阿部は明日の戦いに自分の訓練した兵がどのくらい命令を守ってくれるか楽しみでもあった、如何に損耗を少なくして敵の江戸への進入路を遮断するかが役目だが進軍命令が来るかもしれないと内心考えてもいた。
閏4月13日 江戸
大久保一翁は千代田城にあって戦況の変化の様子を逐一報告が有り兵の采配の様子も全体を把握していた。
参謀には矢田堀と白戸がいて各隊との連絡には木下、妻木が当たり大きな地図に隊の印の駒を使って作戦の動きを見ていた。
「勝さんと大鳥さんの言うように相手が動いてきましたな」
様子を見に来た山岡に榎本も満足げにお茶をすすっていた。
城中も三月初めの落ち着かない荒れた様子から一変して節度のある緊張した様子に見えた。
いまだ何事も起きていないということに不思議な感じを覚えると共に、この分ならこちらの勝ちだと参謀達は確信していた。
相模から三河の間は家達公にお味方と宣言してくれたので安心して見ていられるし、甲府の板垣が出てこなければ江戸防備隊もやることがないという落ち着いた気持ちでいられた。
「山岡君この分だと寅吉が益満たちを甲府に送ったことが成功したようだね」
「そのようです。あの情報は効き目があったようです。私でもあれを聞かされたときは岩倉、三条の本心を疑いましたくらいです」
豊島も千住も何も起きず応援の兵を関宿に送って置いてよかったと大久保は胸をなでおろした。
高橋と山岡の大奥改革は短時日の間に成果を現していた。
必要以上の人員を家に戻し残ったものは戦闘員としてお役に立ってもらわなければなりませんと言う山岡の言葉に最初反発を覚えていたものも「御家の一大事に着飾って食べて寝るだけの方など不必要です」の言葉が聞いたか天昌院も静観院宮も率先して戦支度を承知したのだった。
まさかだん袋ともいえず同じようなものを自分たちで古着からこしらえて歩きやすく働きやすいものに仕立てていた。
横浜で洋裁を習っている者を二人呼び寄せてもらいその指導で上下ともお掻い取りをやめていた。
身分にかかわらぬ其の姿に老女には泣き出すものもいたが「御家の大事に姿かたちにとらわれてなんとする」という静観院宮の言葉に泣く泣く従うのだった。
中山道日光街道にはまだ兵を送り出さず関宿攻撃の報が有り次第スペンサー部隊とウィンチェスター部隊を追加派遣して街道警備を強化することになっていた。
「罠に入るまでは出来るだけ此方の手の内を見せない」
囲碁将棋と同じことさと言う参謀もいて勝に「ばかぁいうな手をさらしてそんなものかと馬鹿にされてから、隠し玉をだすのは昔からの兵法で相手もそれを考えているさ、罠に入ったくらいで奥の手を見せたら負けだよ。奥の手は此方が負けそうになって初めて出すから効果があるんだぜ。関宿のウィンチェスター部隊のM1866 Turkish infantryは隠し玉であって奥の手じゃないぜ」この作戦の最後の切り札は勝と大鳥、太田、大関、榎本、大久保の六人しか知らない部隊の動かし方にあり、それはその最後の日まで出さない奥の手であり戦が終わるまで出したくないというのが本音だ。
「この通りに大村蔵六(益次郎)が動いてくれるとは考えられないかもしれませんが、長吏のものと寅吉が必ず最後にはそのように追い込んでくれるでしょう」
一月前に家達公にお目にかかったとき勝と大久保は確堂と慶頼にそのように話もし「この城が手薄に見えるようにして置いて、敵を呼び込まなくては戦が此方の思うとおりになりません」と自分の本営の場所と佐倉の位置を藤沢ともども説明して「城は堀田家の家臣団と陸軍砲兵隊が必ず守りきり、陸軍歩兵部隊が城の手前で必ず敵を撃破いたします」そう約束するのだった。
藤沢の陣の位置も説明し此処からこのように移動してこの場所で佐倉が危ないときはこの道、佐倉が持ちこたえれば此方から攻撃いたしますと自分の受け持ちを明確にした。
そして城の砲兵隊が一発も撃たないうちに片付けてご覧に入れますと勝にしては珍しく見栄を張って見せた。
内藤新宿は江戸から出る者のために道を開放していたが進入してくる西軍は影も見せなかった。
須田町でも岩吉はまんじりともせずにこの日の朝を迎えた。
勝から言われていたこの日がついに来た、板垣の隊が江戸を攻撃すればこの日か次の日だろうと言う事だったが、甲州街道には西軍の兵は一人も見えずいつもの斥候も八王子に出てこないと聞かされて何か拍子抜けをしていた。
江戸の町も落ち着きを取り戻してきていたが、行きかう兵と諸役の者は落ち着かぬげに見えた。
閏4月14日5時 浦安
伊庭八郎たちの遊撃隊も此処に今朝の船で着いた、横須賀で作られた小型の蒸気船三隻に分乗してきた。
丸子大隊の本隊の内大砲部隊は下野牧に入っていてスナイドル部隊は橋本で松平の元にいて、伊庭と人見の率いるM1866 Carbineの80名の兵士は昨日の朝招集がかかり夜を徹して品川に出てそこから蒸気船で送られてきたのだ。
阿部に着陣の挨拶をすると士官の一人が付いて、朝の食事の場所に案内され次に仮眠できる神社の境内へ案内した。
そこにはすでに中隊規模の兵がいて人見たちと入れ替わりに出て行った。
その士官は川田といい連絡用士官として遊撃隊と行動を共にするよう言い遣っていた。
「それで川田君、俺たちはここに何時までいるのだ」
「まだ連絡が来ておりませんが今頃関宿と下野牧では戦闘が始まったころでは無いでしょうか。ここは江戸防衛の拠点と聞いております、西軍が打ち破られたときに江戸に向けて落ちてくる兵を捕らえるのが役目だそうです。まず先頭の兵がズーフル(蘭語Rofle)で降参を促し聞き入れない兵は攻撃してよいということです。銃と刀を捨てた兵士は一時的に縄を打って捕虜となっていただくそうです、そのための腰縄のかけられる訓練も受けてきました」
「縄をかけるのはなかなか承知できないものが多いだろう」
「そのための説得も我々の役目で御座います、一時的な処置なのですまぬが受けてくだされといわざるを得ません。戦闘能力をそぐのと少ない兵で見張るための処置と聞かされていて捕虜は藩別に分けて早い機会にその国に帰す処置を取るそうです」
「帰すとまたこちらに兵として攻撃してこないか」
「その処置は大久保様がお役目だそうで御座います。遊撃隊は捕縛ではなく抗戦して武装解除しない部隊を追っていただくそうです」
「俺たちだけがその役目かい」
「いえ、千住大隊の永倉新八殿が兵三百とこの先の川沿いに配置されております。こちらは昼からのお役目と成りますので時間までお休みください」
「こらものどもよく聞け、われらは本格的な戦場に立てるぞ、後二刻此処で仮眠じゃ。眠れないなどと言う弱虫は我ャ面倒見切れん」
そうは言われても遠く砲声が聞こえ出すとなかなか眠れないものも多かった。
それは最初の海江田隊への砲撃音だったが暫く響かないと思うとまた聞こえてくるという長閑ささえ感じる伊庭であった。
閏4月14日5時30分 木下(きおろし)街道
海江田は木下街道が下に横たわる高台に陣を張り大砲の到達距離外に敵陣があると知り自ら夜明けと共に突撃を開始した。
「大砲は後からこい、号令を待たずとも目標はあの白い陣笠じゃ」
西軍は錦旗を立てて官軍と称していても目印は肩の錦糸で織られた布一枚だけだったが、相手が目立つ白い陣笠なのは勿怪の幸いだった。
海江田隊は手薄に見える敵左翼の夏見木戸を突破して大村の本隊と合流できても出来なくとも一気に勝の本営まで突き進む予定だった。
福田の大砲部隊のうち街道を最遠目標点に置いていた部隊は敵が横切ると同時に自分の受け持ち地点に正確に砲撃を開始して最前列の30輌の砲隊はすぐさま陣を敷いて次の砲撃地点まで下がり銃隊に道を明けた。
海江田の隊は砲声がやむと慎重に進みだしたが、太田の率いる騎馬隊一小隊が街道を西南から北東へ駆け抜けながらM1866 Carbineで乱射して通り過ぎた。
それを避けて進もうとするとまたも一小隊の騎馬隊が畑の小道を通り抜けて行った。
小刻みに街道を横切ることしか出来ない海江田隊は彼方此方に点在する兵になり密集隊形をとることができなかった。
固まろうとするとそれを待っていたかのように四十騎あまりの騎馬隊が左右を乱射しながら通り過ぎていくのだった。
それは太田が指揮をして道筋と走る速度まで何度も訓練した成果だった。
街道の北側に残された兵には次列五十門の大砲から距離三十丁の遠距離射撃の弾丸が降り注ぎ逃げ場を失った兵は街道を横切って突撃をかけた。
海江田隊の十二ドイム携臼砲は其処に出てきたばかりのところで砲撃を受けて炸薬に火が入り大爆発と共に粉砕された。
前に出るとまた騎馬隊がM1866
Carbineで乱射しながら通り過ぎてようやく田植え前の田に出たときには海江田の周りは三百名ほどの兵が残るのみとなっていた。
分断された兵はそれぞれの場所で思い思いに戦い、先に進んだ兵も勢子土手に伏せたM1866 Turkish infantryの一斉射撃を受けて少しも前に進めないままになぎ倒されていた。
突撃用に配備された勢子土手の兵だったが肥後藩と佐賀藩兵四百のがむしゃらな突撃に土手から出ることが出来なかったが、五百挺の13連発からは休む間もないほど弾が飛んでくるのだった。
土手の向こうに爆裂弾を打ち込むから暫くでないようにと福田から伝令が来て平岡は二段目の勢子土手まで後退させた。
ようやく土手の下にたどり着いた部隊もあったがそこに臼砲から打ち出された爆裂弾で倒れるものが続出した。
土手を乗り越えた兵も銃剣での戦闘に持ち込む前に横から軽快なYellow Boy部隊の突撃を受けて下がらざるを得なかった。
夏見木戸付近まで進んだ村田新八(二番小隊長)の兵は騎馬隊に蹴散らされて後退して行った。
大砲部隊は役目が済むと次々に後退して勝の本営近くまで下がり歩兵部隊の邪魔にならぬようにして大村の本隊の突入に備えていた。
篠原国幹(三番小隊長)の率いた隊は隙を突いて南に回り込んで進んでいたが太田がそれを察して騎馬伝令隊四十騎と共に追いついて攻撃をして退けることに成功した。
木下街道の林の部隊方面には海江田隊はついに出てこられず南側に押し出され無事なものは中山法華経寺方面に落ちていった。
「退却しろ、木下街道の後ろまで戻り員数と弾薬の確認をしよう」
海江田の決断で負傷した兵を抱えて徐々に集合しながら街道の方へ下がっていった、ほとんどの部隊は弾薬を使い切っていた。
退却する兵には追いすがっての攻撃をしないように命令が出ていたため、太田の隊は落ち口を開けて追撃はせず本営の夏見木戸付近に集合を掛けた。
この時、わずか三時間ほどの戦闘で海江田隊は半分に減ってしまった。
僅か二千に足りない太田の機動部隊と福田の大砲部隊の勝利だった。
福田の大砲部隊の主力は大村の本隊が夏目木戸方面に出るという情報で移動していてのこの成果に福田は満足していた。
林の部隊が大村の本隊の攻撃に終始対応できたのはこの日の大砲部隊のおかげで海江田隊が細かく分散されて、相手の大砲部隊が活躍できないうちに粉砕されたことであった。
武士同士の一騎打ち形式の戦いは、この日を持って姿を消さざるを得ないほどの圧倒的な東軍の守備だった。
ほとんど銃剣突撃も刀剣での格闘も役に立たない戦いに終始した。
太田は一回りした騎馬隊に牧場の南斜面に集合をかけて大村の本隊の攻撃をするために次々と移動させていた。
木下街道はYellow Boy隊のうちの三百の兵と騎馬伝令二十騎が守ることになった。
平岡のM1866 Turkish
infantry部隊には成田街道から実籾の間に展開するように移動命令を出した。
閏4月14日6時 木戸場
先鋒の野村は勝の本営と探りを入れた実籾村に突撃をするために道案内の言うままに兵を進めていた。
遠く砲声が聞こえ打ち合わせどおりに海江田が突入して勝の注意がそちらに向いていると大村は大砲部隊の前方を馬で進みながらほくそえんでいた。
野村が千二百のスペンサー部隊を率いて歩く道は黒鍬の兵が先月幅一間に広げた谷間の道で其処を抜けて七字半に台地の中腹に出ると、其処には眼下に広がる牧場に数多くの兵が土手を塹壕代わりに潜んでいるのが丸見えだった。
「よくやった---」声を呑むのもそのはずで今の今までつい前を歩いて此処まで導いた若者の姿が消えていた。
後方には大村の本営が来ていてその脇道後方には大砲部隊がアームストロング三門と携臼砲十二門の台車を狭い山道を台地の上に出すために杉林の中を苦労して押し上げていた。
離れたところで昼花火が揚り下の陣地の様子があわただしくなった。
「しまった、気づかれたぞ。このまま突撃しろ」
野村に従ったスペンサー部隊の千二百名は一斉に乱射しながら崖を駆け下って行った。
後方はなれた処から花火が上がると同時にヒュルュユルと頭上を砲弾が通過した、大砲の轟音がとどろき一瞬身を竦めた野村たちだったが上を通過する砲弾を見上げて「馬鹿なやつだ見当違いを撃っていやがる」その声と笑いが起きるまもなく、後方からズズンと言う地響きと鼓膜が破れんばかりの轟音が響きわたった。
十門の二十四ポンドアームストロングと四斤野砲二十門の一斉射撃だった。
その音は実籾村の勝と大鳥の所まで響き渡った。
高根木戸の林も夏見木戸の太田もそれを聞いて作戦が当たったことを知った。
「弾左衛門君ありがとうこの戦勝ったも同然だ、すべて君のおかげだ」
「そうだぜ、お前さんの手のものが埋めた地雷火のあたりをうまく通過させて花火を合図に其処に砲弾が着地できる手配もしてくれたおかげだ」
大鳥も勝もこの若き長吏の指導者の手をとって礼を言うのだった。
「先生方まだ戦は序盤で御座いますよ。それに私は先生方の立てた作戦の方策どおり動いた一枚の駒でございます」
「そんなことは無いぞ、みよ此処で戦をしているのは旗本のお歴々など数えるほどしかいないぜ。君が寅吉たちと裏で働いてくれなければ此処までやつらを引っ張り込むことなど出来なかったぜ」
その言葉を裏付ける様に伝令が来て「敵の輜重部隊に初弾が命中。砲架と炸薬をほぼ使えなくすることができた模様」
「よしわかった後は前線の司令官に任せる順次予定通りに進行せよ」
がけを駆け下った野村たちは唖然とした、敵との間には幅十五間長さ百間ほどの干上がった池の跡があり草の茂る滑りやすい土手になっていた。そこに入り勢い付けて駆け上がろうとしても滑ってしまい、なかなか上がれない所に臼砲の爆裂弾が続けざまに打ち込まれてきて三百名以上の兵がそこで討ち死にをしてしまった。
登りきった兵と回りこんできた兵をようやくまとめた野村の前に木下街道で縦横に連発銃の威力を披露した騎馬隊がM1866 Carbineで乱射しながら駆け抜けて行きその後を歩兵が同じM1866 CarbineやYellow Boyで掃射しながら横切りさらにまた新手の騎馬隊が続いて通り過ぎた。
草原を前に進むと実籾村どころか高根木戸の林の部隊の待つ勢子土手のはずれで銃撃を受けてほぼ壊滅してしまい、野村も乱戦の中で討ち死にを遂げた。
そのころには海江田隊がほぼ半減して戦意を喪失して北西に後退を始めていて太田の騎馬隊は牧場に散開した大村の本営を脅かしていた。
縦横に駆け回りWinchesterを乱射しては後方に下がり馬を一息つかせその間に弾込めをして、また一回りするという繰り返しを行っていた。
騎馬にも犠牲が増えだし太田の騎馬隊は三百名ほどに減っていた。
林の騎馬斥候部隊のスペンサー二百騎もすでに三回ほど攻撃に参加して五十騎が戦闘能力を失っていた。
「敵の騎馬隊を見ろあんなに多くの馬を残して下がっていくぞ押し込め、押し込め」
宮本総十郎のミニエー隊三百名が勢子土手めがけて突撃して本田の隊と銃剣で戦いだしていた。
冷泉雅二郎は奇兵隊のときから伊藤や山懸と銃弾の中を潜り抜けてきた勇者だが林のM1866 Carbineの三百名の弾の嵐の中で討ち死にを遂げた。
林の隊は押され気味で秋月のSnider部隊は後退していき替わりに本田の隊が押し出してきた。双方入り乱れての乱戦を林の騎馬隊がスペンサーで割って入り其の間にSnider隊を勢子土手の北側で整列させた。
太田のYellow Boy突撃隊の二百が冷泉と宮本の隊を食い止めた。
改めて弾を装填して押し出したSnider隊は冷泉のいない隊が奮戦する中を一列で突撃をして大村の本隊近くまで押し返した。
大砲部隊が大村の本営付近を盛んに砲撃して西軍を分断することに成功した。
しかし大村の指揮する部隊が前面に出て林の隊は後退を始めた、其処へ騎馬隊と伝令隊の総攻撃を太田が実行して西軍の勢いを押しとどめた。
一進一退が繰り返され戦況を確かめた大鳥はSpenser騎馬伝令隊の投入を決めた。
三百騎のスペンサー部隊の新手はこの時とばかりに奥深くまで進入して大村の肝を縮み上がらせた。
平岡のM1866 Turkish
infantry部隊が実籾方面から成田街道を回りこんで新木戸で大村の本軍と遭遇して13連発の威力を発揮して佐倉との間を遮断して中木戸へ押し帰した。
大鳥は大村の隊が佐倉へ向かわぬように輜重隊の警備兵も新木戸から成田街道沿いに展開し佐倉方面の道を封鎖した。
「もう一度体制を整えて此処から勝の本営を突こうでは有りませんか」と言う参謀にも疲労の色は濃く兵にも大村にもその気力は無かった。
付近の地形図とコンパスは有っても正確な実籾村への道が分からないのだ。
後半里ほどしかないということも参謀達は知らなかったし、Chassepot 隊の千三百あまりの兵しか其処に残されていないことも気がつかなかった。
知っていればなにを置いても突撃したのかも知れない。
ただ西軍には実籾村に近い方向は兵が少なく高根木戸方面の敵と戦うほうへ戦力の大半を取られていたのだ。
木戸場から岡を越えて出た場所から扇形に広がってしまい一方向に向かうはずがまとまることが出来ないでいたのだ。
「佐倉へ行こう」と言う前原の伝令も無視されて、大村の本隊は出てきた木戸場に戻るように、退却の命令が出て13時頃に実籾を諦めて成田街道付近から後退し出した時には五千をはるかに切っていた。
久保清太郎と富永有隣に前原一誠の三人が率いる千六百名の兵が殿で高根木戸方面に下がり岡を登って木戸場方面に落ちていった。
あまりにも無様な負け戦に茫然自失と言う言葉がそのまま当てはまる半日の戦いだった。
佐倉とも海江田の隊とも連絡をつけることが出来なかった。
連発銃といえば扱いにくいスペンサーしか持たない長州兵はWinchesterと言う名前さえわからず、すごい連発銃にやられたと怯えるのだった。
騎馬隊が二挺の銃の弾を果てることなく撃ち続けるのも脅威だった。
太田たちは右の銃を取ったときは左へ筒先を向け反対に左を取ると右へ筒先を向けて打つという訓練をされていることを見抜いてはいなかったので、左右の兵を続けざまに打ちながら何時までも装填しないで駆け抜けていくのをミニエーの装填を忘れて呆然と見送ることが多かった。
それに前込めでは弾を込めて炸薬を装てんする作業に時間をとられている間に馬のほうは射程外を走っているのでは追いかける事も出来ないのだった。
最初にSpenser部隊が半分以上出口付近で倒されたことが響いていた。
閏4月14日6時 野田
伊地知の隊は海江田の南下した隊と歩調をあわせるように関宿に向かって日光東往還を北上していた。
中山道甲州と順調に進んだ道と違い、西郷が亡くなってから茨の道を進むかのように難しい展開となったことを肌で感じていた。
高崎から出撃したであろう香川の率いる軍とうまく共同歩調が取れるかも不安だった。
本来此処はほっておいて板垣と立案した江戸を駆け抜けて佐倉に迫るべきだという猪突猛進がたの戦が得意の伊地知だった。
江戸を燃やし尽くしても進む事を大村は無駄なことだと一蹴したのだった。
自分を佐倉突入からはずしたことも不満のひとつだった。
品川や谷では敵の作戦にはまり込むのは見えみえだったし、自分の率いる軍とて鳥羽伏見のようには行かないことも承知だった。
大村が出てきたことで恭順の徳川の方針が抗戦と一変したのも、元はといえば西郷どんが亡くなったことが原因と考えるとこの戦に勝てる気がしなくなりだすのだった。
それとあののっぺりした公家たちも気に入らなかったし、若い世間知らずの岩倉倶定等に顎でこき使われるのも我慢できなかった。
京で岩倉卿がかわいがっている西園寺と言う小僧が西郷先生に「幕府など叩き潰せばよい、われらの威光であのようなものなど道端の雑草と同じで踏み潰せばよい」
などと言う言葉に逆らわぬ大久保にも失望していた、西郷先生は「ままそのように仰せられず、徳川には徳川としてのご奉公をいたしたこともありますから」の言葉にも「その方陪臣の身で僭越である」とまで言い募り岩倉が西郷先生に謝るという一幕まであったことを見聞してから、特に公家を排除しなければいくら徳川の無能の老中を排除してもこの国は立ち直れないと考え出していた。
攘夷勤皇は確かに薩摩の方針だがそれは公家が徳川に成り代わる手助けでは無いと伊地知は考え出していた。
その徳川とて如何に譜代とはいえ無能の大名が政権の中枢にいたのを排除でき、いまは勝らが中心の軍事政権となってはほんの少し前とは大違いの機動力になったことを海江田から聞かされて用心が必要と思っていた。
装備は絶対に関宿軍が上だろうなと横浜から押し出してきた兵の装備を海江田から聞くと自分たちはこの三ヶ月で遅れてしまったと思うのだった。
「高島さぁ、先ほどらい敵の斥候と遭遇したが交戦もせじ逃げ出したちゅう報告ばかいだがいけん思う」
高島鞆之助はこのとき25歳、伊地知も認める気鋭の薩摩っぽだった。
「伊地知参謀、向こうさんは兵を出来るだけ密集させて戦う気らしい。そのために関宿では此処二月あまり城下の町屋を取り壊して町民を川向こうの避難させてまで要塞化をしたというではありませんか」
「大村上席参謀は後ろから関宿の兵に襲われるのが心配で俺たちに尻拭きをさせるきさ」
密偵の報告で城下の様子は悉く知り尽くしていた、城下の工事にまぎれて入り込んだ密偵は堀と土塁の位置までも正確に写し取ってきていた。
大砲部隊、騎馬隊の屯所、兵舎しかし新式銃の数に兵はこのとき調べたものより多くなったと第三遊撃隊の西も第一遊撃隊の小倉も推測して伊地知にそのように具申していた。
「賊軍は兵が五千と言うこっだがすっぱいが戦闘員と考えて良かだろう、こん先出会うものはすっぱい賊軍と言うこっだろう」
そして参謀会議で出会うものすべてをこれからは賊と見て用心して、たとえ百姓姿でも銃で囲んで取り押さえること、畑で農作業していても用心を重ねることを通達して野田の町を通り抜けた。
本営は街道が西に曲がるところまで来て日光街道側から来る香川の率いる軍五百と合流した。
「伊地知さん高崎から此処まで何事も無かったよ。賊軍は関宿の関所も放棄したし其処に五百の兵と砲兵隊を置いてきたから此方が其処まで進軍したら橋を渡らせて攻撃に参加させよう」
「後の兵はどうしました」
「遅れた装備のものは置いてきた、もっともあいつらがいては足手まといだから栗橋城を攻撃しろと其処に陣を敷かせたよ。軍監の豊永と原をつけて置いた。そうそう小栗だがどこを捜索しても軍資金は見つからなかったし一族のものを捕えたが全部で千両にも満たない金しか持っていなかったよ」
「そうですか、あの軍資金の話は眉唾だと思っていました。あのときの徳川にそんな金が有れば苦労などしていないでしょう」
「そうだろうな、あの二人があまりにも強引に話を進めて小栗まで急いで処刑してしまい、俺も後で知ってなにをするかと叱責しても大村上席参謀の言いつけですとけろりとしていやがる」
困ったことです、若いという事は良いことでしょうが、ただただことを急ぐあまり先の見通しをしてくれませんと何時に無く老成したことを言う伊地知だった。
この年前厄の41歳の伊地知は猪突猛進には理がある、作戦はすべからく敵との距離を置いて立てなければ成らない、寡兵で大敵に戦いを挑むときこそ死中に活を求めるのは一切ほかに手立てが無いときである。
そのように常々若い兵士に話、作戦は密にして行動は疎にして勇猛にせよと言い聞かせていた。
「香川さん俺はこの関宿攻略で死ぬかもしれん、俺が突撃したら後の指揮はあんたに任せるよ」
「なにを言い出すんだ、負けると決まったわけでもあるまいし。それに此処は押さえで城を取れとは言われていないだろう」
「しかしな、あの大村から早く突撃して城を落とせといってくる気がするのだよ」
「佐倉はもう落ちたも同然だろう」
「しかしな、次々と思いつきで作戦が変わり今頃は佐倉の前に勝と大鳥の軍を叩いてその勢いで佐倉をもみ潰そうとしているだろう。大総督宮のことを盾にして独裁的に軍を動かそうとしているのさ」
「困ったお人だ、いくら岩倉様、三条様の後押しでも行き過ぎは全体の指揮にかかわる」
伊地知はそれについて何もいわず軍の配置について相談を始めた。
|