習志野決戦 − 下野牧戦        根岸 和津矢

各地の侍や農兵が話す言葉は特別の場合を除き方言を使わずに本文を構成してあります。
習志野は幕末には小金牧の一部で下野牧と呼ばれていました。
小金牧は野田から佐倉、千葉市にかけて広がる広大な牧場でした。

習志野は明治に為ってつけられた名ですが通りがよいのでそちらを使いました。


下野牧戦


1868年4月23日 木曜日

慶応4年4月1日 忍

勝と大久保たちは上州と武蔵の北半分を説得し切れないでいた。

いくら横浜、相模方面で優勢のうちに戦いが行われても実際に近代装備の西軍の勢いには後れた関東の諸藩は勝てないのだった。

八王子に居座る大村がそろそろ動き出すという情報があり高崎から本庄、深谷へ南下してくる中山道隊、北陸道隊の通り道に近い忍でも触れが廻り街道警備の兵を出さぬ訳にはいかなくなっていた。

藩主の松平(奥平)忠誠は養子で、養父の先代藩主の忠国は官軍への恭順を指令した。

それに反発した忠誠は生まれ故郷の烏山に向かった。

従うものわずかに三十二名共に鳥羽伏見での苦しい逃避行をした仲間であった。

慶喜に従って苦しい思いをしたが、家達公にお味方と言うその一事でもって共に藩を出てきたのだった。

街道を東へ進むうち関宿藩が城下を戦場とする様子を聞きつけた忠誠は城を訪ねて大関に面会してその幕下に入ることを了承された。

「家柄ではなく戦に勝つための指揮官こそが指導者」と言う大関の言葉に目が覚めた思いがする忠誠であった。

此処関宿では「大関に従えぬものは関宿から速やかに出て行くべし」という関宿藩主久世広文が自ら書いたお触書が、各隊に張り出されていることも驚きであった。

「貴君の忍もいまは養父の忠国公がいるから心配することも無いだろう。必ずこの戦に勝って領国に戻れることを私が保証するよ」

幕府の重職を歴任してきた大関の言葉には重みがあった。

かって勝の上司であった彼でさえ昨慶応3年の11月にこの戦が起きるだろうと勝や館山の稲葉正巳と話し合ったとき勝、大鳥の指揮下に自ら入り戦うための準備に入ったことも始めて聞いたのだった。

最初は、掛川の大田資美、勝麟太郎、大久保一翁、大鳥圭介、稲葉正巳の5人で話し合って仕度を始めたものだということも初めて知った。

忠誠を含めた三十三名は大関のM1866 Turkish infantry部隊に配属され一兵士としての訓練を開始した。

そして忠誠は忍に遠慮して旧姓の大久保を名乗ることにした。

 

4月1日 品川

江戸湾にストーンウォルが入ってきて品川に投錨したが、アメリカ公使のMr.ヴァルケンバーグ(RBVan Valkenburgh)は引渡しを長引かせていた。

矢田堀が何度も出向いて交渉するが、同意するまでにいたらなかった。

小野が乗り組ませた二人の幕臣は船が横浜に回航された時点でようやく船を下りることが出来た。

幕府海軍方軍艦組一等の小笠原賢蔵と同じく岩田平作の二人は船を下りると奉行所で船の特性と残りの金額の支払いなどを相談した。

榎本も横浜に入り粘り強く交渉してようやくマーカンタイル銀行の手形での支払いが済んで、ストーンウォルは甲鉄と名が改められたうえで榎本艦隊の甲賀源吾の第二艦隊に編入されたのは、4月11日のことだった。 

Mr.ヴァルケンバーグに対して中立と言う言葉がイギリス側から何度も言ってきたことも交渉が長引いた原因かもしれない。

船の未払い分が10万ドル回航費用が10万ドルほぼ十五万両と言う値段だった。

これを榎本が大坂から持ち出した金で支払うことが出来た。

昨年11月に勝と稲葉(正巳)に約束したことなのに今になって長引かせたのはスナイドル(改造エンフィールド)一万挺のためだったのだろうか、榎本は寅吉から「だいぶ高いですが向こうさんに渡るよりましでござんす」と言う言葉によって一挺銃弾百発共で三十六両と言う船長の言葉を受け入れたのだった。

小野が向こうで買い入れたガトリングは二台と銃弾十万発、それと船長が商売のためと改造エンフィールド銃を一万挺それも無事引き取れることが出来た。

「コタさんよだいぶどころか一挺で10両は高いぜ、あいつらこれだけで十万両は余分に儲けやがった」

三十六万両という途方も無い金額で御座いました。

「いまこれは奥羽にもっていけば飛ぶように売れますからね」

「それはそうだが大久保さんはよく金の都合がついたものだ」

なにその金は関東各地の大名や奥羽連盟の諸大名が家達公にお味方と申し出てその地の豪商、豪農からかき集めてきてくれた金が五十万両弱、それと寅吉が横浜の外国人商社と日本人商人から内緒で寄付されてきた金五十万両ほどのうちから払われたものでした。

「あいつら両方へ献金して後で少しでも商売に利用しようと考えているのさ。だから俺や大久保さんは奉行所経由で直接受け取ることが嫌なのさ。お前なら此方に顔が利くと鼻先を突っ込んできたんだろうぜ」

「あっしがそういうことを仲介すると読み違えたことに気がついたら後でもめるでやんしょうね」

「オイオイ少しは儲け仕事を回してやれよ。ほれアメリカのやつらが鉄道を引きたいと権利を幕府時代に申し出たろう。あいつの権利を少しは認めるだけでアメリカは納得するだろう。後の国も少しずつは儲かるようにしてやれば良いさ。そのくらいは大久保さんも考えているよ」

「少しで我慢しますかね」

「フフン、俺やお前が新しい国の要職にはつかねえと知ったときのあいつらの顔が見たいもんだ、新政府と称しているやつらは大坂の商人に三百万両献金しろとこわもてで申し付けたそうだぜ」

「いい加減にしろと商人たちが言い出しそうで御座いますね、前には徳川でこんどは新政府ですからね、やはり税金と言う形で商法の確立をしないと金の集め方の問題が出ますね。其の為にはまず戦に勝ちませんといけません」

「お前が買ったWinchester Rifleの値段も莫大だから少しは払わねえと虎屋がつぶれるかい」

「まさか銃のほうは私個人のお金での現金取引ですから心配は無用でござんすよ」

「分かっているさ、またダイヤ鉱山や金山でだいぶ儲かったそうだな」

「あれどこで聞きましたか」

「サトウが神戸で聞いたと教えて来てくれたよ」

「だいぶ尾ひれがついたようですが私のほうは四千ポンドが八万ポンドの値打ちになったという話でまだ売っておりやせん」

「と言う事はそれだけの資産が残っているということかい。前の分は相場が落ちる前に売り抜けたしお前さんは相場の天才だぜ。だがサトウは其の10倍の八十万ポンドだといっていたぜ、其のせいでイギリスからの東軍に対する寄付が多くなったという噂だそうだ」

「例のマックのスミス一族がね、私の話に乗って私の金を含めて二万ポンドを投資しましたんでござんす。そいつが20倍に跳ね上がったという話でござんすよ。金持ちになったのはあの一族ですよ、どこで話が倍に膨れたんでござんしょうね」

「たいてい今頃は横浜でお前が百万ポンドのダイヤ鉱山を持っているなんて話がまことしやかに出回っているぜ」

勝はそういって金と銃はいくらでも必要だ、特にお前さんがボクサーの銃弾を押えたことで西軍はスナイドルをあまり活用出来なくなっているらしい、などとサトウから知らせてきた情報を教えてくれた。

伊藤が長崎で銃と銃弾をかき集めるのに苦労してSniderが予定ほど集まらずエンフィールド、ミニエーでも良いからと倉庫の中を空にするほど買い占めているようだ。

横浜にあるミニエーを神戸に持っていく商社が増えてるというのも其のせいだ。

東軍関係の藩では同じミニエーでもエンフィールド以外は買わない様に指導して居た。

寅吉の子供時代の大正ごろではグラバー(ジャーディマジソンも含む)を筆頭にイギリス商人が後押ししてSniderSpenserを大量に供給したと伝えられていたがこのときの情勢ではグラバーが降りたという噂が横浜にも聞こえてきた。

昨年横浜で会った時に寅吉が10月出航の商船を最後にするという話を受けて自分が其の後の仕入れをして置くという話だったがどこで気が変わったものか、寅吉にはその辺の事情はまだ伝わってきていなかった。

トマスにはその後アメリカのWinchester Rifleを仕入れるからSniderはボクサー式銃弾だけ買うと伝次郎を通じて申し入れた。

甲鉄には機関の操作と操船指導にアメリカ人が30人お雇いとして乗り組み艦長に指名されていた塚本は長鯨から三十名の人員と甲賀を先頭に乗り移って来た。

長鯨には小杉雅之進が艦長として乗り込むことになった。

小笠原、岩田の二人は共に副長としてこの艦の乗り組みを命じられ陸にあることわずか10日でまた艦上の人となった。

足りない人員は第四艦隊から補充され中島は喜んで熟練のもの二十名を推薦した。

第四艦隊は千代田形、神速丸、美香保丸、行速丸からなり輸送船団も此処に所属していた。

輸送船は主のものは大江丸、鳳凰丸などが江戸に残っていた。

新たに修理が終われば乙丑、孟春がここに入り、四隻のスクリュー船がそろうことになり帆船の美香保ほかの艦の護衛として行動することになった。

孟春のアームストロング旋回砲は二門とも降ろされて16センチクルップ砲と入れ替えられていた。

降ろされた砲は密かに利根川沿いに古河に送られていて関宿戦のために、東光寺に秘匿された。

ほかに4斤野砲が川沿いの何箇所かにすでに隠されていて関宿戦のためにはまだ砲手は送り込まれていないし砲弾は置いてあっても炸薬は砲手と共に配備されることになっていた。

大鳥と福田は砲手と炸薬を大砲のあるところに移動させて大砲はこの際撃ち捨てても機動力のある戦を考えていた。

「後から大砲は工兵が移動させればいい」

そう大鳥は参謀に言って射撃予定地点を丹念に調べさせるのだった。

大鳥と勝は昨年幕府がグラバーから引き取ったアームストロングのうち二十四ポンド砲を十門駿府に配備して此処関宿にはもって来ていなかった。

「勝さんどちらに配備しますか」

「そりゃ駿府だろう、もし西軍が船で攻めてくるとすれば越後か駿府だろう、相模湾と江戸湾には今のところ手をだす余裕は無いだろうから、越後は暫くほおっておいても駿府の守りはしておこう」

勝と大鳥は操作員と指揮官を選んで駿府城の守りに送り込んだ。

古河では厳重に警備された砲は次々に到着して寺は改築中とされて仏像を運び込んでいると近在には話が廻っていた。

実際に関宿から本物の仏像が古河の寺院に避難して運び込まれているので怪しむものもいないようだった。

古河東光寺にはアームストロング旋回砲二門と4斤山砲十門が配置されて西軍到着の報によって移動する予定であった。

住職と檀家のうちでも有力者には大関が直接出向いて頼んだことで快く協力してくれたものだ。

下野牧には4斤野砲百二十門、4斤山砲百二十門、20センチ臼砲五十門、24ポンドアームストロング砲十門が配備されていたし、佐倉には城内外に4斤野砲三十門が置かれていた。

しかしそれは秘密で大砲の数はどこにどれだけあるか大鳥と参謀に福田以外把握していなかった。

大鳥は福田の大砲部隊に機動力を持たせるための最大限の努力を惜しまなかった。

「アームストロングが二十門しか来ていなかったのが残念だな」

福田はそういうが大鳥に「長崎に来ているかもしれませんが、こうなると船が遅れてあちらさんの手に渡ってないことを祈りたいですな」

「それもそうだ、しかしア−ムストロングが時代遅れになりそうだという榎本さんの話には驚きましたな」

このころにはクルップ砲が最新式となりアームストロング社でも新しい様式に変更を行っていたのだ。

 

4月4日 越後

北越六藩は同盟を結ぶが長岡藩は中立をたてに同盟を拒否した。
北越には、高田15万石、新発田10万石、長岡7万4千石、村上5万1千石、村松3万石、与板2万石、三根山1万5千石、三日市1万石、黒川1万石、糸魚川1万石、椎谷1万石の11藩があり柏崎、小千谷には桑名の飛領があった。

柏崎、小千谷は長岡の西南にあたり、西軍との戦いはここから始まると予想されていた。

桑名藩飛び地といっても五万石程度の領域でありこの当時は幕府からの預かり分もあり実高10万石を得ていた。

此処には次々に会津から兵が送り込まれて共同歩調を取って陣地の構築が進んでいた。

 

4月15日 八王子

ようやく陣容も整い、装備も糧食も手当てが付いて大村は満足げだった。

補充も含めれば十二ドイム携臼砲二十七門24ポンドアームストロング砲三門4斤山砲二十門に達し佐倉攻撃に四十門を持って進軍できることになった。

参謀会議でも自分が主張した川越に出て越谷から一気に佐倉を目指して進軍するという案が大総督宮の裁可が降りて、伊地知や板垣が立案した敵の手に乗ると見せて一気に江戸を通過して成田道を突き進んで佐倉をつくという案を取らずに、損耗を少なくして流山付近から下野牧にある敵の本営を叩くと見せて佐倉の家達を捉えるといういかにも絵に書いたような案が採用されたのだった。

このときにはミニエー銃隊(鳥羽ミニエー・エンフィールド銃隊も含む)六千、スナイドル銃隊七千、スペンサー銃隊三千の一万六千に及ぶ銃隊で大砲部隊も含めれば総勢二万五百にも及んでいた。

これだけの軍勢をそろえて負けるはずもないと大村は自信満々だった。

長州虎の子のスペンサーはすべて此処大村の本営に配属されて大総督宮を守るための配備とされた。

「板垣参謀はご不満のようだから甲府に陣を張って後続の憂いのないように守ってくれたまえ、薩摩と土佐の予備軍が到着次第江戸を脅かすように八王子に出てきたまえ。伊地知君は関宿の賊軍の押さえに野田に陣営を築いて左翼を守ってくれ。岩倉卿と有栖川宮様は本営と共に佐倉をついて陥落させる。大砲部隊も伊地知君に10門、右翼の海江田君に10門、本営に20門を持って進軍する」

「そうしますと上州に入った北陸道軍と中山道部隊はどこに配備しましょうかな」  

海江田は此処まで来れば目をつぶって敵に当たる覚悟で作戦の出来不出来にとらわれず自分の力を全て出す事だけを考えていた。

「もちろん先鋒として佐倉攻撃に出てもらうさ、伊地知君のほうは三千名のミニエー部隊エンフィールド部隊スナイドル部隊で構成されているから時代遅れの関宿藩や宇都宮藩の寄せ集めにはもったいない話さ。海江田参謀のほうは同じく三千の兵で下野牧の賊軍を押さえてもらう、伝習隊のシャスポー銃だが雨のときはあまり役立たないしこちらの斥候の話では銃弾が残り少ないらしい。フランスから買うにも金がなくて買うことも出来ないらしいぞ」

大村派と思われる長州系のものは大口を開いて豪快に笑い続けた。

上方では薩摩の大山と長州の伊藤が横浜でSnider Riffleやボクサー式銃弾が大量に取引されていると上申しても新政府で取り上げて真剣に話を聞いてくれるものがいなかったのだ。

長崎神戸でジャーディマジソンもウォルシュホールもそしてグラバーまでもがSniderはともかくボクサー式銃弾の完全なる供給は今すぐにはつかないとにべも無く言う始末に手を焼いていた。

其処に付け込んでミニエーなら大量にありますとエンフィールドなら上等でスプリングフィールドにオランダ製のミニエーや各国色とりどりの銃を買わされる藩が続出した。

不思議なことにスナイダー部隊のある三田藩に出撃命令は出ず街道警備と言う名目で芦屋から神戸付近の警備をさせられていた。

彼らも寅吉の手でWinchester Rifleが大量に横浜に入ったことまでは把握できなかった。

気づいているのは伊藤や海援隊に大山くらいのものだが「そんな殺傷能力の低い銃等役に立たない」というお偉方が多かった。

「本営が川越に出て、我々土佐藩兵が甲府に下がれば賊軍は橋本から八王子に出てくるでしょう、本営の後ろから攻撃されませんか」

「なにを言うか、今まで攻撃も出来ずに橋本でうろちょろしているのがいい証拠で、力などありゃせんよ。こちらを追撃するのは川越を出て松戸に向かうころにまた動き出すだろう。その頃には薩摩のスペンサー部隊とスナイドル部隊が三千名甲府に到着するだろうから一緒に挟み撃ちにすれば良いさ」

横浜から出てきた防衛軍が装備していたWinchester Rifleを大村は甘く見ていたのだ。

「上席参謀、実はこんな話を軍監の豊永貫一郎から聞いたのですが、小栗上野が帰農すると言って権田村に戻るときに徳川の再起の軍資金を荷車三台分持ち込んだそうです」

「なんだと、そんなことが許されるものか高崎藩に命じて取り押さえて軍資金を没収してしまえ」

乱暴な話だが小栗の事は勝以上に危険人物と目されておりこの際捕える事こそ肝要と参謀部の意見は一致した。

 

4月22日 高崎 

東山道軍軍監の原保太郎は高崎、吉井、安中三藩に命じて小栗に反逆の疑いあり急ぎ謀反人として捕縛せよと命令を発した。

乗り気でない高崎藩はようやく10日後の閏4月1日になって三藩の使者が権田村に入り小栗に会い濡れ衣であることが判明報告したが、三藩共謀で小栗をかばうなら同罪であると言われやむなく5日になって原、豊永に率いられた三藩の兵は東善寺を取り囲み小栗を捕縛した。

そして究明も其処々に翌閏4月6日烏川の河原で斬首されてしまったが、徳川再起の軍資金など跡形もなかった。

 


1868年5月22日 金曜日
 
 慶応4年閏4月1日 江戸


小栗からの返書がようやく勝のもとに着いた。

帰農してこれからの日本に役立つ人間を育てると書かれていた。

「困ったな、このままでは西軍に殺されかねない、勝さん何とかならんか」

大久保は本心から心配していた。

「さようでんす。私もあの人のことが心配で何度も手紙を送ってやっと届いた返事がこれではどのようにしたらよいものか、今上州に出兵してはこれまでのことが水の泡となりかねませんし困ったことです」

二人とも何とか小栗が今のうちに江戸に出てくれる気になる事を望んでいた。

この日まで勝と大久保は苦労に苦労を重ねてきたし、幕府歩兵のうち脱走などによる人員の減り具合は思ったより少なく給与の出ない歩兵でもよいと各地に分散してあった者を調べると、残ったのは八千八百名の歩兵の内六千名にのぼった。

それに伝習隊を含む諸隊と関東の各藩の藩士、各地の脱藩有志でほぼ二万の兵が関東各地に分散されていた。

関宿軍としてはほぼ六千の銃隊があり横浜防衛軍の総力は、この時点で約四千三百の銃隊、下野牧本営は五千の銃隊それに付属して大砲部隊がおよそ三百の大砲と共にあった。

佐倉は思いのほか少ない人数で守っていたが誰もそれを不安には感じないほど各地の連絡はうまく機能していた。

必ずや下野牧を襲うと見せて佐倉に進軍する兵を下野牧での決戦に誘いこめるかがこの戦の勝敗にかかっていた。

横浜防衛軍を密かに木更津に揚げられるかは、その日の天候いかんでは失敗しかねないと不安もあったが「その天気も味方しないでこの戦に勝ち目は無い」と榎本も大鳥もそれほど天気にまで気を配って余分な心配をするなと参謀に言うのだった。

勝と大久保は広島に幽閉されたといわれる朝彦(ともよし)親王の奪還を密かに図っていた。

芸州の辻将曹は三条、岩倉と大久保の暴走を恐れていた、後藤は藩侯親子の心情は理解していたが大久保に引き摺られる様に自分の意見を殺していた。

其処に目をつけて宮がどこに幽閉されたかを調べていたのだ。

そのためにも大久保を排除して薩摩土佐連合を実現して大洲もしくは高知に朝彦親王をお移しして戦乱が収まった暁には京に凱旋していただく手立てを考えていた。

 

閏4月1日 白石

やっと根回しも効いてきたのか仙台が動いて列藩会議が開かれて、会津藩赦免の嘆願書を奥羽鎮撫総督に提出した。

しかし下参謀の世良はそれを一蹴した。

九条は徳川にも会津の容保、桑名の定敬に対しても寛典を持って望みたいと意見を言っても年若い軍監たちはそれを取り上げる事はなかった。

九条は勝の出した声明も読んでいてそれに共感を覚える毎日だった。

 

閏4月2日 仙台

会津、庄内討伐に借り出されていた奥羽列藩は同盟を結んで九条を軟禁して世良を誅殺した。

 

閏4月5日 白石

新たに加わった十一藩も含めて二十五藩による同盟がスタートした。

白石列藩会議から参加した一四藩は、仙台藩、米沢藩、二本松藩、湯長谷藩、

棚倉藩、亀田藩、相馬中村藩、山形藩、福島藩、上山藩、一関藩、矢島藩、盛岡藩、三春藩であった。

新たに奥羽同盟に参加した十一藩は久保田藩(秋田藩)、弘前藩、守山藩、新庄藩、八戸藩、平藩、松前藩、本荘藩、泉藩、下手渡藩、天童藩だった。

奥羽越列藩同盟に参加した北越六藩は、長岡藩、新発田藩、村上藩、村松藩、

三根山藩、黒川藩でそれと桑名が加わって七藩が攻守同盟を結んだ。

装備が古い藩の中でこれらに会津と庄内が加わり三十四藩による攻守同盟が結ばれた。

大鳥と榎本は勝と大久保の裁可を受けてミニエーをすべて薬包と共に仙台に届けて装備の充実を促す事にした。

このころには軍事が勝、民政が大久保と完全に其の職割が分担されていてその下に松平勘太郎、榎本武揚、大鳥圭介が其の職についていた。

矢田堀と白戸は大久保の参謀として城中で各参戦本部との連絡を取り仕切っていた。

 

閏4月7日 仙台

仙台への使いはその威容と装備を東北諸藩に見せるため榎本に甲鉄と開陽が選ばれて寒風澤に向かった。

甲鉄が運んできた改造エンフィールド(スナイドル)銃の内から五千挺がボクサー式銃弾百三十万発と共に届けられ関東に送られる兵と長岡に送られる兵の装備とされた。

総督には伊達慶邦、副総督に上杉斉憲が選ばれて総指揮官は佐川勘兵衛、北陸防衛軍は此処にいたって河合継之助が指揮官、東北道防衛軍には指揮官山川大蔵、そして下野牧防衛軍の応援には星恂太郎が指揮官に選ばれて額兵隊の八百とその他の藩兵二千の合計二千八百を率いて出発した。

山川はすでに関宿に出ていたのでその応援には上杉茂憲が率いる千五百名が選ばれて出発していった。

この日長岡には庄内からスペンサー部隊五百名が到着していた。

官軍として仙台に入り庄内に向かっていた奥羽鎮撫隊は長州藩桂太郎率いる七百名が孤立していたが九条卿救出に仙台に向かうも、防御が硬く救援を求めて南下して大村と共に仙台を攻めるために白河へ向かった。

 

閏4月10日 川越

松井康英(康直)は老中を免職後川越で謹慎していたが、勝の呼びかけには応えず官軍に恭順していた。

予め大久保がそれを予測して忍に行かせた歩兵を、さらに関宿に送って置いてよかったと改めて思うのだった。

西軍の本営は此処に移し装備と糧食の確認をして城を松井の家臣と忍の応援兵に任せて進発していった。

岩槻から越谷まで続くこの軍勢は兵にとって不思議なくらい攻撃される事がなく本隊は越谷に入りここですべての兵が休養に入った。

ミニエー銃隊(鳥羽ミニエー・エンフィールド銃隊も含む)六千以上、スナイドル銃隊七千以上、スペンサー銃隊三千の一万六千以上に及ぶ銃隊で大砲部隊も含めれば総勢二万二千八百に膨れていた。

大砲部隊 

関宿攻略軍  山砲10門

左翼伊地知隊 山砲10門

右翼海江田隊 十二ドイム携臼砲10門

本営先鋒 20門(アームストロング三門 十二ドイム携臼砲十七門)

関宿攻略軍三千 (諸藩混成部隊銃器員数不明)

伊地知隊 三千 (鳥羽ミニエー二千挺 スナイドル千挺)

海江田隊 三千 (鳥羽ミニエー二千挺 スナイドル千挺)

本隊 先鋒三千 (鳥羽ミニエー千挺 スナイドル千挺 スペンサー千挺)

本営   八千 (鳥羽ミニエー三千挺 スナイドル三千挺 スペンサー二千挺) 

後衛  千五百 (鳥羽ミニエー五百挺 スナイドル千挺)

輜重隊警備隊   八百(鳥羽ミニエー五百挺 スナイドル三百挺)

糧食・補給隊 三千五百(各隊に分散付属)

これらで越谷は溢れかえっていた。

「江戸はもぬけの空で勝も下野牧に入ったそうだ。海江田君の後押しで本営も下野牧を席巻して共に佐倉を踏み潰した勢いでそのまま仙台に向かい会津庄内と一気に平定しよう」

「上席参謀の意見はごもっともですが此処まで来て作戦の変更は兵の指揮にもかかわります。前に取り決めたように本営は先鋒に続き佐倉を攻撃してください。下野牧はこの海江田が鎮圧いたします」

「いやこれは大総督宮の思し召しでもある。まず勝を葬ることこそ肝要である」

またもや大総督宮を押し出し、ごり押しの作戦を押し付ける大村に海江田も伊地知も、もはや無駄と何も言わなかった。

「流山進軍は明日11日十字、伊地知君は分離して関宿攻略軍と連絡の上随時攻撃開始のこと。我々は下野牧を迂回して成田街道から佐倉に入る道をとり、海江田君の戦闘が始まる14日明け方ころを見計らって先鋒と別れ下野牧の勝の逃げ道をふさいで一気に押しつぶす」

またも威勢のいい戦略論を次々に持ち出して大村の一人舞台は続いた。

 

閏4月12日 関宿

幕府工兵隊の黒鍬の縄張りで関宿は近代要塞に変わりつつあった。

城の西には空堀がうがたれており守備側は緩やかな坂になっていた。

土方は最初それを見たとき大関に「角度が反対じゃないのですか」と思わず聞いてしまった。

「これで良いんだよ、向こうからこの空堀に飛び込んでも此方から撃ち下ろす角度に合わせてあの坂は傾いているのさ。体を隠すことなど出来ないようになっているのさ。後戻りが出来にくいように高さも六尺にしたし、角度も滑り降りやすくして、登りにくい角度にしたのだよ」

そのくらいなら飛び込んで来易いだろうと黒鍬の安治溜の勧めで長さ二百間にわたり掘られていた。

この工事は城下の町民、近在の農夫も出てわずか一月で完成して掘った後から出た砂利で塹壕代わりの土手を銃撃用に30箇所も築くことができた。

これは騎馬隊が通る隙間が開いていて、しかも敵が侵入するときは間が狭く大量の兵が一時に侵入するのを防ぎやすく配置された。

野田側の南は一面河原に沿って野原が続きおよそ二里先までが見通せた、間に関宿通多功道が南北に走り城の手前で直角に曲がり利根川方向に向かっていた。

まるで誘い込むのが目的で作られたように見え敵味方とも「無防備だな」と思ってくれるのが目的だった。

何も工夫が無いこの一帯を大関は銃器の能力差で決まる決戦場と位置づけていた。

北は川が合流していてそちらの備えは利根川上流の栗橋城に宇都宮など野州の大名諸藩からの軍千三百名が守っていた。

大関は此処にスナイドル三百挺とエンフィールド三百挺を届けていた。

「おそらく此方は高崎などの兵が来るでしょうからあちらから攻撃をするまで撃たないでください。同じ徳川恩顧の大名ですから西軍が退却すれば戦わずして兵を引くでしょう」

大関は若い山川を大隊長に任命して上杉茂憲には副隊長として応援部隊を引き続き統率させた。

会津からの援兵の五百のM1866 Carbine部隊と新たに来た奥羽連盟の千五百人に第一大隊と名づけ東側の町外れでの陣を受け持たせた。

応援隊はミニエー銃が多く送られた改造エンフィールドは五百挺しか来ていなかった。各種とりどりの者が多かったが大関はあえてその隊にはSnider Short Rifle二百挺以外は自前のもので戦うように配布すべき銃を与えなかった。

山川には作戦として光岳寺付近に陣を取らせそのほかは街道を境町方向から来る兵に備えよと命じることで橋を守らせ動かすつもりは無いと山川だけに伝えておいた。

山川の部隊は会津藩の朱雀隊からWinchesterの取り扱いを習っていた18歳から24歳までの五百人と共に此処に出ていた。

会津では昨年のうちに白虎隊と称する少年兵が朱雀隊の年若い者と共に宿舎を与えられて主にWinchesterを習い、娘子隊はSpenserでの演習をBobDickから教わっていたのだ。

城下町は特別な建物(兵舎に使用)を残して川向こうの境町に移されていた、驚くほどすばやくその移築は行われ、まるで古くからそこに城下町が存在したかのように暮らしも仕事も変わることが無かった。

野州はおろか武蔵江戸からも多くの大工が雇われて働いた。

この金は野田の商人が先に立って献金して行われ、近在の大地主もそれに協力していた。

その跡地と古利根川(江戸川)の河原にはれんげに混じり菜の花が咲き出していた。

城から見ると兵舎、神社、寺が点在しているだけの城下であった。

街道沿いの西の川向こうにある関所はすべての人員を引き上げさせて川の此方は大砲の射程においてそれを盾として西の宿場は戦場としないようにした。

後々のことも考えて橋は壊さないことを考えていたのだ。

高瀬舟にも利根川沿いに避難するか江戸方面に下るように指示を出してあった。

連絡員の情報で伊地知が流山へ進発した事は11日の昼には入っていた。

「野田で陣を張るだろうからあさってだな」と大関は土方と参謀たちに話して大鳥の立てた作戦が当たることを祈った。

「あの草原に敵兵が突入したらまず砲兵が弾を撃ち込んで足を止めます。一輌の砲車が二発ずつ二段に撃ちますから四回の砲音が響いたら突撃隊が前進してください。前を騎馬隊が走りますから追い抜かないように走ってください」

これには聞いていた兵も士官も笑い出してしまうのだった。

「いくら会津の者の足が速くとも馬には勝てません」

山川はそういって豪快に笑った。

鎧兜のものなど一人もいない関宿軍は陣笠も竹に渋紙製でそれに白いペンキで塗り込んだだけの軽いもので出来ていた。

さすがにだん袋は黒しかなく背に白い生地にまさかの時のために姓名と出身藩を書いて縫い付けてあった。

そこに赤線一本が引かれたのは小隊を指揮する伍長、士官は肩口に白の布を貼って印としていた。

これは佐倉も下野牧も横浜も同じ体裁で整えていた。

西軍は錦切れといわれて錦の御旗に因んだ布を目印にしていた。

第二大隊は古谷が指揮をして西の塹壕を見下ろす場所に陣を張った。

一大隊二千名で構成され三大隊が城の前面に配置されていた。

木村正右衛門や丹羽十郎右衛門は16歳の藩主の久世広文を守り、城中で補給部隊としての役割を受け持ち、10代20代の若い藩士は大関の元に預けられSpenserWinchesterの取り扱いを学んでいた。

そしてこの戦いに勝と寅吉が送り込んだM1866 Turkish infantryこそ下野牧の平岡が指揮する三番町大隊の五百挺を凌駕する千二百挺の部隊で大関の第三大隊の奥に配備秘蔵されていた。

押し込まれたとき押し込んだときどちらになってもそれまで出さずに置く秘蔵部隊だった。

大久保忠誠は人望も厚く此処では松平ではなく大久保と忍藩に遠慮して登録していたが、兵360名を指揮する中隊長の一人となっていた。

指揮は豊島で訓練を重ねた武田斐三郎が取り伝習隊の内藤隼太が大鳥の指図で参加していた。

本営に一小隊百二十名があり、そのほかの陣容は三小隊で一中隊が構成されていた。

一小隊120名の隊には士官と伍長四名が配属されて五分隊に分かれそれぞれ二十二名の兵と伝令一名がいた。

士官の隊が中心で左右にそれぞれ二分隊ついた三角形で前進して十二名が銃撃その間に十二名が弾込めをするということを諄ほど武田と内藤が教え込んでいた。

単発銃と同じ二列火線での攻撃を教わり、その後は乱戦になれば随時個人攻撃に切り替えてよいとも指導されていた。

敵味方双方の疲労が重なったときに出る新手として千二百名の連発銃隊は威力を増すことだろうと参謀は誰もがそう信じていた。

第三大隊は大関が率いて城の南前面多功道沿いに陣を敷いて取り壊した宿場町の正面から来る伊地知隊を待ち受けていた。

此処にはM1866 CarbineSpenserで装備された大関子飼いの兵と上州武蔵の各藩からの脱藩者で構成されていたし騎馬隊もここから出ることになっていた。

城外には砲兵隊四百三十名、騎馬隊二百名、騎馬伝令八十名を加えるとおよそ八千八百名の兵士、補給員、救護員が幅五丁長さ六十丁にわたり半円を描くように配備されたのだ。

「必ず伊地知は正面突破を仕掛けてくる。最初の大砲では相手は突き進んでくるだろから騎馬隊で中を割って左側面から連発銃の部隊を突っ込ませるしかない。向こうはまだ元込めと先込めで銃の発射速度から言えばWinchesterSpenserの壱挺で相手の五挺に匹敵する、敵左翼側には塹壕まで誘導するように出来るだけ攻撃をせずに進ませることだ」

正確に道までを書き込んだ畳二枚ほどの図面を板に張り出して参謀と作戦の確認を行って大関は松本に会いに橋を渡り病院を訪ねた。

「いよいよ始まりそうです」

「分かった重傷者は船で江戸に送る手はずもついたし、ウィリスも横浜と連絡を取って向こうでシモンズ先生たちも協力してくれるそうだ」

其の後寅吉やガンキにも会って細かい打ち合わせをして城に戻った。

山川隊の五百挺のM1866 Carbineと騎馬隊二百騎の持つ四百挺のM1866 Carbine、歩兵部隊のYellow Boy三百挺、Spenser Repeating Riffle百五十挺が大関の自慢で有った。

Snider Short Rifle隊は土方隊の二百挺に加えて各大隊に二百挺が配備されて合計八百挺切り込み隊がそれを所持していた。

この部隊はShort Rifleの弾込めが間に合わないときは刀での切り込みに切り替えて戦う腕自慢の兵ばかりで構成されていた。

スナイドル銃の銃剣が着いたinfantry部隊は主に各藩から集まった兵に配備されて隊列を組んで突撃することを訓練されていた。

騎馬隊のCarbineの入る下げ筒は長吏の手により作られて馬の鞍の両脇に下げるように工夫されていた。

皮製のその袋は寅吉が権伝に頼んで横浜で牛の皮をなめして作らせた。

騎馬隊は八連発が二挺持てるのでこの下げ筒が気に入って訓練も面白いと交互に出したり入れたりの速さを競って楽しんで居た。

中でも橋田新之亟と言う士官は自分で壱挺のM1866 Carbineを手にいれていて背にも壱挺背負う許可を取って三挺のライフルを持って訓練をしていた。

地図で確認した道筋を毎日走りどこで銃を取り替えてどのように撃つかも交互に利点と欠点を話して切磋琢磨していた。

寅吉は下野牧ではなくこちらに来てからガンキと共に船の用意をして利根川の対岸の河川敷を本部として連絡員を指図していた。

そして此処の土手の向こう側には臨時の病院を設置して松本良順にイギリス人のウィリスが来て居た。

近在のものが怪我をして運び込まれたり重病人が運び込まれたりと戦が始まる前から大騒ぎの有様だった。

「俺たちは本道ではなくて外科医だから切り刻むがそれでも良いか」

いくらそう脅しても遠くから来る「ここなら何とかしてくれる」という患者を追い返すことも出来ず、近在の百姓家や寺の本堂までもがただならぬ病室と変じていた。

寅吉は3月から4月にかけて此処と横浜、下野牧と廻り歩き物資の調達に忙しかった。

横浜からは此処にパンや乾パンジャムなどが毎日運びこまれ、それに付属するようにさまざまな医療品が送り込まれてきた。

十名の医者では手が足りずさらに十名が和泉橋から応援に駆けつけてきた。

脚気と思われるものには食パンを砂糖水に付けて皮(耳)の部分まで食べさせ、乾パンを与え食事に麦又は饂飩、納豆を交互に必ず食べるように指導して帰した。

脚気にかかるのは金持ちくらいなので診察料は多めに取り軍資金にしたのは言うまでも無く、貧乏人からは取らないのを良いことに継ぎはぎのある着物にやつしてくるものまであった。

家茂公のこともあり家達公には食事にも気を付けさせ大久保と勝から必ず食べさせるものの一覧表が確堂、慶頼に渡されて居た。

兵の食事も大鳥、榎本、大関、太田がそれぞれ糧食の配給にまで気を置いて病人が出ない様に松本の指導を守っていた。

 

閏4月12日 甲府

大村は関宿の六千の兵力と橋本から後をつけてきている三千ほどの兵を手出しも出来ない腰抜けと決め付けていて甲府から板垣が新式銃の薩摩、土佐、佐賀の兵と出てくれば物の数では無いと思っていた。

板垣はそのころ三人の訪問者と豊信公と後藤の密書を携えた陸奥の訪問を受けていた。

陸奥は新政府からの出仕要請を受けていたが、病気治療と称して温泉を巡ると称し信州を抜けて甲府に来ていた、同行者は元海援隊の新宮と白峰がついてきた。

三人の訪問者とは横浜に潜んでいたはずの益満と金輪に海援隊の菅野覚兵衛だった。

菅野はイギリス船に潜み横浜と江戸の様子を探りに行く途中だった船中で益満たちと会い、横浜に上陸後に寅吉と会って相談の上で甲府に長吏の者の手引きで板垣に会いに来ていた。

双方の話を付き合わせると板垣は激怒した「こうなれば大村の軍を追撃して戦で方をつけてやる」

「だめだよ板垣参謀、殿様の手紙にもあるように事は隠密を要している。有栖川宮を奉戴して京を制圧して天子の下に国家の統一を図る、そのためにはいまは自重してください」

その話も済まぬ内に伝令が来て「間も無く土佐と薩摩の応援軍が到着いたします」と告げた。

「いまの話もう一度してくれんか、薩摩からは大山弥助さんが指揮するスペンサー部隊二千とスナイドル部隊二千が来るそうだ、最初の予定より増えたという事は大久保さんも事態を重く受け止めているようだ。これが到着したら一気に八王子橋本の賊軍を押しつぶして、江戸を制圧する予定だったが進軍は取りやめだ」

西郷先生、坂本先生の謀殺指令は岩倉、三条両卿の指図で伊東が動いたということの証拠をつかんでいた益満は寅吉にだけそれを告げて金輪にも話していなかったが、ここに来て板垣と大山に陸奥の三人となったときに漸くと話を始めた。

信用しないわけではなくあまりにも重大なことなのでその証拠となる一部始終は横浜で寅吉に話し、証拠の物件も寅吉に預けてイギリス公使館に保管してもらったことを告げた。

「おいは益満さぁのこっぉ信じもす。西郷さぁをやったのが大久保さぁと言うのは信じがたかちゅうこつじぁんどん、岩倉、三条のお二人の最近やい方になわが父も憤いを覚ゆっともらしておいもす。藩侯親子に対して大久保先生の最近の態度も我慢できもさぁと言う御仁もずんばい現れておいもす」

大山と板垣はこのまま様子を見て大総督宮の身柄をこちらに取り込んでその上で納得していただいて京に進軍しようと考えを変えていた。

「まず大村の作戦がうまくいっているならそれからでも良いが、勝の手の内で踊らされている気がすると海江田さんが言っていた言葉が気になる」

「板垣君どうだろう。この際勝と手を組んで天子のために共に新しい世を作るということを考えてみないか」

「一度は賊と呼んだ徳川とですか」

「長州だって、先の天子の時には賊軍とされていたじゃないか、天子ご一人にすべての責任を任せる事は今でも無理だろう。勝が檄文で言う政治局上下の政権は我々が目指す政権と同じことでは無いか。徳川の政治がいけなかったようにこのままでは公家が徳川と交代するのを助けるだけで天子を利用しようと言う無能の公家の世の中を作る手助けなど俺は賛成できない」

大山の言葉に板垣も納得するのだった。

勤皇とは何かを考え出した証拠かもしれない、公家を敬うことが勤皇と考えるものもいたこの時代に、天子を利用して自分の優位な立場を作ろうともくろむ公家の多いことに嫌気がさしていることも事実だった。

「それはそうだ、五箇条のご誓文に言われた言葉と三条、岩倉両卿を筆頭にあの若造の西園寺のように飽くまで徳川を潰してしまえ等、あんまりも世間知らずの公家に踊らされるのはいやになったよ」

「どうだろう休さんお前さん勝にこのことを伝える使者に出かけてくれんか」

「それは良いですが、大総督宮のお身柄を大村から取り上げる算段はつきますか」

「それが難題さ。いまの兵だけでは大村の本営を撃破するのはちと難しい」

先ほどの威勢は少し理性が戻り兵力の分析に頭が向いたようだ。

「やはり海江田さんにこの話を持っていくべきだろうな。俺ではそれだけの人間を動かす力がない」

大山も海江田や伊地知のような人間がこちらについてくれれば藩侯も味方してくださるはずと考えていた。

「やはり土佐と薩摩だけでなく毛利公にも納得していただき公家に頼らぬ新しい国家を天子の下に作るべきです」

陸奥もそう力説した。

「しかし勝は藩を潰すかも知れんぞ」

「それでも国を挙げて公家にかき回されるよりましでしょう。藩侯には生活が出来る石高を残して頂、藩士は国のために働くことにすれば俸給も出るでしょう」

「そうか仕事が出来ないのに高禄を取る者から排除すれば少しはよい世の中が来るかもしれないな」

すでに新しい国が目の前のあるかのごとく話は未来へ羽ばたいていくのだった。

 


閏4月13日 流山

本隊から分離した伊地知の隊三千は幸手に入ってきた北陸道隊の一部と上州各藩の兵士に向けて伝令を放ち、流山から進発して古利根川(江戸川)と利根川に挟まれた野田の町に入り関宿を目指していた。

本隊は柏で二手に別れ海江田は小金牧の中を木下街道の手前初富から馬込という場所まで索敵を繰り返しながら南へ進んでいた。

本隊は佐倉を目指して街道を進んで木下(きおろし)街道を横切り、後二里で成田街道に出るというところで先鋒隊と分かれて下野牧の賊軍の脇を突くために本隊の八千名にのぼる銃で装備された部隊は島田台に入って帯陣した。

有栖川宮を守る後衛千五百と輜重隊警備の八百が糧食弾薬と共に残ることになり斥候に出した兵が土地の者を探して連れてきた。

土地の者に聞くと此処は木戸場と言う場所。

高台の東福寺に宮を守る兵と共に東海道鎮撫総督橋本実梁、副総督柳原前光、

東山道総督岩倉倶定、軍監林玖十郎(宇和島)が陣を引いた。

勝の本陣は成田街道の実籾村に置かれたと話す男に道案内を頼むと「おらは年寄りだて息子で良いかね」それを疑いもせず本営参謀の野村は案内を頼む息子に「わき道から賊軍の本営に出る道を案内できるなら褒賞をとらす」と言う約束で雇ってきた。

西軍は気がつかなかったがその息子が付近の見取り図で示した道は、林の守る高根木戸に入る道だった。

出発は明14日6時と各隊に伝令が飛んだ。

 

閏4月13日13時 下野牧

勝と大鳥は参謀たちと天気のことを話しながらテントの外でビスケットにラスクを出して紅茶を甘くしてそこにブランデーを垂らして飲んでいた。
ラスクは横浜から持ってきたパンの固くなったのを調理人が油で揚げたものに砂糖をまぶした物だ。
「どうやら敵さんはこちらの策に乗ってくれたようだ。此処に来るのに成田街道から直接こられると厄介だと思ったがうまく伏せておいた者のうちから道案内を雇ってくれたようだ」
「ハイそれと隠し部隊ですが本営が下野牧攻撃に向かうまで我孫子の兵は気取られぬように厳重に管理させています」
「愕くぜ、あそこに仙台始め奥羽の兵が潜んでいて藤沢さんが指揮を取っているなど知られていないのが不思議なくらいだ」
「あの星と言う赤い洋服の隊長は中々の者のようです」
「横浜でヴァンリードから銃器の取り扱いを習って、兵学を習ってきたというだけ有ってよくわかっているようだ、あいつの指揮する八百の若い兵は使いようによってはこの戦の勝敗も左右できる働きをしてくれるよ」

佐倉に向かうのは三千名の先鋒隊で下野牧に一万の大軍が二方向から押し寄せることまで筒抜けになっていることなど、大村はもとより西軍は知る由もなかった。
表向き徳川連合軍の下野牧決戦の兵力は関宿軍六千、横浜防衛軍四千、下野牧本営五千と大砲部隊三百と発表されていた。
この三百には裏があり三百人ではなく三百門の砲が下野牧一帯に散開していて福田の号令ひとつで予め決められた地点での砲撃をして勝の本営近くまで下がり防衛ラインを築くことになっていた。
砲と砲弾に装薬ごと移動するのではなく決められた場所においてあり、砲手が其処に移動してくるのだから移動はすばやく行く事が出来、黒鍬や工兵が後から空の大砲を動かして移動するのだ。

もし大村の本営が成田街道から勝と大鳥の本部をつくようなら反対に後ろに回りこむ予定だったが簡単に罠に入ってきてくれた。

勝の本営は実際に実籾村に置かれていた、此処には大鳥直属の千三百の兵と騎馬伝令隊がつめて各部隊に馬での伝令が30分おきに出ていた。
これは何もなくとも今日からは昼夜を問わず出て連絡のつかないときは異変があったことがすぐにわかる仕組みに成っていた。
成田街道は5日前から完全封鎖されていたし、その10日前から街道沿いの各宿場には閏4月に入ったら街道は封鎖されるから通行は出来なくなると触れが廻っていた。

西軍の斥候、隠密にこの付近に勝の陣営があるということを知らせるためでもあった。
野馬よけの土手はそのまま塹壕に見立ててエンフィールド銃隊が各所に配置されていた。
13発連射のM1866 Turkish infantryは下野牧には三番町大隊に五百挺装備されていて突撃に活躍させる予定であった。
大村が越谷に入ったとの情報で続々と部隊が下野牧へ移動してきていた。
補給部隊は各隊に食料弾薬の補充にと忙しく動いていた。
ついこの間五千と発表した下野牧軍は一万三千名ほどの部隊へと変身していたのだ。
騎馬によるWinchester M1866 CarbineYellow Boyの部隊はついに各地での訓練を終えて此処に四百頭の騎馬隊が一隊三十六人編成で十隊、指揮官太田の下にも四十頭の斥候伝令兵を含めて組織されていた。
太田の元には同じWinchesterでも佐々木が指揮するM1866 Carbine部隊の歩兵のうち八十名も此処に来ていた。

このときの陣地配列は次のようになっていた。

横浜防衛軍を松平太郎に任せて林がいち早く此処に来ていて先鋒に出ていた。


前面  指揮官 林昌之助 (本営高根木戸) 

スナイドル銃部隊千八百名白井木戸の南に散開( 本田幸七郎 )

スナイドル銃部隊千二百名勢子土手沿いに散開( 秋月登之助 )

本隊     M1866 Carbine銃部隊三百名( 林昌之助 ) 

騎馬斥候伝令部隊 スペンサー銃装備二百名( 林昌之助 )

  

中段  指揮官 太田資美 (本営夏見木戸)

M1866 Turkish infantry突撃部隊 五百名 ( 平岡芋作 )

騎馬突撃隊 Yellow Boy部隊 二百五十二名 ( 太田資美 ) 

騎馬突撃隊M1866 Carbine部隊   百八名 ( 太田資美 )

Yellow Boy突撃部隊    五百名  ( 太田資美 )

M1866 Carbine歩兵部隊   八十名  ( 佐々木孝右衛門 ) 

騎馬斥候伝令隊Yellow Boy装備四十名 ( 太田資美 )

大砲三百輌に砲兵    千五百名   ( 福田八郎右衛門 )

 

本営  指揮官 大鳥圭介

Chassepot銃隊     千三百名  ( 大鳥圭介 )

騎馬伝令隊スペンサー銃装備三百名  ( 大鳥圭介 )

軍事総裁 勝麟太郎 総指揮官 大鳥圭介

情報操作 長吏弾左衛門 

 

後衛  指揮官 大築尚志(佐倉防備隊)
    エンフィールド銃隊千六百名

    スペンサー銃隊   三百名

騎馬士官M1866 Carbine八十名

    輜重隊      二千六百名

    黒鍬隊      四百六十名

騎馬隊はすべてCarbineを二挺所持して鞍の両脇に下げていた。

そのほかに寅吉と共に長吏配下の乞胸、猿飼など多くのものが関宿、野田、松戸、柏にかけて網を張って西軍の情報を集めていた。

 

閏4月13日 16時 浦安

浦安と行徳にはすでに町田で訓練を終えた各地の脱藩兵や横浜から此処に船で来た兵が三千六百名、阿部邦之助と信太歌之助に率いられてエンフィールド銃隊とスナイドル銃隊で装備されて船橋方面に向けて進軍できる体制を整えていた。

連絡員が来て「明日には西軍の先鋒と戦闘状態に入る予定だそうです。流山付近で関宿に向かう兵が駐屯しております。海江田隊は下野牧へ向けて進軍中で今は初富を目指して進軍中で御座います。本隊は街道から佐倉に向かい途中で二手に分かれ下野牧に向かう兵と佐倉を突く兵に分かれるようで御座います」

「よく調べられたな。歌さんこの具合だと明日の午前中には戦いが始まりそうだ。こちらはそれまでお休みだ」

「次は夜に連絡が参りますが、本隊に何かお託が御座いますか」

「今のところ順調だと伝えてくれ」

「承知いたしました、すぐに補充の弾薬と2日分の糧食が届きます」

「了解した」

阿部は明日の戦いに自分の訓練した兵がどのくらい命令を守ってくれるか楽しみでもあった、如何に損耗を少なくして敵の江戸への進入路を遮断するかが役目だが進軍命令が来るかもしれないと内心考えてもいた。

 

閏4月13日 江戸

大久保一翁は千代田城にあって戦況の変化の様子を逐一報告が有り兵の采配の様子も全体を把握していた。

参謀には矢田堀と白戸がいて各隊との連絡には木下、妻木が当たり大きな地図に隊の印の駒を使って作戦の動きを見ていた。

「勝さんと大鳥さんの言うように相手が動いてきましたな」

様子を見に来た山岡に榎本も満足げにお茶をすすっていた。

城中も三月初めの落ち着かない荒れた様子から一変して節度のある緊張した様子に見えた。
いまだ何事も起きていないということに不思議な感じを覚えると共に、この分ならこちらの勝ちだと参謀達は確信していた。

相模から三河の間は家達公にお味方と宣言してくれたので安心して見ていられるし、甲府の板垣が出てこなければ江戸防備隊もやることがないという落ち着いた気持ちでいられた。

「山岡君この分だと寅吉が益満たちを甲府に送ったことが成功したようだね」

「そのようです。あの情報は効き目があったようです。私でもあれを聞かされたときは岩倉、三条の本心を疑いましたくらいです」

豊島も千住も何も起きず応援の兵を関宿に送って置いてよかったと大久保は胸をなでおろした。

高橋と山岡の大奥改革は短時日の間に成果を現していた。

必要以上の人員を家に戻し残ったものは戦闘員としてお役に立ってもらわなければなりませんと言う山岡の言葉に最初反発を覚えていたものも「御家の一大事に着飾って食べて寝るだけの方など不必要です」の言葉が聞いたか天昌院も静観院宮も率先して戦支度を承知したのだった。

まさかだん袋ともいえず同じようなものを自分たちで古着からこしらえて歩きやすく働きやすいものに仕立てていた。

横浜で洋裁を習っている者を二人呼び寄せてもらいその指導で上下ともお掻い取りをやめていた。

身分にかかわらぬ其の姿に老女には泣き出すものもいたが「御家の大事に姿かたちにとらわれてなんとする」という静観院宮の言葉に泣く泣く従うのだった。

中山道日光街道にはまだ兵を送り出さず関宿攻撃の報が有り次第スペンサー部隊とウィンチェスター部隊を追加派遣して街道警備を強化することになっていた。

「罠に入るまでは出来るだけ此方の手の内を見せない」

囲碁将棋と同じことさと言う参謀もいて勝に「ばかぁいうな手をさらしてそんなものかと馬鹿にされてから、隠し玉をだすのは昔からの兵法で相手もそれを考えているさ、罠に入ったくらいで奥の手を見せたら負けだよ。奥の手は此方が負けそうになって初めて出すから効果があるんだぜ。関宿のウィンチェスター部隊のM1866 Turkish infantryは隠し玉であって奥の手じゃないぜ」この作戦の最後の切り札は勝と大鳥、太田、大関、榎本、大久保の六人しか知らない部隊の動かし方にあり、それはその最後の日まで出さない奥の手であり戦が終わるまで出したくないというのが本音だ。

「この通りに大村蔵六(益次郎)が動いてくれるとは考えられないかもしれませんが、長吏のものと寅吉が必ず最後にはそのように追い込んでくれるでしょう」

一月前に家達公にお目にかかったとき勝と大久保は確堂と慶頼にそのように話もし「この城が手薄に見えるようにして置いて、敵を呼び込まなくては戦が此方の思うとおりになりません」と自分の本営の場所と佐倉の位置を藤沢ともども説明して「城は堀田家の家臣団と陸軍砲兵隊が必ず守りきり、陸軍歩兵部隊が城の手前で必ず敵を撃破いたします」そう約束するのだった。

藤沢の陣の位置も説明し此処からこのように移動してこの場所で佐倉が危ないときはこの道、佐倉が持ちこたえれば此方から攻撃いたしますと自分の受け持ちを明確にした。

そして城の砲兵隊が一発も撃たないうちに片付けてご覧に入れますと勝にしては珍しく見栄を張って見せた。
内藤新宿は江戸から出る者のために道を開放していたが進入してくる西軍は影も見せなかった。
須田町でも岩吉はまんじりともせずにこの日の朝を迎えた。

勝から言われていたこの日がついに来た、板垣の隊が江戸を攻撃すればこの日か次の日だろうと言う事だったが、甲州街道には西軍の兵は一人も見えずいつもの斥候も八王子に出てこないと聞かされて何か拍子抜けをしていた。

江戸の町も落ち着きを取り戻してきていたが、行きかう兵と諸役の者は落ち着かぬげに見えた。

 

閏4月14日5時 浦安

伊庭八郎たちの遊撃隊も此処に今朝の船で着いた、横須賀で作られた小型の蒸気船三隻に分乗してきた。

丸子大隊の本隊の内大砲部隊は下野牧に入っていてスナイドル部隊は橋本で松平の元にいて、伊庭と人見の率いるM1866 Carbineの80名の兵士は昨日の朝招集がかかり夜を徹して品川に出てそこから蒸気船で送られてきたのだ。

阿部に着陣の挨拶をすると士官の一人が付いて、朝の食事の場所に案内され次に仮眠できる神社の境内へ案内した。

そこにはすでに中隊規模の兵がいて人見たちと入れ替わりに出て行った。

その士官は川田といい連絡用士官として遊撃隊と行動を共にするよう言い遣っていた。
「それで川田君、俺たちはここに何時までいるのだ」

「まだ連絡が来ておりませんが今頃関宿と下野牧では戦闘が始まったころでは無いでしょうか。ここは江戸防衛の拠点と聞いております、西軍が打ち破られたときに江戸に向けて落ちてくる兵を捕らえるのが役目だそうです。まず先頭の兵がズーフル(蘭語Rofle)で降参を促し聞き入れない兵は攻撃してよいということです。銃と刀を捨てた兵士は一時的に縄を打って捕虜となっていただくそうです、そのための腰縄のかけられる訓練も受けてきました」
「縄をかけるのはなかなか承知できないものが多いだろう」
「そのための説得も我々の役目で御座います、一時的な処置なのですまぬが受けてくだされといわざるを得ません。戦闘能力をそぐのと少ない兵で見張るための処置と聞かされていて捕虜は藩別に分けて早い機会にその国に帰す処置を取るそうです」
「帰すとまたこちらに兵として攻撃してこないか」
「その処置は大久保様がお役目だそうで御座います。遊撃隊は捕縛ではなく抗戦して武装解除しない部隊を追っていただくそうです」
「俺たちだけがその役目かい」

「いえ、千住大隊の永倉新八殿が兵三百とこの先の川沿いに配置されております。こちらは昼からのお役目と成りますので時間までお休みください」
「こらものどもよく聞け、われらは本格的な戦場に立てるぞ、後二刻此処で仮眠じゃ。眠れないなどと言う弱虫は我ャ面倒見切れん」
そうは言われても遠く砲声が聞こえ出すとなかなか眠れないものも多かった。
それは最初の海江田隊への砲撃音だったが暫く響かないと思うとまた聞こえてくるという長閑ささえ感じる伊庭であった。

閏4月14日5時30分 木下(きおろし)街道

海江田は木下街道が下に横たわる高台に陣を張り大砲の到達距離外に敵陣があると知り自ら夜明けと共に突撃を開始した。

「大砲は後からこい、号令を待たずとも目標はあの白い陣笠じゃ」

西軍は錦旗を立てて官軍と称していても目印は肩の錦糸で織られた布一枚だけだったが、相手が目立つ白い陣笠なのは勿怪の幸いだった。

海江田隊は手薄に見える敵左翼の夏見木戸を突破して大村の本隊と合流できても出来なくとも一気に勝の本営まで突き進む予定だった。

福田の大砲部隊のうち街道を最遠目標点に置いていた部隊は敵が横切ると同時に自分の受け持ち地点に正確に砲撃を開始して最前列の30輌の砲隊はすぐさま陣を敷いて次の砲撃地点まで下がり銃隊に道を明けた。

海江田の隊は砲声がやむと慎重に進みだしたが、太田の率いる騎馬隊一小隊が街道を西南から北東へ駆け抜けながらM1866 Carbineで乱射して通り過ぎた。

それを避けて進もうとするとまたも一小隊の騎馬隊が畑の小道を通り抜けて行った。

小刻みに街道を横切ることしか出来ない海江田隊は彼方此方に点在する兵になり密集隊形をとることができなかった。

固まろうとするとそれを待っていたかのように四十騎あまりの騎馬隊が左右を乱射しながら通り過ぎていくのだった。

それは太田が指揮をして道筋と走る速度まで何度も訓練した成果だった。

街道の北側に残された兵には次列五十門の大砲から距離三十丁の遠距離射撃の弾丸が降り注ぎ逃げ場を失った兵は街道を横切って突撃をかけた。

海江田隊の十二ドイム携臼砲は其処に出てきたばかりのところで砲撃を受けて炸薬に火が入り大爆発と共に粉砕された。

前に出るとまた騎馬隊がM1866 Carbineで乱射しながら通り過ぎてようやく田植え前の田に出たときには海江田の周りは三百名ほどの兵が残るのみとなっていた。

分断された兵はそれぞれの場所で思い思いに戦い、先に進んだ兵も勢子土手に伏せたM1866 Turkish infantryの一斉射撃を受けて少しも前に進めないままになぎ倒されていた。

突撃用に配備された勢子土手の兵だったが肥後藩と佐賀藩兵四百のがむしゃらな突撃に土手から出ることが出来なかったが、五百挺の13連発からは休む間もないほど弾が飛んでくるのだった。

土手の向こうに爆裂弾を打ち込むから暫くでないようにと福田から伝令が来て平岡は二段目の勢子土手まで後退させた。

ようやく土手の下にたどり着いた部隊もあったがそこに臼砲から打ち出された爆裂弾で倒れるものが続出した。

土手を乗り越えた兵も銃剣での戦闘に持ち込む前に横から軽快なYellow Boy部隊の突撃を受けて下がらざるを得なかった。

夏見木戸付近まで進んだ村田新八(二番小隊長)の兵は騎馬隊に蹴散らされて後退して行った。

大砲部隊は役目が済むと次々に後退して勝の本営近くまで下がり歩兵部隊の邪魔にならぬようにして大村の本隊の突入に備えていた。

篠原国幹(三番小隊長)の率いた隊は隙を突いて南に回り込んで進んでいたが太田がそれを察して騎馬伝令隊四十騎と共に追いついて攻撃をして退けることに成功した。

木下街道の林の部隊方面には海江田隊はついに出てこられず南側に押し出され無事なものは中山法華経寺方面に落ちていった。

「退却しろ、木下街道の後ろまで戻り員数と弾薬の確認をしよう」

海江田の決断で負傷した兵を抱えて徐々に集合しながら街道の方へ下がっていった、ほとんどの部隊は弾薬を使い切っていた。

退却する兵には追いすがっての攻撃をしないように命令が出ていたため、太田の隊は落ち口を開けて追撃はせず本営の夏見木戸付近に集合を掛けた。

この時、わずか三時間ほどの戦闘で海江田隊は半分に減ってしまった。

僅か二千に足りない太田の機動部隊と福田の大砲部隊の勝利だった。

福田の大砲部隊の主力は大村の本隊が夏目木戸方面に出るという情報で移動していてのこの成果に福田は満足していた。

林の部隊が大村の本隊の攻撃に終始対応できたのはこの日の大砲部隊のおかげで海江田隊が細かく分散されて、相手の大砲部隊が活躍できないうちに粉砕されたことであった。

武士同士の一騎打ち形式の戦いは、この日を持って姿を消さざるを得ないほどの圧倒的な東軍の守備だった。

ほとんど銃剣突撃も刀剣での格闘も役に立たない戦いに終始した。

太田は一回りした騎馬隊に牧場の南斜面に集合をかけて大村の本隊の攻撃をするために次々と移動させていた。

木下街道はYellow Boy隊のうちの三百の兵と騎馬伝令二十騎が守ることになった。

平岡のM1866 Turkish infantry部隊には成田街道から実籾の間に展開するように移動命令を出した。

 

閏4月14日6時 木戸場

先鋒の野村は勝の本営と探りを入れた実籾村に突撃をするために道案内の言うままに兵を進めていた。

遠く砲声が聞こえ打ち合わせどおりに海江田が突入して勝の注意がそちらに向いていると大村は大砲部隊の前方を馬で進みながらほくそえんでいた。

野村が千二百のスペンサー部隊を率いて歩く道は黒鍬の兵が先月幅一間に広げた谷間の道で其処を抜けて七字半に台地の中腹に出ると、其処には眼下に広がる牧場に数多くの兵が土手を塹壕代わりに潜んでいるのが丸見えだった。

「よくやった---」声を呑むのもそのはずで今の今までつい前を歩いて此処まで導いた若者の姿が消えていた。

後方には大村の本営が来ていてその脇道後方には大砲部隊がアームストロング三門と携臼砲十二門の台車を狭い山道を台地の上に出すために杉林の中を苦労して押し上げていた。

離れたところで昼花火が揚り下の陣地の様子があわただしくなった。

「しまった、気づかれたぞ。このまま突撃しろ」

野村に従ったスペンサー部隊の千二百名は一斉に乱射しながら崖を駆け下って行った。

後方はなれた処から花火が上がると同時にヒュルュユルと頭上を砲弾が通過した、大砲の轟音がとどろき一瞬身を竦めた野村たちだったが上を通過する砲弾を見上げて「馬鹿なやつだ見当違いを撃っていやがる」その声と笑いが起きるまもなく、後方からズズンと言う地響きと鼓膜が破れんばかりの轟音が響きわたった。

十門の二十四ポンドアームストロングと四斤野砲二十門の一斉射撃だった。

その音は実籾村の勝と大鳥の所まで響き渡った。

高根木戸の林も夏見木戸の太田もそれを聞いて作戦が当たったことを知った。

「弾左衛門君ありがとうこの戦勝ったも同然だ、すべて君のおかげだ」

「そうだぜ、お前さんの手のものが埋めた地雷火のあたりをうまく通過させて花火を合図に其処に砲弾が着地できる手配もしてくれたおかげだ」

大鳥も勝もこの若き長吏の指導者の手をとって礼を言うのだった。

「先生方まだ戦は序盤で御座いますよ。それに私は先生方の立てた作戦の方策どおり動いた一枚の駒でございます」

「そんなことは無いぞ、みよ此処で戦をしているのは旗本のお歴々など数えるほどしかいないぜ。君が寅吉たちと裏で働いてくれなければ此処までやつらを引っ張り込むことなど出来なかったぜ」

その言葉を裏付ける様に伝令が来て「敵の輜重部隊に初弾が命中。砲架と炸薬をほぼ使えなくすることができた模様」

「よしわかった後は前線の司令官に任せる順次予定通りに進行せよ」

がけを駆け下った野村たちは唖然とした、敵との間には幅十五間長さ百間ほどの干上がった池の跡があり草の茂る滑りやすい土手になっていた。そこに入り勢い付けて駆け上がろうとしても滑ってしまい、なかなか上がれない所に臼砲の爆裂弾が続けざまに打ち込まれてきて三百名以上の兵がそこで討ち死にをしてしまった。

登りきった兵と回りこんできた兵をようやくまとめた野村の前に木下街道で縦横に連発銃の威力を披露した騎馬隊がM1866 Carbineで乱射しながら駆け抜けて行きその後を歩兵が同じM1866 CarbineYellow Boyで掃射しながら横切りさらにまた新手の騎馬隊が続いて通り過ぎた。

草原を前に進むと実籾村どころか高根木戸の林の部隊の待つ勢子土手のはずれで銃撃を受けてほぼ壊滅してしまい、野村も乱戦の中で討ち死にを遂げた。

そのころには海江田隊がほぼ半減して戦意を喪失して北西に後退を始めていて太田の騎馬隊は牧場に散開した大村の本営を脅かしていた。

縦横に駆け回りWinchesterを乱射しては後方に下がり馬を一息つかせその間に弾込めをして、また一回りするという繰り返しを行っていた。

騎馬にも犠牲が増えだし太田の騎馬隊は三百名ほどに減っていた。

林の騎馬斥候部隊のスペンサー二百騎もすでに三回ほど攻撃に参加して五十騎が戦闘能力を失っていた。

「敵の騎馬隊を見ろあんなに多くの馬を残して下がっていくぞ押し込め、押し込め」

宮本総十郎のミニエー隊三百名が勢子土手めがけて突撃して本田の隊と銃剣で戦いだしていた。

冷泉雅二郎は奇兵隊のときから伊藤や山懸と銃弾の中を潜り抜けてきた勇者だが林のM1866 Carbineの三百名の弾の嵐の中で討ち死にを遂げた。

林の隊は押され気味で秋月のSnider部隊は後退していき替わりに本田の隊が押し出してきた。双方入り乱れての乱戦を林の騎馬隊がスペンサーで割って入り其の間にSnider隊を勢子土手の北側で整列させた。

太田のYellow Boy突撃隊の二百が冷泉と宮本の隊を食い止めた。

改めて弾を装填して押し出したSnider隊は冷泉のいない隊が奮戦する中を一列で突撃をして大村の本隊近くまで押し返した。

大砲部隊が大村の本営付近を盛んに砲撃して西軍を分断することに成功した。

しかし大村の指揮する部隊が前面に出て林の隊は後退を始めた、其処へ騎馬隊と伝令隊の総攻撃を太田が実行して西軍の勢いを押しとどめた。

一進一退が繰り返され戦況を確かめた大鳥はSpenser騎馬伝令隊の投入を決めた。

三百騎のスペンサー部隊の新手はこの時とばかりに奥深くまで進入して大村の肝を縮み上がらせた。

平岡のM1866 Turkish infantry部隊が実籾方面から成田街道を回りこんで新木戸で大村の本軍と遭遇して13連発の威力を発揮して佐倉との間を遮断して中木戸へ押し帰した。

大鳥は大村の隊が佐倉へ向かわぬように輜重隊の警備兵も新木戸から成田街道沿いに展開し佐倉方面の道を封鎖した。

「もう一度体制を整えて此処から勝の本営を突こうでは有りませんか」と言う参謀にも疲労の色は濃く兵にも大村にもその気力は無かった。

付近の地形図とコンパスは有っても正確な実籾村への道が分からないのだ。

後半里ほどしかないということも参謀達は知らなかったし、Chassepot 隊の千三百あまりの兵しか其処に残されていないことも気がつかなかった。

知っていればなにを置いても突撃したのかも知れない。

ただ西軍には実籾村に近い方向は兵が少なく高根木戸方面の敵と戦うほうへ戦力の大半を取られていたのだ。

木戸場から岡を越えて出た場所から扇形に広がってしまい一方向に向かうはずがまとまることが出来ないでいたのだ。

「佐倉へ行こう」と言う前原の伝令も無視されて、大村の本隊は出てきた木戸場に戻るように、退却の命令が出て13時頃に実籾を諦めて成田街道付近から後退し出した時には五千をはるかに切っていた。

久保清太郎と富永有隣に前原一誠の三人が率いる千六百名の兵が殿で高根木戸方面に下がり岡を登って木戸場方面に落ちていった。

あまりにも無様な負け戦に茫然自失と言う言葉がそのまま当てはまる半日の戦いだった。

佐倉とも海江田の隊とも連絡をつけることが出来なかった。

連発銃といえば扱いにくいスペンサーしか持たない長州兵はWinchesterと言う名前さえわからず、すごい連発銃にやられたと怯えるのだった。

騎馬隊が二挺の銃の弾を果てることなく撃ち続けるのも脅威だった。

太田たちは右の銃を取ったときは左へ筒先を向け反対に左を取ると右へ筒先を向けて打つという訓練をされていることを見抜いてはいなかったので、左右の兵を続けざまに打ちながら何時までも装填しないで駆け抜けていくのをミニエーの装填を忘れて呆然と見送ることが多かった。

それに前込めでは弾を込めて炸薬を装てんする作業に時間をとられている間に馬のほうは射程外を走っているのでは追いかける事も出来ないのだった。

最初にSpenser部隊が半分以上出口付近で倒されたことが響いていた。

 

閏4月14日6時 野田

伊地知の隊は海江田の南下した隊と歩調をあわせるように関宿に向かって日光東往還を北上していた。

中山道甲州と順調に進んだ道と違い、西郷が亡くなってから茨の道を進むかのように難しい展開となったことを肌で感じていた。

高崎から出撃したであろう香川の率いる軍とうまく共同歩調が取れるかも不安だった。

本来此処はほっておいて板垣と立案した江戸を駆け抜けて佐倉に迫るべきだという猪突猛進がたの戦が得意の伊地知だった。

江戸を燃やし尽くしても進む事を大村は無駄なことだと一蹴したのだった。

自分を佐倉突入からはずしたことも不満のひとつだった。

品川や谷では敵の作戦にはまり込むのは見えみえだったし、自分の率いる軍とて鳥羽伏見のようには行かないことも承知だった。

大村が出てきたことで恭順の徳川の方針が抗戦と一変したのも、元はといえば西郷どんが亡くなったことが原因と考えるとこの戦に勝てる気がしなくなりだすのだった。

それとあののっぺりした公家たちも気に入らなかったし、若い世間知らずの岩倉倶定等に顎でこき使われるのも我慢できなかった。

京で岩倉卿がかわいがっている西園寺と言う小僧が西郷先生に「幕府など叩き潰せばよい、われらの威光であのようなものなど道端の雑草と同じで踏み潰せばよい」

などと言う言葉に逆らわぬ大久保にも失望していた、西郷先生は「ままそのように仰せられず、徳川には徳川としてのご奉公をいたしたこともありますから」の言葉にも「その方陪臣の身で僭越である」とまで言い募り岩倉が西郷先生に謝るという一幕まであったことを見聞してから、特に公家を排除しなければいくら徳川の無能の老中を排除してもこの国は立ち直れないと考え出していた。

攘夷勤皇は確かに薩摩の方針だがそれは公家が徳川に成り代わる手助けでは無いと伊地知は考え出していた。

その徳川とて如何に譜代とはいえ無能の大名が政権の中枢にいたのを排除でき、いまは勝らが中心の軍事政権となってはほんの少し前とは大違いの機動力になったことを海江田から聞かされて用心が必要と思っていた。

装備は絶対に関宿軍が上だろうなと横浜から押し出してきた兵の装備を海江田から聞くと自分たちはこの三ヶ月で遅れてしまったと思うのだった。

「高島さぁ、先ほどらい敵の斥候と遭遇したが交戦もせじ逃げ出したちゅう報告ばかいだがいけん思う」

高島鞆之助はこのとき25歳、伊地知も認める気鋭の薩摩っぽだった。

「伊地知参謀、向こうさんは兵を出来るだけ密集させて戦う気らしい。そのために関宿では此処二月あまり城下の町屋を取り壊して町民を川向こうの避難させてまで要塞化をしたというではありませんか」

「大村上席参謀は後ろから関宿の兵に襲われるのが心配で俺たちに尻拭きをさせるきさ」

密偵の報告で城下の様子は悉く知り尽くしていた、城下の工事にまぎれて入り込んだ密偵は堀と土塁の位置までも正確に写し取ってきていた。

大砲部隊、騎馬隊の屯所、兵舎しかし新式銃の数に兵はこのとき調べたものより多くなったと第三遊撃隊の西も第一遊撃隊の小倉も推測して伊地知にそのように具申していた。

「賊軍は兵が五千と言うこっだがすっぱいが戦闘員と考えて良かだろう、こん先出会うものはすっぱい賊軍と言うこっだろう」

そして参謀会議で出会うものすべてをこれからは賊と見て用心して、たとえ百姓姿でも銃で囲んで取り押さえること、畑で農作業していても用心を重ねることを通達して野田の町を通り抜けた。

本営は街道が西に曲がるところまで来て日光街道側から来る香川の率いる軍五百と合流した。

「伊地知さん高崎から此処まで何事も無かったよ。賊軍は関宿の関所も放棄したし其処に五百の兵と砲兵隊を置いてきたから此方が其処まで進軍したら橋を渡らせて攻撃に参加させよう」

「後の兵はどうしました」

「遅れた装備のものは置いてきた、もっともあいつらがいては足手まといだから栗橋城を攻撃しろと其処に陣を敷かせたよ。軍監の豊永と原をつけて置いた。そうそう小栗だがどこを捜索しても軍資金は見つからなかったし一族のものを捕えたが全部で千両にも満たない金しか持っていなかったよ」

「そうですか、あの軍資金の話は眉唾だと思っていました。あのときの徳川にそんな金が有れば苦労などしていないでしょう」

「そうだろうな、あの二人があまりにも強引に話を進めて小栗まで急いで処刑してしまい、俺も後で知ってなにをするかと叱責しても大村上席参謀の言いつけですとけろりとしていやがる」

困ったことです、若いという事は良いことでしょうが、ただただことを急ぐあまり先の見通しをしてくれませんと何時に無く老成したことを言う伊地知だった。

この年前厄の41歳の伊地知は猪突猛進には理がある、作戦はすべからく敵との距離を置いて立てなければ成らない、寡兵で大敵に戦いを挑むときこそ死中に活を求めるのは一切ほかに手立てが無いときである。

そのように常々若い兵士に話、作戦は密にして行動は疎にして勇猛にせよと言い聞かせていた。

「香川さん俺はこの関宿攻略で死ぬかもしれん、俺が突撃したら後の指揮はあんたに任せるよ」

「なにを言い出すんだ、負けると決まったわけでもあるまいし。それに此処は押さえで城を取れとは言われていないだろう」

「しかしな、あの大村から早く突撃して城を落とせといってくる気がするのだよ」

「佐倉はもう落ちたも同然だろう」

「しかしな、次々と思いつきで作戦が変わり今頃は佐倉の前に勝と大鳥の軍を叩いてその勢いで佐倉をもみ潰そうとしているだろう。大総督宮のことを盾にして独裁的に軍を動かそうとしているのさ」

「困ったお人だ、いくら岩倉様、三条様の後押しでも行き過ぎは全体の指揮にかかわる」

伊地知はそれについて何もいわず軍の配置について相談を始めた。

 


閏4月14日8時 木下 佐倉

勝の誘いに乗った大村が先鋒軍の三千の銃兵を品川に指揮をさせて成田街道に押し出したころ、我孫子から木下まで出てきた奥羽連盟軍は連絡を受けて藤沢が指揮をし、木戸場を目指して八時に進軍を開始していた。

星は先頭に出て若い額兵隊の兵士と共にさんさ時雨を進軍歌として歌っていた、官軍と言う名で西軍が宮さん宮さんと歌うのと同じで士気は高まりつつあった。

♪  さんさ時雨か萱野の雨か 音もせで来て濡れかかる
ショウガイナ
さんさふれ〜五尺の袖を 今宵ふらぬで何時のよに
 武蔵あぶみに紫手綱 かけて乗りたや春駒に
門に門松 祝に小松 かかる白雲 みな黄金
 この家お庭の三蓋小松 鶴が黄金の巣をかけた
この家座敷は芽出度い座敷 鶴と亀とが舞い遊ぶ
 芽出度嬉しや思うこと叶うた 末は鶴亀 五葉の松
扇芽出度や末広がりで 重ね〜の お喜び
 雉子のめんどり 小松の下で 夫を呼ぶ声 千代々々と

 

佐倉は駿府にアームストロングを届けた第一艦隊の軍艦で送ってもらい小湊に上陸した駿遠三からの千名の兵が佐倉藩の兵や上総の三千の銃兵と共に守っていた。

銃はさまざまで纏まりは無かったがその分、家達の身は体を張って守るという意識が指揮の高まりを誘っていた。

何より此処には軍艦から下ろしたガトリングが二門、街道を十字砲火で敵の進軍を許さぬ体制ができていた。

堀田家の支藩の佐野藩からスナイドル隊が兵百と指揮官の西村茂樹が来ていた、弟の伊勢銀こと勝三がこの日のためにかき集めたもので銃弾は大鳥が二万発を支給した。

佐倉に向かう官軍の部隊長品川は自分が詩を作り大村が曲を付けたこの歌を進軍歌として佐倉へ向かう道で太鼓に合わせて意気揚々と錦旗を自分の前を行く十二ドイム携臼砲の後ろに掲げさせて馬の背で歌っていた。

♪   宮さん宮さんお馬の前に   ヒラヒラするのは何じゃいな
  トコトンヤレ、トンヤレナ
  あれは朝敵征伐せよとの  錦の御旗じゃ知らないか
  トコトンヤレ、トンヤレナ

部隊は街道を折れて成田街道に入り意気軒昂と行軍した。

井野新田の道しるべの正面に成田山道とあり、右側面に天はちち地はかかさまの清水可那と記され七代目団十郎敬白と書かれてあり、常夜灯とほかにも道標が置かれてあった。

左面に 

成田山御参詣の御方様御信心被遊此清水御頂戴被成候御夫人様方御懐胎被成候事

背面に 

無疑私御利益を蒙り候間御信心の御方様へ差上度御子孫長久大願成就

と成っていたが其処まで読んでいた兵はいなかったようだ。

品川が上座に差し掛かる10時前ごろ前方から銃声がして敵が散開していた。

すぐさま銃隊が突撃を開始すると相手は退却をしたので嵩にかかって追撃を命令した。

臼井台の上り坂では盲撃ちながら大砲が打ち込まれ、散々な目を見ながら隘路の先に出ると、臼井台には内山政太郎の散兵隊がStarr Carbineの兵二百と佐野藩の西村茂樹の率いるスナイドル部隊の兵百が待ち構えていた。

西軍の勢いは強くたかが三百あまりの兵など相手にもならず、撃ち合いになりじりじりと前進して臼井の宿を突破した。

東軍の兵は南のわき道に逃れて佐倉城下に向かい、誘い込まれるように谷の部隊が追跡を始めた。

「こりゃ良いぞ相手を見失うな、この方向なら佐倉までお天道様を背に受けて向かうことが出来て幸いだ」

谷は先頭に出てあまり急がずに追跡をしていた。

臼井宿の普段は往来の庶民でにぎやかなこの道も3日ほど前から封鎖されていたし町のものも避難していたが幸いにも宿での戦いは佐倉側がこのまずここには守備兵はいなかった。

臼井の宿はずれにまた道標があり、西 江戸道右側には南飯重生ケ谷道東側に東 成田道と書かれその隣に古ぼけた道標が残っていた、それにはさくら道という字が見えた。

それを見た品川が「さあ佐倉城はすぐ其処だ今日中に落としてしまえ」そうはっぱをかけたすぐ後、品川の隊に向かって横からガトリングが火を噴いた。

小高い丘から十字砲火が浴びせられ、護衛の兵の持つM1866 Carbineとの連携で切れ目無く撃ち続けられた。

一台は開陽から、後一台は甲鉄から降ろされて此処に運ばれていた。

ガトリングは教えられたとおりに二分間で百二十発撃つごとに一休みして其の間はM1866 Carbineが引き受けて攻撃をしていた。

岡の上は光勝寺、左は印旛沼どこにも逃げ場は無かった。

西軍も応戦するが攻め上る道は西軍の兵の死骸で埋まり登ることも出来なかった。

品川始め多くの士官がここで討ち死にをしてしまった。

苦戦している部隊に山越に大砲が打ち込まれ先に進むしかなかった部隊は人数を減らしながら佐倉城下に突入していった。

迂廻路を進んだ部隊は谷が指揮をして佐倉城を指呼の間にしていた。

城にはなかなか近づけず遠くから撃ち合いが続いた。

大砲部隊は本隊の後ろに置いていかれたので此処には来ていなかったし、其の大砲部隊はすでに粉砕されていて役に立たなかった。

印旛沼に通じる高崎川を中々渡れず武家屋敷の並ぶ右手に回り込もうとするがそちらからの銃撃は熾烈だった。

印旛沼の脇から出てきた佐久間の指揮する幕府歩兵部隊が突撃をして谷の部隊を普門院まで押し返した。

本隊の兵が谷に追いつき左回りに佐久間の歩兵部隊を追い詰めて印旛沼の方向に向かった。

「城の手薄なところを探そう」

谷は小隊長を集めて成田街道を横切り真上に見える本丸を目指すことにしたがそこへの道はなく城を仰ぎ見ることしか出来なかった。

円通寺の付近では共に犠牲者を増やしながら一時間ほどの撃ちあいが続いた。

一進一退の戦いの雌雄を決めたのは、臼井台から南に降りて六百の兵と共に現れたガトリングだった。

此処佐倉で二台のガトリングを指揮、操作しているのはまたも春木だった。

光勝寺の場所は応援の兵が西軍を押し出したので急いで光勝寺の岡を降りて円通寺まで戻った春木隊とその護衛のM1866 Carbine部隊百二十名にエンフィールド銃の部隊は谷の指揮する部隊の側面から掃射した。

次々に戦闘力を失い後続の兵も無く散り々になって、印旛沼の汀に追い詰められてしまった谷は残る兵三百と共に降伏をした。

城下に迫るにも迫れず次々と退却する兵と進退きわまり自決する兵と降伏する兵で成田街道は大混乱に陥っていた。

臼井宿まで押し返された兵は我勝ちに退却を始めた。

あまりのあっけない敗退に兵士はなにがどうなったのか理解できなかった。

そこへ本来の佐倉防衛軍の大築が指揮するスペンサー隊三百と幕府歩兵のエンフィールド隊八百が上座の道標に到着して落ちてくる兵に襲い掛かり完全に西軍は壊滅してしまった。

兵は街道をはずればらばらに本隊を探して落ちていった。

残った兵はおよそ千五百名の敗残兵で、指揮官の品川が戦死、軍監の谷は降伏と言う知らせは退却中の大村の下に届けられた。

「どうなっているんだ」思わずそう叫ぶ大村に薩摩の兵も土佐の兵も冷ややかに退却の道を歩んでいた。

15時には殿の兵も街道に出て佐倉からの退却してきた兵と大村の本隊で街道は混乱していた。

下野牧や佐倉から追撃する兵は無くそれだけが大村たちの救いだった。

大村は此処で部隊を整えて後衛の林と合流しようと点呼をかけた。

しかし島田台に出た伝令が戻り「東福寺付近は賊軍の兵で街道を閉じられております」

「なにを馬鹿な、見間違いではないのか。林の率いる銃隊と輜重隊とは分断されたのか」

体勢を立て直して突破して大総督宮のおられる東福寺まで突進する用意を大村は命じて突撃体勢を整えるのだった。

 

閏4月14日11時 船尾坂 

進軍中に連絡員が何度も来て大村の本隊がこちらの望んだとおりに下野牧に入っていったと聞かされ一気に佐倉と下野牧の分かれ道まで進軍して連絡員を待っていた藤沢にようやく連絡が来て、島田台の東福寺を目指した。

佐倉は大築が品川の部隊を追って駆けつける手はずで、此方には有栖川宮の確保が命令された。

島田台と街道から押し寄せる兵に軍監林玖十郎は現在守る東福寺付近での戦闘は不利と悟り宮に後退を上申した。

下からの攻撃は熾烈を極め星の率いる額兵隊と庄内の新徴組のスペンサーは単発の兵を圧倒した。

星は盛んに馬上から攻撃を指示して自ら突進して道を切り開いていった。

「われらは戦闘には加わらぬ」とそこから動かず、じりじりと後退をする林の兵に置いてきぼりにされてしまうことになった大総督宮一行は、木下街道から北上して来た太田の直接率いる百騎の騎馬隊に14時に確保された。

その騎馬隊は宇和島藩兵と大垣藩兵を白井木戸付近でM1866 CarbineYellow Boyで散々に蹴散らしてきたのだった。

続々と集まる機動力のある騎馬隊は三百騎以上になり残った警備の兵も武器を捨てて降参した。

宮たちは驚きを隠せず自分たちの身がどうなるのか不安で慄いていた。

「己は岩倉具定である。有栖川宮もおわせられる無礼は許さん」

意気込む若い貴公子に「あなた方は我々の捕虜となりました。これからはご身分いかんにかかわらず従っていただきます。お聞き入れなきときは叛乱とみなしそれなりの取り扱いをいたしますが、従っていただけるならば出来うる限りの待遇をお約束いたします」

若い岩倉に柳原が「宮もおいでですから此処はおとなしく従ってください」ととりなして身の回りの物を持っておとなしく馬に乗らされて勝の待つ本営に向かった。

七沢台に後退した林玖十郎たちは現れた林昌之助の騎馬隊とエンフィールド隊に、もはやこれまでと此処では戦闘らしい戦闘もなく降伏をした。

降伏はいさぎ良しとせぬものたちはさらに逃れて海江田隊を探して初富へ向かった。

 

閏4月14日12時 実籾村

続々と入る戦況の優位に参謀たちも満足だった。

地図を広げ大村たちを押し返した場所と宮の居られる場所が時間との戦いで確保できるかが問題だった。

大村があまり早く諦めて後退しても藤沢の部隊が宮を確保できずに、戦闘中に戻られては元も子もなくす結果になりかねないとの判断で大鳥は騎馬隊に木下街道から廻って白井木戸付近から東福寺を目指すよう命じた。

太田や藤沢の部隊からの連絡が来るまでの長い時間を勝は何度も外に出てはテントの周りを両の手をぶらぶらさせて肩の凝りをとる体操だといいながら歩き回り若い参謀たちに関宿での戦い方の概要を話していた。

勝の元に宮の確保と回り道をして送られてくるとの報に、此処に迎え次第勝と平岡の部隊は江戸に進むと命令を出してから大鳥は藤沢の部隊とで大村を挟み撃ちにすると連絡員と騎馬伝令を交互に出して17時30分を期して攻撃に移ると命令をした。

「落ち口は木下街道北側、絶対に下野牧中山方面と佐倉に向かわせてはいけない」と厳命して出撃した。

佐倉からは大築の部隊もこちらに向かい時間の争いになりそうだったがそれまで大村のほうが東福寺に向けて攻撃に出ないことを祈った。

 

閏4月14日16時 野田

野田に帯陣した伊地知は威力斥候を次々と出してから大砲部隊を守る先方隊を進発させていた。

海江田隊壊滅の報は伊地知が木間ケ瀬の慈眼院に本陣を定めたころだった。

「まさかどうしたというのだ」

「賊は新式銃の兵を三千以上そろえて防御線を張って待ち構えており、騎馬隊の連発銃にやられました」

「なんていうことだ、関宿の兵を押さえるどころか救援に向かわないといけないか」

「いえ私が出るときは中山法華経寺に集合中で部隊の体制が整い次第すぐさま流山に出てこられるそうです」

「そうか俺のほうは明日の朝には関宿に進発するから、此処はおぬしが後詰めの指揮を取ってくれたまえ」

「分かりました、海江田さんが着きましたらすぐさま後を追います」

「そうしてくれ」

伊地知は先発した兵に関宿橋手前に布陣するように伝令を出して自分の部隊を柏寺まで進めさせた。

 

閏4月14日16時 中山法華経寺

海江田隊は此処で落ちてくる兵を集めていた、この隊の補給隊は無事だったが林の隊の一部も加わり3日分の糧食しかないということが判明した、銃弾も残りは少なくもう一度打って出るにはすべてが不足だった。

敗残の兵は追うものも無く徐々に集まりつつあった。

法華経寺で合流した部隊でこのまま江戸へ討ち入るか流山から関宿を目指し伊地知隊と合流するかを話し合った。

「補給が効かないのでは江戸に向かうのは無謀だ、伊地知と合流して上席参謀の安否次第で次の手を考えよう」

勝の作戦通り補給部隊を潰されてこのままでは強奪でもしないと食料までなくなるとすぐさま流山にいくつかの道筋に分かれて落ちていくのだった。

 

閏4月14日16時 浦安

信太は兵二千に前進させて中山に向かった。

落ちてくる兵を確保して後続の阿部のほうに送ったり、聞き入れぬ部隊との小競り合いを繰り返していた。

阿部は江戸川べりで備えをして捕虜を一時寺院や神社の境内に収容していた。

此処には臨時の治療所も併設されていた。

永倉、人見、伊庭の兵は市川道で江戸川の渡し場を守っていた。

此処にいた兵は渡し場を越えて江戸から大久保が回してきた兵を加えると千二百名を越えていた。

そのうち三百の銃隊を彰義隊の天野に任せて人見は鴻之台へ進んだ。

法華経寺を出た海江田の部隊の左翼と遭遇して間々の亀井院付近で戦闘となり弾を打ち尽くした人見を先頭に切り込んで乱戦となった。

因州兵はなかなか強く双方入り乱れて矢切の渡し場方面にもつれ合うように移動していった。

切り込んでは後退し、切り込んでは後退しと繰り返しながら伊庭、永倉は奮戦していた。

あれだけ勝や大鳥に言われても間近に相手を見ると銃で乱射するのは自分の腕に自信を持つこの人たちには難しいのだった。

もう何人切り払っただろうか弾をこめる手間が惜しい伊庭は邪魔になった銃を預けて「弾を込めておいてくれ」と兵に言い残して前進した。

国府台の東、回向院別院のあたりでまたも追いすがって切り込みをかけた。

伊庭と対峙した若い士官は強くさすがの伊庭も手こずっていた。

其の部下なのだろうか士官を守るかのように伊庭の後ろからぶつかるように銃剣で突進してきた兵をよけた伊庭は、若い士官の左手で横なぎされた刀で体勢が崩れていたため左手首をなぎ払われてしまった。

相手も右利きだと思い込んでいた伊庭が体を避けた方に刀の先が触れただけと感じた伊庭だった。

ひるんだ伊庭の隙に相手は北へ落ちる兵に混ざり駆け足で去っていった、もう一度踏み込んで戦うなど相手は考える余裕もなくしていた。

伊庭の隊の兵は後ろから撃ちかけるが相手は一目散に逃げていった。

伊庭はぶらぶらする自分の手を見て若い兵に腕を硬く縛ってもらうと思い切ってぶらぶらする手首から先を自分ですっぱりと切り落とした。

「やられたか後ろで手当てをしてもらえ」

人見が寄ってきて声をかけた。

「このくらいどうってこと無いよ、矢切は越える兵はいないか」

興奮でかっとからだが熱くなり痛みを感じないようだった。

「そちらへは一兵も行っていない、金町は千住から兵が出てきているはずだ、この先は俺たちに任せろ。吉田、伊庭を浦安まで送れ強情をいうようなら銃で脅してでも連れてゆけ」

まさかそんなに反抗も出来まいじゃないかと伊庭は言っておとなしく後ろに下がった。

 

閏4月14日17時30分 島田台

大砲部隊も福田の努力で20輌が間に合い大鳥の号令で島田台めがけて打ち込んだ。前の敵と後ろの敵にあわてて散開する大村の兵は北上する兵と東福寺攻撃と大鳥軍へ向かうものと大混乱に陥っていた。

しかし一時間の攻防のあと伝習隊の銃剣での突撃が効をそうして西軍はおよそ五百名の死体と重傷者を残して印西目指して落ちていった。

夕暮れも迫り大鳥は船尾台で追撃をやめて其処に本田の隊を駐屯させた。

木戸場、木下街道を封鎖して佐倉への道の要所要所にWinchester部隊Spenser部隊を配置して藤沢と共に佐倉に向かった。

夜遅くになり佐倉城に入った大鳥と藤沢は今日の戦果を松平確堂と田安慶頼に報告した。

けなげにも今日の砲声銃声にもおびえた様子のない家達にも拝謁して無事、戦も勝ち戦となったことを報告してから城下に出て参謀本部を設営して伝令、騎馬斥候部隊、連絡員などと打ち合わせに余念が無かった。

Chassepot の伝習隊は佐倉防衛につかせて、藤沢さんの部隊は私と共に野田に進軍の用意をしてください」

「分かった部隊へはすぐに連絡して明日の朝すぐに先行させよう」

「そうしてください、林さんは柏に進軍してもらいましょう。それと太田さんの部隊は騎馬隊の補充をしたら流山から野田を目指す事」

次々に命令を発し明日の出発は5時に出ると参謀に伝えて漸く眠りにつくことにした。

「参謀達は戦の後始末に今夜は眠れぬだろうな」と思いながら改めて勝の立てた作戦に思いをはせて「後は関宿か」とそちらからの連絡を楽しみに寝付いた。

 

閏4月14日 横浜

フランス公使が交代するという話が横浜ではささやかれだした。

あれだけ徳川幕府に肩入れしていたレオン・ロッシュ公使が国の方針も日本の方針もフランス離れ、徳川離れと言うことで帰国の日が近くなってきたらしい、新任のウートレィと言う人は新政府に援助を申し入れるという噂だった。

横浜に戻されていた陸軍士官たちは不満で「いま徳川が攻勢に出ているのになにゆえ方針を変更しなければならぬのか、脱走しても大鳥の元で作戦の立て方などを協力したい」と相変わらず榎本を通じて申し出ていたが大鳥からは「お志には感謝の念で一杯だが、いま貴国は中立の立場をとられているゆえ、それは為さらぬ方がよろしい」とやんわりと断りを入れた。

それでも太田陣屋にわざわざ出向いて調練の指導を取るものが続出していた。

 

閏4月14日深更 柏

木下を目指していた西軍は亀無川をわたり左へ道を変えて手賀川沿いに落ち延びて来た、僅か一日前には威容を誇っていた大村の部隊は三千名を切っていた。

手賀沼の南の大津川の堤防について、ようやく敵の追撃を振り切ったという安心から兵は漸くにまどろむことが出来た。

しかしそれも長く続かず、本営に臼砲の爆裂弾が打ち込まれた。

福田の別働隊の蓮田の率いる隊が土浦藩と藤代藩の応援を得て五百の兵と待ち構えていたのだった。

手賀沼から藤沢の軍が進軍した後を受けて利根川を渡り沼の北側に陣を引いて常陸側に利根川を渡って西軍の敗残兵が落ち延びてこないように見張ることを命令されていた。

常陸ではほとんどの藩が家達公にお味方と佐倉に代表が送られてきたが、兵の多くは利根川の北に配置され成田へも千五百に及ぶ兵が駐屯していて、佐倉からの伝令を待つようにと藤沢から申し入れていた。

「この兵を佐倉に呼び寄せるようでは戦に負けるぜ」

勝は藤沢にそういっていたし大鳥など食料を無駄に食われることになるからありがた迷惑さとまでいうのだった。

藤沢も鳥羽伏見の経験から、ただ兵の数が勝ったから強い軍隊になるということが無いということに気がついていた。

普通なら藤沢が指揮を取るべきだと白戸持隆が言ってきたが藤沢は「いま大事なのはこの戦に勝って家達公の御為と、お家の安泰を図ることが大事だ。そのためにはわが身は一兵卒であっても構わぬのだ」と返事をしたのだった。

西軍の鳥羽ミニエー、スナイドルに負けたことがいまさらに思い出され、今は自分たちがスペンサーとウィンチェスターと言う連発銃で装備され明らかに優位に立ったことが分かったのだ。

大砲は確かに戦が長引いたときや、抗城戦には効果があるが平原では何時までもこう着状態が続いてしまい戦を長引かせるだけと言う勝と大鳥の意見が理解できた。

大鳥が立てた大砲の使い方は斬新で藤沢には最初理解できなかった。

砲兵と砲運搬兵が別々の構成で動くなど考えつくことも無かったのだ。

常陸では水戸藩のみが態度を決めかねていた、相次ぐ藩内の佐幕派勤皇派の争いで藩内の意見はまとまることが無かった。

利根川の向こうでは西軍の動きに合わせ水戸街道沿いに兵が集まってきて命令もないのに川を渡る藩まで出ていた。

手賀沼の北側で撃ち込んだ臼砲僅かに三門といえど大きな効果があった。

夜間砲撃はきわめて難しいとされていたが、連絡員が距離と方向を蓮田に伝えその報告で角度が決められたのだった。

沼越しに合計九発が打ち込まれ本営に直撃が二発あり、その混乱の様子は手に取るように伝わってきた。

大村はどれだけの敵がいるか判断できずに、月明かりを頼りにさらに北上して伊地知の兵と合流するため野田へ向けて進軍することになった。

 


閏4月15日 早朝 野田

西軍の配置はこの時点で次のようになっていた。

東山道軍及び北陸道軍(武蔵、上野、信濃諸藩混成部隊) 

 栗橋攻略部隊       千五百名(大砲五門)

 香川隊関宿関所       五百名(大砲五門)

関宿攻略軍 (本営柏寺野営地)

 香川隊           五百名

 伊地知軍          三千名(大砲十門)

海江田軍  (船形付近) 千八十名 

  々   (各隊合流兵)二百六十名

大村軍   (梅里付近)四千百五十名(佐倉攻略軍含む)

輜重隊警備隊(各隊付属)  千三百名

僅か二日前に二万三千近くいた西軍の部隊は戦闘に参加していなかった輜重隊と香川の部隊を新たに加えても一万二千をきっていた。

これらは輜重隊が満足に居らず香川の元に糧食の調達命令が出て急遽騎馬兵三十と共に高崎へ戻った。

佐倉からの大鳥たちの動向は次のようになっていた。 

進軍中にも大鳥は編成替えの通達を出して兵の所属を入れ替えて前に騎馬隊を集めだした。

東軍関宿応援部隊 (日光東往還を進軍中) 

 藤沢隊  藤沢次謙(Yellow Boy突撃兵三百六十)
      星恂太郎(額兵隊七百十 奥羽連盟軍千二百)

 大鳥隊  大鳥圭介(スペンサー突撃兵二百 スペンサー騎兵二百六十)   

      大築尚志(輜重隊二千二百 黒鍬隊四百)

 太田隊  太田資美(M1866 Carbine騎兵八十 Yellow Boy騎兵二百二十)

 福田隊  福田八郎右衛門 (移動砲兵六百 砲三十門)

      蓮田祥貴    (移動砲兵六百 砲三十門)

昨日から参謀が編成してそれぞれの移動先に伝令が出て集合を流山日光東往還和蘭観音前、先行警備は大鳥隊からスペンサー騎兵百六十騎が夜明けと共に流山に入った。 

後を追うように太田の騎馬隊が入り歩兵の部隊が到着するとスペンサー騎兵と共にさらに先に進んだ。

次の部隊が来ると休んでいた隊が出るという繰り返しを行い大鳥の隊が夕刻についたときには残りは大築がまとめた輜重隊が半里ほど遅れてくるというだけになっていた。

佐倉から強行軍の兵は此処で野営して明日野田へ入ることになった

常陸の諸藩の兵は警備のために利根川沿いを古河方面に向かって移動して川を越してくる西軍の取締りをする命令を受けていた。

福田の砲兵隊の兵と野砲は木野崎付近で用意されていた船で川を横切り野田側から見えぬように川沿いには出ずに境町方向に進み連絡員の指示で溜池付近に移動してきた。

福田と操作員三百が到着したとき此処には山砲三門がもうすでに用意されていたが野砲の到着は夜になりそうだった。

古利根川沿いには江戸から大久保が派遣した兵が要所、要所を固めていた。

これが年の初めに動くこと山の如しとまで言われていた徳川の兵とは思えぬ迅速な動きだった。

閏4月15日15時 関宿

双方の軍隊は動かず東軍の応援部隊は宝珠花橋付近の大村の本隊と三里ほどの距離を置いて梅里に騎馬隊が集合して追撃をせずに休養していた。

西軍の香川隊の大砲は川向こうの小高い善祥寺付近で関宿城に砲口を合わせるために移動していた。

やっとの思いで据付が終わり明日の攻撃の準備に砲弾を運び上げようとした矢先、きな臭い臭いに気づいた士官が「地雷火を仕掛けられたぞ。逃げろ」

其の声が兵に届いたかどうかというまに轟音と共に吹き飛ばされてしまった。

其の音は関宿城の中にも届きいざ合戦と色めき立ったが天守からの報告で川向こうで爆発との報告に「自爆したか」と思うものが多かった。

その音を聞いた伊地知はすぐさま伝令を走らせた。

報告を聞いて「やられたか、これで城を直接叩くのは難しくなった」と悔やむのだった。

川に挟まれた関宿城の唯一の欠点と伊地知が考えた川越しの砲撃が藻屑と消えたことで防衛軍のほうに有利になったと参謀と話すのだった。

いま伊地知隊や栗橋からの大砲部隊を関所側に移動する事は困難に思えて取りやめざるを得ないと判断してのことだった。

 

閏4月16日8時 関宿

関宿城下の防衛隊は眼前に押し寄せた伊地知の軍容を見ても興奮を覚える兵は少なかった。

大関は古谷の大砲部隊には自分で出向いて次のように命じた。

「もっとひきつけろ、敵の大砲か歩兵を二十丁までひきつけてから攻撃をしろ、砲撃開始の合図は川向こうから遠隔射撃が起きた時だ」

最前線の位置は関宿通多功道に沿って城の前面に設定されていた。

光岳寺から境の渡し場と街道に掛けられた橋付近では奥羽の諸藩の兵が散開していた。

そこに陣を張って前に出る機会を会津の山川は待ちかねていた。

城中の物見でも関宿往還にある川向こうの関所から橋を渡ってくる兵を眺めながら大関の号令を待ち、城外の兵士も腰の水を飲んだり梅干を含んだりしてその時を待っていた。

伊地知の隊が関宿軍の先頭のスナイドル銃部隊の前方に入り金龍院まで近づいてから漸く動き出して守りを固めだした。

金龍院の屋根で指揮を取るために登った伊地知はそれを見て「のんびりしているな、焦っている様子が無いという事は装備に自信が有るか指揮が緩んでいるかだ」

関宿橋と敵大砲の距離はおよそ二十二丁と斥候の調べた資料にあり砲撃されれば危ない距離だが打ち込まれる様子も無く五百の兵は伊地知の軍と合流した。

金龍院も敵の最前線からは二十丁ほどで危ないから降りてくださいと参謀が言っても俺が撃ち落されたら後は頼むよと笑うだけだった。

伊地知は山砲の隊に距離一マイル(約十六丁)で敵陣地に砲撃と号令を出して準備に入った、砲兵は街道沿いに前に出て行ったが城中から花火が上がりそれを合図にか利根川越しの砲撃が開始され同時に城下からも遠距離射撃が開始された。

最初音が聞こえないうちに砲弾が着弾しだして「どこから撃って来たのだ」

と驚くうちに大砲部隊は粉砕されてしまった。

昨夜来大関の指令で川向こうに配備されていたアームストロング旋回砲二門と4斤山砲十門が利根川の土手下に移動していて一斉に打ち出されたのだ、

西軍の方からは土手の木が邪魔して見ることが出来なかった。

城下の大砲もそれを合図に打ち出されたのだ。

そして2回目の斉射が打ち出されると同時に騎馬兵が突撃を開始した。

西軍はいっぺんに防御に廻ることに陥り、それぞれの隊が個々に突撃を開始した。

関宿軍は訓練どおりの道順で西軍の前方福寿院で迂回して戻っていった。その後を追うように山川のM1866 Carbine部隊が伊地知の右翼に襲い掛かりミニエーの兵をなぎ倒していた。

中軍は大関の指揮下のスペンサー部隊とM1866 Carbine部隊が福寿院付近から前に出てきたスナイドル部隊に襲い掛かり連発銃の威力を発揮した。

しかし西軍が盛り返して二列火線に銃隊を並べて押し出し単発銃とは思えぬ発射速度を見せ付けた。

しかし勝が寅吉とたてたWinchester Rifleの致命傷を与えにくいが兵の損耗と看護のために戦闘員が減るという作戦が功を奏し負傷者を後方に運ぶために戦闘員が減る伊地知隊は関宿軍を押し切ることができなかった。

そこへまた騎馬隊が突入して前線は福寿院の南まで後退した。

左翼は攻撃を受けていなかったが城の大砲と第二大隊の銃口に押さえられるかのように動けずにいて遠くからの射撃を散漫に繰り返していた。

あまりにも野原が続き障壁物が無いと言うのは攻撃に不利であった。

古谷は敵が来ないとせっかく掘った塹壕が役に立たないと皆を笑わせていた。

西軍が左翼を残して後ろに下がりだしたので大関は一時兵を引いて休息をとらせた。

「おかしい、あいつらどうして押し出してこない」

参謀と苛立ちを隠せない伊地知は屋根を降りて自分で前線に出てきて敵情を視察した。

参謀に指名した高島鞆之助と共に本営の薩摩藩城下士小銃隊四番隊隊長川村純義、五番隊隊長野津静雄、第一遊撃隊小倉壯九郎、第三遊撃隊西千嘉を引き連れて前線に出て行った。

十字過ぎて海江田が到着して薩摩藩城下士小銃隊2番隊隊長村田新八と三番隊隊長篠原国幹もスナイドル部隊での突入に参加することになった。

永山も別府晋介も野津道貫も右翼から此処に呼び寄せ十二字に一斉攻撃を仕掛けると全軍に指令を出した。

それをまた宝珠花橋を進軍中の大村がしりを叩くように騎馬伝令をよこし「早く落としてしまえ、死んだ気でやればこんな城ひとつどうと言うこと無い」そう命令を伝えてきた。

大村は宝珠花橋にミニエー銃隊五百を残して東軍の押さえとして本営予定地の柏寺へ向かった。

「海江田さぁ、これだものやう気が出なかちゅうこつをさすっものだ」

「そげななど。俺だってあいつの顔を見うくらいなら突撃でして銃弾に顔を見せうほうがましさ」

大総督宮が大村と共にあると思っている二人は、あえて逆らうわけにも行かず、林の部隊に輜重隊の残存兵も林が宮を置いて後退した、そのことを海江田に伝えていなかったのだ。

ただ輜重隊を襲われて後退したが騎馬隊に蹴散らされてしまったということのみが報告されていた。

金龍院に大村の本営が柏寺の野営地に入ったと伝令が来たのが十二字丁度、それを待っていたかのように中軍は進撃を開始した。

左翼と右翼は大村から援護の兵が来たら出るように命令が出ていてまだ動き出していなかった。

先ほどらい沈黙していた大砲がまた二度撃ちかけられて騎馬隊が出てきた。

「同じ手を二度もやるなどあいつらたいした事はないぞ」

そういってしゃにむに突進したがやはり連発銃の威力は薩摩の兵士の胆力気力が勝ろうとも前に進むことが出来なかった。

そのとき大砲の音が川向こうから立て続けに聞こえ一瞬関宿軍のほうも足が止まったが一散に後退していった。

「何事が起きたのだ」

伊地知も海江田も狐につままれたような気がした、いままで優勢だった関宿軍がどうして引っ込んだのか理解したのは睨み合い状態が続いた後、本営からの伝令がきてからだった。

「申し上げます。大村上席参謀が先ほどの砲撃で討ち死にいたしました」

「なんだと、どこから撃ち込んできたというのだ」

「利根川の向こうから遠距離射撃をかけたものと思われます。私は本営の先五丁ほどにいましたがことごとく本営敷地内に砲弾が落ちて大村様はじめ参謀もほとんどの方が亡くなられました。大村上席参謀は私が駆けつけたときはまだ息があり、関宿城を落とせと大声を出された後絶命されました」

「して大総督宮ほか岩倉様や橋本様はご無事か」

「エツ、お聞き及びでは御座いませんか、昨日らいお行方はわからなくなっております」

「どうしてだ上席参謀とご一緒ではなかったのか」

「私は佐倉へ参加して居りましたが、林様の隊に任せたのでその後のお行方については聞かされておりません」

「なんてことだ、この戦負けだよ、伊地知君こうなったら弾が亡くなるまで前に進もうじゃないか」

利根川の川向こうでは大村の本営が柏寺の野営地に入ったとの連絡員の報告で位置を割り出して距離三十五丁から三十六丁の間で遠距離射撃を行った。

「川近くに出たほうが正確になります」

「いや時間が惜しい、相手が動いてからでは遅すぎる、砲の準備が出来次第右列のほうから順次打ち放て」

福田はそう命令を出して溜池付近の砲全体に射撃命令を出した。

移動砲兵が到着してその地点に選ばれた溜池の後方から四斤野砲三十門山砲三門が伍長の命令に従って準備の出来た砲から次々に打ち出した。

まるで切れ目が無いほどの勢いで各砲三発合計九十九発が野営地に打ち込まれた。

「撃ち方やめ」各砲が三発を打ち終わると福田は結果を見ずに移動を開始して、関宿城の見える渡し場の河原付近に移っていった。

城中の天守の物見が見たのは川向こうに白煙が続けて上がり、柏寺付近に着弾したそれが伝わり大関は一時全軍引き上げを指令した。

大関は連絡員から「大村の本隊に遠距離砲撃を仕掛ける用意があります」とだけ伝えられていていまの砲撃がそれだろうと判断して、一時兵を休めることにして、敵の反撃の勢いをかわすことにしたのだ。

この引き上げで西軍の兵は勢いが突くよりも拍子抜けの感がしたか引き上げる兵を見送ってしまった。

「しかしそれだけ正確に撃てるなら俺が先ほどまでいた金龍院などひとたまりも無いだろうになぜ撃たないのだ」

伊地知も海江田も不気味なものを感じていた。

三字には力押しにもう一度隊を組んで押し出したが先ほどの勢いはつかなかった。

左翼も右翼も押し出していくつかの土塁を抜いたが騎馬隊と右翼と中軍に攻撃を仕掛けるM1866 Carbine部隊は強かった。

左翼は抵抗も少なく他とは歩調が合わず先行して進み塹壕を乗り越えようと次々と飛び込んでいった。およそ八百の兵がそこへ入り込んだとき一斉に古谷の大隊は攻勢をかけて砲弾の雨を降りかけた。

その塹壕は瞬く間に屍を積み重ねまるで墓場のために用意した状態に見えるほどであった。

右翼は山川の部隊を押すように進んだがやはり誘い込まれて長州の歴戦の兵五百五十以上を大関が押し出してきたM1866 Turkish infantry部隊になぎ倒されていた。

その勢いはとどまらず右翼を押し下がらせ横に見える中軍に距離三丁で撃ち掛けて来た。入り込みすぎた部隊を押し包むように円を描いた海江田隊の後方を山川の隊が押しのけるように突入してきた。

乱戦を伊地知は不利と見て金龍院まで下がらせると大関も伝令を飛ばして兵を集めた。

「参ったぜ、あんなに多くの連発銃を持っているとは考えもしなかった。昨日今日に揃うもんじゃないぜ」

「そうだな、それに騎馬の持つ騎兵銃の訓練だとてあれを指導できるものがいるとは到底考え付かないよ」

「フランスの教官が来ているのかな」

「だが横浜であのような騎馬隊の使い方の訓練をしたとは聞いてないぞ」

「そうだなぁ、フランス式では騎馬隊も歩兵と同じように突撃するらしいからな、あのように歩兵の前で乱射したら後方に下がるなど考えられんよ」

なに下がるのは銃弾を入れ替えてくるのだとは二人はまだ気づいていなかった。

二人は員数を確認して弾の補充を後方に頼みに行かせた。

塹壕では松明をかざして僧侶と穢多のものが協力して、生残ったものを探して河原にある救護所に連れ帰り傷の手当てをしていた。

大関からの申し入れがあり戦場となった場所の死体と負傷兵をやはり長吏の手のものや浅草の車善七の手のものが出て西軍の兵のなきがらは吉祥寺に届けられてきた。

作業は明け方まで続いていた、銃弾を除き死者の装備も刀もすべて吉祥寺に集められて西軍に引き渡されたのだった。

その日伊地知は夜が更けても切込みがあるかと警戒を怠らなかったが、動くものは町を片付けて廻る大八とそれを引く無腰の者ばかりだった。

街道沿いには大篝火が一丁おきに並べられて夜を徹して燃え盛っていた。

満月を仰いで明日はどうなるかと思い考えたが「どうせこうなれば討ち死には仕方ない」そこに考えが行くと不思議と心は落ち着いて眠りにつくことが出来た。

 

閏4月17日 金龍院

弾の補充も朝には付いていざ出撃と言うとき後方がざわめいて多くの兵が向かってきた。

「申し上げます後方の肥後と長州の兵が追われています」

「なんだあいつら陣を守ることも出来ないのか、俺たちは後ろに構わず前進する」

海江田と伊地知に率いられた兵は総攻撃に出たが連発銃に前の兵はなぎ払われ伊地知も悪いほうの足を打ちぬかれた。

海江田も肩口を打ち抜かれたが指揮を中村に任せてそこから盛んに声を張り上げて叱咤していた。

柏寺の長州兵に朝一番に攻撃を仕掛けたのは太田の率いた騎馬隊だった。

街道沿いに進みながら本営付近を掃射して馬を帰してまた反対の銃で掃射してかけ戻っていった。

藤沢次謙の率いるYellow Boy突撃兵三百六十と星恂太郎の真っ赤な洋装の額兵隊七百あまりが突入してきて宝珠花橋付近の兵は橋をわたり川沿いに関宿橋へ向かって退いていた。

その兵と入れ替わるように奥羽連盟の兵が突入するころには持ちこたえられなくなった柏寺の肥後と長州の兵は薩摩土佐の兵と合流するために金龍院へ向かった。

伊地知隊、海江田隊が城に迫る勢いで昌福寺の南で戦っている間にどんどんと関宿橋をわたり戦場を離脱する兵が増えていった。

そのころ大鳥隊は街道の莚打の渡し場への分かれ道付近を通り過ぎて船形を目指していた。

太田の騎馬隊が金龍院に到達したのが17時其処に残った兵を壊滅させて関宿軍と合流した。

伊地知と海江田は城から遠ざかり奥羽連盟の部隊と交戦していたが光岳寺の東でまた山川が出て薩摩の兵を河原に追い詰めていった。そのころ対岸の河原にはアームストロングを筆頭に山砲野砲五十門が勢ぞろいして仰角を下げて関宿側の河原をにらんでいた。

水流も強く渡し場に船も無く橋は兵が充満していて近づくことが出来ない状態だった。

其処に残った兵はおよそ千三百に減りもはや銃弾も残っていなかった。

土手には騎馬隊が勢ぞろいして銃を構えた兵が隙間無く並んでいた。

「もはやこれまでですな」

「相手が切り込んできてくれればともかく銃で撃たれてはもはや逃げ場も無い。諦めて降参するか自決しかない」

そのように小隊長を集めて話をしているところに白旗を持った兵を先頭に空馬二頭を引いて軍使二名が馬に乗って進んできた。

関宿藩の木村正右衛門と忍藩の元殿様の大久保忠誠であった大久保はだん袋に白い陣羽織を羽織っていた、背には奥平家の紋所、立ち沢潟(おもだか)が鮮やかに描かれていた。

二人は馬を下りると海江田と伊地知に面会を求め「貴殿らはよく戦いました。ただいま入った情報によると大総督宮と総督府のお歴々は無事で御座います。ただいまは江戸城中にて静観院宮さまがお預かり下さっておられます。この際降伏していただき有栖川宮様、京にご帰還のお供をしていただくわけにいかないでしょうか」

大きなよく通る声で忠誠が一言ごとに区切り二人に申し入れた。

「30分お待ちいたします。お返事は軍使を送り出してください」

馬二頭を残し二人が去り軍議が開かれたが有栖川宮の無事を聞いて死を覚悟していた兵もお供が叶い京に帰還できるならと降伏を呑むことにした。

河の向こうにある大砲もそうなら銃で待ち構えるところに突撃しても犬死になり、若い兵士を殺す事は藩侯にも申し訳が立たないと海江田と伊地知は判断をして最悪二人が死ねば済むことと思いきわまったのだった。

「此処で自決しましょう」という若い兵を「宮様が生きて京にお戻りの際にわれらがお供できる可能性が残されているなら、おはんらは生残ってもらわにゃならん。お守りすることが出来なかったお詫びは何時でも出来る。まず宮様ご一統を京に帰還していただけるようにすることが残されたわれらの役目ぞ」

そのように説得して軍使に小倉壯九郎と村田新八の二人を出して降伏を伝え銃と大小には渡された名札にそれぞれの氏名を書きつけて河原に置いて列を組んで指定された場所に向かった。

古利根川を越えた兵は主に長州、肥後兵を中心として高崎目指して落ちて行ったが追いかける兵はいなかった。

城中に大鳥が入り大関と硬い握手を交わした。

「よかった、よかった。佐倉も無事関宿も無事、これで後は京の動きだけで関東はすぐに落ち着くでしょう」

「そう、逃げ出した兵が越後に着く五日ほど後があちらの戦いの始まりでしょうが、江戸方が気になっておちおち戦っても居られぬでしょう」

二人はこの半年の間密かに苦労して備えたことが成果に現れて満足だった。

江戸の勝と大久保さらには佐倉へと急使が出たのは大鳥が到着してすぐのことだった。

それぞれ三十騎の騎馬伝令で銃を携行しての油断をしない態勢での伝令であった。

松本とウィリスは橋を渡り怪我人の手当てに忙しく立ち働き重症のものでも動かせるものは高瀬舟で敵味方を問わず江戸に送り出した。

戦いの後始末はその晩から始められ河原では死体を焼く火が絶えなかった。

塹壕で死亡した兵の亡骸は海江田の了解の下そのまま埋められることになり氏名不詳のものも多くそのままにされた。

そのころ寅吉はガンキたちと共に川越に移り動静を探ったが西軍はすべて高崎方面に移動して町は静かだった。

栗橋城も包囲を解いて西軍は引き上げたとの連絡が入った。

 


閏4月20日 関宿

大関は関宿にいた奥羽連盟軍に騎馬伝令隊の八十名をつけて宇津宮に移動させて輜重隊も大築が指揮をして従った。

仙台に於いて九条卿の奪還に失敗した副総督沢為量、醍醐忠敬、大山格之助の兵が宇都宮に南下しているとの情報で移動させたものだ。

白河城ではまさしくこのとき激しい戦いが行われていたのだ。

奥羽連盟の庄内、会津兵と挟み撃ちにされた西軍は数を減らしながら南下していた。

川越には佐倉から転進してきた藤沢の率いる仙台の額兵隊などの部隊と共にYellow Boy隊三百五十名が進駐した。

忍には大久保忠誠がM1866 Turkish infantry部隊三百六十名と秋月が率いるスナイドル部隊八百八十名で凱旋して城を公収した。

忍は奥平家中に任せて忠誠は秋月と共に江戸に向かった。

替わりに内藤隼太がM1866 Turkish infantry部隊三百六十名と秋月隊の一部スナイドル部隊二百名で駐屯した。

大鳥と大関は越後の応援に甲賀源吾が率いる第一艦隊が出航する知らせを勝から受け取った。

佐倉で活躍した部隊のM1866 Carbine部隊百二十名とSnider部隊三百名を本田多七郎が率いて乗船していた。

本田のSnider部隊の残りは林が預かることになった。

林は太田の応援を得て関東各地の西軍の駆逐と各地の城を開放していた。

一度は西軍についた藩も誓約書一枚で藩主を江戸に出すことでそれ以上の罰則を設けなかったことも開城を容易にしていた。

 

 習志野決戦 − 横浜戦
 習志野決戦 − 下野牧戦 
 習志野決戦 − 新政府
 習志野決戦 − 明治元年

幻想明治 第一部 
其の一 洋館
其の二 板新道
其の三 清住
其の四 汐汲坂
其の五 子之神社
其の六 日枝大神
其の七 酉の市
其の八 野毛山不動尊
其の九 元町薬師
其の十 横浜辯天
其の十一
其の十二 Mont Cenis
其の十三 San Michele
其の十四 Pyramid

横浜幻想  其の一   奇兵隊異聞 
 其の二   水屋始末  
 其の三   Pickpocket
 其の四   遷座祭
 其の五   鉄道掛
 其の六   三奇人
 其の七   弗屋
 其の八   高島町
 其の九   安愚楽鍋
 其の十   Antelope
 其の十一  La maison de la cave du vin
 其の十二  Moulin de la Galette
 其の十三  Special Express Bordeaux
 其の十四   La Reine Hortense
 其の十五  Vincennes
 其の十六  Je suis absorbe dans le luxe
 其の十七  Le Petit Trianon
 其の十八  Ca chante a Paname
 其の十九  Aldebaran
 其の二十  Grotte de Massbielle
 其の二十一 Tour de Paris
 其の二十二 Femme Fatale
 其の二十三 Langue de chat
     



幕末風雲録・酔芙蓉
  
 寅吉妄想・港へ帰る    酔芙蓉 第一巻 神田川
 港に帰るー1      第一部-1 神田川    
 港に帰るー2      第一部-2 元旦    
 港に帰るー3      第一部-3 吉原    
 港に帰るー4          
    妄想幕末風雲録ー酔芙蓉番外編  
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 酔芙蓉 第三巻 維新
 第十一部-1 維新 1    第十一部-2 維新 2    第十一部-3 維新 3  
 第十二部-1 維新 4    第三巻未完   

     酔芙蓉 第二巻 野毛
 第六部-1 野毛 1    第六部-2 野毛 2    第六部-3 野毛 3  
 第七部-1 野毛 4    第七部-2 野毛 5    第七部-3 野毛 6  
 第八部-1 弁天 1    第八部-2 弁天 2    第八部-3 弁天 3  
 第九部-1 弁天 4    第九部-2 弁天 5    第九部-3 弁天 6  
 第十部-1 弁天 7    第二巻完      

  酔芙蓉 第一巻 神田川
 第一部-1 神田川    第一部-2 元旦    第一部-3 吉原
 第二部-1 深川    第二部-2 川崎大師    第二部-3 お披露目  
 第三部-1 明烏    第三部-2 天下祭り    第三部-3 横浜  
 第四部-1 江の島詣で 1    第四部-2 江の島詣で 2      
 第五部-1 元町 1    第五部-2 元町 2    第五部-3 元町 3  
       第一巻完      

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