幻想明治 | ||
其の七 | 明治18年 − 伍 | 阿井一矢 |
酉の市 |
根岸寅吉 (根岸虎太郎) 1911年 明治44年4月18日生まれ(天保14年1843年) 横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。 根岸 容 弘化5年1月5日(1848年2月9日)生まれ 江戸深川冬木町に生まれる。 根岸明子 明治元年12月10日生まれ(1869年1月22日) 久良岐郡野毛町三丁目に生まれる。 佐伯 琴 (根岸 幸) 1920年 大正9年9月9日生まれ(嘉永5年1852年) 横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。 根岸了介 1877年 明治10年11月7日生まれと届出 神奈川県久良岐郡横浜町末吉町5丁目54番地に生まれると届出。 (神奈川県第1大区4小区) (明治10年5月5日山手220番生まれ) 根岸光子 1885年 明治18年5月31日生まれ |
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今日は辛酉(かのととり)の日、初酉だ。 今年が乙酉(きのととり)と言うことで酉が重なる上三の酉まで有るので火事の心配を口にするものもあった。 「何火事の心配は何時ものことさ。遊郭への立ち入りを心配するかみさんたちが亭主に早く帰れと言うことを遠まわしに言っているのが本当らしく聞こえるのさ」 夜遅くに容と二人で氷川商会へ向かい安部川を閉めてきた千代とお鳥を加えて四人で吉田川の長島橋へ出て真金町へ入った。 富士見川の柳土手を歩き富士見橋を過ぎて眞金橋の畔を右手真金町の一丁目と二丁目を分ける大通りを入った。 源平池とでもいうのだろうか池を渡る橋が有りその先に金刀比羅神社が見える。 酉の市は昨年もおこなわれてはいたが境内の大鷲神社が建ち上がり祭神に天之鳥船命を加える話は消え伊勢山に預けた手力雄神と日本武尊のままでの御霊も移し今年の市は例年より盛んだ、まだ少ない技楼の並ぶ通りには居留地の貿易商も多く顔を見せていた。 寅吉と千代は担いできた大熊手を納め所に引き渡すと時計を眺めながら食い物屋台に群がる人の間を新吉原遊郭時代から例年買い入れする熊手屋台へ向かった。 十二時に花火が上がり一斉に露天の熊手屋台に明かりが灯された。 「こりゃ皆様おそろいで、本年最初の景気付けをしていただきますようで」 顔なじみの親父や若い衆が二人の為に特別に拵えをした大きな熊手を抱え下ろした。 「今年は幾らだ」 判りきった事だが例年のように聞いた。 「此方は対になって居りますが、どちらも八円で御座います」 大分高く値をつけたようだ、一円も出せば随分よいものが買える筈「高いぜ親父縁があるように五円にしなよ」と寅吉が切り出した。 「エーィ。今年最初のお買い上げだ旦那におまけいたしやしょう」 容がすぐに一円銀貨五枚を親父の手に乗せて「こっちはご祝儀だよ」と周りに見えるように一円金貨で三枚をかざすように渡した。 屋台の衆が揃って「家内安全、商売繁盛、開運招福を祈ってお手を拝借ヨーツ」と客も交えて一同で三本締めパパパン、パパパン、パパパン、ハハハイハイ、と繰り返し手を打ち鳴らし掛け声と拍子木で場を盛り上げた。 同じように対の片方も千代が値切り同じようにお鳥がご祝儀もはずんだ。 其の二組の客に景気づけをしてもらった屋台には次々に人が争うように熊手を買い求め同じように値切ってはご祝儀を置いて其のたびに三本締めの景気の良い声が響いた。 「貴方了介も連れてくれば良かったですわね。昨年と比べて賑やかです事」 「何朝起きられないと困るから学校から帰ったら宵のうちに三人で出てこようぜ」 「そう致しますか」 これも去年と同じ様な会話で高嶋町の時代も同じ事を話して宵の口に明子と了介を連れて屋台店を冷やかして歩いたのだ、去年は大鷲神社はまだ無いうえ一の酉の日は忙しく明子を連れてくることが出来ず二の酉に了介と三人で歩いた道だ。 屋台店の熊手屋と客との駆け引きは其のたびに続き、中にはひつこく負けさせてもご祝儀を置かない客もいるがそれでも同じように派手やかに手締めの掛け声が響くのだ。 二人が担ぐ縁起熊手にはおかめの面、升々の繁盛を願って桝が納められ注連縄がついて宝船や大福帳が飾られているものは寅吉たち貿易商に横浜商人の好むところ、その場で小道具をつけたさせる者も多く鯛は定番で松竹梅や海老などが身心健全家内安全を願って飾られている。
芝居興業の大入りを托し、小判や千両箱が付けられるもの豊作を願った金俵も開運招福、商売繁盛の熊手で安部川のような客商売向きだ。
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僅か15年間の役目を終えた富士見川は寅吉の子供時代見ることのなかった運河であった。 いつも辰さんや千代と記憶を呼び戻す話し合いをしないと橋も町の名もいつのまに変わったのだという話になるのだ。 「この間取り壊した櫻橋も桜木橋と言うこともありましたし、弁天橋だって作っている時は永代橋だったはずですぜ」 「そうだったなあれは鉄道寮が架けて後で県に管理が移って名前を変えたんだった」 野毛山の浄水所用地の売却で資金を増やした伏島近蔵は新たに中村川と吉田川を結ぶ運河開鑿を計り有志を募りだした。
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橋畔で幾人かが別れ南五つ目に家がある恭三と耕吉の三人で橋を渡ってさらに川沿いを遡った。 「本当に良いのかい」 「君達の親が許してくれればさ。父さんに友人も招待して良いですかと聞いたら酉の市は三人で行くから別だが三時にアイスクリンを作るから呼んでいいと言ってくれたんだよ」 「絶対にいくよ、氷川商会はすぐ近くだし今日は午後に畑へ出る用事はないから親父もいるはずだ」 「ウンうちの両親も家にいるはずさ」 二人は亀の橋で達吉たちと別れた後で了介が切り出した話に大乗り気だ。 今日は当番の甚兵衛さんが50mほど後ろを歩いている、学校を出たとき確認したが友人達も了介の送り迎えはいつも放れて歩いているのになれて気にならないようだ。 三吉町四丁目の石鹸工場では大勢の人が働き中村川に泊まっている船に荷を忙しげに運ぶ人足の間を抜けて三吉町五丁目まで来ると人家が途絶え其処からは水田と畑が続く道だ。 吉田新田の中の吉田川のどん詰まりまで向かい用水の土橋を渡ると五つ目の吉岡町六丁目に家のある二人と別れて氷川商会へ向かった。 末吉町五丁目54番地は周りを氷川商会に虎屋と横浜物産で働く人たちの集まる場所で寅吉の住まいは野毛時代に比べ狭く後に54番ロとなる裁判所用地はまだ長島町で其処も昔のままの水路が細く流れている。 氷川商会へ来た人は一様に「こんな辺鄙な場所にどうして」と首をかしげるのだ。 確かに倉庫は大岡川に面して建てられて其処からクレーンで荷を揚げる様にしてあるが連絡員は数多くいても番頭手代などは10人しかいないこじんまりした店で普段は外へ出ているので閑散としているのだ。 「二人友達が両親の許しがあれば遊びに来ます」 「そうか今日はすこし冷えるが三階を温かくしてアイスクリンをご馳走するか」 「三階でいいんですか喜びますよ。夏に遊びに誘いに来たとき父さんが彼らに作ってあげたのを今でも嬉しそうに話します。二人は六つ目の吉岡町の稙田(わきた)さんという言う家の子です。あ同じ苗字でも違う家で二人は従兄弟です」 了介は知らないが其の稙田の家の稙田耕吉の末弟は哲三でこのときまだ生まれたばかりだ。 寅吉は富士見町の爺の家にいた哲三と梅夫婦の事を思い出し「そう言えば真司君も稙田だったが哲三さんと親戚だったのかな」と懐かしい目をした。 了介は寅吉が見せる其の目が好きだった、千代が言う千里眼で未来を見通すという話しが本当らしいと感じられるからだ。 二人の子供が店にきて父親の許しをもらったと言うので仕度をしておいた木箱を寅吉が持って子供たちは容が用意した菓子や容器を入れた籠を持ち合って後に続いた。 部屋は暖かくしてあり玉突きの台に覆いがされているのを不思議そうに見る子供たちを寅吉が「ビリヤードと言うのを知ってるかい」と聞いた。 「うちの父さんや耕吉の父さんがたまに賑町に玉突き遊びに行きますが其れでしょうか」 恭三と耕吉の父親は兄弟で遊びに行くようだ、農家とは言いながら開港にあわせ色々と収入も増えて生活は楽のようだ。 「後で遊ばせて上げるよ」 普段子供たちに触らせる事のない寅吉だが新しい台がもうじき来る事もあり少々傷になってもという気になったようだ。 子供たちの目の前でアイスクリンが出来上がり冷やされた小鉢へ容が取り分けたのをビスケットに乗せて食べる子供たちの幸せそうな顔は作った寅吉を満足させた。 「貴方真夏のアイスクリンも良いですが部屋を暖かくして食べるのも格別ですわ」 容の言葉に「おばさん僕もそう思います。了介君と友達になって前に暑い日に食べたときは溶けるのが気になって急いで食べてしまいましたが今は味わいながらゆっくり食べても大丈夫ですから美味しさが格別です」という恭三はとても農家の家の子とは思えない育ちの良さが出ていた。 夕暮れ時容は二人の子を了介と家まで送り店の前で待つ寅吉と連れ立って真金町へ向かった。 寅吉は勝や松本と永真横浜遊郭の事で話しをしたが其の時に順が寅吉は知らないだろうといったが今の三人のように当時は了介に連れられて酉の市で賑わう通りを歩いたのだ。 三人は武蔵橋で永楽町へ渡った。 遊郭の大門付近はすでに多くの人が出入りしてにぎわっている、人力車で乗り入れるえらぶった官員風に混ざり外国商人は大門外で馬車を降りて雑踏を歩いて眞金橋へ向かっている。 大門付近の小店は普段にもまして明るく賑やかに客を呼んでいる。 「其処の坊ちゃんずれ(連れ・づれの方言)の旦那休んでいきなさいよ。うちにはかわいい子がいてお子さんの相手も飽きさせませんよ」 よりによって容も後ろから付いて歩く三人に声をかけるやり手上がりらしき老婆がいた、寅吉は了介と歩みを止めて振り返った。 「なんだおか弥姉さんじゃねえかいつのまにこんな店の主に収まった」 「マァ旦那お忘れじゃないとはカヤは嬉しいござんす。なに娘の旦那がわっちに小商いの店を出せと金を出してくれましたのさ。二丁目の仮宅から抜け出してまだ一月もたちゃしませんのさ」 容に昔新吉原町の富士見楼のやり手のキミ姉さんの棒組みだと簡単に話しをして「そうか養女の月岡に旦那が付いたのかそれで其の旦那が店を出してくれたのか。こいつは少ないが開店祝いだよ受け取っておくれ」 こういう時の為に隠しにいれた十円入りの祝儀袋を出した。 「マァ旦那懐かしくて声をかけただけでこんなものを頂く間柄じゃござんせんよ」 「まぁそういうな。今日はお酉様心も浮き立つ宵だ。見れば此処は大門外の富士見町、富士見楼にいたおか弥姉さんに俺が家は山手の富士見町だぜこう重なって受けとらねえほうはないだろ。其れとお前さんのやと言う字のいわれを知っているかい、弥は物事が重なるというめでたい字だぜ」 手を後ろに廻すか弥に理屈をつけて帯に押し込むように渡してしまった。 了介は父親がそんな人たちの事まで気にかけて覚えていたことに嬉しさを覚えてにっこりと微笑んだ。 「まぁ、坊ちゃんは父さんそっくりで、いい父上でよろしい事でござんす」 ふと気にかかった言葉の端々はやはり昔は武家の出でも有ったのか疑問は残るがそのまま別れて大門を入った。 其のか弥は「寅吉の旦那は物知りだと聞いたが千里眼も本当かも知れねえ。俺が名をそんな風に覚えているなら、もしかして嘉弥というのがほんとだと話した覚えも無いのに」と勝手に喜びが重なると母親が教えてくれた幼い日々を思い出した。 「バぁさん一杯くんな」 「あいよ、ひやかい熱燗かい」 「あまざけの熱燗だ」 顔なじみの年寄りが何時もの軽口と共に入って来た。 「今日もひやかしかよ」 「どうも一日一度はこのあたりをあるかねえと寝つかれねえ」 「とんだ年寄りだ」 店を小女に任せ座敷に上がると仏壇で手を合わせて懐の祝儀袋を出して「龍の五十銭も入ってるようだ。寅吉の旦那はいつも祝儀袋を持ち歩いてると言うのは本当だった」そうつぶやいて袋を開けるとでてきたのは十円金貨、銀貨と思っていたが「こいつは驚きだ。気前がいいとは聞いていたが」と暫く其の金貨の輝きに気をとられていたが小女に呼ばれて慌てて懐にしまうと店に戻った。 龍の五十銭はほぼ13グラム半、31ミリで十円金貨がほぼ16グラム半29ミリ半と袋が厚いともちなれていないとわかりにくい。 三人は人ごみを抜けてまっぐと大鷲神社へ向かい、金毘羅へ参詣し大鷲神社で熊手守りを三本授かった。 大きさが幾種類かあったが鷲の前ツメ三本を熊手の手に柄を後ろ爪に見立てた七寸ほどのもので本当に小さなおかめの面と稲穂が付いていた。 それぞれが襟に差し込み熊手を買い込む様子を立ち止まって見物し、知り合いが買うのを見ると了介も一緒に三本締めに参加した。 帰りは迎えに来た広太郎と眞金橋で落ち合い大門を出ると中村川沿いをランプの灯りを頼りに下った、まだ月も出ず出たとしても眉のように細いはずだ。 日之出川を松見橋(松影橋)で渡りすぐ中村川を翁橋で越えた。 「どちらから上がりますか」 「牛坂で良いよ」 牛坂は急坂で人力車で上がる事が出来ない、荷車も牛に引かせないと登れない事でそう呼ばれていた。 |
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明治18年(1885年)12月12日土曜日 この日珍しく高嶋嘉右衛門が九代目と氷川商会にやってきた。 九代目と言っても役者などではなく五代目から平沼新田を開拓し塩田経営を成功させた平沼九兵衛だ。 何も一代ごとに名を換えたわけでなく程谷に住んだ初代からの代々名だ。 横浜道沿いの町屋は横浜に編入されたが久良岐郡平沼新田七十五番地が其の屋敷地だ。
話題は明子や了介の学校の事になり九兵衛は長男が来年戸部学校へ入る事を楽しげに話して従兄弟は慶應予科の教授をしている松本良三だと言うことも話した。 虎屋で扱う塩のうち幾許かはこの九兵衛さんのところから入ってくる関係で今まで会わずに居たほうが不思議だと普段あまり笑わぬ嘉右衛門が豪快に笑った。 「仕方ないですよ天保の昔から売り渡し先が決まっていたのが不況で倒れてその後に鴻上さんがうちで扱わせて欲しいとおいでになってまだ三年ですから」 「そうは言ってもな、この好奇心旺盛な男が見に行っても居ないはずがないよ」 横浜三奇人だと寅吉が言っていた蓮杖、吟香は東京へ去り今は嘉右衛門だけで横浜が寂しいと思う此の頃だが嘉右衛門に言わせれば奇人の第一人者は寅吉だそうだ。 寅吉が子供の頃すでに塩は専売だったが確か日露戦争の戦費調達の一環でそうなったと教わった覚えがあった。 ケンゾーがやってきた、話題は軍部の動きになりドイツに偏る陸軍に危惧を覚えるという話から明子の事に話しが戻り留学の楽しい話題とジョリーという大きな犬のニューフィー(Newfy)事ニューファンドランドの話から寅吉の飼うビーグルにダルメシアンなどについて話が弾んだ。 「ダルは蓮杖さんが手に入れたダルメシアンの四代目だよ、元の石川村の牧場は馬より犬のほうが主力になってしまったよ」 「ほんとにコタさんは犬と馬が好きだな」 「旦那の犬好きは年季が入っていますからね、ビーグルはエイダさんの持ってきた犬の子孫ですし繁殖させるのが上手ですね」 「俺じゃねえよ。俺は時々会いに行くだけで昔いたサラブレッドのペデローテの面倒を見てくれていた与助の娘が婿の小助と一緒に今は馬の面倒と犬の管理をしてくれてるのさ。10月に子犬が産まれて今は大騒ぎだ」 九兵衛さんは子犬を分けてくれというので四人で石川町の牧場へ人力を連ねて出かけた。 寅吉の子供の頃山手の家ではダルメシアン(Dalmatian)とポインター(Pointer)にイングリッシュ・フォックスハウンド、(English Foxhound)それにビーグル(Beagle)まで居たが爺と父親が猟に連れて行くとき以外は今の広太郎の家のある場所で太吉朗と言う中年の小助とキミの子供が家族で面倒を見ていた。 「何時まで石川村で飼われていたんだろう、根岸に移したのは何時かな」 いつか移す事情が出来るのだろうと人力に揺られながらそんなことを考えていた。 人力は長者町へ出て車橋を渡った、石川仲町1343が今の住所で丘の中腹は藤沢山無量院浄光寺、藤沢の時宗本山遊行寺の末寺だ。 牧場に行くと太吉朗が犬と囲いのされた芝生で遊んでいた。 「やぁ、たあさんよ」 寅吉は木戸を空けて中に入った。 「あ、旦那だ」 まだ三才になったばかりの太吉朗は犬と一緒に駆け寄ってきた、ビーグルのケンとハッピーの夫婦も寅吉に飛び掛からんばかりに甘えてきた。 寅吉は芝生に座り太吉朗を膝に抱え二匹のビーグルに顔をなめられて嬉しそうだ、其の様子を見ていたポインターのジョージが寄ってきて汚れた足を肩に掛けたが気にした風もなく顎を擦ると尻尾をバタバタと振るう様子を三人は呆れた様子で見ていた。 「オイオイ、コタさんの犬好きは承知だが之でたまにしかあいに来ないと言うのが信じられねえよ。それにいい服が台無しだ」 「普段は作務衣に着替えてから来るのさ」 こともなげに言うと泥を払って起ちあがり太吉朗を腕に抱えて家に向かった。 家から夫婦が出てきて挨拶をして子犬を見に裏手に回った。 八頭の子犬が居てビーグルは五頭いた。 「其のビーグルと言うのは猟犬ですか」 「そうですイギリスではウサギ狩りに使うそうですが、私やケンゾーは山鳥や雉を狙わせていますがポインターのほうが藪では活躍しますよ」 ビーグルが欲しいとと言うので一匹選んだので「もし自分の家で繁殖させたいなら其の犬と従兄弟くらいになる犬が戸塚のカーチスの所にいますから紹介しますよ」と話して金を呉れると言うので一円を請求して小助に面倒代だと渡してこの犬の来歴を書いた紙をキミがもってきて渡した。 「之があれば将来あまり近親にならないように交配が出来ますよ。居留地には今四系統ほどのビーグルの愛好家がいて皆が同じような系図を持っています」
「子犬にはねぎや玉葱など与えないように気を配ってください。煮干しは大量に与えてもよいですが湯で似て塩気を抜く事をお薦めします」 ケンゾーが九兵衛にその様に話しキミが持ち出した竹のバスケットに子犬を入れた。 「此処ではミックと呼んでいて雄です」 キミがその様に伝え子犬に別れの挨拶を太吉朗にさせた。 |
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話は正太郎のパリから大分ときも過ぎました。 横浜幻想のアンテロープ編の1872年(明治5年)からだと12年後(第1回時点)の横浜です。 今回の話の中心は了介と明子になります。
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2010年02月13日 了 |
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幻想と現代社会へ続く歴史の真実との狭間を探してくださいね。 教授からの原稿を小出しながら更新中 アイ |
幻想明治 | 第一部 | ||
其の一 | 洋館 | ||
其の二 | 板新道 | ||
其の三 | 清住 | ||
其の四 | 汐汲坂 | ||
其の五 | 子之神社 | ||
其の六 | 日枝大神 | ||
其の七 | 酉の市 | ||
其の八 | 野毛山不動尊 | ||
其の九 | 元町薬師 | ||
其の十 | 横浜辯天 | ||
其の十一 | |||
其の十二 | Mont Cenis | ||
其の十三 | San Michele | ||
其の十四 | Pyramid |
酔芙蓉−ジオラマ・地図 | |||||
神奈川宿 | 酔芙蓉-関内 | 長崎居留地 | |||
横浜地図 | 横浜 万延元年1860年 |
御開港横濱之全圖 慶応2年1866年 |
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横浜明細全図再版 慶応4年1868年 |
新鐫横浜全図 明治3年1870年 |
横浜弌覧之真景 明治4年1871年 |
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改正新刻横浜案内 明治5年1872年 |
最新横浜市全図 大正2年1913年 |
横浜真景一覧図絵 明治24年7月1891年 |