幻想明治
 其の十一 明治20年 - 弐 阿井一矢


   

 根岸寅吉 (根岸虎太郎)

1911年 明治44年4月18日生まれ(天保14年1843年)

横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。

 根岸 容 

弘化5年1月5日(1848年2月9日)生まれ

江戸深川冬木町に生まれる。 

 根岸明子 

明治元年12月10日生まれ(1869年1月22日)

久良岐郡野毛町三丁目に生まれる。

 佐伯 琴 (根岸 幸) 

1920年 大正9年9月9日生まれ(嘉永5年1852年)

横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。

 根岸了介 

1877年 明治10年11月7日生まれと届出

神奈川県久良岐郡横浜町末吉町5丁目54番地に生まれると届出。

(神奈川県第1大区4小区)

(明治10年5月5日山手220番生まれ)

 根岸光子 

1885年 明治18年5月31日生まれ


サクレ・クール

明治20年(1887年)7月22日金曜日 

この日は四時半前にもう能見台は明るくマックやカーチスに誘われて鶉に山鳥を撃ちに来ていた寅吉とケンゾーは6時にはすでに五羽ほどの成果を上げていた。

この日の能見台には鉄砲を持った10人ほどが出ていて犬も三十頭ほどが集まり賑やかこの上なかった。

付近の案内は藤太郎に金澤の仰木巡査が指揮をし、兎を狙う者には別に土地の人が付いて追い出し役も五人ほど雇われていた。

寅吉は山鳥を一羽に鶉四羽で満足して犬たちと馬車の脇にいてケトルで沸かした紅茶を飲みながら遊んでいた。

「旦那はもういいんですかい」

「冬場と違ってとやの鳥は綺麗じゃないしな、菊さんこそ獲物を撃ちに行かないのかよ。鳥撃ち銃を貸すぜ」

「あっしはどうも殺生は苦手でござんして」

茂在菊次郎こと鉄砲菊はそう言って笑った、この間まで八王子と甲府を結ぶ郵便馬車の別当だった男だ。

この年27才、別当当時護身用の拳銃を携帯していてやくざと喧嘩して其の銃をぶっ放して名をとどろかせたばかりだ、どういうつながりか川村三郎を頼り横浜に来て今は寅吉の長屋でくすぶっている。

「それでコタさんの旦那の言うエンコの発展に寄与しないかという話でござんすが」

「いいんじゃねえのかい、横浜は興行師の多い場所になってしまったが案外これからは浅草が狙い目だと思うんだがね。幸い新門の流れを汲む女興行師のお春さんという繋がりもあるし公園六区は横浜に負けない新興地だ。一から出直すには最適だと思うぜ」

「わかりやした。川村のおじきに話して明日にでも浅草へ出向いてみます」

「そうしねえよ。お春さんには電信で知らせるからこの財布を見せれば紹介状の代わりになるからすぐになにか仕事を探してくれるさ」

例によってチョッキの隠しから出した洋財布に別に十円の入ったぽち袋を乗せて手渡した。

悪びれる風もなく「かっちけねえ」とあっさりと受け取り着流しの懐の胴巻きへ押し込んだ。

寅吉は一月ほどの付き合いでこの男が気に入ったようで弁天の境内で喜重郎さんとともに勝之助や小繁を聞いたことも有る。

小繁は父親の繁吉以上の人気でこのとき15才、でろりんとも言われ祭文がたりとも言われる中で浪花節という名が定着し浪曲師と呼ばれることを好む男もいた。

鉄砲菊は勝之助より小繁のほうが上手いが三味線がいまいちだと評価も中々の巧者で喜重郎さんを喜ばせた。

まだ横浜で定席を浪曲師に任せるのはいないが東京にちらほらと出てきたそうだ。

横浜は明治17年に見世物興行を伊勢佐木町部内から賑町四か町に限り許可となり銘酒屋麦湯の店も多く集まり殷賑を極めるようになった。

寄席についてはその限りと有らずというので野毛、関内、関外に寅吉たちの色川亭など十軒ほどと富竹亭(真砂町四丁目義太夫)丸竹(伊勢佐木町一丁目角地義太夫)などであったが富竹関係だけでこの後十年を経ずして新富亭(松ヶ枝町三十二番地落語)富松(賑町二丁目義太夫)新丸竹(元町3丁目色物)新竹(松影町亀の橋際講談)長竹(長者町八丁目浪花節)新富竹(賑町一丁目色物)萬竹(松影町二丁目浪花節)を出していった。

7時半にはその日の猟を終わりにしたものが順に馬車溜まりに集まりだした、ケンゾーは犬を曳くガジこと雅次と音松の肩に雉に山鳥など大物ばかり六羽を担がせ自分は腰に鶉六羽を下げて引き上げてきた。

税関長の有島も二人の供に大物四羽を肩に鶉十羽を網に入れて戻り成果を報告すると「今度は日曜に頼むよ」そうケンゾーに言い残すと馬車と犬を供に任せ馬であわただしく仕事場へ向かって出て行った。

寅吉たちも今日の役員のケンゾーに後を託して帰路に付いた、能見台田中の立場の茶屋は藤太郎の叔父に当たる老人が今は番を任されていてそこで焼きもちを買い入れて菊と馭者の腹を癒させた。

犬たちを石川村で降ろし朝の食事をさせて馬車で末吉町へ向かった、明日は薗が東京へ発つ日で今日の獲物は其のお祝いの席でのご馳走にするため安部川へ持ってゆくのだ。

三月に小学校を卒業し亀さん夫婦も奔走して支度の一切が済み住まいも新平右衛門町に用意されすでに留守居の小女も決まり、浅草猿若町の文楽座での舞台が決まったのだ。

竹本京枝が夏枯れの席ではあるが今までは素人、これからは芸人として生きていくにはいい試練だと綾瀬太夫と決めてくれたのだ。

昨年から月一度素人として絣の着物いがぐり頭の子供の舞台は浅草っ子の評判になっていたが今年から髪を伸ばすことを許され女の子らしさがでてきている。

其の晩、安倍川では招待されたのは長屋のかみさんたちで玉之助として立派に挨拶されてもう嬉しいやら寂しいやらで気持ちが収まらない様子だ。

「横浜へも出来るだけ来ておくれよ」

「東京まで応援に行くよ」

などと代わる代わる玉之助の手を取って義母の鶴勝にも同じように「お薗ちゃんを立派な女義太夫におたの申します」と自分たちの子供を預けるような事を言う者も居た。

 

寄席

明治35年の調べでは横浜に二十一軒あったそうだ、町名は当時のまま。

真砂町四丁目・富竹亭(義太夫)

賑町一丁目・日吉亭(講談)

賑町二丁目・壽亭(浪花節)・富松亭(怪談・電気仕掛け)

長島町三丁目・長島座(をどり)

壽町・松福亭(講談)

松ヶ枝町・喜久廼家(かっぽれ)・新富亭(色物)

野毛町・色川亭(色物)

若竹町・若竹亭(講談)

戸部町・高橋亭(講談)・若松亭(浪花節)・清港亭(色物)

久方町・新盛館(講談)

松影町・松影亭(講談)・横濱亭(怪談・電気仕掛け)・萬竹(浪花節)

青木町埋地・橘樹亭(色物)・青木亭(講談)神奈川亭(講談)・金石亭(色物)

劇場

下田座(北仲通2丁目)下田屋文吉

文久元年9月~明治3年8月佐野松と合併

佐野松(住吉町4丁目馬車道)佐野松金太郎

明治元年

明治3年8月下田座と合併。

羽衣座(姿見町裏)佐野松金太郎、高島嘉右衛門、高島権三、石川豊吉、轟由次郎

明治3年下田佐野松、明治9年羽衣座

明治32年8月12日、明治33年10月3日、明治34年9月、明治36年12月19日と火事にもめげず再建されたが大正4年1月焼失により廃業。

岩井座(高島町1丁目)岩井半四郎

明治5年~明治15年頃

山中座(長者町7丁目常清寺境内)山中祐七

明治7年4月~明治7年9月

港座(住吉町1丁目)高島嘉右衛門、鈴村要蔵、岡本よし

明治7年7月~明治30年頃

蔦座(吉田町1丁目)斎藤調三郎、増田啓蔵

明治9年8月~明治32年8月12日焼失廃業、映画参照

此処も火事による再建は明治13年5月と同年12月の被害を受けている。

粟田座(松ヶ枝町)粟田某

明治12年頃~明治18年頃焼失

勇座(松ヶ枝町24番地)横田勇助

明治13年7月~明治32年8月12日焼失

賑座(賑町2丁目2番地)小林彦太郎、小林清吉

明治13年7月~明治32年関外大火類焼再建~大正3年朝日座と改称

朝日座(賑町2丁目2番地)佐々木染之丞

大正3年賑座継承~伊勢佐木町東映~2006年8月6日閉館

吉濱座(吉濱町通り)

明治16年頃~明治20年頃

千歳座(千歳町2丁目20番地)

明治22年頃~明治35年頃

喜楽座(賑町1丁目3番地)両国芳之助、内藤健輔、内藤晴信、轟由次郎、佐木染之丞

両国座は未詳ながら明治28年名古屋下り岡本美根次一座が興行を行っている~両国座を明治32年関外大火類焼の後33年再建後に喜楽座と改称~大正4年4月改築横浜最初の椅子席を設置~大正12年9月大震災罹災再建~昭和5年日本活動写真に経営を委譲~伊勢佐木町日活

相生座(松ヶ枝町51番地)

明治30年頃~明治42年頃

平沼座(平沼町3丁目34番地)

明治33年頃~明治末年勇座~大正8年山村座(松本由蔵)~大正12年焼失

山村座(平沼町1丁目69番地)松本由蔵

昭和2年~

雲井座(足曳町2丁目16番地)原善太郎

明治33年12月~大正初年横濱座

横濱座(足曳町2丁目16番地)轟山次郎

大正初年雲井座を継承~大正12年大震災焼失

長島座(長島町6丁目30番地)伊藤善吉

明治33年12月~大正初年頃

横濱演舞館(本牧町2500番地)

大正3年4月~大正6年頃

横濱劇場(花咲町12丁目河岸)

大正5年頃~大正12年震災焼失

映画

伊勢佐木町蔦座(横濱館勧業場・伊勢佐木町1丁目)旧吉田町1丁目

明治35年5月映画興行~明治42年横濱館~昭和4年廃館 

喜音満館(キネマ館・福富町1丁目30番地)内山梅吉

明治41年仮設小屋にて興行~42年5月洋風二階建て新築常設館(開港記念電気館)~大正3年以降に廃館(大正3年1914年の地図に載っている)

錦輝館(賑町1丁目)

明治42年頃~大正末年焼失

又楽館(錦輝館跡地)内山梅吉

大正末年~昭和11年オデオンに吸収合併

オデオン座(長者町6丁目角地)ワグマン(リヒァルド・ウェルデルマン)~平尾栄太郎(大正3年)~六崎市之介(大正13年)

明治42年頃(44年説等あり)~大正12年大震災被災~大正13年再建~昭和11年改築(又楽館吸収合併)~昭和17年横浜東亜映画劇場~同年横浜松竹映画劇場~昭和20年9月30日閉館後米軍接収~昭和20年10月オクタゴンシアター~昭和30年11月横浜松竹映画劇場~昭和48年閉館~昭和60年横浜オデヲン座~平成12年7月廃館

 

銘酒屋、麦湯の店が日本人相手ならちゃぶやが本牧根岸に多く存在するのは外国人相手の商売だが、居留地の安ホテルでは公然と女を呼ぶ客が多くいたので取締が厳しくなり、遊歩道沿いの休みどころが其の代わりを務めるようになってからでちゃぶやと呼ぶようになってまだ10年と経たないだろう。

湯屋の二階は禁止され湯屋の姐さんもいなくなり男が安手に遊ぶ場所は銘酒屋へ流れるのは当然といえば当然だ。

茶女として仕事がある間はともかく冬になると身を持ち崩さずにいられるのは仕事を得る事が出来た者で、生活の為もあるだろうか女衒まがいの勧誘も多いのだ。

「姉さんのように様子がいい女は茶女などもったいないぜ」

などはいいほうで「客が五十銭払ううちから店が半分、半分は自分の物さ。ひとり二十五銭でその日は暮らせれば後は気楽に生きていけるよ。年季奉公がいやなら気楽に夕方から出る手もあるんだぜ」ととにかく即物的に生活の事を持ち出して店に紹介する者も居た、実際そんなうまい話しがあるわけもないのだが一度身を落とせばそんなことにかまう間もない日が続くのだ。

横浜の茶女を斡旋する男たちは工場から常雇い(四月から十月)で八銭だったものが十二銭になった此の頃でも小さなところで頼まれる臨時の者を公園で待ち構えて集めてきていた。

そこであぶれるとその日の稼ぎもなく横浜へ出てきたばかりのものは女衒の口車に乗りやすいのだ、特に十一月ともなると雇いの口も少なくなる。

斡旋業者の多くは金貸しも兼ねていて女衒とのつながりも有るようだ。

実際の事は五年の年季奉公を証文で取り交わすと百円から百二十円、女衒は程度のいい奴で二割を取り、女にはその残りが渡される事が多いが酷い奴になると半分を懐に入れる奴までいた。

黙認されているとはいえ遊郭と変わらず客を日に何人も取らされるのは店も商売だ。

横浜で腕のよい大工で一日五十銭がよいところで銘酒屋に麦湯は二十銭が相場だ、女衒の言うように上手い話しが転がっているはずもないのだ。


その日ニューヨークへ集まった6人の女性は清次郎がついて最後の買いものをして回り横浜へ先に送るものとロンドンパリへ持って行くものを調べだして荷造りに忙しかった。

ボストンでは彼女たちとの別れを惜しむ者が多くこのままボストンに住みなさいと言う人も多かった。

7月に遣り残した課題をそれぞれがクリアーしての帰国だ。

アキコにはヒューオブライエン市長にコリンズ議員もが大統領の親書を送るからもう一度でて来るように勧めてくれた。

「一度国へ帰って両親と外務省の許可をいただけたら戻ります」とはいえ無理だろうという気持ちが強いアキコだ、株式投資なども清次郎の名義に変更し之でお別れだという気持ちのほうが強かった。

アキコはパムたちの家族との別れもつらかったがジョリーとの別れが一番つらかった。

横浜の犬達とはもどってくると言うこともあり寂しいという気持ちはなかったがジョリーとキッドにジャックとの別れは二度と会えないという思いがあり涙が止まらなかった。

9月の末にニューヨークへ移りオールバニにあるプリュインさんの墓に詣で未亡人を慰めに訪れた。

清次郎と日本へ向かう支度と他の5人の世話をする毎日でその事が徐々にうすれていく事が余計悲しみを誘うとは想像もしなかった自分の気持ちだ。

パムとは船出まで毎日テレホンをかける約束で連絡は取り合うので気持ちが落ち込む事もなく毎日を忙しく暮らした。

10月15日土曜日にイギリスのホワイトスターラインのオセアニックでリバプール-ニューヨーク間の航海に乗り出した。

明子たちがボストンへ行く途中立ち寄った時はなかった自由の女神に別れを告げて七日間の航海は穏やかな日が続き無事にイギリス本土に到着した、リバプールにはスミス商会の元本社もあって横浜からの電信で出迎えにオウレリアが子供たちと来てくれていた。

御互いに手紙でのやり取りで写真も持っていたのですぐに見分けがついて初対面の挨拶も済みホテルへ案内された。

今は住まいがロンドンだがこの町で育ったオウレリアが清次郎と六人の乙女を夕方の街へ誘ってくれた。

翌日オウレリア親子と共にロンドン・ミッドランド・スコットティッシュ鉄道の急行でロンドンに出てセント・パンクラス駅(St Pancras station)へ降り立った一行はグレートキャッスル13番地にあるスミス商会のロンドン支店に立ち寄った。

本店はピカデリーサーカス近くに有るが其処は営業本部で世界各地との連絡の拠点だそうだ。

此処の支店は今オウレリアの夫であるミスターダンロップが支店長で欧州本部長を兼ねている。

前支店長はホルダー氏で今は引退して庭園つくりが趣味の田舎暮らしだそうだ。

ザ・ランガム・ロンドンへ案内されて其の晩はホテルでの歓迎会が開かれた。

10月29日ヴィクトリア駅8時発の列車は大きな汽笛の音を残して見送るオウレリア親子を残してドーバーへ向かった。
パリに入る前に太陽は西へ周って北駅に降り立ったのは陽が落ちた直後の午後6時15分。

駅には正太郎とエメの夫婦が一行を出迎えに来ていた。

ラ・アルブ街のオテル・ダルブについて手続きが済んだ一同へ正太郎が「夕食は下町のパリの味を楽しんでください。一時間したら下へ降りてきてください」と部屋に案内される七人に伝えた。

二人は明子たちをサンミシェル河岸のシャ・キ・ペッシュへ案内した。

「今晩の月は日本風に言えば十三夜です」

其の言葉にセーヌの川上に昇っている月を見上げる一同だ。

店は昔と変わらず賑やかにエトランジェを歓待した。

「明日は10時に来ますからゆっくりと休んでください」

正太郎夫妻はダルブのレドゥショッセで一同に別れると背に月の明かりを受け二人手を繋いで帰宅した。


ディマンシュの朝(30日Sunday、正太郎が迎えに来て今日の日程を伝え「疲れていてホテルで休みたい人は申し出てください。其れと特別にパリにいる間に回りたいところなどは清次郎か私に申し出てください。日程的に遣り繰りがつけば案内人を付けるか私かエメが案内いたします。今日と明日ですが、清次郎とアキコは夕方から横浜での知り合いを訊ねるので其のつもりで」と言ってくれた。

列車でヴェネツィアへ向かい12月2日のロンバルジー(2726トン)に乗船してアレクサンドリアまでなので25日VendrediFriday)にパリを出立だと清次郎が予定表を配っていたのであちらこちらと回る余裕はあるのだ。
ロンバルディ2723トンはロンバルジーもしくはロンバルヂイ(2726トン)と書かれる事もある船で巡航速度は12ノット。

一同はサン・セヴラン教会からサン・ジェルマン大通りへ出た。

サン・ミシェル大通りへ入りオデオン座前を通り上院を説明しリュクサンブール宮殿にそってボージラール街を進み、パリ・カトリック大学(L'Institut catholique de Paris)を教えた、此処は1875年に出来たばかりだ。

レンヌ街の交差路でノートルダム・デ・シャン街を上れば正太郎が住むエメが伯母から相続したアパルトマンに手を入れて家族四人が住む家はすぐ其処だ。

サラ・ヨーコとジュリアン・コータもボストンへ来た時に比べ背も伸びて挨拶も大人びていた。

広間に落ち着くと冷やしたお茶とお菓子が用意されていた。

「今朝ショウがおっしゃられた回りたい場所の希望なのですがボストンでも話題に上ったサラ・ベルナールさんの舞台を見たいのですが」

常が口を開くと芳香たちも同じように今なにが上演されているかをエメに訊ねた。

「初日に間に合うのでサラから貴方たちを招待したいとビエを頂いてありますよ」

エメはサラ・ヨーコに写真を持ってくるように頼んだ、其の宝箱にはサラ・ベルナールの写真とシアター・ポルト・サン・マルタン( Porte Sainte-Martin)のビエが入っていた。

「サラのお誕生日は今月の22日だったのよ。わたし達も贈り物を持っていったのよ」

サラ・ベルナールはこの年43才コメディ・フランセーズを退団して一時パリから離れていたが此処何年かはポルト・サン・マルタン座を拠点に活躍している。

「今度のお芝居は新しいお話なの。私も詳しい筋は教えてもらえないの」

サラ・ヨーコはそう言ってラ・トスカの11月24日の12枚のビエと舞台衣装のサラ・ベルナールの写真を並べた。

エメと子供たちも付いてシャンゼリゼに向かった五人と別れて正太郎と清次郎にアキコは馬車を頼んでクストー街へ向かった。

ブティック・クストゥの隣マガザン・バイシクレッテはクリシー大街へ移り此処にはメアリー&ソフィアのブティックが開かれている、ソフィア親子は「わたし達ドレスに普段着の修理屋よ」と服の繕いと体形が変わる夫人たちに合わせてあげるのが主な店で街のおかみさんの味方だ。

正太郎から了介の消息は聞かされているが改めて明子から聞く了介の様子は親子に喜びをもたらした。

明子が話す了介と廻った横浜に東京の話しは親子にとって其の風景を思い出す事で横浜時代の楽しかった日々が思い出されるのだった。

メアリーには孫の了介だけでなくアキコがソフィアの妹のように思えるのだ。

ソフィアが寅吉の送ってきた一昨年の二人の写真とバンドで写したクラスの写真を出して「義理の親子と言いながらだんだんコタさんに似て来たのは不思議ね」と正太郎に言った。

「日本では氏より育ちと言って育った家庭の影響で顔つきや性格も其の家の人たちに似るといわれるのですよ」

「正太郎、明子たちの今晩の予定はどうなっているの」

「何も入っていませんよ。メアリーが食事にでも誘うかと思いましてね」

「其れはいい言葉だわ。ではロードで食事をしてサーカスに行きましょう、遅くなってもいいでしょ。ロードもシルク・フェルナンドも日曜でも開いているわ」

正太郎は明子に確かめてから承知した。

馬車を呼んでルピック街(Rue Lepic)からクリシー大通りへ出てフォンテーヌ街(rue Fontaine)へ入りフォーブル・モンマルトル街(Rue Faubourg Montmartre)と名が変わる先がブルス広場で右へ曲がるとコリント式の列柱が並ぶパリの証券取引所(Bourse de Paris)其の先フランス郵船とクレディ・リヨネ銀行の中間にサラマンジュのロードがある。

「この間話した留学生のうちから一人と付き添いの俺の弟だよ」

マダムの甥と夫婦になったイレーヌが「いらっしゃいませ、他の皆様もおいでになられれば歓迎しますわ。話を聞いて何時きてくださるか心待ちにしていましたのよ」と明子の手を取って席へ案内してくれた。

マダムもあい変らず元気だ、正太郎とソフィアが相談して各国の料理が混ざったこの店独特の皿が次々と出てきた。

「焼き魚を出せるように明日からは毎日用意しとくわ。ミチとタカにも連絡してくださる。タカの送別会も兼ねてきてくださると嬉しいわ」

「良いとも明日にはテレフォンで知らせておくよ。最も明日にはこの二人を連れて行く約束さ」

「あらモンルージュにも回線が引かれたの」

「5日ほど前のことさ」

タカも85年にはリセ・ルイルグラン(Louis le Grand)を卒業して2年の間正太郎の会社を手伝いながら新しい留学生がリセに進学出来るように教師を努めていた。

「そういえば兄貴」

「どうした」

「ミチさんは帰国しないのですか」

「何だお前のほうには何も言って来ていないのか。ミチはノエルの手伝いが自分の天性だといってるぜ。孤児の世話でノエルが動けない分を換わりにリヨンやルルドまで出かけて面倒を見ているよ」

「野村さんと結婚するという話は駄目になったと聞きましたがその後は手紙もあまり自分の事を書いてきませんし、俺もシアトルへ渡って年に二回ほどの挨拶程度のやり取りでしたので」

「小三郎さんは現地ではトロサと言っていたトゥールーズ(Toulouse)からさらに地中海に出てペルピニヤンの近くのピレネーの山中にあるアメリーレバン村に墓があるよ。今年も6月にはミチは勿論タカとノエルに俺も付いて10人ほどが墓参りに出かけて来たのさ。新納さんも小三郎さんが亡くなる前に帰国していて訪れる人も少ないのさ、西園寺様がパリにいればともかくヴィエンヌでも遠いのに去年帰国してしまったのでね」
オーストリア公使の西園寺は86年の4月に帰国していてドイツ兼ベルギー公使として赴任するのは88年になってからだ。

共に18の時に出会い学業に忙しい3年ほどの清い付き合いであったがミチには其れが人生の全てのような気がするとソフィアに打ち明けていた。

陸軍病院の温泉施設で亡くなった小三郎の墓は鮫島とも訪れたが其の鮫島も激務がたたりモンパルナス墓地に今は眠っている。


月曜日ダルブに9時に迎えに来た正太郎に伴われ公使館へ向かった。

前公使の元お大名の蜂須賀茂韶がマーシャル氏との軋轢も多く書記官として伊藤の内命を受けて赴任してきた原敬は随分と苦労したようだ。

出帆前日、井上外務卿に横浜富貴楼において蜂須賀公使への訓令を改めて聞かされ、従者小出貫一郎と共にカシュガル(Kashgar)へ乗船し、明治18年(1885年)10月14日午前4時雨の横浜から神戸、香港経由でスエズを抜けてフランスへ旅立ったのだ。

其の原に井上が二年は更迭しないと言ったはずの蜂須賀公使が明治19年(1986年)6月に帰朝した後を受けて7月23日付で臨時代理公使となり、其れは今年10月5日新任公使として田中不二麿が着任するまで続いた。

この当時パリ在住の在留日本人会会長にも選ばれている、理事には岩下清周、加藤恒忠がなった。

加藤は明治19年3月には公使館書記生に採用されている、パリには久松定謨の輔導役としてきていたがサン・シールに久松が秋山と共に入学し公使館勤務に専念できる事になった。

サン・シールには閑院宮載仁親王が学んでいて今はソーミュール騎兵学校をへて陸軍大学校へ入っている、この宮には随員として寺内正毅が公使館駐在武官を兼務で留学してきていた。

マーシャルは鮫島が公使館に雇った当時半日勤務ながら月俸50ポンド、そして全日勤務70ポンドになり正太郎がパリに着いた年の秋から80ポンドに上がった。

今マーシャル氏の月俸は2000フランとの噂だが其れだと115ポンドほどになる。

ジョゼフィーヌ75番について書記官の原に「この人たちがボストン留学から帰国する人たちです。男性は私の弟で虎屋のニューヨーク支店長です」と清次郎と六人のミスを紹介した。

原は正太郎と同年の安政三年に盛岡で生まれた、元は士原という家老を務める家柄だが養子に出て平民となった。

「話しはショウから伺っています。公使も会えるのを楽しみにされておられますからすぐ執務室へ行きましょう」

原は一同にそう言って公使執務室をノックして都合を聞くと八人を呼び入れた。

駐仏特命全権公使の田中は尾張の人でこの年後厄の壮年、岩倉使節団の一員としてパリまで来た当時から正太郎とは顔見知りだ。

公使との面談はボストンの話題で盛り上がり一時間あまりが過ぎて執務室を後にしたが公使が通りまでマーシャル氏を伴って送ってくれた。

マーシャルは正太郎を呼び止めて「例の畝傍だが保険金が下りたよ。百二十四万五千三百円の保険金だそうだ、之で今度はイギリスのグラスゴーのトムスンに注文するそうだ。畝傍に比べると最新式の船になりそうだよ。フランスは半分しか建造費を日本から受け取れず換わりに小さな艦を其の半金分でどうかと打診して来たよ。西郷さんも之で安心さ」と耳元で囁いた。

パリでは船に対して武器を過剰に装備したためバランスが悪くなったと新聞は書きたてていた。 

正太郎は「メルスィ・ボク」と言って握手すると皆が待つ馬車へ戻った、従道はヨーロッパ軍事視察団団長として欧州巡歴の間も長崎に来航した清国艦隊が起こした事件や畝傍の事で頭の痛い日が続いていたのだ。

畝傍は西郷海相がフランスを訪れる直前の86年10月20日(18日就役)にル・アーブルを出航、シンガポールを12月3日に出た後行方が判らなくなり飯牟礼中尉は艦長とは名ばかりでフランス士官以下78名が操艦していた。

原は86年の8月31日ハーブル(ル・アーブル)で試運転に立ち会ったがフランスは旧式艦を153万円などと高く売りつけたと正太郎に不満をぶちまけていた、其れは最大速力が18.5ノットで石炭搭載は多くとも帆走を兼用するタイプだからだ。

保険金が出て海軍は畝傍をこの19日に除籍した、新しい船は明治24年1月1日イギリス・トムスン社で就役、基本設計は1886年日本が招聘したエミール・ベルタン仏海軍造船大佐。
排水量2439トン、長さ92メートル、幅13メートル、3気筒3段膨張式×2基、2軸、5678馬力、19ノット、備砲40口径12センチ砲10門、47mm単装砲14基、11mm10連装ガトリング砲3基、魚雷発射管3門。
日本において初めてアームストロング社製速射砲を搭載した艦となった

サン・ジェルマンまで馬車で出てボナールの写真館で一同の写真を撮ると3時間後にモンパルナス墓地の南入り口に写真技師を派遣してもらう事にしてサンジェルマン・デ・プレ教会と其の周りの市場を廻り道端の店でコーヒーとサンドウィッチでお腹を宥めサン・シュルピス教会へ向かった。

教会の前の広場は広く人も多く集まっていて其の人たちと噴水が描く虹に見とれる一同だ、ブォージラール通りへでてリュクサンブール宮殿を時計回りにメデシス通りのエドモンド・ロスタンの噴水からパンシオンを見てからリュクサンブール庭園に入った。

「あらここの風景アキコのおうちで」

「覚えていましたか、ラモンという僕の友人が描いた絵ですよ」

「ああ、そうですわ。雛さんは物覚えがよろしいわ。今言われてこの噴水越しのパンシオンがあの絵の構図だとやっと気が付きましたわ」

アメリカに送られた女神像の原型といわれる彫像はこの時代まだ庭園に置かれていない。
(世界を照らす自由Liverty Enlightning Worldバルトルディにより製作。1900年リュクサンブール博物館に寄贈、1906年リュクサンブール公園内に設置。)

其処には様々な噴水と彫像などもあると話しながらメデシスの噴水へ行くと嫉妬に駆られた巨人ポリュフェモスがアキスを殺そうと、まさに岩を落とすところの場面が細い水路の奥に見える。

「近くまでいけますか」

芳香が正太郎に聞いてきたので水路に沿って木立の下を歩き間近まで行くと正太郎は慣れているがニンフの乳房を現した様子は乙女達にはすこし刺激が強いようですぐに目をそらしてしまった。
この噴水1624年にバロック様式で建てられたと案内書には書かれている。

宮殿には入れないがすぐ目の前にある大きな池には小さな子供たちが集まってヨットを浮かべ、右回りに水が回り子供たちは池を何度も回っては歓声を上げている。
管理人の周りで子供たちが賑やかに色とりどりの帆を張ったヨットを選んでいて其の近くのベンチには普段着の夫人たちが大勢編み物をしている。

近くの木陰には売店があり子供向けの菓子や遊具に冬も近いのにアイスクリームも売られているここも子供たちが取り囲むほどの人気だ、この店は宮殿にある上院議会が十年程前に設置した店だ。

秋の花の蜜を集める蜜蜂が飛び回り忙しげに行き来している後を追うと建物から離れた木陰に養蜂箱が置いてある「此処は蜜蜂の飼い方や蜜の収集方法の講習をする学校ですよ」正太郎が説明する前に観光客と見て近寄ってきた老人が説明役を買って出た。

其の老人の案内で学校の生徒たちが午後の授業で実際に蜜を集める様子を見学させてもらった。
聞けば10月が生徒の入れ替え時期だそうで今は最初の授業月間だそうだ。

カルボーの泉のある出口へ向かいアヴェニュー・デ・オプセルヴァトワール(天文台大通り)のブロンズ製の四人の彫刻家の作品をみた。

ルイ・ヴィユモは台の周りのガーランド・フェストーン(花飾り)をピエール・ルグレンは十二宮の帯と内側の球体と外の輪の部分。
動物を得意とする彫刻家エマニュエル・フレミエが八頭の馬に海亀そして水を噴き出す魚をデッサンした。
ジャン・バティスト・カルポーが四人の女性を彫刻した、先ほどのニンフとは違い力強さが現れているせいか周りを廻って馬の様子や魚のひょうきんな顔を話題に楽しんでいた。

道の正面には天文台が見えるがモンパルナス大通りを右へ案内した。
左手にモンパルナス駅が見える場所まで来て「明日は此処から汽車でベルサイユ宮殿まで出かけます」と一同に伝えた。

午後四時モンパルナス墓地には先ほど約束した写真技師が待っていて南ゲート前の募金箱の前で全員の写真、鮫島公使の墓碑のところで正太郎と清次郎を入れて日本風の墓碑の写真を撮った、技師と別れ一同はラスパイユ大通りへ出て北へ下った。

レンヌ街で30分後にモンルージュまでの馬車を頼み部屋へ上がった。
エメが子供たちと五人を連れてボン・マルシェ(Le Bon Marche)へ出かけて行った、秋物のバーゲンが行われていると聞いて芳香と玉が「日本へのお土産にパリの最新モードを買いたい」と言うので勇んで出かけて行った、長い間改装中だったが昨年出来上がったのだ。

通りには一面ガラスが廻らされショーウィンドウには冬の服や旅行鞄などがデコレーションされている。
エメの顔を見て売り場主任が飛んできて留学生の好みを聞くと秋物のバーゲン品と冬物を売り場の一角に集めてきた。

子供たちも含めフランス語イギリス語日本語も入る賑やかな様子に売り娘達も入り、周りの人たちも熱気に誘われるように取り囲んだ。
それぞれが満足する服を選んだのは2時間ほどがたってからだ。

「アキコもいればもっと面白かったわ」

「アキコは趣味がいいの」
サラ・ヨーコの言葉に「ううん、アキコはさっさと決めて一人で探検に出かけるか、品定めに時間をかけても何も買わないのよ」と雛がすっぱ抜いた。

うんざりしていたジュール(ジュリアン・コータ)が「アキコがいれば僕も退屈しないで済んだのに」とふくれ顔だ。
家を出る時に「お留守番する」とサラ・ヨーコに聞かれて「一緒に行く」と言った手前我慢していたようだ。

モンルージュではハイティーの支度をしてアキコと清次郎を待ちうけていた、ミチとノエルがソフィアとタカを伴いフランスへ旅立って以来の再会だ。
タカが帰国した後新たに二人受け入れる準備が始まるのでノエルは休む間もない毎日だが其れが若さを保つ秘訣よとエメに打ち明けたそうだ。

タカはアキコと抱き合って再会を喜んだが清次郎はノエルやミチと日本風の挨拶の後2人の両頬に軽くビズをした。

日本からやってきている留学生二人と横浜から来た小さなフランス人のお嬢さんが紹介され食堂へ移り、お茶とお菓子にサンドウィッチが出されてノエルは二人のメイドを紹介して同じテーブルに着かせた。

「一昨日の十三夜には加藤さんが三人の日本の人を連れてきてくれて其れは其れは賑やかでしたよ」
ノエルはそう言ってサン・シールへ通う二人の様子を話してくれた。

「伯爵はサダコト(定謨)さんと言って大尉のご主人に当たる人だそうよ。ショウはまだ会った事がないようだけど大尉は加藤さんの換わりに呼ばれたのよ」

「話しは聞いていますし横浜からも手紙が来ました、伯爵にはパリへ来てすぐに宇川さんの紹介でお会いしましたよ。当時はまだ伯爵になっておられませんでしたがね。大尉という人にはまだ会っていませんね」

「あらそうなの」

「ところであと一人はどなたでした」

「黒田さんという人、画家志望だそうよ。芳翠さんのお知りあいだそうよ。アカデミー・コラロシイへ入ると言っていたわね」

「彼はパリの若い連中の人気者ですよ、林さんの店で三度ほど会いましたよ。新太郎君は原さんたちと同じアルカンボウが先生ですよ。折角入った法律大学を辞めて本格的に絵を学ぶ事にしたそうでガゾウさんやケイイチロウさんとコラン先生に教わっていますよ」

「あらキヨテルと言っていたわよ」

「子供の時の呼び名がシンタロウなんですよ」

山本芳翠は明治十一年にパリへ入りエメも学んだジャン・レオン・ジェローム先生の門下だ、新太郎事黒田清輝とは明治19年2月に公使館での集まりで知り合った。
黒田はこのとき絵の下地があると大いに褒められた事が嬉しかったようで養父に手紙で其の事を報告している。

芳翠はこの年明治20年に帰国したが畝傍が其の作品を積んでくれると言うので大半を積み込んでもらったが遭難に会い消失してしまった。

山本芳翠の世界

鮫島がなくなった後、芳翠が描いた肖像画は本人が持ち帰ったため今も残っている。

この肖像画は鮫島尚信がパリで客死した直後の制作と考えられる。日本に持ち帰り、画家が亡くなるまで手元に置いたが、その後、鮫島の随員として駐仏公使館に勤務した小城久治郎の手に渡った。小城は、この絵を自分が経営する芝公園のフランス料理店三縁亭に掛けておいた。のちに小城の孫である教養学部ドイツ語教授小城正雄により本学に寄贈された。なお、鮫島が。パリで山本に某伯爵家の天井画制作を依頼したという話が伝わっている(長尾一平『山本芳翠』一九三〇年)

東京大学所蔵肖像画・肖像彫刻 鮫島尚信及び山本芳翠でページ検索もしくは62*までスクロール

http://www.um.u-tokyo.ac.jp/publish_db/1998Portrait/03/03100.html

三菱重工 占勝閣 所蔵品

http://www.mhi.co.jp/nsmw/introduction/facilities/guesthouse/collection.html

 

藤雅三(明治十八年渡仏)はコランに師事、黒田清輝(明治十七年三月十八日パリ着)は通訳として通う、久米桂一郎(明治十九年七月渡仏)は日本で藤に学び其の後を追う様にラファエル・コランに入門し、明治二十年四月ポール・ロワイヤル大街88番地2号(Boulevard de Port-Royal)に黒田と共同でアトリエつきのアパートを借りて勉強に励んでいる。

五時半に日が落ちてもまだ月が昇ってこない、6時近くセーヌ県のほうに丸い月が昇り庭が明るくなった、薔薇の色が月に映えて優雅な趣だ。

今週はみな落ち着かないだろうが来週にでも朝テレホフォンで話したように全員とはいかないだろうがロードに昼の忙しい後の2時にでも予約をしてタカのお別れ会の先行をすることにした、日にちはミチが改めて正太郎と相談する事にした。
出立が近づけばどちらも忙しくなるだろうとエメが朝のテレフォンの時に話していた。

「貴方たち夜の食事はどうするの食べて行ったらいかが」

「ダルブに戻って他の者がまだなら例のシャ・キ・ペッシュへ行かせますので」
そう正太郎が断って予約していた馬車が迎えに来る7時半まで話しこんだ。

ダルブではエメや子供たちもいてお茶をしていたが正太郎が戻ってきてシャ・キ・ペッシュへ向かって賑やかな夜をすごして明日のベルサイユ行きは朝8時に馬車が来る事にしてあるから早起きしなさいと一堂に念を押して戻った。


火曜日はノヴォーン(novembre11月)1日8時に迎えの馬車が来て一同が駅に着くと正太郎とエメが待っていた。

9時発の列車でヴェルサイユへ向かい35分に駅に降り立つとオムニバスが観光客を乗せている、案内所を訪れ案内人を雇い9人は2台に別れて宮殿に向かった。

何時ものように宮殿(Chateau de Versailles)を南のアーケードから抜け南の花壇脇から水庭園に出ると「振り返らないで泉水の先の階段したまで歩くんだよ」と正太郎が注意した。

目の前の対の女性像はブロンズ製ケレール兄弟の作、遠くまで見通せる光景に驚く一同と泉水を回り込んだ、

階段を降りるとラトナの顔が徐々に近づき傍に行くと見上げる格好になる、噴水(Bassin de Latona)の水がかえるの口から勢いよく出ていてすこし冷たく感じた、向こうに回り振り返った一同に宮殿は圧倒的な大きさで圧し掛かるかのように空の青さに負けずに輝いていた。

案内人は泉水の神話の話しを一同に聞かせた。

「水を飲もうとした親子を侮辱した村人が水を汚し飲めなくしてしまうので怒ったゼウスが村人たちを動物にかえてしまいラトナがとりなし元にもどすよう許しを請うている場面ですよ」

噴水の右上に水の前庭の噴水が有りますと案内人が言うのを待っていた様に勢い良く水を空に噴き上げだした。

注 現在ラトナの顔はグラン・カナル方向を向いている。

「11時から1時間と14時から1時間だけこの時期はあの噴水の水が出ます」

アキコが時計を見ると11時にはまだ間があり「清次郎のウォッチは」と聞くとポケットから出した時計は明子のと同じ10時50分だ。

「フランスは日時計ででも測ってるのかしら」

日本語で囁くと傍にいたハルが聞きつけて「またぁ、アキコはいつも面白い発想をするわね」とコロコロと笑った。

他の者が何事かと聞くのでハルが説明すると案内人が身を乗り出してきて聞くのでアキコが簡単な説明をすると「東洋のマドモアゼルにセルヴィスですよ」と笑って手を叩いた。

アポロンの泉水(Bassin de Apollon)のテーマは日の出で、太陽神アポロンが光り輝く四頭立ての馬車を駆って天空を駆けめぐる様子を描いていると説明しながら王の散歩道の坂を降り600mほどで泉水にいきつくとアンドレ・ル・ノートルにより設計されたグラン・カナルが近づいてきた。 

正太郎はアキコと清次郎に「昨日話しが出たサン・シール陸軍士官学校はこの南西の先にあるんだよ水路は北西に向かって延びているからこの方向かな」と指先を伸ばして十字に分かれたプチ・カナル付近をさして教えた。

正太郎は案内人が示すプティ・トリアノンからグラン・トリアノンへのコースを廻って歩きグラン・カナルへ出る花壇脇にあるコーヒーハウスで休む事にした。

此処からほぼ3時間の見学と45分のコーヒータイムだ。

案内人は北の花壇、南の花壇にも案内するか其の時に打ち合わせようとエメと相談していた。

彼の案内料は駅で約束した6時間36フランで、之は一人4フランの計算で5人以上は其の計算だそうだ、休憩時間も含めてだそうで組合の決まりで先払いしてある、延長は人数にかかわらず30分5フラン中々いい稼ぎのようだが大人数の案内は月に数えるほどしかないようだ。

プティ・トリアノンの庭はイギリス風だ、此処は入場するのに1フランが必要だ、シャトーに入り部屋の案内を受けて回り二階のマリー・アントワネットの肖像画の前で暫く立ち止まった。

「なんと言っても此処はポンパドゥール夫人のために作られたのですが1764年に完成を見ることなく亡くなり、この場所はデュ・バリー夫人に譲られました、そしてマリー・アントワネットの手に入った時にこの庭園を今の形にしました」

1867年皇后ウージェニーが王妃を偲ぶ美術館とし、王妃の使用した家具や食器類を展示して開放したので市民が入る事が出来るようになった事は此処への道すがら説明を受けた。

ル・アモーにでると午後の陽射しは暖かかった、あちらこちらピンクの薔薇の群落がありラ・テンプル・ダムールのクピトを見て池のほとりを回り グラン・トリアノンへ向かった。

パンフレットにはトワレットゥが記入されていてグラン・トリアノンへ入る前に其処へ入る事にした。

門で一人1フランを払うと中へ入り2本ずつ組まれた円柱の間をくぐった、1683年に王妃が亡くなった後、ルイ十四世はマントノンと秘密裏に結婚し、このトリアノンで余暇を過ごした事を含め案内人のクランが説明してから建物に入った。 

「ヴェルサイユ宮殿の内部は特別の事がない限りは入れないのですが此処は別荘と言う設定で建てられ全てが小作りです」

其の説明どおり廊下は狭く三人並んでは歩けないほどだ、皇后マリー・ルイーズの寝室は本当に狭く感じた一同だ。

ナポレオン一世皇帝は皇后とこの建物を愛し様々に手を加えて整備した事を自慢げに説明するクランは広い柱廊を通って反対側の右翼棟へ向かう間もナポレオンの話しをしどうしだ。

円形広間はナポレオン時代衛兵が詰めていたこと、皇帝の家族の間は最初劇場だったこと、音楽の間は扉の上部分が開き食事中に隣の部屋で演奏される音楽が聞こえること、皇帝ルイ・フィリップの家族の間は元二つの部屋をつなげたもの、孔雀石の間はルイ十四世のときには夕日の間として使用していたがロシア皇帝アレクサンドル一世からナポレオンに贈られた孔雀石の家具類が置かれこの名が付いたこと。

ヴェール・シプレ( vert cypres濃い緑)のカーテンは冷涼の間、ルイ十四世の時代は孫の嫁であるブルゴーニュ公妃の大広間だった。

クランはブルゴーニュ公爵夫人、すなわちサヴァワ公女マリー・アデライドが王太子の長子ブルゴーニュ公と結婚したのは1697年で15歳の花婿と12歳の花嫁は宮廷を若やいだ雰囲気で満たしたと説明した。

コランの回廊は庭園とトリアノン宮の風景画がずらりと飾られている、絵の作者はコラン以外にアレグラン、マルタンが飾られている。

http://www.worldvisitguide.com/salle/MS01833.html

庭園の間を入り口から覗いて見てグラン・トリアノンを後にした。

コーヒーハウスに着くとすでに2時40分になっていてクランとの約束は残り時間に限りがあり叉改めて来ようと話しがまとまり一休みした後運河沿いにアポロンの泉水に戻った。

ラトナの泉水・アポロンの泉水・ピラミッドの泉水・冠の泉水・ドラゴンの泉水・ネプチューンの泉水・四季の泉水・・・など多くの泉水がありエメが5回は通わないと回りきれないわと言う言葉に納得する一同だ。

王の散歩道を登り水の前庭に戻って入ったときとは違う北のゲートから宮殿を通り抜けて表に出た。

入るときも見上げたルイ十四世の騎馬像に別れを告げプラス・ダルム(アルム広場Place d'Armes)へ出た、左側にグラン・エキュリ(大厩舎grande ecurie)右のプティ・エキュリ(小厩舎petite ecurie)が広場の両脇に見える。

「小さいと言うのにまるで宮殿のようだわ」

芳香が振り返って常にいうと「私も午前に此処を抜けたとき宮殿と勘違いしたわ、でもグランとプティの差がわからないわ」と答えた。

駅でクランにチップとして20フランを渡し「追加料金は」と聞くと自分の時計を出して「4時に5分あります。時間内です」といったが駅の時計は4時20分だ、正太郎と近くにいた清次郎は握手をしてクランと別れた。

モンパルナス駅には陽が落ちてから着いた、エメと正太郎は「7時半にダルブに食事へ迎えに行きます、今晩は牡蠣料理ですよ。牡蠣の嫌いな人は清次郎へ伝えて置いてください。別の料理を頼みますから」と伝えて馬車でノートルダム・デ・シャン街へ戻ると大急ぎで着替えて二人でダルブへ向かった。

モンフォーコン街のユイトルリー・レジ(Huitrerie Regis)はマレンヌ・オレロンの牡蠣で緑色が高級品だ、幸いにも全員ボストンで蛤や牡蠣にはなれていた様で生でも大丈夫のようだ。 

9人の席が用意されていて席に着くと早速エカイエが牡蠣をむき出した、マグレ・ド・カナールはシェリーで、生牡蠣で飲むワインはロワールのギィ・サジェ・サンセール。

ラ・カバンヌ・ド・ユイトールはシトロンを絞り落として食べたが店主がやってきて「昨晩ロレーヌがアマンとやってきて二人で60個食べて行きましたよ」と囁いた「其れで今日の事は内緒かい。ロレーヌにしては少ない数だね」と正太郎が聞いてみると「何、ロレーヌが殆ど食べたんじゃないのかな。今日の事を俺は言ってないけど鼻が利きますからね」とウィンクして言った。

「舞台も有るから二晩続けて出ては来ないだろう。後で顔を出して見るさ」

正太郎はエメのほうを見てウィンクするとウィンクで帰したので「食事の後パリのキャバレーを見学する人は手を上げて」と日本語で言うと六人のマドモアゼルは手を上げたが清次郎が上げなかった。

「6人が行くのにお前が行かないというわけにイカンだろう。其れと前に言った様に明日と明後日は自由行動だから休みたい人はオテル・ダルブに一日いてもいいし、街へ出たければ案内を付けて貰えばいいから」

正太郎に言われて「其れもそうですね。まさか全員手を上げるとは思わないのでホテルへ帰すのに付いていかないと困ると思いました」と遠慮がちに答えた。

アキコにタマもそんな清次郎の優しさが嬉しく感じられた。

ヒナは「清次郎は人に遠慮ばかりして、日本男児の心意気は何処に行ったの」と物足りない様子だが其れも清次郎が好きだからのようだ。

生牡蠣の後も牡蠣料理かと思う一同に出されたのは三羽の鴨で其れを9人に切り分けて腿肉は六人のマドモアゼルの皿に置かれた。

最初遠慮して正太郎や清次郎にどうかと言っていたがアキコが手を付けると其れを待っていた様に6人がおいしそうに食べだした。

「牡蠣と言っていたのに鴨が何度も出て驚きましたわ」

ハルがエメにラムのクリームシチューが出てきた時にそう言って之は何のお肉かしらと言いながらおいしそうに食べ、食事は其れで終わりとなった。

ヴァレンチノの二回目の舞台に間に合いそうなので勘定は正太郎に任せ、呼ばれた馬車でエメが一同を引き連れて先に出て行った。

正太郎が着いた時はもうカンカンも終わりマジックとジャグリングの舞台が賑やかに始まっていた。

さすがに良い席はとれなかっ様で、入り口近くの隅の清次郎が一人で皆と別れているターブルに座るとすこし斜め前の席でシャンパンにガトーが置かれたターブルから身を乗り出すようにジャグリングの妙技に見入っている一同だ。

二回目が終わり席を立つ人の間を縫ってロレーヌが若い踊り子を5人引き連れてやってきた。

正太郎が20フラン金貨を三枚、ミミという金髪の娘に渡し後で別けるんだと告げ向こうの席へ行かせた、ロレーヌは正太郎と清次郎の間に座り「ショウの弟と言うのはこの人ね」と顔を下から覗き込んだ。

「そうだよ25日までパリにいるからよろしくな」

「良いわお兄様」

あい変らず正太郎を兄に仕立て上げているようだ。

ほかの娘達はエメが六人の間に座らせパリの流行や最近の見るべき観光地にお勧めのレストラン、ブテックなどを喋らせた。

幸い6人からはロレーヌたちがいるターブルは見難いのをいい事にロレーヌは清次郎に気があるようなそぶりで話しを盛り上げた。

次の舞台が近づいてきてそろそろお別れだと席を立つ一堂をロレーヌが表まで送ってきた。

三台の馬車に別れ正太郎とエメもダルブまで行くことにしてアキコと正太郎に清次郎が一緒に乗った「清次郎は随分もてたようね」とアキコが言うのに「そうなんですよ。あれがパリの踊り子の手管ですかね。アキコと同い年くらいですかね。始めてなのに兄貴の顔でもてなしてくれたんでしょう」と答えた。

「お前あれがお嬢さんと同じくらいの年に見えたか」

「え、違うんですか、日本の女性はフランス人より若く見えると聞いていたし、ニューヨークの17か8くらいのお嬢さん方と同じようですよ」

「お嬢さんはどう見えました」

「わたし達よりすこし上かな。23くらいかしら」

「暗いし正面から見ていないからね。私より二月ほど早く生まれていますよ。もう三十をとっくに過ぎたんですよ」

まさかという顔の二人に「そういえば名前を名乗らなかったようだ。あれがロレーヌという牡蠣料理の店で話題になった娘だよ。娘じゃ可笑しいなマダムだ、まだ結婚した事は無いが父親違いの二人の子供の母親だ」と教えておいた。

「舞台でも20歳くらいにしか見えませんでしたわ」

「そうなんですよ。それでぽっとなる紳士が多いのですがね、呼べば話も上手いしあそこは店から連れ出すことも出来ないので余計入れ込むようですね。ユイトルリー・レジの親父さんの様子だと新しいアマンが出来たようだったね」

話しは其処までで馬車がダルブに付いて「では明日と明後日は自由行動にしてください。私やエメに連絡が必要な時は渡してあるテレフォンへかけてください。出かけるときも其れを忘れずにね。ではおやすみなさい、ボンヌィ」

「おやすみなさいボンヌィ」

と声を交わして正太郎はエメと家に戻った。


ヴァンドルディの朝、正太郎からのテレフォンで打ち合わせたように迎えの馬車が来てトラヤ・パリの事務所に出かけた。

フェルディナンド・フロコン街4番にあい変らず正太郎の机があり此処Paris Torayaの責任者と実質的に言われているのはムッシュー・アンドレだ。
アンドレ・アドリアン・ベルトレは日本式でいえば先月50歳になって貫禄充分だ、事務所に始めてきた客は彼が社長と思うようだ、あい変らず正太郎の机は入り口の右側、事務所の左隅にあるので見えないのだ。

事務所で紹介が済み一同をショウ・マエダの事務所へ連れて行った。

「向こうと同じような物だがね、あちらが輸出入と卸し部門で此方は販売部門と思えばいいかな。トラヤ・パリで買い入れた品物やブテックにバイシクレッテなどの小売店を統轄しているんだよ」

モニク・ベルモンドがパリのShiyoo Maedaの責任者だと紹介した。

「また社長はそんなことを言って、本気にしては駄目よ。ショウはいつも上手いことをいって仕事を押し付けようとするんですよ。去年の今頃もサイゴーというお髭の立派な海軍大臣の人が来た時も急にお墓参りに行くからと5日も人に仕事を押し付けたんですよ」

西郷は畝傍引き取りの責任者の福島虎次郎海軍大尉の墓があるル・アーブルへ寸暇を惜しむように冥福を祈りに行ったのだ、彼福島大尉は築地の海軍兵学寮で上村彦之丞や正太郎が築地のホテル・ド・コロニで西郷に紹介された山本権兵衛などと共に学んだ間柄だ。

福島が亡くなったのは畝傍の進水式が済んだ三ヶ月あとの明治19年6月30日の事で翌1日には原について正太郎もル・アーブルへ出かけサントマリー墓地への埋葬に立ち会ったのだ。

飯牟礼俊位中尉は福島の後を受け畝傍回航の責任者として7名の部下と運命を共にしたのだ、フランス側もロヒフル艦長以下79名の犠牲者を出している。

サントマリー墓地の墓碑銘には故 海軍少佐従六位 福島虎次郎の墓 明治十九年六月三十日死 行年三十五 と刻まれている、死後少佐に特進、飯牟礼中尉も死後大尉となった。

青山墓地軍艦畝傍殉難者墓所

飯牟礼俊位大尉、森友彦六大機関士、市村希甫上等兵曹 

新城憲雄上等兵曹 佐藤専一郎機関師 古内松次郎機関手

網谷幸吉船匠師 杉成吉士官技士候補生

(大機関士大塚文倫・機関大尉岡部金造 墓地を訪れた人の記事にこの二人の墓碑が確認されているのだが)

http://mahorobas.sakura.ne.jp/isinji/2007505.htm

このクラスの艦の艦長は中佐か少佐であるのが通常とウィキペディアに書いた人は福島虎次郎海軍大尉の事をご存じなかったようだ、上記の2名も引き取りの途上の客死であるならなおさらに福島虎次郎海軍大尉が青山に墓があるそうだが畝傍殉難者墓所の中には無く歴史の中に埋もれてしまったのは畝傍殉難の資料として残念なことである。
2024年1月11日・畝傍の記事をウィキペディア(Wikipedia)で開いたところ福島寅次郎少佐の名前が載せられていた。

「そうかもう一年になるんだね、西郷様がおいでになったあの時はまだ船が行方不明になるまえだったな」

「そういえば保険はどうなりました」

「ほぼ満額下りたそうだよ。でもフランスの乗組員の保障はどうなったんだろう、きちんと家族が生活出来るようになっていればいいけど」

暫く遺族の生活について話しが広がったがアキコが孤児院の卒院生の寮を見学したいと言うので六人にアンヌが付いて裏側のラ・コメット1号棟に出かけて行った。

管理人のマダム・ダントリク(Dintrich)が試験休みで休日の娘が居るからと部屋をノックして都合を聞くとどうぞと言うので小さな居室をのぞかせてくれた。

三人も入ると一杯になる部屋だがル・リが窓際に置かれ壁には花の絵が飾られ本棚には様々な小物が置かれて机は小さく勉強の道具で一杯だ。

「本は高いですからね。彼女には中々手に入れられないのですよ。エメにショウも其の事は承知でこの棚を作りましたの」

部屋の住人マドモアゼル・グノーは18才、此処は三年目になるそうだ、リセ進学を認められて特別奨学金をノエルたちが集めてバカロレア試験も通り今はリセのテルミナルだ。

大学が決まればメゾン・デ・ラ・モモに部屋が与えられてさらに勉強に励むことに為っている、彼女は孤児院の出身者たちの希望の星だ。

「男の人もおられるそうですけど」

「アア其れはアレシア街の2号棟のほうですよ。其方は3人の学生と勤めに出ている15人が入っています。今此処には4人の学生と20人の働く女性がいるんですよ。掃除などはメイド二人が働いているの」

アンヌが明子たちは横浜からボストンに留学して其の帰りだと話すとマドモアゼル・グノーの方から留学で困ったこと、楽しかったことなどを聞かれ、マダム・ダントリクが書斎でお茶にしながらお話ししなさいと下へ降りるように進めた。

横浜にボストンの事が暫く話題になり、其の後パリのリセやバカロレアについての話もし、帰国の鉄道と船の話でもりあがった。

「もう二度とこんな大掛かりな旅行が出来るとは思えませんわ、パリからヴェネツィアまで直接行くよりあちらこちらの街を訪ねてのんびりと帰国したい物ですわ、費用の事さえかまわなければ出来るのでしょうが」

「そんな貴族のやるようなことをヒナさんは、まったくの夢の話よね、ハル」

「本当よ、帰国の費用のうち大部分をアキコのお父様とショウが負担してくださらなければボストンから船の旅だけで、パリで観光など出来やしないわ。家の両親など電信の返事が手紙で来たと思えばお前が羨ましいなんて書いてきましたわ」

自分たちは帰国しても教師になるほかに自立できないだろうと芳香が言う話に被せる様に「まぁ、私が聞いた話ではあなた方政府の留学生と聞いてますのに、政府のお仕事につかないのですか」とマダム・ダントリクは疑問顔だ。

「其れは確かに政府が留学費用のうち三等の手当てを付けてくださいましたけど、それでは下宿代を払うだけで消えてしまいますの。それに政府の学校では小学校の教師だけしか女性を認めていませんわ。役所も女性は雇ってくれませんし、わたし達の受けた教育を活かすのは私立の学校の教師かアキコが目指しているビジネス・ウーマンしかありませんわ」

「ビジネス・ウーマンて何のこと」

「ユヌ・ファム・ダフェール(Une femme d'affaires)のことですわ」

アキコが援け舟を出した、イギリス語に日本語が混ざりさらにフランス語と、それぞれがわからないことを通訳しながらでも楽しい時間は過ぎていった。

正太郎が清次郎と迎えに来て「昔僕が下宿していたメゾンデマダムDDへ案内しますよ。此処の地下倉はワインの宝庫ですから日本へのお土産に一人二本選んで良いですからいいのを選んでくださいね。パリのお土産と一緒に横浜の虎屋へ送って置きますから。アンヌ30分ほどしたら誰か手押し車を押してワインを引き取りに寄越してください」と連れ立ってラメゾンドラカーブデュヴァンへ向かった。

セディが元の正太郎の部屋の住人で24歳、ムランの士官学校を卒業してジャンダルムとなっている。

ジャンダルムリ(Gendarmerie nationale)の隊員をジャンダルムと呼び、下部組織にギャルド・レピュブリケーヌ Garde republicaine)があり、其の騎兵連隊に所属している、昔の近衛騎兵は廃止され共和国憲兵隊として警察と協力しての任務だ。

マダム・デシャンが「ショウお久しぶり。もう一月も顔を見せていないじゃないの」飛びつくようにやってきて「まぁ皆さんいつ来てくださるのか待ちかねていましたのよ」と六人の乙女達を代わる代わる抱きしめては名前を聞いた。

「ショウはあなた方の写真を届けさせてきたけどお名前がわからなかったのよ」

そう言ってこの間ボナールの写真館で撮ったばかりの写真を持ち出すと其れにあわせるように別の厚手の紙にそれぞれの名前を書き入れさせた。

モモが子供を抱いてやってきた、まだ8ヶ月だが聡明な顔立ちに見え、とても飲んだくれのニコラの子供とは思えない、ニコラはもう37になるが初めての子だ。

「やぁ、シリル」と赤ん坊の頬をくすぐると嬉しそうに手を振り回して「キャッキャッ」と笑い声を上げた。

「この子本当にショウが好きね。ペールのニコラよりあやすのが上手いわ」

「そりゃそうさ、横浜でノエルと一緒に小さな子を面倒見ていたんだお手の物さ。其れで相談だがこのマドモアゼル諸嬢のお土産に此処のワインを一人当たり二本プレゼンの約束なんだ」

「良いわ地下室で選んでね」

正太郎と清次郎が残りモモはシリルを正太郎に渡すと地下室へ案内して降りた。

ジャスティがやってきて清次郎と久しぶりだと握手をしてハイ・ホイーラーたちの事を話し出した。

マダム・デシャンは正太郎にラモンとサラ・リリアーヌの子供の事を話した、マリー・グレースという5才になるドゥモアゼルは二人のよいところを受け継いでいるしマダム・デシャンになついていてラモンが此処につれてくると嬉しそうにマダム・デシャンの膝に上ってくるのだ。

40分ほどしてそれぞれが2本ずつ腕に抱えて戻ってくるとモモにシリルをかえし正太郎がポシェからリボンを出してそれぞれの名前を書かせて壜に巻きつけた。

「ポールこいつを横浜へ送り出せるように梱包して置いてください、まだ荷が増えるだろうからまとまり次第フランス郵船へ持ち込んでください」

「判りました。ではお預かりします」

脇玄関に置いてある手押し車まで運んで「よろしくお願いします。メルシー」と六人が言う言葉に手を振って事務所に戻っていった。

「ショウの昔いた部屋を見ますか、此処は住人の了解を得ずにわたし達が許した人の立ち入りができるのですわよ」

Momoが案内してセディ・マクシミラン・アンクタンの部屋をのぞいた、綺麗に整頓された部屋は昔と変わらず「貴重品は毎日でもマダム・デシャンの金庫に預けて出かける事が義務付けられていますの」という説明に自分たちの部屋に掃除に立ち入るメイドに鍵を預けていた事で貴重品は必ず持ち歩いていた事を思い出す一同だ。

「アキコとヒナはパムのおかげで此処と同じような生活でしたね」

清次郎が部屋の外から声をかけ肯く一同だ。

「ワインの勘定書きは事務所に届けてください。あまり高いのを選んでないといいけど」マダム・デシャンにウィンクし別れを告げてサンバンサン墓地からサン・ピエール・ドゥ・モンマルトル教会へ上っていった。

「此処がキャバレ・デ・ザササンですね兄さん」

白い壁と跳ね兎の看板の店は昼間寂しい場所だが五人ほどの男が煙草をくゆらしてベンチにいた。

「名前が変わったんだよ。今はアンドレ・ジル(Andre Giles)が其処に掛かる手鍋を飛び越すウサギの絵を描いて呉れたのでオ・ラパン・ア・ジル(ジルのウサギAu Lapin a Gill)にしたんだよ」

殆どのサイトが1880年ごろと書いてあるがオ・ラパン・アジル(すばしこいウサギAu Lapin Agile)になったのは1898年だそうだ。

(出典シャンソン雑記帖85 シャンソン酒場(1)東谷貞夫

「看板が出来て其れを名前にするなんて面白いお店ね」

ヒナは立ち止まって看板を見上げると男たちが手を振ったので慌てて歩き出した、新酒祭りももうじきで今年は11月25日ヴァンドルディから3日間、其の日が帰国の一同には参加できない日程だと正太郎に聞かされてガッカリする一同だ、ブドウ畑の脇ソウル通りをそのまま登るとコルト通りが上のモンスニ通りから降りてくる。

「ルノアールさんがさっきの店が名前を替えた頃短い間だけどこの上に住んでいた事があったんだ」

アキコにそのようなことを話しながらコルト通りに入りモンスニ通りに出た、右へ曲がると其処はサン・ピエール・ドゥ・モンマルトル教会で教会の上にサクレ・クールと名前が決まった寺院が見える。

六人はサン・ピーエルへ参拝のため入っていった。

「あそこは清次郎に手紙で書いたこともあるリヨンの聖堂と同じようにまだ何十年も掛かるそうだ」

「そういえば兄貴セーヌの傍に鉄骨で何か大きな物を組み立てているけどあれはなんでしょうね」

「ああ、あいつかパリで行われる博覧会のための記念の塔さ。エッフェル社が請け負ってあと2年で300mの高さまで組み上げるそうだ。まだ20mくらいかな50mほどのところまでエレベーターで上がれる様にするそうだ」

「随分経費も掛かりそうですね」

「800万フランだそうだ、エッフェル塔株式会社が出来てエメが10万フラン投資したよ、でも20年で取り壊すそうだ。上の寺院は4000万フランは掛かるというはなしだよ」

正太郎と清次郎は教会を訪れている六人を待つ間サクレ・クールを見上げてテルトル広場のベンチに座りそういう街の話しをしていた。

六人が戻るとタンギー画材店に寄った「親父さん、この人たちが横浜からボストンへ勉強に出かけていた人たちだよ」というとつまらなそうな顔をして出てきた。

「どうしたよ」

「だって期待するじゃねえか、着物に、打ち掛け、簪に櫛はどうしたよ」

「旅行するのにそういうわけにも行かないだろう。アキコにヒナがボストンで着た振り袖は別便で送ったのかい」

「いえ振り袖はパリへ先に送った荷物に入っていますわ。ブルマーやバイシクレッテの衣装と一緒ですわよ」

ヒナが着てもいいのかしらという顔で答えた。

「ヒナさんあれがあるならわたし達にも替わり番子に着せていただけないかしら」

芳香が頼み込むように言うとヒナがアキコを振り返ったので肯くと先にタマが「ヤッター」と嬉しそうに叫んで「私もあれが着たかったの」とアキコとヒナの手を握った。

「五人分ほどは振り袖に内掛けがあるから全員で融通しあって一度写真を撮りますか、ピサロ先生が喜ぶだろうな」

店の奥の壁には浮世絵が数多く飾られているし有名無名の画家の絵も此処には数多くしまわれていて毎週適当に選ばれた絵が店に飾られる。

「この親父さんにはセンスにウキヨエを大分買ってもらったよ。そいつで儲けた金で売れない画家の絵を引き取って画材代金の換わりにするという気のいい人さ」

テオも若いときから良く出入りしていた店で、テオの兄で売れない画家の一人フィンセントがペール・タンギーの絵を描いたのはつい最近のことだ。


「あいつモデル代にトワール(キャンバス)を20枚も持っていったぜ」

それには一同が大笑いだ、モデル代を描いてもらったほうが払って絵をもらえるわけでもないという話しは経緯を知っている正太郎も可笑しかった。

丘を降りて知り合いの家に行くかさらに上に登って建築中のサクレ・クールからパリを眺めるか聞くと一度上に登りたいと言うのでテルトル広場から南回りに上に登った。

建築中と言っても外観はほぼ出来上がり足場は外されている、午後の陽ざしを受けて白さが映え其の大きさに感嘆の声が漏れるマドモアゼルたちだ。

其処から見るパリの街はとても広くどこまでも町並みが続くように見えた、南の大階段を降りてプラス・サン・ピエールから見上げるサクレ・クールはとても綺麗で優雅だとマドモアゼルには好評だ。

プラス・アンヴェールが見えるロシュシュアール大通りへ出て広場の左側の35番地が今のルノワールさんの住まいだが最近ルーヴシェンヌへ行く事が多いという話しをした。

通りを西へ歩きシルク・フェルナンド(Circus Fernandoフェルナンド・サーカス)の前を通りこの間は楽しかったですかとアキコに聞くとタマが耳ざとく「この間出かけたサーカス」と聞いてきて「そうよ。コレット乗りがとてもスリルがあってどきどきしたわ」とアキコが答えた。

「私も見たいわ」

「タマさんはサーカスが好きですか」

「ボストンで何度か行きましたけどパリのサーカスはクラウンも洗練されていると聞きましたわ」

「そうですね、其れも魅力の一つかもしれませんがコレット乗りに曲馬もこのサーカスの魅力の一つですよ。ルノワールさんやドガさんも此処の人気者を描いていますが今年アンリという若い飲兵衛が曲馬の場面を描いてくれています」

「描いてくれていますって。ショウが頼んだのですか」

「アンリの付き合っている女性がルノワールさんやドガさんとも知り合いでね、其の関係で知り合ったんですよ。子供の頃の怪我が元で足の成長が止まったので芳香さんと同じくらいの身長しかないのですが面白い人ですよ。サーカスは来週チケットを用意しますね」

85年6月シャ・ノワール(Le Chat Noir)が移転し、そのあとにアリスティド・ブリュアンがキャバレー、ミルリトンを開いた頃だと正太郎が話しても七人には良く判らないようだ。

カフェ・コンセールはこの当時150軒ほどに増えていてキャバレーとして有名なムーラン・ルージュが開店するのも真近だ。

その様な歓楽街の事を話す内にクストー街の入り口付近のマガザン・デ・ラ・バイシクレッテについて中には入らず店の説明をしてメアリー&ソフィアへ向かった。

店でそれぞれを紹介しブティック・クストゥの前で出てきたイヴォンヌに「ジュリアンの店に行くから」と断って角を曲がって店へ入った。

「やっと連れて来たな。今晩は此処で皆さん食事をして行って下さい。簡単には帰しませんぜ」

「昼まだなんだ、どこかでお茶をしてくるよ」と言う正太郎に神さんのエメを呼び降ろして食事の支度を言いつけた「4時間後の7時ににどうだ」とエメに相談すると「任せなさい。今ソフィアが来て相談してたところなのよ」と胸を叩いた。

「ショウたちはどこかでお茶をして来るそうだ。3時間したらもどれよ」

エメと正太郎に交互に言うと「馬車を呼んでくるぜ」とせかせかと出て行った。

「何で馬車だと思ったのかな」

「近くに8人も入れるいい店が無いからよ」

「そうかどうせならダロワイヨまで行くか」

「ショウ、ナシのシブーストが買えたらお土産にほしいわ」

「俺たちが食べても残っていたらだぜ」

馬車が二台来てフォーブル・サン・トノーレ街のダロワイヨと二台共に告げて乗り込んだ。

それぞれに5フランを渡し「チップコミだぜ。二時間したら此処へ迎えに来てくれるかい」と言って店へ入った。

注文を出してトワレットゥに立つ者などの世話を正太郎がやいて、忘れずに梨のシブーストなどを12個買い入れておいた。

「シブーストと言っても色々有るのね」

正太郎は面倒なのでワゴンセルヴィスを頼んだのでマドモアゼルたちはどれにするかセルヴァーズと楽しそうに相談している。

時間を計って表に出ると馬車が待っていてジュリアンの所に戻って食事をご馳走になった。


話は正太郎のパリから大分ときも過ぎました。
横浜幻想のアンテロープ編の1872年(明治5年)からだと12年後(第1回時点)の横浜です。
今回の話の中心は了介と明子になります。
2008年12月05日其の一あとがきより        阿井一矢


2010年11月04日 了




幻想明治 第一部 
其の一 洋館
其の二 板新道
其の三 清住
其の四 汐汲坂
其の五 子之神社
其の六 日枝大神
其の七 酉の市
其の八 野毛山不動尊
其の九 元町薬師
其の十 横浜辯天
其の十一
其の十二 Mont Cenis
其の十三 San Michele
其の十四 Pyramid

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カズパパの測定日記