横浜幻想
 其の二十三 Langue de chat 阿井一矢
ラングドシャ

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Paris1874年5月23日 Saturday

ボルドーから2週間ぶりに夜行で帰ってきた正太郎は共同出資会社展が大失敗だったとM.アンドレから聞かされた。
ルノワールでさえ3枚しか売れず、ベルト・モリゾは1枚も売れなかったそうだ。
ムッシュー・ジュイノーから何度も百合の切り花についての話しがあったというので後で会いに行くとアンドレに約束した。

展覧会に出た絵のうち買い入れた以外にも、エメは手に入れたがっていた絵があったが代理人が予算超過を危ぶみ、買い取りの通知しないうちに会は終わっていて諦めたそうだ。
モリゾの絵はmoderne Olympiaの隣という配列も女性の足が止まりにくい為だったろうとM.アンドレは話した。

「僕もエメもこれ以上は今買いきれないし、また手に入れる機会もあるさ」
M.アンドレにはそう言っておいた、今回はボルドーに8日滞在しジュリアンと分かれてアスラン医師に会いにルルドへ回ったのだ。

ノエルから預かった2000フランの手形と教会への献金に500フランの現金を渡すためだ。
アスラン医師とマダム・カンプラにはボルドーで買い入れたお土産と横浜や長崎の扇子をお土産にした。

2日間の滞在は警部に会ったりして忙しかったが帰りの一人旅は同室の人に恵まれて楽しかった。
途中下車してアングレームに1泊し、街を歩いたのもいい思い出に残った。

ドリア伯爵がセザンヌを1枚300フランで購入したそうだが、エメに頼んでいた絵は7枚で2780フラン、エメは2枚を700フランで共に代理人に、P・デュランリュエルを立てて買いれた。

「ショウは3000フランと言ってボルドーに出ましたが安かったですね。エメもじぶんのは800フランくらいかしらと言っていましたからね」
展覧会の2日目ピサロ先生は4月16日に9歳になる娘のジャンヌ(ミネット)が呼吸器系感染症で亡くなっていたが、会社展のために何度もパリへ足を運んでいたのだ。

ルノワール2枚のうち1枚「Parisienne 」は事前に買い入れてあったもので事務所に無事戻っていて新たに買い入れたリストを貰った。

7点はこの展覧会に肩入れしていた17才のグーピル商会のテオが頼まれて付けた名前の絵画が多かった。

その若いテオに反発するかのように新聞はこの展覧会自体にも辛口の批評文を載せた。

シャバリエの紙面には印象派展と言う見出しをつけたルイ・ルロア記者の記事が乗っていた。

印象主義者たち。印象か、確かに私もそう思った。私も印象を受けたんだから。つまり、その印象が描かれているというわけだな。だが、なんと言う放恣、なんと言ういい加減さだ。この海の絵よりも作りかけの壁紙の方が、まだよく出来ているくらいだ。

正太郎が代理人から引き取ったモネの2枚はひどい酷評をルロアから受けていた。

「ショウはわざわざひどい絵を見つけたといわれかねませんよ」
M.アンドレもモニクもそういうのだが正太郎には「そんなはずじゃない、日本人とは見方が違うのか」と思うのだった。

「評判が良かったのはニニが描かれたLa Logeくらいですよ」

「誰が見ても、はなぺちゃさんには見えないと言ってたよ」
ニニ・ロペズに画家たちがつけたあだ名だ、オペラ座のペルティエ劇場の桟敷席を舞台の絵だが完成前に肝心の劇場は燃えてしまった。

「そりゃ酷いですよ。夜に会えばあの絵のように見えますよ。ショウは昼間ルノワールさんのアトリエで会うからそう思うだけですよ」
化粧した夜の女は昼間とは違いすぎますよとジャスティもアランも「夜のお付き合いだけがあのような人と付き合う秘訣ですよ」と絵を見ながらいい女ですよと言っていた。

それでも会場のキャプシーヌ大通り35番地にはモネ、ドガ、セザンヌ、シスレー、ルノアール、モリゾ、ピサロ、ギョーマン、ブーダンら30名が165点を出品した絵画彫刻を観に入場料1フランを払い延べ3500人の来場者が有ったそうだ。

エメが代理人から手に入れたのは2点。
「ショウは日本に送るのですか」

「いやラモンのは送るけど後はあちらこちらに飾る予定だよ。マダム・デシャンの応接間にクロワールは煙草厳禁だからあそこがいいかな」
マダムは煙草、パイプは食堂で吸うように入居時に話したし来客が勝手に吸えば次回から訪れてもクロワールにも応接間にも書斎にも絶対に入れさせないのだ、玄関から食堂へ自ら案内するかMomoにもそうさせるのだ。

「リヨンは何時出られますか」

「フラールが22日納入されたはずだから26日のマルディに出かけるよ。5日くらい向こうにいる予定だよ。サムディの30日に戻ったほうがいいか、長いけどクラリスは大丈夫かな」
フラールはブティック・クストゥとメゾン・リリアーヌに100枚ずつ置いたがリヨンほど売れていなかった。

「はい大丈夫なはずですよ。この間から地図と気になる場所のリストを作っていますから」
正太郎はメゾンデマダムDDに戻ってお土産を渡してまた事務所に戻ってラ・コメット1号棟の進み具合を見に行った。

M.ギャバンは陣頭指揮を執っていた。

「2号棟も見に行かれますか」

「向こうも進んでるのかい」

「ええ、順調ですよ」
事務所にアレシア街にM.ギャバンと進行状態の確認に出かけてくると断って出かけた。

アレシア街も骨組みは完成していてこちらは1号棟より早く完成しそうな勢いだった。

「そうでもありませんよ。此処からが時間が掛かりますからね。平屋なら此処まで来れば直ぐ出来上がりますが、3階以上となると簡単にいきませんよ」
M.ギャバンに頼んでモンルージュに回ってマルディからリヨンへ出ると伝えた。

中間支払い用の1万5千フランの手形は預かっているがルルドでの報告をするためだ。
ノエルたちは念願のOrleansへの旅をヴァカンス・ドゥ・パークの後半に4泊5日で行いその時にルルドへの献金と医師への寄生虫駆除の資金を正太郎に届けさせる事を思いついたのだ。

話しを簡単に済ませて正太郎は事務所に戻り、M.ギャバンはまた仕事の監督に出かけた。

夕方早めに事務所を出てメゾンデマダムDDによって今日はエメのところへ行くと告げてメジッスリ河岸へ向かった。

親子は3日おきくらいにはヴァルダン通りへ出かけたと正太郎の顔を見るとほっとしたように言った。
このドナルド爺さんとエドモンの庭の話は大分広まっていたらしく、ジェランフ・ドゥラエ・プラントには自分の家にも百合の咲く道をという注文まで来たそうだ。
あと1月以内なら商品になるのだがと爺さんやアンドレに言ったがエメはショウが戻らないうちは駄目だといっていたそうだ。
あと10日間待って欲しいと頼んで、100本だけは刈り取って構わないと話しを付け、リヨンから来る人に見せた後残りは好きな数を刈り取ってよいと言うことにし100本は15フラン残りは8フランと約束した。
市場の関係で26日早朝と言うことなので正太郎がヴァルダン通りに泊まり込んで立ち会うことにした。


待たせた馬車でノートルダム・デ・シャン街へ向かった。


コンコルド橋を渡ったのが7時エメは「やっと帰ったのね」そう言ってソファに座らせてカフェを入れてくれた。

自分の分も注ぐと隣に座りボルドーの話し、ルルドの話、途中で降りたアングレームの街の様子を正太郎に話させた。

「じゃ今年も30万フラン程度の契約が成立したのね」

「そう後はムッシュー・アズナヴールのほう次第で20万フラン程度の買い付けが出来そうだよ。横浜には契約済みの分から26万フラン程度が送られることになったよ。後はジュリアンが自分とお仲間用の倉庫に送るように手配したよ」
夕陽がエコール・ミリテールの跡地からトロカデロ広場に落ちてゆくのを眺めながら今晩どうするかを話し合った。

「久しぶりにシャ・キ・ペッシュに出かけて河岸を散歩しながら帰るのはいかがですかプレジダンディレクトージェネラル」

「良いでしょうシトワイエンヌ」
エメと服をそろえてシャ・キ・ペッシュまで馬車で出かけた。

11時頃の賑やかな店をなごり惜しげに後にして河岸を照らす半月の下を歩いた。
ポン・ヌフには幾人もの人が川を見てたたずんでいた。
サン・ペール通りを真っ直ぐボン・マルシェの前の人形の店オゥ・ベベ・ボン・マルシェまで進んでバック通りを南に登りレンヌ街に向かった。

翌日のディマンシュは朝早くに雨が降ったが5時を過ぎると陽が差してきた。

2人で5階の通路の窓から見るリュクサンブール宮殿は緑が冴え、薔薇を中心に花が咲き揃い、匂いが此処まで届きそうだとエメが正太郎に肩を寄せて囁いた。
去年はアロルドの馬車で2度訪れたヴェルサイユへいこうと思い立ち相談すると二つ返事でジュディッタにリュカも連れて行こうと早速起きているかを確かめに回った。

仕度をおお急ぎでして、リディには夜は外で食べると告げて家を出たのが7時、モンパルナス駅を7時50分の列車に乗ってヴェルサイユの駅に8時25分に着いた。
駅からオムニバスで10分、入り口のルイ14世の騎馬像の見える入り口でおりた。

リュカはリュクサンブールをしのぐ大きさに驚いていたが中へ入った時の驚く顔が楽しみな正太郎だった。
ジュディッタも続々と続く観光客に「こんなにいっぺんに入ったら身動きも出来ないわよ」などと言っていた。

宮殿の間の門からさらに奥へ進むと、庭園の広さに観光客と同じように驚きの声を上げる2人だった。
エメと正太郎も3度めながらその大きさに驚きが新たに沸いて、エメの手をぎゅつと握り締めた。

「振り返らないで泉水の向こう側まで行くんだよ。階段を降りてもまだ駄目だよ」
リュカとジュディッタは言われたように泉水の向こうからエメの合図で振り返った。
宮殿は圧倒的な大きさで圧し掛かるかのように空の青さに負けずに輝いていた。

4人で泉水めぐりと薔薇や芍薬の花園を巡り歩き昼にはいったん外に出て、カフェの表で椅子に座りタルトやレモネードで庭園の中の様子を話しあい、まわらなかったのはどこか話していて5分の1程度しか回っていないことに気が付いた。

ふたつのトリアノンはおろか水路の先までもまだ行って居なかったのだ。
運河は諦めて午後はプチ・トリアノンを巡る事にした。
1時半に王妃の村里に入りジュディッタとエメは正太郎たちを置いて踊るように池の周りをたどった。

リュカは「ショウはよくエメといろんなとこへ遊びに行くけど庭園が面白いの」と聞いた。

「リュカ飽きちゃったかい」

「こんな庭より、噴水めぐりのほうが面白いや。だってお話を読んでるように次々に替わった噴水があるんだもの」
それでも池の向こうの酪農小屋、水車小屋には興味が湧いたようだ。

農場を一回りしてオランジェリーから見晴台を抜け、王妃の劇場へ出てグラン・トリアノンの脇で、トワレットゥを使うと宮殿の前を抜けて運河に出た。

南と北の花壇まで迷路のように巡り歩き水庭に戻ったのは5時、宮殿を後にして駅で列車を待って6時発のモンパルナス行きで6時35分に到着。

家に戻るほうが近いが、外で食べるといった手前馬車でシャ・キ・ペッシュまで食事に向かった。
リュカはこういう食堂は初めてだとエメが頼んだ物に喜んで、ソシスにフリッ、ラグー・ド・ブフ、4人で分け合ってブレス鶏のグラタンにブレス鶏のロティといろいろと食べた。




Lyon1874年5月26日 Tuesday

忙しかった3日間は瞬く間に過ぎた。

26日のマルディ、正太郎も前日からヴァルダン通りに泊まって百合の刈り取りに立会ってからリヨンに発った。
クラリスは同室になった老婆と親しく話しをし、フォンテーヌブロー・アヴォンで降りた老婆が窓の外で手を振って見送ってくれた。

夕刻のブティックは忙しそうに見えた。
マダム・デュポン&ナタリーでは3人ほどがドレスを見ていた、事務室でジャネットの手が空くのを待つことにした。

ナタリーはジャポンの「青い生地は気に入ったわ、もう少し幅があるといいのにね」と正太郎に伝えて2階へ上がっていった、色は気に入ったようだ。
最初のエメの買い入れた青よりは淡い色で、この間絵に描いたものより鮮やかに見えた。

西陣からの柄物は全てベルギーの会社が15000フランで買い入れて呉れた。
電信には書いて無い荷は幾つかあり、中でも元値で500フランという赤い内掛けはモネやルノワールがお気に入りで当分売らないでくれと正太郎に約束させた。

「新しく4人の売り子を雇ったわ、時間を遅らせて10時から夜の7時の閉店まで働けるようにしたのよ。陽が長い間はどうしても1時間余分に店を開けてお客様のおいでに合わせないとね」

「会計士は決まったの」

「28日のジュディの11時からから来てくれることになったわ、マダム・ルヴィエと言われるの、サラ・ジュリエット・ルヴィエよ。朝は机の運び込みやソファの据え付けで忙しいの。9時45分から3時45分までだけなんだけど各店の集計と新しい家の分だけなので十分なのよ」

「1日働けない事情でもあったの」

「そう、家庭があるのよ。ご主人と子供が二人、もうコレージュに通っているから少しでも家計の足しと子供の学資にと面接で言うので1日働けないのを此方も承知したの」
新しいパンシオンの中途支払い金の5000フランの手形と預かった子供たちの費用2000フランの手形をジャネットに渡して「これからレーモンの社宅を見に言ってくる」と出かけた。

工場は動き出していた、社宅も10家族が入居していてレーモンは5月分を入居家族の日割りで支払う許可を求めた。
全て完成するまではそのやり方で任せるとレーモンの提案を受けた。

「住み心地はいいそうだ。他にも入居できるのを待っているのが20人いるんだ、工場も紡績が動き出せば人手をふやさにゃいかんからな。来月出来上がる予定の家もすぐ埋まるはずだよ」

家を見に行くと建築家のM.デシャネルが来ていたので工場の事務室で1万5千フランの中間資金を支払った。
受け取りを書きながら予定通り6月末には全戸引き渡しができると受けあった。

いい具合にM.グレヴィーも来てくれ、話は弾みレーモンの家の話になり、社宅から外れた工場入り口の正面に建てさせてほしいという話しを持ちかけられた。

ノエルの方で建てて貸すのとどちらが良いのかという話に成り「そりゃ資金の都合からいっても建ててもらうほうがありがたいが、あまりちゃちな物を建ててあれがディレクトージェネラルの家かよなんていわれたく無いんだ」とハンナのほうを見ながら正太郎に話した。

「どの程度の家にしたいんだ」
ハンナが見取り図を持ってきた「2人で考えたのよ」というその図面には庭には小さな池も書き込まれていた。

「此れは池かい、それとも泳ぐためのプールかい」

「泳ぎはやらんよ」
表の門から10mほど奥に玄関部分が張り出して、1階はクロワールが15mx15m。

西に当たる右手にドアがありその奥に廊下、道路側に応接室、反対側にトワレットゥ二つとドウシュ室、廊下の奥に客用寝室。
東の左手は食堂10mx12m、ラ・キュイジンヌは北に当たる道路側に5mx10mとされて、その2階がメイドにキュイジニエのための部屋でトワレットゥもアンバンも完備されて6部屋が描かれていた。

クロワールの奥には同じ大きさの部屋が描かれ夜会の時には其処も使える様にするためだと説明した。
食堂と応接室のドア脇手前から回り階段でつながり、2階へ上がると食堂側は連絡用のドアでメイドたちの住む廊下にでる。

玄関の正面から見えるドアは夫婦の居間とトワレットゥにアンバンそして寝室。
西側は1階と同じつくりだが応接室の上は二部屋に分かれていた。

「大きいね。どのくらい掛かりそうだい」
5万は見ないと無理かなというが、造りによって10万は掛かりそうだ。

「見栄えを好くして部材を安く抑えればともかく、大理石や高級木材を使えば10万じゃききませんよ」

M.デシャネルはレーモンに話して「此れだけの建物を維持するには年間3万フランは掛かりますよ」とずいぶんと大げさに言った。
夫婦は考えていたが「ショウのほうで10万出したら幾らで貸せる」と聞いてきた。

「10年で10万を取り返すには年1万フランだが投資としてみるなら月1500フラン以下では無理だろう。それでも5年と7ヶ月は掛かる」

M.グレヴィーも其れはそうだと言って「最初からそんな大きな家を考えずに普通の住まいを建てる事にしたらどうだ。市長にでもなりたいわけじゃないだろ」と見栄を張るのはもっと成功した実業家になってからだと娘と娘婿に優しく言った。

1500フランの家賃に2000フランの維持費を見込めば今の自分たちには無理だと直ぐ悟ったようで「では工場の重役程度が住む感じの家でなら大分かかりも少ないかな」と聞いた。

2万フラン程度で建てれば5人家族が住む家で客用寝室を備えてもメイドを置いてもやっていけるだろうと話し、小さなパーティくらいは開けるさとM.デシャネルも受けあった。
月330フラン、維持費200フランの530フランならやっていけるだろうとM.グレヴィーも賛成した。

「まず設計図と概算を出してもらってからだよ。投資としてみるにはあまりいい話ではないがその程度なら僕の一存で受けられるよ」
正太郎は社宅をあと20軒増やしても彼らなら借りられるだけの需要があると踏んで応じる事に決めた。
空き地に工場を建てるだけの需要は自分の手で作り出してみせるとも思うのだ。
夫婦は工場の建築と共に住まいにも夢を見ていたようだ。

「ところでM.グレヴィー先ほどのような大きな家で売り出したと言うような話は有りませんか」

「ショウは買う積もりかね」

「まさか僕もそんなのは維持できませんよでもパリ近郊で2万も出すとたまに売り出されるので」

「ほお、パリではそんなに安く売り出される事が有るのかね」

「殆ど土地代くらいで出ることも有りますよ」
リヨンではそういう話しは聞かないなとM.グレヴィーもM.デシャネルも首をかしげた。

7時近く大工も引き上げだし、正太郎もクラリスと馬車でクロワ・モラン街へ出てマダム・マラルメに明日昼ごろ改めて顔を出すと伝えてバイシクレッテの店に戻った。
2階に新しく完成間近の事務室、応接室でジャネットとバスティアンにカフェを出してもらいながらクロワ・モラン街の話しをした。

「パリから3人がこられるようになったよ。マダムの負担が大きくなりすぎるようだからお針子を1人手伝いに出すようだね」

「そうくると思ったわ。11人の収容は限度に近いわね。食事は今共同で行っているけど、どうしてもマダムだけでは難しくなりそうね」

「お針子と、あと会計を一人雇ったというけど見習いかマダム・ミルランのように年が行っていてもいいから家計簿程度を付けられるなら雇っておいて欲しいんだ」

「あのジャポンのお土産屋の話ね」

「ジャポンの品物だけでは売り物が少ないからリヨンの名産というよりフラールなどの小間物を置いてもいいかなと思うんだ」
明日は9時過ぎにでてくると話して歩いて駅へでると、ブラッスリー・ジュルジュで食事をしてホテルまで馬車で帰った。


27日メルクルディのリヨンは暑いくらいの日差しが散歩をする正太郎の横顔を照らしていた。

5時40分にホテルを出て7時に戻ると汗を流しにドウシュを浴び、服を着替えてノートの整理をした。
クラリスがいても此れだけは習慣なのでやめるわけにはいかないのだ。

8時にクラリスと食事をしてブティックに向かった。
シルヴィとドレスの生地が足りているかを話し合い、欲しい生地はジャネットに言って店の売り上げから追加するように頼んだ。

テオドールから来た型紙と見本でピジャマを作り自分たちで試しているがコトンが一番着心地がよいと報告してくれた。

「絹はよく無いかい」

「からだが落ち着きませんよ。お金持ちは年中絹を着慣れていて違和感は無いでしょうが私たちはどうにも落ち着きませんね」
アン・マティルドもコトンが一番、リネンが2番でその下が絹だといった。

「じゃ3着も持っているんだ。贅沢だなぁ」

「またショウはからかってばかり。其れより今朝ジャネットから聞いたんですけどクロワ・モランへ行かせるお針子ですけど隣に勤めているエマ・クロディーヌ・パンルヴェが良いと思いますよ」

「なぜだい」

「彼女腕もいいけど何よりマダムと仲もいいし、休みにもあそこで子供たちの話を聞いてあげに行くのよ」

「そりゃいい人がいたもんだね。本人が希望すれば1日、稼ぎが欲しければ午後は此処へ戻しても良いよ。ジャネットと本人とも話会うように進めてくれないか」
シルヴィも了解して「其れと此処もお針子が1人欲しくなったわ、ジャネットに言って増やしていいかしら」と申し出た。

「其れは利益が上がるならそうしたほうが良いよ。ジャネットと其れも話し合って隣と共有の人を探してもらえばいいんじゃないかな」
正太郎はそういうと「僕からジャネットにも話して置くよ」といい直して隣へ向かった。

ジャネットも「そう考えてはいたのよ、オドレイをやっても良かったんだけど此処を彼女に任せるにはそうも行かないで考えていたのよ」と言ってエマを休憩室に誘った。

「ええ、其れはよいのですけど、此方で夜の仕事をしてかせがしていただきたいのですが」

「其れはあちらでも出来るわよ。あなた住まいはアパルトマンでしょ」

「ええそうです」

「向こうで作るアパルトマンで手縫いの夜鍋をしてもいいし、ほら手縫いは手間賃が好いからスリップ・ド・クストゥでも1枚50以上は取れるわよ。昼間子供たちに教えながら作る下着も手間代を取れるから貴方の腕なら夜だけでも1フランは余分に稼げるわよ」

「アパルトマンに部屋が借りられのですか、何時からが良いですか」

「パリから3人の子供が来るそうなのその子達が到着したら、それからアパルトマンが出来たら1部屋会社もちで住んで良いわよ」
ジャネットはいつの間にか正太郎のやり方をそのままに行いだしていた。

「ジャネット頼むから社員用は4部屋までにしておくれよ。8部屋は貸し出し予定だからね」

「あらレティはどうするの、彼女も1部屋有ったほうがいいでしょ」
結局2階は社員用、3階、4階は孤児院出身者か独身女性に限ることにした。

「其れより管理人兼キュイジニエのあてはあるかな」

「いま何人か当たっているのよ。屋根裏部屋はM.ティラールが好意で物置と2部屋のメイド室にしてくれるから、その娘を一緒に食堂でも働いてもらってもいいし、預かる子供たちに週代わりで炊事当番にして仕事を覚えさせることをマダムと話し合ったのよ」
正太郎が前に話したように徐々に話は進んできたが、キュイジニエが見つからないと話が進まないのだ。

クロワ・モランのリガールからのフラールは2000枚だけをパリへ送るように頼んで残りはブティックで引き取ることにしてもらった。

クロア・モランの家に出かけ、先に建設現場にいたM.ティラールに進行具合を訊ねた。

「6月一杯でほぼ出来上がりますよ」
10人ほどが2階まで組み上げた資材を整理していた。

「内装が終わって10日もすれば入れますから7月15日を入居予定日と考えてください」
正太郎は頼みますとM.ティラールに告げて隣へ向かった。

4号棟で音がしているので中を覗くとM.ジルベールが二人の娘にジャカールの作業を教えていた。

「やぁ出てきたよ。中々いい手つきだね」

「教えがいがありまさぁ。この子達は私が教えてM.パンルヴェが午後に2人教えるんでさぁ」
4台の機織り(はたおり)の器械は4号と3号に2台ずつ置かれM.ジルベールは午後にバイシクレッテとブティックの配達要員として待機に向かうのだ。

「マダムは2号棟でお針とマシーヌを教えていますよ」

「それなら顔を出してくるよ」
2号棟では7人の娘がマダムから手縫いとマシーヌの授業を受けていた。
正太郎に先に気が付いたのはクリスで声をかける前に「サリュ、ショウ」と声をかけてヨチヨチと歩いてきた。

「ウィ・シトワイエンヌ」
クラリスとも可愛く挨拶を交わしたクリスを正太郎が抱き上げて一緒に教室に入った。

元はティサージュが置いてあった土間を板の間にし、綺麗に磨き上げられた床の上のターブルには、いままさに型から切り抜かれたばかりのスリップ・デ・マリーの生地が積まれていた。
2台のマシーヌで縫い合わされているのを見ると未熟ながら綺麗な線を出していた。

「大分進歩しましたね」

「はい。私を含め出来上がった品物をジャネットのほうでまとめて清算してもらうことにしました。自分だけの責任でなく全員が力を併せることを覚えてもらうためにいい事だとジャネットも賛成してくださいました」
エマ・クロディーヌ・パンルヴェが此処を手伝うようになると話すと子供たちも喜びの声を上げた。
マダムにまだキュイジニエが見つからないと話すと独身の女性ではいけませんかと心当たりがあると話した。

「でも管理人を兼ねてと言うのは1人では無理じゃないですか」

「実はその人の母親が同居していますの、その方を管理人にしていただけ無いでしょうか」

「いまどこかで働いておられるのですか」

「先月までマルセイユでホテルのキュイジニエとして働いておられましたが父親がなくなって母親を引き取ろうとしたそうですが、リヨンを離れたくないと言うのでこちらに戻ってきたのです。それが中々よい職場が見つからないそうです」
家は貸家なので、此処を住み込みで引き受ける可能性があるかもしれないとマダムはクリスを抱いた正太郎に伝えた。

一度自分が会うかジャネットにあって話しを進めてくれないか頼んだ。

50くらいの威勢のよい夫人が「お茶の時間に食べてね」とお菓子を持って入って来た。
正太郎を見ると驚いたようだが「ボンジュール・ムスィウ」と声をかけてきた。

「ボンジュール・マダム、子供たちへの差し入れですか。僕はパリから来たショウといいます」

「あら、あなたがムッシュー・ショウですか。わたしは前マダムのいた家の近所に住んでいるレーグといいますのよ。今日はラングドシャを焼いたので持って来ましたのよ。ひとつ味見をしてください。あんた方は3時の時に頂くのよ」
ラングドシャという猫の舌と言う呼ばれ方をするお菓子は甘くて美味しかった、子供たちにはビスクより好まれそうだ。

正太郎は隠れてすこし欠くとクリスの口にも入れた。
かまなくとも直ぐ溶けて行くお菓子はクリスも好きなようだ。

「いい機会ですからお聞きしたいのマダム・レーグ。お嬢さんは仕事が決まったの」

「駄目だよ。リヨンではいいレストランやホテルでは女のキュイジニエに用は無いと言うのさ。今更サラマンジュでも有るまいとわたしゃ言うんだが、仕事がなきゃ仕方ないわとあのこが言うんだよ」

「どうでしょ。隣に建てている建物」

「なにが出来るんだね」

「私たちの勤めている会社で建てているんですけど、この子達に私よりは本職のキュイジニエを雇って仕事を覚えてもらおうとしているの。夫婦で働ければ管理人としてもやっていけると考えていらっしゃるのよ」

「ならうちの娘は駄目だよ。だって独り者じゃ駄目なんだろ」

「ですからマダムに管理人を引き受けて頂きたいの」

「でもアパルトマンの管理人といったって私にあんな大きな建物は面倒見切れないやね」
正太郎がマダム・レーグに「マダムあそこは此処を卒業した子供たちか独身女性で働く人に入っていただくのですが、メイドとして働く勉強をしたい人に屋根裏部屋ですが2部屋用意します。掃除や洗濯をするのは自分の家の分だけで済みます。食堂の手伝いとメイドへの指示、住人の出入りを管理していただくのが仕事になります」

「そのくらいなら出来そうだね。娘と相談してみるよ、何時から働くんだね」

M.ティラールの話では入居は7月15日だそうですが、その前にラ・キュイジンヌ、食堂に必要な設備を選ぶ仕事も有りますしここに住んでいる娘たちになにが自分にあった職業かを選ぶために、食事の支度の手伝いもさせてもらいたいのです」
6月の1日から働けるならマダム・マラルメに連絡をしてくださいと話した。

クラリスと歩いてパール・デューの駅に向かい前回印を付けたという建物を見て回った。
ヴィットン通りからカドラのあるマセナ通りのとの角、南向きの建物だ。

まだ貸店舗の札がでていた、表の様子からすると6m四方程度の小さな店だ。
「住まいはあるのかな」その札にかかれた店で尋ねた。

「いや無いが、借りるなら3階が空いているよ」

「月幾らですか」

「店舗は1日3フラン、6mに6mの使いやすい店だよトワレットゥは裏に共同で使うのがあるよ。小間物か事務所に最適だよ。上の住まいは2部屋と台所にトワレットゥとドウシュが使えて1日2フランと燃料費は自腹だよ」
随分高い値段だ、すこし考えて返事をしますとその店を出た。

「驚きました幾ら場所がいいと言っても高すぎますわ」
クラリスは憤慨して正太郎に言って早足で次へいきましょうとカドラのほうへ入った。
カドラの先ブジョー通りの角に15m四方くらいの建物を3軒に分けた新しい建物を建てていた。

この間来た時から見るとほぼ完成していた。

「此処かい。貸家ともなんとも書いていないよ」

「でも店の名も書いていませんから何処かが代理で探しているんじゃ有りませんか」
大工に話しを聞くと隣のカドラのコンテッセが持ち主という話だ。

馬車を捕まえてペラ通りへ向かった。
コンテッセは幸い部屋にいて正太郎を歓待してくれた。

「あの建物ね。従業員用の住まいにしようと考えていたら大工がいい場所だし無駄だから下を貸して3階と4階を従業員に貸せば少しは建築費が取り返せますと言うのでそうしたのよ」見取り図と店のタイユ表を見せてくれた。

「ショウがお昼をご馳走してくれるなら中を見せながら出て行っても良いわよ」
コンテッセは二人を促して馬車を拾ってブジョー通りへ向かった。

真四角でなく鍵の手に曲がったつくりでカドラ側が8m四方、角地は8mにブジョー通り側が7mで其処が入り口、その西側は表が6mで奥行きが11mと細長い作り、店には全て小さな手洗い場とガスの設備がありトワレットゥも付いていた。店から直接2階の住居に上がれる階段があり2階は通路からも出入りが出来た。

2階は全て下と同じ大きさで台所、トワレットゥ、アンバンはあるが部屋は1部屋だった。

「ショウが借りるなら何処でも良いわよ。一ヶ月120フランで良いわよ」
クラリスが正太郎の袖を引いて借りろと合図をしてきた。

「何時から入れます」

「上の工事をしていてもよければ来月の15日」

角地を借りたいと正太郎が申し出ると「ところで何を始めるの」と初めて興味を示した。

「ジャポンのみやげ物にリヨンのみやげ物を中心に置きます」

「それで何人で始めるの、ショウが直接やるの」

「2人くらい店員を置こうと思います。上に1人住み込めれば商売もやりやすくて良いですね」

「あのブティックを持ってくるのは駄目なの」
「あそこは土地ごと買い入れましたからもう家賃も掛かりませんし。折角覚えていただいた場所ですから」

此処ならドレスを選ぶのに楽なのにとコンテッセは我が侭なことを言って正太郎を苦笑させた。

近くのイタリアレストランかイタリア人のサラマンジュというと即サラマンジュと返ってきた。
食事をしながらいまの店をブジョー通り110番地ラ・スヴニールとコンテッセは正太郎に店の名前まで決めさせてしまった。

「クラリス大変だよ、アランに売り込みより先に買い入れを指示しないと品物が無いよ。それと店員も探さないと」

「会計はどうします。ジャネットに任せますか」
パリみたいに誰かを1日1回巡回させるようだねと正太郎に言われてクラリスはそうですねと言葉少なく書き込みをしながら賛成し、品物をウチワ、センス、プペと指を折って数えだした。

「パリの物産から色々探そうよ。特にプペ・アン・ヴィスキュイを置こうよ」

「判りました。今買い付けてあるのはメゾン・ユレとジュモーにゴーチェですね」

「あとどこか知ってるところはあるかい」

「マダム・ウランシェが立ち上げたパニエ工房などが有名で、機械仕掛けではスタイナーの喋るベベが人気です。最近はドイツからも人形が来ていますよ」
中々勉強しているのか人形好きなのかは判らないが役に立つ娘ではある。

コンテッセを家に送ってブティックの店に戻り、ジャネットに店舗を借りた話しをしてShiyoo Maedaから別資金で店を開くので管理を頼んだ。

「まったくショウはやることが早いんだから、ナタリーから新しいアパルトマンの料理人が決まりそうだと聞いたばかりよ」

「仕方ないよ、向こうから飛び込んでくるんだから、でもコンテッセのおかげでいい場所だよ。駅から400mくらいでサン・ポータン教会まで700mくらいだから」
2人が場所の事コンテッセの事を話してブルーノでお昼を食べたと話しているとナタリーがおりてきた。

新しい店はコンテッセがラ・スヴニールと名前を付けるようにというんだとナタリーに話したが、何でコンテッセがでてくるのか判らないようだ。

「それで何人必要なの」

「部屋は上にあるから住み込みが1人、通いが1人。会計はあたらしく雇う予定の人かこの間決まったという人に1日一度まわってもらえばいいんじゃないかな。今いる売り子の中でお針子じゃない人でもいいんじゃないかな」
ちょっと待ってとジャネットはブティックに戻り、アンヌ・マリーをつれてきた。

「あなた妹と将来独立したいと言っていたわね」

「いけませんか、其れが理由で首になるのですか。仕事の間の休みに言っただけなのに」

「マリー」

2階から降りてそのまま其処にいて話しを聞いていたナタリーがかなきり声を上げた。

「何ナタリーあなたは才能があるから良いわよ。私はお針もマシーヌも上手じゃないし才能も無いわ」

「違うのマリー、貴方にはお客様を惹き付ける、商売をする上で立派な才能があるわ。見て御覧なさいショウもジャネットも笑っているわよ」

「驚かしてごめん、貴方もこの間からジャポンのお土産を売るお店をShiyoo Maedaで直営するというお話聞いたでしょ」

「はい、そこに居られるマドモアゼル・クラリスがお店を探していらっしゃると。まぁ、たいへんそのお話ですか」
アンヌ・マリーは自分にその話が回ってくるとは思ってもいなかったようだ。

「マダム・シャレットのお店から貴方が抜けるのは大変な損出かもしれないわ。でも貴方が誰か使ってお店を切り盛りするいい機会だと思うの。ショウのことだから売り上げ云々よりは、まずお店を開いて商品をそろえてこういう商品をジャポンから持ってきていますと広める事が目的だと思うのよ」
正太郎が言わないうちにジャネットが替わって言ってくれた。

「マリー、君はジャネットの下でバスティアンのように店を任される支配人だよ。名目上はパリのShiyoo Maedaの直営店で、会計はこことは別になるんだ。給与は月250フラン、店員は1日4フランで8時間、売り上げがよくなれば時間外を店員は稼げるけど店主の君に其れは無いんだ」

「でも家計簿やお小遣い帳程度しか付けられませんよ」

「其れは1日一度会計が回ってお釣り銭の面倒と売り上げ、仕入れの帳面を整理することになるよ。在庫管理と盗難予防をしっかりする事は今と同じだよ」
パリでは1フラン以下の小銭は1日分を分けた袋を用意して前日の分は引き上げて其の用意された分を使うのだ

何時からその仕事に掛かればいいのですかと言うことになり、ジャネットは一度パリへでてクラリスと街の様子を見て回らせてあげないと提案した。

「10日くらいパリへいけるかい」

「いきたいです」
マリーの眼は輝きだした、憧れのパリというところなのだろう。

「僕たちはサムディに戻るからそのとき一緒に行くかい」

「はいお願いします。それから妹ですが今年リセを出て働くのですが卒業は6月10日なのですがまだ仕事が決まっていないので此方で働かせてもらえれば嬉しいのです」

「妹さんはさっきの条件でよければ引き受けるよ。開店は15日以降だよ。場所はキャバレーのカドラの隣の建物でブジョー通りだよ」
すこし場所をナタリーと思い出そうとしていたが二人一緒に「駅と教会の間に建てている新しい4階建ての」と叫んで恥ずかしそうに顔を見合わせた。

正太郎がこんな感じと店の間取りと2階の住居を書き出すと「此れなら2人で住んでも大丈夫見たいね。私一人だと親が煩いかもしれないし」
そうか後はキャバレーが傍にあるのを見逃してくれるかが心配になる正太郎だ。

「両親の許しを得たほうがよくないか」
正太郎が話しを振るとジャネットも「私が直接お会いしてお話しても良いわよ。今晩か明日かどちらにしてもパリへでるのも了解していただかないとね」と話してくれた。

「其れでしたらこれから私が一緒に行ってきます。それでだめなときはジャネットにでてきてもらいます」
ナタリーが名乗りを上げ、ではクラリスも連れて行って話しをしてくださるとジャネットが3人を馬車で出かけさせた。

「明日にでもコンテッセの代理人の公証人が来るから契約をしてください。不動産屋は入らないらしいから」
ジャネットが表に出るとすぐ戻ってきた、後から入って来たのはにこやかなM.グレヴィーだ。

「はっは、やっぱりいたか、コンテッセから連絡が来たよ早速手続きだ」
家賃1ヶ月120フラン6月は15日分なので6月と7月分で180フラン。

公証人の手数料証紙代混みで60フランの240フランを正太郎が現金で支払った。
公証人は直ぐ戻っていった、正太郎が2000フランの手形と現金260フランを渡し、いまの契約書と共に新しい帳面と預金口座が直ぐ必要だねと笑いながらいった。

「もう何時になったら私は楽になるの」

「会計を増やすしかないよ」

「もうしらない。明日には事務室と応接間に家具が入るわ、M.アンドレが言って来た様にいい物を入れましたからね」
笑いながらブティックに戻っていった。


28日のジュディは5時に眼がさめた正太郎の顔に陽が当たっていた。

6時まで待てずに散歩に出てポン・ボナパルトでプレスキルに入り駅の先の岬の突端まで歩いた。
川は合流地点で波立ちすこし色の違う水が徐々に解け合わさって流れていった。
今度はローヌ川の河岸沿いに上へ歩いてポン・デ・ラットル・デ・テサージュまで来た。
其処からクロワ・ルースの東の外れへ急な階段を登り、大通りを一番西まで歩く事にした。
朝早くから魚市場で仕入れてきた品物や、朝市で売る青物の台車が喧騒を極めていた。

「この間は静かだったのに今日は凄い活気だな」
道を回りこむようにソーヌの岸辺に降り、ポン・デ・ラ・フェイェまで下った。

9時ごろバイシクレッテの店に2人で出ると、朝から何人もガラス戸の外でバイシクレッテを見ていた。
4月26日のディジョンのレースのテオ2着アイク3着アレク4着ポール5着となった新聞、5月3日のツール・ド・パリにおけるダンの新型で1着、ポール4着ユベール5着正太郎6着の新聞が飾られて、昨年リヨン・デュ・ツールの新型の1着車が同型として前面に優勝者の写真と共に飾られていた。

此れで仲間内での優勝レースは4回となった。

73年10月26日ツール・ド・パリ。ポール。ペニーファージング。

73年11月30日リヨン・デュ・ツール。ユベール。新型パリジェンヌ。

74年03月22日マルセイユ。( アンドレ )。ペニーファージング。

74年05月03日ツール・ド・パリ。ダン。新型パリジェンヌ。

このレースのあと祝勝会をメゾンデマダムDDで行ったときの話。

ポールがダンは毎日行き帰りと、講義をしていないときは構内を回っているそうですが、ショウは練習もあまりしていなのによく頑張りますよ、などと言って正太郎を苦笑させた。

「でも今回のパリは危なかったよ。あんなに団子状態になるなんて来年は3周にしないと最後は20台くらいの混戦になりそうだ」
まさか其処まではいかないでしょうとエドモンは言うが此れで新型はもう新しい名前にしないといけないだろうとアイムが言い出していたが、月産200台を目指せばパリは新型とペニーファージングの争いは激化するだろう。

「今日のレースも2着のペニーファージングと3着の新型は殆ど同着に見えたし、ダンとは10mくらいの差だろ。エメの話しだと僕が入ったのはダンと6秒差だったよ」

「あの人たちチームを組んでいなかったそうですね。僕たちの事を研究したらしく鉄橋まではずっと後ろでしたからね」

「気が付いてたのかい」

「最初のベルシー橋では気が付きませんでしたが2周目のモンパルナス辺りからずっと最後の4台目から20m以上はなれませんでしたよ。危なくやられるところでしたよ」
オウレリアもM.カーライルも此れでロンドンでも新型パリジェンヌの売れ行きは良いだろうと喜んだ。
旅費その他諸経費はShiyoo Maedaが全額持ったし、スミス商会も祝勝会費用を200フラン出してくれた。

バスティアンは出て来なかったが新型の優勝と電信が来て、レイアウトを考えて帰ってきたポールにユベールと次の6月14日リヨンまでは此れでいこうときめたそうだ。

「今日クラリスを誘って良いですか、アンドレも呼びますが」

「いいけど君たち3人で彼女だけではつまらなくないのかい」

「そんなことありませんよ。クラリスは話も面白いし歌も上手いですしね。それに女給にも人気が有りますよ」

「へぇ〜、そうなんだちっとも知らなかったよ」
正太郎はとぼけているがアンドレとジスカールに行った時に歌う様子は見ているのだ。

2人は正太郎の許しが出たから今晩8時に夕食、そのあと何処かへとクラリスを誘った。

パリでの配当はダン1720フラン、ポール、ユベール、正太郎が860フランずつだったので小遣いに不自由していないのだ。

事務室に応接セットなどが運び込まれてきた、ポールにバスティアンとジャネットを呼びにやらせて二人がやってきた。
椅子に机が3つにソファに大きなデスクが二つ。
クラリスがパリから抱えてきたシスレー「Louveciennes 60.0×73.0cm」を事務所開きのお祝いに壁にかけた。

「ナタリーが昨日両親の同意を取り付けてくれたとマリーが言って来たわ。此れであの娘も経営者の仲間入りよ」
雇われとはいえ立派な店長だ、そのさなか若いエレガントな女性がオドレイに伴われてやってきた。

「ジャネット、この方が会計の仕事の新聞広告を旅行から帰ってきて見られたそうなの。まだ決まっていなければといわれるので一応此方でとお連れしました」
ジャネットが丁度応接セットが届いたところで、貴方が最初の客様ですよと自分の名前、バスティアン、正太郎、クラリスを紹介した。

「ボンジュール。私はセシル・アデライド・メリーヌといいます。リヨンでリセを卒業してアメリカのニューアークで簿記学校を出ましたが、フランス式とちがうのですが、此方でのやり方に慣れたいと思います。これが私の履歴です、一度結婚しましたが別れて帰国しました」

ジャネットは「時間の制約は必要ですか、此処では8時45分出勤夕方6時15分まで、お昼休みは1時間です。最初1日4フランあとは簿記の腕次第、人との付き合い方などで評価されます。会計以外にも働いていただくこともあります。ごらんのように色々な商売の寄り集まりですから専門職としての採用では有りませんのよ」と随分最初からこまかく話した。

「マダム。私自分の簿記がフランスでは通用しないことも学びました。ただ同じ会計ですから応用は利きますのでお勉強させていただくつもりです。働く時間は其れで結構です。其処に書いたように今はマダム・ランボーのパンシオン・ヴァンドームに下宿しています」

「あらま、其れは其れは」
ジャネットは履歴の住所を見てバスティアンに渡した。

「私とバスティアンは結婚するまであそこに住んでいましたのよ。奇遇ですわね、何号室なの」

「3階の32号室ですわ、あそこはレ・ドゥ・ショッセも1階として数えるのでまごつきますわ」

「ま、私、ついこの間までその部屋でしたのよ。不思議な縁ですわね、ぜひ私たちのところで働いていただきたいわ」

「いつから出てくればいいでしょうか」

「差し支えなければ今すぐでも良いですわよ。事務用の服は支給しますから普段出勤されたらその奥の部屋で着替えて頂ますわ」
先に立って左のドアがトワレットゥ、真ん中は手洗いと台所、右が着替え用の部屋とドアを開けて紹介した。

「ここにシーヌ風のついたてを買い入れる予定で後は南国風の小さな鉢に入った木をおく予定よ。仕事は今月の締めが終わる31日から3日間は忙しいから慣れてくださると良いですわよ」

「判りましたそれでどの服に着替えれば良いですか」

ジャネットがブティックに連れて行ってバスティアンは「好いんですかね、ずいぶんエレガントな方ですよ。僕たちの事務所に合いますかね」と言い出した。

「こらこら、バスティアンそういう事はジャネットを外に呼んでいうもんだよ。それにもう1人今日来るんだろ」

「そうでしたおとなしめの方でしたよ。この間バイシクレッテの店にご家族でこられて此処で働かせて貰うのよとお子さんたちに説明していましたよ」
バスティアンはどうやらそういうおとなしめの人が好みのようだ。
ジャネットはバスティアンの前ではおしとやかだったのかなと正太郎は一瞬思ってしまった。

そのおとなしめとバスティアンが表現した夫人と共に3人で事務所に戻ってきた。

着てきた服は奥の部屋につるし「貴重品は自分の机にしまって鍵をかけること。ガスを使う時は必ず傍にいること、はなれる時はガスを止めること、事務所を全員が離れる時は鍵をかけること、それらを書いて机の引き出しを開けたら見られるようにしてくださいね」などを自分の机を教えて書き取らせた。
バスティアンは仕事に戻ると降りていった。

改めてサラ・ジュリエット・ルヴィエを正太郎とクラリスに紹介して「此方が私たちのプレジダンディレクトージェネラルのショウ・マエダ、普通はショウもしくはムッシュー・ショウで通っているわ。パリの遊び場ではヂアン・ショウというほうが知っている人が多いのよ」

其れを知らなかったクラリスは「ヂアン・ショウとはどう書くのですか」と前田正太郎と書かれたノートを差し出したので、姜寿と書いて横浜に居たときシーヌの人が僕に付けた名前だよと教えた。

ジャネットは新しい2人に悪いけどもう一度自分の服に着替えてくださるといいつけた。
怪訝な顔で2人が着替えてくると「あなた方お昼の用意はしてこなかったでしょ」と聞いて二人とも近くのお店を聞いて済ますつもりでしたというと「ショウ貴方新しい2人にお昼を奢ってね」と事務所から追い出した。

4人でマロニエ通りのシェ・ママンへ入り「好き嫌いはありますか」と聞いて大丈夫だと言うと「タブリエ・ド・サプール、リヨン風サラダの大皿、セルヴラのブリオッシュ」とママンに頼んだ。

「今日ビールはいいのかい」

「たまには止めとくよ。オニオンスープがいいな」
パンの籠が置かれサラダは直ぐに出てきて食事はパリの話題、ニューアークからニューヨークへ、ラトランティックを蒸気船で渡ってきた航海の話しを正太郎とマダム・メリーヌが掛け合いで面白おかしく話した。

正太郎がティファニーで友人が買い物をするとき眼をこんなに見開いてと指で広げると向こうにいたママンが大きな声で最初に笑い出して其れに釣られて皆で笑い出してしまった。
4人でブティックに戻るとジャネットは会計事務室に2人を呼びいれ暫くこの会計帳簿を読みながらお金の出し入れがどのように行われているかを見るように頼んだ。

「此れを読めば自分たちの仕事がどのように進めればいいかがわかると思います。今日は辛抱して3時半まで此処にいてください、今日は其れでお帰りになって良いわ、明日からは約束の時間働いていただきます。トワレットゥに出る時は必ず他の人に伝えてからドアをあけてください」
正太郎とクラリスは店の中を抜けて庭に出て椅子に腰をかけた。

「ショウ、今日は他を回らなくてもいいのですか」

「たまにはこうしてぼんやりしてると次の仕事が浮かぶんだよ」
1時間ほどそうしてからやっと腰を上げて店を出ようとしたところへアランからの手紙が届いた。

「何ですの」

「今晩飯を食おうとお誘いだよ。8時に家に来いとさ」

「あの方結婚していたのですか」

「いやまだ婚約中さ。婚約者はパリの学生だよ。コンテッセから聞いて今晩遊ぼうという算段だろ。前はサムディとディマンシュに来ている事が多かったのでお誘いが多かったが、最近はサムディに帰る事が多いからね」
2人はローヌ川の河岸沿いをのんびりとポン・ラファイエッまで歩き、橋を渡ってクレディ・リヨネ銀行で5000フランを入金して累計残金43200フラン、

フランス銀行リヨン支店では入金5000フラン、出金600フラン累計残金30400フランとなった。
ノエルの口座にはまだレーモンからの振り込みはなかった。

オペラ座から市役所の脇を抜けてテロー広場を通り抜けてマダム・アッシュ・アンジェルでクラリスを紹介した。

ソエ・イルマシェでも同じように紹介したあと「来月にブジョー通りでジャポンのお土産品やパリの品物を売る店を開くのですが、リヨンのお土産にふさわしいものも置きたいのでいいものがありましたら紹介してください」と頼んだ。

糸屋の親子は心よく承知してくれて此れこそリヨン土産だというものを集めてあげると約束してくれた。
予算はと聞かれ3000フランを初期予算に組みますと答えた。

クロワ・ルースまで坂道と階段を登り、M.ランボーの出店でクラリスを紹介した。
2人の園芸家の手当てを288フランずつ袋に入れてきたものを渡し、今年の薔薇はすばらしいと毎日散歩に訪れる方々が話してくれましたと報告した。

5月の始めには見にいったのですが、ボルドーへ2週間行っていたので帰ったらもう一度見にいきますと伝えた。
ベキュ&ブランディーヌでもクラリスを紹介していまなにが好まれているかと言う話をして店を後にした。

オペラ座まで降りてスクレ・サレでカフェと苺の入ったルーロー・フレーズで寛いだ。


29日はヴァンドルディの朝、二日酔い気味の正太郎は5時半にホテルをでて早足でプレイス・マレシャル・リョーテイまで出た。

気持ちは走りたかったがリヨンで走り回る人を見た事が無いので早足で歩くことにした。

クール・モランを其のままパール・デューの駅の北側まで歩いてクロワ・ラファイエッで右に曲がってポン・ラファイエッを渡りポン・マレシャル・ジュアンまで真っ直ぐ進んだ。

大分汗をかいてホテルに戻ったのは7時半になっていた「大分歩いたな、此れで酒の気もすこしは抜けたかな」そう思いながらドウシュを浴びてまた髭をそった。

クラリスも今朝は大分つかれた顔をしているようなので「9時半に出かけるよ」と言って一度部屋に戻った。

バイシクレッテの2階事務所に上がると大きなリヨンの地図とオムニバスの路線図を見ながらアンヌ・マリーも交えての相談が始まっていた。

オムニバスの路線が拡大されて働く人が通うのに楽になり、6月から交通費として半額支給と決まって家の場所と路線の確認をしているのだ。
マダム・ルヴィエはパール・デューの駅前からの料金を出すとジャネットが決定した。

「そうするとラ・スヴニールが開店したら朝は其処に出勤して会計の整理をしてから此処へ出てきてもらうのが一番ね。Shiyoo Maedaの本店からの資金で運営するのよ。責任者はこちらのマドモアゼル・リガールよリガールさんは二人いるのでアンヌ・マリーと呼んでくださいね、マダムお願いしますわ」

「はい判りました、それでいつから回りますか」

「開店予定は6月15日よ。其れまでは此処へ直接出てきてくださいね」

「はい判りました」

「それで、マダム・メリーヌはプレイスのセーズ停留所からの路線ね。貴方にはクロア・モランの会計を担当していただくわ。マダム・ルヴィエと同じように朝マダム・マラルメと会計の整理をしてくださいね。これが帳簿、此方もShiyoo Maedaの本店からの資金で運営しているのよ。現金を下ろすときは決済が済んだら貴方が銀行から下ろして届けるのよ。こまかいお金が必要な時や緊急のときは事務所の予備費から出しますから」

「はい・マダム」
ブティック・マダム・サラ・シャレットにマダム・デュポン&ナタリー。
バイシクレッテ・バスティアン、バイシクレッテ。

4つの店の帳簿が机に置かれ、総会計帳簿に店別の売り上げ、仕入れ、経費の帳簿と給与支払い原簿を管理するのが仕事になりますと告げられた2人はジャネットがいかに精力的に仕事をこなしてきたか知る事になった。

忙しいジャネットの為に正太郎が勧めて雇ったダラディエ夫人は事務所と住まいの掃除、買い物を助けてくれる50に近い品のよい人で1日5時間の約束だ。
10時から4時まで昼は自宅が近いので1時間は家に戻るという話だ。

正太郎とクラリスはマダム・メリーヌと共にオムニバスでセーズ停留所まで出た。

マダム・マラルメに紹介してキュイジニエの話しはどうなったか聞いた。

「まだ連絡が来ませんの、私が行った方が良いでしょうか」
出られるなら一緒に行きましょうと家を出て、ヴィットン通りを進んでマセナ通りに入り、前にマダム・マラルメが住んでいた家の隣の入り口から中に入ると5軒ほどの家が並んでいた。

真ん中の家を訪れると若いぽっちゃりした可愛い人が「まぁ。リュシーどうしましたの」と幾人も後ろにいたので驚いた顔をみせた。

「今日は直接口説きに来たのよ」

「あの話ね。私はシェフと名乗れるほどの腕は無いのよ。だからメールからお断りをしていただくつもり」

「でもね、リヨンでは難しいのでしょ」

「でも何とかなるわ」

「ダメダメ、私たちは貴方が欲しいの。私の教え子たちのためにも貴方が必要よ。私が教える料理では自立できないわ」

「でも女の料理人ではお店を持つのも難しいわ」
正太郎が前に出て「私がShiyoo Maedaの社長のショウです」と告げた。

「まさか、貴方が社長なの。私より若いじゃないの、てっきりでっぷり太ったお年を召した方かと想像しておりましたわ」
母親からなにを聞いたのだろうと可笑しかったが「私の知り合いの人が学生用のパンシオンの経営をしておりまして、其処で運営している食堂では下宿人以外にも安く昼の食事を提供しています。其処のシェフは女性ですよ。私は其処と同じような店を考えていますしお針子、機織り(はたおり)に向かない娘でも調理師としての感性が有る娘がいれば貴方に育てて欲しいのです」と話した。

「本当にパリにはそういうお店があるのですか」
首をかしげていたがでも自分で見ないと信用できないわと言い出した。
相当レストランでの面接でいじめられたのかもしれない、母親が顔を不安そうに覗かせてはらはらしているのが見えた。

「どうでしょう、明日からブティックのほうから研修に10日間パリに出る人がいて此方の僕の秘書のマドモアゼル・クラリスが案内するのですが、一緒に行かれませんか。お母さんが心配でしたらパリを案内する人をつけますから一緒に行きませんか、勿論会社もちでのご招待ですよ」
母親もパリの観光と聞いて引き受けなさいと娘を説得した。

「では引き受けるかどうか約束しなくてよければ」

「其れで結構ですよ。お母さんには案内人付きでのパリ観光、貴方は其のシェフに会いに行ってからどのようにするかを決めてください。日程などはパリへの列車内でご相談します」
2人は翌朝10時にブティックに仕度をして伺うと約束したのでマダム・マラルメもほっとしたようだ。

クロア・モランの家に戻り、マダム・メリーヌとクラリスはオムニバスで事務所に戻っていった。

「店で暫く見学して午後は自由にして良いよ」

「社長はどうします」
リガールの工場で社長と打ち合わせをして街をうろつくさと別れた。
パンシオンの建築現場を通りの向こう側から眺め、リガールの工場へ向かった。

夫人は「息子が舞い上がって豪邸をなんてばかなことを相談してご迷惑でしたね」と心配そうな顔をみせた。

「なに、今彼は勢いがありますからね。夢でなく本当に建てられる日が来ればご両親にもプレゼントしてくれますよ」
また、ショウは大げさなんだからといつの間にか後ろにいたナタリーが呆れた顔をしていた。

「そう言えばナタリーはパリへいった事は」
母親も交えてパリの話しに花が咲いたが「一度は行きたいけど学校も後1年あるし、お仕事もだんだん増えて暇が無いわ」といった。
夏のヴァカンスにパリを離れる人もいるが反対に出てきたらと勧めた。

「お店は1週間夏休みを取れば出てこられるよ。シルヴィたちも一緒なら安全だしね」

「そうね、お店の人たちと一緒なら行って良いわよ」
母親もそう薦めた。
また新たにフラールを2000枚今度は柄を変えて欲しいと頼んだ、前の柄は1000枚頼んだ。

「そうすれば2種類が置けますから、徐々に増やして行きたいのでお願いします」
社長と夫人に頼んで新しい柄は任せることにした。

遅くなった昼を食べに旧市街へ行くことにしてプレスキルに入った、この間は此処でセシールがお昼を食べていたんだと想いながら通り過ぎた。
冬の間よく老人とであった路地から其のセシールが荷物の入った籠を下げて出てきた。

「まぁショウは来ていたのに何で店にも家にも来ないのよ」
ショウの腕をとって回り右をさせてテロー広場へ連れ込まれた。

「食事は」

「これからだよ」
正太郎がそういっても聞いただけのようでロマラン通りへ入って行った。

ジスカールの上の部屋で正太郎の上着を脱がせ、ラ・キュイジンヌで肉を焼きだした。

「牛フィレ肉のロティよ、スープは無いけどビールがあるわ。帰ったら飲もうと氷に漬けてあるのよ」
小さな机の上に半分にされたロティと、どこかで仕入れてきたのか茹でたジャガイモに肉入りのタルトが出された。

料理の腕はいいようで冷えたビールで食べる牛フィレ肉のロティは美味しかった。

「こないだの話考えてくれた」

「断ったつもりは無いわ」
正太郎がル・リから出た後、セシールはそう言って正太郎の服を後ろから着せ掛けて送り出してくれた。

「今度は何時出てくるの」
ビズを何度もし煙草の吸い過ぎなのだろうかすこしかすれた魅力的な声で聞いた。

「次は10日後くらいかな。遅くも14日のリヨン・デュ・ツールには出てくる予定だから」
セシールはこの間の事で正太郎の朝の散歩を知ったので、出てきたら朝でいいからくるように誘った。

「でも寝る時間だろ」

「5時には戻るからドウシュを浴びるか体をお湯で拭うけど6時過ぎまでは寝ていないわよ」
日にちの約束は出来ないけどと断ったがそれでも必ず顔を出すとビズの合間に約束した。

ホテルで服はポルト・フネッからバルコニーに風を通すために吊り下げ、ドウシュを浴びて着替えるとノートの整理をした。
7時近くどこかで食事と思っているとドアがノックされた。

「社長、アランがお見えですよ」
クラリスがアランと部屋の前にいた。

「やぁどうしたの」

「今晩も付き合いなよ。クラリスはアンドレとお出かけだそうだ」
2人だけなのかいと言いながらクラリスを見ると真っ赤になっている、図星のようだ。

ホォというようにアランも眺めたが何も言わずに部屋へ入って来た。
机の上のノートを見ていたがつまらん部屋だな、もっと豪華なグランドでも行けばよいのにと可笑しそうに言いだした。




30日のサムディ、リヨンの空は曇っていた。

正太郎は5時半にホテルを出て丘へのぼって朝日が出てくるかと遠くの山を見ていたが曇り空は遠くまで続き6時半になっても雲の中だった。

諦めて部屋へ戻りジーンズを脱いで着替えた。

「そういえば次のジーンズは何時になるんだろ」
まだ到着予定は連絡がなかった。

列車は5人を乗せてリヨンを出た、15分ほどすると車掌が来てこちらへお1人お願いしますとドアを開けてすまなそうに伝えた、廊下を見ると老夫婦に姉弟らしい顔が見えた。

「もし差し支えなければご夫人を此方へ、僕が他へ移りますよ」
其の紳士が「メルシー、君ぜひ其の方の申し出を受けなさい」2人と入れ替わるように正太郎が表に出て車掌は3人を連れ若い男3人の部屋へ案内した。

老紳士は物静かに眼鏡をかけて本を読み出したが男たちはすっかり寝入った様子で身じろぎもしなかった。
ディジョンで3人が降り、新たに親子連れが乗車してきた。

「あら貴方前にお会いしたわ、あの時の可愛いマドモアゼルはどうなさったの」

「マダムこそパリですか」

「ええ10日ほど、主人の仕事について行きますの」
二月ほど前に一緒だった親子は、此れ幸いとばかりに正太郎の事を根掘り葉掘り聞き出そうとした。

クラリスには相手の趣味を話させるといったがそんな暇を与えては呉れなかった。

横浜から来ていると聞くとヴィエンヌで買ったと言う扇子をみせた。
1等品で正太郎が送ったものだ。

「高かったでしょう」

「此方のお金で16フランよ、高いと思ったけどパリでは20フランもするそうよ」
ヴィエンヌの値段、ロンドンでの値段がパリに伝わり4月に入って卸し、小売の値段が上がったのだ、おかげでアランは売り込みが楽になったし、其の間にムッシュー・タンギーは大儲けをしたはずだ。

正太郎の話しを聞き出すより親子で秋のヴィエンヌの思い出を語りだし、老紳士も煽るように其の話をさせた。
自分に話が回ってこない予防線を張ったようだ、大分旅慣れているのだろう。
話が途切れると、こういうお店の事を聞いた事がありますがと人から聞いたという風に話しを振って、夫婦に話しをさせるのでリヨン駅に着くまで退屈しなかった。

駅で降りるとクラリスを見つけた夫人は近寄ってホテル・ドゥ・ルーブルが定宿だから、ディジョンのレノーと尋ねて来るように約束させ、クラリスの家の住所を訪ねたので会社の名刺を渡すように薦めた。

「知らない名前ね、Paris Torayaと言うのは何をする会社なの」

「ジャポンからの品物を輸入したりパリの商品に、ワインを輸出したりしています」

「あらそれならぜひうちのワインも扱いなさいよ。ブルゴーニュでは中々いいものなので手に入りにくいのよ。パリに出店した知り合いの人にしかまだ出していないのよ。ジャポンにもすこしだけ送られていると聞いたわよ」
駅の混雑が引いてもまだクラリスを離したくない様だ。

「今晩夕食を」
何度も誘うので正太郎とクラリスが付き合うことにした。

「後1人同席の約束の人がいるけど良いわよね貴方」
そう夫人がかぶせるようにムッシュー・レノーに同意を求めた。

「勿論だとも君が良い様にして構わないとも」
普段から夫人と争わない人のようだ。

「では8時30分にホテルへきてくださいね」
約束をして正太郎は2台の馬車に別れて、オテル・ダルブへ向かった。

ふたつの部屋は取れて「今晩はホテルの食堂か近くにある食堂を紹介します」というと下町の食堂が良いと3人が言うのでシャ・キ・ペッシュへ歩いて向かった。

夕陽はノートルダム聖堂を照らしセーヌの眺めに3人がパリは煩い街だと聞いたけどと不思議そうに聞いた。

「明日から其の煩い街を堪能できますよ」
シャ・キ・ペッシュでは店主が新しい客を歓迎して「これから人と会うので3人だけだよ」というと残念そうだった。

100フランを渡して「この人たちがパリにいる間の食費ですよ。お帰りの後で足りない分は清算します」と渡すと最後の日以降の清算でも良かったのですよと笑いながら受け取ってくれた。

「明日は10時にホテルへ行きますから」
そう伝えて3人には此処なら何時来てもお金は支払う必要はありませんから特別なレストランへ招待される以外はぜひご利用をお願いしますと店を後にした。

馬車を雇いクラリスの家まで出て「またすぐ戻るからね。他にドレスは有るの」と聞いた。

有りますと聞いてそれに支度しておいてねとメゾンデマダムDDに戻りMomoとベティにセルヴィエットの整理を頼み、現金や手形などはサックごとDDの金庫に入れ、髭を剃ると夜会服に着替え、待たせた馬車に飛び乗りノレ街24番地のクラリスのパンシオンへ向かった。
入り口ではクラリスが時間を気にしながら待っていた。
コレット広場付近は混雑していたがホテル・ドゥ・ルーブルの中へ入ったのは3分前だった。

「間に合いましたね。社長」

「焦ったよ、レセプシオンで何処に居られるのか聞いてみよう」
2人を最初見分けられなかったと言いながらレノー夫人が後ろから声をかけてきた。

「此処へ招待した方がまだなのすこし待ってね」
家族の元へ案内してソファを勧められた、クラリスが優雅に挨拶をして座ると殆ど口を聞かなかった息子が「お姉さんとてもドレスが似合うよ」と真顔で褒めた。

「メルシー・ムッシュー」

クラリスが言うと嬉しそうに「本当だよ列車で着ていた服より似合うよ」とさらに褒めた、どうやらこの一家褒め上手話し上手のようだ。

夫人が連れてきたのはヴァルミ河岸のバスチァン・ルーだ。

「やぁ、ショウじゃないかムッシュー・レノーと知り合いとは驚いた」
夫人は驚いたようだがすかさず「ムッシュー・ルーはご存知なの。なら紹介の必要は無いわね」と平然とした表情を装った。

ルーには正太郎からクラリスを紹介してホテルのレストランへ向かった。


31日のディマンシュ、朝早く正太郎はバイシクレッテで疾風のアルマンを訪れた。
馬車を8日間借り切りで頼むためだ。

「ようがす、あっしが付き合いますぜ」
観光用の8人乗りに二頭のポニーをつけて正太郎のバイシクレッテを乗せ、メゾンデマダムDDに戻り、クラリスを迎えに出かけ馬車に乗せるとエメのアパルトマンへ着いたのは9時20分。

表にいたリュカと挨拶を交わしてクラリスと5階まで上がるとエメの部屋番号を見てクラリスは首をかしげた。

「此処5階ですよね」

「そうだよ。一番下に61号室から66号室があるんだよ」

ジュディッタの部屋の前に戻り部屋番号を見せた「えっ、何で21号室なんですか。あら突き当たりは22号室ですよね」

リヨンから連れてきた人たちの話をし、エメに如何して部屋番号がこうなったかを説明してもらいながら階段を降り、3人でオテル・ダルブへ向かった。

10時5分前についてエメとそれぞれの紹介が済むと、馬車でエトワール凱旋門に向かった。

小鳥市の雑踏を避けてサン・ミシェル橋からシテ島に入りシャンジュ橋で右岸に渡った。

河岸沿いをコンコルド広場までくだり、橋の名前や劇場などはエメと正太郎が替わるがわる説明した。

海軍省とホテル・クリヨンの間を抜け、マドレーヌ寺院では疾風のアルマンに待ってもらって中へ入った。

新しく大統領官邸となったエリゼ宮殿の脇からシャンゼリゼに入り緩やかな上り坂を凱旋門に向かった。

エトワール凱旋門でも馬車から降りて真ん中をくぐって見上げ、其の高さに驚いたようだ。

馬車は周回道路を回りジョゼフィーヌ街の公使館の前を通りアルマ橋へ出た。

ボスケ大通りを直進してエコール・ミリテール跡まで進んだ。

オテル・デ・ザンヴァリッドに入り疾風のアルマンの案内でナポレオンの棺と対面した。

ナポレオン嫌いのエメは初めてだ。

ボン・マルシェでは上から下まで見て周り、メダル教会の異名を持つサンヴァンサン・ド・ポールで親子はメダイを買い入れた。 

サン・ジェルマンの市場に出て、ビストロ・ラルテミスではシェフが7人全員に前掛けをするように渡し、周りの客にソワイエ・プリューダンスと声をかけて熱した油を上から注ぐと大きな炎が上がった。

次々に7人の皿から上がる炎は演出効果満点だった。

タルタルステーキにはソゥス・ア・ドゥミグラスが掛かり炎と共に匂いが広がり7人の食欲は高まった。

ジャレ・デュ・ポールを分け合い、楽しく昼を食べてその日はホテルに戻った。

「明日はクラリスが僕たちの事務所に案内します、時間は9時にお迎えにクラリスがお伺いします」

3人にその様に伝えるとクラリスも乗せたままドーベントン街へ向かった。

M.ブロティエに来意を告げるとアリサは直ぐ降りて来てアリスの食堂で明日6人分、11時半からの予約を取った。

アリスにはリヨンで働いてもらうことになるかもしれないキュイジニエで、マルセイユで働いていたと伝えておいた。

クラリスの家に8時30分に疾風のアルマンが迎えに行き事務所までお客を連れてくるように打ち合わせ、メゾン・カイザーでパンを買い入れると正太郎はエメとノートルダム・デ・シャン街でおりてクラリスは疾風のアルマンに送ってもらった。


Paris1874年6月1日 Monday

正太郎はエメの家に泊まり、ランディの朝オムニバスを乗り継いでメゾンデマダムDDへ戻り、サックを出してもらうと事務所に向かった。
銀行で1万フランの手形2枚を個人口座から降ろして3階へ上がった。

M.ギャバンへの中途資金の手形2枚をモニクに預け、クラリスがお客を連れてくるからと話しているうちに3人がやってきた。

クラリスがM.アンドレから全員を次々紹介し「後2人いるのですが今仕事で出ています」と伝えた。
クラリス、アンヌ・マリーとアランにモニクをソファに呼んで話しをした。

「アランついにリヨンに出す予定だった店舗も決まったよ。6月15日に開店の用意に掛かれるから品物を集めてくれたまえ。必要な品物の数はクラリスと、アンヌ・マリーに相談してくれたまえ。君は今日から売り込みじゃなくて買い入れに掛かるんだよ。とりあえず明日から3人でみやげ物の売店や卸売り店を回ってくれたまえ。初期仕入れは6000フランを目途に出かけるときは500フランの手形4枚と500フランの現金をモニクに用意させるから其れをもって出てくれたまえ」

「ショウ3人を歩いて回らせるの」

「馬車を明日から5日間借り切りにしてくれないかな」

クラリスが「私のパンシオンは寝室が二部屋で母親がこの間までいた部屋があるのですがアンヌ・マリーを其処に泊めても良いでしょうか。毎日オテル・ダルブまでお迎えに行くのでは時間の無駄になりますので」というと「私もホテルよりクラリスが其れでよろしければお願いします」とクラリスと肯きあって賛成した。

モニクもホテル代がなくなれば馬車代が出るから会計も助かるわと賛成して「1日5フランの食事代をつけるから2人の食費にしなさいね」
6日分として30フランをクラリスに預けた。

アランには3人のお昼代よと30フランを預け、余ったら返すのよといってノートを付けるのを忘れないようにと念を押した。

「じゃこれからアリスの台所へ行く途中でホテルは1人引き上げだ。うちの事務所で他にパリの名所案内に向く人は誰だろう」
マダム・レーグと娘のニコル・サンドラ・レーグの案内をして欲しいと頼んだ。

「それならアメリーがうってつけよ。あの娘休みの度に町をうろついてカフェのパラソルの下で寛ぐのが好きだそうよ」
アメリ−を呼んで其の話しを始めると、聞いているうちに顔がどんどんほころんでいくのが判った。

「お仕事ですよね」

「そうよ其れでお昼代にお茶代は会社持ち。もちろん経費だからなにに使ったか書いてもらうけど1日3人で15フランまで使って良いわよ。馬車は疾風のアルマンがメゾン・デ・ラ・コメットまでお迎えに来てくれますからね」

明日のマルディからヴァンドルディまでの4日分を先払いされて嬉しそうだった。

ダニエルとジャスティが戻ってきたのを汐に3人とクラリスを連れてドーベントン街へ向かった。
途中オテル・ダルブで1部屋をチェックアウトして荷物は預かって貰った。

11時半ぎりぎりにCuisine d'Aliceに入り、ミミの案内で席に着いた。
シェフのアリスが挨拶に出てきて「最初のスープは此方で特別に用意しました。
キッス・ドゥ・カナールをお楽しみくださったら、後はあちらの台からお好きなものをお好きなだけおとりください。当店の決まりは残した人は罰として皿洗いを手伝うと言うことです」そう言ってラ・キュイジンヌから運ばれてきた2種類のスープをよそってくれた。

不思議な海の香りと豊かな野菜の香りがした。

「此方は5種類の魚のスープ、次は子牛の骨を二晩かけて煮込んだスープに玉葱とセロリのスープを加えたものです。うみ、やま、のエキスが詰まっています」
ニコルは香辛料を知りたそうだが一同は味わうのに夢中だった。

鴨は時季にしては好いもので「オランダから来たものです、昨日の朝ハーグから送られてきました。今日が一番の食べごろでしたわ」と美味しそうに食べる疾風のアルマンに微笑んでラ・キュイジンヌに下がった。

ミミが来てマダム・レーグを伴って料理の並んだ棚で説明してから、お皿にとってあげた。
後は堰を切ったように立ち上がっては好きなものを持ってきた。
其の頃には近くの学生で店は外まで人が溢れ、庭の席でも食べだす学生が現れた。

会計を2フラン40サンチームでよいのですとミミが言って「Mlle.ビリュコフからのおごりです」と正太郎に告げた。

疾風のアルマンは馬車まで先導し「おったまげましたよ。あれで1人40サンチームですと。どうやりゃ出来るんですかいねぇ。そりゃ鴨はおごりでもあれだけ食べたら店はやっていけませんよ」と言ってマダムの手を取って馬車に乗せた。

「其れは誰でもあそこに入れないからだよ。本当は下宿している人たちだけの食堂だったんだよ」背中合わせの何時もの席で正太郎は疾風のアルマンに説明した。
店の前の看板にはLe souscripteur peut entrer Cuisine d'Aliceと書かれているのだ。

「加入者は入れますですかい。あの来ていた人たちは皆下宿人ですとでも」

「最初は下宿人の紹介で入ったのさ。でもミミというセルヴァーズに顔を覚えてもらえればその日の食材が無くなるまでは入れるんだよ。いつも新鮮な野菜にその日のために用意された肉が出されるのさ」

ゴブラン大街を直進してプラス・ディタリーを通り抜けるとアベニュー・イタリーをさらに直進、セーヌ県に入り右に見えるのがヴァルダン通りのメゾン・デ・ラ・マリー。

全員でおりてニコールとルネに出迎えられ、ドナルド爺さんの仕事を見に庭を散策した。
コレージュからエドモンが帰ってきて、あとから追いかけてきた。

正太郎がこの庭の管理をしているエドモン・プランティエと紹介すると誇らしげに薔薇や百合、芍薬の名前を説明して歩いた。
クラリスは2度目だった、大きな庭園と薔薇や百合の花の香りの豊かさに酔うように鼻を近づけた。

「マドモアゼルはフルールが好きですか」

「とっても好きよ。特にあの白い百合の隣の茶色の斑が入っているのが良いわ。名前はなんていうの」

「あの百合はlis or-rayeと呼ばれていますが本当はYamyuriと言うのですよ。私たちのParis TorayaShiyoo Maedaがジャポンから輸入しているんです。白いの花がTakakoで、派手な色のはlis du tigreです。此れを売れば花だけでも2万フランにはなるのですが。ロンドンから年3回ほど遊びに来てくださるレディ・オウレリアの為に咲かせました。5月の2日から5日間此処に滞在してくれましたので其のあと売ってもよいのですが、近くの人の散歩道に花が無いとさびしいとショウとMlle.ブリュンティエールが話し合われてそのまま残しました。でもあなた方は幸運ですよ、明日ですべて切り取られるのです」
M.ジュイノーが自分たちで刈り取ってよいのだがと申し出てくれ、残りは1本8フランで売り渡すことにしたのだ。

ジェランフ・ドゥラエ・プラントでは其の中から市場に出せるものを餞別して5箇所の市場に送り出すそうだ、此処に球根は残るのでまた来年楽しめるのだ。

ドナルド爺さんも其の頃には出てきて庭のあちらこちらの茂みに咲く花を説明して歩いた。

「まだチューリップが残っているんだね」
丘の向こうの畑の傍にはチューリップが畦に沿って咲いていた。

明日はクラリスではなくて疾風のアルマンとアメリーという娘がオテル・ダルブまでお迎えに出て其のあとヴァンドルディまではその人の案内でパリをお楽しみくださいと親子に伝えた。

オテル・ダルブで親子を降ろすとアンヌ・マリーの荷物を受け取り、ノレ街24番地のクラリスのアパルトマンで荷物を降ろして事務所まで戻った。

「明日は3人ならベルリーヌ馬車にしますか」

「そんないい奴で好いのかい」

「任せてくださいよ」
疾風のアルマンはそういうと帰っていった。

アンヌ・マリーとクラリスをメゾンデマダムDDまでつれて歩き正太郎はMomoを紹介した。

ベティとセディが正太郎の部屋へ案内してルノワールの絵やモネの描いたキャプシーヌ大通りの絵を見せた。

「社長はこんな小さな部屋に住まわれているのですか」
クラリスは驚いたようだ、メゾンデマダムDDは大きな屋敷で下宿人と言っても幾部屋もある大きな場所を想像していたようだ。

「そう僕はこの部屋で寝泊まりしてるよ。でも此処の住人は自由にクロワールに書斎に応接間を使わせてもらえるから大きな部屋で1人さびしく居るより住み心地は抜群さ」
ベティとセディは寝泊まりというところでくすっと笑った。

まぁ5月は5回寝たかなと正太郎は思って自分でも可笑しくなって顔がほころんだようだ。
応接間でMomoが入れてくれたカフェ・クレームで苺のタルトを頂いた。

事務所の下まで戻ると正太郎は2人と別れてラ・コメット1号棟の具合を見にいった。

5時を過ぎて仕事の片付けが始まっていてM.ギャバンは今日も元気で仕事の監督に来ていた。

「いま4ヵ所の仕事場を回るので体がいくつあっても大変でさぁ。せがれに半分責任を持たせようとしてるんですがね、これが中々言うことを聞きませんのさ」
愚痴なのか自慢なのか判らないことを言っていたがヘルメットをよこして中を案内してくれた。

階段は油まみれの紙が敷かれペンキが塗り立てだから手を付かないようにと言いながら4階まで上がった。
其の上に上がるとメイド用の屋根裏はもう出来上がっていて、このあと徐々に下へ仕上げ仕事は移っていくそうだ。


2日マルディの朝早く太陽が昇ってきてもまだ丸みの残る月はブローニュの上にあった。

ようやくリヨンからの人たちの案内や、買い付けの話しが決まり正太郎にも落ちついてデスクの上に溜まった書類を眺める時間が出来た。

エマをつれてモンルージュまでノエルに会いに出かけた。

「社長がボルドーへ出ている間に一度アンドレの勧めで朝の巡回の時に百合の花を見に出かけさせて頂きました。其の時ジャスティと一緒にうかがいました」
エマは子供たちに会えなくて残念だと心から思ったそうだ。

「ノエル、またリヨンでお金がでる話が持ち上がりましたよ」

「あら今度はなんなの」

「例の工場のレーモンが奥さんに家をプレゼントしたいと言い出したんですよ」

「それでどうするの、其れも借りたいという話にでもなったの」

じつわねと最初からの経緯を話すと最初は呆れたように聞いていたが「2万フラン程度でもまだ子供がいない夫婦でも3人は出来ると考えた家を心がけて上げなさいね。5000くらい増えてもいいのよ、今の借り上げ住宅から8月からは1400フランづつ入るのですから問題は無いわよ。それで何時お金の手当てをします。今日銀行へ行っても良いわよ」

「では契約金として1万フラン出していただけますか」

「良いわよ。それからショウのほうに連絡が着たかしら」

「なんのですか」

「横浜のゴーン商会からよ。ソフェアの留学資金のたしに昔扱っていた商品をコタさんに集めてもらったそうよ」

「何か来るんですか。どんな商品なんでしょ」

「ショウは聞いたことなかったの」

「雑貨を扱っていて旦那とバーターで色々扱ったと聞きましたが」

「簪や櫛に帯留め等を次の船で正太郎のほうへ送ってくるはずよ。手紙は27日だったからもういつ来ても可笑しく無いわよ。其れからリヨンへの投資は12万フランを限度としましょうね。それと正太郎とエメが建てるラ・コメットの2軒分の不足金に毎月500フランの寄付をするわよ。其れから前からリヨンで孤児たちを引きとると言っていた話はどうなっているの」

正太郎はまず500フランはありがたくいただくと話し「リヨンもあと3人パリから子供たちを引き受けて11人になります、マダム・マラルメには隣へパリと同じような建物を建てて1階には食堂を併設して料理を習いたい子供はそこで手伝いをしながら学べるようにします」

「其処は何人くらい入れるの」

「会社のお金を使いますので4室は会社へ8室を孤児出身者で働いてる人か独身女性の援護用に貸す予定です」

「其処への寄付は必要なの」

「其処は会社経費で行いますが、まだ建てられる余地があるのでエメと僕に余裕が出来たら、土地を此方と同じように会社から借り出して1号棟と同じ規模のものを建てたいと考えています」

「其れ作れるようになったら此方のように援助しますからね。いまの私たちは十分すぎる資金がありますからパリとリヨンへ毎月500フランずつを出しても銀行預金の利息で払えますからね」
3人でフランス銀行へ回り手形で新規契約分として1万フラン出してもらった。

百合根だけで21万フラン以上になりレーモンへの貸家は投資と心へて、社宅に廻した分とあわせると86000フランを越す計算だ。

馬車にエマを残していてノエルの馬車を探して事務所に戻るという正太郎に、マダム・デシャンに会いたいと言うのでフェルディナンド・フロコン街まで来て先にM.アンドレと先ほどの話しを正太郎に変わって説明してくれた。
正太郎とノエルは昼をメゾン・デ・ラ・コメットでと、連れだってラ・コメット1号棟へ向かった。

「随分早く出来上がりそうね」

「ええ、7月には最初の入居者と管理人の募集をかけられそうです」
M.ギャバンは居なかったが2階も入れると言うので大工の案内で2階を見て回った。

ルモワーヌ夫妻に2人の食事の世話を頼んで支度が出来るまで庭を歩いた。

「あれだけ大きな建物が建っても半分以上あいているのね」
15mx16mの建物に倉庫が2棟20x20、40x40が建ちもう1棟、1号棟と同じ建物を奥に建てても其の間は5m隙間が出来、前面は倉庫への5m通路を残しても20mx20mの建物を建てる余裕があるのだ。

「それならこの奥にあと1棟建てても大丈夫なのね」
将来はそうしても良いでしょうねと正太郎は答えて食堂へ戻った。

メゾンデマダムDDではノエルはベティの話しをマダム・デシャンと煮詰める相談をしにきたようだ。
マダム・デシャンは毎月50フランをノエルに出し、不足分は基金から補うということで決着した。

「伯爵からお金がきても其れは2人の将来の為に残しましょう」
どちらから言うでもなく話は決まったようだ。

セディはコレージュまでは今のままと決まり正太郎に任せることに決着した。


3日メルクルディは朝のうちの雨も9時には上がり、事務所で本を読みふける正太郎は自分がでしゃばらなくても次々に物事が動き出したことに満足だった。

午後になって観光に出ていたアメリーが親子と戻ってきた。

ニコルが「今日お昼に改めてアリスの台所で食事をして明日から3日間お手伝いをさせていただくことにいたしました。此方でお話を頂いた食堂のお話お引き受けさてて頂きます」と先にお話すべきところを後に成りすみませんでしたと親子で謝ってくれた。

「引き受けていただいて有難う御座います。あそこならこれからの事に役立つことも多いでしょう。ディマンシュはまたお母さんとパリを楽しんでください。僕はマルディにリヨンに出ますが一緒に戻りますか。そうすればランディの9日の日に皆で食事会ができるのですが」

「お任せいたします」
M.アンドレに頼んで事務員の9人に正太郎、エメ、レーグ親子にアンヌ・マリーを加えた14人をスフインクスで食事会を8日の夜7時30分で予約を取るからと伝えた。

「予約はアランに取りに行かせますか」

「いや、これからエメに会う約束があるから僕が行くよ」
一度メゾンデマダムDDに戻り9時までに戻れなければエメのところに泊めてもらうと告げてオムニバスを乗り継いで出かけた。

エメと夜にスフインクスへ出かけ食事をし、8日の予約をM.クローデルに頼んだ。

「14人で予算は500フラン以内、特別に頼まない限りお酒も含めて欲しいの。私たちの会社の事務員たちを招待するのよ」
お任せくださいとM.クローデルが引き受けてくれた。

エメとまだ月が出てこない中をリリック劇場の前を通りシャンジュ橋から夜舟のランタンを眺めた。

「ねえショウ、あのリリック劇場だけど、伯母の遺産管財人が勧めて株を買い入れた会社が今度あそこを買い取るそうなのよ。と言うことは間接的に私の方にも権利がでるんですって。だから今度投資するときは劇場の株も抑えなさいというのよ」
2人で其の劇場と道を挟んだシャトレ座を眺めた、橋からはパリ市庁舎が徐々に形を現していく様子が見えた。

「あと10年は掛かるそうよ。市庁舎は昔と同じに仕上げるんですって」
一般住宅と違い細部まで昔の様子そのままに仕上げるには時間が際限無く掛かりそうだ、仮庁舎は一部を除きサン・ジェルヴェ・サン・プロテ教会の周りに分散して置かれていた。

シテ島をサン・ミシェル橋で左岸に渡りダントン街を抜けてサン・ジェルマン大通りを歩いてサン・ジェルマン・デュプレからレンヌ街に入りアパルトマンに戻った。



4日ジュディの朝は昨日と違い陽が出ると暑くなりそうな予感があった。

フランス郵船から荷物の到着を知らせてきたのは11時。
早速ジャスティと馬車を頼んでカトセンブル街へ向かった、ノエルから聞いたゴーン商会の荷と横浜氷川商会の荷だった。

馬車に入りきれないので荷馬車を頼んでそちらはジャスティが付いて倉庫に向かった。
倉庫番に雇ったムッシュー・ルブランは40才くらいの威勢の良い男だ、手前の倉庫の2階がルブラン夫婦の住処だ。

正太郎が事務所からエマとダニエルを呼んで二人が立ち会ってジャスティと中身を仕分けした。
正太郎が幾つかの簪飾りと120と書かれた櫛と大きな凧一張りに送り状を持ち、先に戻って待っていると1時間ほどで3人が事務所に戻ってきた。

「数は間違いありませんでした」

「そうするとこのゴーン商会の元金分は横浜へ送らずにモンルージュのソフィア嬢の留学資金のたしにするんですね」

「そういう話になってるそうだよ。前回は3000フランの送金がきたそうだけど今度は其れを品物にして僕のほうの儲けにしろと言うことだそうだよ」
仕入れ値4580フランと送料保険1680フランの合計6260フランの品物は櫛10種100枚、簪3種100本、凧5種100張りに独楽5種100個。

換算がしてあって櫛は1フラン10枚、2フラン20枚、3フラン10枚、10フラン10枚、20フラン5枚、30フラン5枚、50フラン5枚、120フラン5枚の1280フラン。 

簪は10フラン10本、20フラン50本、30フラン20本、40フラン10本、50フラン10本の2600フラン。

凧は2フラン40張り、3フラン2種40張り、5フラン10張り、20フラン10張りの450フラン。

独楽は小1フラン50個、中2フラン20個、大3フラン20個、特大5フラン8個、飾り独楽の1mもあるものが30フラン2個で250フラン。

もうひとつの横浜氷川商会は旦那の個人会社だ、送付状には虎屋にての決済が記されてあり、皿は50フラン、人形は30フランで送料込みとされていた。
九谷焼の絵皿が50枚と江戸木目込人形と京の加茂人形が30体ずつ送られてきていた。

「このセーフ・ヴォロンは良いですね。色があやざかですよ」
早速事務所を入ると正面に見える場所に大きな凧を飾った歌舞伎の弁慶の大きな顔が来客者を睨むように見えた。

モニクは羽二重に包まれ、120とかかれた櫛の箱を恐る恐る開いてみて其の漆塗りと絵柄に魅了された。
5枚の櫛1枚ずつ見事な箱に収められ、黒に梅の模様が2枚、朱色は照手姫が2枚と御所車1枚。

「幾らで売るのです」

「やっぱり卸売りでも200フランだろう、直接240フランで売るほうが良いかもしれないね」
パリで売りますかリヨンで売りますかと聞かれ凧に独楽は全てリヨン、櫛と簪は半分ほどにしようと決め120フランは1枚ずつの3枚をリヨンにしようと2枚は正太郎の引き出しにしまった。

アランたち3人が戻ってきたのでモニクと一緒に倉庫に行かせ、九谷焼と人形をそれぞれひとつずつ持ってこさせた。

「皿は10枚リヨン、パリで30枚売り出そう。残りはしまいこんでおこうな。人形はそれぞれ10体リヨン、パリで15体、後は此処に飾るほか顧客に配るから」
アランたちは人形工房から新たに300体のプペ・アン・ヴィスキュイ、ジュモーのプペ、メゾン・ユレのベベ、ステーネのベベ、ゴーチェのベベ、ブリュのスマイリングブリュー、シュミットのベベシュミットと仕入れをしていて元からの物を合わせると600体と替えの衣装1200着が集まった。

そのうちパニエ工房のマダム・ウランシェが作る帽子と衣装は600体分が集まった。

「社長。ジュモーはアンジェ街の工場をエミール・ジュモーが結婚を機に継いで、モントルイユの工場はピエール・ジュモーが継ぐ事に決まったそうですよ」
ピエールは長男の死後現役に復帰していたのだ。

「モントルイユに近いタンプル大街ばかりだったがアンジェ街のほうへも行って見るか」

正太郎はアランに一緒にリヨンへ行く前に行って見るかと話し、200体の人形を3人で選んで衣装も600着リヨンへ送り出すように指示した。

アンヌ・マリーはリヨンでは何処へ置きましょうかと正太郎に聞いた。

「まずバイシクレッテ・バスティアンの事務室にしまわせることにして僕たちがリヨンに着いた頃に到着出来るように8日のランディに発送して置こう。あそこは広いから当分倉庫代わりに置かせてもらうさ」
パリの小間物も集めたので予算の6000フランに2000フラン追加して買い集めた30cmから36cmほどのベベは7フランで全店が卸してくれ300体で2100フラン、替えの衣装は2フランで800着の1600フラン、マダム・ウランシェの帽子とセットは3フラン30サンチーム1980フランの計5680フラン。

正太郎が集めていたものは39cmから52cmと様々のベベにフアッション・プペの56cmから70cmのものが多いのだ。

横浜への受け取りの電文を作りダニエルに発信局へ行って貰った。

5時を過ぎてからM.ジュイノーの息子が事務所まで来てくれた。

「百合は大分もうけさせて貰ったよ。868本あったから6944フランの手形と1500フランの手形をもって来たよ。それからこの300フランは大分此処の皆さんをせかしたお詫びだ」

ありがたく頂戴しますと正太郎が受け取った、本当に儲かったと言うことなのだろう。

「それからギヨーさんたちと連絡が取れて9月発送の百合根は以降4回まで同じ値段で出せるか調べて欲しい。出来ればこの間と同じ値段ならありがたい。其の値段が約束できれば1回10万球入れてほしい、私たちの店で5万球、ギヨーバラ園が3万球、残りをギヨーバラ園担当で卸売りと決めてきた」

「判りました。早速横浜へ電信を打ちます」
M.ジュイノーの前で電文を書いて、戻ってきたばかりのダニエルにまた出かけてもらった。

M.ジュイノーが事務所からスキップを踏むように陽気に帰ったあとモニクに300フランを「食事代が助かったね」と笑いながら現金を渡した。

百合の花の2回分は8444フランで1号、2号棟の残りの支払いと備品を買う費用になるのだ。


5日ヴァンドルディの朝バイシクレッテでパリジェンヌ商会のベルシー河岸の工場へ出かけた。

ルネは相変わらず新しい構想を考えて試作をしていた。

「今度はタイヤかい」

「中々空気を中に閉じ込めるのに上手く行かないよ。考えだけで特許が取れるなら良いがね。直ぐに振動で空気が逃げてしまうよ」
其のあと2人でゴムの厚みや良質のゴムを供給できそうな会社を検討した。

「アイムの決済をショウの方からとってくれればあと10台今月分から供給できるよ」
ルネはそう言って「名前をつけないとな」と笑いながらわかれた。

シャラントン・ル・ポンの先の渡し舟でメール街へ渡った。
ギー・モーター・デ・ラ・ヴァプールではガソリンエンジンを小型化したと聞いたからだ。

「馬1頭分くらいの力しかでないよ。まだまだ此れでは馬車の馬代わりにはならないよ」
ムッシュー・ギーは正太郎の期待の篭もった目を見ながら「もう少し力がでないとな」と言って肩を叩いて心配するな直に実用に耐えるもので完成するさと送り出してくれた。

デヴリー橋を渡ってセーヌに沿って進みベルシー橋を渡って右岸に出て、クストー街のマガザン・デ・ラ・バイシクレッテを覗きエドモンと新型車の売れ行きを話した。
此処もリヨンに劣らず売れ行きは順調で正太郎は5台増やして13台にすると約束した。

マティニョン通りの事務所でアイムと話し合い月間40台を了解してもらった。

「名前か、早く決めないと何時までも新型では可笑しいよな。いっそ新聞で募集してみるか。応募者に抽選で1台プレゼントとでもすれば多くの人が考えてくれるだろう」
アイムは正太郎にそういうと良い名前がつけば将来は月産300台だなと大きな声で笑った。

ルジャランドル街のカミーユ・ローランの店に回り売れ行きを尋ねると「今月に入ってペニーファージングが10台新型は売り切れです。もう少し入りませんか」と此処も順調の様子だ。
ここでも13台を約束して正太郎はモンマルトル墓地の脇を抜けてルピック街のジュリアンの店に向かった。

「さっき近くまで来たそうじゃないか」

「先に回るところが多かったのさ」

「シャンペンがあれだけ儲かるなら年に何回も送り出せればな。共同の倉庫には常時26万本がおける規模になったぜ」

「店を増やさないのかい。アンベルスは手を引いてしまったからパリにもう一軒出しても良いんじゃないの」

「そんなに働かせるなよ。そのうち店の店員に独立させるから自然に手も広がるさ」
ジュリアンは輸出だけで年間30万フラン以上利益がでてもこれ以上店舗を増やして自分では事業を大きくするのは好まないようだ。
店員は7人に増えて夜間配達は3人が行う仕組みだ。

マクシム坊やのプレゼントの絵は代理人が手に入れて無事応接間に飾られていた。

「悪かったな500フランもするとは思わなかった。ロトリー・ピュブリックも今年は当たらなかったそうだな」
ロトリー・ピュブリックは毎年当たる事はありえないさ、そのうちもっと高価なものをふんだくってやるさというと「オッ、マリーと所帯を持つ気になったか」と切り替えしてきた。

「学校を卒業してからの話さ」
なんだもう決めたかと思ったのにとエメがマクシム坊やを抱いて「ショウも早く子供をね」とにこやかに笑った。

「何も結婚していなくとも子供は出来るさ」
ジュリアンはエメに睨まれてしまった。

ペニーファージングの話しをし、カミーユ・ローランの店へ2人は200フランの投資で第1回の配当は2月に99フラン84サンチームの配当が出たが、ジュリアンは此れを子供のための積み立てと決め、マクシム坊やの口座を開いた時に入金していた。


6日サムディの朝は曇り、メゾンデマダムDDは朝から何時ものように陽気だ。

正太郎は朝の巡回の馬車でジャスティとヴァルダン通りへ出てドナルド爺さんやニコールとルネ、エドモンの4人に50フラン入りの袋を配った。

エドモンの分は爺さんに頼んで預金してもらうことにした。

「この間の百合の配当だよ。あと別に100フラン用意してきたから手伝いのものやニコールとルネたちと美味しいものでも食べてくれ」
其のあと順路のモンルージュではノエルに百合の花の売却益はラ・コメットの経費に使うことの了承をしてもらった。

「次回の百合の値段は未定ですが10万球までなら同じ値段で買えるなら欲しいそうです」

「ショウ私たちの取り分が減っても出来るだけ便宜を図ってあげてね。譬え1フランとしても私たちには使いきれ無いのですから」

「使い道は幾らでも思いつきますよ。横浜でも直ぐ高くなる事は無いと思いますよ」
では2フランとって大丈夫ならリヨンのラ・コメットの寮を建てる費用を私たちで出しますよと言ってくれた。

ゴーン商会からの荷について話して5220フランの手形を示した。

「これから入金にでられますか」

「良いわよ、カントルーブ夫妻に必要な買い物があるか聞いてくるから馬車で待っていてよ」
フランス銀行へ回って降ろしてもらった。

入金をしてお昼はと聞くと「おなかは空いていないけどガトーなら」と言うのでレ・アールの市場を避けてモントルグィユ通りのストレーに向かった。
紅茶とアリババを頼んで表の椅子に座った。

「とても美味しいけど二つ食べたら酔っ払ってしまうわ」

「シャトーのお嬢さん育ちのノエルがそんなこと言うのは可笑しいですよ」

「だって酒蔵はあっても年中飲んでいたわけじゃないわよ。そりゃ父さんや、兄さんは試飲をするので強くなったというけど私たち女性は宴会の時ぐらいよ。祖母は底なしだと酔うと自慢していましたけどね」
子供たちにお土産を買うと馬車を探しにモンマルトル街にでた。

2人の目の前にベルリーヌ馬車が止まった。
立派な衣装の中身は疾風のアルマンだった。

「此れから天文台に行きやすが、どちらまでですか。お安くしますぜ」
笑いながら話しかけてきたフネッからはアメリーとマダム・レーグが顔を出した。

正太郎とノエルは共に乗り込んで天文台を訪ねた、高台から見るパリの街は美しかった。

「もつと高い場所がありますぜ」

「それ、パンテオンの事。昨日回ったけど見通しはこちらのほうが良いわ。モンマルトルの寺院の建築現場と良い勝負よ」

「そんなもの勝負になりませんぜ」

「じゃ、サンジャックかい」
正太郎が聞いてみた。

「あの塔も良いですが、近くに見通しをさえぎる高い建物もありますからね。それ以上のがありますぜ。ただ上がるのに骨でね、たいてい外から眺めてしり込みなさりまさぁ」

だってあと街中の高い建物はノートル・ダムかバスティーユくらいよとアメリーがマダムと疾風のアルマンに言った。

「そう其のバスティーユにある7月革命記念塔ですよ。あそこは女神の台座まで上れますぜ、ただ238段の階段を上り下りする元気があればですがね。後は気球に乗って空から眺める手もありますぜ」
2人ともパリを上から眺めたいが其れは止めにすると疾風のアルマンに断った。

ノエルをモンルージュまで送り、バスティーユへ行きましょうかとアメリーが提案して広場へ出かけることになった。

「此処にくると5階建てはおろかどう見ても7階建ての建物がありますから驚きますわ、2回目、3回目と街を馬車で回るたびに驚く事が多い街ですわ。昔主人がこの塔やヴァンドーム広場の写真を買い入れてきましたけど、近くで見ると大きさに驚きますわ」

「今回其のヴァンドーム広場はいかれました」

「ええ、アメリーが主人の買った写真と上の像は違うと教えてくれましたわ」
ついこの間、新しいナポレオンの像が上に乗せられたのだ。

バスティーユ広場から程近いサン・ジル街のメゾン・ユレを訪れた。
商売とは別に明子お嬢さんへのお土産を買うつもりだ。

最近専用のトランクに入れた人形に多くの衣装、アクセサリーまでもが付いていたとアランが話していた事から思いついたのだ。
3人も興味があると一緒に店を訪れた。

一揃いが詰められたトランクは30フランから160フランまで5種類があった。

マダム・ユレは正太郎に「どうです、数を注文してくれるなら格安で出しますよ。ムッシュー・ショウが扱ってくださると此方も張り合いが出ますわ。まだ輸出するだけ数が揃って居ないのですわ」と今ならお買い得だと勧めた。

正太郎は30フランのトランク入り50組、50フランの品物を20組、此処からはビスクは2体に増える80フランの物を20組、120フランの物20組、160フランの物20組に300フランで5組を特別誂えで注文した。
合計11200フランを6720フランでShiyoo Maedaに卸すとマダムが約束してくれた。

六掛けだからそれほど安いとも思わなかったが正太郎は先払いで5000フラン分のクレディ・リヨネ銀行の手形に50フラン金貨35枚で支払い、30フランのお釣りを貰った。
5820フランと900の2枚の領収書を出してもらうことにした。

小ぶりのベベ1体にドレス5着、アクセサリー付きで贈り物用の小さなトランクの30フランを筆頭に価値はありそうだった。
マダムは正太郎に見本にと30フラン二つ、50フラン二つ、80フラン、120フラン、160フランの5種の品物を渡してくれた。

取引を始めて初めてのことだ、正太郎は「メルシー・アデレイド」とセルヴィエットから扇子を5本取り出して渡して「納品は何時ごろですか」と聞いた。
扇子をかざしてマダムは楽しげに歌うように「半分ずつでよければ10日には、残りは25日まで待って欲しいの。まだトランクとアクセサリーが量産できないの。其れと300フランとなるとアクセサリーも良いものにしないといけないから其の分は25日ね」と約束した。

HURETのマークが胴に付くようにしたのはトランク入りの分だけなのよと、まだ扇子を机に広げて見ながら教えた。

「其れよりムッシュー・ショウうちからスウィブル・ネックのビスクを大量に買ってくれるペロンというお店があるのを知っている」

「いえ店の名前は聞いた事がありますが其の話は初耳です」

「ベロンのベベは前シーヌやバロアが中心のビスクだったのよ。いまはうちが2割くらいかしら。ア・ラ・プペ・ニュルンベルクという名でペロンの衣装が付いて売られているのよ」
有名なアドルフ・アダンのラ・プペ・ニュルンベルクというオペラから取られた名前だ。

アメリーが「社長、4年位前に雑誌で衣装が褒められて人気のお店ですよ。シーヌの陶器のベベから最近はビスクが中心です」と教えてくれた。

「そうなんだ。僕は自社のヴィスキュイが中心のお店で、シーヌの陶器のベベは敬遠して居たからね。それに4年前はまだ横浜に居たから知らなかったよ」

マダムは「うちにもシーヌのヘッドのがまだあるわよ。ビスクのフアッション・プペは前に買っていただいたけど今回安く出すから買いませんこと。良いお店も紹介しますよ」
幾つかの店を教えてくれシーヌとビスクそれぞれ5体に換えの夏と冬服の衣装付で560フランとしてくれた。
兵隊と貴婦人が3体ずつ、白いドレスの少女が4体。

ベベの工房はパリに10数社あるが自社のヴィスキュイを使うのは少ないのだ。
ジュモーのフアッション・プペ、ブリュのスマイリングブリュー、スタイナーのベベ、が人気だ。

ゴーチェはジェスラン、ジュリアン、プチ&デュモンティエ、ラベリ&デルフィー、チュイエ、ビチイにビスクを提供していた。

マダムの話からA.デオーのファッション・ドールに興味を覚えた正太郎は今度買いに行こうと考えながら3人と別れ、見本とFashion Poupeeと共に事務所に一度戻った。

モニクにトランクセットは10組ずつとフアッション・プペを2体ずつリヨンへ出すように頼み300フランのものは正太郎個人の買い付けとし、立て替え分5820フランと560フランは月曜日にShiyoo Maedaから出してもらうことにした。

アランたちが一度戻ってきたので4人でアンジェ街まで行くことにした。

サムディだというのに6時を過ぎてもまだ工場は稼動していた。
店舗のほうへ案内され新しく売り出される予定の人形の嫁入り衣装を見せてくれた。

ルノワールが描いたエメのパリジェンヌの衣装によく似た色合いの衣装と同じデッサンのものにあと5種類の衣装をエルネスティーヌが作製したと聞かされた。
衣装は正太郎ばかりかアランもクラリスもアンヌ・マリーをも魅了した。
39cmほどの人形は眼の色はレ・ジュ・マロンとレ・ジュ・ブルーがあった。

「今度のは高そうだね」

「そうだな、フアッション・プペ1体30フランで売り出そうと思うが最近は安いものが売れて無理だと思うので急遽このおもちゃ箱風の組み合わせで50フランと100フランにして紙箱に入れてパリジェンヌと名前を付けて売り出すことにしたよ」
フアッション・プペとしては30フランは破格の安い値段だ、人形と替えの衣装3組、子供の遊び道具、化粧道具などが組み合わされていて、100フランというほうの箱の小物はそれだけで値打ち物だとひと目でわかった。

30組ずつ買い入れるとしたら幾らで出すかを確認すると30フランと60フラン、ただし200組ずつ買い入れる契約を結ぶなら27フランと52フランで良いと計算をだしてきた。

「5400フランと10400フランか、どちらか一方の契約でも有効なのかな」

「ムッシュー・ショウの事だから後の事を期待して其れで良いよ」

「では27フランで200組、60フランで30組を前払いで注文して何時くらいに受け取れるかな」

「今日はサムディだから来週のヴァンドルディまでに届けるよ、今日両方とも10組は有るからもって行くかい。其れと60フランのほうは今回引けない替わりに昔のフアッション・プペを3体持って行きなよ」
大きさは37cmほどから60cmで良い出来に見えた。

「メルシー。実はその手のフアッション・プペも幾つかほしいと思っていたんだよ。そのほかに10体幾らで良いかな」

「昔のは高いんだよ、700フラン出してくれるかい。店では120フランで売っているんだ。替えの衣装は1着10フラン出してくれ。今日持っていけるよ」
5000フランの手形に3000フランの手形で支払い品物を積んで事務所に戻るとモニクが事務所で待っていた。

アランには今日の分から見本に3組ずつ残してリヨンへ送るように頼んだ。

「遅くまでご苦労さん。明日はゆっくり休んでくれたまえ」
正太郎は階段したで4人と別れてメゾンデマダムDDに戻った。


7日ディマンシュの朝は5時前から朝日が強烈だった。

ラモンにニコラを担がせるようにして3人でモンマルトルの丘を降りデ・ザササンのところで一息つくと半月が頭の上に白く見えたが直ぐに強烈な陽の光で見えなくなった。
クストーさんに中へ入れてもらいニコラをル・リに放り込むと2人は自分の部屋へ戻った。

11時過ぎに目が覚め下へ降りるとダンが新聞を広げてカフェを飲んでいた。

「朝帰りだってな」

「デ・ザササンで軽く仕上げるつもりだったのさ。ところがニコラがやってきてムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットへいこうと誘った挙句散々奢らされたよ。最近セルヴァーズ以外に女給が増えて賑やかだというので行ったけど、あまり面白い娘は居なかったよ。変に取り澄ました若いのばかりだったよ」
ラモンも降りてきて其の話に加わり「ニコラはまた新しい娘にお熱のようだよ。ミラが機嫌悪かったろ」と正太郎に言った。

「ミラにはいつも借金があるようだよ。その34フランを僕に支払わせにデ・ザササンに来たみたいだから」

「またか、いつもたかっているが良いこともあるのかい」

「情報は時々回してくれるから可笑しな取引に巻き込まれる事が無いから少しはおごらされても構わないさ」

「なら、今晩は俺と付き合いなよ。ヴァレンティノは今日開いているんだろ」

「あそこは休みなしだよ」

「じゃ決まりだ」
其の話しが聞こえたようにニコラが降りてきて話に加わり「俺も行くぞ。ラモンも行くだろ」と言い出した。

「仕方ないな俺が奢るから全員来いよ」
ダンは最近懐が暖かいので笑ってそういった。

「そうだ、ダンはこの間の競争で1年は小遣いに不自由しないくらい稼いだし、最近は給与も330フランに上がったからな」
ニコラはどこで聞いたかダンの給与まで知っていた。
去年までは殆ど無給の研究生だったのに給与が出るようになっていたのだ。

「其処まで知られているとはオルフェヴル河岸恐るべしだな」

「ダンの先生のムッシュー・ミュルヴィルが話していたのを聞いたのさ」
なぁんだと言う顔のダンに「そういうことさ、いくらオルフェヴル河岸でも大学の教員の給与までは知らんぜ」と笑いながら話した。


8日ランディは事務所も忙しかったが夜の送別会に向けての楽しみがあった。

アメリーとレーグ親子は3時までパリを楽しみ夜の送別会に出るために一度オテル・ダルブへ戻る事になっていた。
ダニエルの案内でクリシー孤児院のスゥル・マリ・シモンと打ち合わせに出かけた、4人に増えるが良いかと言うので正太郎も付いていく事にしたのだ。

明日の特急券は買い入れてあり朝8時に迎えの馬車が来て、ガール・ド・リヨン9時15分発でリヨンへダニエルが同伴して出発と打ち合わせをした。

当日はホテルへ荷物を置いて新しい住まいと以前から入居している児童、教授掛かりと顔合わせ。
翌日に新しい住まいへ移動と子供たちを交えて話し合った。

上の娘は1日にコレージュを卒業した15才が2人、12才でエコール・エレメンタールをやはり1日に卒業した娘が2人。

正太郎はリセ、コレージュへ進学希望なら指定した学校への試験が通れば遅くも1年後、現在預かっている娘達と話あって本年進学できるものは進学してもよいし1人で生活できるだけの技量があればいつなりと自立してよく、なんら金銭的な制約は無いことをスゥル・マリ・シモンとメール・マリィ・エマニュエルに約束した。

「同じ事は現在入っているメイドのレティという娘や8人の子供たちにも話してありますし、スゥルから聞かされた事と違いがあれば遠慮なく申し出てください。あなた方の事は此処も、リヨンのメゾン・ド・ファミーユも何時でも見守ってくれています」
スゥル・マリ・シモンはリヨンで3泊してダニエルと12日にパリへ戻る事などを子供たちにも納得してもらった。

「向こうには現在8人の生徒さんと1人のメイドがいますがこのレティという娘は皆さんの家を維持する指導をしながら同じように学んでいます。先生は機織が2人、M.パンルヴェにM.ジルベールでお針や日常生活の指導はマダム・マラルメとマダム・パンルヴェのお2人が受け持ちます。マダム・マラルメには3才のお嬢さんのクリスが居ますので仲良くしてください。お針の指導は私たちの店から順に指導に回る人を差し向ける予定です」

「ムッシュー、よろしいですか」

「どうぞ」

「マドモアゼル・ダニエルが前お針子としての指導を受けながら出来上がった製品の買い取りをしていただいて分配すると聞かされましたが本当ですか」

「そうです、ただ最初からよい価格で引き取る事は出来ません、共同での分配金になります。腕さえよければ自立可能として私たちの店と契約を結ぶか、就職先をお世話します」

「其れは自立できるほど出来なくとも他の方より明らかに腕がよくとも報酬は分配されると言うことでしょうか」

「そうするつもりです、そうでなければ共同生活をする意味がありませんし、自分だけのためにという方をお世話する余裕はありません」

「稼いだお金から幾らかの寄付や生活費が引かれるのですか」

「私たちの施設では全てShiyoo Maedaが負担します。寄付も受けて居りませんが、自立支援のためのアパルトマンを建てますのでそちらへ寄付をしたいという方は歓迎しますが、其れもあくまで自立した後でのことにしていただきます。まず自立して食べていかれる事、家庭を待っていただく事が私たちの目的ですので個人の口座へできるだけ積み立てることをお勧めします」
メールとスゥルも納得してくれ「子供たちとも今晩もう一度、進学への意思の確認をして置きます」と明日の旅立ちが楽しみだと2人を送り出してくれた。


9日マルディの朝のパリ・リヨン駅は大勢の人で溢れていたが正太郎たちも3部屋の1等車へ分かれて入った。

孤児たちはまさか1等車とは聞かされても居なかったとダニエルに案内されて嬉しそうに乗り込んだ。
スゥルが正太郎に話しがあると言うのでダニエルと席を替わって子供たちの部屋へ入った。

「昨晩メールとも話し合いましたが12才でエコール・エレメンタールを卒業したばかりの娘をあなた方に押し付けるようで気に掛かっているのですが、この際お言葉に甘えてコレージュへ行かせて頂け無いでしょうか」

ジャンヌとシモーヌというお姉さん株の2人も「私たちがこの子達の分も働きますからお願いします。私たちはリセに行くよりも働く事を選びましたので」とけなげな事を言った。

「其の事は気にしなくて良いんですよ。昨日も話したように向こうにいる娘達も手に職を覚えて自立することと同じように勉強をしたいという人を援助するのも私たちが望む事のひとつなのですよ。エミリーとオデットだったよね、マダム・マラルメに言ってコレージュへ通う手続きをしますから安心してください」
4人の娘と付き添いのスゥル・マリ・シモンは安心したようなのでクラリスと席を替わってもらいリヨンの事を話してもらう事にしてダニエルにも今の話しを伝えた。

ガール・ド・リヨンで自宅へ帰る3人に6時30分にクロワ・モランへ行くからと伝えてくれるように頼んで別れ、アルバンが指揮する2台の馬車でボンディ河岸へ向かった。
ル・フェニックス・ホテルでは連絡をしてあったとはいえ従業員一同が子供たちを歓待してくれた。

新しいリヨン市民への精一杯の歓待は子供たちの気持ちも高揚させた。
お茶を飲み、お菓子の接待を受けて荷物を置くと夕食はホテルで8時30分と決めて正太郎たちと共にクロワ・モラン街へ出かけた。

マダム・マラルメに可愛いクリスの出迎えで先に入居していた8人とレティに2人の老人を紹介した。

「3人の予定が1人増えて4人になりました。仲良くしてください」
コレットとジュリエッタにコレージュへ行く気持ちになったかを確認すると「マダムには行かせていただけるならぜひとお願いはいたしましたが、自分たちが其の間此処での授業で金を稼ぐ事が出来ませんので其れが気がかりです」とパリからの子供たちと同じような事が心配のようだ。
メゾン・ド・ファミーユからの5人の娘と一番のお姉さん株のマチルドが「私たちがその分を稼ぎますのでぜひコレージュへやってください」と頼んだ。

正太郎が新しい仲間の4人の事を話し、二人をコレージュへ通わせると約束したから前からいるあなた方がそういう気持ちなら、2人も一緒にマダムに言ってコレージュへの入学手続きをしてもらうと約束した。

「学費、必要な制服そして友人と付き合う最低限のお小遣いと経費は会社が負担します。ですから此処で学ぶ人は自立するための勉強。コレージュへ通う人は自分のできうる限り学校での勉強に打ち込む事、其れが私たちの望む事です、だからと言ってからだを壊すほどの無理な事をしてはいけませんよ。決して他の人に迷惑をかけていると考えないで勉強してください、残りの方もまず勉強を望むならリセ進学を認めるつもりです。此処で習う機織、お針の授業が最優先ではないことを忘れないでください。もう一度確認して置きます此処ではマダム・マラルメとマダム・パンルヴェ、そしてレティの指示に従って行動してください、皆さんは仲間だと言うことを忘れないでください」

1号棟へ新しい4人が入り、2号はマラルメ親子にレティ、3号棟はメゾン・ド・ファミーユの2人とコレットにジュリエッタ、4号棟はメゾン・ド・ファミーユの3人とマチルドが住む事を改めて確認した。

1号もすでにル・リは入っていて明日引っ越してきても大丈夫のようにレティが準備を完了していた。
メゾン・マダム・マラルメも外観はすでに4階まで組みあがりM.ティラールの会社の仕事が速い事が伺えた。

新装成ったル・フェニックス・ホテルの食堂はすばらしいひと時を一同に与えてくれた。



10日のメルクルディは晴れていた。

朝の散歩から戻り8時に食堂に降り、8人で軽く食事をすると子供たちは荷物を持って馬車に分乗してクロワ・モラン街へ向かった。

新しい4人の住処となる家にはレティが指示し、掃除の当番や学校が始まるまでのそれぞれのやるべき日課表を張り出して教えた。

「必要な品物、足りなく為りそうな物などは私かマダムに申し出てくださいね。服と履物などの必要な物は後でエマ・パンルヴェ先生が調べて必要な物をそろえてくれます。今度の日曜に全員でリヨンの名所を回りますから其の時は皆さんに外出着がブティックから届きますので期待してくださいね」
スゥルと4人の娘は抱き合って別れの挨拶を交わした。 

「ムッシュー・ショウのお話では明後日ダニエルとパリへ戻りますから其れまでにもう一度顔を出しますわ」
スゥル・マリ・シモンはそういうと気丈にも家を後にした。
1台待たせた馬車でダニエルとスゥル・マリ・シモンをレーモンの工場へ案内した。

「大きな工場ですね」

「この工場のこちら側は社員のための住宅で会社もいくらかは負担して働く人の住宅費を援助しています。此処はご存知のマダム・ルモワーヌが私を代理人に工場へ一括して貸し出しています」

「そんなにも従業員のことを考えている会社で働かせて上げたい物ですわね」

「この工場はまだまだ大きくなるようにこの裏手の公園にしてある部分も敷地になります。そうすれば働く人はまだまだ必要になりますよ」
レーモンとハンナに10000フランの手形を預かってきた事、25000フランまでかけて良いことを伝えた。

「それで月幾ら払えば良い」

「月300フランで良いよ」

「それじゃ余りにも安いぜ。もうからんだろ」

「ノエルの許可が下りたから其れで良いよ」

「良い話しで嬉しいぜ」
手形を渡して来月また10000フラン届けるからと約束してブティックへ向かった。

馬車を返して4人でマダム・サラ・シャレットへ入った、店は10人ほどのお客が店員と活気に溢れるやり取りをしていた。
奥の庭に出て椅子に座るとオドレイがやってきた。

「良い具合にお客様が入ってるね」

「夏が近づいても客足は落ちませんわ。此れなら7月、8月も良い売り上げを期待出来ますわよ」
5分ほど話して裏から隣へ移ってシルヴィとアン・マティルドにも挨拶して事務所へ向かった。

「此処全部ムッシューのお店ですの」
バイシクレッテの店も盛況で2階へ上がるとアンヌ・マリーがついた荷物をジャネットにマダム・ルヴィエ、マダム・メリーヌも手伝って貰って仕分けしていた。
正太郎とスゥル・マリ・シモンは奥のソファに座りダラディエ夫人が淹れてくれたカフェを飲んだ。
ダニエルとクラリスは仕分けを手伝い人形をジャネットが感嘆の声を上げるのを聞くと「社長が特別に買い入れたんですよ。300フランするのも5組誂えましたよ。此れは160フランだそうです」

「其れは売値、買値」

「6掛けですから96フランですわ」
ジャネットは紙製の箱物のジュモーのドレスに見とれていた。

「其の高い奴に比べて此れは幾らなの」

「100フランですが今回は60フランでしたが200組なら52フランに為るそうです。小ぶりのほうは50フランで買値は30フランで今回は27フランでした。人形だけなら30フランで売り出すそうですよ」

「其の50フランの箱入りなら私は人形だけのほうが良いですわ」
マダム・メリーヌが思わず声を上げた。

其れを聞いていて「そうだ今度其のパリジェンヌと言うフェアッション・プペだけを注文するか」といまさらのように思い出した。

「クラリス戻ったらパリジェンヌ200体注文だ」
正太郎はM.アンドレから預かってきた備品費5000フランと建築費用の残金6850フラン、その他の費用として3000フランをメゾン・マラルメの会計に入れてもらった。
ラ・スヴニールの開店費用の追加として1500フランも新たな会計に入れ、3000フランは糸屋へ先払いして置くからとマダム・ルヴィエに話しておいた。

4人でシェ・ママンへお昼を食べに向かった。

「ムッシューのお店は女の人ばかりですの」

「バイシクレッテの店は6人男性が居ますよ。事務所の下も僕たちの会社ですよ。スゥルに興味が無いだろうと店に入らなかっただけです」

「そうだったんですか。不思議だなと思っていてつい」

「良いんですよ、パリの事務所も男性は3人、いや僕を入れて4人で女性のほうが多いですから」
ママンがはじめての2人に何処から来たのか、なにが好きかを聞いて注文を取り次いだ。

馬車でホテルに一度戻り、3時にメゾン・ド・ファミーユへ訪問すると3人に伝えてそれぞれの部屋へ引き取った。
メゾン・ド・ファミーユでは施設長のメール・マティルドと意見交換をしてリセへの進学希望を申し出にくいといけないので機会があればお話しに行って欲しいと頼んだ。

「そう、パリからの娘はコレージュへやってくださるのね。其れもリヨンの子供たちと4人も、あなた方それでは収入が入るより支出が多くなりすぎますよ」

「其れも考えました。収入よりも役に立つ人を育てたいと言うことが私の希望であり、Yokohamaに居られる私の先生のYosidaの希望でもあります。学業がその後の生活の役に立つか私にはわかりませんが出来うる限り芽を摘まない事を心がけて居ります」

其れと新しい建物が出来ればあと4人引き受けられると言うことを伝え、各地の施設と連絡を取っていただくことを伝え、メゾン・マダム・マラルメと付けられる建物には働く女性8人を安い家賃設定で3年間引き受けられる事も伝えた。
部屋代は初年度10フラン2年目15フラン3年目20フランだ。

吉田先生の事を尋ねられたので「ロンドンへ留学していまは私たちの会社の相談役とイギリスのジャーディン・マセソンの横浜店にも籍を置いています。其の先生と私は約束をした事があります。幸い私も先生も商売の道に人より優れているらしくお金を儲ける事が出来、其のお金で教育を受けられない人、さらに教育者を育てる援助も約束しました」とYokohamaでの事を話した。

施設長のメール・マティルドもクリシー孤児院のスゥル・マリ・シモンも其の話しを聞いて正太郎の気持ちの純粋さを改めて信じてくれた。
正太郎の弟妹の事なども聞かれ弟はノエルたちのMaison de bonheurが閉鎖されたあと自分と同じように商売の勉強をしている事、妹が2人いる事も話した。

戻り掛けにラ・スヴニールによるとコンテッセが建物の様子を見に来ていた。
内装の準備に入っても良いという話になり建物の中を見るともう何時でも入れると言うので鍵を渡してもらった。

「15日からの分だけだけどショウのことだから負けておくわよ。何時でも大工を入れて頂戴」
話しが付き明日には大工を見に寄こすと話して分かれた。

夕方のブティック2軒は共に忙しそうだった。
アンヌ・マリーを事務所に呼んでジャネットが立ち会い、大工を入れて君の好きな店にして良いと伝え「もうブティックを手伝わなくて良いから店に掛かりきりで商品が目立つような陳列を考えるように」と話した。

「妹さんも手伝えるなら今月は日割り計算で給料を出すわよ」
ジャネットがアンヌ・マリーに伝えてくれた。

クラリスにも「リヨンに居る間はラ・スヴニールの手伝いをしなさい」と秘書は暫く休みだと伝えた。


11日ジュディの朝散歩から戻り朝の食事の合間にダニエルとスゥル・マリ・シモンは2人でリヨン見物、クラリスはラ・スヴニールの手伝いとその日の日程を確認した。

馬車で駅までは4人で出て、明日のパリまでの一等車の予約をパリでの往復切符を2枚出して予約をしダニエルに渡した。

「此れは今日と明日の食事代や必要なものに使いなさい」
正太郎は5フラン銀貨を10枚渡して「2人分だけど余っても返す必要は無いし報告の必要も無いからね」と2人に話した。
クラリスにも10枚渡して「アンヌ・マリーとの食事に使って良いよ。足りなく為ったらジャネットに言って出してもらうんだよ。大工との打ち合わせや何かのお金もジャネットから出してもらいなさい。担当はマダム・ルヴィエだったね」と確認した。

正太郎は馬車をフルヴィエールの丘へ向かわせ、クラリスは歩いてブティックに向かった。
アランにスゥル・マリ・シモンとダニエルを紹介し、建築中のバシリカの中を案内してもらった。

馭者には2人の事を頼んで街の案内に向かわせ、正太郎はアランとしばらく町にいるから連絡はブティックかホテルへと話して1人でぶらぶらとトリオン広場のほうへ向かった。
バイシクレッテの競争路を反対方向へたどりコースの先の丘を下ると小さな川にぶつかり流れに沿って降るとローヌ川に出た。

渡し舟があり其れで対岸に渡ると造船所が見え其の左を縫うように進むとマルセイユへ向かう線路が合流する地点に出た。
其の先へ進むと競馬場を作るのか丘の斜面を利用したくぼ地に根岸の競馬場を細長くした走路が見えた。

「内側の小さい方でも一回り1800mくらいかな。それにしてもフランスはやる事がでかいな根岸の5倍は敷地があるぞ。調教走路がこっちだとするとあれが厩舎になる建物か」
バイシクレッテの競争路の3区から2区とした丘の道を登り右左の走路を見て大きさに驚き、丘の向こうには広い畑と小さな家に新しい工場群が見えた。

2区の曲がり角と決めた角は高台で左手下にはホスピタルDu Vinatierの大きな敷地が広がっていた。
道を下り6区との合流点でどちらへ行くか考えアントワネットの丘をそのまま北へ進んでジャン・クロード・ドゥシェのバラ園からクロワ・ラファイエッのリドのほうへ歩いた。

ポン・ラファイエッへ向かいローヌを越してフランス銀行で5000フランの手形を入金して20フラン金貨25枚を降ろしポシェの袋へ入れた。
クレディ・リヨネ銀行でも同じ手続きを踏んだ。

ローヌの河岸沿いに遡りスクレ・サレの2階席のブション(ビストロ)へ上がった。
サンドウィッチとカフェを頼んでノートの整理を始めた。
後ろから肩を叩かれて振り向くとセシールがすこし怒った顔で立っていた。

「此処まで来てどうして家へこないの」

「今頃は寝てるだろうと思ったかからだよ。其れと今回は今朝まで孤児の事でスゥルと行動が一緒だったし、仕事が詰まっていたのさ」
前に座り自分もカフェを頼むと正太郎の食事が済むとさっさと勘定をして先にたった、正太郎は仕方なくあとから付いていくしかなかった。

4時にホテルに戻りジーンズに着替えて馬車でブティックへ向かった。

「ショウ、大工は決まったわ、アンヌ・マリーが知り合いに話して10日で内装を仕上げてくれるそうよ。25日開店でいまから行動を開始するわよ、ショウは出てくる」

「今回長くいるからその日は無理だよ。それに僕がいる必要も無いだろ」

「其れもそうね」
オドレイが1人の紳士と共にやってきた。

「ジャネット、此方の方ドイツからこられた方で婦人服の卸をされているそうです。お名前は」
名刺を見ながら「ムッシュー・ベルンハルト・ツィヒェヴィーツ」正太郎が聞いた事があると振り向くとジンデルフィンゲンのムッシュー・ツィヒェヴィーツその人だった。
細い髭がぴんと跳ねた其の顔は横浜からの航海とニューヨークまでの鉄道旅行を共にした仲間だ。

「お久しぶりです。横浜の正太郎です」

「おお君か。懐かしいなあれから何年になるかね。もう何処から見ても立派な青年じゃないか、パリからリヨンへ移ったのかね」

「いえパリが住まいで今週は商用をかねてリヨンへ出てきています」

「其れにしては普段着だね。サンフランシスコで買い入れたジーンズがまだ着られるとわね」

「あれはもう体に合いませんので新しいのを買いました。ところでムッシュー・ツィヒェヴィーツはお仕事ですか」

「オオそうだ、始めましてマダム・シャレット、つい知り合いとあって懐かしかったもので失礼しました」

「いえよろしいのですわ、ショウとお知り合いだそうでムッシューはなにの御用事でおいででしょうか」
ツィヒェヴィーツはドイツのジンデルフィンゲンの織物を扱っていますが今回はショッセット(靴下)を此方で扱わないかとやってきましたと大きなセルヴィエットから見本の束を出した。
男性用に比べ絹糸が細く編まれた軽い物で手触りはよいとジャネットは正太郎にも見せた。

「ショウは此処とパリの統括の社長です」
ジャネットはツィヒェヴィーツに簡単に説明し事務所にいたアンヌ・マリーにも意見を聞いた。

「履き心地はよさそうですわ。でもスカートで隠れるのにこんなにいい物をはく人がいるでしょうかしら」
アンヌ・マリーは懐疑的だがジャネットはスカートも今と違い働く女性が増えれば夏は短くなるのは目に見えているわよとアンヌ・マリーにいって「スカートが短くなれば動きやすいからこのショッセットも人が欲しがりそうね。ムッシュー幾らで卸されますの」と駆け引きなく聞いた。

「マダム・シャレットは駆け引きなくお尋ねのようですので此方も率直に申しますとこの12種類の靴下全てを100ダースずつ合計1200ダースですと14400フランで卸せます」
1200ダースは14400足、1足1フランは十分高級品として売れる値段だ。

ジャネットは金額が張るので正太郎に相談し、1000フラン程度分なら自分の裁量で仕入れても良いのだが金額が張りすぎると部屋の隅で見本と見比べながら相談した。

「2フランから4フランまでの値段で売れば何とかなりそうだから買い入れて良いよ。半分はパリへ送ればそのくらいの現金は用意できるだろ」

「其れは大丈夫だけど」

「なら決まりだ。とりあえず僕のほうから明日半金の手形を用意して置くから」
ツィヒェヴィーツのところへ戻りジャネットが「買わせていただきますわ。品物は何時ごろで支払いの希望は」

「フランス銀行かクレディ・リヨネ銀行なら手形でお願いしたいですな。どちらも信用がありますので。品物は明日電報を打ちますから10日後には納められます。各10ダースは明日の朝1番で納入いたします」

「判りました。明日の朝には半金をフランス銀行の手形で支払い出来るように朝銀行が開き次第ショウが用意してきて置きますわ」

「其れはたいそう気前がよい話で中々初めての取引で其処まで支払っていただけないご時世ですからな。此方もサービスできるところは品物でサービスさせて頂きますぞ」

「其れはありがとう御座います。ショウとお知り合いと聞きまして信用いたしました」
ジャネットが簡単な契約書を書いて双方がサインをした。

「ムッシュー・ツィヒェヴィーツ今日はまだどこかまわられるのですか」

「今日は此れで終わりだよ正太郎。ああ、見本はそのまま置いて置きますよ」
正太郎が誘って今晩食事をというと「喜んで誘いに乗りますよ」とホテルはグランド・ホテル・デス・テレオックスだと話した。

「そいつは良いですね実は近くのラ・バルモラールをよく利用するので其処へ8時半で如何ですか」

「では15分にホテルのロビーに降りているよ」
約束をしてツィヒェヴィーツは事務所を降りて戻っていった。

正太郎も明日銀行によって半金分を下ろして来るから後の半分はこっちの会計から頼むよと馬車を捕まえてホテルに戻り着替えをしてクラリスたちの部屋をノックするとダニエルだけだった。

「まだクラリスは戻っていませんが伝言でも」

「いや此れから知り合いとレストランで食事だから、場所はラ・バルモラールという店だよ。それだけで良いよ。明日は朝8時に食堂でね」
ムッシュー・ツィヒェヴィーツは食事の間中雄弁だった。
自分の仕事の事や正太郎のパリに入ってからなにをしたかを聞くと自分に置き換えて若いときから世界を相手に商売をしてきた事を語った。


12日ヴァンドルディは真夏のような暑さがリヨンの街にやってきた。
朝の散歩で汗をかいてドウシュを浴びて着替えをして4人で食事をした。

馬車を頼み駅で2人の荷物をあずけると見送りにはこられないが馬車は2人で使うように話しをし馭者には、11時45分発に間に合うように頼んだ。

クラリスはブティックへ、正太郎はパレス・コルドリエまで送ってもらうとフランス銀行で預金から7200フランの手形を出してもらった。

辻馬車と夕方まで20フランで契約を結び事務所まで行くとツィヒェヴィーツはそれぞれ10ダースの商品を約束どおり持参していた。
手形を渡し、Shiyoo Maedaパリで半金分の領収書を貰った。

「残りは品物が入荷した時点で支払いをしますのでリヨン名義の領収書にしてください」
ツィヒェヴィーツに領収書のあて先をShiyoo Maedaリヨンにしてもらう事を正太郎が伝えた。

「荷物は直接此方へ送らせる様に電信を打ちました。私はマルセイユへ今日向かいますのでこちらへは21日に伺う予定です。荷物が届いていましたら残りの半金を頂きますが、着いていない時は着き次第と言うことでお支払いいただきます」
話しながらツィヒェヴィーツは事務所を見渡し昨日気が付かなかった人形を見た。

「此れはパリのものですか」

「そうです。フアッション・プペにベベというプペ・アン・ヴィスキュイです」

「君たちはブティックだけでなく人形も扱うかね」

「僕のほうで日本に送っていましたが今度リヨンにパリやリヨン名産と共に横浜からの物産も扱う店を開きます。其の一部です」

「ほうそうかね。わしの弟がオードフルのケストナーとテューリンゲンのシモン&ハルビックいう会社の人形を主に扱っているが扱ってみないかね」
シモン&ハルビックはビスクドールとしては正太郎の好きな顔のひとつだ。

「値段表とサイズがわかれば送っていただけますか。もしよければ10体ほど見本に買い入れて気に入ったものを買い入れても良いのですが」

「確か店での小売値が15フラン程度と聞いたよ」

「では何体でいくらかも教えてください。200フランで見本を送っていただければ其の人形を見て決めたいと思います。買い入れる時は50体から200体を基準に値段を教えてくださるように連絡をしてください。連絡先はパリの事務所にお願いします」

連絡先はShiyoo Maeda、パリ18区フェルディナンド・フロコン街4番地と紙に書いて渡した。

ツィヒェヴィーツに20フラン金貨で200フランを渡すと「では早速手紙を書こう」とその場で手紙を書くと「夕方マルセイユへ発つが正太郎は忙しいのかね。手紙は直ぐ出しておくよ」昼でも一緒にと思ったようだ。

「ええ、今日は取引先へ何箇所も顔を出しますので夕方までからだが空きません」
ツィヒェヴィーツを見送るとギヨーバラ園へ出向き、11225フランの手形を渡した。

此れで薔薇は3回目の2000本の輸出だ。

「今月の便で横浜へ送り出すよ」
そう約束してくれ百合根についてもM.ジュイノーとの相談で値段さえ折り合えば幾らでも売れるとムッシュー・ギヨーは豪語した。

前回からの百合根の卸売りの清算をしてクレディ・リヨネ銀行の手形を出してくれた。

残球6110×30=183300フラン

Shiyoo Maeda  123727フラン50。20.25フラン

ギヨー      59572フラン50。 9.75フラン 

「ありがとう御座いました」

「何此方こそ元手なしの手数料だ。それで買い手に感謝されているのだから嬉しい話さ。後3年これが続けば十分な資産が残るよ」

ガンベッタ大通りを後にし、クロワ・ルースのM.ランボーの出店で今回の分として11225フランの代金を支払い、今回は16日のマルディにパリへ戻る予定と伝えた。

クロワ・モラン街に回るとスゥルとダニエルはもう出た後、時刻は11時50分すでに列車はパリを目指しているはずだ。
マダム・レーグと娘のニコル・サンドラ・レーグが出てきていて2号棟で昼の支度をしていると言うので顔を出した。
マダム・メリーヌから話しがあり今日から昼と夜の食事の支度を手伝いながら隣の食堂に必要な資材の買い付けも行う事になったと話した。

「親子で280フランも出してくださるなんて破格の待遇でありがたい話です。衣食住全て会社持ちとは驚きましたわ」
マダム・レーグは正太郎の計らいでと思ったようだ。

正太郎は3号棟へ出向きマダム・マラルメとコレージュの手続きの話の確認をした、マダムが全て心得てくれ「任せてください」というのを聞いてブジョー通りへ向かった。
大工は2人でアンヌ・マリーとクラリスが描いた図面を壁に張り、棚にガラスケースなどを運び込んでいた。

「随分早いね、此れなら予定した日の前に開店できそうだね。クラリスはドイツのシモン&ハルビックとケストナー という人形の会社を知ってるかい」

「良いビスクのテテを造ります。人形は抱き人形で50cmから70cmくらいありますよ」

「其れだとフアッション・プペくらい有りそうかな」

「その様ですねただ顔は子供でしたよ」

「今日其の話しがでてね、小売値段が15フランくらいだというので調べてもらうのと200フランで見本を買い付けたんだ」

「随分安い値段ですね。其の値段だと小さなものを新しく発売したのでしょうか」
ツィヒェヴィーツさんとの簡単な関係と絹の女性用の靴下を買い付けた話も2人にしておいた。

お昼はと聞くと何処かへ行くつもりでしたというのでデデュー街まで3人で馬車に乗り馭者には2時半にさっきのブジョー通りへ来てくれと頼んだ。

ブルーノで食事をしながらフアッション・プペとベベの話になった。

「社長は商売としてだけですの。それとも好きな人形があるのですか」

「最初はジャポンからの使節団の人に頼まれたんだよ。初めて買ったのはジュモーのタンプル大街の店だったな、そのときはベベがジュモーでは作っていない事も知らなかったくらいだもの、まったくの素人さ。メゾン・ユレのアデレイドに色々教わってようやくシーヌとビスクの違いが判ったくらいだもの」
クラリスが最近のジュモーは人気が高いし、今度買おうとしているスタイナーは将来性があると話してくれ、良い秘書にめぐり合ったと正太郎は感じていた。

鉄道の高架下をくぐってブジョー通りへ戻った、馬車が迎えに来て大工に少しの間留守にすると話しまたプレスキルへ向かった。
糸屋のソエ・イルマシェのあるテルメ街で商品の話と3000フランの手形を渡して品物が揃い次第ラ・スヴニールへ送り込んでもらう事にしてもらった。

2人をブジョー通りで降ろしてレーモンの工場へ向かった。
カフェをご馳走になり社長宅の新しい図面を見て「25000フランまでは家具でも何でも使って構わないよ」と改めて好きなように使ってよいと話した。
1日からレーモンの社員住宅は新たに15所帯が入居していた、此れで25所帯、今月末には残り15軒も完成予定だ。

元大学通りの事務所に戻り馬車は帰した。

事務所でカフェを飲みながらノートの整理をしているとパリからアラン・デュ・ボアがやってきた。

「社長、電信と手紙が来ています。今回は此方に長いと言うのでアンドレから配達するようにといわれたのでやってきました」
アランの前で電信を約した。

百合根9月10月11月12月1月、1球1円30銭横浜発送料混み1回10万球、前回は5万球で314200フラン、今回は21サンチームほど値上がりしたが大きな影響はなさそうだ。

「仕入れが6フラン50サンチームと言うことですか。Shiyoo Maedaは2フラン、ノエル基金に2フランでギヨーバラ園に10フラン50サンチームは今までどおりですか」

「そうなるね、今回は1回に65万フランの支払いだから横浜資金と相殺というわけにも行かないから送金も忙しくなるよ」
1回ごとに現金は31万5000と60万が入るので送金に困る事もなさそうだ。

「でも1回当たり20万フラン以上は確実に儲けが出るのでしょ」

「14万フランは確実さ。後はギヨーバラ園の力が頼りだよ。其れよりアランは何時までいられるんだい」

「アンドレからランディの15日の列車で戻れば良いといわれました」

「ではホテルで部屋を取って食事に行こう」
2人は馬車でホテルへ向かい部屋を取ると6時40分に下で落ち合う約束をして部屋で着替えをした。


13日サムディのリヨンも朝から暑かった。

此処のところ暑さが厳しく明日のレースは水分補給をきちんとしないと大変だと思えた。
正太郎はアランとバラ園をめぐり、リヨンでの商売のあらましと活動を教えて回った。

バイシクレッテの店で明日のレースの対策とアンドレたちとの対抗戦になりそうだとのポールの予測を聞いた。

「此方はユベールにテオ、ポール・ジャンとトーマスと僕の5人が新型、アンドレたちの3人はペニーファージングで走ります。今年は5人が20番代でアンドレたちは40番代です。あとテオの学生仲間も100番代に10人ほどいるようですよ」

「ではアンドレに6区まで追いつかれなければ勝てそうだね。去年ほど最初の区間を押さえて走らないのだろ」

「そうなんです。もう押さえて走って勝てる状態では無いですし、アンドレの話では1番から20番の間にはマルセイユやパリで走りこんできた連中も入っているそうです」

「やはりアンドレと組むのはリヨンでは無理だったのかい」

「向こうはマルセイユへも遠征した4人組ですからね9人で組むにはすこし無理がありますよ、僕たちもテオの仲間のアイクとアレクが今回は別の組で走るというのでチームは割れていますからね。其れと去年より5分は早く走ることになりそうで誰が生き残るか予測不能です」
パリジェンヌ商会からの4台とポールたちが共同で買い入れると言うので正太郎が元値で出した1台の5台の新型に店で売った新型やペニーファージングのグループも数多く参加してくるそうだ。

参加費は100フラン、1着賞金3000フラン、2位2000フラン、3位1000フラン、4位から10位は500フラン、30位まで220フランの13900フランが賞金、賞品が其れに付随して50位まで出されるそうで残った参加費はバシリカ・ノートルダム・ドゥ・フルヴィエールの建設資金に寄付されると新聞に載っていた。


14日ディマンシュはやはり早朝から暑い陽射しがリヨンを襲った。

ポールたちは水筒を2本用意してスタートの合図を待っていた。
トリオン広場とテット・ドール公園に給水所があることを主催者から説明があり最後の選手の328番のゼッケンを背中と左腕に着けてある事が確認され、9時にスタートの合図と花火が上がった。

去年11月より130人ほど少ないがそれだけ精鋭が集まったと言うことだろう。

正太郎は2人のアランとバラ園の台の上で花火の音を聞いた。
3人は全てのバイシクレッテが通過すると辻馬車でテット・ドール公園の給水所の先へ向かう事にした「去年のポールたちは1時間29分だったそうだよ。前に10台いたが今回はどうなるかな」と手帳を見ながら2人に話した。

アイクとアレクの2人が10時23分に周回道路に入って来た、チームから外れたといえ顔見知りの2人に正太郎は大きな声で声援を送った。
彼らも自分たちが先頭だと承知のようで新型の大きなギヤを懸命に廻していた。

「力が入りすぎているな」
アラン・サンテグジュペリはそう言って次のペニーファージングの選手に1分遅れだ頑張れと声をかけた。

ポールが先頭で縦に3台の新型が来た「ユベールが見えないな」其の声が聞こえたかのようにユベールとアンドレが並んで通過した。
1時間26分だ、去年より相当早い通過だ。

周回から出てきたときアイクは大分疲労している様に見え、アレクは100m遅れていてペニーファージングの選手に捕まりそうになり其のあとからテオとポールにポール・ジャンが直ぐ其処に来ていた。

「アイクまで130mだぞ」
声が聞こえたか前の2人を追い抜く勢いで3台は大通りで前に出てパール・デューの駅に向かって疾走していき其の後を追うようにユベールとアンドレが通過した。

「トーマスが来ないな。途中で息切れでもしたかな」
20台ほどが通過したあとトーマスの顔が見え、声援を送った後、待たせていた馬車でプレイス・ベルクールへポン・ラファイエッから回ってもらった。
公園ではすでに選手たちが観客に囲まれて大騒ぎが始まっていた。
バスティアンの顔が見えたので「誰が優勝したんだ」と声をかけた。

「ポールですよ11時37分でしたよ。去年より3分早かったですよ」
ポール、アンドレ、ユベール、と入りアイクが頑張って4着、5着にはペニーファージングに乗ったイギリス人のムッシュー・ゴードンだと言うことだった。

1着から3着は顔ぶれは前回と同じでユベールとポールが入れ替わったがアンドレはまたも2着に甘んじた。
テオとポール・ジャンは混戦で10着前後だそうでよく判らなかったそうだ。

5時からカドラを借り切ってあるので其処で会おうと3人で馬車のところに戻り電信をルネの自宅に打ち、デデュー街のブルーノにむかいビールで乾杯をして簡単な食事にした。

「しかし1000フランで借り切ってもし優勝しなかったらどうするつもりだったんだ」

「其の時は残念会と次回のための反省会さ。2次会はジスカールで8時此処は500フランで頼んだよ、テオたち学生にはヴァンを5時から300フランまで使って良いと話してあるのさ」

「ポールは賞金を幾ら取る約束なんだ」
去年のように分配を約束してあるのだ。

「それぞれのとった賞金の中から半分を出し合って、5人で山分けするのさ。ポールは1500フランに其の分が入る約束で賞品は自分のものさ」
5人で話し合って実力のあるものにすこしでも多く入る分配にし最低のものでもガッカリしないだけの分配がある方式にしたそうだ。

 
 2008−10−12 続く
 阿井一矢

横浜幻想  其の一   奇兵隊異聞 
 其の二   水屋始末  
 其の三   Pickpocket
 其の四   遷座祭
 其の五   鉄道掛
 其の六   三奇人
 其の七   弗屋
 其の八   高島町
 其の九   安愚楽鍋
 其の十   Antelope
 其の十一  La maison de la cave du vin
 其の十二  Moulin de la Galette
 其の十三  Special Express Bordeaux
 其の十四   La Reine Hortense
 其の十五  Vincennes
 其の十六  Je suis absorbe dans le luxe
 其の十七  Le Petit Trianon
 其の十八  Ca chante a Paname
 其の十九  Aldebaran
 其の二十  Grotte de Massbielle
 其の二十一 Tour de Paris
 其の二十二 Femme Fatale
 其の二十三 Langue de chat

幻想明治 第一部 
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其の二 板新道

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