酔芙蓉 第二巻 野毛

 
 酔芙蓉−第八部目次 弁天 1  根岸和津矢(阿井一矢)

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 目次のための目次-2
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慶応2年4月28日―1866年6月10日 日曜日

弁天 ― 登山

慶応2年4月28日―1866年6月10日 日曜日
弁天 ― 登山

慶応2年(1866年)04月08日 幕府は庶民に海外修学・貿易の許可(免許・印章の交付)を出しました。 
元治元年(1864年)3月アメリカ人リズリー(リズレー・カーライル)一座は10人の座員と八頭の馬による舶来の芸能は好評を得たものの、横浜外での興行は許されず、活動はゆきづまりました、替わりに日本の軽業芸の欧米への紹介をすることになりました。
リズリーは、足芸の濱碇定吉(はまいかりさだきち)一座・手品の隅田川浪五郎一座・曲独楽(きょくごま)の松井菊治郎一座らを「帝国日本芸人一座」として組織します。
リズリーについては野毛−栗名月の解説でも書いていますが1865年頃には牧場も経営していたそうですがサーカスの団員と馬については調べが尽きませんでした。
隅田川浪五郎率いる「日本帝国一座」が横浜港を発ち、サンフランシスコに向かったのは、慶応二年(1866年)十月二十九日ですが、この四日前に横浜港からイギリスに向けて出航したサーカス一座がありました、松井源水ら十四名の一座である。パスポート交付に関しては、隅田川が第一号ですが、最初に日本を出たサーカス芸人第一号の栄誉は、松井が担ったという事になりました。
「日本帝国一座」はサンフランシスコ(1月7日)、ニューヨーク(5月6日)の劇場にて興行を行い大盛況の成功を収めました。
一座は、アメリカ、欧州を巡業し、各地で一大センセーションを巻き起こし、アメリカでは当時の大統領アンドリュー・ジョンソンと謁見もしています。
2年ほどの間にフランス・イギリス・オランダ・スペイン・ポルトガルなど、西欧のほとんどの国を巡業しました。


慶応2年5月28日―1866年7月10日 火曜日

弁天 − 房楊枝

慶応2年5月28日―1866年7月10日 火曜日
弁天 − 房楊枝

松井源水は独楽回しを見せ歯磨き粉の販売が有名です。
徳川吉宗に博多独楽と枕返しの芸を披露し、其の褒美として御成先御用の切手を拝領したそうです。
そして1735年には名字帯刀を許され、更には家紋に立葵をつけることが許されました。
松井源水の名は室町時代から大正まで17代続きました。
18代目の松井隆弘氏は東京歯科医専を卒業し、組織学を担当し東京歯科大学の名誉教授になりました。 
幕末の頃アメリカでは既にチューブ入り練り歯磨きが初めて発売されていました。
練り歯磨の容器として押出し式チューブが使用されるようになったのは1850年(嘉永3年)にアメリカでできたシェーフィールド練り歯磨が最初だと言われています。
日本では、60年後の1911年(明治44年)にライオンが発売したライオン固練りチューブ入り歯磨が最初です。
歯ブラシは江戸時代は房楊枝を使いました。
15世紀の中国では、シベリアブタの剛毛を竹や骨の柄に縛りつけた歯ブラシが中国で作られ使用されるようになりました。
貿易商人たちが中国製の歯ブラシをヨーロッパに持ち帰り、柔らかい馬の毛で歯ブラシを作りました。
日本で現在のような歯ブラシが作られたのは明治5年です。インドから輸入したイギリス製の歯ブラシを見本に、鯨のヒゲで柄を作り、馬の毛を植えました。クジラ楊枝と呼ばれました。 
初めは横楊枝(西洋式)、歯楊枝、歯磨楊枝といった名で呼ばれていたのですが、明治23年の第3回内国勧業博覧会で歯刷子(ハブラシ)の名称で出品されたのが、「歯ブラシ」という言葉が使われた始まりといわれます。
商品名としては、大正3年、ライオンが東京歯科医学専門学校(現在の東京歯科大学)の指導で製造した「万歳歯刷子」が最初でしたその後、全ての製品に「歯ブラシ」という言葉が使われるようになり、現在に至っています。


慶応2年8月3日― 1866年9月11日 火曜日

弁天 − 牛乳
牛乳販売用ブリキ缶とガラス瓶 共に江戸時代末期のものといわれています
所蔵:トモエ乳業牛乳博物館

慶応2年8月3日― 1866年9月11日 火曜日
弁天 − 牛乳
  
前田留吉の東京進出
明治2年(1869年)に設立された東京築地の「官営牛馬会社」の雇いとなる。
明治2年(1869年) 皇居吹上御苑で乳しぼりをご披露。
明治3年(1870年)2月 芝天徳寺前に牧場を開く
(和牛20頭を購入して搾乳開業)
明治4年(1871年) 東京・芝西久保で牛乳店を開く
明治7年(1874年) 東京芝新銭座に移る

この間には下岡蓮杖も横浜で搾乳を開始しておりますので横浜での牛乳販売は盛んになる一方でした。
東京・横浜で百六十軒の搾乳業者が居たとの資料を見たように思います。
明治4年は明治天皇も牛乳を飲み始められ急速に全国に普及していきました。


慶応2年8月18日―1866年9月26日 水曜日

弁天 − 農兵

慶応2年8月18日―1866年9月26日 水曜日
弁天 − 農兵

丙虎丸
この年の4月高杉晋作の独断により軍艦オテント丸を単独購入します、三万六千二百五十両だったそうです後に丙寅丸と改められました。
丙寅丸はもとの名がテントウといい、蒸気内車の鉄船でした。
30馬力で長20間半、幅2間半、深7尺8寸94トンしか有りませんでした。
1865年リヒイルピールにおいて造船され1866年5月に契約との資料もありました、価格は50,000ドルとなっていますがこれだと三万七千五百両なのでそんなところでしょう。
持ち主はゴロウエルとしてありますが、グラバーが仲介したものだそうです。
3月に買ったとの資料もあり日にちの特定は出来ませんでした。
大村益次郎
文政7年5月3日(1824年5月30日)生まれ
明治2年11月5日(1869年12月7日)暗殺
萩藩では風貌から「火吹き達磨」と言われていました。
この異名は家老・周布政之助が付けたとも高杉晋作が付けたとも言われているそうです。
維新後に兵部大輔に任ぜられて軍制改革を大胆に行おうとしたため薩摩土佐長州各藩の藩兵を親兵化しようと目論む守旧派の反感を買いました。
彼を襲った犯人はその守旧派であり、首謀者は旧薩摩藩士・海江田信義であるとも言われています、海江田はそのため長州閥から嫌われ政府から遠ざけられていましたが後に復職しています。
長州の主な農兵隊などの編成
長州というと奇兵隊が余りにも有名ですが奇兵隊とそのほかの組織を紹介します。
奇兵隊の構成員は身分制度に捕らわれない武士階級と農民や町民が混合されました。
袖印による階級区別はされていましたし、給与などは藩庁から支給されました。
総督を頂点に銃隊や砲隊などが体系的に組織されていました。
高杉は泰平の世で堕落した武士よりも、志をもった彼らの方が戦力になると考えていたとされます、彼らは西洋式の兵法を吸収し、戦果を上げました。
この考えは後の大村益次郎の兵制改革にも取り入れられました。
千城隊支配
郷勇隊(農兵)  市勇隊(商兵)・神威隊(社人)・金剛隊(僧侶)・
         民砲隊(社人・僧侶・農商兵)・狙撃隊(猟銃兵)等
そ の 他
町兵(奇兵隊付属)郷侠組(同)・地光隊(遊撃軍付属)・
         維新団(被差別部落民)・勇力隊(力士・遊撃軍付属)・
         山代神威隊(神威隊・社人)・偕行団(僧侶)・
猟銃隊(農兵)・剣銃隊(同)・
山代茶洗組(被差別部落民)・上関茶洗隊(同)・
         報国団(農兵)・一新組(御楯隊付属・被差別部落民)・
勇力隊・バトロン隊(一向宗徒)・
好義隊(奇兵隊付属・町人)等
支藩の隊     盤石隊(報国隊付属・長府藩力士)・朝市隊・
         吾住隊(以上長府藩商兵)・第一大砲隊・
東衛団大隊・西衛隊大隊
         下松砲隊・富海砲隊・結草団(以上徳山藩士農民兵)・
         狙撃隊(徳山藩猟師)・臼砲隊(徳山藩士卒)・
野勇隊(清末藩農民)・武揚隊・敢従隊・
北門隊(以上岩国農民)等
三島農兵節 最初は三島ノーエ節だったそうですが昭和に入り農兵となったものだそうです。

富士の白雪ノーエ  富士の白雪ノーエ  富士のサイサイ  白雪朝日でとける
とけて流れてノーエ  とけて流れてノーエ とけてサイサイ  
流れて三島にそそぐ
三島女郎衆はノーエ  三島女郎衆はノーエ三島サイサイ 女郎衆は御化粧が長い
御化粧ながけりゃノーエ 御化粧ながけりゃノーエ 御化粧サイサイ 
ながけりゃ御客がおこる
御客おこればノーエ  御客おこればノーエ御客サイサイ おこれば石の地蔵さん
石の地蔵さんはノーエ  石の地蔵さんはノーエ 石のサイサイ  
地蔵さんは頭が丸い
頭丸けりゃノーエ  頭丸けりゃノーエ  頭サイサイ 丸けりゃからすが止まる
からす止まればノーエ からす止まればノーエ からすサイサイ  
止まれば娘島田
娘島田はノーエ  娘島田はノーエ  娘サイサイ  島田は情けでとける

嘉永年間、江川英龍は、幕府に提出した海防論の中で、何度も農兵制度の採用を上申しています。
わが国を外国の攻撃から守る必要性を幕府に訴え、韮山に反射炉を設け大砲を製作するかたわら、若き農夫を集め、彼らを兵力とするためその訓練に力を注ぎました。
長崎から戻ってきた太郎左衛門の家臣、柏木総蔵が伝え聞いてきた珍しい音律の節に「富士の白雪朝日で解けて‥」と歌詞をつけて鼓笛隊を組織したのです。
農兵おどりの元祖は平井源太郎という方です



慶応2年9月10日―1866年10月18日 木曜日

弁天 − jack in the box

慶応2年9月10日―1866年10月18日 木曜日
弁天 − jack in the box

日本にはまだないと思いますがハンバーガーショップのJACK IN THE BOXはわりとアメリカでは有名です。
ハモンセラーノ
ハム全体を専用ホルダーなどでしっかりと固定して表面の皮と脂肪分を肉が見えるまで取り除きます。
透けて見えるくらいまで可能な限り薄くスライスしていただきます。
パルマハム(プロシュット・ディ・パルマ) 
芳醇な風味となめらかな食感が特徴で、その品質は世界中から高い評価を得ています、100%ナチュラルのパルマハムは、エミリア・ロマーニャ州に属するパルマ地方南部の丘陵地帯で、何世紀も変わらぬ製法で作り続けられ、パルマハム協会によってその品質と真正が守られています。
パスタやスープなどのほかジャガイモなどとの料理にも良く合います。
金華火腿
金華火腿になる豚が金華豚です頭部と臀部が黒く、そのほかは白色という独特の姿をしていて、両頭烏(リャントウウー)ともいわれます。
さまざまの料理の添え物として使われますが材料の味を引き立てる名脇役です。


慶応2年10月1日―1866年11月7日 水曜日

 
弁天 − えもん坂

慶応2年10月1日―1866年11月7日 水曜日
 弁天 − えもん坂


1860年万延元年のころの港崎の絵は数多くありますがこの時代慶応年間のものが見つかりません。
新道にも人家が増え、えもん坂も店が数多く出ていたようです。
火事の後後の伊勢佐木町側に遊郭が移りそこも火事のため高島町に移転さらに移転とわずかの間にこの横浜の地の遊郭は流転いたしました。


慶応2年10月10日―1866年11月16日 金曜日

 
弁天 − 船出

慶応2年10月10日―1866年11月16日 金曜日
弁天 − 船出

パリ万博への穂積屋からの品物は好評でした。
卯三郎はナポレオン三世から名入りの銀メタルを貰いました、和紙と磁器に人気が集まり伊万里焼はこの後輸出が増えたそうです。
フランス船アルフェー号に乗り込み、慶応3(1867)年1月横浜出港、三月パリに到着、集めた品物の総数は157箱四万二千五百五十二両 (幕府総数 189箱 四万七千百九十両)
万博会場で期間中の卯三郎関係の売り上げは、茶店65000フラン、出品物57000フラン、総計122000フラン(約一万二千二百両)になりました。

英国留学は14名、中村正直と川路太郎を取締りに任じ最年少者は箕作大六(箕作秋坪次男、のち菊地大麓、東京帝国大学総長)の12才でした。
幕府瓦解で帰国命令が出て短い留学に終わりましたが有為の人材が送り込まれておりました。

ヘボン夫妻は岸田吟香をともない、慶応2年10月18日横浜から上海に向いました。
辞書は無事印刷が終わりよく慶応3年4月横浜にもどりました。
日本最初の和英辞典『和英語林集成』を編纂し美国平文の名で上梓されました。

海舟日記では江戸到着は16日ということになっておりますが、話しのもって行き方上あえてこの日に直してあります。


慶応2年10月16日―1866年11月22日 木曜日

弁天 − 洲崎

慶応2年10月16日―1866年11月22日 木曜日
弁天 − 洲崎

治承4年(1180年)に石橋山の合戦で敗れた源頼朝は、安房の国に逃れ、安房洲崎(あわすのさき)にある安房国一の宮の安房神社で再起を祈願しました。
建久2年(1191年)になって同社の祭神を現在地に勧請しました。
祭神は
天太玉命(あめのふとたまのみこと)
天比理刀売命(あめのひりとめのみこと)
例祭日は6月初旬。ここはすざきだいじんと濁って発音してください。
江戸時代は神輿を社前の海に担ぎ入れ安房神社の神霊と会合する浜下りの神事が行われていました。
高さ約5mの日本最大級の神輿の周囲につけられた提灯に揺れる灯りが神秘的です。
亀の甲煎餅の若菜屋、江戸時代より続いていた洲崎大神の大鳥居脇にあったこの店は平成元年に閉店しました、今は和洋菓子浦志満がその伝統を引き継いでいます。
http://www.water.sannet.ne.jp/kazuya-ai/807/yokohama-8.html
こちらも見てください。


慶応2年10月20日―1866年11月26日 月曜日

弁天 − 港崎
慶応2年10月20日―1866年11月26日 月曜日
弁天 − 港崎

前に延焼地図をアイが載せていましたが格別新しい資料は見つかっておりません。

全体の被災死亡者の資料は見つかりませんでしたが、港崎だけで四百人以上と言われております。
この火事の後港崎は横浜公園に生まれ変わり、今の関内に見られるように大通りは広く取られました。
遊郭は吉田町に移り岩亀楼は再建されましたが五十鈴楼は廃業いたしました。
横浜の再建はすばやく行われ一番館2番館の洋館は洋館建築の手本となり後の建築業界を支える大手の業者が育つことになりました。
遊郭が吉田町に移り伊勢崎町に芝居小屋寄席が出来ると繁華街は本町通りから伊勢崎町に移っていくことになりました。


慶応2年10月21日―1866年11月27日 火曜日

弁天 − 波銭

慶応2年10月21日―1866年11月27日 火曜日
弁天 − 波銭

添付は慶応2年に二代広重(喜斎立祥)の武陽横浜一覧、金鱗堂尾張屋清七版だそうです。

波銭のうち幕末に流通していたものの多くは文久通宝です約8億枚以上が流通していた模様です、鋳造は明治2年まで続けられました。
文久2年(1862年)にこれまでの寛永通宝当四銭の量目を減らして新たに鋳造されました、寛永通宝当四銭が1.3匁に対して、0.9匁の規定でした。
金座(草文と玉宝)と銀座(真文系)が分担しました。
銭文の筆者は、以下のように伝へられています。
   玉宝:松平春嶽(越前藩主)
   草文:老中・板倉勝静(備中松山藩主)
   真文:老中格・小笠原長行(肥前唐津藩世子)
この当時は銭の値段の変動が激しく、慶応元年当時一両6400文だったものが慶応4年には10000文に値下がりいたしました、銭が取引の必要品だった庶民ほどその痛手をもろに受けることになりました。

慶応2年10月25日―1866年12月1日 土曜日

弁天 − 浮かれ蝶 

慶応2年10月25日―1866年12月1日 土曜日
弁天 − 浮かれ蝶 

アメリカ人リズリー(リズレー・カーライル)率いる「帝国日本芸人一座」が横浜から亜米利加を目指したのは慶応2年10月29日と言われています。
25日にロンドンに向けて出発した松井源水の一行には浮かれ蝶を受け継ぐ柳川蝶十郎(本名は青木治三郎、初代一蝶斎の弟で二十歳)蝶吉も同行しています。
足芸の濱碇定吉(はまいかりさだきち)一座・手品の隅田川浪五郎一座・曲独楽(きょくごま)の松井菊治郎一座に後見人高野廣八の計18人でした。
サンフランシスコからニューヨークへと巡業した一行は、渡欧して2年もの間にフランス・イギリス・オランダ・スペイン・ポルトガルなど、西欧のほとんどの国を巡業して廻りました。
彼らは2年間千両(年間1000両とも言われています)の契約で出かけました。
松井菊次郎はロンドンで1868年に客死したといわれ同地に葬られたそうです。
ロンドンにて三味線引きの登宇と濱碇定吉との間に女子が誕生。『ロンドン・タイムス』にも紹介されました。
日本国内では早竹寅吉など国内を巡業して人気の高かった芸人も多く居りましたが彼は国外には出なかったようです。
鉄割福松(かねわりふくまつ)一座、鳥潟小三吉(とりかたこさんきち)一座などの日本で人気を勝ち得た軽業芸人たちが、時を同じくして競い合うようにして渡航しています。


慶応2年11月5日―1866年12月12日 火曜日

弁天 − 婚礼

慶応2年11月5日―1866年12月11日 火曜日
弁天 − 婚礼 

11月23日勘定奉行小栗上野介と外国奉行柴田日向守と神奈川奉行水野若狭守に命じてイギリス公使パークスとアメリカ公使ファルケンボルグ(Van Valkenburgh)とオランダ総領事ポルスブルックとの間に約定12ヶ条を取極めた(居留地規則) 
この月には太田屋新田沼地埋立竣工しています。
港崎遊郭の仮宅は弁天境内と太田町一丁目で営業しておりました。
横浜仏蘭西語伝習所は弁天池の北隣(現在の中区本町6丁目あたり)に元治二年4月7日から慶応元年3月6日までありました。
この後は兵隊のためのフランス伝習が始まりました。
本文では太田陣屋に9月27日に伝習が移った後も学校はあったと設定しています。
地図はここにあります、慶応四年の改訂版です。
http://www.water.sannet.ne.jp/kazuya-ai/14/yokohama1-4.html
仏蘭西語伝習所は海岸通2丁目(今の元浜町4丁目辺)にこの年11月に開校しました。
当時は仏蘭西語の学校の花盛りでございました。


慶応2年11月19日―1866年12月25日 火曜日

弁天 − 宴会

慶応2年11月19日―1866年12月25日 火曜日
弁天 − 宴会

ファーサリ写真帖1890年版より手踊りと題された一枚
本調子
その名の通り基本となる調子で、端正で落ちついた感じがします。一の糸に対し二の糸を4度高く、二の糸に対し三の糸を5度高く合わせるので、三の糸は一の糸のちょうど1オクターブ上になります。
二上がり
本調子の二の糸を上げたものという意味で、明るく派手やかな感じがします。一の糸に対し二の糸を5度高く、二の糸に対し三の糸を4度高く合わせます。三下がりの一の糸を一音下げることによっても得られます。
三下がり
本調子の三の糸を下げたものという意味で、曲によって軽妙な感じ、ひなびた感じ、沈んだ感じなど、多様な表情を出すことができます。一の糸に対し二の糸を4度高く、二の糸に対し三の糸を同じく4度上に合わせます。二上がりの一の糸を一音上げることによっても得られます。
そのほか六下がり・一下がりなど三味線の糸を調節いたします。


慶応2年11月21日―1866年12月27日 木曜日

弁天 − マイセン

慶応2年11月21日―1866年12月27日 木曜日
弁天 − マイセン
 
ジャーマン・クラブは1863年12月、161番に設立されました。
1869年4月には173番に新築移転いたしました。
ドイツ人だけではなく、他の国籍の居留民も会員になる事ができたそうです。 

マイセンはあまりにも有名ですね。

火器は前にも書きましたが改めて話のついで。 
スタールカービンStarr Carbineは日本では人気がありませんでしたが、よい銃として世界中の兵に人気が有りました。1858年カービン銃の最初の物として出ています、カービン銃とは銃身が短く軽い滑腔銃またはライフル銃の事で慶応年間の横浜では40両もしました。
レバーアクション式として使いやすくダブル・レバーアクションでした。

ケーベル銃・イェガー(ヤーゲル)銃は慶応3年当時時代遅れとなり新規購入者は激減しています。 当時4両ないし3両まで値下がりしました。

ミニエー銃 慶応元年当時1挺18両 慶応四年ごろには一挺9両に値崩れしています。

エンフィールド銃、通称「三つバンド」は横浜のオランダ人武器商スネル、長崎のイギリス人武器商グラバーを含め多くの武器商人が幕末の日本に多数輸入しました。
この銃の輸入総計は53,023挺といわれていますが、慶応元年40両平均で売られていました。
その後値下がりして慶応3年以降12両程度から17両でうられましたのでこれを買い入れて後送式のスナイドルに改造されています。

スナイドル銃(和名・スニーデル)
横浜32番商会(ミニストル・ベリュウとして紹介されている記事もあります)で慶応二年一挺三十六両・慶応四年1挺26両、明治5年には一挺9ドル30セント。
慶応二年暮れ、三田藩九鬼家ではスナイドル銃三百五十挺を五十石取り以上の藩士全員に強制的に買わせるという荒業を行いました。
慶応四年・明治元年(1868年)でも1挺26両と高価であったので普及せず、戊辰戦争後期に至ってようやく薩摩・長州軍が主力装備としました。
その信頼性から兵士達の評価は高く、またエンフィールド銃の後部を改造すれば簡単にスナイドル銃に改造できたためエンフィールド銃がスナイドル銃に数多く改造されています。

スペンサー騎兵銃 慶応二年当時横浜での卸価格は37ドル80セントでした。

シャープスM1859カービン慶応4年当時30両。
庄内藩は30両から最高45両で600挺を調達しています。 
1863年に改良が行われ、M1863として真鍮製の銃身バンド、用心鉄、台じり等が鉄製に改められました。

ガトリング砲とは,1862年に亜米利加人リチャード・ガトリングが南北戦争の最中に発明した最初の機関銃で,1分間に200発もの弾丸を連続発射できる当時最強の兵器でした。
河合継之助は,日本に3門しかなかったガトリング砲を武器商人エドワルド・スネル(もしくはファヴルブラント商会)から2門1万両(1万2千両とも言われています)で購入しました。


慶応2年11月25日―1866年12月31日 月曜日

弁天 − 大晦日

慶応2年11月25日―1866年12月31日 月曜日
弁天 − 大晦日


スネル兄弟は牧場・弁天通り・オルゲールのところにも書きましたが、幕末期の武器商人として有名になりました。
兄弟の活躍の場を良く間違えて書かれているものも多くありますが、
兄ジョン・ヘンリー・スネル(John Henry Schnell、和名平松武兵衛1843年生まれ)。弟エドワルド・スネル(Edward Schnell、1844年生まれ)。
出身地も没年も不明と、謎の多い兄弟で、エドワルドは慶応3年1867年にスイス総領事書記官となって翌年に新潟に移り、商会を設立しました。
戊辰戦争が起こると兄弟は奥羽越列藩同盟に近づいて武器・弾薬を送り込みだします。河井継之助にもガトリング砲を売り込んでいます。
ヘンリーは文久3年頃プロシャ領事館に勤めましたがすぐにやめています、慶応四年には、会津藩に武器を売り込むと同時に軍事顧問として会津にも乗り込みました。
ヘンリーは明治維新後の1869年にカリフォルニアに会津若松の人々約40人と共に移住しました。
サンフランシスコの北東にあるゴールド・ヒルに「若松コロニー」という名の開拓地を建設しましたが、一年ほどで若松コロニーの経営は行き詰まり、1871年4月、ヘンリーは日本へと向かったとされるが、その後彼がこのアメリカへ戻ってくることはありませんでした。
エドワルドは新潟から東京へ移り、そこで商会を開き、新潟の倉庫の物品を政府軍が略奪したという裁判に勝ち、明治6年6月3日メキシコ銀四万ドルを受け取りましたが晩年については消息不明です。
   
   第八部完  



幕末風雲録・酔芙蓉
  
 寅吉妄想・港へ帰る    酔芙蓉 第一巻 神田川
 港に帰るー1      第一部-1 神田川    
 港に帰るー2      第一部-2 元旦    
 港に帰るー3      第一部-3 吉原    
 港に帰るー4          
    妄想幕末風雲録ー酔芙蓉番外編  
 幕末の銃器      横浜幻想    
       幻想明治    
       習志野決戦    
           

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       目次のための目次-3

 酔芙蓉 第三巻 維新
 第十一部-1 維新 1    第十一部-2 維新 2    第十一部-3 維新 3  
 第十二部-1 維新 4    第三巻未完   

     酔芙蓉 第二巻 野毛
 第六部-1 野毛 1    第六部-2 野毛 2    第六部-3 野毛 3  
 第七部-1 野毛 4    第七部-2 野毛 5    第七部-3 野毛 6  
 第八部-1 弁天 1    第八部-2 弁天 2    第八部-3 弁天 3  
 第九部-1 弁天 4    第九部-2 弁天 5    第九部-3 弁天 6  
 第十部-1 弁天 7    第二巻完      

  酔芙蓉 第一巻 神田川
 第一部-1 神田川    第一部-2 元旦    第一部-3 吉原
 第二部-1 深川    第二部-2 川崎大師    第二部-3 お披露目  
 第三部-1 明烏    第三部-2 天下祭り    第三部-3 横浜  
 第四部-1 江の島詣で 1    第四部-2 江の島詣で 2      
 第五部-1 元町 1    第五部-2 元町 2    第五部-3 元町 3  
       第一巻完      

       酔芙蓉−ジオラマ・地図
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万延元年1860年
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慶応2年1866年
 
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カズパパの測定日記