酔芙蓉 第一巻 神田川 | |
酔芙蓉−第三部目次 明烏 | 根岸和津矢(阿井一矢) |
第一部目次 |
第二部目次 |
第三部目次 |
第四部目次 |
第五部目次 |
目次のための目次-1 |
第六部目次 |
第七部目次 |
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第九部目次 |
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目次のための目次-2 |
第十一部目次 |
第十二部目次 |
目次のための目次-3 |
文久二年1月20日―1862年2月18日 |
鶴賀新内は4世とも二世、三世を抜かして二世とも言われる1780年代のアーティストです。 新内は歴史の中では豊後節系に属しますが、初世といわれる鶴賀若狭掾から二世鶴賀鶴吉(初世の娘)三世鶴賀鶴吉(二世の娘)と続き、四世鶴賀新内(初世の弟子といわれています)は盲目の新内語りで、鼻に抜ける美声は一世を風靡したと言われる。 それまで鶴賀節と言われたのが彼の出現に依って以後新内節と呼ばれるようになりました。 明烏夢泡雪 初世鶴賀若狭雪掾が作曲した作品で、新内の代表曲です。安永元年(一七七二)に作られたもの、明和六年(一七六九)七月三日に、伊之助という二一歳の若者と、吉原京町蔦屋の抱え三芳野(二四歳)が情死した事件が作品のモデル。 約八〇年の後の嘉永四年(一八五一)年二月、清元では「明烏花濡衣(あけがらすはなのぬれぎぬ)」という題名で、八代目市川団十郎の時次郎、坂東しうかの浦里で初めて舞台にかけられました、この初演の芝居は大当たりしました。 この曲はさらに義太夫でも語られて、浦里時次郎の名は、西に東に広く親しまれるようになりました。 「明烏后正夢(あけからすのちのまさゆめ)」安政四年(一八五七)年に富士松魯中が作曲し、明烏夢泡雪の後日譚になっています。 春日屋時次郎は、吉原山名屋の抱え浦里となじみ、浦里のもとに入りびたり。 山名屋の亭主四郎兵衛は時次郎と浦里のために、捨てておいたら末は心中か駆け落ちか、無分別を起こしかねないものでもないと案じ、わざと邪険に二人の仲を裂き、雪の降り積もった庭に浦里を連れ出し、断念するようにと折檻させます。 しかし、時次郎のことが思い切られず雪の中で苦しんでいるところへ、塀を乗り越えて逢いにきたとき次郎が、浦里を救い出し、駆け落ちします。 ところがそれは明け方の夢であったということになり、題名の「夢泡雪」もそこからきています。 三筋の縞を縦横に組んだ格子模様。団十郎格子、団十郎縞、三升格子ともいう。これらは、歌舞伎俳優七世市川団十郎が三升(みます)の紋を崩して格子縞としたことからつけられた名前。 |
文久二年3月2日―1862年3月31日 |
添付は岩亀楼 手褄については省略してもいいよね、卯三郎さんの店は明治になって森田町に移ったそうですがその前がよくわからないので、三間町から森田町にという風に書きました。 (卯三郎さんの浅草の店は天王町と判明しかしお話だからいまさら訂正しない予定。場所的には森田町から須賀橋を渡りすぐ右手、福井町にも近いところです。) お夏の衣装は娘義太夫風という衣装を想像してみました。 高島嘉右衛門は有名な高島易断の創始者(現在高島易断をなのる方々は直接のお弟子筋ではないと聞いています)で、横浜の高島町はこの人が埋め立てを請け負いました。 実家は三十間堀で材木商でした、唐津の物産を横浜で扱ったりしていましたが万延元年の小判の取引にからんで捕縛されましたが、牢内で易を学びなおし出牢の後は横浜で材木商を開きました。 |
文久二年3月3日―1862年4月1日 |
増上寺には、二代秀忠公、六代家宣公、七代家継公、九代家重公、十二代家慶公、十四代家茂公の、六人の将軍の墓所がもうけられています。 江戸時代、増上寺は徳川家の菩提寺として隆盛の極みに達しました。 全国の浄土宗の宗務を統べる総録所が置かれたのをはじめ、関東十八壇林(だんりん)の筆頭、主座をつとめるなど、京都にある浄土宗祖山・知恩院に並ぶ位置を占めました。 壇林とは僧侶養成のための修行および学問所で、当時の増上寺には、常時三千人もの修行僧がいたといわれています。 寺所有の領地(寺領)は一万余石。二十五万坪の境内には、坊中寺院四十八、学寮百数十軒が立ち並び、「寺格百万石」とうたわれています。 (増上寺公式ホームページよりhttp://www.zojoji.or.jp/history/index.html) 現在でも広大な敷地を持つ増上寺ですが境内には東京タワーが立ち学林のほとんどが今はありません。 それでも1万6千坪に及ぶ敷地は広く感じられます、当時の広大さがしのばれてきます。 |
文久二年3月10日―1862年4月8日 |
添付は花見・墨堤 |
文久二年3月18日―1862年4月16日 |
文久二年3月18日―1862年4月16日 ・ 三社祭 推古天皇36年(628年)3月18日隅田川で漁をしていた檜前浜成(ひのくまのはまなり)、竹成(たけなり)の兄弟の網に三寸の黄金の観音像が掛かりました。 村長の土師真仲知(はじのまつち)に見せたところ、これはきちんとお祀りしようとお堂を建て、祭ったのが浅草寺の始まり。 浅草神社はこの浅草寺の御本尊・聖観音像に関わった三人、土師真仲知及び檜前兄弟を祀ったものです、権現思想が生まれてのち浅草神社は三社権現と呼ばれるようになりました。 その三社権現のお祭りなのでこのお祭りは三社祭と呼ばれているのです。 |
文久二年4月12日―1862年5月11日 |
文久二年4月12日―1862年5月11日 ・ 今川橋 金つばは京都から江戸に伝わった当時銀つばといわれました。 栄太楼の金つばは日本橋魚河岸で最初は売り出され人気になったそうです。 今川焼きは店の名前が伝わっていませんが江戸末期に神田側に今川橋を渡った際にあったようです。 売り出し当初から人気が出てあちこちまねをする店が増えました、最初は金つば派と今川派に分かれるほど人気を二分しました。 |
文久二年5月28日―1862年6月27日 |
文久二年5月28日―1862年6月27日 ・ 川開き この年から明治元年6月8日まで川開きの花火は中止されました。 当時の花火はまだ色が乏しく完全に丸く開くのは明治七年まで待たないと成功していません。 鍵屋がはじめて隅田川で花火を揚げたのは1711年といわれています。 鍵屋のような花火専門業者の花火は町人花火と呼ばれました。 大名が配下の火薬職人に命じて、隅田川で花火を揚げこれは武家花火と呼ばれていました。なかでも、火薬製造が規制されなかった尾張藩、紀州藩、水戸藩の花火は御三家花火と呼ばれ、江戸町人らに人気がありました。 『西洋烟火之法』. 清水卯三郎訳1881年. 1874年にイギリスで刊行された「オエクシオップ」を訳したもので、青、赤、黄などの色を出す火薬の配合など当時最先端の技術を紹介しています。 |
文久二年6月9日―1862年7月5日 |
文久二年6月9日―1862年7月5日 ・ 鳥越明神 鳥越の由来 1 白雉二年(651)の創建。日本武尊、天児屋根命、徳川家康を合祀している。 社伝によると、日本武尊が東国平定の道すがら、当時白鳥村といったこの地に滞在したが、その遺徳を偲び、村民が白鳥明神として奉祀したことを起源としている。 2 前九年の役で奥州に向かう源頼義・義家父子の軍勢がこの地に至って前は海(当時江東区はまだ海面下)、思案投げ首後家六法、果たしてどこが浅瀬か皆目見当もつかなかった。ところがそんな折、名も知らぬ鳥の群れが海上を越えていった。それを見て浅瀬のあるところを知り無事渡ることを得、結果大勝利で凱旋した。その成功が当地に鎮座する「白鳥明神」の加護によるものだと感激して、土地の者に地名を尋ねたところ名前などないとの回答に、それではと「鳥越明神」の名を送り土地を「鳥越」と命名したという。その故事を受けて南北朝の頃から村名となった。鳥越明神の社地は岡だった。この岡を切り崩して現在の蔵前辺りの土地を造成した。 10番を組について 10番はと、ち、り、ぬ、る、をの六組が所属して六軒町、安部川町、黒船町以北を担当しました、を組は阿部川町から浅草寺にかけてがその受け持ちの地区でした。 辰五郎が「新門」を名乗っているのは、上野給王寺門跡・舜仁准后様が浅草寺別当伝法院に隠居した際、通行に必要な通用門を伝法院西側に造った。 辰五郎が、この門の護衛をおおせつけられて「新門辰五郎」と呼ばれるようになった。 本名中村金太郎。 上野大慈院の別当、覚王院義寛和尚からは、浅草寺の掃除方を依頼された。 掃除方というのは境内の大道芸人、商人、香具師を取り締まる絶大な権限を持つ取締方で、場銭(場所代)が入るため実入りが膨大だったという。 慶喜公のお局に娘のお芳がなり慶喜公が将軍になってからは、町人で江戸城の中奥へ木戸御免の出入を許されたのは辰五郎ぐらいでした。 慶応4年(1868年)、江戸開城となり慶喜公が水戸から駿府(静岡)へ向かった際も、辰五郎はずっと一緒だった。 慶喜公からは「じい、じい」と親しく呼ばれていたそうです。 10番を組と8番ほ組は同じ浅草元鳥越町近辺で隣接していました。 火消し半天 火消し半纏は、腰の白筋数で組(地区)が、背中の文字でいろは(町名)、肩の赤筋と襟の文字で階級がわかります。組頭・副組頭・小頭が肩に赤筋入り。続いて、筒先・道具持ち(纏・梯子・刺股)・若い衆(手鳶・竜吐水)となります。 大名火消し、各大名配下、有名な所では加賀鳶など。 定火消し、若年寄配下。担当旗本の元に与力6騎、同心30名と人足が常駐していました。 町火消し、町奉行監督と三系統の火消しがありました。 町火消しは出火の時は、風上の町が2町、左右の町が2町ずつ、計6町が出動し、出火地点の川下の家を 人海戦術で 撤去しました。 |
天下祭り | |
文久二年9月13日―1862年11月4日 |
添付は山王の花山車で〜〜す。 文久二年9月13日―1862年11月4日 ・ 天下祭り 今では5月中ごろに行われる神田祭は、江戸時代には9月15日を祭礼日として行われていました。 江戸のお祭りが盛大になり、天和元年(1681年)以後、山王祭と神田祭が隔年で本祭を行うこととなり、神田祭は9月に行われる秋祭りでした。 神田の本祭りは隔年で行われ、丑・卯・巳・未・酉・亥の年西暦で言うと奇数年です。 本祭が行われない年には蔭祭が行われています、山王では影祭りでも盛大に行われていました。 明治17年の祭りが大嵐に見舞われ、神田多町などの山車(だし)が倒れてけが人が数多く出ました、その後には天候の安定している5月に行われました。 いまでは、お祭りはお神輿中心ですが、江戸から明治にかけては神幸行列の前後に30数台の豪華な山車と趣向を凝らした練物がつき、江戸城内に繰り込んで、将軍の上覧に供していました。 6月15日の山王日枝神社、9月15日の神田明神の祭礼は将軍が御覧になることから天下祭りと呼ばれていたのです。 9日から準備を始め、祭り気分を盛り上げました。 往来の人も止め横町は柵をして、華やかではあるが整然と厳粛な行列になわれました。 行列は江戸市中のほとんどを練り歩き、田安門から江戸城に入ります。 将軍様が祭りを見て、竹橋門から出てまたあちこちまわり、神田明神へと帰りました。 各町の山車は三十六番出ました、町の自慢と競いあうので見物人が楽しみにしていました。 |
文久二年9月14日―1862年11月5日 ・ 底抜け屋台 祭囃子の屋台で、屋根と枠で作られて枠に太鼓をくくり付け、枠の中に囃子方が入り歩きながら囃す。 多くは車がなく、まわりの枠を担いでまたは押して移動する。 今回の底抜け屋台は三味線のものが座る部分に底がついていて後の笛、太鼓、与助たちは歩きました。 ほかに馬鹿囃の屋台も各町内から出ます、こちらは三味がない事が多いのです。 朝囃子(あさっぱやし)または朝っ囃子(ちょうっぱやし)は祭りの日に、朝早く日の出の頃から行なう囃子。 |
文久二年9月15日−1862年11月6日 諌鼓鶏 鉾(ほこ)台型山車、神田祭1番大傅馬町(現在の大伝馬町1丁目〜3丁目)の諌鼓鶏 古代の中国で、施政に間違いのあるとき民衆に知らせるよう設けられた太鼓。 太鼓が鳴らされなければ世がよく治っている証拠とされ、平和が続き諌鼓台で鶏が遊ぶようになって、太鼓が鳴らずに鶏が鳴くような平和の時代をたとえたものですが転じて、店に客が来なくてひまの喩えで、閑散としている状態を、「かんこどり」と音は同じでも表記文字も意味も違う「閑古鳥が鳴く」という表現が広がっています。 此方はかっこうのことをさして言うそうですが、そのままでもよい気がいたします。 |
添付は赤坂元氷川、明治になってからの勝邸。 文久二年10月18日―1862年12月9日 ・ 元氷川 この日が最初に坂本竜馬さんが海舟先生のところに来た日と推理しました。 ジンキー日本名順動丸よい船だったらしく海舟はお気に入りの様で、なんども大阪江戸の間を御座船として活用して居ります。 竜馬は海舟先生に弟子入りした12月9日以後順動丸に何度も乗っています。 文久二年(1862)12月17日 江戸⇒大坂⇒兵庫(21日着) 文久三年(1863) 1月13日 兵庫⇒大坂⇒下田(15日着)⇒江戸 文久三年(1863) 1月25日 江戸⇒大坂 (29日着) 文久三年(1863) 2月 6日 大坂⇒江戸 (10日着) 文久三年(1863) 2月24日 江戸⇒大坂 (26日着) 文久三年(1863) 4月23日 大坂⇒兵庫 摂海(大坂湾)将軍家茂の視察 文久三年 (1863) 4月25日 大坂⇒兵庫 摂海(大坂湾) 姉小路公知の視察 この順動丸の移動のほとんどに乗っていたようです。 海舟先生は上記の文久三年1月15日下田宝福寺で山内容堂公と会見して龍馬ほか多数の有志の脱藩罪を解かせることに成功しました、扇子に瓢箪の絵を描いて赦免の証とする蓉堂公でした。 |
添付は奥山風景大江戸祭り。 文久二年12月19日―1863年2月7日 ・ 師走 Maquillageはフランス語ですmake up化粧とのことです、正確に発音はしていませんね。 小笠原図書(長行)公は世子ですが少し前までは聾唖のため出仕いたしかねますと届けられていたほどですが国難のこの時期に人材登用により召しだされました。 辰五郎の娘お芳さんは慶喜公のおめかけに出ましたが水戸・静岡には附いてゆきませんでした、押し込め隠居についていけるわけはないですよね。 後の話ですが、辰五郎は慶喜公が水戸に隠居のとき2万両の隠居費用の采配を任され附いて行く事になりました。 石鹸の値段は仕入れが壱分で15個。 卸値は壱朱2個で一分では8個、一両32個、小売りに寅吉が言う1個三匁約三百二十四文寅吉がよく食べるうな丼の上と同じくらいです。 壱朱は文久年間は大体405文あたりでしょうから妥当かも知れません。 卯三郎さんの浅草の店は天王町と判明、しかしお話だからいまさら訂正しない予定。 場所的には森田町から須賀橋を渡りすぐ右手、福井町にも近いところです。 |
横浜 |
文久三年1月25日―1863年3月14日 初天神 鷽替え・全国各地の天神様で行う鷽替えは初天神の1月25日。 もともとは、神棚に供えておいた「鷽」を「替えましょう」「替えましょう」と呼びかけて、手から手へと、取り替えてゆき、凶事をうそにして、幸運に替えることを念願して行われたもので、江戸時代はじめから始まったと云われています。 土佐の代表的民謡、江戸時代の始めに山内一豊が高知城を築いたとき、その工事場で唄われた”木遣り節”が変化したのがよさこい節で、”よさこい” は、石材や木材を運ぶ掛け声の”ヨイショコイ”が起こり。或いは正徳年間 (1711〜16)、大奥女中江島と役者生島新五郎の情話が「江島節」として全国にひろまって土佐にも伝わったとも言われています、よさこいは、”夜こい”だそうです。 安政2年(1855)五台山竹林寺の脇坊の南の坊の僧だった純信が、高知城下の鋳掛け屋の娘お馬を好きになり、はりまや橋のたもとの 小間物屋でかんざしを買い与えたのがいつのまにか評判になり、「おかしなことよな はりまや橋で 坊さんかんざし 買いよった ヨサコイ ヨサコイ」とよさこい節で歌われ有名になってしまった。 二人は駆け落ちしたが捕らえられ、破戒と番所破りの罪で城下の三カ所でさらし者にされたのち、純信は国外へ(現愛媛県川之江)、お馬は仁淀川以西に追放されました。 諌早のんのこ節は皿踊りもいわれ長崎県の中央部諌早地方で江戸時代より伝えられています。 唄の由来は諌早藩が参勤交代で江戸に下る際,箱根の関所で門番が居眠りをしていて,何のお咎めも無く通る事が出来たので「数多い藩の中でも諌早藩だけだぞ。めでたいめでたい,祝いだ」とその場で祝宴となり歌心のある人がその場で唄ったのがのんのこ節と言われているそうですが、そんなことあるかいと思いますよ |
勝景雪月花 東都品川の雪 雪に降り込められた寅吉さんはもっと降り積もっていたようです。 文久三年1月26日―1863年3月15日 ・ 品川宿 品川宿は東海道を通った大名が文政4年(1821年)の記録では、全国の大名の総数262名のうち、153名で、58%をしめていました。 さらに毎年下向する勅使・院使、あるいは将軍名代の大名や高家に、公用の旅行者などが加わり東海道の各宿を通ったので、宿場の負担は大変なものでした。 なかでも品川宿は江戸に一番近い宿場なので、通行量が最も多かったところです。 参勤交代の大名の帰国時期は、外様大名は4月、譜代大名は6月と決められていました。農繁期に集中していたため、助郷として人馬を出さなければならなかった周辺の村々には重い負担となっていました。 この時期の品川宿は何日も連続して混雑し、問屋・本陣・旅籠屋ともに、おおさわぎのありさまでした。 東海道五十三次、江戸日本橋を基点として第一番目の宿である品川宿から京都に至る最後の宿駅の大津宿までの53宿のこと。これらの宿駅は、荷物の輸送などの場合、原則として宿駅ごとに継ぎ送ります。 伝馬制度といい。各宿場は伝馬朱印状を持つ公用物資は無償で次の宿まで輸送しました。そのかわりに旅客を宿泊させる権利と一般の物資輸送で駄賃を稼ぐ権利を持っていました。慶長六年制定時に36疋と定められていた伝馬は、東海道の交通量が激増したため、寛永十五年より各宿人足百人伝馬百疋に拡充されました。 宿役人の長である問屋は1601年に南北品川宿に1名ずつおかれ、補佐役の年寄はそれぞれに1名おかれました。 他の宿場と同様、帳付け、馬指(うまさし)、人足指(にんそくさし)などの実務担当者がいて宿場事務の運営に当たり、帳付は2名、伝馬関係を扱った馬指は8名、雑用の定使は8名おかれました。 1771年に三宿時代を経て1箇所に纏められました。 問屋は多数の方がなっていましたが、交代で当番に当たりました。 |
文久三年1月27日―1863年3月16日 ・ 目黒川 大黄・タデ科の大形多年草。中国北西部原産。高さ2、3メートル。葉は大きく長柄があって掌状に浅裂する。初夏、淡黄色の小花を多数つける。根茎は黄色で肥厚し、緩下剤・抗菌剤として用いる。 日本橋から2里(約8キロメートル)、東海道第一の宿駅が品川宿である。もうここは武蔵国荏原郡。江戸府内ではない。 品川宿は、北から歩行(かち)新宿、北本宿、目黒川を挟んで南に南本宿と分かれていました。道幅は3間(約5.5m)から広い所では5間(約9.1m)ありました。 天保14年(1843年)には、家数は1561軒を数え、宿内には6890人が住んでおり、女性が3618人と、されています。 宝暦14年(1764年)には宿全体で500人の飯盛女を置くことが許可されていますが、天保の改革の時にはその三倍近い1348人も居たそうです。 道の両側には旅籠のほかに、次のようなお店が軒を並べて賑わっていた。
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文久三年1月28日―1863年3月17日 ・ 22番館 一番館は実は三番館だった、居留地1番地にあるイギリスの貿易商社ジャーディン・マセソン商会、同商会は、トーレル、デントに続く「英三番」館であったが地番を1番とされて其の後、英一番館と称した。 22番館は山下町22番地となって日本の自動車の草分けの地となった。 http://www.st.rim.or.jp/~iwat/meiji-1/meiji-1.html http://www.st.rim.or.jp/~iwat/meiji-5/meiji-5.html 車に興味のある人は此方も。 http://www.st.rim.or.jp/~iwat/index.html 佐藤政養(さとうまさよし) 神奈川台場は松山藩が六万両余の巨費を費やして独力で築城したもので、設計は勝海舟、縄張りは佐藤政養(まさやす・与之介)、杵築藩士佐藤恒蔵が担当しました。 神奈川開港は、安政五年(一八五八)の五ヶ国条約によるとイギリス、ロシアは安政六年(一八五九)六月二日から開港とされ、アメリカ、オランダは六月五日からであり、フランスは七月十七日(八月十五日)からであった。 安政六年(一八五九)正月二十二日、幕府は久良岐郡(くらきごおり)横浜村など六ヶ村を上知(あげち)しました。 横浜村は神奈川湊から一里あり旗本知行地であって八〇余戸の人家がある淋しい村であった。 二月一日の神奈川宿本陣での会談ではアメリカ側が横浜村を第二の出島にするものだと主張して反対したが日本側は横浜村を条約文に定めた神奈川の一部だと主張していた。 六月二日横浜村に運上所(うんじょうしょ)や波止場が出来て開港されると多くの日本人商人も移り住み活況を呈してきたため実利を好む外国人たちは徐々に横浜村に移り住むようになってしまった。 台場の工事は1859年(安政六年)6月から一年余りの突貫工事で行われ、1860年(万延元年)に完成しています。 現在の横浜市神奈川区神奈川1丁目JR貨物線東高島駅のあたりです。 ほや磨きは電気が家庭の中に来るまでは各家庭での子供たちの大事な仕事のひとつでした。 いくら手がかかるといっても行灯よりは効率がよいみたいです、ただ灯油が手に入りにくい江戸の時代では菜種油で灯すのですから汚れもひどかったでしょうと思います。 |
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第三部完 |
幕末風雲録・酔芙蓉 |
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寅吉妄想・港へ帰る | 酔芙蓉 第一巻 神田川 | ||||
港に帰るー1 | 第一部-1 神田川 | ||||
港に帰るー2 | 第一部-2 元旦 | ||||
港に帰るー3 | 第一部-3 吉原 | ||||
港に帰るー4 | |||||
妄想幕末風雲録ー酔芙蓉番外編 | |||||
幕末の銃器 | 横浜幻想 | ||||
幻想明治 | |||||
習志野決戦 | |||||
第一部目次 |
第二部目次 |
第三部目次 |
第四部目次 |
第五部目次 |
目次のための目次-1 |
第六部目次 |
第七部目次 |
第八部目次 |
第九部目次 |
第十部目次 |
目次のための目次-2 |
第十一部目次 |
第十二部目次 |
目次のための目次-3 |
酔芙蓉 第三巻 維新 | |||||
第十一部-1 維新 1 | 第十一部-2 維新 2 | 第十一部-3 維新 3 | |||
第十二部-1 維新 4 | 第三巻未完 |
酔芙蓉 第二巻 野毛 | |||||
第六部-1 野毛 1 | 第六部-2 野毛 2 | 第六部-3 野毛 3 | |||
第七部-1 野毛 4 | 第七部-2 野毛 5 | 第七部-3 野毛 6 | |||
第八部-1 弁天 1 | 第八部-2 弁天 2 | 第八部-3 弁天 3 | |||
第九部-1 弁天 4 | 第九部-2 弁天 5 | 第九部-3 弁天 6 | |||
第十部-1 弁天 7 | 第二巻完 |
酔芙蓉 第一巻 神田川 | ||||||
第一部-1 神田川 | 第一部-2 元旦 | 第一部-3 吉原 | ||||
第二部-1 深川 | 第二部-2 川崎大師 | 第二部-3 お披露目 | ||||
第三部-1 明烏 | 第三部-2 天下祭り | 第三部-3 横浜 | ||||
第四部-1 江の島詣で 1 | 第四部-2 江の島詣で 2 | |||||
第五部-1 元町 1 | 第五部-2 元町 2 | 第五部-3 元町 3 | ||||
第一巻完 |
酔芙蓉−ジオラマ・地図 | |||||
神奈川宿 | 酔芙蓉-関内 | 長崎居留地 | |||
横浜地図 | 横浜 万延元年1860年 |
御開港横濱之全圖 慶応2年1866年 |
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横浜明細全図再版 慶応4年1868年 |
新鐫横浜全図 明治3年1870年 |
横浜弌覧之真景 明治4年1871年 |
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改正新刻横浜案内 明治5年1872年 |
最新横浜市全図 大正2年1913年 |
1 | 習志野決戦 − 横浜戦 | |
2 | 習志野決戦 − 下野牧戦 | |
3 | 習志野決戦 − 新政府 | |
4 | 習志野決戦 − 明治元年 |
酔芙蓉−ジオラマ・地図 | |||||
神奈川宿 | 酔芙蓉-関内 | 長崎居留地 | |||
横浜地図 | 横浜 万延元年1860年 |
御開港横濱之全圖 慶応2年1866年 |
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横浜明細全図再版 慶応4年1868年 |
新鐫横浜全図 明治3年1870年 |
横浜弌覧之真景 明治4年1871年 |
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改正新刻横浜案内 明治5年1872年 |
最新横浜市全図 大正2年1913年 |
横浜真景一覧図絵 明治24年7月1891年 |