酔芙蓉 第三巻 維新

 
  酔芙蓉−第十一部目次 維新 1  根岸和津矢(阿井一矢)


 第一部目次
 第二部目次
 第三部目次
 第四部目次
 第五部目次
 目次のための目次-1
  第六部目次
 第七部目次
 第八部目次
 第九部目次
 第十部目次
 目次のための目次-2
 第十一部目次
 第十二部目次
       目次のための目次-3


慶応3年9月1日―1867年9月28日 土曜日

維新 − 丁卯

合衆国国璽裏面と一ドル札


慶応3年9月1日―1867年9月28日 金曜日
維新 − 丁卯
ひのとう、と読みます。

次の年は戊辰、ぼしん、として有名ですが、つちのえたつ、と読みます。
還暦(かんれき)は十干十二支(じゅっかんじゅうにし)が一回りするので元に還るということです、組み合わせは五行というものも入り下記のようになります。
甲は、「木(き)の陽(え)」で 「きのえ」
乙は、「木(き)の陰(と)」で 「きのと」
丙は、「火(ひ)の陽(え)」で 「ひのえ」
丁は、「火(ひ)の陰(と)」で 「ひのと」
戊は、「土(つち)の陽(え)」で「つちのえ」
己は、「土(つち)の陰(と)」で「つちのと」
庚は、「金(か)の陽(え)」で 「かのえ」
辛は、「金(か)の陰(と)」で 「かのと」
壬は、「水(みず)の陽(え)」で「みずのえ」
癸は、「水(みず)の陰(と)」で「みずのと」
これに十二支を組み合わせていきます。
1691年の冬(1692年1月とも言われています)セーラムのサミュエル・パリス牧師の家に集まった子ども達は、タイテューバという西インド諸島からきた奴隷の女性に、未来を占う術を教えてもらっていた。そのうち、子ども達はひきつけを起こし、体を痙攣させて異様な声をあげ始めた。慌てて駆けつけた牧師や医師は「これは悪魔のしわざだ!」と断定しました。子供たちはタイテューバと2人の女性が『悪魔のしもべだ』と証言しました。
これがセーラムの魔女狩りの始まりだった。
子供たちはさらに村人の名を挙げ、捕まった魔女は仲間の名前を白状するように拷問を加えられました。
摘発されたのは、長生きとか耳が不自由であるとかいった女性がほとんどだった。
セーラムの魔女狩りは、1692年10月、24人の市民が公開状を作って批判を始めるまで続いた。
その間に19人が死刑に処され、1人は拷問の最中に圧死ました。



フリーメイソン(英語 Freemasonryフリーメイソンリー、フランス語フランマソン)とは、イギリスで発生し世界中に派生した入社的秘密結社(自身は非公開団体といっている)である。なおFreemason(フリーメイソン)は各個人会員のことであり団体はフリーメイソンリーです。

GE Pickett(ジョージ・エドワード・ピケット1825〜1875)
1861年6月25日、ピケットは連邦軍を辞職。同時に南軍に奉職し、ロングストリート師団の准将に任命されました。
この将軍は突撃による多くの死傷者を出したGettysburgの戦闘で名前を残しましたが、フリードリッヒ大王が行って、ナポレオンが完成させた密集歩兵攻撃というスタイルはこの南北戦争で完全に姿を消すかと思われました。
しかし日本に置いても旅順要塞の二〇三高地の戦いで乃木希典率いる第三軍は突撃攻撃を行い要塞からの機関銃攻撃に多数の死者を出しながらも、歩兵の従来型突撃でも機関銃に勝てるとの、誤った認識が広がりました。
この戦いは投入された大砲の力で勝敗が決したはずですが、侍気質の残る明治の将官の多くは、兵の損耗には痛みを感じる人は少なかったようでした。
第3回総攻撃のみでも戦死4958名、負傷者1万1584名、そして旅順要塞攻略には後方関係を含め、延べ約13万人が参加し戦死者1万5390名、戦傷者4万3914名、計5万9304名にのぼる犠牲を払いました。
奉天大会戦はさらに多くの犠牲が出ていますがこれに気が回る人は少ないようです。
奉天会戦(1905年3月1日〜。日本軍25万人、死傷者7万人。ロシア軍32万人、死傷者9万人)。
在来戦法が温存され。これが欧州で第一次世界大戦の悲劇に繋がり、日本の場合はもっと遅れて第二次大戦までこれを続けることになってしまいます。 
日露戦争の犠牲者は病死者2万7800人、戦死者は4万7000人(戦死者5万5655人とも言われています。また靖国神社忠魂史によれば、8万7983人となっています。)
別の資料では戦死(即死)者4万8400余名に対して傷病死者3万7200余名、うち脚気による死者は2万7800余名にのぼったとあり、この資料の死者は8万5600名で靖国の数に近くなります。
The War Between the States = Civil War

ガトリング砲(ガットリング砲)長岡藩では奇管砲と呼ばれたらしいです。
追加情報として長岡藩がガトリングを買い入れたのは1868年3月頃との情報もあるそうです。
教授は慶応3年9月と推定して話を進めています。
9月説の理由 
1867年9月12日(慶応3年8月15日)にファヴルブラント商会より歩兵操練書、銃砲マニュアル、辞典等を買いつけている事。
1867年12月18日には全ての藩士に対し銃器を支給している事。

1868年3月説の根拠
長岡藩士江戸藩邸から引き上げる、この頃兵制改革を断行。
兵制を洋式に改め全藩士を銃隊で組織8小隊で組織された大隊が4大隊有りました。
1小隊は36名で編成され1152名の軍隊組織に編成されました。
困った事に買い付け先が
スネルとしてある資料とファヴルブラント商会としてある資料の両方がWEBに載っているため確定しないのです。

慶応3年9月19日―1867年10月16日 水曜日

維新 − 高屋敷

ストーンウォール ( 東艦 )


慶応3年9月19日―1867年10月16日 水曜日
維新 − 高屋敷

条約に従い、安政六年六月二日(一八五九年七月四日)、横浜・箱館・長崎がまず開港しましたがその他の開市開港は遅れ、兵庫の開港、大坂の開市は慶応三年十二月七日(一八六八年一月一日)に実施に移され、東京開市は維新の政局混乱と関連してさらに延期され、翌年の明治元年十一月十九日(一八六九年一月一日、新潟も同日開港)となりました。

船中八策 慶応三年(1867)六月九日 
坂本龍馬が後藤象二郎と共に土佐藩船の夕顔丸で、長崎から兵庫へ向かう船中で示し、長岡健吉書き取ったといわれています。
 一、大政奉還
    天下ノ政権ヲ朝廷ニ奉還セシメ、政令宜シク朝廷ヨリ出ヅベキ事。
 一、上下議政局
   上下議政局ヲ設ケ、議員ヲ置キテ万機ヲ参賛セシメ、万機宜シク公議ニ
   決スベキ事。
 一、有材之人物登用
   有材ノ公卿諸侯及ビ天下ノ人材ヲ顧問ニ備ヘ官爵ヲ賜ヒ、宜シク従来有
   名無実ノ官ヲ除クベキ事。
 一、外国トノ交際
   外国ノ交際広ク公議ヲ採リ、新ニ至当ノ規約ヲ立ツベキ事。
 一、無窮ノ大典(憲法)撰定
   古来ノ律令ヲ折衷シ、新ニ無窮ノ大典ヲ撰定スベキ事。
 一、海軍拡張
   海軍宜ク拡張スベキ事。
 一、御親兵帝都守衛
   御親兵ヲ置キ、帝都ヲ守衛セシムベキ事。
 一、金銀物貨外国ト平等(対等条約)
   金銀物貨宜シク外国ト平均ノ法ヲ設クベキ事。

 以上八策ハ方今天下ノ形成ヲ察シ、之ヲ宇内万国ニ徴スルニ、之を捨テ他ニ
 済時ノ急務アルナシ。荀クモ此政策ヲ断行セバ、皇運ヲ挽回シ、国勢ヲ拡張
 シ、万国ト並立スルモ亦敢テ難シトセズ。伏テ願ワクハ公明正大ノ道理ニ基
 キ、一大英断ヲ以テ天下ト更始一新セン 
次は「船中八策」を基に大政奉還の後に新官制擬定書に続いて戸田雅楽(後の男爵・尾崎三良)と、日本新政府の政体案として慶応三年(1867年)十一月に作成したもので、現在坂本龍馬自筆書が二葉伝わっています。
 新政府綱領八策
 第一義
    天下有名ノ人材ヲ招致シ、顧問ニ供フ。
 第二義
    有材ノ諸侯ヲ撰用シ、朝廷ノ官爵ヲ賜ヒ、現今有名無実ノ官ヲ除ク。
 第三義
    外国ノ交際ヲ議定ス。
 第四義
    律令ヲ撰シ、新ニ無窮ノ大典ヲ定ム。律令既ニ定レバ、諸侯伯皆此ヲ
    奉ジテ部下ヲ率ス。
 第五義
    上下義政所。
 第六義
    海陸軍局。
 第七義
    親兵。
 第八義
    皇国今日ノ金銀物価ヲ外国ト平均ス。
 右預メ二三ノ明眼士ト議定シ、諸侯会盟ノ日ヲ待ツテ云々。〇〇〇自ラ盟主
 ト為リ、此ヲ以テ朝廷ニ奉リ、始テ天下万民ニ公布云々。強抗非礼公議ニ違
 ウ者ハ、断然征討ス。権門貴族モ賃借スル事ナシ。

    慶応丁卯十一月    坂本直柔 (坂本龍馬)
ストーンウォール
ストーンウォール・ジャクソンは南北戦争時に、南軍がフランスに発注した軍艦で、その名称は、南軍のヒーロー、ストーンウォール・ジャクソン将軍にちなんだものです。
二本マスト、ブリッグ、排水量1358トン。
フランスのボルドーにて建造、仮称はスフィンクスで船は発注者の南軍ではなく、スウェーデンに売却されてしまいます。
この時ステールコツデルと改称されています、さらにデンマークが購入してオリンデとしてコペンハーゲンまで運ばれ、ようやく南軍が入手していますここで始めてストーンウォール・ジャクソンになりました。
スペインのエル・フェロル港を経て、当時スペイン領だったキューバのハバナ港まで航海しますが、港で待っていたのは南軍降伏の報で、ストーンウォール・ジャクソンは北軍に引き渡されます。
幕府から軍艦購入を命じられ、ニューヨークに派遣された小野は、はフリゲート艦富士山丸の購入を決め、さらに40万ドルでストーンウォール・ジャクソンを購入しました。
ストーンウォール・ジャクソンが品川へ入港したのは慶応4年(1868年)4月2日同月23日に横浜港へ入港しますが、アメリカは局外中立を主張して、ストーンウォール・ジャクソンの引渡しを拒否しました。
そのため船は横浜港に碇泊したまま戦況を見守り、新政府軍の勝利が決定的になった明治2年(1869年)1月に、新政府軍に引き渡されました。
海軍黎明期の最有力艦として明治21年1月に除籍(1888年1月28日除籍1889年11月12日売却報告解体)されるまで函館戦争、佐賀の乱、台湾征討、西南戦争など明治初期の主な海軍作戦の一線で活躍しました。
日清戦争当時(1894〜1895年)、品川乗り出す東艦と歌われたと資料にありますが関連は不明でした。

慶応3年10月15日―1867年11月10日 日曜日

維新 − 大政奉還
画像は乗合馬車が出ている図を選びました。

慶応3年10月15日―1867年11月10日 日曜日
維新 − 大政奉還

まさにこの日大政奉還は行われました。
10月3日土佐藩は前藩主山内豊信の名で建白書を提出。
6日に安芸藩主浅野茂長も同趣旨の建白書を提出しました。
13日に将軍徳川慶喜公は二条城に在京四十藩の重臣を招集して、大政奉還について諮問を行い、別間で後藤象二郎ら6人が慶喜に謁見し意見を述べました。
14日に朝廷に大政奉還を上奏。
15日に勅許が下りました。
臣慶喜謹而皇国時運之沿革ヲ考候ニ昔 王綱紐ヲ解キ相家権ヲ執リ保平之乱政権武門ニ移テヨリ祖宗ニ至リ更ニ 寵眷ヲ蒙リ二百余年子孫相承臣其職ヲ奉スト雖モ政刑当ヲ失フコト不少今日之形勢ニ至候モ畢竟薄徳之所致不堪慚懼候况ンヤ当今外国之交際日ニ盛ナルニヨリ愈 朝権一途ニ出不申候而ハ綱紀難立候間従来之旧習ヲ改メ政権ヲ 朝廷ニ奉帰広ク天下之公議ヲ尽シ 聖断ヲ仰キ同心協力共ニ 皇国ヲ保護仕候得ハ必ス海外万国ト可並立候臣慶喜国家ニ所尽是ニ不過ト奉存候乍去猶見込之儀モ有之候得ハ可申聞旨諸侯ヘ相達置候依之此段謹而奏聞仕候以上 
要約 今日の時勢に至ったのは私の不徳のいたすところで恥じ入るばかりです。最近、諸外国との交際が盛んになり、政権が一つにならないと秩序が保てなくなりました。政権を朝廷にお返しいたし、広く天下の議論をつくし、天皇の決断をあおぎ、協力しあってゆけば海外の国々と肩を並べられると存じます。
  
慶応3年(1867年)年9月18日薩摩藩と長州藩は倒幕の出兵盟約を結びました。、大久保一蔵は討幕の密勅を公家の岩倉具視と共に運動を続けていました。
10月13日、長州の毛利敬親・定広父子に対して官位が復旧(内勅)されました。
14日正親町三条実愛が薩摩藩大久保一蔵、長州藩廣澤兵助を自宅に招し薩摩の島津久光・忠義父子と毛利敬親・定広父子にたいして討幕の密勅が下りました。
さらに両藩主父子に松平容保と松平定敬を討伐する命令書が下りました。
薩摩藩と長州藩に対して、待望の「討幕の密勅」が下されたのでした。
しかしこの密勅は政権の急速な動きの中、西郷たちが兵を集めるために国許に戻るさなかの21日に撤回されました。
これをもってこの密勅を偽の密勅と論じている人もあるようです。

稲川丸 15トン、25馬力、乗員11人 
明治五年まで時々修理や紆余曲折をへて江戸・横浜間で就航後、北海道開拓史の付属船として森・室蘭間で就航しました。
資料により少し違いはありましたがヴァンリードから江戸小網町回漕問屋松坂屋弥兵衛、横浜弁天通三丁目鹿島屋亀吉等が一万五千ドルで買い入れ契約を結び就航しましたが、払いきれず一時中断し、神奈川裁判所が仲介の上、明治元年八月二十九日より松坂屋と岸田銀次(吟香)に運営を任せ後に吟香が壱萬両で買い入れて運営しました。
当時吟香は上海にも目薬の販売でも進出しておりました。
永代橋・横浜間、金一分二朱、艀賃三銭、洋人一名金一両二朱、支那人一名金三分と運賃に格差がありましたが、初期の値段は分かりませんでした。
明治3年1月からはアメリカ人ホイト兄弟のシティー・オフ・エド号(乗客乗員合わせて160名程度)や7月には横浜の弘明商会の鈴木保兵衛が新造の国産蒸気船横浜丸(横須賀製鉄所製、後の弘明丸・長さ50米、幅6米、250トン、40馬力、木製外輪)で参入しています。
馬車はダルメシアン・高屋敷の本文にも出ている、コブ商会が、横浜と芝(翌明治元年に築地まで)間に馬車を走らせたのは9月頃料金が2ドル(壱両二分)でした。
2時間とした資料が多いようですが其れは無理なので、下記の成駒屋も4時間なので二刻の誤りでしょう。
明治2年には、成駒屋(蓮杖ほか共同出資)が. 吉田橋脇を発着所として日本橋四日市河岸まで、二頭立て馬車(6人乗り)を走らせて料金は三分で人や物を運びました。
船、馬車ともに鉄道が引かれると衰退して行きました。
 
C・ワーグマン Charles Wirgman
1832年(天保3年)8月31日〜1891年(明治24年)2月8日
明治の漫画家です、ロンドンに生れ陸軍に入り大尉まで昇進しながら退役しました。
イラストレイテド・ロンドン・ニュースの記者として中国で、1856年のアロー号事件を取材後に帰国。
1861年(文久元年)ごろの幕末に来日します。
ロンドンのPUNCH 誌に習い、1862年(文久二年)4月、月刊誌のJAPAN PUNCH を横浜居留地で1887年(明治二十年)までの25年間に渡り刊行しました。
ポンチ絵の言葉はこの雑誌に由来します。
日本人にも洋画技法を教えて多くの門下生を育て、日本婦人と結婚し横浜でなくなりました。


慶応3年10月26日―1867年11月21日 木曜日

維新 − 築地ホテル館


慶応3年10月26日―1867年11月21日 木曜日
維新 − 築地ホテル館

築地ホテル館
外国人は「エドホテル」と呼び合っていました。
安政4年に講武所内に作られた軍艦操練所が慶応2年海軍所と改称されましたが火事により浜御殿(現浜離宮)に移転します。
その跡地に慶応3年8月、幕府の命により建設が開始されました。
3階建ての本館(一部4階、塔屋付)と平屋からなり、延1619.7坪(約5354.4 平方メートル)、間口40.5間(約73.6m)、奥行き34間(約61.8m)。計画案作成と管理はアメリカの建築家ブリジェンス、施工は清水組、二代清水喜助は実施案作成と施工を担当しました。
竣工は慶応4年8月でしたが明治5年(1872年)2月26日の銀座大火によって焼失してしまいます。
銀座レンガ街が出来るのはこの火事の後の事です。


高島炭鉱
高島(西彼高島町)は佐賀鍋島藩の領地であり、深堀鍋島氏の支配でした。
慶応4年(1868年)佐賀藩と長崎のグラバー商会との間に事業契約が結ばれ、北渓井坑は48メートルまで掘り下げられました。
明治2年4月17日、厚さ八尺(約2.4メートル)の炭層が見つかり、日本最初の蒸気機関によって本格的に採炭が始まりました。
深堀家に与えた知行地だった代償として、地代として4万両、石炭1トンにつき1両の支払いの約束がグラバー商会との間になされたが、グラバー商会の不振が原因で支払いは滞りがちだったようです。 
明治7年官営となっていた炭鉱を後藤象二郎が払い下げを受け明治14年(1881年)に岩崎弥太郎が買収して三菱の経営傘下に入りました。 
三菱石炭鉱業高島砿業所になっていた炭鉱は昭和61年11月27日閉山いたしました。

ソロバンドック
トーマス・グラバーは慶応2年(1866年)五代才助、小松帯刀とともに、小菅に修船場を造ることになりました。
入り江の緩やかな傾斜を利用し、スリップウエー式のドック(引き上げ船台)を造ることにし満潮時に船を滑り台に乗せウインチで引き揚げるものでした。
明治元年(1868年)12月に完成し明治2年には明治新政府がグラバー管理のこのドックを12万ドルで買収して長崎製鉄所の付属としました。
ドックの所長に24歳の平野富二が就任しました。
明治3年には製鉄所の所長にも平野富二が就任しています。
この人は東京に移り石川島平野造船所を創業してさらに横浜製鉄所を個人で借り受け石川口製鉄所とて営業しています。
石川島播磨重工業創業者にして東海汽船の生みの親として知られています。 
ソロバンドックは明治17年以降三菱重工株式会社の所有となりました。


高杉晋作
「長州藩士の肝っ玉をお見せします」元治元年(1864年)12月に高杉晋作が功山寺で五卿への挨拶代わりに残した言葉です。
15日下関で兵を上げた高杉は長州藩論を倒幕に統一するために降りしきる雪の中を進発しました、後に続くのは伊藤博文ら遊撃隊・力士隊のわずか80人余という悲壮感すら漂う挙兵でした。 
12月16日馬関の萩本藩会所を占領。
遊撃隊石川小五郎、高橋熊太郎、力士隊伊藤俊輔、海上制圧のため三田尻の軍艦3艇を奪う。
参加同士は2000名に達し、各地での戦闘の結果翌元治2年(1865年)2月2日にはクーデターは成功いたします。
高杉は文久2年上海に渡り文明の息吹を確かに感じて帰ってきました、その時24歳だったそうです。
アヘン戦争後の清国、太平天国の乱に寄る民衆蜂起を見聞し、そして彼は攘夷運動にのめりこんでいきました。
藩内も守旧派、尊攘派と別れ、さらに俗論派、正義派と後で名づけられた各派の争いもあり、多くの有為の人材を失いました。
奇兵隊の創設、蛤御門の変、下関戦争、第一次長州征伐、第二次長州征伐の戦のあいだにも脱藩、帰藩を繰り返しながらも革命児の一生は慶応3年4月14日29歳と言う若さで閉じられました。
辞世の句は
おもしろきこともなき世をおもしろくとあり下の句を望東尼がすみなすものは心なりけりと続けたといわれています。

Smith&Wesson

上海で購入したSmith&Wessonは坂本龍馬にプレゼントされて慶応2年(1866年)1月24日の伏見寺田屋で彼の命を救いました。
龍馬が書いた手紙には、彼高杉より送られ候ビストールを以て打払、一人を打たをし候。何レ近間ニ候得バ、さらにあだ射仕らず候得ども、玉目少く候得バ、手ををいながら引取候者四人御座候。此時初三発致し候時、ヒストールを持し手を切られ候得ども浅手ニて候、とありSmith & Wesson Model 2 Armyを使用した模様が書かれています。

慶応3年10月29日―1867年11月24日 日曜日

維新 − ベースボール
明治期のユナイテッドクラブ

慶応3年10月29日―1867年11月24日 日曜日
維新 − ベースボール

ベースボールはアメリカで発展しました、日本に伝へたのは正式にはホーレス・ウィルソンです、明治4年に来日しました。
明治5年(1872年)に彼は第一大学区第一番中学(後に開成学校、一高、東大)で英語や数学とともに母国の国技野球を学生に教えたとされています。
当時運動場があった神田錦町あたりは、日本の野球発祥の地と言われています。

林昌之助 請西藩藩主 林 忠崇(はやし ただたか)号は一夢
嘉永元年7月28日(1848年8月26日)生れ
昭和16年(1941年)1月22日)没
維新のときただひとつ取り潰しにあったままなのがこの請西(じょうぜい)藩でした。
藩主自ら脱藩して各地に転戦して仙台で降伏しました。
大名としての復権はなされず、後に林家は男爵、忠崇は無爵華族となり従五位に列せられました。
最後の大名といわれ94歳でなくなり松寿院殿忠崇一夢大居士の謚でした。

慶応3年11月6日―1867年12月1日 日曜日

維新 − 金澤



慶応3年11月6日―1867年12月1日 日曜日
維新 − 金澤

トライアンフ (Triumph) は、ドイツ人のシーグフリード・ベットマンによって、イギリスで1886年に設立した老舗オートバイメーカー。
ドイツ語の辞書ではKnirps(クニルプス)という単語は「折りたたみ傘」と表記されています。

稗つき節
庭のサンシュの木鳴る鈴かけて 鈴の鳴るときゃ出ておじゃれ
鈴の鳴るときゃ何と言うて出ましょ 駒に水くりょと言うて出ましょ
おまや平家の公達流れ おどま追打の那須の末
恋の別れの那須大八が 鶴富すてて目に涙
なんぼ搗いてもこの稗むけぬ どこのお蔵の下積みか
さあさ搗け搗けこれを搗いてしもて お茶を飲ませて抱いて寝る
那須の大八鶴富すてて 椎葉たつときゃ目に涙
稗は搗いても来るこた来るが しばし待ちやれ遅うござる
稗の五升どま歌でも搗くが 三斗五升から杵で搗く
揃た揃たよ杵の数揃た 秋の出穂よりまだ揃た
おどまいやばお此の山奥に 鳥の鳴く声聞くばかり
なんぼ奥山の三軒屋でも 住めば都よ我が里よ
臼の中にも名所がござる 杵を揃えて搗く名所
さあさ搗け搗け若い衆方よ 搗けば稗の湯は呑みがかり
思う様女と合い搗きすれば 杵の軽さよ面白さ
田舎なれども椎葉におじゃれ 野にも山にも花盛り
椎葉名所の数ある中に 日本一なる杉もある
ここで別れて何時また逢おか 明けて三月小マ茶時
それじゃ遅かろ待長うござる せめて榎木の芽立つ頃
傘を手に持ちどなたもさらば 長いお世話になりました
泣くな鈴虫声ふるわして ここは道ばた人が知る
泣いて待つより野に出て見やれ 野には野菊の花盛り
山でかる木は沢山あれど 思いかる木は更になし
思い焦がれて墨するときは 石の硯が中くぼる
小石小川の鵜の鳥見やれ 鮎を喰えて瀬をのぼる
それが鳴るおりゃ何と言うて出もそ ぬかをふるうじゃと言うてでもそ
稗も穫れたよ真芋も洗ろた 猪のとれそな一つ弾

今普通に歌われているひえつき節は昭和15年頃に作られたものだそうです。
さんしゅは山茱萸(サンシュユ)でしょうが、山椒の木だというのが地元の見解だそうですが茨の多い丈の低い山椒の木に鈴をかけるのは不自然では無いでしょうか。
ただこの歌がいつ頃成立したか不明ですが那須大八の時代にサンシュユは日本になかったようです。
中国、朝鮮半島が原産で江戸時代に薬用として日本に渡来し今では鑑賞用に、庭木などとして多く植えられています、というのが定説だそうですが平家があれだけ対宋貿易をしていたのですから入ってきていたとしても不思議ではありません。 
山茱萸(さんしゅゆ)は春黄金花の別名があり、春に黄色の花が密集して咲き、この木に願い事をかけると、願いが叶うという言い伝えがあります。
秋には赤い実がつき秋珊瑚といわれていますし漢方薬としてさまざまな効果があります。
宮崎県椎葉村の稗つき節は義経の家来だった那須大八が主人公で、壇ノ浦の戦いに敗れ九州の山地に逃れた平家追討の為、椎葉に来た那須大八朗宗久と平家の姫君鶴富姫との悲恋の物語です。
鶴富屋敷は元禄年間の再建といわれケヤキ造りの独特な神殿造りで四室に分かれ、庭にサンショの木が植えてあります。


この画像は教授の取って置きです〜〜。
写真はアーネストサトウの撮影で〜〜す。
千恵子いわく「お容さんは本当に居たの?」
まさかねお話お話で〜〜すがね、お容さんのモデルとしてこの話を始めるときにこの時期にアーネストサトウが写真を撮ったという話が出るまで乗せないということにしてありました。
疑問に思う方はMr.Ernest Mason Satow,の事を調べるべし。

幕末の武蔵金澤藩から改称して六浦藩となります。
武蔵久良岐郡金澤六浦に陣屋がありました。
幕末の藩主は米倉丹後守昌言、明治2年版籍奉還によって、昌言は六浦藩知事に任命されます。
廃藩置県により六浦県知事になりますが明治4年11月には神奈川県と合併し、昌言は子爵になります。
陣屋は瀬戸三島神社の西側いまの金沢八景駅の近くです。
六浦の方角に表門を開き、小さな京急のガードとなっている瀬戸の方角が裏門です。
泥牛庵の山頂は領主の見晴台として御茶山と呼ばれていたということです。
金沢の領地は、寺前村の一部、釜利谷町のうち宿村、赤井村、六浦町のうち瀬戸神社領100石以外の土地3000石(1500石とした物も有ります)でした。
飛び地
1843年(天保14年)川越藩(かわごえはん)松平大和守(まつだいらやまとかみ)の領地となった段右衛門忠篤(だんうえもんただあつ)(号亀巣)の代に入江新田の起返(おきがえし)(荒廃した耕地を復旧し、再び耕地とすること)が命じられ、1849年(嘉永2年)泥亀新田・入江新田が復興しました。


九覧亭の画像はたくさんありますが、これを選んでみました〜〜。

金澤八景と九覧亭 
本文にもあるように八景プラス富士の山の九景からつけられた見晴台です。
現在は金龍院にお断りをしてからあがれるそうです。
八景は元禄時代に明の亡命僧心越禅師が能見堂から眺めた景色を八編にまとめたのが最初といわれています。


二代目こと喜斎立祥さんの描いた武陽金沢八景略図です。
全体図は武陽金沢八景略図 広重画 金龍院版 
bP164を参考にしてください、ほぼ同じです〜〜。
初代広重ほか多くの方が版を起こしていますが違いは年代による飛び石の位置と東屋の位置くらいです。

慶応3年11月14日―1867年12月9日 月曜日

維新 − col-vert(mallard)
col-verthaはフランス語で真鴨(青首と言うそうです)のことで若鴨(仔鴨)の料理はCanetonを使うそうです。

慶応3年11月14日―1867年12月9日 月曜日
維新 − col-vert(mallard)

明治期のホテル
慶応元年(明治元年1868年)にカーチスが改名してInternational Hotelとなった18番のウィンザーハウスは後にBonnat & Coと共同経営といたしました。
(澤護氏の横浜外国人居留地ホテル史によるとウィンザーハウスはこの時期には存在せずインターナショナルホテルが1868年に新築開業したとかかれています。ウィンザーハウスは1881年開業だそうです。)
明治2年(1869年)Belle-view Hotel in Nagasakiをやめてgreen夫人が横浜でMr.トンプソンを雇って37番にヨコハマホテルの名前でホテルを開きました。
営業不振で廃業して彼女は、ベアトと共に明治3年(1870)、居留地20番にグランドホテルを開業しましたが此処も不振のため休業に追い込まれます。
明治6年(1873)8月16日、W.H.スミス(William H. Smith)を総支配人そしてフランス人ボンナの料理長ムラオーをパートナーとしてグランドホテルが再開されました。
設計は「築地ホテル」や新橋駅、横浜駅の設計で知られるブリッジェンスが担当しています。
ホテルはW.H.スミスとJ.G.リヨンによって管理されて、7人の従業員(アメリカ人のバーテン他)がいました。
(澤護氏の横浜外国人居留地ホテル史によると従来言われていたこの説も誤りでありムラオーが関与するのは明治11年になってからであるとされており料理長はペギューであるとされて居ります)
明治22年(1889年)には香港籍のグランドホテル株式会社となり、増資して新館(18番、19番、設計サルダ)を造り客室数は100室にも達しましたが関東大震災で倒壊廃業しました。
ボンナ又はボナンとは「居留地八四番地に一八七四年に、創立されたオリエンタル・ホテル(Oriental Palace Hotel)の経営者がL,Bonnat(ムラオールとした資料もあります)であり、一八八〇年まで経営(関東大震災で倒壊廃業)しています。
カーチスは明治7年(1874年)には鎌倉郡川上村柏尾に開いた観光ホテルの裏に牧場を作り、ハム、ベーコン、牛乳、バターの製造を始めました。
明治9年(1876年)になるとカーチスは60番に新しくセントチャールズホテルをオープンして、インターナショナルホテルをE.S.スミス社に売却しました。

慶応3年11月22日―1867年12月17日 火曜日

維新 − 龍馬遭難
慶応3年9月の龍馬

慶応3年11月22日―1867年12月17日 火曜日
維新 − 龍馬遭難

海舟がこの話を聞いたのは12月6日(1867年12月31日)といわれています。
海舟日記には近日雑文として詳しい状況が書かれていますが何時知らせが来たか、それはかいてありませんでした。
酔芙蓉ではそれを前倒しでこの日にしました、港に帰るで寅吉爺さんの思い出話がこの日としてあるためですが寅吉の情報の素早さを表すためもあります。
それはこれからの展開で勝海舟がさまざまな情報を素早く集めて話が二つの流れがあることへの役割もあります。
SF的に旧幕府軍と新政府軍の東海道軍との横浜戦、東山道軍との習志野決戦とそれと相模湾海戦があったという話や史実に沿った江戸開城という二つの話を昔、出まかせに話したという経緯もあります。
坂本龍馬  天保6年11月15日(1836年1月3日)生まれ
     慶応3年11月15日(1867年12月10日)没
中岡慎太郎 天保9年4月13日(1838年5月6日)生まれ
慶応3年11月17日(1867年12月12日)没
 
慶応3年11月15日(1867年12月10日)、龍馬は潜伏先の京都河原町四条下ルの醤油商近江屋方において中岡慎太郎と会談中に襲撃者によって殺害されました。
(京都府京都市中京区河原町通り蛸薬師下ル塩屋町330京阪交通社付近)
龍馬は16日未明、山田藤吉が16日、中岡慎太郎は17日に絶命しました。
竜馬の命日は15日とされて居ります。
この日の龍馬は風邪気味だったそうです。
逃げ道のある土蔵の隠れ家から母屋の二階に移っていました。
夕刻になって中岡慎太郎が龍馬を訪ねて来て共に危難にあいました。
十津川郷士と名乗る三人の覆面の武土が下僕藤吉(元相僕取りの雲井龍・山田藤吉)に取りつぎを頼み、案内の藤吉を斬り伏せました。
藤吉の倒れる音を聞いた龍馬が「ほたえな!」と声をかけた所へ二人の刺客が飛び込み、一人が中岡の後頭部を、一人は龍馬の前頭部をないだといわれます。
中岡はこの時「こなくそっ」と言う伊予弁(又は土佐西部地方の訛り)の掛け声を耳にしていると証言しています。
「こげなくそっ」と言う薩摩弁もあるということで薩摩のものとも言う説が浮上します。
龍馬・慎太郎の刺客は、京都見廻組与頭・佐々木唯三郎以下、今井信郎・渡辺吉太郎(篤)高橋安次郎・柱準之助・土肥仲蔵・桜井太三郎の7士と言うのが定説となっているが定かではないともいわれています。 
元見廻組隊士今井信郎が箱館で投降して取調を受けた際に「自分達が佐々木唯三郎の指揮でもって龍馬を殺害した」と認めた事。
新撰組隊士大石鍬次郎が拷問の末「龍馬を殺ったのは、見廻組の佐々木だと近藤が言っていた。よくやったものだと感心していた」と証言した事。
元見廻組隊士の渡辺篤が晩年に「坂本龍馬氏を殺害したのは自分達だ」と証言した事。
佐々木の実兄佐々木直右衛門は臨終に際して「坂本龍馬を斬ったのは弟であり、命令は公儀のお偉方だ」と語っている事。
そのほかにも紀州犯行説が流れ陸奥宗光を筆頭にこれを信じて12月7日、天満屋復讐事件が勃発して、和歌山藩の三浦休太郎(後の東京府知事の三浦安)を襲い十津川郷士中井庄五郎や近藤の甥宮川信吉が死亡しています。 
それから薩摩陰謀説もあり、西郷の指示と言う話と岩倉具視が大久保と図り、中村半次郎もしくは高台寺党を動かし龍馬を排除したと言う話ですが眉唾に近い話でしょうが、岩倉は晩年に「維新直前、大久保と図ってやった事には人に言えない事が多々あった」と語っているそうです。
この中村半次郎は明治に入り名前を本姓の桐野利秋と改め西郷と西南戦争を起こしたため(四番大隊指揮長、総司令)後に西郷による龍馬暗殺説の根拠とされています。
京都府京都市東山区清閑寺霊山町1番地には霊山歴史館があり前には霊山護国神社そのなか霊山墳墓には幕末の志士1356名に混ざり坂本龍馬、中岡慎太郎の墓があります。

三浦安
坂本の暗殺はいろは丸償金支払いを不満とする三浦休太郎が新撰組に教唆したためとの風説が流れ、海援隊の陸奥宗光、沢村惣之丞、陸援隊の岩村精一郎、松島和助、十津川郷士の中井庄五郎などの総勢16名に京都の宿舎を襲われて頬に負傷しました。
明治3年藩政参与、4年和歌山藩少参事となり、のち大蔵省に奉職し、ついで左院に転じ四等議官に任ぜられます。
明治8年内務権太丞、15年元老院議官、23年貴族院議員、36年東京府知事を歴任、そののち宮中顧問官となっています。

 いろは丸事件 

慶応3年12月7日 − 1868年1月1日 水曜日

維新 − 兵庫開港


慶応四年戊辰四月の兵庫(神戸)絵図です。

慶応3年12月7日 − 1868年1月1日 水曜日
維新 − 兵庫開港

ここで言う兵庫は後の神戸でありこの時代でも神戸と言う人のほうが多かった模様です。
慶応3年12月7日(1868年1月1日)兵庫開港、その2日後の12月9日には王政復古の大号令が出され居留地は多くの騒動のさなか発展して行きました。
慶応3年(1867)年5月に江戸幕府は兵庫開港の勅許を得、同年12月には開港が実現しました。
実際の貿易港となったのは兵庫津=兵庫の港ではなく、その東側の神戸村の海岸でした。幕府は勅許を得る以前から開港準備として居留地の造成を進めていたが、その当時からすでに居留地は神戸に設けられることが決定していました。

1857年(安政4年)ジラール神父は日本管区長代理に指名されて1859年9月6日(安政6年)江戸に到着しました。
1861年1月にはジラール神父は横浜に移ってきました。
同年末に80番に聖堂が完成し、翌1862年1月12日(文久元年12月13日)献堂式が行われました。
EGLISE DU SACRE-COEUR(Church of the Sacred Heart of Jesus)聖心聖堂。



T型フォードは前にも出ましたが、1917年型あたりでしょうかトラックとFourdoorの根岸家の所有の車(氷川商会)として寅吉が記憶していたのは。

コタロウ君の少年時代のフォードの写真で〜〜し。
当時もクーペと言う呼び方をしていたのでしょうかしら。


坂本龍馬の葬儀を無事終えた海援隊の一同は、幕府の探索の目が厳しい京を出て一旦大坂に集結、海援隊の陸奥宗光、沢村惣之丞ら、陸援隊の岩村精一郎、松島和助ら、十津川郷士の中井庄五郎ら総勢16名。
一方、三浦のほうでも、彼らの不穏な動きを察知しており、会津藩を通じ新選組に護衛を依頼していた。
そして12月7日戌の刻(午後8時)頃、斎藤一、大石鍬次郎、宮川信吉、中村小次郎、中条常八郎、梅戸勝之進、船津釜太郎の7名(メンバー諸説あり)が三浦の宿舎、油小路通り花屋町の天満屋に出向いた。 
中井は三浦の部屋に突入すると、瞬く間に三浦に初太刀を与えた。
これで三浦は右頬に軽傷を負っている。
激闘の末、新選組では近藤勇の従兄弟・宮川信吉が即死。
重傷を負った船津釜太郎が数日後死亡した。
浪士側の死者は最初に踏み込んだ中井庄五郎1名であった。 

長崎の本部に留まっていた海援隊士は凡そ十名程度で、菅野覚兵衛と渡辺剛八の二人が隊士の統制にあたっていたが、隊長龍馬の死後、事実上の保護・指導にあたったのは土佐藩大監察・佐々木高行だった。龍馬の死後は、海援隊の活動も思わしくなく、窮乏者が出る始末で、佐々木は其の都度藩金を流用するなどして、一部の窮乏する隊士の面倒を見ていた。そして十二月三十日には「いろは丸沈没事件」の賠償金、一万五千三百四十五両が分配され、大半の隊士が当座を凌いでいます。 
慶応四年閏四月二十七日、藩命にて海援隊、陸援隊は解散となりました。

慶応3年12月26日 − 1868年1月20日 火曜日

維新 − 薩摩屋敷

慶応3年12月26日 − 1868年1月20日 火曜日
維新 − 薩摩屋敷


三田駅の近くの戸板女子短大の一帯は2万坪に及ぶ薩摩藩上屋敷跡(二丁目16〜22番・32番、三丁目17〜34番、40〜43番の北半分、四丁目1番の北半分、五丁目7番の北半分)です。
薩摩藩の屋敷に浪士が多く入って江戸市中攪乱に業を煮やした旧幕府軍は庄内藩の新徴組と慶応3年12月25日に焼き討ちをかけ、屋敷が炎上しました。
この焼き討ちが戊辰戦争の先駆けとなりました。
現在のイタリア大使館とオーストラリア大使館に挟まれた三井倶楽部が佐士原藩邸(島津淡路)です。


声桶は教授に確かめたところ鶯などを入れて周りを見えないようにして、明かりは障子からさす陽だけして落ち着いてなかせるための入れ物だそうです。

江戸指物から本文の物に似た画像を選んで見ました。

慶応4年1月5日 − 1968年1月29日 水曜日

 維新 − 戊辰

慶応4年1月5日 − 1968年1月29日 水曜日
維新 − 戊辰

1868年の大火は、慶応4年1月7日の午後二時頃、神奈川宿仲町(西の町との資料もあります)にあった旅篭から出火、西からの強風にあおられて燃え広がり、神奈川宿の北側、新宿村(しんしゅくむら)、西子安村、東子安村、生麦村の大半が焼失してしまいました。
街道沿いに建ち並んでいた商家や民家も大きな被害を受けました。
宿内の13に及ぶ寺院や神社を焼き生麦村に火が廻った夜半に風が止み鎮火しました。
鳥羽伏見の戦いは一月三日から戦闘が始まりばらばらに戦闘に巻き込まれた幕府軍は混成軍の小出しの部隊を各個撃破されて六日には全て大坂まで追い落とされてきました。

鳥羽街道 小枝橋付近
入洛のため鳥羽街道へ北上する滝川播磨の率いる旧幕府軍と、倒幕軍の薩摩藩兵がこの橋で入京を求める滝川と問答となり薩摩の伊地知の作戦で時間が稼がれている間に包囲が完了して午後4時近く鳥羽離宮から薩摩の大砲が旧幕府軍に打ち込まれ戦闘が始まりました。
一月三日時点の両軍人員
鳥羽方面軍(滝川具知指揮)
幕府歩兵隊第1連隊(徳川出羽守指揮、1000人程)
同第5連隊(秋山下総指揮、800人程)
同伝習隊(小笠原石見守指揮、人数不明)
見廻組(佐々木只三郎指揮、400名程)
桑名軍(服部半蔵指揮、4個中隊と砲兵隊)
松山藩兵(指揮官不明、300名程)
大垣藩兵(小原忠迪指揮、500名程)
浜田藩兵(指揮官不明、30人程)

討幕軍鳥羽方面 伊地知正治
薩摩軍 本営 城南宮
薩摩軍城下士小銃5番隊・同6番隊 
外城1番隊・同2番隊・同3番隊
私領2番隊・1番砲兵隊半隊
長州軍 本営 東福寺退耕庵
長州軍第三中隊(整武隊)

伏見街道 伏見奉行所付近
新選組と会津藩兵がこの付近に帯陣、討幕軍薩摩藩兵の陣営となったのは御香宮神社から東側高台にある龍雲寺付近、南側の伏見奉行所の新撰組や会津藩兵を含む旧幕府軍に対して薩摩砲兵隊が鳥羽街道城南宮方面の砲声を合図とし砲撃を開始しました。
新選組には火力が乏しく会津藩兵も大砲の弾を打ち尽くすと白兵戦に持ち込もうとして討幕軍の銃火に薙ぎ倒されていきました。
奉行所が炎上したため、幕軍は午前2時頃、淀城下へ退却することになりました。 
一月三日時点の両軍人員
伏見方面軍(陸軍奉行竹中重固指揮)
幕府歩兵隊第4連隊(横田伊豆守指揮、1000人程)
第7連隊(大沢顕一郎指揮、800人程)
第11連隊(佐久間信久指揮、900人程)
第12連隊(窪田鎮章指揮、数不明)
伝習隊(指揮官、人数不明)
遊撃隊(今堀越前守指揮、50名程)
会津軍 本陣 東本願寺伏見別院
(田中土佐隊・堀半右衛門隊・生駒五兵衛隊・上田八郎右衛門隊・林権助砲兵隊・白井五朗太夫砲兵隊・佐川官兵衛別選隊)
新選組(土方歳三指揮、150名程)伏見奉行所 布陣
高松藩兵(三宅勘解由・筧謙介指揮、8小隊300名程)
鳥羽藩兵(稲垣九朗兵衛指揮、2小隊98名)

薩摩軍 吉井友実指揮
城下士 小銃隊1番隊・同2番隊・同3番隊・同4番隊
外城4番隊
長州軍
第六中隊(第二奇兵隊)
第二中隊(遊撃隊)参謀 後藤正則

慶応4年1月11日 − 1968年2月4日 火曜日

 維新 − 開陽
 
慶応4年1月11日 − 1968年2月4日 火曜日
維新 − 開陽
ウインザーハウスからインターナショナルホテルへの名称がこの年変更されています。

 The Beauties of FloraはClara Maria Pope(クララ・マリア・ポープ1768―1838)作、英国の女流絵師で植物画の著作が数多くあります。
特に椿は有名な絵があり生年は1750年生まれとされた資料もあります。

長坂欣之助 字は白基、号は南郊、文政8年(1825年)生まれ後に松森胤保と改める。
致道館に学んで宝蔵院流槍術、大坪流馬術に優れる。
安政3年(1856年)致道館助教、文久2年(1862年)家督を相続、文久3年6月に支藩松山の付家老となる。
慶応3年12月25日薩摩藩上屋敷討ち入りの松山藩の指揮官、後に松山藩軍事総裁、庄内藩松山藩連合軍の軍事参謀。
著作に「両羽博物図譜」「弄石余談」「北征記事」「物理新論」「求理私言」「南郊意匠開物」など多数。


開陽丸
資料により少し数値が違いますが大体はこんなところです。
詳しくはここが便利です。 

http://www.hokkaido-esashi.jp/kaiyoumaru/

軍艦 開陽丸 愛称(Voorlihter) 
木造(銅板補強) フリゲートスクリュー汽船 
3本マスト 400馬力 2817トン(2590トン) 10ノット 
長さ72.80m 幅13.04m
大砲 26門(後に35門に増強)16センチクルップ砲18門 通常砲6門
阿波沖海戦
1月3日夜春日丸は僚艦翔凰丸、平運丸と兵庫港を出港、平運丸は明石海峡方面に、春日丸・翔凰丸は紀淡海峡方面に出た。
1月4日早朝、開陽丸は二隻と遭遇停戦命令を無視したため砲戦となり、春日丸と1200m〜1500mの距離で砲撃戦を行ったが春日丸には逃げられてしまった。
翔鳳丸は由岐港内に逃げ込んだが篦野島の島影で自爆した。
平運丸は薩摩まで逃げ帰った。
軍艦 春日丸(薩摩) 原名キャンスー(江蘇)
300馬力 1269トン(1015トン)木造外輪汽船 16ノット 
長73メートル・幅9メートル・3本マスト
大砲 6門 施条百斤自在砲1門・施条40斤砲4門・鋳製安式1門 
1863年又は62年イギリス、サザンプトンで建造。 
1867年11月3日(慶応3年10月8日)長崎で薩摩藩がグラバー商会の仲介により十六万両で購入。

慶応4年1月22日 − 1968年2月15日 土曜日

 維新 − イチロー


慶応4年1月22日 − 1968年2月15日 土曜日
維新 − イチロー

ワーグマン2世 「上総・成東」1903年水彩 紙 
小沢一郎(C・A・Wirgman1864年〜1922年)はワーグマン2世といわれてもいますが作品は少ないながら穏やかな絵を描く画家で、ワーグマンと日本女性との間に生まれました。

この年1月9日炎上した大坂城は昭和6年コンクリート製で再建されました。
妻木主膳
徳川義臣伝(明治16年9月出版 岡田良策編輯 金松堂出版)によると大坂城明け渡しのさい「味方を三人迄切殺し城に火を掛屠腹して相果ける」と記述あり。
妻木多宮頼矩 
大坂城仮留守監察として城受け渡し責任者となるも妻木は工兵の過失に見せかけて大坂城に放火して焼き払い、辛うじて徳川家の面目を保ったという。
維新後は一時陸軍に奉職、陸軍少佐に就任したが、間も無く引退して東京都麹町区長・貴族院議員等を務めたといわれる。
妻木中務頼矩
幕府大目付 駿府藩江戸留守居
妻木について、さてどの資料を取ればいいのだろうか、横浜毎日新聞の創設にかかわる人物に妻木頼矩なる人物あるも詳細不明。
読みも、めぎ、つまきと有りどの人物をとればよいか資料が手に入り次第追加訂正します。
平松屋寅吉
桑名の郷土史研究の歴史(6)によると明治7年の茶売込商人に金子寅吉の名があり、明治14年12月の両替商の名簿には「南仲通二丁目四十五番地 平松屋金子寅吉」とあるそうです。
桑名藩飛領の越後新道村(柏崎)の出身、桑名藩士の海外留学などに尽力。
横浜に再来濱していたブラウンの開いた塾とも縁が深い人物のようです。
ブラウンの塾は主に、松平定教らが学んでいた修文館からの志願生徒たちとジェームズ・バラの私塾生徒たちで構成されて横浜バンドと言われていました。
この塾の最大の後援者と見られるのが駒井重格の主人であった旧桑名藩主松平定教だったらしいと言われています。
このとき定教は家来総勢十名で入塾、月謝が一人十円(?,年間でないのかとも思われます)だったといわれています。
押川方義 東北学院、井深梶之助 明治学院、本多庸一 青山学院、
佐藤昌介 札幌農学校、小野梓 東京専門学校(早稲田大学)、
駒井重格 専修学校(専修大学)らがこのブラウン塾の出身者でそれぞれの創設に深くかかわっていました。 
掲示板に様々な情報を書き込んでくれたヨコムラさんに感謝。
修文館異聞
慶応二年一月四日幕府は野毛下の林光寺付近に文学所を建設してこれを修文館と名づけた幕府の役人が江戸より横浜へ視察にきたときに旅館として平日は漢学を教授した。
聖堂(今でいう官立の大学)から教師菊地俊助を招いて学頭としその他は神奈川奉行支配役の中から助教を兼ねさせて幕府の役人の子弟を教育したのが修文館の始まりです。
修文館についていろいろと間違った情報が多いようですが、ブラウンが教えたのは元弁天地内にあった修文館です。
明治2年5月 弁天旧武術稽古所を皇漢洋三学の修文館と号した。
野毛町の修文館は廃された。(神奈川県史料)
この野毛下、野毛町、野毛山上と3ヶ所に記述された修文館の移動?については調べがつきませんでした。
ブラウンは雇用契約が終了する明治六年八月まで修文館で教えました。
神奈川県布達全書の明治九年六月の項に「修文館を廃し師範学校に改定の事」とありこのときに修文館の名称はなくなったと見られます。
間違いの多い野毛については慶応4年閏4月17日に野毛山上の修文館にウィリスが担当する軍隊用の病院が新政府の要請で開かれました。
ウィリスは「旧幕府の下で使用された漢文学校に患者が収容されました。やがて傷病兵の数は次第に増加し収容限度をこえたため太田陣屋を使用した」とのレポートを残しています。(これがウィリスの病院が元弁天地内と間違えられる原因にもなっています)
開院3日目でほぼ満員となった修文館は2〜3日中に多数の患者が来るという通報を得て、管理部は開院第5日早期に修文館から移動、洲干弁天社周辺の奉行所役宅(元勘定役所)に仮診療所を設置して、閏4月22日から5月17日まで診療、5月17日に太田陣屋へ引越しをして軍陣病院の基幹病院とします。
5月15日の上野での彰義隊との戦いで傷ついた益満休之助が手当ての甲斐なくこの軍陣病院で亡くなっています。
元勘定役所については、野毛坂と太田陣屋の間に存在したという記事(珍事5カ国・横浜ばなし)、横浜軍陣病院は修文館、元勘定役所、太田陣屋の三病院で構成されました。
野毛山上の修文館のあった場所は今の老松中学校で、慶応四年には約7ヶ月、軍陣病院として使われたあと中病院が移転してきます。
1873年(明治6年)12月に十全医院となり、横浜市立大学医学部附属病院の前身だそうです。
藤吉
大谷藤吉、一時元吉とも名乗り明治元年に嘉兵衛と改める。
当時13番に有ったスミスベーカーの茶買い入れの責任者として活躍。
この年明治元年スミスベーカーに在籍のまま自分の店を持つ。
ここに詳しい情報があります。

http://www.city.matsusaka.mie.jp/kankou/iitaka/otanikahei/otanikahei_02.html



1967年パリ万博で卯三郎が開いた茶店は檜造りの六畳間、土間のまわりには植木や人形を飾った日本庭園がつくられ緋毛氈を敷いた縁台が置かれ客はそこで接待を受けた。
座敷では江戸柳橋松葉屋の芸妓、かね、すみ、さと、の3人がショーを演じ好評であった。


パリ万博のときの柳橋松葉屋の三人の芸者。
このときに撮られた写真は横浜で彩色写真として売り出されています。

慶応4年2月1日 − 1968年2月23日 日曜日

 
維新 − 石炭

小判の事はここで調べてくださいね。
http://www.imes.boj.or.jp/cm/htmls/history_19.htm
 

慶応4年2月1日 − 1968年2月23日 日曜日
維新 − 石炭

石炭

無煙炭
(むえんたん)(anthracite):石炭化度が高く、燃やしても煙の少ない良質の石炭。炭素量は93〜95%。カーバイドの原料。
瀝青炭(れきせいたん)(bituminous coal):粘結性が高く、コークスや製鉄用燃料に使われる。炭素量は70〜80%。 
亜瀝青炭(あれきせいたん)(subbituminous coal):瀝青炭と性質は似ているが、水分を15〜45%含むため扱いにくくあまり使われない、豊富な埋蔵量と日本で生産されていた石炭の多くも亜瀝青炭であった。
褐炭(かったん)(brown coal):低品位の石炭。
亜炭(あたん)(lignite):褐炭の質の悪いものに付けられた俗名。
泥炭(でいたん)(peat):泥状の炭。石炭の成長過程にあるもので、品質が悪いため工業用燃料としての需要は少ないがビールの原料の麦芽を乾燥させるときに使う。

平専
平専こと平沼専蔵は埼玉県飯能生まれ、今宿村(現鳩山町)で育つ。
天保7年(1836年)〜大正2年(1913年)
安政6年江戸に出て、千住の材木商に勤めた後横浜の渡邊石炭店で奉公します。
元治元年(1864年)に平専石炭店を開きその後、生糸売り込み商に転じて成功しました。
明治20年(1887年) 平沼銀行設立(横浜銀行に発展)。
明治25年(1892年)7月青梅鉄道創立(創立総会)に参加。
明治27年(1894年)11月青梅鉄道は立川ー青梅を開業、762mmのナローゲージで主要貨物は石灰石でした。
明治45年(1912年)5月資本金75万円で東京市麹町区有楽町一丁目に池袋〜飯能を結ぶ武蔵野鉄道(明治44年10月免許交付、西武鉄道の前身)を設立します。
資本金は同年100万円に増資しています。



備前事件(神戸事件)

慶応4年1月11日(1868年2月4日)
新政府は備前藩に西宮の警備を命じたが、備前藩の部隊の一部500人は外国人の衝突を避けるために旧徳川幕府によって作られた徳川道を通らず、西国街道を進んだが三宮神社前にさしかかったときに2人の外国人水兵がその行列を横断しようとした。
迂回するよう命じたが言葉が通じず、やむなく隊長の滝善三郎は鞘のついたままの槍を突きだして制止した、それが一人の背にあたり、もう一人が拳銃を出したため鉄砲隊が威嚇射撃をしてしまった。
互いに空へ向けての威嚇射撃だったため、発砲による死者や負傷者は出ていない。
(赤磐郡誌より抜粋 ・ 中軍の内・兵力約四百五十及び大砲方を率いた一軍は、津高郡金川(御津郡)在住の老臣、日置帯刀忠尚の軍勢で、陸路をとり、正月十日明石に宿営し.翌早朝出発して兵庫に入り、正午本陣に着いて昼食をとり、尚ほ進んで、三宮の森林にさしかかろうとした、時に午後二時。突如として先頭に叱咤の声が起つた。これは第一砲隊を横切らんとした、佛國二水兵を抑止する声であつた。叉濱側より来た一名の米國水兵は、第二砲隊と第三砲隊との間をぬけ去つた。是れと殆ど同時に、山手より来た英國一水兵、手に拳銃をとつて.第三砲隊の先頭に現れて、威嚇の態度を見せた。隊士は怒つて「斬り伏せよ。」の命令と共に、長槍を振つて.共の腹部を突いた。外人は狼狽して民家に逃げ込み、尚ほ逃れ先頭を迂回して海岸に走つた)
その騒ぎで神戸にいた英国公使パークスは神戸港に停泊中の軍艦に信号を送ると、英仏米の兵士が軍艦から上陸して備前部隊を射撃した。
このとき家老日置は藩兵の射撃の中止と撤退を命令、備前隊は生田方面に逃れていった。お互いに死者も無く負傷者もほとんど無かったため、一度は事なきを得たかに見えた。
この事件で四ヶ国連合艦隊は日本政府に抗議書を送りつけ居留地防衛という名目で臨戦体制に入るという大事件に発展した。
新政府はまだ、政権が幕府から朝廷に移ったということを外国に対して宣言していなかった為、急ぎ1月15日(2月10日)朝廷は明治政府に政権が移った事を表明、事件の交渉を開始した。
交渉は難航したが伊藤、五代、伊達、東久世の交渉の結果、部隊を率いた備前藩家老の日置帯刀は謹慎、隊長滝善三郎は切腹という事に決まり、五代、伊藤たちの懸命の助命嘆願もパークス以外の公使たちの反対で実らず2月9日(3月2日)神戸永福寺に於いて各国公使館員立会の上で執行された。
切腹について様々なことが書かれているがアーネストサトウと共に臨席した同僚のミットフォードによると滝善三郎の切腹は古来よりの作法に則った形であった様である。ミットフォードは日本の作法についてもよく調べており、滝の切腹の模様を生々しい筆致で「旧日本の物語」に書き残している、さらにアーネストサトウもその様子を書き残しています(一外交官の見た明治維新)。
無礼を犯したのは相手であり、しかも軽傷だから、当方の死罪は納得できないものは多く、後の堺事件と共に外国排斥の種に取り上げられることになる日本外交の弱腰の見本であった(新政府は薩英戦争、下関戦争の教訓からか諸外国の力を恐れ責任を一方的に備前藩に押し付けた)。
攘夷を標榜し開国を断行した幕府を追及する攘夷派公家達はこの事件以後攘夷論を持ち出すことは無くなった。
(アーネストサトウは一外交官の見た明治維新の中でアメリカ人水兵が1名死亡と書いて、厳罰は当たり前と書いている)

慶応4年2月7日 − 1968年2月29日 土曜日

 
維新 − 市電

慶応4年2月7日 − 1968年2月29日 土曜日
維新 − 市電

市電
コタロウ君の大正大震災前の時代は市電の系統図と駅名が戦後の廃止前とはだいぶ違うようです、横浜駅は二代目の高島町の時代でした。
本文で戸部と書いてあるのは後の石崎町のことです、後に野毛を通る線が出来て戸部は別系統になりました。
横浜市電の前身の横浜電気鉄道が開業したのは明治37年(1904年)7月15日
神奈川−大江橋間で開業します。 
大正10年(1921年)4月1日には料金の値上げに反対する運動が起きて、横浜市が買収して「市電」になり電気局を発足させます。 
昭和3年(1928年)11月10日 市営バス開業。
昭和21年(1946年)6月1日 横浜市電気局、横浜市交通局に改称。
昭和34年(1959年)7月16日トロリーバス開業。
歴史を経て昭和47年(1972年)3月31日市電とトロリーバスは全廃されます。


娘義太夫

明治10年ごろから追々とはやりだした女義太夫は大坂から明治20年に竹本綾之助が13歳で上京して以後爆発的な人気を呼び娘義太夫として肩衣姿で三味線の太夫が付くという形に発展しました。
岡本綺堂によると、明治十五、六年から二十三、四年頃の女義界は、東玉、京枝を大将として、(後の素行)、清花、小政、小住、小伝、花友などに綾之助、これが第一期。つづいて、小土佐、ポ胤、錦、趨ヂ、住之助、鶴蝶、熊梅などに三福、綾之助を持ち越して、これが第二期の花形。その後は大小の真打ぞろぞろ輩出。誰がなに中ら、ただもう賑やかに人気の渦を巻いていた、と書かれている。
明治世相百話(山本笑月)には、明治の中頃には今から想像も及ばぬ全盛。若手の仇っぽいのが花簪《はなかんざし》に肩衣姿、客席を横目でにっこり、これを当て込みに義太夫そっちのけで押し掛ける連中が毎夜の大入り、等と書かれています。

小政は東玉の秘蔵弟子でしんみりとした語り口、「吉田屋」が最も聴き物で女義中の一等品、調子は低い方。三福は声よりも節で渋い芸風、「寺子屋」や「野崎」で鳴らした。綾之助丈はどなたも御承知、無類の美音で幅もあり、万人向きのお誂え、およそ女義の売物なら「御殿」「酒屋」「十種香」「太十」などことごとくこの人の薬籠中のもので、そのほか綾瀬仕込みの渋いところも相当に聴かせたのは、なんといっても人気の王座を占めただけの価値はあった。小住は声もあり、節も大阪の本場仕込みで確かなもの、なかなかの人気で後年牛込神楽坂の寄席笑楽亭を買い取り、わら店亭《、、たなてい》と改めて斯界に幅を利かせた。小土佐は名古屋出の美人で二十年上京、翌年神田の小川亭で初看板を上げ、たちまち人気の中心となった。住之助は小住の門下で住八といった若手の随一。越子は小肥りの丸顔で、一時は綾之助の向うを張ったが及ばなかった。錦はお相撲といわれたほど肥大の体格、確かに貫目はあったが、声も太いばかりで艶がない。熊梅もこれに似た肥っちょで愛嬌のある女、当時人気力士の横綱小錦八十吉と浮名を立てて、岡焼連を騒がせたものだ。
 以上の面々は三絃の方も達者で、たいていは弾き語り。
(以上明治世相百話)
明治時代の後半期になると、大阪では豊竹呂昇、東京では竹本綾之助が空前の人気を博し、芸能での人気を歌舞伎と二分するほどになった。
当時、娘義太夫の日本髪が熱演のあまり乱れ内容が佳境にさしかかると、客席にいる書生らの熱心な見物から「どうする、どうする」と声がかかった。
このことから、そうした見物を堂摺連(どうするれん)と呼びました。
特に、十代の娘浄瑠璃語りを、書生たちが取り巻いて、寄席から寄席へ移動するときも追いかけ回したという話が伝わっています。
明治30年代の真打ちで月収80円位と言われますが人気に比べて少ない気がします。
夏目漱石は明治28年に松山中学教員になって月俸80円でした、当時東京の大工は月に10円くらいの稼ぎですが義太夫の太夫は諸費用の係りからすると遣り繰りは大変でしょう、それでも国会議員並みの給与です。
ちなみに岡本綺堂は明治24年に「日日新聞」記者として19才ながら15円を貰っています。
大正12年(1923年)の関東大震災以降、娘義太夫の人気は急速に衰えていったそうです




近藤勇については特に書く必要がないくらい有名ですね。
と言うことで教授のコメントは無いです〜〜。

追伸
左及び右のと中の写真は刀掛けが同じと言う指摘に対して教授は全国同じ様なものがあっても不思議でないのでそれだけで同じ場所とはいえないだろうと言って居ります。

   第十一部完  



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