幻想明治
 其の十二 明治20年 − 参 阿井一矢
Mont Cenis

   

 根岸寅吉 (根岸虎太郎)

1911年 明治44年4月18日生まれ(天保14年1843年)

横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。

 根岸 容 

弘化5年1月5日(1848年2月9日)生まれ

江戸深川冬木町に生まれる。 

 根岸明子 

明治元年12月10日生まれ(1869年1月22日)

久良岐郡野毛町三丁目に生まれる。

 佐伯 琴 (根岸 幸) 

1920年 大正9年9月9日生まれ(嘉永5年1852年)

横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。

 根岸了介 

1877年 明治10年11月7日生まれと届出

神奈川県久良岐郡横浜町末吉町5丁目54番地に生まれると届出。

(神奈川県第1大区4小区)

(明治10年5月5日山手220番生まれ)

 根岸光子 

1885年 明治18年5月31日生まれ


モンスニ峠

ハーブル(ル・アーブルLe Havre)へも出かけたし、ノエルにメアリーも付いてジラールさんに会いにランス(Reims)へも出かけた一同は回りたい処は一杯増えた気がするという始末だ、ヴェルサイユへ三回も出かけたのは芳香とヒナだ。

「際限が無いよ。そんな事いっていたら二年や三年はあっという間だ。浦島太郎になってしまうよ」
正太郎に言われて昨日辺りからヴェネツィアへの鉄道の旅の段取りを始めだした。

上流階級の女性はバスルスタイルが主流だ、街を歩く若いマドモアゼルはヒールの高い靴に黒い服で足首が覘いている、短めのスカートの後ろ側はギャザーが入っているため引き摺ることなく軽快に歩ける。

ジゴ袖が付いてウエストを細くして肩と裾が広がる砂時計のようなデッサンをアルフォンスが六人に提供し、すこしシンプルな旅行服も入れてそれぞれ二着を正太郎とエメが一同にプレザンした。

「兄さん」

「何だ、何時ものように兄貴でいいんだぜ。ニコラやラモンに遠慮はいらんぜ」

「いやさぁ、兄貴が手紙で書いてきた石油で動く車と言うのはまだ見かけないなと思ってさ。蒸気機関の煩いのは良く見かけるがボートにつけたガス燃焼式も街で見ないので」

「随分前に出来た方式だが最近ドイツで研究が進んでいるらしい。蒸気式と比べるとまだ同じような速さで道路を走れないらしいぜ。作り出したのはダイムラーという人とベンツという人らしい」

パリのド・ディオン・ブートンは、1883年から蒸気自動車の生産を行なっていたが販売としては其れほど魅力のある商品ではない様だ、パリの街は馬車にオムニバスが主流だ。

馬車鉄道は市内いたるところに整備されて蒸気式のトラムもモンパルナス駅とアウステルリッツ駅の間を走り出した。
其の話しをニコラにすると道路を使うのと普通に鉄道をひくのでは費用の点で安上がりだからという話から4台の電気式の路面電車(Quatre automotrices)を万博に合わせてトロカデロに設置予定だと教えてくれた。

其の万博に間に合わせようとラ・トゥール・エッフェルの仕事は急ピッチで進んでいる、話によれば最初の展望台は来年三月までに組み上げられるそうで其処まで行けば仕事は随分と楽に進むそうだ。

「上にいけば資材を上げるのに大変じゃないのか」

「基礎が大事だそうで其処さえきちんとできれば後は設計図に従って組み立てるだけだとさ。其れよりも凄いのはアサンスゥル(ascenseurエレベータ)さ、ゴンドラはいっぺんに人を運べるように2階建てだぜ、水圧で上側二段目の展望台まで上げるそうだ。一番上の展望台まで階段だと1652段だそうだ」

その日の新聞に出ていた図面を正太郎が見せて「此処までだと276mあるようだ、一時間じゃ登れんぜ」

「之だと二階まで斜めに足の中を登るんですね」

「外から見えないためには其れが一番のようだな。二段目は149m上で一辺が49mほどもある展望台など恐ろしい高さじゃないか。柵越しに覗くのも勇気が要りそうだ。オーチス社製のアサンスゥルだ、亜米利加じゃエレベーターというんだろ」

「ええそうです。オーチスはニューヨークのヨンカーズに工場があります。パリでは動く階段を発表するそうですよ」

「人を乗せて階段ごと動かすのかい」

「ええあのバイシクレッテのチェーンのように階段がぐるぐる回るという話しです」

それにはニコラもはじめて聞く話しのようで「乗るのはいいがどうやっておりるんだ」と不思議そうだ。

ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットへニコラとラモンを誘って男四人でのんびりと昼間からピッツアで麦酒を飲んで寛いだ。

「其のうち此処からでも其の鉄塔が見えるようになるな。近代的とでも言うんだろうがモーパッサンなどパリを壊す気とお冠だそうだ」

「今年の2月にデュマ・フィス、サルドゥー、ルコント・ド・リール、シュリ・プリュドム、フランソワ・コペがタン(Le Temps)にエッフェル塔建設反対の合同署名記事を載せたよな」

指を折りながらラモンが口を挟んだ。

「そうそう、ばかげた事は止せと言う趣旨だ。パリの恥さらしだとまで書いてあった」

ニコラにラモンは笑いながら古い事はいいことだという連中は必ずいるとビールのお替りを頼んだ。

セルヴァーズがやってきてショウにテレフォンが掛かってきたと告げた「ロジーヌといえばわかるとおっしゃっておられるわ。とても綺麗なお声の方よ」サラ・ベルナールかもしれない。

やはりテレフォンの主はサラ・ベルナールだ「やれやれ便利なのも良いですけどのんびり遊んでもいられませんね」という風に話の切り口をつけると「急いでいるのよ」と切り替えされた。

「今晩9時から時間が空くからヴァルも来るから貴方が付いて横浜へ帰る七人を連れてトゥール・ダルジャン(La Tour d'argent)へ9時半までに来るのよ」

「ご馳走してくれるのですか」

「そうよ。バーツがご馳走してくれるのよ」

「そりゃ珍しい。後が怖そうだ」

「横浜のマドモアゼルたちの着ていたフリソデの青いのが欲しいと言っていたわよ」

「やはりね。ただじゃすまないと思ってました。青いのなら僕のですから何時でも渡せますよ。ヴァルは薄い色が好みだと思っていましたがあの青は色が強いですよ」

「あらそういうのがジャポネ風と思ってるようだわよ」

芸術家連盟バーツ(Verts)と言われてもいるように最近若い芸術家にも賛美者がいるようだ。

ドレスに白い日傘でルーブルに出かけると何人もの取り巻きが何処からともなく現れるそうだ、お金を締まり屋の彼女は貯めているという噂もあるが援助を受けている音楽家に画家が何人もいると噂を聞く正太郎だ。 

銀行家のジョン・ウルフも其の賛美者の一人とかでカバネルの63年に描いたビーナスを複製画として75年に描かせた時にバーツに似ていると言うので正太郎も見せてもらった。
急いでいるという割りにサラは中々話しを辞めないので今度は正太郎が店に気を使って切ろうとした。

「ふん、なにを急いでいるの」

「これから連絡をして、皆に支度をさせて、バーツへのお礼のフリソデを包んでと仕事も多いのですよ」

「判ったわ。じゃ今晩ね」

バーマンに礼を言って席に戻ると電話の話しを簡単に話し四人で馬車を雇って遠回りしてメゾン・デ・ラ・コメットでラモンを降ろしニコラは歩いて戻ると言うので清次郎と三人で事務所にあがりフリソデに帯や御高祖頭巾など一式を入れた箱を選び出した。

ニコラに青に白い百合と牡丹が描かれたフリソデを箱の蓋をとって見せると大きな茶色に白い藤が描かれた風呂敷で包んだ。

エメにテレフォンをかけてサラからの伝言を伝えると向こうにも掛けてきた様で「ショウに着物の事があるから直接言うわと言うのでたいていムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットで麦酒を飲んでいると教えたけどあたってたの」

「ラモンとニコラの四人でね。今事務所だけどこの間芳香が着た青に百合と牡丹の花柄のセットを包んだけどあと何か持っていくようかい」

9人も招待したんではもう少し礼の品でも足すかと聞くと、アキコの草履ならバーツでも履けそうだから頼んでみるとエメが請け負った。

「それで気になることをサラが言うんだけど」

「なんだい」

「清次郎が決闘しそうだというのよ。バーツの応援しているアンリという画家が清次郎に憤慨してるそうなの」

正太郎は清次郎の顔を見ながら「何で清次郎が其のアンリと決闘するんだ」と聞くと当の清次郎が目を丸くしている。

「バーツの話しの又聞きだから良く判らないの。今晩食事の前に聞いてみるわ」

「そうしてくれるか。清次郎心当たりでもあるかい」

「いえ、アンリという名も思い当たりませんしなぜ決闘という話しになったか良く判りませんよ」

そういうことだとテレフォンを切って待たせた馬車でアルブで清次郎を降ろしてノートルダム・デ・シャン街へ戻った。

明子のフリソデ一式をバーツへの御礼としサラにはヒナのものをお礼としてもらっていただくことになったとエメが話しをまとめていて馬車で9時前にエメをトゥール・ダルジャンに降ろしてラルブへ七人を迎えに行った。

馭者にもう一台馬車を捕まえさせてトゥール・ダルジャンへ出かけた、僅か15分ほどの距離だがぞろぞろ歩くことも無いのでそうした。

馬車を帰すとヴォワチュリエがドアまで案内してくれた、正太郎は2フランの銀貨を手に滑り込ませた。

セルヴィスに5フランを渡し「ヴァルテス・ド・ラ・ビーニュさんの招待だが」というと「奥様も待合室でお待ちです」と案内してくれた。

5分もしないうちに呼ばれて川面が見渡せる二階の北側の席に案内された。

ガス灯の並んだポン・サン・ルイが正面に見えシテ島のノートルダムの大聖堂がガス灯に浮かんで見える席だ、セーヌに半月が浮かんで揺れている。

北の窓を背にサラとエメがすわり其の西よりの窓際に正太郎とバーツが座った。
四角いターブルの向かいに清次郎とアキコにヒナとモーリス・ベルナールが座り其の右側がヨシカとタマ、左はハルとツネという風にエメが先にセルヴィスに名前を入れた紙を渡していたようで、メモを見ながら名前を告げてタブレーをひいてくれた。

シェフドランがバーツにメニュを渡して相談を始めたが「先ほど話したように進めて良いわ」というとソムリエが現れてワインリストを差し出した。
全ての話しが十分ほどで終わったのは待合室でエメやサラと話しが付いていたのだろう、一時間掛かるのはざらだと前に聞いた事がある正太郎たちだ。

給仕長になったばかりのフレデリック・デレールがやってきてバーツとサラに挨拶をしてこの店にはじめての七人に「フランス語で大丈夫ですか」と聞いてこの店について話しをしてくれた。

トゥール・ダルジャンの始まりはオーベルジュだったこと、パリにレストランというものが出来始めたのは120年ほど前ブーランジェが開いた店がレストランでその頃はブイヨンという意味だったらしい等々。
皆はアペリティフを楽しみながらその話しで打ち解けたようだ。

バヴァロワにキャヴィアが添えてあった、オマール海老とイベリコハムのコポー、サラダ仕立てオレンジのビネグレット。

カップには泡立てられたトリュフのクリームとテリーヌ、セロリのスープを注いでくれると香りが広がった。

カネトン(Caneton若鴨・仔鴨)のコンフィに付け合せはポム・ベアルネーズ、ワインはロマネ・コンティ1878年、年に5000本あまりしか無いうちの二本だ。

次にワゴンで運ばれたコルヴェール(colvert真鴨)とフォアグラをデコパージュしてくれた。

ソムリエが持ち出したシャンパンは1885年のヴーヴ・クリコ、ソムリエが給仕長の耳打ちに答えるようにラ・グランダムと呼ばれたマダム・クリコの事を話し、マダムは20年ほど前に亡くなったが彼女の愛したシャンパンとワインは今も人々に喜びを与えてくれていることを説明した。

マロンと洋梨のスフレはカップいっぱいに膨らんだ焼き菓子、ふわっと焼き上がったスフレは給仕されるとすぐにバーツはスプーンを差し入れた、時間を置くとしぼみますと給仕長がマドモアゼル達に教えたので自分の前に来るとすぐに食べて「おいしい」とつい日本語がでるヒナだ。

褒め言葉は何処の言葉でも顔で判るようでフレデリックは嬉しそうだ、「トレボン」とヒナが其のフレデリックに言い直すとさらににこやかになった。

日本人が多いのでメニュからエメが食べられる量だけを選んだようだ。

エメがあらかじめ話しをしてあるようで席を替えコーヒールームで明子たちからの贈り物がサラとバーツに渡された。

正太郎が風呂敷を解いて青のフリソデをアキコに頼んでバーツの肩にかけてもらった「まぁ、之もいただけるの。とても嬉しいわ」なんとまぁ、遠まわしに欲しいと言って来たくせにと正太郎は可笑しかったが「とても似合いますよ。着付けが難しいときは公使館の原様の奥様に頼んで差し上げます」とうれしがらせを言っておいた。

24日のジュディは5時には陽がくれ、月が膨らみかけていて幻想的なセーヌをシュリー橋で渡りアンリ四世大通りへ入りバスチーユからポルト・サン・マルタン劇場へ向かった。

第一幕は1800年6月17日のローマ、サンタンドレア・デッラ・ヴァッレ教会の聖具保管係の台詞で始まった。

第五幕の最後の場面はカヴァラドッシを騙しうちのように死刑執行人に殺されたフローリア・トスカ(Floria ToscaMme Sarah Bernhardt)が警官のスポレッタ(Spoletta, capitaine de carabiniers・ヴィエ Bouyer)に追い詰められ「私が其処へ行くわ」と城壁から身を投げる場面で終わった。

幕が下りても観客は総立ちで手を叩き何度もアンコールを続けた。

ようやく満足した観客が出口に向かったのは30分以上も経ってからで口々にサラ・ベルナールの事、マリオ・カヴァラドッシ役のデュモニィ(Mario CavaradossiDumeny)の事などを話していた。

正太郎とエメは興奮冷めやらぬマドモアゼル達をオテル・ダルブへ送り届けると清次郎を連れてサン・トノーレ街のヴァレンティノへ連れて行った。
二回目の舞台が終わり入れ替えの客でごたついていたが三人は二段目の最前列に案内された。

「シャンペンと小エビのカクテル。梨のコンポート」

正太郎がセルヴァーズに頼んで清次郎になぜつれてきたのかエメには断って回りに聞かれても良い様に日本語で話しをはじめた。

「きのう小耳に挟んだろうがお前に覚えが無いという決闘だがエメが聞き出してくれたんだが」

「それで、どういう話だったんですか」

「ロレーヌだが。お前どういう事になってるんだ」

「三度ほど食事に付き合いましたよ」

「それだけか」

清次郎上手いことしてのけたなと正太郎は感じたが深くは聞かなかった、ロレーヌにしてみれば日本へ帰るという清次郎とほんの一時のアバンチュールくらいの気持ちだろう。

「バーツの崇拝者の一人に画家のアンリ・ジェルヴェクスという若い男がいる」

「其の男となにか関係が」

「そうだ、この前牡蠣を食べに行ったときロレーヌが男と来ていたと話していたろ。其れがアンリという男だ」

「その人が僕に焼きもちを焼いて決闘ですか」

「フィンセントとアンリという知り合いの画家がいるんだが、こっちは俺の友人でアンリ・ド・トゥルーズ=ロートレックだ。サーカスの近くにル・ディヴァン・ジャポネというカフェがあって、よく其処で会うんだが一昨日そいつらが来月になったら立会人になると、わざと日にちを遅らせてくれて今すぐと言うことではなくなったらしい」

「バーツは其の話しも承知なのですか」

「そうらしい」

何の事はない正太郎も清次郎も知らないうちに話しが大げさになり一行がパリを発ったあとでうやむやにしてしまうようだ。

「ところで兄貴」フランス語に戻したのは他の話のようだ。

「兄貴が昔手紙で言ったようにパリに来て困ったのは人の名前です。アンリに、サラに、マリーなど十種ほどの名前が殆ど」

「そうだろう、俺も来た時は戸惑ったもんだ。アンリ・ド・トゥルーズ=ロートレックなどアンリと言うのは何人も居ないよ。あいつの名前は全部覚えるのも大変だ」

「本当に長いわ、アンリ・マリー・レイモン・ド・トゥルーズ=ロートレック(Henri Marie Raymond de Toulouse-Lautrec)ですものレモンかムッシュー・ロトレックと言う人が多いわムッシュー・ド・トゥルーズ=ロートレックと言うのはフランスの人間でもめんどうだわ」

賑やかにカンカンが始まり最後の舞台の幕が上がった。


ヴァンドルディ、いよいよ清次郎率いるマドモアゼル七人のパリ出立の日だ。

ガール・ド・リヨン25日22時10分発ヴェネツィア27日6時10分到着予定。

32時間の鉄道の旅だ、正太郎は朝のうちにタカをモンルージュから連れてきて清次郎たちとロードへ昼を食べに行った、イレーヌから言われてこの間のお別れ会の時に11時に約束したのだ。

マダムが昔イトウサンが好きだった鯛の塩焼きと蛸のマリネとパエリアを用意してくれていた。

「あのイトウサンがモーリス・ルヴィエと同じプミエ・ミニストル(Premier ministre)になるなんて出世されたもんさ。フランスと違って一年に三人も代わるなんて事にならなければいいがね。ほらそこでマスダサンが骨をスープに出来ないかと残念そうな顔をしていたんだよ」
ママンは日本語が判らなくとも表情で気が付いたようだ。

この時の首相はモーリス・ルヴィエ、だが任期は12月12日までだった、後任は候補が多くまだ新聞も絞り込めないようだ。

フランス大統領はジュール・グレヴィー(Francois Paul Jules Grevy)任期は後僅か12月3日までで其の後は左翼共和党のマリー・フランソワ・サディ・カルノー(Marie Francois Sadi Carnot)が決まっている。

マスダは益田克徳でこのときは司法省フランス法制度調査団としてきていた、兄は益田孝、明治九年先収会社を改組して三井物産設立とともに同社の総轄(初代社長)に就任していた。

益田克徳は東京海上保険会社の支配人で最近は茶の湯に凝っているそうだ、妹に永井繁子がいてアメリカへ留学し、ヴァッサー・カレッジの音楽科を卒業、明治十四年帰国、翌年に瓜生外吉と結婚、文部省音楽取調掛に採用、昨十九年来東京音楽学校(現東京芸術大学音楽学部)、女子高等師範学校の後身の高等師範学校女子部(後の東京女子高等師範学校・現お茶の水女子大学)で英語と音楽を教えている。

明子たちが同じような道をたどれるかは留学期間が短いので無理であろうとは伊藤や陸奥が寅吉に話していた。

アキコは留学前寅吉やケンゾーから正太郎のパリからの手紙を読ませてもらっていたので岩倉使節団の事や司法修習生の事も少なからず知っているのでママンの話しが理解できるので楽しい食事となった。
この間はあまりにも多くの人で店が一杯でその様な話しをする間も、聞く間も無かったのだ。

12時を過ぎて店も混みはじめてきた、正太郎がママンに勘定を頼むと後でと言うので一同を連れ出してフランス郵船で荷物を送るのでM.ブリュツクに挨拶させると喜んで「荷物はわたし達が万全の手配をして安全に横浜へ届けます」にこやかに「馬車を捕まえさせるよ。三台でいいかい」と正太郎に念を押して、三台の馬車を捕まえてくれ乗り込んだ一堂を「ボンヴォワイヤージュ」と手を振って送り出してくれた。

タカの荷物は手提げだけで後はノエルが見送りの時に持ってきてくれるのでオテル・ダルブへ八人を送ると「8時半にダルブに来るよ。夕飯は早めにシャ・キ・ペッシュで軽く済ませるんだぜ」と約束してノートルダム・デ・シャン街へ戻った。

「ねえアキコ、ショウも気にしていないようだけどヴェネツィアで船を待つ間が1週間有るけど、イタリアの言葉をわかる人いるの。観光の通訳を雇ったほうがいいかな、其れとも誰か向こうへ着いてから雇うのかしら」

「聞いていないわ。清次郎が旅の管理を任されているけど聞いてみようか」
パリに夢中でイタリアのことなど誰も気にしていなかったのだ。

「僕も聞いていませんよ。フランス語かイギリス語で通じるんじゃないですか。其れと日程と旅の手配は殆どオウレリアさんがして兄貴がビエなどを買い入れたそうで僕は其の予約の書類を渡されただけなんですよ」

「まあ、清次郎様はのんきね」
タカに呆れた顔をされる始末だ。

8時20分正太郎が六台の馬車を引き連れてやってきた、一台はParis Torayaの社員の馭者とジャスティが乗った荷馬車で八人の荷物を其れに積み込んだ。

ノエルとミチの馬車にはタカの旅行鞄も積まれていてタカが其処へ乗り込み、正太郎は一家総出だ、残りの三台の馬車に七人が別れて乗り込んだ。

オテル・ダルブからリヨン駅まで馬車でのんびりと進みガス灯の灯りが揺らぐセーヌとの別れを惜しんだ、20分も掛からず駅に着いたのは9時10分。

ポルトゥールを12人呼び集めて大騒ぎで荷物を一等車まで運び、もう十年来付き合いのある旅行社のマダム・マルシエが待っていてくれポルトゥールを指図して席へ運ばせた。

「ムッシュー・ショウ、後忘れ物はありませんか」
列車の前に八人を並ばせメモとつき合わさせて大丈夫ですという返事に「之でお別れだ、清次郎の言うことを守って食べ物や水に気をつけて旅行を楽しんでください。それから蛇足ですが水は壜の栓をしてあってもいい加減なものを売りつけられる事があるので、いくらかわいそうでも水売りの子供から買わないように。清次郎は横浜に着くまで気を抜かないように頼んだよ」とそれぞれと握手した、ホームの前のほうでもイタリアへ出かけるのか何組も抱擁していて、別れを惜しむかのように窓越しにビズをする人たちがいた。

ノエルにミチもエメもさらに子供たちもそれぞれと抱き合って別れを惜しんでいると大騒ぎで来る一団があった。

マダム・デシャンにモモとニコラの夫婦にサラ・リリアーヌとラモンの夫婦だ、さらに後からジュリアンがモーリス・ベルナールとやってきて、ホームは大変な騒ぎだ。

十分前に席に着かせて窓越しに話しをしていると誰が歌いだしたかニコラの指揮でル・タン・デ・スリーズ(LE TEMPS DES CERISES)が歌われ、ホームの彼方此方でも其れが歌われている、列車の汽笛に負けずに野毛の山をニコラとラモンに合わせて正太郎までが手を振りながら大きな声で歌った。

ひとしきり野毛の山で車内の席も賑わった、夜の事もありいくつもの川を渡ったがどれがセーヌだったのか誰もわからないようだ、昼間なら方向も判るだろうが旧暦神無月11日では月も力が弱く舟歌が遠く聞こえるほかは汽車の蒸気機関の音とレールのゴトン、ゴトンという音が聞こえるだけでスピードも緩やかで汽笛もあまり鳴らしていない。

清次郎がディジョンに12時半ですが此処は5分停車で真夜中のマコンが40分停車ですと前もって渡してくれた時刻割を見ながらタカに話すほかはサラ・ベルナールやヴァルテス・ド・ラ・ビーニュの事にツール・ジャルダンの食事の事が話題だ。

隣でもアキコにヨシカたちがカルトゥで遊びながら同じように静かに話している。

リヨン駅では正太郎が見送りに来てくれた人たちに礼を言って馬車まで送った。

ジュリアンとモーリスが正太郎に話しがあると言うのでエメに子供たちを頼んでジャスティも連れて四人でキャバレー、オ・ラ・クワイ・アドールへ向かった。

子供たちの馬車が正太郎たちを見つけて窓から手を振って進んで行くのを見送ってヴォワチェリエに2フランを渡して中へ入った。
あい変らずキャバレーと言うより音楽付きレストランというほうが似合う店だ。

二階へ上がりシャンパンに鳥のグラタンにハムとサラダを頼んだ、ジュリアンは牡蠣と正太郎が言わなかったので満足げだ。

「実はショウの耳に入れておいたほうが良いとジュリアンも言うので」

モーリスがシャンパンを一息に飲んでそう話しを切り出した。

「アンリのことかい」

「いや其れは何の事」

「違うなら後で説明するよ」
一昨日は席を外していたようだ。

「バーツの事さ。一昨日あれからバーツの家に寄ったんだが、メールがもらった着物を羨ましそうに見ているのさ。其れをわざと見せびらかすもんだからショウが呉れたのは安物だから簡単に呉れたんだと言う始末さ」

「困ったもんだ、アキコのは横浜のマダムが二百二十両出して拵えさせたもんだぜ」

「ショウ、ジャポンでは今エンだぜ」

「そうだった。フランだと660フラン程度か、何度か袖を通したので半値と計算しても輸入すれば600フランはするだろうな。サラに贈ったヒナさんのは俺は値段を知らないがマダムの実家がゴフクの販売店だから同じくらいのものを合わせるように誂えただろうと思うんだ」

「あの青のフリソデは」

「俺のほうの卸し値段があの包みごとで580フランだが一度見本に着せたから400フラン程度かな」

「では小売の店で700フラン以上はするか」

「そうさ、大体指に2000フランはする石を嵌めて置いて強欲だ、首飾りだって送った相手が12000フラン出したのを知っているんだぜ。いい事をしてくれてもすぐ吝嗇の気持ちが持ち上がるのは昔と同じだ。でもあれだけいいワインにシャンペンを何本もあの店で飲ませればあの晩で2000フランは取られたろうぜ。サラは負担しなかったろうな」

ジュリアンとモーリスはバーツとの長い付き合いから、本来気が優しく鷹揚なくせに気まぐれのように吝嗇になるバーツには泣かされているのだ。

「あれはね。他の家族が12人で予約していたんだけれど、仕事の関係で5日ほど前に4人が急にヴィエンヌへ行くことになってね。お流れになったのをバーツが招待されていたので10ルイもらって自分の予約に切り替えたのさ。最初はワインを相手に全部持てと言った様だけど、そいつは勘弁しろと10ルイで手を打ったそうだよ。予約を取り消すのは簡単でもこの次良い顔をされないんじゃないかと心配したそうだ」

バーツは転んでもただでは起きないねと正太郎が言うとジュリアンが金の話しをしだした。

「銀行家のジョン・ウルフがな、最近バーツの金の管理も引き受けて何でもゼロが5つは硬いそうだ」

気を替える様にジュリアンの話にジャスティが「僕が聞いた話では其れも50に近いそうですよ」と昔の将校の仲間から聞いたと打ち明けた。

バーツの財産は増える一方だそうだがもうじきに40に手が届く年では其れも仕方ないだろう、サラは自分の劇場を持とうとエメと話が進んでいるようで、此方も金を稼ぐためには誘われているアメリカ公演に出る準備の調整が進んでいるらしいしイギリスで結婚した相手とは破局状態で連絡も取れていないようだが、離婚する必要も無いなどとモーリスが心配すると言うそうだ。

アランの決闘話を正太郎が説明し「之からイタリアまで追いかけても探し当てる頃には船の上さ」と皆で笑い転げた。

「しかし清次郎もショウと同じで女にもてるな」

「俺がか」

「そうさ、西園寺がヴィエンヌへ呼び寄せた下宿の女主人にもショウは随分追いかけられただろ」

ジュリアンは昔の事を持ち出してきたが「ロレーヌも気が多いな」といって「清次郎がいつのまにロレーヌとそんな関係になったのか不思議だ」とも言い出した。

ヴォワチュリエに5フラン渡し2台の馬車を呼び寄せると「ボンヌィ」と交互に別れジャスティは正太郎を降ろして家に戻っていった。

マコン午前4時40分着でマルセイユからの列車を待ち、5時20分発車で其の頃にはほとんどの部屋の人々は眠りに落ちている。

朝日が山の上を明るくして湖水が輝く中、其の湖を回りこんでエクス・レ・バンにようやく着いたのは11時、11時40分発と言うので外のトワレットゥは行列だ。

清次郎はアキコと二人で鉱泉水とサンドウィッチとチョコレートを人数分買いに行って窓際まで荷車を寄せてもらった、4エキュだという足りるだろうと10フランと5フランをわたすと3フラン寄越したので「メルスィ・ボク」と2フランをチップだと渡すと其の太った夫人はにっこりと笑って「ボンヴォワイヤージュ」と列車に乗り込む清次郎に手を振った。

1ルイは20フラン、1エキュは3フラン、1リーブルは1フラン、1スーは5サンチーム、昔の通貨との換算はフランスもややこしいようだ。

鉱泉水はこの街の特産品に入るとヨシカが旅行記を読んで教えてくれた、皆何度も読み返したはずだがこの街に温泉があることも書いてあった。

「此処にはローマ時代の公衆浴場も残っているんですって」
六人座り清次郎とアキコが通路で鞄に座って朝の食事をした、ヨシカは今朝から能弁だ長い鉄道のたびでテンションが上がってきているようだ。

「ボンジュール・マドモアゼル・ボンジュール・ムスィウ」

「まぁ、ムッシューは」

「そうミシェル・ユジーヌ・バルデュスです。初めての方もおられるようですが私の連れ合いのアリエルです。実はParis Torayaからの連絡がありましてヴェネツィアで買い付けのために10日間の出張を言いつけられましてね。僕よりアリエルのほうがイタリアの言葉が堪能なのですよ、特にヴェネツィアでは特別な言葉もありますので其れで二人ということにしてくれました。エクス・レ・バンに2泊して温泉を楽しみました、ここから同行をさせてください」
やはり正太郎はイタリア語特にヴェネツィアの言葉がわかる二人をリヨンから此処へ先行させて寄越したのだ。

アキコとタカにタマがミシェルと清次郎で一部屋、アリエルが他の四人と同室と決まりがついたところで丁度汽笛が響き列車が動き出した。

モダーム(Modane)はフランス、モダーナ(Modana)がイタリア式の名前、此処には税関がありイタリアへの入国者は此処で申告して荷物検査を受ける、酒にタバコの持ち込みが特に煩いと言うので荷物は正太郎が特に必要なもの以外は持ち込まないように言って有る。

モダーヌまでの峡谷はスリルの有る道中だ、14時35分に到着して粋な中年のイタリアの税関員が二人で車両に乗り込んできた。 
ミシェルと陽気に何事か話していたが旅行鞄は中をざっと見て検印の有る紙を張ってくれた。

アリエルが用意してくれたガトーとパンにリンゴで昼食にした、モダーヌ15時15分発トンネル・デュ・モン・スニ(Tunnel du Mont Cenis)は駅を出てすこし先で大きく右へカーブしてトンネルに入る、何度かトリノ、ヴェネツィアへ出かけているバルデュス夫妻がそれぞれの部屋でトンネルとモン・スニ峠の話しをしてくれている。

イタリア人の車掌がトンネルに入る前に窓を閉めるように言いながら歩いているが、寒さも厳しいので窓を閉めている一等車の部屋が殆どだ。

トンネルが開通するまでは真っ直ぐに線路がモン・スニの峠の下まで延びていたそうだ、このトンネル、フランス側はトンネル・デュ・フレジュス(Tunnel du Frejus)と呼ばれるそうでモン・スニ(Mont Cenis)とは峠の道のことだそうだ。

「むかしは其のモン・スニ峠を越えて往来したそうですよ。ほんの僅かの間モン・スニ峠を越える鉄道があったそうですが良く知らないのです」
ナポレオンが整備したナポレオン街道の一つで乗合馬車がランスルブールとスーザの間を結んでいたのだ。

フレジュス・トンネルは1857年着工で1871年9月17日に開通式が行われ10月26日にはパリとローマを結ぶ国際列車が走った。

トンネルの中で線路は上り勾配から下りに変わり45分ほどでトンネルを抜けると左手に川が流れ暫く其れに沿って下った、勾配はフランス側からの登りの方が長いようだ。

「反対にフランス側へは25分ほどでいけるんですよ。ヴィットーリオ・エマヌエーレ鉄道がモダーヌからの先の運営を担当しています」

「それで車掌さんが入れ替わっていたのね」
タマは好奇心一杯でミシェルがたじたじになるほど質問するので「こいつがイタリアで通用するコインです」と言って1ソルド銅貨(soldo)と5チェンテジモ銅貨、10チェンテジモ銅貨(centesimoサンマリノ発行)を配った。

「20ソルドで1リラです、5チェンテジモが1ソルドになりますがこいつはサンマリノ公国で作っていますがイタリアの何処でも通用します」
ミシェルは質問を逃れるつもりがルイ、リーブル、エキュ、スーなどのフランスでの昔の通貨の換算もタマに聞かれるままに説明させられる始末だ。

バルドネッキア(Bardonecchia)の駅は短い時間停車するとすぐに汽笛を鳴らして16時25分に出発した。

トリーノ(Torino)までの鉄道は殆ど森の中だ、山岳地帯から降りて来た鉄道は大きな町へ入った、バルドネッキアから3時間弱、パリではツリンとかチュラン(Turin)と聞こえる発音だったと清次郎が言うとフランスに昔何度も占領された事があるそうですよ、最近はナポレオンによってねと教えてくれた。

イタリアが王国として統一された時のイタリアの最初の首都だとイタリア側の旅行の本に出ているとミシェルが薄い冊子を渡してくれた。

「ここで商談をした時に其れより王宮を見てくれと、仕事よりサヴォイア家の王宮を回り郊外へ連れ出されて、さらに城や宮殿をアリエル共々見て回る羽目でね。どうやら新婚旅行と思われたようです」
ミシェルは可笑しそうに街へ入った列車が駅に停まるまでの間にそれらの事を話した。

19時12分に到着し35分には出発だ、駅は行き止まりで機関車を付け替え一等車は前に荷物専用車がある編成で発車し、いったん西へ向かいすぐ北上してセッティモ・トリネーゼ(Settimo Torinese)という街へ入った。

地図ではブランディッツォ(Brandizzo)という小さな集落を過ぎると「このあたり平らな様でも海から200m余りあるのですよ。緩やかですが降りなので機関車も楽が出来ます」とミシェルが教えた。

其の辺りから車窓は田園風景が続きミラノまで4時間ほどポー川の支流らしき北から南へ流れる川を幾つか越えてミラノへ向かった。

線路はいつの間にか回りこんで東へ向かいサンティア(Santhia)ヴェルチェッリ(Vercelli)という街を通り過ぎアゴニャ川とテルドッピオ川の間のノヴァーラ(Novara)という街へ入った。

「もう直にミラノですよ」
フランスの案内書にはミラン(Milan)でミラノ(Milano)がイタリアでの呼び名だ、同じようなミラーノという街があるらしい、こちらはヴェネツィアの北側にあるようだ。

街の中の線路は右回りにカーブして南下するとミラノ駅だ、23時20分着トリノと遜色の無い大きくて綺麗な駅だ、月は西へ傾きもうじき隠れそうだ。

「この街で見物をしだしたら際限がありませんよ。美術館に教会と数多くありますからね」

ブレラ美術館Pinacoteca di Brera

1809年より一般公開。1882年には国立美術館

アンブロジアーナ絵画館Pinacoteca Ambrosiana

1607年創立。1609年公共図書館として開館。1618年貴重コレクション寄贈、絵画館開館。

ポルディ・ペッツォーリ美術館Museo Poldi Pezzoli

ミラノの中心地マンゾー二通り。ポルディ・ベッツォーりは十九世紀の美術品収集家、死後1879年に建物と共にそのコレクションを市に寄贈。1881年美術館として開館したばかりだ。

 

バガッティ・ヴァルセッキ美術館Museo Bagatti Valsecchi

サント・スピーリト通り10番地/ジェズ通り5番地

近代美術館(Civica Galleria d'Arte Moderna

レオナルド・ダ・ヴィンチ国立科学技術博物館

Museo Nazionale della Scienza e Tecnologia Leonardo Da Vinci

1953年2月16日ダ・ヴィンチ生誕500年記念大展覧会をきっかけに科学技術博物館として開館 

ここでも機関車を付け替え清次郎たちの一等車はまた後ろが荷物専用車というパリを出た時の編制に戻った、23時40分発の列車は乗り込む客がいても殆どヴェネツィアまで行くらしく降りる姿は見当たらない。

ベローナに夜中の02時50分に着いた、もう月は隠れて星空は輝きを増している。

03時発ミシェルの話しが面白くタカにアキコは寝る間が惜しいとばかりにバイシクレッテの競技の事やリヨンの街の事を聞きだしていた。

其の傍で清次郎はうとうとしながらアキコの声が子守唄のように耳に心地よく聞こえていた。

「さぁ。一眠りしないとヴェネツィアで観光も出来なくなりますよ」
ミシェルがようやく話しを打ち切りタカはしばしのまどろみに落ちた。

ヴェネツィア・サンタ・ルチーア駅(Venezia Santa Lucia)は1861年開業、其の手前のヴェネツィア・メストレ駅(Venezia Mestre)1842年開業、此処で降りる乗客の為に3分停車し海をわたってヴェネツィア・サンタ・ルチーア駅へ6時10分、遅れも無く予定時刻に到着した。



サン・マルコ広場側右岸そのため駅は右岸となる、アキコたちの持つパリで手に入れた旅行案内にはそう出ている、有名なホテルはアルベルゴ・レアーレ・ダニエリ、ホテル・グラン・ブリタニア、グランドホテル、ホテル・イタリア、ホテル・ルーナ、など二十軒あまりの名前が列挙してあった(当時の表記・20世紀後半からは反対に駅からの表記が行われていて駅とサン・マルコ広場は左岸となる)。

まだ日の出前の駅構内はガス灯にランプで明るかった「思ったより暖かいわ」旅行服にモントーを羽織った一同は時計を見て「日の出まで2時間もあるのね」と話していたがアリエルに「時差は無いから時間は同じでもこの季節だとパリより1時間は早く陽が出ますよ。大体7時10分くらいかしら、日没は30分くらい早いかしらね」と教えられていた。 

一同が駅の改札を出てミシェルはファッキーノ(facchinoポーター)8人に荷物を運河まで運ばせ一人10ソルド(半リラ)を渡した、其の中から二人を指差して1リラで20分ほど番をするように言いつけて清次郎が残りミシェルが川蒸気を探してくるのを待った。

八人は待合室に落ち着くとタマが早朝から開いていた売店で買い入れた本を見て「この鉄道案内だと夕方ヴェネツィアに到着のパリからの特急が週に三本、朝の便はこの乗ってきた列車だけよ。どうして之を選んでくれたのかしら」とアリエルに聞いていた。

「あらご存じなかったの。朝日に輝くサルーテ聖堂を見てもらうためよ。ホテルに泊まってからではわざわざ朝日をラグーナに船を浮かべて見に行くなんて大変よ。でもね列車は週末のエクス・レ・バンへパリから来る人のために夜行になっていると旅行代理店の人が教えてくれたわ。今日は朝霧も無いし、いい日になるわよ」

ミシェルがゴンドラを二艘雇ってきたと報告して一同を引き連れて駅を出た「まぁこんな朝から営業してるのね」ヨシカは大燥ぎだ、パリを出てから普段より気が高ぶっているようだ。

朝の列車に合わせて数多くのゴンドラは運河に出ているが小さな物が多いのだ、小型の川蒸気は見つからなかったようだ。

鉄の橋の脇、フェッロービアの桟橋で一同を待つ二人のゴンドリエーレの乗る中型のゴンドラにはすでに清次郎たちの手で旅行鞄が積まれている、5人ずつ乗り組むと「プンタ・デラ・ドガーナ(Punta della Dogana税関岬)まで行ってホテルへチェックします」ミシェルが大きな声で伝えた。

運河は円を描くように右へ回り込むように進むと話しのように水が家の土台付近まで押し寄せている、ポンテ・ディ・リアルト(Ponte di Rialto)は大きなアーチのある石橋で上には店が並んでいる、其の先で運河はまたカーブを描き逆Sの字の様にくねっている。

バシリカ・ディ・サンタ・マリア・デッラ・サルーテ(Basilica di Santa Maria della Salute)は17世紀にペストで亡くなった人々を悼んで1631年から建築が始まり1687年に完成、11月9日に献堂式が執り行われたと本には出ていた。

船は其の聖堂を掠めるように進みプンタ・デラ・ドガーナの元のドガーナ・ダ・マール(税関)を過ぎると左手にバシリカ・ディ・サン・マルコ(Basilica di San Marco)パラッツォ・ドゥカーレ(Palazzo Ducale)が近づく、リヴァ・デリ・スキアヴォーニ(Riva dagli Schiavoni)には地中海航路の大型船が10艘ほど繋留していて其の周りにはヨットや小型の蒸気船が行き来していた、ゴンドラは右に舵をとると島の教会の下の桟橋につけた、其処はサン・ジョルジョ・マッジョーレ(San Giorgio Maggiore)だと船頭が教えた。
「向こう岸が埠頭でこっちが税関なの」
ハルが不思議そうな顔だ「あれは昔の塩の税をとるための館ですよ。今は税関としては使われていませんよ。インペラトーレ・ダウストリア(Imperatore d’Austriaオーストリア皇帝)という大層な名前のホテルですよ」フランス語がわかるのかゴンドリエーレが教えてくれた。

朝日が昇りヴェネツィアは輝きを増した、宮殿や聖堂の先端にも朝日が当たりだし、海面の波が陽の光でキラキラと輝きだした。
大型の帆船が白い帆を膨らませてザッテレの岸辺を離れて左から右へ通り過ぎた、正面左の鐘楼はキエーザ・サン・ジョルジョ・マッジョーレ、右側がピアッツァ・サン・マルコのカンパニーレ(鐘楼)、遠く山々には雪が降ったようで白くなっている。
8時来た時と同じカナル・グランデに入りゴンドリエーレがカンツォーネだろうか良い声で歌いリオ・ディ・サン・モイゼ先にあるホテル・グラン・ブリタニアにゴンドラを着けた。

二艘で40リラ、1フラン1リラだそうだが、一人4リラは安いのか高いのかアキコたちにはヴェネツィアの物価が良く判らなかったがアリエルが細かい出費はミシェルが払い、食事にホテル代は後でアキコが清算するように言い付かって来ていると車内で言っていたので任せていた。

「こいつはチップですぜ」
ミシェルは5リラの銀貨を二枚出して渡して清次郎に「普段は2リラで十分だよ」とゴンドリエーレにそうだよなという顔をした。

「其れで充分ですぜ、バルデシュの旦那」
どうやらミシェルは彼らにいい顔のようだ、なまってバルデュスといえないところがご愛嬌だ。

「さぁ、お待ちかねの朝食ですが。ホテルの食堂が開いていますから女性の皆さんは其方へチェックインを、清次郎さんは僕と同じホテルです」
桟橋にファッキーノたちが一行を見て集まってきた。

「一人1リラだがアルベルゴ・ステラ・ドーロへは二人が行ってくれるかい」
二人が前に出て「シィ」と大きな声で答えた。

「どうやらホテルは近いみたいね。嬉しそうだわ」
ヨシカとハルは日本語でささやきあった。

運河のホテル入り口から入りホールから3段ほど上がるとレセプシオン・ロビーとなっていて左側のリシェヴィメント(ricevimento)でアリエルが「ヴォンジョルノ。パリからアキコ・ネギシほか7名で4室の予約が入っているはずですが」と聞いた。

「ヴォンジョルノ。ようこそヴェネツィアへ。受け承って居ります」

「旅行鞄を預けて食堂で朝食をとりたいのですが、部屋は空いているのですか」

「皆様のお部屋は今朝のお着きと承り用意をさせて居ります。其の子達がお部屋まで荷物を運びますが其れでよろしいですか」
話しがまとまり部屋割りも決まりチェックインを済ませた。

清次郎とミシェルはグランド・サルーンに続くドアから、コルテ・バロッツィ(Corte Barozzi)へ出て自分たちのホテルへ向かった。

エレベーターで二階(三階)へ上がりファッキーノは階段で上がり割り振られた部屋へ鞄を置くとアリエルから一人1リラをもらい有頂天で帰っていった。

「30分したら食事にしますから支度が出来た人からわたし達のお部屋へ来てくださいね。旅行服は明日中には洗濯が出来ますから此処へ持参してくださいね」
アリエルとタカは201号室へ入ると交互にドッチャ(docciaシャワー)を使い服を着替えた。

このホテル贅沢にも予約した各室にドッチャがイル・バーニョ(トイレ、化粧室)に備えてあったが廊下のはずれにも共同のものがあるようだ、フランス式のアンバン(バスルームもバーニョbagno)は予約が必要だと聞かされた。

ドメスティカ(domestica)が201号室へやってきたのは30分丁度たってからだ、チップに1リラをもらうと八人の旅行服をワゴンに乗せて運んでいった、後を付いて部屋を出たヨシカが見ていると篭を背負うようにベルトを肩にかけて階段を降りていった、其れを皆に報告しながら四人ずつエレベーターで降りてレセプシオン・ロビーにでると清次郎とミシェルが待っていた。 

西向きの中庭の窓に面した食堂へ入り軽い食事をとることにしてサラダをたっぷりにスープと卵料理を頼んだ。

「さて駅の名前の由来のサンタ・ルチーアに会いに行きますか。それともサン・マルコに会いに出かけますか」

「本にはあそこにサンタ・ルチーア教会があったとかかれていましたけど、サンタ・ルチーアはナポリと違うんですの」
ヨシカとハルが本を取り出してアリエルとミシェルに尋ねた。

「ナポリはサンタ・ルチーアという波止場があってね。船頭が自分の船に乗って夕涼みしなと誘いをかける歌ですよ。イギリスのルーシー(Lucy)フランスだとリュシー(Lucie)なのだそうですが」

「其れは知っていますわ。シチリアのシラクーザという街の聖女と習いました」
ツネが普段と違い話に割り込んだ。

「色々な言葉に訳されていますからね。ナポリで歌われているのと僕たちが覚えているのでは違うみたいですよ。それでシラクーザのサンタ・ルチーアの教会はイタリアだけでなくヨーロッパの各地にあるのですが、スタッツィオーネ・ディ・ヴェネツィア・サンタ・ルチーア(Stazione di Venezia Santa Lucia)を建築するために教会は取り壊されたので、其処に安置されていたサンタ・ルチーアの遺骸は1861年にサン・ジェレミーア教会(Chiesa di San Gelemia  )に移されたそうです」

「シチリアから此処へはどうして遺骸が来たのですか」

「僕もアリエルも其れが不思議で人に聞いてみても誰も知らないのですよ。あまりにも昔の事で記録が残っていないのか教会が隠しているんじゃないですか。歩いて3分くらいですから、午前中にエヴァンジェリスタ・サン・マルコに会いに出かけてから昼食をとって2時間ほどの昼寝をして夕方の街歩きに出かけましょう。夕方にはサン・ジェレミーア教会へ行って明日は一度P&Oのヴェネツィア支店で乗船手続きがありますから其れが済んだらどこか行きたい所を相談して置いてください」

「サン・マルコはマーク・ザ・エバンゲリストのことですか」

「そうです。皆さんはボストンで覚えた聖人の名前と違う事が多くて戸惑うでしょうが、其れはパリで経験済みですよね」

「本当に困りましたわ。横浜で覚えた事がボストンで通じなかったりして困った事が多かったのですわ。亜米利加から来た先生に教わっている六人なのに違う言葉で教わったように船の中で話しをしてその違いに笑い出してしまうほどでした」
コーヒーを飲みながらミシェルの言葉を裏打ちした。

一度部屋へ引き上げて30分後にミシェルの定宿の前で落ち合うことになり各自部屋へ戻ると歩きやすい靴を選んで履いた。

ホテルの脇のドアからコルテ・バロッツィへ出てカッレ・ラルガ・ヴェンティドゥエ・マルツォ(3月22日大通りCalle Larga XXII Marzo)へ進むと右手がポンテ・サン・モイゼでミシェルがいつも泊まるアルベルゴ・ステラ・ドーロは橋の手前だ。

「この道は最近広げられたのよ、最新モードのお店が多いの。3月22日は当時の占領者オーストリア帝国に反逆してアルセナーレ(国営造船所)を占拠した記念日なのよ。確か1848年だわ」

広いと言ってもヴェネツィアらしく幅10mほども無く長さが150mも無い通りなのだが1880年に拡張工事が始まり翌年には完了している。

アリエルがタカと話しながらミシェルを探した、二人は橋のところで幾人かの男と立ち話をしていたが「連れが来たからまたな」と先に立ってキエーザ・サン・モイゼの裏側サリッツァダ・サン・モイゼからカッレ・ヴァッラレッソのホテル・チッタ・ディ・モナコとホテル・ルーナの間を通りラグーナへ出た。

「パリで原様が言っておられたグランドホテルは此処かしら。サン・マルコ広場の傍だとおっしゃっていたわ」

「わたし達が泊まるホテルよりすこし駅よりよ。此処はモナコとルーナなのよ」
フランス語に対応するヴェネツィアの言葉などをツネが質問し、それにアリエルが答えラグーナ沿いの道を進んでピアツェッタの二本の巨大な石柱が屹立している間を通り抜けたがアリエルだけは脇を抜けた。

パラッツォ・ドゥカーレを一度通り過ぎ鐘楼の先で振り返ると右の柱の上に昔のヴェネツィアの守護聖人聖テオドーロ(テオドロス)、左の柱の上にはヴェネツィア湾(アドリア海)をにらむ有翼の獅子の像があるのがようやく目に入った、朝の船は遠くを通り過ぎたのでポールの上をラグーナ側からよく見られなかったのだ、遠めに見ただけで望遠鏡でもなければよく判らないのと其処まで気が回らなかったようだ。

こちら側からテオドーロの顔を皆で見上げる中、ヨシカと清次郎はタマを誘って戻って見にいった、清次郎が望遠鏡を持ち出してきていたのでポールの上をラグーナ側からも見るようだ。

広場では噴水が吹き上げている「ヴェネツィアは私が居た頃はまだ水道が無かったのよ。家の井戸は共同で其処が空になると水を広場に汲みにいくか水売りを呼び込んで買うのに苦労したわ、私の家は運河に近いから水売りの船を見つける役目は私に上の妹の役目だったの。それに比べれば夏には氷を浮かべた水道水が飲めるリヨンへ引っ越した時はメールが一番喜んだものよ。ペールはアンバンではしゃいでいたわ」と感慨ふかげだ。

ヴェネツィアに水道がひかれるのはアリエル一家がリヨンへ移った5年後の1884年で、サン・マルコ広場での噴水が披露されたのは1884年6月20日のことだ。

この水道事業はフランスで1853年12月14日にナポレオン三世からの勅令により、ジェネラル・デゾー社が設立されリヨンでの水道事業を請け負い、1879年には国外にも手を広げ1884年にはヴェネツィアでも事業を展開した。

飲み水にはヴェネツィア独特のポッツオ(Pozzo井戸)に雨水をためる事が最近(1880年代)まで主流で下水道もパリのように普及せず19世紀後半に入ると浄化槽を設ける事が義務化されるが普及は遅れている。
ヴェネツィアで許可された水売り業者は其の井戸へ水を供給する事も義務付けされていたのだ。

「お風呂はどうしていたの。わたし達の横浜ではフロヤという街のお風呂があって普段自分の家で風呂を沸かして身体を洗うのはお金持ちだけでしたわ」

「マルセイユにパリではドウシュかベニュワール(Baignoireタブ)の付いたル・バイン(Le Bain浴室)のある家に住んでいたわ。ヴェネツィアでは桶に毛の生えたような物で身体を洗って居たのよ。ドウシュを使いたい時はメストレの知り合いの家に遊びに行くの、勿論マカロンにコーヒーを手土産に持っていくのよ。遊び人の独身男性はポンテ・デッレ・テッテ(Ponte delle tette)まで行くの」
そう言いながらミシェルを睨んだ。

「よせよ俺は行きゃしないぜ。それにあそこがそういう場所だったのはカサノヴァが居た時代だぜ」

アリエルはからかっただけの様だが200年前にはヴェネツィアの人口の10%が娼婦だったと書かれた本もあるのだ当時は11万人程度がヴェネツィアに住んでいたそうだ、テッテはおっぱいの事で共和国政府は娼婦に乳房を出してバルコニーや窓から身を乗り出すことを法律で決めていたのだ。

勿論その頃も一時滞在の観光客や商売に遠国から訪れる商人に船乗りが多く居たので、私生児も多く数多くの孤児院が経営されている。

「ライオンが多いわ、羽根が生えているわよ。それもあちらこちらに。あら旗にまで描かれているわ」
バシリカ・ディ・サン・マルコに祭られる聖マルコのシンボルが翼の生えた獅子だと本には出ているのだが実物を見るとつい声に出てしまうヒナだ。

「お嬢さんこの旗はヴェネツィア共和国時代の国旗ですよ。今日は日曜なので特別に掲揚されているんですよ」
親切が売り物のイタリアの青年が此処のところ習慣になっていたフランス語でヒナがつぶやいたのを聞いてフランス語で教えてくれた。

「グラーツィエ。フランスからおいでですか」

「プレーゴ。いえいえヴェネツィアに住んでいますが出身はローマです」

「まぁローマですか、一度は行きたい街ですわ」

「ぜひおいでなさい。貴重な遺跡にバチカンもありますからね」

アキコたちが大勢でドゥカーレ宮殿へ布告門から入り中庭の先には右に海神ネプチューンと左に軍神マルスの階段(Scala dei Giganti)、其処を上り下りしたり黄金の階段をしたから眺め、ファサードのモザイク画を見物していても其方が目に入らないかのようにヒナに付いてライオンめぐりを始めた。

「百年ほど前に塔に避雷針が設置されたり、1820年は先端の大天使ガブリエルの彫像が新しいものに替えられていますよ。ほらライオンは鐘楼の上にもいますよ」
二人は広場の端まで行ってカンパニーレ(
Campanile di San Marco鐘楼)を見上げて嬉しそうに話し合っている、後ろを振り返り「あの時計の文字が可笑しいわ。ローマ数字じゃないのかしら」と不思議そうな顔をした。 

「もう400年は経っていますからね。IIIIならばIという刻印を4回押せば文字盤の文字が作れるので省略したと話しが伝わっていますよでもWでも大差ないはずなので他の理由じゃないかな」
中々この青年博識だ、もしかして個人営業の案内人なのかしらと不安なヒナだ。

「ヒナさん、中へ入るわよ」という声で「グラーツィエ。アリヴェデルチ」とヒナは手を振って此方へ駆けて来た、ボストンでの経験が活きているようでこのようなときでも小物入れは肘にかけて手で押さえている。

聖堂の内外を金色のモザイクで飾りたて、教会内部にも太陽光が入り燦然と輝くモザイク画は幾つかの時代を感じさせる作風だ、聖マルコの遺骸は祭壇真下の石棺に収められていた。

「この聖マルコの遺骸について面白い話しがあるわ」
地下の宝物殿にサン・マルコ聖堂をモチーフにした小箱やガラス器、また聖人たちの遺物が収められていた、十字軍の遠征時代に集めてきた物が多いそうだ、それらを観ながらアリエルは聖マルコの遺骸がヴェネツィアへ来た時の事、遺骸が行方不明になった話しをして歩いた。

二階のテラスへの途中には様々な像や法衣が展示されていて中世のマニュスクリプト、四角ネウマと言う楽譜が飾られている「五線譜ではなく四線譜の上に、上昇音の時は四角を積み重ねて記譜され、下降音の時は菱形で記譜されるのよ」とツネにアリエルが教えている。

表に出て時計塔の右手へ行けばレオーニと言う小広場(Piazetta dei Leoni)、二頭のライオンが子供たちに人気だ、広場の奥のホテルの前にはテーブルが出されコーヒーで寛ぐ人たちが居る。

プロクラティエ・ヌオーヴェの回廊にあるアッラ・ヴェネツィア・トリオンファンテは表のテーブルまで人で溢れている、カッフェ・クアードリはガラス戸越しに覗くと席が空いていたので其方へ入った。

カッフェ・エ・ラッテを一同で頼みチョコレートムースのトルタを頼んだ。

この当時エスプレッソは無かったはずとウィキペディアで調べると次のように出ていた。

1901年にルイジ・ベゼラによって開発された。この特許を買い取ったデジデリオ・パボーニが1906年のミラノ万国博覧会に<ベゼラ>という名前で出品したのがエスプレッソの起源であり、1杯ずつ注文に応じて淹れる手法がトルココーヒーで既に定着していたイタリアで広く受け入れられたのである

昼は之で済ますと言うことになり二時三十分に迎えに行くとミシェルが言って一旦ホテルへ戻ることになった。

3時15分サン・マルコ広場前のヴァポレット乗り場から鉄道駅前のフェッロービア(Ferrovia)までの急行へ乗り込んだ。
カンパスが船首から煙突の前の舵輪を持つ船長の上、さらに船尾の船室まで被い15人ほどが両舷に別れて座り船室にも10人ほどが座っている、ポント・ディ・リアルトのヴァポレット桟橋で人が大分入れ替わった。

「ねえ、アリエル」

「どうしたのアキコ。もうお腹がすいたの?」

「アヴィーニファーメジャ?Avevi fame gia?

「もうタカもアリエルもなにを考えてるの、そんなはず無いでしょ。ヴァポレットのことだけどいつごろから運行を始めたの。アリエルの学校まで其れで通ったの」

「私がヴェネツィアに住んでいた時は運行していなかったわ。学校までは歩いて通ったのよ、30分も掛からなかったわ」

明子の傍にいた50歳くらいか髭の立派な紳士が「ブオン・ジョルノ。マドモアゼルそいつはまだ10年も経たんよ」と話しかけると「1881年ですわ。之が最初にルーアンから来たレジーナ・マルゲリータ(Regina Margherita)ですわ」と連れらしきマダムが教えてくれた。

「グラーツィエ、教えてくださって有難う御座います。フランスで作られたのですか」

「そのようですな。綺麗なフランス語だが東洋のお方のようですが」

「はいジャポンから留学して来てこれから一同で戻る途中ですわ」

「パリへ留学していたのですか」

「いえアメリカのボストンです。パリは一昨日まで25日ほど滞在しました」

「やはりジャポーネの人たちですか。わしは名誉領事をイル・ジャッポーネから任されているグリエルモ・ベルシェー(Guglielmo Berchet)という者じゃよ。日本の人からムッシュー・ペルセと言われて戸惑った事もあったがね。ヴェネツィアは何処で間違えたかウイニスというしね」

イギリスならヴェニス(Venice)、フランスでヴニーズ(Venise)、ドイツでは ヴェネーディヒ(Venedig)でそういえば原もウイニスと濁らずに話していたとアキコは思い出した、パラッツォ・ドゥカーレもパレス・デ・ドージェ(Palais de Doge)と説明していた事もだが其れは頭をよぎっただけで話は途切れずに続いた。

「まぁ、其れは存じませんで公使館がローマに引っ越した事は聞きましたが領事館があるのでしょうか」

「わしの自宅が領事館としての連絡場所じゃよ」

「然様ですか、明日のご都合は如何でしょうか。改めてご挨拶にお伺いしたいのですが」

「明日は1日中、学校に顔を出すので学校までこられれば会えますよ。学校には今は日本語教師としてHeizou itouという青年が勤務しているよ」

アリエルが話しに加わり「ブオン・ジョルノ。十年程前でしたが私の学校にもジャポネの先生が来て居られましたが私の卒業した年の春にお亡くなりに為られました。選択科目がちがうので授業を受ける事はありませんでしたがKorenao ogataという方でしたわ、トリノの学校へ留学して御出ででしたが此方へ教師として移られたそうでした、お知り合いのアン・ジャポネの画家の方からはジューローと呼ばれておられましたわ。学校はフォースカリ館でエコノミア・エ・コマーシォ(Economia e Commercio)です」と紳士に伝えた。

「其の学校じゃよ、経済商業高等専門学校のあるのがフォースカリ館ですな。ムッシュー・オガタは若いのに残念なことをしたものじゃ。画家というとムッシュー・カワムラかな」

「ええそうでしたわ。お元気かしら」

「ムッシュー・オガタの後の教師を引き受けて呉れたが、留学延期が認められずに6年前に帰国したよ」

アキコが「ムッシュー・ナガヌマが先生をしていたとパリで聞かされましたが」と原に聞いた日本語教師について尋ねた。

「ムッシュー・ナガヌマは今年の夏に帰国したよ。ムッシュー・イトウが其の後を引き継いでくれたのさ」

長沼は原に帰国する際に官員割引の手続きを頼んできていたのだ、国が負担して呉れ無くとも割引を受ける権利はあるのだろうが、ローマの公使館はいい返事をしてくれずヴェネツィアで案内をした原に頼んできたのだ、協定でナポリから一等で440ドルが374ドルと66ドル、2等でも50ドル割り引かれるのだ。

原は明子たちと其れほど長い時間話した事が無いのでかいつまんで話したようで名誉領事のムッシュー・ベルシェーの事も伝えていなかったようだ。

上げ潮に押されたのか40分ほどでフェッロービア・サンタ・ルチーアの停留所に着くと船員がロープを投げて船を係留した。

ムッシュー・ベルシェーは「わしの家は橋向のフラーリの前ですよ」と言ってアリエルにお判りですかと聞いてくれた。

「はい其のあたりは下校の途中で友達と遊んだ場所なのでよく判ります」

アリヴェデルチと手を振りカナル・グランデの鉄橋の階段を登る二人を見送り、キエーザ・デリ・スカルツィ(Chiesa degli Scalzi)の前をとおるとリオ・テッラ・リスタ・ディ・スパーニャというプレートのある通りへ入った。

此処の鉄の橋は鉄道駅の計画に合わせるように1858年の完成で石橋と違いアーチ状になってはいない。教会から見て左手に石の橋が掛かるのは1934年になってからだ。

キエーザ・デリ・スカルツィ本来の名前がキエーザ・ディ・サンタ・マリア・ディ・ナザレ(Chiesa di Santa Maria di Nazareth)という、ナザレの聖マリア教会と約すのがいいのだろう。

アリエルによれば通りの名前から此処が元運河だったことがわかるという、通りの中ほど右側にはパラッツォ・ゼーノ元のスペイン大使館の建物が残されている。

教会から200mも進めば広場に出て正面がパラッツォ・ラビア(Palazzo Labia)で其の右手に教会がある、サン・ジェレミーア教会(Chiesa di San Geremia)キエーザ・ディ・サンティ・ジェレミーア・エ・ルチーアとも呼ばれ、カナル・グランデ側の外壁にセント・ルチーア此処に眠ると書かれているそうだ。

1861年に此処に移され主祭壇に遺体が安置されたガラスケース、上を飾る金のルチーアの立像は花や蔦を象った豪華なもので燭台がガラスケースの両脇立像の両脇と上部に置かれている。

入り口は階段で数えると8段有った、清次郎とミシェルはすぐ飽きたようだがヨシカはアリエルが困るほど質問が続いた。

広場に戻りカナル・ディ・カンナレージョ(Canale di Cannaregio)の向こう側にあるヴァポレット乗り場に行くためポンテ・デッレ・グーリエ(Ponte delle Guglie)を渡ることにした、この橋は四隅に尖塔がありアリエルとアキコが話し合った結果グーリエは尖った塔の事だと判った。

「尖塔橋とでも言えば良いかな」
日本語でタカに伝えるとそのようねと相槌を打ちながら小銭入れからパリであらかじめ両替しておいた1リラを橋の脇にいる物乞いの中年の女性に渡し「Le altre persone non ti danno soldi」と伝えて振り返った。

「他の人は施さないでね。すこし多めにわたしたから。まるで横浜のかねの橋の渡り賃を取るみたいにいるのですもの、向こうの人にも私が代表して渡すわ」

橋を渡りながらアリエルとタカは今の発音と文で良いのかと話して橋の向こうにいる男の物乞いにも同じ「他の人は、あなたにお金を渡しません」と言って1リラを手渡した。

左に運河沿いに100mほど行くとグーリエのヴァポレットの停車場脇にゴンドラの乗り場があり10人乗り位の川蒸気も橋をくぐれるように煙突が短めに作られて係留している。

カナル・ディ・サン・マルコへ向かうヴァポレットが次は午後8時の最終まで無いと言うので駅まで戻るよりと時間貸しと行き先別と言うのでホテル・グラン・ブリタニアまでの片道35リラで約束して船を出してもらった、ヴァポレットなら一人2リラの区間だ。

船室は無いが中央の煙突はキャンパスを突き抜けていて煙が船客にかぶらないようにしてあり舵輪は船尾に有るのが小型川蒸気と同じだ。

ヴァポレットはヴェネツィア市が運営して居るが此方は私営の会社の組合があるそうだが料金は規定はあるようでミシェルは清次郎と相談して明後日一日借りられるかを船長と相談している。

川蒸気はカナル・グランデで左にまがり左手に近づく優雅なカ・ドーロをアリエルが教えると「朝のほうがゆっくりで良く見えましたわ。もう薄暗くてよく判らないわ」とヒナが不平を唱えたが「今日は無理でも3日ぐらいはゆっくりと見物で回れますよ。二手か信頼できる案内を雇えば二人くらいずつに分かれても良いですしね。カナル・グランデ沿いの説明を聞きながらゆっくりとゴンドラで往復するのも良いんじゃないの」となだめられている。

ピアッツァ・サン・マルコ(Piazza San Marco広場)のカナル・グランデに面したビアツェッタへ向かった川蒸気は向こうから来る大型のゴンドラや川蒸気を器用に右に舵を取り、声を掛け合ってすれ違っている。

ポント・ディ・リアルトでカナル・グランデは大きく曲がり其のすこし先で「リオ・ディ・サン・ルーカ(Rio di San Luca)」と船員が左手の運河を指差してから「スコルチャトーイア(scorciatoia)」と大きな声で笑って「こいつは通れない」と船を指で示してフランス語で教えてくれた「ラクルスィ(raccourci近道)のことよ」とアリエルがタカに教えている。

「出口はプンタ・デラ・ドガーナの正面のリオ・ディ・サン・モイゼ(Rio di San Moise)だわ其処からリヴァ・デリ・スキアヴォーニまで300mほどなのよ。朝に乗った小型の船は抜ける事が出来るの、ミシェルのアルベルゴやわたし達のグラン・ブリタニアは出口にあるのよ」

アリエルは運河の事も詳しいようだハルが聞くと「両親と妹二人の五人で4年間ヴェネツィアのゲットーの近くに住んでいたのよ、ペールの仕事の関係で私はマルセイユ、妹二人はパリの生まれなのよ。此処の次はリヨンなの其処でミシェルと知り合ったの。メールが寄宿舎のある学校へわたし達を預けたくないと一緒に渡り歩いたわ」と先手を打って答えている。

ボルタ・ディ・カナル(volta di Canal)で運河は大きく左へ曲がって船も波を受けて此処では揺れが大きい。

「ゲットーってユダヤ人の居住区のことですよね」

「そうよ、ゲットーという呼び方は此処ヴェネツィアが最初だったそうよ。でも私がここへ住んでいた10年前には其れほど制限されていなかったわ。学校のアミもユダヤの人が多くいたわ。住んでいた家は船に乗った桟橋の近くにあるのよ。高校は今通り過ぎたサン・トマ(San Toma’)の停留所の近くよ」

アリエルもミシェルもボストンで聞いた時に1859年生まれだと言っていたから青春時代を此処ヴェネツィアですごしたんだわとアキコはヒナに耳打ちした。

「それならわたし達がボストンで過ごした年代と同じくらいね」
ヒナは自分とアリエルを比べているようだ。

「夕食は重い食事よりもカルボナーラが好いわ」

ヒナがまた突然言い出した、いつものようになにがこの娘の思想回路を動かすのだろうと付き合いの長いアキコにも不思議な思いがした。

「パ・マル(悪くないぜ)。いいともいい店を知ってるよ。他の人も試してくださいよ。確かに今晩たっぷり食べるのは身体によくありませんよ」
ミシェルも賛成だと言い出した。

「ところで正式なフォークの使い方を知っていますか。まぁ右手でフォークを使う人は大丈夫でしょうが左手で使う人も時計の針と同じ方へフォークを廻すんですぜ」
左手の指でフォークを廻す様子が可笑しくてヨシカにツネなど大笑いだ。

「左手でフォークを回すのはマナー違反にはなりませんの」
ハルは左利きでいつも苦労しているのでそう聞いたようだ。

「マナーは知りませんがパスタ料理は普通右手にフォークですよ、右手にナイフは肉を切るくらいですかね」
アリエルはくすくす笑っている、下町育ちのミシェルはマナーなどと言うのは縁の無い暮らしだったのだ、どこかで聞きかじった知識なのだろう、結婚して6年まだ子供のいない夫婦は仲が良い事この上ないように見える。

ボルタ・ディ・カナルの先に鉄の橋が見え下を潜ると湾曲はそこまでで終わりだ。

グラン・ブリタニアの桟橋が空いていて其処へ着けて貰ったアリエルが5リラ銀貨二枚を「グラーツィエ、之はチップよ」と渡して最初に降りた、明後日の事も決まりどうやら大様に弾んだようだ。

「川蒸気のバトリエ(batelier船頭)でもゴンドリエーリ(gondolieri)と言うのかしら」

「残念でした。イタリアではバルカイオーロ(barcaiolo船頭)なのよ」

一時間したら迎えに来るとミシェルと清次郎は正面のドアからコルテ・バロッツィへ出て行きアリエルたちは一度部屋へ引き上げた。

サリッツァダ・サン・モイゼからそのままピアッツァに入り時計塔の下からマルツァリア・デロロロージョを通り抜けてカンポ・サン・ツリアンへ入り教会脇から150mも行かないうちにバルバネーラというバーカロがある、ミシェルを先頭に店に入った。

「ブオナ・セラ」

「ブオナ・セラ、ムッシュー・バルヂュスいつヴェネツィアへ」

「今朝付いたばかりさ5日は居る予定だ、この人たちは遠くジャポネから来ている人達だよ」

ここの人もなまっているがバルデュスと言える人はいないようだ。

それぞれが「ブオナ・セラ」と言葉を交わし三つのテーブルへ座った「カルボナーラが希望の人は手を上げて」とミシェルが言うと5人が手を上げた「では五つ、後はなにがいいのかな」とメニューを読み上げだした。

「それではオリーブオイルのボンゴレが五つミネストラは人数分だから10皿、サラダは任せるよ、あとでカフェ・コレット。おっとすこしのお酒でも駄目な人いるかい」
全員大丈夫だとツネが伝えた。

「烏賊のリゾット又はインテッチャは如何ですか」
給仕が他にも食べないか聞いてきたが「インテッチャかテーブルに一皿ずつ出してくれ採り皿を呉れれば分けるよ、今晩はそれだけで良いよ。次に来た時に色々食べるよ」と正太郎から聞いている日本人はあまり食べられないという話しを思い出して注文を打ち切った、パンが出るのでたりない者が居ても其れで充分と判断したのだ。

「ムッシュー、明日あたりからアックア・アルタが起きそうだと税関の人が噂をしていましたよ」

「本当かよ。そいつは参ったな」

「11月からはじめてのアックア・アルタだから80cmくらいの物でしょう。この時期ならシロッコも其れほど吹きませんしね。ボラが吹きそうだと漁師の爺さんとヨット遊びに来ているイギリス人が先ほどぼやいていましたが此方にはありがたい話しでね」

「なら此処もホテルのほうも大丈夫かな」

「何時ものですか。カンポ・サン・モイゼ付近は大丈夫でしょう。ピアッツァもそれほどでもないだろうという話しで月曜は早朝と夕方で仕事に支障は無いだろうと言っていました。其れより満月の火曜日のほうがボラも強く吹きそうで危なそうだと漁師の爺さんの意見でした」

「満潮の時に重なると漁にはまずいかなラグーナから出ると戻れないかもしれないぜ」

「水曜日だと朝の8時と陽の落ちた6時半くらいだそうですよ。遠くまでは行かない様です」
主と話して居るうちに料理が次々と運ばれてきた。

「ヴォーノ」という声が自然に出る、ボンゴレもカルボナーラも申し分なかった、全員がフォークを慎重に廻していたのでつい可笑しくなったアキコが笑うとミシェルも可笑しさが伝染したように笑い出した。

此処のカフェ・コレットはグラッパが入ってるのよとアリエルがツネに教えている、コーヒーにアーモンドの香りが漂う楽しい飲み物だ。
みなグラッパという名前を知らないようだったがお酒の名前だと感じたようだ。

アリエルが勘定書きを取り寄せると38リラ、ボストンなら13ドル、それではとても食べられない安い値段だが、此処はイタリアを含めて観光と商業の盛んなところで観光客目当ての店では倍も取るんだとミシェルが支払いをしながら教えてくれた。

「取り分け皿に一人分ずつ出て来た時はエッこんなに多いのと驚きましたが美味しくてたくさん食べられました」
ツネは之で夜食にケーキなど食べられるかしらと真顔でヨシカと話している、パリでアソルティマン・ド・デセールが付き物だったレストランで病み付きになったようだ。

アリヴェデルチの声でお店を後にしてカンポ・サン・モイゼまで来てミシェルに「わたし達はホテルでコーヒーとビスケットを頂くけどこっちへ来ます」と聞くと「いやセイジローと二人でアルベルゴのほうで飲むよ」と言うのを確かめて二人と別れてホテルへ入った。

「あんな事いってドゥ・ペルソンヌで飲みにいくつもりよ。こっちに8人分しか予約を入れてないのをいい事に普段仕事で来るアルベルゴなら融通も利くのでしょうよ」

「まぁ、アリエル。仕方ありませんわよ。いい遊び相手が見つかったつもりですわ」

ツネは世慣れたようなことを言ってアリエルと手をつないでグラン・サルーンへ入っていった。

「ねえアリエル、とても一日とは思えないくらい充実した日だったわ」

「本当に朝からよくあちらこちら回りましたものね。今晩は夢も見ないで眠れそうよ」

「其れでね、朝見た雪山、あれがスイスのアルプスなの」
ツネは朝のサン・マルコ広場のカンパニーレ越しに見えた山が目に浮かぶように話した。

「確かにスイスのモンテ・ビアンコまで続いているけどあそこはヴェネツィアなの」
驚く一同は「まさかぁ」と声をそろえてあんぐりと口を開けた。

「フフ、あそこのふもとにベッルーノ(Belluno)という町があって山の小さなヴェネツィアと呼ばれているの、アルプスに続くドロミテ山系の歴史の古い町よ。残念なことに行った事はないの」
なぁんだという顔の一同に優しく微笑み「其れで明日だけど私はP&Oの後で学校へ行きますけど皆さんもムッシュー・ベルシェーに改めてご挨拶に行かれますか」と優しく聞いた。

七人は行きますと答えたので「ムッシュー・オガタのペールはイル・ジャッポーネでも有名なお医者様だったそうよ」とアキコに知ってるかしらという顔で「どう」ときいた。

「緒方というお医者様で有名な方というと緒方洪庵という人がいました」

「何時ごろの人かしら」

「私の生まれる大分前の方ですわ」

ヨシカが「確か亡くなったのは文久だったから私の生まれる慶應の2年か3年前の年のはずよ」と言って1863年くらいじゃないかと皆で話し合った。

明治、慶應、元治、文久と指を折って確認していると「あの時25だったという噂だったから、それなら先生のペールに間違いなさそうね。ジャポンでは年もカンジで表すの」とアリエルが不思議そうな顔だ。

「今は天皇が一代で一元号と言って明治と言うのですわ、今年は其の20年目です。でもその前は縁起が悪いとか色々と理由をつけて替えていたので街の中では今が何の年か知らない人も居たそうです」

ツネが「今はグレゴリオ暦もわかる人が多いので其れを使って自分の年を計算できますわ」とアリエルに教えた。

「ねえアリエル其の先生のお墓は何処なのかしら。今日歩いたところや船で見た範囲では墓地が見えなかったけど」

「サン・ミケーレよ。船で15分ほど離れた島なのよ、蒸気船ならもっと早くいけそうね。ヴェネツィアでは亡くなると其処へ葬るの、ロンバルド=ヴェネト王国時代にそう決まったそうなの」
歴史の好きなツネが「其の王国はヴェネツィアの事なの」と聞いた。

「ヴェネツィアはナポレオンに征服されてしまうの、其のナポレオンが失脚した後この辺りは諸国会議でオーストリアに帰属させられたのよ。イタリアが統一された今でもトリエステはオーストリアに残されたままなのよ」

ヴェネツィア共和国(ウィキペディアより)

最も高貴なる共和国ヴェネツィア

(ヴェネツィア語: Serenisima Republica de Venessia

(イタリア語: Serenissima Repubblica di Venezia

通称ヴェネツィア共和国(Republica de VenessiaRepubblica di Venezia

カンポ・フォルミオ条約が1797年10月18日に調印され、ヴェネツィア共和国は正式に消滅。

ヴェネツィアを含むヴェネト州がイタリア王国の領土となったのは1866年10月12日ウィーン条約に拠ってだ。

「明後日だけど時間があれば其のお墓へお参りしょうか。私の友人のお墓もあるので通り道だから寄ってみたいの。ムラーノでヴェートロ・ディ・ムラーノ(vetro di Murano)を仕入れて、其れからブラーノでメルレットを仕入れないといけないの」

「ヴェートロはヴィニーシャン・グラスとは違いますの」

「同じ物なのよ。ムラーノで作られて輸出する時にヴェネツィアの名前で出てゆくの。リヨンのお店で扱うので今回は其の仕入れに来たのよ。少なくとも200ダースの買い入れはする予定なの」

「私も欲しいな」

ヨシカがボストンで見たグラスの話しをして「120ドルなんて値段がついていたわ」と語り話しはグランド・サルーンからアリエルの部屋に移っても続いた。

メルレットMerlettoはレース編み。

ヴェネツィアンレース((Venezianlace)は19世紀に入ると衰退していくが世紀後半、マルゲリータ王妃(Regina Margherita)の後援で1873年ブラーノのレース教習所がアンドリアーナ・マルチェッロ伯爵夫人(Andriana Marcello 1893123日死亡)の指導により開設され、ブラーノのレース生産が復活して、1875年には100以上のレースメーカが存在していた。 

ブラーノレースはレティセラやニードルレースをイメージした製品で規模を拡大していくが、20世紀に入ると大規模生産による製品の質の低下を招き衰退していった。

現在其の工場は残っていないそうでブラーノでは名前が残るが殆どが家内工業程度の生産しかしていない。


月曜の朝ミシェルはホテルへ顔を出してから朝霧の中を自分の商売に出て行った、主力はベベで5千体がパリから此処ヴェネツィアの取引先の倉庫に送られてきている。

1886年にベベジュモーを登録し、同年エミール・ジュモウがレジオンドヌールを授与された事で人気はイタリアでも上がってきていてパリはモントルィユの工場の従業員は350人、年間13万体の人形が製作されている。

ゴーチェ・エ・フィイにメゾン・ユレも含めての5千体だが昨日会った店員からの報告では3倍は取引が見込めるそうだ。

「俺としてはハイ・ホイーラーかローバーを売り込みたいが、此処では使いようもないし、メストレのほうでも年間500台以上は引き取り手が居ないのさ。ローマにナポリはイギリスからの商社ががっちりと押さえているんでね」
清次郎とその様に話し横浜でも今以上は無理のようだとショウがアメリカと手を結ぶほうに力を入れているから頼むよという話しをして昨夜はワインを酌み交わしながら話し合った。

アリエルに率いられた一同はリヴァ・デッリ・スキアヴォーニを東へ歩いた、ポンテ・パリアから建物をつなぐポンテ・デイ・ソスピーリを見た。
運河の上を渡りドゥカーレの尋問室と古い牢獄を結んでいる橋を見て「ホーゥ」という溜め息が出たのはハルとツネだ、ヴェネツィア案内を読んで覚えたようだ。

リヴァ・デッリ・スキアヴォーニは新しいホテルが目白押しだ、新しいと言ってもアルベルゴ・レアーレ・ダニエリは60年以上も営業が続いていて最近は新館も近くのホテルと契約して増やすほどの盛況だ。

リオ・ディ・ヴィンのポンテ・デイ・ヴィンを昇るとビットーリオ・エマニュエル二世像が聳え立つて居る、一番に上に出たハルが驚いた声で振りむいて「あらぁ、パリで見た岸辺の写真にはこの銅像は無かったわ」一同はヴェネツィアの案内を開いたが駅で買い入れた物にもパリで用意したものにも銅像は写って居なかった。

「いつのまに出来たのかしら。去年来た時は無かったのよ」
アリエルも首をかしげて銅像の下へ行ってみるとビットリオ・エマヌエレ二世に捧げられて、彫刻家エットーレ・フェラーリによって1887年に作製されたと書いてあった。

「まぁ今年出来たばかりのようね」

「之ってサルデーニャ王国がヴェネツィアを征服したと言うことも現しているのかしら」
サン・マルコの象徴のライオンも押さえつけられる様子が騎馬像の台座の下に現されていた、ダニエリの別館となったホテル・ボー・リヴァージュの前のヴァポレット乗り場の前で観光客が一番先に眼が行くところだ。

ダングルテールとヴィルトナーを通り過ぎてリオ・デイ・グレーチをポンテ・ディ・ピエタで渡るとリバァ・サン・ビアージョ、左手がペニンシュラ・アンド・オリエンタル・スチーム・ナビゲーション・カンパニー、通称P&O横浜ではイギリス郵船で通用する。

「ブオン・ジョルノ、わたし達はジャッポネーズィ八人で12月2日のロンバルディでアレキザンドリイまでの予約をパリでして来たのですが」

「ブオン・ジョルノ、ようこそヴェネツィアへ。ジェンティルオーモ、シニョーラ確かに承って居ります。船は明日入港致しますのでディチェンブレ(12月)に入りましたら荷物を積み込めますので30日までに持ち込まれれば此方で手続きをして船室まで運び入れておきます」

「グラーツィエ、今日は28日ですから明後日の朝に荷造りして持ち込みます」
どうやら清次郎のフランス語にイタリア語交じりの話も通じたようでアリエルがでるまでも無かったようだ。

乗船名簿への書き込みをしながらイギリス語で話しをしていると「イギリスの言葉がお出来なら其のほうが話しも楽ですが、私はアーチボルドといいます」と事務員が話しかけてきて其れからはイギリス語で話しが楽になった。

「船が出るまで観光ですか」

「ええ今日と明日は決まっていますが明後日はグループを幾つかに分けて案内人を探して回ろうと思います」

「それなら30日に荷物を運び込まれたら乗船が2日の15時で間に合いますからこちらで案内人を付けられますよ。二人くらいでもよろしいですか」

アリエルと清次郎が話し合って三組に分かれて一組はアリエルが付くことにし、其れでお願いしますということになり30日の10時に二人此処へ呼び寄せてくれることになった。

「ブオン・ジョルノ」
元気の良い声が後ろから聞こえた「ブオン・ジョルノ。ダヴィードいい所へ来た。君30日から3日間空いているかね。この人たちの観光案内を引き受けられるかね。フランス語が話せるかイギリス語が出来る者がもう一人居ればいいのだが」と聞いた。

「確かフォルトゥナートも明日で閑になりますよ」

「では30日の9時30分までに此処へ二人で来てくれるかい」

「判りました。フォルトゥナートが駄目な時は他の者でも良いですか」

「勿論だとも。任せるよ」
清次郎より背が高く栗色の巻き毛は其の青年を引き立てるのに役立っている「僕は美術学校に通っていますので勉強に教会巡りをいつもしていますが彫刻と絵画に興味のある方は僕を指名してください。フォルトゥナートは運河や路地に詳しいですよ」と売り込んだ。

P&Oのアーチボルドの勧めもあってかタマとヨシカはすぐにこの青年に案内してもらいたいと他の者に了解を取った。

ハルとツネはアリエルに頼みたいと言うので清次郎がタカはどうするか聞くと「フォルトゥナートさんでよろしいですわ」と言うので「では私も其の組で回りますがヒナとアキコは何処へ入ります」と二人に聞いてきた。

「私もフォルトゥナートさんの案内でよろしいですわ。それでアキコはどうしますの」

「私はスケッチなどしてのんびりすごしたいから、一人のほうがいいな」

「絵を描かれるのですか」

「ええ、ほんの少し自己流ですがデッサンの勉強を、特に建物専門ですわ」
いつも肩に掛けているセルヴィエットからスケッチブックを出して見せた、ヴェネツィアについてからまだ三枚ほどしか描けていないというのをアーチボルドとダヴィードに観てもらった。

「ルチーア駅の待合室に橋の向こうのピッコロですね」
ダヴィードはヴェネツィアの案内人らしくすぐに絵の所在を突き止めた「その場で描く時間が無いので後で記憶を頼りに描いたのですこし違うかもしれませんわ」と謙遜した。

アリエルは心配して一人歩きは駄目よと言うのだが他の者はボストンでもうろつき癖のあったアキコに其れほど心配でもないようだ。

「どうですかもう一人心当たりがありますがイギリスの言葉が出来ませんがフランス語が話せる男が居るんです。案内人の許可を取っていないので友人として一緒にスケッチをして回ると言うことで飯代を出してくれませんか。どうせいつも橋の絵を描いてぶらぶらしていますのでね」

「では其の方にお願いできますか。絵の具に筆をプレゼントするというので契約できますか。それとも現金のほうでよいですか」

アーチボルドが「クレメンテは金持ちの息子ですから食事を一緒にするくらいで充分ですよ」と言ってくれた。

「ところで音楽に興味のある方は居られますか、隣の建物はヴィヴァルディがウィーンへ移る前に住んでいた家ですよ、其の先の教会は新しいのですがヴィヴァルディが指揮をしていたピエタ音楽院の付属教会を移したもので音楽院の場所はホテル・カーサ・キルシュになっていますよ」

「まぁ、ピエタは教会だけになってしまったんですの」

「そうなんですよ。音楽院は無くなりました」
タカとアーチボルトは其のピエタの事を二人で話している間に他の者も手続きが済んだらしく「では明後日、アリヴェデルチ」とダヴィードと握手した。

アーチボルトは外まで付いて来てタカに隣の家の事にサンタ・マリーア・ディ・ヴィズィタツィオーネ教会が100年ほど前に移された事を話している。

ポンテ・デル・セポローロから戻りサン・マルコからヴァポレットに乗ってサン・トマへ向かった。
サン・トマの停留所で降りてカッレ・デル・トラゲット・ヴェッキオを進んだ一同は理髪店脇の細くなった路地を進んで突き当たると左のカッレ・デル・カンパニーレ・デッタ・チヴラーン・グリマーニと長い名前の道へ入った。

道の名前が張り出してあるがアリエルも首をかしげるヴェネツィア語や省略文字が多くタカと話し合っている。

「もうアリエルはこのあたりは庭のようなものでしょ」

「子供の頃は不思議と思わずに大人たちが言う言葉をそのまま覚えていたのよ。カッレ・デル・カンパニーレ・デッタ・CGなんて長い名前の意味なんて気にもしなかったしCampanileCampanielなんて普段気が付かないわよ。tour de la clocheなんてこの辺りにあったかしら」 

リオ・デラ・フレスカダまで50mほどの道だが回りは高い建物で運河の傍の小庭に陽が当たる様子にほっとした。
ポンテ・フレスカダで右手に曲がりファンダメンタ・デル・フォルネールを進むと鋳鉄製の手すりがついた瀟洒な橋があった。

ポンテ・デ・ラ・ドーナ・オネスタは同じ名前のトラットリアがある、まだ昼の時間には早いのか店は閉まっていた。
橋を渡ると細い路地がありアリエルを先頭に一人ずつしか先へ勧めないほど狭いので向こうから人が来ないかアキコは心配そうな顔だ。

中へ入ると左手に綺麗な小庭があり冬も近いのに真っ赤な薔薇が咲いている、30mほどでいきなり広い道に出た「ここはなんていう通りなの」とヒナは先頭のアリエルに聞いた。

「此処はカッレ・ラルガ・フォスカリよ」

確かに先ほどの路地に比べて広く明るい道だがそれでも8mくらいの物だ、ラルガとは広いと言うことだそうでボストン、ロンドン、パリと比べて幾らなんでも大げさだと思う一同だ。 

ポンテ・フォスカリと聞かれないうちにアリエルが教え橋を渡ると階段の先は下り坂、其の坂から隠すように高い塀がある、橋の際に入り口がありアリエルが其処を開けて一同を中へ誘った、校庭というには可愛いテニスコートほどの広さだ。

「この入り口は建物の二階部分よ」
アリエルはそう言って建物へ入り教員控え室のドアを開けて顔見知りがいるか探した。

「ブオン・ジョルノ、ミレーナ、ミレーナ」

「まぁ、アリエルじゃないの。珍しいわね、どうしたの」

「仕事で出てきたのよ、其れでね昨日ムッシュー・ベルシェーとお会いして、今日はここに居ると言うので一緒に来ているジャッポネーゼの人たちを案内してきたの」

「それならもうじき授業が終わるから31号室でお会いできるわ、確か4時間目は入っていないはずよ、ベルがなるまで此処にいなさいな」

「9人も居るのよ」

「大丈夫よ、適当に座っていれば良いわ」ミレーナという教師は50くらいだろうか興味深そうに一同を見ていたがフランス語で話しかけてきた。

「フランス語はおできになられますの」

「はい普段の会話くらいなら」
アキコが代表して答えた。
其れからは教員室に居た5人ほどがアキコだけでなくタカや清次郎を捕まえて質問攻めだ。

「ねアリエル。今晩は閑なのかしら」

「今のところ予定を入れていないわ」

「それならあの人たちと一緒に私の家で夕食はどう。7時に始めて10時にお開きと言うのはいかが」

「其れだと5時から食事の支度を始めないといけないわ。そんなに早く帰れるの」

「大丈夫よ。今貴方と同級だったソニアが子供と遊びに来ているの、明日の夕方に亭主が迎えに来るそうよ」

「では帰りに寄って話しをしておくわ」

「フフフ、其れがねお昼に此処へ来るから帰りにリアルトで買いものをして家に寄りなさいよ。あの人たちは食事の支度が済むまで見物してもらえば良いじゃないの」

「道に迷わないかしら」
心配そうだったがアキコを呼んで地図に印を付けてからどうわかりそうと聞くと「之なら大丈夫よ。それに一度家まで食材を運ぶのでしょ。10人以上もの食材を運ぶのにわたし達も一緒に行くわ」と言っているうちにベルが鳴ったのでアリエルは全員を集めて今の話しをして31号室へ向かった。

伊藤の授業は午後と言うので会えなかったがソニア親子と連れ立ってもとの来た道をたどりカンポ・サン・トーマに入った。

「どう此処までの道はわかったかしら」

「ええ、さっきの路地を右へ行けばサン・トマの桟橋ね」

「そうよ、此処からは少しの間曲がり角が多いのよ」
ソニアの娘のロゼッタはアキコと手をつないでニコニコと笑っている。

「ねえアキコ、私はヴェネツィアの言葉はよく判らないの。フランス語のほうが楽だわ。ミア・マードレとミオ・パードレと使い分ける事も覚えないといけないのにヴェネツィアの言葉まで頭に入らないの」

「大変ね、でも学校へ行くようになればすぐ覚えられるわよ」
フランス語にイタリア語を交えての二人の会話は言葉を教えあってつりあいの取れた会話になっている。

キエーザ・ディ・サン・トーマを半周するように進んでポンテ・サン・トーマを渡ればあちらこちら細い路地を抜けていく、カッレ・デイ・ノンボリから左へリオ・テッラ・デイ・ノンボリ、すぐ右に曲がるとカッレ・デイ・サオネーリという細い道で其の先にリオ・ディ・サン・ポーロに架かるポンテ・サン・ポーロの先は昼間から明かりを灯す商店が続くサリッザータ・サン・ポーロだ。

教会の後ろから進んで正面に回ると其処のカンポ・サン・ポールは大きな広場で縦横が80mと100mほどの広さがありそうだ、広場の右端をそのまま進んでソットポルテゴ・デ・ラ・マドンネッタは建物の間より建物の中のアーケードのほうが広い道だ。

リオ・デッラ・マドンネッタに架かる先細りのポンテ・デ・ラ・マドンネッタを渡ると其処はカッレ・デ・ラ・マドンネッタという商店街だ。

「あら此処、さっき通りませんでした」
ヒナがアリエルに追いついて聞いてきた「よく似ているでしょ。だから間違えやすいのよ」と二つの通りの名前を教えて「覚える方法はここにある商店の飾りしかないわね」と軒の飾りとマリア様の像を指差した。

カンピエッロ・デイ・メローニという細い路地というほうが似合う路地裏の広場に続く橋はポンテ・デイ・メローニで「之ならこの橋のほうが広いくらいだわ」とヨシカとツネが話し合いながらリオ・メローニを覗き込んだ。
潮が引いたはずなのに其処にあるゴンドラは橋の下を潜り抜けそうも無く両端に何艘も係留されている。

「どうするのかしら」

「向こうと此方で船の荷や人を交換したり、幾人かで船を沈めるように橋を押し上げるようにして潜るのよ」
そのソニアが手を突き上げる様子が可笑しいとくすくす笑う様子に周りに居た観光客までが笑い出してアキコたちに何処から来たか聞いてくる人も居る。

「まあ、ボストンに居たの、わたし達は去年遊びに行ったわ。家はニューヨークなのよ」
そう言って握手を求める老夫婦がいた「これからエジプトへ行ってピラミッドを見るんだ、今回は其処で引き返すんだがジャポンへも行ってみたいもんだ」と中々別れたがらない様子だったがグループが先へ進むと促してキエーザ・サン・ポーロのほうへ進んでいった。

カツレ・デル・パルドンはすれ違うにもゆとりはあるがこちらが二人並ぶと前から来る人をよけるのに前後に分かれるような道だ。
カンポ・サンタポナールは正面に教会があり日の光を受けたハサードがまぶしかった、ソニアがアキコに話しかけて真ん中のロゼッタは飛び跳ねるように歩いている。

「ヴェネツィアは本当に教会の多い街ですわね」

「そうなのよ。この小さな町に古い歴史があるし、ナポレオンが廃止させなければもっと多くの教会があったらしいのよ。慈善院も多い時は100以上もあったそうよ」

「パリも教会が多い街でしたわ。歴史の長い街は教会と共にあるようですわね」

「教区の維持も大変よ。昔のように大金持ちの貴族など残り少なくなったし100年以上も前にもうこの街は世界の経済から遅れだしたそうよ」

「それでピエタのような音楽院のある慈善院が無くなっていったんですの」

「あら、アキコはピエタをご存知なの」

「いえ、知っていたのは後ろから来るタカというパリ仕込みのマドモアゼルですわ。私は先ほど聞いたばかりの俄仕込みですのよ」

「昔、そう150年くらい前かしら、ヴィヴァルディのいた時代にはもう世界から後れだしたこの街は慈善院や音楽院を維持できる貴族のお金持ちが少なくなっていたそうなの、ワグナーはこの街でなくなったけどヴィヴァルディは確かウィーンでなくなったはずよ」

カッレ・デル・ルガネゲールを抜けるとカンポ・サン・スィルヴェストロ此処には先ほどの広場より大きな教会と白いカンパニーレが目立っている、リオ・テッラ・サン・スィルヴェストロ・オ・デル・フォンテゴはカンパニーレを回り込むように続いていて歩きやすい広さのある道でカナル・グランデに通じている。

「此処はリヴァ・デル・ヴィン(Riva del Vin・ワイン河岸)だけど運河の向こう側のリアルトの近く船着場がある所はリヴァ・デル・フェーロ(Riva Del Ferro鉄河岸)で、その右手がリヴァ・デル・カルボーン(Riva del Carbon石炭河岸)であのゴンドラが数多くつないであるところにヴィヴァルディが住んでいた事もあるのよ」

ソニアがタカに説明しながら先頭に出て歩いた、どうやらヴィヴァルディはヴェネツィアで色々な家に住んだようだ。
リヴァ・デル・ヴィンにはワインの問屋に壜詰めに缶詰の問屋などが連なっている、今も河岸から人足が荷を肩に担いで船から降ろしている。

その雑踏を抜けるとポンテ・ディ・リアルトの白い姿が目の前にある、橋にある商店の呼び声に客の声も橋の下の一同に届いてきた。
階段を登りリアルトから降りてくる人に混ざるように左へ降りると右手に青物の屋台が数多く出ている、大きなテントの下で綺麗に種別に並べる店屋と野菜の種類は少ないがうずたかく積み上げる店と様々だが午後の喧騒は始まったばかりだ。

「買いものをしてから家でお昼にするからもう少しまってね」
ソニアがロゼッタの手を引いたアキコのどちらに言うとも無く振り向いた。

ソニアとアリエルにタカがついて買いものに歩き回る間に、エルベリア(青果市場)・ペスケリア(魚市場)を覗いて歩いた。
小売もしているようで其処で買い物をする人もいてにぎやいだ様子は一同の心を弾ませた。

「アキコ、蝦蛄よシャコ、生きているのがたらいの中にたくさんいるわよ」
ヒナが飛んできて明子の手を引いた「ちょっとまってよ。シャコってヴェネツィアではなんていうの」と首をかしげた。

「お嬢さん其れはカノーチェと言うのです」
エッと後ろをふり向くと息を弾ませた日本人が居た。

「もう皆さん足が速くてやっと追いつきました。此処で出会わなければこの先はよく知らない場所なんですよ。申し遅れました私は伊藤平蔵と言います」

「まあ、それでは学校から追いかけてきてくださったのですか」

「そうなんですよ、生徒たちには休講の言い訳をして追いかけてきました」
青年はやっとの思いでそういうとほぅと息をついた。

「すこし待ってくださいね。清次郎がお話をしますから」
清次郎を呼んで暫くお相手をと頼むとヨシカにツネもやってきた。

「ねえ、ロゼッタはカノーチェは好きなのかしら」

「うん、好きよ、オリーブの香りもレモンも好き」
どうやら塩茹でにでもしてオリーブオイルやレモンをかけて食べるようだ。

「活きているのを見たことある」

「勿論あるわ。あの足をプルプルしてるのが面白いわよ。見にいきましょうよ」
清次郎にその話しをしてヒナと三人でたらいのシャコを見に行くことにした。

「ね、面白いでしょ」ロゼッタはもう食べたそうな顔だが「でも高くてたくさんは食卓に出ないのヴェネツィアのお婆様のところにきたときくらいしか食べられないのよ」とアキコ達にも好きなんでしょと聞いた。

「もちろんよ。ジャッポネーゼは塩茹でにしてソイ・ソースをつけて食べるのよ」

「ソイ・ソースってなに」

「ジャッポーネの調味料よ」

「其れ試してみたいわ」

「僕も久しぶりに醤油が欲しくなりましたよ」
いつの間にか伊藤と清次郎も来ていたようだ。

「醤油なら私の荷物に入っていますよ」

清次郎はそう言って「一度ホテルに戻って持ってきますからアリエルに言って買い入れましょうよ、一人10匹は食べられるでしょ」と伊藤のほうを見た。

「僕にもご馳走してくれるのですか」
ロゼッタも日本語はわからないのに雰囲気で買い入れるようだと気が付いたようで嬉しそうに「マードレたちを探して料理してくださるように頼んでくださいな」とアキコの手を揺すった。

広場に出て青物の屋台を見渡していると「キャッ」という悲鳴と「泥棒だ」という老婆の声が響いた。
人ごみを掻き分けるように背の低い痩せた男がすっと急ぎ足で出てきた、「どきな、どきな」という声はするが誰も追いかけてこない。

通行人の振りをして妨害をしている仲間でも居るのだろうととっさに思ったアキコはヨシカにロゼッタの手を預けると横へすっと出て男の手に財布を認めるとすれ違いざまに体をひねって右足で後ろざまに男の左足を踏みつけ男がぎょっとひるんだ隙に右手を絡ませてくの字に逆を取った。

「ペル・ディーオ、こんちくしょう放せ」という声もようやくの男にタカを先頭にアリエルとソニアに何人かの男たちが人ごみから出てきた。
アキコと男の周りは丸く人垣が出来ていたが「そいつの持っているのは私の財布よ」とソニアがアキコに伝えると男がもだえながら「こいつは俺の女房の財布だ。証拠でもあるなら出してみろ」と悪あがきした。

「痛いじゃねえか、足をどかせよ」
男が叫んだがアキコは言葉が判らないからもっと締め付けて見た。
男は右手でその財布を取ろうとしたがどういうわけか左手から財布が離れないようだ、仲間でもいて放り出そうとしたようだが自由が利かないようで呻いた。

「どうして離れないんだ」
背中合わせになっている男が、右手でアキコを叩こうとすると余計激痛が走る様子を追いかけてきたおとこ達も興味深そうに取り囲んでいるばかりだ。

役人がやっと来て事情を聞くと「その財布に私とロゼッタの写真が入っているわ」と年寄りの役人にソニアが言うと「それならわしが調べよう」と老人が財布を取ろうとしたが手から離す事が出来ないので「こら、お前の財布だというなら中身は何だ。放しなさい」というが男はうめくばかりだ。

やっと気が付いたアリエルがフランス語で「アキコ手を放してあげないと財布が調べられないわ」と言うので足を外すと手から財布がぽとりと落ちた。
老人が中を開くと確かにぎっしりとあるリラ札に銀貨が混ざり二人の写真とさらに亭主の写真が出てきた。

「確かにソニアの写真が入っているぞ」
その写真を手にかざして周りの者に見せてからソニアに返してくれた、どうやら顔見知りのようだ。

「最近ミラノから出稼ぎに置き引きに来ている仲間のようだ」
老人はそう言って若い衆にその男を任せるようにフランス語でアキコに頼んだ、何だ話せるんだと思いながら男を引き渡した。

男はペスケリアの方へ引き立てられていったが老人は後に残りソニアと何事か話してから後を追いかけて市場の奥へ向かった。

シャコの話しをロゼッタが熱心に言い出すとアキコが「20リラだと何匹くらい買えるかしら」というと「そうね50匹以上は買えるわね」と返事が来たのでアキコとアリエルにソニアの三人でシャコを売っていた魚屋へ向かった、幾ら何でも全員では相手も此方も駆け引きがしにくいわと言ってアリエルが笑いながらロゼッタに残るように言った。

「何匹いるの」

「200くらいかね」
その髭の青年は全部で50リラ欲しいと言い出した。

「ダメダメ、50匹で10リラがいいところよ」

「ジャ40でいいが正確な数はわからんよ。重さでいくかね」
二人は相談していたが「そのたらいごと家まで運んでくれる、うちのたらいに移し替えるわ」と申し出た。

「配達の物に2リラのチップをやってくれるかい」
髭の青年はソニアの家も知っているようだ、もうその声に手押し車を押して若い衆がやってきて其処へたらいを載せると広場まで出て三人を待ちうけた。

アキコが「此処は私に出させてね。人が増えてシャコは幾らでも食べそうなの」と財布から5リラの銀貨を八枚出して男の手に落とし込んだ。

八百屋で先ほど買い入れた物を受け取り次々に買い物をしながらもう一人手押し車の男を雇って其処へ荷物を積み込んだ。
魚屋で鯛があるのを見つけ「之も調理できる」と聞くと「任せなさい」とソニアが請け合うので其処に出ていた15匹をアリエルが60リラで買い入れた。

一同が歩くさまは周りの人も興味ふかげに付いてきて後から来る清次郎と伊藤に何かと聞いている。
其れを伊藤はいちいち叮嚀に答えているので切りが無いようだ、タカとヨシカはリンゴを紙袋に一杯買い入れている。

伊藤は「こんな大勢で夕食を食べられる場所があるのですか」と清次郎に聞いたが「僕も其れが心配なのですよ」と答えるしかないのだ。

ソットポルテゴ・デイ・リアルトが終わると左手にキエーザ・サン・ジョバンニ・エレモシナリオがあるのだが一同の目には入らない様でそのままルーガ・デイ・オレージを進んだ。
伊藤が清次郎にrugaはフランス語のrue(通り)と同じ語源だそうだと教えている。

100mほどでカンポ・ヴェッカリェに入ると肉屋で買いものをして其れをすぐ届けるように頼んだ。

「此処は昔屠殺場が有った所で今も肉屋が多いの」

「昔って何時ごろ」

「確か300年くらいかしら」
いや其れは500年も昔の話よとアリエルが訂正し、どっちにしても昔の事ねと笑いながらポンテ・デ・ラ・ヴェッカリェを渡りトラットリアの前を左へ回り込むとカッレ・デ・ラ・ベッッカリエへ入ってその先のカッレ・デイ・ボテーリを左へ進んだ。
建物の屋根が少しずつだが高さが低くなり一段と低い角の家でノックした。

「お帰り」

若々しい青年がドアを開けたが多くの人がぞろぞろと入ってくるのに吃驚としている様子が可笑しいのかロゼッタなどアキコの手を揺すって笑っている。

「こら、おしゃまさんなにが可笑しいんだい」
青年はアキコからロゼッタを引き取ると持ち上げてキスをした。

「だってクレメンテが吃驚した顔で見ているのですもの」
荷物を食堂に運び込ませて戻ってくると配達の若い衆にそれぞれ2リラのチップを受け取らせてからカノーチェを後100匹欲しいけど20リラとチップに3リラで請け負わないかと魚市場の若者に言うと「シィ」と簡単に受けあったので23リラをアリエルが出してわたした。

「大きな物が手に入るなら後5リラはずむから」
そう聞くと勇んで出て行った。

「なにが始まるんだい」

「今晩は此処でこの人たちの歓迎会よ。皆さんあら、一人はヴェネツィアにお住まいだけど後の方は5日後にジャポンへ帰る船に乗られるのよ」

「オー、ジャッポネーゼ、マルコ・ポーロの黄金の国の人たちだね」
アキコたちは日本にいたときは其れほどとは思えないマルコ・ポーロだがボストンでもパリでもその名前と日本を結び付けて聞かれる事でヴェネツィアの商人と言うことは知っていた。

「お暇があればイル・ミリオーネの住んでいた家など案内できるのですが」

「あら、クレメンテは橋だけでなく家にも詳しいの」
ロゼッタが首をかしげて聞いた。

「だってね橋を廻っていれば自然と家にも眼が行きますよ。おしゃまさん」
アラッというこえを出したのはアキコとタカだ。

「どうしたの。お腹がすいたの」
台所からアリエルが首を出した。

「其れもあるんだけど。クレメンテさんで橋に興味があるといえば」

「そういえば今朝聞いた名前だわね」

「僕の事がどこかで話題に上りましたか」

「今朝P&Oの事務所で聞いた覚えが、確かダヴィードとか言う人が」

「ダヴィード・フェリーニさんよ。あと一人フォルトゥナートさんという人を紹介すると言っておられたわ」
ヨシカが記憶力のよいところを披露して今朝の話しをクレメンテに伝えた。

「ダヴィードか、まだ話しを聞いてはいないけど僕は案内人の許可を取っていないもぐりですよ」

「ええ、其れはお聞きしました。私アキコ・ネギシと申しますが家のスケッチが趣味なのでそういうとクレメンテさんなら橋のスケッチが趣味なので丁度良いだろうというお話でしたわ」

「ええ確かにそれで僕は何人引き受けるのです」

「私一人ですわ。気に入った家や場所でスケッチをして回る予定ですの」

「では案内料は昼飯と夕方のバーカロでの一杯で如何ですか、できればチケッティも頼んで良いですかね」

「本当にそれだけでよろしいですか、ぜひよろしくお願いいたしますわ」

「ダヴィードから話しが来たら先手を打って貴方の事を知っていると脅かして置きますよ」
そう言って鼻をぴくぴくさせた。

「スパゲティが茹で上がったから皆さん食堂へ来てね」
急いで支度したとは思えない食卓にはパンにハムとサラミに野菜サラダが幾皿も用意されていて細めのスパゲティはアンチョビ(アッチューガ)とベーコンで和えてあった。

「ヴォーノ、昨晩食べたお店のもおいしかったけど之は別格に美味しいわ。病み付きになりそうだわ。横浜に戻ってからも食べられるかしら」

「アッチューガは壜詰めで売られているからもって帰れるわよ」

「それなら横浜で売れるくらい買い入れようかしら」
そいつは良いですねと清次郎も乗り気だ。

「其れとスパゲティと色々なパスタもどうかしら」

「ウーン、生は無理だから干した物となると同じ味が出せるかしら」
食べながら色々な事を話す一同だがロゼッタは市場での明子の武勇伝をクレメンテに話している。

ドアのノッカーの音にすぐクレメンテが出て行った「もうカノーチェを届けにきたのかしら」ソニアの言葉に「肉屋じゃありませんの」とタカが聞いた。

「其れはもう来たわ。いつも隣の家との境から配達してくれるの、窓越しのほうが手もかからないのよ」

「そういえばクレメンテは貴方とどういう関係なの。貴方兄弟はいなかったわよね」

「彼はロゼッタの従兄妹よ。と言うことは亭主の甥なのよ」

「そう僕はソニアのご亭主の姉の息子ですよ。今はこの家に下宿しています」

クレメンテが市場の若者を従えて食堂に戻ってきた、たらいには大きなシャコがうごめいている。

ソニアが先ほどのものにまいてくれと指図してみていたが大きさが気に入ったと5リラをわたすとスキップを踏むようにおどけて一同にオ・ルヴォワールと気取って投げキッスまでした。

タカが二人ではシャコの殻むきも大変でしょうから手伝いに残りましょうかと聞くとソニアとアリエルは大丈夫だといってくれた。

「隣の人に頼んだから大丈夫よ、あちらには大きな竈に大鍋があるのでいっぺんに茹でられるわ。街をうろついてきなさいよ、其れとロゼッタにクレメンテも一緒にホテルまで歩いて戻れば迷わなくて済むわよ。ホテルからリアルトまで30分もかからないから6時にホテルを出てくれば良いわよ」

時刻表の一覧を見て「サン・マルコが6時15分の急行があるわね」とソニアがクレメンテに其れでいいでしょと告げた。

「シィ」と肯いて「おしゃまさんも行くだろ」すると「シィ」と真似をしてロゼッタが肯いた。

「だけどこの家はどうして食堂がこんなに広いのですか」
ツネが疑問に思っていたことを口にのぼせた。

「ああ、其れはねこの付近は昔樽の工場だったのよ。此処がその親方の家で職人たちの食堂に使っていた場所よ、使いやすく改造したの。マンマがいつもお客を呼ぶのとご近所の集会所になっているのよ」


伊藤は友人を連れて来てもよいといわれ嬉しそうに「7時までに此処へきます。チャオ」と家の前で別れた。

リアルト橋から観る元のドイツ人商館、今はナポレオンによって税関となっているんですよと先頭のクレメンテがタカに説明して橋の欄干に寄りかかって一同を先に進ませた、清次郎がくると「どの道を通ってのんびり見物しても一時間もかからずホテルに着きますが、あちらこちら寄り道して2時間ほど歩きますか」と相談した。

タカはフレスコ画のはがれてまだらに為った壁を残念そうに見ていたが先へ進んで橋のたもとの物乞いに何時ものせりふを聞かせ1リラわたすと税関脇の河岸で清次郎を待ち受けた。
クレメンテは一同の先頭へ出るとその税関の路地を抜けてカンポ・サン・バルトロメオから建物の下のソットポルテゴをカッレ・デラ・バッサへ潜り抜けまた建物下を抜けてポンテ・サンタントニオへ出てきた。

建物の中からすでに10段以上もある階段が始まり橋の向こうは階段の先に建物が迫っている、リオ・デッラ・ファーヴァとプレートがあり運河に比べ信じられないほど幅の広い橋が掛かっている。 
橋の上でポント・リアルトはこっちの方向だとクレメンテが教え、アキコは時々コンパスを見ては空を見上げている「12mくらいありそうね」5人が手をつないでもまだ欄干に手が届かない「リアルトと同じくらいありそうね」とツネが言うと「長さが無いだけの事なのね」とハルが返した、午後の陽射しは暖かく何人もが橋の上で一休みしている。

橋の先は人で溢れている、三人並んで歩けない道を抜けるとキエーザ・ディ・サン・リオ(レオネ・マーニョ)にでる。

「ねえ、クレメンテ」

「なんですかヨシカ」

「橋がサンタントニオで通りはサン・アントニオなのはなぜなの」

「そいつは難しい質問ですね。カッレ・サンタントニオはほかに有ると言うのは答えに為りませんかね。ヴェネツィアは同じ名前の通りがいくつもあるので厄介なんですよ」

この通りが本当にその名前なのか疑うヨシカだ、30mほどの路地に名前があるほうが不思議な感覚に思うのだ。
サン・リオの右手はサリツァーダ・サン・リオという通りで商店街になっていたが其方は一同に覗かせただけで広場から続くカッレ・デル・ピストーアという通りを歩いた。

「此処はポンテ・デル・ピストーアでこの先も同じカッレ・デル・ピストーアが続いている道です」

二人が並んで歩くのがやっとの道だが橋は細い運河の上に2m足らずの幅に似合わぬ頑丈な鋳鉄製の柵が付いている。

家の下を潜り抜けて出た通りはカッレ・スカレタでイタリア語のスカレッタではしごのことらしい(Scaletta)、路地から出ると明るい運河が見える、先ほどサンタントニオで越した運河の続きで此処はリオ・デ・サン・リオ、橋はポーロという名で呼ばれているがポンテ・マルコ・ポーロ・オ・デル・テアトロというらしいとクレメンテもうろ覚えだ。

テアトロとはマリブラン劇場があるための呼び名で橋の右手に裏口が見える、この付近はマルコ・ポーロの一族の家があったそうで200年ほど前に火事で燃えてその跡地に劇場が建てられたそうだが今は改装中だそうだ。
元はテアトロ・サン・ジョヴァンニ・グリゾストモで50年ほど前にマリア・マリブランが此処で大成功を収めてその後に名前が変わったそうだ。

運河に斜めに架かる橋を降りてソットポルテゴ・デル・ミリオンを潜ると今日の目的のコルテ・デル・ミリオンで此処にマルコ・ポーロの家があったといわれているそうだとクレメンテは一同を前にマルコポーロの異名はil milione(イル・ミリオーネ・百万旦那)で東洋を紹介した本の原題でもあると説明した。

色々とマルコについてある事無い事を話しジャッポーネを黄金の国と紹介したんで今でもジャッポーネは黄金の家があると信じている人がいますとも言うのでツネなど信じられませんわわたし達の国の事と違うのではないかと言うので、どうやらヴェネツィア見物の客のために此処を指定したようですとも笑いながら話してカッレ・デル・ミリオンを抜けてサリッザータ・サン・ジョヴァンニ・グリゾストモまで出た。

「でもねツネ、パリでその話しを聞いて調べたけどマルコ・ポーロの時代に奥州平泉の中尊寺に金色堂というお堂があるそうよ」

「あ、その話私も聞いた事がありますわ」とアキコが言うとタマが「京都の金閣寺は」と言い出した。

「あそこは200年位後の時代ね」
日本語で話していたようでロゼッタが何の話しか聞きたがるのでフランス語に戻してクレメンテに説明した。

「やはりあるんだ」

「でも金で造ったのではなくて金箔を貼ったのよ」

「ジャッポーネの金箔は此方で造るより薄くて丈夫だそうですね」

「その様ですわ、随分前ですが私がパリへ来た時に一緒に来た人の留学費用にとジャッポーネから持ち込みましたら随分高く売れましたそうで」

「タカはパリへ留学していたのですか」

「はい私がパリへついたのは1873年の6月11日でしたから14年もパリに居りました」

「では随分と小さい頃に」

「ええロゼッタと変わらない年でしたわ」

タカは1866年5月生まれだから7才になったばかりでパリへ着いたのだというとロゼッタは吃驚した顔でタカを見上げた。

「お金が随分とかかったでしょうね」

「ペールやアキコのペールのおかげで百合根を扱わせていただいて私の留学費用どころか毎年三人の人の留学費用が今でも捻出されていますわ。今ではその資金から年に五万フランも配当がでるくらいになりました」

タカは帰国するに当たって自分の預金だけでよいと言ったがショウの勧めもあって配当金の積み立てを自分の資金に繰り入れ、残りをノエルの事業の資金にしてきたので日本に帰っても生活に困る事も無いのだ。

横浜で裁縫、料理などの日常生活に必要なことを教える学校の設立をするにも資金は必要だとノエルにエメも奨め、最低でも三十万は何時でも送金できる手はずを整えて残りを信託財産としてきたのだ。

ロゼッタは金額を聞いてもわからない様だがクレメンテのほうは五万の配当と聞いてやはりジャッポネーゼは金持ちだと驚いている。

キエーザ・サン・ジョヴァンニ・グリゾストモから元のカンポ・サン・バルトロメオへ向かい広場の向こう側で右手にあるキエーザ・ディ・サン・バルトロメオ前で一休みした。

「此処には16世紀のはじめごろドイツ移民の共同体の要請でアルブレヒト・デューラー(Albrecht Durer)が祭壇画の業務委託を受けてローゼンクランツフェスト(薔薇の冠の聖母Rosenkranzaltar)を描いたそうですが、後にルドルフ二世という人がプラーガ(プラハ)へ持ち去ったそうです」

プラハ国立美術館に有る画だが、名画への旅10 講談社では「ロザリオの祝祭」1506年アルブレヒト・デューラー162×194.5cmとされている画だ。

ナポレオン以降この教会は維持も難しく寂れた様子が見える、ワイン河岸から見えた鐘楼は此処の物だ。

侘しげなカッレ・ディ・スタニェーリへ入ると「ここはバイオリンの製作では有名な通りでした、今は残っている工房もありませんが」と残念そうだ。
リオ・デッラ・ファーヴァはポンテ・サンタントニオで渡った運河で今度の橋はポンテ・デ・ラ・ファーヴァと安易な名前で橋の向こう側がカンポ・デ・ラ・ファーヴァという小さな広場、橋から見える教会は左側が他の建物の陰に隠れている。

ツネは「ファーヴァ通りは無いの」と聞いている。

「ありますよ」

サンタ・マリア・ デッラ・コンソラツィオーネ(デッラ・ファーバ)とも単にキエーザ・ディ・サンタ・マリア・デッラ・ファーバとも言うそうだ、もぐりというがクレメンテは橋が専門というのに教会も詳しいようだ。

「さて右へ行きますか、左へ行きましょうか」

ツネが「教会の脇を通れるの」と階段を登って左の建物との間を覗き込んだ、向こうから何人もの人が出てきて驚いて戻ってきて「右にしましょう」と言うのでアキコとロゼッタを先頭に進んだ、ツネに「今の道の先がカッレ・デ・ラ・ファーヴァですよ。どうせアキコが向かった先は突き当たりですから」と説明して先へ行かせると清次郎とクレメンテは一番後から進んだ、清次郎はどうやら遅れるものがいないように一番後を歩くことにしたようだ。

小さな中庭のような広場のようなところを進むとカッレ・デ・ラ・マルヴァジーアというプレートが正面に貼ってある、其処へ突き当たるとアキコは迷うことなく右へ進んだ。

突き当たりは運河でリオ・ディ・サン・ツリアンとプレートが有る、左側に運河沿いの道、右手に橋への階段があり登ると鍵の手に曲がって橋が架けられている。

ポンテ・デ・ラ・マルヴァージアを渡ると橋の倍の広さの道がピッシーナ・サン・ツリアンで運河に沿った道もあるようだ。

「セイジロウ、この道の由来はプールを意味する語で、池に潟や運河を埋め立てた広い道の事を現しているんですよ」

「リオ・テッラとは違うようですが、ヴェネツィアに池もありますかね」

「池は見当たりませんね、ラグーナが後々まで残っていたんでしょうね」

また突き当たりで今度はどうしようとロゼッタを見ると左を指差したので其方へ曲がると小さな広場が有る「カンピエッロ・サン・ツリアンですよ。昨晩出かけたというバーカロはその左のアルベルゴの先になるはずです」クレメンテはアリエルの話しを覚えていてそう説明した。

「では僕のアルベルゴまで後僅かですね」

「そうじかに行けば10分ほどですからその教会を訪ねますか」

ポッツオが真ん中にありその先の壁が教会だ、右手に回ると不思議とカンピエッロより小さいがカンポ・サン・ツリアンだとクレメンテは説明した、周りの商店は日暮れまで時間はあるが明かりが灯されだしていて、午後の陽を受けて教会正面は明るく照らされている、入り口の上にはトンマーゾ・ランゴーネの像が飾られている。

「この人学者みたいだけど聖人なの」

「いえいえ医者で占星術師だそうですよ。教会はサン・ツリアンです。聖ジュリアン(San GiulianoSt Julian)のことです」

天井にはサン・ツリアンが描かれていて、正面には大理石の祭壇があり、右に聖母マリアとマグダラのマリアのテラコッタが置かれている、ナポリで生まれたとされるサン・ツリアンはマルタで崇拝が始まった。

司祭の平服の老人と50くらいだろうか柔和な表情の人がクレメンテたちに気が付き近づいてサン・ツリアンがキリストに許された話しをしてくれた。

自分たちの名前と出身地を話すと若い方の司祭が「今日はマントヴァから出てきたジュゼッペ・サルトですじゃ。此方は」というと「サルト司祭のお仲間のドメニコ・アゴスティーニというヴェネツィアで奉仕している老いぼれだよ」と手で抑えるように自分で名前を教えてくれた。

タカが若い司祭に跪いて履いていた靴にビズをした「どうされたのかな」と年老いた司祭がタカに尋ねた。

イタリア語がやっと幾つか話せるというタカが何事か二人に告げているが其れはアキコたちまで聞こえなかった。

二人はタカに祝福を与え立ち上がらせて「貴方の国の人にも祝福を」とマリアを称えた。

ロゼッタが進み出て跪いたので二人は同じように祝福を与え跪く一同に次々と聖水を降りかけてくれた。
其の雰囲気に呑まれたかのように教会を後にして道をマルツァリア・デロロロージョに入った、そのまま進めば時計塔の下を潜りピアッツァ・サン・マルコに入る。

広場の隅のカッフェ・フロリアンの脇を抜けてカッレ・ラルガ・デ・ラサンシオンを横切りサリッツァダ・サン・モイゼの賑やかな通りへ出た。

教会と広場の先の橋を渡り清次郎がアルベルゴのフロントでミシェルが戻っていたらクレメンテと此方で時間を見て迎えに行きますと言って二人でステラ・ドーロに入っていき「戻っているそうです。5時半にブリタニアに迎えに行きますからロゼッタをよろしく」とクレメンテがロゼッタにも「アキコとタカにお菓子でもねだりなさい」と「チャオ」と手を振ってアルベルゴへ戻った。

ロゼッタをタカが預かりパリのお土産の中から綺麗なフラールで柔らかな金髪をくるんだ。

「嬉しいわ、頂いてもいいの」

「いいのよ。ジャッポーネには同じものを20枚色と柄違いで送ってあるのこれはあなたにお似合いよ」

そう言って「さっきはどうして貴方も跪いて礼拝したの」と椅子に座らせてショコラボンボンを出して訊ねた。

「あの方、お婆様と同じファミリーネームなの」

「あら、そうだったの。確かドメニコ・アゴスティーニでしたわね」

「ええ、おばあさまはミレーナ・アゴスティーニなのよ。タカはクリスチャンなの」

「ええそうよ。パリへ入ってから洗礼したのよ。ルチア・タカ・サカザキと言うのよ」

「私はモニカよ、モニカ・ロゼッタ・バルツァッリ、ミア・マードレはマリーサ・ソニアなの」

「マードレ・ボニータで良いわね。私のお母様も優しくてとても綺麗ですよ」
そう言って色付けされている写真を出して見せた。

「まぁ綺麗。これ絵なの」

「いいえ写真にその日着ていたキモノというジャッポネーゼの服をそのままの色で後から書き入れてあるの。お顔だけはすこし白すぎるようだわ」

ノックがしてアキコが入って来た「後15分くらいで迎えが来ますよ」ともう出られる様子なので二人も鏡で身だしなみを点検した。

ノックの音がしてソニアが玄関まで出て行った。

「チャオヴェッチョ」と威勢良く入って来て「チャオベッロ」と返すクレメンテに肩を抱き合ってからようやくアキコたちに気が付いた顔のダヴィードとフォルトゥナートに一同は爆笑で出迎えた。

「どうなっているんだい」

席についてワインを奨められ食事の皿を渡されてからクレメンテから聞かされた説明でようやく納得のいったダヴィードとフォルトゥナートだ。

「カノーチェはいかが」

シャコの茹で上がった物を幾人もがむいてくれたそうでソテーをしてオリーブオイルであえた大皿がどんと出されて其れをミレーナが各自に取り分けてくれている。

オリーブオイルをかけず茹で上げただけの物も出てきてアキコたちだけでなくソイソースで試す者もいる。

「どうジャッポネーゼの調味料は」

「うん、こいつは赤ワインと合いますね」

白ワインで魚介類と思っていたものもいるようだがミシェルが話しを聞いて持ち出してきたボルドーのワインは好評だ。

伊藤は連れてきた松田幸吉と名乗った青年と割り当てられた10匹をあっという間に食べつくしてオリーブオイルがかかった物も良いですかねと断ってソイソースをかけて試している。

「こいつはいいな。レモンの代わりにソイソースがあれば何時でも何処でも試すことが出来るのに」

「それなら僕達の代理店へいえば間に合うようにして置きますよ」

波佐見焼きの醤油壜は三合ほどでJAPANSCHZOYAとかかれている、ついでにヴェネツィアでも売り出してみようかとアリエルと話し合った。

「ヴェネツィアでも売っていたはずなんだけど、何時でもあるというわけじゃないのかしら」

「僕は見た事も聞いた事もありませんよ」

伊藤と松田は顔を見合わせて確認して返事をした、江戸時代には通称コンプラ瓶の酒と醤油は長崎出島から大量に輸出されていたのだ。

コンプラ仲間(金富羅株仲間)が行っていたオランダ東インド会社への輸出のほか薩摩藩の密貿易も含めるとそんなに売れるのかというほど出回っていたらしい、ソイとは薩摩弁だと聞いた事が有る。

ミシェルはリアルトに有るParis Torayaの代理店を教え「リヨンに戻ったらムッシュー・イトウのためには3本送って置きます。遅くも来月のディエーチ(10日)には届くはずですから名前を言えばもらえるようにして置きますよ」とその分はプレザンですからただですよと安心させた。

ロゼッタも大好きだといっていたように両方で10匹は食べている、子供とは思えぬ食欲にアキコも吃驚しているしソイソースをつけておいしそうに食べるさまは母親も「オヤオヤ、一杯食べたわね」と呆れ顔だ。

デンティーチェ(鯛)のグリルも出て食卓は賑やかだ、ミレーナが付き合いの有る隣人たちもバイオリンを持ち込んできてカンターレで場を盛り上げミシェルも歌を披露したし、アキコ達にもリクエストが掛かりアヴェマリアを披露したあと留学生一同がボストンで覚えたフォスターを何曲も歌った。
オースザンナ(Oh Susanna)、キャンプタウンレース(Camptown Races)は手拍子もでる盛況だ。

サンピエールという魚は隣のマドンネッタと呼ばれている婦人が調理したと持ち込まれてきたが特に男たちにはとても好評で婦人は得意げだ。

「売れ残りだけど新鮮な事は請け合うよ。船の到着がせりに遅れて売りそこなっただけなのさ」

清次郎が高いのではないかと心配してアリエルに「お金を出さなくとも大丈夫なのですか」と聞くと婦人は市場の下働きだそうだがソニアが市場で野菜を買う時に声をかけて何かいいものがあったら買い入れてあとで清算するからと20リラ渡したから足りなければいうでしょと清次郎を安心させた。

フェガト・アッラ・ヴェネツィアーナ(レバーとタマネギの炒め物)にステーキが出た頃にはもう駄目というヨシカやツネたちだが、タマは「まだいけるわ」と魚が苦手だった分付き合えそうだ。

話は正太郎のパリから大分ときも過ぎました。
横浜幻想のアンテロープ編の1872年(明治5年)からだと12年後(第1回時点)の横浜です。
今回の話の中心は了介と明子になります。
2008年12月05日其の一あとがきより        阿井一矢

2010年12月28日 了

幻想明治 第一部 
其の一 洋館
其の二 板新道
其の三 清住
其の四 汐汲坂
其の五 子之神社
其の六 日枝大神
其の七 酉の市
其の八 野毛山不動尊
其の九 元町薬師
其の十 横浜辯天
其の十一
其の十二 Mont Cenis
其の十三 San Michele
其の十四 Pyramid

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