酔芙蓉 第二巻 野毛

 
 酔芙蓉−第十部目次 弁天 3  根岸和津矢(阿井一矢)

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年5月5日―1867年6月7日 金曜日

弁天 − 唐橋
瀬田の夕照(せたのせきしょう)広重

慶応3年5月5日―1867年6月7日 木曜日
弁天 − 唐橋

五節句のひとつ端午の節句は菖蒲の節句、男子の節句と言われますが元は女性のための節供で旧暦の五月の最初の午の日に行われていました。
薬草摘みを行い、摘んだ蓬や菖蒲を門口に飾ったといわれています。
菖蒲(ショウブ)の語が「尚武」に通じるとして武士の台頭に従い、庶民にも浸透し立身出世を願い幟や兜飾りを行うようになり男子の節句へと変化しました。
桂川連理柵 (かつらがわれんりのしがらみ) 
38歳の帯屋長右衛門と14歳の信濃屋お半の恋、「お半長右衛門」「お半長」と呼ばれ、人々に知れわたりました。
お半長右衛門の情話についてはさまざまな説があるそうです。
京都、新京極誓願寺の墓地には、二人の墓と伝える墓標があります。
その刻銘は宝歴11年(1761年)です。
安永5年(1776年)菅専助により「桂川連理柵」が書かれました。
京都柳馬場押小路の帯屋長右衛門は隣家の信濃屋の娘お半の伊勢参り下向と石部の宿でゆきあって同宿します。
その夜、お半はお供に連れてきている丁稚の長吉にいいよられ、長右衛門の部屋へ逃げ込み匿った長右衛門と契ってしまいます。
日本の三名橋 
瀬田の唐橋は、京都の宇治橋、山崎橋とともに日本の三名橋に数えられています。
近江八景の1つ「瀬田の夕照」で有名な瀬田唐橋は擬宝珠の銘から天正以後、江戸文久元年(1861年)に至るまで16回の架け替えが行われたということがわかったそうです。
それ以前は琵琶湖に遠い瀬田川下流にかかっていたのを、秀吉が現在の位置に架橋したと伝へられています。

慶応3年5月29日―1867年7月1日 月曜日

弁天 −イエローボーイ 
教授も謝っていますが、アイにはさらに分けがわからない銃のことなの〜〜。

慶応3年5月29日―1867年7月1日 日曜日
弁天 −イエローボーイ  


紀州藩明光丸 旧名バハマ号百五十馬力、八百八十d、長さ四十二間、幅五間
大洲藩いろは丸、旧名アビソ号はイギリスで製造(1862年)された四十五馬力・百六十d、長さ三十間、幅 三間、外輪船
Winchester lever action rifle イエローボーイ 
1866年のウィンチェスターライフル銃は44口径リムファイアーです。
レバーアクション式の草分け(レバーを押し下げると、空薬莢が上部から飛び出し、レバーを戻すと次の弾薬が装填される)ヘンリー連発ライフル銃から発展して作成されたものです。
ヴォルカニック・ライフルを改造したヘンリーライフルは16連発でした。
ウィンチェスター・モデル1866・44口径カービンはYellow Boyとして名が轟き、インディアンは、それをSpirit Gunと呼びました。
1866年から1873年まで改良を続けながらおよそ17万挺が生産されました。
本文の単位の読み方
ライフル  長さ 24 1/4inch O.A.L. 43 1/4" 重さ8 lbs. 8 oz口径 .44-40
24 1/4inchは1インチ=2.54cmなので61.6センチ 
8 lbs. 8 ozは8ポンド8オンスなので1ポンド=16オンス=0.454kgで換算すると3859グラム
口径は銃腔の直径のことで44・40は、44−40口径(11.4o)を表して44−40とは44口径に40グレイン黒色火薬の意味です。 
どうもよく分からない説明ですみません<(_ _)>kazuya。
カービン銃
carbine 騎兵銃のことでアメリカ陸軍が開発した軽量の小銃をさします。
ライフル銃  (施条銃しじょうじゅう) 
rifle 弾丸に回転を与えて命中度を高め射程を伸ばすため銃身の内側に螺旋(らせん) 状の条溝を刻み込んだ銃の総称です。 
本文で寅吉が問題視しているのは次のことです。
チューブ・マガジンは箱形マガジンの完成まえの19世紀半ばでは優秀な連発構造の銃でした。
箱形マガジンに比べても装弾数が多く入り、マガジンが銃の外に飛び出さない利点を持っていましたが、弾が尽きたからと云ってマガジンごと交換は出来ずに弾を一発ずつ込める手間がかかりました。
弾丸を消費する度に重心の移動が起こり、精密射撃が出来ない銃手からは批判が多く出ていますのと、直列でマガジンに納められるため、弾丸の先が前の薬莢の雷管に当たり、暴発の危険性が高く反動の大きい銃は特に危険でした。

慶応3年6月15日―1867年7月16日 火曜日

弁天 − 枝豆 

慶応3年6月15日―1867年7月16日 月曜日
弁天 − 枝豆 

銃については別ページで解説してあります。 
http://www.water.sannet.ne.jp/kazuya-ai/27/rifle-gun.html

大倉喜八郎 天保8年9月24日(1837年10月23日)・ 昭和3年(1928年4月22日)
安田善次郎 天保9年10月9日(1838年11月25日)・ 大正10年(1921年9月28日)
枝豆 各地に多くの有名ブランドが出ている枝豆ですが、庄内藩の元藩主酒井忠篤公がたいへんな枝豆好きで、毎日のように「あそこのだだちゃの作った豆が食べたい」と言っていたということから、「だだちゃ豆」と呼ばれるようになったといわれています。
庄内地方・庄内平野のように汎地域名を表す場合は庄が使われているが、団体や企業名では荘がかなり多く使われているそうです。
荘」を「そう」と読むのは漢字本来の読み方の漢音。「しょう」は呉音だが一般に使い、荘園は「しょうえん」が正しいので、荘内を「そうない」としか読まないとするのは誤りだそうですね。

慶応3年7月25日―1867年8月24日 土曜日

弁天 − コロラド号


添付はColorado号と姉妹船のGreat Republic号

慶応3年7月25日―1867年8月24日 金曜日
弁天 − コロラド号

酔芙蓉では歴史上の人物と、創作された人物が交互に出て交流いたします。
啓次郎君として登場する太田備中守資美公は実際にはこの頃は歴史上では14歳でした。
本文では30歳くらいに設定しましたし、勝先生の氷解塾の先輩と致しました。
酔芙蓉自体は完全な歴史とは違い、太田備中守資美公は幼名も総次郎と呼ばれています。
science fictionなので何度目かの寅吉が歴史に介入したことにより史実とは違う動きが有るという設定です。
出来るだけ歴史と同じ動きをさせるべく行動させるので制約もありますが、其処はフィクションなので本文での逸脱は作者の楽しみの一つでもあります。
掛川から明治元年には上総の地に移り、柴山藩(のちに松尾藩)を立藩しました。
慶応義塾の後援もして外国人教師を招く際に財的支援、教育・芸術関連に貢献しました。
和津矢はこの人もこれから活躍させるつもりなので史実と逸脱の度合いは大きくなりそうです。 
コロラド号
慶応2年12月19日(1867年1月24日)太平洋横断の定期航路のコロラド号が横浜に初入港しました。
アメリカの太平洋郵船会社( pacific mail steamship )がサンフランシスコ−香港航路を開設。その往復の途中に横浜に寄港することになりました。
サンフランシスコでは、1866年の大晦日に、新航路の開設を祝う盛大な晩さん会が催され、あけて1月1日、コロラド号が最初の航海に出発しています。
3836トンの外輪船で(第2船は姉妹船グレート・リパブリック号。同船は1867年9月横浜初入港)横浜・サンフランシスコ間の片道が、三等は五十ドル。それに対し、一等は二百五十ドルでした。
(別の資料にはコロラド号は3750トンの最大級の外輪船で乗客千五百人収容、サンフランシスコから石炭をたき続けて1ヶ月の航海であったと有ります。横浜市中区のホームページ引用)
(慶応3年6月19日(1867年7月17日)アメリカ太平洋飛脚船社(American Pacific Mail Co.Ltd)の蒸気船コストリカ号横浜入港と都市横浜の記憶の中にありました)
横浜での下船客は四十二人で貨物、郵便も積んでいました。
翌日、香港に向けて出港して6日後に香港に到着。
サンフランシスコからちょうど1か月の航海で、香港の新聞も大々的にこの第1船到着を報じています。
復路は、1866年2月17日に香港出港、27日横浜出港、3月20日にサンフランシスコに帰港しています。
寄港日を含めても80日での往復航路でした。
徳川慶喜公 父 水戸 徳川斉昭公(父 七代藩主徳川治紀公)
     母 登美宮吉子女王(父 有栖川宮織仁親王 母 鷹司富子)
慶喜公の兄弟は因幡鳥取藩池田慶徳公(幕末、藩勤皇党の指導者を失い態度保留)、備前岡山藩池田茂政公(東征軍の先鋒)、美作鶴田藩松平武聡公(幕府軍参加)、下野喜連川藩喜連川縄氏公(後に足利姓を名乗る)、妹君徳川貞子様は有栖川宮幟仁親王(後に征討大総督・陸軍大将・参謀総長)に嫁がれて居ります。
有栖川宮家は幟仁親王の次の代、弟の威仁親王(海軍大将 元帥)の代で途絶えております。

治紀公の弟が美濃高須藩へ養子に出た松平義和公詳しくは此方へ。
幕末を生き抜いた4人
http://www.water.sannet.ne.jp/kazuya-ai/11/mousou-1.html
クラウン銀貨 younghead
http://www5f.biglobe.ne.jp/~kazuya22ai/ai/img/590.jpg



pacific mail steamship 太平洋郵船
http://monokatari.jp/isitaki/index.php?itemid=2837
コロラド号について上のページには、同船は長さ六十間(約百八メートル)、幅八間(約十四メートル)。わずか六百トン足らずで、まだ帆走用のマストを備えているが、船体の両側面に水車のような外輪を持ち、蒸気機関で航走する。
と言う記事があります。

慶応3年8月20日―1867年9月17日 火曜日

弁天 − ダルメシアン

慶応3年8月20日―1867年9月17日 月曜日
弁天 − ダルメシアン

ダルメシアンはクロアチアのダルマチア地方(旧ユーゴスラビア)の原産の中型犬で、18世紀中頃からダルメシアンの名で知られるようになりました。
体形からイタリア産のポインターにグレートデンが混血と言われているが確証はありません。
近年、ダルメシアンの起源はインドからギリシャに伝わった説も発表されています。
馬車の前を走る犬として有名になったのは、ジプシーと共に旅をして培われてといわれています。
もとは有能な猟犬で、獣猟にも鳥猟にも使われ、牧畜や番犬としても使役されました。

ビーグルはヨーロッパの国々でウサギ狩りのための猟犬として盛んに愛育されました。
当時のウサギ猟は数十頭のビーグルを一斉に放し嗅覚を頼りに足跡を追跡し、隠れているウサギを見つけ出し、追わせる方法がとられました。
十七世紀に入ると集団のビーグルを制御するためにホルンを吹き鳴らして猟が行われるようになったそうです。
ホルンの音色、強弱、長短によって「前進」「待て」「後退」などの指示が出され、ビーグルはそれに従い、現在の犬笛の原理に通じていました。
追跡する際のビーグルの鳴き声は特徴的で、他のビーグルも呼応して合流し、ウサギを追い詰めて行きました。          
「フィールドの声楽家」「シンギング・ビーグル」と称す事もあります。
ウサギはビーグルの追跡をかわすために、岩から岩へ跳び急角度で曲がったり、引き返し沢を渡るなど、臭いを中断させるさまざまなトリックを仕掛けながら逃げます。
ビーグルがこの臭いの中断部分のトリックを見破りながら追跡(ゲーム)を続けるところにウサギ猟の醍醐味があると言われています。
貴族の遊びですね。
他の猟犬と異なり、集団で猟に使う事が普通でした。   
これらの経歴を持つためか、ビーグルは集団飼育になじむ犬種で15世紀頃のイギリスで盛んにウサギ狩りに使用されていたハウンド種の中で最も小さい犬でした。
ブラッド・ハウンドなどイギリスのハウンドの血を引いており、ハリアーの影響が強く外貌に現れています。
チャールズ・ロバート・ダーウィンCharles Robert Darwin
(1809年2月12日〜1882年4月19日)
イギリスの自然科学者で進化論の提唱者
1831年ケンブリッジ大学で、神学と自然科学を学びました。
卒業後、軍艦ビーグル号に博物学者として乗船する事が許され、5年間の世界一周の航海に参加しました。
進化論はガラパゴス諸島でのダーウィンフィンチの事例からヒントを得たと言われているが、ダーウィンの標本の中にダーウィンフィンチの十分な標本がないので、本当はマネシツグミからヒントを得たのだとか、帰国後に標本を鳥類学者のジョン・グールドが整理したときにゾウガメやフィンチの変異の進化的重要性に気が付いたとも言われています。
1844年には進化に付いての理論の萌芽となる結論を得ていたが、教会からの批判を恐れ、公表する事はなかったそうです。
論文による進化論の発表は1,858年で、同様の説を唱えて発表しようとしていたウォーレスの論文と並べて発表するという形がとられています。
種の起源は1859年 11月24日出版されました。
宗教界からは激しい反対を受けたにも拘らず、1877年ケンブリッジ大学はダーウィンに名誉博士号を贈った。

広東料理は「食在広州(食は広州に在り)」といわれ,広州料理・客家料理・朝州料理というように分かれる。「4つ足はテーブル以外,空飛ぶものは飛行機以外,何でも…」片皮乳猪(子豚の丸焼き)や豊富な魚類を十分に活かした海鮮料理で有名です。
   
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