酔芙蓉 第二巻 野毛  
 酔芙蓉−第六部目次 野毛 1  根岸和津矢(阿井一矢)

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文久4年1月1日―1864年2月8日 月曜日

 
野毛 − トワンテ山


文久4年1月1日―1864年2月8日 月曜日
野毛 − トワンテ山
前にフランス山のところでトワンテ山も書いてあるので今回は違う話。
緑と洋館の巡り道の元になっているのが外国人遊歩道です、この道は幕府が居留地の外国人の為に作った道路です。 
文久2年に生麦事件が有り、英吉利、仏蘭西、の両国公使は幕府に、山手一帯に遊歩道を建設するように申し入れました。
この時かわされたのが「横浜居留地覚書」であります。
内訳はミシシッピーベイを巡る、長さ4マイルから5マイル幅20フィートの馬車道を作ることでした。
外人墓地の拡張、食肉の処理場、疫病を防ぐ官設種痘病院、射撃場、競馬場も要求されています。
建設はトワンテ山に駐留する英国の赤隊が指揮して一年で遊歩道は完成しました。
休憩所は13ヶ所設立されました、この休憩所が発展して「ちゃぶや」となり私娼が増えてゆきました、「らしゃめん」(洋妾)として異人館入りをするものも次第に数がふえたということです。 
慶応元年7月に横浜山手(北方村の海岸)屠牛場完成。
競馬場は馬場が弁天の森にありましたが(慶応元年サムライ競馬を洲干弁天社裏の馬場で開催)、根岸森林公園の場所に作られました。
根岸競馬場は1865年(慶応元年)6月に工事が開始され、形は楕円形で周囲は827間(1500m)、幅は10間より15間、14,920坪(49,236u)。
グランドスタンドは、35間四方、70m四方の馬見所が慶応2年6月に完成、設計はW.A.ドーソンでした。
1867年から競馬が行われたが、財政難の為1880年に日本に返還されます。

費用は幕府が捻出しましたし、多大な賠償金を支払ったりと、薩摩が一方的に悪いと攻める外国からの圧力に負けたものです。
本来の遊歩道の場所は元町から地蔵坂を登り、根岸森林公園を抜けて、不動坂をから海に出て(根岸・ミシシッピーベイ)本牧十二天を回り、本牧から千代崎町そして桜道を通り地蔵坂へ戻るルートで坂の各所には石畳がしかれていました。
念のため書くと、1864年1月(文久3年12月)香港から第二〇連隊第二大隊分遣隊が来浜し、山手居留地115番(現・港の見える丘公園)・116番(現・岩崎博物館から横浜山手聖公会教会にかけての一帯)に陣営を張った。この地域は第二〇連隊の英語音(トゥエンティー)にちなんで、「トワンテ山」と呼ばれました。


文久4年1月29日―1864年3月7日 月曜日

野毛 − フランス波止場
左手前からグランド・ホテル(20番)とウィンザー・ハウス(18番)。
右手海岸沿いはフランス波止場とボート・ハウスで〜〜す。

文久4年1月29日―1864年3月7日 月曜日
野毛 − フランス波止場

フランス波止場は前にも書きましたが関東大震災で壊れ、今は山下公園になっています。
波止場の前にフランス商館(フランス人居住区)があったとも、フランス海軍の物置場前だからという説があります。
この波止場の開設に寄って名前の混乱が起きていますが、前の波止場は東波止場から西波止場(イギリス波止場)となり西波止場は日本波止場となりました。
明治4年(1871年)までは東波止場にも小規模な税関設備があり、輸出入貨物の揚げ降ろしが行われていましたが西波止場の施設拡充により廃止されました。
フランス波止場は海水浴やボート競技の基地として利用されるようになりグランドホテルなどのホテルが立てられ、13年には立派なボート・ハウスが設けられました。


元治元年2月25日―1864年4月1日 金曜日

野毛 − オランダ坂
オランダ坂上(活水坂)
元治元年2月25日―1864年4月1日 金曜日
野毛 − オランダ坂
長崎居留地
東山手・南山手は開国の後に丘陵地を造成した区域で、海岸を埋め立てた大浦、小曽根、下り松、梅香崎地区を含めて、外国人居留地が形成されました。
居留地は海岸に近い方から、上等地、中等地、下等地に分けられています。
上等地は商館や倉庫が建造され、中等地にはホテル、銀行、病院、娯楽施設が並び建ちました。
眺望がいい山手の下等地には、洋風の住宅・領事館が建てられました。
明治32年(1899)に居留地は廃止されました。 

思案橋
文禄元年(1592年)に架けられましたが、一帯は海岸で、小島の上から流れてくる玉帯川の川口に架けられたので「川口橋」と名付けられていました。
土橋から木の橋に、さらに屋根の付いたしゃれた木の橋の時代もあったそうです。
明治8年(1875年)焼失して石橋に造り替えられました。
大正3年にコンクリートを上塗りした鉄橋となりましたが、昭和23年、この一帯の都市整備のため川は暗渠となり、思案橋の姿も消えてしまいました。
昭和43年春、青江三奈の「長崎ブルース」(吉川静夫・作詞、渡久地政信・作曲)がヒットして♪逢えば別れがこんなにつらい/逢わなきゃ夜がやるせない/どうすりゃいいのさ思案橋 と歌われていますがもうひとつ先立つこと4ヶ月あまり、昭和42年(1967年)に長崎市内のキャバレー「十二番館」のバンド、高橋勝とコロラティーノが歌う「思案橋ブルース」(川原弘・作詞、作曲)♪哭(な)いているような長崎の街/雨に打たれてながれた/ふたつの心はかえらないかえらない無情の雨よ/ああ長崎思案橋ブルース。
この歌も好評で多くの人がこの唄をいまでも歌っています。
オランダ坂下 (活水坂)
長崎弁 標準語
こい これ
おい 俺
わい あなた
そい それ
なん 何
せからしか うっとうしい、面倒くさい
やぜか 「せからしか」の強調版
ごた 〜のようだ
こんがん このような
そんがん そのような
どがん? どう?
〜せんば 〜しなければ
〜と? 〜ですか?

オランダ坂は幾つもあり丸山オランダ坂(階段)も有名ですが、
誠孝院前のオランダ坂は急坂です、長崎は横浜よりも坂が多い街ですね。 アイ

1879年、活水学院は、米国婦人宣教師エリザベス・ラッセル女史の志により、長崎の地に創立されました。
メソジスト教会婦人外国伝道協会の日本派遣宣教師として明治12年(1879年)5月来日しました。
福音書第4章第10節、「然らば汝に活ける水を与えしものを」 というイエスの言葉から「活水」と名付けられました。

"if you could see it, you would find
the girlhood of Japan written on my heart."
 (もし、私の心を見ることができれば、日本の娘と書いてあるだろう)


元治元年2月26日―1864年4月2日 土曜日

野毛 − グラバー邸

グラバー邸の松ノ木・切り倒さずに温室に取り入れられた松ノ木

元治元年2月26日―1864年4月2日 土曜日
野毛 − グラバー邸
文化文政時代は、お茶の値段が安く中級1斤=550〜580文(お茶の1斤は200匁約750g) 
元治元年当時2倍くらいか、そう計算すれば輸出用の卸値段が1斤六百文でいいかもしれないということで10ポンド三分二朱、一級品は10ポンド一両二朱。
前にも出たけれどグラバー邸は元の場所のままにあります。
南山手3番地の広い敷地には1本の老松が目印のように立っていました。
茶の輸出も軌道にのせたトーマス・グラバーは思い描いていた顧客用応接室を兼ねた洋館をここに建てました、来日して5年目のことでした。
文久3年(1863年)に建てられた日本で最も古い木造洋風建築物です。
複雑で独特な凸字形の平面に作られたこの家は、建物の設計と庭園の配置をグラバー自らが手がけ施工したのは、大浦天主堂やオルト邸を建築した天草の職人小山秀之進といわれています。
増築や模様替えを経て、明治の中ごろにはほぼ現在の姿になりました。
グラバーの息子倉場富三郎の代の昭和14年(1939年)に三菱長崎造船所の手に移ったこの家は同造船所の創業100周年を記念して、昭和32年(1957年)敷地4805平方メートルと建物を長崎市に寄贈した。
倉場富三郎について
あまりにも多くの資料にツルさんの長男としてありますが、次のようになっています。
グラバーは3人の女性に子供が生まれました。
最初の男の子は夭折(母は丸山の遊女と言われています)
二番目は長女ハナ(母はツル)明治元年(1868年)生まれ
3番目が富三郎、幼名新三郎、明治3年12月生まれ(1871年1月)。
英名Thomas Albert Gloverトーマス・アルバート・グラバー(母は加賀マキ)
明治11年に嫡子として家に迎え入れられることになりました。
ツルさんが実母と誤解されているのは、結婚はしていてもグラバー姓の戸籍謄本がないので、ツルは富三郎がすでに入っていた倉場姓の籍に同じく入ったからです。
富三郎は当時23歳で、正式に倉場姓を名乗っていました。
ツルさんは継母でありましたが、便宜上、実母として登記されました、ツルさんは大阪の生まれで15歳で豊後竹田に嫁いでいますが、夫と離別した後グラバーと知り合い慶応3年に結婚しました。
倉場富三郎(トミー・グラバー)は、ワカという女性と結婚したが、残念ながら子どもには恵まれませんでした。
ハナさんはベネット氏と結婚し、その子孫が、グラバー氏の血筋を今に伝えています。



元治元年3月1日―1864年4月6日 水曜日

野毛 ― 開聞岳

元治元年3月1日―1864年4月6日 水曜日
野毛 ― 開聞岳

開聞岳はおなじみ鹿児島の海からの目印になります。
今回は桜島を含めて薩摩については、あまり書くこともないのです。

西郷吉之助が沖之良部島からもどる途中徳之島の竜郷に到着したのが2月22日で胡蝶丸で鹿児島に到着したのは元治元年2月28日でした。

西郷吉之助が軍賦役(軍指令官)に任ぜられていよいよ京に上る準備に取り掛かりました。

西郷吉之助、村田新八が鹿児島を出発し京都へ向かうのは3月4日まさに寅吉が薩摩にはいったその日でした。

西郷吉之助、村田新八が鹿児島から大坂に到着するのが3月11日のことです。


長崎はこれからも書くこともあるでしょが、アイが書いていたとおりグラバーは幕末日本の動乱を仕掛けた一人といわれていますが、それだけで日本に骨をうずめるわけはありません。
その当時の若者たちが国のために働くその姿に打たれ、自分の力以上にも肩入れした結果、破産も経験しそれでも日本での仕事に意欲を見せた愛すべき好漢でした。
当時多くの商人たちがその維新のために破産したかは別の問題ではありますが。
もちろん武器商人は褒められた商売ではありません、しかし当時の状況下で彼を多くの人が頼りにして彼からの武器供給で維新が成し遂げられたのは、間違えようのない事実です。
日本は日本人が思っている以上に小さい国です、背伸びして無理が今の日本に降りかかっているということでしょう。


元治元年3月10日―1864年4月15日 金曜日

野毛 − 野毛橋
5月4日に撮った都橋・野毛桜通りで〜〜す。
野毛通りはこの橋から野毛坂・切通方面に伸びていま〜〜す。
コタさんの頃には人であふれかえっていたのかもしれませんが今は人の通りも少ない有様で〜〜す。
車社会の今は裏通りなのでしょうかしら〜〜ん。

元治元年3月10日―1864年4月15日 金曜日
野毛 − 野毛橋
野毛橋は現在の都橋です、2月に南詰吉田町堤に番所が設置され、このとき吉田橋の番所も吉田町河岸に移動しています。

天下の糸平
初代田中平八(1834年〜1884年)は伊那郡赤須村(現駒ヶ根市)の藤島家に生まれ、飯田の田中家の養子となりました。
田中組、株式取引所、第百十二国立銀行、田中銀行などを創設し、我が国の財界の重鎮となり、「天下の糸平」と呼ばれました。
二代目及び三代目糸平といわれた方もなかなかのやり手で、鉱山業で成功して現代に残る糸平不動産、田中貴金属を世に残して居ります。

もう一人の糸平こと薩摩治平についてはあまり詳しい資料がありませんが、西原借款で有名な西原亀三の最初の援助者くらいです。
西原借款とは、大正6年、7年ごろに行われた一連の対中国向け借款を指します。
(西原借款は、寺内正毅内閣の援段政策として当時の中国政府、実際には段祺瑞が指導する北洋軍閥、に与えた貸し出しです)
その一部は預金部資金をもって行われましたが、回収不能となって、国による元利金の肩代わり等の整理が行われました。


元治元年3月13日―1864年4月18日 月曜日

野毛 − 福井町

画像は二代広重の東都36景霞ヶ関雪中之図

元治元年3月13日―1864年4月18日 月曜日
野毛 − 福井町
二代広重と三代広重

三代広重は陸蒸気のところでも取り上げましたが、ともに安藤広重(歌川広重)のお弟子さんです。
 
初代歌川広重は寛政9年(1797年)〜安政5年(1858年)
江戸八代洲河岸の火消屋敷に生まれる。
文化8年、15歳で歌川豊広の門下に入り、画名を広重と名乗りました。
号は一遊斎・一幽斎・一立斎・立斎。
天保三年(1832)祖父の後妻の子仲次郎に定火消同心職をゆずって浮世絵師として独立しました。
役者絵、美人画をよく描き、文政中期より風景画に新境地を開くことになりました。天保4年から発表した東海道五拾三次続絵で風景画家としての地位を不動にしました。風景画家として世界的な評価が与えられています。

二代歌川広重は文政9年(1826年)〜明治2年(1869年)
広重の門人となり、重宣の画名を与えられて作品を描きました。
安政5年に初代広重が没したのちに養女辰の婿として師家を継ぎます。
三代歌川豊国との合作も数多くあります。
二代広重を襲名しましたが、慶応元年に辰と離別します。
名を喜斎立祥と改め、外国貿易用の茶箱に版画を描き、茶箱広重といわれました。
画号は 重宣 一幽斎 一立斎 立斎 喜斎 立祥 等数多し

三代歌川広重 天保13年(1842年)〜明治27年(1892年)
初代広重の門人、後藤寅吉、後に寅太郎。俗称安藤徳兵衛。
画号は 一立斎歌重 重政  
二代広重が師家と不縁になって去ったあと、慶応3年に辰の入り婿となり二代目を称するも、実際には三代目にあたる。
明治に入り蒸気車、蒸気船、洋風建築などいわゆる開化絵を多く描きました。
歌川広重の系譜は五代目まで続きましたが、浮世絵師として活躍したのは三代目まででした。

昨晩の教授のメールに有った八代洲河岸がわかりませんので、今朝Telしました。
そうしたら今の八重洲なんだって〜〜。
ヤンヤーステンから八重洲になったと教わったからてっきり江戸時代から八重洲といってたとばかり思っていました。
読みはヤヨス河岸だそうです。
日比谷入江(皇居外苑)の東岸にあった宝田村の跡地に、徳川家康の顧問ヤン・ヨーステンの商館屋敷が建てられたことから、東岸の荷揚場を「八代洲河岸」と名付けたそうです。
後に八重洲となったそうですが年代の特定は出来ませんでした、今日学校の図書館で調べても安政年間には八代州になっていました。
明治17年(1884年)になってかけられた八重洲橋という橋にちなんで東京駅が開業後八重洲口という名前が定着したそうです。
広重の続き〜〜。
四代目の記述はありましたが五代目は見つかりませんでした。

江戸風景 四代歌川広重 画 菊池貴一郎 著作発行印刷
江川八左衛門 彫刻 大正四年 発行
画家。本名は菊池貴一郎。二代歌川広重の門人。
二代立祥を名乗っていたが、明治44年(1911年)名家の断絶するのを憂えて、清水晴風の家で四代広重の襲名式を行なった。
嘉永2年(1849年)生まれ〜大正14年(1925年)歿、77才。


野毛 2

元治元年3月20日―1864年4月25日 月曜日

野毛 − 切通し

二代広重(茶箱広重)の横浜1861年


元治元年3月20日―1864年4月25日 月曜日
野毛 − 切通し
切り通しは横浜に居留地が作られた時に作られました。
芝生村(今の浅間台)から始まる横浜道が作られたのは、安政6年3月からのことで工期3ヶ月あまりの突貫工事でした。
横浜道は芝生から戸部村まで、土手を作って直線に結び、新田間、平沼(現元平沼橋)石崎(現敷島橋)の三つの橋を架け、野毛を切り通しにして、野毛橋(現都橋)太田橋(現吉田橋)を築き結びました。
それぞれの橋の幅は3間(5.4m)有ったそうで道幅もそれ以上はあったと思われます。
今は伊勢山と呼ばれる紅葉坂を登った場所は今の掃部山公園にあった旧戸部村の祠を遷座し、三重の伊勢神宮から分霊を受けたものです。
明治3年に神奈川県知事井関盛艮が国費によって創建したもので、同時に野毛山の一部だった土地の名を伊勢山と改めたものです。


元治元年3月25日―1864年4月30日 土曜日

野毛 − 商館

元治元年3月25日―1864年4月30日 土曜日
野毛 − 商館
横浜異人館之図 ニ代広重 1861年
出版 藤岡屋慶次郎
最初貞秀の描いた絵と思っていましたが二代目の横浜絵でした。
商館図は開港直後から数多くかれていますが、この絵は住まいと店舗を旨く一枚の絵の中に収めてあります。
二代目が描いたウィンザーハウスの絵もあるはずなのですがパソコンの中を検索しても見つかりませんでした。
二代目は初代の名声に隠れなかなか見出される事が無いのですが、kazuyaはよい絵を描いていると評価いたして居ります。
小説の形をとっているため数多くの商館を紹介しきれないのですが出来るだけ調べて書き出したいと思っています。


元治元年5月5日―1864年6月8日 水曜日

野毛 − 粽

元治元年5月5日―1864年6月8日 水曜日
野毛 − 粽
文久元年版(1862年発行)―御開港横浜大絵図二編外国人住宅図より  玉蘭橋本老父(歌川貞秀)
横浜天主堂
1857年(安政4年)ジラール神父がパリ外国宣教会から日本管区長代理に指名されて駐日仏代理公使ベルクールの通訳官として、1859年9月6日(安政6年)、江戸に到着しました。
1860年(万延元年)6月頃には横浜居留地80番に聖堂建設用地の借地権を取得できました。
司祭館の建設を進め、12月に完成して11月に来浜していたムニク神父がここに住んで聖堂建設に従事しました。
1861年1月にはジラール神父も横浜に移りました。
1861年末には聖堂が完成し、1862年1月12日(文久元年12月13日)に献堂式が行われました。
ジラール神父は1867年12月に死去いたしました、後任にはマラン神父が赴任して来ました。
1906年(明治39年)山手44番に移転しましたが震災倒壊してしまい、1933年(昭和8年)チェコ出身のJJ.スワガーにより設計され、再建された建物が山手本通りにあるカトリック山手教会です。

J.J.スワガーは、1923年に来日したチェコ出身の建築家ですが、1923年の来日というのは確定的なものでないのです。
代表作のひとつ北海道のトラピスト修道院本館が1908年という15年も前に建造されていることになってしまい、彼の経歴の謎となっています。
(トラピスト修道院本館は、図面のサインから彼の設計であることが確認されているそうです。)


横浜天主堂はカソリックですが建設費用の多くがプロテスタントの信者からも寄せられています。

横浜商館天主堂ノ図は三代広重によって明治3年(1870年)増田屋版で出されました。

元治元年7月6日―1864年8月7日 日曜日

野毛 − 百日紅

クライストチャーチの最初の時代のは画像を持っていないそうです。

元治元年7月6日―1864年8月7日 日曜日
野毛 − 百日紅 
クライスト・チャーチ(山手聖公会と同じ) 
文久3年10月、横浜居留地101と105番地(現在の山下町101・105番地は地続きです)にクライスト・チャーチ礼拝堂が設立されました。
1901年(明治34年)に山手234番地に移り、教会堂は1923年(大正12年)関東大震災で倒壊しました。
1931年(昭和6年)再建されますが1945年(昭和20年)5月29日横浜大空襲で内部を焼失しましたが、1947年(昭和22年)に再建されました。
現在はアメリカ人建築家 J.H.モーガンの設計で建てた1931年当時の姿を残しています。
コンドルの設計によって1901年(明治34年)に建てられたクライスト・チャーチ。
いかにもコンドルらしい華やかな建物です。
現在はJ.H.モーガンの設計の中世イングランド風の建物で、外人墓地からエリスマン邸に向かう場所にあります。

Conder・Joseph・Josiah(コンダー・ジョセフ・ジョサイア)1852年(嘉永5年)〜1920年(大正9年)イギリスの建築学者で、ふつうコンドルとよばれています。
1876年(明治9年)工部大学校の造家学科主任教師として招聘されました。
以来、東京で没するまでの43年間、わが国洋風建築の発達と建築教育に大きな功績を残しました。
主な作品は東京帝室博物館・鹿鳴館・東大法学部講堂・ニコライ聖堂などが有名です。

元治元年8月30日―1864年9月30日 金曜日

野毛 − 賠償金

添付は下関砲台を占拠した連合艦隊の陸戦隊。

元治元年8月30日―1864年9月30日 金曜日
野毛 − 賠償金 
横浜港湾整備事業
1883年2月23日 アーサー米国大統領は不当に受領した下関賠償金(78万5千ドル87セント)の日本への返還を決裁しました。
下関戦争の講和条約は長州藩を代表した高杉晋作によって賠償金の支払いは幕府にありと交渉の結果が出て連合艦隊との講和が成立いたしました。
文久3年1863年長州藩の4ヶ国の艦船への砲撃に対する賠償総額は300万ドルでありました。
幕府は150万ドルを支払い、新政府が残額を明治7年までに分割で支払ったものです。
賠償金の分配はアメリカ、フランス、オランダの3ヶ国の船艦が42万ドルを分け、残額258万ドルは連合艦隊の4ヶ国に分けたため、米国は合計で78万5千ドルを受け取りました。
実際の米国の損失は、
1.米国船ペングローブ号の日時を要した費用5日分1500ドル。
2.長崎に寄港出来なかった為の損害6500ドル。
3.水夫への危険手当2000ドル。なお、ワイオミング号の損害は日本への威圧の為に起った事で日本ではそれ以上の損害が発生しており、連合艦隊への参加は商船タキアン号1艘のみの参加で64万5千ドルを得た事になっていました。
米国の損害は合計1万ドルに過ぎなかったわけで、この賠償金は米国政府の公認を得たものでなく、弱小日本に対する威圧によって得たいわば不当なものであったと認定されました。
アメリカ合衆国国務省は日本から分割金を受領するたびに国庫に納めず国債として保管していました。
1872年(明治5年)フィッシュ国務長官(Hamilton Fish)が森有礼公使に伝えた事から日本側では機会をとらえては返還の要請をしていたものであります。
日本では明治22年、返還金の元利金約140万円を横浜港の築港整備費用(総額234万円)に充当する事を決定し明治29年5月に完成しています。


元治元年9月10日―1864年10月10日 水曜日

野毛 − 地蔵坂
元治元年9月10日―1864年10月10日 水曜日
野毛 − 地蔵坂


山手203番 横浜女学校(旧 横浜学院 平成17年現在203番〜204番に相当する地域)
1886年(明治19年)5月 山内小学校として最初の学校が創設されています。
 設立者、校長は山内茂三郎氏、変遷ののちに千歳高等家政女学校となりました。
1937年(昭和12年)千歳高等家政女学校、中区千歳町1の1より山手町203番地に校舎新築移転
1947年(昭和22年)9月 横浜千歳女子商業学校と神奈川女子商業学校が合併
横浜学院女子商業学校・横浜女子中学校と改称去れました。
1999年(平成11年)4月 横浜女学院中学校・高等学校に校名が変更されました。
山手211番 ブラウン邸 
宣教師たちが翻訳共同作業を行ったブラウン邸のあったところで、現在は横浜共立学園になっています。 
山手212番 横浜共立学園(平成17年現在208番〜215番に相当する範囲が学園の敷地です)
1871年(明治4年)米国婦人一致外国伝道協会から日本に派遣された3人の婦人宣教師,プライン,クロスビー,ピアソンによって山手48番地に設立された亜米利加婦人教授所(アメリカン・ミッション・ホーム)に起源をもつ,日本で最も古いプロテスタントキリスト教による女子教育機関のひとつです。
学園の英語名 DOREMUS SCHOOL(ドリーマススクール)は、創立者である3人の婦人宣教師を派遣した、米国婦人一致外国伝道協会
(The Woman's Union Missionary Society of America for Heathen Lands)
の初代会長、S.P.Doremusの名にちなんでつけられました。
1872年現在地山手212番地に移転し日本婦女英学校となりました。
1875年共立女学校となり、戦後、横浜共立学園中学校・高等学校となり現在に至っています。
山手214番 領事公邸
横浜共立学園214番館は、スウェーデン領事公邸として使用されていた昭和初期の建築です。

元治元年10月7日―1864年11月6日 日曜日

野毛 − Pegasus
アイアン・デューク号描いた甲斐宗平画伯の「我が国最初の鉄道」〜グラバー園所蔵〜

元治元年10月7日―1864年11月6日 日曜日
野毛 − Pegasus
グラバーの機関車
慶応元年(1865年)7月に上海博覧会に出品された英国製の蒸気機関車アイアン・デューク号を輸入して、大浦海岸(今の市民病院前から松が枝まで居留地の海岸通り)に300メートル(600メートルとも言われています)ほどの線路を施設して客車三両をつないで走らせました。
「ガラバさんが大浦で陸蒸気ば走らさすげな」と評判で連日のように黒山の人だかりだったといいます。 
のちにこの機関車は横浜で公開されたあと幕府に献上されました。
(アイアン。デューク号はアイアンデューククラスのいずれかだろうか。幕府献上は実現せず上海へ送られたとの記事もあります。長崎年表・1865年5月) 
アイアンデューククラスIron Duke Class

グラーバーの船舶輸入
グラバーはジャーディン・マセソン商会から委託されて、鉄製蒸気スクリュー船カーセッジ号(12万ドル)を幕府経由で佐賀藩に売却した1864年10月を契機に本格的な艦船取引に乗り出していきます。
艦船取引は利潤も大きく、このカーセッジ号についても販売価格12万ドルに対して簿価は4万ドルとなっており、この取引だけでジャーディン・マセソン商会は5万8000ドルの純益をあげました。
グラバーが蒸気船や帆船を見込みで買いつけ、商会用にすでに運航させている船舶を売却するか、ジャーディン・マセソン商会やデント商会などの販売希望者、あるいは幕府や諸藩など購入希望者からの委託をうけて適当な購入先や船舶をさがしだして、仲介、斡旋の手数料をとって販売しました。
利潤はジャーディン・マセソン商会とグラバー商会の間で折半されることになっていましたが、仲介者への手数料などの経費は予定価格に上乗せして販売されました。
1864年から68年の5年間にグラバーないしはグラバー商会の名前で販売された艦船は24隻にのぼり価額にして168万ドルになりました。
幕末に長崎で売却された艦船の約3分の1、価額にして36%にあたるといわれています。
売却先は薩摩藩が最も多い6隻、ついで熊本藩の4隻、幕府、佐賀藩、そして長州藩の各3隻となっていますが、薩摩藩6隻の内のユニオン号(桜島丸、後に乙丑丸)は土佐藩士である上杉宗次郎(近藤長次郎)が仲介して長州藩が薩摩藩名義で購入したもので、薩摩藩が5隻、長州藩が4隻となり、そのほかは手元に資料がありませんでした。

 
Pegasusペガサス (ペガスス・ペガソス)。 
ギリシア神話に登場する伝説の生物と言われています。
翼を持ち、空を飛ぶ馬として有名で天馬とも呼びます。
ペルセウスによって倒されたメデューサの血から生まれたとされる神話の馬です。
メデューサを倒したペルセウスはペガサスに乗り、エチオピアの上空を飛んでいるときに岩に縛り付けられたアンドロメダを発見します。
ペルセウスの次にペガサスの乗り手となったのはベレロポン(ベレロフォン)でした。彼はアテナの黄金の手綱を使ってペガサスを駆り、キマイラ退治をはじめ数々の武勲をたてますが、増長しついには天にある神の国に昇ろうとしました。
それを怒ったゼウスは一匹のアブを放ち、ペガサスの鼻を刺させました。
驚いたペガサスはベレロフォンを振り落とし、そのまま天に昇って星座となったのですが、ベレロフォンは墜落した衝撃でなくなりました。

 野毛 3

元治元年12月4日―1865年1月1日 日曜日

野毛 − 新年

横浜鈍宅之図 五雲亭貞秀 1861年 (万延2年・文久元年)

元治元年12月4日―1865年1月1日 日曜日
野毛 − 新年

神奈川奉行並(石高1000石、役料500俵)

神奈川奉行万延元年(1860)以降専任2名となる。

長崎奉行の上座で高2000石、役料1000俵 

元治元年(1864年) 3月16日 神奈川奉行並 駒井相模守信興が奉行に昇格

元治元年(1864年) 4月7日 幕府は古河藩主 土井大炊頭利則の神奈川警守を免じる。

元治元年(1864年) 4月10日幕府は福島藩主 板倉勝顕に日光山警守を命じ、神奈川警守を免じる。

元治元年(1864年) 5月25日  神奈川奉行堀伊賀守利孟、軍艦奉行に転任。

元治元年(1864年) 5月25日 大久保紀伊守忠宣、神奈川奉行に任ずる

元治元年(1864年) 5月25日 別手組取締役白石鳥岡を神奈川奉行並に任ずる。

元治元年(1864年) 8月 3日 神奈川奉行大久保忠宣、大目付に転じる。

元治元年(1864年) 8月 5日 駒井信興を外国奉行に転じる。

書院番頭土岐頼徳を神奈川奉行に任じる・神奈川奉行並白石鳥岡を神奈川奉行に任じる

元治元年(1864年) 9月10日 早川庄次郎久文が神奈川奉行並に就任した。

元治元年(1864年)11月22日 神奈川奉行土岐頼徳が転任。

元治元年(1864年)12月 1日 幕府は作事奉行岡部駿河守長常を神奈川奉行に任じる

元治元年(1864年)12月18日 岡部長常が金遣奉行に転任。

半年の間、資料にないということはこの間の奉行は一人だったのだろうか。

慶応元年(1865年) 5月25日 神奈川奉行並早川久文が神奈川奉行に昇任。

慶応元年(1865年) 7月 8日 神奈川奉行白石鳥岡転任。

小笠原筑後守長常が奉行に転任した。

このように転任の多い神奈川奉行に諸外国の信用などありえない話でした。

駒井(5ヶ月)→ 土岐 (3ヶ月)→ 岡部( 18日) → 早川

堀 (8ヶ月)→ 大久保(3ヶ月)→ 白石(11ヶ月) → 小笠原




外国人どんたく遊らん行歩乃図
一川芳員  1861年 (万延2年・文久元年)


元治元年12月28日―1865年1月25日 水曜日

野毛 − 孤児院
仁慈堂における日本最初の修道女たちと孤児たちの写真です。

元治元年12月28日―1865年1月25日 水曜日
野毛 − 孤児院
マザーマチルドの一行が来日そうそう活動が出来た下地が慶応元年辺りにあったと設定しての話しを書いてみましたので、このときの来日した二人は創作された人達ですが同じような民間の篤志家がいたとしても不思議ではないと思われます。

サンモール修道会(幼きイエス会) 
1872年5月 マザー・マチルド(メール・セント・マチルダ)はプチジャン司教より来日を依頼する手紙を受け取ります。
明治5年(1872年6月) マザー・マチルド他4名のサンモール修道会(幼きイエス会)の修道女は、横浜に上陸しました。
初めての来日修道女となりました。
山手58番地に外国人子女教育(注 マリー・ジェステン・ラクロット女史菫女学校を創立とある資料がそうなのか?)および貧困孤児養育事業を開始(仁慈堂)
(これは雙葉学園の資料ですが、別に山手83番に設立されたと書かれた資料もありました)
当時、横浜は捨て子や孤児が多く、「仁慈堂」は350人もの子供と80人の乳幼児を収容して居りました。
明治8年(1875)には正式な孤児院として認可されました。やがて、孤児達に普通教育を授ける女学校に発展して、1902年菫(すみれ)女学校となりました。
1900年山手88番においてサンモール修道会は日本初のカトリック女学校である横浜紅蘭(こうらん)女学校を設立しました。
関東大震災によって菫女学校も紅蘭女学校も壊滅的な打撃を受けましたが、その後、菫女学校は東京に移り、太平洋戦争開戦によって歴史を閉じました。
紅蘭女学校は震災後、現在地に校舎を復興させ、昭和26年(1951)校名を横浜雙葉学園と改称し、現在に至っています。


元治2年1月元旦―1865年1月27日 金曜日

野毛 − 門松


元治2年1月元旦―1865年1月27日 金曜日
野毛 − 門松
門松は冥土の旅の一里塚 一休
むかし、武田方から松平(徳川)へ、松枯れて竹たぐひなきあしたかな
といふ句を贈つた處、頓智の聞くものがいて、松枯れで竹だくびなきあしたかな
と、濁点を打ちかへて返答したといふ話がありまして、正月の門松は竹は枯れたものを使い若松は青々としたものを遣ったそうで今のように竹も勢いのあるものは使わなかったそうです。
旗本と御家人
御目見えできるのが旗本、御目見え以下が御家人ですが、すでに江戸時代において旗本・御家人の区分は明確でない部分がありました。
旗本の石高は百石以上とする解釈があるのですが,それ以下の旗本も大勢居りました。また旗本は,小十人組頭以上の者であり,それ以下について家筋は御目見以上でも旗本とはいわないという説もあります。
御家人は番方の家筋に限り御目見に関係なしとする説もあるのです。
人数は1772年(享保7年)の調べによると5205家。
知行の石高合計二百六十四万千九百石となっています。
1820年(文政3年)の『国字分名集』には,1千石以上825家,五百石以上が842家とあるから,総体からみると五百石以下(約3500家)の小身の旗本の数が圧倒的に多いのです。

海舟先生の家は小普請で41石取りでした、資料には御家人としたものもありますが、譜代であって御目見え以上なので本来お旗本で御座います。

実は巧木道子さんという方が2005年5月1日に95歳でなくなったという記事が出ましたが徳川慶喜と勝海舟の孫と書かれていたそうです。
慶喜公のお子さんの精さんと小鹿さんの娘の伊代子さんのお子さんですので正しくは海舟のひ孫となります。

朝日新聞の記事は見つかりませんでしたが四国新聞と同じだそうですのでそちらを全文載せておきます。

朽木道子さん(くつき・みちこ=勝海舟の孫、徳川慶喜十男・勝精の長女)1日午前6時24分、うっ血性心不全のため神奈川県寒川町の病院で死去、95歳。東京都出身。葬儀・告別式は3日午前11時から神奈川県鎌倉市御成町3の5、カドキホールで。喪主は長男彰(あきら)氏


ということで記事をよく読めば海舟の孫が勝精さんだと書いて有るんでしょうか、海舟の長男の小鹿さんの長女が伊代子さんで、そのご主人が精さんですから海舟の孫としてあっても間違いでは無いですね。
この記事を読んでWebに載せた方の早とちりでしょうか、それとも記事の書き手が孫だと信じていたか定かではありません。



添付は素心蝋梅

御家人―下級武士の内職
抱入は一代限りの奉公で退職と同時に御家人の身分を失います。
譜代と二半場(家康から家綱までの4代の間に西の丸留守居与力・同心などを務めた子孫の者)は隠居して跡継ぎが家督を相続できました。
享保7年(1722)の御家人は1万7千390人で、禄高最高は240石、最低は4両1人扶持でした。
御家人の内職は公然のもので、一般に御家人の拝領屋敷は、やや広く余裕があり、賃貸しをするもの、園芸などの内職にも利用されました。
宝暦の頃には、代々木・千駄ヶ谷の組屋敷ではこおろぎ・鈴虫などの季節の虫類、巣鴨・大久保の組屋敷では植木、麻布の組屋敷では草花、下谷の金魚など、趣味と実益を兼ねた内職をして、収入の助けとしています。
青山百人町の傘張り、根来百人町の提灯張り、巣鴨鷹匠町・御駕籠町の羽根作りなども有名で町の職人以上と言われる人が多かったそうです。 
たとえば町奉行所与力は譜代二半場が多いのですが同心は抱入です、それでもほとんどが跡継ぎを指定すれば相続できました。

元治2年1月25日―1865年2月20日 月曜日

野毛 − ペインター

元治2年1月25日―1865年2月20日 月曜日
野毛 − ペインター

横浜居留地97番に1863年(文久3年)11月27日に開業した英国人ピアソン夫人のサムエル・クリフト支店が洋裁業発祥の地といわれています。
〜日本洋裁業発祥顕彰碑建立〜
碑文  1863年(文久3年)英国人ミセス・ピアソンが横浜居留地97番にドレス・メーカーを開店したのが横浜の洋裁業の始まりである その頃から在留西洋婦人は自家裁縫のため日本人足袋職人・和服仕立職人を人仕事として雇いこれにより婦人洋服仕立職人が育った。 以来130有余年、先人達の偉業を称え、その精霊をモニュメントに表徴して永く後世に伝えるべく、洋裁業発祥の地たる横浜に、日本洋裁業発祥顕彰碑を建立する。 1995年 平成7年11月24日

1865年(慶応元年)3月4日付『ジャパン・ヘラルド』紙に、大工のT・J・スミスが「サイン・ペインター」として広告を出している。おそらくこれが塗装業の開業広告第1号であろうといわれています。

広東省順徳県出身で、塗装の技術を上海で学んだ招相記は谷戸坂の山手184番地に塗装店「相記」を開きました。
多くの職人を抱えて、洋館や西洋家具のほかにも船体なども手広く扱っていました。
塗装業・西洋建築の分野で華僑の人々が横浜の街づくりに大きく貢献しました。


元治2年3月3日―1865年3月29日 水曜日

野毛 − クリーニング

元治2年3月3日―1865年3月29日 水曜日
野毛 − クリーニング

〜碑文〜
クリーニング発祥の地 場所:谷戸坂の登り口左側
 「安政6年、神奈川宿の人青木屋忠七氏、現在の5丁目にて始めて、つづいて岡沢真次郎氏、横浜元町に青木屋を開業、慶応3年、脇沢金次郎氏、この地を継承し近代企業化の基礎を成した。
この間、フランス人ドンバル氏、斯業の技術指導および普及発展に貢献された。この業祖の偉業顕彰し、ここにクリーニング業発祥の地記念碑を建立する。
 昭和48年11月吉日
ソーダー水
清涼飲料水の代表格ソーダ水製造の第一号は、1864(元治元)年3月26日に上海から進出したファー兄弟商会です。場所は84番(現在の山下町84番地、ホテル・サンポート付近)です。
新聞に掲載した広告には、製品として、ソーダ水、トニック・ウオーター(強壮剤入飲料)、レモネード、ジンジャー・ビールを列挙していました。「ラムネ」の語源と考えられるレモネードの製造販売広告としては、これが最も早いそうです。1867(慶応3)年1月には146番アッズの名で、蒸気機械によるソーダ水製造の広告がでました。機械制の製造所としてはこれが最初です。
 この分野では中国人が活躍していて、1865(慶応元)年7月には、テイラー(洋服の仕立て屋)として名高いコック・アイが、ジンジャー・エールやソーダ水、レモネードの製造販売広告を出しています。また、この年12月には、パーン商会が中国人の技術者付きでソーダ水の製造機械を売りに出しています。

元治2年3月4日―1865年3月30日 木曜日

野毛 − ピクニック


元治2年3月4日―1865年3月30日 木曜日
野毛 − ピクニック
フランスでは最近のピクニックには、簡単にバゲットと具をいくつか。
普通はハム、トマト、きゅうりにカマンベールチーズ、デザートにメロンなどの果物があれば最高。
イギリス人なら「美しい景色と、コールドミート、サンドイッチ、ビスケットにデザート、そして薄めの紅茶というところか。
横浜の外国人遊歩道には茶店を幕府の要請で道沿いに出してありました。
チャブヤと呼ばれた店も増えていき、いかがわしい女たちを置く店も出てくることになりました。


元治2年3月10日―1865年4月5日 水曜日

野毛 − 桜道
添付の画像は横浜桜道となっています。
現在の桜道は、山手・本牧・港南などが有名ですがこの彩色写真は山手だろうと思います。
元治2年3月10日―1865年4月5日 水曜日
野毛 − 桜道
桜道の桜がいつごろから有名になったのか定かではありませんが、妙香寺を取り巻くように有るこの道が桜の名所としてあったので遊歩道を作ったと推理しての設定です。
今年の桜は見にいけませんでしたが来年こそは桜道の桜を体感したいものです。
ジョセフ彦については何度か書いたように思いますが、ついに海外新聞の定期発行にこぎつけました。

元治元年(1864年)6月28日、ジョセフ・ヒコが横浜で手書きの「新聞誌」を創刊していましたが名前も改め定期的に発行されるようになりました。
元治2年3月13日ジョセフ・ヒコ(浜田彦蔵)が「海外新聞」を創刊しました。
新聞の元祖で岸田吟香、本間清雄も助力して月2回発行の木版紙であつたそうです。
貿易品の相場表や外国商人の広告も掲載、アメリカ史や聖書「創世記」の連載など、それまでの官板翻訳新聞とは全く違う、今日的な新聞の原型であったそうです。
新聞は慶応2年3月25日の第24号まで発行されました。
(彦蔵は明治3年11月東京で病没いたしました)
   
   第六部完  



幕末風雲録・酔芙蓉
  
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 第十部-1 弁天 7    第二巻完      

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       第一巻完      

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