幻想明治 | ||
其の十 | 明治20年 − 壱 | 阿井一矢 |
横浜辯天 |
根岸寅吉 (根岸虎太郎) 1911年 明治44年4月18日生まれ(天保14年1843年) 横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。 根岸 容 弘化5年1月5日(1848年2月9日)生まれ 江戸深川冬木町に生まれる。 根岸明子 明治元年12月10日生まれ(1869年1月22日) 久良岐郡野毛町三丁目に生まれる。 佐伯 琴 (根岸 幸) 1920年 大正9年9月9日生まれ(嘉永5年1852年) 横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。 根岸了介 1877年 明治10年11月7日生まれと届出 神奈川県久良岐郡横浜町末吉町5丁目54番地に生まれると届出。 (神奈川県第1大区4小区) (明治10年5月5日山手220番生まれ) 根岸光子 1885年 明治18年5月31日生まれ |
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横浜辯天 明治20年(1887年)1月1日土曜日 丁亥(ひのとい、ていがい) 夜明けと共に親子三人は供に八十松とお花をつれて歩いて元町の厳島神社へ向かい初参りを済ませてから羽衣町へ向かった。 元町も三年前と違い朝七時には的屋の屋台が並び賑やかだ前田橋畔まで転びの店が出ていた。 「父さん前に姉さんにお送りした膝栗毛に八犬伝を譲って呉れたのはこの方です」 物日には鈴木屋の軒下で店を広げる老人とあれ以来顔見知りとなり欲しい本を探してもらう手伝いをしてもらっていると紹介した。 容は昔の都都逸の本や浄瑠璃本があるのを見て幾冊も買い入れてお花に持たせるとお花は用意よく懐から小風呂敷を取り出して其れで包んだ。 「爺さん鈴木梅太郎が訳したという二万里海底旅行という題の本に心当たりはないかい、山本という書店で出したらしいが」 「そいつあ京都ですね。聞いた事はありますが見た事はないのですが探して見ましょう」 「見つけたら青木町か此処へ連絡してくれ」 名刺を渡して橋から右手を見るとクライスト・チャーチの鐘楼と109番のピアノにオルガンなどのドーリング商会に朝日があたり白い壁が映えていて107番のマーチンの石炭倉庫の作業所には板が乾燥のために立てかけて有った。 川沿いを登って堀川から大岡川沿いに曲がり花園橋まで出て容を振り返ると肯いたので橋を渡った。 扇町を三丁目の先まで歩き右手に折れるとその先には鶴の橋の架かる吉田川。 蓬莱町には正月飾りを売る露店がひしめいていて暮れに買い損なった人が早朝から安くなった飾りを買い求めている、殆どの店が半額以下で売りさばいているようだ。 花屋も数多く出ていて其方は大分割高のようでおかみさん達に値切られていた。 羽衣町に入り右に折れると辯天の入り口まで人の波が続いている、鳥居をくぐり新しくおかれた石畳の参道を歩いて社にお参りした。 帰りがけに笹に飾りをつけた正月らしい屋台が並ぶ中、例年酉の市で熊手を買う男たちの屋台には珍しく女の子も出て威勢良く売り声を上げていた。 「こりゃ旦那、あけましておめでとうございやす。こいつはわっちの娘でござんす。今年から屋台を手伝うとぬかしやがるんで」 「おめでとうございます、ご贔屓にお願いいたします。繭玉を如何ですか」 「ああ、おめでとう、縁起物だ五人に一つずつ頂こうよ」 赤、青、黄色などに色を付けられた繭玉に大黒の絵や小判の飾りなどが付いて可愛いいものだ、釣竿に使うような竹に派手な飾りのものは遠慮する一同だ。 了介も一つ選ぶと寅吉が肩にひょいと担ぐように乗せたのを真似して持った。 「五つで一円五十銭頂きます」 容が財布から五十銭銀貨を三枚出して渡し、寅吉が片手を引っ込めて袂からご祝儀袋を出して一円札を見えるように半分引き出すと「こいつは初お目見えの姉さんにご祝儀だ」と渡して参道を出た。 山手の家に戻り例年のようにお松津さんが用意してくれた雑煮と屠蘇で正月を祝った。 寅吉は思い出したようにビルマの事を了介に話しだした。 「昨年の一月一日イギリスはビルマという国を併合したと宣言したんだ。ビルマは自分の力を勘違いしていたんだ、フランスの後押しでイギリスが占領していた印度へ侵出しようとして反対にイギリスに侵攻を許してマンダレーを占領されてしまったのだよ。之は勝先生が苦労した維新前夜の日本に似た話なんだ。あの当時幕府の中で力のあった小栗様にフランスが金を貸すからこの際薩摩以下外様大名を徹底的に叩いて将軍の力を内外に示し徳川独裁の政府を築きなさいといわれたんだ。それに反対の大久保様というお旗本に勝先生たちが大政奉還と言う手段で対抗したんだよ」 其の大政奉還の骨子を坂本さんたちが作り了介も知っている陸奥先生の事などをとりとめもなく話した。 ビルマがイギリスに併合宣言されて丁度一年、まだ部分的に抵抗を続けてはいるがすでに其の武力は威力を失っていた。 寅吉はイギリスを手本にしていく日本の実力者に危惧を覚えつつも世の中に逆らうことなく生きていくことにした自分の弱さに無念さを覚えるのだ。 「父さんイギリスやフランスはなぜ其れほど他国を侵略したがるのでしょうか」 「難しい質問だ。だが答えのひとつは簡単な事だ、自分たちの国内だけでは消費できないほどの工業力で生産した品物を売るためと其の原料を安く買うためさ。其れは答えの中のひとつでしかないがね。了介もだんだんと理解出来るようになるよ。日本でも軍隊を強くするために税金を高くして其れで軍艦に大砲を買うことになるんだろうさ、今富裕税とか言う名目で税をとる案が有るそうだが徐々に色々と名目をつけて税を増やすだろうよ」 「軍隊を強くして外国の侵略を防ぐと先生は教えてくれましたが違うのでしょうか」 「それは本当のことさ。でも其れが行き過ぎれば自分から他国を侵略せずに居られるかは疑問だ。イギリス、フランス、ロシアに新興勢力のドイツを手本に軍事力を蓄えて他国へ打って出ないという覚悟をもてるかどうか」 徳川が二百年以上に渡り国内に大きな騒擾をおこさずに来た世の中も維新の騒ぎ以来国内もようやく安定の兆しが見える中、軍部の一部には今なら清国を叩いて朝鮮半島の宗主権を否定し日本の支配による貿易拡大を目論むのは政府から追い払われた民権派と言われる自由党の一部だ。 横浜から日本米を輸出し安価な安南米に朝鮮米を輸入する居留地商社もその後押しをしていると寅吉は了介に教え「このままでは米は不足するほど人口が増え特に農村では生活が苦しい国民が増えるだろう、軍隊に入れば今の陛下中心の学校の教えを受けて育ったものは一部の上官の扇動をそのまま陛下のご意思と思い込んで外国侵略の手先になってしまう」 「では、父さんは戦争に反対なのですか」 「ああ、戦争はいかんよ。しかしいざ始まってしまえば其の是非を問わず勝たなければ意味がない。戦争が起きない努力はしても始まれば力を貸すべきだ」 「戦争をおこさない努力をしても起きれば国民として協力すると言うことですね」 「そういうことだよ。スタチスチック社の杉先生に寄れば徳川の時代に三千三百万人だった日本の人口は今四千万人に近くなったそうだ、このまま行けばあと二十年で五千万人、五十年後に七千万人、いやそれ以上に増える可能性があるそうだ。七十年で倍に増えた国民が食べる穀物に野菜、生活に必要な衣類も家も不足するのはめに見えているが政府は其れを昔西郷南州先生が唱えたと称して朝鮮への進出の口実にしている。伊藤さんや、西郷さんが抑えても押さえきれるかどうか不安定な情勢だ」 「では北海道の開拓や、移民だけでは国内に住む場所も食料増産が追いつかなければ食べるものも手に入らなくなるのでしょうか。先生は移民と北海道開拓を奨励する話しを盛んになさいます。南州先生のこともお話くださり朝鮮征伐を唱えたと教えられました」 「其れは違う」 寅吉の大きな声に容もお松津さんも驚いた。 「其れは了介違うんだ。君には間違って覚えて欲しくない。南州先生は朝鮮も日本と同じように開国し清国共々手を取って外国からの侵略に備えるように説得に行く予定だったんだ。しかしあの当時外国の強力な軍隊、工業力を目の当たりに視察してきた木戸孝允先生、大久保利通先生に岩倉様が列強諸国にいま敵対するような行いは日本のためにならないと芽を摘んでしまったんだ。確かに伊藤様も其の手先の一人だが今は東洋諸国が手を組んで列強に対抗すべきとお考えだ、其れは決して武力討伐ではないのだが同じ思想の大隈様を追いやってしまったのも伊藤様で、ご本人も今は反省しているのだよ。そして南州先生の信奉者が朝鮮征伐と言葉の勢いで言った言葉の端々を当時政府に容れられなかった人たちが自分たちの都合で使い出したんだ」 最初の興奮も収まり次第に何時もの穏やかな寅吉に戻っていき、小学校の二年生程度でそんな事まで学校が教えているようなのには寅吉も驚く了介の様子に嬉しさもある不思議な気分だ。
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最近居留地ではテニスラケットの小型にしたものを町の家具職人に注文するものが増えてきた。 網の上にさらに馬の皮や牛の皮を張りつけたものだ、マックも横浜物産に500個という大量注文を出してきた、握り部分が大分と短い物だ。 寅吉の少年時代のものに大分近くなっている「之で輸出できるのかい」ととぼけて聞いた。 「遅れてるぜコタさんよ。雨の日にテニスコートに出られないご夫人どころか紳士諸君まで之で遊ぶんだぜ。ボストンでも大流行でセルロイドの玉を5000個輸入したがラケットが高すぎるのでこっちで作ることにしたんだ、こいつが売れれば大儲けだ」 輸出ではなく国内販売をする心算のようだ。 セルロイドの玉はビリヤードの玉としてアメリカで大量生産されていて其れは寅吉も知っていたが軽いピンポン球がこの時期に現れた事は知らなかった、最近は写真乾板にも使われだしセルロイドの用途は広がっていた。 寅吉の少年時代には学校にクラブもあり卓球部といわれていたが寅吉は覘いただけで入部しなかったのでルールは覚えなかったが遊びではよく玉を打ち合った。 最近夜の居留地に遊びに来ないので流行に後れだしたなとマックは大きな声で笑った。
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8日の土曜日了介たち二年生は学校の授業で町を回った、九時に谷戸橋から関内へ入り居留地39番の元ヘボン邸(James Curtis Hepburn)の説明を受け左周りに二十番のグランドホテルを一回り見てバンドを歩いた。 昨年二月七日に焼け落ちたウインザーハウスは空き地のままグランドホテルが地権を手に入れていた。 火元のファサリ写真館は十六番(明治十八年にデイヴィッド・ウェルシュから買い取った横浜写真商会の建物)に移り十七番は昨年だされた日本絵入商人録に画像を残して空き地になったままだ。 同じ十六番水町通りの横浜ラムネ製造所(H・ハーディン)で造るラムネは昨年来町の人気商品だ。 通りに面した窓から顔を出していたアドルフォが教師の只野に声をかけた。 「今日は天気がいいから写真を撮ってあげようか」 「買い取る予算は学校にありませんよ」 「それでもいいんだ、校長に頼んで校内に見本を張り出して申し込みを受けられるように出来れば一番いいんだがね」 「それなら他の写真家もやっていますから大丈夫ですよ」 スタジオからぞろぞろと助手の日本人も出てきてフランス波止場のボートハウスが写り込む日当たりのよい場所で子供たちを見栄えのよいように並ばせ、明かりを集めるように戸板に銀紙を貼り付けたものも持ち出してきた。 三十人の生徒をカメラに収めるのは大変なようで後ろの生徒には持ち出した台に乗せて一番前の生徒は腰を下ろさせて漸く満足したアドルフォは只野に「君は其処じゃなく反対のほうが引き立つよ」と海側から移動させた。 色付けをする女性も呼ばれ子供たちの着物の色をメモに書き入れていた。 二枚写して只野に「月曜に見本を持っていくよ。君の分はサービスだが色はつけてないよ、色付けは高くつくからね」と鷹揚に言った。 「買い手が見つからなくても僕のせいじゃないぜ」 「勿論だとも」 今横浜は東京に劣らず写真館が大もてだ、ベアトからスチルフリードを経て17番はファサリ商会となったがベアト以来の貴重なネガ(ガラス乾板)は焼失して無くなってしまった。 只野は支配人の殿倉や助手の写真師たちと何事か話していたが彼らと別れて生徒を引率して先へ進んだ。 十五番はP&O汽船会社の事務所、この場所に事務所が出来たのは慶応二年(1866年)という老舗だ。 十一番はニューオリエンタル銀行、元治元年(1864年8月)の開業、元はオリエンタル(東洋銀行)だったが三年前1884年に危機に陥り新しく出なおしたものだ。 十番は時計で有名なコロン商会、サムエル・サムエル商会が開業後僅か一年で六十八番に引っ越しをしたあと移ってきたばかりだ。 九番はフランス汽船運輸会社、街ではフランス郵船というほうが通りがよい。 クラブハウスを外から眺めているとユナイテッドクラブ(Yokohama United Club)から会長夫人のラウダーさんが出てきた。 「誰に話しがあるのですか」 「其の背の高い根岸君」 マリアは日本語も上手だ、夫のラウダー氏が領事の時に一時休暇で帰国した以外25年は横浜に住んでいる、 蓮杖が写真技術を学んだ時は通訳の手伝いもしたほど語学に強い人だ。 「よろしいですよ。了介君五分だけだよ。亜米一の前で待っているから」 只野は了介を残して先へ進んで四番館の太平洋郵船会社の説明をして三番館ロビンソン商会の前の通りに生徒たちを待たせて二番の亜米一(ウォルシュ・ホール商会)の建物に入り見学の許可をもらうと生徒を呼び込んだ。 了介も着いているのを確認して庭へ入って一回りして建物に入った。 「学校の授業での見学ならお茶場を見て行きなさい、今は休業中だから中に入れるから案内しますよ」 足助支配人は了介とも顔なじみで優しく笑いかけると只野にそう伝えて案内にたった。 足助支配人の義父の熊谷支配人も亡くなるまで此処で勤めていたそうで寅吉や勝とも付き合いが有った。 水町通りの門から出ると右へ向かい角の二十一番は英一(ジャーディンマセソン)のお茶場で其処から左手へ行くと薩摩町通り、百八十四番は公園の手前にあり居留地に二十軒ある再生茶工場の一つだ。 マックは了介に「俺は乾燥を効かせて輸出するか横浜物産会社の扱う良質のもので掛川で確り封印された茶を扱うのだが今の横浜や神戸では清国人に指導させて色付けの茶を輸出している。こいつは身体にも悪いし俺はやらないことにして神戸の義弟にも扱うなと言っているんだ。勝の紹介した静岡の茶は最近良くなってきてロンドンでも高値で売れるんだよ」と今の儲け主義の工場での色付け作業に批判的だ。 工場は冬で閉鎖されていて侘しかった、四月ともなれば熱気が篭もった工場では鉄鍋を乗せた炉がずらりと並んで三百人近い女性と指導監督の清国人に日本人の男性も混ざり鉄鍋に放り込んだ茶葉を下から火で炙りながら素手でかき回して作業する。 「たいしたもんだろう」 足助支配人は自慢げに子供たちを見ていろいろと説明をしてくれた、子供たちは感心して「凄いね」「ほんと此処で忙しく多くの人が働くところなんだね」などと話すのを聞いて満足げだ。 去年の五月に此処へ来た時清国人がお茶に何かの粉をまぶすと女性が鉄鍋をかき回す様子は見るからに暑そうで汗を拭う手ぬぐいも緑色に染まりすさまじいものに見えた了介だ、それでも鍋から出てきたお茶は緑の色が冴えて綺麗に見えた。 「どうだい見事なお茶の色だろ」 見本にガラス瓶に入れられた茶を見せてなおも足助支配人は言葉を続け出来上がったお茶を器械でかき回して均一化する様子も話して実際に留守番のものに器械を動かさせて見せてくれた、此れには只野も了介を含めた子供たちも大歓声で喜んだ。 英一も回る予定だったが予定外の時間がかかり今回は此処で学校へ帰ることになり一同は加賀町通りを歩き西の橋を渡って学校へ戻って行った。
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十六日の朝家を出る時に容に弁天通りのとらやでお昼を食べてお出でといわれ一円を渡された。 了介は「母さんありがとう」と短く答えて自分の財布に五十銭銀貨2枚を落とし入れた。 何二十銭もあれば三人の昼代に余るのだが与えられたお金は残れば本を買う資金に使えるのでそのまま貰う事にしているので容のほうも承知で多めにわたすようだ。 今日は友人と関内を探索しようと先週約束していたのだ、子供たちだけで大丈夫かと思うのだが稙田の親も寅吉も何も心配は要らないと考えているようで容もそれならと子供たちに任せた。 日曜なのに寅吉が末吉町へ出ると言うので人力に同乗して吉岡町の稙田の家の近くで降ろしてもらった了介は耕吉の家で恭三が来るのを待って賑町へ向かった。 吉田橋を渡り尾上町を東へ入り我彼公園(パブリックガーデン)まで出ると公園を抜けて花園町へ出た。 日本大通りを象の鼻へ向かい県庁があった空き地の半分に建てられた警察本部の建物で左に入れば本町通り、神奈川郵便局と電信局を眺めてその先の町会所と一緒になった横浜区役所の時計台を見上げた。 税関の新しい庁舎とくすんだ県庁を見てその違いに驚く二人にすこし自慢げに此処が元の税関で元の県庁が火事で燃えたあと此処へ移ったと教えた。 左手波止場側に並ぶ大きな建物は日本郵船で日曜なのに人の出入りは多かった。 「休みはないのかな」 「きっと船に乗る人や荷物の輸出入で忙しいのさ」 子供ながら横浜育ちの三人はいっぱしの事を話しながら海岸通りを西へ向かった。 突き当たりは横浜始審裁判所で元フランス公使館が此処に有ったと言うことを了介が二人に教えた。 「了君は物知りだ」 「だって姉さんと歩いた時に教えてもらったのさ。その姉さんも父さんから教わったそうだよ。今度は君達が兄弟や友人に教えれば横浜の歴史が忘れられる事がないと父さんが言うんだよ」 「コタさんは横浜が大好きだからとうちの父ちゃんがいつも言うよ」 裁判所と衛生試験場の間の道を入ると左は横浜商法学校、右が宮内省御用地の庭園。 その先の海軍省に燈台製造局、突き当たりの河口には荷船が忙しげに行き来をしていた。 弁天橋から横浜駅に出て新しく設置された噴水を眺めたがまだ水は出ないようだ。 「何だ水が出ていないよ」 「まだ野毛山から水が送られていないんじゃないかな」 街に水道の水が給水されるのはこの年の十月十七日からだった、噴水は三基輸入されて野毛山と我彼公園にも設置される予定だ。 人力車が50台以上も列車の到着を待っていて十時十分の列車が到着すると一服していた車夫に緊張が走った。 降りてきた乗客の身なりのよい紳士や外人客の順番に当たった者は威勢良くガラガラと音を響かせて砂利道を駆けて行った。 駅を回り込み引き込み線で操車する様子を眺めて大江橋で関内に戻り路地を探索しながら本町通へ出た。 十二時丁度に馬車道の正金(南仲通五丁目八十三番地南側)の建物を見て了介と恭三と耕吉の三人は隣の角地の福井屋が馬車道側に入り口がないのはなぜだろうと話しながら弁天通りへ曲がりその福井屋の玄関口の人の出入りを避けて隣のとらやの店に入った。 最近此処では和菓子とケーキにサンドイッチにコーヒーなども扱う店になっていて隣と違い派手な見世は昔のままだ。 福井屋と同じく三階建ての建物はどっしりとしているが二階は椅子席、ガラス窓で明るく落ち着いた雰囲気があるので婦人方のお気に入りの場所だ。 了介と顔見知りの店員がすぐ二階の窓際へ案内してくれてお品書きを渡してくれた。 「君達はなにを食べるんだい。母さんからお昼代とお金をもらったのでおごりだから遠慮しないで好きなものを言っておくれよ」 「しめた」 「それならハイカラにコーヒーとサンドウィッチ」 とらやでは曜日によって違うと書かれていて日曜はハムと野菜のミックスだった。 「耕吉君は粋だね。でも其れで足りるのかい」 「僕はそれにいなり寿司も追加しておくれよ」 恭三が和洋折衷の不思議な注文をしたのでつい可笑しくなり笑いながら「三人とも其れで行こうよ」と「コーヒーとサンドイッチにいなり寿司を三人ともお願いします」と頼んだ。 「ねえ了君はいまサンドイッチといったけど家ではサンドウィッチと父ちゃんが言うんでそう覚えたけどどう違うんだい」 「そうそう僕の家でもそういうよ」 「そうなんだ、イギリス語では同じSANDWICHとつづるんだけど」と了介は懐から出した手帳に綴りを大文字で書き付けて二人に見せた。 「詳しい事は僕も知らないんだけどね、このパンに野菜を挟んで食べる事が好きだったサンドウィッチ伯爵にちなんだ名前だと言う事は八十松さんが教えてくれたよ。それから行けば君たちの父さんのほうが正しいんじゃないかな」 了介は寅吉が使うサンドイッチというほうが言いやすいので使っているようだ。 熱いコーヒーに注意してくださいと砂糖の壷を置いてカップにポットから注いであとでお替りをお持ちしますかと聞くので「十五分したらお願いします」と頼んだ。 サンドイッチが出てきてお替りのコーヒーを注ぎに来た店員に続いていなり寿司が来たがそれにはお茶も付いて来たのでどちらを呑もうか迷う三人だ。 結局三人ともお茶で稲荷を食べて「やはり僕たちは日本人だからこうなるのかな」と笑いながら食後に冷めてきたコーヒーを甘くして飲みながら之から何処へ行こうかと話し合って結局我彼公園まで行ってみることになった。 手洗いを三人交互に使い店をあとにすると恭三が「了君今気が付いたけど今日は誰もお供が後から付いてこないね」と言い出した。 「そうみたいだね。僕は気が付かないけど大人が一緒じゃないときはたいてい誰かはなれて見てくれているんだけど」 「でも了君の知った顔は見ていないんだろ」 「たまには千代さんも誰にも言いつけない事があるんじゃないのかな」 了介もそれでもいいんじゃないのかなと思うこともあるのだが心配性なのさとは口に出しては言わずに納めた。 どの通りを回ろうかと話しあって常盤町を通り抜けようと決め我彼公園へ向かった、今朝はクリケットの試合をしていた公園で午後は野球が行われると寅吉がマックと話していたのをこの間聞いていたのだ。 クリケット場では試合が始まっていた、大きな板にはまだ点が入っていないのがひと目でわかるゼロが並んでいた。 見ていた人が「今日は日本郵船会社と太平洋郵船会社の試合だよ。投げている人が良いのか其れほど遠くへ飛ばないんだ」と子供たちに教えてくれた。 小さな声で「しかたねえなぁ」とか「あんな球なら俺でも打てる」など盛んに言っていたが太平洋郵船会社が漸く一点を入れると其れからは乱打戦となって終わってみれば12対9で太平洋郵船会社が逃げ切った。 「さようなら」 子供たちが挨拶すると「ああ、グルバイ」と横浜言葉で返されたので了介達も「グルバイ」と言いながら分かれた。 「バイ・エンドバイ・ゴーヘイ(ゆっくりいそげよ)」と子供たちは言いながら旭町通りを弁天通りまで進んで本町通りとどちらを通るか相談した。 耕吉がそう言って二人を引っ張るように通りへ入った。 その丸屋は二丁目に薬店がありその先四丁目に唐物店其の先同じ四丁目に書店がありそれぞれ看板は英字で書かれていて書店の暖簾には丸善という字にMの字が染め抜かれている。 日曜で弁天通りは賑わっていて行き交う人たちも多く、荷物を沢山持つ人の間を人力車が「ごめんよ、ごめんなさいよ。通りますよ」と声をかけながら通り抜けていく。 「リキショもかきいれだね」 車夫の事を含めてリキショで通じるのは横浜の人たちだろう、大八や人力車に道を譲る大人たちがそういいながら子供たちの前を進んで丸善書店に入っていった。 看板はZ.P.MARUYA&COとなっていて子供たちは暖簾の丸善と違うZPの意味がわからず首を傾げるばかりだ。 和英英和語林集成〈三版〉が東京丸善商社書店から売り出されたという下げ札が出ていて座敷の棚にその本が有るのか教師風の人が店員と価格について話し合っていた。 「五円五十銭か。まからんのかね」 「私どもは正価販売で御座います。昔の本を古書店でなら安く手に入れることもできるでしょうがヘボン先生が初版を出されたときはこんな価格ではとても手に入らなかったそうで御座いますよ」 前年十月にヘボン博士の和英英和語林集成の版権(2千ドル)を丸善が買い取り販売された物だ。 子供たちはまた道の反対側に移り看板を眺めていると横浜物産会社から出てきた佳史が了介を見つけて「どうしました了介君、そんなに熱心に看板を見上げて」と声をかけた。 「アッ。社長さん良いところへ。実は丸善の看板のマルヤアンドコンパニーと言うのは僕達でもわかりましたが最初のZとPが三人で考えても何のことかわからないのです」 「ああ、あれね。お店を昔登録する時に丸屋善八という名前で登録した名残ですよ。ZはゼンPがパチの事だそうですよ」 「そうかヘボン先生のローマ字表記のZEMPATIなんですね」 了介はゼット、イー、エム、ピー、エー、ティー、アイと一字ずつ発音して佳史に確認した。 「そうですよ。良くPの前のんはMになると言うのを覚えていましたね」 褒められた了介は頬を染めて恥ずかしげだ。 三人は佳史にお礼を言うと馬車道へでて吉田橋へ向かった。 羽衣町の弁天の前で同じような年頃の子供たちが集まって競い独楽で遊んでいるのを眺めて清正公へ向かった。 最近お薦(こも)さんが増えてきて関内を追われてこの付近が最近の稼ぎ場だ。 子供たちは持っていた龍の半銭や一銭を公堂の戻り道順に与えながら道をたどり「之でお終い」と言って最後の一銭を椀に入れて長者町の通りに出た。 「最近お薦さんが増えたと思わないかい」 「うん、子供だけのグループまであるらしいよ」 人口が増えすぎた横浜では孤児になる割合も増え孤児院としての機能も限界を超えていた。 「お茶場の稼ぎを当てにしても冬の間は休むからどうしてもこの時期になると火事で焼け出されると行き場がなくなる人が増えるそうだよ」 子供たちにはそれ以上の事も出来ずその日は家に戻っていった、了介は氷川商会で二人と別れると事務所へ声をかけると寅吉がケンゾーと話しを止めて「戻ったか。もうじき山手に行くからここで待っていな」と呼び入れた。 長與專斎は松本順とケンゾーの勧める大磯に対抗するように茂木惣兵衛と計り鎌倉に療養所の建設を計画しているようだという話しを続けた。 木造西洋館30室程度になる模様だそうで「日本ではまだ難しいでしょう。看護の者に医者を常駐させるとなると生半可なホテルより高くつきますから」そうケンゾーが言うと「そうだろうな。出資者も多くないだろうから茂木は持ち出しばかりさ」と寅吉は難しい顔をした。 8月開業と言う予定で東京で大倉達が企画している3年後を開業目途のホテルには及びも付かないがグランドホテル並みの設備を備えるようだ。 其のグランドも焼けたウインザーハウスのウルフが加わりボワイエ商会と共に新館建設の資金を集めだした。 「昨年末の居留地の外国人は三千九百四人だそうだ。一時滞在や神戸に東京などを含めると一万三千ほどが日本に来ているそうだ」 「旦那はグランドには手を出されないのですか」 「もう充分さ。ベアトにスミスもいないんじゃ面白みもないしな、マックを通じて株を持つだけで良いさ。ラウダーさんが一緒にどうかと言ってきたそうだがまだ時期じゃないよ」 「というと」 「ミュラウールと俺じゃ意見が違いすぎる。フランス式の食堂はいいがホテルの経営方針が時代遅れさ」 「では彼が手を引いたら乗り出すお考えですか。ボワイエとは気が合いそうですか」 「あいつともマックは気が揃わんと言ってたぜ。ラウダーさんが本気で資金を集めだしたら参加しても良いさ。十万ドルくらいなら正太郎やアーサーの資金で充分だ。其の時は今企画のある新館をさらに拡大して百室を予定の喜八郎さんたちのホテルに負けないものに出来るだろう」 「十万で出来ますか」 「三十万は集めたいところさ」 「ラウダーさんに其の資金が出来ますか」 「十万集められれば其の時に乗り出せば良いさ」 其の時はケンゾーも参加するといって家に戻っていくのを見送って人力を呼んで山手に戻った。
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明治20年(1887年)4月9日土曜日 寅吉は学校から了介が戻ると羽織袴に着替えさせて自分は洋服にシルクハットをかぶり容と供にお花の四人で駅へ馬車で向かった。 一時半の列車に乗り込み東京へ向かいおつねさんの隠居所に着いたのは三時半に間がある時刻だ。 「なにかい明日は朝から先生と花屋敷でお茶のお会だと」 「可笑しいだろ。若様に富田先生に杉先生、高木先生も参加されるそうだ。昔の氷解塾の勢ぞろいさ」 移動した花屋敷が珍しい動植物を配し五区に開園したのは、明治18年(1885年)3月20日、勝の書に寄る花鳥得時の看板を掲げ園内は和洋折衷の自然庭園になるのは経営が森田六三郎から木場の材木商山本徳治郎(金蔵)とその長男の松之助に引き継がれてからだ。 明治21年本所から移される五層の楼閣奥山閣(おうざんかく・鳳凰閣)は通称「五階」と呼ばれた。 明治36年に大阪で開催された万国博覧会に出典の外国産の動物達は全て花屋敷が引き取り象、虎、ライオンなどを観覧させる動物園も作られた。 その日ボストンからの手紙を読むつねの眼には涙がたまっていた、夕食を一緒に採り客間に泊まり翌朝お花を残して浅草へ向かった三人は広小路の停留所で降りて仲見世を歩くことにした。 「此処に昔雷門という大きな門があったんだが火事で焼けてしまったんだ」 「そうでしたわ、あれはあちきがまだ芸者で出ていた頃でした」 「そうだ確か慶応元年、正式には風雷神門だが誰もそんな名で言わなかったな」 「ほほコタさんの神田っ子は何でも省略しますから」 「馬鹿いえそいつは浅草も同じだ」 「いえさここらは逆さ言葉でござんしたよ」 「ふんどうせおいらかんたの生まれじゃねえよ。かったぁと言うのは吉松さんだ」 吉松たち神田っ子は「おいら生まれはカッタァよ」と言うのが口癖だ、浅草本所深川を問わず駒形堂は「こまんどう」で駒形は「こまかた」けしてこまがたとは言わなかった、秋葉が原は「アキバッパラ」で「はんてんき」は半纏着の事だ。 「そういゃあ吉松さんがこの間秋葉社が移転だと聞いてきたそうだ」 「おやそりゃどうしてでござんす」 「何でも上野から貨物線用の線路を延ばしてきてあそこに大きな駅を造るそうだ」 「まぁ、まだ20年も経たずに神社の引っ越しですか」 「こっちへ来るそうだ、松葉町だとか言う話だ」 秋葉神社 元は鎮火の守護神として江戸城内紅葉山に祀られていた。 一般には「秋葉神社」と呼ばれ、東京一円の火災鎮護の祈願所として崇敬された。また、この火除地も「秋葉原(あきばはら、あきばっぱら)」と通称されるようになった。 昭和18年(1943年)浅草・下谷両区の境界変更によって、松葉町は北西隅と北東隅の一画を下谷区に割譲した。そして、台東区の発足によって再び統合された。昭和40年(1965年)の住居表示の実施で、松が谷一・二・三丁目に組み入れられた。 新駅は秋葉原(あきはばら)と名づけられた。 三人でぶらぶらと仲見世を冷やかして歩き仁王門の手前のぬれ仏(二尊仏)から弁天山の老女弁財天へお参りをした。 戻り道久米平内堂で了介に人となりを教えて仁王門をくぐった。 右手の五重塔を見上げながら先へ進み本堂で声を出して明子の無事息災を願い賽銭を奉じた。 右手の三社様(浅草神社)へ向かうと本堂脇の日当たりのよい場所にはお薦たちが十人ほどもいた。 了介は今朝おつねさんに崩してもらってきた一銭を全員に渡して三社様の鳥居下で待つ両親の元へ駆け寄った。 明子の無事をここでも願い右手奥へ回ると新門辰五郎が勧請したという被官稲荷へ参詣して此処の祭は初午とは違い3月18日だと言うことを了介に話した。 其の3月18日という日の由来を語りながら元奥山の五区に沿って淡島堂へ出て同じように参詣すると其の裏手萬梅の先が花屋敷の入り口だ。 「けどお前様」 「どうした」 「本堂の周りが一区と言うのはわかりますがわざわざ本堂を三区にする意味がわかりませんわ」 「俺もそう思うよ。伝法院と不動を別にするならわかるが本堂も一区と切り離すなんて誰が聞いても可笑しな話さ」 海舟の書いた額は茅葺き門に架かり小鹿さんと梅太郎君の顔が見えた。 「コタさん早いね。9時にはまだ間がありますよ、まだ富田先生だけですよ。目賀田の兄は父と一緒に来るそうです」 梅太郎が挨拶もそこそこにそう伝えた、その梅太郎を残して小鹿が庭園を案内して今日の集まりの東屋へ案内した。 「大分小さくなってしまいましたね」 小鹿の子供時分に来た時は倍以上も有った敷地は浅草寺自体が11万坪以上も東京府に取り上げられ其れは花屋敷とて例外ではないのだ。 浅草寺の時代と違い東京府への地代負担は大きく其の営業に響き入場切手を売っても利益は大きく伸びる事がないようだ。 富田に寅吉の家族を引き渡すと小鹿は入り口の案内に戻っていった。 次々に到着する塾生は夫人を伴うもの子供づれのものと賑やかで了介を紹介するとコタとよく似ていると評判で資美様は「氏より育ちとはこの事だ」と言ってくれた。 先生もお民夫人とおいでになられ「コタさんの顔を見たらうなぎを食べたくなったわ」などと言い出して皆を笑わせた。 「そういえば近くの奴に久しく行ってない」 先生はそう言って万次郎さんを誘って奴でうなぎ飯をよく食べた話しをした。 ジョン万次郎事中浜万次郎は先生と咸臨丸で苦労した仲間だ、土佐の生まれで十四才のとき五人の乗り組んだ船で漁に出て漂流し、鳥島まで流され百四十三日後にアメリカの捕鯨船ジョン・ハウランド号によって発見され助けられ、四人はハワイに上陸ジョン・マンと呼ばれた彼は捕鯨船で働き二年後にマサチューセッツ州ニューベットフォードに帰港したホイットフィールド船長はジョン・マンをフェアヘーブンに連れ帰ると英語、数学、測量、航海術、造船技術などの教育を受けさせた。 日本に戻ったのは漂流から十年後、時代は万次郎を必要とし二年後には江戸に呼び寄せられたがペリーとの交渉の場に立ち合わせる事は許されなかった。 「芝新銭座かその前の亀沢町の時代にお役の帰りにも来たが、砂村に住まいが移ってからも時々来たな。万次郎さんとはなぜか此処が多かった」 「先生それじゃぁコタと同じで先生もうなぎを数多く食べてますよ」 「そうかもしれねえな」 それには一同で大笑いだ、夫人たちは別棟でお茶にお菓子が供され話しが弾んでいるようだ。 「そういえば梅太郎君のところは男の子だそうでめでたい」 杉先生がそういうと恥ずかしそうにはにかむ梅太郎だ。 「家はいいのですが姉のところがまた女の子で」 お逸は三女に男のような勇雄(いさお)という名をつけたので目賀田は周りから冷やかされる始末で勝は「コタよお前の千里眼で逸に男の子ができるかどうか見えないか」と言い出した。 「そうですねお逸さんのところは女五人に男二人ですかね」 そう見えたようなことを言っておいたのはパリへ留学した長男の見送りに来た日の情景から思い出した家族の様子からだ。 「目賀田君、コタが言うからにはいずれ君のところは大家族になるようだ」 富田先生はそう言って大きな声で笑って寅吉の肩を叩いた。 その日の集まりは昼には終わりそれぞれが都合のよいところで昼をくうか先生夫妻と奴へ行く者に別れた。 奴の前でお春と様子のよい老人に出会い話しがあると言うので先に奴には了介と容を上がらせることにしようとお春に言うとではわたし達もと言うので別座敷で話しを聞く事にした。 「コタさんの事は此方様にもお話しをしてありますが、同じ根岸と申されて道化踊りの劇場を六区に建てたいと申請をされておられますが許可が下りません。わたし達の根岸物産という看板を見てお寄りくださいましてお近づきになりましたのですが道化踊りは東京府がいいと言うのですが警視庁からの営業認可が出ないのでお困りなのです」 「そいつぁ困った事でござんすね。同じ苗字とあっては縁もござんしょう。わっちたちと興行会社を興したことにして新たに申請なさっては如何ですか、擦れば奥山からの引き続きと認可もとりやすいですぜ」 「其れはいいお話で、私はつくばの出で常磐館という名も決めておるのですがこの際ですからお春さんたちの根岸物産から根岸興行部という独立した会社で申請をして見たいと思うのですが」 「そいつはいいお考えで、では私とお春さん、お夏さんで三分の資本を出して一万円の会社をおこしたことにしませんか」 「三千円の資本をおだしになると言うことでしょうか。私のほうで七千円が集まりますか不安で御座います」 「何じつさいに出される事はありませんよ、表面だけそううたえばいい事で金はお春さんが都合いたします」 「そうですよ、浜吉の小父さん此方から十年無利子で不足分は七千円までお貸ししますから派手にやってくださいよ。いまだ昔の奥山時代の盛り場に追いつかない六区も少しは手踊りの常打ちが出来れば賑やかになるでござんす」 「いやはや驚きました、コタさんの気風が良いとお春さんから聞かされても半信半疑でしたがフイに出会った私にそれだけ後押しをして下されるとは」 六区は十九年から四十年にかけて次々に大型施設が増えていった、1号地南端にできた第一共盛館は玉乗りの青木一座、第二共盛館では女芝居。 「それからわたし達は金を出しても口を出す気はござんせんから儲けが出たら興行を盛んにする資金に回しておくんなさい。それでも金を借りっぱなしが気になるなら根岸物産へ返却すればいい事で、此方は今の話しを書面にして金を出すだけでござんすから」 お春は浜吉にそう伝えて事務所で書面を作り改めて警視庁に書類を出す算段を致しましょうと出てきたうなぎを美味そうに食べて戻っていった。 寅吉は先生たちの部屋へ行くと今の話しをすると「奥山の見世物はいいが道化踊りがイカンと言うのは理屈に合わんな」と不思議そうな顔だ。 道化踊りが下谷、深川以外での興行は禁止から解禁(明治12年)されているのに浅草公園が駄目だと言うのは理屈に会わない事は確かだ。 先生夫妻や諸先輩を見送り容と了介を先に神田に帰して新しくなった六区の賑わいをひとりで探索した。 少年時代に父と訪れた六区とは違いまだ洋風の建物はなかった。 「あの時は十二階ももう古くなっていて危険だと父が話していたんだ、あの地震でこのあたりはどうなったんだろう」 そんなことを思いながらひょうたん池の脇にあるベンチに腰掛けてあの時の様子を思い出していた。 「そうか、この間了介と来た時は水族館の事で蕎麦屋は気にならなかったが」 目の前の万盛庵を見て思い出す事が多くなった。 「あの日は此処へ入ったんだ、そして隣の万盛館という落語の定席に入り後で横浜で亡くなった品川の円蔵の蔵前駕籠を聞いたんだ」 其の時の情景がありありと浮かんできた、もりを二人で手繰り其処をでて今座っているベンチの近く噴水を背にアイスクリームの屋台から二つ買い入れ十二階を見上げながら看板を読む虎太郎に説明をしてくれた父、活動の遊楽館、並びのキネマ、娘義太夫の江戸館、玉乗りの第一大盛館、浪花節の第二大盛館と眼で追って父の話しを聞き、目を転じてすし屋の岩崎と蛇の目、其の先の世界館に大勝館、四つ角の先に活動の三友館、その道を挟んで前は活動の千代田館で手前はオペラ館だ「良くこんなに名前が出るのに普段思い出せないのはなぜだ」と可笑しく思うのだった。 二人で大勝館の脇を入り壮士芝居から出た喜劇の曾我廼家五九郎の観音劇場の前を通り大分歩いた記憶が有り電車通りへ出た。 合羽橋の停留所で市電に乗り菊屋橋、三筋町を通り浅草橋を経由して新常盤橋を渡り東京駅へ出る路線だ、父は系統図を見ながら随分路線も増えたが今年営業所別の系統番号が複雑になったと話してくれたその日は大正十年の八月暑い日だった。 「新常盤橋を渡るとき下流にある常磐橋との字の違いを教えてくれたっけ、電車を通すために此処に架けられたと言うこともだ」 何度も父と東京へ来た記憶があり其の時はそのまま東京駅から横浜へ帰ったのでただ単に浅草へ来たのか仕事を兼ねていたのかまでは思い出せなかった。 寅吉は2年分の記憶がごっちゃになったようだ、後年31系統、大正11年は特殊な年で箕輪車庫を出た合羽橋経由の線には141系統の側面掲示板が掛かっていた。 この時の31系統は雷門からで蔵前で141系統と合流した。 廃止直前の31系統 三ノ輪橋-三ノ輪車庫-竜泉寺町-千束町-入谷町-合羽橋-菊屋橋-三筋町-蔵前1丁目-浅草橋駅-浅草橋-馬喰町-小伝馬町-本町3丁目-室町3丁目-新常盤橋-丸ノ内1丁目-丸ノ内北口-丸ノ内南口-都庁前 品川の円蔵 四代目橘屋円蔵(松本栄吉)横浜新富亭にて大正11年(1822年)二月の上席の3日目宮戸川を演じて後翌日から気管支喘息で休演、3日後の2月8日に亡くなる、58歳。 碑が横浜の弘明寺にあるそうだ。 日本橋川トキワ三橋 常盤橋 ・下流 昭和元年 (1926年) 鉄筋コンクリート製石張り2連アーチ橋現存 常磐橋 ・中流 明治10年(1877年) 石造アーチ橋2連アーチ現存 新常盤橋・上流 大正9年 (1920年) コンクリート製3連アーチ石材張り 昭和63年(1988年)架け替え、鋼製 |
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浅草公園地 大池(ひょうたん池)明治16年掘削 行政町名上、一区から六区までは昭和40年(1965年)まで存続したが、浅草公園地は昭和22年(1947年)浅草寺に返還され、公園ではなくなった。 一区 浅草寺本堂周囲
二区 仲見世
三区 浅草寺本堂、伝法院
四区 公園中の林泉池、大池(ひょうたん池)附近
五区 元奥山、公園の北側。花屋敷付近 六区 ひょうたん池西側
仲見世外側の馬道町一丁目二丁目等
写真館、物産店・飲食店、天文館、木馬館があり、広大な施設であった。帝国館は、吉沢商会製作の映画のフラッグシップ館となった。 収録もれも多いと思いますがとりあえずこのくらいでと言うことで大震災以降のものは特に調べませんでしたが昭和初期に六区には映画館・劇場等が三十館以上有ったそうです。 |
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話は正太郎のパリから大分ときも過ぎました。 横浜幻想のアンテロープ編の1872年(明治5年)からだと12年後(第1回時点)の横浜です。 今回の話の中心は了介と明子になります。
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2010年04月11日 了 |
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幻想と現代社会へ続く歴史の真実との狭間を探してくださいね。 教授からの原稿を小出しながら更新中 アイ |
幻想明治 | 第一部 | ||
其の一 | 洋館 | ||
其の二 | 板新道 | ||
其の三 | 清住 | ||
其の四 | 汐汲坂 | ||
其の五 | 子之神社 | ||
其の六 | 日枝大神 | ||
其の七 | 酉の市 | ||
其の八 | 野毛山不動尊 | ||
其の九 | 元町薬師 | ||
其の十 | 横浜辯天 | ||
其の十一 | |||
其の十二 | Mont Cenis | ||
其の十三 | San Michele | ||
其の十四 | Pyramid |
酔芙蓉−ジオラマ・地図 | |||||
神奈川宿 | 酔芙蓉-関内 | 長崎居留地 | |||
横浜地図 | 横浜 万延元年1860年 |
御開港横濱之全圖 慶応2年1866年 |
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横浜明細全図再版 慶応4年1868年 |
新鐫横浜全図 明治3年1870年 |
横浜弌覧之真景 明治4年1871年 |
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改正新刻横浜案内 明治5年1872年 |
最新横浜市全図 大正2年1913年 |
酔芙蓉−ジオラマ・地図 | |||||
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横浜地図 | 横浜 万延元年1860年 |
御開港横濱之全圖 慶応2年1866年 |
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横浜明細全図再版 慶応4年1868年 |
新鐫横浜全図 明治3年1870年 |
横浜弌覧之真景 明治4年1871年 |
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改正新刻横浜案内 明治5年1872年 |
最新横浜市全図 大正2年1913年 |
横浜真景一覧図絵 明治24年7月1891年 |