酔芙蓉 第二巻 野毛  
酔芙蓉−第七部目次 野毛 2  根岸和津矢(阿井一矢)

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慶応元年4月28日―1865年5月22日 月曜日

野毛 − 暗殺

慶応元年4月28日―1865年5月22日 月曜日
野毛 − 暗殺

1865年4月3日には南部の首都リッチモンドが陥落しました。

9日にはリー将軍がグラント将軍率いる北軍に降伏して、南北戦争は終了したといわれていますが、抵抗は6月末まで各地でありました
1965年4月26日J・ジョンストン将軍が降伏して南軍主力の抵抗は終わりました。

奴隷解放宣言とジム・クロウ法
奴隷解放予備布告
戦争のさなか1862年8月22日にリンカーンは南部に対して次の布告をしました。
1863年1月1日に、合衆国に対し謀叛の状態にある州あるいは州の指定地域のうちに奴隷として所有されているすべての人々は、その日ただちに、またそれより以後永久に、自由を与えられる
ジム・クロウ法の成立
南部諸州における人種差別法をジム・クロウと呼ぶようになりました。
最初は、交通機関の差別から始まったといわれ、その差別は生活全般にわたりました。
いたるところにおいて、黒人は差別されそれが法律化されていました。
1950年代まで其れは引き継がれました。
KKK(クー・クラックス・クラン)の設立
悪名高きクー・クラックス・クラン(KKK)が設立したのは奴隷解放宣言の後です。
テネシー州のプラスキーで、1865年に結成され旧南軍の士官が中心でした。
黒人を抑圧するための団体です。
頭から三角帽の覆面をすっぽりかぶり、幽霊のようなガウンを全身にまとい深夜、町の中を徘徊し迷信的な黒人を恐怖に陥れたのです。
彼らは、黒人の家を襲いリンチし殺害にも及ぶことも有りました、彼らは暴力によって、黒人を自分たちの思い通りにしようとしたのです。

尾上紫(ゆかり)さん演じる、京鹿の子娘道成寺です。
切手は誰か不明なのです。
道成寺舞踊は数多くありますよ。
『傾城道成寺』『百千鳥娘道成寺』『かさね道成寺』『二人道成寺』
『紀州道成寺』以上、長唄

『奴道成寺』(常盤津・長唄)

『古道成寺』『鐘ヶ崎』以上、地唄
などがあげられますが、そのなかでもこの『京鹿子娘道成寺』は最大の傑作と言われています。
安珍清姫の伝説に基づいて作られた能の『道成寺』が原作です。 
文中の歌詞は、石川勾当(いしかわ こうとう)の作曲に拠る新娘道場寺からのものです、現代約は省略いたしますので考えてくださいね。
 アイ



慶応元年5月15日―1865年6月8日 木曜日

野毛 − 亀山

添付は海援隊当時の写真

慶応元年5月15日―1865年6月8日 木曜日
野毛 − 亀山

カンパニー・亀山社中 
亀山社中は慶応元年(1865年)閏五月に坂本龍馬が中心となって組織した私設の、海軍・商社的性格を持った浪士結社でした。
大株主に福井藩と薩摩藩がなっていました、結社は宿舎の所在地から「亀山社中」と呼ばれ、薩長両藩の物資を調達・運搬することで、薩長両藩の和解の糸口を作ったとされます。
当初は19名ほどで発足し薩摩藩の庇護の下に、交易の仲介や物資の運搬等で利益を得るのを目的としながら航海術の習得に努め、その一方で国事に奔走していました。
 
慶応元年(1865年)幕府が長州藩再征を決定すると,薩摩藩の西郷隆盛・大久保利通はこれに反対,幕府が再征を強行するなかで,薩長両藩は土佐の坂本龍馬・中岡慎太郎の仲介によって和解し,薩摩藩代表小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通と長州藩代表の木戸孝允が京都薩摩藩邸に会合し同盟を結んだ。内容は六箇条から成り,幕府との開戦・非開戦および勝敗いずれの局面においても両藩が協力すべきことを約している。幕府が第二次長州征伐に失敗したのちも,両藩は提携を強め,討幕運動の中心勢力となりました。
 
亀山社中は慶応三年(1867年)4月に土佐藩の援助を受けることになって名を海援隊と改め、土佐藩は土佐商会とあわせて二つの商社を傘下に治めました。
龍馬は脱藩の罪を許されて隊長に任ぜられ、隊士22人、水夫30数人の構成であったといわれます。
海援隊は土佐藩の援助を受けたが、基本的には独立していて、仕事の目的は「運輸・射利・投機・開拓・本藩の応援」であり、射利とは利益の追求でそれを堂々と掲げていました。貿易会社と海軍を兼ねた組織であり隊士が航海術や政治学、語学などを学ぶ学校でもありました。
海から応援するので「海援隊」であるから、慶応三年七月には「陸援隊」も設立され、中岡慎太郎が隊長となっています。
土佐商会については別の機会に書くことにします。

ワットの蒸気機関の原理

アイアン・デューク ・  IRON DUKE 鉄公爵。
アーサー・ウェルズリー卿のあだ名、ウェリントン将軍、ワーテルローの勝者。
大好きな本の中でもセシル・スコット・フォレスター描くサー・ホレイショ・ホンブロワー提督の義兄として登場


蒸気機関車はスチーブンソンのロコモーション・ロケットが有名ですがいくつかを紹介しておきます。


スチーブンソン以前にも優秀な機関車は存在しました。



慶応元年閏5月20日―1865年7月12日 水曜日

野毛 − 製鉄所
横須賀製鉄所(造船所)
慶応元年に着工したドック (右から1号・3号・2号ドック)

慶応元年閏5月20日―1865年7月12日 水曜日
野毛 − 製鉄所
ドック 幕末に掘り明治に完成したドックは現在も基地の中で使われている。国産のセメントはなかったから床も壁も石積みで、石は真鶴から運ばれた小松石。
フランス語が出来ることから日本側責任者となって、現地を指揮した栗本鋤雲(じょうん)は明治中ごろに当時を思い出し「小栗は、これが出来上がれば、土蔵付き売家の栄誉が残せる、と笑った」と書いている。
フランソア・レオンス・ヴェルニー
ヴェルニーは中国(上海)において、砲艦建造の仕事に従事していたとき、日本赴任の話しがロッシュよりもたらされました。元治元年11月、幕府老中の名をもって、公式にフランスへヴェルニー招致を依頼し、元治2年正月に来日するや、小栗上野介、柴田日向守ら製鉄所設立委員などとともに、製鉄所設立原案を作成し、製鉄所約定書が交わされました。
ヴェルニーは、器財購入などの用務を帯びて一度フランスへと帰国しました。
1865年(慶応元年)7月6日に外国奉行柴田日向守ら全権団をマルセイユに出迎え、ツーロン造船所に案内し、その際、横須賀製鉄所の首長として正式に雇用契約が結ばれました。
全権団の中には、若いヴェルニーを見て不安を感じる者もいましたが、非凡な才能と手腕を目の当たりにして、ロッシュの推挙に間違いがないことを確信したのでした。
ヴェルニー(フランス海軍大技士)が、着任したのは1866年(慶応二年)4月26日でした。
 
3トンスチームハンマー
「1865年オランダ・ロッテルダム製」と刻印がある。
このハンマーは、いまJR横須賀駅前の「ヴェルニー館」に展示しています。
マザーマシン
まずこのハンマーで、「工具や部品を造るための機械を造った。船はその機械で造った工具や部品で造る」から、大もとになる造船所最大の3トンハンマーは「マザーマシン」と呼ばれた。
「19世紀のオランダは海外に数多くの機械を輸出したが、今世界に残っているのはこの2台のハンマー(3トンと0.5トン)及びインドの潜水器具だけだという。」(「JFA」日本鍛造協会/2002.Nov.bQ号)
注 日本最古の竪削盤が三菱重工・長崎造船所・史料館のページに現存しているとかかれていました。
( 記事から抜粋        銘板から、この竪削盤はオランダ、ロッテルダムのFyenoordにあるNSBM(ネーデルランゼ・ストームボート・マーツハッペイ Nederlandsche Stoomboot Maatschappij)で1856年に製造されたことを示しています。当時、竪削盤は「撞断機盤」と呼んでいました。 )
http://www.gijyutu.com/ooki/tanken/tanken2001/mn-zousen/mn-zousen.htm


小栗を批判する人は、
「慶応元(1865)年1月末に交付されたこの海軍工廠の約定書によれば、横須賀に製鉄所一・造船所一・修船場2、横浜に訓練用の小製鉄所一を四ヶ年で建設し、その建設費計240万ドルを年間60万ドルずつフランスに借款するというのである。」    (『開国』日本の歴史23・小学館・1975)

しかしこれは書類の読み違いであり、フランス政府に建設費として4年に別けて毎年60万ドルの支払いするということであります。
海舟の海軍歴史にも全文が載っていますが、
○横須賀製鉄所約定書
「・・・・・・・・・(省略)・・・・・・
一、、製鉄所一箇所修船場大小二箇所造船場三箇所武器蔵及び役人職人等の役所共に四箇年にして落成の事
一、製鉄修船造船の三局取建諸入用総計凡高一箇年六十万ドルラル都合四箇年二百四十万ドルラルにて落成のこと
  但フランス政府へ約定書相届候上は右の60万ドルラル取り揃え置べし猶四箇年の間年々納方ドルラル差支不申様可致事・・・・・・・・・・・・
元治二丑年正月二十九日(4月から慶応元年)
                            水野和泉守
                            酒井飛騨守 」
約定書の全文は『横須賀海軍船廠史』、『横須賀百年史』および『明治の経済』(塙書房・1995年)・『幕末維新論集2・開国』(吉川弘文館・2001年)などに掲載されていますので簡単に図書館などで閲覧できます。
未払い金は明治新政府を揺るがすほどの額にはいたらず、横浜の関税収入の一部をもって支払うに十分の額でありました。
横須賀造船所の最近の写真をいただきました。
撮影は2002年だそうです。

手前から旧・横須賀造船所ドライドック1号・2号・3号だそうです。
カリフォルニア州サンフランシスコの扱いとなっています。
米国内の郵便物も「San Francisco in Yokosuka」で配達されるのだそうです。
確か厚木基地はハワイだって聞いた事があります。

慶応2年3月には第一船渠の開削に着手した製鉄所は、明治維新後、明治政府が幕府から受け継いだ明治元年4月には船渠1,船台2の工事がほぼ完了しておりました。
船艇8隻が完成しており、建造中の艦は11隻もあったそうです。
工場家屋にしても落成坪数は3200坪、未完成部分は約2000坪という状態でした。

この当時の横須賀製鉄所建造スタッフは
製鉄所奉行 一色摂津守以下45名
職工65名
お雇い外国人はフランスの主任技師ヴェルニー以下45名
の計155名でした。


慶応元年6月29日―1865年8月20日 日曜日

野毛 ― 密航U
薩摩の英国留学生達の内より

慶応元年6月29日―1865年8月20日 日曜日
野毛 ― 密航U
6月23日にロッシュ公使はパリ万国博に幕府の参加を要請しました。

薩摩がおくった15人の留学生は、次のようなメンバーでした。
 氏名 (変名)  渡航時年齢  役職            (後年の氏名)
 町田 民部(上野良太郎) 28 開成所掛大目付学頭(町田 久成)
 村橋 直衛(橋   直輔) 23 御小姓組番頭     (村橋 久成)
 畠山丈之助(杉浦 弘蔵) 23 当番頭          (畠山 義成)
 名越 平馬(三笠政之介) 21 当番頭         (     ) 
 市来勘十郎(松村 淳蔵)  24 奥御小姓。開成所諸生(松村 淳蔵)
 中村 博愛(吉野清左衛門)25 医師            (     )
 田中 静洲(朝倉 省吾)  23 開成所句読師    (朝倉 盛明)
 鮫島 尚信(野田 仲平)  21 開成所句読師    (     )  
 吉田 巳二(長井五百助)  21 開成所句読師    (吉田 清成)
 森 金之丞(沢井 鉄馬)  19 開成所諸生      (森  有礼)
 東郷愛之進(岩屋虎之助) 23 開成所諸生      (     )
 町田申四郎(塩田権之丞) 19 開成所諸生      (     )
 町田 清蔵 (清水兼次郎) 15 開成所諸生      (町田清次郎)
 磯永 彦輔 (長沢  鼎)   13 開成所諸生      (長沢  鼎)
 高見 弥一 (松元 誠一)  31 開成所諸生      (     )
 その他には4人の外交使節が随行し合計19名が英吉利に向かいました。
 新納 刑部(石垣鋭之助) 33 大目付御軍役日勤視察 (     ) 
 松木 弘安(出水 泉蔵) 33 御船奉行        (寺島 宗則)
 五代 才助(関  研蔵)  29 御船奉行        (五代 友厚)
 堀  孝之(高木 政次)  21 英語通弁        (     )

亀山社中初期メンバー慶応元年5月〜7月頃
土佐10名
坂本龍馬、近藤長次郎、千屋寅之助、高松太郎、新宮馬之助、池 内蔵太、石田英吉、山本洪堂、中島信行(初代衆議院議長)、沢村惣之丞
越前3名 小谷耕造、渡辺剛八、腰越次郎
越後2名 白峰駿馬、橋本久太夫
紀伊1名 陸奥陽之助(農商務大臣、外務大臣、陸奥宗光)
讃岐1名 佐柳高次
因幡1名 黒木小太郎
出身地不明1名 早川二郎 

7月になると長州藩の井上聞多(井上馨)と伊藤俊輔(伊藤博文)が長崎でグラバーと会ってミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺の購入契約を結んでいる。
これを周旋したのが亀山社中のメンバーでした。
横浜製鉄所
慶応元年8月24日(1865年10月13日) 横浜製鉄所竣工フランソワ・レオン・ヴェルニーを横須賀製鉄所の責任者に任命しド・ロートルを横浜製鉄所の責任者に任命しました。 
横須賀製鉄所は九月二十七日には起工式を行い、翌慶応二年(一八六六)十月頃には上海で造船に従事していた職工や本国フランスから職工五二人が到着しています。


慶応元年7月1日―1865年8月21日 月曜日

野毛 − 弁天通り

慶応元年7月1日―1865年8月21日 月曜日
野毛 − 弁天通り

全楽堂
下岡蓮杖さんの全楽堂は野毛から弁天通り5丁目に文久2年頃に移り住みさらに豚屋火事の後弁天通り2丁目馬車道の角(記念碑は弁天通り4-67番地、明治に丁名が変更されて2が4に5が1になっています)に移り住んだといわれています。
下田からは安政6年の開港直後に下田商人のために横浜町五丁目裏通(現弁天通一丁目)北側の地所一ケ所が指定されて多くの商人が移住してきました。
下田商人は家族・奉公人共約40人が横浜に移り下田長屋を形成しました。



ゲーベル銃(ゲベールGeweerとはオランダ語で小銃です)
慶応元年当時5両、慶応四年2両以下
燧石式洋式銃、管打式が流行すると、ゲベール銃も管打式に改められました。
管打ち式の銃の操作法は、先ず左手で銃床を保持し、火薬を流し込み、弾丸を挿入して索杖で突き固める(後、ゲベールも新式弾薬を採用します)。
その後、撃鉄を上げ、火門に雷管を被せて二段式の撃鉄を最後まで引き上げ、引き金を引くという面倒なものでした。
ヤーゲル銃  価格不明ながら慶応元年当時5両辺りか。 
ヤーゲル jager ドイツ語読みの「イェーガー」の方のが馴染みが深い歩兵用ライフル銃。
イエーガーは狩猟兵若しくは軽歩兵と翻訳されるそうです。
狩猟兵は重装歩兵が戦列を構築し交戦を開始する前に密かに敵戦列に接近し、敵指揮官を狙撃し戦列を攪乱するのが役割でした。
ヤーゲル銃は狙撃用の為、照門は命中率の高い二段切り替え式でした、銃身には7条のライフリングが刻まれて命中精度を高めています。
銃弾は火縄銃やゲベール銃と同じ丸弾を使用のため、装槙に時間がかかるという難点を持つています。
引き金は2段式のセット・トリガーで、2個の引き金が並んで見えます。
発射時には前方の引き金を前に押してから、手前の引き金を引くことになります。
ミニエー銃 慶応元年当時1挺18両 慶応四年ごろには一挺9両に値下がり
仏軍、ミニエー大佐が、椎実弾の底部に木栓をはめ、発射時にガス圧で木栓が弾丸中に押し込まれ、スカート部が拡張してライフルに食い込ませるという弾丸「ミニエー弾」を発明しました。
ミニエー弾であれば、口径より少し小さい弾丸でも、回転を与えられるため、従来の弾丸よりも格段に弾込め作業が簡単になりました。
ミニエー銃は、ミニエー弾を使う銃の総称 
スナイドル銃(和名・スニーデル)
横浜32番商会、同80番の商会で慶応二年一挺三十六両・慶応四年1挺26両、明治5年には一挺9ドル30セント
後ろから金属薬莢で装填するという画期的な銃であった。今までは戦闘時にいちいち立ち止まって装填を行わねばなりませんが、スナイドルは歩きながら装填が行える画期的な銃でした。 
スペンサー騎兵銃 慶応二年当時横浜での卸価格は37ドル80セントでした。
1860年アメリカで発明された世界最初の後装式連発銃。
北軍の正式銃として7万7181挺が納入されました。
弾倉は床尾端の装填孔より管に依って尾槽に連結され、弾薬筒の装填後、管底にコイル・スプリングを持つ鋼鉄製の弾倉管を挿入すます。
弾薬はこの弾倉管スプリングによって順次薬室内に送られました。
弾薬等が一度に複数出る事を防ぐ為に、尾槽内に駐填子が有り、これを操作して連発・単発を切り替える事が出来ました。
チューブ式弾倉を銃床尾より挿入し、レバーアクションによって一発ずつ装槙されます、レバーアクションとは引金近くにあるレバーを下に引いて空薬莢を排除、次弾を装填する方式です。
レバーアクションは馬上や要塞などでは使い易いが、伏せ撃ちが基本の歩兵には使いにくく、連発式故に無駄弾を撃ちすぎてしまうなどとも言われ、弾詰まりするとか細かい欠点は上げれば切りがありませんでした。
開発元のアメリカ陸軍は制式採用に関して「従来型の単発後装銃の方が良い」として見送りました。
1865年以降はヘンリー・ライフルやウィンチェスター・ライフルが主力となります。


ガトリング砲について
ガトリング砲とは,1862年に亜米利加人リチャード・ガトリングが南北戦争の最中に発明した最初の機関銃で,1分間に200発もの弾丸を連続発射できる当時最強の兵器でした。
河合継之助は,日本に3門しかなかったガトリング砲を武器商人エドワルド・スネル(またはファヴルブラント商会)から2門1万両(1万2千両とも言われています)で購入しました。

長岡城攻防戦では,継之助自ら射手として西軍に対し,大手門の土手を盾に乱射したと伝えられています。
河井継之助記念館所蔵のガトリング砲は,当時使用された機種(1868年型)をもっとも忠実に再現したものです。

長岡郷土資料館

シャープスM1859カービン 慶応4年当時30両。

庄内藩は最高45両で600挺を調達しました。

1859年、米国シャープス・ライフル社で開発されたレバーアクション式後装ライフル銃。

薬莢は可燃リンネル製だが、無理をすれば金属薬莢の使用も可能でした。

外観はスペンサー銃に類似していました、独立した露出撃発点火装置を備えていて、銃尾に刻まれた垂直な臍に従って銃尾機関を上下させます。

普段は引き金の用心金の役目をする梃子を動かして、機関を下げて薬莢を入れ、元の位置に戻し、その時に遊底に付いたナイフ状の鉄片が紙製薬莢の後端を切り開き、直接に点火を行いました。

騎兵銃としては比較的高い威力を持つていました。

シャープス・カービン銃は、南北戦争で北軍が正式採用し、8万512挺が納入されて活躍しました、南軍も購入しましたしイギリスにも輸出されました。

1863年に改良が行われ、M1863として真鍮製の銃身バンド、用心鉄、台じり等が鉄製に改められました。


価は庄内藩酒田の本間友三郎商店とオランダのスネル商会間の契約書を引例するとアメリカ最新式のシャープス銃が40ドル、エンフィールドミニエー式銃18両、ゲベール銃5両位でした。
その頃のアメリカの棉花奴隷の日当が20セント、自由労働者30セントでした。
また日本では安政の御台場構築作業の人夫賃が食事つき1日250〜280文、熟練大工の昼食代の飯米料込み賃金が583文でした。
岡本綺堂はその著書の中でお台場銀での壱朱の賃金と書いてあり、当時3百文に相当したと思われますが慶応年間は銭の下落により壱朱は五百文〜六百文へと値打ちが変動していました庶民はインフレで悩むことになりました。 
スネル兄弟 出身は諸説あるが、ブレーメルハーフェンと推定されています。
兄ヘンリー(1843生)は文久3年プロシャ領事館に勤め、後に公使館書記官となるが、すぐに辞任します。
戊辰戦争で会津藩などの軍事顧問を務め、武器購入にも尽力しました。
弟エドワルド(1844生)は慶応三年にスイス総領事館書記官となっています。戊辰戦争中はオランダ領事と称していました、兄と共に武器を会津や仙台などの諸藩に売っていました。


慶応元年7月25日―1865年9月14日 木曜日

野毛 − 写真機

慶応元年7月25日―1865年9月14日 木曜日
野毛 − 写真機



ダゲレオタイプ(銀板写真)と湿板写真
馬車道にある蓮杖さんの記念碑には、ダゲレオタイプの写真機が乗っています。
これは木製らしく見えますが、下田の蓮杖さんの立像は蛇腹の付いた写真機を抱えています。
明治元年、清水東谷・内田九一が馬車道で写真業を開業.同年下岡蓮杖によって写真館「相影楼」が、馬車道に開かれました。 
相影楼は全楽堂の支店といわれています。
弁天通り馬車道太田通りの三方向に店が開いたといわれています。
店の前には縁台が並び看板には富士山の絵が大きく書かれていたそうです。
1839年にフランスで発明された世界最初の実用的な写真術はダゲレオタイプ(銀板写真)用の写真機でありました。
ダゲレオタイプとは、フランスの画家ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが発明した写真技法で、銀メッキした銅板に沃素蒸気で処理して表面に沃素銀を形成させて感光性を与え、撮影後(露光後)に水銀蒸気で現像する方式で、ポジの鏡像ができあがります。
1841年には、イギリス人ウイリアム・ヘンリータルボットは、1枚のオリジナルだけでなく、現在のように焼き増しのできるネガ・ポジ法を発明しました。このネガ・ポジ法は、紙の繊維の間に感光層を塗り込み、感光後この紙ネガから陽画に焼き付ける方法で、カロタイプと呼ばれました。このカロタイプは露光時間が2・3分と短く、格段の進歩でありました。これが銀塩写真のルーツであります。
1851年頃イギリスのF・S・アーチャー(フレデリック・スコット・アーチャー)によって、ガラスの原版を用いる湿式コロジオン法(湿板写真)が発明されたので、ダゲレオタイプは時代遅れの技法になりました。
湿式コロジオン法とは、ガラス板の上に感光乳剤と粘着性を持つコロジオンと呼ばれる液を塗布し、湿っているうちに撮影、現像、定着処理を行ないました。
露光時間は1分を切りました(露光時間は明るいところなら10秒以下とも言われます)湿板であるために撮影現場でガラス板に感光溶剤を塗らねばならないので、野外での撮影ではテント式の暗室が必要でした。
文久3年(1863)フェリックス・ベアトが横浜にきています。
イタリア生まれのイギリス人で、クリミヤ戦争、インドのセポイの乱、中国のアロー戦争などに写真家として従軍しました。
絵入りロンドンニュースの特派員として来日していた画家チャールズ・ワーグマと横浜居留地24番(慶応3年17番に移る)に共同スタジオを構え、日本各地を旅行して風景写真を撮影しました。
鶏卵紙
此処で言う鶏卵紙アルビュメンはイギリスのウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットによって発明されたカロタイプ(世界最初のネガ・ポジ法)に使用する紙ネガ部分の改良を目指す中で、1850年フランスのルイ・デジレ・ブランカール・エヴラールによって発表されました。
日本名を「鶏卵紙」と呼ぶようにこの印画紙の特徴は卵白(鶏卵の白身)を使用するところです。
和紙にもある鶏卵紙(とりのこがみ)とは、雁皮を原料とする滑らかで光沢のある紙で、色が鶏卵の殻に似ているのでこの名が付けられたので印画紙では有りません。
鶏卵紙に焼きつけられた写真は、台紙に貼られ、アルバムとして販売されました。
顧客は横浜を訪れた外国人旅行者でみやげ物として、ちょんまげ姿の侍、力士や芸妓などと富士山、日光、江ノ島などが主題でありました。
当時使われていた印画紙の多くは、鶏卵紙と呼ばれる食塩で溶いた卵白を塗って乾燥後に硝酸銀で処理され柔らかな風合いが特徴です。
これを原板(ネガ)にあてて太陽光の下で焼き付けると、水洗と定着だけで処理ができます。
当時の肖像写真や風景写真が現在残されている画像は、ほとんどが鶏卵紙でありますし、ガラスがとても貴重であったため、鶏卵紙に焼き付けられた後のネガ原板は、撮影像を掻き落してガラスを再利用しました。
ベアトが作りあげた「横浜写真」は、彼がスタジオを手放した明治10年(1877年)以降も、多くの写真家たちによって受け継がれ、ますます発展していきました。
ベアトのネガを受け継いだレイムンド・スティルフリートの日本写真社、下岡蓮杖の弟子白井秀三郎の横浜写真社、また、ベアトの助手であった日下部金兵衛、浅草から横浜に移った玉村康三郎などがおりました。
彼らのアルバム写真は、一枚一枚繊細な技術で彩色されていて、アルバムの表紙は蒔絵をあしらった豪華なものでした。
横浜写真が世界に広まり、東洋の神秘の国日本が知れ渡りました。
横浜写真は明治維新以後着色写真が多く作られ、世界的に注目されて輸出品の一つとなりました。
今日のフィルム現像方式の写真技術は、1884年にアメリカのジョージ・イーストマン(コダック社の創設者)によって開発されたものです。
横浜写真は明治30年代以降に急速に衰退します、写真製版技術の発達で、手間のかかる鶏卵紙彩色写真がすたれ明治33年(1900年)の郵便規則の改正で私製葉書が認可され、コロタイプ印刷による絵葉書が大流行したからです。
彩色写真
モノクロのプリントに浮世絵の技法を応用して彩色した写真は、「横浜写真」と呼ばれました。
1860年代にまで彩色写真の始まりをさかのぼったのは、アメリカ人科学者グリフィス(William Elliot Grifis1843〜1928年)が、越前福井藩のお雇い教師となるべく、彼の言う「ミカドの帝国」に到着したのは1870年でした。横浜に到着して写真館で彩色されたアルバムを見たという話から横浜写真の彩色は慶応年間に遡れるのではないかと推測いたしました。
1869年(明治2年)
オーロン(仏)は減色法(CMY)によるカラー写真の原理を発表。 絵の具の三原色(減色法。シアン、マゼンタ、イエロー)によるカラー写真原理を考案。これ以前1868年にカラー印刷法も考案。
1870年
ハイアット(英)がセルロイドの特許取得。
セルロイドは後にフィルムのベースとして使用されることになりました。
可燃性の強い材料なので現在ではフィルムのベースは燃えにくい不燃性(TAC)ベースに切り換えられています。
1871年 
マッドクス(英)がゼラチン写真乾板を発明しました。
取り扱いが面倒なコロジオン湿板に代えて臭化銀ゼラチン写真乾板を発明。
1873年
フォーゲルVogel(独)は、赤い光(長波長)には感度のなかった感光材料を改良し、可視光線の全域をカバーする感光材料を考案します。
コロジオン湿板をアニリン(染料の原料)で処理することで感光幅を広げることが出来ることを発見しました。
全可視領域をカバーする白黒感光材料(パンクロ)が開発されたことでカラー写真開発の基礎が出来たわけです。
フォーゲルは又、肉眼で見えないものがコロジオン湿板に写っていることも発見しました、見えないものを撮る放射線写真が登場します。


慶応元年8月1日―1865年9月20日 水曜

野毛 − 彗星


慶応元年8月1日―1865年9月20日 水曜日
野毛 − 彗星
三大始祖
サラブレッドの歴史は、17世紀初頭にイギリス人が東洋種の牡馬を輸入し、在来の牝馬に配合したことから始まりました。
【牡馬(ぼば):雄馬、牝馬(ひんば):雌馬のこと】
現在、世界中で走る全てのサラブレッドの血統を辿ると、その祖先は驚くことにたったの3頭に絞られますとまでthoroughbredの歴史は書いてあります。
ダーレー・アラビアン、バイアリー・ターク、ゴドルフィン・アラビアンが三大始祖と呼れて、淘汰の歴史で他の血脈は絶えてしまいました。
現在のサラブレッドの90%はダーレー・アラビアンの血脈を継ぐ子孫たちと言われる研究結果が発表されています。 
ダーティな始祖 
Darley Arabian
シリア砂漠周辺に住む遊牧民、アラゼー族によって生産された超純血アラブ種であるDarley Arabianは、シリア北西のアレッポで英国領事をしていたトーマス・ダーレーによって、所有者シェイク・ミルザから略奪され、4歳の春に英国に連れて来られました。 
盗まれたことを知ったシェイクは、管理していた牧場長と牧夫を町の広場で処刑し、さらに英国アン女王あてに「私のかけがいのない、王の身代金よりも高価なアラビア馬が、お前の国の何物かによって盗み去られてしまった」との抗議の文書を送付しています。
後に、ダーレー家の一員が殺害されるという事件が起きましたが、これはシェイクの報復ではないかとの説もあります。
Byerley Turk
バイアリー・タークは1687年、英国のロバート・バイアリー大尉がブダペストで捕獲したと言われています(ウィーントンで、捕獲したと言う異説もあります)。その頃トルコ軍はハンガリーに侵攻しキリスト教文明最大最後の危機を迎えていました。英国から義勇軍を率いて参戦したバイアリーは、 敗走するトルコ軍からバイアリー・タークを奪い取ると、英国へ連れて帰り、1690年7月12日、これに騎乗してボインの乱(アイルランド)で反乱軍鎮圧の輝かしい武勲を立てました。 
この馬の血は現代のシンボリルドルフに見る事が出来ます。
Godolphin Arabian Godolphin− Barb
黒鹿毛の名馬 ゴドルフィン・アラビアンは1724年生まれです。
イエメン(アラビア半島南西端)の有名な純血アラブ、シルファン系の出身で、当初の名をシャム(SHAM)と名づけられていました。
アラビアでも滅多にいない名馬と言われ、シリア経由で来たアフリカのチュニス(チュニジア)の総督の元へ送り届けられましたが、総督は1730年(1729年説もあります)他のアラブ馬3頭と一緒にシャムをフランス国王ルイ15世に献上しました。 
パリに着いた4頭は痩せこけて見栄えがせず、気性が荒くて乗りこなす事もできなかった為、シャムを除く3頭は馬匹改良の目的でパリ西方のブルターニュ地方に送られました。
シャムは英国人のエドワード・コークに買われ、英国ダービー州ロングフォード・ホールの彼の牧場に迎えられました。
パリに着いたのと同じ1730年の事だとされています。


ザ・ダービー・ステークス
(The Derby Stakes)


1776年にイギリス最古のクラシック競走セントレジャーステークスの盛大さを見てきた、エドワード・スミス・スタンレー(ダービー卿)とイギリスジョッキークラブ会長のサー・チャールズ・バンベリー卿とダービー卿の義叔父のジョン・バーゴイン将軍の3人よって創設され、イギリスのクラシック三冠の第二冠として、エプソム競馬場の芝の約1マイル4ハロン10ヤード(約2421メートル)で行われる競馬の競走です。
1780年に創始者のエドワード・スミス・スタンレー(ダービー卿)とサー・チャールズ・バンベリー卿の間で、いずれの名を冠するかをコイントスによって決定したとの逸話があります。
また出走条件は3歳限定で繁殖能力の選定のために行われるので、
去勢馬  の出走はできません。
距離は、創設から3年間は1マイルの直線コースで行われていたが、二代目・三代目・現在のコースになると1マイル4ハロン(約2400メートル)に延長されたが、1991年に計測された結果、10ヤード程度ほど長い事が判明した。
現在の伝統のあるダービーコースは1872年から施行される様になった四代目のコースにあたる。
日本で行われているダービーは和名を東京優駿といって2400m後の条件は同じです。

根岸競馬場明治3年
横浜名所之内大日本横浜根岸万国人競馬興行ノ図
永林信実

根岸競馬場は慶応3年1月頃より開催されています。
競馬が行われたのは春と秋に2日間ずつ。明治2年からは3日間に増え、明治37年になるとさらに1日増えて4日間ずつ行われていました。


慶応元年9月2日―1865年10月21日 土曜日

野毛 − 火事見舞い

慶応元年9月2日―1865年10月21日 土曜日
野毛 − 火事見舞い




火事見舞いには、何はともあれ駆けつけるという義理堅い江戸っ子気質はこの当時当たり前のことのようでした。
火事は多く有りますが延焼を防ぐ一番の手段は旗本大名の近くの家を取り壊して防ぐというのが一般的な手段でした。
消し口を取り纏を振って其処の周りの家から取り壊すのが火消しの一番の仕事でし
た。


慶応元年9月12日―1865年11月1日

野毛 − 牧場

慶応元年9月12日―1865年11月1日
野毛 − 牧場

 
オランダ人スネル兄弟(他の説としてオランダ人ペローとしたものも有ります)は、文久年間(1861〜1863)の頃に横浜外国人居留地の前田橋際に牛乳しぼり場を設け、外国人に牛乳を販売した。
両説の出所についてスネル説は雪印・ペローは中央酪農会議のようです。
日本人で最初に牛乳営業を開始したのは、前田留吉です。前田はスネル兄弟にウシの飼育や搾乳技術を学び、慶応2年(1866年)8月には独立して太田町八丁目に牧場をつくり、和牛6頭を飼って搾乳・販売をはじめています。
ホルスタイン種
乳牛の女王と呼ばれるくらい乳量は豊富です。
年間6000〜8000kgといわれますが10000kgを越すものも多く見られます。
明治時代から日本に輸入されている乳用種で、原産地は、ライン河河口の低湿地であるオランダのフリーネ地方や、品種名の由来となったドイツのホルスタイン地方です。正式にはホルスタイン・フリーシアン種といいますが、日本では省略してホルスタイン種と呼んでいます。
毛色は黒と白の斑紋(はんもん)で有名ですが、体格を大型にするために改良の途中でショートホーン種を交配した影響が残る赤白斑も稀(まれ)にあり、以前は失格とされて登録が認められませんでしたが、今では各号の末尾にRをつけて登録されています。 
ジャージー種
ジャージー種は、英仏海峡のジャージー島原産の乳用種です。
フランスのブルトン種やトルマン種を基礎に改良されましたが、ブルトン種の影響を強く受けています。
毛色は、明るい淡褐色から暗い黒褐色までさまざまです。
乳量は年間約四千kgとそれほど多くありません。しかし、乳脂肪率が高く(約5%)、脂肪球も大きいのでクリームが分離しやすく、その上、カロチン含量も高くて美しい黄色がでるので、バター原料乳として最適です。
耐暑性が比較的強いため、熱帯地方の乳用牛の改良に多く利用されています。

中川嘉兵衛
横浜には開港直後からボストン氷と呼ばれるアメリカ産の天然氷が輸入されていました、しかしスエズ運河のない時代ですから喜望峰回りの大航海を経て半年かかって運ばれてくるので、ビール箱大のものが金三両もしたそうです。
慶応2年氷室を横浜元町に設立し明治元年にはイギリスの帆船をチャーターし、函館から運んだ氷を元町で販売しました。
(1870年2月から函館氷として横浜に移出との記事もあり明治3年頃からとあいまいさも残しておきます)
彼は日本人として最初の新聞広告スポンサーであったそうです、慶応3年3月刊万国新聞紙第3号に、中川嘉兵衛としてパン、ビスケットの広告を出しています。
嘉兵衛は愛知県三河の人で、慶応元年横浜にでて外国商品を扱うかたわら医師ヘボン氏について西洋文化の知識を得て新しい事業に傾倒しました。
石井研堂「増補明治事物起源」によれば、中川嘉兵衛は慶応3年東京芝白金にはじめて屠牛場を設けたとあり、彼は亦、食肉界の先覚者でもありました。
http://members.tripod.com/iwata_2/kinrin.html#10
このサイトには中川屋嘉兵衛について少し違う解説がありヘボン先生ではなく
アメリカ人医師のシモンズとなっていました。

夏日氷を用候事は只炎暑を凌候のみならず西洋諸国に於ては各種の病症に用ひまた魚類獣肉牛乳蒸菓子酒類青物等すべて腐敗しやすきものに氷を添へて囲置ばいつ迄も新鮮也故に暑中の氷は世上必用の品に御座候間私共数年昔心勉励の上漸く近年研究致し北海道の清水に産し候氷を戴取地方官の御検査を請箱舘氷室に貯蔵致し、当節東京に氷室を移し申候就ては恐多くも宮内省御用申付られ冥加至極に奉存候最早遂日暑気彌増に付今日より発売仕候尚処々取次所も出来候間御手寄にて多少に限らず御求め下され候様伏て奉希上候
    氷一斤 定価四銭 四百文ノコト也
       元島原向河岸
        氷 室 会 社  中 川 嘉兵衛
        申五月五日  佐 藤 終 吉
明治5年5月7日発行東京日日新聞第70号に載った広告です。
1斤(約600g)の価格4銭というと当時の白米1升(1・4s)5銭位でしょうからやや高いかなという程度の感覚でしょう、機械製氷はまだ本格的に行われていませんでした。
本編にかかれなかった氷の必要性について教授からの追加メールがヒントを提示していま〜〜す。


幕末から明治初期に、退廃的な芸風と伝奇的な生涯で知られている立女形(たておやま:一座の女形の中の最高位)三世沢村田之助がいました。彼は19歳の頃脱疽(局所的に壊死した組織の表面が黒変した状態)にかかり、 慶応三年9月、当時横浜に住んでいたアメリカ人医師ヘボン博士(James Curtis Hepburn:ローマ字を作った人)に左下腿切断をうけました。翌年(明治元年アメリカ・セルフォ社製の義足をつけて、舞台に復帰したそうです。
記録の上で三世沢村田之助は義足をつけた初めての日本人ということになります。

というのが通説ですがヘボン博士は内科医で眼科医が専門でした、外科手術は主にシモンズ医師が行ったと思われます。
横浜の近代医療の歴史は明治初年のヘボン,シモンズの開業医活動に始まり,明治4年早矢仕有的が日本で2番目の洋式病院を開院しました。これが横浜共立病院,県立十全病院(明治7年),市立十全病院を経て,今日の横浜市立大学医学部附属病院へと発展してきています。


慶応元年9月13日―1865年11月2日 水曜日

野毛 − 栗名月
この時期の日の出はほぼ6時04分で日の入りが16時46分になるそうで〜〜す。
アイスクーリームメーカーはクララの日記に出てきたやつと同じものなのかなと思い教授に聞きました〜〜ん。
同じものの可能性大だそうです、何でも勝海舟がアメリカから持ち帰ったとまでいう話があるくらいだそうですので、コタさんが輸入したというのはありえますし、アイスクリンの製造販売の港屋の、町田房造さんも咸臨丸のお仲間だそうで〜〜す。
ほんとなのかなぁ、妄想じゃないの〜〜と聞いたらホンマですじゃですとさ。
 
慶応元年9月13日―1865年11月2日 水曜日
野毛 − 栗名月

製氷とアイスキャンディそしてアイスクリーム
古代インドやエジプト等では水による冷却が古くから行われていたことが知られていて、すだれもしくは草の葉に上から水を流して部屋を涼しくしていました。
冬期の氷や雪を夏まで崖にあけた穴を利用した氷室などで保存しました。
この恩恵に浴したのはごく一部の上流階級の人々でした。
本文で寅吉がお酒などを冷やす時に使った方法は、液体の蒸発を利用する方式で、素焼きの壺に水を充たして風通しの良い日陰に置き、中からしみ出てくる水の蒸発による内部の冷却をします、メソポタミヤから広まりインドやエジプト、ギリシャ、ローマ、中国等で行われていました。
16世紀中ごろ硝石を水に溶かすと著しく温度が下がることが知られ、水やぶどう酒を冷却する方法がローマの貴族の間で行われていました。
1600年頃雪または氷と食塩水を混ぜることにより低温度が得られることがわかり広く利用されていました。
1810年にレスリーは無水硫酸が水や水蒸気を著しく吸収するすることを利用して、氷を作ることに成功しました。
1823年ミッチェル・ファラデによりアンモニア・ガス圧縮冷凍機の原理が発見されています。
1834年パーキンスは実用的な製氷器を最初に作りだしました。
エチルエーテルの蒸発によって水を冷却凍結させ、蒸発したエーテル液の蒸気を圧縮してもとの液体にする構造の製氷器を完成します。
1873〜1875年にかけて、ミッチェル・ファラデの原理を使い、リンデとボイルにより非常に性能の良いアンモニアガス圧縮冷凍機が完成されました。
現代でも広く採用されているものであります。
1846年に樽の中に氷と塩を入れて冷却する手回し式のアイスクリームフリーザーを発明して今も歴史に残るのは、ニュー・ジャージィの女性、ナンシー・ジョンソンです。
1851年にアイスクリームのビジネスを始めたのは、牛乳屋ヤコブ・フッセル
により、メリーランド州ボルチモアでアイスクリーム製造販売が始まりました。
横浜のアイスクリーム
アメリカ人リズレーは、中国からの氷の輸入を思い立ち、慶応元(一八六五年)年五月一五日、天津氷を売り出すとともに、外国人居留地の一〇三番(現在の山下町一〇三番地)辺りでアイスクリーム・サロンを開いた。
日本人では明治二年六月、町田房造が馬車道(常盤町五丁目)で氷水店を開き、氷とアイスクリームを販売とされています。


慶応元年10月1日―1865年11月18日 土曜日

野毛 − 勅許


慶応元年10月1日―1865年11月18日 土曜日
野毛 − 勅許

慶応2年(1866年)12月:根岸の地(横浜市中区)に幕府の手によって競馬場が造成され「根岸競馬場」が誕生しました。
本馬場の形は楕円形で周囲は827間(約1503m外周約1768m)これは中心でOnemile(約1609メートル)に相当するようです(昭和12年頃の本馬場は1632m)、幅は最大15間(約28m)、14,920坪(49,236u)でした、三十五間(63m)四方の馬見所も作られました。
グランドスタンドは、35間四方、設計はW.A.ドーソンでした。 
慶応2年(1866年)7月4日:横浜競馬クラブ(YRC)結成 
外国人乗馬クラブが使用料を払い、この場所を借りる運びとなった。
慶応3年(1867年)1月11日:横浜居留の外国人で構成された「横浜レース倶楽部」によって第1回競馬が開催されました。 
(慶応2年8月 第1回横浜ダービー開催 とされたものを見た記憶が有ります。Kazuya)
現代競馬とは異なり、乗馬になれた紳士が早さを競い合ったそうです。


Stockwellの血は生き続けています。
日本の三冠馬セントライトはStockwellの重近親です、そしてあのシンザンにも脈々と流れるStockwellの血は途絶えることはありません。
Stockwell 競走成績 16戦11勝
 1着ー2000ギニー、セントレジャー、
代表産駒
Lord Lyon 牡(2000ギニー、ダービー、セントレジャー)
Blair Athol牡 (ダービー、セントレジャー)
Doncaster牡 (ダービー、アスコットGC)
ハイセイコー(チャイナロック)の先祖 
Regalia牝 (オークス)
Thunderbolt 牡 Meteorの父
St.Albans牡
Breadalbane牡
Thrift牝 /Tristanの母
Maud牝 /Alarmの母
Sandal牝
Isola Bella牝 /Isonomyの母 

シンザン(1861年生まれ5冠馬牡 鹿毛 1961年生)の血に流れるMeteor
本文のMeteor(1865年生まれの牡リューセー)は想像の馬ですが本当のMeteorは牝馬でStockwellの孫です(1867年生まれ・父Thunderbolt1857年生まれがStockwillの子供です)もう一頭のシンザン(牝 栗毛1949年生)という名の牝馬が居りましたがこの馬にも同じ血が流れています、其れは共にインタグリオーIntaglioのラインだからです、このシンザンという名の牝馬はクモハタの孫であってその父トウルヌソルTournesolの系統が二重三重にも血縁関係にありました。そしてSt.Simonの血は活躍の場を与えられ復活を遂げました。

Pardalote(宝石鳥)から数えても何代も優秀場を出しており。わが日本でも最近1億円馬が出ました。
Dr.Syntaxという牡馬と交配されて、Grisetteという名の牝馬を1873年(明治6年)に残しました。(Pardaloteの産駒はこの一頭が記録に残っています)
7代目Moncloa 牝 鹿毛 1926年生 の二頭の産駒。
1937生 Macarena (父 Adam's Apple)アルゼンチンにて直系活躍
子孫に、Engrillado 牡 栗毛 1987年生 

1942生 Triana (父 Congreve)直系日本にて活躍
子孫にディアデラノビア 牝 栗毛 2002年生 

AKHAL-TEKE汗血馬の子孫といわれるUncle Nedの祖母は実際に不明とされた馬でした、Legendary Golden Horse(伝説の金色馬)といわれるように黄金の鬣を持っていました。
( そうかき入れて居りましたが現在は其の祖母の名前が不明からthe lady of penydaranという馬であったとされているそうです。孫のforlorn hopeの祖母が不明になって居りますので其の馬との混同があったようです。妄想・幻想らしく不明のほうが夢があるのにね。 アイ )
 

(明治20年に輸入されたスプーネSpooneyがUncle Nedの四代目にあたりこの馬の五代目がワカタカでした。)


慶応元年9月16日
英国公使パークス、仏国公使ロッシュ、米国代理公使ポートマン、蘭国公使ファン.ポルスブルックの四国の代表は9隻の艦隊を引き連れ天保山沖に集結しました。
「兵庫開港について明日中に許否の確答をしなかったら、大坂城に行き大君に会って談判する」と主張しました。
阿部、松前両老中は、やむをえず開港を許すことに決めました。
大坂町奉行井上元七郎は慶喜公からの内意を持って「開港のことは天子の裁可を得なければ条約は締結できない。大君と条約を結んでも、それは私の約束にすぎない。天子の裁許をうけるには10日は要する。もし真正の条約を欲するならしばらく待て。」
と四国の使臣に話させたところ、もし10日で決定せねばなお4、5日延ばしてもかまわないとの返事があった。その井上の報告により、幕府の評議は一変し、明日将軍が上洛して四国要求の顛末を奏上し、勅裁を仰ぐことに決定しました。その結果、阿部、松前の両老中は責任を問われて罷免されました。


添付画像は最初此方を予定していましたが、回り方が反対みたいなので相談の上上の画像が重複を承知で出しました。
ということで此方も参考に乗せるといういいわけつきで載せま〜〜す。

追伸
この画像は1865年の横浜のサムライ競馬としてロンドンの絵入り新聞に1865年7月8日に掲載されたものでした。

慶応元年10月28日―1865年12月15日 金曜日

野毛 − 黒幕
事件の黒幕は誰〜〜ってのはいつの世でも話題のたねです〜〜。

慶応元年10月28日―1865年12月15日 金曜日
野毛 − 黒幕
後に慶喜公が将軍になりその側近の原市之進が慶応3年8月14日に京で暗殺されましたが、慶喜公が度々自説を変更したりしたのは彼がそうさせているといわれたほど信頼が厚かったといわれています。
幕臣鈴木豊太郎・依田雄太郎の恨みを買い暗殺されます。
その尊王攘夷の思想が兵庫開港など尊王開国に傾いたのが恨みを買った原因といわれています。
グラバーも幕末の志士たちを援助したり、その武器商人となっていった経緯から、倒幕の黒幕といわれているほどに多くの人間を援助しています。
本文でも出てくる、伊藤博文、井上馨、坂本竜馬、五代友厚、寺島宗則、岩崎弥之助この人たち以外にも多くの人たちが彼の周りで動いて討幕運動に参加していきます。
最近流行のように言われる龍馬暗殺の黒幕話。
しかしその前提として坂本龍馬が公武合体に意見を変えたからといわれますが、竜馬は大政奉還ということを成し遂げましたが公武合体(反倒幕)ではなく、将軍を一大名としての対等な列公会議を行う事が目的でした。
武力倒幕という行動による消耗を抑える事が列国の干渉を抑える事が出来るとの判断をしたものです。
これをもって武力倒幕こそが西郷の意思でありそれゆえに龍馬暗殺を指示したという意見のようです。
しかし其れは慶喜が大阪に下がり軍を京に向かって進めたことで断固武力討伐が実現的になっただけのことです。
時間と人物の動きが錯綜しています。
木戸・広沢・大久保・西郷たちの指導者が後に五稜郭で戦った大鳥・榎本たちが国のために為ると言う判断をすれば政府の要職に就ける決断ができる人たちにそのような指示を出すわけが無いのは明白でしょう。

野毛ー6

慶応元年11月8日―1866年12月25日 月曜日

野毛 − クリスマス
カションと生徒だそうで〜〜す。

慶応元年11月8日―1866年12月25日 月曜日
野毛 − クリスマス
妖僧カションとロッシュ公使
海舟はこの人達が嫌いでした、特に小栗、栗本、両親仏派とは肌合いが違いました、後に小栗が切られ慶喜公が大悪人とまで薩長から嫌われて、倒幕の運動に拍車が掛かったのは慶喜、小栗たち親仏派が蝦夷地を担保に仏蘭西から600万両に渡る借款を企てたとした罪を追及されたものです。
これはフランス政府の内情と各国に情報が漏れたためにご破算になりました。
(仏蘭西で親幕府政策を支持してくれていた外相が罷免され、後任の外相が親薩摩藩・長州藩政策を採用したため、ロッシュは公使を罷免されて1868年に帰国しました。)
この話と横須賀製鉄所の費用の話が混同している文書が随所にありますが別のものです。
フランス語伝習所 授業内容 
フランス語、地理、歴史、数学、幾何学、英語、馬術。
6ヶ月で1学期。初級、中級、上級の三段階。
8:00〜12:00 16:00〜18:00 が授業時間
日曜祝日は休み。水曜は午前のみ、午後は散策も可。
第1回得業式は慶応二年十月。

メルメ・ド・カション 略歴
1828年9月10日生まれ
1852年7月11日 パリ外国宣教会神学校に入学
1854年4月1日  司祭となる
1854年8月25日 アジアに向け出発
1855年2月11日 三神父 カション、ジラール、フューレ共に琉球へ
1858年
7月10日 日蘭修好通商条約に調印
7月11日 日露修好通商条約に調印
7月18日 日英修好通商条約に調印
9月 3日 日仏修好通商条約に調印  
1858年8月9日  グロ男爵と共に下田に来航
1859年(安政6年)函館において仮聖堂を建てます。
この時代栗本鋤雲と知り合い互いに言葉を教授しあいました。
たびたび火災で焼失し、現在の建物は大正13年(1924年)に建てられたもので、ゴシック様式の ローマカトリック教会です。
1864年3月22日 ロッシュ来日。カションを通弁官として起用。
    11月10日 横浜仏語伝習所開校
1866年      カションパリ宣教会離脱 
1867年      パリにて、徳川昭武がナポレオン第三世に謁見。
カションは通訳として陪席します。
1871年      ニースにて死去。(享年四十二才)

慶応元年11月10日―1866年12月27日 水曜日

野毛 − 公使館

普仏戦争 ドイツとフランスの敵対関係は長い歴史の中で何度も戦われてきました。
添付はナポレオン三世と、鉄血宰相ビスマルクです。

慶応元年11月10日―1866年12月27日 水曜日
野毛 − 公使館
この当時の仏蘭西公使館は弁天の境内にありました、領事館は運上所内に置かれていました。
この当時、仏蘭西はナポレオン三世(1808年〜1873年)が統治していました。
フランス第二帝政の皇帝(在位 1852〜1870)
ナポレオン一世の甥になります。
亡命生活ののち1848年の二月革命で帰国し、第二共和制大統領に当選します。
1851年クーデターを起こし、翌年皇帝に即位しました。
反対勢力を抑圧し、産業保護・対外進出に力を入れました。
メキシコ遠征後、1870年普仏戦争に敗れて退位、イギリスに亡命しました。

独逸領事館が同じ洲干弁天の海岸よりに建てられたのは1865年です。
ドイツの国名はドイッチェDeutschドイツ語のディウティスク・民衆・同胞に由来しています。  
英語ではジャーマニーGermanyはローマ時代にGermaniaゲルマン人の国と呼ばれたことに由来しています。
1815年のドイツ連邦規約に基づいて成立しましたが、1848年の三月革命における中断をがありますが再び復活しました。
1866年の普墺戦争に勝利したプロイセンがドイツ統一の主導権を握り、オーストリアを盟主とするドイツ連邦を解体したものです。
翌年にプロイセンを中心として結成された北ドイツ連邦は、後に成立するドイツ帝国の母体とりました。

慶応元年12月22日―1866年2月7日 水曜日

野毛 − 伝習


添付は大田陣屋

慶応元年12月22日―1866年2月7日 水曜日
野毛 − 伝習
この年神戸の海軍伝習所は廃止され、新たに江戸の海軍操練所での伝習が始まることになり、阿蘭陀から教官が来ることになりましたが、英吉利にも伝習を頼むという事になってしまい混乱を致しました。
陸軍は元治元年から神奈川のイギリス陸軍より歩兵調練を受けて、英国伝習を開始しましたが、慶応2年5月フランス伝習を開始し伝習隊が設立されます。
9月27日には大田陣屋(日の出町付近)に移り三兵伝習を開始しました。
三兵とは騎兵・歩兵・砲兵のことです。
野毛の山から (別歌詞もあるようですね)
  野毛の山からノーエ   野毛の山からノーエ
  野毛のサイサイ 山から 異人館を見れば
  鉄砲かついでノーエ   鉄砲かついでノーエ
  鉄砲サイサイかついでならび足(お鉄砲サイサイ かついで小隊すすめ)
  おつぴきひやらりこノーエ ちいちがたかつてノーエ
  ちいちがサイサイたかつて おつぴきひやらりこノーエ 
(オッピコ ヒャラリコ ノーエ オッピコ ヒャラリコ ノーエ
チーチがタイタイ トトチチ オッピコ ヒャラリコ ノーエ)
イギリスの赤隊、フランスの青隊と色とりどりの小隊が行進ラッパを鳴らして通りを行進しているのを野毛山から見たものですが、この当時から歌われだしたものが明治に入り大流行して全国に広まりました。
星恂太郎 (ほしじゅんたろう 1840〜1876)
ヴァンリードのハード商会に勤務した後、江戸で各藩の藩士に西洋兵学の指南をしていました。
明治元年に仙台に戻り額兵隊を組織します、函館戦争に参加した後、開拓史となり苦労のすえなくなりました。


慶応2年1月7日―1866年2月21日 水曜日

野毛 − 木挽町


慶応2年1月7日―1866年2月21日 水曜日
野毛 − 木挽町
木挽町は天保の改革以前は芝居町でした。
深川と同じように取り潰しにあい寂れていましたが幕末から明治にかけて徐々に活況を呈してきます。
歌舞伎座が福地源一郎(桜痴)と千葉勝五郎の共同経営により明治22年(1889年)11月開場され今も新橋演舞場などの劇場が人を集めています。
新橋花柳界の最盛期には1200人からの芸者が在籍したといわれています。
築地居留地は慶応4年には出来上がり明治政府がその運営を続けることになります。

いろは丸想像図

亀山社中と海援隊の誤算 
薩摩藩名義で買い受けたユニオン号の功労者の近藤長次郎(上杉宋次郎)が英吉利への密航を企て船が出ないので陸に揚がったところを同士に見つかり詰問された上慶応二年一月十四日切腹してしまいました、龍馬が京に向かい出かけている間のことでした。
彼を失った亀山社中は龍馬の代わりをつとめる者に不足を生じて運営は難しいことになって行きました。
沈んだ2隻の船のうち、ワイル・ウェフ号は帆船ですが、伊予大洲藩から借り受けた、いろは丸は蒸気船でした。
この船の沈没を含め亀山社中・海援隊は赤字に苦しみました。
ワイル・ウェフ号
龍馬が薩摩藩の後援を得て漸く手に入れた洋式帆船(木造・百五十九トン)です。
船長は鳥取浪士・黒木小太郎、副将には土佐出身の池内蔵太と、塩飽佐柳島出身の佐柳高次があたり、他に塩飽出身の水夫が十人余り乗り組んでいました。
荒鉄や銅地金、大砲、小銃等の積み荷と、乗組員十五名に便乗者一名の合計十六名を乗せ、僚船である大型蒸気船のユニオン号に曳航されて、慶応二年四月二十八日、長崎を出港しました。
嵐に遭遇してロープを切り離された船は、上五島の潮合崎近くまで押し流され、五月二日の未明、激しい東風に煽られて、浅瀬に乗り上げ転覆船体は一瞬のうちに破壊していまいました。
生存者は浦田運次郎こと佐柳高次と、村上八郎、そして水夫の市太郎、三平の僅かに四名でした。
いろは丸事件
慶応3年6月国島六左衛門を長崎へ派遣した大洲藩は、龍馬と五代才助(薩摩藩士)の斡旋で、オランダ人ボードインから蒸気船アビソ号を購入した。
アビソ号はイギリスで製造(1862年)された四十五馬力・百六十d、長さ三十間、幅 三間、外輪船ながら三本マストでした、価格は四万二千五百両でした、「いろは丸」と改名されました。(内輪スクリュー船とした資料もありますが間違いでしょう)
国元との板ばさみで国島は、責任をとって12月24日、長崎の下宿の二階で自刃しました三十八歳の働き盛りでした。
大洲藩は12月16日、幕府に「いろは丸」を、城下町人対馬屋定兵衛の購入船として届けた。
翌慶応3年(1867)4月、もともとこの船が欲しかった亀山社中改め海援隊に貸すことになり契約日数十五日間、一航海五百両を払う約束で契約しました。
慶応3年4月19日、龍馬は小銃四百丁などを「いろは丸」に積み、大阪に向け長崎を出航します、これが海援隊独自としての、初航海でした。
4日後の23日夜半、濃霧の讃岐国箱崎の沖を航行中に、御三家の紀州藩所属の明光丸旧名バハマ号百五十馬力、八百八十d、長さ四十二間、幅五間、と衝突事故を起します。
賠償額は当初八万三千五百二十六両百九十八文でしたが後に七万両に減額して受領しました、受領日は龍馬死亡の八日前の、十一月七日と書く書籍と十二月八日だとの書籍がありましたが、11月10日に中島作太郎が長崎で交渉を成立させたとありますが支払日は調べがつきませんでした。
船の持ち主大洲藩に四万二千五百両を還したことが「旧大洲藩史」に記されています、いろは丸事件折衝の謝礼として五代才助には一千両支払っています。
残余金は後藤象二郎、岩崎弥之助が預かり海援隊、陸援隊、に対して一万五千三百四十五両が分配され、大半の隊士が当座を凌いだといわれています、残りは土佐商会の運営資金に回されました。

慶応2年2月10日―1866年3月26日 月曜日

野毛 − 泉岳寺


慶応2年2月10日―1866年3月26日 月曜日
野毛 − 泉岳寺

泉岳寺はパークスがこの当時滞在して公使館となっていました。
英吉利公使館は最初東善寺(港区高輪)にあり御殿山(品川)・関内居留地(横浜・イギリス領事館も安政6年に神奈川宿の浄滝寺に設置されています)・泉岳寺(品川)・横浜と移動しています。 
寺田屋
慶応2年(1866)1月24日の深夜三時頃、坂本龍馬が滞在する寺田屋を伏見奉行所の幕府役人たちが襲撃しました。
龍馬は長州藩士の三吉慎蔵と酒を酌み交わし、前々日に薩長同盟が成立した話を深夜までしていました。
お龍は入浴中に接近する人影に気づき2階の龍馬に異変を伝えました。
龍馬と三吉は、表玄関から二階に上がってきた幕府役人と対峙してピストルを発砲しながら裏階段から外に出て隣家の雨戸を蹴破って裏通りに逃れました。
浴衣にどてらを羽織っただけの姿で数百メートル走り、濠川(ほりかわ)近くの材木小屋に身を隠しましたが手指に負った刀傷で出血がひどく、ここで龍馬は動けなくなってしまいました。
龍馬は三吉を薩摩藩伏見屋敷に救援を求めるべく走らせたが、ひと足はやく、お龍が急を知らせていました。
留守居役の大山彦八は、濠川に薩摩藩の旗印を掲げた舟を出し、龍馬救出に向かい無事救出に成功しました。
龍馬は薩摩屋敷で、西郷隆盛が差し向けた医師から負傷した右手の手当てを受けます、龍馬の人相書は京大坂に配られ捜索が続けられたが、薩摩屋敷ではそのような者はいない知らぬ存ぜぬと突っぱねました。

慶応2年2月22日―1866年4月7日 土曜日

野毛 − 乾パン

写真は高木兼寛
慶応2年2月22日―1866年4月7日 土曜日
野毛 − 乾パン
内海兵吉(明治40年没)は本文では仙台の人としましたが横浜の人との資料もあります(堺町お貸長屋に住むとなっていました)、1860年(万延元年) 内海兵吉がフランス軍のコックから焼き方を教わるとパンの歴史には書かれていますが店についてはよくわかりません。
慶応2年(1866年)2月 内海兵吉が北仲通で富田屋を開業、パンやビスケットを外人に売りこんだとなっている資料は信頼できそうです。
子息の角蔵さんは組合の副組合長を長く勤め市内の主な病院と帝国海軍の糧食として、乾パン、パンなどを納入していました。
この当時から幕府海軍は乾パンを利用していますし帝国海軍も其れを継承致しましたが明治10年頃には白米利用に切り替えられていました。
1878年(明治11年)の海軍統計調査を調べると、帝国海軍の総人員は4528名でその中の脚気患者数は1485名におよんでいます、海軍総人員の32.8%が脚気の患者だったそうです。
これをすくったのは鹿児島出身で英国医学を学び、海軍から英国のセント・トーマス医科大学に官費留学し、そこを首席で卒業した高木兼寛が1880年に海軍軍医として復職しました。
当時、脚気病は細菌による伝染病と考えられていましたが、兼寛は食事の栄養欠陥から起こるものと考え「兵食改善」という予防法に取り組みました。
脚気の原因を巡ってはドイツ系の学派が細菌による感染症説を、英国系の学派が栄養障害説を主張していました。
栄養障害の一種と断定したのが高木兼寛、ビタミンB1の単離に成功したのが鈴木梅太郎で明治43年(1910年)世界で初めて「米ヌカ」から抽出に成功し、オリザニンと名付けられ、脚気病はビタミンB1の欠乏により発生することがわかりました。
イギリスのビタミン学界の第一人者レスリ・ハリスは世界の八大ビタミン学者を写真入りで紹介し、その中で兼寛を二番目に取り上げ彼の偉大な業績を紹介しました。
帝国陸軍が日清・日露の両戦役で戦死者よりも脚気による死亡者が多かったとの報告がありながら帝国海軍では戦病者の一割にも満たなかったそうです。
1894年(明治27年)に起きた日清戦争では、陸軍の戦死者293名に対して脚気による戦病死3,944名と戦死者の13倍にもなりました。
四万人を超える患者のうち入院患者の四分の一が脚気で、銃砲で傷ついた傷病兵数の11倍の兵士が脚気でありました。
日露戦争では脚気患者25万人中、病死者2万7800人、戦死者は4万7000人であったそうですが戦死者のうち多くが重症の脚気患者でもあったそうです。

イギリス留学中イギリスの優れた施療病院を見てきた兼寛は、
「病気に苦しむ人を救済する施設を作ることが社会の義務であり、人間が何より苦しいのは貧乏のうえに病気になることである、これを救わねば社会の発展はありえない。どうしても施療院を作らねばならない」
と考えました。
彼の考えに賛同する同志35人が集まり、明治15年「有志共立東京病院」(のちの東京慈恵会病院)を設立しました。
   
   第七巻完   


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