幻想明治
 其の十三 明治20年 −  阿井一矢
San Michele

   

 根岸寅吉 (根岸虎太郎)

1911年 明治44年4月18日生まれ(天保14年1843年)

横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。

 根岸 容 

弘化5年1月5日(1848年2月9日)生まれ

江戸深川冬木町に生まれる。 

 根岸明子 

明治元年12月10日生まれ(1869年1月22日)

久良岐郡野毛町三丁目に生まれる。

 佐伯 琴 (根岸 幸) 

1920年 大正9年9月9日生まれ(嘉永5年1852年)

横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。

 根岸了介 

1877年 明治10年11月7日生まれと届出

神奈川県久良岐郡横浜町末吉町5丁目54番地に生まれると届出。

(神奈川県第1大区4小区)

(明治10年5月5日山手220番生まれ)

 根岸光子 

1885年 明治18年5月31日生まれ


San Micheleサン・ミケーレ
明治20年(1887年)11月29日火曜日

日の出る前に起き出したアキコは表に出ようとして桟橋まで波に洗われているのを見て引き返した。

リシェヴィメントにいたマリオという中年の男性が「ボンジュール・マドモアゼル、汐は後一時間くらいで引きますよ」と教えてくれて「今の時間だとスティバリ(ブーツ)を履かないと表に出られませんよ。お持ちでなければお貸ししますが」と親切に教えてくれた。

「荷物の中にありますから大丈夫ですわ。メルシー」
階段で部屋へ戻るとヒナも起き出して窓を開けて外を見ていた「止めにしたの。まだ水浸しみたいね」と振り返った。

「そう、桟橋は波に洗われているわ。後一時間くらい引かないそうよ」

「なら船の来る9時には大丈夫ね」

「アリエルと相談して長靴を履いていこうかしら」

「長靴にジーンズじゃまずいかしら」

「わたし達は其れでいいけど、ヨシカたちは気にしないかしら」

「ならばジーンズは無しでもショウに言われたから長靴は持ってきているから持参するか履いていくように聞いてくるわね」
廊下に出るとタカが表に出てきたので其の話しをすると今じゃなくともあと30分で朝食だから其の時にねと言われて部屋に戻った。

部屋で其の話しをするとタカは何処へ行くか言っていたとアキコに聞かれ「聞かなかったけど階段の方へいったわ」と言って「アキコのように散歩かしら」と首をかしげた。

食事の席で聞くとムラーノで霧が出て船が出られない時の連絡の方法を聞きに行ったと言って「テレホンはまだ通じていないので電信を打って下さい」といわれたと全員に伝えた。

「霧が出そうなのですか」
ヨシカが心配そうに聞くと「まだ濃い霧や靄の時期ではないけど確かめて置きますと言うのでタカがリシェヴィメントまでおりて行ったのよ」とアリエルが答えた。
昨晩ソニアとロゼッタの親子にクレメンテもムラーノまで付き合うことに決まったので余計天候に気を配ったようだ。

桟橋へ5分前にでるとイタリアらしくも無くもう迎えの船は来ていた、この間の船長と二人の船員も同じだ。
10人乗りとアキコは思っていたが「こいつは普段荷物のほかに20人乗せてムラーノまで行くんでさぁ」と船員は自慢げだ。

クレメンテは船長と天候やアタックアルタの状況を話し合っている「午後に霧が出るか弱いボラが吹くかどちらかじゃないか。この様子なら突風が吹く陽気じゃないから午後は温かいだろうぜ」と気楽に答えている。

船がスキアヴォーニ岸から100mほど沖に出るとハルが「あら、あたしがおかしいのかしら」とツネに「あの鐘楼ゆがんでない」と指差した。
昨日の朝ピエタ橋を渡った時には気が付かなかったが沖に出てサン・ジョルジョ・デイ・グレーチ教会の白い鐘楼がはっきりと見えたので其の傾きに気が付いたようだ。

リオ・デイ・グレーチに落ちかかるように傾く鐘楼に一同の目は釘付けだ、クレメンテがポンテ・グレーチとグレーチ教会の事を話してくれた。

「スキアヴォーニ周辺はギリシャ人が多く住んでいたのですよ。グレーチはギリシャ人のことで、サン・ジョルジョ(San Giorgio)というのは、ドラゴン退治の聖ゲオルギウス(San Georgius)でイギリスではジョージ(George)だそうです」

アリエルも「傾いた鐘楼はピサが有名だけどヴェネツィアにはいくつもあるのよ、今日は其れを見つけるのも楽しみになるわよ」と興味を煽った。

大型船が何艘も沖がかりをしている近くを通り、リオ・デル・アルセナーレでは「ここらあたりは向こう側へいければ一番近道なのですが海軍の管轄で通り抜けが出来ないのです。造船所もあるのですよ」と説明した。 

船は本島の東側へ回り込みサンテレーナ教会(Sant' Elena)のすっきりとした鐘楼が見える、其の茶色の鐘楼は随分と古いように見えたが「500年位前の建築ですよ」とあっさりとクレメンテが教えた。

向こうに見える島と本島の外れのサンテレーナは200mくらい、真ん中を船は進みサン・ピエトロ・ディ・カステッロ教会堂(San Pietro di Castello)が左手に見える。

「此処も本島と言っても実際は島ですよ。ヴェネツィアの総大司教座教会は、1807年までこのサン・ピエトロ教会だったそうです」
船がラグーナを進むに連れて小高い場所に立つ鐘楼が傾いている様子が見えてハルは大喜びだ「これならピサの斜塔を見なくても満足だわ。アキコが後で絵を描いてくだされば嬉しいわ」とアキコを見つめた。

「描くのはいいけど誰か画家の描いた絵をお土産に買い入れるか写真を売っているんじゃないかな」

「絵ならダヴィードとフォルトゥナートから買い入れられますよ。其れとベニートが描いたはずですから其れほど高い値段でなくとも買えますし、旅行客用に写真も売られていますから欲しい人はダヴィードたちに言えば手に入りますよ。勿論アキコが描いてくれるなら僕も欲しいですね」
クレメンテはさすがイタリア人煽てるのも上手だ。

其のアキコは揺れる船の上でソニアとロゼッタの絵を描いていたが其処へ教会の白い斜塔を足して見た。

船はアルセナーレを通り過ぎてムラーノとサン・ミケーレの間を抜けて左へ舵を取ると教会の正面に船を寄せた。
教会の脇の道を抜けると小さな建物がありアリエルが「此処はお手洗いよ。用のある人は此処へ来るのよ」と全員に教えて左へ進んだ。

花売りの売店はようやく開店準備のようでまだ船から荷を降ろしている、其の壁には案内板が貼り付けられ正教会、プロテスタント、ユダヤ教徒の墓地は赤く示されていた。

教会の柱廊にたいして半円を描くように壁が連なり将来其処へ遺骨が移されることになっているそうでカトリックの多いヴェネツィアでは墓地の大部分を占めている。
ほぼ10年が経つと小さな棚に移される遺骨はすでに多くなってきて花畑の墓地は次々に新しい墓碑と入れ替わっている。

家族の墓として一角を占めるものもところどころにあり鉄柵の門がついている。

アリエルとソニアは一度後戻りして花屋の老人から二つの花束を買い入れてきた、キエーザ・ディ・サン・クリストフォロの前を通りプロテスタントの門を潜ると塀際の可愛い十字架の墓碑の前で膝をついて祈りをささげた。

「この娘はわたし達の同級生で両親はオランダから来ていたの。風邪だと思って油断していたとメールが嘆くほどあっという間に天国に召されたの、まだ16だったのよ」
にじんだ涙をフラールで抑えて立ち上がるとまたヴェネツィアに来たら来るからと門へ向かった。

花畑の墓地の中にまだOGATAの墓が残っていた、OGATAの顔のレリーフがついた墓碑は長沼が彫塑した物だ。
二人が花束をささげた後一同も祖国から離れた異国で無くなった緒方維直を悼んで黙祷をささげた。

 

第二代日本語教師 緒方維直(1876〜78) 惟直、幼名十郎

嘉永6年9月12日(1853年10月14日)〜明治11年(1878年)4月4日
ヴェネツィアにて死去25才 

緒方洪庵の五男。横浜仏語伝習所に学び 第二期卒業生,慶応三年幕府のフランス留学生となる。帰国後陸軍兵学寮教師,ウィーン万国博の政府事務官。
トリノの王立国際学院( Regio Istituto Internazionale )に学籍が残っている。

鴎外日記・長沼が答えるに、家の番地などは覚えていないがブゴ橋という橋を渡り、産婆のLeratriceの家に行ってみるとよい。そこに妻子がいる。
娘の名はエウジェーニア(Eugenia)だそうだ。 

墓碑銘の「緒方維直、1855−1878」との誤記について生年は1853年。

維直と惟直について

墺國博覧博覧会派遣副総裁書記官并随行員職務分担人表(墺國博覧博覧会参同紀要=付録=)には緒方維直(佛語通訳及翻訳 三級事務官事務局御雇)と為っているので政府への届出を維直にしたようだが、1873年2月4日ヴォルガ(Volga香港経由)で横浜を出てウィーンへ出かける時の名簿では惟直とされているのでウィーンでの改名のようだ。

墓碑の彫刻は第四代日本語教師長沼守敬(彫刻家)(1881〜87) 陸奥国一関(岩手県)出身。
明治7年上京、イタリア公使館に通弁見習として働き、14年公使の帰国に同行してイタリアに渡り、ヴェネツィア王立美術学校に入学ルイジ・フェラーリ,アントニオ・ダルツォットに師事、18年同校卒業、20年に帰国した。

第五代日本語教師は伊藤平蔵(1887〜88) 後に東京外語大イタリア語教授。

初代 日本語教師 吉田要作(1873〜76)

第三代日本語教師 川村清雄(1878〜81)
1852〜1934(嘉永5年〜昭和9年)明治9年(1876年)2月ヴェネツィア美術学校に入学、同年紙幣寮官費留学生として採用され給与を受ける。明治14年(1881年)再三の留学延期願いが却下され帰国。

第六代日本語教師 寺崎武男(1908〜09)の6人、37年間。


船は教会前の岸を離れてすぐ其処に見えるコロンナの停留所まで300mほどのムラーノへ向かいコロンナの次のファーロのヴァポレットの桟橋を過ぎるとカナールに入った。
遠くから見えていたキエーザ・ディ・サン・ピエトロ・マルティーレ(Murano)のカンパニーレが斜めかどうか左側を皆で目を凝らして見ている。

正面に見える白いカンパニーレはキエーザ・サンティ・マリア・エ・ドナートで教会の大きな建物がひときわ目立ち、左へ舵を取るとすぐに右のリーヴァ・ロンガのムゼオ停留所の先50mに船をつけた。

「カナーレ・デッリ・アンジェリという運河です。この島は運河で7つに別れていますがヴェートロ・ディ・ムラーノの大きな工場は大分減りましたが工房は100近くあるはずです。小さなところで4人ほど大きなところは300人も働く工場がありますがそれでも5人ないし6人でピアッツァというグループで仕事をしているんですよ」
ナポレオンによって衰退していたムラーノの産業だが1867年の巴里万博でのヴェネツィア・グラスの好評を受けて3500人以上の雇用が生まれている。

「それでミシェルは何処の工場と取引があるのですか」

「そうですね、仲介業者が奨める三軒と臨時に何軒かと契約して必要な物を集めるのですが、今日は仲介業者にシャンデリアの新しい工房を教えてもらう予定です」

「シャンデリアは高いのでしょ。ボストンで電気式の誂えで2000ドル出したと自慢する人がいましたわ」

「ヨシカ、其れは高級品には違いありませんが此処で造られるもっとも高い物はそれでは手に入りませんよ。でも500リラの小さな物から2000リラ程度でまずまずのものが手に入りますよ」
500リラはおよそ百五十円、ほぼ111ドルで2000リラは445ドルに相当した、ボストンでは倍以上の値になって普通だ。

「お土産には無理ね」

「シャンデリアは分解して送らないと壊れますから送料もかかるし組み立ても大型の物は専門家がいないと難しいですよ。小さな置物にグラスなら10リラ程度で手に入りますよ、すこし手の込んだ物で20リラくらいです。仕入れ値でお分けしますから気に入った物は私かアリエルに耳打ちしてください」

「ミシェル、横浜では洋館が増えたけどイル・ジャッポーネでは小さな家が多いのでシャンデリアの安いもので色が綺麗な物を10組ほど選んでくれますか。ジャッポーネでも電気のシャンデリアの需要は始まりそうですから」

「良いとも清次郎、新しいタイプだね。もう家庭の照明は蝋燭にガスの時代でもないだろうと思うよ、これからは電機の時代さ。昨日も言ったように社長のショウから僕の裁量で取り扱いを任されているから好きなだけ買い入れてくれたまえ。清算は横浜でして呉れてかまわないと言うことさ。今回の取引のためにヴェネツィアのバンカ・ディ・ヴェローナの口座に50000フランが入金されているのさ」

ヨシカたちも其れに便乗してよいと言うので一人100リラ程度まで付けで買いものをして後は現金で支払うことにした、足りない分は明日銀行でドルとポンドを持っているから換金すれば良いわとアキコが受けあった。

「それなら換金率を調べてそのまま頂いてもかまわないのよ」
アリエルがそう言って先に降りてロゼッタを受け取った。

一同が降りて船長とアリエルが時間について話しをしていると岸辺の商店から出てきた小太りの男が「ブオン・ジョルノ。待ちかねたぜ」とミシェルと抱き合って挨拶を始めた。
ミシェルが一同を引き合わせると次々に握手をして回り最後に「ヤァ、アリエル今回もミルフィオーリを買い入れに来たのかい」と肩を抱いて頬にビズをした。

「そうよ、チィオンドロ(Ciondoloペンダント)にコッラーナ(Collanaネックレス)が欲しいの」

「良いともこの前の工房でいいかい、ベースはどうする」

「花瓶は勿論買うわよ。いいもので安ければね」

「いいものは高い。安いものは出来が悪いのは当たり前さ」

「ダメダメ、一点物の高級品じゃないの、ムラーノの品物の名前が落ちない品で安いものじゃなきゃ買わない」

「ヨォ、ミシェルお前の神さんはお前より商売上手だぞ」

「そんなこと言いながらマルコはいつも儲けを出しているだろ」

「そんなこと無いぞ。お前さんたち夫婦から儲けようなぞ考えた事もない。手数料は僅かな物だ」
やはり口も商売も上手い男のようだ。
船員が自分たちの商売の荷物を降ろした後ようやくミシェルの木箱を持ってきた。

「こいつはパリからの贈り物だ、今日一緒に来ているムッシュー・セイジローは俺たちの社長の弟でニューヨークの店を任されているんだ」
店へ入るとガラス製品が陳列されていて何処の工房かを書いた紙が貼られている、此処は見本を置いて実際はマージンを取って紹介しているようだ。

木箱の蓋を開けると機関車の模型と横浜絵にお茶壷2本とイギリスからの紅茶セットにダージリンの高級茶だ。

「こいつは凄いな今回は大分買ってくれるのかい」
機関車の模型は持ち重りがする60センチほどの物でマルコは目を細めてみている。

「其れも有るけどこの人たちが帰国するのにお土産を安く手に入れてもらうお礼さ。皆さんはここに見本がありますからよく見て自分の気に入った物があったら僕かアリエルに言ってください。僕とセイジローはこの後シャンデリアを作る工房へ案内してもらいますから」
其れを待ちかねたようにミルフィオーリとペルリーナ(ビーズ)の棚に群がりマルコの奥さんの説明に目を輝かした。

「ヨォ、ミシェルなぜ俺たちに之が欲しいといわずにお前さんたちに言うんだい」

「其れは後で俺が仕入れて渡すからさ。この人たちに卸し値段で安く手に入れてもらうためだよ」

「それならそんな面倒な事しなくても俺やマンマで良いよ。勘定はお前につければいいんだろ」

「そういうのを待っていたんだ」
マルコは呆れて手を広げて肩をすくめ、ものもいわずにアキコたちにおどけて見せた。

「其の棚のペルリーナ(ビーズ)は3個で1リラの卸し値段で下の小さな物は5個で1リラですよ。今回アリエルが大量に買い入れてくれるなら値切ってみますがね」

「ミルフィオーリとペルリーナの大きい物を6000で1000リラ、小さい物を8000で1000リラならすぐに手形で払うわ。昨日の内にバンカ・ディ・ヴェローナの手形にしてあるわよ」

「そんな、それじゃ俺は赤字じゃないか。ちっとは飯をくえるようにしてくれよ」

「マストゥロのジュゼッペに聞いてみましょうよ。手持ちがあればすぐ支払うと伝えてよ」 

仕方ないとつぶやきながら機関車を眺めていたが其れを店の奥に飾ると茶壷を一本抱え「この人たちと工房を幾つか回ってくるよ」とマンマにいうと「さぁいきましょう」と店を出た。
店を出て岸辺を右に行くと20mくらいで右へ入る道がある、100mも行かないうちに展示場を持った工房があり路地を入ると15人ほどが働いている。

「ブオン・ジョルノ」
ミシェルが声をかけると手を休めて出てきたマストゥロのジュゼッペという中年の人はマルコとよく似ている「まるで兄弟みたい」ハルがつぶやいたのが聞こえたらしく「ヨオ、フラテッロ(兄弟)」とマストゥロがマルコの肩を抱いて見せた、どうやらフランス語が通じるようだ。

「実際は再従兄弟なんですよ。親父も母親もそれぞれ従兄妹だったかな」
そう言いながら抱えてきた茶壷をミシェルからのお土産だと渡した、この島の人たちは何世代も同じような結婚を繰り返してきたのかもしれない。

「ミシェル今回はなにがお望みだい。アリエルはミルフィオーリを買い入れに来てくれたのかい」

「そうよ。ジュゼッペ。マルコが手数料無しで安く手に入れてくれると言うの」
ウィンクして握手をしながらそういうとマストゥロは大きな声で笑った。

タカとロゼッタは50センチ角のスカルプターを製作している三人の男たちの傍でしゃがんで見て二人は「素敵な彫刻ね」とささやきあっている。
様々な色のガラス棒を操り模様が浮かび上がる様子を賞賛の眼で見ていると見る見るうちに其れは飛び立とうと羽根を広げた白鳥の姿になった。

一段落した男たちは二人に「チャオベッラ」と声をかけた、なれたものでロゼッタは「チャオベッロ」とウィンクを返している、クレメンテがおしゃまさんというわけだ。

「とても素敵ですわ」

「マドモアゼル、こいつはいい出来でしょう、ただ此方の希望の値段で売れるかどうか」

「高いのですか」

「俺としては500リラとしたいところだが画家の絵と比べて半分の250リラくらいしかおじきは払いませんよ」

傍に来ていたマルコに清次郎は「そんなものしか取れないのですか」と聞いている。

「構想には時間がとられても実際は半日で仕上がるものに其れほど出す人がいないのですよ、失敗作は溶かせば良いと思われるのでね。20リラから50リラ程度のグラスやベースにブラーベースのほうに需要があるのですよ」

「貴方が実際に売るのは幾らくらいですか」
清次郎め寅吉譲りの掛け値なしの取引を始めるきだ、アリエルがところどころ通訳しながらはらはらしているがマルコのほうが呻吟しているのが可笑しいようだ。

「本人が250リラと値段を出した以上私に10パーセントの手数料をくださいよ。それで梱包も確りとしますから」

タカのほうを清次郎が見ると買いたいと日本語で小さくつぶやいたのでアリエルにそう伝えて引き取ることにした。

「10日ほど経たないと安定しないから送るのは其れからに為ります。清次郎が欲しいというシャンデリアとうちの代理店が横浜へ送り出します」

アリエルはタカに了解を求めた。

「お願いしますわ」

タカもそのまま持ち帰るのは無理だとすぐにわかったようだ。

「今日持ち帰るなら展示場に出したものなら大丈夫ですよ」

「ええ、其方も見て考えますが目の前で出来た白鳥に愛情がわきましたわ」
タカの拙いイタリア語にフランス語で「グラーツィエ。こいつを褒めてくれて嬉しいです」と男はマリオだと名乗って無骨な手で握手を求めた、こんな無骨な手であのような繊細な線を出せるのが不思議だとタカは思うのだった。

アキコが来てロゼッタに「ミルフィオーリをチィオンドロ(ペンダント)にしてるのを見にいこう」と誘いに来たので後を任せてタカも付いていった。

展示場の脇の作業場ではペルリーナ(Perlineビーズ)を大小組み合わせたネックレスに仕上げる女性と同じ大きさで50個ずつ紐に通す女性、直径が25ミリほどもあるミルフィオーリをチィオンドロ(ペンダント)に仕上げる女性と三人が働いていた。

「アキコわたし達あのコッラーナ(ネックレス)に仕上げた物を5組ずつお土産にすることにしたわ。貴方は数を買う必要があるかしら」

「いえ、同じ数で良いわ。清次郎が仕入れるなら其れを分けてもらうから」
其の清次郎もアリエルと来て「皆さんも後で数が欲しい時は横浜でお分けしますよ。勿論此処で買い入れた値段ですよ」と交渉はアリエルに任せることにした。

マルコとジュゼッペがこちらに来て「値段は倍の買い付けならそれで良いよ。君も大量買付けなのだからこの分だけは5パーセントでいいじゃないか。半分の取引の時と手取りは同じだぜ4000だから200手に入るぜ、リアルトへ持っていくだけでね。それにほかの買い物もするそうだしな」

「仕方ないか、君の言う通り他にも買い入れてくれるそうだからな。其れで其のチィオンドロは要りませんかね」

「僕が皆さんに一つずつプレザンに買い入れますよ。勿論クレメンテにセイジローは神さんもいないのであげませんぜ」
マルコは人数を数えて「十人にあげるのかい」
あれっとミシェルが指差しながら数えるとアリエルを入れれば確かに10人だ。

「うちの奥さんにもか」
そう吃驚したように言うと「当然だろ」とマルコがウィンクした。

ミシェルは「セイジロー、コッラーナ(ネックレス)は卸値が一組20リラだそうだから丁度100リラになるよ。マルコの手数料は僕が持ちますぜ。鎖は銀製なので此処では客に43リラで販売してるそうだ」と後から来た清次郎に伝えた。
ハルとヨシカはお土産の分でチィオンドロ(ペンダント)も欲しいが幾らですと聞くと「値札の半額と思えば大丈夫です」とマストゥロが受けあった。

ハルとヨシカは35リラのチィオンドロ(ペンダント)を選んでアリエルに頼んで書き付けてもらった、其れは綺麗な小箱に入れられてリュバンがかけられ、ヨシカたちは小さなカードをもらうと自分の名前を書いてリュバンに差し込んで糊をすこしつけて留めた。
プレゼントされるチィオンドロ(ペンダント)は作製した女性が50リラと値段が書かれた箱からそれぞれに相談しながら首にかけて鏡に映してみるように勧めて映り具合を確かめた。

清次郎はペルリーナ(ビーズ)をいく種類かを選んでコッラーナ(ネックレス)にしつらえ、ミシェルに50組買い入れてもらった、「アリエルの仕入れは」と聞かれ「チィオンドロ(ペンダント)は言い値で買うけど全部で予算は2000リラよ」とあっさりと答えた。

「パ・マル(悪くないね)」
マストゥロはそう言って銀の鎖とミルフィオーリを留める作業をしていた女性と箱を出してきて20リラの分を100組、35リラの分を50組、50リラの分を50組出して「売値が6250リラ卸を2500リラにするがどうだねマルコの分を入れても2750リラだ」と安いから買いものだよと言ってくれた。

「それくらいなら出しても良いわ」

「そうこなくちゃ」
マストゥロも上機嫌だ、50リラのほうはミルフィオーリも30ミリほどで重いので銀の細い板で包みこんである。

ミルフィオーリといえばモレッティ(Moretti)のミルフィオーリ(Millefiori)と名前が知れ渡っているが主に工芸品の皿が有名だ。
1911年兄弟三人で起こした会社がミルフィオーリ(千の花々)と呼ばれる花の形をしたムリーネ(モザイク片)が一面に埋め込まれた皿によって業績を伸ばした事で有名

マストウロはお土産だといって女性10人に組み合わせたミルフィオーリの花の箱を差し出して選ばせてくれた、5センチほどもある其れは大小のミルフィオーリを組み合わせ、見た目も美しく「机に置いた紙の上か読みかけの本の上に置く物です」と言うジュゼッペにかわるがわるビズをして展示場を後にした。

清次郎とミシェルはマルコから紹介されたシャンデリアの工房で一行と別れサルヴィアティ工房で落ち合うことにした。
二人はイル・ジャッポーネの現状を説明し真鍮製の棒の先にガラス製の飾りが付き四灯の電球が付く小ぶりな物を十組と飾りの多い八灯のものを二組買い入れることにした。

マルコが呼ばれ値段の交渉が始まり,ミシェルの出した注文は50組7万リラ手付け1万リラ、清次郎は10組で4000リラ、二組の豪華なほうでも1800リラでよいと決まりマルコも手数料の金額を思い出してニコニコとしてマストゥロのマッシーモとこれからもよろしくと握手してさらに抱き合って背中をたたきあった。
此処の展示場には蝋燭の飾台にガス灯のシャンデリアも飾ってあるが「これからは電気式を専門に手がけることにしたんだ。マルコも精々気張って売り込んでくれ」と煽った。

ベース(花瓶)にブラーベースを作成している工房でアリエルは1万2000リラで200個の買いものをして満足げだ、値段も充分リヨンで儲けが出ると判断出来たようで、次のグラスのサルヴィアティ工房でも1万3000リラ出して同じように満足のいくグラスを買う事が出来た。

サルヴィアティ工房には5人のマストゥロがいて、した働きも含めれば50人が働く大きな工房でジュゼッペ・バロヴィエールというマストゥロとアキコは気があったかこれから造るカリチ(caliciゴブレット)をプレザンすると傍に呼んでくれた。

「先に寄ったジュゼッペと同じ一族で同じ名前でなぁ。困る事も両方にあるんだよ。どういうわけか一族はジュゼッペが好きでね、こいつはパリへ出したものとは違う小さな物だがいいかね。あそこまで手が込んだ細工は急いで造るには無理だがね」

そうわざわざ断りも言って途中まで仕上げてあった製品を集めて集合体にするマストゥロは一同が出発しても美術館で落ち合えば良いさと傍から離さなかった。

「そういえば昨日サン・マルコの近くの教会でジュゼッペ・サルトといわれるマントヴァからこられた司祭に会いましたわ」

「ハッハッハ、そいつはいい、あんたはジュゼッペに縁がありそうだ」
言葉を交わしながら楽しげに語るマストゥロは時々ヴェネツィアの方言を教えながら製品を仕上げていった。

横浜へ戻る8人とロゼッタとソニアにクレメンテまでがアルドと名乗ったマストゥロから真紅の小さなグラスをプレザンされ、「マルコの店にすぐ届けて置きます。マンマが綺麗に割れないように包みますよ」と言ってくれた。

アキコを残し、かわるがわるビズをして工房をあとにムゼオ・ベトラリオ・ディ・ムラーノヘ向かった。

ガラス美術館(博物館?Museo del VetroMuseo vetrario di Murano

住所:Fondamenta Marco Giustinian 8  

1861年、時のムラーノ市長アントニオ・コッレオーニが、ムラーノ・ガラス美術館の基礎を築き、紀元1世紀から現代までの、幅広い作品が展示されています。

キエーザ・サンティ・マリア・エ・ドナートの広場に出てポンテ・サンティ・ドナートを渡りトラットリア・ヴァルマラーナ(Trattoria Valmarana)で昼食をとることにした、店の前の運河の向こうに有るベージュの建物は可愛い入り口の上にバルコニーが張り付くように付いて「あそこがムゼオですよ」とクレメンテがヨシカに説明している。

揚げポレンタ(とうもろこしの粉)にはトマトとひき肉のソースが掛かり、バジルのパスタにコーヒーで仕上げると「此処は私に奢らせてください」とマルコはアキコのためにサンドウィッチを作らせて支払いをし橋を渡って美術館へ向かった。

「尿瓶が展示されているわ」
アキコがやっと一同に追いつくとロゼッタが手を引いて其の展示されている壜を見に連れて行った「あら、私ワインのデキャンタだと思ってしまったわ」と言うアキコに「だってお婆様の家にもあるもの」と自信たっぷりだ。

「こいつは本当に尿瓶ですよ」

クレメンテにマルコも保障した、皆が其処へ集まると「こいつをデキャンタだといって買い入れてイル・ジャッポーネに送る人もいそうですね」という清次郎にマルコは「そいつはいい考えだ」と言って笑いが止まらないので釣られて笑い出す一同だ。

レース・ガラスの繊細な線(16世紀以降・成形前のガラス塊を冷却水につけて模様を生じさせる)ア・ギアッチョ(アイス・ガラス)の製品にうっとりとする一同だ。

「之ならタカが買ったマリオの白鳥のほうが良いですね」

スカルプター(Sculpture彫刻)技術が向上していない時代のものだろうかそんな品物までが展示されていた。

ペルシアンブルーのコッパ・ヌツィアーレ・デッタ・バロヴィエール(Coppa nuziale detta Barovier)には一同が見惚れマルコは自分の作品のように鼻高々だ。
アキコはロゼッタを抱き上げて25センチもない水差しの細かい模様を見て何事か笑いながら話し合っている。

ファンダメンタを南の角で曲がるとリーヴァ・ロンガのムゼオ停留所だ。
3時30分のファンダメンタ・ノーヴェ(Nove停留所を経由してフェッロービア停留所までのヴァポレットに乗る三人もまだ一時間余裕があるのでマルコの店へ向かった。

店で其の三人への贈り物を包んでいる最中で「間に合って良かったわ」とアリエルもほっとしている。

アリエルとミシェルは今日の締めと後払いの金額を確認してマルコの手数料は確認して全額精算した。 

其の間にアキコはサンドウィッチを食べさせてもらってマルコに「ジュゼッペが3日後に此処に届けるそうなので他の物と区別して送り出してくださいね」と頼み込んだ。

1万リラを越す手数料にマルコとマンマはニコニコと相談していたがジャッポネーズィへのお土産ですとシェブロンの青と赤いペルリーナ(ビーズ)を組み合わせたコッラーナ(ネックレス)を全員の首にかけて回った。
清次郎にまでマンマはかけてくれ頬にビズをする清次郎に嬉しげにビズを返した。

「この人たちだけでは片手落ちよ」
そう催促するアリエルに「もちろんあなた方へもよ」とマンマはロゼッタにも膝をついて首にかけた。

「ロゼッタにロゼッタの贈り物だわ」
アリエルの言葉にマンマは「そうあなたロゼッタと言うのね。このシェブロンはロゼッタという古い時代の模様を写したものなのよ」と教えると「大事にしますわ」と首にすがってビズをした。
マンマは嬉しげにロゼッタを抱きしめて立ち上がるとそっと椅子へ腰掛けさせた。

シェブロンは15世紀末にクリスタッロで名をはせたマストゥロ(マエストロ)アンジェロ・バロヴィエール(Angelo Barovier 14051460)の娘マリア・バロヴィエールが作り上げた物だ。

「こいつでオランダ人はアメリカのマンハッタン島を手に入れたと話しが伝わっていますよ」

「エッ本当ですか」

ボストンにいた一同は驚きの声を上げた、ペルリーナ(ビーズ)で手に入れたという噂があってもこのヴェネツィアのシェブロンという話まではアキコたちも初耳だ。
オランダは此処ムラーノから引き抜いた職人にペルリーナ(ビーズ)を作らせ東インド会社は其れを贈り物に莫大な利益を上げる事が出来たのだ。

「昔の物は之より大型で今は4つの層や6つが主流ですよ。アメリカには昔の物がたくさん残っているそうですよ」

ヴァポレットの時間も近づきソニアとロゼッタには「之でお別れね。お名残惜しいけど。アリヴェデルチ」と抱き合って別れを惜しんだがクレメンテは「いつか再会できる事もあるさ」とロゼッタを慰めて三人を見送る一同と「チャオ」と明るく別れた。

今日の荷物を船に運んで見送る夫婦と「アリヴェデルチ、グラーツィエ」と言葉を投げかけあって船はブラーノへ向かって桟橋を離れた。



船は運河を出るとラグーナを北東に向かい、サンテラズモ島を右舷に見て進むとやがて狭い水路を抜け、サン・フランチェスコ・デル・デゼルトも右舷に現れる。

「この船の航路はヴァポレットとは違うのよ。普通はこっちを通らないの」
そう言ってブラーノの左に見えた島のほうを指差して向こうに先に停まるので航路が違うのだとタカに話している。

「今日は島巡りを出来ないけどここの家はとても綺麗に色分けされているの、学校と私の同級生が持つ工房へ行くので時間が夜になってしまうの。見る値打ちは充分ある島なのよ」

ツネが真っ先にカンパニーレが傾いているのを見つけた「随分傾いているわ」船が島に近づくにしたがい其れは大丈夫なのかしらというほどかしいでいるのが見え、すでに4時に近く西日を受けて影が伸び、太陽は遠くの山脈へ落ちかかっている。

「あの教会はキエーザ・ディ・サン・マルティーノよ」
アリエルがタカやツネに教えている、島の東の端へ船を着けるとアリエルは小さなトランクを二つ持って上陸した。
教会の前を抜けると広いカンポがありやや右寄りにポッツオ、其の先に学校(レジーア・スクオーラ・ディ・メルロットRegia Scuola di Merletto王立レース学校)がある。

前にも書いた部分もあるが此処でおさらいすると

アンナ・ベオリオ(ベッロリオ)・デステ(Anna Bellorio d'Este)レース編み指導員
(フランス語読みアンヌ・デスト)
チェンチア(Cencia Scarpariola)という80歳の老婆(Vincenza Memo)からアンナがレース編みの秘密を伝授されて学校で教えた。

メルレットMerlettoはレース編み。
メルリはヴェネツィア地方ではレースのことを指す。

ヴェネツィアンレース(Venezianlace)は19世紀に入ると衰退していくが世紀後半、マルゲリータ王妃(Regina Margherita)の後援で1873年ブラーノのレース教習所がアンドリアーナ・マルチェッロ伯爵夫人(Andriana Marcello 1893123日死亡)の指導により開設され、ブラーノのレース生産が復活して、1875年には100以上のレースメーカが存在していた。 

ブラーノレースはレティセラやニードルレースをイメージした製品で規模を拡大していくが、20世紀に入ると大規模生産による製品の質の低下を招き衰退していった。

現在この学校は博物館となって残されている。
レース博物館Museo del Merletto di Burano
Piazza Galuppi, 187  30012 Burano (VE)

学校の中は明るく輝いている「電気が来ているわ」アリエルも此処に発電機があり電燈がついているとは知らなかったようだ。

中へ入ると様々なレースが飾られていて事務員が何人も働いている「ブオン・ジョルノ。ジェンティルオーモ・ジェローラモはいらっしゃいますか。リヨンからお約束したアリエル・バルデュスが参りましたとお伝えください」若い事務員に伝えると「ブオン・ジョルノ。シィ、すぐお呼び致します。シニョーラ・バルデュス」とこの人は訛りがないようだ。

ドアの向こうから「オオ」と言う声がして出てくるなり両手を広げて「ブオン・ジョルノ、アリエル」と抱え込むように歓迎して「ムッシュー・バルデュスはどちらですか」と確認して盛大に握手をして肩を叩きあった。

「ブオン・ジョルノ。待っておりましたよ。其の方々がイル・ジャッポーネの留学生のマドモアゼルですね」
一人一人と手にビズをして回り清次郎ともフランス語で挨拶をして「気に入った品物があればここでも販売していますし、卸しの相談も出来ますからよろしく頼みます」と宣伝も忘れなかった。

「コンテッセは居られませんが、私に事務員も学校の先生、生徒諸嬢もあなた方を歓迎いたします」
生徒も上級者は賃金もよく各工房へ引き抜かれるか此処で教師として残り後進の人に技術を伝えている。

ヴェネツィア弁交じりで「此処では手製の製品しか作りませんが機械で作る人がこのブランへ工場を作りたいとヴェネシアの政庁に働きかけているようです。コンテッセにレジーナが反対していますが」と言葉を濁したのは大資本の工場が出来て素人同然の者が作る品は価格の低下を招くことを見抜いているのだろう。

すでに今世紀始めにイギリスで開発された機械によりフランス(ジャガード)、ドイツ(ケミカル・レース)で製品が開発され、熟練した技術者も増えてパリでも出回って久しいのだ。
各教室(工房)を案内して上級者が製作した襟飾りと高級なドレスに、機械織りながらパリで高級品を数多く見てきた一堂も溜め息が出るほどだ。

プント・イン・アリアを教えていた若いシニョーラがアリエルを認めると生徒に後を任せて此方へ来た。

「ブオン・ジョルノ、アリエル元気にしてた」

「ブオン・ジョルノ、レティーツィアあんたも」
二人は手を取り合って互いの健康を祝った。
レティーツィアというシニョーラはアリエルより若いのか短い髪を後ろでまとめていかにも活発そうに見える。

襟高の青い服に白いエプロン、チィオンドロ(ペンダント)はムラーノのミルフィオーリ(Millefiori)で赤と黄色に白い花が寄せ集まる華やかのもので栗色の髪のレティーツィアによく似合っている。

プント・イン・アリア(Punto in aria)は、レティセラの特徴を残しながらも、幾何学模様から自由に形作ることが可能だ。
リンネルと羊皮紙を組み合わせた土台は模様を描いた羊皮紙を上に2層から3層の織物で荒い目で閉じ合わせる。
パターンを糸の束と模様に合わせてステッチする。
ステッチされたパターンは、粗い目で支えの布に縫い止めてレースが完成すると目糸を布の間で切りはずしてレースをとりわける。

レティーツィアは颯爽と歩き一同を製品の陳列場へ案内した、其処には昔からのレースが飾られていて其れを眺めるかのようにレジーナマルゲリータのレースを肩に羽織った写真が飾られていた。

「ケ・ベオ・ケ・ゼ!」
とても綺麗ねとタカは興味を示して歩き回った。

アリエルは5種類を選びそれぞれ5ダース、合計300枚の注文を出して事務員がその場で計算を出して合計が6000リラと書いた紙を示した。

「グラーツィエ。ウン・ポ・ディ・スコント,ペル・ファヴォーレ(少しまけてくださいな)」

「この数では之で一杯ですわ」

「どのくらい買えば値段が下がるのですか」
之も何時もの事なのだろう事務員も慣れた口調で答えている。

「せめて倍の数か高級な2m四方のテーブルかけなどを10ダース注文してくれれば20パーセントは安く出来ますわ」
メルレットのテーブルクロスは10ダースで6万リラだと説明した、1枚500リラは確かに高いが熟練と呼べる人でも仕上げるのに半年は掛かるのだ、其れが20パーセント引いて呉れるのは大きな魅力だ。

アリエルはリガールの工場でのジャガードによるレース製品でも250リラで買い入れることでもありブラーノの高級品なら売れると思った。

「では倍にしてテーブルかけも5ダース買うので25パーセントひいてくださりません」
ジェローラモが呼ばれ42000リラから25パーセントひいた31500リラで契約が完了した。

メルレットのテーブルクロスを19500リラで買い入れたと同じで1枚325リラでリヨンまで運べば最低850リラで売れるはずだ、何時の時代でも普及品と高級品が買い入れる階層の違いで購買してくれる人がいるはずだ。

学校にしてもメルレットのテーブルクロスをまとめて売るのは一仕事なのだ、幾らレジーナの繋がりでも注文品以外に500リラ以上の品物を買い入れに来てくれる事は難しいと判断したようだ。
アリエルはすぐにバンカ・ディ・ヴェローナの手形3万リラと現金で1500リラを支払った。

事務員とジェローラモが書類を作りに事務所へ入ったのでアキコが「アリエル、今朝確か取引用に5万リラを用意したと言うのにムラーノ分を入れると予算は大丈夫なの」と小声で聞いた。

「あら、よく覚えていたわね。其れはパリからのミシェルへの追加資金よ。リヨンから私へ5万リラ其れと此処ヴェネツィアでの取引の分を現金と手形で3万リラをミシェルが受け取ったのでまだもう一軒とヴェネツィアでグラスの追加注文を出せるわ。其れと元々此処には何時でも支払いが出来るように私とミシェル別々に3万リラは預金があるのよ。あなた方を見送った後もう一度まわれるくらいの余裕があるわよ」

計算書に契約書がアリエルに渡され「ヴェネツィアのParis Torayaの代理店へ品物が揃い次第届けます」と事務員が請け合ってくれてレティーツィアが戻ってくるとアリエルと先に学校を出て行った。

ミシェルが「お土産を買うなら此処かアリエルたちが行った先でも買えますがどうします」と一同に相談した。
一同も欲しいと思っていたようだが値段表が置かれていて手のひらサイズで3リラ以上と言うので躊躇していた。

ジェローラモがつれて来た中年の女性がプント・イン・アリアの作り方を実演してくれて其の歴史も生徒に教えるように話してくれた。

「実はテーブルクロスでも四枚を組み合わせた紛い物と言うのは言いすぎですが安く提供できるものがあるの。それぞれ違う人が編んだのでよく見れば癖が見つかるので高く売れない物なので200リラでよければ提供できるのよ」

ジェローラモが「アンナ。アリエルの話しだとジャッポネーズィの人たちは留学の帰りだそうだ。安く出来ないかな」と言ってくれた。

「そうですね。アリエルに卸し値段で出したとすれば半値でもよいのですが」

「それで買い入れられますか」清次郎が代表して「何枚あるのですか」と聞いた。

「在庫は50枚あるはずですから希望の数だけお分けしますわ」
タカと清次郎は相談していたがヨシカたちは買い入れられる値段ではないと日本語で伝えたが「良いですわ。私と清次郎が全て買い入れて皆さんにも一枚ずつ贈り物とさせていただきます」と言ってジェローラモには「リヨン銀行の手形のままでも大丈夫でしょうか」と聞いた。

考え込むジェローラモにミシェルが「僕のほうで出してタカの手形は僕のほうで換金します」と援け舟を出した。

アンヌは生徒たちに指図して全てを持ち出してきた。
数を確かめると確かに50枚で3枚ほどを机に広げて見せてくれた、中心から十字にかがった跡は色違いで綺麗に仕上げてあり其れはそれなりの見事な出来であった。

「見方によっては四つの模様の微妙な違いが美しいですわね」
タカはそのように言ってどれを選ぶか運任せで包んでいただきましょうかとヨシカたちに聞いてアンヌに六枚を取り除けて包んでもらい、清次郎に20枚、残りの24枚をタカの分として5枚入る紙の箱へ納めてもらうことにしたが後一枚入る事に気が付きミシェルに後500リラ余裕がありますかと確かめると「500リラで譲り受けられる品物を入れてください」と頼んだ。

ミシェルと手形の交換をして5500リラを事務員に渡すとすぐ2000リラと3500リラの計算書と領収書を書いて持ってきてくれた。

別れの挨拶を交わし生徒たちがミシェルの教えた船まで荷物を運んでくれることになり、アリエルとレティーツィアが訪ねているカネッティの工房へ向かった。

外へでると沈んだ太陽の替わりに満月が上がって来ている、カッレ・カヴァッリに有る工房は学校から広場に出て右手に行けば広い通りに出て右へ曲がり、100mほど先の右の路地の三軒目の家にある。
此処はレティーツィアの家の前で、アルティジャナーレ(職人)10人が働く小さな工房だ、代表はレティーツィアの母親となっているが実際の運営はレティーツィアが行っているそうだ。

アリエルはレティーツィアの二人の娘へのお土産にトランクに納められたベベを持参したのだ。
此処での商談もまとまったようで一同が来るとアリエルが身じまいを整えたらすぐ出るからとレティーツィアに頼んでバーニョ(トイレ、化粧室)の場所を教えてもらった。

ラグーナからだと傾いて見えるカンパニーレが月明かりに真っ直ぐ立っているのが見える「狐に化かされたみたい」そうタマやヒナが話し合っている、広場のガス灯も月明かりの下では其れほど目立たず、学校にはまだ灯りがついていたが寄らずにキエーザ・ディ・サン・マルティーノ脇の運河に沿ってラグーナの桟橋に待つ船へ戻った。

船を出すと航路を示す標識は右舷に見えている、マッヅォルボへ舵をとると其の標識に沿ってムラーノの西側を抜けた。
満月もラグーナを照らし幻想的な雰囲気の中を本島へ向かい、靄も霧も出ずにボラも吹かず、寒さも震えるほどの事もなく用意した長靴を履きケットに包まれば充分だ。

「帰りが夜になるので心配したが良かった」
船長も泊まりがけにならずほっとしたようだ「丁度ホテルに着く頃に引き潮の時間でぬれずに桟橋に降りられますよ」とミシェルと到着予定が8時だと話し合っている。

「リアルトのリヴァ・デル・ヴィンの代理店には8時到着予定だと話して置いたから時間前につけそうだ」

船をカナーレ・ディ・カンナレージョから入れてリアルトを回りホテルに戻るとミシェルが清次郎とタカに話している。

「そうだセイジロー。君に約束したワインも僕の棚から10本ほど船へ持ち込み出来るように今晩もって行ってくれ」

「ありがたいね。重いからパリで兄貴がもっていけと言うのを断ってしまったんだ」

「きっと社長の事だヤンチェに君の名前で積んでいるだろうさ」

「本当かね。兄貴は幾ら気が回ると言っても其処までしてくれるかね」

「君は横浜に居た頃の社長の事を思ってそう考えるだろうが僕のほうが付き合いは長いかもしれないぜ」

「そうなんだよな。兄貴がパリへ出てから手紙のやり取りだけだし、横浜にいたときでも年に何回もあえるわけじゃなかったからな」

「何で君は結婚しないんだ。ニューヨークにでもメトレスがいるのかい」

「いや、そういう人はいないよ。結婚できるならこの人と決めた人はいるが。まだ打ち明けていないのさ」

「何だ兄弟と言っても大分気性が違うのだね」

「そのようだ、大分引っ込み思案だと自分でも思うんだ」

「若いうちからシアトルへ出るくらいだ。それほどとは思えんがね」
二人が人生相談のようなことを話している傍でアリエルとタカはメルレットの事を話し合っている。

「そうなの。リヨンのお世話になっているリガールの工場でもジャガードでの生産が順調で此方で半年掛かるものが僅か一日で出来上がるのよ。反対に小さなものでも手間が掛かるので安くは出来ないの」

横浜ではアリエルが買い入れる品物では高くて販路はないだろうが機械織りなら買い手を見つけられるだろうと話した。

タカは機械を買い入れて教えるか教師を引き抜いて学校を開くかと相談している。


先に船に持ち込む荷造りも終えP&Oに10時前に運び込む事が出来た。
約束どおり案内をしてくれる三人も集まり明子は3日間の案内料を二人分支払った、クレメンテはアキコ専属で話のとおりに昼の食事と夕刻のバーカロでオンブラに付き合う事でミスター・アーチボルドが改めて確認してくれた。

タカを除く5人には「今日はどこかで細かくして使ってね」と20リラの金貨を渡して「一応3日間のお小遣いですが3日間周って気に入ったお土産を買うのに銀行でドルやポンドを換金して置きますので後で現金が必要な方はおっしゃってね」と伝えておいた。

「大丈夫よ駅で細かくしたお金がまだ残ってるわ」
ヨシカが財布を覗いてそう告げた。

「タカと清次郎はリラを持っているの」

「細かいのをすこし」

「では後ほどフランやドルで清算してもよろしいので」
そう言って無理やりエマニエル二世の肖像が入った20リラ金貨を渡した。

リアルトへ戻り銀行へ行くというミシェルの船にアキコはクレメンテと共に乗り込んだ、船に乗ってグラン・カナルを遡りながら「現金なら貸し出しますよ」というミシェルに「実は5000ドルほど必要になりそうなので手形を換金出来たほうがありがたいの。イタリアのリラの手形5000リラはショウがパリでヴェローナ銀行1000リラの五枚を調達してくれましたがホテルで様子を聞くと足りなそうなのですわ。フランスのナポレオン金貨(20フラン)を大分持っているのですが後で使う必要が出来た時のために残しておきたいので今日の荷に入れてしまいましたの」というとすかさず「ドル手形にポンド手形の換金はすぐというわけに行きませんから僕の預金に組み入れて其処の現金を出してもいいのですよ」と言ってくれ一昨日の換金率だというメモを見せてくれた。

1ドルが4フラン50サンチームなのでそのままリラにすれば5000ドルは22500リラとなり、1ポンドは17フラン33サンチームの換金率だ。

「あと100リラ札が10枚あるので10リラ札50枚と5リラ銀貨100枚と交換してください。皆さんに渡したお小遣いも不足するといけませんので」

「判りました。イタリアも札の信用が付きましたので其のまま交換できるはずです」
明子は父親へのお土産に欲しがっていたナポレオン金貨の革命暦時代のものを探し出していてヴェネツィアではドージェの時代のものが良いだろうと考えている。

「手形のほうですが手形が良いですかそれとも現金ですか」

「1000リラ5枚に500リラ20枚と20リラ金貨が欲しいですわ」

「残り全て金貨だと重たいですよ。375枚もありますから其れと銀貨も100枚ありますし」

「5キロもないはずですわ」
5リラ銀貨は大型で銀純度0.90025グラムと重く、20リラ金貨ウンベルト一世(Umberto I)は金純度0.9006.45グラム、カイゼルひげで有名な王様の肖像ですぐにそれとわかり確かに4915グラムほどだが此処のところ札も安定しているといったがそうして欲しいと言うので買いものを先にするならミシェルが付き合うと言ってくれた。
エマニエル二世の硬貨は顎鬚があるのが特徴だ。

ミシェルはこの間の武勇伝はアリエルから聞かされているが用心棒もかねるつもりのようだ、金についてはショウや清次郎からも明子の事を聞かされている事もあり大金を換金することに疑問を感じなかった。

「リヨン銀行とヴェローナ銀行のどちらがいいかな」
そう独り言のようにつぶやいていたが市場で肩紐付きのバッグを3個買い入れて連れて行ったのはソットポルテゴ・デイ・リアルトの中にひっそりとあるバンカ・ポポラーレ・ディ・ヴェローナだった。

ミシェルはタカから受け取ったリヨン銀行の手形を出さず明子のボストン銀行振り出しの手形を入金し自分名義の預金から現金を引き出し、手形を確認して其れを500リラに分割してもらうことにした。
1000リラ5枚は手持ちの物をわたすと伝えてある。

明子が持っていた100リラ札10枚も10リラ札と5リラ銀貨と交換してもらった。

「30分ほどお待ちいただけますか、ムッシュー・ヴァルデュス」

「では隣の教会を訪ねてきますのでよろしくお願いします」
クレメンテと相談して答えたミシェルは三人で建物の角を曲がるとすぐのキエーザ・サン・ジョヴァンニ・エレモシナリオを訪れた。

建物に挟まれるようにカンパニーレがあり上は陽の光を浴びている、其の隣の真鍮の門は半分開いて、入り口は小さなアーチが架かっている、其の中へ入ると小さな扉が訪れる人を迎えてくれる。

「とても教会だと思えない場所ですわね」
教会とカンポが一緒にあるのが普通のヴェネツィアでは不思議な空間の通りだ、教会の中へ入ると祭壇画と壁画で美しく彩られている「精密なものだな。初めて入ったよ」とミシェルも驚いていた。

「随分金箔も貼られているんですね」

「そうなんですよ、ヴェネツィアには腕のよい金箔師が何時の時代にもいましたからね。ところでジョヴァンニは誰を指すかわかりますか」

「ジャンのことだろ」

「イギリスだとジョンだわ」

「そう確かに其の通りですが、其れでP&Oの近くのキエーザ・ディ・サン・ジョヴァンニ・イン・ブラゴーラは此処と同じエレモシナリオと同時にヴァッティスタの像が祭壇に置かれていますが、其処の近くにあるキエーザ・サン・ザッカリアには聖ザッカリアが祭られていてヴァッティスタの父親なので本来はジョバンニ・ヴァッティスタだったのではないでしょうか」

「う〜ん、難しそうだな。エレモシナリオとは何のことだい。其処の絵を見ると使徒とも違うようだしな」

「そうなんですよ。アルマナー(慈善家)といえばいいのでしょうね。時代は大分後の人のようです」
日本ではなぜかジョンではなくヨハネと何時の時代にか約されていて其方が通用している、ラテン語のヨハネス(Johannes)ドイツ語・オランダ語圏のヨハネス(Johannes・ハンスもしくはヨハンも含む)かららしい。

「そうか、そうするとまだもう一人のジョヴァンニを祭る教会もありそうだな」

「ボストンでドン・ジョヴァンニといえばあまりよい意味ではなかったのですが聖者に多いとは知りませんでしたわ」
明子の言葉に二人は吃驚した顔をしていたがクスクス笑い出し、たまらなくなったか教会を出ることにした。

ヴェネツィアではモザイクガラスにグラスの金箔と確かに腕の良い職人が多く1662年に12人の鏡職人がフランスに流出していて、ベルサイユ宮殿の鏡の間は其の職人が絢爛豪華に造り上げているのだ。
時代が過ぎて1806年、ナポレオンの侵攻(1797年降伏)による共和国の解体から10年後、ムラーノの500余年続いたガラス職人組合は解散をしてアルティジャナーレ(職人Artigianale)は各地へ散ることに為った。

「ミシェル、さっきの続きの教会ですが橋の向こうにサン・ジョヴァンニ・グリゾストモがあって、キエーザ・サン・ジョヴァンニ・デコッラートがサンタ・クローチェにあります。其処はサン・ザン・デゴラ(S. Zan Degola)といったほうがわかりやすいでしょうね」

「そういえばコルテ・デル・ミリオンの先にあった教会がサン・ジョヴァンニ・グリゾストモでしたわ」

「そうです。おととい通った道のすぐ先に見えた教会です」

「アリエルならそういう事が好きでうろついているけど俺には良くわからんよ。メストレにくるとバイシクレッテで走り回るばかりで此処のように二人で回ることも少ないしな」

「サン・ジョヴァンニ・エヴァンジェリスタはサン・ポーロに教会とスクオーラがありますよ」
ジョヴァンニが多すぎて余計頭が混乱してきたとミシェルはお手上げ状態だ。

銀行で手形と紙幣に貨幣を受け取るとパリで聞いてきたルーガ・ド・ポッツィまでクレメンテに案内をしてもらった。
テッラ・イン・ヴェートロ(Terra in Vetro)は代々修復と時代物のシャンデリアを扱っていると教えられたのだ。

「ペールへのお土産ですか」

「いえペールの知り合いでもありますが、わたし達の留学のために骨を折ってくださった三人の小父様方へのお土産です」
道々自分の欲しいのは昔の蝋燭を立てるシャンデリアだと言うことを説明した「パリで探しましたら、20年以上も前なのですがパリでヴェネツィアから出品された物を見たそうで其れをどうかと教えられたのですが、同じでなくてもいいのです」とそのための金だと説明して写真を取り出した。

「カンデリエーレだな」

「シャンデリアではないの」
同じものだよと二人がどちらでも通じると言ってくれた。

ただこいつは大きすぎるし金箔で豪華に見せているだけだともう一枚のほうが良いとクレメンテが話しているうちにポンテ・サンティ・アポストリを渡り木陰の多い広場を抜けてストラーダ・ヌオーヴァという明るい広い通りへ出た。

ミシェルは「其処になければ昨日セイジローといった工房にこいつとは違うがまずまずの物が残っていたから、ムラーノまで足を伸ばせば良いさ。付きあうぜ」といってくれた。
通りに斜めに建つキエーザ・ディ・サンタ・ソフィアの手前を右へ入りポンテ・フリウリを渡るとファンダメンタ・フリウリ、右へ行くと小さな運河のポンテ・ベネデッティというアキコが大またで歩くと三歩しかない橋を渡った。

其の様子を二人は可笑しげに見ていたが運河まで張り出した家の下の道(ソットポルテゴ)を潜り抜けてルーガ・ド・ポッツィへ出た。
道の真ん中に井戸がある「此処には昔井戸が二つあったそうでしてね。それでドゥーエ(due)とも書く事があるんですよ。ドはヴェネツィア語の2の事なんです」というとそういう意味なんだと驚いた顔をしたのはミシェルだ。

橋の手前でクレメンテが立ち止まり「このあたりのはずだが」とガラス窓の内側に下がる小さな看板を見て「この店ですよ」と指差した。
ガラス戸にはカーテンが掛かり小さな看板が吊り下げられているだけで営業しているのかも良くわからない店だ。

「ブオン・ジョルノ」
声をかけながらガラス戸を押して入ると思いのほか広い店は昼間から煌々と灯りが灯り、色鮮やかな多くのカリチ(Caliciゴブレット)が三人の目に飛び込んできた。

「ブオン・ジョルノ、修理ですか買い物ですか。私が店主のマルコです」

「探し物があるのですが、こちらのシニョーラがパリで聞いた品物があるか探しています」
アキコが二枚の写真を出すと「こいつはジュゼッペ・ミシェル(Giuseppe Michieli)のものだがヴェネツィアにはもう残っていないはずだよ。持っているのは大金持ちの数寄者くらいだから市場には出ないね。こっちのムラーノの物は家にも六つ、色違いで残っているよ。安定性を保つには確りと台に取り付ける必要があるのが欠点だな」

「では専用の机なり台があれば大丈夫ですね」
そういうことだなと言って店の奥から持ち出してきた、真鍮の台座の上にグラスの筒があり其の中を通る心棒の先に飾りつきの枝が左右に分かれ真ん中はすこし高い位置に真鍮の飾りと透明なガラスと青いガラスの飾りがさがっている、明子はまるで神輿みたいだわと思った。

「今あるのはこいつと殆ど同じものでガラスの色が全て透明のもの、赤いものに黄金モザイクガラスが二つある。もう少し大きい物も有るがどうかな」
明子の頭の中はクレメンテが説明を翻訳してくれるのと店に入った時に目に入ったカリチからの連想かボストンで聞いたラ・トラビアータの乾杯の歌が響いている。

「そうかヴェルディもジュゼッペだ。さっきジュゼッペと聞いてどこかでつながったのかしら」

ジュゼッペ・フォルトゥニーノ・フランチェスコ・ヴェルディ
Giuseppe Fortunino Francesco Verdi

ラ・トラビアータLa Traviataは1853年3月6日フェニーチェ劇場で初演された。
原作デュマ・フィス La Dame aux camelias(椿姫)

第1幕で、アルフレード(テノール)、ヴィオレッタ(ソプラノ)によって歌われるもので、間には客人たちの合唱も入る。
初演は準備不足や配役によって失敗したが翌年の公演は大喝采で迎えられた。

23歳という若さで肺結核により亡くなったディマ・フィスの恋人マリー・デュプレシや小説のマルグリットの場合とは異なり、最後の幕で恋人は再会し、ヴィオレッタはジェルモン親子に看取られて亡くなっていく。

放心状態のアキコをミシェルが心配そうに見て「どうした」と聞いている。

「ああミシェルたいしたことないわ。なんだか興奮して、昨日マストゥロのジュゼッペが下さったカリチとこれ等があまりにも似ているので」

「そうかね、ムラーノへ行ったのかね」
マルコはフランス語が通じるようだ。

「ええ僕達を含めて大人数でしたが、此方のムッシュー・ミシェルが仕入れに行くのについてゆきました」
先にクレメンテが答えた。

「君はコッペやブラを扱うのかね」
マルコはミシェルのほうを向いて聞いてきた。

「リヨンで土産物や輸入品を扱う店の仕入れを担当しています」

「そうかねわしの店でも卸しを扱うから何時でも利用してくれたまえ。自分で作る事は無いが修理はお手の物だ」

「グラーツィエ。あまり高級のものは扱えませんがお願いしたいものもありますのでマドモアゼルのほうの話しが済みましたらお願いいたします」

「良いともそれでこいつの値段だが一台が2600リラ。黄金モザイクガラスが付いたものは3500リラだ。全て見るかね」
アキコがお願いすると六台のカンデリエーレが並べられて灯りの具合を調節すると幻想的な反射で店は魅力が増した。

「蝋燭は今立てる訳に行かないがこいつを引き立てるには電燈で補うとこのようにいい色が出せることに気が付いたのさ。よく似ているが黄金モザイクガラスはジュゼッペ・ベニーニ(Giuseppe Venini)が1850年ごろ造り上げたもので残りはジュゼッペ・バロビエール(Giuseppe Barovier)の作品だよ。こいつは1865年ごろかな。全て台座の下に刻印があるはずだ」

そう言って赤のガラスの台座の下を見せてくれた「あら、Salviati(サルヴィアティ)とGiuseppe Barovier(ジュゼッペ・バロビエール)と刻印があるわ。昨日訪ねた工房かしら」

「そうだ、昨日僕とセイジローが電燈のカンデリエーレを買う相談に出かけた間にアリエルとカリチやグラスを買い入れに行った工房さ」
どうもミシェルの言葉も色々な国の言い回しが混ざるようだ。

マストゥロは普段同じ作品のみを作るはずだが燭台からガス、電気と変わりサルヴィアティ工房のジュゼッペは作品も変えたのだろうか。

「ジュゼッペ・バロビエールにあったかね」

「はい、お会いしたのはサルヴィアティ工房のムッシュー・ジュゼッペ・バロビエールとマリーン工房のムッシュー・ジュゼッペ・バロビエールのお二人でした」

「はは、きみ東洋の人のようだが驚いたろう。ジュゼッペ・バロビエールはわしの知っているだけで10人以上いるよ。ムラーノでも工房の名前を言わないとマストゥロの名前で苦労するのさ」

「ええ、昨日のマストゥロもそのように仰っていました。私はアキコ・ネギシ。ジャッポネーゼです。アメリカのボストンに留学していてパリを経由して此処まできました、この後スエズを抜けてイル・ジャッポーネへ帰る途中です。ところで此方の品物六台とも買えるのでしょうか」

「かまわんさ。売るのが商売なのだ。君なんと言ったかな」
ミシェルのほうを見て名を尋ねた。

「ミシェル・ユジーヌ・バルデュスといいます。生まれも育ったのもリヨンです。彼は友人のクレメンテ・ブロンディといいます」
マルコは改めて三人と握手をした。

「君がこれからも店を利用してくれるなら君の名で買い入れたことにして卸し値段で良いよ。わしのところは高いので有名だそうだが卸し値段でも70パーセントは頂くので人気が無いのだが。其れでいいかね」

「お願いいたします」
いつの間にかフランス語が混ざりクレメンテが通訳するのは難しい言い回しで店主のマルコが言葉に詰まった時だけだ。

2600リラが三台で7800リラ、3600リラが三台で10800リラ、合計18600リラで卸し値段が13020リラだが大丈夫かねと紙に書き出して見せてくれた。

「グラーツィエ。バンカ・ヴェローナの手形でもよろしいでしょうか」

「あそこなら現金と替わらんよ」
十六枚の500リラの手形と1000リラ五枚を取り出してミシェルが裏書をし、残りは金貨で20リラを出した。

「之でしたら5000リラの手形にすれば良かったかもしれませんわ。面倒でもよろしくお願いします」
二人の青年が呼ばれ飾りを取り外し、継ぎ目を緩めて分解をしてアキコに判りますかと聞きながら一組ずつ木箱に緩衝材にコトンとおがくずを詰めてくれた。

「どうしますか。ホテルまで届けましょうか」
ゴンドラが雇えれば自分たちで運びますがまだほかに欲しいものもありますと答えて赤と青のカリチを指差してお幾らですと聞いた。

共に飾りの少ないすっきりとしたワイングラスだ、ペルシアンブルーの台から玉が連なるように延びて縁に柔らかな金彩が施されているものと赤いほうはすこし細めでひねりが加えられて襞がよじれている。

「どちらも400リラと値が付いているから二つで560リラだな。同じものは後一つしかないはずだ。こいつを作ったマストゥロは50年も前に亡くなっていて手に入れられないはずだ。パチーノ・セグーゾの作品だ」

荷物を整理している青年に確かめると「シィ」と答えて紙箱を二つ出してきた、柔らかな絹がグラスの形にへこみ収まりの良い様子に「之ならこのままでも割れないようですわね」と確かめた。

「上にもう少し端布やコトンを詰めれば大丈夫さ」

アキコが20リラ金貨を50枚出してクレメンテが残りをだすかいと聞いて自分の持っているバッグから6枚を取り出して並べた。

「随分用意したんだね」

そういいながら11の山を確認して箱を持ち出して金貨をしまいこませ、カリチと同じ色の綺麗な紙で箱を包ませた。

「之なら中を開けずに色がわかるだろ」

と包みながらにこやかにノッポの青年が明子に笑いかけ、青年の一人が此処までの計算書を見せてしめて良いか聞いてきた。

「実は後すこし探し物があるのですが」

そう言って手提げ袋からハンカチで包んだ一枚の銀貨を取り出した。

「之と同じような時代にヴェネツィアで出された金貨を探しています」

「銀貨だね1781年かパオロ・ラニオーリ、最後の方のドージェだな」
飾り文字の1も美しい銀貨の裏面はライオン、表面はパオロ・ラニオーリの半身像が浮き彫りされている。

「ダカット金貨はアメリカ人が欲しがるので金の値打ちの三倍以上になっているよ」

「はい、パリでもそう聞きましたしボストンの博物館にも飾られていて館員が教えてくれました」
ノッポの青年に何かを告げると持ち出した小さな紙の箱に赤い絹に包まれた五枚の金貨が出てきた、22ミリ位だろうか金の色も映えているのは人の手をあまり経ていないのだろう。

「重さは3.5グラムだが骨董品となって此方は今20リラするんだ、パオロ・ラニオーリの時代のものが三枚と確かこいつは古いほうのアルヴィーゼ・モチェニーゴで30リラもしているんだがね、卸し値段は応じられないんだ儲けとは為らないものなんでね」
金の純度は0.997で純金と言ってよい品位だ、金の値打ちからすればどちらも12リラほどのはずだが躊躇なく明子は買い入れると返事をして気が変わらないうちにクレメンテのバックから出してもらった6枚の金貨で120リラを支払った。

箱の中の書付を見て「パオロ・ラニオーリが119代で120代目のマニーンが最後のドージェだよ、モチェニーゴの古いほうは85代のドージェだ」と教えてくれてこいつは差し上げられないから写していきなさいと紙とペンを与えられてクレメンテが書き写してくれた。

この時代日本の十円金貨は旧金貨で明治13年まで製造され量目16.6667グラムで金含有率は90パーセント15グラムだ。十円が33フラン33サンチームだそうでそのままリラに換算すればいいので30リラは九円に相当する。
この金貨も小判の改鋳以前と比べ金含有量からするとナポレオン金貨を基準本位金貨とする欧州に比べ価値のある金貨で流失を免れる事は出来なかった。

其処までとっさに計算しての判断でもない様だがいつも留学生の会計をしているのでおよその判断は出来たようだ、明子は支払いをした後で寅吉が虎の子のように大事にしている二円金貨と同じくらいだと思いだした「父さんは金が3グラム弱で銅が0.34グラムだといっていたわ」と心の中で「高いだろうと聞かされたけど20リラと30リラなら儲け物だわ」と一人ごちたのはパリで手に入れた綺麗な革命暦時代のナポレオン金貨に100フラン出したせいだろう。

一緒に探してくれたショウも高いなと驚いていたが大分流通した様子のもので50フランだと其の店の店主が自慢していた。

ナポレオン金貨は20フランを指す。
最初の発行はボナパルト第一統領時代で革命暦11年(1802年9月24日〜)径21ミリメートル、重量6.4516グラム、品位0.900、純金5.80644グラムを含んでいた。
その後のフランスの金貨は之を基にしていて1865年のラテン通貨同盟の基準本位金貨とされた。

マルコは「シニョーラは金貨にも興味があるのかね」と聞いてきた。

「之はペールへのお土産ですわ。私は本や古いものなら地図のほうがありがたいですわ」

「そうか実はダカット金貨はもうないのだがレプブリカ・サン・マルコの時代の金と銀貨にナポレオンが作らせた10リラ銀貨とフランスの金貨があるんだが」

クレメンテは「レプブリカ・ヴェネトの時代のですか。確か2年ほども続かない時代ですよ」と興味を示した。

「わしも5つか6つの頃でどうやら独立したらしいと言うのは判っていたようだが記憶も定かではないのだよ。この商売をしている関係で色々な金が支払いされるので金の純度は持てばわかるようになったがね」

ノッポの青年に「アンジェロ、親父の宝箱だ」と言いつけた。

アンジェロが両手で重そうに持ってくると「お前に俺の遺産で相続させるつもりの金の一部だが。骨董的な値打ちは其れほどないだろう。このシニョーラが買ってくださるなら其の金を今お前にやるがとっておきたいならそういいな」と父親の顔になって相談した。

箱を開けて見ていたが「シニョーラが通貨以上に評価してくれるなら売っても良いよ」と父親に告げた。
フランスのナポレオン金貨は1807・1808・1810・1814と四枚のほかにナポレオン三世までの30枚が入っていて後は5フランから100フランまで様々に100枚ほど入っている。

仕切りの此方には様々な国の銀貨と金貨が別けて入っていた。
明子は楽しそうに同じ物を積み上げていたが1807・1808・1810・1814の四枚と裏にALLEANZA DEI POPOLI LIBERI184820LIREと有る10枚をより分けた。

「アッレンツァ・デイ・ポ−ポリ・リーベリ(自由な人々の同盟)だ」
クレメンテは一枚を手に取り表面のライオンの絵を眺めて「本当にあの時代のものがあるんだ」と驚いている。

「このローマ数字で書かれた年を覚えるのに苦労しましたわ。特にXLと言うのが40で、10プラス50ではないと言うのがよく理解できませんでした」

そりゃそうだイタリア人でもこいつを正確に読めやしないとマルコ達も笑って明子に数字の読み方を説明しだした。

1000+500+100+100+100+5010+5+31848

I, V, X, L, C, D, Mはそれぞれ1, 5, 10, 50, 100, 500, 1000XL40LX60XC90ICと書いて99を表すことが出来ず、XCIXで(10010)+(101)=99になるというにはミシェルにクレメンテも苦労したと笑い出してしまった

表面にサン・マルコの象徴とINDIPENDENZA ITALIANA(イタリアの独立)に独立の年号のXI AGOSTO MDCCCXLVIII(8月11日1848年)にVENEZIAと文字が入り、裏面にはALLEANZA DEI POPOLI LIBERI 20LIRE 1848 (自由な人々の同盟、20リーレ、1848)と刻まれている

「此処に1848と書いてあるから読めるくらいだ」
マルコたちも異口同音に言い出した。

この時の共和国の指導者はダニエーレ・マニン(Daniele Manin)、最後のドージェはルドヴィーコ・マニン(Ludovico Manin)だが姻戚関係はないとクレメンテが教えてくれた。

5リラ銀貨は様々な時代のものがあり1848年の10枚から5枚をより分けた。

「其方を四枚と手前の四枚の八枚で500リラ、5リラ銀貨は半分の五枚別けて頂いて40リラで如何でしょう」
ナポレオン一世四枚とサン・マルコ共和国四枚の金貨と銀貨だ、アキコもパリの相場に近い数字を出してきた。

「そんなに出してくれるのかい。骨董の値打ちはあまり無いと最近聞いたばかりだよ。アンジェロ、俺は精々300リラが良いとこだとおもうが」

「俺もそう思うよ。シニョーラと其の人たちが其れで納得できるなら何かセルヴィスをして金をもらうほうがいいな」

「はぁ、其れもそうかシニョーラがそれでよければこの店で300リラと値段が付いている品物をもらってください。アンジェロには400リラあげるぜ」
其れを聞いて嬉しそうに明子を連れまわして説明しだした。

クレメンテにミシェルは其れほど興味がないようですぐ飽きて仕舞ってくれとマルコに頼んだ。

「全部で5000フランくらいあるようですね」

「そうみたいだな。勘定した事は無いが金貨はともかく銀貨は値打ちが出るとは思えんしな」
箱に明子が選んだ物以外をしまうと小型のケースを取り出して布を敷いて13枚のコインを並べた。

「13枚か、もう一枚入れておこう」
マルコは小指の爪ほどの小さなナポレオン三世5フランの金貨を一枚箱から出して其処へ加えた。

「こっちで払っておこうか」
クレメンテの声に「お願い」と言ってアンジェロが奨める不思議な形のブラーベースを物色していた。

「アキコ、之はトレ・フォーキというやり方で三回火を通して造り上げた貴重なものだよ。その色が鮮やかなブラはムッリーナというやり方でアルティジャナーレ(職人)が造るブラなんだよ」
アキコは自身もアルティジャナーレとして誇りを持つているというアンジェロの説明を聞いて、金彩を焼き付ける手順も教えてもらった上でトレ・フォーキのカリチを選んだ。

「とうさん、330としてあるがいいかい」

「そのくらいいいさ。シニョーラもう1枚追加したけどいいかい」

「幾らですの」

「こいつはプレザンさ。ところでこの100フランの金貨を交換する気はないかね。アンジェロは興味がないようだから100リラになればアンジェロにやるから彼も喜ぶだろう」
其れを聞いてアンジェロは嬉しそうに「おい、マリッティマ今晩其の100リラで遊びに行こうぜ」と人前もはばからずに誘っている。

「之だもの金を残すことを考えない奴で困ったもんだ」
そういいながらも嬉しそうな顔だ。

「私のほうから出しますわ」
明子は自分のバッグから五枚の金貨を出して「之で私の買いものはおわりよ」とミシェルに告げた。

「カリチはP&Oに乗せるかい」

「いえカンデリエーレと一緒に他の荷と送り出してください。つい見たくなって箱を開けたりしそうですので、金貨のほうは自分で持って行きたいのでこのバッグに入れて行きますわ」

「良いともならリヴァ・デル・ヴィンの代理店へ運んでおこう」
ミシェルは総額3000リラ程度の商品を選んで支払いを済ませて箱へ納めてもらうと「リヴァ・デル・ヴィンまでゴンドラを雇って運ばせたい」と頼むとマリッティマがすぐにリオ・デ・サンタンドレーアの寄せ場に探しに行き人足も5人探してきてすぐに荷を運ばせた。

「グラスィエ。アリヴェデルチ」
明子達三人はヴェネツィア方言混じりの別れの挨拶をして見送りの声に送られて店を後にゴンドラ乗り場に向かった。

リオ・デ・サン・ノアーレを経由してカナル・グランデにでてリアルトを潜り抜けた。
荷物を倉庫に預け「さて次はどうします」とミシェルが聞いた「お金をホテルに預けてクレメンテとお昼を食べてどこか写生に連れて行ってもらいますわ。ミシェルも付き合いますか。アメリカ人があまり行かない場所が良いわ。スケッチしてると煩いのですもの。ボストンでもパリでも大変でしたわ」と答えた。

「僕は別行動にしますよ」
そう言って自分の肩から銀貨の入ったバックをクレメンテに頼んだ。

クレメンテのバックにはまだ4720リラも入っていて両肩にかけたバックは華奢な身体に食い込んだ。

「一つ持ちましょうか」
明子のほうは大分軽いのでそういうと「大丈夫さ。大金持ちの気分を充分味わっているよ」とゴンドラに乗るまで付いてきたミシェルを笑わせた。

明子は3つのバックから当座の小遣いと他の組に出会ったら渡すように出して手提げにしまい、後はリシェヴィメントへ預からせてクレメンテとお茶を飲みにサン・マルコ広場へ出た。

「ヴェネツィアは物価が高いとパリで散々脅かされましたがニューヨークに比べればそれほどでもありませんね。ボストンの半分くらいですわ」

「アッ、それで皆さんお金の使い方が派手なんですね。僕の家の有るキオッジャは小さなコムーネに違いありませんが、此処の半分は大げさですが物が安いですよ。暮らすにはいい街なんですよ。伯母が言うには此処も水が簡単に手に入るようになって物価が安定したと言っています」
1杯2リラもとるカフェ・パラダイスでコーヒーを豪華な部屋で飲むのは旅行客ばかりではなく地元の人らしき紳士が大勢屯している。

「一体アメリカではこのような店でコーヒーを頼むと幾らとるんです」

「ホテルのレストランだと80セントから1ドル。街の食堂でパスタを頼むと50セントから1ドルくらいでしたわ」
1ドルで3リラ33チェンデジモと今朝聞いたばかりなのでクレメンテは目をむいた。

「此処がヴェネツィアで一番高いというカフェなのに、だからアメリカ人は気前が良いのですね。この間仲間のベニートが六人のアメリカ人を1日案内して18リラの料金なのに六人全てが2リラのチップを呉れたと報告していましたよ」

「ではクレメンテも最低でも10リラ程度の食事をする必要がありますね」

「バーカロで酔いつぶれでもしない限りそんなに掛かりませんよ。僕が払うのはいつも3リラ程度で、もういいやというほど飲めますから」
ミスター・アーチボルトが二人までの案内は10リラそれ以上一人2リラと請求したのだ、クレメンテはそれほどの飲み手ではないようだ。

「フランスのワインなら最低ランクでも3リラしますのに」

「イタリアはワインが安いですからね。その代わりフランスに持ち込もうものなら旅行客といえど、煙草にワインはいやというほど税金をとられます」
クレメンテはすこし腹が減ったようで「お昼はなにを食べます」と相談した。

「ピサの美味しい店がありますが」

「良いわね、近いの」

「歩いて5分くらいですよ。旅行客はあまり来ない小さな店で安くて早くて上手いと言うので評判ですが、すいている事が多いです」ピッツアでもピザでもなくピサと気の抜けたような言葉はヴェネツィア特有の言葉だそうだ。

ポンテ・ディ・ピシーナまで幾度も路地を抜けて其の先の教会裏にアノニモ・ヴェネツィアーノという店がひっそりと営業している。

「此処はピサが専門ではありませんが美味いんですよ」
カメリエーラに聞こえるようにクレメンテは大きな声で話しながら席について少女に見えるカメリエーラが寄ってくると「お客さんを案内してきたぜ、貝のピサとチョリソのピサをハーフ&ハーフだ」
ハーフ&ハーフとイギリスの言葉でも通じるようで大き目の生地に半分ずつトッピングされていて其れを綺麗に4等分されて出てきた。

「ヴォーノ、美味しいわ」
アキコも色々な場所で食べたがこれほど美味いと思えるピザに出会ったのは初めてだ「他の人たちにも教えなくっちゃ」とつい言っている。

「心配しなくてもダヴィードにフォルトゥナートも此処は知っていますよ」
其の言葉が終わらないうちに「チャォ」という声でドアが開き「いつも綺麗だね」とカメリエーラに声をかけてクレメンテの背中に「チャオヴェッチョ」という大きな声はダヴィードだ「アミーゴ」と後ろも向かずにクレメンテが答えて付いてきたタマとヨシカに「ヤァ、やはりお昼は此処になりますか」と声をかけて立ち上がると近くのテーブルの椅子を引いて座らせた。

「貴方たちお金をどこかで崩した」

「ううん、まだよ」
アキコは5リラ銀貨四枚を二人に渡して「金貨はそのまま持っていてね」と出さなくても良いと伝えた。

「チャオベッラ」とカメリエーラの少女に声をかけて入って来たのはフォルトゥナートに清次郎たちだ。

「こうなるとアリエル達も来るんじゃないかしら」
そう話す一同だが明子たちが出るまでアリエルと一緒のハルとツネは現れなかった。

アキコが清算をすると二人分のピサとコーヒーにパネットーネが付いて2リラだったので10ソルドをチップに置いた。

ヒナに5リラ銀貨四枚を渡して「金貨はそのまま持っていてね。ハルとツネの分を預かってくれる。私が会えればわたすけど念のため」と頼んで8枚の銀貨をヒナの手提げに入れてもらった。

其の頃ツネとハルはアリエルと共にゲットー・ヌオーヴォの近くで出会ったアリエルの友人の家に招待され、パネットーネとサラダにハムのステーキでお昼にしていた。

「まだ子供はいないの」

「まだなのよと言いたい所だけど実はエルネスタに言うのが最初だけど出来たみたいなの」

「みたいと言うことはまだはっきりしないの」
其の後経験のあるという友人とその事を話していたが「もう少し様子を見てミシェルに報告するのであなた方も船に乗るまで内緒にしてね」と頼んだ。

「そういえばパネットーネを食べるのは久しぶりだわ」

「リヨンには無いの」

「種入りのパンも有るし、ブリオッシュも一年中あるわよ。でもヴェネツィアとは随分違うわ。あなた方ボストンではアヴェントのときは特別な食べ物を食べたかしら、ええとアメリカではこの時期の事を何と言うのかしら」
二人も話の内容とアヴェントと言う言葉からアドベント(Advent)だと判ったようだ。

「今年は27日のサンデーからでしたわね。(First Sunday of Advent)わたしの下宿は大家さんがミラノからの移民の方でしたので昨年はパネットーネを毎週一度は焼いてくださいましたわ。アキコ達の方はパウンドケーキでしたので学校のお昼にはよく交換しました」
ハルはタマと一緒のディバインウェイにある新築の下宿に入っていたのだ。

ツネはヨシカとオールド・コロニー・レールウェイに沿った通りの下宿で明子たちの下宿先でよくボストン名物をご馳走になったが特に印象に残ったアドベントの食べ物はなかったと話した。

「そうだ、私が暫く通った料理学校で習ったエクレアを去年の今頃は明子の下宿先で台所を借りて大量に作ったら大好評でしたわ。学校の授業で先生のミセス・リンカーンもよく出来ましたと言うのでつい調子に乗ってしまいましたの」

「そうね。あれは特に美味しかったわ。パリで食べてみましたがツネの方が口に合って美味しいくらいでした」
ハルは褒め上手だ、さすが雄弁学科を出ただけの事はあるようだ。

「今年は何処の音楽会が評判いいの」

「サン・マルコはあい変らず一杯で入れないそうよ。素人集団で評判がいいのは日替わりで教会を回っているわよ。今年はサンタ・マリア・フォルモーザの評判が良いわ。其れと言うのもパイプオルガンの演奏家がいい男なの」

「馬鹿ね、パイプオルガンなら背中しか見えないじゃないの」
四人で笑っているところへ7歳くらいの金髪の巻き毛の子が帰ってきた。
その子は物怖じもせずアリエルはじめツネとハルにも綺麗なフランス語で挨拶をした。

「僕サルヴァトーレ・セラーティといいます」
アリエルたちも自分の名前を教えて今日はヴェネツィアのあちらこちらを見物していると話しをしている間に母親のエルネスタが仕度をし、サルヴァトーレを席に付かせてパネットーネとサラミにスープを食べさせた。

三人が元のスクオーラ・グランデ・ディ・サン・マルコから市民病院となった建物のあるカンポ・サン・ティッシマ・ジョバンニ・エ・パオロに着くとヴェネツィア共和国に仕えたベルガモ出身の傭兵隊長だったコッレオーニ騎馬像の勇姿がある。

午後の陽射しが其の引き締まった男らしい顔と力強い乗馬を照らしていて広場にさす影はバジリカの壁に伸びている、サンタ・マリア・フォルモーザへ行って見ようとバジリカ・サンティ・ジョヴァンニ・エ・パーオロを回りポンテ・ミュンヘンを渡ったのは3時を過ぎていた。

同じ頃アキコとクレメンテはサン・ピエトロ・ディ・カステッロ教会堂の鐘楼のスケッチを終えてキエーザ・ディ・サン・ジョルジョ・デイ・グレーチへ向かって歩いている。

フォルトゥナートは自分はフォルトゥナート・デ・シーカ(Fortunato De Sica) だと教え、自分たちの名前の日本の字はこう書くのだと清次郎にタカとヒナがサインしてその下にローマ字で読めるように書いて受け取ってもらった。

其の四人はフォルトゥナートが学んでいたというアッカデーミアがナポレオンの教会排除命令で美術学校の所在地に選ばれ、ジャンアントーニオ・セルヴァの手で修復されたこと、元はサンタ・マリーア・デッラ・カリタ教会と言って15世紀中ごろに建てなおされ幾たびか改修工事が施されて100年ほど前にアッカデーミアとなったと説明を受けた。

四人がアッカデーミアから橋を渡りカンポ・サン・ツリアンへ向かって歩き出したのも其の頃だ。

ダヴィードがタマとヨシカを案内してカナル・グランデからリオ・デル・フォンテゴ・デゥエ・テデスキへゴンドラを乗り入れポンテ・サンタントニオで降りてサリツァーダ・サン・リオへ向かっていたのも3時を過ぎた頃だ、期せずしてほぼ同じ方向へ向かっている。

「君達が入ったというピッツェリア・バルバネーラは其の突き当たりの左側ですよ」
ダヴィードが二人と角を曲がり店の前で「此処もピサにパスタが美味いと評判の店で魚介類の料理も安くて美味いですね」と言いながら先へ進んだ。

リオ・ディ・サン・ツリアンに続くリオ・ディ・モンド・ヌオーヴォ(Rio del Mondo Nuovo)があり其処に小さな橋ポンテ・バンデが掛かっていて其の先に大きな扉が覗いている。 

ポンテ・ヌーヴォをアキコとクレメンテが渡り広場を目指していた頃「あそこが教会ですよ」ダヴィードが二人を連れてポンテ・バンデを渡り路地から広場に入ると四方から御馴染みの面々が入ってくるのが見えた「ヴェネツィアも狭いね」と同じ事を言いながらポッツオの傍で店を広げる露店の八百屋の傍へ集まってきた。

教会の前に案内人らしき老人が椅子に座っていたのでアリエルが「フランス語はおできになる」とイタリア語で聞いた。

「大丈夫だよ」と言うので5リラを渡して案内を頼むとゆっくりと立ち上がった。

表側でのフランス語での説明はわかりやすく、建立は639年と言われていて、1492年にマウロ・コドゥッシがルネッサンス様式に改築、17世紀にバロック様式の鐘楼が建てられたという説明を聞き、入り口の怪人のレリーフが面白いとしげしげと見上げる一同だ。

重い扉を開くと中は思いのほか明るいつくりでそちこちにランプが吊るされている、聖水盆に指先を浸し賽銭箱へアリエルが代表して20リラを入れた、正面へすすむと祭壇に掲げられたバルトロメオ・ヴィヴァーリーニの三連画の慈悲の聖母が浮かび上がってくる。

クレメンテたちは椅子に座って何処を回ったか明日は何処を回ろうか等と話し合っている。 

「そうだわ、あなた方パリでムッシュー・ラモンにお会いになったでしょ」

アリエルの問いに皆がお会いしましたと答えると「彼の描く貴婦人はすこし太めで可愛い人が多いけど此処のヴェッキオという人が描いたバルバラもそうなの」と説明し案内の老人は「ヴェッキオの絵はこの6枚がそうですよ」と左の翼にある祭壇へ導いて悲運の殉教者バルバラのことを教えた。

中央に死せるキリスト、下に聖バルバラ、聖ドミニコ、聖セバスティアヌス、洗礼者ジョヴァンニ(ヨハネ)、聖アントニウスがいる。

パイプオルガンは新しく見えたが此処で音楽会が開かれると聞いてアリエル達以外は其の事は知らないので次はいつなのかタカが聞いた。

「明晩ですだが来なさるかな。7時からですがビリィエットおっとビエはまだありますよ」
どうやら案内人というより音楽会の為にきていた様だ。

教会への寄付を含めて8リラだというのでアキコがクレメンテたちも来られますかと聞いてすぐにお金を支払った、アリエルもアキコが出した財布を見ても任せていたので清次郎も口を挟まなかった。

老人と「ではまた明晩お会いしましょう」と挨拶をしてカンポ・サンタ・マリア・フォルモーザ(Canpo Santa Maria Formosa)へでるドアを開けてもらった。

アキコとクレメンテは広場の東側に向かい其処にリオ・ディ・サンタ・マリア・フォルモーザがあり其の狭い水路でも船が行き来している、ゴンドラや小舟がすれ違うのがやっとの水路に船が出入りするのに驚くアキコだった。

ポント・ディ・リアルトへでるために広場の北西側へ行くと其処にも運河がある。
Rio del Paradiso(リオ・デル・パラディーゾ)とプレートが架かっている、左手に橋があり其処を渡って運河に沿ってフォンダメンタを左側へ進んだ。

突き当たりのリオ・ディ・モンド・ヌオーヴォを渡るポンテ・パラディーゾとリオ・デル・パラディーゾを渡るポンテ・プレーティ・リオがある。
角はホテルとバーカロがありLe ponte del Paradisoとプレートのある小さな橋を渡ってカッレ・デレ・パラディーゾを進んだ。

其の突き当たりはサリツァーダ・サン・リオだ。
タマとヨシカがゴンドラを降りたポンテ・サンタントニオは人がいつも大勢渡っている。

リアルトを渡りカッレ・トスカーナという道へ入るとクレメンテお勧めのバーカロがある。

「オンブラは白が通り相場ですよ」
クレメンテはアキコにそう言って指を二本建てた。
カメリエーレがグラスに樽から注いで運んできた「チケッティは」と言葉少なくたずねた。

「アルティチョコとトラメッジーノ」と之も簡単に頼んでいる、でてきたのはアーティチョークにチーズとハムのサンドウィッチだ。

「アルティチョコがこの時期にあるのは珍しいでしょ。後何か食べますか」

「イカかタコのフリットを頼めますか」
クレメンテが傍を通るカメリエーラに告げるとすぐに出てきた。
知り合いらしき人も大勢現れるが単に「チャォ」と声を掛け合うだけで自分の何時もの席に座るか立ち飲みの台で楽しんでいて特に煩く干渉はしてこない。

バーカロの由来を知っていますかとクレメンテがワインを頼みながら教えてくれた。

「バーカロ・グランデという店が最初だそうでまだ50年も経たないそうですよ。今日見た金貨の時代のオーストリアと戦っていた時代に、雇われてきた兵隊が自分の出身地から輸入したワインを飲ませる店だったそうです。バッカナーレと言う言葉から来たという人もいますがね」
其の店でながいをせず次の店にうつりイワシのフライとサラダを頼んでクレメンテはワインを2杯飲んでヴァポレットでホテルまで送るとサン・マルコまで一緒に乗って来て、アキコをホテルへ送り届けるとぶらぶらと戻って行った。

「二軒でチップも置いて7リラよ。二人でワインを7杯くらい飲んだかしら」

「数が可笑しいわ」

ヒナが聞くままに答えていたが奇数では可笑しいと言うのに「だって私、最初は2杯で次は1杯だけでしたわ。普通お替りしないで三軒くらい回って家で食事をするなんていうのよ。よくそんなに飲んで食べてクレメンテみたいに痩せていられるか不思議でしょうがないわ。市場の女性の殆どが太っていたのはオンブラのせいだと言うのには笑いたくなる冗談だと思いましたけどね」と答えるアキコだ。


今朝はクレメンテが8時に来て朝食を一緒に摂ると言うことでアキコはほかの人たちよりすこし遅れて下へ降りた。
アリエルとハルにツネはもう出かけるところだった「アキコ5時に早めの夕食にして教会の音楽会よ、遅れずに戻ってね」と確認して出て行った。

ウォーヴォ・フリット(uovo fritto目玉焼き)にパターテ・フリッテ(patate fritteフライドポテト)とポレンタとハーブのニョッキを一緒に頼んだ。

明子たちが食べ始める頃には迎えに来たダヴィードにフォルトゥナートと連れ立ってみな出て行ったがゆっくりと食べてカフェ・ラッテを楽しんだ。

ヴァポレットでフェッロービアまで出て鉄の橋の上で正面のサン・シメオン・ピッコロの緑色のクーポラを再びスケッチし、教会の脇を抜けて左へ曲がるとポンテ・ベルガモを渡ってサン・シメオーネ・プロフェタ別名サン・シメオーネ・グランデをスケッチに向かった。

「プロフェタは預言者という意味です。グランデが大きいでピッコロが小さいと言うのに教会は其の反対にピッコロのほうがはるかに大きいのですよ。之はカナル・グランデにあるという意味のグランデで800年ほど前に建てられたのを最近建て直しました。ピッコロは150年ほど前の建築で之も新しいんですよ。新しいといえばこの近くにパルコ・プブリコ・パパドーポリ(Parco pubblico Papadopoliパパドーポリ市民公園)が造られだしたのは1834年からで最近ようやく形になってきましたがセスティエーレが6つの区と言うのはご存知でしょ」

「はいアリエルから聞きました」

「この付近がサンタ・クローチェと言うのはどうしてかご存知ですか」

「案内本には其の名前の教会から付けられたとしてありましたがアリエルは其の教会を知らないそうです」

「其の教会と修道院は此処から300mも離れていないパパドーポリのところに在ったんですよ。ご多分に漏れずナポレオンが閉鎖させたのですが倉庫になっていたのを確か1810年に取り壊したそうです。その後1834年にフランチェスコ・バニャーラ(Francesco Bagnara)の設計で公園にされました」

「そうだったんですか。アリエルがヴェネツィアに居た時はもう公園になってしまっていたんですね」
メモも見ずにクレメンテは思い出すように説明した。

「ナポレオンによって廃止されたままの教会の中でも幾つかは修復されていますが、そのまま倉庫や集会所として利用され続けられている建物もあるのです」
さて次は何処へ行きましょうとクレメンテが地図を広げると「大きなクーポラのある教会で人があまり行かないのは後何処でしょうね」と確かめた。

「そうだなぁ、ジェズワーティ(Gesuatiイエズス会)なら人があまりいないでしょうね。アッカデミーアの先にあるのですが正式にはキエーザ・ディ・サンタ・マリア・デル・ロザリオ(Chiesa di Santa Maria del Rosario)といいます」
二人はフェッロービアからヴァポレットでアッカデミーアまで行くとリオ・テッラ・アントーニオ・フォスカリーニをザッテレの岸辺へ向かった。

其処から見える先には大きなクーポラが目立っている。
5段ある石段を登り大きな入り口を入ると中ほどには金色の十字架のキリストに灯りがさして浮かび上がっている。

説教壇はパリと違い中段に置かれ一番奥の祭壇には小さな十字架が置かれ神父が祈りをささげていた。

左手には壁にパイプオルガンが隠されていてクーポラから差す明かりに浮かび上がっている、ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロの描いた天井画は華麗でアキコは首が痛くなるほど見上げている。

マドンナと三聖女の画も30分は見ていただろうか、クレメンテは自分のスケッチブックに其の画を見るアキコを画いている。
司祭がやってきてその画を説明してくれた、クレメンテが難しい言い回しや言葉の違いを通訳のため傍へ来てくれた。。

「之は天井画と同じジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロが描いた物で、マドンナの下はドミニコ会の聖女たちで小さな十字架を持ち黒い修道服はモンテプルチアーノの聖アグネス。幼児のキリストを抱いて薔薇を持つのはリマの聖ローズ。シエナの聖キャサリンは十字架を保持しています。此処はイエズス会の教会なのにと思うでしょうがな」

ティントレットの描くキリストの磔刑は説明を聞くだけで教会の中を一回りした、アキコは入る時に醵金した5リラに加えさらに10リラを灯火のための醵金箱へ落とし入れた。

教会を出てファサードの彫刻をもう一度見上げていたが隣のキエーザ・サンタ・マリア・デッラ・ヴィズィタツィオーネ(Orphans)を訪れた。

「ジェズワーティは1734年の献堂で此方は1524年と大分前になりますね」
メモ帳を繰って見つけるとアキコに教えてくれた、此処もナポレオンによって廃止と決められたが今は往時の様相を取り戻している。
清楚な入り口はアキコの共感を呼び岸辺にさがって場所を決めるとスケッチを始めた。

「三年ほど前に修復が終わったばかりですよ。孤児院もあるので経営は大変らしいです。イエズス会はヴェネツィアとも深い関係があるのですよ」

クレメンテはパリの盟約と此処ヴェネツィアでの叙階を受けたこと、ローマのジェズ教会の天井のフレスコ画を画いたのがジョヴァンニ・バッティスタ・ガウッリでイエスの御名の勝利(Trionfo del Nome di Gesu)は見事な出来だと教えてくれた。

パウルス三世はイエズス会の創設を認め、七人のうちファーヴルはすでに司祭叙階されていたため、他の六名が1537年6月24日にヴェネツィアで叙階を受けた。
イエズス会の母教会はローマのジェズ教会(Chiesa del Gesu )で此処のファサードがモデルとされた教会がイエズス会には多い。

1773年にイエズス会の活動禁止令がクレメンス十四世によって出されたがピウス七世により禁止令がとかれ1814年にジェズ教会はイエズス会に返還された。

イグナチオ・デ・ロヨラ (1491年〜1556年)初代総長
ディエゴ・ライネス   (1502年〜1565年)第2代総長
ピエール・ファーヴル  (
1506年〜1546年)
フランシスコ・ザビエル (1506年〜1552年)
ニコラス・ポバディリャ (1507年〜1562年)
シモン・ロドリゲス   (1510年〜1579年)
アルフォンソ・サルメロン(1515年〜1585


教会の中に入ると聖人を描いた天井画が目に付いた、数えると50人以上もあるようだ。

祭壇は質素で其の左側にマリア像が置かれている、白い服に青い帯を巻いて前にたらして上を見上げる少女のようなお顔にアキコは見惚れている。

「昨日のサン・ジュゼッペの大人びたお顔に比べ可愛いですわ」
クレメンテもそうですねと相槌を打って「お昼にしますか。その前にもう一ヵ所回りますか」と相談した。

時計を見ると十二時丁度「お昼時を外して食べてもいいかしら」とクレメンテに聞くと「では近くのゴンドラの造船所を訪ねてから昨日の店でパスタでも食べましょうか」と答えが返ってきた。

「この近くでゴンドラが作られているのですか」

「そうですよ」

クレメンテは不思議そうに聞くアキコを怪訝そうな顔で見つめた。

「私てっきりメストレのほうで作っているのだと思い込んでいましたの」

そうなんだという顔のクレメンテが「ザッテレは筏の意味で昔はここらあたりへその筏を接岸させていたので木材は何時でも積んであったのですよ。スクエーロ・ディ・サン・トロヴァーソと言うのですが作業に使われる道具がヴェネツィアの言葉でスクアーラというところから船大工に造船所をスクエーロといようになったそうです」と言いながら50mほど河岸沿いに行くとリオ・ディ・サン・トロヴァーソがあり運河をポンテ・ロンゴで越すと建物沿いに右へ曲がってくねくねとした路地を行くと橋のところでゴンドラを運河から引き上げるように造られた小さな造船所が見え、黒い建物はゴンドラと同じ色で塗られている。

「作業を見せてもらいますか」

「いえお昼休みの邪魔をしては悪いですわ。其れより其処の教会のファサードをスケッチしてからお昼にしましょう」
橋を渡り広場からキエーザ・ディ・サン・トロヴァーソを簡単に画いて右手へ回り込むとカンパニーレを入れて教会の角を入れるようにもう一枚を叮嚀に画いた。

アキコは不思議そうな顔でカンパニーレに近づくと笑い出した、其処には不可思議な顔の怪人の顔が取り付けられている。

トロヴァーソ運河の左手先にはトロヴァーソ橋が掛かりその前の酒屋には男たちが出入りしているが買いものをして出てくる様子には見えない、橋の上で見ているとどうやら中で一杯引っ掛けてくるようだ。

「あの人たち昼間から一杯やってくるのかしら」

「そう外仕事は身体が冷えますからね」
酒屋の前のファンダメンタを右へ進んですぐ路地へ入ると其の先はアッカデーミアの裏手の道だ、リオ・テッラ・アントーニオ・フォスカリーニに出てアッデミーア橋を渡りカンポ・サン・ヴィダルへ入った。

キエーザ・ディ・サン・ヴィダル(サン・ヴィターレ)前には観光のアメリカ人やドイツ人のグループが賑やかに歩いている。
カンポ・サント・ステファーノには土地の人たちも午後の日差しを浴びてカフェの外の席で長い昼休みなのかと思うほど寛いでいる。

「あの外席は高いのではないの」

「サン・マルコに比べれば半分ですよ」
それでも1リラだがリアルトやサン・マルコの観光客が案内される店に比べれば安上がりだそうだ。

アノニモ・ヴェネツィアーノは混んでいたがクレメンテの知り合いが連れに断って二人を呼んでくれた。

「ブオン・ジョルノ。グラーツィエ、クレメンテのお知り合いですか」

「ブオン・ジョルノ。そうです僕はこの街の案内を副業にしているベニート・バルツァッリといいます」

「よろしく。私はアキコといいます。席に誘ってくださってお礼を言います」
之は同席の観光客の二人へも伝えた。

フランス語は苦手のようなのでイギリスで同じ事を言うと通じたようで「良かったここではイギリス語は片言でしか通じないし。ベニーとも片言なので半分しかいう事がわからないのだ」と南部訛りのアメリカ英語だ。

「私ボストンに三年近く居りましたので」

「そいつは良かった。有名どころの観光はもうすんだが安い昼飯をといったら此処へつれてきてくれたんだがどうなのかね」
ベニートをベニーと省略して言うミスターは50くらいの固太りの農民のように見えるが「俺は之までやってきた仕事を息子に譲って世界旅行さ。金はあっても理屈に合わん金を使うのは好きじゃないのさ」と嘯いた。

アキコはそういう男性をボストンで数多く見てきていてこの人もアメリカン・ドリームの成功者の一人だなとおもうのだ。

「サン・マルコでのカフェ1杯の料金で食事が出来ますわ。勿論沢山頼まなければですが」
そういう明子の声に励まされたように勘定書きを取り寄せると3人分で4リラ5ソルドだというので大笑いで「もう聞こえて勘定を安くしたのかい」とベニートとクレメンテを笑わせ、5リラ銀貨を置いて「残りはチップだ。アキコ、またどこかで出会いたいね」と出て行った。

「夕食が早いから少なめで良いわ。クレメンテは好きなだけ頼んでね」

「俺だってそんなにはいりゃしないがビールを頼んでいいかい」
二人でハムとチーズのサンドウィッチを一皿とそれぞれにビゴイ・イン・サルサを頼んだ、チーズとハムの間にはトマトのスライスが入っていた。

「随分ボストンとは違うわ。小麦粉が違うのかしら」とよくかみ締めていたが「そうかつなぎが違うのね。卵が多いようだわ」とクレメンテに確かめた。

「ボストンではどうか知らないけどアヒルの卵なのさ、特に此処は水をほんの少ししか使わないそうだから」
ビールの壜が空になりすこし物足りなさそうだったが我慢しようと言ってパスタを食べることに専念しだした。

玉葱の甘さとアンチョビがよくあっていた、クレメンテもカフェを付き合って頼んでいる、ビールの後でカフェが美味しいのかしらと不思議に思うアキコだ。

「この後2時間で回ってホテルへ戻るには何処がいいかしら」

「アキコは金持ちだから反対に貧しい人の代名詞に使われるキエーザ・デイ・サン・ジョッベまでゴンドラで行けば一時間は教会付近を歩けるよ」

「其れってジョブのことかしら」

「そうフランスではポーヴル・コム・ジョブ(Pauvre comme Jobヨブのように貧しい)というそうですね」

英語の言い回しのpoor as Jobを教えてフランス語の発音は正しいのかと疑問をクレメンテに聞くと僕の先生はそう教えてくれたと話した。
今日の勘定は麦酒のせいか3リラ30チェンテジモだというので銀貨を出してお釣りから1リラをチップにした。

店を後にしてクレメンテはポンテ・デル・テアトロまででてゴンドラを探して交渉して4リラでサンティ・ジェレミア・エ・ルチーアまで約束して乗り込んだ。

「アキコは金持ちだから良いよな」
ゴンドラの料金のことだと解釈して「ええヴェネツィアにいる間は友人たちもお小遣いに不自由はしませんわよ。でも国へ帰ればそういうわけに行きませんの。留学で出来た借金も清算する必要も在るでしょうし、予算以内で済むかどうか誰にもわかりませんわ」

「明子の家は金持ちだと聞いたよ」

「横浜では上から数えて100番目くらいな物だとペールはよく言いますわ。生活に困る事もありませんが贅沢をすればすぐ無くなるのがお金ですわ」

「100番目と言うのがどの程度か判らないが不自由しているようには見えないよ」

「其れはこの留学に他の方々も少々の無理は承知でお小遣いを持たせてくれたのとパリのセイジローの兄のショウと義理の姉のエメがお小遣いに困らないように一人500フラン下さったからですわ」

「では其のショウが凄い金持ちなのかな」

「パリでは100番どころか1000番にもはいらないと言っていましたわよ。税金を確り払うので市役所からは随分いい扱いをしてくださっているそうですが。ショウはエメと二人の子供で住む家も5階建てのアパルトマンよ、その最上階に子供部屋に応接間を含めて7部屋遣って住んでいますわ。其れもエメが相続した部屋ですの。子供が出来た時に二部屋の住人の方に他へ移っていただいて子供部屋を確保したそうですわ」

7部屋か僕の伯母の家より少ないな」
クレメンテはアキコが特に聞かない限り建物の名前を言わないようにしている、全て言っていたら折角訪れた場所の記憶が薄れると昨日話しあったからだ。

「此処、ワグナーが亡くなるまで住んでいた家ですよ」
リヒャルト・ワグナーは1883年2月13日ヴェンドラミン・カレルジで心臓発作でなくなった。

「此処に前年9月に来ていたそうですが28室も借り受けていたそうですよ」
珍しくそういったのは部屋数の話からだろう「明子の家は幾部屋あるの」と聞いたがゴンドリエーリが「旦那どこにつけますか」と聞いてきたので話しが途切れた。

「ジェレミアで良いよ」

アキコが5リラ銀貨に20ソルドを付けて「グラスィエ」と渡すと「オッチョ!ベッリッシマ・シニョーレ」と言いながらはしごを岸辺に立てかけた。

サンティ・ジェレミア・エ・ルチーア教会の岸辺はゴンドラからはしごを上がり其処に書かれている言葉を見上げた。

「そういえば今のオッチョはどういう意味かしら」

「あれはここらあたりの言葉で気をつけてという意味ですよ。気をつけて美人のお嬢さんといったんですよ」

「ああら、チップのお礼にしては随分と褒めすぎですわ」

「そんなことないよ。アキコは他の人から比べてもヴェネツィアの人の中でも美人で通用しますよ」

「まぁ、クレメンテまで褒めすぎよ。でも之全然なにが書いてあるか意味がわからないわ」

「そうでしょ。僕も読めない文字が多いのでね。大体の意味はわかりますがね」
壁にはこう書かれている。

LVCIA ルチーア(Lucia)
VERGINE DI SIRACVSA シラクサの処女(シラクーサSiracusa
MARTIRE DI CRISTO キリストの殉教者
IN OVESTO TEMPIO 西のテンプルに(西Ovest
RIPOSA 休みます
ALL'ITALIA AL MONDO 世界のイタリアに
IMPLORI 貴方が願う
LVCE PACE 小さな平和 (光Luce)

「どうも自信がないのだがね。このような意味だと思うよ。この西のテンプルと言うのがどうもね、ほかに意味があるのかも知れないよ」
アキコは其の壁をスケッチして言葉を書き入れてクレメンテの言葉を脇に書いて忘れないように其れを日本の言葉でも書いておいた。

カナーレ・ディ・カンナレージョへ出てポンテ・グーリエの橋番に見えてきた物乞いに1リラを渡して橋を渡らずにファンダメンタ・サヴォルニャーンを先へ進んだ。

ポンテ・ディ・トレ・アルチは名前のとうりの3つのアーチが架かる美しい橋だ、真ん中のアーチは大きく競り上がり階段は下から最上部まで3段に分かれてそれぞれ7段あった。

橋のところでアキコはあまり人が通らないこんなところで物乞いをしてと気の毒に思うようで老婆に見えた物乞いに1リラを渡し、わざわざ向こう側へ渡って若いのに物乞いをしている女性にも1リラをあげて財布を覗くと其処にあるソルドとチェンテジモの硬貨を全て与えて戻った、下を潜るヨットと橋をスケッチしクレメンテに続いて左の道へ入ると質素な雰囲気の教会の入り口がある。

30分ほど中にいたが「此処の祭壇画はジョヴァンニ・ベッリーニの描いた聖ジョッペ(ヨブ)の祭壇画と言うものがあったのですが此処が閉鎖され、修道院も取り壊されてその後アッカデーミアに移されて保存されています。今此処にあるのはその後に換わりにおかれたものです」と聞かされ「では明日の午前中に其れを見にいきますわ。お昼は皆さんでお別れの食事会をしましょうね」と約束した。

ゴンドラを雇いのんびりと戻って部屋で今晩の服に着替えた。
クレメンテたちは清次郎たちのアルベルゴで着替えてくると出かけ、全員が5時にはホテルのホールに揃った。

「忘れないうちに明日は12時にこのホテルでお別れの食事会ですから外で買いものしていても遅れないように戻ってくださいね」

アリエルが全員に申し渡しをして「今晩の食事はこの間のバルバネーラに予約を入れてありますので特に食べたいものがあれば道々相談して追加してくださいね」とミシェルを先頭に三々五々グラン・ブリタニアを出発した。


夜に入りカッレ・サン・ガッロの商店の窓のプレゼーピオ(Presepio)が道ゆく人を楽しませている「アキコちょっといい」ヨシカが声をかけ窓の傍で立ち止まって話しを聞いた。

クレメンテがミシェルに断って近くに残ってくれた。

「どうしたの」

「ハルとも相談したのだけどダヴィードとフォルトゥナートがヴェネツィアの風景画をそれぞれ四枚200リラで譲ってくれるそうなの。それで四人で二枚ずつ分ける事にして今朝持ってきてくれたのだけどどう別けるかでもめると困ると思ってヒナに相談したら私は要らないけどアキコがどう思うか聞いてみてと言われたので代表して私が聞くことにしたの」

「私は遠慮しておくけど一番いいのはオークションね。其れとお金は都合付いたの」

「フランで良いというのでパリで頂いたお金が残っているので一人100フラン出して支払済みよ。オークションて其れどういうことかしら」

「今晩にでも八枚並べて自分の欲しい画に名札を置くの、一人二枚の名札を用意するのよ。それで重なった画は自分が出せる金額を書いて他の人に渡すの高い人が手に入れるのよ。負けた人は誰も入れなかった画を50リラで買い入れるの」
其れだと400フラン以上になるわとヨシカは首をかしげた。

「実はタカとアリエルに話をしたのだけど全部ではないけどリラや硬貨の残りを明日船に乗る前に孤児院や慈善病院に寄付しようと思うの。アリエルが先生に頼んで寄付することまで決まったのであとで皆さんにも残りの小銭を寄付していただくつもりなの、それに上乗せしていただければ買い上げた人も気持ちがいいでしょ」

「そうかもしれないわ。そのように話してみるわ」
すこし先にいたダヴィードの所に駆け寄って腕を取って楽しそうに話しをして先へ行った後アキコは何か考えるように窓の中を覗いている。

「どうしたの深刻そうな顔をして難しい話だったのかい」

「そうじゃないのクリスマスはマドラスあたりで迎えるようになりそうだと思って」
そう言って今の話しをクレメンテに教えた。

「いいことだね。其れと彼らもシニョーラに安く分ける事にしたようだね。いい画のはずだよ、いつも案内をした人に頼まれると自分のは100リラだが街の絵描きのを値切ってあげると言うのさ」

「幾らぐらいなの」

「30リラから200リラくらいを請求する人が殆どかな。30リラは随分小さいがお土産には派手な額を50リラくらいで売って其方の儲けが多いようだね」

「この飾りを買うのは幾らぐらい掛かるかしら」

「この窓程度のものなら200リラくらいでそろうけど。50リラくらいで家庭用のいいものが手に入るよ」

「其れを買い入れてタカの船室に置かせてもらおうかな」

「どうしてタカなの」

「彼女の船室はスエズからは一人部屋になるの代わる代わるお泊まりに行く約束なのだけどショウの話しだとメイド二人くらいが一緒でもいい部屋だそうなの」

「そいつは随分贅沢だな」

「一等船室がわたし達の三部屋と其処しか予約が取れなかったそうなの三人だと私たちがメイドに見えるとショウが笑いながら教えてくれたわ。次の船なら空きが有るけど船長の名前が気に入らないとショウが言うのよ」

ヤンチェ(Yangtse)は船長ロルミエ(Lormier)でマルセイユを12月4日の出航、12月12日イスマイリア(Ismailia)で乗船予定だと話しながら歩き出した。
状況ではポートサイドに替わるかもしれないけどと言って次の18日にマルセイユを出るサガリアンのファッシ船長(Fiaschi)は名前がねとショウが言ったことを教えた。

「其の船長面白い人だね職業柄改名するか使う名をほかにすればいいのに、でも清次郎はどの部屋だい」
そう言って可笑しそうにクックッと言う音を出しながら歩いた。

「彼は二等船室なの一人部屋には違いないけどまさかタカと一緒と言うことには出来ないだろうとショウがお前が我慢しなその代わりアレクサンドリアまでは一等で行かせるからと言うことで決まったのですわ」
其れを聞いてまぁ男だから其れも良いさとクレメンテは顔をしかめて見せた。

プロセッコ(発泡ワイン)で「サルーテ、明日の船出を祝して」とミシェルの音頭で乾杯して前菜の皿を廻して自分の好きなものを採り皿に取り分けた。

カパオッソリ・サルターイ、アサリの炒め蒸。
ペオーチ・サルターイ、ムール貝の炒め蒸。
フォルピ、茹でタコにパセリやレモンにオリーブオイルをかけてある。
カノーチェ、茹でたシャコにオリーブオイルをかけてある。

豪華ね之だとメインに行かないうちにお腹が膨れそうよと隣の席のタカは大喜びだ。

其のタカに先ほどの窓飾りを買う話しをすると「もう買うことにしたの」というタカに「いいえ、まだですわ」と答えると「私が買って船で飾って持ち帰る事にしてあるわ。セイジローも妹の子供たちへのお土産だと買い入れていたわ。商売用も含めてミシェルに言って私の分もいれて10セットもよ」と笑いながら言って「貴方もお土産ならいいけど。船の中だけのノエルの飾りにするなら他の物になさいな」と言ってくれた。

「そうしますわ自分用に買う事にします」

「セットでよければ清次郎から分けてもらえば」

「明日どういうのがあるかよく見て好みのものを集めてみますわ」

「其れも良いわね。後でミシェルかアリエルに相談してみてね」
スパゲッティ・コン・スカンピはトマトベースで、スープの多いカストラディーナは去勢した羊の肉とキャベツの煮込み。

「ヒナさん、ヴェネツィアでは11月21日にこのカストラディーナ(castradina)を頂く風習なのよ。去勢した羊にはペスト菌の心配がなくてサルーテのお祭に必ずキャベツと煮込んでいただくの。昔ペストに苦しんだ人たちが其の終焉を祝って始まったお祭の食卓に必ず出たのよ」

フェガト・アッラ・ヴェネツィアーナ、レバー肉をタマネギと炒め煮した一品にポレンタがついてきた。
ピノー・グリジョ辛口ワインが出てきて「一杯だけにしましょう。今晩はまだ長いですからね」とミシェルが男たちに釘をさした。

此処ヴェネツィアで音楽会は7時頃から始まるがオペラなどは9時から始まる劇場が殆どで夜は長いと言うのはパリと同じだ。
夏なら日没が遅いのでともかく冬場では観に行くほうも大変だ。

「どう皆さんヴェネツィアを見て回った感想はいかが、どう思いました」
アリエルがタマのほうを見て聞いた。

「不思議な事がありますわ」

「どんなことかしら」

「ボストンやパリでも劇場は此処のようにありましたし、レストラン酒場もありますのにキャバレーが見当たりませんわ」

「そういえば私も知りませんね。どなたかご存知」
誰もそのようなショーと酒場に劇場が融合した店は知らないという顔だ。

「静かに酒を飲むか女のいる場所で酒を飲むかだな。歌って踊って酒を飲ませる場所や食事をしながらショーを見せる店は見た事がないな」
ミシェルがそういうと「パリやリオンではそういう店があるのですか」とフォルトゥナートは行きたい素振りだ。

「キャバレ(Cabaret)なら家にあるよ」

「エ、何のことだ」
クレメンテが言うキャバレに先に気が付いたのはタカとアリエルだ。
笑いながらフォルトゥナートにフランス語のミルクポットなどの事やカフェに紅茶のセットの事を教えた。

一時話題はパリでミシェルやアリエルが夫婦で行ったキャバレーにサーカスの話題になりタマも出かけたサーカスにカフェ・コンソールが楽しかった思い出を語った。
食後のカフェ・コレットを楽しんでいるうちに6時半になりアリエルと打ち合わせてあるようでタカが会計をし、一同は店を後にサンタ・マリア・フォルモーザへ向かった。

教会は多くの人で溢れていたが昨日買い取ったビリィエットは席が指定されていたようで其処へ案内されパンフレットを渡された。

「アリエル本当にオルガン奏者はいい男だわね。でも演奏が始まれば背中だけになるのも本当ね」
ハルは声を潜めてアリエルに話しをした、オルガン奏者はアントーニオ・コレッツオーニと書かれている。

ヴァイオリンを持った三人の女性とヴィオラの男性にチェンバロの若い女性が音の調整をしている。

オルガン奏者がメンデルスゾーンの演奏を始めた。
つの前奏曲とフーガ Op.371837年)はハ短調、ト長調、ニ短調と調べは続き、聖母マリアの被昇天の祝日のためにヴァイオリンとオルガンのための協奏曲ヴィヴァルディとパンフレットには載る曲へ移り、ヴィヴァルディが終わると三人の少女が声をそろえてラテン語のアヴェ・マリアを歌った。

休憩が入り聴衆に暖かいお茶が振舞われ其の甘さに身体が温まる一同だ、ヴィヴァルディの四季が始まり聴衆はその出来のよさに酔いしれている。
2時間30分ほどの演奏会は盛況におわり一同は人ごみを抜けてホテルへの道をたどった。

ホテルのカフェルームで明日の寄付についてアリエルは先生に会いに行き説明をして委託して使わせて頂くと一同に説明し「聖ニコロの日のプレザンに間に合うから先生も喜ぶことでしょうね」と嬉しそうに話をした。

「イタリアでは聖ニコラ(San Nicola)でしたわね。25日まで間がありますわね」

「あら、そうね。確かにペー・ノエル(Pere Noel)のことだけど、でもヴェネツィアでは聖ニコロ(San Nicolo)と言うのよ。それに6日が聖ニコロの日なのよ」
サンタクロースは場所によってプレゼントを渡す日も違うようだ。
明日の昼食会とホテルの清算が終わった後、残る細かなリラに小銭を集めて寄付することになった。

その晩男たちは飲み足りない分を補いにリアルトまで出て行った。

「セイジローはパリのキャバレーで大分遊びましたか」
ミシェルの言葉にうなずいて「最初は兄貴に連れられていきましたがそのうち一人で夜中の街をうろつくようになりました。明子お嬢様をお守りするように言われていましたがパリにいる間は勝手にお役御免をさせていただきました」とパリのキャバレー巡りを面白おかしく話した。

「それじゃぁ、随分金もかかったでしょうね」
ダヴィードは小遣いも大変だろうとフォルトゥナートと首を振りながら聞いてきた。

「なぁに、会社が今回の休暇にと一年分の給与をボーナスに弾んでくれたので元手に困る事もありませんでしたよ」
そりゃ良い会社で働きましたねとクレメンテも感心している。 

清次郎は日本を出る時に月50円の給与がアメリカ手当て100ドルプラス家賃とメイド費用を負担と決められていて帰国前には手当てプラス給与で250ドルになっていた、家賃とメイド代も勿論会社負担だ。

その話はミシェルが引き継いで「俺たちの会社も同じ系列で社長は儲けが出れば給与とクリスマス手当てをはずんでくれるのさ」と羨ましがらせた。

5人は一時頃別れ、清次郎とミシェルはふらふらとホテルに戻りぐっすりと眠り込んだ。


12月2日ヴェネツィア金曜日朝

7時を過ぎて朝日の昇る気配がラグーナに見え、リヴァ・デッリ・スキアヴォーニは忙しげに行き交う船で賑わっている。

アキコとヒナは残りの荷物を旅行鞄に詰め込んで旅行服と今日外出に着る服だけをベッドに置いて今日買い物をしておく御菓子等をどちらが買うか相談している。

「いいわ、私が日持ちのするショコラに干しブドウなどを買うからアキコが今晩と明日の果物を買い入れてきて」

「リンゴにオレンジなら10日くらい持つから多めに買っておくわね」
二人が食堂に降りると次々に降りてきて食事を始める人で席は込み合ってきた。

ヨシカは「アリエル昨晩のわたし達のオークションは80フランの上乗せが出ましたのでフランでよろしいかしら」と相談している。

「フランでも大丈夫よ。私のほうでリラと交換しておくわ」

「ではお昼にその分も含めてお渡しいたしますわ」
アキコは今日の分の追加のお小遣いに一人5リラ銀貨4枚を配った。

「船に持ち込むお菓子は同室の人と相談して買い過ぎないようにしてね」

「もう、アキコは横浜を出たときとは違うのよ」
タマは口を尖らせたがあの時は家族が気の使いすぎで大福と切り山椒を余分に持ち込んで、6人では食べきることが出来ず同船の人に配らないと処分し切れなかったのだ。

ミシェルがクレメンテときて「アキコもプレゼーピオを買いたいそうだね。セイジローに聞いたら飾りつけをするいい部屋があるそうだね」と切り出した。

「ええ、お部屋はありますけど」

「それなら実はいい店があるんだ。すこし大きいけど木彫りの素敵な奴があるんだ」
明子の耳元で「実は高くてセイジローも手が出ないのさ。2000リラ欲しいというんだ。リヨンにもヴェネツィアでも中々之だけの奴はないのさ。プレゼーピオはクレッシュ・ド・ノエル(Creche de Noel)のことだよ」と囁いた。

「ではセイジローにタカとヒナも見ているのですか」

「そうなんだ」
タカとヒナが傍に来て「ミシェル、貴方あれを買わせる気なの」とすこし強い口調で言い出した。

「実はあれからまた見にいったのさ、向こうさんも教会に納めるはずが火事で引き取ってもらえず困っているのさ、あれが売れないと半年の成果が台無しなんだ。教会は来年寄付を集めて引き取る手はずを取ると言ってるが、今手付けを払うのは出来ないというんだ」

「其れはお困りでしょうが、だからと言ってあまりにも高すぎますわ。そりゃあれだけの芸術性の高い物は普通の家庭では無理でしょうが。幾ら寅吉旦那でもそういうものに使うお金を許しませんわ」

アキコは暫く考えていたが「どうでしょうかタカ、グランドホテルかクラブホテルに売り込めないかしら」と言い出した。

「私は小さい時に横浜を出たきりだからそのあたりはよく判らないのよ。ヒナさんはどう思う」

「両方とも欲しがるはずですわ。来年のこの時期まで寝かせるつもりがあるならですけど。横浜で駄目でも東京なら買い手はいますわよ」

アキコは売り込む自信が有るような顔だ、その顔をじっと見てタカは「アキコの自信のありそうな顔が怖いけど駄目もとのつもりで買い付けますか」と折れてきた。

「先ず品物を見てからですわ。店は何時に開きますの」

「この時期もう開けている筈さ」
フォルトゥナートと清次郎が連れ立ってやってきたのでクレメンテとミシェルに「ではそのお店に行って見ましょう」とミシェルに案内を頼んだ。

コルテ・バロッツィから3月22日通りへ出てポンテ・デ・ラ・オストレーゲへ回った。
カンポ・サン・マリア・デル・ジリョへ出てサンタ・マリア・デル・ジリョ教会の裏手は左にポント・ドゥオドオ・バルバリゴとその右にポンテ・フェルトリーナが並んで運河に掛かかっている。

右の橋へは階段を運河沿いに登り家の壁沿いから橋を渡りカンピエッロ(campiello路地裏広場・小広場)へ降りる階段がある。
橋を下ると右に運河に降りる階段があり眼の先にはまた橋が見える、其のフェルトリーナ小広場を抜けてポンテ・ザグーリまでの間に有る商店が店を開け始めている、橋の先カッレ・ザグーリを抜ければカンポ・サン・マウリッツィオの真ん中に出る。

サント・ステファノ教会の傾いたカンパニーレを見上げて近づくとサン・マウリッツィオ教会にぶつかりそうになり教会にそって左へ行くとカッレ・デル・ピオヴァーンという僅か20m足らずの路地がある、ポンテ・サン・マウリッツィオを渡り路地を抜ければカンポ・サント・ステファーノに出る、サント・ステファーノ教会の正面に回り小さな広場に続くピッシーナ・サン・サムエーレをカナル・グランデに向かうと左へ入る道の角から二軒目の白い建物にその店ヴァンボラ・ベネチアーノが有った。

コンテリーエ(conterie)をかけまわした飾り窓は午前の陽に照らされ輝いていてロッソ・ベネチアーノ(rosso venezianoヴェネツィアの赤)が明子の目を釘付けにした。
飾り窓には聖母子と右手にジュゼッペに三博士が置かれ白鳩、猫に犬、厩の後ろから牛が顔を覗かせ一段下がって左手には羊が五頭、馬の姿は見えないが星の付いた杖を持つ天使が聖母子を見下ろしている。

「其れほど大きくないけど。木彫りなの」

「そうなんだよ。でも之はアキコに薦めたものの半分の大きささ。こいつは全ての飾りも付いて小売は500リラで買えるんだ、卸しなら300リラだそうだ。店に同じ物がいくつもあるから好きな取り合わせを選べるのさ。セイジローとタカに買ってもらったのはこれより小さなもので卸しが100リラだったよ」

「ねえミシェル。之と同じセットを二つ買い付けてくれる、後中で小物を色々選ぶから其れも交渉してね。船に持ち込むほかは後の荷と送って欲しいわ。其れとさっきの話のものは見てからね」

「良いとも」
ドアの傍にあるムーア人の人形の帽子にさわり勇んで中へ「ブオン・ジョルノ」と元気な声で入れば「ブオン・ジョルノ。ミシェル。今日も買い入れに来てくれたのかい」と迎えられた。

店にはミリ単位の細かいビーズのコンテリーエを散りばめた人形が所狭しと置かれ左手の作業場には色を塗りかけ中の木彫りが置かれている。

ミシェルがアキコとクレメンテを紹介すると「クレメンテはお客を連れてきていい買い物をさせる名人さ」と知り合いだと教えた。

「何だフォルトゥナートだけでなく君もかい」

「そうなんですよ。実は昨日アキコが欲しいと言うので紹介するつもりの店は此処だったんです」

「そいつは君のコンミッスィオーネにならずにすまないね」

「いいんですよ。実際僕のコンミッスィオーネ分値切るつもりでしたから」

店主は自分の名をニコロだとアキコに教えた「まあ、サン・ニコロから頂いたのかしら」そういうと「12月6日に生まれたんだよ」と教えてくれて「だからこいつらは自分の誕生日のお祝いみたいなもんさ。色々な場所で飾られるのが自分にとっても嬉しくて造るのが楽しいのさ」と飾られているプレゼーピオを手で指し示した。

「このビーズもニコロの作品ですの」

「いや、こいつは俺の娘さ。紹介しよう、オーイ、ジョイアいるかい」
奥の部屋から柔らかな栗色の髪を束ねた大きな女性が出てきた、大きなと形容したが太っているわけでなくアキコと首一つ違う背の高い女性だ、クレメンテよりも背が高く肩幅もある。

「この人もジャッポネーゼなの」
ミシェルに聞いている。

「そうですよジョイア。シニョーラ・アキコといいます」
二人は手を握り合ってよろしくと抱き合った。

「とても綺麗なコンテリーエですね。髪飾りに首飾りと思っていましたが表から見た窓のコンテリーエが陽の光に素敵に輝いていましたわ」
褒められて嫌なものなど世界の何処にもいない、ジョイアという名に恥じない喜びようだ。

「ムラーノで切りそろえたものをこの裏で金網を貼り付けた樽でこすり合わせて丸くしているのよ。アキコは赤が好きなのかしらそれとも青」

「一番は赤ですが赤を引き立てる工夫は何ですの」

「其れは秘密。私の製品を幾つか買えば判りますわ」
この女性商売上手のようで、盛んに自分の製作した商品を見せてアキコを自分の世界に引き込んでいく。

ジョイアは自分の仕事はスピアルーメ(小さなガラスビーズ専門の女工)で細長い針を使ってネックレスに仕上げるのだと仕事道具も見せてくれた。

クレメンテが時計を見て「アキコ後30分で出ないとアッカデーミアで30分も時間が取れないよ」と教えたので本題のプレゼーピオを見せてもらった。
アキコはマリアの顔に一目ぼれしてミシェルに値段の交渉を任せその間にコンテリーエを選んだ。

ミシェルに頼んでいた交渉は大小3組1800リラで小さな陶器の人形たちを箱一杯おまけにつく事で決まっていた。
ビーズやチィオンドロにコッラーナも奨められて1000リラ程度をお任せで買い入れることにした。 

「ねえ、ジョイア」

「なあに、アキコ」

「之とミルフィオーリをチィオンドロにした物を組み合わせる事は出来ませんの」

「どういう風にしたいの」
アキコは自分の胸から引き出した銀の鎖のチィオンドロを首から外して机に置いて赤と青のビーズの鎖を絡ませて見せた。

「良いわねこのアイデア頂きだわ。うちの店で売り出しても良いでしょアキコ」

「もちろん良いですとも。之にあわせて作っていただきたいけど時間がないわ」
クレメンテと話していたが「大分買い入れて頂けたし、貴方の分をプレザンするからアッカデーミアの帰りに寄ってくださる」と結論が出たようだ。

ミシェルに手形で3000リラを渡し「残りで小さな人形を増やして置いてください。その分は船に持ち込みたいので別にしてくださいね」と頼んでアッカデーミアに観たいものがあるので行ってきますとクレメンテに急かせられるまま店を後にした。

サリッザータ・サン・サムエーレは割合と人通りの多い道だ、カンポ・サン・サムエーレに出るとヴァポレットの停留所はあるがアッカデーミアは大分離れた対岸にある。

「此処は渡し舟もあるので大丈夫だよ」
そう言ってカ・マルピーロのほうへ向かい対岸から来るゴンドラを待って乗り込んだ。

リオ・デ・サン・バルナーバの入り口左についてパラッツォ・ステルンからカンポ・サン・バルナーバへ行き着く路地へ入り、途中を左へ入るとポンテ・マルパーガを渡りポンテ・テラッタまで信じられないような道が続いた。

そのまま進むと小さな広場があり左手に進んでポンテ・デッレ・メラヴェジェを渡ればアッカデーミアの美術館はすぐ其処だがヴェネツィアの街は容易に其処へ行きつかない。
美術学校の手前の角から美術館へ入るとクレメンテは他の部屋を省略して聖ジョッペ(ヨブ)の祭壇画へ導いた。

5m近い高さと幅250センチほどの祭壇画は明子の言葉を奪った。
クレメンテが学芸員に話しをすると脚立を貸してくれた上、灯りも調節してくれた。

「こんにちは」
女性の声で綺麗な日本の言葉の挨拶でアキコが下を見ても何処にも日本人がいない、周りはクレメンテに学芸員の男性と二人のベレーの女性だがどう見てもイタリア人かフランス人のようだ。

「ジョヴァンニ・ベッリーニが好きですか」
その声にこたえるように脚立を降りると「はじめまして私はアキコ・ネギシですが綺麗な日本語ですわね」と日本の言葉で答えて手を差し伸べた。

「やはり日本の方でしたね。ヴェネツィアを幾人か訪れて観光をしているとお聞きしましたがお会いできませんでした。噂で聞いたら今日で最後だと言うのでついお声をかけてしまいました。わたしがステラ、彼女はお友達のニコレッタ」

「嬉しいですわ。声をかけていただけて光栄です。どちらで日本語を習われましたのですか」

「経済商業学校ですのよ、去年卒業しましたの。わたし達の先生はムッシュー・ナガヌマという方でしたが今年帰国されましたの」
ニコレッタとクレメンテが困っているようなのでフランス語も大丈夫と言うので言葉を切り替えた。

「ジョヴァンニ・ベッリーニの画というより聖母の絵姿に彫刻を見て回りましたの」

「其れで如何でした。教会によってお顔も違っていたでしょ」

「はいその通りでした。若々しいお姿に成熟した女性と多くのお姿を拝見いたしましたが私の国の観世音菩薩と言う御仏とこのお姿が一番似ておられます」

「其れはどういう人なのですか」

「カンノンとつめて普段言われますが慈悲に溢れ道を誤らぬように導くお方です。相手によってそのお姿を変えて導くことで知られて居りますわ」

「そうですの。カンノンという貴方の国で信仰される神と聖母のこのお姿が似ておられるのですか」
二人のマドモアゼルは改めてアキコに断り、かわり番こで脚立に昇って聖母の顔を見ている。

サン・ジョッペ祭壇画(聖ヨブの祭壇画)は聖母と幼子キリストの下に奏楽の天使と見える三人が座って楽器を弾く様子が描かれ、立ち姿の左端から聖フランチェスコ(ジョヴァンニ・ディ・ベルナルドーネ)と聖ジョッペ(聖フェラ、ヨブ)にジョヴァンニ・ヴァッティスタ(洗礼者ヨハネ)、台座の右に聖ドミニクス(ドミンゴ・デ・グスマン・ガルセス)、矢が腹部と左足に刺さっている聖セパスティアヌスは若々しい青年、錫杖を左手に持つ若くして亡くなった(23才)トゥールーズ司教の聖ルイ。

学芸員が資料を見ながら名前を教えてくれ其れを書き付けていたが、クレメンテが10時半だよと声をかけたので「後10分だけ」と脚立へ腰掛けてラ・メール・サクレLa mere sacree(聖母、フランス語)と改めて対面した。

The Virgin Mary(聖母マリア)はフランスでLa Vierge Marie、イタリアではLa Mary vergineとヴェネツィアに入って教わったアキコだ。

十字とAVE VIRGINEI FLOS天蓋を挟み其の右へIN TEMERAE PVDORと続いているが其の先の字が切れていて見えなかった。

学芸員に聞いてもらうと資料を見て其の後はISのはずだと教えてくれたのでスケッチブックに其の文字を記入しておいた。

AVE VIRGINEI FLOS IN TEMERATE PVDORIS花のような聖母の純潔を称賛と約すのがいいのかもしれないとアキコは二人の言葉から思い,其の言葉も書き付けておいた。
左掌を見せて前に出し小指がくの字に見える様子が安心感を与えてくれる。

10分の約束がすこし過ぎたがクレメンテが催促しないうちに脚立を降り「時間がありませんの。またお会いできるかもしれませんがこれでお別れです」と二人のマドモアゼルに別れを告げ学芸人にも礼を言って美術館をあとにした。

後を追って二人は橋の下で声をかけてきた。

「アキコ、ヴェネツィアを出るのは船それとも列車」

「船ですわ。スエズへ向かいます」

「アキコ、船は何時出るのですか」

「午後の3時に乗船予定ですの、ホテルで食事をして2時半に迎えの船が来てくれるはずですわ」

「ホテルは」

「グラン・ブリタニアですわ。ご存知かしら」

「ええ、其処は知っていますがスエズへ向かう船は今日だとP&Oのロンバルディかしら」

「はいその通りですわ」
アキコは船の名前まで知っていたので驚いている。

「ではリーヴァ・ディ・ビアジオで乗船よ。4時の出航予定ですわよ。夕陽のヴェネツィアを眺めてゴルフォ・ディ・ヴェネツィア(ヴェネツィア湾)へ出て行くのよ。霧も今日は出ないようでよい出帆日和ね。ボンヴォワイヤージュ」
手を振って橋を渡る二人を見送ってくれた。

「参りましたね。ジャッポーネの言葉で話されてはお手上げでしたよ」
笑いながら「でも学校で習った人は多いはずですから今日までジャッポーネの言葉で話し掛けられないほうが不思議なくらいでしたね」と足を速めた。

カンポ・サント・ステファーノに出ていた屋台でリンゴとオレンジに干したイチジクを買い入れてアキコは用意した布のバックに仕舞うとクレメンテが持ってくれヴァンボラ・ベネチアーノへ向かった、

「やだクレメンテったらこの道のほうが近いじゃないの5分は遠回りだったわよ」
アキコは店の前に着くとクレメンテに笑いながらそう言ってムーア人に「貴方もそう思うでしょ」と話しかけてからドアを開けて「ただいま戻りましたわ」と声を掛けた。

ミシェルが出迎えてくれ、ジョイアを呼ぶとすぐに出てきてチィオンドロに赤のビーズ、青のビーズ、乳白色のビーズの3本を絡ませた製品を明子の首にかけてくれた。
鏡で全身を映すとアルフォンスが見立てた街歩きの黒い服に其れは華やかな輝きを添えた。

「お友達六人の人たちへは之をお土産にね」
そう言ってアキコに布製の袋を渡してくれた、ニコロは紙製のトランクの蓋を開けて追加で買ったヴァンボラ(bambola人形)たちを見せた。

蓋には大きな星が輝き、金箔を貼った宝冠をかぶり贈り物を携えた三博士と幼子を抱くマリアに其れを見つめるヨセフ、馬に駱駝に羊と牛がそれぞれ3頭、雄鶏にひよこが5羽と雌鶏、白鳩3羽、子猫と犬、小さな木彫りのプレゼーピオの世界が其処に有った。

「之は陶器に見えないけど木彫りですの」

「そうさ、良いだろ」

「とても素敵ですわ。大切にします」

嬉しそうにアキコに手を出して握手して錫杖をもつ天使を3体追加してくれ運ぶ時に動かないように絹のスカーフを被せてコトンを敷き詰めて蓋をした。

「之なら縦にしても横にしても大丈夫さ。いい船旅を、ボンヴォワイヤージュ」と言ってくれた。

ジョイアはボンヴォワイヤージュと店の外まで見送って手を振ってくれた。

道々ミシェルに「残りの手形をお預けしますのでペルリーナ(ビーズ)にコンテリーエ(極小ビーズ)とシェブロンなどを買い入れて送ってくださいますか」と頼んだ。

「良いともアリエルとよく選んで良いものを送りますよ」
三人でホテルへ戻ると12時に15分有ったがグランド・サルーンには顔が揃っていたので「荷物を置いてきますからお先に食堂へお入りになってね」と断ってクレメンテとミシェルに手伝ってもらい部屋に荷物を置きにいった。

アキコはホテルへの支払い用に20リラ金貨のバックを担いで下りることしたがミシェルに食事の後清算をしてもらうため金貨のほうを渡し、アリエルへ5リラ銀貨の残りのうちから一掴みとあまり使わなかった札も託すためにもって降りた。

昨日に続いてのお別れの食事会は楽しかった、ヴェネツィアらしい魚介類の豊富な食卓はシェフの自慢するのも当たり前の出来栄えだ。

ズッパはブロデット 
蛸とジャガイモのマリネ
カノーチェとカペサンテのグラタン
プロシュット・ディ・サンダニエーレ(サンダニエーレ産生ハム)
ムゼートは保温プレートに容れられてシェフが取りわけてくれた。
仔牛肉のエシャロップのレモン風味
シーフード・リゾット
プロセッコを飲みながら自分の好きなものを取り分けて貰うのでご機嫌な一同だ。

「もう一度シャコの食べ放題をやりたかったわね」

「この贅沢もん」
等若い女性特有の冗談のやり取りも飛び交い案内をした人との別れも寂しいが其れより新しい寄港地が話題に上り好奇心のほうが先に立つようだ。

食後のデザートはズッパ・イングレーゼ(イギリス風のスープ)というショコラが掛かる冷たいケーキはスプーンで掬わないと食べらないようで、名前に笑い出す一同にシェフは喜んで説明してくれた。
レシピを教えた後「イギリスではイタリアン・プディングというそうです」といわれて一同は大笑いで食事を終える事が出来、シェフと握手して食堂を後にしてグランド・サルーンへ移った。

「さて皆さんこの後一度お部屋に戻り全ての荷物を持ってきていただくのですが、2時にファッキーノが部屋に荷物を取りに伺いますからその後此処でお会いしましょう」
それぞれが残った小銭と銀貨をアリエルに託しているとベニートがクレメンテを訪ねてきた。

何事か相談していたが「それで例のアメリカ人を船に送ってきたんだが、昼前から物乞いの連中が可笑しな動きをしているんだ。リヴァ・デッリ・スキアヴォーニにいつもいる親玉のジョヴァンニの周りに30人くらい来ているんだが、いつもグーリエ橋にいる眼の見えない女物乞いが急に見えるようになったと踊り回っているんだ。何でも若い頃はスペインで踊り子だったとかで周りで囃す観光客にあわせて手拍子で踊る様子はいつもとは大違いの妖艶さなんだぜ」と大きな声で話している。

「まああの人眼が見えるようになったんですか」

「知っているんですか、えーと」
タカですわ、タカ・サカザキですといって「此処の人たちは皆さんあの人と顔なじみですわ。私やヒナさんは今日始めて口を聞きましたが、昨日はアキコさんだと思うけど1リラ頂いたと話していましたの、私は今日でヴェネツィアとお別れだからと5リラ差しあげた時、眼が悪いと聞いてルチーアの恵が貴方にありますようにと手を取って共にルチーアに祈りました。良かったですわね」
タカにはやはり秘めた力があるようでルチーアの恵が女物乞いにもたらされたようだ。

ミシェルにホテルの勘定を頼みアリエルと連れ立って清次郎は自分の荷物を取りに向かいアリエルはファッキーノに自分のものをステラ・ドーロへ運ばせた。

アキコとヒナはベージュに襟と袖口が茶色の旅行服に着替えてファッキーノに荷物を託して下に降りた。
6日間の滞在の計算が出て食事代金混みで1618リラ10ソルドを支払うとまだ金貨は170枚が残っている、ミシェルは金貨なら何処へもって行っても価値が下がらないから其のまま持っていくようにすすめた。

2時半ホテルの前からファッキーノも乗り込んで5艘のゴンドラに別れ、リヴァ・デッリ・スキアヴォーニへ向かった。
ボー・リヴァージュの前のビットリオ・エマヌエレ二世の銅像の海側にはベニートが話した以上の人だかりだ。

「この街にあんな大勢の物乞いがいるのかしら」

「まさかね。半分は見物の人でしょうよ。帽子が違うしご婦人方は旅行服の人も見えますから」
清次郎はそういうが草臥れてはいるがシルクハットの物乞いもいたのだ。

セポローロ橋でタカと清次郎だけが降りてP&Oへ顔を出してこれから乗船すると伝えた。

「リーヴァ・ディ・ビアジオにはうちの社員が居りますからそこで手続きを完了してください」

「判りました。色々ありがとう御座いました、ミスター・アーチボルド」

「ボンヴォワイヤージュ」
見送りのために岸辺まで出てきて一同に良い船旅をと声を掛けてくれた。

120m近い船体はリオ・デル・アルセナーレからリオ・デッラ・タナの先まであり岸辺から乗船用に臨時の桟橋が乗った艀が浮かんでいる。

八人のファッキーノは器用に各自指示されていた荷物を持ってゴンドラからリーヴァ・ディ・カ・ディ・ディオに移り橋を渡ると艀からポートサイド側のタラップを勢いよく上っていった。

清次郎に率いられて乗船手続きも済み、ついてきたベニートにも別れの抱擁をして「ミシェル此処までありがとう。アリエル貴方の事は一生忘れないわ」

アキコはクレメンテにも同じように挨拶をしてフォルトゥナートもダヴィードもと一同が別れを惜しんだ。
ロンバルディの上ではファッキーノが一同を待ち受けていて船員が案内する船室まで付いてきて荷物を部屋に置くとアリエルから指示されていたので2リラをアキコが代表して8人に個別に手渡してデッキへ出た。

ファッキーノはタラップを降りるとアリエルから10ソルドをそれぞれがもらったので勇んでリーヴァ・ディ・カ・ディ・ディオへ向かって橋を駆け上っていった。
船出10分前に最後の客が到着し鐘が鳴らされていよいよ出航時間が来た事を知らせた。

「レッコー」の声で係留ロープが解かれ、桟橋を乗せた艀が船と岸辺を離れて移動して水先案内の蒸気船がやってきた。

リヴァ・デッリ・スキアヴォーニにいた物乞いの集団がこちらに移動して来たらしく賑やかな音楽が聞こえてくる。

アキコやタカが見ていると清次郎が一同にヴェネツィア土産というわけではありませんがミシェルが探してくれましたと望遠鏡を渡してくれた。
それで覗くとポンテ・アルセナーレの上で手を振って叫んでいるのはグーリエ橋の物乞いをしていた女性だ。

明らかに船が見えるようで盛んにタカの姿がどれかを聞いて手を振っている様子にタカは其方へ向かって手を振った。

銅鑼が響き汽笛が鳴らされ賑やかな岸辺にいるミシェルとアリエルの姿も望遠鏡を外して自分の眼に焼きつかせるようにアキコは見つめて千切れるほど手を振った。

サン・ジョルジョ・マッジョーレのカンパニーレが夕陽に輝く中1873年建造2723トンのロンバルディ(Lombardy)は機関の音を響かせて動き出した。
船尾に見えるサン・マルコの聖堂やカンパニーレ、ドゥカーレ宮殿に別れをつげて舵をスターボードにきり左舷方向へ向きを替えるとサンテレーナを掠めてリドへ向かった。

サン・ニコロ教会の瀟洒なカンパニーレを右手にロンバルディは進みポートサイドに舵を切ると右舷方向に船首をむけてリドの鼻先を掠めるとラグーナに別れをつげ、ゴルフォ・ディ・ヴェネツィアへ出て水先案内の蒸気船と別れを告げる汽笛を響かせた。

「ああ、汽笛が聞こえるわ。いよいよアドリア海へ出て行ってしまったのね」

其の汽笛は5キロ近くはなれた本島まで聞こえてきたとアリエルはミシェルと話しながらクレメンテと共に学校へ向かった。

ロンバルディ2723トンはロンバルジーもしくはロンバルヂイ(2726トン)と書かれる事もある船で巡航速度は12ノット。



話は正太郎のパリから大分ときも過ぎました。
横浜幻想のアンテロープ編の1872年(明治5年)からだと12年後(第1回時点)の横浜です。
今回の話の中心は了介と明子になります。

2008年12月05日其の一あとがきより        阿井一矢

2011年01月01日
2011年01月03日
2011年01月10日
2011年01月16日
2011年01月17日
 2011年01月21日 了


幻想明治 第一部 
其の一 洋館
其の二 板新道
其の三 清住
其の四 汐汲坂
其の五 子之神社
其の六 日枝大神
其の七 酉の市
其の八 野毛山不動尊
其の九 元町薬師
其の十 横浜辯天
其の十一
其の十二 Mont Cenis
其の十三 San Michele
其の十四 Pyramid

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 横浜地図    横浜
万延元年1860年
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慶応2年1866年
 
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慶応4年1868年
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明治3年1870年
   横浜弌覧之真景
明治4年1871年
 
 改正新刻横浜案内
明治5年1872年
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大正2年1913年
   横浜真景一覧図絵
明治2471891
 


カズパパの測定日記