Paris1872年7月20日 Saturday
朝の食卓も賑やかだった、マダム・デシャンもベティが来てからは食卓についているので、今朝もマリー・アリーヌとサラ・リリアーヌのテーブルで盛んに二人に新しい下着の商売は見込みがあると煽った。
「だって人が一人も居なくなるまでは必ず新しい命が生まれるのよ。需要は永久に続くわよ、いいものを開発すれば働く女性も助かるわ」
二人は食べ終わっても暫くは席を立たずにマダム・デシャンの話を聞いていたが時間が気になりだしたかマダム・デシャンにことわりを言って席を立って2階へ上がった。
それぞれが仕事に勉強にと出て行ってMomoとベティは食堂の片づけが終わるとようやくクストー夫妻と共に朝食をとり出した。
セディにはいつものように二軒の酒屋へ向かわせて昨日の内にジュリアン共々緊急の要件を片付けるために帰ってきたことを連絡させた。
9時にオウレリアはMr.ラムレイを伴ってメゾンデマダムDDへやってきた。
暫く応接間で正太郎を交えてオウレリアにMr.ラムレイ、マダム・デシャンの4人で話し合ってセディが帰ってきたのでベティにMomoも呼び入れてMr.ラムレイが口を切った。
「おおよその話しは昨日ショウから聞いているだろうが、改めて確認させて欲しいのだが」
「はい、Mr.ラムレイ、どうぞなんでもお聞きください」
「君たちのご両親のことだがお二人の名前を聞かせてくれるかな」
いまさらなあにという顔ながらベティは落ち着いて口を開いた。
「ペールはマルセル・アンクタンです。この前の戦争でセダンの戦いで亡くなりました。メールはマリー・エリザベスです。ペールからは私と同じベティと呼ばれていました」
「父上には残念なことをしたね。それで母上の昔の苗字を知っていますか」
「はい、母が亡くなる前に形見に渡されたペンダントに忘れないように入れて有ります。ジョンストン=ダグラスと言うそうです」
そういって首から鎖をはずしペンダントの先のロケットを開けてMr.ラムレイに見せた、可愛い少女の写真と小さく畳まれた紙が入っていてそれには2つの名前が記されてあった。
Mary Elizabeth
Johnstone-DouglasとMarcel Anquetinの名前だ。
「やはりそうか、僕は君のお母様にはお世話になった、というよりも其のお父上に代々仕える家令として執事を代々させていただいたのさ。ベティお嬢様とは僕がセディと同じくらいのときからいろいろと勉強や犬の仕込み方馬の乗り方まで教えていただいた。訳あって先代の伯爵がお亡くなりになった後お暇を頂いたが、お嬢様の子供が二人パリに居られることを知って探していたんだ」
「おう、ラ・メール・ドゥ・デュ、神様のお引き合わせですわ、私たちMereの生まれた国のことを良く知らないのです。お爺様のことお婆様のことお話ください」
「其れは今日の話が済んだら機会を作って必ず話してあげる。ともかく今日は君たちのおじさんの家族のことが先だよ」
自分たちが本当に伯爵の孫だと言うことが確信できた二人は振舞いも貴族らしく勝手なことはしないと、雄々しく母親のことは聞かずにおじ夫婦について語りだした。
「テオドール・バルバートルは血がつながっておりませんがペールとは兄弟同然だったといつも話してくれました。イヴォンヌ・バルバートルはペールの一番下の妹だそうです、家族は去年のパリの内戦ですべて亡くなってしまったそうで一族で生き残ったのはイヴォンヌだけだそうです」
「そうするとセディはアンクタンの名前をついで居るただ一人の男の子なんだね」
「はいそうです。私たちスコットランドへ行かないといけないのでしょうか、ペールの生まれ育ったパリが好きです、できればここへずっと住んでいたいのです」
「そうか、とりあえず君たちの伯父に当たる人が伯爵家を継いで居られるので、お嬢様の娘と息子が見つかったことだけは報告させていただくがこの人はベティお嬢様とは母親が違うので余りベティお嬢様のことを良く思っておられない、それもあってこちらへ来いとまでは言わないでしょう」
「ありがとうございます。弟の気持ちはわかりませんが私は母のなくなったパリから離れるつもりはありません」
子供心にも疎遠になった母の生まれた家とは何かあると感じていたようで、ほかの者にも言われたらしく、其の家のこともあるので余計伯爵と言う名前に嫌悪感があるようだ。
「僕はベティと一緒じゃなきゃスコットランドへは行かないし、ベティが嫌がる家には行きたくない」
セディもおじさんたちから聞いていた自分の家系がはっきりしたことで十分だと言うことを少年らしい真っ直ぐな気持ちでMr.ラムレイに伝えた。
「僕に任せたまえ君たちが嫌がることは僕が責任を持ってことわるからね」
Mr.ラムレイのはっきりしたものの言い方に二人の姉弟は安心したようだ。
「それでおじさんだが、働く気はあるだろうね。お酒におぼれていて仕事をしないと困るのだが」
「そんなことありません。お酒は好きで飲んでいるのではありません。昔のことを忘れるために飲むお酒です、働くことが好きな人ですから仕事場があれば必ずお酒もやめて家族のために仕立屋とブティックを繁盛させるはずです」
「判った、では私たちにおじさんのことは任せてくれるね。皆で商売がうまくいくように後押しをして自分の店が持てるようにしてあげるよ」
二人は喜んでお任せいたします、おじさんをよろしくお願いいたしますとMr.ラムレイにすがるように頼んだ。
「さぁそれじゃ作戦会議よ。まず誰が話しにいく。もちろん私よね」
マダム・デシャンは大乗り気で作戦を話しだした。
ヴァネッサがドアをノックしてジュリアンが来たことをつげ陽気なジュリアンが入ってきた。
「皆さんおはよう。話は済みましたか」
「ええ、大家さん」
「それなら話ははやい。僕のほうも今日家主に会ったら今からでも家の大掃除をはじめられると言うので話が決まればすぐにでも引っ越しが可能ですぜ」
とんとん拍子に話が進み後はバルバートル一家が承諾すればと言うだけになった。
話しはマダム・デシャンに任せてと決まりボルドーでの買い付けやMomoの家族の話になった。
「Momoにもたまにはお里帰りをさせないといけないわね、ベティの学校が始まる前に倉庫の在庫も増やしたいので一度行ってもらおうかしら。ネMomoはどう思う」
「そうですねショウとジュリアンが買い付けるものの中からいいワインを300本ほど横取りしましょうよ。それとお爺様のお弟子さんたちの中から芽の出そうな人たちのシャトーも尋ねたいし、向こうに5日は滞在しないといけないけど1週間ベティにお願いできるかしら」
「はいMomoお任せください。お帰りに為られたら良くやったと褒めていただけるように一生懸命働きます」
伯爵の孫だとはっきりした今でもこの家でのメイドとして働くことが楽しいという意思表示をMr.ラムレイに見てもらう気も働いたようだ。
一同はジュリアンの新しい店を見に行くことにして男は歩いて丘を越えて、女性陣はオウレリアが乗ってきた4人乗りの馬車にベティとマダム・デシャンも乗り込んで丘を廻っていくことにした。
「では20分したら出るわよ。あなた方遅れないように一生懸命歩くのよ」
マダム・デシャンは楽しそうにお出かけの支度をMomoに言いつけて自分の居室に入った。
キャバレ・デ・ザササンの前を登りながらボルドーから帰ってきたらここで集まって騒ぐ話があると言うと、Mr.ラムレイも面白そうだが其の頃にはロンドンだなと残念そうだった。
「Mr.ラムレイ実はね、このヂアン・ショウはロシア娘にいかれたようでどうも雲行きが危ないのですぜ」
「其れはどうしてだな。ヂアン・ショウはお盛んなのかね、エメと言う子が居てほかの娘に眼が行ってはもめるだろう」
「エメの都合のよい日に開くとは言いますが。どうもロシア娘の入れ知恵の気がしますぜ」
「その子にジュリアンは会った事があるのかい」
「いえ会っては居ませんが、経験ですよ。昔騎馬警官の頃に同じような奴を何人も見ましたからね。一人にもてるとなぜだか次々に若い女が寄って来るんでさぁ、そいつは一時期4人も彼女が居てそのことばかり話してくれましたがね」
「ジュリアン、君のことじゃないのかね」
「違いますよ、まったくMr.ラムレイは何を言い出すやら」
どうやら図星のようだ。
「ショウ、お前何を笑っているんだ。お前のことで心配しているんだそんな若いうちから何人も彼女の手綱が取れるわきゃ無いぜ」
「ジュリアンの思いしすごしだよ。エメにもてただけでも奇跡なのに、アリサが僕に気があるなんてジュリアンこそ会った事も無いのに気が早すぎるよ」
ロシア娘と言えばフランス語が話せる上流階級のものが多く留学してきて同じような貴族間の交際が乱れていることがパリでは常識だとア・ラ・ボンヌ・フランケットの前を右に曲がりながら前を歩くMr.ラムレイに盛んに危険性を話し続けるジュリアンだ。
「あいつら貴族や金持ち連中の多くは男漁りか女漁りが生活の一部だ」と強調するのだ。
そういえばダルタニャン物語の王妃もイギリスの宰相と恋に落ちたと浮気心は王室貴族の間では自然な流れのように書かれていたっけと思い出した。
「な、ショウ気をつけて浮気しろよ。エミリエンヌ・ブリュンティエールを泣かせるなよ」
「なんなのジュリアン、浮気はしてもいい様に話しているよ」
これにはMr.ラムレイも道行く人が振り返るほど大笑いで歩くのをやめて道端の壁に手を就いて発作がおさまるのを待った。
「アア、君たちには笑わせてもらうことばかりだ。ジュリアンはもしかして結婚するのに不安になったのかね。ほかに女がいるなら今日明日にでも整理することだね」
人が悪いですぜそんなのいやしませんぜと言っていたジュリアンも「ショウが浮気していていいが、ばれるなと言うのはいかにも変でしたな」と今度は自分の言葉がおかしくなって笑いが止まらなくなったようでトロゼ街を降りながらも笑いが止まらないようだ。
坂を下りルピック街にもう一度出てさらにくだると建物の高さは5階建てが中心で一番下の階はカフェコンソールの店が有り前の道を洗い出していた。
3番目の路地の手前がジュリアンの先月契約を交わした店で間口は6メールくらいだ、建物の間を抜ける道がついていて隣とは二階で続いていた。
「ほらこのとおりさ、この入り口は裏庭に続いているんだ前の奴は此処を塞いでいたが取り外してもらったのさ、木戸をつければ十分でこれだけあれば馬車ごと引き入れられるだろ。右の方は小さいのさそれで最初事務所とおもったがこの話が出てすぐブティックなら十分だろうぜと思ったのさ」
裏へ廻り広い中庭にMr.ラムレイもこれなら何台も荷車を引き込んでも作業ができるし建物は日が当たるといってワインを扱うにはいい店だ、夕日は道路の向かいの建物でさえぎられるし朝日は庭の東側の建物で1階には差し込まないようだといってジュリアンを見た。
「そうでさぁ、朝早くに見に来てそいつが確認できて決めましたのさ。2階は先月の末には朝6時半に日が差し込んでいましたぜということは3階から上は日が出れば差し込みますからね。西側は夕日で少し暑いでしょうが其れくらいは我慢が必要でさぁ」
「いや其れは冬暖かいと言うことで釣り合いが取れるよ」
「そういってもらうと選んだ甲斐がありまさぁ。ルピック街12番地で年6000フランは高いとの思いもありましたがそのくらいは稼ぐ腕があると自負しています」
一月500フランは確かに高いがこの敷地で店は6メートル×12メートルという間口の倍の奥行きがあり、通路は3メートル以上、隣の小さな店の入り口は3メートしかないが奥行きは8メートルあり路地のほうに大きな窓がついて居てブティック向きの造りだ。
昔は大きなほうだけだったのに小さなほうを建て増したと言う話しで、別々に貸していたのが両方同時にあいたそうだ。
2階へは別々に階段が付いていて鍵を開けているときにマダム・デシャンたち一行が到着した。
マダム・デシャンたちはブティックに貸すほうの探検に入り、ジュリアンたちは酒屋の店に入った、まだごみが散らかったままの店内は前の扉を開けると明るくなったが日差しが入る様子は見えなかった。
「面白いねこれだけ明るくても陽が入らないね。ブティックのほうは陽が入りそうだが此方は涼しい風が吹き抜けて酒屋にはもってこいだね」
2階にある玄関へは外の階段と中から直接玄関へ上がれる階段でつながり其処から食堂と応接間が兼用の場所とレンガで隣と仕切られた台所が有った。
トワレットゥと風呂場に続いて3階へ上がる階段は台所脇から広くとられていて登ると廊下が道路側にあった。
上がって右は大きな続き部屋「此処は俺たち夫婦の寝室と居間だ」とドアを開けて中へ誘った。
日本風に言えば10畳ほどの広間と同じくらいの寝室が東側へ続いていた。
廊下へ出てカーテンを開くと通りの人通りが見え窓を開けると風が吹き抜けて家の温度が下がってゆくのを感じられた。
南側へ向かうと風呂場とトワレットゥ、その先に階段があり上下につながっていた。
「ジュリアンこの階段は」其の声に答えるようにオウレリアの声で「ブティックの外階段へつながっているわよ」と言う声と共に上がってきた。
「この下はトワレットゥと風呂場があってブティックの2階玄関とつながっているわよ。ドアがあって鍵を合わせるのに苦労したけど何かあるなという気がして開けたら階段があったわ」
其処から4階へ上がるとブティック側に一部屋、酒屋側に3部屋があつた。
「本当は家主に言って此処へ風呂場とトワレットゥをつける予定なのさ、1部屋減るがあるほうが便利だろ」
Mr.ラムレイも屋根裏部屋しだいでそうしたほうがよいと賛成した。
一番上に上がるとブティック側に1部屋そして間仕切りが無い大きな空間がベランダ付であった。
「此処を幾つかに仕切っておけば子供たちが大きくなっても1人1部屋使えるさ俺たちも子供が出来ればここに続けて住むか人を増やして使うにも便利だと考えたのさ」
「いい考えだねとりあえず大きな空間と1部屋仕切りをつければ向こうの部屋と子供たちを2つの寝室と共同の広間に別けることが出来るね」
「そうねブティックの2階は台所があるからあそこで10人は食事が出来るし風呂場にトワレットゥもあったわよ。3階は主人夫婦用に使えるけど上に続く階段は此処だけだったわよ、4階は子供と分けられるわね。4階につける風呂場とトワレットゥは共同で使えば済むでしょ」
「2階の作業場は見ましたか」
「食堂の隣でしょ見たわよだけどあの張り出しは危なくないの」
「もう一度下へ降りれば判りますぜ」
そうジュリアンに言われてぞろぞろと下へ降りた、ジュリアンはすべてを見渡してカーテンも閉めて最後に1階へ降りてきた。
「通いのメイドを一人雇わないと掃除が大変だな」
「そうだね2軒とも奥さんも働くようになりそうだから掃除に手間がかけられない分誰か来て貰う様だね」
Mr.ラムレイも其れに賛成してメイドを探すように勧めた。
一階のブティックの作業場は2階の台所の続きで下に置かれた倉庫の屋根に乗る形で足が立てられていた。
「な、あそこが2階の作業場を支えているのさあの倉庫は半分ずつ使えば良いだろうぜ」そういって倉庫の扉を開けると下へ降りる階段が端についていてブティック側に扉があり其処をあけると上が作業場でブティックの扉があった。
「上手く出来ているぜ。偶然かも知れんがこれなら向こう側と仕切りをつければそれぞれが便利に使えるぜ」
ジュリアンはジャン・ピエールに頼んだ大工がもう来てもいいはずだと時間を気にした。
ジャン・ピエールとバスチァン・ルーが3人の職人を引き連れてやってきたのは1時になってからだった。
いつもはお腹がすいたわと騒ぐマダム・デシャンも今日は興奮気味で何も言い出さずにジュリアンが大工たちに言う説明に聞き入っていた。
地面に大工たちは簡単な見取り図を書いてそれぞれの意見を交わしながら一番上の屋根裏部屋へ上がって行き、降りてきながら水場と水桶への水の供給について話し合っていた。
「4階に風呂場にトワレットゥだと、あそこまで水を上げるのは無理だろう人手が掛かりすぎる」
意見がまとまらない様子なので正太郎は口を出すことにした。
「よろしいでしょうか。パリでは上に水をくみ上げるのに人の手で行うのですか」
「そうさ此処だと3階はやっと水が出る程度だ其処から屋根裏の部屋まで人の手で無いと無理だな」
「ポンプで揚げる人はいないのですか5階なら蒸気ポンプで桶に水を上げることも簡単ですがそういう商売の人は居ませんか。またよいポンプなら蒸気でなくとも二人掛かりなら大丈夫だと思うのですが」
「そうか、消防用のポンプか、飲み水でなけりゃあれがいいかもしれないな。このあたり皆困っているからな毎日1回廻れば頼むところも多いだろう、商売になるかな」
「僕の知っている蒸気ポンプの工場ではまだ手押しのポンプも需要があるので作っていましたよ、馬車に曳かせて給水車もつければ飛び込みでも頼む人も出るでしょうね、幾つか需要のあてがあれば安く出してもらえますから紹介しますよ」
「君若いのになかなかやるな、よし俺のところで余っている奴らにやらせよう。5階部分に半トンの4階に1トンの樽を取り付けるか。儲けが出たらどこかで酒でも飲もうぜ、知り合いとはどこのポンプ屋だい。俺は大工のギャバンだ。ジャック・ギャバンと覚えてくれ。後の二人は俺の片腕、いや二人だから両腕だ」
いつも言う冗談だろうか3人で笑って正太郎と握手をした。
正太郎はM.ギーのメール街ギー・モーター・デ・ラ・ヴァプールを教えて僕からといえば便宜を図ってくれますと言うことも忘れず名刺にJ・ギャバン氏をよろしくと書いて渡した。
此処はジュリアンたちに任せて正太郎はエメのところへ行くことにして、一度メゾンデマダムDDまで戻ることにした、オウレリアたちにはマダム・デシャンがお昼をご馳走したいとモンマルトルの丘へあがってア・ラ・ボンヌ・フランケットで降りた後一度馬車を返して5時にメゾンデマダムDDまで迎えに来て欲しいと頼んだ。
正太郎はそこで昼を食べずにメゾンデマダムDDまで駆け下りてMomoにはお昼をア・ラ・ボンヌ・フランケットで食べていることを伝え、エメのところへ行ってくるとバイシクレッテに跨って疾走した。
バイシクレッテをいつもの場所に置いて5階まで上がり部屋をノックすると着飾ったエメが出てきた。
「何処かへ出かけるの」
それには答えずにビズをして中へ手を引いて入れると今度は強く正太郎の唇を吸った。
「これね、ランスのMereが買ってくれたの、向こうに居る間に出来てきたのよ。それで写真を撮ってもらう事にしたの。ショウが来てくれたから一緒にとりましょうよ」
「其れはいいけど僕は普段着のままだよ」
「ボン・マルシェでこれに会う既製服がきっとあるわよ、それからサン・ジェルマンの市場にあるボナールの写真店で二人で撮りましょ」
「其れはいいね、Yokohamaに何枚か送って色付けもしてもらおうよ、色を指定すれば本物の服の色が出せると思うよ」
「それって名案ね、早速行きましょ。せっかくきた服ですもの今脱ぎたくないわ」
二人はボン・マルシェでおなじみになった店員の勧めで貴公子風に着飾った衣装を買い入れ写真館に向かった。
M. Bonnardは正太郎の髪の毛をいつもの半分わけから6対4に左へ流して額を明かりが当たりやすくしてエメの顔には大きなランプからの明かりが幾つか射しようやく満足して「5秒間は動かないで、ゆっくりと頭の中で10まで数えてください」そう言ってレンズの蓋をとった。
幕を下ろしてレンズに蓋をして「もう1枚今度は貴方男性がTabouretの後ろへ廻ってくださいね」そういって二人の髪を直している間に助手が明かりと写真機のセットを終えてM.ボナールはカメラの後ろから覗くと満足してレンズに蓋をして湿板を差し込んで息を吐いて先ほどと同じ指示をしてからレンズの蓋をはずした。
5秒でいいとはフランスの写真はYokohamaに比べて早いなと正太郎は思った「そうだ旦那に最新式の写真機をお土産に持って帰ろうと決め、お土産リストに書き加えることにした。
「急ぎますか、それとも明日午後で良いですか」
「明日の午後だと何時に来れば良いですか」
「午後のほうが仕上がりは綺麗に出来ますから3時ならいいものがお渡しできますよ」
「では同じものを10枚ずつ焼き付けていただけますか。それと写りがよければ1年間ガラスの保存をお願いしたいのですが」
「よろしいですよ。撮影料金で2枚お渡ししますから焼き付け料は16枚分36フランです。保存料金は入りませんよ。その代わり冬の服が撮りたいのでまた来てくださいますか」
判りましたと正太郎とエメが同時に返事をして料金を払って店を後にした。
「そうだあの先生はなんと言ったっけ、君のマンドリンを持った秋の絵がかきたいという人」
「ルフェーブル先生よ。絵のモデルは引き受けたけどショウとアトリエを訪ねる約束はまだいつにしたらいいか決めていないのよ」
「そうだったね、君が都合のよい日を向こうへ連絡して、先生の都合を聞き合わせてくれるかな、僕は其れを優先するからね。それからバイシクレッテのパリジェンヌ商会の社長のアイムが僕たちを含めてキャバレ・デ・ザササンで遊ぼうと誘って居るんだけど、それも都合のよい日を決めてくれるかな、ボルドーからこんなに早く帰るつもりじゃなかったので出かける前は27日から31日の間と話してあるんだ」
「その人だけなの」
「いや男はアイムの弟たちも含めて三人とメゾンデマダムDDの男共一同にジュリアンも呼ぶ予定、マドモアゼルはダンの学友を呼ぶ予定さ」
「それって例のご近所パーティをした人たちね」
「そうだよみんなエメと会いたがっているんだよ」
「良いわ27日が土曜日だから其の日にしましょうよ、明日にでも其の人たちに連絡してくださる」
「決まりだね、ダンに日にちを言ってたくさん参加してもらうよ」
嬉しそうな正太郎の顔を横目に見て「誰か気に入った娘が居るのね」と立ち止まった。
「そうみんないい人たちだよ。ロシアから来た人にイタリア、アメリカ、イギリスにあとプラーガから来た娘も居たっけ」
「そうジュディッタも参加していいかな」
「もちろんさ。彼女が居れば参加した人も喜びが増えるさ」
「あらどうして」
「彼女歌も上手いし楽器も弾けるし人当たりもいいし。あ、これ君にも言えるけどあまり他の人にもててほしく無いから言って無いんだ」
「馬鹿ね、確かにあたしよりすべてジュディッタのほうが上手なのは本当よ。私は貴方が認めて呉れればそれで嬉しいの」
エメはサン・シュルピス広場の噴水の脇で正太郎にビズをして、教会の階段を上がりエンタシスの柱の影でまた体を寄せてビズをした。
教会へ入るとドラクロアの描いたヤコブと天使の闘いが目立ち其の色彩の豊かさは、天井の2つの丸窓のステンドグラスからの光でヤコブの背中が光って見えた。
100メートル以上もある内部は荘厳さに溢れテーブルに飾られた花は噴水を思わせるほど豪華だ。
なぜかパイプオルガンの真ん中に大きな時計が組み込まれていて正太郎には場違いな感じを与えた。
巨大なオベリスクは真ん中に金の線が引かれていた。
祭壇までは進まずに教会を出てエメのアパルトマンへ戻る事にした。
アパルトマンの前まで戻ると学校から帰ってくるリュカが友だちと追い越しざま振り向いたが吃驚して立ちすくんだ。
「エメ、なに其の服見違えたよ。それにショウもさどこから来た場違いなお金持ちかと思ったよ」
「マァリュカったら言うに事欠いて場違いだなんて元老院の向こうへ行けばいくらでもこういう服の人が歩いているでしょ」
「だっておいらたち向こうまで遊びに行かないもの。な、アラン」
アランといわれた子も肯いて、エメがこんなに綺麗な服着たの初めて見たとまで言うので笑い出すしかないエメだった。
「今日はゆっくりできるの」
エメが改めて聞いたのは6時を過ぎた頃だった、自分のドレスを綺麗にブティック風に飾り、正太郎の服も同じように飾りながらル・リの上の正太郎に聞いた。
「今頃はマダム・デシャンがセディのおじさんと交渉中だからもう帰らないといけないのさ」
「いやだ、ショウは先に其れを言いなさいよ」
自分からル・リに誘って口を開く間も与えなかったことなぞ忘れたようにエメは言って正太郎の傍へ身を横たえて右の手を胸に置いてビズをした。
「ダンとアイムに言って27日の土曜日にキャバレ・デ・ザササンに、集まる時間は夜8時がいい、それとも9時ごろがいいかな」
「8時で良いと思うわ。あそこなら軽い食事も出来るしムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットほど騒がしくないからシャンソンを歌いたいジュリアンやジュディッタは喜ぶわ」
ジュディッタにはエメから話しておいてくれるように頼み服を着て新しく買ったものは此処へ保管して置くように頼んでメゾンデマダムDDへ向かった。
「遅かったわね」とMomoが出迎えてまだマダム・デシャンとMlle.オウレリアは戻っていないけど先に食事にするか聞いた。
7時からの夕食は既にサラ・リリアーヌとラモンが始めていた。
その日はロシア風のビーフ・ストロガノフにジャガイモのフライ、チキンのロースト、サラダには様々な新鮮な野菜にゆで卵の薄切りが添えてあった。
食事を始めてすぐに馬車が着いて賑やかにオウレリアたちが帰ってきた。
正太郎の傍にオウレリアが来て「すべて話しが付いたわ」と席に座ってMomoが給仕する夕食を食べることに専念した。
「Mr.ラムレイがセディたちのことは自分が引き受けてイギリスとの交渉をして二人が困ることの無いようにするという話には感激して手を取って頼みますと跪いてしまうほどでしたのよ」
オウレリアの話しは少し大げさかなと思ったがマダム・デシャンも其れを裏付けるように家族一同で父親がまた仕立屋を始めると聞いて喜んでいましたと発表した。
そのときにはダンもニコラも帰ってきて居ないのはマリー・アリーヌだけだった。
其のマリー・アリーヌも帰ってきて改めてマダム・デシャンがどのように話をしたかそしてジュリアンが借りた家がどのように為っているかを説明した。
「其の家3年間だけなのかい」
ニコラが正太郎に念を押した。
「ジュリアンは買っても良いといっているけど今は其の金で少しでも品物を集めるほうへ振り向けるといっていました。いずれパリに拠点を移しますからアムステルダムのほうは他の者に任せることになるそうです」
「なんだジュリアンはオランダやベルギーのも自分の店なのかよ」
「いえ向こうは会社組織で共同経営だそうです。だから株を買わせるかそれとも配当だけ受け取って仕事を全面的に任せるかということだそうです」
「見た目以上に良く働くようだな」
「そうなんですよ。でもやっと結婚して腰を落ち着ける気になったようです」
其の話をしているまさに当人がやってきて、大工とも話が進んでまずジュリアンの住まいからはじめるが、ブティックのほうが決まれば人手を増やして突貫工事でもやってくれることになったと話した。
黄色のフランボアズ(Framboise木苺)と真っ赤なスリーズ(Ceriseさくらんぼ)をお土産だとMomoに渡してすぐクストーさんが幾つかの皿に分けて持ち出したのでマダム・デシャンは喜んでスリーズにビズをして其の宝石のような粒を大事そうに一つずつ口に運び種は器用にスプーンに乗せて出されていた小さな壷に落とした。
「マダム、明日は木苺とサクランボのタルトです。楽しみしていてくださいね」
ヴァネッサがマダム・デシャンに伝えると嬉しそうに肯いてにっこりと微笑んだ、其のDDの赤い髪と笑顔に住人は安らぎを覚えるのだ。
「明日Mme.バルバートルが10時に家を見に来るから子供たちのお土産にする位できるかしら」
「マダム大丈夫ですわ明日全部使ってよければ30人分はたっぷり作れます」
「それならお土産に10人分もたせましょうね」
食後のフルーツを口にした後オウレリアは後のことは正太郎とマダム・デシャン、ジュリアンの3人に、任せて5日後にロンドンへ戻ることにしますと告げた。
其れまでにM.バルバートルに渡した見本品の型紙と製作見本設計図を作るように頼んできたことをつげ4日目には正太郎に渡すことを約束させたことを話した。
Mr.ラムレイは当座の資金として500フランを渡してきたこと、来月からは正太郎が話した給与が出ること仕入れは正太郎に言えば必要な資材と共にそろえること、店は最初から品物を豊富に置くことなどを箇条書きして有る文書を渡したことも告げ同じものを正太郎に渡した。
「ヂアン・ショウといわせてもらおうか。君に約束した300ポンドの内此処に500フランあるから前渡しの500フランと合わせた1000フランが先払い分だ。後は君の貸しとしてフランに直して計算してスミス商会経由で請求してくれたまえ」
「判りました、ご期待に沿えることは僕の光栄です」
「ありがとう。ベティ君とセディの写真を撮って伯爵家へ送りたいのですが。明日マダム・デシャンの許しがあれば一緒に写真を撮りにキャプシーヌ街のナダールの写真館へ行きたいがマダムのご都合はいかがでしょうか」
「朝の仕事が終われば私の方は構わないですわよ」
「では明日11時に迎えに参ります。二人とも普段着のままで良いよ」
マダム・デシャンが其れでいいのと聞くので「普段のありのままのほうがよろしいです。後私の好みの服を買い入れてそれも撮らせましょう。それでいいかな」
二人とも目を輝かせてMr.ラムレイに礼を言って正太郎にも了解を求めた。
「セディはジュリアンが戻ったからパリに居る間の酒屋周りは良いよ。明日は僕が連絡の必要なところは廻るから。そうだ思い出したセディに今度新式の子供用自転車がもらえるんだ。3台のうち2台が僕のほうに来るからリュカに1台上げるから乗り方を教えに行ってほしいんだがいいかな」
「もちろんです、ショウの仕事の合間を見て伺います」
「ではバイシクレッテが来たらリュカが戻る時間に合わせていってもらうよ。遠いけど今度のはだいぶ軽いから押して歩いてもそれほど大変ではないと思うよ」
オウレリアたちが帰ったあとジュリアンとニコラ、ダン、ラモンの3人にエメが27日の土曜日8時はいかがといっているが都合どうかと聞いた。
「俺たちは大丈夫だよなジュリアンは」
「俺もそのくらいまでは店の図面とのすりあわせがあるのでパリに居るよ」
「では決まりだが、問題はアイムだな」
「そっちは明日バイシクレッテの金を届けに行くからその時に話して了解を取って来ますが。アイムはダンにマドモアゼルを呼ぶ手配をしてほしいといっていましたよ」
「目当てはアリサとカテリーナという娘なんだろ」
「そうみたいですよ。オリビエ兄弟3人で二人ではまずいから後3人は呼んでくれないかといっています」
「そうだな行き帰りの馬車代を出して夕飯をご馳走するなら出てくるだろう」
「キャバレ・デ・ザササンの食事だけではいけませんか」
「少しは色をつけてやれよ」
「では後別の機会にサン・ドニあたりでお昼と言うのはいかがですか」
「ショウは上手い手を考えるな。そいつは使えるなもちろんショウが持つんだろ」
「仕舞ったそれも僕もちですか」
「言いだしっぺだ仕方なかろう。俺たちもごちに為りに行こう」
エッ、ダンたちもなのと正太郎はげんなりした。
ジュリアンはもう堪らんと笑い続けで助け舟を出してくれる様子も無かった。
「其れでな、ショウが居ない間に5台約束が取れたがまず1台品物を見せろとさ。明日ショウのと交換して乗って行っていいか」
「良いですよ。それでダンのはいくら位で売れそうなの」
「あれは100フランで買う奴を見つけた。そいつは余り金が無いので月10フランで10回払いにした」
「もし5台売れたら6台1560フランを僕に支払って呉れれば良いよ」
「待て待て280フランで5台が1400フランかそうすると160フラン用意すればいいことになるのか。それで損はしないか」
「大丈夫だよダンは難しい計算は速いのに簡単な計算は時間が掛かるなんて可笑しいよ。この間260フランで仕入れられると話したでしょ。だから6台で1560フランだから損はしませんよ。キャバレ・デ・ザササンの支払いは僕の分は半分でオリビエ兄弟が半分1人60フランくらいの見込みですからたいした事ありませんよ」
「其れで大丈夫か余り儲からないと後が大変だぞ」
「実はバイシクレッテは3年間の契約を結ぶことにしました。年間50台先払いで12000フランにしてくれました。其れで前回分のが高いからとサービスで三台呉れると言うのですその内1台は売れましたからボルドーへ行く前に280フラン懐に入りましたので損はしませんよ」
「後の分は240フランになるのか9.23パーセント、銀行預金より安全かな」
即答するようにダンが計算を出してきた、正太郎に言われたので本気で暗算をしたようだ。
「ショウ、前にジャポンのものは背が低く手足が短いといっていたがショウより小さいのか」
「僕は大きいほうなんです。それでもジュリアンに比べると足が短いですよ」
そういって立ち上がるとジュリアンと比べてみたがやはりベルトの位置が5センチは違っていた。
「ジャポンに送って売れるのか」
「パリジェンヌ商会ではそのためにYokohamaと名づけて夫人でも乗れるようにセラの位置を下げて製作してもらいます。今僕が乗っている奴と同じものと今度セディに与える子供用です。ダンの友達は普通でよければセラの位置が変更していないものを出しますよ」
「そうか明日学校へ乗って行った感触でどうするか決めることにするか」
ジュリアンもじゃあこれで帰るが歩くのも面倒だと馬車で行くと言うので見送りがてら品物の相談をしてレマルク街の馬車屋まで歩いた。
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