横浜幻想
 其の十五 Vincennes 阿井一矢
ヴァンセンヌ

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Paris1872年7月8日 Monday

バイシクレッテで9時にエメの家に着いた正太郎が5階まで上がると珍しくギターもマンドリンの音もしていなかった。
部屋を開けたエメにビズをしてもらった正太郎は後ろ手にドアを閉めるとお返しのビズをした。

「今日は珍しく音楽のレッスンをしていないんだね」

「ほんとね、今日はダルタニャン物語を読んでいたの、ジュディッタも朝から仕事に出たしショウが来るまで静かにすごしていたのよ」

二人は互いの体を抱いたまま話を続けていたが「馬車で来たの」とエメが聞いてきてようやく正太郎も手を離した。

「今日はバイシクレッテだよ。此処からは歩いていこうと思ったから」

「そうねいつも馬車では体が弱るわね30分もかからないでしょうし。貴方と街を歩くのが楽しみだわ、まだ時間に余裕があるから遠回りして行きましょうよ」

二人はリュクサンブール宮殿の中庭を横切ってEcole des Minesの脇からパンテオンへ向かってサント・ジュヌヴィエーヴの丘を登った。

サント・ジュヌヴィエーヴ教会として建設されたそうだが革命時にフランスの偉人たちを祀る墓所になり3世皇帝のときに教会に戻されたのだ。

「またもとの墓所に変更されると学校で話題になっているわ」

「オスマンの街の改造が終わった今新しい街をまた作ることでそういう変更もあるだろうね。指導者はたいてい前の人のことをそのままにしたく無い人が多いからね」

「そうなのよね。シャンゼ(Changer変化)シャンゼといつもシャンジュマン(Changement変更)」
何度も歌うようにエメが言いながら丘を登りパンテオンの円柱の間をくるくると廻った。
其処からはリュクサンブールの庭園もルーブルの庭園も見渡すことが出来た。

回廊を一回りした裏側にはリセ・ヘンリー4世がありここもバカロレア資格を目指す学生が多く学んでいるのだ。

「ショウもパリに長く居られるならこういう学校で学ぶべきよ。其れがジャポンのためにも為ると思うの」

「僕は長くても2年本当は16ヶ月の約束で送って貰ったんだ。勉強もしたいけど僕は商人としてお金を儲け、それで多くの勉強したくとも学校へいけない人を援助したり先生を育てる学校を援助するのが使命だと思うのさ。僕が学んでいては数多くの人を援助できず僕一人の勉強になってしまうから」

「そういうショウが私は大好きよ。本当は貴方と共にいろいろと学んで貴方の国のためにも役に立ちたいのよ」

「ありがとう君のことは僕も大好きさ。君が勉強できる手助けを出来る限り手伝うよ、君の勉強の邪魔になら無いようにするから、君を離したくないのが本当の気持ちさ」

正太郎はエメに自分の気持ちを言葉では伝えきれず確りと手を握り締めてサンテティエンヌ・デュ・モン教会の脇を通り抜けた。

「馬の教会ってどうして付いたんだろ」

「ほんとね。私もパリへ来てからまだ3年目だからわからないところが多いの、先月までは学校も忙しい上、頼まれてフォリー・ベルジェールで半年ほど働いたから街をうろつく機会が少なかったわ。ショウが暇な日で学校が無いときは一緒に街を歩きたいわ。それとダルタニャンの仲間のTrois Mousquetaires(三銃士)の家探しも楽しそうだし」

「セディに街を覚えさせるのと連絡を取らせるから二人の暇が出来たら必ず廻ろうねって言うより今日の午後に出来ないかな」

「今日は無理だと思うわそれと母から手紙が来て学校が休みに入ったなら一度ランスへ戻りなさいと言うの。だから明後日には一度戻らないといけないわ10日くらいで戻るけどショウと別れているのは寂しいわ」

エメはランスとパリ風に言うが本当は向こうの人はランズと言うんだといってから続けて三銃士の家は書いてあったかしらと思って今日読み直していたといった。

「ほらこの間ダルタニャンのいた家という場所はエメと会っただろ。あの近くでポルトスはヴィユー・コロンビエ街で番地がわからないのさ。アトスがフェール街、ヴォジラール街25番地はアラミスが住んでいたらしいと枢機卿が推測したと書いてあるよ」

「では番地までは良く判らないのね」

「其処までは書いて無かったよ作者も其処まで調べる必要は無いと思ったんだろうね。ダルタニャンの住まいだってデュマ・ペールが間違えて今の町の名前を書いたりしなければ昔の街の名前を調べるのが大変なところさ」

「本当にショウは物覚えが良いわ」

「そんなこと無いさ。フランス語を覚えるにはそういう本を読んだほうが良いと会社の偉い人たちから勧められてパリのことはユゴーのジャンバルジャンの話しとかを読んだからさ」

ユゴーといえばサラをお気に入りでオデオンから移る事でも相談に乗っていたそうだとエメが話し、バーツの新しい芝居をランスから帰ったら見に行こうと誘った。

「いいね。鮫島様たちも初日には行きたいと今日あたり切符の手配をしているだろうから僕たちはエメが戻ったら其の後のすいている席を手に入れようね」

「人気は高いようよ。いい席が手に入らなくてもいいなら好きな日に入れる手立てもあるわ」

二人はデカルト(リセ・ルイ・ル・グラン)とソルボンヌの間の、サン・ジャック街を歩く恋人たちと同じように肩を寄せ合ってコレージュ・ド・フランス方向へ歩き、プティ・ポンを渡ってシテ島へ入り、ノートルダム大聖堂を右に見ながらオテル・ド・デュー・パリ(市民病院)の先のノートルダム橋を渡った。

サン・ジャックタワーを抜けてリボリ街をパレ・ロワイヤル前まで歩きシャルトル街でセーヌのほうを眺めるとサンペール橋へ抜けるルーブルの門には大勢の人が並んでいた。

「どこかからの観光客かしら、最近多くなったわ私がパリへ入った頃は戦争中で其の後のパリ・コミューンでしょあの頃は本当に怖かったわ、伯母が一緒じゃなかったらとても住んでいられなかったわ」

道々エメは自分の本当の名前がMarie Emilienne Brunnetiereだけどマリーは同じ名前の人が多すぎて使えないから普段は省略することやフランスの人は聖人の名前を付けるから同じ名前の人が大勢いすぎて殆どの人が普段は使わない名前を持っていることなどを話した。

正太郎もフランス人のファーストネームが共通していることを知ってはいるが、エメが自分のことをそうして話してくれることで正太郎にすべてを知ってもらいたいという気持ちが伝わり、そのたびに肩を抱く手を強めて聞いていることを伝えた。

オペラ大街から右手に入り込むサン・タンヌ街へ進んで三角形の向こう側の道がテレーズ街ここまでほぼ1時間40分ほどの道のりだった。

「今11時に2分前。この遠回りはちょうどいい散歩だったね」

「ほんとよね。此処までぴったりだと自分でも驚くわ。あれだけゆっくりと歩いても充分なら此処に来るのも楽だわ。私もバイシクレッテを使おうかしら」

「そうだね乗りやすいものもドンドン出来てきたし軽いものも増えて乗りやすいけど女の人には服装が邪魔するよね」

「スカートの裾が広がっているものなら平気よね」

事務所の前で立ち話をしているのを窓から見つけたオウレリアがじれてドアから出てきた。

「貴方たちいくら恋仲でもドアの前でいつまでお喋りしているの。早くはいりなさい、ジュリアンはとっくに来ているわよ」

ジュリアンのことだから遅れるだろうという予測は外れてもうきていたのには正太郎はすっかり驚いた、だが其れは顔に出さずに中へ入り奥の明るい部屋でソファを勧められてジュリアンの隣へ座り、エメはタブレーに座った。

パーティで紹介されたバウスフィールド夫人が改めて紹介されて「この人はもううちの会社に10年続けて勤務してくださっているのよ。お金のこともこの人が私のMamaから信頼されて今度も6万ポンドのBPPBロンドン支店の小切手を運んできてくれたわ。その内4万ポンド分は正太郎に貸し付けることは皆さん承知ですわね」

全員が其れは一昨日の夜に聞かされましたと返事をしてオウレリアは話を続けた。

「それで後2万ポンドはショウとジュリアンが新しい店で仕入れに行き詰まったときのための準備金に用意しました。ジュリアンはこのお金に手をつけなくとも商売に差し支えがなければそのまま預金しておけばいいの。銀行から預金を担保にお金を借りられるように証券にしても良いけどYokohamaから寅吉と兄が東ヨーロッパに不穏な動きが有ってオーストリア・ハンガリー帝国がイギリス・フランスの不況脱出の兆しに反して危なくなるだろうと言うの。だから預金は新しく合併したBanque de Paris et des Pays-Bas(パリ銀行とオランダ貯蓄銀行)に半分、クレディ-リヨネ銀行に25パーセント、残りは任せますが必ず分散して置いてくださいパリ銀行は私たちの主力取引銀行だったのでそのまま継続して取引をしています」

其処までは承知したと箇条書きにそれぞれが書いて見せ合い間違いが無いか確認した。

「ショウの分もショウとジュリアンの共同の分もすべてエメが管理しますけど、2万ポンドのほうは二人の名前で出し入れも自由にしてその後で報告をエメにしてください。ジュリアンは聞いたかもしれないけどエメはMarie Emilienne Brunnetiereという署名でこれからの事務手続きをします」

「エッ、そうなのかエミリエンヌとはショウから聞いたがマリーとは知らなかったぜ、あっても不思議じゃ無いがな、Christophe(クリストフ)が俺のファーストネームだが親類には5人も居るし軍隊のときなど10人もいたぜ、ルノワールのピエールなぞ多すぎてA〜Zまでつけたくらいだ」

「そうなのよフランスの人は同じようなサラとかマリーが特に多いものね。ショウはShiyoo Maedaでいいのね」

「僕は日本式にはShiyoutarou Maedaに為りますが国で発券された渡航切手でもShiyoo Maedaになっていますから其れでいいはずです」

M.カーライルが正式な書類を作り、それぞれがサインをした文書が3通作られスミス商会で一通を銀行に預け、1通はオウレリア、残りの1通はエメが保管することになった。

「ここにも書いたとおり10年間無利子、無利息と謳って有るけど、たくさん儲けたら何かお返しをと期待はしているわ。それから大事なことは3人で管理したお金がなくなっても責任は負わなくて良いということを書いてあります。皆さんを信頼して将来性にかけた私の期待にこたえてくださいね」

正太郎も家の旦那や先生も気風が良いが、此処までオウレリアがすごい人だとは思いもしなかった。

「どうせ期待していなかったダイヤと金の鉱山のおかげですもの、寅吉の信頼している人のために使うのはあたり前のことよ」

オウレリアはそういって1万ポンド手形4枚と5千ポンドの手形4枚を手渡した。

M.カーライルにM.ギヌメールが護衛についてバウスフィールド夫人とオウレリアにエメその後ろにジュリアンと正太郎が付き添う形で歩いて3分ほどのオペラ大街とダンタン街の角にあるBPPB(8.Rue d'Antinダンタン街8番地)へ向かった。

エメは個人口座として2万ポンド3名の共同口座で1万ポンドの預金口座を開き貸し金庫は自分の分があることをオウレリアに伝えた。

「リリー此処には伯母の遺産管理人から預かった口座の一つがあるのですが、別口座として今回の資金を管理させていただきます」

「そう、貴方のも此処だったの。管理は貴方が責任者だからよろしくお願いしますね」

銀行の役員も大口の預金が増えて応対も親切であった、次のショワズル街12番地(カト・セプトンブル街18番地)のクレディ・リヨネ銀行へ向かいMarie Emilienne Brunnetiereの名で1万ポンドの口座を開いた。

ジュリアンは自分の口座のあるBNCI(Banque Nationale du Commerce et de l'Industrie・国立商工業銀行)が近くにあるので其処に向かいParis Bourse(証券取引所)の前の銀行で新たにChristophe Julien Degletagne名義で5000ポンドの口座を開きMarie Emilienne Brunnetiereの名義で同じく5000ポンドの新規口座を開設した。

後一箇所モンマルトル・オランジェ銀行のサン・タンヌ街7番地にある支店で正太郎とエメの2つの新規口座を5000ポンドずつ開設した。

最初のBPPBに戻りエメの貸し金庫へMarie Emilienne Brunnetiere分の預かり証は仕舞われ必要に応じて引き出すことになった。

オウレリアにとっても大きいお金の動きなのでやっと落ち着いたか銀行を出るとジェファン(おなかがすいた)と言い出した。

事務所に戻りM.ギヌメールとM.カーライルと別れて新たにMr.ラムレイにジュディが付いて遅い昼を食べに出ることにした。

もう4時を回り「これじゃハイティーという時間ですね」というMr.ラムレイに「貴方お昼は食べなかったの」とオウレリアが聞いた。

「私もジュディもオウレリア様は戻るまでお昼を食べていないほうに賭けるので賭けが成立しませんでしたが、其のせいで食べるのを我慢していましたからさぞかしジュディは空腹でしょう」

ジュディはもうじき食事と聞いて嬉しそうな顔を隠さなかった。

Mr.ラムレイは何も相談せずにパレ・ロワイヤルのほうへ歩きボジョレー街17番地のル・グラン・ヴェフールへ行きますとオウレリアに話しの続きのように言った。

Mr.ラムレイお久しぶりでございます」

「10年ぶりだが覚えていて呉れましたか」

「勿論でございますとも、伯爵様には残念なことを致しました。ご親切で奥ゆかしいお方でした」

「今は此方のMiss.Mac Horn のところで働かせてもらっているよ。今日は初めての方々を案内してきた。総勢7名だが席はあるだろうか」

「勿論ですとも。ただそちらのM.ショウさまは一度おいでいただきました」

Mr.ラムレイは驚いた顔で後ろを振り向いたが「そうでしたかM.ショウは誰ときたのかな」と聞くので正太郎は「M.ルノワールです」と簡潔に答えた。

庭園が見渡せる回廊の脇のガラスが入った明るい場所に案内されて次々にMr.ラムレイに挨拶に訪れる人たちで暫くは大騒ぎだった。

ようやくメニューも決まり食前酒にシェリーが出され落ち着いて話ができるようになった。

「ショウやっと落ち着いて話ができるが、手紙にあったセディとベティのことは其のフランス郵船の人の話しだと伯爵の孫に違いなさそうだな」

オウレリアたちもおよその話しはMr.ラムレイから聞いているようで興味深げに正太郎の報告を聞いた。

「まず間違いないが、母親の名前さえ確認できれば問題は解決だな。現伯爵に報告しても何もなさらないかもしれないが、私に出来る手助けは間違いなく行う予定だ。これからもショウには世話になるだろうからよろしく頼むよ。それから先に言っておくが今日の支払いは誕生日会でも使いきれなかったお金があるので任せるのだよ」

Mr.ラムレイは正太郎が支払いをという前に牽制をかけて置く事を忘れなかった。

バウスフィールド夫人はブルゴーニュを先に明日から回ると言うとエメがあら向こうでお目にかかれるかしらという話からデジョンの街の話しになった。

「それなら私たちも付いていきましょうよショウとジュリアンは都合が付くの」

「私は明日からまたランスへ5日ほど戻りますから無理ですな。どうも同じランスで間違いやすいですな」

「私の町ではランスといわずにランズといっておりますわよ。でもパリの人たちはランスと言うのでRansとReimsの違いを説明するのに疲れました」

「僕は今週は新しく紹介された機械製作所と其れを実際に動かしているソー公園にシャラントン・ル・ポンとヴァンセンヌのあたりを廻ることになっています。其の後ジュリアンが戻ったらボルドーへ行く予定です」

「ではバウスフィールド夫人とボルドーへ直接行くわ。19日には向こうで会いましょうね宿は決まってるの」

連絡が付かないといけないのでカバネルとジルの店を教えて其処を連絡所にすることにした。

その日正太郎はエメの所を出たのが8時を過ぎていて上り坂を苦労してメゾンデマダムDDに日が落ちる寸前の9時前にはたどり着いた。

「ダンは毎日この道を帰ってくるんだから僕もこれになれないと駄目だな。体力があるダンにはかなわないと最初から諦めてはどうしようも無いし、確りしないとその内セディにも負けてしまうからな」

バイシクレッテを食堂の裏手に仕舞うときにそう反省しながら脇玄関から入るとMomoとベティが待ち受けていて「マァ汗びっしょりじゃないのそんなに慌てて帰ってこなくともいいのに」と冷やかされた。

「だってセーヌから此処までずっと上り坂だからね。ダンは毎日これを続けているんだと言い聞かせながらがんばったんだよ」

はい手紙と電信と渡されたのは共にYokohamaからのもので手紙はミチと吉田先生で電信は鴻上さんからだった。

電信にはようやく品物がそろいYokohama絵、浮世絵、さらに連絡を取った北斎がフランス郵船で送り出されたことが簡略に書かれていた。

「電信はYokohamaからルノワールさんたちに頼まれた版画を積んだ船がYokohamaから出たと言うことだよ」

「なんだそうだったの。商売関係だけでほかには何も無いの」

「其れは此方に書いてあるかもしれないね。汗を拭いたら後でゆっくり読むよ」

「シャワーはショウの番は8時半からよすぐ使えるかはベティに調べさせようか」

「そうしてくれるかい、表で水を浴びるよりも楽だからシャワー室のほうがいいな」

ベティーが黒板で確認して前に使う予定のラモンに聞くと済んだと言うので正太郎が使い最後の番になるニコラに何時でもどうぞと声をかけて下の広間で手紙を広げて読み出した。

ダンに算数を教わっていたセディが降りてきて正太郎にお茶を入れてくれた。

ミチの手紙はグレゴリオ暦5月7日(日本4月1日としてあった)アメリカからの便りに対する返事で、孤児の家は変わりないことと日常のことなど、先生からはグレゴリオ暦5月4日の日付で出されていて品川と横浜の鉄道がグレゴリオ暦6月12日開通で毎日2往復ながら仮営業の予定と井上様から陸奥先生に連絡があったことが記されていた。

Momoが興味深そうにうろうろしているので手紙を見せながら最近の横浜のことやジャポンでも鉄道の営業が始まる日にちが決まり鉄道の料金が1等席は24キロ区間で10フランだと話した。

それでも何か聞きたそうなので正太郎はようやく思い出したように、今日のお金のことを銀行へそれぞれ分けて預けたことを話しル・グラン・ヴェフールで4時ごろになって、昼と夜兼帯の食事を取れたことを話し、会計はMr.ラムレイが取り仕切ってくれたこと、何を食べて何を飲んだかを喋るとようやく満足してくれた。



Paris1872年7月9日 Tuesday

正太郎は8時半にメゾンデマダムDDをバイシクレッテに乗ってセディと出かけた、セディにはジュリアンが帰るまでサン・マルタン運河沿いヴァルミ河岸にあるバスチァン・ルーの店(ケ・ドゥ・ヴァルミ街173番地)とジャン・ピエールの店(ケ・ドゥ・ヴァルミ街183番地)に一日1回顔を出せば後はメゾンデマダムDDで勉強するように申し付け店まで一緒に出かけた。

途中、モンマルトル・オランジェ銀行で預金証書を自分用に借りた金庫に納めて今日の買い物に付き合う予定の金を懐と合わせてほぼ1000フランにしてから二人の店に向かった。

遠回りだが踏み切りを通らずにBoulevard de la Chapelle(シャペル大街)から線路の上の設けられた橋を渡る道を一緒に走り、この道を通るように指示した。

モンマルトル・オランジェ銀行からゆっくり走ってきたが20分もかからずヴァルミ河岸について二人の店を順に訪れ、ジュリアンが戻ればボルドーへ出かける事、また新たに買い付ける資金のめどが付いて大量仕入れが可能になった事を伝えた。

セディには一人でメゾンデマダムDDにもどるように言って正太郎はノートルダム・デ・シャン街へ向かった、昨日エメと約束したパサージュ・パノラマでの買い物に付き合うために昨日は陽が落ちる前に帰ろうとエメを送るとすぐにバイシクレッテにまたがったので脹れていたエメも今朝はいつものように明るい顔で迎えてくれた。

「1時間くらい掛かるけど途中まで馬車トラムで行くかい」

「夜に本からTrois Mousquetairesの住所らしいところをノートしたから其れを見ながら道を散歩しましょうよ。明日の朝8時の列車の切符を今朝取ってきたのでショウと暫く会えないから今日は一日一緒に居たいわ」

正太郎も其の気持ちが強かったのでそう伝えて二人は最初にヴォジラール街25番地へ向かった。

「此処がダルタニャン物語に出ていた家ね」

「ボナシュー氏は奥さんが連絡に行ったと白状した家だけどアラミスは本当の住まいが何処かが良く判らないのさ」

「あらどうして」

「アラミスはカセット街とセルヴァンドーニ街との中間にある家に住んでいた。と書かれているからさ」

「その其の続きには3軒の家しかなかったとも書かれているわ、奇数番地はこの場所しか無いわ。ボナシュー夫人がたたいた窓はこの場所だと思うわ」

正太郎が笑っているのでエメもどうやらそのことは判ったうえで言っていると気が付いたようだ。

其処はリュクサンブール宮殿のはずれから50メートルほどの場所で昔のままらしい建物があり、3階建ての家は明るい裏庭が付いているように脇の道からは見えた。
二人は回りを見た後次にフェール街へ向かった。

サン・スュルピス広場の南としか書いていなかったアトスの家は特定することは難しかったが細い抜け道のような通りを端から歩くとラッパのように先のほうは広くなって広場に続いている、すべての家を見たことで満足してサン・スュルピス広場から後戻りをして路地を抜けダルタニャンの下宿先、あの可愛そうなボナシュー夫人の住んでいたフォッソワイユール街11番地、今のセルヴァンドーニ街へ入った。

二人はボナシュー夫人のことを思い少し感傷的に為ったが次のトレヴィル殿の邸宅はヴィユー・コロンビエ街と書かれていて、三銃士の一人ポルトスの住んでいたサン・スュルピス広場の西ということを頼りに道を歩いた。

「ねえショウ、アテネ・サン=ジェルマン劇場の場所あたりはトレヴィル殿のお屋敷らしくないかな」

「ほんとだ周りは古い家が並ぶ通りのこのあたりだけ家が新しいデザインだね」

「そうよこの場所がトレヴィル殿のお屋敷だと思うわ。そうすると此処と広場の間にポルトスの家があったのよ。ムースクトンがお仕着せ姿で窓から見ていたのはこの風景よ」

エメはそういって正太郎の腕に自分の右手を絡ませて「75.Rue de la Harpe(ラ・アルプ街75番地)は道筋が違うしTrois Mousquetairesの住まいでは無いから省略しましょうね。ではパノラマまで出発」と元気に歩き出した。

サン・ジェルマンの市場を抜けてエコール・デ・ボザールから河岸へ出て学士院の前のポンデザールの鉄骨の橋を渡った。

クール・カレを抜けてレ・アール中央市場へ向かう通りには青物などの露天の押し車の店が並んでいた。

市場の中に店が持てない人や市場での競りでの売れ残りを此処で安く処分する人たちの集まりだ。
雑踏を抜けるとサントゥシュタシュ教会の脇を通ってモンマルトル街を抜けモンマルトル大街へ出た。

左手に曲がると其処にはヴァリエテ座があり大勢の人が看板を見上げていた。

「いまボードビルのハンスとジュリーが人気なのよ、8月にアメリカへ渡るので当分見られないと押しかける人で大変なの」

さすがに興行の話題はフォリー・ベルジェールをやめても耳に届くようだ。

パサージュ・デ・パノラマの入り口はそれほどの広さはないが三角のガラス屋根に夏の日差しが暑く射していたが、中は熱気が籠もるほどの事も無く風が優しく吹き抜けていた。
入り口の左側はブラッスリー、狭い通路にいく席かのテーブルが置かれ昼前からビールの壜を口飲みしている二人連れがエメを見るとヒューと口笛を吹いた。

「まぁ、ジョアンナに言うわよダニエル・コウチャー」

「エメは店をやめてから綺麗になったな。其れが噂の彼氏かい」

「それじゃお店ににいたときは綺麗じゃなかったみたいじゃないの、相変わらず褒め言葉が変よ」

「まったくいつもご指導ありがとうよ。なぁに、店にいたときはまだねんねだったからな。綺麗という言葉は似合わないのさ、化粧も相変わらず薄いし少しは派手にしたらどうだ」

「余計なお世話よ、ショウかまわないから行きましょ。昼間からあまり飲んじゃだめよ」
知り合いらしく、きついものの言いようでもいつも店関係のもの同士で交わされていた軽口のようだと正太郎はおもった。

後ろから正太郎を呼ぶ声が聞こえて振り向くとアリサと黒髪の背の高い娘が駆け寄ってきた。

「ヤァ、Mlle.アリサじゃないか、買い物なの」

「遊びに来ただけよ、その人がショウのエルなの。紹介してくださる」
通る人が4人を避けていくがアリサは気にもならないようだ。

「僕の大事な人、Mlle.エミリエンヌ・ブリュンティエールです」

エメを紹介して「このマドモアゼルはアリサ・ビリュコフ。この間ダンに紹介されたソルボンヌの学生」

「はじめましてMlle.ブリュンティエール。私がアリサよ。此方は友達のマドモアゼル、エーリン」

「ハーイ、私カテリーナ・エーリンですよ」

まだフランス語がたどたどしいのは留学生なのだろうと「マドモアゼル、エーリンはパリに来て日が浅いのですか」

「そう私9月からリセで学びます、まだパリに来て一月です。アリサにフランス語習っています」

「私がエミリエンヌ・ブリュンティエールですわ。お二人ともよろしくね」

「今日はまだ行くところがあるからまたねショウ。それからエメも今度は参加してね楽しみにしているわ」
二人は来たときのように軽やかに駆け去っていった。

「ショウ、どういうこと」

「日曜日にダンたちに誘われてパーティに出たときに知り合ったのさ。ダンの知り合いのソルボンヌやエコール・ノルマル・シュペリウールの学生さんだよ」

「それで知り合ったのね。何で言わなかったの」
少しお冠のエメだ。

「一昨日の日曜日だよ。次があったらエメも誘うように言われて居たんだよ。でも昨日からそんなこと思い出す間もなかったんだ」

「そう、それならいいけどでも隠し事はいやよ」

「大丈夫だよ。エメといるとほかの人のことなど気にする気持ちにならないだけさ。だから次のパーティに誘われたら思い出していたかもしれない」

正太郎は君のことに夢中なのだということを判ってもらうのに懸命だ、エメも其れがわかって正太郎を少し反省させておいたほうが良いと怒っている振りをしているようだ。

化粧品売り場でMereに買う化粧品と香水、それから歯磨き粉と店員と相談しているエメと別に正太郎は店内をぶらついていてゴーンさんの扱うMaquillage Savanを見つけた、手に取ると懐かしい香りと横浜とは違う金髪の女性の描かれた箱が眼についた。

別の店員が寄ってきて、マリウス・ファーブル・ジューン社製とセラァイユ社のマルセイユ石鹸もありますと薦めた。

「サボン・ド・マルセイユは、完全に自然素材100%の原料だけで製造される旧フランス王室御用達の自然の原料から作られた最高の品物です。プロヴァンス地方の良質な天然オリーブ油とパーム油そして地中海の海水とマルセイユ塩とバリラというアルカリ性海藻の灰が織り成す芸術品でございますわ。使用基準は国印認定した高級品、それはサボン・ド・マルセイユと言う名前を名乗ることがすぐれた品質といわれるゆえんでございます」

正太郎はエメにディジョンに無いような品物で重ければ送ってもいいから石鹸を買おうかと聞いた。

「何かいいものがあるの」
向こうが済んで石鹸の棚に来たエメに「このマークルという商品はロシアの貴族にも愛用されている最高品質のものです。使い心地、肌に対するお手入れにも最適な商品でございます」

「ショウは石鹸も詳しいの」

「横浜ではマークルを扱っていたよ。後アメリカのハーフムーンソープという品物だよ、断然マークルのほうが人気だったんだ」

店員は贈り物と聞いて「これは1ダースセットが3フラン60サンチームで化粧箱に入っております。お一人一月一つはお使いになられますから其の計算でお買いになるとよろしいですわ」

「ショウが買ってくれるならグロスで欲しいな」

「そんなに大勢に配るの」

「そうなのよ、ショウは私と付き合うと従姉妹たちや又従姉妹とのお付き合いが大変よ」
どうやらアリサと知り合いになったことを怒っているようだと見て正太郎は「同じものでありますか」と恐る恐る聞いてみた。

店員は大量の注文に棚の下の扉を開けて確認してございますわと嬉しそうに正太郎のほうを向いた。
12箱の石鹸は正太郎が43フラン20サンチームを支払いほかのものと共に5時までにエメのアパルトマンに届けてもらうことになった。

「入り口の65号と書かれた部屋で私への荷物といってくだされば預かってくれますから」

「判りましたエミリエンヌ・ブリュンティエール様、ノートルダム・デ・シャン街12番地、一番下の階の入り口そばの65号室でよろしいですね」

「そうよ、ではお願いしますね」

パサージュの奥へ向かうと劇場の裏口は出入りする人で混雑していた、化粧をした芸人が昼を食べに行くのかせわしげに出てきて正太郎たちの間をすり抜けて行った。

「ちょっと待っていてね」

正太郎はその芸人の後を急ぎ足で追いかけて奥まった右手の袋小路のサラマンジュの前で声をかけた。

「僕の不注意だったが其の時計は大事なものなんだ返してくれないか」

「何のことだい」

「隠しても駄目だよ」
正太郎は人がいないのを見て手を出して「其の左のポケットに滑り込ませた奴さ。たいてい穴が開いていてひざの下へ落とし込んでいるのだろうがね」

「なんだ同業か、仕方ねえ返してやるがこれからもあるんだ気をつけて歩きな」

そういってひざ下の紐を解くと下に出てきた鎖をつまんで引き抜くと正太郎の手に落とした、5フラン銀貨を一つ其の手に落として「いい手の動きだったよ。だけどポシェから出すときに体を当てるのは判るものにはばれるやり方だよ」そう言いって後ろも見ずにエメの待つ楽屋口まで戻った。

「どうかしたの」

「いやちょっと知り合いに似ていたけど違う人だった。化粧をしていると男でも見間違えるね」

二人で通りの向こう側のパサージュ・ジュフロワへ入りル・マガザン・デュ・リスへ向かった。

「まぁ、M.ショウにMlle.エメお久しぶりです。もっとお店に顔を出してくださらないとアルフォンスもさびしいです」

正太郎もこの間でなれた優しい口調も一段と大げさになっていた。

M.アルフォンス、暫く旅行するので今日もらえる服が無いかしら」

「それなら貴方にぴったりの旅行に着て出られるものがありますわ。ただ色さえ気に入っていただければほかへ回すものを貴方に合うタイユにすぐにも調整しますわ」
アルフォンスは二階へエメたちを連れてあがり裁断して仮縫いのしてある服を見せた。

「これほかの人に頼まれたのじゃないの」

「そう明後日までに納めるので今仕立てるところよ。アリシュラ、もう一着明日にでも出来るでしょ」

「大丈夫です寸法もすべて記録されていますから」

「ね、ちょっと当ててみましょうね」
エメに着せると胴回りに少しゆとりが出た。

「このゆとりね、貴方旅行だと馬車かUne vapeur locomotifでしょ。きっちりした服では長い間座るのによく無いわよ。サンテューフかリュバンで調節すれば苦しくなれば緩めることも簡単よ是非これになさいな」

オレンジのフリルと黒の線が夏の旅行服らしさを引き立てていた。

「でもいいの。同じものを着ていたらその人が嫌がりませんの」
エメ自身も其れを街中で見かけては気まずいと感じたのだろう、少し考える様子を見せた。

「本当わね。このオレンジが気に入らなくて昨晩仮縫いをしたときに青いものと換える約束をしたの、私はオレンジのほうがいいけどでも商売でしょ。お客の言うことを聞かないわけに行かないのよ。まして一月100フランは買ってくださる人にわね。エメが着てくださるならあたしも嬉しいし、アリシュラもフリルを付け替えるより新しくしたほうが楽でしょ。だから23フランにするから買ってくださらないこと」

相手の人にはだいぶ高く売りつけるのかなとエメも正太郎も思ってついその服を買い入れる気持ちになってしまった、M.アルフォンスは商売上手だ。

2時間後に渡せると言うのでほかに必要なものを先に買い入れることにした。
アルフォンスが付いて帽子屋で11フランの飾りの無い少し中高に緑のリボンの旅行に適したものを選び、靴屋のリックの店で服に合わせて白い靴を選んで8フランを支払った。

「明日は列車ならあまり歩かないでしょうからそれほど足に慣らす必要も無いでしょうが、長く座っていると血が下がりますから時々はたって車内を歩くといいですよ」

リックはそういって器具でつま先にふくらみを持たせて旅行の疲れが出ないようにした。

二人の兄への土産に時計が欲しいというエメに、正太郎はデボルド・ヴァルモール時計店へ向かい、そこで新式のTissotの懐中時計二つとPatek Philippeの七宝焼きの薔薇の絵柄のものを720フランで買ってエメに渡した。

正太郎はパリにはいってから儲けた金のうちだいぶ散財したが時計代を支払っても2200フランは残り、後はルノワールの絵の残金くらいしか出る予定がなく気持ちのゆとりも有るので今日は100フラン紙幣を5枚と20フラン金貨10枚などを新たにおろして懐には1000フランほどがあった。

エメは胸からペンダンド型の時計を出して店の親父に見せると嬉しそうに時間を合わせて「いい状態だね。1秒しか進んでいないがいつ合わせたね」

「今朝もねじを巻いただけで時間合わせは昨日の朝でした。それもショウの時計とで秒針の調節はしたことがありませんわ」

「其れはすばらしい、私の腕もまんざらじゃないが持ち主がよいと時計も引き締まって正確に動きますのじゃ」
店の親父は機嫌よく二人を送り出してくれた。

「ショウがこの間カジノで儲けたと聞いていなければ貰えない所だけど遠慮しないで頂くわ、本当に嬉しいわ。でもこの七宝焼きの時計はMereに上げてもいいかしら、とても喜ぶと思うの。私にはこれが有るもの」
そういって胸を抑えて見せた。

「お母さんが喜べばエメも嬉しいだろ。エメが喜ぶことは僕の喜びだよ」

やっぱり正太郎はパリへ入ってから女性を喜ばせる言葉が増えたようだ。

ジュフロワの裏口と向かい合うようにブラッスリーEnoliaがあり時間あわせもありそこでRoulade(ルラード・ロールケーキ)のマロングラッセを砕いて生クリームと混ぜ込んだものが美味しいとエメが言うのでそれとコーヒーを頼んだ。

「これは名前が有るの」

「お友達はマロンクレマン・ア・ラ・ルーローといっていたわ、でも名前が無いの。だけど此処にはルラードはこれしかないはずよ」

店のおかみさんが表に出てきたので聞くと「お嬢さんの言うとおりさ、名前なんぞ無いよ。いつも同じものしか作らないからね、時々大きな栗の粒にあたるけどそれもご愛嬌さ」とテーブルを拭いて中へ引っ込んだ。

時間を見てル・マガザン・デュ・リスへ行くと支度が出来て旅行服はスタンドに飾られ帽子と靴が添えられてあった、早速アルフォンスがエメに試着を勧めて着替えさせた。

其の服はエメの誂えみたいにしっくりとして選ばれたベルトもCinabre(シナバー・朱色)に染められたものが選ばれフリルのオレンジを引き立てていた。

先ほど選んだ帽子には赤い薔薇を挿してあり、アルフォンスがこれは萎れないうちに換えるかRuban rouge(赤のリュバン)をつけるように薦め、お針子の一人が付け替えようのリュバンを薔薇の蕾に似せてピンを縫い付けて差し出した。

旅行服の裾は流行よりも少し短めで先ほど買った靴に合わせて踝がタブレーに座ると見える様子にアルフォンスもお針子も満足そうだった。

立って歩いても裾を引きずる事も無く長い間歩いても服が汚れることもなさそうだアルフォンスは今流行のホブ(robe、ドレス・ワンピース)よりも少し裾が短めがお勧めのようだ。

アルフォンスはサンテューフ(ベルト)込みで27フランを請求し正太郎は礼を言ってアルフォンスの腕を褒めて支払いをして箱に詰めた服を受け取って店を後にした。
帽子の箱はエメが持ちそのほかは正太郎が持って通りへ出ると辻馬車が客を降ろしていて行き先を告げると「2フランでよろしいですがどうですか」と良心的な値段を言った、

モンマルトル街からルーブル街に入りレ・アール中央市場の外れの小麦市場の脇からセーヌ河岸に行き当たるまで行くと下流側に曲がりポンデザールを渡った。

サン・ジェルマンの混雑を避けるように元老院まで行ってからヴォジラール街へ入りノートルダム・デ・シャン街へ向かった。
馬車を降りるときに2フランと50サンチームを馭者に渡して家に入ると「エメ、荷物が来ているよ」とリュカが声をかけた。

「今手がふさがっているから、もう一度降りてくるわ」

「僕が持ってくよ」とリュカが重い荷物を持って後を追いかけるように上がってきた。

「ご苦労様、リュカ。お礼はディジョンのお土産を買ってきてあげるね。チーズとワインのどちらがいいかな」

「水で割ると言わないならワインがいい」

「こらノンべのリュカめ、今からそんな事言っているとジャワンのように赤鼻になるわよ」

「ふんだ、ジャワンの赤鼻はアブサンのせいさ。毎日のように飲んでいるからさ」
アブサンはきつい酒で正太郎も一回横浜で試したが小さな杯でもくらくらした、ヴォートカも強かったがアブサンにはそれっきりで懲りてしまった。

「正太郎、今日は食事を一緒にしていくでしょ」

「これからルノワールさんのところへ絵を受け取りにいくからそれ次第だね」

「あら、それならあたしも行くわ。そうしないと二人でまた何処かへ遊びに行きそうだもの、リュカも行く」

「僕は良いよ。もうじき夕食だから家で妹の面倒を見ないと怒られるもん」

エメは帽子や服を広げてリュカに見せながら明日は馬車を6時半に迎えに来てもらうので5時半には起きないと間に合わないことや、ディジョンへのお土産の分は解かずにそのまま馬車に乗せること、家にある食料品はリディに整理してくれるように頼むことなど、声に出してリュカにメモを取らせて復唱させた。

「じゃ、下でリディに話をして馬車屋によってからルノワールさんの家に行きましょ。その後何処かでお食事にしましょうよ」

エメは正太郎に有無を言わせずその日のプログラムを決めた。

幸いにもルノワールはいて75フランの残金と引き換えに三枚のセーヌの岸辺の絵をわたしてくれた。
アルジャントゥイユでモネ達と遊びながら描いてきたという絵は穏やかなセーヌの流れと川岸に繋がれた小船、其の船でつりをする人、川面を柳の下に座って眺める人の三部からなるPaysage12号の小作品だった、

同じ12号や15号で何枚か描いた絵がありそれらも同じようによい出来だった。

「こいつも良いだろう。ショウに渡したのと遜色ないぜ」
ルノワールは鼻高々だった。

隣のマイクが帰ってきたようで大きな声で歌う声が聞こえてきた、ルノワールが「正太郎お前金を持っているなら何か買うか、あいつご機嫌のようだからいいものでも安く手放すぞ。最近カルチェ・ラタンとソー公園を交互に描いているらしい。何でも同じ町並みを描いていると筆が雑になると能書きを言っていたが出来はいいぜ。写真とは大違いに見えるがなかなかのものだ」

ルノワールの褒め言葉にも誘われて部屋を訪れると機嫌よく3人を迎え入れて絵を並べて見せてくれた。
正太郎はParc de Sceauxの八重桜らしき12号とQuartier Latinのクリュニー中世美術館の外観を描いた15号を合わせて195フランで買い入れた。

アレクサンドル・デュ・ソムラールが集めた美術品などが展示されているとエメが話して三人は正太郎にぜひ見に行けと言いながら祭壇のキリスト像の模写を何点も見せ、これから色付けをする予定だが本物とは違う色使いになるだろうというM.スミスだった。

マイクは署名にMichael Oscar Smithとしてあると教えてくれマイケルの愛称のマイクが通り名だといって正太郎の名前のつづりを書かせてから裏に今日の日付と愛称のMikeと大きく書いてShiyoo Maedaに譲るとわざわざ書き入れた。

「画商は嫌がるので普段は日付とMikeとだけ裏書するのさ。いつも路上で売るときはお客が喜ぶので客の名前も書く癖が付いたがな」

そうマイクは言ってマイケル・オスカーではパリの画家には通じないぜ、マイク・オスカルというそうだスミスさんなど言うやつはさらに居ないと笑った、綺麗な歯並びと其の声の低さはルノワールがカフェのセルヴァーズには堪らん魅力に映ると言って肩を揺すって笑った。

エメは中世美術館のタピスリー(tapisserie・タペストリー)の模写が学年の絵画の課題だった事を二人に話して其の繊細さを議論しだした。
結局4人で其の話の続きをすることになり絵はエメの部屋へ運びサン・ジェルマンのサビーナまで食事をとりに出かけることになった。

ボン・マルシェの前を通りドラゴン街(Rue du Dragon)へ入り込むと6時前だと言うのに、着飾った夜の女が声をかけて前に立ちふさがった、ルノワールが友達と食事に行くだけだ遊びに行くんじゃないよというとあっさりと道を譲った。

「ピエールはああいう女にはもてるんだな。いつも金貨をジャラジャラさせているせいだ。今日もそうなんだろ」

「よく言うぜお前昨日まで食事も満足に取れないで俺に集っていたくせに今日は奢っても良いだろう」

「仕方ないな、金を受け取ったところを見られちゃ仕方ない、M.ショウをパトロンだというわけにゃいかないだろうしな」

「そりゃそうだ、エメやショウに絵を買ってもらってもパトロン扱いは出来んよ。買ってもらった金で此方が飯をご馳走すればまた買いに来てくれる。そうすりゃ飯代に困ることなぞ無いぜ」

「いい事を聞いた、精々部屋に来てくれたまえ」
マイクは冗談らしく陽気に言ったが本気も少しはこもっていた様だ。

マイクとルノワールがジャガイモとソーセージも乗ったJarret de port(豚のすね肉のシュークルート)にビールを頼んでJambon d’Auvergnという生ハム、Ragout du boeuf(ビーフシチュー)をも追加した。

正太郎とエメはジャレ・デュ・ポールの代わりにBlanquette de veau(子牛のホワイトシチュー)に生ハムとRouleau du chou(ロールキャベツ)を頼んだ。

ゆっくりと食事をしてエメの家の前で二人と別れたのは8時半に為っていて、正太郎がエメの家を出たのは9時半陽が落ちかかって居たので馬車を雇うことにして表に出るとこの間頼んだ馬車屋の前で二人乗りが帰ってきた。

心よくメゾンデマダムDDまで夜間の料金も含めて3フランでよいと言うので頼んで帰ることにした。

「エメは明日ディジョンまで帰るといっていましたが見送りには来るんですかい」

「そうなんだ朝7時半までにリヨン駅へ見送りに行く約束さ」

「忙しいこってすね。エメも一人住まいなんだ、泊まっても誰からも文句など出やしませんぜ。もしかして奥様でも居られるのですかい」

「いや僕も独り者さLa maison de la cave du vinというあの家は下宿先さ。ただ其処に使いをしてくれるリュカと同い年の子が住み込んでいるので仕事の連絡をしてもらう都合があるので泊まる訳に行かないのさ」

メゾンデマダムDDはラメゾンドラカーブデュヴァンとも呼ばれていて馭者仲間にはどちらでも通用した。
この人たちもエメのことが好きで正太郎が本気なのか浮気なのか気がもめるようだ。



Paris1872年7月11日 Thursday

昨日早朝晴れていたが、降り出した雨の中リヨン駅へ見送りに行ってバイシクレッテは其のままにして帰ってきたのでニコラと同じオムニバスでシテ島へ渡り其処からノートルダム・デ・シャン街へは歩いて向かった。

リュカの母親に断ってバイシクレッテを引き出して約束しておいた工場へ向かった。

ベルシー橋でセーヌを渡ってパリジェンヌ商会の工場のあるナシオナル橋の先まで川岸をさかのぼった。

此処はルネ・オリビエが今年になって新しく工場を建てた場所だ、一昨年ミショーから別れ鉄製の車輪と鋼線のスポークをつけ外側にゴムを貼り付けた改良型を製作している。

小柄なもの女子供に乗りやすくセラの位置の変更が容易なものを研究中だ。

会社の名前もマドモアゼルに乗ってもらいやすいようにパリジェンヌとしたくらいだ。

一番下の弟マリウスとはフォリー・ベルジェールやムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットなどでダンの紹介で知り合い工場見学を約束したのだ。 

キャバレ・デ・ザササンに一番上のアイム兄貴が行くと言うのでセルヴァーズに紹介を頼むと、意外にもラモンとは仲がよいということもわかり酒を飲みにと言うよりシャンソンを歌手と共に歌うのが楽しみだという粋な人で正太郎は今日の見学を楽しみにしていた。

艀が並ぶ川岸から道一つ隔て線路との間に工場が建てられていた。昨日来てもよかったが約束を守らず訪れても迷惑だろうと、リヨン駅近くのこの工場には寄らずに帰ったのだ。 

最近の各国からの自転車も置いてあるというので楽しみに工場へ入ると木製のミショーに最新式の金属性の軽快なデザインのミショー、横浜の旦那が乗っていたイギリス製のファントム、さらに懐かしいルイ・リンゲ(Louis Linguet)のボーンシェーカーにアリエルまでが研究用に飾って有った。

正太郎のマギー型のバイシクレッテの構造を見て3人の兄弟は正太郎に俺たちは此処まで極端に車輪の大小はつけたくないといいセラの位置の高低が決めてだろうと話し、後輪で駆動させたほうがよいが歯車をかみ合わせて動かすには重くなりすぎて苦労していると話してくれた。

「歯車で無くほかの方式は無いのですか」

「皮ベルトだと細いと滑るのでロンドンでローラー式チェーンを作る会社があると聞いて其れを手に入れる事にした。そいつが使えれば前後の車を同じにすっきりできる」

オリビエ兄弟の新しい自転車は320フランと高価だがまとまるなら260フランで、少し小型のもので背の低いものや女でも乗れるように改良してくれるということになり20台を注文し昨日下ろして来て置いた小切手で手付金として1000フランを支払った。 

横浜で旦那がファントム1台42両で買えるといっていたがあのときのポンドは今の半分の値打ちだったことを思えば横浜に送ってもイギリスの品が安くなっていない限り太刀打ちできると思えたのだ。

「自転車屋でも始めるのか」

「マリウスこれはジャポンに10台は送る予定だよ。自分用や友達のために10台は置いておくつもりさ。僕もこのマギーやアリエルは余り先が長く無い気がするのさ。精々がファントム程度の車輪差がのぞましいのさ。其の点君たちのものが僕のお気に入りさ。こいつを買って乗ってみて初めて差がわかったよ。横浜に居たときはファントムに乗っていたんだ。この値段ならもっと横浜と神戸で売れると思うよ。他に取引相手が出なければ僕が代理店を開きたいくらいさ」

「なら一台今のと別に買いなよ。そいつは180フランで引き取ってやるよ。其れから代理店だが年間50台3年契約なら良いだろうから考えておいてくれ」

正太郎も承知して180フランを支払おうとしたら「こいつもそうだが、これからもショウには卸し値段の260フランでいいから後80フラン置いていけばよいさ。一台ずつでもいいんだぜ。50台先払いと決まれば其の時点からさらに20フラン下げるぜ」と言われ今日は一台取り替えて帰ることにした。

「これから何処かへ行くのかい」

「シャラントン・ル・ポンの先に蒸気ポンプを造る工場があるから見に行くんだ。其処と浄水場にニコラに紹介状を貰ったから入れると思うんだ」

「ちょうどいい天気だヴァンセンヌの森にでも恋人を誘うんだな」

「今からじゃ間に合わないよ。そいつは次の機会にするよ」
3人が笑いながら工場の外まで見送ってくれ、10日後には10台其の後の10台は其の10日後と約束してくれた。

ベルシー河岸からシャラントン河岸へ川沿いを進むとマルヌ川とセーヌ川の合流点シャラントン・ル・ポン(Charenton Le Pont)が見えてくる。

このあたりまで来ると橋は無くて渡し舟で対岸に渡ることになる。

パリ-リヨン鉄道の鉄橋が見えてその下に渡し場がありマルヌ川を渡るとメール街にGMV(Gui moteur de la vapeur、ギー・モーター・デ・ラ・ヴァプール)と言うその会社があり主に川蒸気用のスチームエンジンと蒸気ポンプを製造していた。

ニコラから紹介されたと来意を伝え紹介状を渡し、作業場を見学させてもらった後、水道用水の浄化のために水をくみ上げて沈殿池を通す仕組みのあるマレシャル・フォッシュという場所へは、社長令嬢のカトリーヌが案内をして呉れる事になった。

社長が事務所で娘に話をしてくるとはいってすぐに出てきたのはアリサとカテリーナだった。

エッ、と言う顔の正太郎に「驚いているわよ」と二人は顔を見合わせて喜んでいたが「やっぱり知り合いだったの」と出てきた娘はスポーツでも得意なのか狩猟服のように軽快な服装とブリュネットの短い髪が快活な声とあっていた。

マルヌ川の中洲に渡る小さな橋のところにダムが設けられ其処から水がくみ上げられて石組みのピシーヌ(piscine・プール)が幾段にも設置され上澄みだけが下のピシーヌへ流れていく仕組みだ。

カトリーヌが水役所の人に話をして中へ入れてもらった、週に一度水を抜いて底の砂を掃除することになっていることも役人が説明してくれた。

正太郎はいまさらのように思い出したことがある横浜のジラールさんの水屋敷のことだ。
あそこではプールにためて沈殿させた後取り出して、樽に詰めていたがここまでしなくとも山手の湧き水なら飲料にもなんども浄化させなくとも良いのかと感じた。
高島屋さんの水道事業は順調なのだろうかと頭の中はYokohamaに一瞬の内に飛んでいた。

旦那は蒸気ポンプで野毛山に水を上げてそこから給水すれば野毛を中心に5マイル四方に三階建て位までの水は送ることが出来ると話してくれた事もだ「パリの水道はどうなっているのかな。鮫島様に話して横浜、東京、大阪などの大きな町の水道にも設備が充実できる勉強を誰か行うように進言しよう」とも頭の中にうかんだ。

「ショウは今日この後予定があるの」

「いえ今日の予定はこれで終わりです。後はアパルトマンに戻るだけです」

「そうなんだ私たちヴァンセンヌの森とお城へピクニックだけど行く」

「何人くらい集まるのですか」

「3人だけだけど」

「そんな女の人3人だけとは危なく無いですか」

「だからショウにギャルド・コール(garde du corps・ボディガード)をさせるのよ」

「ほかにいける人が見つからないのですか」

「あら、あたしたちじゃ役不足なの」

「イエそうじゃないのですが、今エメがディジョンに行っているので女の人のお供で出かけると帰ってきてから煩いですから」

「貴方、もう尻にひかれているのね。でも黙ってればいいじゃないの。それと午後の食事にサンドウィッチと冷えたシードルに鴨のローストやコールドビーフも後で男の人が届けに来るから大丈夫よ」

アリサに其処まで言われてはもう断る訳にも行かなくなった正太郎だった。

「それでショウは馬に乗れるの」

「僕は乗れますが、皆さんも馬で行くのですか」

「そうよ私たちバイシクレッテは持っていないし、でこぼこ道だから走りにくいわよ」

スチームエンジンの会社まで戻り全員が馬に乗って渡し舟の場所に行きつくと、船が人待ちをしていてすぐに向こう岸に渡ることができた。

Bois de Vincennesに入ると広大な敷地には馬場もあり森は大きな木が茂り正太郎の知らない花が続く花壇があった。

珍しげに見ていると「ショウは花に興味があるの」カトリーナが馬を寄せて聞いてきた、カトリーナは女性特有の横据わりの馬具ではなく男用のものを据えていた。

「見たことも無い花が多いので」

「そうね此処は昔ナポレオン皇帝がエジプトやトルコ(オスマン・トルコ)から移植したものやアフリカからのものもあるそうよ」

「そうですか。僕が知っているのではガーデニア、ゲラニューム、サフィニアが咲いていました」

暑い日差しの下でジャルディニエ(jardiniers 庭師)が数多く働く中を抜けて森の先に岩山が見える場所に馬を進めると大きな池があった、その先に見えるのはオレンジ色の屋根の古い建物が続く町並みだ。

森の外れの道を右へ行くとシャトーが聳えていた。
馬を預かる厩舎と番人が居て其処へ預けて城の中へ入った。

ドンジョンの昔の監獄跡や修復中の城壁などを眺め歩き、案内人が塔へ上がれると言うのでアリサは正太郎を誘って二人と別れて上がった。

案内人は残る二人と地下室や工事監督者の事務所のある王妃の間などを廻って来る事になり別行動になった。
ドンジョン(Donjon)は塔と言うより城館を思わせる要塞で、2階の王の部屋から空中廊下でもう一つの塔とつながり城壁へ出られるようになっていた。

回廊になっている場所を軽やかな足取りで歩くアリサは楽しそうに正太郎に上までどちらが早いか競争よと階段を見つけるとスカートを摘み上げて駆け上がった。

廻り階段には昔の牢獄の扉や開け放たれたドアからは窓の鉄柵が見えた。ようやく塔の天辺の見晴台でアリサに追いつくと急に振り向いたアリサに止まることが出来ずそのまま抱きつく形でドアにぶつかった。

「痛いわ」と言うアリサにドアに手を就いて隙間を開ける正太郎に両手を回してビズをしてきた。
無防備だった正太郎は驚いたがアリサは背中に回した手をきつく締めて正太郎にビズを何度もせがんだ。

正太郎もアリサに答えて自分からもビズを繰り返してアリサの柔らかな髪の毛をなで下ろして其の柔らかな感触に欲望を感じた。

アリサが手を離してようやく離れた二人はドアを開けて青空の下へ出てまぶしい夏の日差しを浴びた。
上気したアリサの顔は少し汗ばみ腕の産毛も陽の中で金色に輝いていた。

正太郎はシルクのスカーフで其の汗を拭いて自分のポケットに押し込んだ。

「ショウ、お願いがあるの。私もバイシクレッテに乗りたいんだけど乗り方を教えてくれる」

「いいですよ。僕が乗ってきたもので足が届きますか」

アリサはスカートを捲り上げて「ショウの足とどちらが長い」と恥ずかしげも無く聞いてきた。

正太郎も驚いたが顔に出さないようにアリサの足を見て自分の足を添えて腰の位置を比べてみると、正太郎より背が低いはずのアリサの腰の位置は正太郎より高い位置にあった。

「これなら今のでも乗れますが10日後にセラの位置を調整したものが出来ますよ。早く欲しければ工場でアリサにあわせた特別注文も可能です」
正太郎そんなこと請け合って大丈夫かなど思いもせずに話してしまった。

「本当嬉しいわ。明日お昼に家に来てね。バイシクレッテのお金を用意しておくわ」

「アリサ、バイシクレッテのお金はいいですよ。その代わり学生で買いたいという人に紹介してくださいね」

「あらそれだけでいいの、いつバイシクレッテの販売店へ行く」

「リヨン駅の近くに製造工場がありますから、今日の帰りでも寄って注文が出来ます。新しいもので320フランだそうですが、他の人に売るときも特別注文でも安く販売できますよ」

「ドレスでは乗りにくいでしょ」

「其れはそうですよ、パンタロン風に裾をくくらないと車輪に絡まりますからね」

「良いわ。あたしパンタロンで乗ることにする。国では煩い人も多いけどパリなら関係ないわ」

アリサはそういってから「でも明日お昼には来てねご馳走を用意するわ」ともう一度誘った。

「明日はソー公園近くまで行くので3時頃じゃないとアリサのアパルトマンまで戻れないのですが」

「良いわイギリス式のハィティにしましょ」
正太郎も断り切れないと観念して明日の3時に伺うと約束した。

これは明日来てくれるお礼の先払いと、もう一度ビズをして階段を下って王の間まで戻るとカトリーヌにカテリーナが其処にいて「此処はまた牢獄になるという話よ。だから入れるのは今のうちなんだって」そういって案内人と上に向かっていった。

二人が中庭から見上げると一番上までは行かないようで途中の城壁へ繋がる兵士の間から外へ出てきた。

上から二人が手を振ってアリサを呼んで「すぐ下に降りるわ、今うちのものが食事を届けに来たのが見えたのよ」と叫んだ。

案内人と下へ降りてきた二人を待って厩舎で馬を受け取って左方向に見える池のほとりへ出た。
其処にはベンチがありテーブルには既に食事の支度が出来ていた。

「お嬢さん、すべて用意しました」

「ありがとう。クロードにハンスも一緒に食べて行きなさいな。貴方たちに片付けた荷物を持って帰ってもらうためには、あたし達が食べ終わらなければ帰れないんだから」

「ありがとうございます。ほりゃハンスも礼をいいな」
恥かしそうに「メルシー、マドモアゼル」と少年は言ってアリサがバスケットに入れたローストにパンとシードルを持ってクロードと池の脇の石に腰をかけた。

シードルで口も軽くなり話しも弾み「ところで、カトリーヌと、カテリーナでは綴りはだいぶ違うのかな」

「そうよ私はカトリーヌ綴りはこうよ」と地面にCatherineと書いて「最初の字はCなのよ」と教えた。

「私、カテリーナよ」Catherineの下にKaterinaとКатеринаと書き「イギリスのお友達カテリーナと言う人居てその人はこう書きます」とカトリーヌと同じ綴りで書いた。

「僕頭が混乱してきたよ。じゃあイギリスのカテリーナさんはフランスのカトリーヌさんと同じ綴りで呼び方はロシアのカテリーナと同じになるんだね」
混乱した正太郎は余計判らないことを言ったようで3人は嬉しそうに笑い出してそろそろ帰りましょうかと言い出した。

「ムッシューにお嬢さん方、後片付けはやっておきますからそのままにして置いてください」

クロードがそういってくれたので4人は馬に乗ってヴァンセンヌの森の道を抜けて線路際の渡し場から向こう岸へ渡った。

GMVに戻ると社長以下バイシクレッテの練習で大騒ぎだった。

「ショウ、こいつはいい出来だな。家にあるミショーとは大違いだ。だいぶしたのか」
M.ギーはだいぶお気に入りのようだ。

「其れは新式ですので320フランだそうです。僕から買えば40フランは安く買えますよ」

「面倒だからこいつを売らんかね。見たところ新品のようじゃないか」

「ええ、此処へ来る途中で古い奴を下取りに出して買い入れました。ベルシー河岸のパリジェンヌ商会と言う製作所で前はミショーと共同で製作していた人たちです。女の人たちにも乗って欲しいと会社の名前をパリジェンヌとしたそうです」

M.ギーはミショーの新しいものは380フランだそうだ高すぎるよといって財布から100フランの札2枚と20フランの札を4枚出して正太郎に渡した。
帰りが困るかねと聞かれ帰りにまた1台買えば済みますと話して今日の礼を言って帰ろうとした。

「ショウ待ってよ、私たちも帰るんだから家まで送ってよ」

アリサとカテリーナが追いかけるように出てきて、M.ギーと忙しげに別れのビズをしてカトリーヌが付いて渡し場へ向かった。

道々アリサは正太郎にさっき塔の上でバイシクレッテを今日買うのに付き合うと言ったばかりなのに忘れるなんてと大げさに二人に言って正太郎の腕をつねった。

「ベルシー河岸は遠いの」とカトリーヌに聞いて「川の向こうに渡れば歩いて15分よ」と言われて安心したようだ。

戻ってきた渡し舟へ乗り込むと金を集める爺さんが「お嬢さん方今日はもうなんかい往復しなさった」と聞かれアリサが指を折って数えてから「2往復よ」と答えた。
「じゃ4度も乗りなさったか」と船頭が言って川上側へ一度舳先を向けて漕ぎ出し、向こう側の渡し場へぴたりと船をつけた。

パリジェンヌ商会へ着くと6時だというのにまだ全員仕事をしていた。

「まだ仕事ですか」

「やぁ、ショウ。さっきはマドモアゼルとヴァンセンヌへ行く暇が無いといっていたがいったいどこで知り合ったんだ」

アイム・オリビエが後ろに見える二人を気にしながら話かけてきた。

M.オリビエ。紹介しますよ。此方はMlle.アリサ・ビリュコフ。そちらの方はMlle.カテリーナ・エーリンお二人はロシアからパリへ留学に来ています」
3人の兄弟は汚れた手を気にしながらも二人のロシア娘の手にビズをした。

「ところでショウ、バイシクレッテはどうした」 

「先ほど伺った工場で社長のM.ギーが気に入って買ってくれました。それで僕用と此方のマドモアゼルの足にセラを合わせたものが欲しいのですが」

と言うと3台かと聞かれアリサがカテリーナに「貴方も乗らない歩くより楽よ。馬車を呼んでばかりではお金が掛かるだけよ」と説得して買わせる事になった。

「お嬢さん方、家のは320フランですがいいですかな。ショウを通じて買えば少しはおまけして呉れますよ」

二人はショウに任せるということで話がまとまり正太郎は780フランを支払って自分用はそのまま、横浜へ送る分が既に3台仕上げたと言うのでそれにまたがってもらうとちょうどよく、手直ししていないほうでは扱いにくいと言うので横浜向けのデザインのほうをもって行くことにした。

「二人はまだ乗れないので3台乗せられる馬車を頼んでくれますか」

「なら俺が送ってゆくよ。故障したとき取りに伺うにも家を教えていただけると助かりますがいかがですか」

カテリーナは「そうしていただけます」とにっこりと笑って頼んだのでアイムは有頂天で弟たちに後を頼んで馬車に馬をつけた。
2頭挽きで3台のバイシクレッテを乗せても人が5人は楽に乗れそうな荷台が付いていて、大急ぎでクッションになるものをかき集めてマドモアゼル用の席をしつらえた。

正太郎はアイムと並んで前に座り道を指示してナシオナル橋を渡り、鉄製の越線橋でパリ・オルレアン鉄道の線路を越した。

イブリー街で右へ曲がると後ろを振り返って「Mlle.ビリュコフの家はドーベントン街21番地でしたからこの道の先ですがMlle.エーリンの家はどこですか」

「ショウには言ってなかったかしら」

「伺っていませんよ」

「同じアパルトマンなのよ。だから行き先は一緒」
それだけで楽しいのか二人は大きな声で笑い出した。

其の笑い声がアイムには綺麗に聞こえるのか「ショウ、お前素敵な人と知り合いだな。こんどキャバレ・デ・ザササンにでも誘えよ」

「アイムこの人たちソルボンヌにリセの学生だよ来てくれるかどうか判らないよ」

正太郎もエメにばれたら事だとおもいそんなこと出来ないと言ったが「お前の彼女も連れてこいよ。そうすりゃ構わないだろうに」とあくまで誘いたいとの思いか後ろに向かって「マドモアゼル。今度行きつけのシャンソニエにショウが招待しますからモンマルトルへ遊びに来てくださいよ。昔のパリの雰囲気を歌う歌手が来る店で如何わしいところじゃありませんから」返事も聞かず正太郎が誘って連れて行くと言いっ放して忙しげに馬の手綱をゆすった。

二人はそれも可笑しく聞こえたか「ショウが連れて行ってくれるなら、何時でもご招待に応じますわ。でもその人エメが居ないと嫌がりますわよ」

「こいつはそんな弱虫じゃありませんよ。女の一人や二人扱えないでパリには住めませんや」
パリ生まれみたいな口を利くアイムも実はリヨン生まれだ。
父親は化学薬品を手広く扱い、ミショーでバイシクレッテを製造していたアイムの誘いで2人の弟はパリへやってきたのだ。

道はショワジー街へ入りこの付近はシーヌから来た商人が住んで居るとニコラから聞いたことがあることを思い出し、チェン・ファンルォはどうしたか気になった。

「ショウ。其の先の右よ。ジェニファーたちのアパルトマンが有る通りは」
一瞬の内に気持ちは通りの両側に注意が戻りベネローゼ街の入り口を見つけて「この通りの7番地だね」

「そうよ、ベネローゼ街7番地」
アイムさえ憶えましたといってしまうアリサの教え方だ。

ゴブラン大街は洋服屋が多く軒を並べ、夜が近づくこの時間も人の行き来が多かった。

「其の先噴水のある右側がモンジュ街よそっちへ入ってくださいね」
あれ西園寺様のアパルトマンはもう一つ先に見える噴水の向こう側だ、近くにアリサたちのドーベントン街21番地が有るということかと思い「もうじきですか」と聞いた。

「そうよ、3つ目の角を右に曲がるの。二つに分かれていて左へ入るのよ。道の先には博物館があるわ」
アイムが了解してアリサの住むアパルトマンへ馬車をつけて荷物を降ろした。

「ショウ、寄っていく」

「いいえ、今日はこれで帰ります」

「明日3時よ。忘れちゃ駄目よ」

「ダコー」

建物の玄関から中庭へ入れると言うので中へ入ると「お帰りなさいませ」と執事が出てきたには正太郎とアイムも驚いた。
良いとこのお嬢様なのかなと思える執事の態度だ。

「ただいま。これは今日買い入れたバイシクレッテよ。何処か雨にぬれないところへ仕舞ってくださる」

「かしこまりましたお嬢様」

眼を白黒させている正太郎とアイムに今日はありがとうと二人が挨拶して二階へあがる後ろ姿を見送って「じゃ僕は此処からバイシクレッテで帰るから」と告げた。

「まてよ、ショウ。どうせ帰り道だマリー橋の向こうのリボリ街まで乗ってきな」

「そうしようか。途中パンも買いたいからその道で帰るかな」

「パンか、ならメゾン・カイザー(8, rue Monge)が遅くまで店を開けているから買いに行こうぜ。道筋に入っているから俺も買おう」
二人は少し驚いた気持ちが落ち着いてきて今の執事のことを話題に乗せた。

「ショウも知らなかったのか」

「ダンも其れらしいことなど教えてくれなかったよ。まさかロシアの皇族か貴族かも、金持ちなのかな」

「そうかもしれないぜ。あれだけ完璧にフランス語を話せるのは並じゃないぜ。キャバレ・デ・ザササンはまずかったかな」

いまさらしょうがない、明日訪ねる約束したからその時に判るだろうとアイムに話して、今度行くときに報告すると約束した。
パンも買い入れてリボリ通りで自分の分はサックに差し込んでアイムと分かれてメゾンデマダムDDへ帰った。



Paris1872年7月12日 Friday

朝いつものように暦を確認していると部屋をノックしてニコラが入ってきた。

壬申(みづのえさる)明治5年6月水無月7日,ノートを見て今日の予定でも調べているかと聞かれて暦の確認と答えると、ジャポンでは今日は何日に成るのだと聞かれた,今頃は午後の3時でこれはこういう風に読むと教えると「ホウ、ジャポンでは月の満ち欠けで其の周期に合わせているだと、それじゃ1年ごとに季節がだいぶ違ってくるな。アラビアの暦と同じか」

「いえいえ、其の違いを訂正する作業がややこしくて天文を調べる専門の人が時々月の数を増やして狂わないようにしています」

「ショウの国もややこしいが、フランスも革命後から新しい暦を使えと言うので俺など子供のときからなれているがよそから来るものにはジャポンの暦より難しいぞ」

この日の暦を見ればフランスは共和国80年10月Messidor(収穫月)24日幸い曜日はVendredi(金曜日)なのでそれほどの混乱は起きていないが季節と月の話がジャポンよりもずれていると思うのだ。

そのせいかこの暦は本当は使われていないそうだがまだ売っていると言ってニコラが買ってきてやると受けあった。
エメたちの新学期は9月と言うのはグレゴリオ暦で革命暦の12月1日から始まるのだ。
正太郎はそのとき革命暦の新年、ジャポンの新年、グレゴリオ暦の新年、そうだロシア帝国はどうなっているのかな、まだユリウス暦だろうかそれともグレゴリオ暦になったのだろうかと思いながら口ではニコラと話している自分がおかしかった。

「なんだ、朝からニコニコしているな」

「昨日ね、ニコラが紹介してくれた工場へ行ったら、そこでアリサとその友達にあったんだ」

「ホウそれで」

「見学した後、社長の令嬢に誘われて」

「よせよ、カトリーヌが令嬢なんて腹がよじれるぜ、あのじゃじゃ馬本性を現さなかったか」

「そんなことも無いようだけど、誘われてヴァンセンヌの森とシャトーにお弁当付で遊びに行ったのさ」

「殊勝な請った」

「そうだね、カトリーヌが活発だと言うのは馬も男乗りの鞍だったぐらいで後はおとなしい人に見えたよ」

「まぁ良いさ、それだけだったのか」

下へ降りて朝の食事をしながらも気になるのか根掘り葉掘り聞き出そうとした。

バイシクレッテを新品と取り替えた後GMVの所長に売って、アリサと友達のMlle.エーリンにも売れたことなども話したが今日のことは黙っていた。

「それで其の二人はバイシクレッテに乗れるのか」

ダンはどうやら嗅ぎ付けたらしく正太郎に先を話せとあごを出して促した。
結局すべて話して今日の予定をこなした後指導に行くことを話すことになった。

「こりや今度キャバレ・デ・ザササンに正太郎もちで遊びに行かなきゃいけないな。もちアリサたちにアイムも誘ってだがな」

「ええっ、僕が持つのですかぁ。そりゃ無いですよ」

「その代わり俺もショウが今度買い入れるバイシクレッテを買ってやるよ.勿論今のファントムを売り払ってからだがな。安くしてくれるんだろ」

「勿論安く売らせてもらいますよ。ダンにも1台20フランだけ上乗せの280フランでいいですよ。元値だと他の人に恨まれますから」

「しめた、食堂の脇の奴だろあいつなら320フランは無理でもショウがアリサたちに約束した280フランで何人か買わせよう。学生割引だと言えば買う奴が居るぜ、貧乏人も多いが金持ちの友達も多い中にはレースをしてる奴も有るしな。そうすればキャバレ・デ・ザササンをショウが持っても損は無いだろう」

ニコラもラモンも其れがいいぜ俺たちも売り込んでやるよ、学生以外は正規の320フランで話してやるから心配するなと言うことになった。
それぞれがショウに集っていてばかりでは悪いと言う気持ちがそういうことを言わせているんだと、正太郎はこの人たちと知り合ってよかったと思った。

8時にメゾンデマダムDDをいつもより遅く出たダンについて走り、セーヌをポンヌフで渡りダンフェール・ロシュロー広場(Place Denfert-Rochereau)まで道を下り、そこで別れて残りの8キロほどは曲がり角に気をつけてソー公園に9時10分に到着した。

今日は公園の西側にあるエコール・サントラル・パリ(Ecole Centrale Paris)に9時45分にミハイル教授を尋ねる予定だ。
時間が有るのでバイシクレッテを押して公園の中を廻ることにして池に沿って歩いた。

細長く大きな池からカスケードで下の噴水にまで水が流れ、ドレスの夫人たちが大勢子供連れで涼をとりに訪れていた。

カスケードの半ばにも水が吹き出ていて涼風が木立を揺らしていた。

長さが2000フィート、幅が200フィートはあろうかという池を廻りイタリアン通りと言う道の馬車留まりには疾風のアルマンが来ていた。
「おはようM.アルマン」

「やぁ、M.ショウ。どうしましたこんなところまで」

「隣のエコール・サントラルまで人に会う約束で出てきたのさ。疾風のアルマンは誰かのお供ですか」

「さいでさぁ、ご婦人方とお子様ずれに会いませんでしたか」

「噴水のところに20人くらい居たよ。じゃ、この道の観光馬車はあの人たちのかい」

「さいでさぁ。公園やヴェルサイユを訪ねる人たちで軍人の奥様方でさぁ、皆様お住まいはあっしたちの近くにある官舎でお暮らしでさぁ、旦那方はマルセイユから5月に大隊ごと移動してきなさったんでさぁ、奥様方はパリが初めての方ばかりでこのところ毎週のようにこうして公園や宮殿に美術館めぐりでさぁね」

時間が近づいてきたので疾風のアルマンに訳を話して隣の学校へ向かった。

昼までECPで授業に参加してミハイル教授に礼を言って学校を後にし、ソー公園に入りこんで今度は反対側から池を廻りカスケードを降りると鹿の家族が歩いて来てギリシャ風の像を見上げていた。

夏草が生い茂り手入れはセーヌ近くの公園とはだいぶ違うが、正太郎には雑然とした自然な感じがパリには珍しく、楽しくバイシクレッテを曳きながら来た時とは違うコワズヴォーの門から道に出てアリサのアパルトマンへ向かった。

時計を見ると1時48分「一時間あれば大丈夫だろう」とそれほど急がずにバイシクレッテのペダルをこいだ。
途中サン・ピエール・モントルージュの教会堂で一休みして時間の調整をすることにした。

此処まで来れば15分あれば大丈夫だろうと2時45分になるまでオ・デリス・アリシアというカフェが表にテーブルを出していたのでレモネードを頼んで木陰で涼んで汗を拭いた。

東洋人が珍しいか盛んに話しかけるママンにようやく開放されたのは50分になっていた。

急いで走らせたが天文台を右に見て走るはずが左に見えたので停まって地図を確認してゴブラン大街まで進むことにし、そのまま直進してゴブラン通りを左へ曲がったのが3時ちょうどだった。

其処からは5分ほどでドーベントン街に入れたので10分遅れほどで入り口のノッカーをたたいた。

M.ショウですね。お待ちしておりました」
汗を拭きながら執事に来意を告げると階段の上から顔を出したアリサとカテリーナが口々に「ショウ、遅いわよ。今降りてゆくから」と階段を急いで降りてきた。

「どこで練習しますか」

「植物園の前にバイシクレッテの練習場が出来たそうよ。ショウが来なければ行こうと思っていたわ」

二人が可笑しそうに話しているうちに執事がバイシクレッテを少年と共に引き出してきた。

「この人はM.ブロティエそっちの子は孫のアルセーヌ君よ」

Shiyoo Maedaです。Mlle.アリサとMlle.エーリンにはお世話になっております。これからもよろしくお願いいたします」

「執事のサミュエル・ブロティエです。お話は聞いております、私か家内が入り口の部屋に必ず居りますので御出での節はお声をおかけくださいませ」

「ありがとう。そう致します」
挨拶をしている間に二人はバイシクレッテを外に出して正太郎が出てくるのを待っていた。

「アルセーヌ後から冷たい水とサビエットドゥバンを持ってきてね」

「判りました。4時でいいですか」

「そのくらいがちょうど良いわ。今日は5時半くらいまで練習して明日も乗れば何とか道に出られるわ」

其れはどうかなと思ったが、午前中に練習場を見つけてあると言うからにはやる気はあるようで、バランス感覚も優れていて5時半にはふらつきながらでも二人は円周を描いてほかのものの邪魔にならない程度には乗れるようになった。

「楽しかったわ」と二人はアルセーヌに言ってそれでも帰りはバイシクレッテに乗らず曳いて帰るだけの分別はあるようだ。

「アルセーヌもあと少し足が長くなるか小型のものがあれば買ってあげるんだけど、ショウは扱ってないの」
足の長さと年齢を外見から判断して「君は10才位かな」と聞いてみた。
「僕は今年11になったよ」

セディに比べ発育が遅いみたいだが同じくらいなので「子供にも乗れるものは売り出されていますよ。ただこれと違って木製なので重いので最初は大変ですが前の車が大きい最新の奴に比べれば乗りやすいですよ」

「それっていくらぐらいなの」

「この間僕の連絡をしてくれる子に買い与えたのは中古のものでしたが143フランでした。どこか探せばそのくらいで手に入りますが」

「私たちのと同じ新式の物はないかしら」

「昨日のところで子供用に後ろの車輪を前にも使えば大丈夫ですよ。アイムにアリサかカテリーナが一言いえば喜んで作りますよ」

「じゃ、ショウから私が頼んでくれといっていたと伝えてくれる。キャバレ・デ・ザササンもエメが一緒なら何時でも誘いに乗らせていただきますと言うのよ」

「承知しました。それで練習はもう付き合わなくても大丈夫ですね」

「明日も二人で行くから明後日はショウが付き添ってね。公園や通りを廻るから付き合うのよ」

「日曜日ですか」

「あらご不満」

「そうじゃ有りませんが、安息日を守らなくていいのですか」

「まだそんな年じゃないわ。其れにこの間の安息日はパーティを開いたのを忘れたの」

正太郎も仕方なく日曜は何時に来たら良いかを聞いて帰ろうとしたが「駄目よ、今日はハィティーの約束でしょ。6時には支度が出来ているから汗を拭いてお茶にしましょ」

アパルトマンに戻り正太郎のバイシクレッテも家に入れて三階にあるアリサの部屋に上がった。

二人は着替えてくると席を離れるとM.ブロティエが「ショウ様、此方で汗を流してください。シャワーが使えます。着替えはございますか」と聞いて案内してくれた。

「シャツは一枚持ってきていますから其れで大丈夫です」

「承知しました。此処をお使いください、後始末はしなくともメイドが致しますのでお気遣い無くお使いください」
頭は拭くだけにしてよい匂いの石鹸で塩気が吹き出す体をシャワーで洗い流してさっぱりとした。 

部屋に戻るとレースのカーテンは引かれていてもベランダに通じたガラス戸は開けられ、涼しくなった風が室内を通って奥の部屋へ抜けていた。

テ(The・茶)とショコラ・ガレット(チョコレート入りの菓子)にタルトドュヴイアンド(Tarte de Viande・肉入りタルト)にスモモと瓜が入れられた大きな飾り皿が置かれてメイドが支度をした。

「ショコラ・ショー(Chocolat Chaud・ホットチョコレート)も有るけどいかが」

「僕はテが良いです」

「それならブランデーを入れましょうね」
砂糖のスプーンにブランデーをたらしてマッチをアリサが擦り火のついたものをテにいれてかきまわした。

メイドが後でイチゴのタルトをお持ちいたしますと告げて下がった。

メイドがタルトとお湯を運んできて「お呼びの時は紐で合図をお願いします」と下がるとアリサは戸棚からヴォートカにアブサンを出してきた。

「ショウはどちら」

「アブサンは体に合わないようです」

「そうなのそれならヴォートカね」

小さなコップに入れられたのを一気に飲むとカッとからだが熱るようだ。

「夏には強すぎますね」

「あらそうなのショウはお酒に弱いの」

「ジャポンでは普通ですがパリの人たちは僕の倍は平気のようですね」

「私たちの国では冬が寒いからヴォートカを飲まないと寒くてやりきれないわ」

そういって二人で一気に飲んでピアノに向かって代わる代わるショパンのマズルカ作品68の4(Chopin-Mazurka g-moll op.68-4)を弾きだした。
切なさが溢れるこの曲は横浜のハンナさんが得意にしていたのが思い出されて懐かしくなった。 

Chopin-Waltz As-dur op.64-1は子犬のワルツだ、二人は笑いながら早くなり遅くなり競走するように楽しんで弾いた。
ワルツからまたマズルカに戻りChopin-Mazurka g-moll op.67-2に曲は移り、アリサはカテリーナに任せてお酒を注いだカップを持ってくると正太郎にも飲ませた後、傍に来てしきりにビズをせがんで体を摺り寄せてきた。

「ショウはこの曲が何かわかるの」

「ショパンだと思うのだけど。最初が68−4で次が子犬のワルツ其の後が67−2、今は24−2かな」

弾んだ曲想のChopin-Mazurka a-moll op.24-2へ進んで、正太郎も気持ちが乗ってきたのとカテリーナのピアノの影響かロマンティークな気分でアリサにビズをして体を抱いた。
それに乗じるようにアリサは圧し掛かる様に正太郎のひざに乗り首筋をきつく掴んでビズをせがんだ。
アリサの腕の産毛は汗ばんで金色に染まり夕刻の日差しに顔は茜色に映えた。

カテリーナはピアノが得意のようで殆どは譜面を見ないで弾いているようだ、本格的な先生について習うというより教養と楽しみのためのピアノに聞こえた。

Chopin-Waltz h-moll op.69-2の落ち着いた演奏は二人を落ち着かせる効果があったが次の正太郎の知らない曲には不思議な魔力がありアリサが飲んだヴォートカの残りを飲んだ正太郎は理性が飛んでいく気がしていた。

リストだろうか正太郎は薄れていく記憶の底を探したが覚えが無い曲と思いアリサに聞いた、其の曲の激しさは二人を激情の渦へ巻き込んだ。

「第1番村の居酒屋の踊りよ(Liszt-Mephist Waltz)リストなの。ショウは本当に思えないかもしれないけど、パリへ来て3年経つけど一度も男の人に抱かれていないの。優しくしてね」
アリサはかき口説くように囁いて耳たぶを甘咬みした、その間もカテリーナはピアノを弾き続けていて、正太郎は導かれるままにもつれるように続き部屋へ向かった。

カテリーナのピアノはやんだと思えばまた続いていて1時間近くがあつという間に過ぎ去り、ピアノがやんで暫く経って正気の戻った正太郎はパンタロンをはいて元の部屋へ戻ると、2枚の厚手のサビエットを熱いお湯に浸して固く絞りシャンブラ(寝室)へ戻るとまだ起きられないで居るアリサの体を優しく拭いた。

其の間カテリーナはまたピアノに向かい正太郎の知っている曲、トロイメライを優しく弾き出したTraumerei~Kinderszenen Op.15だ。

部屋へ戻るとマンドリンを見つけて正太郎はいつものモーツァルトの、来れいとしのツィターを弾いていると隣の部屋へ入って行ったカテリーナにつれられてアリサが戻ってきた。

正太郎に寄り添ったアリサが「ショウはいくつぐらい弾けるの」
「横浜で覚えたのは2曲くらい、パリで2曲かな」
「エメに習ったんでしょ。いいのよ言わなくても」と正太郎の唇に人差し指を挿した。

「エメから貴方を取ろうとは思わないわ、でも時々はこうしてあってね。此処ならカテリーナが番をしてくれるから人の眼を心配しなくて済むから」

どういう関係なのだろうと正太郎が思ったのを察したかアリサは体を寄りかけてきたので右手を腰に回すと話をしてくれた。

「カテリーナはポーランドに派遣されていた軍人のお嬢さんで、今ポーランドがもめているので又従姉妹の私の居るパリへ留学に来たの。この家は私のお婆様が生まれた家で私が引き継いだのよ。M.ブロティエはお婆様が私の祖父と結婚した頃に雇われたそうよ、曾お婆様の時から働いて下さっているの」

「アリサはお金持ちなんだね。バイシクレッテも高く売りつければ良かったかな」

「まぁ、ショウは案外けちね」
そういって体に回した右の手の甲をつねった後其の手を引き寄せてビズをした。

「確かに私の家はお金持ちかもしれないけど、私がお金持ちと言うのとは違うわ。この部屋の調度も其のあたりのセーブルにマイセンも叔父さまが生前に集めたもので私は引き継いだだけ」

そんなfaire l'amusement de(からかう・楽しむ)二人は暫くいちゃついているとカテリーナがじれて「あなた方いつまでそうしている気なの」と二人の間に強引に割り込んできた。 

時間を見ると8時半が近く慌てて「僕はもう行かなくちゃ。今日はご馳走様」正太郎がサックを引き寄せようと体を起こすのをカテリーナが抑えてビズをしてきた。

「ビズだけよ。カテリーナ・エーリン」
アリサがそういって立ち上がるとバイシクレッテのお金をテーブルに並べた。

「日曜日は朝から来るのよ」

「ウイ・シトワイヤン。9時で良いですか」

「ウイ・シトワイヤン。それでよろしい」

切れ々に正太郎が答えて、ようやくカテリーナから身を離して280フランを数えて受け取り「じゃアイムに注文して家のセディとおそろいの奴を作らせますね。出来上がったら届けさせます」と二人に見送られて階段を降り、自分のバイシクレッテを表に出してアパルトマンを後にした。


Paris1872年7月15日 Sunday

昨日7月14日は共和国の記念日で町は賑わった。
後年の日本でパリ祭と呼ばれる(Quatorze Juillet)正式な共和国行事になるのはまだ先の話だ。
その14日の朝、セディはいつもの順路、途中から正太郎はモンマルトル・オランジェ銀行のサン・タンヌ街支店へ出向き2000ポンドを下ろしてフランに交換する事にした。

2000ポンドは46800フランになり、8000フランをシャトー・ベレール用に1枚、2000フラン手形10枚はボルドー行きの資金、500フランの手形10枚は予備資金、4200フランはバイシクレッテの支払い11600フランは現金として金貨50フラン38枚、と20フラン20枚、5フラン20枚として貰ったが、手数料は要らないので出来るだけこの店で交換してくれるように支店長から直々の申し入れだ。

本店より此処にあるほうの預金が多いのがわかったのかなと正太郎は思った。

パリジェンヌ商会へ出かけて追加50台を子供用10台にYokohamaと名づけた婦人用のセラをつけたものでいいか聞くと、了解と販売担当のアイムが快諾した。

「今日は三年で150台、1台当たり240フランで契約ですが、出来れば来週からボルドーへ行くので今年の分の支払いは帰ってきてからで良いですか」

「良いとも、それで前の20台分も其れに入れるのかい」

「いえこれからの分と前の20台は分けてください」

3人が集まって相談していたが今年70台で契約ということでいいなら20台分と50台分が同時支払いは可能かい」

相談するようにアイムが切り出した。

「今日は20台分の残り4200フランを持参しましたから、後はボルドーから戻って12000フランを支払います」

また三人で相談してアイムが代表して正太郎に告げた。
「20台分は契約どおり5200フランで支払ってもらうがその代わり3台を余分につけるから受け取ってくれるか」

「本当ですか、嬉しいです。で、ついでにお願いがあるのですが」

「脅かすなよなんだお願いとは、ショウらしくも無い、気味が悪いぜ」

「これはアイムにですが。例の話しエメが戻ってからですが、例のところにはあの二人のほうから行きたいと言っていたとアイムに伝えてくれと伝言です」

本当かと顔が崩れるくらい喜んだので二人の弟が何を兄貴はにやついているんだと正太郎につめ寄った。
「この間のロシアのお嬢さんとキャバレ・デ・ザササンへ行くという話しです」

「兄貴俺たちに内緒で行く気かよ。俺たちも付いてゆくぜ」

ルネとマリウスのオリビエ兄弟が騒ぎ出した。

「ショウ。参ったなこいつらが来るとろくな事にならんぞ」

「実はメゾンデマダムDDでもばれてしまって、ニコラにダンとラモンも呼べと煩いのですよ。こうなったら大勢のほうが良いですよ」

「仕方ねえな。ショウがいいならそうしようか。それでいつごろになる」

「ボルドーに5日間は居るようですから早くも25日、遅いときでも27日には戻ります」

「では27日の土曜日から31日の水曜日までを開けておこう。支払いは俺が持つぜ」

「イエイエどうか其れは僕と折半にしてください」

「ほんとに良いのかそれならもう少し人が来てもいいな」

「ではエメともう一人にMlle.ビリュコフとMlle.エーリンの4人のマドモアゼルを僕のほうで呼びます。男は一人増えて5人になるかもしれません」

「あのジュリアンという粋な男か」

「そうです」

「じゃ男が8人に女4人か後3人は集めたいな」

「ダンに相談してみますよ」

「そうしてくれ。セルヴァーズばかりより素人女が多いほうが良いだろう」

参加人員は其れでいいだろうと弟たちも乗り気だ。

「それからおまけの3台ですが子供用のにしてくれますか」

「良いとも、何か当てでもあるのか」

Mlle.ビリュコフはこの間アイムが遇った執事の孫に1台上げるそうです、僕のところにいる使い走りの子に1台、エメのアパルトマンの管理人の子に1台」

「あっという間に行き先が決まってくるな。ショウ本気でバイシクレッテの販売店を開いたほうが良くないか」

「そうは行きませんよ。僕はあくまで仲買が商売で専門店には手を出しません」
惜しいなショウがやればいくらでも売れると思ったのになと兄弟はかわり番子に勧めた。

帰りがけにフランス郵船でYokohamaへのバイシクレッテ10台の輸出と其の後40台の輸出を梱包込みでの見積もりを月曜に聞き合わせに来ることで頼んだ。

「それとこの間と同じ数量のワインが集まる予定ですが金額の改定は無いでしょうか」

「ワインは同じで大丈夫だよ。M.Maedaは商売が上手だね」

「先生のジュリアンがうまく仕切ってくれますので今はお金も上手に廻ってくれています」

「バイシクレッテとはいいところに眼を着けたね。まだジャポンでは作れないのだろ」

「そうでも無いようですが。やはりフランス製品の人気は高いと見ました」

Loodへ寄って昼食を取ってジュリアンが来たか聞くと今晩つくと電報が来たからメゾンデマダムDDにも今ごろついているよとママンが教えてくれた。

正太郎は鳥の叩き肉入りのオムレツとコンソメにパンでお昼として酒は飲まずに済ませるとエメに注文を伝えた。

「ボナパティ」とエメがコンソメとパンを持ちママンが追いかけるように大きなオムレツを運んできた。

「大きいな」
「サービスだと親父さんが言っているわよ」

「参ったナァ。これからは他の人が一緒のときにしてくれるように頼んでくださいよ。僕の腹じゃこれだけ入れたら動くのが苦しいですよ」

「もう少し太りなさいな。背はジュリアンと同じくらいなのにまるっきり細いじゃないの」

「僕の国じゃあんまり昼間の食事を食べない習慣なんですよ」
といいつつも正太郎は若いだけあってどうにか大きなオムレツを食べきることが出来た。

「いったいいくつ卵を使ったんですかね。バターのいい香りがして美味しかったですよ。それといいワインで鳥を味付けしましたね」

「判ったかい、昨晩ジュリアンが呉れた奴が残ったので其れを使ったのさ」

親父さんが空き瓶をかざしたのを見るとMargauxのエチケットが見えた。
エッと驚いて正太郎がお金を払った後ビンを受け取って見るとまさしく本物のシャトー・マルゴーの1850年だった。

「美味しかったでしょうね」

「う〜ん。なんていうかな俺にはもう少し若いワインがいいな。ここまで寝かされていると香りが強すぎるな」

「もしかして栓を開けてすぐ飲みましたか」

「アアそうだよ。待ってなぞ居られないよ」
昼の忙しい時間も終わり親父さんは店に出てきて話を続けた。

「ジュリアンは飲み方を言いませんでしたか」

「何か小難しいことをいっていたが忘れた。あいつ軍隊に入る前の騎馬警官の頃から理屈が多くてな。だがこいつ高いワインだということは知っているぜ」

道理で今日のオムレツの味が引き立つこと、ジュリアンが聞いたら呆れてサン・ヴァンサンにお祈りをあげてしまうだろうと可笑しくなった。

正太郎の笑い顔につられて「やっぱり飲み方がいけなかったか」と親父さんもママンも笑い出したので洗い物をしていたエメが怪訝そうな顔を出して「何事なの」と聞いた。

日曜は朝から正太郎は忙しく動いていた、昨晩の内にジュリアンが前回と同じ日曜日の23時15分発車のSpecial Express Bordeauxの予約を取ったと連絡が来たので旅行の支度をするとジュリアンの定宿になったオテル・モンマルトルによって夜の迎えの時間をこの間と同じ10時に約束した。

「忙しそうだな」

「そう今日はソルボンヌの学生のバイシクレッテの練習を見てあげる約束なんだ。其の人たちとボルドーから帰ったらバイシクレッテの会社の人たちも交えてキャバレ・デ・ザササンで騒ぐ約束だよ。それでジュリアンも参加して欲しいのさ。費用は僕とバイシクレッテの社長が持つ約束が出来たんだ」

「其の学生ってこの間のマドモアゼルたちかよ」

「今のところそのうちの二人だけどダンが明日にでもほかのものに聞いてみることになったんだ」

「そいつはいいがお前へエメに黙ってそんな会を開いて大丈夫かよ」

「みんながエメの都合で開くといってくれているんだ、今は学校も休みだし何時でも参加できるはずだよ」

「学校ってのはわけがわからんな。休みの奴も居れば年がら年中授業しているのもあるし」

「そうだ、一昨日はエコール・サントラルのミハイル教授に授業にも参加させてもらって化学反応の実験と試薬も貰ってきたんだ」

「例の花火の色つけにどうかという奴だな。教授も其れがうまくいけば金になるといってたな」

「でもロンドンで何色か打ち上げに成功したと昨日は言っていたよ。手遅れだったようだね」

「そいつは惜しいことをしたなだが金属を粉にすると言うのは面白い話しだ」

「9時までにモンジュ街の外れのドーベントン街まで行く約束なので夜に迎えに来るね」

「余り其のマドモアゼルたちにのめりこむなよ」
ジュリアンは心配そうに言うがもう手遅れなのだ。

正太郎はセーヌまでの降りを一散に走り抜けレピュブリック広場からタンプル大街に入りLa Bastille(バスチーユ)の牢獄跡の広場から運河沿いに抜けてオーステルリッツ橋を渡った。

自然史博物館の脇を抜けたときは余裕がみえ、バイシクレッテを降りたときは5分前だった。
アリサとカテリーナは仕度をして玄関の内側で待っていたらしく正太郎が時計を仕舞うのと同時にドアが開けられて二人が出てきた。

正太郎は一息つけるために昨日のパリジェンヌ商会の話を持ち出した。
「そう、じゃアイムが届けてくれるのね。お金はどうすればいいの」

「僕のほうで良いですよ」

「じゃ受け取るだけならM.ブロティエが受け取ってもいいのね」

「そうです。それとキャバレ・デ・ザササンは僕がボルドーから帰る27日から31日ごろになる予定です」

「そう月末の5日間は何があろうとも空けておくわ。それでいつボルドーへ行くの」

「今晩のボルドー特急です。キャバレ・デ・ザササンのことはアイムが其れを聞いたら喜びますよ」
アリサはメッと言う顔で正太郎をにらんだ、其の眼には参るなぁと正太郎も思うほどで、出来れば怒らせて其の目つきでにらまれたら幸せに思う人が多いだろうと感じた。

NHN(自然史博物館)へ正太郎が先導して走り、植物園を回りこんでセーヌのサンベルナール河岸(Quai Saint-Bernard)で一休みし川風に吹かれて汗を拭った。

「やはり道路へ出ると怖いわね」

「どうですか周りの人に注意が行きましたか」

「無理無理、なんにすれ違ったか判らないくらいだもの、人なのかどうか覚えていないわ。カテリーナはどうなの」

「あたしもショウに遅れないように走るので精一杯でほかの事に眼が向けられなかったわ」

「最初はそんなものですよ。では今度は僕が後ろになりますから植物園の外周道路を走りましょう。此処は真っ直ぐですし人も余り居ませんから。行きがアリサ帰りはカテリーナで往復しましょうね」

「ええっ、ショウが先じゃないの。怖いじゃないのそれ」

「先ほどの走り方なら大丈夫、ここは周りが見えないように樹が茂っていますから集中できますよ」
3人でオーステルリッツ橋側の門の近くまで走り先頭を交代して元の場所まで戻った、往復でほぼ800メールくらいの距離だ。

片道400メートルくらいだが相当怖かったようで二人は正太郎のわからない言葉で盛んに今の走りを話していたがLe volant de la bicyclette(バイシクレッテの車輪)と言う言葉やポワニエ(poignee・ハンドル)がどうとか言っていたが二人でわき腹を掴みあって笑い出すには正太郎には理解できない行動だ。
「ショウ。ショウ、このひとったら可笑しいのよ。私のお腹のお肉をつまんで此処もポワニエだって言うの」

カテリーナが可笑しそうに笑いながら言った。
「ニューヨークで案内をしてくれた太ったイタリア移民の人は其の余ったお肉はラブ・ハンドルと言っていましたよ」

アリサが話を引き取って二人に説明した。
「パリではLes poigees d'amour(レ ポワニエ ダムール・愛のひとつかみ・わき腹の肉)というらしいわ。運動しないと後で私たちの親戚のアナスタシヤ夫人みたいに一つかみどころか掴みきれないくらいに太るわよと脅かすのよ」

アリサの腕には汗の玉が浮いて其れを拭った後は日差しの中で産毛が反射して金色の虹が出たかと思うほど綺麗に見えて正太郎は感動した、カテリーナは産毛もなく真っ白な腕が少し日焼けして赤みが増してきたようだ。

「二人とも、パリの人みたいに日焼けから顔を守って傘を差したりベールをおろすことはしないの」

「そう、私たちの国では冬が長く日差しが少ないの、太陽が出るとこうして日差しを浴びるために出せるところは全部出すのよ。カテリーナは日焼けしやすいけど私は余りしないようね。私はフランス人の血が混ざっているけどこの娘は生粋のスラブ人よ。ギリシャ語からきた奴隷という意味のスラブを使う国も有るけど私たちの間では栄光あるというスラーヴァーから来たと教えられたわ」

「アリサ、良くわからない言葉も有るけど、私たちはキエフ・ルーシ以来の純粋のスラブとは違うみたいよ。祖先にはスオミの血が混ざっているのよ」

「本当にそうね、そうだったわ。カテリーナは歴史が好きなのよ私は赤点ばかりで怒られていたわ。我が家の歴史も赤点ばかり」

一休みしてまた正太郎が先導して河岸の道をオーステルリッツ橋の馬車トラムの線路を越えてピチエ・サルペトリエール病院の道へ入り込み、サン・ミッシェル街を抜けてゴブラン大街で右へ曲がりモンジュ街の人ごみを抜けてドーベントン街へ無事到着した。
「お帰りなさいませ。いかがでしたか」

「こわかったわ、一人で走るのはまだまだ無理ね。カテリーナともっと練習しないと歩いている人を避けるのが大変」

「左様でございましょ。M.ショウが付いておられるので安心はしておりましたし、お嬢様方は勇気がありなさいますがそれでも心配を致しました。皆様シャワーで汗をお流しください。M.ショウはこの間のところが使えますのでどうぞお湯も出るように支度がして有ります」

「ありがとう汗にぬれたシャツを替えられるのは助かります」

「終わりましたら下の食堂にショウ様の分も食事の用意を致しますので降りてきていただけますか」

「判ったわ。1時間したら食事に降りてゆくわ。ショウこのアパルトマンの住人に紹介するわね」

「まだほかに下宿人がいるのですか」

「そうよ。今此処は12人の留学生のための宿舎なの、5階と4階はそれぞれ6部屋があるのよ、棟続きの2階と3階は私とカテリーナの住まいで階段は別なの。世話をするのはM.ブロティエの息子夫婦にメイドが6人居るのよ。私たちは一人ずつメイドが附いているけどね。詳しいことは後で話すわ」

アリサが先頭で3階へあがりショウは此処よと昨日の部屋を教えて扉を開けて正太郎が入ると自分も中へ入って鍵をかけた。

「アリサ、どうかしたの」
アリサは服を脱いで正太郎の汗のしみた上着も剥ぎ取ると胸を押し付けて身もだえしてビズをせがんだ。

二人は服をすべて脱ぎ捨て愛の交換に忙しく時間を忘れそうになった。

ノックの音でわれに返り「アリサもうでて来なさい」というカテリーナの言葉でしぶしぶ服を抱えて出て行くアリサだった。

正太郎はシャワーを浴びて服を換えて廊下の突き当たりのドアが開けてある部屋に入った。
「後10分で約束の1時間よ。あなた方昼間からいい加減にしなさいな」
アリサと4つも下のカテリーナに諭されるように言われるのだった。

アリサも着替えが終わって3人が下へ降り管理人室の脇の廊下から食堂に入った。

5つのテーブルには10人ほどが座りアリサとカテリーナが入ってくると一斉に挨拶をしてきた。

隅に置かれた台に、ハムやローストビーフにゆで卵やトマトを刻んだサラダにパスタサラダが置かれ、パンはそれらをはさみやすい薄さにトランシュしてそえてあつた。

「普段の食事は皆さんと一緒に此処でとるのよ。コックさんは住み込みで全員の食事が偏らないように、宗教で禁止されたものが出ないように気をつけているのよ。3食付で食べても食べなくとも一月120フラン」

「3食付なら妥当な値段ですね。でも留学生は120フラン出せる人はいいけど出せない人も多いでしょうね」

「そうよ普段はいろいろなところで働いている人も多いわ。お昼は此処へ食べに帰る人が多いのよ。お友達を招待するときはお昼は40サンチームで食べ放題だから学校があるときは20人以上来るわ」

正太郎も其れは安いと思ったが食べているのは女性ばかりが眼についたので聞いてみると「此処は女の人しか受け付けていないの。男性は訪ねてきてもこの食堂と隣の図書室でしか会えないのよ。もっとも大家の私とカテリーナは住居が別だから例外」

そうアリサはいってカテリーナと眼で合図を交わして正太郎の手を触ってつねってフフフと笑いかけた。

「アリサその人紹介してよ。東洋の人なの」

「そうよジャポンから来たShiyoo Maedaよ。ショウこのマドモアゼルはスペインから医学の勉強に来たブランカよ、ブランカ・オルディアレス」

正太郎は改めて「ショウと呼んでください」と手を取って軽く口付けをした。

傍に次々に人が来るので「もう面倒だから貴方たち自分で名前と出身地を言ったら」とアリサに言われて次々に名乗られて正太郎は覚え切れるもんじゃないと思いながら全員と握手したり手の甲にビズをしたりと忙しかった。

なかなか食事がはかどらずまだ一皿めの正太郎に「ショウは少食ね」と笑いながら自分の皿に山盛りにとって行ったパオラという娘はもう3回目だ。

「味が合わないの」

「いやそうじゃなくて話しに来る人が多くて口に運ぶ暇が無いのです。このパスタのサラダがおいしくて作り方を知りたいくらいです」

「あら、家のコックを紹介するわよ。ミミ厨房のアリスを呼んでくださる」

「はい、お嬢様」
メイドは奥へ入りコック帽を被った女性を伴ってきた。
「ローストビーフも美味しかったですがこのパスタの酸味が利いていて、其の上スパイシーな香りがとても美味しいです」

「メルシー。褒めていただいてとても嬉しいですわアンチョビとワインビネガーとサラダオイルに10種の香辛料が使われています、今はグリンピースが時期ですので其れを茹でてすりつぶしたソースが掛かっていますので緑色が映えるようにトマトも種を抜いて刻みいれてあります。すぐレシピをお書きしますのでご自宅でお試しください」

「下宿先のコックに教えても良いですか」

「勿論ですともムッシューがこのレシピ広めてくださると嬉しいですわ」
30代くらいだろうか銀色に光る髪をコック帽の下に巻き込んであるのか後れ毛が覗きいかにも料理が好きですという風情の人だ。

握手をして正太郎はまたパスタとパンに少量のハムを持ってきて食べることに専念した。

視線を感じて眼を上げるとアリサは食べ終わったようであごの下で両手を組んで正太郎を見ていた。

「どうかした」

「ううん、正太郎は食べ方も上品ね」

「そんなこと無いでしょ」

「ううん、私の知ってる男たちはパンをそうやって食べることが無いもの。サラダやハムをめ一杯はさんで大きな口でかぶりつくわよ」

「そういえばそういう人がパリには多いね。Yokohamaのフランス人はそういう人を見なかったよ。がつがつしていたのはアメリカから来た人が多かったかな」

「ショウはじゃYokohamaでマナーを学んだの」

「僕が勉強していたところは孤児院でReimsから来た二人のマドモアゼルが運営していて、その人から食事のエチケットを教えていただいたのさ。其処を弟が引き継いで僕は貿易の勉強を始めたんだけど、フランス人のホテルやレストランへ連れて行ってもらって覚えたんだ」

正太郎も食べ終わり今日はこれで帰るというとバイシクレッテのお金を持っていってといわれて2階へ付いて上がった。

アリサはお金を数えて正太郎に渡すと「暫く合えないとさびしいわ」と体を預けてきて強烈なビズを何度もせがんで切なそうにあえいだ。

「もう行かなきゃ」

Une vapeur locomotifはまだ時間があるわよ」

「まだ仕事を片付けないといけないんだ。居ない間の打ち合わせに2軒の仲買人の店によるので忙しいのさ」

「もう、ショウはどこでそんなこと覚えたの」

「何のことさ」

「私をじらして焼きもちを焼かせるテクニークよ」

「そんなことしないよ。本当に仕事だよ。僕の年でそんなことできるわけ無いだろ」

「良いわ、信じてあげる。浮気しちゃ駄目よ。エメだけは仕方ないけど他の人に手を出さないでね」
正太郎は約束してようやく体を離してもらうことが出来た。

「メゾンデマダムDDに帰る前に何処によるの」
手帳を見せてヴァルミ河岸のバスチァン・ルーとジャン・ピエールを教えて今朝セディに連絡に行かせて4時までに行く予定だと連絡をしたことも話して開放してもらった。

「日曜でも店は開いているの」

「いや今日は休みだよ。店の裏に住まいがあるんだ其処に家族と住んでいるからここの帰りに寄れば都合がいいのさ」

正太郎はバイシクレッテを懸命にこいで坂を上がって北駅までたどり着いた。

疾風のアルマンが居て今晩迎えに出られるかもしくは他の人を頼んでくれるようにしてメゾンデマダムDDに向かった。
ヴァルミ河岸は口実で、あれ以上居ると取り返しが付かなくなると感じたからだ。



Paris1872年7月19日 Friday

ボルドーにはいって4日目精力的にシャートーをめぐりジュリアンのおかげもあり正太郎の契約も順調に進んだ。Yokohama向けはあくまで若いワインセカンドを中心に選んだせいもありシャトーのオーナーも協力的だった。

M.アズナヴールも精力的に動き契約金、前払い金などでも協力してくれ、共同買い入れの二人の若い醸造家の壜詰め作業も順調で品物が揃い次第パリへ送られるものと直接Yokohamaへ送られるものに分けられてM.アズナヴールが取り仕切って後で経費の請求がジュリアンを通じてされることになった。

正太郎が用意した手形は殆ど支払いに当て、ジュリアンも3万フラン用意した金がすべて出て行った。

「ショウ、お前後どのくらいある」
「現金で2200フラン、予備の手形が500フラン」

「俺は後300フランしか無いぜ。Mlle.オウレリアの一行が来ても飯代を集らずに済むくらいのもんだ」

「いいじゃないですか。後買い入れる契約が出来ればパリへ戻れば済みますから」

「ショウ、お前は気楽だよ」

「だって、Yokohamaと連絡を取ることを思えば3日目には戻れるのですからたいした事ありませんよ」

「ショウは本を読んでいれば昼間の特急でも退屈しないと言うが俺は話し相手が居ないと寝るしか無いからな」

この日は約束の日でカバネルの店に朝から二人は訪れてお茶と菓子の接待を受けていた。

ジルの店から使いが来て表に出るとおなじみの一行が店の前から手を振って正太郎とジュリアンに笑顔を見せていた。

「お久しぶり、てのは変ですかね」

「いいんじゃないですか。パリからだいぶ離れていますから。バウスフィールド夫人はあなた方が契約したシャトー巡りをしたいと張り切って馬車を仕立てに行きましたよ」

M.アズナヴールが呼ばれオウレリア一行と挨拶を交わしているところへバウスフィールド夫人が戻り旧知の間柄の二人が挨拶して2台の馬車に10人が分乗してシャトー・ベイシュヴェルへ向かった。

先日訪ねたときにはMomoの叔父に当たる若夫婦が5年後をめどにシャトーを引き継ぐことも決まり、Momoの祖父母が一時的に経営者になることが発表されていた。

M.フランソワは引退して世界旅行がしたいとまだまだ若いところを訪れた正太郎とジュリアンに話してくれた。

この日付近のシャトーを巡りカバネルとジルとM.アズナヴールは先に戻り残りの一行はシャトー・ラネッサンの館に泊まって帰る事になった。

M.デルボは先行したカバネルの話を聞くと自分のところは最後でいいから泊まって行けと伝言をさせたのだ。

レオヴィル・ラス・カーズはMomoの両親が責任者だ、ここでも一行は歓待されてバウスフィールド夫人はこのシャトーの醸造するワインに陶酔したようだ。

Momoの今の生活と義理の親子とはいえ信頼しあっているという話しに本心から喜んで「たまには帰ってきて欲しいけどどちらかが留守になると困りそうね。手紙だけではさびしいけど我慢しなくちゃ」と母親のアイナス・サラは健気に言って涙を拭った。

M.デルボの館での宴会は大盛況で最後にはバウスフィールド夫人と正太郎にジュリアンを呼び寄せて「これからも優先的に君たちに出そう」とまで言ってくれた。

シャトー・ラネッサンのセカンドをジュリアンと共に2000本契約したが此処の秘蔵とも言うべき10年物を毎年500本10年間3人に出すという契約を一族の承認を得て仮契約までしてくれたのだ。

スミス商会は250本ジュリアンが250本を引き受けてそのうちから50本を正太郎がそれぞれから譲り受けることに決めた。

「それだけで良いのか」

「ほんとよもっと欲張ってもいいのよ」

「でもジャポンではまだこれだけ高いのは10年早いですよ。時代がワインを認めれば必ず売れると思いますがそれには時が必要です」

「まったくショウと来たら若いのか年寄りか良く判らん。気が長いには驚かさされるばかりだが、ボルドーに来る前にフランス郵船で輸出の見積もりも完了して後は品物が集まるのを待つだけにしてきたし、まったくUne main est tot(手が早い)ぜ」

正太郎は其の手が早いが(Une main est tot pour une femme・Un Don Juan)ほかの意味もあるということにも気が付き、それには笑うだけでごまかしたがバウスフィールド夫人やエメには判らなかったようだ。

少し酔った正太郎とエメは若いサラ・ヴァネッサ・デルボに案内されて館の周りの森を散歩に出た。

9時に近い森はそろそろ日が落ちかかり薄暗かったが広場のかがり火が見えるより遠くに行かなければ様々な鳥の声がまだ聞こえて賑やかだった。

「アッ鶉だ」

正太郎が思わず声を出したがYokohamaにもいる鳥の声が聞こえて懐かしくなったのだ。

「ショウはカイユを知っているの」

Yokohamaでもたくさん居ましたし。声が綺麗なのでお金持ちは綺麗な籠に入れて声を楽しむそうですが、食べるのが好きな人や卵に栄養があると飼育されている人も多かったです」

「そうなの、卵は鶏より高く売れるのよ。私は叩いた肉の団子のスープが好きよ」

Mlle.デルボは正太郎たちより年が上のようで少し太り加減だがジュリアン好みのふくよかな顔立ちだ。

狐の親子連れが3人の前を横切りそろそろ時分どきかと館の宴席へ戻った。

「あなた方、恋人同士なのね。羨ましいわ私なんてこんな田舎でしょお祭りやこういう宴会でも無いと男の方と知り合う機会も無いわ」

Mlle.デルボはエメたちが手を繋いで歩く様子を羨ましいと真顔で訴えた。

「エメは私と一緒、ジュディはMrs.バウスフィールドとよ」

男三人は同じ部屋で良いわねと部屋へ案内されてもジュリアンは陽気に歌を謳っていてMr.ラムレイがそそのかすものだからシャンソンを5曲も歌ってやっとル・リに入るとすぐ眠りに落ちた。

「はっは、面白い人だね。この人と付き合っていると退屈しないね」

「そうなんです。とても愉快で物は知っているしユーモアはあるし女にもてるしと言うこと無いドン・ジュアンですよ」

「ドン・ファンのことだね」

「そうですイギリス語で話をしますか」

「いやフランス語のほうが良いよ。ドン・ファンのことを知っているかね」

「女たらしのことでしょ」

「そう其の女蕩し」

ジュリアンが寝返りを打ち「フン俺がだとショウのほうじゃねえのか」と寝言らしく其の後シャンソンをつぶやいてまた寝込んでしまった。

「やれやれ寝言でもわれわれの言うことに返事が出来るとは器用だね。ドン・ファンはスペインの伝説の放蕩児のドン・フアン・テノーリオのことさ。死んでから100年経ってもまだ生きているかのごとく噂が一人歩きしている人物さ」

其の後どのように女と遊んだかとか幽霊や石像と宴会をした話、イタリアではドン・ジョバンニとしてモーツアルトの作曲でオペラになったなど15分以上も話をしてから二人も用意してくれたル・リ(ベッド)で眠りに付いた。

よく20日の朝起き出した正太郎が着替えた下着を見てグレン・ラムレイは不思議そうな顔で見ていた。

「これですか。日本でも余り穿かない奴ですが着心地と着替えが楽なので愛用しています」

「そうだ、俺も貰ってお袋に作らせて最近は手放せなくなったよ前のは足首まであって履き替えるのに苦労したがこれなら楽なものだ。新品があるから試してみますかい」

ジュリアンが新しいものを渡すと好奇心一杯のグレン・ラムレイは早速はいてみて「こりゃ楽でいいな。ヂアン・ショウ君がこれを売り出したら儲かるぞ」

「そうかそいつもいいかもしれませんね。そうだセディの養い親のおじさんと言うのが仕立屋とかねて洋服屋をしていたそうだから資金を出して店を持たせてみようかな」

ジュリアンも賛成して「俺が借りる場所は5日後から店の改造をするのだが其の2階に住まいと仕事場にできる場所が有るぜ。2階は食堂と炊事場がともにあるし、店は小さくとも良いだろうが2階の仕事場は5人くらいが作業できる。住まいも俺たちは3階を使うし、従業員は4階に4部屋あるからその内二部屋と屋根裏部屋に大きな部屋があるから其処に子供たちのル・リなら6人は暮らせるぜ。儲けたら大きな場所に越すこともできるしな」

Mr.ラムレイは経緯を説明してどうやら恩のある人に関連してるようなので自分は300ポンド其の店に投資するから後は頼むと正太郎に任せることになった。

「どうですかね最初は利益の半分半分では無理でしょうから給与として月160フラン。奥さんにも働いてもらうとして半分の80フラン、3ヵ月毎の締めで儲けの20パーセントを出すという約束で雇われてもらえるでしょうかね」

「いい条件だと思うぜ。店や住まいは俺が持とう。それで俺にも儲けから20パーセントを呉れないか。家賃だと思えばいい話だろうぜ」

「そうですね儲からなければ出さなくて済むお金ですものね」

「こらこら。損をする気で仕事をさせるなよ」

皆で大笑いで着替えて下へ降りていった。

「朝から機嫌が良いわね。もう一杯やったの」

「いやパリで新しい商売をMr.ラムレイが考え付いたのさ。大儲けの予感がするので機嫌がいいのだよ。エメは正太郎みたいに商売は上手いし気風のよい男に恵まれて幸せもんだぜ」

何かわからぬながらも正太郎が褒められたのはエメにも嬉しいはずで一同が庭で談笑していると散歩から戻ったオウレリアたち3人も加わり今の話しで盛り上がった。

「それ横浜にも輸出したら」といわれて正太郎は大事なことを思い出した。

「これって権利は最初に作った人にあるのかな」

「そいつが権利の登録をして居ればともかくジャポンにはまだそんな法律は無いだろうぜ。儲けが出るようならその人に少しは贈り物をするんだな。其れより真似をされないうちにパリとロンドンにボストンでの登記をしておこうぜ」

鮫島にも確認を取ることと横浜へ連絡を入れて大和屋の意匠登録は権利が保障されているのかを電報で確認することにしたが、まず此方は此方で行っておくことにするとオウレリアが引き受けて簡単な図面と裁断図面を急いでムッシュー・バルバートル に描かせる事になった。

「どう今度のボルドーはもう手続きも済んでいるようだから今日午後にでもパリ行きが出るなら急いで帰って、其のもと仕立屋に会いましょうよ。ショウの話しだと気持ちのよい人みたいじゃないの」

昨晩交わした契約もバウスフィールド夫人の満足がいくもので今回はすべてで契約が上手く行って、来月ロンドンからまた来れば良いということに話がまとまった。

朝の食事が済むとあわただしくカバネルの店に戻り時間を調べると14時50分発、21時15分到着の特急があると言うので慌ててしたくして駅へ向かった。Mr.ラムレイが先行して切符の手配を済ませてくれたのでジュリアンも正太郎もゆったりとホテルを出ることが出来た。

サンジャン駅でMr.ラムレイは早くもホテルの予約の電報を打ち念のためM.カーライルあてにも出していた。

正太郎はメゾンデマダムDDへジュリアンはオテル・モンマルトルへエメはリディへとそれぞれが電報を打っている間にMr.ラムレイは車内での菓子に水などを買い入れていた。

「ワインは君たちの荷物に30本くらいあるからそれ以上飲めといわれても飲めんよ」と笑いながら荷物をポーターと車内に運び入れた。

今回はメゾンデマダムDDあてに200本がMomoの親族から送ってくれることになった、勿論ジュリアンの買い入れたものだが店が出来ればすぐにReimsで結婚式そして新婚夫婦で店を開くのだ。

男同士で一部屋、女4人で一部屋が取れてゆったりと列車の旅が始まり、暫くするとジュディが正太郎を呼びに来て部屋へ行くとオウレリアとバウスフィールド夫人も出て行ってエメと二人になった。

最初向かい合っていた二人だが正太郎が手をさし伸ばすとそれをエメが引き寄せ隣へ座らせた。

進行方向を見ながらこの間は往復とも夜行でエメとこうして昼間の旅行がしたかったという正太郎の肩に頭を乗せ、見上げるようにして景色のことを話しあった二人はアングレームをすぎた頃にはビズを躱し優しく肩を抱く手を感じながらエメはシャテルロ駅を過ぎる頃には幸せな眠りに就いていた。

サン・ピエール・デ・コ駅を過ぎてロワール川を渡る鉄橋の音で眼を覚ましたエメは両の手を正太郎の首にかけて不自然な形のままビズをせがんできた。

「起きたならそろそろ向こうと入れ替わらないとまずいよ」

「まだオルレアンに着かないでしょ。リリーが此処をオルレアンまで二人で占領して良いといっていたわ。指定の1等車だから人は来ないから。私どのくらい寝てしまったのかしら」

そういってなおもビズをせがむエメだった。

「1時間くらいだよ」こんな場所でと思ったがアリサの影でも感じているのだろうか正太郎を離そうとはしなかった。

オルレアンの駅へ入るため列車がバックしだしてようやく立ち上がって身だしなみを整え正太郎にチェックさせた後エメは正太郎も立たせて身だしなみを整えさせてオウレリアたちを迎えに行く間ここに居るように言って部屋を出て行った。

特急列車は20分停車してオルレアン駅を出て一路パリへ向かった

次の停車駅はエタンプで約50分其処から40分でパリだ、全行程6時間25分。

パリ到着は予定時間丁度「奇跡みたいなものだ」ジュリアンが驚いて「ショウの時計はどうだ」と聞いたほどだ。

3人の時計を合わせてみても2分と狂いは無く駅にはM.カーライルが3台の馬車を引き連れて待機していた。

Mr.ラムレイ、電報は2時間前に受け取りました。奇跡的に早い時間について最近は電信も良く為ったとおどろきました。インターコンチネンタル・ルグランも部屋はいつものように取れましたがMr.ラムレイのが有りませんでしたが幸いこの前のルイ・ガレ・オーステルリッツに空きが有りました」

「其れは構わんさ。良く3台の馬車を手配してくれたね」

褒められてM.カーライルは嬉しそうだ、立場から言えばM.カーライルのほうが上の身分だが人間的に尊敬しているようだ。

オウレリアにジュディ、バウスフィールド夫人の3人がインターコンチネンタル・ルグランへ出発し、エメと正太郎が積み込んだ荷物と共に出て最後はM.カーライルとジュリアンにMr.ラムレイの三人が目の前のホテルへ向かって馬車と共に移動した。

エメと正太郎の乗った馬車はサンベルナール河岸を進みシテ島の先へ沈む夕日の中をサン・ジェルマン街へ入りサンジェルマンの市場付近の賑わいの中を左へ折れてノートルダム・デ・シャン街へ向かった。

馬車が着いた音でリディとリュカが飛び出してきて荷物を受け取り大騒ぎで上へ運んだ。

正太郎は「少し待ってください」と馭者に頼んで後からエメと残りの荷物を運びあげた。

ジュディッタ・エルコラーニも出てきて大騒ぎの中正太郎は軽くビズをして「一連の話しの整理がついたら来るからね。今日は帰るよ」

エメは肯いて顔を忘れてはいけないとばかりにおでこをつけて「J'aime Shiyoo」と囁いてビズをして送り出しながら繰り返して「ジェーム・ショウ」とはっきりといった。

なぜかジュディッタが拍手をしてリディも其れにつられて拍手するなか、リュカと階段を降りながら可笑しな人ばかりだというリュカに共感してしまう正太郎だった。

馬車の前で「そうだリュカもバイシクレッテに乗りたいかい」と聞いた。

「うん、だけど高いからMereの稼ぎじゃ買えないよ」

「其れがセディと一緒に新品が手に入るんだ。それに乗りたいかい」

「もちろんさ。聞くまでも無いよショウ」

「じゃ、新しいのがもらえたらセディと此処に運ぶから乗り方を教えてもらうんだよ」

「ほんとだね、約束したよ」

リュカは階段をいっさんに駆け上がっていった。

メゾンデマダムDDの住人は何事が起きたかと心配そうに正太郎の帰りを待っていた。

詳しい話はやめてセディとベティに関係するところだけをかいつまんで話した。

「なんだお前の穿いている下着だぁ。確かに簡単でいいが其れが売れるのか」

「だってマリー・アリーヌが縫ってくれるものは生地代別で1フランで重宝しているだろ。どうだろうね2フランで物になるかな」

「そうね、生地代は60サンチームだけど大量に買えば仕入れは半分、一日二人でやれば30枚は仕上げられるからお針子を雇っても一人3フランで済むから1枚20サンチームとすると」

「1枚50サンチーム」マダム・デシャンが身を乗り出して叫んだ。

「女性用は下の合わせ目をもっと余裕を持たせればあの時脱がなくて済むわね」

「男物だって今のより工夫が必要だろうが其れは本職に任せて工夫させればいいな」

「だけど」

「だけど」

「あのね、私の内職がなくなるじゃないの」

「マリー・アリーヌ、貴方女性用のを作って販売したらいかが。今の仕事の傍ら暇を見て縫えばいいでしょ。売るのはサラ・リリアーヌがお店で扱ってくれるでしょ」

「勿論よ。貴方の名前で工房の製作として売りましょうよ。男が必要なら女も必要よ、今の雑貨屋のjupon(ジュポン)より穿きごこちはきっと良いわよ。確かに上流の人たちは高価なものを一流の職人に作らせているらしいけど。町のものはそんな物は買えないけど2フランなら出す人は多いはずよ」

メゾンデマダムDDの住人は皆が試した上での発言でセディもベティもおじ家族がこれでまともな職業について、子供たちも学校へ行かせてもらえることになれば嬉しいと感激した口調で正太郎に礼を言った。

「明日の朝Mr.ラムレイにジュリアンそれとオウレリアが来ますからそのとき作戦を練ってM.バルバートルに誰が話しに行くか決めましょう」

其れがいいな、店のあてもあるし、商売が順調に行くまでは正太郎とジュリアンが面倒を見てくれる、こんな上手い話しに乗らない奴は居ないということに落ち着いてそれぞれの部屋へ引き取った。


Paris1872年7月20日 Saturday

朝の食卓も賑やかだった、マダム・デシャンもベティが来てからは食卓についているので、今朝もマリー・アリーヌとサラ・リリアーヌのテーブルで盛んに二人に新しい下着の商売は見込みがあると煽った。

「だって人が一人も居なくなるまでは必ず新しい命が生まれるのよ。需要は永久に続くわよ、いいものを開発すれば働く女性も助かるわ」

二人は食べ終わっても暫くは席を立たずにマダム・デシャンの話を聞いていたが時間が気になりだしたかマダム・デシャンにことわりを言って席を立って2階へ上がった。

それぞれが仕事に勉強にと出て行ってMomoとベティは食堂の片づけが終わるとようやくクストー夫妻と共に朝食をとり出した。

セディにはいつものように二軒の酒屋へ向かわせて昨日の内にジュリアン共々緊急の要件を片付けるために帰ってきたことを連絡させた。

9時にオウレリアはMr.ラムレイを伴ってメゾンデマダムDDへやってきた。

暫く応接間で正太郎を交えてオウレリアにMr.ラムレイ、マダム・デシャンの4人で話し合ってセディが帰ってきたのでベティにMomoも呼び入れてMr.ラムレイが口を切った。

「おおよその話しは昨日ショウから聞いているだろうが、改めて確認させて欲しいのだが」

「はい、Mr.ラムレイ、どうぞなんでもお聞きください」

「君たちのご両親のことだがお二人の名前を聞かせてくれるかな」

いまさらなあにという顔ながらベティは落ち着いて口を開いた。

「ペールはマルセル・アンクタンです。この前の戦争でセダンの戦いで亡くなりました。メールはマリー・エリザベスです。ペールからは私と同じベティと呼ばれていました」

「父上には残念なことをしたね。それで母上の昔の苗字を知っていますか」

「はい、母が亡くなる前に形見に渡されたペンダントに忘れないように入れて有ります。ジョンストン=ダグラスと言うそうです」

そういって首から鎖をはずしペンダントの先のロケットを開けてMr.ラムレイに見せた、可愛い少女の写真と小さく畳まれた紙が入っていてそれには2つの名前が記されてあった。

Mary Elizabeth Johnstone-DouglasとMarcel Anquetinの名前だ。

「やはりそうか、僕は君のお母様にはお世話になった、というよりも其のお父上に代々仕える家令として執事を代々させていただいたのさ。ベティお嬢様とは僕がセディと同じくらいのときからいろいろと勉強や犬の仕込み方馬の乗り方まで教えていただいた。訳あって先代の伯爵がお亡くなりになった後お暇を頂いたが、お嬢様の子供が二人パリに居られることを知って探していたんだ」

「おう、ラ・メール・ドゥ・デュ、神様のお引き合わせですわ、私たちMereの生まれた国のことを良く知らないのです。お爺様のことお婆様のことお話ください」

「其れは今日の話が済んだら機会を作って必ず話してあげる。ともかく今日は君たちのおじさんの家族のことが先だよ」

自分たちが本当に伯爵の孫だと言うことが確信できた二人は振舞いも貴族らしく勝手なことはしないと、雄々しく母親のことは聞かずにおじ夫婦について語りだした。

「テオドール・バルバートルは血がつながっておりませんがペールとは兄弟同然だったといつも話してくれました。イヴォンヌ・バルバートルはペールの一番下の妹だそうです、家族は去年のパリの内戦ですべて亡くなってしまったそうで一族で生き残ったのはイヴォンヌだけだそうです」

「そうするとセディはアンクタンの名前をついで居るただ一人の男の子なんだね」

「はいそうです。私たちスコットランドへ行かないといけないのでしょうか、ペールの生まれ育ったパリが好きです、できればここへずっと住んでいたいのです」

「そうか、とりあえず君たちの伯父に当たる人が伯爵家を継いで居られるので、お嬢様の娘と息子が見つかったことだけは報告させていただくがこの人はベティお嬢様とは母親が違うので余りベティお嬢様のことを良く思っておられない、それもあってこちらへ来いとまでは言わないでしょう」

「ありがとうございます。弟の気持ちはわかりませんが私は母のなくなったパリから離れるつもりはありません」

子供心にも疎遠になった母の生まれた家とは何かあると感じていたようで、ほかの者にも言われたらしく、其の家のこともあるので余計伯爵と言う名前に嫌悪感があるようだ。

「僕はベティと一緒じゃなきゃスコットランドへは行かないし、ベティが嫌がる家には行きたくない」

セディもおじさんたちから聞いていた自分の家系がはっきりしたことで十分だと言うことを少年らしい真っ直ぐな気持ちでMr.ラムレイに伝えた。

「僕に任せたまえ君たちが嫌がることは僕が責任を持ってことわるからね」

Mr.ラムレイのはっきりしたものの言い方に二人の姉弟は安心したようだ。

「それでおじさんだが、働く気はあるだろうね。お酒におぼれていて仕事をしないと困るのだが」

「そんなことありません。お酒は好きで飲んでいるのではありません。昔のことを忘れるために飲むお酒です、働くことが好きな人ですから仕事場があれば必ずお酒もやめて家族のために仕立屋とブティックを繁盛させるはずです」

「判った、では私たちにおじさんのことは任せてくれるね。皆で商売がうまくいくように後押しをして自分の店が持てるようにしてあげるよ」

二人は喜んでお任せいたします、おじさんをよろしくお願いいたしますとMr.ラムレイにすがるように頼んだ。

「さぁそれじゃ作戦会議よ。まず誰が話しにいく。もちろん私よね」

マダム・デシャンは大乗り気で作戦を話しだした。

ヴァネッサがドアをノックしてジュリアンが来たことをつげ陽気なジュリアンが入ってきた。

「皆さんおはよう。話は済みましたか」

「ええ、大家さん」

「それなら話ははやい。僕のほうも今日家主に会ったら今からでも家の大掃除をはじめられると言うので話が決まればすぐにでも引っ越しが可能ですぜ」

とんとん拍子に話が進み後はバルバートル一家が承諾すればと言うだけになった。

話しはマダム・デシャンに任せてと決まりボルドーでの買い付けやMomoの家族の話になった。

Momoにもたまにはお里帰りをさせないといけないわね、ベティの学校が始まる前に倉庫の在庫も増やしたいので一度行ってもらおうかしら。ネMomoはどう思う」

「そうですねショウとジュリアンが買い付けるものの中からいいワインを300本ほど横取りしましょうよ。それとお爺様のお弟子さんたちの中から芽の出そうな人たちのシャトーも尋ねたいし、向こうに5日は滞在しないといけないけど1週間ベティにお願いできるかしら」

「はいMomoお任せください。お帰りに為られたら良くやったと褒めていただけるように一生懸命働きます」

伯爵の孫だとはっきりした今でもこの家でのメイドとして働くことが楽しいという意思表示をMr.ラムレイに見てもらう気も働いたようだ。

一同はジュリアンの新しい店を見に行くことにして男は歩いて丘を越えて、女性陣はオウレリアが乗ってきた4人乗りの馬車にベティとマダム・デシャンも乗り込んで丘を廻っていくことにした。

「では20分したら出るわよ。あなた方遅れないように一生懸命歩くのよ」

マダム・デシャンは楽しそうにお出かけの支度をMomoに言いつけて自分の居室に入った。

キャバレ・デ・ザササンの前を登りながらボルドーから帰ってきたらここで集まって騒ぐ話があると言うと、Mr.ラムレイも面白そうだが其の頃にはロンドンだなと残念そうだった。

Mr.ラムレイ実はね、このヂアン・ショウはロシア娘にいかれたようでどうも雲行きが危ないのですぜ」

「其れはどうしてだな。ヂアン・ショウはお盛んなのかね、エメと言う子が居てほかの娘に眼が行ってはもめるだろう」

「エメの都合のよい日に開くとは言いますが。どうもロシア娘の入れ知恵の気がしますぜ」

「その子にジュリアンは会った事があるのかい」

「いえ会っては居ませんが、経験ですよ。昔騎馬警官の頃に同じような奴を何人も見ましたからね。一人にもてるとなぜだか次々に若い女が寄って来るんでさぁ、そいつは一時期4人も彼女が居てそのことばかり話してくれましたがね」

「ジュリアン、君のことじゃないのかね」

「違いますよ、まったくMr.ラムレイは何を言い出すやら」

どうやら図星のようだ。

「ショウ、お前何を笑っているんだ。お前のことで心配しているんだそんな若いうちから何人も彼女の手綱が取れるわきゃ無いぜ」

「ジュリアンの思いしすごしだよ。エメにもてただけでも奇跡なのに、アリサが僕に気があるなんてジュリアンこそ会った事も無いのに気が早すぎるよ」

ロシア娘と言えばフランス語が話せる上流階級のものが多く留学してきて同じような貴族間の交際が乱れていることがパリでは常識だとア・ラ・ボンヌ・フランケットの前を右に曲がりながら前を歩くMr.ラムレイに盛んに危険性を話し続けるジュリアンだ。

「あいつら貴族や金持ち連中の多くは男漁りか女漁りが生活の一部だ」と強調するのだ。

そういえばダルタニャン物語の王妃もイギリスの宰相と恋に落ちたと浮気心は王室貴族の間では自然な流れのように書かれていたっけと思い出した。

「な、ショウ気をつけて浮気しろよ。エミリエンヌ・ブリュンティエールを泣かせるなよ」

「なんなのジュリアン、浮気はしてもいい様に話しているよ」

これにはMr.ラムレイも道行く人が振り返るほど大笑いで歩くのをやめて道端の壁に手を就いて発作がおさまるのを待った。

「アア、君たちには笑わせてもらうことばかりだ。ジュリアンはもしかして結婚するのに不安になったのかね。ほかに女がいるなら今日明日にでも整理することだね」

人が悪いですぜそんなのいやしませんぜと言っていたジュリアンも「ショウが浮気していていいが、ばれるなと言うのはいかにも変でしたな」と今度は自分の言葉がおかしくなって笑いが止まらなくなったようでトロゼ街を降りながらも笑いが止まらないようだ。

坂を下りルピック街にもう一度出てさらにくだると建物の高さは5階建てが中心で一番下の階はカフェコンソールの店が有り前の道を洗い出していた。

3番目の路地の手前がジュリアンの先月契約を交わした店で間口は6メールくらいだ、建物の間を抜ける道がついていて隣とは二階で続いていた。

「ほらこのとおりさ、この入り口は裏庭に続いているんだ前の奴は此処を塞いでいたが取り外してもらったのさ、木戸をつければ十分でこれだけあれば馬車ごと引き入れられるだろ。右の方は小さいのさそれで最初事務所とおもったがこの話が出てすぐブティックなら十分だろうぜと思ったのさ」

裏へ廻り広い中庭にMr.ラムレイもこれなら何台も荷車を引き込んでも作業ができるし建物は日が当たるといってワインを扱うにはいい店だ、夕日は道路の向かいの建物でさえぎられるし朝日は庭の東側の建物で1階には差し込まないようだといってジュリアンを見た。

「そうでさぁ、朝早くに見に来てそいつが確認できて決めましたのさ。2階は先月の末には朝6時半に日が差し込んでいましたぜということは3階から上は日が出れば差し込みますからね。西側は夕日で少し暑いでしょうが其れくらいは我慢が必要でさぁ」

「いや其れは冬暖かいと言うことで釣り合いが取れるよ」

「そういってもらうと選んだ甲斐がありまさぁ。ルピック街12番地で年6000フランは高いとの思いもありましたがそのくらいは稼ぐ腕があると自負しています」

一月500フランは確かに高いがこの敷地で店は6メートル×12メートルという間口の倍の奥行きがあり、通路は3メートル以上、隣の小さな店の入り口は3メートしかないが奥行きは8メートルあり路地のほうに大きな窓がついて居てブティック向きの造りだ。

昔は大きなほうだけだったのに小さなほうを建て増したと言う話しで、別々に貸していたのが両方同時にあいたそうだ。

2階へは別々に階段が付いていて鍵を開けているときにマダム・デシャンたち一行が到着した。

マダム・デシャンたちはブティックに貸すほうの探検に入り、ジュリアンたちは酒屋の店に入った、まだごみが散らかったままの店内は前の扉を開けると明るくなったが日差しが入る様子は見えなかった。

「面白いねこれだけ明るくても陽が入らないね。ブティックのほうは陽が入りそうだが此方は涼しい風が吹き抜けて酒屋にはもってこいだね」

2階にある玄関へは外の階段と中から直接玄関へ上がれる階段でつながり其処から食堂と応接間が兼用の場所とレンガで隣と仕切られた台所が有った。
トワレットゥと風呂場に続いて3階へ上がる階段は台所脇から広くとられていて登ると廊下が道路側にあった。

上がって右は大きな続き部屋「此処は俺たち夫婦の寝室と居間だ」とドアを開けて中へ誘った。

日本風に言えば10畳ほどの広間と同じくらいの寝室が東側へ続いていた。

廊下へ出てカーテンを開くと通りの人通りが見え窓を開けると風が吹き抜けて家の温度が下がってゆくのを感じられた。

南側へ向かうと風呂場とトワレットゥ、その先に階段があり上下につながっていた。

「ジュリアンこの階段は」其の声に答えるようにオウレリアの声で「ブティックの外階段へつながっているわよ」と言う声と共に上がってきた。

「この下はトワレットゥと風呂場があってブティックの2階玄関とつながっているわよ。ドアがあって鍵を合わせるのに苦労したけど何かあるなという気がして開けたら階段があったわ」

其処から4階へ上がるとブティック側に一部屋、酒屋側に3部屋があつた。

「本当は家主に言って此処へ風呂場とトワレットゥをつける予定なのさ、1部屋減るがあるほうが便利だろ」

Mr.ラムレイも屋根裏部屋しだいでそうしたほうがよいと賛成した。

一番上に上がるとブティック側に1部屋そして間仕切りが無い大きな空間がベランダ付であった。

「此処を幾つかに仕切っておけば子供たちが大きくなっても1人1部屋使えるさ俺たちも子供が出来ればここに続けて住むか人を増やして使うにも便利だと考えたのさ」

「いい考えだねとりあえず大きな空間と1部屋仕切りをつければ向こうの部屋と子供たちを2つの寝室と共同の広間に別けることが出来るね」

「そうねブティックの2階は台所があるからあそこで10人は食事が出来るし風呂場にトワレットゥもあったわよ。3階は主人夫婦用に使えるけど上に続く階段は此処だけだったわよ、4階は子供と分けられるわね。4階につける風呂場とトワレットゥは共同で使えば済むでしょ」

「2階の作業場は見ましたか」

「食堂の隣でしょ見たわよだけどあの張り出しは危なくないの」

「もう一度下へ降りれば判りますぜ」

そうジュリアンに言われてぞろぞろと下へ降りた、ジュリアンはすべてを見渡してカーテンも閉めて最後に1階へ降りてきた。

「通いのメイドを一人雇わないと掃除が大変だな」

「そうだね2軒とも奥さんも働くようになりそうだから掃除に手間がかけられない分誰か来て貰う様だね」

Mr.ラムレイも其れに賛成してメイドを探すように勧めた。

一階のブティックの作業場は2階の台所の続きで下に置かれた倉庫の屋根に乗る形で足が立てられていた。

「な、あそこが2階の作業場を支えているのさあの倉庫は半分ずつ使えば良いだろうぜ」そういって倉庫の扉を開けると下へ降りる階段が端についていてブティック側に扉があり其処をあけると上が作業場でブティックの扉があった。

「上手く出来ているぜ。偶然かも知れんがこれなら向こう側と仕切りをつければそれぞれが便利に使えるぜ」

ジュリアンはジャン・ピエールに頼んだ大工がもう来てもいいはずだと時間を気にした。

ジャン・ピエールとバスチァン・ルーが3人の職人を引き連れてやってきたのは1時になってからだった。

いつもはお腹がすいたわと騒ぐマダム・デシャンも今日は興奮気味で何も言い出さずにジュリアンが大工たちに言う説明に聞き入っていた。

地面に大工たちは簡単な見取り図を書いてそれぞれの意見を交わしながら一番上の屋根裏部屋へ上がって行き、降りてきながら水場と水桶への水の供給について話し合っていた。

「4階に風呂場にトワレットゥだと、あそこまで水を上げるのは無理だろう人手が掛かりすぎる」

意見がまとまらない様子なので正太郎は口を出すことにした。

「よろしいでしょうか。パリでは上に水をくみ上げるのに人の手で行うのですか」

「そうさ此処だと3階はやっと水が出る程度だ其処から屋根裏の部屋まで人の手で無いと無理だな」

「ポンプで揚げる人はいないのですか5階なら蒸気ポンプで桶に水を上げることも簡単ですがそういう商売の人は居ませんか。またよいポンプなら蒸気でなくとも二人掛かりなら大丈夫だと思うのですが」

「そうか、消防用のポンプか、飲み水でなけりゃあれがいいかもしれないな。このあたり皆困っているからな毎日1回廻れば頼むところも多いだろう、商売になるかな」

「僕の知っている蒸気ポンプの工場ではまだ手押しのポンプも需要があるので作っていましたよ、馬車に曳かせて給水車もつければ飛び込みでも頼む人も出るでしょうね、幾つか需要のあてがあれば安く出してもらえますから紹介しますよ」

「君若いのになかなかやるな、よし俺のところで余っている奴らにやらせよう。5階部分に半トンの4階に1トンの樽を取り付けるか。儲けが出たらどこかで酒でも飲もうぜ、知り合いとはどこのポンプ屋だい。俺は大工のギャバンだ。ジャック・ギャバンと覚えてくれ。後の二人は俺の片腕、いや二人だから両腕だ」

いつも言う冗談だろうか3人で笑って正太郎と握手をした。

正太郎はM.ギーのメール街ギー・モーター・デ・ラ・ヴァプールを教えて僕からといえば便宜を図ってくれますと言うことも忘れず名刺にJ・ギャバン氏をよろしくと書いて渡した。

此処はジュリアンたちに任せて正太郎はエメのところへ行くことにして、一度メゾンデマダムDDまで戻ることにした、オウレリアたちにはマダム・デシャンがお昼をご馳走したいとモンマルトルの丘へあがってア・ラ・ボンヌ・フランケットで降りた後一度馬車を返して5時にメゾンデマダムDDまで迎えに来て欲しいと頼んだ。

正太郎はそこで昼を食べずにメゾンデマダムDDまで駆け下りてMomoにはお昼をア・ラ・ボンヌ・フランケットで食べていることを伝え、エメのところへ行ってくるとバイシクレッテに跨って疾走した。

バイシクレッテをいつもの場所に置いて5階まで上がり部屋をノックすると着飾ったエメが出てきた。

「何処かへ出かけるの」

それには答えずにビズをして中へ手を引いて入れると今度は強く正太郎の唇を吸った。

「これね、ランスのMereが買ってくれたの、向こうに居る間に出来てきたのよ。それで写真を撮ってもらう事にしたの。ショウが来てくれたから一緒にとりましょうよ」

「其れはいいけど僕は普段着のままだよ」

「ボン・マルシェでこれに会う既製服がきっとあるわよ、それからサン・ジェルマンの市場にあるボナールの写真店で二人で撮りましょ」

「其れはいいね、Yokohamaに何枚か送って色付けもしてもらおうよ、色を指定すれば本物の服の色が出せると思うよ」

「それって名案ね、早速行きましょ。せっかくきた服ですもの今脱ぎたくないわ」

二人はボン・マルシェでおなじみになった店員の勧めで貴公子風に着飾った衣装を買い入れ写真館に向かった。

M. Bonnardは正太郎の髪の毛をいつもの半分わけから6対4に左へ流して額を明かりが当たりやすくしてエメの顔には大きなランプからの明かりが幾つか射しようやく満足して「5秒間は動かないで、ゆっくりと頭の中で10まで数えてください」そう言ってレンズの蓋をとった。

幕を下ろしてレンズに蓋をして「もう1枚今度は貴方男性がTabouretの後ろへ廻ってくださいね」そういって二人の髪を直している間に助手が明かりと写真機のセットを終えてM.ボナールはカメラの後ろから覗くと満足してレンズに蓋をして湿板を差し込んで息を吐いて先ほどと同じ指示をしてからレンズの蓋をはずした。

5秒でいいとはフランスの写真はYokohamaに比べて早いなと正太郎は思った「そうだ旦那に最新式の写真機をお土産に持って帰ろうと決め、お土産リストに書き加えることにした。

「急ぎますか、それとも明日午後で良いですか」

「明日の午後だと何時に来れば良いですか」

「午後のほうが仕上がりは綺麗に出来ますから3時ならいいものがお渡しできますよ」

「では同じものを10枚ずつ焼き付けていただけますか。それと写りがよければ1年間ガラスの保存をお願いしたいのですが」

「よろしいですよ。撮影料金で2枚お渡ししますから焼き付け料は16枚分36フランです。保存料金は入りませんよ。その代わり冬の服が撮りたいのでまた来てくださいますか」

判りましたと正太郎とエメが同時に返事をして料金を払って店を後にした。

「そうだあの先生はなんと言ったっけ、君のマンドリンを持った秋の絵がかきたいという人」

「ルフェーブル先生よ。絵のモデルは引き受けたけどショウとアトリエを訪ねる約束はまだいつにしたらいいか決めていないのよ」

「そうだったね、君が都合のよい日を向こうへ連絡して、先生の都合を聞き合わせてくれるかな、僕は其れを優先するからね。それからバイシクレッテのパリジェンヌ商会の社長のアイムが僕たちを含めてキャバレ・デ・ザササンで遊ぼうと誘って居るんだけど、それも都合のよい日を決めてくれるかな、ボルドーからこんなに早く帰るつもりじゃなかったので出かける前は27日から31日の間と話してあるんだ」

「その人だけなの」

「いや男はアイムの弟たちも含めて三人とメゾンデマダムDDの男共一同にジュリアンも呼ぶ予定、マドモアゼルはダンの学友を呼ぶ予定さ」

「それって例のご近所パーティをした人たちね」

「そうだよみんなエメと会いたがっているんだよ」

「良いわ27日が土曜日だから其の日にしましょうよ、明日にでも其の人たちに連絡してくださる」

「決まりだね、ダンに日にちを言ってたくさん参加してもらうよ」
嬉しそうな正太郎の顔を横目に見て「誰か気に入った娘が居るのね」と立ち止まった。

「そうみんないい人たちだよ。ロシアから来た人にイタリア、アメリカ、イギリスにあとプラーガから来た娘も居たっけ」

「そうジュディッタも参加していいかな」

「もちろんさ。彼女が居れば参加した人も喜びが増えるさ」

「あらどうして」

「彼女歌も上手いし楽器も弾けるし人当たりもいいし。あ、これ君にも言えるけどあまり他の人にもててほしく無いから言って無いんだ」

「馬鹿ね、確かにあたしよりすべてジュディッタのほうが上手なのは本当よ。私は貴方が認めて呉れればそれで嬉しいの」

エメはサン・シュルピス広場の噴水の脇で正太郎にビズをして、教会の階段を上がりエンタシスの柱の影でまた体を寄せてビズをした。

教会へ入るとドラクロアの描いたヤコブと天使の闘いが目立ち其の色彩の豊かさは、天井の2つの丸窓のステンドグラスからの光でヤコブの背中が光って見えた。

100メートル以上もある内部は荘厳さに溢れテーブルに飾られた花は噴水を思わせるほど豪華だ。

なぜかパイプオルガンの真ん中に大きな時計が組み込まれていて正太郎には場違いな感じを与えた。

巨大なオベリスクは真ん中に金の線が引かれていた。

祭壇までは進まずに教会を出てエメのアパルトマンへ戻る事にした。

アパルトマンの前まで戻ると学校から帰ってくるリュカが友だちと追い越しざま振り向いたが吃驚して立ちすくんだ。

「エメ、なに其の服見違えたよ。それにショウもさどこから来た場違いなお金持ちかと思ったよ」

「マァリュカったら言うに事欠いて場違いだなんて元老院の向こうへ行けばいくらでもこういう服の人が歩いているでしょ」

「だっておいらたち向こうまで遊びに行かないもの。な、アラン」

アランといわれた子も肯いて、エメがこんなに綺麗な服着たの初めて見たとまで言うので笑い出すしかないエメだった。

「今日はゆっくりできるの」
エメが改めて聞いたのは6時を過ぎた頃だった、自分のドレスを綺麗にブティック風に飾り、正太郎の服も同じように飾りながらル・リの上の正太郎に聞いた。

「今頃はマダム・デシャンがセディのおじさんと交渉中だからもう帰らないといけないのさ」

「いやだ、ショウは先に其れを言いなさいよ」

自分からル・リに誘って口を開く間も与えなかったことなぞ忘れたようにエメは言って正太郎の傍へ身を横たえて右の手を胸に置いてビズをした。
「ダンとアイムに言って27日の土曜日にキャバレ・デ・ザササンに、集まる時間は夜8時がいい、それとも9時ごろがいいかな」

「8時で良いと思うわ。あそこなら軽い食事も出来るしムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットほど騒がしくないからシャンソンを歌いたいジュリアンやジュディッタは喜ぶわ」

ジュディッタにはエメから話しておいてくれるように頼み服を着て新しく買ったものは此処へ保管して置くように頼んでメゾンデマダムDDへ向かった。

「遅かったわね」とMomoが出迎えてまだマダム・デシャンとMlle.オウレリアは戻っていないけど先に食事にするか聞いた。

7時からの夕食は既にサラ・リリアーヌとラモンが始めていた。

その日はロシア風のビーフ・ストロガノフにジャガイモのフライ、チキンのロースト、サラダには様々な新鮮な野菜にゆで卵の薄切りが添えてあった。

食事を始めてすぐに馬車が着いて賑やかにオウレリアたちが帰ってきた。

正太郎の傍にオウレリアが来て「すべて話しが付いたわ」と席に座ってMomoが給仕する夕食を食べることに専念した。

Mr.ラムレイがセディたちのことは自分が引き受けてイギリスとの交渉をして二人が困ることの無いようにするという話には感激して手を取って頼みますと跪いてしまうほどでしたのよ」

オウレリアの話しは少し大げさかなと思ったがマダム・デシャンも其れを裏付けるように家族一同で父親がまた仕立屋を始めると聞いて喜んでいましたと発表した。

そのときにはダンもニコラも帰ってきて居ないのはマリー・アリーヌだけだった。

其のマリー・アリーヌも帰ってきて改めてマダム・デシャンがどのように話をしたかそしてジュリアンが借りた家がどのように為っているかを説明した。

「其の家3年間だけなのかい」
ニコラが正太郎に念を押した。

「ジュリアンは買っても良いといっているけど今は其の金で少しでも品物を集めるほうへ振り向けるといっていました。いずれパリに拠点を移しますからアムステルダムのほうは他の者に任せることになるそうです」

「なんだジュリアンはオランダやベルギーのも自分の店なのかよ」

「いえ向こうは会社組織で共同経営だそうです。だから株を買わせるかそれとも配当だけ受け取って仕事を全面的に任せるかということだそうです」

「見た目以上に良く働くようだな」

「そうなんですよ。でもやっと結婚して腰を落ち着ける気になったようです」

其の話をしているまさに当人がやってきて、大工とも話が進んでまずジュリアンの住まいからはじめるが、ブティックのほうが決まれば人手を増やして突貫工事でもやってくれることになったと話した。

黄色のフランボアズ(Framboise木苺)と真っ赤なスリーズ(Ceriseさくらんぼ)をお土産だとMomoに渡してすぐクストーさんが幾つかの皿に分けて持ち出したのでマダム・デシャンは喜んでスリーズにビズをして其の宝石のような粒を大事そうに一つずつ口に運び種は器用にスプーンに乗せて出されていた小さな壷に落とした。

「マダム、明日は木苺とサクランボのタルトです。楽しみしていてくださいね」

ヴァネッサがマダム・デシャンに伝えると嬉しそうに肯いてにっこりと微笑んだ、其のDDの赤い髪と笑顔に住人は安らぎを覚えるのだ。

「明日Mme.バルバートルが10時に家を見に来るから子供たちのお土産にする位できるかしら」

「マダム大丈夫ですわ明日全部使ってよければ30人分はたっぷり作れます」

「それならお土産に10人分もたせましょうね」
食後のフルーツを口にした後オウレリアは後のことは正太郎とマダム・デシャン、ジュリアンの3人に、任せて5日後にロンドンへ戻ることにしますと告げた。

其れまでにM.バルバートルに渡した見本品の型紙と製作見本設計図を作るように頼んできたことをつげ4日目には正太郎に渡すことを約束させたことを話した。

Mr.ラムレイは当座の資金として500フランを渡してきたこと、来月からは正太郎が話した給与が出ること仕入れは正太郎に言えば必要な資材と共にそろえること、店は最初から品物を豊富に置くことなどを箇条書きして有る文書を渡したことも告げ同じものを正太郎に渡した。

「ヂアン・ショウといわせてもらおうか。君に約束した300ポンドの内此処に500フランあるから前渡しの500フランと合わせた1000フランが先払い分だ。後は君の貸しとしてフランに直して計算してスミス商会経由で請求してくれたまえ」

「判りました、ご期待に沿えることは僕の光栄です」

「ありがとう。ベティ君とセディの写真を撮って伯爵家へ送りたいのですが。明日マダム・デシャンの許しがあれば一緒に写真を撮りにキャプシーヌ街のナダールの写真館へ行きたいがマダムのご都合はいかがでしょうか」

「朝の仕事が終われば私の方は構わないですわよ」

「では明日11時に迎えに参ります。二人とも普段着のままで良いよ」

マダム・デシャンが其れでいいのと聞くので「普段のありのままのほうがよろしいです。後私の好みの服を買い入れてそれも撮らせましょう。それでいいかな」

二人とも目を輝かせてMr.ラムレイに礼を言って正太郎にも了解を求めた。

「セディはジュリアンが戻ったからパリに居る間の酒屋周りは良いよ。明日は僕が連絡の必要なところは廻るから。そうだ思い出したセディに今度新式の子供用自転車がもらえるんだ。3台のうち2台が僕のほうに来るからリュカに1台上げるから乗り方を教えに行ってほしいんだがいいかな」

「もちろんです、ショウの仕事の合間を見て伺います」

「ではバイシクレッテが来たらリュカが戻る時間に合わせていってもらうよ。遠いけど今度のはだいぶ軽いから押して歩いてもそれほど大変ではないと思うよ」

オウレリアたちが帰ったあとジュリアンとニコラ、ダン、ラモンの3人にエメが27日の土曜日8時はいかがといっているが都合どうかと聞いた。

「俺たちは大丈夫だよなジュリアンは」

「俺もそのくらいまでは店の図面とのすりあわせがあるのでパリに居るよ」

「では決まりだが、問題はアイムだな」

「そっちは明日バイシクレッテの金を届けに行くからその時に話して了解を取って来ますが。アイムはダンにマドモアゼルを呼ぶ手配をしてほしいといっていましたよ」

「目当てはアリサとカテリーナという娘なんだろ」

「そうみたいですよ。オリビエ兄弟3人で二人ではまずいから後3人は呼んでくれないかといっています」

「そうだな行き帰りの馬車代を出して夕飯をご馳走するなら出てくるだろう」

「キャバレ・デ・ザササンの食事だけではいけませんか」

「少しは色をつけてやれよ」

「では後別の機会にサン・ドニあたりでお昼と言うのはいかがですか」

「ショウは上手い手を考えるな。そいつは使えるなもちろんショウが持つんだろ」

「仕舞ったそれも僕もちですか」

「言いだしっぺだ仕方なかろう。俺たちもごちに為りに行こう」
エッ、ダンたちもなのと正太郎はげんなりした。

ジュリアンはもう堪らんと笑い続けで助け舟を出してくれる様子も無かった。

「其れでな、ショウが居ない間に5台約束が取れたがまず1台品物を見せろとさ。明日ショウのと交換して乗って行っていいか」

「良いですよ。それでダンのはいくら位で売れそうなの」

「あれは100フランで買う奴を見つけた。そいつは余り金が無いので月10フランで10回払いにした」

「もし5台売れたら6台1560フランを僕に支払って呉れれば良いよ」

「待て待て280フランで5台が1400フランかそうすると160フラン用意すればいいことになるのか。それで損はしないか」

「大丈夫だよダンは難しい計算は速いのに簡単な計算は時間が掛かるなんて可笑しいよ。この間260フランで仕入れられると話したでしょ。だから6台で1560フランだから損はしませんよ。キャバレ・デ・ザササンの支払いは僕の分は半分でオリビエ兄弟が半分1人60フランくらいの見込みですからたいした事ありませんよ」

「其れで大丈夫か余り儲からないと後が大変だぞ」

「実はバイシクレッテは3年間の契約を結ぶことにしました。年間50台先払いで12000フランにしてくれました。其れで前回分のが高いからとサービスで三台呉れると言うのですその内1台は売れましたからボルドーへ行く前に280フラン懐に入りましたので損はしませんよ」

「後の分は240フランになるのか9.23パーセント、銀行預金より安全かな」

即答するようにダンが計算を出してきた、正太郎に言われたので本気で暗算をしたようだ。

「ショウ、前にジャポンのものは背が低く手足が短いといっていたがショウより小さいのか」

「僕は大きいほうなんです。それでもジュリアンに比べると足が短いですよ」
そういって立ち上がるとジュリアンと比べてみたがやはりベルトの位置が5センチは違っていた。

「ジャポンに送って売れるのか」

「パリジェンヌ商会ではそのためにYokohamaと名づけて夫人でも乗れるようにセラの位置を下げて製作してもらいます。今僕が乗っている奴と同じものと今度セディに与える子供用です。ダンの友達は普通でよければセラの位置が変更していないものを出しますよ」

「そうか明日学校へ乗って行った感触でどうするか決めることにするか」
ジュリアンもじゃあこれで帰るが歩くのも面倒だと馬車で行くと言うので見送りがてら品物の相談をしてレマルク街の馬車屋まで歩いた。


Paris1872年7月21日 Sunday

日曜日の朝、結局ダンとラモンがバイシクレッテに乗って出かけたので正太郎は馬車でオリビエ兄弟の工場へ向かった。

11時までに戻りイヴォンヌを案内してジュリアンの店へ行くと言う忙しい日曜日だ。

オリビエ兄弟はDimancheだと言うのに工場に居た。

「居ないかと思ったよ」

「よく言うぜ。いると思ってきたんだろうに。ボルドーはもう用事が済んだのか」

「ほぼ予定のものも買えたし此方に儲け話につながりそうな話があるので戻ってきたんですよ。詳しいことは決まったら話します。其れより今度のSamedi27日にキャバレ・デ・ザササンでの会合を開きたいのですがよろしいですか」

「エメも承知したのかい」

「そうです。一応あなた方の予定を聞いてから予約を入れるつもりで早いほうが良いだろうと来て見ました」

「俺たちは其れでいいよな」

弟たちも其れに賛成して「兄貴そうすると今度の日曜は休みでいいな」

「そうだな忙しかったから此処のところ休んでいないな。そうしようか」

其れを聞いていた工員もほっとして「やっと休めるか。M.ショウが注文を呉れるので稼げるのだが休みがいつあるかとそろそろ社長に苦情を言おうと思っていたところだ」

「そういうなよ。君たちにも特別手当を出す予定だ。M.ショウは明日にでも例の金を払ってくれそうだからな」

「ええ其のつもりです。今日は日曜でおろせませんが明日には手形を持参できます」

「そうだ子供ようのを3台作ってあるぜもって行くかい」

「それなら2台持っていきますから1台はアイムが届けてくれませんか。例のアリサのアパルトマンです」

「持っていくだけで良いのか」

「アリサが居たらキャバレ・デ・ザササンの日程が決まったが、予定は其れで大丈夫か確認してくれると連絡に行かずに済むので助かります」

「ふ〜ん、お前が行きたいかと思ったがな」

「そんなことありませんよ。其れより10台はいつごろになりますかフランス郵船で送るのにあわせてワインもそろえる予定がありますのでね」

「それならもう20台すべて出来ているぜ」

「エッ早いですね。10台くらいはできているかなと思っていましたがすべてだとは思っても居ませんでした」

「それと言うのも俺のところはよく働くものばかりだからな。俺が売り込みに出歩いていても休まず働く勤勉な奴らだぜ。それとショウが勝手に売ってくれるので外回りにあまり出なくて済んでいるから余計製作台数が多いのさ」

「そうですか実はまたいい話があってソルボンヌや留学生に特別値段で売りたいのですが事後承諾となりますが280フランの学生割引で売っても良いでしょうか」

「ショウに売ったバイシクレッテだ。どんな値段でも構わないよ。しかし学生割引とはいい筋を掴んだな」

「ええ、メゾンデマダムDDの住人が協力してくれますので。それで後10台追加ですが其れは普通のタイユにするかYokohama仕様にするかは後で連絡しますが先に10台分2400フランを現金で支払って行きます」

「なに現金だ。オイみんな今日はもう工場を閉めろ。マリウスお前みんなを引き連れてトルコ式風呂屋で体の垢を流してから何処かで昼を食って酒でも飲んでこいよ。200フラン使い切ってもいいから思いっきり遊んで来い」

「兄貴良いのかそんな大盤振る舞いして」

「お前これだけ工員も働いたんだ。彼らにも20フランの特別手当を配るぜ」

ルネも心配して「兄貴どうかしちまったぜ。今までしわい事ばかり言っていたのによ」と顔も崩れんばかりに笑いながら正太郎に話しかけた。

正太郎が財布から20フラン札を20枚と50フラン金貨40枚入りのスカーフを広げて数えて渡すと其れをかざしてアイム以上に燥ゃぎだした。

アイムは自分の胸のボタン穴に20フランを挿してからそれぞれに20フランの札を配りだした、兄弟のほかに6人居る工員すべてに配り、事務所の二人の事務員にも渡した「君たちは彼らと一緒というわけにも行くまいから昼に此処をしめたら美味しいものでも食べに行きなさい」そういって1枚の20フランの札を40近い麦わら色の髪を束ねた人に渡した。

正太郎は驚いた顔で見ていたが頭で枚数を数えていて「12枚配ったぞ240フランだ、後200フラン使って良いということは440フランか、バイシクレッテは儲かるようだな」と思った。

アイムは其の事務員に残りの20フラン札8枚と50フラン金貨40枚の1960フランを渡して其処から金貨4枚200フランを慌てて取って「忘れるところだった、マリウスお前が管理して遊んでくる金だ」と改めて渡した。

「社長このお金の帳簿付けはどうしますか」

「バイシクレッテ卸売り上げ、10台分2400フラン。従業員慰安費440フランの出費。」

「判りました」

そういって残りの金をアイムの開けた金庫へ仕舞いこんで金庫の鍵を閉めた。

「社長はこの後どうしますか」

「俺は1台配達に出るから時間までに戻らなければ事務所を閉めて帰ってかまわないよ」

「判りました、12時までにお戻りにならないときは帰宅させていただきます」

正太郎は金庫に金を入れたまま人が居なくなるのは無用心だと感じたが其れを察したか「ショウ、君は此処が無用心だと思うんだろ。裏に工員の家族が住んでいて其処の爺さんが守衛代わりに門のところで番をしてくれるのさ」

「そうだ、夜は道の向こう側に俺たちの家が有るから誰も居ないときは住み込みのメイドが門の管理も任されているのさ」

「えっそうなんだ。マリウスは家の事教えてくれなかったじゃないか」

「そうだっけ、工場が閉まっていたら門の前の家に連絡をしろと言わなかったか」

「聞いていないよ。今日も閉まっていたら無駄足かなと思いながら来た位だもの」
工員たちも作業服から綺麗な服に着替えて戻ってきだしたのでアイムの二人の弟も着替えに戻り正太郎は2台のバイシクレッテを馬車に積んでメゾンデマダムDDへ戻った。

Mr.ラムレイは時間通りに現れイヴォンヌと打ち合わせが済んだマダム・デシャンに伴われたセディとベティが馬車で写真を撮りに向かった。

イヴォンヌと正太郎は丘を越えてジュリアンの店に向かい片付けに余念の無いジュリアンに紹介して鍵を受け取り中に入った。
店を見て「昔の店より使いやすくて明るいですわ」商売人の眼に戻ったイヴォンヌはわき道から見てみるといって一度外にでてから戻ると明かりを調節してもう一度表に出ると満足そうな顔で戻ってきた。

「此処に薄いカーテンを引いて表側に商品見本を並べれば引き立ちますわ。それで相談ですが見本は日焼けしますがソルド(Soldeバーゲン)を開いて時々入れ替えてもよろしいですか」

「もちろんそうされることをお勧めします。店内のもので手垢が付いたと判断したものも月一度はそうされることをお奨めするつもりでした」

「気が合いますわね。ではそうさせていただきますわ。家の人から店と台所に家族の住まいは任せる、俺は仕立てを専門にやるからできれば販売も男女一人ずつお針子に二人雇えないか相談して置いてくれと言われて来ましたがそれについてはいかがでしょうか」

「お針子は僕も必要と感じていましたがこの店で3人ですか。普段の居場所はどうしますか」

「入る前に見た倉庫との間を部屋に出来ないでしょうか。そうすれば倉庫の出入りに店から直に行きやすくなります」

「そうですね其れはジュリアンと地主に相談してみましょう」

正太郎たちは2階に上がる前に庭からジュリアンを呼んで相談をした。
「構わんぞ、地主からは後で取り壊せる程度の改造はして良いと許可がでているが、今朝改めて地主に来てもらって4階のトイレに風呂場などの改造の許可を貰った、向こうも今の時代其れが無いのは此方の責任だ改造は好きにしてよいといってくれた。契約書にもそう書いてあるし弁護士も建物を大幅に改造しない限り大丈夫だといってくれている。それと庭にも必要なら建てて良いといってたからそのくらいは大丈夫だ」

ジュリアンは先々のことも考えてここを買い入れないときのこともあると踏んでの事のようだ。

大工のM.ギャバンが顔を出したのでイヴォンヌを紹介して「ここでブティックを開くバルバートル夫人です。M.バルバートルは仕立服の名人です」と持ち上げておいた。

「奥さん店と住まいは気に入るように人を集めてすぐにでも仕事に掛からせやすぜ。住まいが先ならそれも余分に人を呼べばいいことですがどうします」
ジュリアンがどうやら今の環境も話したらしく親身になっての仕事を早める気持ちが伝わるのだった。

「ではM.ショウがよろしければ子供たちの部屋をお願いできるでしょうか」

「判りました、では上までご一緒できますか」

正太郎にイヴォンヌにジュリアンも付いて5階まであがり子供たちの部屋割りと共通の居間について白墨で床に書き入れて明日にでも早速仕事に掛かりますが此処には水桶が置かれるので飲み水ではない事とトイレに使う大事な水だということを子供たちに教えてくださいと念を押すM.ギャバンだった。

4階はジュリアンの従業員と共同の風呂場にトワレットゥを3階の廊下と階段部分にあたる上側の部屋に設ける予定だと其の部屋をあけて見せた。
「此処は共同の場所になります。向こうの2部屋は酒屋の従業員、其のドアはあなた方の寝室の上の部屋ですがかいだんでしか上がって来られません」

「では私たちの寝室から子供たちのところへはこの階段からしか上がれませんのかしら」

「其れが困ったことに2階からしかつながっていないのです。あなた方の寝室からは一度下へ降りるようになるのですが使い勝手が悪いとお考えならドアをつけますよ」

「では其れは寝室を見てからにいたしますわ」

一同は3階へ降りてジュリアンが「この廊下の先は僕たちの居間と寝室です此処にドアをつけることも可能かどうかM.ギャバンに調べてもらいましょう」というと、すぐにギャバンは調べだして向こうから見ないといけないなと一同を促して2階へ降りた。

其処から食堂と作業室を見て「此処は綺麗に掃除さえすればすぐ使えますわ」イヴォンヌは手を入れる必要は無いと思ったようだ。

寝室への階段を上がると寝室は3メートルに5メートルくらいのこじんまりした部屋だった。
「奥さん少し狭いが上の部屋に上がる階段をつけたほうが作業は楽だし後のことを考えると家としてもいいんじゃありませんか。あなた方のタンスに物入れ、特別なお客がきたときに使えますぜ」

ジュリアンもそいつは気が廻らなかった食堂ではまずい大事な客が来たら其処へ案内できるしル・リを運べば泊めることもできるな」

「そうですぜ床に引きあげドアにすれば下から用があるときは上に押し上げて使用し、普段は閉めておけばいいから上の部屋は広く使えますぜ」

大工はそれだけの事があるとジュリアンも賛成し「そうすれば子供たちのところへ此処から行くことも出来ますわ、そうしていただけます」

イヴォンヌは喜んでM.ギャバンとジュリアンにビズをして正太郎のおでこにもビズをした。
「まず子供部屋と寝室の工事を先にやりすぐ店と倉庫の間の控え室と倉庫を区切りますから奥さんも出来れば一日一度でも来てくれると助かりまさぁ」

「そういたしますわ。皆様よろしくお願いいたします」

辻馬車が通ったので正太郎は先にイヴォンヌを送りM.バルバートルに会いに行った。

「20分ほど待っていてください」
馭者に言ってごみごみした屑屋の集落へ入りM.バルバートルにあって「今日からあなた方は僕の雇い人として働いていただくことになりました」と告げた。

M.ショウの旦那。あいつらだけでなくあっしたちまでお世話になっちまってお礼の申しようもございません」

「いいって事さ。あなた方が僕を儲けさせてくれればいいことで、儲けがたまったらもう一度独立して自分のやりたいような店にすれば良いですよ。体に気を付けできるだけ元気に働けばお客は必ず付きますから」

「それから失礼なことを聞かせていただきますが。これでござんすが試しに自分用を今朝穿きましたが確かに心地よく動きが取れます、しかしですねどうやって他の者に穿かせやすかい。まず穿いてもらわねえと売れるものも売れやせんぜ」

「そいつも考えたよ。まずメゾンデマダムDDの住人の友達に配るのと町のお上さんに渡して亭主に穿いて貰うのさ。後酒場の女に客にプレザンしてもらうつもりだ」

「ただで配るのですかい」

「そう最初100枚、できれば最初の一月で200枚配る予定だ、貰った人の半分がもう一枚買ってくれれば損はでない予定さ」

「しかし其れで商売になりますかね」

「だからM.バルバートルの腕が必要なのさ貴方の紳士服はだいぶ評判が良かったのでしょ。昔の客に店を開いた事が知れれば徐々に客は付きますよ。それと場所柄女物の安物でいいから下着類もおきたいと思うのですが其れはマダム・デシャンたちからお聞きと思いますが」

「はい其れは承知しております。専門店ではなく幅広い雑貨的な服屋と考えればよろしいですか」

「そうです」

「ではお任せください、販売はイヴォンヌが主導を取って私は製作を受け持ち紳士服のときだけ出番と考えております」

「結構です。これから毎日一度奥様と、貴方が見回って住まいも店も、特に仕事場を納得できるようにしてください。其れからMr.ラムレイから支度金が出ているでしょうがそちらはあなた方の引っ越した後の生活費に必要なものの買い入れにお使いください。店に必要なものは最大50フランまでのものは僕に相談無く買い入れて結構です、買い入れ総額は500フランをめどに考えています。其れだけ有れば店内の装飾品はそろうと思いますので今日はその内200フランをお預けしますから、領収書が出るものは貰ってください、無いものはなにを買ったか書いて置いてください。其れから店の仕入れ商品はある程度仕事が進んでから仕入れの総額などについて相談しますから置く品物のあらましと予定金額を調べて連絡をください」

「わかりやした。道筋ですから日に一回はメゾンデマダムDDに顔を出して連絡をさせていただきます」

「結構です。奥様にお願いです。これから商売をはじめるにあたって必要なのは帳簿ですが、会計帳簿の経験はおありですか」

「いえありませんが、売り上げ帳簿と仕入れ帳簿はつける習慣がありましたからそれで大丈夫でしょうか」

「其れでいいのですが、実は自家消費といって自分の家族で使う分は売り上げに入れて後で経費としてまとめて落としますのでそれもつけてください。帳簿のつけ方は其のつど説明いたします。1日10分で済む作業ですから時間を決めて必ず其の時間につける習慣さえ付けば苦になる物ではありません」

「判りました。それからお願いですが」

「なんでしょう」

「私を奥様とは呼ばないで頂きたいのです。いわば使用人ですからイヴォンヌ、テオドール、と呼んでいただけないでしょうか」

「判りました、では早速ですがイヴォンヌ今月の給料の前渡しをしますから10日分を受け取ってください今月21日と来月は1日、11日、31日とそれぞれ3分の1ずつお渡しします。其の後は一月分ずつに為りますので9月30日が給料日です。休みは日曜日もしくは木曜日として下さい」

「判りました。日曜も特別のことが無ければ家に居ることが多いので来られる方の便は図れると思います。その日で無いと御出でできない方も多いのでは無いでしょうかしら」

正太郎は休みのことは任せますと最初の分として二人のひと月の給与合計の240フランから80フランを渡した。

待たせておいた馬車でメゾンデマダムDDへ帰るとMr.ラムレイの馬車が戻ってくるところと出会って続いて玄関へ停まって大玄関から中へ入った。

「いけないお土産のタルトを持たせなかった」
正太郎は気が付いてMomoに言ってすぐ用意させてMr.ラムレイと馬車でポルト・ド・アスニーレのM.バルバートルの家に向かった。

家で何着か作った下着を点検して図面の手直しをMr.ラムレイが見た後二人はメゾンデマダムDDに戻らずジュリアンの家となるルピック街12番地へ向かった。

Mr.ラムレイは其処で馬車を返して中を見てジュリアンを誘って近くのカフェに入った。

「さてこうなると二人の待遇と学校だがどうしたらいいかな」

Mr.ラムレイ、彼らの身元がわかったからといって性急に生活に変化を与えてもあいつらにとっていいこととは思えませんぜ、そりゃスコットランドの伯爵家の血筋かもしれませんが急激に生活が変われば性格もおかしく変わる危険もありまさぁ。徐々に彼らの生活環境を整えて力量を見極めたうえで出来うる最善の後押しをされたらいかがでしょうかね」

「よく言ってくれた。君たち二人が頼りだ。僕はつい世話になった老伯爵とベティお嬢様のことが浮かんできて頭が働かなくなるようだ」

「任せておきなさい。ショウも居ることだ必ずあの二人の力に為りますよマダム・デシャンだって思いやりがあるからメイドなぞといって手元に引き取りなさったんだ、悪いようには扱うはずがありませんぜ」
そうだ、そうだよなとMr.ラムレイもやっと安心できたようでCafe Creme(カフェ・クレーム・カフェラテ)のお替りを頼んだ。

3人はカフェコンソール・ヘロデの前で別れて3方向へ分かれた。
「今日はおとなしくアパルトマンで手紙でも書くか。写真は明日エメのところへ貰いに行こう」と正太郎は丘を越えてメゾンデマダムDDへ戻って行った。




Paris1872年7月27日 Saturday

忙しかった週もようやく土曜日、正太郎は今週だけで1月分は働いたなと自負していた。

入れ替えも合って子供用5台Yokohama仕様10台正規製品5台の計20台を横浜へ、子供用3台Yokohama仕様5台に正規製品5台の計13台を太四郎の神戸に合計33台に増えたバイシクレッテを発送費と保険の合計3920フランを掛けフランス郵船でワイン1万5千フラン分と共に送り出した。

前回のワインとほぼ同じ分量だがジュリアンの都合もあり二人の酒屋からの分を送り出したのだ。

ボルドーからも送り出された分もあり既にワインは8万フラン分が横浜へむけて出されていて、簡単な説明を電信で送り後は説明文付で品物と共に発送した。

「横浜到着は10月15日だな、シャンペンは何も無いようだが送らないのかい」

「横浜で聞いた話しだと夏のインド洋で破裂するビンが続出したそうで冬まで待ってボストン氷の船でいつも買っていましたから其の時期まで待ってロンドン経由で送ることになりそうです」

「うちの船もボストン氷を積んでYokohamaへ行く船があるよ。マルセイユから積む品物ならそのときの船を待って積み込ませるよ。もし心配なら保険をいつものように掛ければ損はしないよ」

「そうしますか、船の寄航予定が決まりましたらお知らせください。僕の方は3日あればここへ持ち込めます」

バイシクレッテも現金で6台ダンとラモンのおかげで売れて、予約がYokohama仕様だけでも5台取って来てくれたのでアイムは本当に正太郎がマガザン・デ・ラ・バイシクレッテ(magasin de la bicyclette・自転車店)をひらいたらなぁといまさらのように言うのだった。

すべて50台とは別の現金支払いでパリジェンヌ商会は大喜びで品物を間に合わせてくれた。

予約分のYokohama仕様を含めて輸出以外の品物はパリジェンヌ商会の工場が預かるといって呉れたがジュリアンとイヴォンヌは倉庫がまだ空いているから其処へ入れなさいというので既に最上階に住み込んだM.バルバートルの家族が管理してくれることになった。

イヴォンヌは気さくで近所とも仲良くなり正太郎もジュリアンと路地の乾物屋によってはコーヒーをご馳走になるのだ、この路地はクストゥ街と言うのだと乾物屋の親父に言われブティックは12番地、乾物屋が10番地だと知った。

乾物屋には主に豆類が並べられ正太郎の知るインゲン豆や蚕豆に見たことも無いものなどが雑然と袋のまま置かれ魚の干物が天井から下げられていた。

8メートル8メートルの大きな店には老夫婦のほか若い衆が1人、仕入れと配達に雇われているだけのさびしい店だ。

イヴォンヌは店の名を偉大な彫刻家親子になぞらえて通りの名を採ってブティック・クストゥ(Boutique Coustou)としたいと正太郎の了解を求めて其の親子の彫刻のレプリカを探して呉れるように頼み込んだ。

正太郎はメゾンデマダムDDで料理人のクストー夫妻とその話をして何か関係が有るかと聞いたが何も無いし綴りが違うのだと図書室から本を持ち出してクストゥがCoustouで俺はCousteauのクストーだと教えてくれた。

相変わらず休みの学校で勉強してきたダンが帰宅して一同は身だしなみを整えると時間が来るのを広間で待っていた。

ようやく10分前に為りMomoとベティに見送られてキャバレ・デ・ザササンへの坂を登り出した「1時までに帰えられないときは表で寝るのよ」と後ろから浴びせられる中そんなこと気にして遊べるかという顔のニコラが先頭で階段を登ってサンバンサン通りの角の店に入った。

早くもオリビエ兄弟は店の中に座りマドモアゼルたちを待ち受けて期待に満ちた顔を正太郎たちに向けた。

「兄貴はアリサとカテリーナというロシア娘が一番可愛くて色っぽいというが本当か」

マリウスはダンに確かめるようにビールを飲みながら隅へ呼び寄せて聞いていた。

「アリサは確かにいい女だよ、だが俺はカテリーナと言うのはあったことが無いんだ」

「そうかまぁ良いさ、その娘たちの隣へ俺を座らせてくれよ」

「マァそう急ぐな、最初が駄目でもショウにも言ってそうするからよ。ほかの娘たちもいい女だぜ」

そんな話をしているとは知らずアイムは「ショウ、お前が手を出さないなら俺が口を掛けてもいいな」と盛んにアリサを今日こそ自分のほうを向かせる自信があるように意気込んで話すのだった。

「アイム、この間バイシクレッテを届けたときに口を利いたんだろ。まだ何も約束も出来ていないかい」

「そんな簡単にいくかよ。この間はあのバイシクレッテに乗るという少年に乗り方を教えるのに時間がかかったからそれどこじゃなかったんだぜ」

「そんなサービスも遣るんだ。そりゃ点を稼いだね」

「当たり前さ、こう見えても俺は女を口説いてはずしたことは無いぜ」

もうだいぶ酒が入っているようで前祝いでもしてきたように正太郎には感じられて可笑しかった。

エメは時間に2分ほど遅れてきたが「今、前に馬車がついて女の人たちが降りたからあの人たちがお目当ての方じゃないの」と聞いた一堂は正太郎を置いて一斉にドアから出て行ってしまった。

6人のマドモアゼルと表で話しをしていたジュリアンが驚いて飛びのいたほどだと最初に入ってきたマルティナが正太郎に話し掛けてきたので次々にエメを紹介しては席へ付かせた。

其の間にアイムは真っ先にアリサとカテリーナの間に座ってしまったがマリウスはカテリーナの隣へといわれて満足そうだ。
ジュディッタの両隣はダンとラモンが座って座が決まったところへセルヴァーズが次々にシャンペンをグラスで運んできた。

「食べ物は先ほどのもので良いですか」

「そうだドンドン運んでくれ」

アイムは勝手知ったる店とばかりにもう注文をしてあるようだ。

正太郎が頼んでおいた料理のほかにも幾つかを追加したらしくそれぞれの前には綺麗に花も飾られフルーツも積まれていた。

端の席になった正太郎はセルヴァーズを呼び止めて聞くと「昨晩アイムが来てショウが頼んだものにいろいろ追加しましたから豪華ですわよ。まだこれは序の口ですわ」と囁いてステージの楽団に指示を出してモーツァルトのアイネ・クライネ・ナハトムジークが演奏された。

最初賑やかに演奏されたセレナード(serenadeセレナーデ)も第2楽章の静かな演奏で話しも弾み初めて顔をあわせたものが多いとは思えない賑やかな会となった。

20分近い演奏が終わると演奏もシャンソンに替わり年老いた歌手がステージで歌い出した、

アコーディオンとバンドネオンにギターが加わりジュリアンやジュディッタにアイムもが代わる代わるステージに立つ間、昔のバル ミュゼット(BAL MUSETTE)が再現されたようだと其の老歌手が、一杯奢る正太郎にトロゼ街にあったという店のことを話してくれた、ミュゼットはその店が広めアコーディオンとギターがキャブレットに取って代わったのも其の店からだと、酒を勧める正太郎に話して聞かせる老歌手の話しはエメもジュディッタも興味を持って聞き、歌を楽しむグループと噂話やカフェコンソールの芸人の話題を話すルネたちとに分かれた。

時間がたち若い歌手がステージに立って最近の歌や、まだ知らない人の多い歌が歌われそろそろお開きかと感じる正太郎に「ナァ此処だけでは物たりんよ。どこかへ行こうぜ」とアイムが誘いを掛けてきた。

「僕は良いですがマドモアゼルたちはどうか判りませんよ。彼女たちだけで相談させないとまずいでしょう」

「そうだな、無理じいすると今日限りといわれても困るな」とアイムは納得して男たちだけで相談をするから君たちも頼むと席を分けて相談が始まった。

エメがジュディッタと帰るが正太郎には「あまり遅くまでは駄目よ」と軽くビズをして馬車を呼んでもらうように給仕に頼んだ。

ほかのマドモアゼルは2時間だけという約束でムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットへ付き合うことに為り1時にムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットへ迎えに来るようにエメの馭者にも頼んで出かけた。

男たちは全員参加するとなって歩いてムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットまで行くことになり正太郎がお金を清算して後から行くことにした。

エメの馬車には正太郎にアリサとカテリーナが途中まで乗ることに為り、ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットの前で3人が降りると馭者に「少し待ってね」と声をかけたエメが降りてアリサに見せ付けるように強烈なビズをして馬車に乗った。

「馬鹿ねエメは何も帰らなくてもいいのに、ショウを見るあの二人の眼を見た、貴方が居なくなれば猫のように擦り寄って甘えるのは見え見えよ」

「でも私が居ればショウも楽しめないでしょ」

「そんなこと無いってショウは今晩、会計やほかの人たちの手前緊張して座を持ち上げていたからよ。ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットへ行けばお役ごめんで貴方のことも放って置かないわ、ほんとねんねなんだから。良くフォリー・ベルジェールで働いていられたわね。半年前は相当進んだ娘だと思ったけどショウと知り合ってから本当の年齢に戻ってしまつたようだわ」

「だってショウが最初の人だもの。そんな手管など知らないわ」
エメが思い切って処女だったと白状するとジュディッタは驚いてしまった。

「ごめん、あたしそんなこと知らなかったんだ。まさかフォリー・ベルジェールに生娘が働きに出ているなんて知らなかったのよ。ごめんねエメ」

「ううん、いいのだってショウはあたしが初めてだって言ってくれたし、最初の証しもショウは見てくれて信じてくれたし。私ショウと知り合って幸せよ」

「だからって他の人に機会を与えること無いよ」

「大丈夫よ。ショウはたまに浮気したっていいの、だってまだ若いんですもの、私の所へ帰ってきてくれればいいの」

「だけど2年しないうちにYokohamaへ帰っちまうんだろ、それって無いよ、結婚して良いといってくれたのかい」

「まだそんなこと話しをして無いわ。ショウは私が卒業するまで援助してくれるつもりで付き合いだして、私には其の必要が無いからさよならなんていわないと思うわ」

「そりゃリリーがエメをお金の管理の責任を任せたからだろ。それともあんた自分の金がいくらあるかも話したのかい」

「其れはまだ話していないわ。アパルトマンもあの部屋だけだと思っているみたいで必要なお金は先に預けて呉れるもの。あの人自分のお金と商売のお金はきっちリ分けていて、パリにいる間はこのお金で生活するんだと、いくら有るかも教えてくれたわ」

「じゃ、パリへ腰をすえてエメと一緒になるかどうかまだ話し合っていないんだね」

「そうよジュディッタそれでも今の私たち幸せよ。ショウを信じていられる私で居たいわ」

「判ったわもう言わないよ、だけどエメを泣かせるような事しでかしたら私がとっちめてやるからね」
ジュディッタはエメの保護者を買って出る気の様だ。

其の話しのとおり正太郎はアリサのビズ攻めから逃れるようにムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットへ二人を押し込んでいた。
入り口のドアを開けてくれたポワティエが笑いかけるのに5フラン銀貨を指で弾いて受け取らせた。

「遅いぞ」というアイムの言葉を聞きながら正太郎は化粧室でアリサとエメの口紅が付いて無いか点検して席に着いた。

「大方エメに放して貰えなかったんだろ」
カテリーナが焼けるくらい強烈だったわよというと皆が大きな声で笑い、出て来たシャンペンで乾杯したあと陽気な演奏にあわせて踊りだすのだった。

あっという間に1時になったようでマドモアゼルたちの馬車がきたとセルヴァーズが告げに来て帰り支度に忙しい6人にアイムと正太郎が外に出て馬車代として10フランをそれぞれの馭者に渡して「チップ込みだぜ余分に請求しなさんなよ」と言って別れの挨拶を交わして馬車に乗せた。

席に戻り正太郎とアイムは金勘定を始めた「此処はどうする。アイムのほうで入場料は持ったんだろ」

「そうだが、僅か3フラン50サンチームだ」

「それなら後20フラン出せるかい」

「良いとも、それでキャバレ・デ・ザササンはどうなった」

「向こうはすべてで136フランだいぶシャンペンを開けたようで少し掛かったけどね。後ジュリアンが立て替えた2台の馬車代が8フランとここまでのが3フランで合わせて147フラン」

メモを見ながら正太郎が言うと「エメの帰りの馬車代が入って居ないようだぜ」とアイムが注意した。
「其れは心配要らないよエメのほうで払うから」
そうかと言いながら50フラン札を2枚よこして「俺はこれだけ持つよ」と後20フランの札を出して正太郎に渡して「此処も後はショウが清算しておいてくれ」と大様に言った。

「アイム半々でいいのにこれじゃ多いよ」

「いいって事よ。ショウには世話になっているんだ」

「そういう気前のよいところはアリサたちがいるときにやら無いと目立たないよ」

「そんなとこ見せられるか、恥かしいじゃねえか」

アイムは人のいい男で気風もいいなと思う正太郎だった。

話あいも済んで席に戻るとセルヴァーズに知らないドレスの女たちとで席は大騒ぎになっていた。

「ニコラどういうことだいこれ」

「おお、マドモアゼルたちがご帰還遊ばしたらこの人たちがあれはどこのセルヴァーズなのか聞いてきたのでソルボンヌや其の近くの学生だと話しているうちにこうなってしまったよ」

もう其れからはフロアーでカンカンが始まりやたらと燥ぐ一団と仲良くなりと誰が誰だかわからない大騒ぎとなった。
途中で正太郎は会計の締めをしてもらい後は後のことと決め込んで隅で居眠りを始めた。

いい匂いがして眼が覚めると見知らぬ貴婦人が正太郎の肩に寄り添うように寝ていてフロアーではあい変わらず大騒ぎで盛り上がっていた。

其の婦人が目覚めずにどうやって抜け出そうかと考えているとルネがやはり其の向こう側で壁に寄りかかるように寝ていたのでそっと肩を押してルネに押し付けるとトワレットゥに行き髪の毛をM.ボナールがしてくれたように少しずらした位置から額に掛かるように流して踊りの中に加わった。

「眼が覚めたか、もうじき夜明けだ。5時半になればクストーさんが起き出すから家に入れるからそろそろ帰るか」
ニコラが声をかけてメゾンデマダムDDへ帰ることにしてジュリアンに「オ・ルヴォワール・ボンヴォワイヤージュ、ジュリアン結婚式にはでるからね」といってReimsへ行くジュリアンに別れを言った。

「メフスィボク、ショウ働きすぎて体を壊すなよ。俺は今日の昼に向こうへ行くがすぐ用は済むから3日ぐらいで戻るぜ」

「そんな急ぎ旅ばかりじゃ僕よりジュリアンの体のほうがきついじゃないか」

「俺は軍隊で鍛えてあるからな。それにパリに落ち着くまでさ、忙しいのも其れまでだ」

アイムたちもそろそろ引き上げ時かとルネを起こしに行くと貴婦人と体に回した手も固く握り合っていて、なかなか起きない二人に諦めて置いていくことにしたようだ。

「良いのかい。あのままでも」

「仕方ねえよ店のほうでほっぱり出すまでのことだ。子供じゃないから1人でも帰ってこられるだろう」
ぞろぞろと店を出てトロゼ街へ降りる道の脇にいる馬車にジュリアンを含めた3人は乗り込んで帰っていった。
4人で陽気に歌いながら歩いてジラルドン通りの坂を上りサンバンサン墓地の西側の階段を降りることにした。

ダンが「ショウいつものNogenoyamaをやれよ」と声をかけてきたので日本の言葉のままで謳いだした、寅吉だんなが好きな歌だし陽気な歌はメゾンデマダムDDの集まりのときでも好評な歌だ、最初は鮫島と西園寺が来たときに披露したが最後のオッピコヒヤラリコと言うところが今は皆のお気に入りだ。

野毛の山からノーエ   野毛の山からノーエ
  野毛のサイサイ 山から 異人館を見れば
  鉄砲かついでノーエ   鉄砲かついでノーエ
  お鉄砲サイサイ    かついで小隊すぅすめぇ
オッピコ ヒャラリコ ノーエ オッピコ ヒャラリコ ノーエ
チーチがタイタイ トトチチ オッピコ ヒャラリコ ノーエ



最後のオッピコ以下はほかの3人も覚えていて4人揃って朝日が階段下の建物の上を照らし出した墓地脇の階段に座って何回も謳って笑いながら夏の朝のひと時を過ごした。

此処からは建物の影でメゾンデマダムDDは見えないが今頃は陽が射し出した庭でクストーさんが竈に薪をくべている頃だと揃って階段を降りてポンティヨン邸の前を抜けてアパルトマンへ帰った。



Paris1872年8月5日 Monday

明治5年7月文月2日Lundiといつものようにジャポンの日付を確認して手紙に証券類と日記を入れた書類サックをいつものようにマダム・デシャンの金庫に納めて朝食を取った後、習慣になった庭の草取りを手伝いセディと共にサン・トノーレ街へ出かけた。

今日はアレクサンドル・デュマ・フィス(Alexandre Dumas fils)の椿の貴婦人と訳せばいいかと正太郎が思う本(La Dame aux camelias)にモード誌のラ・モード・イリュストレの最新版を買い入れるためと頼んでいたレリーフを受け取りイヴォンヌに届けるためだ。

エメは好んで50年代のクリノリン・スタイルの装いをするが最新式はバスル・スタイルの腰のふくらみを持たせたものでスカートの裾は以前より細いのが流行りだ。

ルノワールさんはエメにそういう服装をさせて一枚残したらどうだと勧めエメに相談すると嫌がって断ってしまった。

最近のモード雑誌も見ることは好きだが上流階級の人たちの服は機能性に欠けるといってアルフォンスのデザインがお気に入りなのだ。

確かに彼の感性は優れていると正太郎も認めるのだが、あくまで街の普通の生活で着こなす服であり、たまのお出かけには其れに副ったデザインも手がけはするがすぐ奇抜な発想で時代を飛び越す危険性が多い人なのだ。

エメの流行にとらわれない気持ちは好ましいのだが、たまに顔をあわせるサラとバーツにはもう少し気を配ってあげなさいといわれる正太郎なのだ。

サン・トノーレ街でお目当てのものを買い入れてデュマはセディがもって帰るように背負わせたサックに押し込み、ルピック街のイヴォンヌたちのブティック・クストゥの開店準備の様子とジュリアンの住まいに贈るための装飾品でほしいものをエメ・オービニエに聞くことにした。

セディにはそこで少し子供たちと遊んでから昼までにメゾンデマダムDDに戻るように言いつけてイヴォンヌとテオドールに買い入れたものの清算と後なにが必要かを相談した。

「もうすっかり片付いたも同然です。後はお針子と店員の募集くらいですかね」

見本の下穿きの名前は無いがYokohamaに問い合わせた電信の返事待ちで気の聞いた名前を考えないといけないなと話した。

登録には女性用はSlip(スリップ)で決まったが男性用はと考えたが思いつかず同じ名前で登録をしてしまったのだ。

見本はテオドールがもう200枚を作り上げていて近所のお上さんにはマリー・アリーヌのものも併せて2枚ずつ配り履き心地を試してもらっていた。

太り加減の人には紐を二段にしてずり落ち防止をつけたのが好評のようだ。

マリー・アリーヌもサラ・リリアーヌと組んで売り出すほかに、イヴォンヌの店でも扱わうことになって今の仕事をやめてお針子を探して工房を開くことを考えていたので、正太郎はサラ・リリアーヌの店を広げる資金提供に応じるということも伝えてあった。

「1日50枚仕上げて売りさばければ3人で仕事をしてもやっていけるわ」

あれから50枚以上は作り上げて今は1日3枚のペースで縫うのが夜の楽しみにさえなっているのだ、マシーンを使えば1人で1日50枚は可能だというが今はすこしでも高級な感じを出すために手縫いでの仕事にさせているのだ。

話しはそういうがそんなにすぐ売れるはずも無いので、たいした儲けは見込めないと正太郎は考えて1枚10フランするシルクの高級品を作ることも勧めて見た。

「確かにそのほうが儲けは多いでしょけど相手がこんな私のように知られていないものから買うとは思えないわ」

「そうじゃなくて狙いはキャバレーやカフェのセルヴァーズさ。そこらあたりの人を対称にすれば有名な店や、有名なデザイナーから買うより安いと評判が立てば後はサラ・リリアーヌとマリー・アリーヌの腕次第で何とか為るさ。それにシルクなら立ち居振る舞いが優雅に見えることは受けあうよ」

「ほんとにショウと話していると仕事なんて簡単に聞こえるわ」

二人は今のデザインからもう一歩先へ進んだ肩ひも付きのひざ上までのものを考えているとデザインを見せてくれた。

ギリシャの壁画に描かれるようなすっきりした下着は今のごてごてした下着やきついコルセットに悩む太り気味の人には朗報であろうと正太郎やラモンは絶賛した。

「太った人用じゃ無いわよ」

二人はお冠だったが暫く絵を見ていて「やっぱり妊婦さんに着せるのが先かな。でも70年前はこういうドレスが宮中では流行ったそうよ」と笑い出してしまったのだ。

ジュリアンの結婚式は15日故郷ランスで式を挙げてエメ・オービニエの故郷ゲントへの新婚旅行に出かけると決まり、二人は今店と住居の仕上がり状況にランスからつれてきた二人の使用人と毎日を忙しく働いていた。

マルクという50くらいの固太りの男とイヴォンという13くらいの少年だ。

ムッシュー・ギャバンもポンプでの水の汲み上げに満足して近所からも頼まれて仕事が順調に進みそうだと機嫌は上々だ。

ジュリアンはイヴォンにバイシクレッテを買い与えて背中に背負うバックにビンを入れて小口の配達に廻らせることにした。

「こいつはいい考えだね、急ぎやカフェからの客の注文に間に合わせるにはいい配達方法だ」

「そうだろ、歩いていくより早いしうちの宣伝にもなるように制服も決めてほかの店と差を付けるのさ」

その制服もM.バルバートルが考えて緑と赤の線が入った帽子を被らせて服には黄色の縦のラインが薄い水色に入れられ夕暮れ時に目立つように考えられていた。

「ジュリアンこの方法が上手く行ったら人も増やすようだね」

「アアそうさ、パリも街には雇ってほしい人間はいくらでも居るからなバイシクレッテに乗れるように教えてやれば誰でも出来るさ」

「僕もパリへ着いて驚いたのは確かに儲かる仕事も多いし働く場所も有るけど浮浪者まがいのものが多いよね。彼らにも仕事があれば街自体もよくなるんだけど僕には手に余ることだらけだ」

「仕方ねえよ、すべてを投げ出して救済するより稼いだうちから幾らかをそちらに回すしかないのが現状だ。ショウが話したYokohamaの旦那の仕事を作って幾らかでもそういうものを無くす努力をするという気持ちが大事だぜ」

「そうだよね。今の持ち金をすべて投じたら自分自身も困るもの」

「そうだよ。その気持ちが有ればすべてを救うより自分で出来る範囲のものからと言うのが本当だ」

ジュリアンと正太郎は機会のあるごとにその気持ちを確認し会うことにしてどちらか行き過ぎないことを注意していた。

「エメはお祝いになにがほしい、遠慮しないで言ってくれないか」

「私は今幸せすぎて何も考えられない。なんていうのは冗談で寝室のランプと居間に飾る花の絵がほしいわ」

「良いよ、ステンドグラスのランプスタンドを買うけど大きさはどのくらいがいいの」

大きさと置き場所をエメが指定したので其れをメモして「絵はルノワールさんが呉れるといってくれたから其れを飾ると良いよ絵はジュリアンと一緒に行ってわがままを言うんだよ。そうすれば手直しでも何でもしていい奴を呉れるよ」

ルノワールの性質を見抜いた正太郎の言葉はエメにも判る様で「あの人気持ちのいい人だしジュリアンやショウと同じように恵まれない子供たちのことも理解してくれるしいい人なのにどうして1人なのかしら」

「ジュリアンから聞いていないの」

「何も」

「最近いい人が出来てというよりも昔からの恋人が居てその人と結婚すると決まったよ。リーズ・トレオという人ですよ」

「あのメゾンデマダムDDにある絵のモデルの人なの」

「そうそう、ジュリアン好みのあの人さ」

そばで聞いていたジュリアンは慌てて「ショウはなにを言い出すんだ、間違えるなよ、俺の好みはエメのように小柄でおとなしい女だからな」

「へ〜そうんなんだ。てっきり顔の派手な人も好きだと思っていたのは僕の思い過ごしだったのかな」

ジュリアンがバーツのような女性も好みだと知っている正太郎はからかい気味に、エメのほうを向いてウインクしながら話すと「そうよね私と結婚してそういう人と浮気して面白おかしく過ごしたいと考えているのはわかりきっている事だわ。だから田舎ものの私を選んだのよね」

「ちがう、違うよエメ。ショウもショウだいい加減なことをエメに吹き込むなよ」

エメがいつもの可愛い声でころころと笑い出したのでようやく二人掛かりでからかわれたと知ったジュリアンは、怒るよりもあきれて一緒に笑い出してしまった。

「ピエールはこの近くのサン・ジョルジュ街に住まいとアトリエを借りるそうだ。そのときには祝いも出すから絵の方も好き勝手を言って良いよ。どうせ新婚家庭にワインをたくさんねだられるのが落ちだからな。先にいいものを貰うが勝ちだ」

3人の笑い声にイヴォンヌも顔を出して「お祝いの相談なら新婚の奥様にベールを贈らせて頂けます」

「結婚式の衣装は決まって居るよ」

「そうではなくてゲントへの新婚旅行のですわよ。奥様の実家のゲントへ行かれるのでしょドレスなどはお買いでしょうからささやかながらレースのベールと白い帽子がお似合いに為られますから其れを贈らせて下さいな」

「ありがたく頂戴いたしますわ。ジュリアンあの水色のドレスに白いベールの付いた帽子はきっと似合いますわ」

「君がそういうなら、イヴォンヌありがたく受け取らせていただきます」

イヴォンヌも嬉しそうに揃いだした商品の中から箱を持ち出して「此処に小さな季節の花を挿すかリボンをつけるととても引き立ちますわよ」

そういってエメの髪を束ねて上に上げ、帽子をかぶせてベールを降ろすと淡い陽の反射を受けたエメはとても素敵に見えた。

ジュリアンより先に正太郎は「とても良いよ。ジュリアンは見とれて何もいえないようだから替わりに褒めておくよ。水色のドレスかぁ、ジュリアンにそういう美的感覚があるとは知らなかったな」

「こらこら、今日のショウは可笑しいぞ。俺をそんなにからかって面白いか。エミリエンヌ・ブリュンティエールにアリサのことを言いつけるぞ」

「可笑しなジュリアンだね。彼女となにを僕が隠し事を作ったんだい」

「そりゃお前と付き合いが長い俺の勘というもんだ」

「よくいうよ。まだ知り合って3ヶ月だよ」

「そうだったか、もう5年くらい付き合っているような気がしてしょうがないぜ。なんせ軍隊仲間のように殆ど一緒だからかもしれんが。フォリー・ベルジェールで知り合ってすぐエメとあんな仲になることなぞ予想もしなかったからな」

「だから今度は先走った勘を働かせたの」

「そんな気がしたが、思い過ごしかな」

「そうさ、どうして僕がそんなにモテると勘違いしたのか聞きたいくらいさ。もてるのはジュリアンのほうが僕の10倍は確かだぜエメ」

エメもジュリアンがモテる男だということはLoodの主人夫婦から聞かされていて其の男が自分に惚れてくれたということで十分満足して、何時も正太郎とジュリアンがそういう話題をしているのを微笑んで見守るのだ。

イヴォンヌに誘われて店の外から先ほどわたしたレリーフを見に行った。

陽の光が反射してガラス戸から見ると少し見難かったが眼を凝らして近寄ると中央を占めるルイ14世の左側は怪獣を退治したアポロン神姿の健康の神が神々しく見えて店の雰囲気を高級店らしく見せていた。

「写しとは思えないほど出来がいいね。これが50フランとは見っけもんだね」

「ショウが足を棒にして捜してくれたからですわ。今日お針子が面接に来てくれますがお会いしますか」

「いや其れはテオドールとイヴォンヌに任せるよ。給与は前に話した値段で腕によってはすぐ昇給させると話してくださいね。マシーンが扱えて運針が綺麗なら最初から20パーセント上乗せで良いですよ」

「判りました、すぐ勤めさせても良いですか」

「良いとも今日から10日までは日払い其の後は10日ごと、来月からは月末か週払いを選ばせてくださいね。店員のほうも売り上げを伸ばせる人には上乗せすると言って下さいね。店で来る人を待つだけでなく顧客として有望な人にはアフターケア、エッとフランス語でなんと言うのかなSoins postoperatoiresとでも言えばいいかな」

「ええ判りますわ、タイユや使い心地を調べてその人にあった使い方をご指導しますということでしょ」

「そういうことです。それがお客様を放さないコツですからね。体形は年々変わりますがなかなか自分が太ったことを認めたくありませんからね」

エメが其れを聞いて首をすくめて「私も太らないように気をつけよ、それで無いとLoodのママンみたいになりそうで怖いわ」

「今からそんなことに気を使いすぎて物を食わんのは好きじゃないよ。余り気をつけなくてもいいから食いもんはたらふく食ってくれ」

「ジュリアンもそんな事いって私がママンみたいに大きなお尻になってもいいの」

う〜んとうなって返事に窮するジュリアンはやはり気立てのよい男であった。

正太郎は昼も食べずにノートルダム・デ・シャン街へ向かいエメにジュリアン夫婦に贈るランプスタンドを一緒に買いに行くように頼むつもりだ。

「良いわショウお昼は食べたの。私は朝軽く食べただけなので何か食べようか考えていたの」

「まだだよ。今日はサン・トノーレ街へ来てこれを買ってからルピック街へ行って来たんだ」
そういってサックからラ・モード・イリュストレを出して渡した。

「また買ったの。ショウはこういうの見るの好きね」

「最新の情報は大事だよ。いくらモード誌が流行を作ろうとしているにしてもね」

「其れは確かね。此処に載れば其の服がほしいと言うのは誰でも同じですもの」

正太郎は20フラン札を丸めた束から10枚抜いて此処のところだいぶ係りが出たろうからこれを預かっておいてと手渡すと「遠慮なく預かるわ」そういってエメは赤いサックにしまった。

「ショウが渡してくれたものは小遣い帳をつけるようにしたの、そうすると無駄遣いしない気がするわ」

「そうだね僕もYokohamaを出るときに仕事のお金に自分のお金、それから旦那と先生から頂いたものと分けて付け出したんだ。こっちへ来てから競馬とカジノでだいぶ儲けたから当分小遣いには困らなくなったけどね」

「あれから賭屋のジャンや競馬場へ行って馬に賭けたの」

「1回も競馬場には行って居ないよ。ジャン・ブルジョワにもあれっきりさ。もっとも僕は会ったことも無いけどね。カジノもあれきりさ。素人だからまぐれでそれもMr.ラムレイが最後に張れといった号令に従っただけだもの」

「そうなの、ショウが賭け事にのめりこんだらどうしようか心配したのよ。でもあれから1回もして居ないなら安心よ。でもお友達から誘われたときはことわらない人であってほしいわ」
不思議な女心にエメはいい娘だなと其の優しさに正太郎は心が燃えるのを感じた。

応接間のソファに戻りエメが入れたカフェ・クレームをのんだあと、遅くなった昼食を取りにサビーナまで歩いたが、表まで溢れた人に諦めて市場の中のサラマンジュへはいり、コンソメとパエリアにマカロニのグラタンを頼んで二人で分け合った。

隣の席の客に出されたものはシェフが前掛けをするように渡して周りの客にソワイエ・プリューダンスと声をかけて熱した油を上から注ぐと炎が上がった。

見るとタルタルステーキにソゥス・ア・ドゥミグラスが掛かったものに油を注いだようだ。

「面白いねこの次はあれを頼んでみようよ」

「ほんとあの炎はすごい演出ねあそこだけ天井に鉄板が引いてあるわ」
エメはさすがに眼が行き届いてそういう店のつくりまで見ていた。

正太郎がサックから双眼鏡を出したのでエメは驚いて「なにを始める気なの」と聞いた。

双眼鏡を覗きながら「今ルネに似た人が表を歩いてサビーナの前に居るんだ」というと「じゃぁ挨拶しないと」と立ち上がるのを手で制して「本人なんだけど可笑しいのさ。いやにめかし込んでいるし普段と帽子も違うんだ」といって一度双眼鏡を置いた。

「それなら良く似た人じゃないの」

「見てごらん。此方は暗いから向こうからは見えないと思うから」

そういってわたすと「あら本当だわあの口ひげと肩の感じは間違いなさそうだわ」そういって焦点を合わせてよくみて「間違いないわね。仕事もしないでどうしたのかしら」と心配そうに正太郎の顔を見た。

「ありゃ、ちょっと貸して」

そういってもう一度覗くとこの間、置いてきぼりを食わせたときの貴婦人に間違いない同じドレス同じ扇を持った人が近づいて挨拶をしてサビーナに入っていった。

「コリャ大事件だ」

「なんなの」

「この間ルネを置いてきぼりにしたと言ったろ。あの時ルネに寄りかからせたご夫人に間違いないよ。顔は覚えていないけどドレスに扇は良く覚えているんだ」

どうしたのかしらと二人が見ていても出て来ないと言う事は予約をしてあったようだ。

「こりゃきっとあの時のことでどちらかがサビーナに誘ったようだね。ロマンスに発展するかな」

人の心配をしてやきもきしても仕方ないと2フラン50サンチームの食事代に50サンチームのチップを払って店を後にした。

「今日は遅くなってしまったから明日は午前中に来るからサン・トノーレ街のブティック・エンペラーでランプスタンドが置いてあるか見に行こうね」

「良いわ、お昼はラデュレで何か食べましょうね」

サン・スュルピス広場の噴水脇でビズをしに来るエメに「あのご夫人きっと右岸の人だよ」と囁いた。

「なぜそう思うのショウは」

「だってルネもはずれといえども右岸だよ。向こう側だと知り合いに出くわすと考えてこちら側に来たんじゃないかな。あのご夫人こちら側の有名店のなかでもラ・トゥール・ダルジャン(La Tour d'Argent)あたりだと顔が知られている人じゃないかな」

エメはウフッとつい笑ってしまいショウに改めてビズをすると「ほんとに面白いことを考える人ねMr.ラムレイの探偵が貴方にも乗り移ったのかしら」さも可笑しそうに口をすぼめておでこにビズをして手を引くと噴水の廻りを踊るように廻った。

「そういえばMr.ラムレイからジュリアンの結婚式のお祝いをもってでてくると電信が有ったよ。ジュリアンのほうから15日の結婚式は連絡したから、パリをいつ発つか日にちが決まり次第また連絡を入れることにしたけどMiss.オウレリア共々パリへ来る様だよ」

「リリーが来たらさっきの話しのレストランへ招待しましょうよ」

「いいね、カジノの儲けの御礼もしないといけないしね」

「其の分を取り戻そうとまた行っては駄目よ」

念を押すエメは世話女房でもあるようだ。

アパルトマンに戻るとリュカが颯爽とバイシクレッテで戻ってきた。
「サリュ、リュカすごく上手くなったね」

「ウイ・シトワイヤン、ショウありがとう、セディに3日習っただけでもう十分乗れるよと1人で練習するように言われたんだ。馬車トラムや馬車に気をつけて大きな通りは避けて走ってきたんだ」

「そうか、その内遠くまでいけるだろうけど無茶して競争して速く走ったりするなよ。怪我をするとメールが悲しむからね」

「うん大丈夫だよ。気をつけて乗るから、大事なバイシクレッテだもん」

リュカのバイシクレッテと入れ違いに自分のを引き出してエメにビズをした正太郎は「オ・ルヴォワール・アドゥメン」「オ・ルヴォワール・アビアント」と挨拶を交わしてメゾンデマダムDDに戻っていった。

「エメ、今日のショウはあっさりしているね」

「何で」

「だっていつもはエメが強烈にビズしてからじゃないと帰らないじゃないか」

「こら、またなまいって」
そうエメににらまれて「おおこわっ」とおどけて逃げ出すリュカだった。

「だけど本当にショウからビズをしてくれたのはいつ以来だろう」と嬉しそうな顔で階段を軽やかに上がっていった


Paris1872年8月12日 Monday

電信で連絡が来ていたオウレリアがパリへ入る予定の日だ。

ジュリアンは明日の昼にReimsへ先行して余念無く親戚周りに歩き、明後日はエメ・オービニエにパリでの親代わりのLoodの夫婦が付いてReimsへ出むき、ゲントからはエメ・オービニエの両親だけが15日の式に出て宴席が開かれ、その後ジュリアン夫妻とオービニエ夫妻にジュリアンの両親が付いてゲントへ、向こうでも17日に披露の宴会を行うことになった。

「参ったぜ宴会がそんなに続いて体が持つかな」

「ジュリアンは新郎だから飲まなけりゃいいじゃないか」

「ショウは知らないだろうがReimsの俺の村では新郎は全員から注された酒をことわることが出来ないのさ」

「そりゃ可笑しいよ。きっと昔は代わりに飲んでくれる人が付き添いに付いたはずだよ。ジャポンでもそういう風習は有るけど新郎を其処まで酒漬けにする風習は聞いたことなぞ無いよ」

「其れは俺もそう思うが友達の式で俺たちは許さずに飲ませたからな。いまさら俺のときは勘弁しろといえないのさ」

そりゃ仕方ないなと聞いていたものたちはお元気でと慰めなのかなんなのかわからない挨拶をするのだった。

オウレリアはジュディにMr.ラムレイの3人が出て来てReimsへ出向くと電信には書かれていて正太郎にエメも出席することになっていた。

エメ・オービニエはエミリエンヌ・ブリュンティエールがきてくれれば心強いと顔を会わせた日から頼りにしていた。

「向こうでは名前で混乱するといけないから暫くマリーといってね」

ジュリアンはじめ正太郎やエメ・オービニエにも今からマリーと呼ぶ練習をさせるのだった。

マリーはエメの代わりの娘がなれるまで店を手伝う約束で8日の日から朝8時から夜8時まで途中エメがジュリアンのところに行く午後の4時間もママンと一緒に店を磨いているのだ。

「お嬢さんだいぶ皿を洗う手つきがプロらしくなったよ。二月もうちに居ればもう少し太らせられるんだけどね」

そういわれて正太郎に「太るのと今のとどちらがいいの」と迫って当惑させるのだ。

正太郎も今のままが良いとは言うのだが「太ったらどうする」といわれても「エメが太るところは想像できないけどきっとそれでも好きだよ」といわざるをえないのだ。

夜アパルトマンに帰るのに迎えに行ってそれから駆け足でメゾンデマダムDDに帰る毎日でこれなら郵便配達や新聞の配達員になれそうだとダンに言うと「お前なにをやらせても食いっぱぐれは無いな。大体エメはフォリー・ベルジェールから1人で夜中に帰って居たんだぞ。8時に帰れないはずは無いだろ」といわれて同情すらしてもらえなかった。

ランタンを下げてバイシクレッテのほうがましかなとも思ったが、日が暮れてからのバイシクレッテはスピードが出ていると人にぶつかりそうで怖くて乗る気になれないのだ。

パリの夜歩く紳士の多くが黒い服と言うのも可笑しなもんだと思う正太郎だ、馬車のランタンに気づかず大怪我をする人も数多く見られるのだ。

10時に配達員が連絡票を届けに来てそれには何時ものインターコンチネンタル・ルグランに部屋を取ったから2時ごろジュリアンの店で会いたいと書かれていた。

2時少し前に店へ出向くと表のガラスも磨かれすっかり綺麗になった店の表には

Aout 23 Vendredi 9:00 a.m. ouvrir d'un magasin.

Un magasin du vin de Christophe Julien Degletagne 

8月23日金曜日朝9時開店
ワインの店 クリストフ・ジュリアン・ドゥダルターニュ
と書かれた板が取り付けられていた。

裏へ廻るとエメはもう帰ったあとでジュリアンが裏でぼんやりとパイプを咥えていた。

「なに、目立つ店の名前を考えると言っていたのに自分の名前をそのまま付けたの」

「もうめんどくさくてなぁ。エメが面倒なら自分の名前でいいじゃありませんか。私はクリストフ・ジュリアン・ドゥダルターニュという響きが好きよというもんだから」

ありゃりゃと正太郎はおもったがいかにもジュリアンらしい発想だがCJDなぞというジュリアンが考えた省略した店よりはよっぽどましのようだ。

「ジュリアンこの名前もしかすると当たるかもよ、ワインの店というわかりやすいところにクリストフという優しい響きとジュリアン・ドゥダルターニュという硬い響きが耳に残りそうだよ」

「そうか俺はクリストフじゃ優しすぎて、俺らしくないと思ったがショウがそういうならきっと耳当たりが良く響く名前なんだろうな」

表からオウレリアの声で看板を読む声が聞こえ「いい響きじゃないワインの店クリストフ・ジュリアン・ドゥダルターニュ。判りやすいし響きも良いわね」其の声でジュリアンは自信を持って脇から前に出ていき「マドモアゼル。ようこそクリストフ・ジュリアン・ドゥダルターニュのワインの店へ。ただいまはまだ此方が入り口ですが、まずはブティック・クストゥからお入りください」そう案内して明日開店のブティック・クストゥへ案内した。

イヴォンヌが出迎えて「狭いですがご覧ください。明日の開店を待つばかりに整理が済んでおります」と店へ招じ入れた。

店から5階の子供部屋まで見て周り寝室から4階へ上がる階段も「いいところに気が付いたわねこれなら使い勝手が格段によくなったわ」そう大工の機転も褒め夫婦の努力でお店を発展させてねといって改めてジュディが抱えていた荷物から真珠のネックレスをイヴォンヌの首にかけて「私からの開店祝いよ、ご主人には無いけどこれで勘弁してね」そうM.バルバートルに謝った。

夫婦は感激で言葉にならずオウレリアの手にビズをするのが精一杯だった。

ジュリアンの案内で夫婦の居間等も見て正太郎にも貴方のエメとジュリアンのエメは今日逢えると聞いてきた。

「ふたりともLoodに居ます。エメがジュリアンとの結婚式から戻っても向こうへは行かないのでマリーが新しい人が落ち着くまで手伝いに行くので今は見習いで働いています」

「あらちょうど良いわ、私たちそこで夕食が取れるかしら」
ジュリアンはマドモアゼルが行くような店じゃありませんよと言うのにかぶせて「私たとえ場末のサラマンジュでも平気よ。ましてあなた方が行きつけだったお店でしょ。Mr.ラムレイだってそういうお店の料理は大好きよ」

「はい私もジュディもそのほうが気もちも落ち着いて食事が美味しいですね。しかし高級店でも入れるのがイギリス紳士のたしなみです」

Mr.ラムレイは高級店が当たり前でなく場末のほうが当たり前の食事どころだと言いたいようだとジュリアンにもわかった様だ。

ジュリアンの従業員も紹介されてオウレリアの美貌と気品に打たれたように畏まっているのが正太郎には可笑しかったがエメたちが言うように俺が特殊なんだと思い出した。

イヴォンヌが此方ではカフェーが今すぐ入れられませんが心安くなったお隣が用意してくれましたので隣へどうぞと呼びに来たので隣の乾物屋の奥の部屋へ入った。

ブティックの隣は割合大きな店で、其処は乾物をあつかう老夫婦の店だがイヴォンヌと気が合うのか打ち明け話でそろそろ店を売って隠居したいという話しだそうで今日も其の話を老主人が思わず口に出した。

庭続きで僅かだが日当たりの悪い庭と3階建ての建物はもう100年も経つというが石造りと木が合わさった頑丈な造りのようだ。

奥の部屋まで入ったことは無かったが割合広い部屋には気の利いた調度に趣のあるテーブルが置かれタブレーも王朝風のいいものに思えた。

Cafe Cremeにマカロンが出されジュディはミルクもたっぷりと入れてもらい嬉しそうに食べては飲んだ。

ジュリアンが話を聞くと貸すなら月250フラン、売るなら30000フランという話しだ、それだけあれば郊外の20区に小さな家を買って半分を年金型の預金にすれば老夫婦二人が暮らすには十分という話しだ。

Mr.ラムレイが話しに加わり正太郎に買い取りなさいとオウレリアまでがいう話で急遽弁護士と不動産屋が呼ばれ商品込み30800フランで契約が成立した。

正式契約は明日正午、正太郎が現金を持参し改めて夫婦を伴って銀行に預けその日のうちに弁護士同道でエメの名で登記も完了させることになった。

店員は店が片付き次第本人が希望すれば今の条件でジュリアンが雇うということになった。

「そういえばさっきからエメといったりマリーと言ったりしているけどどうかしたの」

「この間からLoodを手伝うのに紛らわしいのと結婚式で混同したりすると厄介なので暫くマリーと呼びなさいとエミリエンヌ・ブリュンティエールからのお達しなのです」
ハハ確かにそうだと一同も納得して暫くマリーと言っていると後で戻したときまた混乱するわと其処でも笑いが絶えないのだった。

「いけない此方へ弁護士に来ていただいているうちにもう6時半よ、Loodのお店は開いているかしら」

「明日から休業で今日は売り切れまでぎりぎりに営業しているはずですが、材料が有ればいいのですが」

正太郎がそういうと「ショウお前あの親父の気性がまだわからないのさ。明日からしめるからと仕入れをケチる親父じゃないよ。残れば近所のかみさんに明日配るくらいのことをやる親父さ。だから時間ぎりぎりでも大丈夫だよ」

話をしながらも後片づけをして後を頼んでLoodへ向かった。

幸い表に出ると馬車が客待ちをしていて歩かずに済んだので店に着いたのは7時を少し廻ったばかりだった。

「親父さん俺にはショウが食ったというオムレットだ」

冗談だろという怒鳴り声がしたところを見るとジュリアンはエメから親父がこの間マルゴーの飲み残しで下ごしらえをした鶏肉のオムレットの話を聞いたようだ。

怪訝な顔のオウレリアたちにショウが経緯を話すと「マルゴーで味付けした鶏肉かショウは贅沢なものを食べたな」Mr.ラムレイは笑いながらママンに其れを僕にもと言い出す始末だ。

他の人はと聞かれて「面倒だオムレット5人前」とジュリアンが言い放った。

ママンは笑いながら卵は有るかいマリーと大きな声で厨房に声をかけた。

「あと3ダースは有るわよ」

「じゃ5人前だよ。だけど今日のはマルゴーじゃないよ。ボルドーにゃ違いないがあたしゃ知らないシャトーだよ」

「まさか」

「其のまさかじゃ無いのかな」

ショウとジュリアンは立ち上がって厨房へ入っていった。

「親父さんこの間の奴かい」

「そうだがどうかしたか。10本貰った奴から名前を聞いたことも無い奴だぜ」

シャトー・ラネッサンだ。

「シャトー・ベイシュヴェルはよく知っているがこいつは聞いたことも無いし仲間も知らんと言うとったぞ。魚とは合わんなこいつを鳥にかけたら思いのほか味がよくてなためしに飲んだが俺には合わんよ。飲むなら半分あるぞ」

二人はへなへなと腰を抜かした。

「ショウお前言ったよな」

「言いましたよ。こいつは干し肉が一番特に雉肉と相性がいいからとね」

「だから鶏と合うと思うのだがな」

「そりゃそうだ」

ジュリアンは力なくショウと店に戻った。

「どうしたの二人とも、ガッカリした顔で」

「この間もって来た特別のラベルのラネッサンです」

あら其れがでてくるのとオウレリアは屈託無く言った、バウスフィールド夫人と違って思い入れは無いようだ。

「あれはこの間買い入れた奴以外にショウの舌にほれ込んだ当主が10本呉れたうちの一本でした」

ママンが半分に減ったビンを持ってきて5人に注いでまわった。

「マァ美味しい。これだいぶ枯れているけど何年ものなの」

「1858年です、あと57年が3本メゾンデマダムDDに、57年と58年59年それぞれ1本ずつががジュリアンのところ58年3本がM.ポンティヨンのところです」

「そうそれで残りのすべてはまだ飲めるのね」

「そうです」

「フフ力が抜けているわね。いいじゃない一口ずつ味わえたのだから」
オムレット以外の注文は出さなかったが気を利かせたのか残り物の整理に掛かったのかステーキにハンバーグにマカロニとお米の入った不思議なグラタンまで出てきた。

「なんだ今日は地中海料理がなくぜ魚は何も見えないな」

「ジュリアンなにを強気な事いっているのよ。ステーキの代わりに鱸の香草焼きをだそうかね」

「有るなら出したらどうだ俺じゃなく此方のお方が食べるぜ」

「自分で食べられないから人にかい。エメと一緒になってからそんなわがままは私が許さないよ」

頭を抱えて「魚を食うのかよ。海老だけは勘弁してくれるなら我慢して食うぞ」
それにはMr.ラムレイ始め皆が可笑しくて笑いをこらえ切れなかった。

親父が出てきて「なんだジュリアンよ、この間のマルゴーは謝ったろ。あの時は簡単に仕方ねえといったくせに名前もしらねえこんなワインに何でガッカリしているんだ。確かに味わい深い酒だが何処か違うのか。格付け表にも乗っていないらしいぞ」

「そうなんだよあの時審査員の名前が気に入らないと言うのでださなかったのさ。土地では2級は確実と言われているが其れが気に入らない人なのさ。人の格付けなどよりワインを飲んで喜んでくれる人のための酒造りを目指しているそうだ」

「そうか仕方ねえな。これから俺に呉れるときはどんな使い方をしてもガッカリしないものにしな」

「いやそんなわけにはいかん。俺は俺の感性で選んだ酒を俺が選んだ人にわかってもらうまで付き合わせるぞ」

「この強情ものめ。マァそんなお前だから10年も付き合ってきたんだがな。こいつ騎馬警官の頃から気が強くてな。何時も上司と衝突しては俺のところで自棄酒だったがよいがさめればきちっと仕事もこなすし弱い奴の味方をするので浮浪児までがこいつを見ると寄っていくぐらいでな、今でも俺の名で孤児院に年間2000フラン以上も寄付をさせているのさ」

正太郎も知らなかったジュリアンの一面が親父の言葉でエメ・オービニエも知り感激したのか後ろからジュリアンを抱きしめて涙を流して頬擦りをして「好きよジュリアン、何時までも変わらない貴方でいてね」と優しい声で囁いた。

話も一段落し後片付けはママンがやると奥へ入りマリーが店に出てきた。

「マリー話があるのよ。今日ショウがジュリアンの店の隣を買うことになったの、其れでね名義人は貴方Marie Emilienne Brunnetiereの名前にすることになったわ。あした朝一番でショウと銀行へ行って貴方の口座から1500ポンドを下ろしてフランに替えてね」

「はい承知しましたわ。それで何のお店ですの」

「今は乾物屋よ。ショウはなにが良いと思ってるの考えはあるみたいだったけど」

「ええもう少し話を煮詰めてからと思いましたがM.バルバートル、いやテオドールの弟が二人いて自転車の修理が上手いそうなのです。其の人たちにバイシクレッテの店をどうかなと思いまして。幸いパリジェンヌ商会という工場とも上手く行っていますから其処の品を主力にミショーにほかの品も幾らかは置いて最新のバイシクレッテを扱う販売店を考えていました」

「そう其れはいいところに眼を付けたわね。今ポンドが高いからイギリスのものが入りにくいからチャンスは大きいわね。実は私もこの間からショウがバイシクレッテの取引を始めたと聞いて今日その気になったのよ」

やはりこの人、勘が鋭いようだ、吉田に寅吉の商売の上手さを見抜いたのもこの人だし正太郎にも其の要素が大きいと見抜いても居るようだ。

「マリー明日現金の内支払いは30800フランよ、後は予備金としてバイシクレッテの店の開業資金よ。今もポンドあたり23フラン40サンチームなの」

「そうですMr.ラムレイに連絡した後も動きは無いようです」

正太郎がメモに計算して1500ポンドは35100フランですと報告した。

「そうすると4300フランあまるから其の人たちの給与と住まいの支度金に支払っても大丈夫ね。Mr.ラムレイそのくらいでいいかしら」

「後1500ポンド下ろしてフランでショウの口座を作れば万全でしょう。其れをバイシクレッテの資金にすれば会計もすっきりしますよ」

「そうねショウが仕入れて店に卸すという形でやればショウの取り分が出るわね」

「そうです。ショウが親会社と子会社の両方を仕切ればいいわけですから合法的に儲けが出ます」

ジュリアンもそういう考えもあったかと改めてMr.ラムレイの鋭い考えに賛成した。

「では明日3000ポンドを下ろしてフランに交換してその内30800フランを支払いに当てて残りの」

正太郎が示した数字を読んで「39400フランをショウが口座を開けばいいのですね」

「そうよ、そうして頂戴ね。弁護士と不動産屋はショウが清算して後から降ろせば済むでしょ、今回は私が仕切ってしまったけどこれからはショウがリーダーよ。だからショウが必要なお金は理由を聞かずに出して上げてね。でもショウは教えるでしょうけどね」

ショウの顔が赤くなるのを周りのものは広い心で包み込むように眺めていた。

「そうそう忘れるところだったわエメ・オービニエにもマリーにも贈り物があるのこれが渡したくてでてきたのよ」

ジュディが差し出すバッグから2つの細長い箱が出され真珠の首飾りが披露された。
奥から出てきていたママンが其れを見てマァ綺麗と感嘆の声を上げた。

オウレリアが二人に着けて「これは余り高いものではないけど二人への贈り物。マリーの結婚式は何時に為るか解らないから先払いみたいなものね」そういって横目で正太郎を睨んだ。

「15日の結婚式の時は二人とも着けてほしいな」

オウレリアは二人に言って明日はショウに任せてルピック街には行かないわと宣言して勘定はMr.ラムレイがしますと支払いをさせて店を後にした。

「全部で32フランですよ」

「親父さんそいつはジュリアンが嘆くのも最もだよ。あのワイン、ロンドンだと30フランでのめるかどうか」

其の言葉を聞いて親父さんはマルゴーのとき以上に目を丸くして「ジュリアン頼むから俺の心臓を悪くするような高いものは持ち込むな」といって皆を笑わせた。

店の前でエメを送る正太郎と別れてそれぞれが寝に戻り、二人は腕を組んでリシュリュー街を抜けてルーブルの前に出た。

カルーゼル橋を渡るときにはすっかりと陽が落ちてガス灯が明るく輝く様子は涼しい風を求める恋人の格好の場所で、立ち止まって川面を行き交う夜船のランタンの灯りを眺める人で溢れていた。

マラケ河岸をエコール・デ・ボザールへでるとエメは「やっとショウもマリーと呼びなれたようね」と耳元で囁いた。

「店にいるときは大丈夫だけどこうしているとマリー言いづらいよ」

「暫くは駄目よ。気が緩むと肝心のときに間違えるわよ。其れより学校のお友達に聞いたけど本当のダルタニャンの屋敷はこの近くのマラケ河岸付近に在ったらしいのよ」

「本当かい。そりゃすごいねデュマのダルタニャンと本物ダルタニャンか」

「ほんとに面白いわよねデュマが本当らしく作った部分と真実の歴史を表に並べてみたら面白いこともわかりそうだわ」

二人はロマンチックな話とは無縁な話をしながらも腕を絡ませ肩を寄せ合ってサンジェルマンデュプレの賑わいを抜けてレンヌ街を緩やかに登りノートルダム・デ・シャン街へ向かった。

「明日は銀行の開く9時頃に店に行くから」

「明日からお休みよ。アパルトマンのほうへ来なきゃ駄目よ」

「あっそうか、半月の月に化かされたかな」

「なんなのそれYokohamaのことわざなの」

「いやね満月の夜は狸が陽気に踊りだしたり、半月の夜は狐が人を化かして道を間違えさせるとか、迷信を年寄りが子供に夜遊びは怖い眼にあうぞと脅かすのさ」

「まぁ子供の頃に教えられると信じてしまうわね」

「そうなんだよだから悪い大人しか夜の町を歩いていないのさ」

「またショウは貴方が私を化かしているのね」

そういって肩をぶつけビズをせがんで足を止めた。



Paris1872年8月13日 Tuesday

ダンと共にアパルトマンをでてルーブルの前で別れた正太郎はエメのアパルトマンの前に付いたとき時間はまだ8時半になっていなかった。

「馬鹿に早いのね」

「途中までダンと一緒に来たのさ。こっちに向かうときは降りだからダンについて走ることが出来るのさ。帰りは彼のほうが断然早いけどね。まだまだ彼みたいに早く走ることが出来ないのさ」

「ロンドンから来たあの大きな車輪のバイシクレッテはどうなの」

「あれは乗り降りが難しいからね。それに街中を走るのは危険だよ、競争に使う人は多いけど早く走るだけが目的ならあれでもいいけど、オリビエ兄弟が研究しているペダルを真ん中に持ってきて低い位置にセラを取り付ける型が完成すれば一番だよ。ルネは今歯車を噛み合わせて作っているけど其れだと服やパンタロンが巻き込まれて危ないのでいい方法が無いか調べているそうだよ。ベルトだとすぐに緩んで滑ってしまうそうなんだ」

「この間のサビーナにいた人ね」

「そうあの人さ、この間寝ていてチェーンで連動して後ろの車が動く型の夢を見たと今新しいものを試作しているそうだけど、あそこで見た人のことはとぼけて話さないのさ」

BPPB銀行へ寄りルピック街へ出かけReimsへ先に出立するジュリアンを見送って乾物屋で弁護士と不動産屋が来るのを待っている間も隣の様子が気になる二人だった。
店はまだぱらぱらと客が出入りするくらいだが、どうやら商いにはなるようで紙の袋に一杯の買い物をして出て行く人も見えた。

イヴォンヌが息抜きにでて来て「ショウ、朝からだけでスリップは男性用が50枚、女性用も10枚売れましたわ」

「其れはすごい、初日とはいえ売れる見通しが付きましたね」

この店のことで話があるので店を仕舞う7時に来ますから家に居てくださいと正太郎が伝えると「わかりました、お待ちしていますわ」とまた店に戻っていった。

正太郎はマリー・アリーヌだけに女性用を作ってもらい、ここでは男性用のスリップの作製だけにしたが、余り売れすぎるようならマリー・アリーヌのほうに早く工房を開いてもらうことになりそうだと感じた

契約書と様々な書類を持って弁護士とエメが役場に出かけ不動産屋と正太郎は老夫婦について銀行まで出かけた。
夫婦は不動産屋が薦めた家の購入資金に必要な6300フランを残して預金と年金の取り決めの助言も不動産屋がしてくれた。

馬車でレピュブリック広場から街道を進み20区に入りペール・ラシェーズ墓地を通り過ぎてモントルイユの市場の人ごみをさらに先へ行くと、ヴァンセンヌのシャトーの北側とモントルイユの桃園の南側の中間あたりにあるレピュブリック通りという場所で庭付きの落ち着いた家まで案内された。

「この道はまさかレピュブリック広場から同じ名前で続いているのですかね」

「いや違いますね。Paris街道からはじまる800メートルくらいの通りですよ」

裏には花園が付いていて近在の農民に頼めば手入れにも来てくれると聞いて夫婦は一目見て気に入ってしまったので、その場で契約が交わされて6000フランで買い上げそのまま役場で登録の手続きもしてくれた。

正太郎が庭を見ているとこの間見た岩山とオレンジ色の屋根の古い町並みにヴァンセンヌのシャトーが木々の上から覗いていた。

「ムッシュー、いゃあ貴方若いのに気風が良いですなぁ。これからもご贔屓に願いたいものですな」
不動産屋は3人をルピック街まで送り届けるとお愛想を言って帰っていった。

「何時この店を明け渡しますかな。向こうの家に早く移りたいものでね」

「5日間待っていただけますか、今日からの売り上げはイヴォンヌに渡して頂ければ結構です。お宅のほうの手続きはすべて済みましたが僕も明日から留守になるのでイヴォンヌに任せて後のことはいたしますが。ジャンがこの商品を売る手伝いを見つけるまではいてほしいのです」

「良いですよ、ジャンも仕事が引き続きあるので喜んでいますし、特別手当が50フラン日当のほかに出してもらえるので喜んでいますからね」

「彼に退職金に300フラン出したそうですね」

「そう3年とはいえよく働いてくれましたからね、そのくらいはだしてやらないとね」

エメは遅いなと正太郎が思っているとイヴォンヌが店に来て「あら戻っていたのね気が付かなかったわ。声をかけてくださればいいのにマリーがお店を手伝ってくれて助かっていますのよ」

エメは帰ってきてからお客の応対に出て店員の息抜きが出来るように店番をしてくれていると告げすぐ店に戻り、エメが急いで乾物屋の店に来て夫婦が入れてくれるカフェーをおいしそうに飲み役場での登記書類を正太郎に預けた。

「銀行はもう閉ったから当分はメゾンデマダムDDの金庫だね」

明日から行くReimsでのマリーの衣装や正太郎が話す教会にローマ時代の遺跡、ぶどう園の様子など老夫婦も興味深げに聞き入った。
店を閉めたとイヴォンヌが呼びに来たので2階の食堂で店員とお針子に今日の働きをねぎらって返すと早速乾物屋の店の後始末について話をした。

イヴォンヌは其の店をM.バルバートルの弟に遣らせると言うのに賛成したので、正太郎は乾物が整理できたらマガザン・デ・ラ・バイシクレッテを開いたらどうかと話すとテオドールも大喜びで賛成してくれた。

やはりパリ大改造で道路に家を取られ移り住んだ家もパリ・コミューンの騒ぎで灰燼に帰して行き所が無くなった人達なのだ。

「二人も賛成するでしょう。M.ショウは自分が経営者で遣られますか。それとも賃貸しが希望でしょうか」

「賃貸しで出来ると思いますか」

考えていたテオドールはやはり無理かなと少し落胆したようだ。

「貴方と同じ月160フランの後は歩合ということで二人の弟さんが共同で働くと言うのはいかがです。10日ほど交互にパリジェンヌ商会で組み立てと修理を習ってくれば後は工夫次第で売り上げも伸ばせます」

ロンドンで売り出されたペニーファージングも入れてミショーも置けばお客は好きな型のバイシクレッテを買えますからと営業方針も話した。

M.ショウが雇ってくださるなら百人力ですよ。生活が落ち着けば彼らも家庭が持てるというもんだ」

「其の人たち独り者ですか」

テオドールは小さな声で「夫婦はあの蜂起に参加しましてね、かみさんたちは砲弾運びの最中砲弾置き場に政府軍の砲弾が打ち込まれて戦死しちまいやしたそうで髪の毛一本見つからないのでございます」と告げて早速今から話しにポルト・ド・アスニーレへ出向き、明日朝早くにメゾンデマダムDDへつれて行くと約束した。

正太郎は10時にメゾンデマダムDDをでて東駅を12時の列車に乗る約束のことも話し、自分が帰るまで隣の店で乾物がなくなるまで安売りをして店を綺麗にすることもイヴォンヌに頼んで指揮をとってもらうことにした。

「忙しいだろうけど頼みますよ」

「大丈夫ですよマルクにイヴォンも裏の片付けはしてくれますし、ワインの店のほうも支度が一段落しましたし、私どもの品物の引き取りにも動いてくれますから人手はたりていますから安心してくださいな」

正太郎はマリーを送るのでポルト・ド・アスニーレまで馬車のほうが早いとM.バルバートルも乗ってもらい今晩の内に17区まで出向いて話をすることにした。

二人はテオドールの話を聞いて二つ返事で「私たちでお役に立つならどうぞ使ってください。バイシクレッテは好きで修理もしますし、この様な生活になる前は鍛冶屋の見習いもしたことがあるので修理は得意です」と頼もしいことを言ってくれた。

もう少し残って話をするというテオドールに「朝もう一度メゾンデマダムDDに二人が来てくれれば支度金をお渡しして、今日言い残したことなどを紙に書いて置きますから其れを皆さんで相談してあなた方が不利にならない条件で契約をしましょう」と伝えて待たせておいた馬車でマリーを送った。


 
 2008−05−13 了
                阿井一矢


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