酔芙蓉 第一巻 神田川  
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万延元年8月18日―1860年10月2日

 ・ 深川


万延元年8月18日―1860年10月2日
 ・ 深川
洲崎神社は元弁天社と称して厳島神社の御分霊祭神市杵島比売命を斉祀しており、江戸城中紅葉山に綱吉公の御生母桂昌院の守本尊である弁財天(弘法大師作)と稲荷社を祀り洲崎弁天社と称しました。
元禄13年(1700)、江戸城紅葉山より此の地に遷座して、宮居を建立し、代々徳川家の守護神となった。当時は海岸であり絶景として知られていた。
現在の江東区木場6−13−13です。

(いまは埋め立てられて木場のど真ん中だよ・アイ)
廿日余(はつかあまりに)四拾両(しじうりやう)・盡用而二分狂言(つかひはたしてにぶきやうげん)』は、京傳門人大栄山人という署名に拠り、寛政三(一七九一)年に刊行された黄表紙で、後に読本作家の第一人者となった曲亭馬琴二十五歳の時の処女作です。

万延元年8月25日―1860年10月9日

 ・ 冬木町

添付は蒲の穂

万延元年8月25日―1860年10月9日
 冬木町
土曜丑の日、平賀源内が広めたといわれる丑の日に鰻というキャッチコピー。
この日は土用では有りませんし丑の日かまでは調べが尽きませんでした。それに八月は江戸は旧暦なので中秋なのですが、鰻好きのコタロウ君をおきわさんが、からかって土用は夏だけじゃないだろうと鰻と土用の話を持ち出しましたね。
土用は中国の『陰陽五行説』からきています。
 中国では、春・夏・秋・冬の四季に、木・火・土・金・水の五行をあてようとしましたが数的に無理でした。 そこで、春・夏・秋・冬に木・火・金・水をあて、各季節の終わりの18日余りに土をあてました。これが土用です。
うなぎは万葉の時代から歌に読まれています、
原文: 石麻呂尓 吾物申 夏痩尓 <吉>跡云物曽 武奈伎取喫
作者: 大伴家持(おおとものやかもち)

よみ:
石麻呂(いはまろ)に、我(わ)れ物(もの)申(まを)す、夏痩(や)せによしといふものぞ、鰻(むなぎ)捕(と)り食(め)せ

これがあまりにも有名ですが家持はもうひとつ続けて読んでいます。

3854:
痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻を捕ると川に流るな

平賀源内は新しい事を勧めたわけでなく、昔からのことを踏まえて夏にうなぎを食べて、健康に気をつけろという事を勧めて、さらに店に客を呼ぼうとしたのでしよう。
なら平安の時代は丸のまま調理したようで開いて焼くのは江戸時代からといわれています。

万延元年9月朔日― 1860年10月14日

 ・ 永代寺
嫁入りというと白無垢、だけど庶民がそんな見栄など張りませんでした。
近所にみせるという事が最大の宴席の目的。
みあいといっても実際にいまのようにホテルでの見合いなどない時代でした。
ほとんどのかたが仲人口で話を纏めて一緒になりました。


万延元年9月13日―1860年10月26日

 ・ 十三夜

十三夜
かた月見にならぬように、十五夜以外に月が変わりこの月に十三夜を楽しみました。
この日吉里花魁と名前が出ましたが何代目かはわからないながらよく聞く名前ですね。
唯吉原ではランクが上のようです。
コタロウ君が読んでいたのは黒猫です、エドガー・アラン・ポーは推理小説ファンにはおなじみの有名なアメリカの作家です。
コタロウ君は先物取引はしておりませんが、あちこちの旦那衆に自分の知る情報を小出しに教えているようですね。


万延元年10月28日―1860年12月10日

 ・ 紅葉狩り

正燈寺(しょうとうじ)は下谷竜泉一丁目、鶯谷駅から一葉記念館(竜泉3丁目)に行く途中です。
下谷七福神
布袋尊・・・寿永寺
〒 110-0011 東京都台東区三ノ輪1-22-15
TEL 03-3873-2402   恵比寿神へ徒歩10分
恵比寿神・・・飛不動尊
〒 110-0012 東京都台東区竜泉3-11-11
TEL 03-3872-3311   弁財天へ徒歩15分
朝日弁財天・・・弁天院
〒 110-0012 東京都台東区竜泉1-15-9
TEL03-3875-0478   毘沙門天へ徒歩15分
毘沙門天・・・法昌寺
〒 110-0004 東京都台東区下谷2-10-6
TEL03-3872-5891   大黒天へ徒歩3分
三面大黒天・・・英信寺
〒 110-0004 東京都台東区下谷2-5-14
TEL03-3872-2356   福禄寿へ徒歩5分
福禄寿・・・入谷鬼子母神
〒 110-0004 東京都台東区下谷1-12-16
TEL03-3841-1800   寿老神へ徒歩10分
寿老神・・・元三島神社
〒 110-0003 東京都台東区根岸1-7-11
TEL03-3873-4976   JR鴬谷駅へ徒歩3分

時の鐘は、まず三打して注意を引き付け(捨て鐘)、次に時刻の数を撞く。「六つ」であれば六打する。長屋の木戸(門)は平均「明六つ(午前6時頃)」で開き、「夜四つ(午後10時頃)」閉まります。

原文: 秋山尓 落黄葉 須臾者 勿散乱曽 妹之當将見
作者:柿本人麻呂(かきのもとのひとまろ)

よみ:
秋山に落つる黄葉(もみちば)、しましくは、な散り乱ひそ、妹があたり見む


万延元年10月29日―1860年12月11日

 ・ 常盤橋

常盤橋門は江戸城外郭の正門として奥州道に通じ、敵の侵入を防ぎ、味方の出撃を容易にする為、大きな切石で積み上げられた「コ」の字型の枡形門であります。

人力車が写ってるから明治になってからでしょうね。
万延元年10月29日―1860年12月11日

 ・ 八百茂



万延元年11月朔日―1860年12月12日

・ 亀清


かめせい楼もしくはかめせい、柳橋を北に渡り隅田川の川岸にありました。
南側が有名な両国広小路、ここには芝居小屋、見世物など人が集まる盛り場です。
さらに隅田川沿いに下ると堀があり其処が米沢町、船宿が多く集まる場所です。
いまは亀清楼で横綱審議委員会が開かれます。


川崎大師

万延二年1月2日―1861年2月11日

・ 川崎大師


川崎大師には柳橋から歩けば2日で往復可能ですが、年寄り連れなのでゆっくりと日をかけて出かけています。
【川崎宿の規模】本陣:2軒 脇本陣:なし 旅籠:72軒
        総家数:541軒
        宿内人別 2,433(男:1,080 女:1,353)
【江戸時代の名物】川崎大師参り、万年屋の奈良茶飯、
         新田屋のハゼ料理
六郷を舟でわたり左に折れればすぐ先に見えるのが川崎大師でした。

文久元年2月30日―1861年3月29日

・ 両国橋


両国広小路は見世物小屋に小芝居など数多くが出ていましたが筵掛けで薄暗かったようです、雨降りには無理な状態ですね。
らくだが出たり、象が来たり江戸っ子の度肝を抜くような当たりものがあるかと思えば、不人気で早々に退散したものまであるようです。
普通十六文から三十二文で入れました、人気を当て込んで高いものもありましたが、それでも歌舞伎を見に行くよりは庶民的な値段で入れ人気はたかかっようです。
あと浅草奥山も興行が盛んに掛けられ、この2箇所と上野が江戸の娯楽の中心地でした。
中でも浅草で行われた松本喜三郎の生き人形は大人気で例年5ヶ月は興行がなされました。
安政3年には浅草・生人形(松本喜三郎)32文+中銭16文+中銭16文=64文
途中より32文+桟敷舗物代32文宛+中銭32文=96文という値段がとられたそうです。


文久元年3月朔日―1861年4月10日

・ 長命寺


江戸も後半になると芸者も組合を作り町会所に登録しないと営業が出来なくなります。
1850年(嘉永3年)9月3日 江戸各町に、芸者取り締まりのため組合ごとの名前の提出を命じられました。
柳橋では明治35年(1902年)に芸妓組合が組織され、その後の昭和23年(1948年)には、芸の研鑚と上演を目的とした柳橋みどり橋会に改組されます。
江戸時代より隅田川とともに歴史を刻んできた柳橋花柳界は、平成11年1月、唯一残っていた料亭が廃業となり、柳橋芸妓組合も解散、柳橋の花柳界は終焉、その長い歴史に幕を閉じた。
お蓉ちゃんが勝弥としてもうじきお披露目、黒の留め袖は今でいう江戸褄、この当時もそう言ったのかは判りません、裾は七寸、五寸、三寸とあり年若いほど大きく書いたようです。
櫛の照手姫伝説は色々有りますがここではかな手本忠臣蔵より。
歌舞伎狂言「小栗判官」
 伯父横山大膳に父親を殺され、家宝の「勝鬨の轡(かちどきのくつわ)」や常陸国の領地の譲り状といっしょに囚われの身となった照手姫を救うため、許婚の小栗判官兼氏は傾城に姿を変えて横山の館に乗り込みました。しかし、大膳はそれを見破り、荒馬を仕掛けるなどして危害を加えようとします。
 小栗判官は大膳の妨害を次々に排除し、乗り越え、漁師波七らに助けられて逃げ延びた照手姫の行方を尋ね、美濃国で再会します。
藤沢の遊行寺、大和の桜ヶ丘に伝説が残っています。


 

 お披露目


文久元年3月3日―1861年4月12日

・ お披露目


全て本文にありますのであまり書く事がありませんが、柳橋近辺の船宿(米沢町など)も挨拶回りしたようですのでそのように書いてみました。
お披露目してもお座敷が掛かるかどうかは料亭と見番しだいというところでしょうか。
人入れ家業・あまり一般的な呼び名ではありませんが主に蔵前などで荷おろし、積み込みの人足を斡旋しました。
そのほか各大名旗本の小物、中間などの斡旋をするものもいます。
女中、下男などの斡旋をするものは桂庵(慶庵)といわれていました。
寛永のころ,京橋木挽町に住む医師大和慶庵が浪人2名とともに世上の訴訟・出入り・媒酌などの口入れを巧みにしたことからおこったという。
慶庵口というのは世辞・仲人口と同じで,口先だけうまいことをさします。

文久元年8月15日―1861年9月19日

・ 大横川

浮き草は哥沢(歌沢)でうたったようですが、元の曲名の「こす」は、小簾・釣簾、小簾は、本来は「おす」で、すだれの意。
文化二年(一八〇五)刊の『歌曲時習考』によれば、作者峰崎勾当、作詞は歌妓首のぶ。
首のぶの首は美貌で有名のため人がそう呼んだそうです。
この歌の作者は次の歌を引用したようですね。
古今集 938
わびぬれば 身をうき草の 根をたえて
さそふ水あらば いなむとぞ思ふ
(小野小町)


文久元年9月13日―1861年10月16日

・ 首尾の松


蔵前橋西詰めに首尾の松の碑が有ります。
この碑から約100メートル川下に当たる、四番堀と五番堀の間の隅田川岸に、枝が川面に架かるように枝垂れていた「首尾の松」がありました。
名前の由来については諸説あるのですが、吉原に遊びに行く人たちは、隅田川をさかのぼり山谷堀まで船で乗り込んだものです、舟の人が、途中この松陰によって「首尾」を求め語った言われています、平成の松は七代目。
浅草御蔵は、江戸幕府が全国に散在する天領からの年貢米や買い上げ米などを収納しました。
当初百九軒有った札差は寛政の頃には九十六軒(八十八軒という資料もある)になっていました。
倉庫は六十七棟三百五十四戸有り、五十万石(百二十五万俵)を収納できたといわれています

文久元年9月14日―1861年10月17日

・ 多喜川

茅町には隅田川というお店がありましたが、この話の中ではあえて多喜川というお店を設定しています。
溜池切畑の岩附屋は実在いたしました。
うなぎは高い店ではこの当時六百文くらい取ったそうです。

伊予大洲の名産は、和紙、木蝋、陶磁器などです。
一番の有名人は近江聖人、中江藤樹、近江に住む前に伊予大洲藩に仕えていたそうです。
 
 第二部完  



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