幻想明治
 其の三 明治18年 − 壱 阿井一矢
清住


   

 根岸寅吉 (根岸虎太郎)

1911年 明治44年4月18日生まれ(天保14年1843年)

横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。

 根岸 容 

弘化5年1月5日(1848年2月9日)生まれ

江戸深川冬木町に生まれる。 

 根岸明子 

明治元年12月10日生まれ(1869年1月22日)

久良岐郡野毛町三丁目に生まれる。

 佐伯 琴 (根岸 幸) 

1920年 大正9年9月9日生まれ(嘉永5年1852年)

横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。

 根岸了介 

1877年 明治10年11月7日生まれと届出

神奈川県久良岐郡横浜町末吉町5丁目54番地に生まれると届出。

(神奈川県第1大区4小区)

(明治10年5月5日山手220番生まれ)

 根岸光子 

1885年 明治18年5月31日生まれ


明治18年(1885年)1月1日木曜日

正月の横浜は賑わっていたが旧の暦では霜月16日で南京町は旧暦のままでの生活なので春節はまだ先のことだ。

新年の挨拶は明日10時に会社の者が来る事に決まっていて、さすがに元旦早々には訪れる者もなく三人はお松津さんに後を頼んで元町と羽衣町の弁天に詣でた。

昨17年12月の15日には元の弁天境内に明治9年に設置されていた東海鎮守府が横須賀に移り横須賀鎮守府と名も変わり、跡地は宮内省の御用地となる事が決まり建物は宮内省へ引き渡された。
長官は佐賀出身の中牟田倉之助がそのまま横滑りし横須賀海軍造船所・横須賀海軍病院を鎮守府の所管に移した。

大晦日の31日には横浜製造所の石川島移転が終わり横浜はその形を変えつつあった、師走の銀相場の乱高下は最後まで続き、ついてゆけない投資家が続出した替わり一攫千金の夢をはたした者は鼻高々だった。
寅吉は千代に「まだまだこんな物で収まりゃしねえよ」と傍観を決め込む気安さで笑い飛ばした。

22日に特派全権大使となった井上馨は護衛兵を付けないことに決し、随員に近藤大書記官、高島鞆之助陸軍中将、樺山資紀海軍少将一行60名が共同運輸会社汽船薩摩丸に乗船、護衛艦軍艦金剛、報知艦軍艦春日は先発し下関に向かった。
下関で在日清国政府から「わが方の公使護衛を400名派遣する事に決したと報があった」との連絡を受け政府との協議の結果26日2大隊を率いて朝鮮に向かうことに決し、相模丸、近江丸に分乗のうえ熊本鎮台歩兵第十四聯隊第一大隊と小倉鎮台分営の歩兵一大隊が急遽派遣される事になった、この時一大隊は大隊本部を含め500名規模であった。

寅吉親子三人は日の出と共に家を出て植木場で正月用に咲かせた梅の鉢を眺めて歩き光吉たちと挨拶を交わし地蔵坂を降ると中村川沿いに元町へ出て厳島神社へ参詣し西の橋を渡って掘川沿いを港橋へ向かった。
橋は行き交う人で賑わっていて吉田川の掘川沿いに架かる蓬莱橋を渡れば其処が蓬莱町、羽衣町の芝居小屋近くは早朝から人で溢れていて隣の弁天も多くの初詣での着飾った人で混雑していた。

姿見町、伊勢佐木町、福富町は火事の後が目立たないほど復興していた、清正公も綺麗な公堂が出来上がっていて参詣人であふれていた。
帰りは長者町の通りを中村川まで戻り車橋を渡り内臺坂を登って家に戻った。
家に戻るとロンドンからの荷物が来ていた。
差出人は陸奥宗光、正太郎に聞かされたのか人形に陶磁器だ、手紙が添えられていて亮子にも手紙は出して有るが荷を其方宛で梱包したので印の有る分は届けてくれるように書かれていた。

「何だこれ全部が家のじゃないぜ、印のついている分は奥さんに届けてくれとさ」

「陸奥さんらしいやり方ですわね」
容も可笑しげに荷物を印のある物と無い物に分けて「どうせなら今日のうちに届けましょうか、今なら夜には戻れますし、冬木にも寄る事が出来ますわ」と相談した。

当番の広太郎が「では誰か荷を持つものを探しませんと」そう言って寅吉の顔を見た。

「俺と容に了介。後お前に都合がつけば波奈と浩吉で分けてもてるだろう。都合はどうだよ」

「浩吉なら裏で了介さんと凧を揚げています。波奈も一緒ですから支度をさせましょう」

「ならわたしが声をかけて支度をさせましょう。此処はお松津さんに来てもらいますから持ち易く別けて下さいな」
そう言って裏へ回り波奈に東京行きの支度をさせに自宅に戻らせた。

「広太郎さんの着替えは此方へ持ってきますからと言うことでしたよ」
陸奥の留守宅は清住だ、手紙には自分はロンドンで政治、経済を学んで昔の外遊はただの遊び位にしか思えぬ位勉強した事、行動を共にしている今村もよく勉強している事、パリでは其れほど我が国のためになる学問が見つからないだろうという事、イギリス、ドイツに後れを取る事になると考えるなどフランスについての考察も書かれていた。

この後パリには3月ベルリン経由でウィーンに向かい6月ごろには伊藤さんから教えられたシュタイン教授の教えを乞うつもりである事も記され、今村も糸平が亡くなったことを聞いて驚いている事などが細かい字で書き連ねて有った。
今村清之助は横浜の弗屋だった男で糸平とは棒組だ、羽衣町に洋酒酒場を開いていたこともあったが早い時期に東京は南茅場町へ本拠を移していて今回の陸奥の洋行に同行したのだ。
今村は帰国後鉄道事業に乗り出し両毛鉄道、九州、関西、参宮、山陽などの諸鉄道の事業に参画した。

二家族で荷を分け合って人力車で駅に出て十二時の列車に乗り込む事が出来た。
新橋で車夫を四人集め「永代で深川へ渡って清住町だ。その後も冬木までいって此処まで戻るから」と告げ子供たちは母親と同乗して車を四台連ね蓬莱橋を渡り新富町を目指した。
櫻橋で八丁堀へ入り高橋で霊岸島は港町へ出ると越前掘りを抜け、二の橋で新川へでて豊海橋を渡れば右手が永代橋。

橋を渡ると佐賀町二丁目、川沿いに遡れば下の橋その先も佐賀町で一丁目に船橋屋織江があり寅吉は店が開いているのを目敏く見つけると後戻りして陸奥の家の分を含めて20本の練り羊羹を5本ずつ包ませた。
中の橋で今川町、上の橋で清住町へ出て松平陸奥守の屋敷跡の先が陸奥の留守宅だ。

「陸奥さんの手紙は昨日今日に来て居りますか」

「まだついて居りませんがいかが致しました。最近の分は先月半ばに参りましたが」
新年の挨拶もそこそこに寅吉の言葉に亮子は不安げな顔を見せた。

「ロンドンから私のほうへ手紙と土産品を一緒に送ってきましたので家内の実家へ来るついでにお届けに来ました」
ほっとした亮子に呼ばれた子供たちが興味深げに集まる中、それぞれが持ってきた分を容が其処へ広げて披露した。
寅吉宛の手紙を読んでもらい土産の練り羊羹を渡し冬木へ行く時間だと早々に辞去し伊勢崎町岩崎家深川別邸沿いの仙台堀川を海辺橋で渡った。

付近は芭蕉が住んだ芭蕉庵に採荼庵の有ったところ、芭蕉の頃に海辺橋はなかったそうで船で千住へ向かったようだ。

清澄庭園と清澄公園

その前に清住について。

1630年頃一帯を開拓した人々の中に清住弥兵衛という人がいたらしい。
この付近は弥兵衛町と呼ばれて無年貢地で御菜御用などをつとめ、元禄8年の検地の際清住町と命名。
1932年(昭和7年)に深川清住町、深川西大工町、深川伊勢崎町を合併して深川清澄町に改称され1971年(昭和46年)清澄となる。

1878年(明治11年)この地は昔紀文事紀伊国屋文左衛門の屋敷があった場所に久世家の下屋敷があり周辺屋敷と共に岩崎家で買い入れた。
1924年(大正13年)三菱三代目社長の岩崎久弥が東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈した。
関東大震災で庭園内の西洋館、日本館を全焼したほか、庭園内の古木を始めとした樹木が壊滅的な被害を受けた。
三菱は震災復興はまず住居なりとの信念で敷地の一部に製材所をつくり資材の供給を進め、敷地転用を企画した。

東京市公園局長井下が廃墟になったとはいえ、庭園の地割や庭石の雄大さを強調するとともに、多数の人命を救った庭園の持つ防災機能、緊急避難所の重要性を説いて庭園の存続と当初の計画とおり東京市への敷地寄付を依頼した。
市は大正記念館の移築(1929年5月竣工)深川図書館の新館舎建設(同年6月竣工)1932年(昭和7年)7月24日に清澄庭園として開園した。

1973年(昭和48年)東京都が残る庭園の西側に隣接する敷地を購入。

1977年(昭和52年)には開放公園として追加開園した。

冬木では突然の来客にも慌てることなく歓待され夕刻になって漸く腰を上げ店で一杯やっていた車夫に紀和がお捻りをだした。

黒江町から深川福住町四番地に有る渋沢邸の前を抜けて八幡橋で富吉町、相川町を抜ければ永代橋。
駅まで戻り八時の列車で戻る事にして切手を買うと芝口の今朝へ向かい先に入った容の顔をこの間の仲居が見つけ上座敷へ案内した。

横浜の家に戻ったのが9時半広太郎の家族も家に戻り、コーヒーをお松津さんが淹れて四人で話も弾んだ。


その頃ボストンでは朝の7時半、3日続いた雪もやみ新年の日の出がRoslindale(ロスリンデイル)の明子の部屋から眺められた。
この町がボストンに編入されたのは明子が生まれるすこし前1868年のことだ。

朝の光はAtlantic Oceanに昇りプロビンスタウンを照らしていたが此処からは見えないのだ、この家の主ミセス・ベイルが居間の窓から見えた半島の先を指差して「あの岬を回って南に行くとケープコッド(Cape Codコッド岬)があってMayflower(メイフラワー)に乗ったPilgrim Fathers(ピルグリム・ファーザーズ)が上陸した地だ」と地図を今度は指差して最初に訪れた時に教えてくれた。
ボストンの港からフェリーで行くのだと彼女は話し、冬は行っても何もいい事はないけど春になれば色々な花が咲いて楽しめるとも教えた。
プリマスの入植地とは違うようだがタラの岬とは面白い名前だと明子は思った。

ボストンカレッジハイスクールで学ぶ事が6人に許可されクリスマス休暇が終わる5日月曜日から学校が始まり、その後自分の学びたい部門のあるカレッジなり専門学校へ通うことになった。
プロテスタント系の各学校の卒業生の6人を7月までの約束で校内の全てで自由に授業への参加を許してくれたが此処はイエズス会の創立した学校だ。

4185 Washington St, Roslindale,がミセスベイルの家の住所、此処は寅吉達のなじみのプリュイン氏の世話で明子と雛が残っている下宿だ、後の四人のうち菅沢常(つね)と岡崎芳香はサウスボストン(South Boston)のOld Colony Railroadに添った通り、民家春と桂木玉は同じ通り沿いからディバインウェイにはいって直ぐのところの下宿へクリスマスの後引き移った。
共に新しい家で各地からの学生を引き受けるために建てられたばかりだ。 

「明子様このような雪は生まれてこの方見た事がありませんわ」
雛は大げさに嘆いて見せた、クリスマスに雪が降り喜んでいたがいったんやんだ雪が激しさを増して戻り昨日はついに玄関が雪で埋まる様子に恐れをなしていた。
広間や食堂は70ファーレンハイト度近くあるが部屋のストーブは小さく50度がやっとだ。
あの人たちのように学校に近ければ良かったのにというかと思えば丘からの眺めは最高ですわとこのところ喜怒哀楽が激しくなっている。

「橇で学校へ行くようになるとミセス・ベイルは言っておられますけど直線でも6マイルもあるのに道は10マイルもかけて遠回りになりますわ」

「此処が決まった時は夏で馬車なら30分と聞いていましたけど学校近くに別の下宿を探しても良いのよ」

「もう明子様はご自分を最後でいいと言うのですもの。私だけ先に移るのはいやですもの」
菅沢常と岡崎芳香は線路沿いに見つかった下宿から学校のあるサウスエンドのハリソン通りまで歩いて30分掛からないのだ。
乗合馬車や様々な交通手段がありそれに乗れば10分程度で着く事が出来、民家春と桂木玉のディバインウェイの下宿からもほぼ同じくらい、ふたつの下宿は半マイル、歩いて10分くらいだ。

「わたしね、ミセス・ベイルがとても気に入ってるの、此処から動きたくないのが本音よ。あなただけでも学校近くへ見つかり次第移りなさいね」

「いやですわ。明子様の意地悪。こうなりゃ矢でもテッポウでももってこいですわ」
家は古いがどっしりしていて明子には好ましく思えるのだが揃って下宿を見学に行った時に我先に其の新しい下宿へ移ると言い出したので「私は良いから皆さんくじで決めてね」と一歩下がったので雛も「私も最後で良いです」と譲ったのだ。
Mr.プリュインは「今は4人分しか空き部屋が見つからないのだ」と明子に打ち明けたので「急ぐ事はありませんのよ。ミセス・ベイルが置いてくださるなら私はあそこが気に入りましたのよ」と答えた。

此処は最長3週間という約束、下宿が見つかれば引き払うと1日ひとり1ドル50セントで朝晩の食事付で引き受けてくれたのだ、ホテルは相部屋で2ドル、食事別なので節約できるのはうれしかったし人が減って明子と雛は1部屋ずつ与えられていた。
ミセス・ベイルは50代半ば息子2人娘3人の子供を育て上げ一昨年連れ合いをなくした寡婦だ。
息子二人は歩いて5分程度の近間に家を構え娘たちもそれぞれ結婚していてケンブリッジに二人、コネチカット州ブリッジポートに末の娘が居ると教えてくれた。

家の裏側には5分も歩けばロスリンデイル・ヴィレッジの駅があり1時間に1本だがボストンの南駅へ10分で出られるそうだ「急行は止まらないので数が少ないのよ」汽笛の音が聞こえるとミセス・ベイルはそう話していた。
New York & New England Railroadの線路は丘の直ぐ下にあるが駅はなく急行の追い越し線路と停車スペースのみが見えていた。
数が多いのは道をボストンへワンマイル進めば
Forest Hills Station(ボストン・プロビデンス鉄道Boston & Providence Railroad)でジャマイカプレーンから通う通勤用の列車が朝夕は数多く出ていてボストン南駅に向かうのだ。

ロスリンデイルからワシントンストリートでJamaica Plain(ジャマイカプレーン)にでてコロンブスアベニューを横切りデダムストリートに出会う付近一体が学校の敷地だ、10マイルは大分大げさでミセス・ベイルに拠れば道路工事が終われば5マイル程度の道なりで、近くにFranklin Parkが近々開園し鉄道馬車の線路が引かれるので乗り換えなしで行けることになるそうだ。
ハリソン通りに表門があるがワシントンストリートからカレッジを横切れば済む事で大げさなのは昔からの雛の癖だ、オムニバスの馬車も行き来しているし雪になれているボストンっ子ならこの程度で騒ぐなというだろう。
ミセス・ベイルに拠れば鉄道馬車の事業者は20社あまりだそうで名前など知らないほうが多いと言っていた。

ハイスクールは現在150 William T Morrissey Blvd Dorchesterにあるそうです。

ボストンカレッジBoston College

ボストンカレッジはボストン大学(1869年創立)とは別の学校です、19世紀にカトリック市民と移民の入学に制限を設けていたハーバード大学に対抗しうるカトリック学校として1863年にイエズス会によって創立された。

この話の時代にはボストンのサウスエンドのハリソン通りにあって、敷地の4分の1をボストンカレッジ高校と共有し、大学は最初の50年が来る前に構想した以上に人が増え1907年ボストン市の西10km(約6マイル)の郊外チェスナットヒル市に移転した。

明日はミセス・ベイルと三人に次男のビリーが手綱を取る馬車でお昼を食べに街へ出てコプリースクエアに有るミュージアム・オブ・ファイン・アート・ボストン(Museum of Fine Arts Boston)へ行く予定だ、ウィリアム・モリス・ハントなど街の名士の所有するミレーコレクションが展示されているためで明子は正太郎からの手紙でボストンには多くのミレーの作品があると教えられて楽しみにしていたのだ。

中でも最初の館長に就任したマーティン・ブリンマーがミレーの死後のオークションで正太郎やエメの想像も出来ない値段で落札しミュージアムに寄付したlecon de la coutureSewing Lesson1874)がある事で明日が待ち遠しい明子だ。
ミレー(Jean-Francois Millet)はボストン、ニューヨークの富裕層には絶大な人気作家で正太郎が推薦するルノワール、モネ、マネなどとは評価に差があるようだ。

ミレー最晩年の作品、「縫物のお稽古」は、ミレーの死後アトリエにあった作品がオークションにかけられた時にブリンマーが落札したものです。

マーティン・ブリンマーは、この作品を自らが初代館長を務めたボストン美術館の開館祝いとして美術館に寄贈しました。(81.665.4

18日夕刻4時New York & New England Railroadのボストン南駅へ到着して馬車で5分ほどの市の庁舎前にあるオムニ・パーカーハウスホテル(Omni Parker House Hotel)へ入った。
市庁舎はホテルより新しい1862年の建築だそうで、此処は1645年に建てられたパブリック・ラテン・スクール(Public Latin School)が有った場所でベンジャミン・フランクリンも此処に通ったそうだ。

南駅は4つの鉄道会社が点在する不思議な駅だ、ホテルではプリュイン夫妻が出迎えてくれて仲間内では一番背の高い明子を見分け「アキコだね、コタさんによく似ているな、懐かしい人に出会った気分だ」と代わる代わる優しく抱擁してくれた。

「ホテルは3泊の予定だよ、一度6人で君達を暫くの間世話をしてくれる家に移ってからそれぞれの下宿へ移ってもらうつもりだ。向こうの都合もあるので一応年内の内と言うことで日程は決まっていないがミセス・ベイルの家でクリスマスを楽しんでからになると思う。決まり次第マンサンと連絡して引っ越しをしてもらうから其のつもりで」
一同にMr.プリュインが説明をしてボストンの地図とコンパスをプレゼントしてくれた。

明子はMr.プリュインに父親からと煙草入れや根付け等嵩張らないお土産、夫人には花簪を四本のセットで四季をあらわした物を渡した。
夫人は大げさなくらい喜んでくれ明子だけでなく一同の頬に次々にキスをして回った。
ホテルは出来て30年ほどだそうだがエレベータも設置されていた、シカゴやニューヨークで慣れているので一同は驚くこともなく自分たちの3階(4階)の部屋へ上がる事が出来た。

19日にミセス・ベイルの家に挨拶に出かけてお茶をご馳走になり、20日にはチャールズタウンのバンカーヒル記念塔まで歩いて向かい、帰りにオールド・ステート・ハウス(Old State House旧州会議事堂)を訪ねた、大きな建物に囲まれた茶色い三階建ての建物は歴史を感じさせた。 

1775年6月17日、チャールズタウンにおいてバンカーヒルの戦いといわれる戦闘が繰り広げられた。

この戦いではチャールズタウンの町、港はことごとく戦火で焼失してしまった。

戦闘の大部分が行われたブリーズヒル(Breed's Hill)にはバンカーヒル記念塔が建てられることになり資金難におちいりながらも1825年から17年もの歳月を費やして建設された。

1776年7月2日、リチャード・ヘンリー・リーの『独立の決議』がまず可決され、『アメリカ独立宣言』は7月4日に採択された。

7月18日トーマス=クラフト大佐がフィラデルフィアから届いた独立宣言書を人々に読み上げたのはオールド・ステート・ハウス東側のバルコニー。

21日にホテルから6人で此処へ移り、明子はMr.プリュインが暫くの間といったが下宿先と言葉習慣が慣れるまで学べるハイスクールを順路として選んでくれた事が実感出来たが5人の友には黙っていた、自分でその事に気が付かないなら何のための留学か意味がない事になるととっさに思ったのだ。
ミセス・ベイルが自分たち一行のうち気に入れば何人かを置いてもらえそうだと明子には思えたのだ。

マンサンは無理をせず先ずはボストンになれる事が大事だといっぺんにあちらこちらと観光客の様には回らなかった、清次郎と交わした約束は年が明けた5日までだった。

22日もボストンは晴れ、ビーコンヒルの金色に輝く新しい州会議事堂を訪れ、待っていてくれた太ったパールマーティン市長とMr.プリュインの案内で中を見学した。

新しいと言っても1798年に建設されたもので何度も改築の話しが出ている、1831年に増築が行われ後部が拡張された。
チャールズ・ブリガム(Charles Brigham)によって、1853−56年にも増築がされて白かった建物は金色に塗られた。

その後も1889−95年に増築が行われ、このときにマサチューセッツ州下院が増築されたほうの建物に移転し、4度目の増築となる1914−17年には、もとの庁舎の東西がそれぞれ拡張された。

庁舎の外観も1825年には建物全体が白く塗られ30年後の1855年には黄金色に塗り替えられた。
4度目の増築の際庁舎は白く塗り直され1928年、それまでの塗装が全て剥がされ、もとの赤レンガの色に戻った。

聖なる鱈を見上げ之がボストンの象徴だといわれてもピンと来たものは居なかったようだと明子は思ったが其のことも黙っていたし案内役の二人に説明を求めることも止めておいた、市長とは議事堂の前で別れマンサンとMr.プリュインの二人の案内でボストンコモンの整備された公園を散歩し、此処から独立を阻止しようとイギリス兵が出発して火蓋が切られたことを教えられた。

港のCongress St(コングレス・ストリート)まで出て此処がアメリカ独立運動の原点とも言うべきBoston Tea Party の現場だと教えられた。

「俺がもっと歴史に詳しければボストン入りした時に直ぐ案内したんだが」
マンサンは残念そうに言い出した「昨晩教えられたんだがその事件は1773年12月16日に起きたそうで三隻のティークリッパーを50人ほどの関税反対の組織が襲って茶箱を港に投げ込んだそうだ」メモを見ながら説明してくれた。

「其れってお茶が高くなることに反対したの」
玉は習っていなかったのかなと明子は思ったがMr.プリュインが説明を引き受けてくれた。

プリュインはニュージャージーのラトガース大学(Rutgers University)で学んで弁護士の資格も持っている、ボストンでは弁護士JDといえばJuris Doctorはハーバード・ロースクール(Harvard Law School)の卒業生だ。
此処では勝逸と結婚した目賀田種太郎(LLB)に金子堅太郎(LLBLLD)、小村壽太郎(LLB)が法学部修士の資格を取っている。

金子と同時期、同じ福岡の團琢磨は同じボストンでマサチューセッツ工科大学鉱山学科を卒業して居る。 

「いやいやミス・タマ。反対に東インド会社は半値で売ろうとしたんだよ。この年に定められたTea Actでは東インド会社が通常の関税なしに紅茶を売ることを認めたものでね、関税逃れにオランダ商人から買い入れていた会社には打撃を与えるものだったのさ。イギリス政府は、13有る植民地に対して東インド会社による独占的な紅茶輸出を目論んだのさ。植民地の貿易全体の独占、課税権を容認できないSons of Libertyが市民を組織したんだ」

「安くなるけど自由がないと言うことに反発したんですね」

「そう我々は自由な政治、自由な商業活動を尊重したんだ」

Mayor Augustus Pearl Martinパールマーティン市長(1884年1期)

Mayor Hugh O'Brienヒューオブライエン市長(1885〜1888年4期)


翌日正月2日明子たちが外出の支度を終え今まさに出かけようという時に来客があった。

ビリーにも一緒にとその人は言って家に入ると「パム久しぶりね」と挨拶のキスを交わした。
ミセス・ベイルはパメラがファーストネームだ「キャスあなたこそお元気そうね。最近の生徒はどうなの」と聞いた。

「おとなしい子が増えたわよ。あなたに教わった頃は開拓者の精神が受け継がれていて女性でも気性は激しかったですもの」

「手を焼かせられたわ」
どうやらミセス・ベイルの教え子のようだ。

「うちの大学で女性の生徒を受け入れているのを知っているでしょ」

「ええ聞いたわ。でもメソジストの洗礼を受けていないと入れないでしょ」

「其れが次の年度から留学生に限り其の限りではないと言うことに昨年クリスマスの次の日に決まったのよ。こちらで世話をされている人たちで試験を受ける気があるなら今から準備をすれば7月の試験に間に合うでしょ」

2人で明子たちを見てどうするのと言う顔をした。

「わたしたち6人できましたが洗礼は受けて居りませんが横浜で通った学校は2人ずつ3つの学校でした。私アキコ・ネギシと此方のミス・ヒナ・ヨシカワはThe Methodist Protestant Church(メソジスト・プロテスタント教会)から派遣された先生の学校でした。ミス・タマ・カツラギとミス・ハル・タミヤはWoman’s. Union Missionary Society of America for Heathen. Lands(アメリカ婦人一致外国伝道協会)の学校、ミス・ツネ・スガサワとミス・ヨシカ・オカザキがDutch Reformed Church in America(アメリカ・オランダ改革教会)で全員が卒業資格を得ています。今回の留学についてそれぞれの学校から卒業の証明書を頂いてきています」

「其れはすばらしいわ。此方でのハイスクール卒業生が受ける入試の問題が解けるなら文句なく入学を認めますわよ。ボストンカレッジの話しは聞きました。できれば其処のハイスクール卒業資格をもらえるように此方のミセス・ベイルの尽力をお願いしたいわ」

「でも」

「でもなんなの、授業料なら特待制度もあるわよ」

「わたしたち2年間の留学しか国から認められていないのです。正確に言うと1987年の7月にはボストンを発たないといけないのです。往復の日にちを入れて3年以上は延期できないので11月の30日には横浜へ着くようにしないといけないのです。本当は往復の予定を入れて2年と言うのを学校の授業期間を2年と外務卿から変更していただきましたのにそれ以上は我が侭が言えないのです。政府や県からも助成金が出たので個人の我が侭で延期は難しいのです」

「なら其の2年間で出来うる限り努力したらいかが、わたしたちのところは色々な学部もありますし、もしあなた方が学びたい学部がなくともサークルとして必ずあるはずよ。もし学年で優秀な生徒の中に入る事が出来れば大統領を動かしてでも延期を認めさせるわよ。なんせコリンズ議員は力がありますからね。新大統領のスティーブとは特に親密ですからね」

スティーブ(Steve)はスチィーブンとも呼ばれるがステファンの愛称だ(ステファン・グロバー・クリーブランドStephen Grover Cleveland・民主党)昨年の選挙を接線で勝ち抜いたクリーブランドは3月4日に就任式を控えていた。

コリンズ議員(Patrick Andrew Collinsパトリック・アンドリュー・コリンズ・民主党)はアイルランド移民初の下院議員だ、後にボストン市長を務めることになる。

明子たちは大統領が代わる事はサンフランシスコ上陸後に教えられたがコリンズ議員という名は初耳だった。

苦労したが法律事務所で働きマサチューセッツ州下院議員、同上院議員を務めハーバード大学ロースクールで学び1871年に卒業弁護士の資格を取得したそうだ。
キャスは名刺を2人に渡してから「残りの方にも名刺を上げてくださいね」と明子にそれぞれの名前の綴りを聞いて手帳に書き入れると今日の日付とそれぞれの名前のイニシャルを名刺に書き入れてから手渡した。 

「皆さんで話し合って一度学校へ遊びに来てくださいね」
あわただしく来たかと思えばバイバイと手を振って馬に乗ると颯爽と去っていった。

渡された名刺にはCatherine Frances Foster(カトリーヌ・フランシス・フォスター)と言う名前とビーコンヒルのピンクニイ通り(Pinckney St)にあるボストン大学の住所に自分の研究室のアドレスが載っていた。

この時代東部ではセブンシスターズと呼ばれる女子大学が揃いつつありハーバードは女性の受け入れを学生たちが拒否していて関連のザハーバードアネックスがハーバードを目指す女性を受け入れた。
学校名は1643年にハーバード大学初の奨学金制度を樹立した女性の名にちなみ1884年ラドクリフに変更された。

The Seven Sisters

マウントホールヨーク女性神学校Mount Holyoke Female Seminary1837〜88年

(マウントホールヨークカレッジMount Holyoke College1888〜)

ヴァッサーカレッジVassar College1861〜(1969年共学に移行)

スミスカレッジSmith College1871〜 

ウェルズリーカレッジWellesley College1875〜

ザハーバードアネックスThe Harvard Annex1879〜1884 

(ラドクリフカレッジRadcliffe College 1884〜1999)ハーバードに統合

ブリンマーカレッジBryn Mawr College1885〜 

バーナードカレッジBarnard College1889〜

常はマウントホールヨークに進学を希望していたがまだ先のことでわからないと明子と雛は思っていたしボストンにはMrs. Johnson'sに寄る Ladies' Seminary(女性神学校)も開かれいるとMr.プリュインが話してくれた。

ミセス・ベイルは「いい機会だからあなた方もパムと呼びなさいね。私もミスを省略してアキコにヒナとよばせていただくわ」と言って良いわよねと念を押した。
パム(Pam)はパメラの愛称でパメラ・フィオナ・ベイル(Pamela Fiona Bale)で長男はエディのエドモンド(Eddie・Edmond Curtis Bale)双子の次男はビリーのウイリアム(BillyWilliam Alan Bale )なのでマンサンが名前でまごつくのも勉強だと言ったのが実感できた一同だったのだ。

表に出なおすと先ほどより寒さが増したように感じたがビリーは「30度くらいなもんだぜ、うちの子供たちはこのくらいでそんなに寒がったりしないぜ。吹雪の時には気温が10度以下(−12℃)に下がるが止めばこんなものさ」と馬車の馭者台で笑い飛ばした、双子でも会えばすぐ判るのは顎の黒子だそうだがエディは顎鬚を生やして其れを隠しているが其の顎鬚で区別がつくので簡単で明子たちは楽勝ねと言い合った。

あちらこちら工事中のワシントンストリートを降りコロンブスアベニューへ入ると途中から道の名が変わり三度ほど角を曲がるとダートマスストリート(Dartmouth Street)の角St James Ave(セント・ジェームス・アベニュー)のミュージアムの正面に出た。

ミュージアムの先にはSouth Church in Bostonの新しい尖塔が聳えていた。
1873年に建てられたサウス・チャーチには1882年に尖塔が付け足されたそうだ。
(南教会・統一キリスト教会This United Church of Christ

ミュージアムは1876年の開館でチケットを75セントで買うとビリーが「こいつ一枚で7日間は何度でも入れるんだぜ。なくしたりしないように」と言って自分の分も丁寧に内ポケットにしまった。
4人は入り口で買い入れたパンフレットを頼りにミレーの絵画にエッチングを眺めて回った。

パンフレットは1ドルもしたが丁寧に何時描かれて誰の所有かも記されて有ったし写真があるのでどの絵の事かがわかるのが便利だった。
一通り見終わると館内のティールームで一休みしてどの絵が良かったかを4人で話し合った。

「なぁ母さん、ヒナにアキコなんだが兄貴とも話し合ったんだが3週間といわず留学期間の間家に居てもらったらどうだ。俺たちも母さん一人で夜を過ごすより言葉も不自由なく喋れるこの2人なら安心だ」

「其れは良いけど家は設備も昔のままだしね、今は学生でも新しくて温かい部屋を街中に提供しているじゃないか。2人にそんな生活ができるかね」

珍しく雛が先に口を切った。
「パム、わたしの育った家から見れば充分よい家ですわ。明子や芳香の家は立派でしたがそれでもパムの家ほどでも有りませんわ。其れに料理の支度を教えていただきながら台所仕事も手伝えますわよ」
雛は明子にウィンクしてそう話した。

明子は「いいのね雛」と聞くと「もうあなたは良いに決まってるでしょ。後は月に幾らで置いていただけるかよ。あの4人は部屋代やメイドに暖房の分も含めて週に8ドルで食事代は別料金だったでしょ」と言い出したこうなると確りしているのは母親譲りの商人の血だ。

「まぁまぁ、あなた方はお金持ちのお嬢さんで日に1ドル50セントなら無理がないと聞いて引き受けたのですが今のボストンでつきに50ドル稼ぐ人はそんなに多くないわよ。私が教師をやめた5年前で月88ドルしかいただけなかったのよ。若い人だと男性でも70ドルが精々よ」

「そうだぜ今ボストンは建築ラッシュだが大工でさえ100ドル稼ぐ奴は少ないぜ。大学の教授や教育長ならともかく小学校の教師は貧乏さ」

「お二人がそういうお話をしてくださると言うことは大分値引きをしてくださると言うことでしょうか」

「勿論そのつもりよ。家族三人であの家を維持するには食費を含めて85ドルあれば充分よ。あなた方が1日当たり一人1ドル出してくださるならおやつもたっぷり用意できるわよ、その代わり家族同然に家の掃除や自分の分の洗濯に庭の手入れもお手伝いしていただくようになるわ。メイドを置く余裕は無いのよ。それとも其の分を出して楽をしたいのかしら」

6人でせわになりだした時はエディとビリーの奥さんが交代で世話をしに来てくれていたのだ、サンフランシスコ、シカゴ、ニューヨークの高級ホテルはひとり5ドルも取られたがボストンでは同じ相部屋でひとり2ドルで設備は同じようなものだったのがこれなら随分安くすごせることになりそうだ。

「安心しなよ。うちのアニーも義姉のコニーだって知らん顔ができる奴じゃないさ」
クリスマスの時に一同があの家に集まり其の時に子供たちからアニーはアンの愛称(Annie Anne)でコニーはコンスタンスの愛称(Connie Constance)だと教わった。
明子はファーストネームに、ミドルネーム、ファミリーネーム、おまけの愛称という風に覚えた。

「ビリー、そんな事いって手伝っていただいても2人に御礼をあげる事は出来ないのよ」

「そんなこと期待していないよ。だって家族じゃないか。ヒナにアキコが其のつもりになってくれるならだがね。うちのサムにジェニーなぞ他所へ移らないように頼めと煩いんだ」
明子は心から嬉しい家に紹介してもらえたと思った、其れはヒナも同じ気持ちのようで立ち上がってお辞儀を何度もして「メルスィ・ボク」と言い出す始末で言ってから気が付いたようで舌を出して「テヘッ」と笑った。

「ミレーの影響かしらついフランスのお礼の言葉が出たわ」
2人でパムの手を取ってお世話になりますわよろしくお願いいたしますと交互にお礼の気持ちを伝えた。

「ねえ明子パムの家にこれからもお世話になるなら長靴やジーンズも買い入れないといけないわ。お洒落よりも実用的で丈夫なものにしないと」
ビリーは嬉しがって「帰りがけに必要なものは買い揃えるか。金は持ってきたのかい」と聞くと雛は持っている手提げを開けて見せた。

「なんと金貨に銀貨がどっさりじゃないか。無用心だな早く銀行に口座を開いて預けておかないと駄目だぜ」
明子が覗くと少なくとも100ドルではきかない位持っていた。

「もヒナはお父様に20ドル以上は持ち歩いちゃ駄目といわれたでしょ」

「だって誰も居なくなる家に置いて置けないでしょ」

The Bank of Massachusettsに口座があるでしょ富田様が個人個人に口座開設手続きを済ませて清次郎が確認してくれたでしょうに」

「だって銀行が何処にあるかも判らないしお金を手元に置かないと不安なのよ。明子様は幾ら持っておられるの」

「私500ドルは何時でも持っているわよ。でも見て御覧なさいな」
手提げを開けると1ドル銀貨が5枚と5ドル金貨が2枚とクォーターに幾枚かのニッケル(5セント)だけだった。

「15ドルほどしかないわ。後はどうなさったの部屋に置いてきて心配じゃないの」
マサチューセッツ銀行(1784年設立)はニューヨーク、サンフランシスコ等にも支店があり横浜ではアメ一が送金を引き受けていた。

「ヒナにも其れはいえないわ。此処まで知られなかったのですもの絶対に秘密よ」
勝が小遣いにとくれたのはHamiltonで30枚だったが其れはそのまま茶箱の蓋に細工された板の間にあり、Benjaminを5枚肌身離さず隠し持っているのだ。
Bennyとも言われる100ドル札は普段使うことはなく銀行から銀行へ預けかえる時くらいの役にしか立たないようだ。

「此処を出たらお買い物の前に銀行へ寄りましょ。あなたたちが泊まったホテルの直ぐ傍にあるわよ」

明子はついた翌日にはマンサンと銀行へ出かけ自分の口座の確認のほかにもうひとつ留学資金の口座を開き6人分の3600ドルを預け換えた、これからはこの口座から全員の生活費や学費を支払うので其の事は全員に説明したのに雛は留学費用の口座と自分の口座との違いさえ理解できていないようだ、明子が帳簿をつけ立て替え分を其処から引き出して帳尻を合わせる役目で年末までに改めて3600ドルの送金が予定されていた。

一人月50ドル以上は明子の預金からの貸し出しか本人負担になる事が打ち合わせてあるので明子の口座には2600ドルが残されているのだ。

「通帳は作ってありますが、今日は通帳がないので月曜にします」
明子がパムに言って了解してもらった。

「こんにちはジミー。お元気ですかパム」

「やぁ、トミー。球団は決まったのかい」

「ビーンイーターズに呼ばれたのでよそへ移らなくて済みます。でも昨シーズンはまったく良いところがなかったですから」
明子と雛をジミーが紹介して握手を交わした。

「ベースボールをされているのですか」

「そうなんですが僕は二流どころか三流以下ですよ」

「そんなことないぜトミー。アキコこいつはいい球を投げるんだが頭を使わないんだ。何でも真ん中へ思いっ切り投げ込んでしまうんだ、すこしは上下をうまく使えよ。あれアキコ、君はベースボールを知ってるのかい」

「父さんがよく居留地の人と遊んでいたので簡単なルールくらいなら判ります。ビーンイーターズと言うのがレッドストッキングズという球団だったことも教わりました。何度もリーグで優勝したそうですね」

「だが今年は駄目だな。有力選手がニューヨークへ引き抜かれた」

「其の代わりを僕のような駄目男で埋め合わせるつもりですよ」

「またそんな事いって駄目よトミー。あなたが体力をつけて足腰を鍛えればいい選手になるわよ、亡くなったマックがいつも言っていたわよ」
パムの一家はベースボールのファンのようだ。

「マックの親父さんには子供時代大分と世話になったからな。恩返しの意味でもいい成績を残したいです」

「ピッチャーより野手のほうが良いんじゃないのか」

「其れがバッティングもあまり認められるほどではないと言うので中継ぎに投げるか敗戦処理用だと言われているんですが、此れくらいっしかやれる事がないんですよ」

明子たちが長靴やジーンズを買いに行くというと「もう絵は見たのですか。僕も一回りしたし明日また来ても良いので付いていって値切ってあげますよ。心安い友人の父親の店が近くにありますから」そういいながらポケットからボールを出して明子にプレゼントだと手渡した、いつもこうしてボールを持ち歩いているそうだ。
5人でジミーの馬車へ向かったが雛が化粧室で手間取ったためすこし遅れて出てきた。

階段を降りたところへ後ろから来た男が雛の手提げをひったくるとサウス・チャーチの方向目指して走り出した。
とっさに明子が手にしていたボールを力いっぱい投げつけると15メートルほど先を走る男の後ろに出た右のひじに当たり勢いで手提げが空中に飛び出した。

明子がボールを投げた時には走り出していたトミーはジャンプして凍りついた噴水の手前で手提げをキャッチした。
男は後ろを振り向いたが男たちが何人も追いかけてきたので手提げをキャッチしたトミーにはかまわず教会横につないであった馬に飛び乗ると逃げ去った。

「チッ、あんなところに馬をつないで居やがった。凄いなアキコあんなに良い球を投げるなんて信じられないよ」

「まぐれですわ、お尻を狙ったのに脇へそれてしまいましたもの」

「其れだよ。今の球は不思議な曲がり方をしたんだ。走っていて見たんだが右へ曲がりながらホップしたぜ。どうやったんだ」
明子はジミーが拾ってきたボールを掴んでみて「あらどう握ったのかしら、父さんが曲がる球を投げる時はこうだけどあれは左へ落ちながら曲がるんだったわ。とっさだったのでひじが外に出てしまったけど」と首をかしげた。

「明日は閑ですかお嬢さんグローブをもって行きますからぜひ思い出してくださいませんか」
トミーは真剣だ、右手で投げる格好をしたところを見れば右投げのようなので右バッターの手元に食い込む球が投げられれば打たれる確立は減る事は間違いないだろう。

「午後は友人の下宿近くでお茶の約束が有りますし、其の後食事の約束も有りますので午前中なら」

「で、幾人でお出かけですかジミーが馬車を貸してくれるなら僕が手綱をとりますよ」

「良いとも、馬も貸すよ。君は馬を持っていないだろ」
其れはそうだ馬が居なくてはどうにもならない。
それに気が付いたトミーが笑い雛も気が付いたようで笑った後、手提げを汚さずに済んだお礼を漸く言った。

ジミーとトミーが馭者台に乗りダートマスストリートを進んでコロンブスストリートで右へ曲がった。
ベースボールグランドと観客席が見えた、2000人は入れそうな大きな施設だ。
パムがサウス・エンド・グラウンズ(South End Grounds)という名でボストン・ビーンイーターズの本拠地だと二人に教えた。

「ビーンイーターズって何のことかしら」

「豆を食べる人でいいんじゃないの」

「ピーナッツかしら」

「まさかそれならピーナッツグラウンズにするわよ」
2人で日本語になっていたのでパムにBeaneatersBeaneatする人でeaterなのか話し合っていたと教えた。

「其の通りよ。ボストンの土地っ子の事をよその連中はそういうんだよ、ビーン・タウンといえばボストンのことさ。そういえばあなたたちが来てからよそ行きの料理ばかりでボストンベークドビーンズ(Boston baked beans)をご馳走してなかったわ。日曜にはサコタッシュよ」

Succotash(サコタッシュ)

昔ボストンでは日曜日は安息日、礼拝と瞑想に捧げる日と法令によって定めていたので、主婦はこの日に料理することさえできなかったそうだ。

日曜日の食卓に温かい煮豆を出したい主婦は土曜日に煮豆をつくり、これを近所のパン屋に渡すのが普通だったそうだ。
翌朝温められた煮豆が焼立てのパンといっしょに届けられるそうで、安息日の戒律がそれほどきびしくなくなり主婦は熊の脂の代わりに塩漬けの豚肉と糖蜜を混ぜた煮豆を日曜日の御馳走としてつくるようになった。

長い時間ゆっくり煮こむというこの料理の基本的姿勢は今も受け継がれている。

「豆はなにを使いますの」

「家では昔からWhite Navy bean(白海軍豆)さCommon bean(コモン・ビーン隠元豆)だよ。フランス人はハリコットと呼んでいる奴さ」

清教徒移民は、インディアンから生き延びるいろいろな知恵を教わったとパムは話しを続けた。

トウモロコシとマメを同じ畑に植えていっしょに収穫してともに料理することも其の一つだそうだ。
インディアンたちは畑にトウモロコシを植える時その畝にサヤインゲンを蒔き、蔓がトウモロコシの茎に巻きつくようにしていた。
移民たちも最初このやり方を取り入れていたが後にbeanwood(ビーンウッド)をたて、豆のつるを巻き付けるようになった。
このbeanwoodbeanpole(ビーンポール)、さらにはbeanstick(ビーンスティック)と呼ばれbeanpoleにはのっぽという意味が与えられた。

話しが続いているうちに綺麗な赤い看板の雑貨屋についた。
中は広く作業服に農機具や庭弄りのための肥料に花の種など所狭しと置いてあった。

トミーが太った親父さんに話しをしてその親父さんはニコニコと聞いていたが明子と雛を上から下まで眺め、長靴とジーンズの作業服を出してきた。
パンツはサスペンダーが着いていてパムが付き添ってカーテンの陰で着替えさせた。
5フィート5インチ(165センチ)でボストンの女性に比べてもノッポで足の長い明子は長靴に押し込んで丁度良いくらいだが5フィートがやっとの雛には小さめのものでもすこし長すぎるようだ。

「之なら大丈夫よ私が詰めてあげるから。夏なら折り返せばかっこいいわよ。春になって長靴が要らなくなったらまた新しいのを買いましょうね」

着替えた2人を見て親父さんも満足そうだ「2人分一緒かい、別にするかい」と甲高い声で聞いた。

「別にしてください」
明子はそう言って「受け取りがいただきたいのですが」と頼んだ。

「良いとも」
そう言って一人3ドル75セントだよと伝えたので2人はそれぞれ5ドルの金貨を出して1ドルの小さな金貨とクォーターでお釣りをもらった。

「わぉ珍しいLiberty Headね。だいじにとっておきますわ」

「こいつを知ってるのかい」

「横浜では1ドル銀貨ばかりでしたがこの金貨は父さんが大事にしまっているのを見た事がありますわ」

「そうかい、わしのところもたまたま昨日こいつで買い物をした奴が居て二つだけ金庫に入って居たんだよ。Liberty Head の5ドル金貨のお返しさ、OnedollarIndian Headはよく見るがね。喜んでくれてわしも鼻が高いよ」
女神リバティは人気が高いようだ、札よりも金貨は商売人にはありがたい客のようだ。
フランスから正太郎の手紙にあった自由の女神もこのリバティが題材だそうでもうじき完成してアメリカへ送られるそうだ。

寅吉はアメリカ、イギリス、フランスの金貨を集めるのが趣味のひとつになり、年代ごとに集めては日本で出された小判に明治の金貨と並べて自慢していたのだ。

明子は昔正太郎がサンフランシスコでジーンズが3ドルだったという話しを聞いていたが随分安いのねと思った。
トミーが随分安くしたねと親父さんが受け取りを書いてきたのを捕まえていった。

「トミーが安くしてやれというから大盤振る舞いさ。お嬢さんがたこいつを応援してやってくださいよ。大柄なベースボールの選手の中では目立たないがうちの息子と学校ではいいコンビでね。ショートには惜しいとピッチャーに球団がしたがなんせ打てないチームでね、勝ち星に恵まれないのさ、投げない日は外野をしたりしたが上手くいっていないしな。おまけに球団が解散ときちゃついてないかと思ったらビーンイーターズのオーナーが給与の高い選手をよそに出してこいつたちを雇ってくれたのさ」

ジミーも加わり新しいメンバーの話しを始めた。

「去年73勝したが主力のピッチャーを2人出しちゃ50勝も危ないのに4番も居ないんじゃもう言う言葉もないぜ。ジョンもこんな時期にあい変らずの監督とはついてないぜ。なあトミー少しは気合を入れて監督を手助けしてくれよ」
この人たちはトミーの素質が花咲く日を期待して待っているのだ。

この当時球団経営は苦しく1876年に8球団で発足したNational League(ナショナルリーグ)は10年をたたずしてシカゴ・ホワイトストッキングスとビーンイーターズ2球団のみが生き残り、プロビデンス・グレイズ、バッファロー・バイソンズ、デトロイト・ウルヴァーインズ、ニューヨーク・ジャイアンツ、フィラデルフィア・フィリーズ、そして今期加入するセントルイス・マルーンズの8球団で争われる事になる。

1876球団でナショナルリーグ結成

アスレチック・オブ・フィラデルフィア(1876年シーズン後除名)

シカゴ・ホワイトストッキングス(現シカゴ・カブス)

シンシナティ・レッドストッキングス(1880年シーズン後除名)

ハートフォード・ダークブルース(1877年シーズン後倒産)

ルイビル・グレイズ(1877年シーズン後倒産)

ミューチュアル・オブ・ニューヨーク(1876年シーズン後除名)

セントルイス・ブラウンストッキングス(1877年シーズン後倒産) 

ボストン・レッドストッキングス(1871年創設現アトランタ・ブレーブス)


球団名の変遷

ボストン・レッドストッキングズ (1871年〜1882年)

ボストン・ビーンイーターズ(1883年〜1906年)

ボストン・ドゥーブス   (1907年〜1910年)

ボストン・ラスラーズ   (1911年)

ボストン・ブレーブス   (1912年〜1935年)

ボストン・ビーズ     (1936年〜1940年)

ボストン・ブレーブス   (1941年〜1952年)

ミルウォーキー・ブレーブス(1953年〜1965年)

アトランタ・ブレーブス  (1966年〜 )

本拠地(途中省略)

サウス・エンド・グラウンズSouth End Grounds1871年〜1914年)

ターナー・フィールドTurner Field(1997年〜 )

ベルの音が響き主人が失礼と断ってテレホンに出た。
あまり驚かぬ明子と雛に「あなたたちあの機械を知ってるの」とパムが聞いた。

「まだ数は少ないですが私の家でも隣の家屋との連絡に使っています」

「あらそうなの、横浜は進んだ街ね」

Bostonに比べれば田舎ですわ。三階建て以上は殆どありませんもの。ボストンの街の100分の1くらいの規模ですわ」

1876年10月にベルによってボストン〜ケンブリッジ間約3kmの通話実験成功を受けて1877年にはBell Systemによる電話線の普及が始まり、マベル(ベルシステムの通称Ma Bell)はBoston周辺で10万回線を目指して街の隅々まで線を引くことを目指していた。


3日土曜日の朝は快晴。

家と新しい公園の間にはForest Hills Cemetery に続くMt Hope Cemeteryが有りその脇が眼下に見えるクインジー(Quincy・クインシー)からプリマス(Plymouth)へ続く道だ。
クインシーと最初言ってクインジーだと訂正されたその町はボストンとは違う独立した町だそうだ。
クインジー湾の波は荒くしぶいていたが入り江の内側は穏やかに見えた。

単にヒルと地元で呼ぶベイル家のある高台は標高が100メートルほどあり家の裏の森はグリーンヒル(Green hill)にマウントウォーリー(Mt Walley)ジャマイカポンド(Jamaica Pondジャマイカ池)に続くハイキングコースだが雪のある間は危険で猟をする人くらいしか入らない土地だ、池の東側はジャマイカプレイン(Jamaica Plain)の高級住宅地でジャマイカ池はスケートができると人気の場所だ。

This pond freezes in winter
子供たちはレイクとポンドの違いを何度も説明しポンドと雛が発音するがすこし違うとPound(パウンド)とPond(パンド)とを繰り返して発音した。

「駄目だわ日本人には同じポンドに聞こえる」
PoundPondもおなじポンドなのはプァンドに近い言い方を子供たちがするからだ「レイクじゃいけないの」と言う雛に大人のように両手を挙げて肩をすくめる2人だ。

フォレストヒル(Forest Hills)駅の先はワシントンストリートとハイドパークアベニューが線路の下をくぐっていてボストン側でひとつに合わさるのだ。
ジャマイカプレインから此処で列車に乗る人、鉄道馬車で通う人、オムニバスなら住宅街の入り口まで来ているなど便利な場所だ。
ウォーリー山で標高は300メートルくらいなので春になれば馬で一回りするには半日あれば充分で夏にはハーバード等の学生が野営の訓練地に使うそうだ。

「コヨーテに鹿にサージャントくらいしか冬場は出歩かないぜ」
トミーはキャッボールをしながら大きな声で話してくれたがハーバード大学の広大なアーノルド果樹園は整備が進みチャールズ・スプレーグ・サージェントが監督として君臨していた。
此処は3年前にボストンに組み入れられたそうで監督のミスター・サージャントはブルックラインに広大な敷地の屋敷がありフォルム・リー(Holm Leaウバメ樫牧場)から通ってくるそうだ「苗字が軍曹なの、それとも軍隊で軍曹だったの」トミーは知らんというのみだった。
監督が通える道なら私だってと明子は思ったが雪の道を考えると当分やめておくわと身体を動かして暖めた。

雛は寒そうに見ていたが明子はトミーから18歩離れてキャッチボールをはじめ、5分もすると体が温まり力の篭もったボールが行き来しだした。

「曲げてみるわね。最初は昨日と違って左へ落ちる奴よ」
すこしずつ指に力を込めて腕の振りも大きくしていった。

其の落差にトミーの驚く顔が見え「昨日の事を思い出して投げてみるわ」そう宣言してひじを外に張るようにして腕の振りを遅くしてみて自分でも驚くほど曲がるのをトミーは「昨日と違うぜ、球のスピードが途中から落ちてるよ」と厳しいことを言った。

「これ以上は腕に負担が掛かりすぎるわ、練習しすぎると肘を痛めそうよ」

「もう少し頼むよ。去年からオーバースローが認められたので色々憶えたいのだ」
トミーはそう頼むので明子も仕方なく「では真っ直ぐの球で勢いをつけてからやってみるわね」と父親のやっていたように長靴の足を大きく振り上げて体をひねるように投げ込んだ。

「ちょっと待ってくれ」

トミーはしゃがみこんで球を受ける体制をとった。
ズバンという音が響き見に来ていたジミーの子供たちも驚きを隠せずにいた。

「すげえぜアキコ。トミーをぶつ飛ばせ」
サムにジェニーが明子に声援を送った。
10球ほど投げて知らん顔して指に力を込めて投げ込んだ球はグローブを掠めて肩の上を通過して納屋の壁にバーンと当たって跳ね返った。

「すげえや壁に穴があきそうだ」
サムが走ってボールをとりに行き壁をなでて見た。

「板がへこんだよ。ボールの縫い目がめり込んでいるかと思ったらそうでもないよ」

トミーも来て「今のは凄かったなそろそろ来るかと思ったが凄い回転でとりそこなったぜ」とボールを受け取った。

「今度は俺が投げるがどの辺まで取れるか言うんだぜ」
そう言って場所を入れ替わりすこしずつ力を込めて投げ込んできたがスピードはそれほどでもないが球が重く手のひらが痛くなったのでそういった。

「球を此処で受けるんだ」
グローブの手のひらでなく網のところをさして言うので其処で受けてみるとどうやらまだ大丈夫のようだ。

「よし之が俺の最高の球だ」
其の球は寅吉の球と同じくらいの速さで重い球だった、そういうとまだ早く出来るぜと相談するように聞いた。
明子がしゃがんで受けるというと同じように投げ込んできたが今度は重さがない変わりに驚くくらい早かった。

「凄いわ。こんな速い球見たことないけど今度は球が重く感じられないの」

「そうなんだ。キャッチボールの球と違って力を込めて投げ下ろすと早いだけになるので打たれると遠くに飛んでしまうんだ」
うなだれるトミーにサムとジェニーは代わる代わる「センターの奥からキャッチャーまでダイレクトに届くのはトミーだけだよ。外野手で良いじゃん」と子供なりに慰めの言葉をかけた。

「さぁ、さっきの回転ボールの練習だ、先ず持ち方を教えてくれ。投げるタイミングは腕の振りだな。こいつは誰か練習相手を見つけてやってみよう。今日は曲がるかどうかを覚えたい」
10球ほど軽く曲げを掛けると力を込めて肘を張り腕が後から出るとグローブの中でも回転が掛かっているほどの球が来た。

「これ以上は私では無理よ」

「そうか俺も今ので精一杯なんだ、上手く球がホップしたようで練習相手の驚く顔が楽しみだ」
やっと明子たちを解放して上着を羽織った、明子と雛も外出着になって子供たちも一緒にジミーの家に向かい、馬車に2頭の馬をつなぐと子供たちも一緒に乗り込んでサウスボストンへ向かった。 

子供たちはトミーの両脇で楽しそうに歌い時々は馬に声をかけて励ました。
今日は明子たちがユニオン・オイスター・ハウスへ子供たちを連れて行く許可を両親から取ってあるので楽しくてたまらないのだ。
生牡蠣もそうだがロブスターに其処で出されるケーキも楽しみなのだ。

途中ドーチェスターの電信局によって横浜へ向け下宿の住所3ヶ所とそれぞれのイニシャルを送信してもらった。
ドーチェスターアベニューからドーチェスターストリートを進んで玉達4人の下宿のあるオールド・コロニー鉄道を通り過ぎ約束の場所へ向かった。

時計を見ると予定の時間11時45分に一分遅れて着いた、マンサンがどうやって知り合ったかミシガンから来ているミーナという明子たちよりすこし年上に見える清楚な女性を伴っていた、ミセス・ジョンソンの女性神学校の生徒だそうだ。

「何、親父さんとたまたま仕事で付き合いが出来たのさ。清次郎に頼まれた農機具をオハイオのグリーンタウンという街で買い付けた時知り合ったお嬢さんだ。パリへ一年間留学して帰国したばかりさ。親父さんにボストンまで案内の仕事が決まったと前に話したら丁度其の頃娘がボストンの学校へ来ると言うので会いに行ったらジャパンのレディと話しがしたいと言うので連れて来たんだ」
待ち合わせ場所のセント・アウグスト・チャーチ(St. Augustine Chapel)前にあるコーヒーハウスに明子たちの馬車が着くとマンサンが案内してきた4人とその女性が明子たちの来るのを待っていたのだ。
子供たちは冬だというのにソーダ水が良いというので頼み、明子達はコーヒーを出してもらうことにした。

「皆さん早くにいらっしゃったの、ワンミニッツ遅れてしまいましたわね。此方の紳士はベースボールプレーヤーのトミーです。今日はわたしたちの乗る馬車の手綱を取って案内してくださいました。ご一緒させてくださいな」
一同は自分の時計を見て自分の時計の時間を見比べた。

「あらあたしのは12時5分よ」

ヨシカがそういうとハルが「またくるったのね。新しいのにしないと学校へ行くようになった時困るわよ」とヨシカを見て言った。

「昨日ツネのウオッチと合わせたのに困ったわね1日で15分以上ではもう駄目ね。ツネのは今何時何分」

ヨシカは時計を振ってみたりしてから耳に当てた、其の動作が可笑しかったのかサムが小躍りしてはしゃいだので妹のジェニーにたしなめられた。

「駄目よ、人が困っている時にそんな風にしては」
8才のジェニーは言うこともおしゃまだがサムは10才の子供そのままに見えるから不思議だと明子は想い、雛に言うと「もう、アキコは可笑しな事言うのね。10才の子が10才に見えてなにが不思議なの」と現実的なことを言われてしまった。
本土について漸くヒナも日本語を話さないときはアキコという呼び方になれたようだ、其れを聞こえたかの様にミーナが一同に話しかけた。

「皆さん若く見えますがおいくつなのかしら。その前に私の年当てクイズはいかが。マンサンは知っておられるけどヒントを言ってはだめよ」
どうやらユーモアたっぷりの人のようだ。

「私と同じ19才。あ此方では生まれた年を入れないで18かしら」

ヨシカが言うと「ヨシカはお誕生日が来て18だからまだ17よ」ツネが口を挟んだ。
6人の中ではタマとヒナが一番年若で3月の誕生日が来て16になるのだ。

「そういえばアキコは今月22日が誕生日よね」
ツネが脱線ついでに言い出して此方の年当てはミーナにやらせにくくなりそうなのでアキコが「後の人の年は言っては駄目よミーナにも当てさせるんだから」と黙らせた。

「わたしたちより上の20才かしら」
ハルが言うとアキコも其れに賛成した。

20才にハルとアキコ、18才にヨシカ、間の19才にヒナとツネにタマが投票した、子供たちは18才に賛成だと口を出した。

「アラアラ、3人も当たってしまいましたわ。7月の誕生日が来るとね」
そこで思い入れたっぷりに一同を見たので子供たちは当たった当たったとはしゃいだが「残念でしたもう19才になっているのよ。誕生日が来れば20才よ」とマンサンを見た。

「1865年生まれだと親父さんから聞いたよ」

「去年の誕生日にパリの下宿先へプレゼントを送って頂ましたから7月と言うことはご存知でしたわよね」
手帳をめくって「そうMina MillerJuly6.1865BIRTHDAYと書いてあるよ」と一同に其のページを見せた。

マンサンの成功の秘密はこういうこまめな事のようだ。

「ではわたしたちの誕生日も書いてあるのね」

「勿論ですよ。では今度はミーナたちが当てる番だ。6人当てるのは大変だから一番年上と一番下を当てることにしましょうかね」
ミーナは子供たちと意気投合したかのようにアキコを一番上と指定した。

トミーも「アキコが18才。ヒナが15才」と言い出しミーナたちも其れに賛成たが一番下をヒナかツネだろうと子供たちの意見は割れてミーナはヒナが一番下かしらと首をかしげながら話した。

「ヒナは一番年下のタマと7日しか違わないから当たりの内だね15才が正解、でもアキコは22日に16才だよ。年上はさっき自分の年を言ったヨシカの17才」
それには子供たちも驚いたようで「だってリーダーはアキコでしょ」と言い出した。

ヨシカが「アキコをリーダーにしたのは会計と銀行に慣れているからと言うことのほかに物怖じしないで誰とでも話しができるからよ。大人びて見えるのは一番背が高いから」と言って6人で並んで見せた。
ミーナが入ってみたがアキコよりすこし背が低かった。

「明子のお父様はものすごく背が高いのよ6フィートはあるかしら」

タマはそう言ってウィンクしたがヒナが「5フィート8.6インチ、146ポンド1オンス」と口を出した。

「あらヒナさんどうしてそんなに詳しいの」

「うちのお父様がコタさんは背が高くて羨ましいと口癖のように言うので覚えてしまったのよ。トミーと同じくらいかしら」

「僕は5フィート7インチだ。羨ましいぜもう少し背が高ければ監督も常時使ってくれるんだろうに」

「トミー。あなた昨日ジャンプした時とてもすばやかったわ。足が速いのでしょ」

「そう足は自慢できるぜ」

「それなら野手として使っていただいて盗塁で稼ぐのはどうなの」

「そうだなそいつも上手く走れる練習をしてみるか。何でもやらないとジョンにほっぽり出されちまう」

ジャパニーズは若く見えるがアキコは大人びて見えると結論が出たようで「ふけて見えるんだ」としょげるアキコにジェニーが「とっても素敵なレディに見えるから安心して」と慰めた。

レストランに約束した時間が近づきトミーが金を出すと言うのをマンサンが止めて会計責任者のアキコが支払いを済ませ、馬車に分乗してノースエンドのユニオンストリートへ向かった。

「今日は俺のお別れ会でお客を連れてきても良いというのでミーナをつれてきたんだがトミーも立派なお客様だ。彼女たちのおごりでご馳走になりなよ」
マンサンがトミーにそう話しをつけてユニオン・オイスター・ハウスへ向かった。

教会横のわき道からドーチェスターアベニューへ出て港沿いにノースエンドへ入った。

ディバインウェイのあたりの新しい土地が増え埋め立てに雇われる清国からの移民が多いとトミーが明子たちに大きな声で話してくれた。
四人の下宿付近のオールド・コロニー鉄道の線路はトミーが子供時代からあり昔はサウスボストンもドーチェスターの一部に含まれていた事今もノースエンドは埋め立てが進みイタリア移民が其処に多く住んでいる事なども教えてくれた。

「チャイナの料理屋も出来てるのかしら」

「まだ数は少ないがあるぜ」

「今度食べに行きませんか」

「良いな其の時は俺がご馳走するぜ。球場で働く奴にチャイナがいるからそいつも一緒につれて行けば外れは無いだろうぜ」
次の土曜に約束が出来てトミーは楽しそうに口笛を吹きながら手綱を揺すった。
マンサンが予約をしてくれたランチはシェフも自慢の料理だそうでテーブルまで来て説明してくれた。

定番のオイスターは小さなフォークで殻から身を離し、レモンとホースラディッシュを付けカクテルソースをさっとくぐらせて食べた。

Lobster meat, tender shrimp and scallops in a creamy sherry sauce,
Served on a baked pastry shell with rice pilaf
ロブスターの身、エビとホタテ貝のシェリークリームソース、焼き菓子にライスピラフ付きという遅めのランチは楽しく話も弾み食後のコーヒーも子供たちも大人になった気がすると上機嫌だ。
追加でケーキを頼むとワゴンで運ばれてきて好きなのを選んでくださいとボーイが先ず子供たちのそばで披露した。

ミーナにまたの再会を約束し下宿先の住所を交換し、5日のマンサンの出立は学校へ行くので見送れないとこの場でお別れすることにした。
明子は用意した餞別としてハンケチに包みリボンをかけてお菓子のようにして60ドルを5ドル金貨12枚で渡して「途中で美味しいものを食べながら帰ってね。ベイル家に私と雛はお世話になることにしました。ミセス・ベイルが昨日の内に電話を借りてMr.プリュインに報告されました」と伝え下宿が決まらないと心配しないで良いと伝えることも忘れなかった。

「では手紙のあて先はミセス・ベイルの家の住所でいいんですね」

「ハイ、横浜にも此処に来る前に電信で連絡いたしました」

「清次郎にもその様に連絡して置きますが其れで良いですね」
それぞれが別れの挨拶をしてマンサンとミーナを呼んでもらった馬車に乗せて見送り、明子たちは芳香達4人と「月曜は9時に学校の校舎前に集合よ。ミセス・ベイルも来てくださるわ」とそれぞれの馬車から手を振って別れた。

日暮れ前に子供たちを送り届けトミーは途中で出会った友人にこれ幸いとついてきて貰いその馬車で帰っていった。


明治18年(1885年)1月11日日曜日

サンフランシスコから明子の手紙がついた。
清次郎やマンゾーの事が書かれていて明るい文体に電信で連絡が来た時以上に希望に満ちた様子が伺われて寅吉も容も楽しい気持ちになった。
清次郎の大人びた様子が書かれた手紙は彼にシアトルを任せることにして良かったと寅吉を安心させた。

2人は電信で連絡されていた住所へミセスへの贈り物とアキコへの手紙を了介の分も添えて送り出すことにした。
前田清次郎は正太郎の二つ下の弟で27になり(満26才)そろそろ嫁をと母親も心配しているようだが心配無用と手紙も来ているし正太郎からも清次郎に任せるようにと手紙を受け取り「青い目の子供と戻ってきたらどうしよう」と年始に娘たちと来た時に心配していた。

「すまねえな。仕事で派遣したきりで彼が居ないとシアトルが困るので代わりが見つかり次第呼び寄せるから。男2人をおっかさんから取り上げてしまってすまねえね」

「いえ、旦那様のせいでは御座いません。兄貴がパリなら自分はシアトルと言い出したのは本人ですから」

井上外務卿一行は明日済物浦を出て帰国の途に着くと情報が来たのもこの日だ。
千代は明日12日だと下関に14日には戻りますねと交渉の成果はいかにと手代たちと盛んに議論していた。

(明治18年1月19日午前十一時、井上特派全権大使乗組の近江丸着港、直に大使は元弁天宮内省御用邸へ上陸、午後一時三十分帰京せられたり。横浜沿革史)

望欣台の主が易占大意という表題の本を持って氷川商会へやってきた。

「何だ日曜でも店を開いているのか」

「今日は休みですがね、これから裏の集会所で義太夫の会があるので出てきたのですよ」
本を渡して読みやすくしてあるからというと「これから人と昼を食うんで、相生町の井村で待ち合わせに出向くついでだ」と風のように去っていった。
井村は絵付け陶磁器の製作所、中々盛んな陶磁器の売り込み商だ。
ついでとは言うが大分遠回りしてきてくれたようだ、事業から引退して易を極めたいと言っていたが世間は嘉右衛門の引退をそのままに放っておかず名前だけでもと誘いが多いのだ。

望欣台(神奈川台)大綱山荘は土地も広くいまだ建築途上だというが16年にはほぼ完成の域を見せていた。
高島嘉右衛門別荘之図と題された銅版画横浜諸会社諸商店之図の刊行にあわせすでに完成したと本人は言っていたようだ。

土曜にトミーが連れて行ったダウンタウンでミーナたちに偶然出会い誕生日の先行のパーティに誘い、日曜にパムの教え子の一人が尋ねてきたとき昨年新築した家の事からブリガムの建築の話になり、そういう話の好きな明子がボストンにあるブリガムCharles Brighamの設計の建物めぐりをしたいと切り出すとその人は嬉しそうに自分の家にきなさいと誘ってくれた。

「パムもいらっしゃいよ」
そう誘ってくれ勿論のようにヒナにも「あなたも来るのよ」と言ってくれた。
来週のパーティは勿論の事パムが手伝いに来てほしいと言うと「嬉しいわ、裏方でも呼んでくれないかしらと期待していたの」と飛び上がって喜んでくれた。

表で待つ馭者に人数が増えたからフオレストヒルステーションまで行って馬車を探してくるように言いつけた、黒人の馭者は「ハイ奥様。何人乗れる奴を探しますか」中々気が付く男のようだ。

「あなたのとあわせて4人。だから二人乗りで充分だけど近くで見つからなければ4人でもかまわないわ」

「では急いで探してまいります」
そう言って出て行った。

「パム此処もテレホンを設置したらいかがアグネスの子供たちの声が聞けるわよ。馬車だってジミーに頼めない時は呼び寄せられるわ」

「だけど通話料も高いしね。声だってほんとの声と随分違うでしょ」

「今度家で付け直したけど本物に近いわよ。うちのジミー(Jimmy・ジェームスJamesの愛称)はこれで通話料が安けりゃ大助かりだといっているわ。今年はニューヨークまで回線を延ばすそうよ。其の途中のブリッジポートなら其れほど高くないわよ」

「まぁ、スーはよくそんな事がいえるわね。ジミーがよく貴方の浪費を我慢できると感心してるのよ」

「浪費は言いすぎよ。保険の勧誘で一ヶ月の収入が平均200ドル其の半分まではお小遣いと決めているの」

其のスー(Sue)のスーザン(Susan Barbara Minot)のマイノット家は2所帯がそっくりに建てられ隣り合わせに住む新しい赤レンガ造り、2階には張り出し窓があった。

「こっちよ」
小さな花壇のある左側の入り口から入ると直ぐに応接間があり其の奥に書斎が続いていた。

其の書斎入り口廊下に交換したというWestern ElectricThree box Telephoneが壁際に有った。
The top box measures 5 1/2 inches by 10 1/8 inches and contains a three bar magneto, a ringer and a switchhookと広告には写真付で出ていたものだ。

Coffin Style Telephoneに比べたら随分音も良いわよ。やっと完成して此処へ引っ越しをした時にジミーを説得したんだけど君が金を出して換えるならかまわんよといわれてしまったわ。また新しいのが出たら交換しても文句は言わせないわ」
彼女の話に寄れば隣はブリガム氏と仕事のパートナーのスタージス氏(ジョンハバードスタージスJohn Hubbard Sturgis)と同じ苗字でラッセル・スタージス氏(Russell Sturgis)の1881年建築の住宅だそうだ、表からは同じ時に出来たかのように見える建物だ。

「表札を見てひょっとしたらと思ったけどお付き合いが始まって一族というだけで遠い親類だそうなのよ」
この近所は彼らの仕事による建物が多く建築業者はウッドベリーとレイトン(Woodbury & Leighton, builders)が其の多くを手がけているそうだ。
ウォータータウンには昔風の住宅が多く非対称のアン王女朝様式のスタイルハウスが並んでいるそうだ。

パムが「アキコの家はヨウカンスタイルとYokohamaで言う建物でそのアン王女時代の家と良く似ているそうよ。写真は綺麗に色付けされているのよ」アキコがケースから写真集を出して「これが私たち家族の家で、此方はガリヴァーさんの家で此方はスィフトさんの家です」と色付けされた写真を出した。

「よく似てる家があるわよ。見にいきたいかしら」

「今度の日曜はパムがパーティを開いてくださるのでいけないのですが馬で行く事が出来ますか」

「パムの家からなら道路も整備されているし、曲がり角も少ない順路で行けば1時間ちょっとかしら。10マイルくらいよ。日曜でよければ何時でも案内するわ。前の日までに連絡を頂戴。ねパム。こういう連絡もテレホンが便利よ」
ヒナの頭にはこの家の近所のように聞こえたがチャールズ川の上流ウォータータウンはハーバードよりも西側に広がる町だ。

「其れよりアキコ。馬に乗れるの」

「ハイYokohamaで父とよく遠出をしました。10マイルほど離れた父の友人の仕事場や知り合いの家を訪ねました」
紅茶とマカロンを給仕されて楽しいひと時を過ごし馬車を呼んで近くのブリガムの設計と思われる家を見て周り日暮れ前に丘の家まで戻った。

18日明子達も学校に慣れてきて今日は丘の家に新しい友人とヨシカたちに混ざってミーナと其の友人2人も参加してのパーティが開かれるのだ、昨日の土曜日には三人でドライフルーツや家で足りない新鮮な肉や香辛料などを買い出しに出かけた。
パムは自分が出すと言うのを押し留めて明子は自分の誕生日にお客を呼ぶのだからと台所で見かけない色々と便利な道具も含めて買い入れる事にした。

明子の誕生日は22日だがパムの提案で開かれる事になったパーティの支度はパムとスーが指揮をして手伝いにコニーとアニーも出てきたし、明子と雛も飾り付けをサムとジェニーが手伝って4人で行った。

11時にトミーがミーナと友人のハンナを連れて現れ、ヨシカたち4人も学校で出来た新しい友人6人を引き連れて賑やかに登場した。
明子を含めた学生14人のなかでボストン生まれは3人だけでウォータータウンが2人残りは様々な地区から出てきた者ばかりだ。

男性はトミーにサムとボストンカレッジ・ハイスクールシニアのベンとジュニアのエドの4人で圧倒的に女性が多かったが1時近くになって偶然にもセーラムから明子に会いに出てきてくれたボブとディックの両夫婦を案内してMr.プリュインが加わり台所までが満杯になる賑やかな事になった。

「ショウからも手紙が来てぜひアキコに会うように言ってきたのさ。ボストン鉄道が引かれて楽になったからよく家族でボストンへ来るんだが去年はアトランタへ仕事で神さんと出かけていたのさ」
2人は父が話していたとおりの人達で賑やかに場を盛り上げパムの料理を褒め2時間ほどで引き上げて行った。

3時半順に馬車で帰宅の途につきパムの家族と明子たちは飾り付けを片付け台所での洗い物も整理が終わりダンディ・ケーキ(スコッチケーキ)でお茶にした。
スーは昨日家で焼いてきたけどもう少しでこれも出さないと危ないところだったわと可愛い声で笑った。

「本当に若い人は食欲が旺盛で作りがいがあるわ」

「明子が焼いたパウンドケーキ(pound cake)の人気が有るのには驚いたわね。もう少し食べようとテーブルを見にいったらお皿に残っていなかったわ」

アニーが残念そうにパムを見て「隠してはない様ね」と言い出したが「また明子に作ってもらえばいいじゃないの」と誰の誕生日のパーティだったか判らない話になった。

雛が「さっきからケーキの名前が色々と出るけど何処が違うの」と聞くとジェニーも「同じような味の気がするわ。アキコの方が柔らかかったけど」と疑問のある顔でスーを見た。

充分腕を振るったスーは料理を褒められ嬉しかったとにこやかに話し、なぜこれがダンディと呼ばれるかも教えてくれた。

其れは英国の地名で私のはロウシュガー(Raw sugar・黒砂糖)、アキコのパウンドはリファインドシュガー(Refined sugar白砂糖)で材料を4種類1ポンドずつ入れて作るからと説明しアキコのは焼き立てで柔らかく自分のは昨日の内にスコッチを効かせて日持ちをよくしたからしっとりと締まったのよと判りやすく説明した。

「カトル・カール(Quatre-Quarts)と教えてくれた人はフランス語で言いましたのよ。これは4分の4で同じ意味ですわね。また機会があれば材料をそろえて焼きましょうね」

サムとジェニーはもう「いつ」と聞く始末で母親にしかられてもスーも焼いてくださるわよねと念を押していた。

皆が其の子供たちをからかっていると特別便の外国郵便小包が届けられた、普段日曜には配達しない郵便も特別料金の小包は別のようだ。

「パリのShiyoo Maedaからですわ。スーはまだご存じないでしょうが父の会社のパリの責任者で奥様はフランスの方ですの。先ほどボブが言っていたショウのことですわ」

小包はショコラの詰め合わせが4箱で全員が食べても充分余るようなので安心して食卓で披露した。

「これは明子のものよ。とっておいたほうが良いわ」

ジェニーは欲しそうな顔だが大人びた事を言い出した。

「いいのよ。皆さんで頂いてくださったほうが一人で食べるより美味しく感じますもの。さぁジェニーから好きな奴を召し上がれ。でも二つだけよ」

お皿に形をそろえて出して、ジェニーに其の皿を押しやると嬉しそうに両手に持ち美味しそうに食べだした。
二箱は皆で楽しみ一箱を二つに分けてビリーとエディにお土産よと包みなおして渡した。

「アキコは気前がよすぎるわ。それじゃ自分用は一箱だけでヒナにも分けたらすこししか残らないわ。其れにビリーやエディはそんなに食べないわよ」
ジェニーが心配そうに言い出した。

「ではジェニーはまた食べられるかもしれないよ」
パムに言われて顔が先に崩れたのはサムだった。


明治18年(1885年)2月8日日曜日

南京町は春節の準備で賑わっていた、今日は旧暦師走数え日の4日にあたり土曜日が30日大晦日で次の日曜日が旧正月だ。

1月25日大山巌一行は欧州の兵制視察を終え帰朝し、従道は元の農商務省に戻り大山が陸軍卿として仕事を始めた。
27日にはハワイ移民団が横浜を出航した、ヴァンリードが企画した移民より17年ついに官約移民の第一回が実現したのだ。
第一回の移民募集には、予定人数の600人をはるかに超えた28,000人以上の応募があり成人男性682人、成人女性164人、子供98人の944人を乗せたシティー・オブ・トーキョーは2月8日にホノルルに到着予定だ。
このうち山口県から四百二十名そのうち周防大島からだけでも三百名を数えた。
之は井上外務卿に三井物産の益田孝が加わり、日本ハワイ労働移民条約から約定書の起案、移民募集から送出までを進められていて元の先収会社の地租引当米取引の時の繋がりが有った為の様だ。

この時のハワイ国駐日弁理公使(総領事兼全権公使とも)のロバート・ウォーカー・アーウィンは妻に日本女性のイキを迎え娘ベラもが移民団に同行していた。
アーウィンは1898年(明治31年)ハワイの米国併合による弁理公使解任を受けて1901年(明治34年)に渋沢栄一らと共に台湾製糖の創立発起人も務めた。

この日寅吉の元に昨日三菱の岩崎彌太郎が下谷茅町本邸で亡くなった事が知らされてきた。
本邸は元榊原家が家康から与えられた土地で維新ののち桐野利秋の手を経て牧野家の物になっていたが岩崎家で明治11年に買い入れ、其れまで住んでいた駿河台から15年に移り住んでいた。
本郷台地の先端八千五百余坪の敷地にその後も買い増しして最大一万五千坪に達し、明治29年長男の久彌によりジョサイア・コンドル設計の洋館と、大工大河喜十郎の手による和館が建てられた場所だ。

共同、三菱の競争は12月両社の社長を農商務省へ呼び出し両社は運賃、出帆時刻、貨物周旋営業人、乗組員の四点について取り決めをした。
原則同一料金、汽船の速力の制限、海上競争による弊害を断つ、積み荷問屋の自由に両社の扱いをすること。

商務省は両社に協定書を提出させる事にしたばかりでの彌太郎の死去は先行きを不透明にしかねなかった。

天保五年十二月十一日の生まれといわれる彌太郎はこの時数え51才の若さだった。
長男久弥は弱冠二十才(慶応元年10月14日生まれ)、弟の彌之助は三十五才の働き盛り、彌太郎子飼いの優秀な社員多数の精鋭が居るが三菱会社にとって大きな損失だ、長女の春路は二十二才だがいまだ嫁入り先が決まっていない。

ケンゾーが来てその事を話したが今のうちに共同運輸会社に郵便汽船三菱会社の株を買うことを相談し、二人で正太郎にアーサーの資金とマックからお玉さん親娘のための預かり金の内から新たに10万円を追加投資することにした。

「合併話はどうでしょうかね」

「一年は掛かると予測したが十月までに決着がつくだろうよ」

「まだ大分もめると言うことですかね協定はうまくいきませんか」

「協定破りは共同がやりそうだぜ。吉川と近藤を彌之助さんがどうやって納得させるかだろうな」

「合併後はどうします。投資を続けますか」

「新会社の株価次第だが切り替えを含めて50万くらいはつぎ込んで80万を越した時点で半分売れば当分どうなろうと心配いらんだろうぜ。其れより日本鉄道の株はどうだい」

「徐々に人気が出てきましたからあと2年は上がり続けるでしょう。此方ももう少し買い入れましょう」
ケンゾーは大分共同に船を売り儲けたようで羽振りもよいが合併話が水面下で持ち上がっていることをどこかで聞き入れて寅吉と組んでの株の買い付けの手伝いをしていた。

「2年くらいで1.6倍になりますかね」

「其れよりは早いだろう、今の時点から三十ヶ月程でその半分を回収して置ければ資金の不足することもないだろうさ。グランドホテルと違いこっちは儲けを狙う投資だからな」
共同運輸会社資本金六百万円の内政府保有分二百六十万円残り三百四十万円の内百四十万円は固定株主が抑えていて残り二百万円分が相場の対象になっていてこのとき額面五十円に対し六十円を割り込む人気うすだ。
二人は亀田介次郎、浅田又七、中村寅次郎を協力者に30人ほどの名義で三菱会社と共同運輸会社双方の株を買い集めていたが三菱は表立って株の売り買いが出来ないようだ。

「岩崎では合併は仕方ないと踏んでいたようですが」

「そうさこの辺で手を打たないと西南の役での儲けが無くなるからな、従道さんが提示した株式分配で応じるだろうさ。新しい会社も人材は三菱に多く優秀なものが入るだろうから議決権の偏りを無くさないとな。大倉さんに安田は其れほど乗り気じゃないし渋沢さんにしても投資に見合う儲けが出ないと見てるようだ」

「大阪の内藤さんに話しをして見ますか。三菱は共同の株も持っているようですよ」

「俺たちは議決権を持って会社の運営をするわけじゃないからな。上手く売らないと儲けにつながらないかもしれないぜ」

「近いうちに東京に出てきますから話しだけでもして置きますよ」
内藤為三郎後に六麓荘の開発で名を残す関西の富商だ。

日曜日の朝7時、夜明けがボストンに来て朝の祈りの後の食卓で3人は今日の予定を話し合った。

「ウォータータウンの家をまた見にいきたいわ」
ヒナも付いていっても良いわと肩をすくめながら仕方なさそうに言ったがボストン市内の赤レンガの家と違い木造の家たちに親しみを覚えてきたようだ。

「困ったわね今日はスーも私もついて行って上げられないのよ」

「パム大丈夫よ。駅で馬車を雇って回るから」

「それなら良いけど。決して2人だけでうろついては駄目よ」

「ウォンダフルウォデリン(Wonderful Wandering)」
アキコがつい横浜訛りで叫んでしまうとパムは意味が通じた様で「困った娘ね。誰か手綱を取らないといけないわね」と大げさなくらい嘆いた。
トミーが何処で都合したか昔風に半円の幌のついた馬車でやってきた。

「オヤオヤ、トミーは誰にお熱なんだか」とパムがつぶやきながら窓から眺めると後ろからミーナとジーンというこの間街で一緒に買い物をしていた娘が出てきた。

「まぁ、ミーナ貴方の学校は男性と出歩いても寛容なの」

「あらパム、遅れているわよ。それにトミーを頼んでくれたのはミセス・ジョンソンですわよ。ジャパンから来て街になれない人を案内すると伝えたら直ぐに男性をボディガードに頼みますからと監督役にトミーを選んでくれたのよ。トミーは信頼されているのよ」
トミーはシーズンが始まるまで銀行の警備員に雇われたと話していたがそのことも有るのだろうかとアキコとヒナは思った。

「でもいい所へ来てくれたわ、2人がまたウォータータウンのブリガムの設計した家を見学に行きたいと言い出したの」

「そうだろうと思ったわ。ジーンの家は其のウォータータウンなのよ。パーティの日は家に戻っていたのでこられなかったけどこれからジーンの家に訪問するからアキコを誘いに来ましたの。彼女の家もブリガムの設計よ。そうよねGB

「ええそうなのスタージス&ブリガムよ、5年ほど前に建てたばかりよ。それに従姉妹の家も同じ人たちに建ててもらっているのよ」
アキコはJが頭文字のJeanと勘違いしていたがジーンは愛称でGeneというスペルだそうでGeorgina Bridget Vaughan(ジョージアナ・ブリジット・ヴォーン)だと紙に書いてくれた。
男性の場合はEugene(ユージン)の愛称がジーンだそうだが自分がなぜジーンと呼ばれだしたかは両親に聞いても知らないそうだ。
従姉妹はJのジニー(Jeanny)でジャネットだそうでJeannetteとスペルも書いてくれた、異国のものに優しい人たちだ。

「其のジャネット・ビアンカ・キダー(Jeannette Bianca kidder)の父親の銀行に雇われているんだ。GBJBと彼女たちは呼ばれているのさ」
馬鹿に詳しいのねとパムにからかわれると銀行家のキダーさんの父親と俺の爺様が同僚だったのさと簡単に説明した。

「あのフィッシュアンドミートインスペクターのおじいさんかい」

「そうだよパム、マックと同じfish and meat inspector(魚、生肉検査官)をしてた時の仲間さ」

突然ヒナがShe is such a kidder. She's such a stitchと言い出した。

「なにがお茶目で冗談なのヒナ」

「ううん、キダー先生のことを思い出してヨシカたちが言っていたのが口に出てきたの」
ひとしきりミセス・ミロル事キダー先生の事を思い出してミーナたちにバーモント生まれというキダー先生の開いた自分たちの学校とは違うフェリスの事を話した。

Kidder, Peabody & Co Bank Buildingもブリガムの設計だとトミーが思い出したように言い出したが「Mr.キダーの家はブリガムらしくないぜ。其れに建て直してる様子はないぜ」とジーンに言うとそうよあの家は昔のままですものベヴァリーに今建てている家がブリガムよと教えた。

「ベヴァリーかちょっと拝見というには遠すぎるな。40マイルくらいだな」
パムを訪ねてスーが来てトミーの幌馬車に明子たち4人が乗り込んで出かけるのを見送ってくれた。

トミーはフオレストヒルステーションからジャマイカプレーン(Jamaica Plain)の住宅地に入りジャマイカウェイでジャマイカポンドに集まってスケートをする人たちを見ながら先へ進んだ。

「アキコにヒナはスケートが出来るの」

「たつのがやっとよ。よちよち歩きで人の邪魔になるわ」

「ジーンはとても上手よ。私は早く滑れてもジーンのように優雅さがないわ」

トミーが聞きつけて「後一月は滑れるから機会を捕まえてすべりに来るかい」と相談した。

「3月に入ると滑れないの」

「其の頃は時々温かくなって氷も薄い場所が出来るのさ。池でなくて畑に水を張った場所じゃないと危険だよ」

「じゃそういう場所もあるのね」

「勿論さシティの公園にもいくつもあるよ。ボストンコモンのフロッグポンド(FrogPond)なら安全だ」
明子たちがMr.プリュインに案内されて出かけたときはそんな様子も見えなかったがだいたいの場所は覚えていたので噴水のある池のことかというとそうだと一同が口をそろえ「あそこで溺れる奴は酔っ払いくらいだ」とトミーが大きな声で笑いだした、経験でもあるようだ。
ヒナもスケート用の靴を買いたいと言い出し帰りにこの間のハーベーズによって買い物を出来るかと聞いた。

「アキコお金を持ってきたの。あたしは10ドルしかないわよ」

「ヒナ、靴はそんなに高くないよ。ミーナのように金持ちのお嬢様のような高級品を扱う店に行けば50ドルは掛かるけれどよ」

「トミー私の靴は6ドルよ。そんな高級なスケート靴を履くほど上手じゃないのよ」
ブルックリンアヴェニューからフェンウェイ(Fenway)に入った、ここはバックベイ地区の西側の町でボストン大学の敷地にぶつかると左へ曲がった、チャールズ川は氷が張り川筋は蛇行して遠ざかりオールストンの街に入ると眼前にまた戻ってきた。
川向こうはケンブリッジからウォータータウンに変わりウォータータウンブリッジ(Watertown Bridge)を渡った、ジーンはウォーターブリッジで通じると教えてくれた。

Beginning as a ford this river crossing has been spanned by bridges since 1641

上流にはダム(Watertown Dam)があり凍りついたようすは美しかった、やはりこれもウォーターダムで通じる堰だそうだ。 

The history of the dam traces back to 1632 when construction of a fish weir was authorized.

「明子様ァ蝦夷地というところもこのボストンのような場所でしょうか」

「そのようよ。凾館から着た方が札幌とボストンを比べて雪の事を話してくださいましたが同じような寒さだそうでしたよ」

「では、わたしたち蝦夷地へ移住しても充分やってゆけますわね」
ヒナが日本語で話し出したので明子が蝦夷地の事をミーナとジーンに話、箱館と書いていた街が今は凾館と書くようになったことなどを説明した。

「其の話だとヨコハマではあまり雪も降らないのね」

「そうなのよ。降っても二日くらいでやむし歩けなくなるほどの事もないわ」

「ニューヨークより温かそうね」

「もっと南の町と同じでしょうかしら」

「では雪が殆ど降らないポーツマスと同じくらいかしら」
本土各地とパリへ出た事のあるミーナと殆ど地元育ちのジーンはそういう話で気が合うようだ、話したがりのミーナに聞き上手のジーンは友人として長続きしそうだ。

ミーナが「ガーフィールドストリートを回ってからジーンの家でパンケーキでお昼にしましょう」と言いトミーにも大きな声で伝えた。

「角がわからないから声をかけてくれよ」
明子が馭者席へ移りジーンが首を出して知っている家々を教えだした。

「此処もスーがブリガムと教えてくれたわ」
Queen Anne Styleの綺麗な家は雪景色に映えていた。 

「この場所はクーリッジ農場のハーバートさんの家のはずよ。新しく建てなおしたようね」
盛り土をしたのだろうかすこし道から高くなった家はBストリートから回廊でガーフィールドストリートに面した玄関ポーチへ回れるつくりだ。
この手前にはチャールズ・ブリガムが建てた家が幾軒もありこの家の前面は整地はされているが空き地のままだ。

左右非対称で複雑で急勾配な切妻屋根、額縁つきのダブルハングウィンドウ、下見板、レンガ・ストーンがブリガムの定番だ。
壁に張られた煉瓦はベージュ、下見板はホワイトスモーク、羽子板のように突き出た扁平の大きな煙突はダークレッドの煉瓦。

「私はこのハーバートさんの家が好きよ。手前の土地の2軒は屋根のグリーンが綺麗だけど勾配と流れ方が長すぎるわ此方のダークブルーのほうが親しみがもてるわ。この通りでは何度来てもこの家が一番だわ。其れとこの道とは違うけど西にある切妻造でオークル(ocre)の下見板の家が良かったわ」

「アキコそのオークルってどういう色」

「ゴールデンロッド(goldenrod)の花の色よ」
フランス帰りのミーナがつい口に出た明子のフランスの色を説明してくれた。

「其れもしかして私の家かも」

「ほんなのジーン。あの素敵な家に住んでいるの。屋根はダークグレーで赤い小さなレンガの煙突がある家よ。玄関は階段を上がって可愛いポーチがある家よ」

「ポーチドエッグじゃなければ私の家よ。南側が牧草地だった」

「ええそうよ。スーと雪の道を柵に添って裏側へ回って見たもの」
馬車を降りてハーバートさんの家の前の道を行ったり来たりしながらアキコとジーンは興奮しながらこの家と自分の家の違いを話し合った。

「私のところは1メートルの盛り土をして有るけど此処はマウンドになっているうえにさらに盛ってあるようよ」
周りには大きな樹もなく、まして冬なので道の先の丘の上までが見通せた。
其の丘の上には大きな屋敷が有り雪の中でゴルフでもしているのかクラブを振っている人が見えた。
ハーバート家から青年が出てきてジーンに声をかけた。

「やぁ、ジーンなにを皆で話しをしてるんだい。たまにウォータータウンに戻ってきて迷子になったのかな。其方の東洋の人は先週も保険屋のスーとこの近所を回っていたが君達も保険の勧誘かい。それなら温かい居間でお茶でも呼ばれなよ」
どうやらジーンと知り合いらしく冗談のように誘ってくれたので遠慮せず皆揃って暖かい居間へ落ち着かせてもらった。

「上着を脱ぎなよそのままでは汗をかくぜ」
ジーンが要領よくそれぞれを紹介し青年は「俺はベンだ。今お茶を持ってきてくれたのが母親のヴァルで其の暖炉の前の揺り椅子で居眠りしてるのが親父のレオさ」と此方も手早く紹介した。
其のレオ小父さんが立ち上がって「わしゃ寝ておらんよ面倒なので寝たふりをしていたが東洋から来なすったにしては垢抜けておられる」とアキコとヒナを褒めた。
日本風に腰を折って挨拶をした2人は「まあ其の椅子に座りなさい」と自分の近くの椅子を勧められアキコは腰掛けるとブリガムの設計した家に興味がありクィーンアンスタイルの家に興味があると話しをした。

「それでこの間からスーが連れて歩いていなすったか。てっきり新しい保険でも勧めに回ってるかと思って居ったよ。Mr.ブリガムに前の土地を売ったから其処に自宅を立てる計画だそうだよ」

「本当でしょうか、建築が始まったら土台からどのように始めるか見ておきたいですわ」

「それならテレホンで連絡してあげるよ」

「まだ下宿に引かれておりませんの」

「それならスーに連絡してあげるよ。何まだ1年やそこらは先になるようだ」

「留学期間内に出来ればいいのですが」
すこしアキコはがっかりした、自分の家なら手抜きもしない土台から確りとした家を作る事だろうと思ったのだ。

「雪が溶けたら地階部分の掘り下げをやるというからその時にはMr.ブリガムを紹介してあげるよ。家でも建てたいのかい」

「私の父が家を建てるのが好きで同じようなスタイルの家を建てましたがMr.ブリガムが設計図をひいてくださるなら其れを帰国する時のお土産にしたいと考えています」

「おお、そうかいそれなら手助けが出来るよ。Mr.ブリガムと話す機会があればわしからも伝えておくよ」

「ありがとう御座います。この素敵な居間もスケッチしてよろしいでしょうか」

「良いとも」
アキコは用意して来たバインダーから紙を出して暖炉を中心にスケッチを始めた。
15分ほどで綺麗に仕上がるとレオが「どうだいそいつをもう一枚書いてくれるかな」と言い出したので「では奥様とすこしだけ暖炉の傍へ立って頂けます。2分ほどで結構ですので」
フライド・ドゥを持ってきたヴァルをレオと暖炉の両脇に寄りかからせて自分の絵に2人を描き添えると其れを参考に顔はレオとヴァルを盗み見しながら修正して描きあげた。
他の者がコーヒーでフライド・ドゥを口に運んでいる間も熱心にペンシルを走らせて絵に陰影をつけた。

「こいつは素敵だ額にでも入れて飾らないといけないな」
大分褒められてアキコは大テレだ、自宅にある多くの絵でデッサンの練習をつんだ甲斐があるというものだ。
前回の時にスケッチした物を仕上げてあり其れを見せるとぜひ欲しいと頼まれて其れも差し上げる事にした。

「いいの」
ヴァルがレオの旺盛な欲しがり方に心配そうに聞いてくれた。

「この間の下書きもありますし今日訪れた事でもう一枚書くのは簡単ですわ」
アキコが気前良く差し出したのでレオは「また来た時は遠慮なんかしないでドアを叩くんだよ」とまで言ってくれた。

ハーバート家を出て丘の上の家の前の道を西へ進みコモン通りを下ってスプリング通りへ出た。
マーシャル通りへ入りすこし上ると其処がジーンの家、ゴールデンロッドの下見板が雪景色に映えていた。
納屋の前に幌つき馬車を止めて馬を軛から外してジーンが納屋の中へつないだ。
台所から母親らしき人が出てきて顔見知りのミーナに挨拶をしていたが寒いから早くお入りとジーンに声をかけて其処から一同を迎え入れた。

ジーンがトミーにアキコ、ヒナと順に紹介してテーブルに座らせた。
お茶を入れてくれて落ち着いたところでジーンとミーナがパンケーキを焼く仕度をしている間にブリガムの事について幾つか質問をしたがママンは快く話しをしてくれた。

「この付近はスタージス&ブリガムの建てた家が多いのさ。それと前の2軒もそうだよ」

「エッそうなんですか、スーはブリガムさんのお母さんの家と言うのは教えてくださいましたが南側のどっしりした家はブリガムらしく有りませんわ。スーはこの家でTreaty of Watertown1776が結ばれたと教えてくれましたが」

「そうなんだよ。私とした事が説明不足だったね。前は表通りのマウントオーバンストリート(Mount Auburn Street)に有ったのをブリガムさんが買い取って家族の住まいにしたのさ。ジョージワシントン、ジョセフウォーレン、エルドリッジジェリーそれとベンジャミンフランクリンだったかね其の家で独立戦争の会合が開かれたり、戦争後の各条約を結んだと教わったよ。誰の建築かまでは知らないよ。此処へ移したのは8年位前さ」

ママンは指を折って数えながら話しをしてくれた。

ウォータータウンで現存する2番目に古い家で1772年(1770年とも)、建築はジョンポンド(John Bond)といわれている

ウォータータウンで一番古い家はThe Abraham Browne House (built circa 1694-1701) is a colonial house located at 562 Main Streetだそうだ

ミーナがこの家でジーンの母親のナンシーをフランス風にママンと呼んでいるので明子もそう呼ぶことにして「ママンはこの土地生まれなの」と訊ねた。

「ジョンホイットニーから続くホイットニーさファミリーネームが違っても200年以上は入植してからたってるね。イーライも同じ家系だよ。私の先祖はサラ・ホイットニーの娘のサラ・ボールと言う人だったそうだよ」

ジョンホイットニーはアデレイドとクララの姉妹やホイットニー先生の話からイギリスからの移民だと聞いた事があったがママンに拠ればこのウォータータウンでジョンは亡くなったそうだ。
話の様子ではジョンという先祖がいてもアメリカ移住以前には繋がりのある家系らしいが親類としての話しは聞かないと言うことだった。

「今度の大統領は海軍長官にホイットニー家の者を任命するそうだよ」

ウィリアムコリンズホイットニーは85年から89年まで海軍長官を務め退任の後は事業と競馬に其の名を残した。

イーライは綿繰り機の改良などに名を残した実業家だ。

噂話は好きなようでホイットニー一族の有名人にキダー一族の有名人などについて多くの話しをしてくれた。
話しが一段落する頃には人数分のパンケーキが焼き上がり蜂蜜をたっぷりかけて紅茶で食べる事が出来た。

「美味しいわ」
アキコとヒナがミーナとジーンの労力に報いる賛辞をたっぷりと言うと2人も嬉しそうだった。
ママンがサコタッシュもたっぷりと深皿に入れて出し若い5人が其れを美味しいと食べる様子をニコニコと眺めた。

その日の明子たちにはナンシーが付き添ってメアリー・ブリガムが住む可愛い住宅とコロニアルスタイルとアン王女朝様式の混ざるエドワーズさんの家を回った。
どちらも遠い異国から来た2人の少女を歓迎し居間や食堂の造作を喜んで見せてくれた。
エドワーズさんの家は2家族が住む大きな家でジーンの家とは大分趣が違った。

帰りに寄る予定のスケート靴の購入は諦め土曜の午後にトミーと約束し、川を渡ってから馭者席でトミーがアイリッシュの民謡を歌ってくれた。

O Paddy dear, and did you hear the news that's going round?
The shamrock is forbid by law to grow on Irish ground.
And Saint Patrick's day no more we'll keep, his color can't be seen.
For there's a bloody law against the wearin' of the green.
I met with Napper Tandy and he took me by the hand,
Ahd he said, "How's poor ould Ireland, and how does she stand?"
She's the most distressful country that ever you have seen,
They're hanging men and women there for wearin' of the green.

ジーンの求めでもう一曲続けた。

The Minstrel Boy to the war is gone
In the ranks of death you will find him;
His father's sword he hath girded on,
And his wild harp slung behind him;

"Land of Song!" said the warrior bard,
"Tho' all the world betrays thee,
One sword, at least, thy rights shall guard,
One faithful harp shall praise thee!"

And said "No chains shall sully thee,
Thou soul of love and brav'ry!
Thy songs were made for the pure and free,
They shall never sound in slavery!"

アキコは何か歌えるとミーナに言われてフォスターの歌ならと出だしを口ずさむとトミーが歌えるものは皆で歌おうとオールストン(Allston)からジャマイカポンドへの道をたどりながらフォスターを何曲も歌った。
オースザンナ(Oh Susanna)、キャンプタウンレース(Camptown Races)そしてトミーもお気に入りだというジェニーウィズザライトブラウンヘアー(Jeannie with the light brown hair)は何度も繰り返された。

  

I dream of Jeannie with the light brown hair,

Borne, like a vapor, on the summer air;

I see her tripping where the bright streams play,

Happy as the daisies that dance on her way.

Many were the wild notes her merry voice would pour,

Many were the blithe birds that warbled them o'er:

Oh! I dream of Jeannie with the light brown hair,

Floating, like a vapor, on the soft summer air.

JEANNIE WITH THE LIGHT BROWN HAIR後にNがひとつ名前から省かれた。

19世紀アメリカ最大の歌曲作家は、スティーブン・コリンズ・フォスターだ。「おおスザンナ」(1848)、「草競馬」(1850)、パーラー・ソングの「金髪のジェニー」(1854)、「夢みる人」(1864)などが有名だ。

ジャマイカプレーンに入る頃にはマイオールドケンタッキーホーム(My Old Kentucky Home)を歌う一同は寒さを忘れていた。

Weep no more, my lady
Oh, weep no more today!

というコーラス部分は女性陣が、其の後を息が合って来ていたトミーが続けて独唱した。

We will sing one song for the old Kentucky home
For the old Kentucky home, far away

そして何度も五人で賑やかに其の部分を繰り返しながら丘の家についてパムが入れてくれたシナモンコーヒーとターキーのサンドイッチを食べながら今日の報告をした。

陽も暮れトミーがせかしてミーナとジーンをたたせると15分やるからでてくるんだぜと馬車へ向かった。
カンテラが灯され3人が見送る中を幌馬車は街へ向かってゆったりと去っていった。


明治18年(1885年)3月17日火曜日

6時太陽が昇る気配を見せた。
Spring Semesterは昨日で中休み今日はセント・パトリックデイ(アイルランド語ではPadraigポーリク)の祭日。

雪は此処10日以上降らず寒さは厳しいが道路は綺麗になり行き交う人も明るい顔で挨拶をしている。
アキコとヒナはトミーが温かいデラウェア(Delaware)ジョージタウンでのキャンプに参加したので替わりにと紹介してくれたイタリア移民のリナルド・バリオーニ(Rinaldo Baglioni)というカレッジのシニアの青年が迎えに来るのを緑色の服に着替えて待った。
リナルドはボストンカレッジ卒業後はベル電話会社に勤める事になっているそうだ。

アイルランド系やカトリックの人たちに混ざり宗派を問わず集会に参加する人は年を重ねるにしたがって増えて今年は3000人以上の市民に州兵がパレードに参加するという話で其れを見に来る人で市庁舎のあたりは大変な騒ぎになるそうだ。
コモンで集まりパブリックガーデン側から出てビーコンストリートを州会議事堂、スクールストリートの市庁舎を回り旧州会議事堂からクインジーマーケット(Quincy Market)まで進んでマーケットを一回りしてキルビーストリートがフランクリンストリートに出会うところまで降り、ワシントンストリートへ出てボイルストン・ストリートまで進んでコモンで散会というダウンタウンを一回り2時間あまりの行進だがカレッジの校庭が開放されていてそこで屋台の食べ物屋が学生の手で開かれていて訪れる市民も多いのだ。

「お酒だけよないのは。飲みたい人は街の酒場へ行くのよ」
パムがそう言ってパレードの始まる頃には馬車に全員で乗り込んで出かけると言う話だ。

ビリーとエディは役員だとかで夜明け前から出かけていて誰が馬車の馬を操るんだろうとヒナが心配して聞くと「子供たち以外なら誰でも馬車くらい扱えますよ、4頭立ては無理でも2頭なら私でもね。でも今日は馬車屋にコニーが頼んであるわよ」とあっさりといわれてしまった。
サムだって機会があれば手綱を取りたくて仕方ないのだそうだ。

イギリス軍の兵役に従事していたアイリッシュの兵隊が、1762年3月17日にニューヨークの町を居酒屋まで行進したのが始まり。

ウスボストンで行われるパレードは15日、Since 1901 this parade has become a prominent part of South Boston's history.と100年以上の歴史があるそうだ

遠くからバンジョーとトランペットの音が響いてきた、其れにあわせるようにアコーディオンの音が聞こえ「フォスターだわ」とヒナがキャンプタウンレースのドゥーダー・ドゥーダーという声が聞こえたと言い出した。

近くまで来て一度鳴り止んだが再開した曲は高らかなトランペットに合わせた賑やかな楽曲、横浜でフランスの航海士たちがマルセイユで覚えてきたばかりの新しい曲だとグランドホテルの庭で演奏していた曲だ。

タブローズ・デュヌ・エクスポジション(Tableaux d'une exposition)のプロムナードで盛り上がると楽隊はリモージュ・ラ・マルシェ(Limoges - Le marche)に移った。

その音はワシントンストリートからパムの家の丘へ登ってきた。
玄関先で賑やかな演奏を続ける馬車を3人が出迎え馬車から下りてきた陽気なカエルに緑の帽子の笛吹き達を拍手で歓迎した。
馭者席には黒人の青年が手綱を持っていてリナルドを先頭に5人のカエルに笛吹き男が勢ぞろいして「パムおはようございます」と挨拶した。

「おやまぁあなたたちなの。扮装に気をとられていて判らなかったわ」

「今日はアキコとヒナを歓迎するパレードになりますよ。僕達で最後までお預かりしますのでご安心ください」
大げさなくらいに挨拶をして緑の服に紙で作った50センチ近い緑の帽子の2人をこの間の幌馬車から幌をはずしたらしく骨組みだけの馬車へ乗せて演奏を合図に黒人の青年が馬車を出発させた。

男たちはフォスターの曲を演奏しそれに合わせてジムと名乗った黒人の青年とヒナとアキコが大きな声で歌いながらカレッジに向かった。
スチューデントにハイスクールの学生がプロフェッサーと呼ばれる名物教授を中心に30人ほど集まっていた。

リナルドたちを見つけるとヒナとアキコを大きな声で呼んで「ヨシカたちも来るそうだね、君達6人はフラッグの列の先頭を歩いてもらうよ。リナルド君、君達楽隊は其の前だ、後ジミーたちは黒人に変装だ僕と一緒に最後尾を歩くんだ」と面白おかしく支度をさせた。
黒人のジミーたち8人がわざわざ黒人に変装している様子が可笑しくて教授はくすくす笑いながら学生のリーダーと集まってくる学生に次々に並ぶ順番の場所へ送り込んだ。

「トイレは此処で済ませるんだぜ。コモンへ着いてからだと順番待ちで大変だぞ。男は隠れれば其れで済むがレディはそうは行かんぞ」
そんな事も教授とリーダーは大声で告げていた。

今日のカレッジでの売店の支度に忙しい学生は明子たちに売り物のドーナツを特別に持ってきてくれ「こいつはいま揚げたての奴だ、どうせ朝食を食べる閑もなかっただろうから今のうちに腹をなだめておきな」と6つのドーナツをタマの手に乗せた。
アキコには独立時の円形の13の星がきらめく星条旗、そしてヒナも含めたハイスクールの女学生達は様々な年代の国旗(The Flag of the United States)、ヨシカとツネも予定時間前についてボストンの市の旗にマサチューセッツ州旗を持たされた。

先頭はカレッジやハイスクールから選ばれたことさら大男たちが校旗を二つ守るように並びその後にハイスクールから選ばれた特別のフラッグ持ちの男女4人、4人は交互にフラッグをかざして相手と交換しながら派手やかに行進する花形だ。
その後ろに楽隊の30人が続き、明子たちハイスクールの女子学生が持つ26本のフラッグ、その後に先生や扮装を凝らした学生が連なってコモンへ向かった。

プロフェッサーはいつの間にか緑色の鬘と長い顎鬚を取り付け腕にはカレッジの印の緑の腕章を付けていて一番後ろをジミーたちに囲まれて歩いていった。

8時半にカレッジを出てコモンへ40分かけて到着した一行はパレードの責任者の指示で決められた場所で10時の出発時間を待った。
5分前に8人の騎馬警官が公園を出てそれに従うようにパトリック・コリンと其の支援者が続き、様々な扮装の男女が三々五々と続いてビーコンストリートへ出て行った。

金色の州会議事堂では議員たちも大勢パレードに声援を送っていた。
スクールストリートへ入り市庁舎前の群集に手を振り狭い道を抜けファニエル・ホール(Faneuil Hall)に向かった。
ホール前の広場には正装の紳士淑女もいれば街のおかみさん、水兵、商船の船員に混ざり子供たちもパレードを見に集まっていた。
角を曲がるとホールの最奥部の塔天辺に有る金色のグラスホッパー・ウェザーベイン(バッタの風見鶏)が陽に映えていた。

そしてクインジーマーケットの大きなドームが威容を誇り馬車の上から声援を送る人も数多くいた、西側入り口にはローマ式の円柱が立ち並び市場とは思えぬ壮大な建物だ。
マーケットの東側に回ると此方にも4本のローマ式円柱が威容を誇っていた。

そして大きなボストン税関(Custom's House Tower)のギリシャ式円柱(Grecian Doric)が聳え立つ前階段にも数多くの人垣があった。
アキコは歩きながら数えると柱は12本、そのうち6本は入り口までの階段があるが見物の人で階段の数まではわからなかった。
その税関前を通りキルビーストリートで左に曲がりフランクリンストリートまで進んだ。
このあたりはイタリア系と清国からの人が多く住み、さまざまな衣装に身を包んだ人が見物に出ていた。

ボイルストン・ストリートまで進んでコモンで散会するとプロフェッサーを先頭にカレッジまで行進したがこの列には校内の催しに行こうという人たちも加わりスタートした時より3倍以上に膨れ、行列はサウスエンドのウォルサムストリート(Waltham S t)の曲がり角手前に有るサイクロラマビル(Cyclorama Building円形パノラマ劇場)付近では沿道の人も加わり次々に星条旗(星のきらめく旗Star-Spangled Banner)を歌いだした。

プロフェッサーを先頭に37のスターがきらめくフラッグが高く掲げられていた。

Oh, say can you see by the dawn's early light
What so proudly we hailed at the twilight's last gleaming?
Whose broad stripes and bright stars thru the perilous fight,
O'er the ramparts we watched were so gallantly streaming?
And the rocket's red glare, the bombs bursting in air,
Gave proof thru the night that our flag was still there.
Oh, say does that star-spangled banner yet wave
O'er the land of the free and the home of the brave?

円形パノラマ劇場The building was built in 1884 by Charles Cummings and Willard Sears. 

ワシントンストリート付近まで出店が出ていて「揚げたてドーナツは家が一番だよ」「ピッザは俺たちが一番うまいぜ」などのスチューデントに混ざり「フランクフルトサンドはいかが」と可愛い声をあげているのはチロル風の衣装に身を包んだハイスクールの生徒だ。

列から出ては顔見知りから何か買い上げてくる物も多く歩きながら歌いながら口をもごもご蠢かしていた。
ワシントンストリートとハリソンアヴェニューの間の道ではボードビルを披露する人ギターやバイオリン、バンジョーを抱えて歌う人たちで大賑わいだ。

ハイスクール側から校内に入るといい匂いが鼻をくすぐった「ニンニクと牛肉を焼いているのかしら」隣にいたキャスが今にも食べに行きたいそぶりで鼻を蠢かした。

「ステーキの屋台なんてあるかしら」
ドリーとジャッキーもプロフェッサーの「資材係に備品の返却が済んだら適宜解散」という声でフラッグを集める場所へ一目散に駆け寄ると係りに渡して何処かへ行ってしまった。

明子たちは8人ほどで固まり「今日の支払いは私持ちよ好きなものを買って良いわ」とヨシカにモーガン・ダラーを10枚とワシントン5枚を渡して「私とはぐれたら後はこれで支払いをしてね」と預けた。

「まぁ15バックも預かっていいの。アキコの太っ腹」

キャスは笑いながら「あたしたちもご馳走になっていいの」とジャンと笑いながら聞いた。

「勿論よ、お小遣いのほかにこういう時の資金も私が運用してるのよ。今日は全部で50ドルまで使えるわ」

「先に教えてくれればドリーたちもへばりついていたのにね」
ジャンは可笑しくてたまらないという顔でタマの肩に手をかけて笑い出した。

「先ずはおなかをなだめにバイキングをしてる匂いの屋台へ行きましょうよ」
先ほどの肉が焼けるにおいがした屋台へ出かけた。
其処ではミンチ肉と玉葱を炒めていて20セントでトーストの上に乗せて出していた。
食べにくそうにしてかぶりつく人が多い中で明子たちは耳をちぎって先に殆どの肉を食べてからトーストを食べて隣のホットジューススタンドでオレンジジュースを温めたものを10セントで買い入れて飲んだ。

「ロールパンのほうが食べやすいのにね。お次はフランクフルトサンド、それともピッザ」
ジャンは女性とは思えぬ健啖家でもう次を催促しだした。

「ところでリナルドたちがどこかに見えない。あの人たちにもご馳走しないと」

「スチューデントはほっておきましょうよ」
キャスはそんな事を言ってタマの手を引いて歩き出した。
フランクフルトサンドはロールパンにフランクフルトを揚げた物が挟まれていて隣ではコーンの粉をまぶしたものを串に刺して揚げて出していてどちらも人が大勢たかっていた。

校内のレストランにはニューイングランドクラムチャウダー(New England Clam Chowder)と大きなカップから湯気の出る絵が描かれた看板が出ていた。

「やぁ此処にいたか。クラムチャウダーか美味そうだな。わざわざニューイングランドというからには今日掘り出した物でも取り寄せたのかな」
冗談だと判った明子たちは大笑いだ、ニューイングランド地方ではクリーム味、南に下がればニューヨークスタイルのトマト味が定番なのだ。

「ミスターバリオーニご一緒しませんこと、今日はアキコのおごりだそうですよ」

「そいつはいいな、だが俺たち7人もいるが良いのか」
8人もハイスクール仲間がいたので気になったようだ。

「大丈夫ですわ。エレンの料理は安くて美味しいですわよ」
15人も揃って中へ入るとニコニコと実習生のバーバラがやってきた。

「今日も授業なの」

「稼ぐなら出て来なさいよと言われたの。今日は売り上げに応じて手当てが出るのよ。たくさん食べてね」

その日のメニューがリナルドに手渡された。

「クラムチャウダー15人分とイタリアンサンド」

「イタリアンサンドはいくつ15人だと少なくとも4つは頼まないと」

「では4つとコーヒーでいいか」

異論はないようなのでコーヒーも15出してもらう事にした。

アキコとヒナはイタリアンサンドの大きさに驚き手が出せずにいたので「どうした」と聞かれ「もうおなかに入らないわ、フランクフルトに名前もない肉が乗ったパンを食べてきたわ」とリナルドたちにまだ食べられるなら注文して良いわと伝えた。

バーバラが雰囲気を察したかのようにメモを持ってすっ飛んできた。

「デザートは如何ですか、アップルパイが美味しいですよ。トッピングにクランベリーは如何です」

「そいつをもらおう一枚で何人分だろうかな」

「6人が妥当ですよ、そう切り分けていますから」とバーバラがリナルドたちに言うと「あと食べる奴は居るかい」というとジャンが手を上げたのでコーヒーをお替りと8切れのアップルパイと注文した。

お喋りも楽しく時間を過ごしアキコが会計を済ませ、リナルドが「アキコとヒナは4時にこの前に戻るんだぜジミーがその時間に馬車を廻す約束なんだ。では解散」と言うことになりアキコとヒナはジャンとキャスの4人で野外音楽堂へ向かった。

フライド・ドゥや丸いドーナツ、ピーナッツに干しブドウなどの売店が並んでいる場所ではホットなジュースに甘い紅茶が人気のようで子供たちが並んでいた、明子たちはポップコーンを買い入れて先へ進んだ。

其処を抜けると野外音楽堂ではこの間トミーが聞かせてくれたThe Minstrel Boy to the War has goneのギター演奏をしていた。

客席からのリクエストに応じて次々にギターの独奏は続き漸く次の出番のグループが到着したらしくステージはタンバリンやマンドリンにバグパイプ、バイオリンまでが加わった賑やかな演奏と歌が始まった。

4人はたっぷりと楽しんだ後熱いコーヒーを飲みにテントへ向かいそこで出されているサービスのコーヒーを飲んで別れると集合場所へ向かいジミーとリナルドに出迎えられてパムの家に帰った。


治18年(1885年)3月20日金曜日

今日はミーナたちとボイルストンストリート(Boylston Street)の公立図書館へ行く日だ、朝珍しく雪がちらついたが風で何処かへ飛ばされたらしく直ぐ太陽が出て温かくなった。
8時10分発でロスリンデイル・ヴィレッジから南駅へでてオムニバスに乗り込んだ、9時3分前に待ち合わせ場所のYMCAの建物の前で馬車を降りて赤レンガの建物の階段を上がり中へに入るとミーナにジーンが先に着いていた。

各地からの若者がいてアキコとヒナにパレードの時見かけたがジャパンからの男性は多いが女性は始めてだと質問を捌くのに30分以上も掛かってしまった。
子供の頃岩倉使節団の人たちと会ったと言う人もいて日本への関心を持っているようだ。
10時の図書館の開館時間が近づきそう断りをミーナが言ってくれて漸く質問攻めから開放され「ホッ」と溜め息がヒナの口から漏れた。

図書館の入り口が開けられYMCAからぞろぞろと10人ほどがアキコやミーナを間に道路を渡った。
振り返るとYMCAのビルの脇から差す陽射しが明子たちを暖めてくれた。
ビルの東側の角にある丸い張り出し部分がブリガムらしさを見せているので調べてみようという気になったアキコだった。

ジーンによると公立図書館(Boston Public Library)はYMCAに比べてこじんまりしていて手狭になったため新しく立て直すことが決まったそうだ。

美術館(Boston Museum of Fine Arts )の西側にチャールズマッキム、ウィリアムミード、スタンフォードホワイトの3人で構成されるマッキム、ミード&ホワイト(McKim, Mead, and White)が設計を担当する事が決定し、この建物はマッキムのデザインしたルネッサンス様式となる事が1888年に正式決定し1895年にオープンの日を迎えた

道路から2段ほど上がったドアから入りアキコとミーナたち4人は2階へ向かいボストンの歴史とアメリカ史の蔵書を借り出しウォータータウンのジーンの家の向かい側の家について調べだした。

Treaty of Watertown

A Treaty of Alliance and Friendship entered into and concluded between the Governors of the State of Massachusetts Bay, and the Delegates of the St. John's & Mickmac Tribes of Indians.

明治2年生まれのヒナの誕生日はグレゴリオ暦1869年3月23日で月曜日だがタマが30日なので合同で22日の日曜に行うのでパムの家に11時に来て欲しいとミーナに頼んでお友達も呼んでねとお願いして有ったが5人で伺うと今日その確認もした。

船の中で誕生日を迎えたハルの場合50ドルの予算で船長に頼んでお祝いをしたが明子の時に38ドルで出来たので一人40ドルと6人で話し合って決めたので2人分の80ドルの予算での合同会となった、別々にやるよりそのほうが呼ばれるものも日にちが近いので助かるはずだ。
明日はリカルドが来てくれてその買い物に連れて行ってくれる約束だ。

静かな図書館からお昼にYMCAに戻り食堂でサンドウィッチに紅茶を頼んでミーナと色々話し合った。
明子の服のセンスがよいという話しをしてミーナはパリでの新しいファッションや訪れた様々な場所の話を楽しそうに語った。
図書館と美術館はどうしても歴史の長いパリに劣るボストンだがいずれわが国のほうが優れた物になるはずだとアメリカ娘らしい発言に終始したのは仕方ない事だ。

今朝会った青年たちも昼食を摂りに戻り午後はどうするのかミーナに聞いた。

「特に予定を組んでいないわ」

「では此処でコンサートが開かれるから付き合いなよ。フォスターにアイルランド民謡を歌い手に演奏家たちが来て僕らに指導もしてくれるんだ、紅茶が飲み放題でお菓子が付いて3ドルなんだ、収益が出たら孤児院へ寄付するので少し高いのさ」

「参加しようか」とミーナがジーンに聞くと「いいわ」と言うのでヒナも私たちも良いかしらというと勿論さとそのアーノルドと名乗った青年が答えた。

「僕の事はアルノと呼んでくれたまえ君達は愛称で呼ばれるほうがいいのかな」

「先ほどのようにミーナにジーン、アキコとヒナでよろしいですわ」

「ではこの会の責任者の一人が僕で彼はアーチストを探して交渉してくれたアル(ALアルバートAlbert)彼女がアギー(AggieアグネスAgnes)だ。早速会費を頂いていいかい。アギーが会計なんだ」
4人がそれぞれ3ドルを出して渡すと「これがチケットだよ、1時半に上のホールへ来てくれたまえ」と3人は食堂を出て行った。
指定された時間にホールへ上がり入り口でチケットと歌詞カードが交換されて中へ入ると80人ほどの人が集まっていて彼方此方におかれたテーブルから紅茶やコーヒーを注いでビスケットをかじっていた。

「あらケーキかと思ったけど期待はずれかしら」

ジーンが「ミーナはお嬢さんだからそんな事言うけど3ドルでケーキは無理よ」と諭されていた、どちらが年上か判らない2人なのだ。

ハモニカで始まる賑やかなOh Susanaが何の前触れもなく始まり手拍子が起こりいきなり会は盛り上がりを見せた。

I come from Alabama with a banjo on my knee,
I'm going to Louisiana, my true love for to see
It rained all night the day I left, the weather it was dry
The sun so hot I froze to death; Susanna, don't you cry
Oh! Susanna, do not cry for me
I come from Alabama, With my Banjo on my knee.

おおスザンナ、泣かないでくれ
俺はバンジョーを膝にアラバマからやって来た
演奏者たちがふるでもなく一同はコーラス部分で声をそろえて歌った勿論ミーナたちもだ。
フォスターの歌が何曲か歌われ声がでないときは歌い手が人の輪の中へ入りそのグループを中心にまた盛り上がるという風に進んだ。

アイルランド民謡も明子の知っている曲知らない曲と息もつかせず歌い続けられた。
最後はThe water is wideThe River is Wide)が歌われてお開きとなった。
この歌は様々な人が歌い歌詞も様々に変化していると歌う前に解説も入っていた。

The River is Wide Original  The water is wide

The water is wide, I can't swim o'er  And neither have I wings to fly
Build me a boat that can carry two  And both shall row, my love and I  
There is a ship and she sails the sea She sails so deep as deep can be  
But not so deep as the love I'm in  I know not how to sink or swim 
I leaned my back against an oak
   Thinking it was the strongest tree  
But first it bent and then it broke  And that's the way love treated me  
For love is handsome and love is fine  And love's a jewel when first it's new  
But love grows old and waxes cold
  And fades away like morning dew    
When salt sea turns far inland
   And mussels grow on every tree          
When cockle shells make Christmas bells
  Then would I lose my love for thee 
The water is wide, I can't swim o'er
  And neither have I wings to fly    
Build me a boat that can carry two
  And both shall row, my love and I    
And both shall row, my love and I
      

拍手が鳴り続く中アルノが散会の挨拶と次回はスコットランドやドイツのものも取り上げたいと話しをして会は終了した。
アキコはアルノに握手を求めに前に出て「これは孤児院のための寄付金です」と5ドルを差し出し「楽しかったですわまたこういう催しがあるときは呼んでくださると嬉しいです」そう言ってパムの家の住所のメモを手渡した。

「テレホンはないのかい」

「まだ引かれておりませんの。ミセス・ベイルを説得している最中ですわ」
4人連れ立ってスチュアートストリートまで歩きグローブ座(Globe Theatre)で4月に上演されるヘレナモジェスカ(Helena Modjeska)の4月公演の看板を見て一緒に来ようと約束して初日4日(Saturday)の4枚のチケットをアキコが購入した。

現在調べが付くグローブシアターでのヘレナの足跡は1878年3月1879年4月1890年1月しか残されていないがアメリカにおけるシェークスピア、イプセン劇では第一人者だった。
ポーランドで1840年に生まれた彼女は1876年アメリカへ移住しました。

Helena ModjeskaHelena Modrzejewska

ボストン市内にはこの他にハァヌル・ホールに於いて行われたモーツアルトのコンサートに木戸孝允他岩倉使節団が訪れた事があるがThe Howard Athenaeumが一般にはErnani もしくはHernaniとも呼ばれていたので此処であろう。
一行はボードゥン広場に近いリヴィア・ハウス(ホテル・迎賓館)に泊まったと書かれているが何処にあったか不明のままです。
インターナショナル・ミュージック・フェスティバル、1872年夏の世界平和の祝賀会にシュトラウスはボストン市からアメリカに招待され、7月3日センセーショナルな演奏(美しく青きドナウを指揮)を披露しました。

別の資料では岩倉使節団一行は、市内の大劇場(ハァヌル・ホール)で南北戦争終結十周年記念の「平和祝賀大音楽祭」に出席する機会を得た。
五万人収容というとてつもなく巨大な屋根つきコロシアムを造り、ヨーロッパから一流の音楽家を招いた大規模な音楽祭であったという。
ジョニーが凱旋して来る時の作曲家P.S.ギルモアが演出し、ウィーンからヨハン・シュトラウス二世(Johann StraussU)がやってきて「酒と女と唄」を指揮した

(1825年10月25日〜1899年6月3日)

ュトラウス二世1869年初演; Op.333ーワルツ
酒、女、歌(
Wein, Weib, Gesang

ュトラウス二世1867年初演Op.314 ーワルツ
美しく青きドナウ(
An der schonen blauen Donau

「イプセンの人形の家と言うのは知らないけどシェークスピアではボストンで有名な女優なのよ」
ジーンはそう言ってどういう話か先に本を探してみようと話しあった。
2枚のチケットをミーナに預け「開場が7時で8時開演だから6時にどこかで食事を簡単にしませんこと」と相談した。

「良いわね。チケット代の代わりにイタリアンレストランに招待するわ。簡単な安い料理なら1時間で済みます物ね。学生にはそのくらいが身分相応よね」
ではまたヒナのパーティでお会いしましょうねと約束してデッドハム行きのオムニバスでロスリンデイルのパムの家に戻った。

1月12日に横浜を出た明子宛の手紙とパムへの贈り物に最初のアメリカからの手紙を読んで安心した事などが記されていて従道の長男が死亡した事情などが書かれていた。

西郷従理、享年10歳。
1874年(明治7年)10月09日生まれ。
1884年(明治17年)12月10日腸チフスによりワシントンで死去

「かわいそう。まだ10歳なのよ、巌の小父様がなくなる前日にお見舞いに訪れていたそうよ。12月10日だとオマハにいた頃よ。ニューヨークから直ぐワシントンへ行っても巌の小父様が遺骸を送る手配を済ませたあとだったようだわ」
ヒナとその手紙を代わる代わる読み、会うことのなかった従道の長男の冥福を祈った。



話は正太郎のパリから大分ときも過ぎました。
横浜幻想のアンテロープ編の1872年(明治5年)からだと12年後の横浜です。
今回の話の中心は了介と明子になります。
2008年12月05日其の一あとがきより        阿井一矢

2009−04−02 了

幻想と現代社会へ続く歴史の真実との狭間を探してくださいね。
教授からの原稿を小出しながら更新中 アイ


幻想明治 第一部 
其の一 洋館
其の二 板新道
其の三 清住
其の四 汐汲坂
其の五 子之神社
其の六 日枝大神
其の七 酉の市
其の八 野毛山不動尊
其の九 元町薬師
其の十 横浜辯天
其の十一
其の十二 Mont Cenis
其の十三 San Michele
其の十四 Pyramid

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