明治18年(1885年)2月8日日曜日
南京町は春節の準備で賑わっていた、今日は旧暦師走数え日の4日にあたり土曜日が30日大晦日で次の日曜日が旧正月だ。
1月25日大山巌一行は欧州の兵制視察を終え帰朝し、従道は元の農商務省に戻り大山が陸軍卿として仕事を始めた。
27日にはハワイ移民団が横浜を出航した、ヴァンリードが企画した移民より17年ついに官約移民の第一回が実現したのだ。
第一回の移民募集には、予定人数の600人をはるかに超えた28,000人以上の応募があり成人男性682人、成人女性164人、子供98人の944人を乗せたシティー・オブ・トーキョーは2月8日にホノルルに到着予定だ。
このうち山口県から四百二十名そのうち周防大島からだけでも三百名を数えた。
之は井上外務卿に三井物産の益田孝が加わり、日本ハワイ労働移民条約から約定書の起案、移民募集から送出までを進められていて元の先収会社の地租引当米取引の時の繋がりが有った為の様だ。
この時のハワイ国駐日弁理公使(総領事兼全権公使とも)のロバート・ウォーカー・アーウィンは妻に日本女性のイキを迎え娘ベラもが移民団に同行していた。
アーウィンは1898年(明治31年)ハワイの米国併合による弁理公使解任を受けて1901年(明治34年)に渋沢栄一らと共に台湾製糖の創立発起人も務めた。
この日寅吉の元に昨日三菱の岩崎彌太郎が下谷茅町本邸で亡くなった事が知らされてきた。
本邸は元榊原家が家康から与えられた土地で維新ののち桐野利秋の手を経て牧野家の物になっていたが岩崎家で明治11年に買い入れ、其れまで住んでいた駿河台から15年に移り住んでいた。
本郷台地の先端八千五百余坪の敷地にその後も買い増しして最大一万五千坪に達し、明治29年長男の久彌によりジョサイア・コンドル設計の洋館と、大工大河喜十郎の手による和館が建てられた場所だ。
共同、三菱の競争は12月両社の社長を農商務省へ呼び出し両社は運賃、出帆時刻、貨物周旋営業人、乗組員の四点について取り決めをした。
原則同一料金、汽船の速力の制限、海上競争による弊害を断つ、積み荷問屋の自由に両社の扱いをすること。
商務省は両社に協定書を提出させる事にしたばかりでの彌太郎の死去は先行きを不透明にしかねなかった。
天保五年十二月十一日の生まれといわれる彌太郎はこの時数え51才の若さだった。
長男久弥は弱冠二十才(慶応元年10月14日生まれ)、弟の彌之助は三十五才の働き盛り、彌太郎子飼いの優秀な社員多数の精鋭が居るが三菱会社にとって大きな損失だ、長女の春路は二十二才だがいまだ嫁入り先が決まっていない。
ケンゾーが来てその事を話したが今のうちに共同運輸会社に郵便汽船三菱会社の株を買うことを相談し、二人で正太郎にアーサーの資金とマックからお玉さん親娘のための預かり金の内から新たに10万円を追加投資することにした。
「合併話はどうでしょうかね」
「一年は掛かると予測したが十月までに決着がつくだろうよ」
「まだ大分もめると言うことですかね協定はうまくいきませんか」
「協定破りは共同がやりそうだぜ。吉川と近藤を彌之助さんがどうやって納得させるかだろうな」
「合併後はどうします。投資を続けますか」
「新会社の株価次第だが切り替えを含めて50万くらいはつぎ込んで80万を越した時点で半分売れば当分どうなろうと心配いらんだろうぜ。其れより日本鉄道の株はどうだい」
「徐々に人気が出てきましたからあと2年は上がり続けるでしょう。此方ももう少し買い入れましょう」
ケンゾーは大分共同に船を売り儲けたようで羽振りもよいが合併話が水面下で持ち上がっていることをどこかで聞き入れて寅吉と組んでの株の買い付けの手伝いをしていた。
「2年くらいで1.6倍になりますかね」
「其れよりは早いだろう、今の時点から三十ヶ月程でその半分を回収して置ければ資金の不足することもないだろうさ。グランドホテルと違いこっちは儲けを狙う投資だからな」
共同運輸会社資本金六百万円の内政府保有分二百六十万円残り三百四十万円の内百四十万円は固定株主が抑えていて残り二百万円分が相場の対象になっていてこのとき額面五十円に対し六十円を割り込む人気うすだ。
二人は亀田介次郎、浅田又七、中村寅次郎を協力者に30人ほどの名義で三菱会社と共同運輸会社双方の株を買い集めていたが三菱は表立って株の売り買いが出来ないようだ。
「岩崎では合併は仕方ないと踏んでいたようですが」
「そうさこの辺で手を打たないと西南の役での儲けが無くなるからな、従道さんが提示した株式分配で応じるだろうさ。新しい会社も人材は三菱に多く優秀なものが入るだろうから議決権の偏りを無くさないとな。大倉さんに安田は其れほど乗り気じゃないし渋沢さんにしても投資に見合う儲けが出ないと見てるようだ」
「大阪の内藤さんに話しをして見ますか。三菱は共同の株も持っているようですよ」
「俺たちは議決権を持って会社の運営をするわけじゃないからな。上手く売らないと儲けにつながらないかもしれないぜ」
「近いうちに東京に出てきますから話しだけでもして置きますよ」
内藤為三郎後に六麓荘の開発で名を残す関西の富商だ。
日曜日の朝7時、夜明けがボストンに来て朝の祈りの後の食卓で3人は今日の予定を話し合った。
「ウォータータウンの家をまた見にいきたいわ」
ヒナも付いていっても良いわと肩をすくめながら仕方なさそうに言ったがボストン市内の赤レンガの家と違い木造の家たちに親しみを覚えてきたようだ。
「困ったわね今日はスーも私もついて行って上げられないのよ」
「パム大丈夫よ。駅で馬車を雇って回るから」
「それなら良いけど。決して2人だけでうろついては駄目よ」
「ウォンダフルウォデリン(Wonderful
Wandering)」
アキコがつい横浜訛りで叫んでしまうとパムは意味が通じた様で「困った娘ね。誰か手綱を取らないといけないわね」と大げさなくらい嘆いた。
トミーが何処で都合したか昔風に半円の幌のついた馬車でやってきた。
「オヤオヤ、トミーは誰にお熱なんだか」とパムがつぶやきながら窓から眺めると後ろからミーナとジーンというこの間街で一緒に買い物をしていた娘が出てきた。
「まぁ、ミーナ貴方の学校は男性と出歩いても寛容なの」
「あらパム、遅れているわよ。それにトミーを頼んでくれたのはミセス・ジョンソンですわよ。ジャパンから来て街になれない人を案内すると伝えたら直ぐに男性をボディガードに頼みますからと監督役にトミーを選んでくれたのよ。トミーは信頼されているのよ」
トミーはシーズンが始まるまで銀行の警備員に雇われたと話していたがそのことも有るのだろうかとアキコとヒナは思った。
「でもいい所へ来てくれたわ、2人がまたウォータータウンのブリガムの設計した家を見学に行きたいと言い出したの」
「そうだろうと思ったわ。ジーンの家は其のウォータータウンなのよ。パーティの日は家に戻っていたのでこられなかったけどこれからジーンの家に訪問するからアキコを誘いに来ましたの。彼女の家もブリガムの設計よ。そうよねGB」
「ええそうなのスタージス&ブリガムよ、5年ほど前に建てたばかりよ。それに従姉妹の家も同じ人たちに建ててもらっているのよ」
アキコはJが頭文字のJeanと勘違いしていたがジーンは愛称でGeneというスペルだそうでGeorgina
Bridget Vaughan(ジョージアナ・ブリジット・ヴォーン)だと紙に書いてくれた。
男性の場合はEugene(ユージン)の愛称がジーンだそうだが自分がなぜジーンと呼ばれだしたかは両親に聞いても知らないそうだ。
従姉妹はJのジニー(Jeanny)でジャネットだそうでJeannetteとスペルも書いてくれた、異国のものに優しい人たちだ。
「其のジャネット・ビアンカ・キダー(Jeannette Bianca kidder)の父親の銀行に雇われているんだ。GBとJBと彼女たちは呼ばれているのさ」
馬鹿に詳しいのねとパムにからかわれると銀行家のキダーさんの父親と俺の爺様が同僚だったのさと簡単に説明した。
「あのフィッシュアンドミートインスペクターのおじいさんかい」
「そうだよパム、マックと同じfish
and meat inspector(魚、生肉検査官)をしてた時の仲間さ」
突然ヒナがShe is such
a kidder. She's such a stitchと言い出した。
「なにがお茶目で冗談なのヒナ」
「ううん、キダー先生のことを思い出してヨシカたちが言っていたのが口に出てきたの」
ひとしきりミセス・ミロル事キダー先生の事を思い出してミーナたちにバーモント生まれというキダー先生の開いた自分たちの学校とは違うフェリスの事を話した。
Kidder, Peabody & Coの Bank Buildingもブリガムの設計だとトミーが思い出したように言い出したが「Mr.キダーの家はブリガムらしくないぜ。其れに建て直してる様子はないぜ」とジーンに言うとそうよあの家は昔のままですものベヴァリーに今建てている家がブリガムよと教えた。
「ベヴァリーかちょっと拝見というには遠すぎるな。40マイルくらいだな」
パムを訪ねてスーが来てトミーの幌馬車に明子たち4人が乗り込んで出かけるのを見送ってくれた。
トミーはフオレストヒルステーションからジャマイカプレーン(Jamaica Plain)の住宅地に入りジャマイカウェイでジャマイカポンドに集まってスケートをする人たちを見ながら先へ進んだ。
「アキコにヒナはスケートが出来るの」
「たつのがやっとよ。よちよち歩きで人の邪魔になるわ」
「ジーンはとても上手よ。私は早く滑れてもジーンのように優雅さがないわ」
トミーが聞きつけて「後一月は滑れるから機会を捕まえてすべりに来るかい」と相談した。
「3月に入ると滑れないの」
「其の頃は時々温かくなって氷も薄い場所が出来るのさ。池でなくて畑に水を張った場所じゃないと危険だよ」
「じゃそういう場所もあるのね」
「勿論さシティの公園にもいくつもあるよ。ボストンコモンのフロッグポンド(FrogPond)なら安全だ」
明子たちがMr.プリュインに案内されて出かけたときはそんな様子も見えなかったがだいたいの場所は覚えていたので噴水のある池のことかというとそうだと一同が口をそろえ「あそこで溺れる奴は酔っ払いくらいだ」とトミーが大きな声で笑いだした、経験でもあるようだ。
ヒナもスケート用の靴を買いたいと言い出し帰りにこの間のハーベーズによって買い物を出来るかと聞いた。
「アキコお金を持ってきたの。あたしは10ドルしかないわよ」
「ヒナ、靴はそんなに高くないよ。ミーナのように金持ちのお嬢様のような高級品を扱う店に行けば50ドルは掛かるけれどよ」
「トミー私の靴は6ドルよ。そんな高級なスケート靴を履くほど上手じゃないのよ」
ブルックリンアヴェニューからフェンウェイ(Fenway)に入った、ここはバックベイ地区の西側の町でボストン大学の敷地にぶつかると左へ曲がった、チャールズ川は氷が張り川筋は蛇行して遠ざかりオールストンの街に入ると眼前にまた戻ってきた。
川向こうはケンブリッジからウォータータウンに変わりウォータータウンブリッジ(Watertown Bridge)を渡った、ジーンはウォーターブリッジで通じると教えてくれた。
(Beginning as a
ford this river crossing has been spanned by bridges since 1641)
上流にはダム(Watertown
Dam)があり凍りついたようすは美しかった、やはりこれもウォーターダムで通じる堰だそうだ。
(The history of
the dam traces back to 1632 when construction of a fish weir was authorized.)
「明子様ァ蝦夷地というところもこのボストンのような場所でしょうか」
「そのようよ。凾館から着た方が札幌とボストンを比べて雪の事を話してくださいましたが同じような寒さだそうでしたよ」
「では、わたしたち蝦夷地へ移住しても充分やってゆけますわね」
ヒナが日本語で話し出したので明子が蝦夷地の事をミーナとジーンに話、箱館と書いていた街が今は凾館と書くようになったことなどを説明した。
「其の話だとヨコハマではあまり雪も降らないのね」
「そうなのよ。降っても二日くらいでやむし歩けなくなるほどの事もないわ」
「ニューヨークより温かそうね」
「もっと南の町と同じでしょうかしら」
「では雪が殆ど降らないポーツマスと同じくらいかしら」
本土各地とパリへ出た事のあるミーナと殆ど地元育ちのジーンはそういう話で気が合うようだ、話したがりのミーナに聞き上手のジーンは友人として長続きしそうだ。
ミーナが「ガーフィールドストリートを回ってからジーンの家でパンケーキでお昼にしましょう」と言いトミーにも大きな声で伝えた。
「角がわからないから声をかけてくれよ」
明子が馭者席へ移りジーンが首を出して知っている家々を教えだした。
「此処もスーがブリガムと教えてくれたわ」
Queen Anne Styleの綺麗な家は雪景色に映えていた。
「この場所はクーリッジ農場のハーバートさんの家のはずよ。新しく建てなおしたようね」
盛り土をしたのだろうかすこし道から高くなった家はBストリートから回廊でガーフィールドストリートに面した玄関ポーチへ回れるつくりだ。
この手前にはチャールズ・ブリガムが建てた家が幾軒もありこの家の前面は整地はされているが空き地のままだ。
左右非対称で複雑で急勾配な切妻屋根、額縁つきのダブルハングウィンドウ、下見板、レンガ・ストーンがブリガムの定番だ。
壁に張られた煉瓦はベージュ、下見板はホワイトスモーク、羽子板のように突き出た扁平の大きな煙突はダークレッドの煉瓦。
「私はこのハーバートさんの家が好きよ。手前の土地の2軒は屋根のグリーンが綺麗だけど勾配と流れ方が長すぎるわ此方のダークブルーのほうが親しみがもてるわ。この通りでは何度来てもこの家が一番だわ。其れとこの道とは違うけど西にある切妻造でオークル(ocre)の下見板の家が良かったわ」
「アキコそのオークルってどういう色」
「ゴールデンロッド(goldenrod)の花の色よ」
フランス帰りのミーナがつい口に出た明子のフランスの色を説明してくれた。
「其れもしかして私の家かも」
「ほんなのジーン。あの素敵な家に住んでいるの。屋根はダークグレーで赤い小さなレンガの煙突がある家よ。玄関は階段を上がって可愛いポーチがある家よ」
「ポーチドエッグじゃなければ私の家よ。南側が牧草地だった」
「ええそうよ。スーと雪の道を柵に添って裏側へ回って見たもの」
馬車を降りてハーバートさんの家の前の道を行ったり来たりしながらアキコとジーンは興奮しながらこの家と自分の家の違いを話し合った。
「私のところは1メートルの盛り土をして有るけど此処はマウンドになっているうえにさらに盛ってあるようよ」
周りには大きな樹もなく、まして冬なので道の先の丘の上までが見通せた。
其の丘の上には大きな屋敷が有り雪の中でゴルフでもしているのかクラブを振っている人が見えた。
ハーバート家から青年が出てきてジーンに声をかけた。
「やぁ、ジーンなにを皆で話しをしてるんだい。たまにウォータータウンに戻ってきて迷子になったのかな。其方の東洋の人は先週も保険屋のスーとこの近所を回っていたが君達も保険の勧誘かい。それなら温かい居間でお茶でも呼ばれなよ」
どうやらジーンと知り合いらしく冗談のように誘ってくれたので遠慮せず皆揃って暖かい居間へ落ち着かせてもらった。
「上着を脱ぎなよそのままでは汗をかくぜ」
ジーンが要領よくそれぞれを紹介し青年は「俺はベンだ。今お茶を持ってきてくれたのが母親のヴァルで其の暖炉の前の揺り椅子で居眠りしてるのが親父のレオさ」と此方も手早く紹介した。
其のレオ小父さんが立ち上がって「わしゃ寝ておらんよ面倒なので寝たふりをしていたが東洋から来なすったにしては垢抜けておられる」とアキコとヒナを褒めた。
日本風に腰を折って挨拶をした2人は「まあ其の椅子に座りなさい」と自分の近くの椅子を勧められアキコは腰掛けるとブリガムの設計した家に興味がありクィーンアンスタイルの家に興味があると話しをした。
「それでこの間からスーが連れて歩いていなすったか。てっきり新しい保険でも勧めに回ってるかと思って居ったよ。Mr.ブリガムに前の土地を売ったから其処に自宅を立てる計画だそうだよ」
「本当でしょうか、建築が始まったら土台からどのように始めるか見ておきたいですわ」
「それならテレホンで連絡してあげるよ」
「まだ下宿に引かれておりませんの」
「それならスーに連絡してあげるよ。何まだ1年やそこらは先になるようだ」
「留学期間内に出来ればいいのですが」
すこしアキコはがっかりした、自分の家なら手抜きもしない土台から確りとした家を作る事だろうと思ったのだ。
「雪が溶けたら地階部分の掘り下げをやるというからその時にはMr.ブリガムを紹介してあげるよ。家でも建てたいのかい」
「私の父が家を建てるのが好きで同じようなスタイルの家を建てましたがMr.ブリガムが設計図をひいてくださるなら其れを帰国する時のお土産にしたいと考えています」
「おお、そうかいそれなら手助けが出来るよ。Mr.ブリガムと話す機会があればわしからも伝えておくよ」
「ありがとう御座います。この素敵な居間もスケッチしてよろしいでしょうか」
「良いとも」
アキコは用意して来たバインダーから紙を出して暖炉を中心にスケッチを始めた。
15分ほどで綺麗に仕上がるとレオが「どうだいそいつをもう一枚書いてくれるかな」と言い出したので「では奥様とすこしだけ暖炉の傍へ立って頂けます。2分ほどで結構ですので」
フライド・ドゥを持ってきたヴァルをレオと暖炉の両脇に寄りかからせて自分の絵に2人を描き添えると其れを参考に顔はレオとヴァルを盗み見しながら修正して描きあげた。
他の者がコーヒーでフライド・ドゥを口に運んでいる間も熱心にペンシルを走らせて絵に陰影をつけた。
「こいつは素敵だ額にでも入れて飾らないといけないな」
大分褒められてアキコは大テレだ、自宅にある多くの絵でデッサンの練習をつんだ甲斐があるというものだ。
前回の時にスケッチした物を仕上げてあり其れを見せるとぜひ欲しいと頼まれて其れも差し上げる事にした。
「いいの」
ヴァルがレオの旺盛な欲しがり方に心配そうに聞いてくれた。
「この間の下書きもありますし今日訪れた事でもう一枚書くのは簡単ですわ」
アキコが気前良く差し出したのでレオは「また来た時は遠慮なんかしないでドアを叩くんだよ」とまで言ってくれた。
ハーバート家を出て丘の上の家の前の道を西へ進みコモン通りを下ってスプリング通りへ出た。
マーシャル通りへ入りすこし上ると其処がジーンの家、ゴールデンロッドの下見板が雪景色に映えていた。
納屋の前に幌つき馬車を止めて馬を軛から外してジーンが納屋の中へつないだ。
台所から母親らしき人が出てきて顔見知りのミーナに挨拶をしていたが寒いから早くお入りとジーンに声をかけて其処から一同を迎え入れた。
ジーンがトミーにアキコ、ヒナと順に紹介してテーブルに座らせた。
お茶を入れてくれて落ち着いたところでジーンとミーナがパンケーキを焼く仕度をしている間にブリガムの事について幾つか質問をしたがママンは快く話しをしてくれた。
「この付近はスタージス&ブリガムの建てた家が多いのさ。それと前の2軒もそうだよ」
「エッそうなんですか、スーはブリガムさんのお母さんの家と言うのは教えてくださいましたが南側のどっしりした家はブリガムらしく有りませんわ。スーはこの家でTreaty of Watertown1776が結ばれたと教えてくれましたが」
「そうなんだよ。私とした事が説明不足だったね。前は表通りのマウントオーバンストリート(Mount Auburn Street)に有ったのをブリガムさんが買い取って家族の住まいにしたのさ。ジョージワシントン、ジョセフウォーレン、エルドリッジジェリーそれとベンジャミンフランクリンだったかね其の家で独立戦争の会合が開かれたり、戦争後の各条約を結んだと教わったよ。誰の建築かまでは知らないよ。此処へ移したのは8年位前さ」
ママンは指を折って数えながら話しをしてくれた。
ウォータータウンで現存する2番目に古い家で1772年(1770年とも)、建築はジョンポンド(John Bond)といわれている。
ウォータータウンで一番古い家はThe
Abraham Browne House (built circa 1694-1701) is a colonial house located at 562
Main Streetだそうだ。
ミーナがこの家でジーンの母親のナンシーをフランス風にママンと呼んでいるので明子もそう呼ぶことにして「ママンはこの土地生まれなの」と訊ねた。
「ジョンホイットニーから続くホイットニーさファミリーネームが違っても200年以上は入植してからたってるね。イーライも同じ家系だよ。私の先祖はサラ・ホイットニーの娘のサラ・ボールと言う人だったそうだよ」
ジョンホイットニーはアデレイドとクララの姉妹やホイットニー先生の話からイギリスからの移民だと聞いた事があったがママンに拠ればこのウォータータウンでジョンは亡くなったそうだ。
話の様子ではジョンという先祖がいてもアメリカ移住以前には繋がりのある家系らしいが親類としての話しは聞かないと言うことだった。
「今度の大統領は海軍長官にホイットニー家の者を任命するそうだよ」
ウィリアムコリンズホイットニーは85年から89年まで海軍長官を務め退任の後は事業と競馬に其の名を残した。
イーライは綿繰り機の改良などに名を残した実業家だ。
噂話は好きなようでホイットニー一族の有名人にキダー一族の有名人などについて多くの話しをしてくれた。
話しが一段落する頃には人数分のパンケーキが焼き上がり蜂蜜をたっぷりかけて紅茶で食べる事が出来た。
「美味しいわ」
アキコとヒナがミーナとジーンの労力に報いる賛辞をたっぷりと言うと2人も嬉しそうだった。
ママンがサコタッシュもたっぷりと深皿に入れて出し若い5人が其れを美味しいと食べる様子をニコニコと眺めた。
その日の明子たちにはナンシーが付き添ってメアリー・ブリガムが住む可愛い住宅とコロニアルスタイルとアン王女朝様式の混ざるエドワーズさんの家を回った。
どちらも遠い異国から来た2人の少女を歓迎し居間や食堂の造作を喜んで見せてくれた。
エドワーズさんの家は2家族が住む大きな家でジーンの家とは大分趣が違った。
帰りに寄る予定のスケート靴の購入は諦め土曜の午後にトミーと約束し、川を渡ってから馭者席でトミーがアイリッシュの民謡を歌ってくれた。
O Paddy dear, and did you hear the news
that's going round?
The shamrock is forbid by law to grow on Irish ground.
And Saint Patrick's day no more we'll keep, his color can't be seen.
For there's a bloody law against the wearin' of the green.
I met with Napper Tandy and he took me by the hand,
Ahd he said, "How's poor ould Ireland, and how does she stand?"
She's the most distressful country that ever you have seen,
They're hanging men and women there for wearin' of the green.
ジーンの求めでもう一曲続けた。
The Minstrel Boy to the war is gone
In the ranks of death you will find him;
His father's sword he hath girded on,
And his wild harp slung behind him;
"Land of Song!" said the warrior
bard,
"Tho' all the world betrays thee,
One sword, at least, thy rights shall guard,
One faithful harp shall praise thee!"
And said "No chains shall sully thee,
Thou soul of love and brav'ry!
Thy songs were made for the pure and free,
They shall never sound in slavery!"
アキコは何か歌えるとミーナに言われてフォスターの歌ならと出だしを口ずさむとトミーが歌えるものは皆で歌おうとオールストン(Allston)からジャマイカポンドへの道をたどりながらフォスターを何曲も歌った。
オースザンナ(Oh Susanna)、キャンプタウンレース(Camptown Races)そしてトミーもお気に入りだというジェニーウィズザライトブラウンヘアー(Jeannie
with the light brown hair)は何度も繰り返された。
I dream of Jeannie with the light brown
hair,
Borne, like a vapor, on the summer air;
I see her tripping where the bright streams
play,
Happy as the daisies that dance on her way.
Many were the wild notes her merry voice
would pour,
Many were the blithe birds that warbled
them o'er:
Oh! I dream of Jeannie with the light brown
hair,
Floating, like a vapor, on the soft summer
air.
JEANNIE WITH THE LIGHT BROWN HAIR後にNがひとつ名前から省かれた。
19世紀アメリカ最大の歌曲作家は、スティーブン・コリンズ・フォスターだ。「おおスザンナ」(1848)、「草競馬」(1850)、パーラー・ソングの「金髪のジェニー」(1854)、「夢みる人」(1864)などが有名だ。
ジャマイカプレーンに入る頃にはマイオールドケンタッキーホーム(My Old Kentucky Home)を歌う一同は寒さを忘れていた。
Weep no more, my lady
Oh, weep no more today!
というコーラス部分は女性陣が、其の後を息が合って来ていたトミーが続けて独唱した。
We will sing one song for the old Kentucky
home
For the old Kentucky home, far away
そして何度も五人で賑やかに其の部分を繰り返しながら丘の家についてパムが入れてくれたシナモンコーヒーとターキーのサンドイッチを食べながら今日の報告をした。
陽も暮れトミーがせかしてミーナとジーンをたたせると15分やるからでてくるんだぜと馬車へ向かった。
カンテラが灯され3人が見送る中を幌馬車は街へ向かってゆったりと去っていった。
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