横浜幻想
 其の二十一 Tour de Paris 阿井一矢
ツール・ド・パリ


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Paris1873年10月6日 Monday

正太郎は日本の旧暦のカレンダーに従えば今日は中秋の名月、満月の下でさつまいもにサトイモや果物を盛ったかご、お月見だんご、ススキを活けた花びんを並べて月の下で遊ぶ話をした。

「この間のタナバタと言うのと似ているのね」

「そうなんだよ。去年は忙しさで忘れていたけど来月は十三夜と言うのも日本では祝っているんだよ」

「でもジャポンでは暦が変わって何時やれば良いかを調べるのが大変ね」

「まだ昔の暦が使われることが多いから忘れることにはならないだろうけどね」

モンルージュでノエルが正太郎とエメに8月29日のタナバタにあわせて28日に2人を招待したように、この日もモンルージュに呼ばれていたのだ。

タナバタの時には子供たちの試験の結果も出ていて全ての合格が決まって楽しい宵を過ごしたのだ、今日は1日から始まった新しい学校へ次第に慣れてきて其の報告も聞けると正太郎にエメも其の招待を喜んで受けた。

タカのエコール・エレメンタールはモンルージュの家から1200mほどでノエルが送り迎えしていたが友達も出来、遠くから馬車で来る人が寄ってタカを乗せて行ってくれることになった。

ミチとソフィアはリセ・サン・ルイにそしてマルティーヌはデカルト学校改めリセ・ルイ・ル・グランへ通うことになった。

幸い家から100メートルほどの場所にオムニバスの停留所が出来4キロあまりの道を歩かさせずに済むことになった。
路線は乗り換え無しでソー公園とストラスブルグ駅東駅)を結んでいた、最近公園付近に新しい家が増え市内への通勤の人が増えるのを見越した路線だ。

エコール・サントラルに入学した清水誠やリセ・ルイ・ル・グランへの再入学を果たした野村小三郎とリセ・アンリ4世へ通いながらアコラス教授の私塾へ中江篤助を誘って通いだした西園寺の4人も呼ばれていた。

6時に正太郎とエメが着いた時には庭にしつらえた台の上には花や供え物が綺麗に飾られていた。
西園寺は一度来たことがあり中江と野村を連れてくるとの事だし、清水はもう3度ほど訪れて居るそうで歩いて先に来ていた。

「先生お久しぶりです」

「オオ、ソフィアか大人になったな」

「先生こそどうしました馬鹿にふけて見えますよ」

「この髭がいかんようだな、いまさら剃るのも面倒だしな」
そんなやり取りをしていたようだが手を引かれて庭へ連れてくるとマルティーヌたちに自分のフランス語の先生だった中江先生と紹介して回った。

西園寺は新納も丁度家に来たので誘いましたとノエルに断りを言っていたがノエルは嬉しそうに新納に「よく来てくださいました。今日は楽しく宵を過ごしてください」と子供たちを次々に紹介した。

もうじき日没だが空は明るかった、人が揃うの待っていたカントルーブ夫妻がパンチと熱いプンチュを配った。
月見団子は米をすり鉢で細かくしてから蒸した物、横浜から持ち込んだ小豆を甘く煮て団子とともに小皿でそれぞれに出された。

「こいつは良いですね。熱いお茶も欲しいですね」新納と野村を筆頭に甘い餡子につけた団子をほおばって嬉しそうだ、ミチは日本茶も配ったのでプンチュをやめて其れで団子を食べるうちに7時を過ぎてようやく東から月が上がってきた。

此処モンルージュはビュット・カイユから続く丘でさえぎられてパリの街は見えないが、北側にはカペラがパリの街の灯りに負けずと輝き、中天には白鳥座が見えていた。

清水も今日は口が軽くミチやタカと楽しく喋り、マルティーヌを交えて薔薇の話をしていたが野村を呼ぶと数学の難しい事を聞いては其れをミチに通訳させてマルティーヌに解かせようとして困らせていた。

「小三郎君の頭の中はどうなっているんだ。そんな高等数学が簡単に解けるとは普通じゃないぜ」

「そうですかね。その代わり歴史や化学は苦手なんですよ」

「しかし数学と化学は似たようなものだろ」

「そうは行きませんよ。あれサントラリアンの清水さんがそんな事言うのはおかしいですよ。理工学部でしょ」
清水はマルティーヌだけでなく野村もからかっているようだ。

中江はソフィアと西園寺の三人で哲学的な討論を始めたが、エメが話しに入って話題を日本のかぐや姫に振ると中江が其れに乗り、御伽噺から様々な民話を聞かせ、其の周りに全員が集まって様々な質問をするとすぐ答えるという風に中江の話はどんどんと広がっていった。
日本語とフランス語が混ざった会話は月見にふさわしく幻想的でも有った。

パタトゥ・ドゥス(patate douceサツマイモ)とポティロン(potironかぼちゃ)のてんぷらをミチが揚げて出してきた。

塩をつけておいしそうに食べシャンペンを飲み、鳥の丸焼きをノエルが切り分けて配り、ノエルとエメが交互に奏でるマンドリンに載せ日本の歌を客の留学生たちそれぞれが披露して気が付けば10時を過ぎていた。

「ショウ、ヴィエンヌではウチワとセンスが売れるそうだね」

「凄い勢いで売れているそうですよ。ジョゼフィーヌ街へ9月に公使館が移転した後、人員を増やすのに前田さんが3等書記官に雇われて聞いてきた話では8月には1日3000本のセンスが売れた日があるそうです」

「少し大げさに聞こえるが本当かねぇ、それでショウのほうへ追加の注文が来たのかい」

「まだお金が入らないので困っているのに追加は困るのですがね、長田さんと前田さんに泣きつかれて新しく着いた荷全てを其のまま廻しました」

「今度はいくつくらい送ったんだい」

「ウチワが5000本とセンスが6000本です。少し多いかと思いましたが前田さんの話だと在庫がもう10日も持たないと言うので1日に特別貨物で送りましたから今日にはヴィエンヌの会場に着いたはずです」

「それで未回収の金は幾らくらいなんだね」

正太郎は手帳を調べて西園寺たちに話した。

「7月までの分がウチワ3400本にセンス3660本の一万八千四十フランで8月がウチワ12000本とセンス12000本で六万フラン、今回のウチワが五千フラン、センスは二万四千フランです。今までのをあわせると十万七千四十フランですね。全部回収できても五千フラン位の儲けですかね、他の物は二万フランと横浜で言うので其のまま請求しましたがどうなりましたやら
次々に追加され正太郎が送り込んだ分だけでウチワが二万四百本、センス二万一千六百六十本にのぼっていた。

「十二万七千フランの未回収は大きいね、半分儲けならともかくそんな利益では困るのだろ」

「仕方ないですよ、お国のために頼むと公使にも言われたことですし」

「半分でも払ってもらえるように鮫島さんにも言っておくよ」

「半分はともかく7月までの分が入ればいいのですが。清国からも来ているでしょうになぜ日本のセンスに人気があるのでしょうね」

「日本のもののほうが繊細だからかもしれないよ。シーヌのものは派手だからね。博覧会も後一月か」

「ええ、11月の2日までと聞きました」

センスにウチワも最初はそれほど売れずヴィエンヌの方で日本への追加はしたが間に合わず7月に入って大量に売れ出して慌てだしたのだ、其れまでは1日100本程度だったのが日を重ねるうちに売れ出してきたのだ。

正太郎のほうがフランス郵船で定期的に入るのに博覧会で追加した荷はまだ着いていないそうだとフランス郵船のM.ブリュツクは言っていた。

正太郎が横浜へ送るプペ・アン・ヴィスキュイとドレス人形は売れ行きがよく追加も送り出したので其れと相殺する形で鶴屋からの扇子と団扇を買い入れているがM.アンドレの渋い顔は続いており正太郎も困っているのだ。

中江に新納もソフィアたちと話が弾んでいたが何時までもというわけにもいかず名残惜しげに家路につく中、清水は正太郎が馬車に乗せて送った。

モンパルナスの駅と墓地を見下ろす丘の上から見るパリは明るく輝きエメは正太郎に身を寄せながら孤児院ラントルポへの寄付についてサラ・ボードゥワンとロレーヌ・アフレが下着のほかに制服を寄付した事を話した。

翌日7日の新聞にはパリ周回のバイシクレッテレースがミショーの協賛で行われると大々的に書かれていた。
参加費は1名100フラン、主催はパリ・ガゼット、優勝賞金5000フラン。

正太郎とエメはその新聞を持ってソルボンヌでダンを探した。

チームを組んで参加をしないかという話をするためだ、リヨンでは3位と5位に入った2人を呼び寄せて4人で組んで頭を狙おうという作戦だ。
ダンは其の話に乗り気でどれで勝負するかを正太郎に早速聞いてきた。

「ペニーファージングの優位は変わらないだろうけど、パリジェンヌ商会の後輪駆動式を試すいい機会だから僕がそれでいけるところまで引っ張るよ。後は3人の力量を試して力のあるものを最後まで温存するようにして誰かがチャンピオンになれるようにしたいのさ。リヨンでの経験をあの2人が活かしてくれればいい結果が得られるさ」

「そうだな最初から頭を引っ張っていては疲れるだけだからな。パリジェンヌ商会ではもうチェーン式を開発できたのかい。それで向こうからは何時此方にこらせられる」

「仕事も有るからレースの5日前くらいだね。一度リヨンへ出かけて向こうの走り方との調整をしないか。其れでチェーン式だけどまだ試作分の3台しかないんだ、イギリスでもチェーンの製作が手作りな物で月に20本しか出来ないらしいのさ、とても売るまでいかないんだ」

「良いだろう。金曜から3日間ショウもいけるなら一緒に行こうか」

「では金曜の朝の特急で出かけようね。レースは26日のディマンシュだからコースの勉強を少しずつして何処で誰が前にでるか調べようね」

新聞を渡して正太郎は1人でDDに戻って今月の予定をMomoに話して事務所へ向かった。
M.アンドレと新聞の記事を地図で印をしてからカミーユ・ローランの店へ向かい連れ立ってエドモンに会いに行った。

エトワール凱旋門からオートゥイユ競馬場へ向かいフレール・ド・ポン・ベルシー(frere du pont Bercy)と呼ばれるオートゥイユ鉄橋でセーヌを渡りモンパルナス駅へでてオーステルリッツ駅へ向かうのだ。

駅は東側の鉄橋で越してベルシー橋で再びセーヌを越してリヨン駅を過ぎてオーステルリッツ橋の際からプラザ・デ・ラ・バスティーユへ入り、レピュブリック広場へ向かうとストラスブルグ駅(東駅)はすぐ其処だ。
隣の北駅を過ぎればクリシー大通りを一路西へ進みサン・ラザール駅の北側の鉄橋を越せばすぐ其処にはモンソー公園。
其の先1キロを左に曲がれば500メートルでゴールのエトワール凱旋門で此れを2周するのだ。

規則は同じ者が全行程を乗る事、車の故障は他車種とも交換が可能だが4箇所(オートゥイユ鉄橋・モンパルナス駅・ベルシー橋・モンソー公園)に配置された審判員の場所以外では認めないと決められていた。

「新聞では1周が24キロとして有るけど角を曲がるのに相当スピードを落とすようになるだろうから事故を起こさないように走るのが大切だろうね」
正太郎が地図を見ながら説明してチームとしてShiyoo Maeda & Danとして登録するけど3軒のマガザン・デ・ラ・バイシクレッテが協力して参加することにしたいのでぜひ仲間に入って欲しいと頼んだ。

「ぜひやらせてください。ミショーはこの際ペニーファージングを打ち負かして自分の製品の名をあげようとするのでしょうが、まだショウが言う形式の開発は出来ていないでしょうからチームを組んで走れば勝てる事は間違いありませんよ。ただペニーファージングのチームが多く出てくれば角を曲がるスピードの勝負でしょうね」
カミーユ・ローランはそう言ってエドモンと握手して協力を誓った。

「其れと交換だがミショーに有利な条件に見えるが僕らも各審判員の場所に人を置いて替えのペニーファージングを置きましょう」

エドモンもバスティアンにも休んでこちらへ出てくるように言ってくださいと正太郎に頼んだ。

「良いとも彼にも彼の店員にも話をしていい成績を取ろうね。僕はこれからパリジェンヌ商会へいってくるからね」
正太郎はオリビエ兄弟に協力とバイシクレッテの自分用の分を受け取りに向かった。

オリビエ兄弟は事務所で地図と場所を検討してオートゥイユ鉄橋・ベルシー橋に替えのバイシクレッテを配置して最初のオートゥイユ鉄橋が無事なら其れをモンソー公園へ持っていくことになった。

「カミーユとエドモンとも話あってメンテナンスは任せておきな。とりあえず1台は持っていって練習しなよ」

「ありがとうそうするよ。こいつががもう少し安く手に入ればいいんだがね」

「チェーンだろ。あとも送れと言っているんだが手作りな上に高くてな。一応パリでの特許と販売権は取ったが1台分で200フランではどうにも為らんよ。一応30台分は来るんだが何時になるか約束も出来ないのさ」
チーム名はShiyoo Maeda & Dan で登録すると話し早速登録してくることにした。

ヴァンドルディは10日、正太郎はダンとリヨンに出て何時ものホテルに部屋を取ると早速バスティアンに会いに出かけレースは26日のディマンシュで20日にはユベールとポールにパリへ出てくるように頼んだ。

「任せてくださいよ。僕はこの間5位でしたが、ポールと組んでショウやダンを勝たせて見せますよ」

「いや違うんだ。最初僕がいけるところまで引っ張るからね。次は曲がり角が多い場所をモンパルナスからバスティーユの間をダンが引っ張ってこの最後の角が少ない区間を君たち2人が協力して突っ走って欲しいのさ。明日とあさってダンと僕も一緒に走るから其の連携を上手く覚えて欲しいのさ。其れでパリに入ったらコースの角を上手く曲がれる速さを覚えて何処で減速するかを覚えて欲しいんだ。それからエドモンがバスティアンにも早めにパリへ出るようにと言っていたから金曜から火曜までの5日間店を閉めてくれるかな」

「判りました今から店に張り紙をしてその日を休むと客に覚えてもらいましょう。しかしレースに出るというからには負けないようにがんばって呉れよ」

「任せてくださいよ。本当は僕よりユベールのほうが力はありますからね。あの時もチャンプの仲間に妨害されなければ彼が優勝でしたよ」
2人はお互いの力を認めてその様に相手を称えると言うことはチームを組む仲間として最適だと夜の食事をしながらダンも太鼓判を押した。

翌朝4人は店をバスティアンに任せペニーファージングを連ねてアントワネットの丘を越えてこの間遊覧船が向きを替えたローヌ川が湾を形成した場所まで出かけた。

「これで12キロくらいかな」

「そうです、丘越えで26分ならまずまずでしょね。力を出し切っていませんからもう少し早く出来ますね」

「そうだねパリは二周だからほぼ50キロ僕は95分で回りたいんだよ。最初の1週が50分2週目は45分と見ているのさ。ダンはどう思う」

「90分で周れば勝てるだろうさ」

「ダンはそのくらいで走れるの」

「半分ならな」

「やはり最初はセーブして二週目にかけるかい」

「其のほうがいいな。だがセーブすると言っても先に飛び出す奴が居たらある程度は追いかけないとな。1週目にやった方法を二週目も取るにしても誰が合図をして追いかけるかだな」

「普段あのあたりを走っているダンが合図を出す役目にしたほうが良いよ。僕が出来るだけ引っ張るけど二周目はもたないかも知れ無いからね」

「情け無いこと言うなよ。お前が参加したいと言い出したんだ。凱旋門に戻った時に遅れてしまっては後のものが困るから二周目のモンパルナスまではがんばってくれ」

「判った、一度パリで廻って今日程度ともう少し早く廻るのをやってから作戦を決めようよ」

「そうだな。帰りはもう少し早くして走るか。君たちは大丈夫なんだろ」

「目一杯なら5分は早く出来ますよ」

「では丘の向こうまではもがいてくれたまえ。僕たちが着いていけるか試してみよう」

「では丘の向こうのアンドレ・ギヨーの園芸場が止まりやすいですからそこまで行きましょう」
ユベールが先でポールがあとから踏み出して黄金色に輝く麦畑の中を南へ進んだ。

大回りする形で丘を登り、降りに掛かるところで50メートルほどポールが出て正太郎はダンの後ろから一気に前に出ようとしたがユベールに前を押さえられて其のまま丘の下のアンドレ・ギヨーの園芸場についた。

「いい走りだったよ。今みたいにユベールがあとの者を抑えられれば頭をとれそうだ」
ダンは正太郎に10メートルほど遅れただけだが一番息が上がっていないようだった。

「ショウが其の勢いで二周目をモンパルナスに入るところまで引っ張れれば勝てるかもしれないぜ」

「今の様子ならダンが最後のほうがいいのではないですか」

ポールがそういうと「地図を見ただろうがモンパルナスから先は道が何箇所も急に曲がるんだ、其処を僕が受け持つほうが良いよ。後は夕方もう一度同じ道を走ってみよう。今度は先頭を変わるタイミングをどうやって知らせるかを勉強しよう」

リヨンでは3人の織物留学生の帰国が決まったが常七、伊兵衛は来月3日の便でマルセイユを離れ、忠七は残って機械織りの勉強と日本で作る場合の経費を調べることになった。

正太郎とダンはディマンシュにパリに戻り、ユベールとポールがパリに入ったらメゾンデマダムDDでの合宿をして練習に励んでもらうことにした。


Paris1873年10月21日 Tuesday

メゾンデマダムDDではサラ・リリアーヌが引っ越した後の空いたままの部屋へ20日の夜にリヨンから来た二人を迎え入れた。

マルディの朝7時薄暗い街に出て4人でエトワール門からゆっくりと道を確認しながら一回りして戻ると食事をしながらコースの位置取りを話した。
それぞれの役目を話し何処でスピードを上げ、何処で下げてカーブを曲がるかを検討して食後1時間休んでもう一度町へ出た。

先ほどと違い行き交う馬車も増えて走りづらくなったがそれでも65分で回ることが出来た、何台かが同じように仲間と組んで練習していた。

「当日は警察も市も協力して道を走りやすくしてくれるそうだからスピードを出すことが出来るだろう。午後また一回りしてタイムと疲れ具合を調べよう」
マダム・デシャンがトレーナーを4人の為に探してくれたのでドウシュを浴び1時間ほどの揉み解しのあともう一度ドウシュを浴びて昼寝をした。

昼寝は30分、おきてから柔軟運動をして軽い食事をしてまた今日これから走る道のおさらいをして道路に出た。
3時まで待って時計を合わせて正太郎が先頭でコースをたどった、一回りして56分だったが正太郎の疲れが一番ひどいようだ。

「今日の混み具合で56分なら本番で10分は短縮できるさ、2周りで92分なら上出来さ。ユベールとポールはまだ余裕があるから後はショウしだいだ。ペニーファージングにすればもう少し楽だがどうする」

ダンはそう言ってくれたが正太郎はパリジェンヌ商会の新車に賭けて見ると話した、一同はメゾンデマダムDDに戻るとドウシュを浴びマッサージを受けた。
マッサージ後のドウシュの前に表で体操をして汗を流しダンを先頭に体をほぐす程度にモンマルトルの丘を駆け足で一回りした。

其の晩も反省会をかねて地図にそれぞれの役目を書いて明日の練習に備えた。

「明日は協力してくれる人たちとの打ち合わせをかねた慰労会をするが翌日に残るほどは飲まないで呉れたまえ」
ダンがそうして明日から朝はランニング、レースの時間に合わせて10時から2周り、夕方4時から1周りと練習方針を告げた。

DD其の時間に合わせて明日からも2回トレーナーを呼んで下さい」

「判ったわ、明日12時半と5時半と言うことで時間を連絡しておくわね」
マダムはすっかり乗り気でリヨンから来た2人の若者にディマンシュの競争ではがんばってねと声をかけた。

賞品賞金の分配はShiyoo Maedaが経費を持つ代わりに4人と4軒の店と会社で分配とし、4人の中のトップに割り増しが付くように取り決めた。

「最後はチームといえども全力で個人が先頭に立つという気力が湧くでしょう」

ショウはそう言って明日協力者への分配方法も含めて取り決める事にダンたちの了解を求めた。

ディマンシュの26日ついにレースの日がやってきた、4人は朝モンマルトルの丘を一回り走りこんでからエトワール広場まで馬車で出かけた。

参加台数は375台、申し込み順に6台ずつ横に並ばされたが前から5列目に4人は並んだ、パリ・ガゼットの社長が「このレースの参加費からディス・ミルフラン(1万)がモンマルトルに建てられる寺院に寄付された」と発表がありいいレースをと話を結んだ。

ダンはチームの3人の仲間にレースに望んでの最後の打ち合わせをした。

「いい位置だな。前はミショーの息の掛かった奴らだろうから先に出さないように走るだろうから列が乱れるオートイユの競馬場の先の下り坂辺りが最初の勝負場所だな、そこでショウの後ろに並べる様に力を抑えてくれたまえ」
15分前には渡された腕印を確認して自分の位置に着いたかを役員が確認して周った、正太郎は26番、ダン27番、ポール28番、ユベールが29番だ。

3分前に点検が終わりもう一度コースの関門を通らなかったことが判れば失格だと審判員から告げられて10時の鐘が合図でツール・ド・パリが始まった。

エトワール凱旋門からブローニュの森へはアベニュー・フォッシュで1500メートル、ブローニュの入り口で左に道を曲がるとオートゥイユ競馬場へ向かい3000メートル先で左に下るとセーヌの流れが見えてくる。

先頭は割合ゆっくりと道一杯に広がりながら進み位置取りで無理に前にでようとするバイシクレッテで込み合っていた。
ダンの指示で正太郎たちは道の左側に二列になり進んでいた。

フレール・ド・ポン・ベルシーまでの1000メートルをゆっくりと降り橋を渡って1600メートル先のヴォージラール街へ左折して入った。
ゆるい下り坂は2600メートルほどあり先頭のスピードが徐々に上がりだした。

此処までが正太郎の受け持ちで約9700メートル、ブールヴァール・モンパルナスに右折して入るとダンが一気に飛び出して正太郎は最後尾につけた。

其処から駅前を通り抜けゴブラン大街の角まで2700メートル、右手への緩やかなカーブを4台は鮮やかに曲がりイタリー広場まで700メートル、広場のロータリーをダンは鮮やかに外回りから半周すると其の先には直進の道、ベルシー橋までの1800メートルの上り下りを上手く乗りこなしてオステルリッツ駅の鉄橋を越せばセーヌを渡るベルシー橋、渡れば其処はベルシー河岸の関門。

競技審査員の集まる急な角で減速に失敗した先頭がふらつく中を次々に追い越しダンの前は12台だとアイムの大きな声が聞こえた。

「あれが聞こえるならまだ余力があるな」正太郎は自分がまだ疲れていずまだまだ大丈夫だと自信がもてた。

1200メートル先のポン・モランの運河の上の橋を抜けて運河の港沿いに右へ曲がると800メートルでプラザ・デ・ラ・バスティーユ、緩やかに外側を右まわりで4本目の道へ誘導されて入ると道は上り坂となり1600メートルでレピュブリック広場、先頭はユベールと変わった。

ダンの受け持ちは8800メートル、此処まで約18.5キロ、ストラスブルグ駅東駅)、北駅と通り過ぎて2000メートルでクリシー大通りに出会い左へ曲がった。

幾つかの緩やかな角を曲がると2000メートルでサン・ラザール駅の北側の鉄橋を越した。

ユベールは4000メートル余力を残しての交代で其処からはポールが前に出て800メートル先にはパルク・モンソーの関門だ、競技役員が袖印に赤いペンキを塗りつけた、其れが一周目の印であり4人は印を貰うと予定通りそこで水分補給で2分間停車した、其の間にバスティアンにルネたちがバイシクレッテの点検をした。

「このままで大丈夫だ油だけはさしておいたがもう一回りしても問題は無い」

「ありがとうではいってきます」

「今ので通ったのは26台よ休まない人ばかりだからすぐに追い越せるわ。時間は43分よがんばってね」

予定より5分は早い展開だ先頭は相当無理をしているようだ、エメの声を後に競技審査員の前を道へ出た、其の間にも次々に休まずにペンキを塗って貰うだけで通り過ぎる車の列にポールを先頭に割り込んだ。
1000メートルの登りを進み左へ曲がると500メートルでスタートしたエトワール凱旋門だ。

一回り約24.8キロ発表は24キロのコースとされていた、凱旋門のロータリーを右回りで回りこんで急角度で右のアベニュー・フォッシュに入り正太郎がチームの先頭に出た頃には力尽きたかスピードの出ないバイシクレッテを20台近くも追い抜いていた。

オートゥイユ競馬場からの下りでは先頭と2分近く離されているぞと観客から声援があったがフレール・ド・ポン・ベルシーまでにさらに5台ほどを抜いて進んだ。

ヴォージラール街へ曲がり先に見えた3台を坂の途中で一気に抜き去るとダンが其処で前に出て残りの坂を500メートル一気に下ってスピードを緩めて無難にブールヴァール・モンパルナスに右折し、もう一度スピードを上げてゴブラン大街の角まで2700メートルを進むと緩やかなカーブでスピードを緩めずに右へ曲がった。

練習の成果か4台は難なくイタリー広場のロータリーも回りきりベルシー橋までの1800メートルをスピードが緩むことなく乗り切った。

此処までの道筋でもスピードの出なくなったバイシクレッテを5台も抜き去り、橋の袂の関門でスピードを緩めるとアイムが「前は3台、差は35秒」と声をかけてきた。
そこで今度はユベールが前に出てレピュブリック広場まで引っ張り、そこでポールと入れ替わった。

クリシー大通りの途中で余力のあるダンが前に出て正太郎がそれに続いてスピードを上げた。

サン・ラザールの鉄橋でまたユベールが出て来てダンと正太郎、ポールの順になった。
パルク・モンソーまでに1台を抜き、前を走るのは2台になった。

其処からポールがまた前に出て前に見える1台をロータリー手前で捕らえ残り500メートル、最後のペニーファージングが30メートル先に見えた、息切れがしてきたか緩やかな上りにふらつくところを4台ともに前に出て残りは300メートル、ゴールの凱旋門のあるエトワール広場入り口へ向かってワーグマン大街を4台が並ぶように疾走しポールが5メートルほど先着、ダンとユベールが其れに続き正太郎はダンに2台分遅れての4着になった。

チームShiyoo Maeda & Danの圧勝だった。

正太郎が時計を見ると11時29分、89分での勝利だったが勢いで広場を反時計回りで2周ほどしてやっとバイシクレッテを停めると役員が首に順番の札をかけてくれるのを見てマダム・デシャンを筆頭に4人を取り囲んでブラボーの声援を上げた。

其処にはエメもリュカにセディもいたしノエルたちに混じって西園寺にM.アンドレにM.カーライルの顔も見えた。

表彰式が終わるとメゾンデマダムDDへ一同は向かい、4人がドウシュとマッサージが終わる前にもう宴会が始まっていた。

家の中も庭もお祝いに駆けつけた人、チームの裏方を勤めた面々で溢れていてそれぞれがチャンプのポールを称え「4人の協力があっての栄冠だ」とポールの言葉に頷き、ダンの「チーム全員の勝利だ。時速33.5キロはすばらしい記録だ」との叫びに歓声が上がった。

4年前の100キロレースでは時速20キロも出ていなかったのだ、100キロを越せば今でも時速は25キロ出れば良い方だろうとダンはこの間話していた。

「ショウ、来月早々に500台のペニーファージングが入ってくるよ。今日の10着までのうち7台までがペニーファージングだった。明日から売り切れになるほど売れて大変だぞ」

嬉しそうにM.カーライルはアイムにも話して「ショウが乗ったあの型のバイシクレッテが量産できればペニーファージングをも駆逐できるぞ。ぜひいい物を安く提供してくれたまえ、ショウの話だと原材料費で500フランは掛かるというが700フランなら売れると思うから是非安く売れるように努力してくれたまえ」とアイムたちに檄を飛ばした。

「今は1000フランで売るのがやっとですからね」
オリビエ兄弟はバイシクレッテ用の軽いチェーンさえパリで量産できればと考えを話したが実現には時間がかかりそうだ。

「しかしショウが此処5日で此処まで走れるとは思ってもみなかったよ。最初は二度目のベルシー河岸がどうかと思ったが、クリシー大街に入ったときにすぐ後ろに居たのでこれなら4人の誰かで頭は貰ったと思ったが鉄橋のところでもまだ先頭が見えないのには焦ったぜ」

ダンは2周目の解説を周りのものにしながら美味そうにビールを何杯もお替りした、DDMomoを筆頭に何度も其れを話させユベールはオリビエ兄弟たちにポールはジュリアンたち、正太郎は西園寺やエメとリュカの輪に囲まれて何度も何処をどのように進んで何処で走る順番を入れ替わったかを話していた。

「勝利の一因はブティック・クストゥで作ってくれたレーシングスーツのおかげもあるぜ。あの尻当ては練習でも尻がむけることも無く快適だった。ショウが乗った奴は勢いをつけるときに腰を浮かせられるが、ペニーファージングは安定が悪くて前に重心がかけられないんだ」

伸びる素材で尻の部分は厚手なのに汗の吸収も良く出来ていて乗っていて快適だったとポール以下全ての者がイヴォンヌとテオドールに感謝した。

「あいつをブティックの隣のマガザン・デ・ラ・バイシクレッテで売ればペニーファージングと一緒に売れるぜ。なんせ1着から4着まで独占のチームだからな」

しかしいいチームワークだったと全員が認める連携の良さで、幸い故障したバイシクレッテも無くレースが済んで幸いだったとバスティアンとエドモンがオリビエ兄弟たちと「ア・ヴォ-トル・サンテ」の合図で一斉にシャンペンで気勢を上げた。

クストー夫妻にルモワーヌ夫妻の料理とジュリアン夫妻が持ち込んだビール、マダム・デシャンが提供したシャンパンで5時間たっても皆は酔いしれていた。

4人の獲得した賞金商品は、5000フラン、2000フラン、1000フラン、500フランで合計8500フランそれにトロフィーとミショーの新車4台と協賛した各社からの品物でクロワールは溢れていた。

ミショーは自分たちの開発していたゴムタイヤの新車を売り込もうとしたがペニーファージングには勝てなかった、オリビエ兄弟を欠いたミショーはこれでパリジェンヌ商会の軍門に下ることになるのだろうと正太郎には思えたし、中でも喜んだのはミショーを見限りペニーファージングにかけてきたカミーユ・ローランであった。

パリジェンヌ商会の新車はギヤの切り替えと軽量化が出来ればペニーファージングの欠点を考えれば日常品としても競争用としても一級品である事は間違いないと皆が認めた、後輪駆動と後輪用のファンは曲がり角での立ち直りを楽にしたのだ。

賞品賞金の分配パーセンテージはレース前に取り決めていてポールが現金で2125フラン、ダン、ユベール、正太郎が1275フランずつの分配で合計5950フラン、残りの2550フランを3軒で850フランずつ分配した。

経費はShiyoo Maedaが4台のバイシクレッテを宣伝費で出すことにして賞品を処分して今回の経費に宛てることなっていた。

正太郎が乗った試作品はオリビエ兄弟が原価の500フランでと言うのでShiyoo Maedaが買い取り、マッサージの費用などは計算をマダム・デシャンに出してもらい後で支払うことにした。

ポールが乗ったバイシクレッテはリヨンの店、ダンの乗ったものはカミーユの店、

ユベールと正太郎のバイシクレッテはクストー街のマガザン・デ・ラ・バイシクレッテに飾ることにした。

凱旋門に来ていた写真屋がバイシクレッテと共に個人の写真と4人の写真、其れと仲間全員が入った写真を撮ったので其れを一緒に飾って華を添えることにした。

「明日の紙面にどういう扱いをパリ・ガゼットがしてくれるか楽しみだ」

ジュリアンたちは最後にそう言ってそれぞれの家に向かった。

ノエルたちとエメにリュカも何台も馬車を連ねて帰っていったのは11時を過ぎていて其れからも正太郎達の興奮は中々収まらなかった。

「サァサァもう寝なさい」

DDに追い立てられるように部屋へ追い払われたのは12時で正太郎はル・リに入っても何度も今日のコースであそこはこう走れば良かったと夢うつつで寝たのかおきているのか判らない一夜が過ぎた。

パリの街は肌寒く7時半になってようやくメゾンデマダムDDに陽がさしてきた。

ランディの朝何時ものように体操をして食堂での食事は相変わらず昨日の事が話題だ。

もうベティにセディは学校に出かけていて正太郎たちが食べだす頃にはニコラにマリー・アリーヌが出勤して行った。

ラモンは画材を担いで正太郎に「今晩はまた宴会か」と聞いてから出て行った。

「あいつまた飲むつもりだぜ」

「良いでしょうよ。3人がリヨンへ帰るのは明日の朝ガール・ド・リヨン9時15分発の列車ですから。ポールとユベールも一緒にフォリー・ベルジェールへたまには行きましょうよ。バスティアンたちは家族で祝杯を挙げるでしょうから此方だけ6人で良いでしょう」

「ショウ、僕の賞金は皆の力で貰ったものですから是非今日の勘定は持たせてください」

「そうはいかんよポール。パリへ来たら僕に持たせてくれたまえ」

「其の理屈だとリヨンへきたときは僕たちの招待と言うことで受けていただけますか」

マダム・デシャンが「ショウ。ポールがそういうのですから今日のところは彼に持たせなさい。500フラン散財しても彼の痛手は小さいのですから花を持たせてあげることですよ」と言ってポールが驚く様子を見て楽しんでいた。

「マダム・デシャンも人が悪いですよ。ポールが本気にしていますよ。ショウが前に大盤振る舞いをしたというイトウの時の勘定でも500フランを出なかったそうですよ。あの時は30フランもする壜が林立していたそうですからね」

「驚いたようね。でもそのくらい用意して後はショウにどのように遊べばいいか指南してもらうことね。彼はいつもあそこで女の子に5フランの銀貨を先に1枚上げるので人気があるのよ。女性を連れ出したいならダンかニコラに言えばそういう店にも連れて行ってくれますよ。でも女性の連れ出しは一晩100フラン程度の覚悟をしなさいね」

また始まったとダンと正太郎は顔を見合わせて腹の底から大笑いをした。

「ポール、DDの言うことを本気にしちゃ駄目だぜ。ユベールもそういう店が所望ならニコラが連れて行ってくれるよ。なんせ警視庁へ勤めているからそういう場所を取り締まるので顔が聞くからな」

Momoが其れを聞いて耐え切れないと笑いながらラ・キュイジンヌへ逃げていった。
ダンは学校に顔を出してくると出かけ、正太郎は2人を連れて事務所へ向かった。

M.アンドレは英雄がおいでになったとおどけて出迎えソファにモニクが誘って座らせた。

「此処が僕の会社の本部さ。此処を取り仕切ってくれているのがM.アンドレ事アンドレ・アドリアン・ベルトレさ、なぜかムッシュー・ベルトレと誰も言わないんだよ」

「ショウ、其れはあなたがムッシュー・マエダでないのと同じですよ。聞けば貴方の先生のマドモアゼル・ノエル・ルモワーヌも横浜でミス・ノエルと呼ばれて居たそうですね」

「そうだね何でそういうことになったのか良く判らないが、M.アンドレは名前だと承知してください。どういうわけかムッシューとつけるのが癖になって皆がM.アンドレとしか言わないのですよ」

何度も重ねて言うのが可笑しいのか新しい事務員も可笑しそうに笑いが広がった。

「今日はクストゥ街へは行かなくていいの。モニク」

「アランが行けば今日は大丈夫ですよ」

「そうか、ランディはそうしたんだね」

「そうですよ。ショウは人に任せるとそれをすぐ忘れるので困りますよ」

「そうしないと覚えることばかりで自分では処理できないからさ。それで2人はパリで行きたいところはあるかい。僕が案内するか、アランが帰れば案内させるよ」

「パリジェンヌ商会へ行って見たいですね。どのようにバイシクレッテを製作しているのか見てみたいですね」
ユベールが言うとポールも賛同した、2人は根っからのバイシクレッテ好きなのだ。

「それなら僕が案内するよ。M.アンドレ、向こうに支払う予定はあったかな」

「今月の分は全て支払済みです。昨日の分も帰りがけに現金で渡しましたから領収書だけは貰ってきてくださいませんか」

「判った、帰りがけにLoodで食事にするから連絡があれば其処にしてください。3時までは其処にいる予定で後はジュリアンの店に顔を出してから戻るよ」

馬車屋まで歩いて行き先をベルシー河岸と告げてパリジェンヌ商会へ向かった。
パリジェンヌ商会には珍しくM.カーライルが来てチェーン式のバイシクレッテを見ていた。

「やぁ、ショウこいつは売れるぞ。イギリスで作る会社があるかはわからないが値段がペニーファージングを下回ればいい勝負が出来そうだ」

「僕もそう思います。去年からルネが苦労していますが僕が乗った感じでは将来のバイシクレッテはこの形のものになるでしょう。ミショーも昔のようにオリビエ兄弟と共同で開発するようになれば世界を狙える商品でしょうね」

「そうだな、でもアメリカやジャポンがすぐに同じものを作り出しそうだ」

「ルネには此処を改良してもう少し軽量化が出来ればと言うのですがね、なかなかうまくいかないのですよ」

正太郎が言う形には出来ても重量の軽量化は中々上手く行かないのが現実だった。

「どうでしょう、この鉄製の部分をパイプに出来ないのでしょうか」
ユベールはアイムとルネにその様に提案した。

「パイプか問題は強度だな。人が乗って変形しないように出来れば大分軽くなるな。後はこの車輪だよ此処の部分を如何に軽くして最近売り出されたゴムの中へ空気を入れて貼り付けるかさ、だが道が悪くてすぐゴムが切れてしまうのが欠点なんだよ。まだまだ改良する事はいろいろあるんだ」

ユベールとポールはそのバイシクレッテを乗り回したあとルネとマリウスに連れられて工場へ入っていった、色々な試作品にも乗ってくれとルネに誘われたのだ。

M.カーライルと正太郎はアイムと3人で事務所に入りアイムが「こいつの開発が上手く行けば将来ミショーと組んで世界へ売り出してもいいんだ」と考え考え話した。

「ミショーを吸収しても良いさ。そのくらいの資金はすぐ集まるさ」
M.カーライルはアイムを煽ってそういった。

開発に必要なのは軽量化、ゴムの強度と車輪との相性、チェーンの量産化と歯車の大きさと強度にチェンジが容易なギヤ、ファンの必要性などの要点を書き取りながら話し合った。

「ところでショウ。ヴィエンヌでジャポンのパビリオンの売れ残りの中で持ち帰るもの以外は売り払うので入札する商社を探しているという話を聞いたかい」

「いえ知りませんが」

「何でももうじき終わるから来月の閉店後に競争入札にするらしいぞ。うちの社員も2人行っているので指示をロンドンへ仰いで参加するそうだ」

特別の美術品以外は持ち帰らず売り払うことに責任者の佐野が決めていたのだ。

名古屋城の金鯱、神輿に太刀や正倉院の宝物、鎌倉鶴岡八幡宮の宝物などは持ち帰ることにしているようだ。
集めた金でパビリオン内に展示された各国の美術品で買える物は出来るだけ買い取ると言うことにしたようだとM.カーライルは正太郎に教えてくれた。

「それで僕からの商品の代金もまだ払ってくれないのですね。其れも品物に換えてしまう心算なのかなぁ」

「そうかもしれないよ。君の商品は10万フランを越しているそうだね」

「そうなんですよ。其れが本当だとジャポンに品物が戻ってからでないと支払いが無いのかなぁ」

そうだ其れがあればペニーファージングでさえ今度の500台も簡単に支払えるのにとM.カーライルは同情してくれた。
500台の代金十六万五千フランは幾ら売れ行きが良いといえ大きな支払いなのだ。

「そうだショウ、オーストリアのトリエステに先週の金曜になって日本からの扇子が一万本到着したようだよ。会期中に売れるかね。売れ残れば買い叩いてロンドンで売りたいもんだよ」

トリエステはオーストリアが地中海に持っている大事な港で此処を通じて世界に遅れじと海軍の養成もしているのだ。

「其れは困ったもんですね。いまさら僕のほうに廻せといっても手遅れですものね。いい品物ならいいのですが粗悪品が来ていたりすると評判が落ちるので困りますね」

「そういうことだよ。うちの社員の目が効けばいいんだが」
トリエステ、ナポリ、マルセイユはスミス商会の地中海の大事な拠点なので情報の伝達はすばやく行われていた。

正太郎は今晩の事はとぼけてアイムには話さなかった、余り大勢がフォリー・ベルジェールに集まっては遊ぶにしても話をするにしても大げさになりすぎだと思ったからだ。

夜になってニコラが戻るとダンが仕度をせかしてフォリー・ベルジェールに出かけた。

8時半で今晩は全てポールもちと決めたので用意させた金で入場料12フラン、席へ案内したセルヴィスに10フラン、すぐに席に来た8人の女たちに5フランずつの40フラン、注文を聞きに来たセルヴァーズに10フランを渡した。

正太郎の顔を見たセルヴィスはいい席へ案内してくれたので舞台を見るにも良い席でふたつのターブルに分かれて座った、両端にも女が付いたので注文も多くなったが「ポールが全て勘定を持つから好きなものを頼みなさい。彼らはツール・ド・パリのチャンピオンチームだよ」とニコラが女たちに言ってどしどしと注文をさせた。

9時からの舞台はカンカンで始まりボードビルでは見慣れている女たちでさえ息を呑む出来栄えだった。

11時まで騒いで飲んで180フランの勘定だったのでポールは女たちに帰りがけにも5フランのチップを与え店にも20フランのチップを添えた。
ポールとユベールは「パリへ出てきたら必ずよって」と女たちに囲まれて表まで送られ馬車に乗り込んだ。


Paris1873年11月1日 Saturday

正太郎はエメに前日に言われたとおり正装してノートルダム・デ・シャン街へ朝の9時に着いた。
トゥーサンのこの日2人してモンパルナス墓地の伯母の墓を訪れるためだ。

エメが用意した花束を正太郎がもちブールヴァール・ラスパイユを南に進むとブールヴァール・モンパルナスと斜めに交差して其の先に墓地の角が覗いていた。

其処から並木道が続く墓地へ入り200メートルほど進むと右手に花壇に囲まれた小高い場所が見えた。
その道に入り50メートルほど先の道を左に曲がると右手に可愛い噴水があった。

「此処は墓地の11区。伯母と義理の伯父夫婦の墓よ。一族の墓はランズなので伯母夫婦だけが此処に眠っているのよ」

噴水の手前の道に入り二列目に新しく見える小さな墓があった。
花束を捧げ二人で祈り、来た時とは違い中央の花壇の永眠の精でも祈りをささげ其処から正面出入口へ向かった。

横浜ではイギリス人とアメリカ人がハロウィンと言っていたこの日、パリの人たちはトゥーサンと呼び祖先の墓参りをするのだと教えてくれたエメの手を取り、行き交う人に挨拶をしながら正面出入口の案内所の基金箱に10フランの金貨を入れて表の道に出た。

並木道に出て左に歩くとモンパルナス駅の駅前広場、其の右正面に見える道はレンヌ街で400メートルほど先を右へ入ればエメのアパルトマンだ。

2人は普段着に着替えるとベルシー河岸のパリジェンヌ商会へ出かけた。
ルネからリヨンへ送る試作品に乗ってみてくれと連絡が来たからだ。

ギヤ比率は正太郎がレースで使った28:22=1.27とポールたちの体力に合わせた30:22=1.36 32:22=1.45の歯車とチェーンが用意されていた。

「この3種類をその日の様子に合わせて組み立ててレースに使ってくれるようにしてくれ。彼らとはこの間話して今月30日のレースで走ってもらうようにした事は聞いたろ」

「ああ聞いているよ。だが車体について買い取りなのかどうか心配していたぜ」

「パリジェンヌ商会からの委託品として一人当たり車体は2台、歯車とチェーンは3種一組を支給するよ。レースと練習のレポートを出してくれればそれでいい。半年後に痛み具合を調べたいので返却してくれれば途中のメンテナンスの費用は此方で持つと兄貴も了解だ」

マリウスにアイムも頷いて正太郎の意見はどうだと聞いた。
「僕のほうは其れで良いよ。しかしリヨンには君たちの親戚知り合いも多いだろうに身内にやらせないのはどうしてだい」

「実は俺たちがバイシクレッテに夢中なのは歓迎されていないんだよ。家業としての昔からの化学薬品の工場を受け継げと今でもうるさいのさ」

「それでも最初の取り付けと組み立ての指導に誰か僕とリヨンへ行ってくれないか、そうして2人とパリジェンヌ商会の間での契約を結べば僕も安心さ」

「ではショウは俺達とあの2人での契約でペニーファージングでのレース出場でなくても構わないのかい」

「それでも良いよ。僕は君たちのこの型のバイシクレッテが大好きなのさ。この間のレースでも大きなギヤ比の歯車をこぐ力があればもっといい成績だったろうと力の無さを痛感したんだ。あと坂道を下るのにこぐのをやめてもペダルに足を乗せて固定したままでも車輪が回転する機能がつけば楽だと感じられたよ」

そいつは難しい課題だなとオリビエ兄弟は3人とも頭をひねったが、「ルネをバイシクレッテと一緒にリヨンへ行かせるよ」とアイムが2人に同意を求めた上で正太郎に受けあった。

「それで何時出かければいいんだ。ショウにも1台練習用に同じセットを貸し出すから町へ出る時は乗ってくれたまえ。まだ売るところまでは行かないがマガザン・デ・ラ・バイシクレッテに問い合わせが多いそうだ」

「売るとしたら幾らになりそうなんだい」

「ショウに卸すにしても替えのギヤセット付で800フランは欲しいな」

「やはりね、替え無しだと。600フランくらいかい」

「いい勘だな。そういう心算だよ」

「1000フラン以下での販売は難しそうだね、まだまだ一般には無理のようだね」

「だからレースでの実績でペニーファージングに勝ちたいのさ」
正太郎も了解してランディの3日の日に朝の特急でリヨンへ行くことに決めた。

「バイシクレッテは持ち込めるように鉄道会社に先に交渉しよう」

「ではビエの手配はショウがしてくれるかい」

「良いともバイシクレッテは先に駅で鉄道会社に了解をしてもらうから今日持っていけるかい」

「なら先にリヨン駅に行ってくれ。すぐ荷造りして追いかけるよ」
正太郎とエメは駅に馬車で先に向かい顔見知りのビエ売り場の主任と荷物の持ち込みについて相談した。

「いつもご贔屓のムッシュー・ショウのことですから1等車に収まる荷物で2人がお座りになる余地があればかまわないですよ。無理でしたら別料金で車掌がお預かりいたします」

「其れは助かります」
話はついて1等車の予約を取ったところにルネとアイムが4台のバイシクレッテとギヤの入った箱を二つ持ってきた。

「これなら特別料金無しでお受けいたしますよ。今日から荷をお預かりしておきますか」

「そうしてくれるとありがたい」
アイムがそう言って主任に10フランのチップを渡して受け取りを書いてもらった。

駅前で分かれて正太郎とエメはLoodまで行き馬車を帰すことにした。
そこで遅くなった昼を食べパサージュ・ジュフロワのル・マガザン・デュ・リスへ出向いた。

「一昨日に続いて今日もきて呉れて嬉しいわ」
アルフォンスは2人が一昨日に引き続き店に来たことが嬉しかった。

アルフォンスにルノワールの描いている絵の出来が良いこと、マネの絵は同じ構図で他に頼まれたと言うので衣装を貸してエメとほかに別の人が同じようにクロッケー・パルティをしている絵を描くことになったと伝えた。

「まぁマネさんは強引なことをするのね。エメと同じ体形の人など殆ど居ないでしょ」

「着付けを手伝ったけど私より10センチは胴が太いお方でしたけどリボンでごまかしたわ。そのドレスが欲しいと言うので600フランですよというとあわてて脱いで返してくれたわ」

「うふっ、エメも言うわね、あなた其れはぼりすぎよ」

「そうでも言わないと脱いでくれそうも無かったのよ」

アルフォンスは正太郎に2000フランを50フラン金貨でよこして「これは生地代よ。まだ数は出ていないけど安いものでも160フラン、高いものは560フランで売ることに決めたわ。バーツやサラ・ベルナールが作ったと同じ生地は色違いで800フランですといったら注文が3着来たわよ。今月末にまたお金を渡すから顔を見せてね」とウィンクしてよこした。

アルフォンスは絹地でも20フランくらいから作っているが最近高級品を注文する人が増えてきたのだ。
それだけパリは景気が上向きなのだろうなと正太郎は思い新しい商売はまだまだ探せばありそうだと思った。

「エメ最近キャバレーが増えてきたと思わない。其れもフォリー・ベルジェール規模のものが多くなったわ。前は安酒場で働いていた娘がいきなり100フラン以上のドレスを頼むのよ。驚きだわ、フォリー・ベルジェールの子達も体を売らなくても月に200フラン以上稼ぐ子が多くなったそうよ」

「私が居た時200フランは夢の話だったわ。あそこでは時間内に男に連れ出される娘は首にしていたから稼ぐのは難しかったのよ。ショウみたいに5フラン呉れる人はまれでしたもの」

「まぁ、ショウはそんなお金の使い方をするの。うちのお針子にも沢山チップを上げてくれるかしら」
冗談よといいながらもチップをもらえるのは嬉しいのだと暗にほのめかしていた。

「今11人でしょ。5フランずつ出していたら服代より高いものなりますよ」

「一昨日増やして12人になったわ。貴方のリヨンの店に出す服が多いのよ、冬服を早く送れとジャネットから昨日電報が着たわ。急がしいったらありゃしないわ」

エメが黙って表に出て祝儀袋を15枚買い求めてきた。
正太郎が「5フラン銀貨が無いから10フランずつ入れるから」そうアルフォンスに言って13枚の袋に正太郎とサインをして中身をエメが入れてアルフォンスに渡した。

「まぁ嬉しい。だからあなた方大好きよ、アルフォンスにもいただけるなんて感激よ」
お針子を全員集めてアルフォンスがそれぞれに渡して「リヨンのお仕事頑張って片付けてね。このほかにも臨時のお手当てを弾みますからね」と景気をつけた。

「メルシー・ショウ。メルスィ・ボク・エメ」
お針子たちは嬉しそうに胸の大きなポケットに落とし入れると仕事に戻った。
言葉つきは女っぽくとも仕事も、金の支払いも男気のあるアルフォンスなのだ。

29日のペルティエ劇場の火事のときは此処も火が来るのかと一晩中眠れなかったとアルフォンスは恐ろしそうに語り、エメと正太郎が火災の収まらないうちに見舞いに来てくれ心強く、嬉しかったとその日の事を語った。

夜の喧騒が嘘のようなビガール街は夕暮れ近く店の中では開店前の準備が始まっていた、まだ人の通りは少なく其の道を歩いてクストゥ街のブティックへ向かいイヴォンヌと打ち合わせをし、ジュリアンの店でお茶をご馳走になり馬車を捕まえてもらうとノートルダム・デ・シャン街へ戻った。

翌日のディマンシュ2人はボン・マルシェで買い物をしてから服を着替えてモンルージュへ出かけた。
今日は十三夜、日の入りは5時28分、月は陽が沈む前から東の空で出番待ちをして白く輝いていた。

「中江さんは風邪を引いたらしく昨日から寝込んでいます」
西園寺がその様にノエルに言っているのが聞こえた。

「その代わりと言ってはなんですが前回こられずに残念だといっていた。Mlle.ビリュコフとMlle.エーリンのお2人が新納君とすぐ着きますよ」

「まぁ、嬉しい。あのお2人は前回お忙しいとの事で御出でになられませんで悲しかったのですよ」
挨拶をクロワールの入り口で交わしている間に其の馬車が到着して家は賑やかな雰囲気に包まれた。

正太郎とエメが庭で月のほうを眺めると左手にはカペラが輝きを見せていた。

「ショウあなたが乗ったあの新しいバイシクレッテは幾らで買えるの」
早速アリサの新し物好きが頭をもたげてきた。

「まだ高くて僕が仕入れるにも製品が無いのですよ。僕が乗った奴の改良型がリヨンでレースに出ますからその結果しだいで売り物に出来る奴がいくつか出てきますよ。今は特殊注文で1000フランでの限定販売をするそうです」

「安くならないの」

「僕が買うにもこの間僕が乗った奴と同じで600フランの卸し値段だそうです。あの時乗った奴も店に飾るので原価の500フランをレース後に支払ったくらいです」

「一度乗ってみたいわ」

「僕がリヨンから戻った後のサムディ辺りになら1台借り出せますから乗ってみますか」
西園寺を含め其処にいた皆がペニーファージングは怖そうだけどあの型の物には乗ってみたいと興味を示した。

「植物園の前にあったバイシクレッテの練習場はまだ有りますか」
カテリーナがまだ残っていると言うのでサムディの午後1時にアリサのアパルトマンまでもっていくと約束した。

「こりゃ10台は買い入れても大丈夫かな、しかし幾らで売りゃいいんだ」
正太郎は頭の中ではその様に考えながらこの間のレースの解説を求められるままに話し、バイシクレッテのこれからの改良点とペニーファージングの欠点とこれからさらにスピードを求めて実用品としては乗りにくい物に変化して行くだろうと話した。

西園寺も賛成してミショーはペニーファージングを打ち破ろうと人数をそろえたがShiyoo Maeda & Danの作戦勝ちで10位までに1台しか入らないという惨敗ではパリジェンヌ商会にも太刀打ちできなくなったと話した。

街の話題は10月29日の夜に燃えてしまったペルティエ劇場のことだ、新しいオペラ座ができる前にこの劇場を失ったことは大きな損失だと嘆く人も多いのだ。
村田さんも何度もこの劇場に足を運び正太郎にオペラの事を熱く語った日が懐かしかった。
夜に照明用のガス灯からカーテンに引火し翌30日になっても火が収まらず24時間に渡って燃え続けたのだ。

其の後はこの間と同じように歌や話も盛り上がり10時に散会してそれぞれの家に戻った。
正太郎はエメを降ろすとメゾンデマダム
DDに戻り明日の仕度を済ませてル・リに入った。

3日のランディ、16時15分定刻にガール・デ・リヨン・ペラーシュに降り立ったルネと正太郎の2人は、ポルトゥールにバイシクレッテを二台の馬車まで運ばせるとホテルの馬車には「後で行くから二部屋の予約を頼む」と声をかけて旅行セルヴィエットを預けて5フランのチップを与えた。

バイシクレッテの店へ行くとポールもユベールも新しいギヤと其のギャ比の事でバスティアンも含めて話しに夢中になった。
正太郎が今晩アランに教わった店で遊びながら其の続きを話そうというとやっと歯車の事から興味がキャバレーに移ったようだ。

ガール・パール・デューの向こう側にあるリドとこちら側のカドラというとさすがにポールもユベールも知ってはいたが、入ったことが無いそうだ。

ルネが用意してきた契約書を読んだバスティアンもショウが賛成なら俺に反対する理由など有りませんと納得し、パリジェンヌ商会とポール、パリジェンヌ商会とユベールの間の契約が完了した。

本体が二台あるとギヤを取り替える手間が掛からないので良いですねと2人は嬉しそうだ「一番ギヤ比の小さいものと大きなものを普段取り付けておけば練習も楽ですしレースにどれで出るのが得か調べられます」そうユベールが言うと俺もそう思ったとポールがいってルネを喜ばせた。

「僕にはまだギヤ比の大きいのを長い間走らすだけの脚力が無いけど君たちなら大丈夫だ。レースの日には応援に来るから頑張ってくれたまえ」

正太郎の言葉に「この前のリヨンのレースのような失敗はしませんよ」と請け合った2人は頼もしく見えた、パリでの成績がさらに2人を成長させたようだ。

「一度ホテルで着替えてくるけど何処で落ち合おうか、やはりバスティアンのパンシオンがいいかな」
そうしましょうと言うことに話が決まり8時に迎えに行くと決めてル・フェニックス・ホテルまで馬車を捕まえて向かった。

5人でリドへ入るとすぐに舞台正面の良い席に案内してくれ、バスティアンがセルヴィスに5フラン渡すと女性が7人もやってきた。
ルネが1人5フランを渡し「好きなものを頼んで良いよ」と豪快に笑った。

「ショウ、此処は僕のおごりだ遠慮することは無いぜ」
ルネは一同にもそう告げてセルヴィスの薦めるものを次々に注文した。

「まるで今度のレースの優勝パーティみたいじゃないか」

正太郎の言葉にルネは「長年の夢だったロールチェーンが現実に近づいたんだ、このくらいは良いだろう。それに2人が乗ってくれるんだ頭はかたいよ」と豪快に笑った。
すこしのぼせ過ぎているなと思ったが其の晩は何も言うまいと心に決めて女たちと馬鹿話をして場を盛り上げた。

二時間ほどで切り上げてルネが勘定書きを取り寄せると85フランだったので15フランをチップに上乗せして次はバスティアンがもつと言ってカドラへ歩いて向かった。

今日もカドラの正面は派手なポスターで飾られていたが中は落ち着いた雰囲気で舞台では歌手と楽団が落ち着いた雰囲気を壊さぬように演奏していた。

セルヴィスとセルヴァーズに5フランずつ渡したバスティアンも店の雰囲気に呑まれたようだ。
席に来た娘もリドとは違い高級な感じを与えた。
やはり5フランずつバスティアンが渡すとリドの娘のように興奮もせず「メルシー・ムッシュー」と優雅に胸の谷間に滑らせた。

酒とつまみが出た頃を見計らってコンテッセが現れて「ショウこの間はありがとう。ドレスはとても良いできよ。あの子達も喜んでいたわよ」と嬉しそうに話した。
オルガとサリーも気に入ったと言うのはナタリーのデッサン画は相当腕がいいのだろうと正太郎は安心した。

コンテッセが運ばれてきた皿を「このお皿の分は店のおごりよ」と言って他の席へ移った。

女の子達にも好きなものを頼ませ、フロアでかわるがわる踊り、時計を見ると2時になっているのに気が付いたバスティアンがそろそろ席を立ちますかと言って勘定書きを取り寄せた。

相当高いだろうと思ったが高級酒を頼まなかったせいか102フランだった。

バスティアンも安心した様子で20フラン金貨を6枚出して「チップ込みでいいかな」とすこし不安げに差し出した。

「メルスィ・ボク。充分で御座います。またの御出でをお待ちして居ります」
支配人は丁寧にお辞儀をして一行を女たちと共にドアマンに渡すまで見送ってくれた。

二台の馬車に分かれて丸い月の下をホテルへ戻った正太郎とルネはそれぞれの部屋でぐっすりと眠りについた。

翌4日の朝ブティックをルネと訪れ昨晩コンテッセが褒めていた事を伝えるとジャネットが「あれからお客様を3人紹介してくださいまして、其のお客様がさらにと今は5人の方が出来上がりを待つ状態です。ショウが来たいい機会ですので店員を増やしても良いですか」と聞いてきた。

「勿論構わないとも。店員、お針子、作業場など君の判断で増やして良いよ、そのための投下資金は僕のほうで用意するから今の状態なら5万フランまでなら先に仮契約して、店を充実するために君の判断で行って良いよ」
正太郎がジャネットを信頼している事はルネにも良く判ったようだ。

「ナタリーは本当にいい才能を持っていますよ。次々に新しいデッサンを描いていますので其れを見ると自分だけのものにしたいと高くとも他の人に作らないでという人まで出ましたのよ」

「そんな贅沢を言う人には高い生地を見せて800フランくらい請求すればいいんだぜ。貴方だけのオリジナルですと言う言葉に金持ちは弱いそうだ。僕はそんな人より街の奥さんという程度の100フラン以下の人のほうが大事だからね」

「ナタリーもそう言っていましたよ。ショウの言葉を聞けば彼女喜びますわ」
シルヴィも其れを聞いて「私もそう思いますよ。今日来たら早速ショウがそう言っていたと伝えますね」と言葉を添えた。

ジャカード織りのティスュ・ド・ソエは1人分12フランから50フランほどだがジャポンやシーヌから其れより安い生地も来ているのでコンフェクションは20フラン程度なのだ。
ジャネットはリネンの10フラン程度から30フランのクラスを主力として品物をそろえていた。

バイシクレッテの店に行くと壁に貼られた地図にレースの道筋が書かれていた。
全コース55キロメートルとされていた。

「今日の新聞に道筋が示されていました。前回とは違いパリにあわせたようです。名前もリヨン・デュ・ツールと対抗していますよ」
3人で笑いながらも随分厳しいコースですよと地図を指し示した。

ルネはざっと見て「中盤がやけにきついな旧市街地の丘越えで決着が付くな」と地元育ちらしい意見を述べた。

「此処を乗り切れないものは落伍するでしょうが噂では大分遠くからも参加してくるそうですよ。僕たちが前回乗ったペニーファージングの人気が高く最新式のイギリス製を持ち込む人も居るとうわさですよ」

正太郎とルネが其の最新式のポスターを出すと食い入るように見ていたが「こいつだと下り坂は危険ですね。前にのめると止め様がありませんよ、後ろに重心が掛からないと下り坂で死人が出ますぜ。ファンは後ろにもあるんですかね」と正太郎とルネが見破った危険性を指摘した。

「平らな道以外は使い道が無いな。直線の平坦な道路には強いみたいだぜ」
ルネもそう言って「早いのと危険が伴うのが同居するなんぞ乗り物としては失格だ。乗り手の危険を最小限に抑えないと駄目だ」と結論付けた。

5人でやはりチェーン式が安全だとの結論で其れでの参加をすることにした。

「レースまで隠すしかありませんかね。練習はどうしましょう」
道を覚えるまではYokohamaを使いレース前5日間でチェーン式を使った練習にしようと話がまとまった。

参加費は自費だが賞金、商品は2人の取り分は先着が55%後になったものが45%と決まって2人が連携して参加することになった。

参加費は70フラン、今の2人には安く感じられる金額だ、1位が3000フラン、2位2000フラン、3位1000フランだそうだ。

参加費の20パーセントがフルヴィエールの丘に建てているバシリカ式聖堂の建築資金に寄付されるとも書いてあった。

「将来は5人程度のチームが組めるように友達を誘って練習をしたらどうだい」

「其れを今考えているんですよ。其処の大学へ通う連中で店によく顔を出すのが居るので誘おうかと考えています」

今回そういう希望のものが見つかるならペニーファージングを提供して仲間に加えてもいいんじゃないかとバスティアンも賛成して「参加費が出せないなら店で協力してもいいぜ、ただ賞金の分配でもめないように先に話し合いをしておく必要はあるぜ」と2人に協力できるものがいるか探すことになった。

ルネはもし君たちと同じ条件でレースに出てもいいのなら後2台は提供しても良いと受けあった。

「ではあても有るのでペニーファージングを乗せるかチェーン式に乗せるか検討してみます。賞金の分配は彼らにも魅力でしょうからね」
3人はルネにそう言ってまたコースの検討に戻った。

「ショウと一緒にレースの前に俺も来るよ。バイシクレッテの事で気が付いたこと改良点があればショウに電信を打ってくれ」
ルネはそう言って今回は明日パリへ戻ると言って両親の家に向かって馬車で出かけた。

「ショウも明日には戻るのですか」

「そうだよ今回は急に来る事になっただけで向こうでは焦っているだろうからね。と言ってもM.アンドレがいるから僕は顔だけ出せばほとんど用が無いのさ」

バイシクレッテを見に来る客とパリでのレースで勝ちを収めたというペニーファージングとレース翌日発行の新聞写真を眺める人がちらほら来たので正太郎はバラ園へいくと店を後にした。

バラ園からクレキ街のリガールの工場に行くと忠七はこの時期なのに汗まみれで盛んに機械の修理をナタリーの兄としていた。

以前に比べ言葉も不自由しなくなったようで工場主のM.リガールもこのままリヨンで働けば良いのにと正太郎に言った。

「正太郎はん、わては一月に為ったら戻って来いと言われてまひょんのや。後半年はリヨンにいたいのおすが其処まで我が侭もいえへんのや」

「仕方ありませんね。其れまでに覚えられる事は沢山あるでしょうがジャカードの修理が万全に出来るようにだけは覚えてください。壊れたら其れまででは高いものに付きますからね」

「其れはもう大丈夫おすのや、今は機械式の方を修理するほうを習っておます」

忠七と暫く話してグルマンでチョコレートを色々買い入れてブティックに戻り其れを置くとモンプレジールへ向かった。

「何処へ行くのですかショウ。お昼は食べたのですか」

「昼を食べにモンプレジールにあるイタリアレストランへ行くのさ。この間パスタが美味しかったのでまた行きたくなったんだよ。店には明日パリに戻る前に顔を出すよ」

アントワンヌ・リュミエール写真館の近くにあるレストランの近くまで来て正太郎は路地に入るとすぐ先の道をまた曲がった。

其の後を追いかけるようにどたばたと足音がしたのを聞いて路地に出ると吃驚した顔の少年と向かい合った。

「なんだ君か。誰に後をつけられたのかと思ったぜ」

「よぉ、あんちゃん久しぶり。この間のレディと上手く行ったかい。それとも金目のものでも入っていたかよ」

「あれは其のまま返したよ。残念ながら君が考えているような事にはならなかったよ」

「ふぅん、残念だったな。じゃあばよ」

少年はきびすを返して路地を出ようとした。

「僕は食事に来たんだが付き合うかい」

「何か食わしてくれるのかい」
歩きながらイタリアレストランを指差すと「こんな格好で入れてくれるもんか」と呆れた顔をした。

「じゃ君が知っている店でパスタかヴェルミセルのおいしい店があるかい」

「綺麗じゃないぜ」

「サラマンジュなら上等さ」

「じゃ付いてこいよ、あんちゃんのおごりならいい店を紹介するよ。イタリア人がやっている店でおいら顔が利くんだ」
少年はそう言って先にたってリドの裏手の店に入った。

「やぁ、ミシェル知り合いかいその人」

「そうさヴェルミセルかパスタの美味しいものが食いたいと言うので連れてきたのさ」

「いらっしゃいませ。貴方のような紳士の方に合う味かどうか」

「イャ僕はそんな口が奢った人間ではありませんよ。パリに住んでいますがいつも行くのはサラマンジュや下町のレストランです。此方は本格的なイタリアの雰囲気がしておいしそうな匂いが漂っていますね」
嬉しそうに主人の顔がほころんで「なにが良いですか、それともお任せいただけますか」と聞いてきた。

「ミシェルに任せるよ。ニューヨークのサラマンジュで一人前という量に驚いて全部食べ切れなかったので少なめに幾つか出していただけますか」

「それならミシェルと同じものを分けてお食べになれば如何ですか。そうすれば色々食べられますよ」
ミシェルが主人と相談して決めてくれた。

2人になると「僕は友達もショウと呼ぶから君もね」

「いいぜショウ。それであんたリヨンにバイシクレッテの店を持っているんだろ、其れなのにパリに住んでいるのかよ」

「そうだよ。パリが仕事の中心さ。元の大学通りの店は僕の知り合いに任せたのさ。バスティアンと言うのが支配人で、ポールとユベールが働いているのさ」

「ポールとユベールってあのパリのレースで優勝した人たちかい。すげえなあんな人たちと仕事をしているんだ、おいらもそういうところで働いてみたいな」
ミシェルはエコール・エレメンタールは卒業したがコレージュには行かせてもらえないといって「この間働く気があれば来いと言ったけど雇ってくれるのかい」と期待の篭もった目で正太郎を見た。

「良いよ、だが悪いことしちゃ駄目だぜ」
うんおいら本当はあれ1回きりで懲りたんだと小さな声で正太郎に告げた。

野菜サラダに大盛りのパスタ、ミートソースの入った器が持ち出され二人は自分のさらに取ると食べだした。

「おいしいよ。ヴォーノ。最初入ろうとした店より数段上手いぜミシェル。トレボン」
そうだろどんなもんだという顔で少年は鼻をうごめかして得意げな顔だ。

ヴォーノと叫んだ声が聞こえたようでにこやかに次のソースの入った皿を主人がもって出てきた。

「お口に合いましたか」

「とてもおいしいです。これだけのソースは中々作り出せませんよ。僕にはすばらしい味に感じられました」

「其れは嬉しいです。ではこのソースも試してください。まだ食べられるならパスタの料理を一品ださせていただきますよ」

「僕は殆ど入らないけどミシェルが大丈夫なら一口でも試してみたいですよ」
こいつなら後二人前は食べられますと笑いながら奥に入っていった。

「ミシェルはそんなに食べるのに太らないのかい」

「だってたまにしか腹いっぱいになるほど食べることなんか無いから太っている暇なんて無いんだ。母ちゃんの稼ぎも悪いし親父はアメリカへ行ったきりで3年も帰ってこないから。おいらもいい賃金で働くところがあればいいんだけど前に働いたところは1日2フランしか呉れないんだ。昨日で其の仕事も終わってしまったのさ」

「そうか、昨日までは働いていたんだ」

「うん仕事を探して町をぶらぶらしていたらあんちゃんがグルマンから出てきたので後をつけていたのさ」

「やっぱりあそこからだったんだ」

「判っていたのかい」

「誰かわからなかったけど。気配がしたからね」

「ふぅん、あんちゃんこの間の走りもそうだけど只者じゃないね」
正太郎はミシェルの言い方が可笑しかった。

食事が終わり2フラン80サンチームだという代金に4フランを出してチップ込みですと皿を下げに来たかみさんに渡してミシェルに「家で働くならこれから店に行くかい」と聞いた。

「ミシェルを雇ってくださいますの」
おかみさんは目を輝かして正太郎に聞いてきた。

「一応店で支配人と相談しないといけませんがバイシクレッテの販売店で仕事は修理と掃除が主に為りますので給金はそれほど出せないのですよ」

「この子は良く働きますよ。そこらの青年よりは役に立ちますからよろしくお願いします」
そう言うと手を振って二人を見送った。

駅前から馬車で店へ向かいバスティアンに紹介すると「この子ですか、中々きかんきないい面構えですね。うちは1日10時間で君の年だと3フランしか出せないが其れでいいかな」とミシェルに伝えた。

「はい、此処で働かせてください」
そういう少年をポールとユベールは面白げに見ていたが「どうだいバイシクレッテに乗れるかい」と聞いた。

「乗ったことが無いけど習えば乗れるはずさ」

「それなら仕事の合間に乗り方を教えてやるよ」

「ありがとうあんちゃん。あ、おいら新人なんだから敬語を使わないといけないんだった。ムッシューありがとう御座います」
これには4人も思わず可笑しくなって笑ってしまった。

「いいよ敬語なんて使わなくて。僕がショウ。支配人がバスティアン。そちらの背の高い人がパリでチャンプになったポール、肩幅のがっちりした人がチームのユベールだよ」
バスティアンが新聞の傍へ連れて行ってそれぞれの写りの悪い画像の人間を指し示した。

「じゃショウのあんちゃんも同じチームで4着に入ったんだ。すげーな尊敬しちゃうぜ」
もう敬語と言っていたのが嘘のような友達言葉になっていた。

壁のペニーファージングと飾ってある新聞の写真と違い、店の奥にある写りのよい凱旋門ごと写る写真を見せるとさらに感動したようだ。

「店を頼むよ。ミシェルの仕事用の服を買いに行って来るからショウはどうします」

「近くにある店かい」

「大学の脇に店員用の制服を扱う店があるんですよ」
近くなら一緒に行こうと出かけ仕事用の服を3着バスティアンが買い入れて「きれいにして店で働くんだぜ」と渡した。

ショスールと帽子に靴下を買い与えたのは正太郎で「これは店で働く記念だ」と小遣いにするんだと5フラン銀貨を2枚与えて店に戻った。

「そうだ、ショウに報告していませんでしたがポールとユベールの給与を1日8フランにしました。もっと出してあげたいのですがいきなり出すまで売り上げがまだ伸びていませんので。それでもペニーファージングが売れない日はありませんぜ」

「店員の給与はバスティアンの采配で決めて良いよ。僕は君の給与を上げてあげられるかの心配で充分さ」

「ショウ。僕の給与は充分頂いていますよ。其れよりもっと大きな店舗を探して此処はショーウィンドでしたっけ飾りと販売だけで修理と販売の店舗を探すようになりそうですね」

「いい場所があればパール・デュー駅のほうでもいいんじゃないか。ポールとユベールにも言っていい場所があれば周りをよく調べて考えることさ」

マダム・シャレットはどうしますという話から向こうも同じ敷地で商売に為るなら同時に移ってあそこはお針子とナタリーの仕事場にすればいいさと正太郎はこともなげに言った。

「ジャネットには五万フランくらいなら大丈夫だと言ってあるから二人で探しても良いさ。其の時までに結婚報告が聞ければ嬉しいがね」
バスティアンは耳まで真っ赤になっていた、根が純情なんだと正太郎は30近いこの男が好ましく感じた。

店で馬車をポールに頼んで「ミシェルの家を聞いていなかったけどここから近いのかい」と聞くとヴィユルバンヌのさっきのサラマンジュの近くだとバスティアンが出した紙に住所と自分の名前を書いた。

「ミシェル・ユジーヌ・バルデュスか覚えやすくていい名だな。着替えて今日から働きな、店を閉めたら馬車で送りながらご両親に挨拶に行くから」

「おいらの父ちゃんは今アメリカへ出稼ぎで居ないんだ、家はバッチャンと母ちゃんが居るだけさ」

「そうかそれならお前の家族に此処で働くと安心させてやろうな。朝は8時半の開店だから15分前までに来るんだよ。店は普段は18時15分までだから店を閉めてすぐ帰っていいんだ。バイシクレッテに乗れるようになれば通勤用に1台貸してあげるから」

バスティアンの言葉にうなずいて裏で仕事着に着替えるとユベールに教わってバイシクレッテを磨きだした。

馬車に乗って夕暮れのクロード・ベルナール河岸をさかのぼってポン・モランでローヌ川を渡った。
新市街を抜けてポン・デ・ラ・フェイェでソーヌ川を渡りボンディ河岸のル・フェニックス・ホテルに着いた時には陽がかげり黄金色の満月がリヨンの街を照らしていた。

ホテルにはルネが戻っていて今晩は何処で飯を食べると聞いてきた。

「昼にヴェルミセルを腹いっぱい食べたからまだ考えられないよ。プレスキルにでも出てルネが知っている店があればそこで良いよ」

「じゃ8時に部屋をノックするからぶらつきに行こうぜ。明日の11時45分のマルセイユ発パリ行きだったよな。朝まで飲んでも列車の中で寝てもいいしな」

「おいおい、ルネそんなにつき合わせるのかい」

「いいじゃないか、最近夜明けまで夜遊びでふらつくことも少ないからな」
しょうがない人だなと思ったがたまには付き合うかと覚悟を決めた。


Paris1873年11月8日 Saturday

今朝まで降っていた雨も上がり、パリの街は寒さが一段と進んでいた。
通りにはプラタナスの葉とマロニエの葉が敷き詰められたように広がり、焼き栗の匂いが通りのあちらこちらから漂っていた。

パリジェンヌ商会で正太郎に用意された試作車を受け取り、試作品も買い取る話にオリビエ兄弟は上機嫌で10台の予約を受けた。
替えの歯車とチェーンを入れた箱と共に馬車に積んでドーベントン街へ向かった。

バイシクレッテを降ろすとアリサが先に昼を食べなさいと食堂へ誘った。
1時になって練習場へ出向く頃には6人の人が集まりバイシクレッテを保護するように囲んで家を出た。

替わり番子に乗るのでなかなか自分の番が来ないとカテリーナが騒いでいたがいざ自分の番になると5周してもまだ降りようとせずアリサにもう降りなさいと叫ばれる始末だ。

西園寺も約束の5周が済むと残念そうに降りて中々乗り具合もいいしバランスも良いとべた褒めだ。

「早く買えればいいが500フランくらいにならないものかね」
そう正太郎をせっついた。

「まだ無理ですよ。学生値段のように割り引いても元値で出すにしてもまだまだ500フランに近づきませんよ」
何度も乗る順番が来て其のたびに5周して楽しんでようやくドーベントン街へ戻ったのは5時になっていた。

馬車を頼んでメゾンデマダムDDに戻ったのは陽も落ちて月が顔を出した8時になってからだ。

最近、建ててもらったバイシクレッテ用の倉庫に仕舞いベティが入れてくれたカフェ・クレームでビスケットをかじりながらダンとリヨンでのレースの話をした。
「ショウは参加しないのか」

「僕にはあまりトレーニングの時間が無いからね。あの2人が仲間を探せれば其のほうが良いと思うんだ。オリビエ兄弟の試作車はいい成績は残せるだろうけどパリでは当分ペニーファージングの天下だろうね」

「あれ良いと思うんだけどな」

「僕もそう思うよ、でも平らな場所で競争するにはギヤ比の問題もあって中々力加減が難しそうだよ。そこにいくとペニーファージング型のバイシクレッテはこの間の宣伝ポスターを見たようにレース専門の型に代わっていきそうで危険も有るけど早いことに違いは無いよ」

「なあ、ショウ。ペニーファージングだがボールベアリングの減りが少なければ1万キロは走れそうだな」

「そんなにいきますか」

「油しだいだな、グリスをひっきりなしに塗ってやる必要はあるが、ボールベアリングの改良が進めば10万キロは大丈夫だろうぜ。其れとあのチェーンな前輪のペダルと組み合わせても使えそうだな」

「其れはあくまでペニーファージング型にこだわると言うことなの」

「フランス人よりイギリス人のほうがそういう改良はすぐやるからな。オリビエ兄弟が早くできればともかくぐずぐずしているとあちらさんに持っていかれるかもしれないぜ」

「改良点は幾つか話して有るけどそういう技術者を探す気にはならないようでまいっているんだよ。あくまで自分たちでと考えているようなんだ」
ダンがショウは資本参加までは深入りしないほうがいいかも知れんぞと言い残して自分の部屋へ上がっていった。
正太郎は自分のル・リに上がった後も今のダンの言葉をもう一度反復してみた。

「ミショーを吸収しても今の状況から先に進む前にイギリスに先んじられそうだと言うことかな」
其の時は其の時だと正太郎は何時しか眠りに入っていた。

9日はディマンシュ、Momoに今日はどこか行かないのといわれても庭でぼ−っとしている正太郎にDDが心配して隣に座った。

「ショウ、今日可笑しいわよ、エメと何かあったの」

「いえ、何も有りませんよ、こうしてお日様の下で何も考えずにこうしていると次になにをしたらいいか活力が湧くのです」

「ふぅん、でも自分で解決できない悩みがあれば私たちに言うのよ。力に為りますからね」

「ありがとうDD。心配ありませんよ、ただぼっとベンチで休んで居るだけですから」
マダムが中でベティとMomoに心配ありませんよと伝えたようだがセディは心配そうに傍に来て今週は何かやることがありますかと聞いてきた。

「今週は特に無いよ。20日過ぎるとリヨンに行くから其の時はセディにも色々手伝ってもらうこともあるさ」
セディも中に入ってなんでもないみたいだけど普段のショウとは何か違うよねと姉に言って裏庭の掃除にかかりだした。

新しい下宿人がやってきた、DDは庭の北側に新しい4階建てのビルを建てて20人入れる下宿屋を始めるとこの間話していたが其の建物の管理人となる人だそうだ。

マダム・デルモットと紹介されたその人はマガザン・デュ・プランタンの貴金属売り場の主任を先月まで努めていた人だ。
将来的には40人規模にまで建物を増やすと言う話だがMomoはこの建物はこのまま残すとジャンとヴァネッサの夫婦に話して安心させた。

マダム・デルモットを交えてマダム・デシャンが話したことによると東側の庭の先、ノーブル街と南側コーランクール街はマダム名義の貸しビルで北側のフランクール街は地権者が違うそうだ。

地下倉庫は幾つかに別けられていたが最近は高いビルを建てるために基礎を作るために埋め立てられたため昔より小さくなっていて全体の半分も無いだろうと話し、今度建てる建物の下にも柱を立てて補強することになるそうだ。
全体で地下納骨堂は300m四方はあったそうだがLa maison de la cave du vinでは60m四方が割り当てられているそうだ。

「ショウもメゾン・デ・ラ・コメットの空いている土地に20人か30人入れるパンシオンを建てたらいいのに」

「今そんな自由になるお金はありませんよ」

「エメに出させればいいでしょ、今のままではあそこは赤字のままよ」

「投資したお金と返ってくる金額を考えるとなかなか勧められませんよ。DDのように税金にとられる前に投資に回すなら良いですがね」

「あら、ショウもエメも年に三万近い税金を払っているのでしょ。それなら其の分で建てられるはずよ」
今度相談してみるとその場は逃れたがエメのほうにもそんなに税の請求が来ているとは気が付かなかった正太郎だった。

午後気力が充実してきたらしく正太郎はバイクにまたがってサン・ドニへ向かった。
ゆっくりと走らせても40分掛からずに着いて大聖堂の周りを20分かけて一回りしてからメゾンデマダムDDに戻った。
ダンは正太郎が帰るのを待ってバイクを借り出すと街へ出て行った。

ベティに頼んでドウシュを浴びて着替えて下に降りるとテにブランデーをたらしたものとシュ・ア・ラ・クレムが出てきた。

「随分サービスがいいね」

「ダンの彼女からの差し入れよ」

「あのドミモンドの」

「あの人たちとは最近お付き合いは無いそうよ。この間のレースでの勇姿にほれたという学生さん」

正太郎がサン・ドニへ出て行った後に来たそうだ、ダンが朝から出かけていて留守だと聞いてすぐ帰ったそうだ。

「それで僕のバイシクレッテで後を追いかけたのかな」

「違うみたいよ。帰ってきてすぐ倉庫を覗いていたし、バイシクレッテの事を聞いて帰ってきたらすぐ教えてくれと言っていたくらいだから。よっぽど新しいものに乗りたかったようよ」

30分もしないうちに戻ってきてこの大きな歯車は坂道を登るには力が要るが平らなところでは楽に進むと言って何枚か歯車をつけて走りながら切り替えが出来れば最高だなと言ってドウシュを浴びに上がっていった。

10日のランディは雨、事務所に出て打ち合わせをしてから馬車でルジャランドル街のカミーユの店へ向かった。

店の増築も終わり陳列できる新しいバイシクレッテも30台を越していた。
店の半分は修理と中古を置く場所で店員も3名に増え活気に溢れていた。

目立つ場所に3位まで独占したペニーファージングと4着の正太郎の新式パリジェンヌの写真が飾られ其の先にはダンが乗った車両とダンが凱旋門と共に勇姿を誇らしげに写された写真が飾られていた。

「今度来るペニーファージング型は3種類あるそうですが価格は変わらないのでしょうね」

「今までと同じで出せるよ。他の店では500フラン以上の値をつけているそうだけど何軒も販売店があるので全て調べてはいないそうなんだけど僕が聞いた話でも安売りをしているところは無いみたいだね」

「共同経営にした後380フランから360フランにしていただいたので価格競争を仕掛けられても対応できると思いましたがこの間のレースで其の心配もなくなりました。こいつを飾ってから毎日2台は売れますよ。ショウの乗った新式は何時売り出されるんだと聞き合わせが多いですよ」

「この間パリジェンヌ商会と話し合ったがギヤの3種揃ったもので僕が買うのに800フランだそうだ。どうやっても1000フラン以下の小売は無理だよ。此処に850フランで出すにしても1200フランはお客から貰わないと無理な話じゃないのかな」

其の後チェーンの国産化やバイシクレッテ用に細くて丈夫なものギヤ比の問題などしばらく話して先月分の中古品の代金を受け取った。

「最近ミショーの中古品は大分安くないと売れませんね。ショウがつける値段は左岸地区より30フランは安いと昔の仲間が言っていましたよ。扱わせてくれないかと言っていましたが廻すだけありますかね」

「大丈夫だよ。倉庫にはミショーもファントムも10台は常備してあるよ。君と同じ60パーセントではまずいから65パーセントでクストー街に言えば1台からでも配達させるよ。もし買い取りができるなら指値の60パーセントでかまわないよ」

「相手に会わないうちに信用取引で構わないのですか」

「君が信用している人だからこそ僕に相談したんだろ」

「其れでしたら早めに連絡して最初は僕が付いてクストー街に出向きます」

「あ、其れと後払いだけど君が月末の集金を受け持ってくれるなら差額の5パーセントを君個人の手数料にして良いよ」

「本当ですか。早速本人と相談してみます。連絡は何処にしますか」

「エドモンに話しておいてくれれば良いよ。僕と連絡は其れで付くから」

10月分の1620フランを受け取ってモンマルトル・オランジェ銀行のサンタンヌ支店へ出向いて馬車を返した。
十六万五千フランを手形にしてテレーズ街のスミス商会へ向かった。

M.カーライルに手形を渡して領収書を書いてもらいカフェをご馳走になってから雨の中をメユール街のイタリア座の脇へ出てブッフ・パリジャン座へ出てポスターを眺めてバーツの出る芝居の役を探した。
今月は出番が無いのか、よい役が取れなかったようで名前は見当たらなかった。

クレディ-リヨネ銀行には寄らずLoodで昼を食べた。

「今日あたりに現れそうな気がしてドラード・ロワイヤルの良いのがあったから買ってあるよ。塩焼きにするかい」

「其れを頼みますね後この間作ってくれた焼き飯がいいな」

「あいよ、父ちゃん焼き飯だよ。魚はすぐ焼くからね」
最近シーヌの料理人から教わったという炒飯と焼き魚がパリの日本人のお気に入りだ。

食事の前にビールを出してもらいのんびりと寛いだ。
魚が焼きあがり焼き飯も出てきて食べようとしたところに中江が飛び込んできた「オッ上手そうだな。俺にも有るかい」とママンに尋ねた。

「もう無いんだよ」

「仕方ないショウのを半分呉れ」

ママンに皿を二つ貰いナイフで鯛の上身をはずすと焼き飯も半分にして中江に差し出した。

2人で半分ずつとビールを飲んですこし物足りんなと言うので鳥のラグーを出してもらいまたビールを追加した。

パンを浸して食べて満足したらしく「これから何処かへ行くのか」と正太郎に聞いてきた、正太郎も中江も最近はごっちゃに食べても違和感が無くなっていた。

「まだ仕事ですよ。これからクストー街まで出てから帰ります」

「何だ仕事か。ママン勘定だ」

「此処は僕が払いますよ」

「本当か、そいつは済まんな」
悪びれもせず片手拝みで詫びを言うと先に店を出て行った。

ペルティエ劇場の残骸の脇を抜けてフォーブル・モンマルトル街からモーベージュ街へ出て普段は通らない裏通りをクリシー大街までぶらついた。

エドモンには今日カミーユと取り決めたことを話しておいた。

「ショウ今日は歩きですか」

「ああ、サンタンヌまでは馬車だったけど後は歩いてきたよ。途中Loodで昼を食べてきたんだ」

リヨンでのレースの話をしてからイヴォンヌと軽く打ち合わせをしてジュリアンの店に顔を出した。

「ショウ小遣いだ。これが最後の500フランだ、大事に使いなよ」

「ありがとうジュリアン。品物は大分売れたのかい」

「ああ、特に高いものを除いてはな。大分儲かったぜ」

「横浜からそろそろ連絡が来るだろうけど今度も高く評価されていればいいね」
ボルドーから3回に分けて送られた品物は先月半ばから順次到着しているはずだ。

3回に分けて三万六千本が送られたのだ、パリからは今月から月一度六千本を送る予定だ、例によって3軒が集めるワインだがジュリアンは昔ほど自分で飛びまわらずにアンベルスの仲間がバイシクレッテの店を始めたりして忙しいはずなのに、ランスの地区の品物を集めることまでやらせ出し、ヴァルミ河岸にM.ルーとM.ピエールが管理する倉庫を新しく建てて最大6万本を確保する計画も立てているのだ。

ゴダベリー号で送った手紙は読んだという10月の定期連絡の電信が来て其の前についていた電信により無事に8000球の百合根が同船の9月22日出航マルセイユ11月10日着予定に間に合い送り出されたことが知らされていたがまだ其の時点ではワインについてかかれて居なかったのだ。
百合根は船代混みで42500フラン、ワインとの相殺と言うことも書かれていた。

「今月の定期連絡で値段がわかるだろうけどワインは30万フラン以上になればいいね」

「其の位にはなるだろうぜ。イギリス経由のワインも相当いい値段で売れると聞いたからな」

ジュリアンと四方山話をした後オムニバスで事務所に戻るとセディが電信の束を届けにやってきた。

横浜のものは翻訳しながらセディとM.アンドレに要点を書き取らせた。

ギヨーバラ園からは11日マルセイユへ百合根の引き取りに人を出すという連絡で、15日頃に出てこないかというもの。

横浜からは二通。
一通目にワインは最初の船の分でオークションでは六千本が六万六千五十フランで売れたこと、残り六千本は試供品を含めて六万二千フランで虎屋が引き取ることが記されてあった。

後の第二船の一万二千本は船がついたがまだオークションにかけていないこと、第三船の一万二千本が税関を通ったこと、Mr.ケンの予測では同程度以上になるだろうとの予測が書かれていた。

二通目に百合根が次回は二月発送予定であること、人形は日本人には余り人気が無いが清国の買弁が大量に買い入れたことなどが記されてあった。
ワインの部分はアランにすぐジュリアンに連絡に行かせることにした。

予定金額のほぼ倍の儲けに売れたのだ、ジュリアンの分もほぼ半分あるのだから夫婦で祝杯を挙げるだろうと正太郎は思うのだった。

仕入れは運賃保険を含めて三万六千本で二十四万六千フランだと言うことはジュリアンの儲けだけでも五万フラン以上になるはずだ。

「ショウ、この分の支払いが入ると今年の収支は赤字にならずに済みそうですよ」

「本当かい、それなら来月其れが確定したらクリスマスには特別手当を出すか」
やった、とモニクの声が上がった。

「まだ確定していないよ。それにどのくらい出せるかも判らないんだから」

「それでも気合が入るわよね。ノエルの休暇に少しでもお小遣いが有ると気持ちのゆとりが出るわ」
2人の事務員の娘ともう懐にお金が入ったようにニコニコしていた。

「ショウ、あんなに喜んでいるのに出せませんでしたというわけに行きませんよ。大丈夫なんですか。ヴィエンヌの分が入るかどうかも判らないんですよ」

「ジャポンの公使が保障したんだから入れてくれるだろうよ」
M.アンドレは懐疑的だがモニクたちは其れも入れば今年は大分黒字になると嬉しそうだ。

「あまり儲けが出すぎるとまた税金が沢山来そうだな」

「其の分は別に計算してありますから支払いに困る事はありませんよ」
M.アンドレはそういうこともきちんと計算してあるようだ月480フランの給与は伊達ではないのだ。

Momoが勧めたアパルトマンの増築について話をしてみた。

「庭も広いですから西側に建てるのもいいかもしれませんね。ただ朝食付でやるには食堂が狭いのではないですかね」

それなら支配人室を新しいほうに作って今のところを二つ目の食堂にしてもいいんじゃないかな。あと1人くらいメイドを増やしてもいいし」

「そうですね今2人も居るんで楽をしすぎていますからね」
M.アンドレは1人で充分と言うのを正太郎が2人おいたのだ。

「エメに出させると言うのも良いですがそんなに彼女の方に余裕があるのですかヴァルダン通りに家を買うのに彼女が出したんでしょ」

「あれはロトリー・ピュブリックのほうからだけど、僕はエメの財政状況は知らないんだけどMomoは大丈夫だと見ているよ」

其れはショウに任せますからとM.アンドレは言ってモニクも20人は入れるなら40フランで各階に風呂場とトワレットゥを置くか部屋数を減らして各室にドウシュとトワレットゥをつけて120フランくらいとるかのどちらかねといった。

「それいいね。狭い部屋より3倍の広さで3倍の値段をとっても風呂場と外のトワレットゥの分が要らなくなるから」

「120フランも払える人がそんなに居るかな」

「夫婦で働く子供の居ない家族ならそのくらい払えますよ。其れと朝食つきなら奥様が飛びつくわ」

「15日頃リヨンへ出てこないかとギヨーさんの方から言ってきているから其れまでにエメと話し合ってみるよ」

電信をM.アンドレに見せて今週の日程の調整をしてもらった。
其の15日はサムディ翌日の16日は事務所も休みなので正太郎が出かけても支障は起きないようだ。

正太郎がその日のうちにエメと相談しに出かけると「あのあたりはサン・ドニに新しい工場が増えて其処で働く人の中でいいお給料を取る人たちが多いから120フランなら出す家族持ちも多いはずよ。シャンブフ・ア・クシェ(寝室)とキュイズィヌ(台所)とサル・ドゥ・セジューフ(居間兼用食堂)に子供部屋にサル・ドゥ・ヴァン(浴室)とトワレットゥが付けば完璧よ」

「そんなに設備が付いて120フランで採算が取れるのかな」

「ショウが言っていた朝食付で無ければ大丈夫よ。夫婦者専用では子供が出来た時何処に移れというのではかわいそうよ。其れと朝は今までの食堂で間に合うなら引き受けてもいいんじゃないの。今のままでも15人は入れるはずよ」
明日のマルディは午後の授業が無いと言うので事務所までエメに出てきてもらいM.アンドレとダヴ(M.ルモワーヌ)を交えて話し合うことにした。

敷地の西側に4階建てで1階と2階はエメに意見どおりの部屋。3階と4階には子供部屋が無いものでどうかと言うことになり、1階と2階は130フラン、3階と4階は110フランと決まった。

「130フランの部屋は8部屋、110フランの部屋は10部屋取れるでしょう。M.ギャバンに頼みますか」

「彼の方でこういう建物が建てられるのなら今までの付き合いもあるしいいんじゃないか」
メイドも一人増やすようだろうと話が決まりアランがM.ギャバンの都合を聞きに出た。

「朝食は1人月ぎめで1日40サンチームで出来るかな」

「朝の定食なら今の予算は其れで充分間に合います」
ダヴがそちらは大丈夫と請け合った。

月2140フラン年25680フランの収入があるとして修繕費などの経費に3000フランを積み立て入居率が80%とすると1万7544フランが入ってくる上限と見なければいけませんとダヴとM.アンドレが正太郎とエメに話して「5年で元を取るなら8万5千フランまででしょうが、3万5千フラン位で済むでしょう。家具つきなら5万フランくらいですね」

「家具つきだと高くするようかしら」

「其れより1階部分は家具無しにして10フラン引いて貸せばすぐ埋まりますよ」

ダヴはそう言ってM.アンドレと顔を見合わせて「あなたもそこへこられれば良いでしょうに」と誘った。

「いや、僕のところは家族が多くてね。僕たち夫婦と子供が二人にかみさんの弟が居るんだ。すこし無理だよ」

「其処まで家族が居るとやはり後1部屋は欲しいかな」

「そうなんですよ。でも子供たちに1部屋ずつ与えたいから義弟に出て行けともいえなくてね。また子供ができたりしたらすこし狭いかなと思うのですよ」

「それなら二部屋続きで貸せるように間取りを考えるからどうです」

「本当ですか、トワレットゥなどはひとつで済みますからそうしていただけると助かりますが今は130フランで借りているのですよ」

「ほら他の人と同じように社員割引で150フラン朝食つきと言うのはどうだい。勿論家族の分も含めてだよ」

「本当ですか、そいつは安上がりになりますね。子供が食堂に入っても良いですかいダヴ」

「もしなんなら敷地内なんだ出前にしても良いさ」

「今の古い建物から其の値段で新築で使いやすくて、下の階なら申し分ないですね」

アランがM.ギャバンと共にやってきた。

「丁度打ち合わせに仕事場に居ましてね。新築ですか」
アランからあらましの話を聞いたようだ。

話を聞いて「新しく雇うメイドの部屋はどうしますか」と疑問を正太郎に聞いてきた。

「ありゃ忘れていたよ。新しいほうには独り者が入る事は少ないだろうから屋根裏を改造するようかな」

「そうですな。M.アンドレの部屋を1階に横に広げるか上下に分けるかでメイド用の部屋が取れるように考えますよ」

餅は餅屋というがM.ギャバンが簡単な見取り図を書いて階段脇から2階へ上がる図を書いて其の階段脇にメイド用の部屋其れも浴室にトワレットゥが付くという至れりつくせりの物を考えてくれた。

「これだとM.アンドレの部屋は他の人から独立した形だね。1階に寝室と台所兼食堂に居間が付くんだね。二階が3部屋か」

そうです其の部分だけ2階建てですこし張り出しますが屋上へ出られるようにすれば洗濯物を干すにも良いですし他にも使い道を考えればいいもんですぜ」

「屋根でなくとも水が入ることが無いかな」

「そいつは任せてくださいよ。すこし試してみたいやり方もありますので後の事は面倒見ますし」

「それならあなたに任せますが、家具付でどの位になるか至急計算書を出してくださいますか」

「此処で良いですか」

「結構です、計算書が出たら検討をしてなるべく早く結論を出します」

「では5日ほど待ってください」

「判りました。来週のマルディにはリヨンから戻りますので20日までに結論を出します」
M.ギャバンが戻っていくとエメも交えてM.アンドレの希望と間取りなどについて話し合った。

正太郎がリヨンから戻ったのはランディの夜翌日の午後にエメも事務所に来てM.ギャバンの設計図と予算表の検討を始めた。

家具付きを全室で行うと36800フランと出ていた。
正太郎がMomoに聞いた話から見ると大分安く出来るようだ。
図面には水周りも台所の火災予防についても書かれており夫婦者が住むのに最大限の配慮がなされていた。

「これなら3年で元が取れますよ」

「まぁ其処まで甘く無いでしょうけど保険もかけても充分元が取れそうね」

「それで僕のほうから出す。Momoが言うようにエメのほうの余裕があるの」

「私のほうからで良いわ。私の会計士に帰りがけに話をして税金対策もしてもらうわ。先払いで半金入れれば今年はともかく来年の税金が大分安くなりそうよ」

「そうか今年は2軒エメの名義で買い入れたんだ」

「そうよ貴方のほうは大丈夫なの」

「ショウのほうは去年の分より少なくなりますよ。大分節税できますから」

設計変更が必要な部分をM.アンドレが書き入れてM.ギャバンに連絡を取ることになりその場でアランが出て行った。
戻ってきたアランが今日は出られないので明日の10時に事務所に伺うと返事を持って帰ってきた。

エメが2万フランの手形を持参して10時までに事務所に来ることになり其れまでに変更箇所が必要なら考えを纏めることにした。


Paris1873年11月28日 Friday

ルネと正太郎はリヨンへやってきた、30日のレースもあるが百合根の検査結果の出る日だからだ。

ブルゴーニュの新酒祭りは11月15日、モンマルトルは11月の最後のヴァンドルディ今年は28日に新酒祭り(近年は10月第2週末3日間)があるがリヨンはレースのある11月30日のディマンシュだそうだ。

ホテルにセルヴィエットを置くと正太郎は早速ギヨーのバラ園に出かけた。

「やぁ、来たね。いい結果だよ。8000のうち撥ねられたのは60だけだ、ジャポンからの長旅にしては充分満足できる結果だよ」

「それは良かったです。安心しました」

「うんうん、2回めの結果としては充分満足できる結果だ。園芸関係者も今回の到着を待ち望んでいたんだよ。オークションに200球ずつ3回でいいんだね」

「はいそうしてください。僕のほうへこの間のように500球を送り出していただければ後は3000球がM.ギヨーのもので残りはこの間のように配分してくださいますか」

「勿論だともそれで今日は私たちの分の31500フランのクレディ・リヨネ銀行の手形を用意したよ。500は明日にでもパリへ送り出しておくよ。オークションは12月の3日、10日、17日だよ。それから横浜への2回目の苗の送り出しは12月12日の船と決まった。ゴダベリーがその日の出航と言うのであわせることにしたんだ」

縁起担ぎはフランス人も同じなのかと正太郎はおかしかった、百合根でいい思いをしているから薔薇を送り出すにも其の船にしたと言うことなのだろう。

42500フランの元値の7割近くがこれで回収できた。

「では会計の締めもありますので12月20日に出て参ります」

「良いよ、まぁ暇ができれば其の前に遊びがてら、いや君のことだから商売がてらと言うほうがいいかな」

「オークションの会計はその20日の日で結構ですのでよろしくお願いいたします」

「判ったよ、20日の日に渡せるように3回目が終わった時点で用意しておこう。それでバイシクレッテのレースは見て帰るのかね」

「はい、明後日が楽しみです。昼間の新酒祭りのにぎわいも楽しみですしレース結果がよければ夜も宴会をと考えています」

「レースは大分と参加者も多いらしい、君たちの店のは新式のらしいね」

「もう噂が出ていますか」

「昨日アランとあったが見慣れた型なのに何かおかしいと馬で追いかけたが凄いスピードで苦労したと言っていたよ」

5日目から始めた練習で街の注目が集まっているようだ、ルネの目論見どおりなら来年には大分売れる車種の仲間入りができるかもしれないのだ。

バイシクレッテの店へ行くとポールもユベールもあまり覇気が無い顔をしていた。

「どうしたよ。練習しすぎて疲れたのかい」

「確かに今練習帰りでまだマッサージも受けていないので疲れているのですがショウと話して決めた1区に当たる直線でペニーファージングに勝てません。昨日からそれでユベールと夕方に交互にペニーファージングと競争しましたが300mも離されます。どちらがやっても駄目です」

「なんだそんなことか」
地図の前に行くと「13区までで5分以内なら勝てると踏んでいるんだがどうだい」とユベールに声をかけた

「ペニーファージングのものと今朝一緒にスタートしましたが上り坂の手前で8分引き離されていたそうです。大学へ行っているバイシクレッテの仲間が計ったので間違いないと思います。ただ相手は16区のところでやめていて僕たちが其処まで行くと帰ったのでそのあとが判りません。僕たちで明日交互に走った方が良いですかね」

バスティアンが「今になって弱気でどうする。此処まで来たら迷わずに新型のパリジェンヌで行くほうが良いだろうぜ。ペニーファージングでは17区からの上りや其の後のくだりでペニーファージングから降りて押さなければ体力的に無理のはずだ」と励ました。

「僕もそう思うよ。周回コースが反対で最後が直線の1区だったら危ないかもしれないがフルヴィエールの丘から降りてきた後またテット・ドール公園への緩やかな上りは相当足に疲れが溜まっているはずだよ。そして其処からのくだりはカーブがあるから君たちが乗るギヤの利点が最大限に生かされるはずさ。だから16区までは無理をせず体力を温存して置けば其の24区からが最大の山場になるはずさ。最初に飛ばせばパリと同じように相手はふらふらになるはずさ、此方はパリのように関門での休憩が取れないようなら水筒にレモン水を入れてバイシクレッテに取り付けて置いたらどうだい」

「其れはいいかもしれませんね。練習でつい何も飲まずに走りこんでいたので気が付きませんでした」

「マッサージが来たよ」
大家のM.キャステンが顔を出して2人を呼びに来た。

「やぁショウじゃないか。もう出てきたのかね」

「ええ、気に為りましてね」

「そうかい。わしもだよ。店子がレースに出るというだけで気持ちが高ぶって困るよ」
そういいながらも顔は生き生きとしていた。
2人はM.キャステンと共に3階に上がっていった。

「大分大家さんも気合が入っているようだね」

「そうなんですよ。マッサージをしてくれる人を紹介してもらったら自分の部屋を使えと毎回提供してくれます」
ミシェルもショウが来て元気が出たようだ、2人の様子が心配で中古のバイシクレッテを磨くのも手につかなかったようだ。

「ミシェルはバイシクレッテが上手になったかい」

「はい、バスティアンは帰りみちが暗いから押して帰るように言うので店に来る時だけですが最初に比べれば5分以上は早くこられます」

「あまり急いで馬車にぶつかるなよと言うのですが、だいぶ急いで来る様で心配なのですよ」
あまり心配かけるなよというありきたりの言葉をかけた正太郎に、大丈夫ですというミシェルだった。

「ショウは今度のレース勝てると思いますか。僕はパリと違って難しいと思うのですが」

「リヨンは相手がはっきりしていないからね。ミショーとブルジョワ階級の遊び人が相手だったが此方はどういう人がでてくるか判らないのさ。でもペニーファージングに負けても販売には響かないはずだろ」

「そりゃ主力がペニーファージングですからね。リヨンでは最近マルセイユから入る店とミショーの専門店で2軒出ましたが品揃えでは負けていませんよ」

「大学生は見つかったのかい」

「ペニーファージングで走る練習仲間がチームを組むと言うことですがレースでは最初に出遅れそうなので別行動にするしか無いと言っています」

「そうか、では後半に期待して走ってもらうしかないよ。10位以内にはいるなら良いという気持ちも有るんだよ」

「ショウはペニーファージングのほうが強いと思いながらパリジェンヌ商会と契約させたんですか」

「新型が世の中にでるためには冒険も必要さ。パリで4着なんだから其の心算で見ておいて其れより上なら彼らの実力が僕より上と言うことが実証され、パリジェンヌの新型にそれだけの力があるという証明さ」

マッサージが終わりドウシュを浴びて降りてきた二人は先ほどとは別人のように気力が充実していた。

「ルネは実家に行ったよ。レースが終わるまでは遊びは無しだと彼らしくないことを言っていたぜ」
遊びはレースが終わってからだとバスティアンが二人に言って体力勝負だ、いい物を食って力を付けなよと笑った。

レース当日リヨンは肌寒い曇り空の夜明けを迎えた。
8時20分になってようやく顔をのぞかせた太陽もすぐまた雲間に隠れてしまった。

それでも開始時間近くには17度℃くらいまで温度が上がり20分前にはそれまで羽織っていた上着をミシェルに渡して準備運動の仕上げをしてマロニエの落ち葉も片付けられたベルクール広場の中に入った。

背中に付けられたゼッケンは21番と28番、先頭は太陽王の像から7台ずつ並び三列目のポールの後にユベールが並ぶといういい並びだ。
昨日紹介されたリヨン大学の学生のポール・ジャンとトーマスさらにテオは100番台のあたりに顔が見えたので近寄ると101番102番103番と15列目にならんでいた。

「まずまずの場所だな、ポールたちに直線で追いつけるように頑張ってくれよ」

「ええ、2区の丘の上辺りまでに追いつくから其処からチームで頑張ろうと先ほど話し合いました」

賞金商品の分配はいいからペニーファージングを提供して欲しいと言うのでポールとユベールの車にバスティアンが1台提供しての参加だ。
最初は2人だったが自分のが訓練中に壊れたトーマスが仲間に入れて欲しいとテオに頼んできてバスティアンが了解したのだ。

列は公園の外まで続きアランと見に行くと最後は450番でこのあたりの選手は序列争いにはもう無理だという顔をしていたし乗っているバイシクレッテもミショーに旧ミショーのボーンシェーカーまでが有った。
アランと顔見知りも大勢居て声を掛け合っていた。

「アランはバイシクレッテに乗らないのかい」

「遊びには乗るがレースで走るほど体力が無いよ。馬かペローがヴィエンヌに出品した蒸気機関エンジンが付いた車がいいな」

「あれは新聞で読んだが手がかかりそうだな、半分以下の大きさにしないと無理だし実用になるには蒸気では無理があるよ、後10年はバイシクレッテにつけるのはかかりそうだ」

「そうか、でもあれが軽量化できれば翼をつけて空も飛べそうだ。後はルノワールの内燃機関が実用向きになればいいんだがね」

「はは、アランは夢が大きいな。僕もジャポンから来る時にすぐ実用になると期待していたんだが中々か上手く行かないようだね」
2人はエンジンについての話に夢中だ。

「毎日丘の上から眺めているとな馬に翼があればこのリヨンの空を自在に飛べるのにと夢に見るのさ。この間甥っ子のジャンが来た時に其の話をしたら僕もこの街で叔父さんと空を飛べたら好いなと言うのさ可愛い奴だぜ」

「其の子ってあの馬に乗せていた子かい」

「そうそうまだ9才だが俺と違って利発な子さ。兄貴の自慢の子なんだぜ」

20分前になって見物の人間や新酒祭り目当ての者たちがぞろぞろと出てきたので2人はローヌ川のポン・ユニヴェルシテを渡って川岸沿いにポン・デ・ラ・ギヨティエール付近に向かった。

其処も人が多く見づらいのでギヨーバラ園に行くと庭に見物用の台がしつらえてあったので2人で其処に上がらせてもらった。

花火が上がり其れ来るぞという声が架かり歓声がだんだんと近づいてきた。
先頭は大分飛ばしているようで3台のペニーファージングが凄い勢いで通り過ぎた。

「ありゃ無理だな。50キロ以上もあんなスピードで走れやしないぜ」
アランはそう言って応援の声を上げながら騒いでいた。

ポールとユベールは焦らず前に出たい者の邪魔にならないように30番目くらいで道の端を走っていた。
最後のバイシクレッテが通り過ぎたのは先頭から15分もたってからだ。

「最後まで何台残ると思う」

「僕は先頭から1時間以内に50台くらいだと思うよ」

「よしかけた。俺は45台」
何だ其れを賭けにするのと聞くと夕飯1回とアランはもう決めたとばかりに言って次の見物場所のサン・ポータン教会前の知り合いの家へ出向いてカフェをご馳走になった。

ポールは先頭がポン・デ・ラ・ギヨティエール付近からスピードを上げてガンベッタ大通りを疾走するのを見て自分たちのペースを守るのに懸命だった、ユベールがつい焦って前に出ようとするのを抑えるように進み、緩やかな上りを追い越してゆくペニーファージングやファントムを見ていたが鉄橋を越して一度道がモンプレジールで降るところでペダルに力を込めて尻を浮かせて前に出だした。

上り坂に掛かるとさらにスピードを上げ5台ほどは抜き返したのでユベールが声をかけて前に出て丘の上で右へ曲がる2区まで力を込めてペダルをこいだ。
丘の上の緩やかな曲がり角を通り抜け、自分たちで3区と名付けた角でようやくテオたちが追いついてきた。

「早くないか」
トーマスが声をかけてきたので時計を見ると22分掛かっていた、テオたちは40台近くも抜いてきたようだ。

「いやすこし遅めに走っているよ、思ったより追い越された奴が少ないからさ。このくだりが終わればまたすこしあげるぜ」
4区までは10500m、時速なら28キロくらいユベールと21分で走ろうと決めていた区間だ。

4区は緩やかに右へカーブした1400mの危険な降り道、ペニーファージングがスピードを緩める中2人は右回りの道を一気に降りきると5区のなだらかな眺めのよい丘の中腹の道で息を整えて蜂蜜入りレモン水を飲んでテオたちも此処で水分の補給をしながら息を整えた。

6区へ入る曲がり角でまた追いついてきた3人に此処からはまたスピードを上げて前を追いかけるぜと声をかけてパール・デューめがけてモンプレジールの中へ入っていった。

鉄橋を過ぎても後から抜くバイシクレッテは無く何か拍子抜けのする2人にならんできた3人が「すこし前に出るぜ」と7区の曲がり角までの4000mを引っ張ってくれた、其処までで33分で遅れた1分を取り戻し、角を曲がればゆるい上り坂の7区2100mの道で徐々に調子も上がってきた。

デュケーヌ街の角を左に曲がるとポン・デ・ラットル・デ・テサージュが掛かるローヌ川、橋を渡る8区は350m、9区は河岸沿いに3000mを降りガール・デ・リヨン・ペラーシュに行き当たる。

隊列はペニーファージングが前に出て進み駅前広場をソーヌ川との間を時計回りで一回り10区11区12区とした1200m、交互に先頭を走りその後の調整に使う予定の区間、その間に話がまとまりユベールが前に出て左に曲がれば13区1500mはクロワ・ルースへ向かう上り坂の難所。

街の中の細い道や急に広がる道を通り抜けるとさらに道は登りの800mの14区、オペラ座からは左の市庁舎へ直角の曲がり角の15区600mの入り口、スピードを落とさなかったペニーファージングが曲がりきれずに転んでいた。

ポン・デ・ラ・フェイェまでは緩やかな降りでソーヌ川を渡ってまた河岸沿いに降る16区プレスキルの突端が見えるところまでの6000m、川の上の船も汽笛を鳴らして声援してくれた。

17区は右の丘へ上る難所の入り口、丘の上までのジグザクコースを登れば18区のなだらかな3000mの見晴らしのよい高台で19区の丘を降る難所までは一息がつける場所。
この上り坂で息をつなぎそこなった先頭集団から落伍してくるペニーファージングを5台のチームは楽々と抜いていった。

丘の上のカフェにいたバスティアンが先頭は3分前、18台と叫ぶ声が聞こえた。
19区へ降る前に時計を見ると52分、26950m地点、予定より2分早い通過だ。

再び登るとレース最大の難所の20区としたトリオン広場から右へ一気に下る道だ。
ペニーファージングの仲間には「此処からは前にのめらないように慎重に降りてくれ」ユベールが声をかけて先に進んだ。

「気をつけて降りろよ」
ポールが後を追いながら仲間に声をかけた、やはり急な降りは練習で危険と察したかペニーファージングに乗る先頭集団は車から降りて下るものもいて楽々と二人は追い越していった。

2人は丘を降るカーブが続く危険な道の20区600mが終わり21区1600mの丘の中腹をたどりポン・マレシャル・ジュアンまで降るところで一息ついて蜂蜜入りのレモン水を飲みながら並んで走りこれからの作戦を話し合った、其の目の前にファントムの3台のグループがいた。

「凄い奴らだな」
ポールが呆れたように言うと「こいつらこれからも強敵に為りそうだ」とユベールが相槌を打った、背中のゼッケンは35番12番6番だ。

22区としたポン・マレシャル・ジュアンでソーヌ川を渡り商工会議所の前を通りローヌ川を越してパール・デュー駅の鉄橋を越す2700m、やっと此処でファントムの3台を抜くことが出来た、このあたりはロータリーが無くペニーファージングには曲がりづらい直角の角が続き2人は23区へ入る左の道へ曲がると駅前の声援を受けて駅の先のロータリーまで1000m、其処で24区700mの左の道へ曲がった。

鉄橋を越して公園の外の周回コースへ其処は今回の明暗を分けるとルネが言う25区の入り口26区までの1周4300m、テット・ドール公園は1856年に整備された117ヘクタールの広大な美しい公園、また追いついてきた3人を従えて反時計回りに周った。

テオたちの実力はポールたちに負けないようだ、1時間29分がたっていて予定より3分早い公園への到着だ、残り8800m地点でルネが55秒差10台と声を枯らして叫んでいた。

周回で6台を抜いて公園の出口で残りは4550m、ルネが先頭は30秒差で4台だと声をかけてきたこの周回で25秒も縮めていた。

テオたちには大分此処で差が付いていた、ポールたちのスピードが早くなり限界が近いようだ丘を降った後の無理がたたってきたのかも知れない。

パール・デュー駅の西側を通り抜ける26区は2400mの降り、そこで1台を抜いたが先頭は勢いがあるようにユベールには思えた。
27区は650mのわき道、ポールが勢いをつけて漕ぎ出した。

右へ曲がるとガンベッタ大通り、其処を優雅に曲がり残りは1500mの直線下り坂、28区と名付けた最後の決戦場だ。

先頭との差をまた詰めた2人は角を曲がると50m先に見えた3台のペニーファージングが競うように走る中を割るようにポールが入りこみ、其れに続いてユベールが前に出ると其処へ抜かれた1台がユベールに食らいつくように追いすがった。

1台のペニーファージングが二人に続いて大通りを疾走していった、ギヨーバラ園で見ていた正太郎にアランにはどちらが勝つか判らないなというほどのスピードが出ていた。

「すげぇ早さだな。スタートした時より出ているぜどうすりゃあんなに出るんだ。ここまで来てあれは凄いぜ」

「本当だ後ろとどんどん差が付いてゆくよ」
すこし離れて2台、100m遅れてテオに5台のペニーファージングとファントムにパリジェンヌがもつれるように通っていった。

ポール・ジャンとトーマスさらに後から2台のペニーファージングが来た。
其の後をすこし遅れてぽつぽつと通るバイシクレッテは力強さにかけていたがファントムとパリジェンヌが何台も混ざっているのに正太郎は驚きを隠せなかった。

「まだまだペニーファージングの天下にはならないのか」

「なんだショウは新型で勝てそうなのにペニーファージングが気に為るのかよ」

「いやそうじゃなくて旧式に成り出したファントムにパリジェンヌがもう何台も通っていったからだよ」
先頭から15分がたち28台がバラ園の前を通過したのを見てアランと正太郎はゴール地点へ向かった。

ポールが懸命にこぐ中一度抜いたペニーファージングが橋の前100mで前に出てそれに続いたユベールが250mのポン・デ・ラ・ギヨティエールを渡りきる前に追い越して先頭で橋を渡りきり其のまま3台が縦に並んでフィニシオン(ゴールイン)した。

着順の書かれたカードを首とバイシクレッテにつけられ競技委員にバイシクレッテを預けて公園の中に入ったポールが時計を見たときが11時40分50秒だった。

「ポール55キロを100分で走れたな。予定より3分早かったぜ最後の8800mはお互いよく走れたぜ」

「ああ、平均の時速で32キロが良いとこだと思ったがパリ並みに走れるとは思わなかった」

「最後は50キロくらい出たかな」

「そうかもしれないぜ。時計を見る余裕も無かったがな。ユベールの最後の踏み込みは迫力があったぜ俺はもう一度追い抜くだけの余力も無かったよ」

「俺ももう駄目かと思ったが追い抜いたペニーファージングに巻き返されてなにくそと踏み込んだら思いがけず前に出たので驚いたくらいだ。何処にあんな力が残っていたのか不思議なくらいだ
時速に直せば100分は33キロだ、パリよりも上りのきついリヨンではよい記録だ、パリは約50キロを平均時速33.5キロだったのだ。

自分達の立てた予定よりすこし早かったと10番台に入ってきたテオたち3人と健闘を称えた。
其の頃には彼らの仲間達に混ざりファンに為ったらしい街の人たちでもみくちゃになっていた。

2着に入った7番のゼッケンのアンドレという青年が2人に寄ってきて握手を求めた。

「さすがパリでのチャンピオンチームの方々です。敬服いたしました」

「いやあなたこそ最後の力走には敬服いたします。あれだけ上り下りのきついコースをこれだけの速さで乗り切るとは驚くばかりです」

「いやぁあなた方のバイシクレッテを甘く見すぎていました。最初の6キロで完全に離したと思ったのにこれだけ粘られるとは夢にも思いませんでした」

其の話を周りの者たちも真剣に聞き入りバスティアンとミシェルがあげたブラボーの声で一斉にユベールの体を持ち上げて優勝を称えた。

其の頃には正太郎もアランとやってきてユベールが1着に為った喜びの輪に加わっていた。

遅れてやってきたルネはアンドレが仲間から祝福の胴上げをされているのを見てガッカリした表情でバスティアンと正太郎の傍に来た。
ユベールの「ルネさんおめでとう」という声を聞いてもきょとんとしていた。

ポールが「ユベールが1着で僕が3着ですよ。あなたの新型車の勝ちですよ」という声で思わず天を仰いで「オー、神様ありがとう御座います」と雄たけびを上げていた、故郷へ錦が飾れこれで自分たちの仕事が親類一同から認めてもらえると感極まったのか涙声で正太郎たちにかわるがわる「メルシー・ムッシュー」と言ってはかたく手を握りあい、肩を抱いてはビズをして回った。

最後にはポ−ルたちの服を持つミシェルまで抱き上げて振り回して喜びを表していた。

「今日は宴会だぞ。朝まで飲むぞ」と誰かれなく抱き合っていた。

正太郎がアランに「コンテッセの店は今晩開いているのかな」と聞くと今から言えば開けてくれるぜとアランの返事が来て家にいるはずだとコンテッセの住まいまで2人で出向いた。

「良いわよ。1000フラン出してくれるかしら、女の子達も集めて飲み放題で開放するわ、でも料理は期待しないでね」

「判りました」
正太郎はその場で50フラン金貨20枚をコンテッセに渡した。

「まぁショウは気風が良いわね。これですものオルガが惚れるわけだわ」
すぐに連絡を出してくれて「7時に間に合うように人を集めるから其の時間以降にしてね」と言うので広場に戻ると興奮状態のルネを捕まえて場所を決めてきたからと伝えた。

ナタリーとシルヴィの顔が見えたのでお針子たちへも遊びに来るようにカドラの場所と時間を伝えた。

「忠七も呼びますか。新酒祭りでどこかで遊んでいるはずよ」

「そうしてくれるかな。勿論M.ジルベールや君の兄さんにも他にも連絡が付けば知り合いを呼んできてくださいよ。あそこなら200人は入れるから」
広場は表彰式の後は新酒祭りの会場になりバイシクレッテを持って帰る人の足もふらついていた。

正太郎は甘かったようでルネが親類縁者を呼んだので店は9時を過ぎるとフロアも満杯でダンスをする余裕さえなくなっていた。

バスティアンは第2会場の手配が出来るかポール達と相談していたがどこかあてがあるらしくポール・ジャンがテオと出て行った。

ルネはコンテッセに店の従業員は何人か聞いて正太郎と10フランの持ち合わせを出しあうとジュネという娘に案内されて一人10フランずつ配って歩いていた。

「まぁ、あの人どうしたのかしら店の娘じゃない人にまで配っているわよ。20人だといったのに足りるのかしら」

「僕が持っていた10フラン金貨30枚を強奪していきましたからね。何枚配ったのか判らなくなるほど酔っているんでしょ」

「ジュネも止めさせればいいのに笑っているわよ。やだあの人リドの踊り子じゃないの」
もう正太郎は笑うしかないルネの有様だ。

ジャネットが傍に来て「私たちそろそろお暇しますわ。バスティアンを知りませんこと」と首を伸ばして探して見つけるとそばに言ってビズをして帰っていった。

「ショウ、あの人たち仲がいいのね」

「そう、一応婚約中なんですがね、何時結婚に踏み切るのか気にはしているんですよ」

「そうお似合いね」
コンテッセはそう言って挨拶回りに人の輪に入って行った。

ポール・ジャンがテオと戻ってきて近くの酒場が50人ほど入れると言うので学生達はバスティアンから100フラン貰うと其処へ向かっていった。

テオたち3人にも200フランの賞金が出ているので懐は暖かいようだ。
アンドレの仲間も来ていると言うのでポールとユベールが一度顔を出してきますと中座してようやく店も落ち着いてきた。

正太郎は酔っ払ったルネをジュネに任せてバスティアンと一度向こうへ顔を出すと出かけてア・ヴォ-トル・サンテとビールで乾杯をしてテオに100フラン渡して足りないときは後で請求してくれたまえと4人でふらふらと前の店に戻った。

まだ其処には50人ほどの猛者がいて隅にはミシェルが食べ疲れたかセルヴァーズに膝枕をしてもらい幸せそうにすやすやと眠っていた。
ミシェルは店のセルヴィスが家を知っていると言うのでコンテッセの指示で負ぶって家まで送ってくれた。

アランがもう駄目になりそうだがもう一軒いくかと聞いてきたのは1時を過ぎた時間だ。

「明日は仕事だろもう寝に帰りな」
そう言って馬車を呼んでもらうとバスティアンと3人でルネを置いてきぼりにして引き上げることにした。

いいのかいというアランに「後はルネの親類や学生時代の友人だそうだから勝手にすれば良いさ、ポールたちも適当に引き上げなよ」と馬車に乗り込んだ。
2人を届けると正太郎はボンディ河岸のホテルへ戻ってル・リに倒れこむように眠りに付いた。

翌日のランディも曇り正太郎は6時には目が覚めてしまった。

習慣で身支度をして暗い中を朝の散歩に出ると肌寒い中を酔っ払いが何人もバルトルディの泉の脇で眠っていた。
ポン・モランを渡ってプレイス・マレシャル・リョーテイに出ると昨日の新酒祭りの残骸がまだ片付けられていなかった。

ポン・デ・ラ・ギヨティエールまでローヌ川の河岸を下りベルクール広場からソーヌ川をポン・ボナパルトで渡った。
橋から川上を見ると灯りの中で魚を降ろす船の周りにはムエットが群れあつまって騒いでいた。
サンジャン大聖堂で7時の鐘が鳴り響きホテルに戻るとクロワールにぐったりとしたルネが座っていた。

「やぁ、今帰ったのかい」

「ショウか何時の間に消えたんだ。気がついたらジュネという娘の家だったぜ」

「じゃ、いい思いをしたんだ」

「ふん、40フランあげて出て来たが覚えちゃいないのさ。いい思いなのかどうかわからねえで払う金ほど馬鹿らしいものはねえよ」

「従兄弟と言う人たちはどうしたの」

「そういえばカドラを出てからもう一軒寄った時までは一緒だったな」

「其の店にはジュネも一緒だったの」

「ああ、確か男5人に女が5人いたな」

「じゃそれぞれいい思いをしたんじゃないか」

だんだん記憶が戻ってきたようだが、また眠気がしてきたようで「あばよ」と自分の部屋の鍵を受け取って2階の部屋へ上がっていった。
正太郎が心配して1階の上の階段まで付いていき首を伸ばしてみていると廊下をふらつきながらも無事部屋にたどり着いた。

食堂で朝食のサラダとウフ・オ・プラを食べた。

1階の自分の部屋でノートを付けているとルネがノックをして入ってきた。
もう起きたのと聞くと「ああ、1時間も寝たようだな」と髭もあたったようですっきりした顔をしていた。

昨日の勘定だがカドラの支払いは済んでいるといわれたが幾らなのだと聞いてきた。

「昨日は僕が支払ったから良いよ」

「そうはいかんよ。それなら半分出させてくれ」

「コンテッセには1000フランで貸し切り、飲み放題の約束だよ」

「では500フラン、札でいいか」

「良いよ」
50フラン札を10枚取り出して正太郎に渡した。

「すまんな500フランも散財させて」

「良いよこれから新式のパリジェンヌで儲けさせてもらうから」

「あれも後100フラン安く出せればいいんだが。中々安く出来なくてな」

「高いのは高い為りに買い手が現れるさ。あまり出回らないと言うのは金持ちには自慢になるからさ」

「そうかもしれないが、1500フランでは売れないだろう。兄貴は定価1500フランだと決めたぜ。ショウ以外の卸し値段はギヤの替えつきで1000フランだ」

「儲けを減らして1200フランくらいだろうね。一台は一台だから」

「何のことだ」

「パリジェンヌで100フラン儲けるのと新式で200フラン儲けるのは1台あたりの儲けが多いと言うことさ確かに元値は高いけど1台売れば2台分儲かるなら資本投下に変わりないよ。それに売れる台数は一人1台と思えばどれを売っても同じだよ」

「よく判らんが高ければ高い為りに売れると言うことかな」

「そういうこと、ただ大量に僕のような弱小の中間業者には買えないだけさ」

「うちで直接売る方向にしないと駄目かな」

「其れをやると小売店からそっぽを向かれるよ」

「其れが一番怖いんだよな。ショウはジャポンへもペニーファージングを送り出しているのかい」

「あれはジャポンには向かないよ。パリジェンヌ商会の新型車が値下がりするまで暫くは様子見だね」

「今までのでは駄目かな」

「イギリスの価格が高い間は大丈夫だけど、向こうが値段を下げてくると性能はファントムと代わらないからね。やはり新型の価格競争に勝てるかが勝負だよ」

「そうかチェーンの特許が切れる18年の間に如何に開発して売るかだな」

「そう後15年の間に勝負しないとね。15年などあっという間だよ、それにイギリスフランスはともかくアメリカやジャポンで作る技術が進めば其れまでだから」

「アメリカはともかくジャポンもそうなるかい」

「今はまだチェーンを作る技術がなくとも特許と関係ないアメリカから入ってくればそれをつけるだけならジャポンでも可能だよ」

「アメリカか、あそこはそんなに有望かい」

「今は物価が高いけどポンドが値上がりしたからね。イギリスと変わらなくなればフランスにも製品が流れ込んでくるよ。なんせ移民が多いからだんだん製品の値段も下がる傾向があるようだしね。昔イギリスが行ったように世界へ乗り出すのは目に見えているよ。プロシャも侮れないよ」

「ショウは今日に限って馬鹿にあせらせるようなことばかり言うぜ」

「アランがね、自転車に乗せる蒸気機関の話をしたんだ」

「あのヴィエンヌに出品されたペローとか言う発明家のか」

「そうあれの話から機関が小さくなってバイシクレッテに乗せられるようになればどんどん進化して翼をつけて空も飛べると言うんだ」

「そんな夢のような話本当に出来ないぜ」

「昔からパリでは蒸気自動車が走っていたんでしょ。今でもたまに見受けるけど」

「ああ、あまり効率的ではないそうだぜ」

「ジャン=ジョゼフ・エティエンヌ・ルノアールという人の名前を聞いた事は」

「無いな絵描きのルノワールなら」

「この人がガスエンジンを作ってボートにつけた話を聞いていないのかい」

「それなら聞いたような気がするが、ショウはどうしてそういうことを知っているんだ」

「僕は本来其の内燃機関を勉強するために来たんだよ。それで何軒か工場も見て周ったけど実際に動いていたのは機械を動かすものだけで道路には出ていなかったんだ。それでボートに付けられたものを見たけどあれが小さく出来ればバイシクレッテに搭載できるし、蒸気車よりも内燃機関車の方が街を走るのに有利だと思うのさ。後は点火用の機械が出来れば実用になるだろうと思っているんだ」

「そんなに先々の事を心配するより今の機械の改良の方が先だろ」

「そうなんだけど一緒に先を見ながら改良しないと時代に取り残されてしまうよ。ただ機関をつけなくともバイシクレッテの需要はなくならないと思うんだ」

「なら俺達は今の改良型の改良に取り組むよ」

「判った早くギヤのチェンジが出来るようになることとチェーンの軽量化が出来ればいいね」

「そうなんだあれさえ軽くなれば歯車も軽く出来るんだがな。自分達であれが作れないのが歯がゆいのだ」

フランスの技術者工場でまだ作ろうとしてくれるところが無いのだとルネは残念だよと言ってこぶしを手のひらに打ちつけた。
その日もルネは親類周りだと別行動になり正太郎はバスティアンの店に出かけた。

早速昨日のバイシクレッテはパリで走ったペニーファージングの隣に飾られて店は華やかな雰囲気に溢れていた。

「もう店を開けたんだ」

「今日は9時半で良いと言っておいたんだが早く目が覚めて出てきてみたらもうみんなが来て店の飾り付けを始めていたよ」

壁の右に昨日の新型パリジェンヌ、左にパリのペニーファージングが飾られた。

「こいつは何時ごろから売り出せますかね」

「12月は10台入るからここには3台予約を取って良いよ。来年はどうなるかまだわからないが、一応値下がりしても先に買った人が怒らない様にギヤ3種付き1200フラン、替え無しの場合は1000フランで予約を受けて良いよ。ルネの話ではパリジェンヌ商会では定価1500フランと決めたそうだよ、此処には900フランで替えのギヤ付で卸すからね、替えのギヤが余ったらとっておけば後で売れるだろうから。ギヤは1種類で良いという場合は1000フランの売値、買う人の力に合わせて1月以内なら取り換え可能、3種買い入れた人には何時でも無料で付け替えをしてあげてください」

「例のアフターケアという奴ですね」

「そういうこと。僕のほうは最初の10台は3種のギヤ付で仕入れてギヤがあまり出したらギヤ無しで買い入れれば大分安く買い入れられるそうだ」

「それならギヤばかり余って困ることにはならないと言うことですね」
バスティアンも承知して3台だけだと奪い合いが起きそうだとポールたちと笑いあった。

店の飾りつけも済んだ頃ぼちぼちと来店者が現れ間口の狭い店は奥へ奥へと正太郎たちが下がるようになった。

この店も間口が広く取れるといいがこれだと飾り付けを考えないといけなくなってきていた。
明かり取りが店の入り口と店の奥にしかないのでどうしても中ほどにランプをつけても冬場が近づいて来たし曇りや雨の日はすこし暗いのだ。

マダム・シャレットの大家さんの店がある角地のような場所が中々ありませんからねとバスティアンが言うのに被せ「空き地でも良いよ。建物は新しく建てるくらいは捻出できるさ」と正太郎は大きく出た。

「前に言っていた5万フランくらいならという話ですか」

「そうだったけどワインの儲けが思いのほか出てきたので倍増しても大丈夫だよ。M.アンドレが来月全員に特別手当が出せると言い出したくらいで、メゾン・デ・ラ・コメットの空き地に4万フラン規模の新しいアパルトマンを建てることにしたんだが、其れはエメのほうで出すというのでヴィエンヌからの金をこっちに持ってこられるのだよ」

「でもあの金はあまり儲けが出ていないのでしょ」

「そうさ、しかし税金に出て行くよりリヨンへの投資としたほうが将来のためになるさ」

正太郎は歩いてモンプレジールへ行くと店を後にしてこのあいだミシェルが教えてくれたサラマンジュへ向かった。

店には小さくブルーノの店と出ていた「この間は気が付かなかったな」そう思いながら店に入るとママンが温かく迎えてくれた。

「ミシェルはよく働いていますか」

「支配人も喜んでいるよ。今日も元気で働いていたよ」

「良かった。これで一安心ですよ」

ママンはそう言って正太郎に何が良いですかと聞いてきた。

「この間食べたパスタ・エ・ファジョーリ(豆とパスタのミネストラ)とパニーノ(サンドウィッチ)をお願いします」

「あら嬉しい、イタリア語がわかりますの」

「知り合いにイタリア人が居て料理の名前を僕の彼女に教えてくれました」

「そうなの、それでパンにはなにをはさみます」
ハムと野菜にしてチーズは入れないでと頼みビールも1本出してもらった。

「グラスいります」

「いやそのままで」
正太郎は口のみでビールを飲みパニーノをほおばった、ミシェルに会う前入ろうとしていた店では出来ない芸当だ。

ビールを飲み終わると同時にパスタが出てきた、正太郎向きに少なく盛ってくれたようだ。
勘定は1フラン50サンチーム安すぎる値段だ、2フラン出してチップ混みと言って店を後にすると腹ごなしにテット・ドール公園まで歩いた。

公園の池には見慣れない鳥が沢山泳いでいて飽きずに其れを眺める正太郎だ、1時間以上もそうしていて花の少なくなったバラ園を散策してからリガールの工場へ顔を出すと忠七が今日も真っ黒になって機械と取り組んでいた。
暫く話して年内にもう一度リヨンに来ますよと告げてブティックまで向かった。

ジャネットたちも楽しそうに働いていて店は盛況だった、ナタリーは冬服の注文が多いと言うので学校の合間に書き溜めたデッサン画を手直して仕事を捌いているそうだ。

「バスティアンとも話したが此処も手狭になりそうだから店を広げて事務所を無くすかどこかよそを買って移り住んで、ここはお針子とナタリーの仕事場にしてもいいかもしれないよ」

「資金は5万では無理じゃないの」

「よそからのお金の余裕が出来てM.アンドレが社員に特別ボーナスを出すと言っているよ」

「では此処も出していただけるのかしら」

「勿論だよ。其れと資金はヴィエンヌからのお金をパリで当てにしなくても大丈夫だそうだからリヨンにもってきてもいいんだ」

「10万有れば土地を買って新しいビルが建つわね」

「そう適当な物件がみつからなければ買い入れるのもいいんじゃないかな」

「実は隣の大家さんが仕事をやめて隠居したいと言い出したのよ。前にニースに行って遊んだ事が思い出されてああいうところで余生を過ごせたらと言うのよ」

「バスティアンとも話したがバイシクレッテの店としては使いやすい大きさだけどブティックと一緒では小さすぎないか」

「ショウ、大家さんは3軒分の土地建物を所有しているのよ、だから此処の両隣がそうなのよ。バイシクレッテ置き場の倉庫への入り口の建物もそうなの」

「大家さんの食料品店は3階建てでここが二階建て其の先が4階建てか」

「そう一番下は大家さんの倉庫で今は貸していないから」

「前は何か商売していたのかな」

「この付近から人がヴィユルバンヌへ流れていって閉めた後は貸すのも面倒だと空き家のままだそうよ」

「幾らぐらいで全部売るか焦らずに聞いてみたらどうだい」

「馬鹿に落ち着いているわね何時ものショウらしくないわよ」

「だってヴィエンヌの金がまだ入って来ていないからね、焦るわけにも行かないのさ」

「それなら話だけでも一緒に聞きに行きましょうよ。それともこっちに来て貰います」

「それなら都合だけでも聞いてきておくれよ」
正太郎はまだ決断が付かないようだがジャネットはさっさと店を出て大家のデボルド・ヴァルモール夫妻を連れてきた。

「ムッシュー買い入れても良いと聞いたがその気があるのかね」

「はい、できれば」

「其れでどのくらいなら買えるね」

「土地の大きさがわからないのですが」

M.キャステンの土地との境が24mで道路側が20m建物は12mの13mの4階建てだ。此処は承知の通り土地の奥行き18mと間口が12m、今のわしたちの店と住まいが11mと18mだが脇に2mほどの道があるから建物は大通り側は16mだよ。其れとその先の20m四方の空き地もわしの土地だ。其の先の角までと裏手の空き地の地主はM.キャステンだよ」

「あらあそこもそうだったんですか塀に囲まれて野菜などが植えられているだけで勿体ないですわね」

「50年前はこのあたりも繁華街だったが、ここ10年人がいなくなってね。学生相手の店なら何とかなるがわしのような食料品だけではもうやっていけないのさ。其れから北側の建物は人が入っているから借家人にはあんたが交渉してくれないかただ今の家賃を10年は変えないと約束してくれれば建物は計算から抜いて構わない」

「480u+216u+198u+400uの合計1294uで間違いありませんか」

「確か正確には1300uといわれたから其れでいいんだろうよ」

「では1300として土地代金に26000フランこのブティックと大家さんの家で18000フランの44000フランが僕の提示金額ですがそちらの希望は幾らくらいでしょうか」

「前にM.ビュランがこの先の建物の住人を全部出した後なら62000フランだというとった。住人がいなければそれだけ出せるかな」

「勿論です。でも契約を解除して出て行ってもらうにはある程度お金が必要でしょう」

「そりゃそうだな」

「其の分を計算して最初の条件と加味してみましょうよ」

「そうだな隣の建物を8000フランとして人を出すのに2000フランの10000フランを引いて52000フランでどうだな」

「差額が8000フランですか、歩み寄れませんか」

「かみさんとよく相談してみるよ。返事は明日でいいかな。其の計算書もらえるかね」
正太郎が書いたメモを持ってデボルド・ヴァルモール夫妻は店を出て行った。

「ショウ大分安く見たのね」

「ジュリアンのビルが60000フランだよあれだけの場所あれだけの広さで月ぎめ500フランだから10年分の家賃で買えると言うことさ。ここは88フラン年間1056フラン、大家さんの分が2500フラン、隣が1800フラン空き地が600フランとして5956フラン10年分なら60000フランのM.ビュランの計算は正しいよ。でも其れは繁華街もしくはパリでの話さ」

「そうか事務所とメゾン・デ・ラ・コメットでも4万6400フランだったわね。あれだけの場所から比べればショウの計算にすこし色をつけるくらいかな」
会計を担当していただけあって金額を覚えていたようだ、店を閉めたらバスティアンも交えて食事をしながら話そうとバイシクレッテの店に出て帰りがけにブティックに寄ってもらうことにして戻ってくると大家が不動産屋のM.ビュランと共にやって来ていた。

「おやM.ビュラン耳が早いですね」

「いやね前に売りたいという話があったのとマダム・ジャネットからも大きな空き家があったらと言う話が有ったので其れも有るので出てきたんですよ。話しは聞きましたが50000フランで手を打ちませんか。端数無しでM.デボルド・ヴァルモールも承諾しましたいかがですかな」

「判りました。それで支払いはどうします」

M.デボルド・ヴァルモールへ年内に3万フラン、来年ニースへの引っ越し先が決まったら2万フラン。私の手数料はM.ショウが5パーセントにM.デボルド・ヴァルモールが5パーセント」

正太郎は実は31500フランのクレディ・リヨネ銀行の手形があるのだがそれでM.ビュランの手数料混みで払っても良いかを聞いた。

「私のほうで一度銀行へ入れて其処から手数料を引いてM.デボルド・ヴァルモールへ支払いますからそれで結構です」

正太郎はギヨーバラ園から受け取った手形を渡して仮契約書を作成してもらった。

「いゃあ、M.ショウと仕事をすると話が早くて良いですな。M.デボルド・ヴァルモールも本当はもっと引かないと売れないかもしれないと言っていましたが不動産屋の意見を受け入れていただけると大家さんのほうにも手数料を頂くのに胸を張れますよ」
嬉しそうに握手をして二人は出て行った。

「ショウあの調子だとまだ値切れたようね」

「その様だね。やはり隣の建物がネックだったようだね」

「何そのネックって、ジャポンの言葉なの」

「あ、エーとフランスの言葉に有るかな壜の首のように一度細くなっていてすっきりと行かないという意味だよ」

「障害(Obstacle)になると言うことね」

そうだそういう言葉だと正太郎は覚えておこうとノートに書き付けた。

「ついジャポンの言葉にイギリス人が言う言葉が混ざるんでね」
そう言い訳をして「ああ、また不動産を買ってしまったM.アンドレが怒るだろうな」とつぶやいた。

「さっきお金が有ると言ったばかりじゃないの」

「だけど来年の心算だったんだよ。この前もM.アンドレにこれからお金が出てももうノエルの前には手当てが出ると発表した以上赤字が出ても払うことにしますと言われたんだよ」

「其れはいいけどさっきのは百合根の分じゃないのあれを使ってもいいの」

「そっちは大丈夫だよ。留学費用はひとつ4フランを後で支払うことにしてあるから大体32000フランだから充分後から入る金で間に合うよ。ワインの売値からYokohamaに支払った分で42500フランあるんで其の分は店のほうが貰うことが出来るのさ」

「あまり儲からないの」

「この間の実績からすると儲けは8000フランくらいかな。ノエルたちは今回から倍の手数料にしろというけど実際はあまり動いていないから充分さ。殆どはギヨーさんの方が遣ってくれてるからね、其れより買い入れたあと君の仕事に大家さんの仕事が増えるから早く人を確保したほうが良いよ。経理を教えるかできる人を探すことだね」

「ほんとにそうだわ。それで今のバイシクレッテの店はどうするの」

「あそこはバスティアンの修理工場と倉庫として残すようだよ。勿論今の倉庫も必要だよ昨日のレースでお客は増えるよ」

夜にジャネットにバスティアンの3人で食事をしながら打ち合わせをして色々話したがバイシクレッテのほうも後2人増やすことにしてポールとユベールは今月から1日10フランに値上げすることにした。
隣のビルは中を改装してブティックをそちらへもって行き、今の店をナタリーの服の展示用にしようと話が決まった。

「ナタリーにブティックの専用デザイナーとしての契約を結んでくれないか。勿論彼女の勉強優先と言うことで構わないから」

「それなら彼女もうんと言うはずよ。卒業したらどうしようかと言っていたから」

「其れと今の契約の上乗せと言う形で最低賃金の支払いを約束して置いてください。其の分がShiyoo Maedaの社員。デザイナー契約はブティックとナタリーの外注契約と言う変則的なものだけど」

「面白い契約ね。私何軒か働いたけど初めて聞くやり方よ。Shiyoo Maedaの社員と言うことは私やシルヴィにオドレイと同じで良い訳ね」

「そういうことだよ。そうすれば店の子達に彼女の立場が上だと言うことが徹底できるからね。ブティックの店員お針子はあくまで君の雇い人、ナタリーは君の部下と言うことさ。部下と雇い人の差についてはっきりしておかないとね」

それからこの機会に正式に婚約しないかと正太郎は二人に言った。

「私に依存は無いのよ」

「僕でよければ結婚して欲しい」
2人は正太郎の前で将来を誓った。

「其れでね大家さんが店を閉めたらバイシクレッテの販売部門を移してくれたまえ。引っ越したら2階はバイシクレッテの応接間兼会計部門の事務所に改装して3階のシルヴィにオドレイの住まいを移動してもらって君たちの新居に改装したらどうだろう。あそこは空き部屋も含めて5部屋あるんだろ。将来家族が増えても大丈夫だよ。家賃は要らないからね」

「本当なの随分気前がいいのね」

「当たり前さ大事な二人だもの。それにパリに帰りたいなど言えない様にいい待遇をしておくのさ」

「ショウには適いませんよ」
バスティアンがそういうと、こうなったらドゥ・ペルソンヌでリヨンで骨を埋める事になりそうねとジャネットが笑い出すとバスティアンもそうなりそうだショウには負けるよと笑い出した。

「シルヴィとオドレイはどうします」

「隣の建物の屋上に建てますか今の2階を3階にしてもいいし後は空き部屋が出るまで君たちのパンシオンでどうだろう。予算も大分あまりそうだしね」

「相談してみます。それに大家さんのニース行きもまだ大分先でしょうから」

「ニースといえばマダム・コメットは元気なのかな。M.アンドレに言ってお仲間が出来そうだと報告しておこう」

ホテルに帰るとルネがクロワールで新聞を読んでいた。

「今日の夕刊に昨日の事が出ているぜ。明日にはパリでも出るだろう」

「相談だが」

「なんだ相談だ。ショウの相談は怖いからな」

「簡単なことさ、今日バイシクレッテの店へ行ったらユベールの1着の新型車を壁に飾っていたんだがポールのほうをパリのカミーユ・ローランの店に飾らして欲しいのさ。その代わり2人に預けた4台のうちから昨日走らせた2台を僕のほうで買い取ってもいいんだ」

「走らせないで飾るだけか」

「たまには壁から卸して磨いたり走らせたりもするだろうさ」

「其れはそうだ壁にかけたままではさびるだけだ。良いだろう一応兄貴には相談するがショウに渡したのと同じ500フランで話をつけてやるよ」

「では明日パリへ帰ったら頼むよ金曜日には会社に行くから」

「任せておきな。大事なお客様だ兄貴もマリウスもいやとは言わないさ」
2人はバーで乾杯をして部屋へ上がった。


Paris1873年12月8日 Monday 

メゾン・デ・ラ・コメットの新しいビルの契約も済み、リヨンの話もエメも喜んでくれてShiyoo Maedaは順調な一年が終わろうとしていた。
東京では政変が起き西郷先生以下政府要人の多くが職を辞して下野したことが電信による定期連絡には書かれていた。
横浜にはその影響はなく今のところ朝鮮使節の派遣は中止になったと言うこと位しか判らなかった。
吉田先生が士子さんと結婚したことが記されてあった。

M.アンドレは社員一律50フランの特別手当ではどうかというが正太郎はM.アンドレ、Mlle.ベルモンド、Mlle.シャレット、イヴォンヌ、テオドール、エドモン、バスティアンの6人に100フラン、そのほかの社員に50フランではどうかと相談したが普段よい給与の者はそれなりの収入があるので平均の金額のほうがよいと言うのだ。

そして社員以外の働くものに30フランの手当てを出すようにしてあげてくださいと言うのだ、其の資金は役職付き社員の手当てを余分に出さない分それらの店で捻出できるはずですと正太郎を説得した。

「其の手当ては仕事をしていた年月と関係なく出すのかい」

「半年以内のものは半額が妥当でしょう」

「と言うことは7月以前に契約したものには全額支給と言うことかい」

「そうです。全店で1800フラン程度です。今回のリヨンの出費は影響なく出来ましたので何の影響も有りません」

「そうなんだ、其れでね相談なんだが」

「なんでしょう」

「僕はShiyoo MaedaからもParis Torayaからも役員手当てとして配当収入が出ているけど、君も来年からは同じように役員手当てを受け取れる役員に就任して欲しいんだ。勿論後Mlle.ベルモンドもShiyoo Maedaの役員になってもらう予定なんだがどうだろう」

「しかし役員を増やすとショウの手当てが減りますよ」

「今Shiyoo Maedaに入る3軒の店の売り上げは順調に増えてきているから配当率が減っても入る金額は減ることは無いと思うんだ。僕が40パーセント。君とモニクが30パーセントにしてやっていけると思うんだがどうだろう受けてくれないか」

「普通の会社以上にいい給与をいただいている上にそんなにいただけるどおりが有りませんよ」

「そんなこと無いよShiyoo Maedaは僕がいなくとも成り立つけど君とモニクがいなければ成り立たない。だから君が受けてくれないとモニクにも役員になれといえないんだ」

「判りました。僕が我を張ればモニクに申し訳ありませんね。喜んで役員にさせていただきます」
早速外回りから戻ったモニクに決定事項を伝えた。

「やった。ここに勤めて大正解だったわ。ショウありがとう、どんどん仕事を増やしてね私は体が丈夫だから幾らでも仕事をこなすわよ」

其れより仕事が増えた分事務員を増員して外回りをさせるかいと聞くと、まぁ徐々に今の人たちに振り分けて外回りをさせているから、けど此処じゃ荷物を屋根裏に上げないと机が置けないわと言い出した。
正太郎がジャポンに送りたい荷を買い入れては此処にも置いているからだ。

「それともショウの場所を狭くする。本棚やおもちゃをどかせば何とかなるわよ」

正太郎が集めた蒸気機関車や馬車の模型の棚に本棚と応接セットは広い事務所の半分近くを占めているのだ。

「ダメダメ、僕が幾ら外回りに出る事が多いからと言って此処を無くすと下のおばさんたちが煩いよ」
其れを聞いていたかのように二人が上がってきた。

「何か悪口でも言っていたの」

「そんなこと無いよ。ノエルが近づいたので特別手当を出す相談だよ」

「あらありがとう」

「なにを言ってるの君たちとは関係ない話じゃないか」

「なんだ此処の社員だけなんだ」

「当たり前でしょ。でもマリー・アリーヌと僕は共同経営者でしょ。マダム・ボナールでは特別手当は無いの」

「出すわよ。働くもの全員30フランよ」

「うちもよ。此処はどうするの」

「一応社員は50フラン、下受け社員でいいのかなブティックなどで働く人は30フランの予定」

「あら、此処の社員は良いわね。そんなに儲かっているの」

「店子がいい店賃を払ってくれるからね。2人とも遅れが無いし其の積み立て分で賄うのさ」

正太郎は当てずっぽうだが適当に言ったらM.アンドレは丁度そのくらいの金額ですねと援け舟を出してくれた。
1階メゾン・リリアーヌ120フラン、2階マダム・ボナール100フランで年間2640フラン入るのだから計算はあっていた。

「ところでリヨンに誰か行って直接今の事を伝えてくれないかな。僕は20日過ぎに行くから其の前のほうが良いんだが」

「私が行きましょうか。ジャネットにも会いたいし」

モニクが率先して名乗りを上げた、新しい事務員はまだ無理かなと判断したようだ。

「そうしてくれるかい。何時行くか判ればビエの手配をするよ」

「私は明日でもすぐ行けるわよ」

「では今日ビエをとってくるけどいつも僕が利用する時間で良いかな」

ガール・ド・リヨン9時15分発、ガール・デ・リヨン・ペラーシュ16時15分到着のマルセイユ行きの特急が定番だ。

「其れで良いですよ。朝直接駅へ行けば楽ですわね」

「30分前に駅に入るのがらくだよ、ディジョンで30分も停まらなければ時間が随分早いんだけどね。向こうのホテルは駅へ降りればたいてい何軒かのポルトゥールがいるけど何時ものル・フェニックス・ホテルに泊まれば良いよ」
そうしますわとモニクは言ってM.アンドレに指令書を作成してもらった。

ジャネット以下リヨンの店の経費から出す手配だ。

正太郎は馬車で駅へ出向いてビエを手に入れて戻ってきた「誰か付けてあげたいけど空きが無いからすまないが頼むよ。その代わり僕から向こうで使う交際費を出すからジャネットたちとおいしいものを食べてください。報告する必要は無いからね」そういうと用意しておいた20フラン金貨が5枚入った袋を渡した。

「あらすいません。M.アンドレから出張費を頂いたのに」

「良いのさジャネットたちがリヨンへ下見に出かけたときも出したから」
夕方、正太郎はバイシクレッテで出かけカミーユ・ローランの店で彼が紹介した店の分と合わせて3100フランの代金を受け取った。

「不思議と中古も売れ行きが落ちませんね友人のところも先月は16台売りましたよ。仕入れたのは18台で今月はもう12台持っていきましたから」

「凄いね、1台平均200フラン以下なんだろうが充分中古だけでも商売になるね」

「其のようですね。ショウのつけた値段は大分安いですがそれでも充分儲けが出ますから」

店にはリヨンから昨日着いた新型パリジェンヌも飾られリヨンで1着、3着になったうちの3着のバイシクレッテと但し書きが張られ其の新聞も張られていた。

予約はギヤ3枚付き1500フランを1200フラン抽選で3台申し込みを受け付けると張り出してあった。

「何時品物が来ますか。もう4人申し込みがありましたよ。ギヤの数によって100フランずつ安くすると言うのが効きましたね」

「品物は12日までに渡すと言っていたよ。リヨンへは3台明日送り出してくれるそうだ。此処とクストー街は同時に渡すよ」

「では品物がついたらすぐに連絡して15日に抽選にします。外れた人には次回優先的に販売すると言うことで良いですか」

「ではクストー街も同じにするよ。箱に札を入れて出した順に番号を振って外れた人も番号が若い人から渡すといえば納得するだろうよ。エドモンにも連絡するけど其の日にこられない人は順番を最後に回すといえば店に来るだろう、支払いは10日以内入金が無い場合は次の人に廻すと連絡してください」

「クストー街と重複して申し込んだ人をはずすためですか」

「そうそう、数が出てくるのはまだ無理だよ来月も20台くらいしか間に合わないから僕が買えるのはやはり10台くらいが良いとこだろうね」

「全部抑えるのは無理ですか」

「其処まで独占しては他の小売店に恨まれるよ。扱わない店があれば引き取るという程度で良いのさ」

「900フランで1200フランだと金額の割に儲けが少ないのですがいいのですか」

「今までの1台あたり150フランから考えれば店に置いておく時間を考えれば効率はいいはずさ。3軒で3台の展示分を回収できれば僕の方は充分さ」

「手数料からすれば15台売っても儲けにならないのでしょ」

「そのくらいは2ヶ月で出るさ。1年で何台売れるか楽しみだよ。その辺で値段は安く成り出すはずさ」

正太郎は暗くならないうちに事務所にいったん戻りM.アンドレにお金を渡すと馬車でクストー街に出てカミーユと話し合ったことと年末手当の事を伝えて明日からモニクがリヨンへ連絡に出ることを伝えた。

テオドールにも年末の手当ての事を伝え正式な連絡はM.アンドレのほうからしてもらうと話しておいた。

「イヴォンヌ此処は売り上げの割に店が狭いと感じないかい」

「そんなことありませんよ。なまじ広い店だとあれもこれもとおきたいものが増えて専門店らしさがなくなりますよ。パリには大きな店が沢山ある中でこういう店があると言うことが貴重なのですよ」

「そうなんだリヨンは大きくする予定なので此方もどうかと思ったんだけど」

「あちらは最初から下着より普段着が主力でしょ。此処は下着が主力で知る人たちだけがテオドールの服を誂えに来る秘密の店のようなものなんですよ。お客も其れを楽しんでいてテオドールに注文を出してくれていますの、それで充分腕を振るえるだけの仕事もありますから。これ以上大きくして忙しくなれば服も自分で縫うことが出来ないことになりますからそれではテオドールを駄目にして仕舞いますわ」

テオドールとイヴォンヌはまたも正太郎の話を打ち消すように此処が一番だと受けあうのだった。

ジュリアンに其れを話すとそうかもしれないよあの夫婦のいう事は下町の職人としての自負なんだと正太郎に言い聞かせるように話した。

配達に出るというジュリアンに分かれてオムニバスでメゾンデマダムDDに戻りMomoにこれからの予定を話してセディの勉強具合も確かめるとニコラとラモンを誘ってキャバレ・デ・ザササンへ出かけた、後を追いかけるようにダンがやってきて10時まで遊んで引き上げた。

12日に約束どおり新型車が7台納入されリヨンの分を含めた代金8000フランを手形で渡してクストー街に3台、カミーユの店に3台DDの倉庫に1台を仕舞いこんだ。

其の翌日13日はサムディ18時35分定刻どおりに列車が到着したとマダム・デシャンへのお土産を抱えてモニクが馬車でやってきた。

食後すぐなのにマダムはお茶を入れてクッサンを食べることにした。

「モニクおなかはすいていないの」

「途中でコルニションやハムのはさまれたサンドウィッチを買い入れてきたわ」

「では此処で食べていきなさいよ。ヴァネッサ何かスープでも作れるかしら」

「すぐお出し出来ます」

其の言葉どおり5分もしないうちに温かいオニオンスープが出てきた。

「ショウあの土地を買って正解よ。バイシクレッテの店の大家さん」

M.キャステンかい」

「そうその人の土地が続いていたでしょ」

「空き地の向こう側と倉庫の分とあるそうだよ」

「そう其の空き地の続き部分ショウのほうで買う気があるなら1u20フランの計算でいいそうよ。大通り側が18m奥行きは40mあるそうよ。其処もアパルトマンを建てる心算だったらしいけど息子のほうでお金が必要なことが起きたらしいのよ」

「大きいね720uで14400フランか、出せない金額では無いけど何か当てでもありそうかい」

「将来なんだけど学生はもっと多くなるそうよ。そうなれば学校に近いから先生用のパンシオンも良いでしょうし、1階に学生用のカフェにサラマンジュなんかいかが」
正太郎は横浜の旦那の事が頭をよぎった、食べ物屋にホテル料理屋、形は違うがいつか其れもいいかもしれないと感じた。

M.アンドレの承認が取れるなら空き地のうちに押さえておくか」

「そうよ。なまじ建物があると建て直すほうが大変よ」

「ジャネットは大変だな」

「もう1人同じような立場の人を送り込めばいいでしょ。もしくは向こうでそういう人が見つかるかもしれないし。ブティックはオドレイが販売、シルヴィがお針子の監督で上手く機能しているわよ。昨日2人面接していたけどいい人の様でジャネットは2人とも採用しようかと話していたわ」

「そうかあせることも無いし。そういう人が見つかったらパンシオンを建ててもいいんだ」
マダムは2人の話を聞いていたがおもむろに口を開いた。

「大丈夫よきっと見つかるわ。だってショウが此処来たのは去年の5月の25日のサムディだったわ。あれからまだ19ヶ月しか経っていないのよね、最初の留学期間の18ヶ月は過ぎたけど其の間にM.アンドレにモニクやジャネットたちと知り合えたんですもの、またすぐいい人とめぐり合えますよ。私は先月ショウが約束の期間が過ぎたから出て行くと言い出すか心配したけど、また1年契約したいと言ってくれたときは嬉しかったわ。ショウの場合は何処でもお金を払わずに住むところが有るんですものね。あらいけない、余分なことも言っているわ、大丈夫ショウには幸運の女神がついているわよ。サラはあなた自身がファローだと言ってたでしよ」

ファローって何とモニクが聞いたのでマダムは幸運と財宝の神で昔のペルシャで信仰されていて現代の財宝を授ける神様たちの元になったと話した。

「ヘルメスのようなものね」

「そうね。ギリシャ神話では旅人の守護神とも言われているわ」

Momoが其れを聞いていて「確かにショウは遠くジャポンから来た旅人だわ。ゼウスとマイアの間にできた子供で神々の伝令使という話から横浜 Torayaからの使いと言うのもヘルメスの神話とあっているわ」とギリシャ神話の内容を話した。
話は正太郎を幸運の神扱いにしだしたのでセディも誘ってモニクをメゾン・デ・ラ・コメットまで送ることにした。

ディマンシュの朝、エメのアパルトマンまで学校が休みのセディと馬車で出かけた。
去年のこともあり冬場は遅くなりそうな時はあまりバイシクレッテで出かけるなとMomoとベティが煩いのだ。

セディはリュカと何処かへ出かけて部屋にはジュディッタとモニクがエメと正太郎の奏でるマンドリンを聴いて歌って楽しんでいた。
モニクは来年エコール・エレメンタールへ上がるのでまだ毎日が遊ぶ時間で一杯なのだ。

正太郎はテに何もいれずに香りを楽しみながら昨日モニク・ベルモンドが聞いてきた話をした。

当初の予算はオーバーしたが10万フランかけても良いと言う話しから見れば余裕がある話なので、M.アンドレの了解があるなら良いでしょうと賛成した。
セディたちが戻るとジュディッタとエメがピッザを焼いてリディも上がってきて賑やかにお昼の食事を楽しんだ。

片付けはリディが引き受け正太郎とセディは歩いてシテ島へ向かった、小鳥市は開かれていたが風が冷たく買いに来ている人はそれほど多くなかった、セディは朝早くのほうが大勢の人が来ていると教えてくれた。

アルコルの鉄の橋を渡って再建が始まったオテル・ドゥ・ヴィル(市庁舎)からリボリ通りをタワーまで歩いた。
サン・ジャック・タワーの広場で焼き栗を買ってシャトレ広場の木にもたれて2人で食べた。

シャトレ座はコンセール・シャトレ芸術協会が先月から活動し、リリック劇場はロメオとジュリエットが再演されていた。
広場からは両方の劇場が見えたが二人はエルドラドへ向かって坂道を登った。
サン・マルタン門付近の混雑を避けてグラン・ブルヴァールを左へ折れてカジノローマの前に出てきた。

パサージュ・ジュフロワの裏手のブラッスリーEnoliaでルラードとカフェで一休みして久しぶりでデボルド・ヴァルモール時計店に寄った。

「最近リヨンへ支店を出しまして其処の大家さんが此方と同じデボルド・ヴァルモールさんと言われるお方でした」

「ほうリヨンにな。わしはカレーから出て来たんじゃ。親戚というほどのものは居らんからな。昔は同じ一族かも知れんね」
ノエルたちに買った時計の話や新しい時計の話を聞いてその日は買わずに店を出てパサージュ・ヴェルドーからフォーブル・モンマルトルへ出た。

「まだ歩けるかい」

「このくらいなんでもないですよ」
ルノワールが引っ越してきたサンジョルジュ街35番地のアトリエによるとエメの絵はほぼ完成していた。

「いい出来だろ。ルフェーブル先生ほど色気は出せんがエメの持ついいところは全てこの絵に描いたつもりだ。後少しで完成だよ、急ぎを頼まれたのでそちらで忙しいのだ」
そういいながらも2人を相手に30分はしゃべっていた。

アトリエを出てエティエンヌ・カルジャ写真館の前を抜けてビガール街の角で、もう酔ってふらふらしている人たちを眺めていると此方に来る顔見知りのセルヴァーズに出会った。

M.ショウ最近はお店に来ないのね。ルノワール先生も近くに越してきてからおみ限りよ」

「そうなんだ、僕のほうはバイシクレッテのレースでリヨンへ出ていたりして最近忙しかったんだよ。今度ジュリアンを誘って顔を出すよ」
セディがいたせいかそれ以上はしつこく誘わずに「必ず来てよ」とビガール広場のほうへ向かって去っていった、正太郎たちは道をそのまま進みクリシーの大通りを横切ってルピック街のジュリアンの店へ寄った。

ディマンシュのせいか店は静かでジュリアンも上にいると言うので2人で2階へ上がりここでもカフェをご馳走になった。

マリーのところから2人で歩いてきたというとエメは驚いたようだがジュリアンが「街歩きはこいつもセディもM.ラムレイの仕込みさ」というと納得したようだ。

「それでまた歩いてメゾンデマダムDDまで帰るの」

「そういま4時だから帰り着くまで陽があるから」
後1時間は明るいはずだ、此処まで2時間20分かけたがM.ルノワールのところで30分以上潰したからと話しジュリアンが送りに降りてきたので店の前で「レパーデスのイサベルとさっき出会って、最近来ないとお冠だったよ。ルノワールさんも近くに来たのに店には来てくれないんだとさ」と話した。

「そりゃそうさ。あいつ最近素人女で16くらいの小娘にお熱でなそれどころじゃ無いのさ」

「それでエメの絵も殆ど出来上がっているのに仕上げないのかな」

「なんだあの絵まだ描き上げていないのか」

ジュリアンと別れてトロゼ街の坂道を登りムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットの正面に出るとキャバレーの入り口からジラルドン通りへ出て、風車の上の通りで落ちていく夕日を眺めた。

サンバンサン墓地の西側へ下り階段を降りてコーランクールへ出て右へ曲がる頃には街は暗くなっていた。

ソウル街のメゾンデマダムDDについた頃には外のガス灯に灯りが入っていて家の軒にもランタンの灯が揺れていた。
脇の玄関から入りドウシュを浴びて下のクロワールへ行くと食事の時間まで間が有り、今日歩いた道筋をベティとマリー・アリーヌに聞かれるままにセディが話していた。

15日のランディ正太郎が日本の旧暦の暦を見るとまだ神無月26日とされていた。
随分差が有るんだなと思いあの頃は不便とは思わなかったが季節が24節季に従わないと判らない事も今となっては思い出でしかなかった。

ニコラが呉れた革命暦では82年3月(Frimaire)24日だそうでこれも季節が判らない暦だ。

朝の食事が済んですぐに電信が横浜から来た。

ワインの2回目のオークションは大盛況で6000本が78280フランで売れ、残りは72000フラン試供品共で引き取るとされていた。

薔薇は6月の送り出しの分の半数が売れて22000フラン、残り2000本は植木場で20000フランの買い入れとしてあった。

仕入れと保険、送料で22450フランだったので19550フランも儲けが出た。

注意書きとして前回のワインの分は此方からの送り出す商品のための資金として今回の192280フランがスミス商会経由で払われるとされていた。
横浜での正太郎の資金は256230フランであるとも書かれていた。

それらをMomoに翻訳しながら整理して事務所に出てM.アンドレに話したあとアランと事務員のアンヌ・ブリューエット・エマールと共に馬車でルピック街へ向かった。

ジュリアンに其の話をしてジュリアンのボルドーワインの分の元金123000フランは年内支払い可能だと話した。

「それでどのくらい儲かるんだ」

「3回目の分がまだ連絡が来ないけど最低50000フラン、上手く行けば60000フラン」
はっ今回の儲けだけで此処が買えてしまうぜとジュリアンとエメは其の話に夢中だ。

マガザン・デ・ラ・バイシクレッテは3階建てで1階が店舗、前は応接セットの置かれた部屋があったが其処も店にしたので8m間口に奥行き12m、2階は狭いが事務所に部品置き場とトワレットゥに風呂場其れと住み込みの店員の小さな部屋、3階は以前兄弟2人の住まいだったが今はエドモンが結婚予定の女性と同居していた。

其処にも風呂場にトワレットゥもあり台所兼食堂は広いし寝室も3つあるので家族が増えても充分やっていけるのだ。
其の女性が最近は事務も覚えて会計帳簿をモニクに教えられて付け出したので正太郎はマガザン・デ・ラ・バイシクレッテの店員としての給与を出すようにエドモンに話した。

庭は他の建物とのあいだに仕切りの柵があり奥行きは4mしかないが其処にお客と従業員用のトワレットゥを作った。

ブティックの裏手と木戸で出入りが出来てジュリアンの倉庫の脇にも通じていた。

ジュリアンの店も間口6mに奥行き12mだったが隣接していた建物を40000フランで買い入れて倍の広さになったし店員も3人増えて6人にしていた。
其の隣の建物にも従業員を住まわせ2階をジュリアンは豪華な応接間と事務所に改装し訪れた人を驚かせていたが、エメは前の建物の台所兼食堂がお気に入りだ。

最近おなかがせり出してきて来年3月が産み月だそうだ。
通いのメイドに新しく年寄りだが住み込みので1人雇ったジュリアンはいつも綺麗な住まいで満足していた。

いっそのこと建て直してひとつにするかと思ったそうだがM.ギャバンが大丈夫だからつなげようと提案して1階の店に2階と4階を壁を壊してつなげたのだ。

マルクとイヴォンにアルバン、ボドワンが住み込み、其れと乾物屋からの頼りになるジャンは結婚したので相変わらず通いだが注文取りでは店一番の腕利きだ。
イヴォンも15に成り最近は彼女も出来たらしいとマルクが正太郎に教えてくれた。

庭も広くなったから倉庫を動かしてブティックの建物を大きくするかとジュリアンが正太郎に相談した。

「そうだね、仕事場と台所が広くなればずいぶん楽になるね」

「いや店もだよ」

「其れがねイヴォンヌは店を広げたくないというんだよ、今の3mの8mで充分だというんだ」

「そうか一度俺のほうで話してみるよ。今の店員の休む場所と倉庫を下げれば其処に店を広げなくとも店員のいる場所に客が試着できる場所が出来るだろ」

「そうだねそれでお金は僕のほうで出して良いのかい」

「いや配当金も充分入るし俺のほうで建て増すよ。2階は仕事場が広くなるし明るく出来るよ。M.ギャバンの仕事は水切りが完璧でこっちは水漏れも無いしな」
話はジュリアンに任せることにして戻ってきた馬車で事務所に戻った。

電信がリヨンから暗くなってやってきた。

ギヨーバラ園からで百合根を3000球一括仕入れをしたいとパリの知り合いの植物商から申し入れがあり指値は25フランだとしてあった。
サムディの出発予定を早めるか考えたがあせることも無いので翌日20日に出たときに返事をすると電信を打つ事にした。

マルディの朝、電信を打って戻るとまたリヨンからの電信が来ていた。

今度はM.ランボーからでヴィエンヌから戻った2人がパリへ向かうというものだった。
到着時刻は18時35分のいつも正太郎が利用する列車だ。

午後モンルージュまで出向きマルティーヌを連れてヴァルダン通りへ周ってエドモンも乗せるとリヨン駅へ向かった。馬車には19時に迎えに来るように頼んでオーステルリッツ橋を渡って動物園に入った。
5時には暗くなったので表に出てカフェで一休みした。

「早く着すぎてしまったな」
3人で学校の事、これから着く2人の薔薇園芸家の話をした。

6時半が近づいたので駅へ向かい定刻に僅かに遅れた列車から降りてくる人の中から2人の園芸家を探した。

M.デュブルーユ、M.ラシャルム」
2人は飛びつくように駆け寄ると抱擁して再会を喜んだ。

「此方が私たちがお世話になっているM.ショウです。ショウ此方の背の高い方がM.デュブルーユで、このいかつい顔の方がM.ラシャルムです」

「こらこらマルティーヌ、いかついは失礼だよ。僕がショウですよろしく」

「いいんですよ。マルティーヌは赤ん坊の時からの付き合いですから身内同然です。私がフランソワ・ラシャルムです」
正太郎の手をがっしりと握った手は暖かくいかにも庭仕事で鍛えられたという人だった。

「よろしく僕がフランシス・デュブルーユです。この人たちとは兄弟同然に育てられました。今はM.ランボーの弟子にしていただいています」

兄弟と言う言葉どおり両の手をマルティーヌとエドモンは確りと握り締めていた。

「お世話になっていますが僕たちではお金を返す余裕がありません。今しばらくご猶予ください」

「なにをいいます。そんな気遣いは無用のことです。今晩はお疲れでしょうがサラ・ベルナールさんの家を回り、マルティーヌの住まいを覚えていただきエドモンの住んでいる家に泊まっていただきますのでお疲れでしょうがお付き合いください」

「あの女優のサラ・ベルナールさんですか」

「そうです。連絡を出しましたので8時までは家でお待ちですので」

馬車を一台捕まえセルヴィエットを乗せて正太郎が乗り込み、戻ってきた馬車には、サラ・ベルナールの家だといって4人を乗せた。

サラは舞台稽古から帰ったばかりで今年最後の舞台はラシーヌのアンドロマックをやることになったと一同に話した。

「サラは何の役なの」

「アンドロマックよ。エメにどういう話かは教えていただきなさいね。マルティーヌ、此方へいらっしゃい。暫くぶりねすっかり大人になって嬉しいわ。エドモンも大きくなったこと」

2人を暖かく包み込み園芸家の挨拶を優雅に受けて「お金の事は心配要らないのよ。2人の学校はショウが全て引き受けてくれていますし生活にも困る事はありませんわ。2人が学生生活を終了した暁にはリヨンに住むもパリに住むも自由ですよ」そう言って二人の園芸家を安心させた。

1時間の訪問ですっかり舞い上がっていた園芸家を馬車に乗せてモンルージュへ向かった。

正太郎が乗ってきた馬車はセルヴィエットを積み替えて此処で帰し、ノエルと一緒に勉強する仲間を紹介して二人には明日夕方此処で食事会をするから7時までに来るように伝えた。

マルティーヌは此処に残りヴァルダン通りへ4人で出向いてデルモット夫妻を紹介して部屋の用意が出来ていると案内させ正太郎は後をエドモンに任せてメゾンデマダムDDへ戻った。

翌日メルクルディアランたちの馬車に乗りヴァルダン通りへ出向いた正太郎はM.デュブルーユとM.ラシャルムとともに庭を回りドナルド爺さんを紹介して薔薇と芍薬の庭造りの意見を聞いた。
百合についても二人は詳しく爺さんとも意見が会うようで、正太郎は爺さんに任せて事務所に戻った。

事務所にはサラ・ベルナールから20日の初日の招待状と部屋番号が書かれたビエが2枚届いていた。

「残念ねショウ」
正太郎は言葉も無かった、いまさらリヨンへ行く日を替えるのは難しかったのだ。

「あと3日早くわかっていれば初日を見てから出られたのに其の日に帰ってきても7時開演ではどうにもならないな」

「駄目よ無理しても、エメとジュディッタ其れと私にベティとMomoあと1人は誰を入れればいいかな。やはりマダム・デシャンかしら」

「2部屋じゃないの」

「馬鹿なこといわないで1枚はジュリアンに届けるのよ」

「そうか、そうだよな。頭が混乱して上手く考えられないよ」

「そんなに残念なの」

「今年は忙しくて殆ど舞台を見ていないもの中々機会は転がっていないよ」
M.アンドレはオペラには興味が無いのか知らん顔をしていた。

其の晩はモンルージュへ出かけて2人の園芸家は19日に戻ると言うので正太郎は同じ列車で如何と相談して其の日にリヨンへ発つ事にした。


Paris1873年12月18日 Thursday

ジュディの朝は寒さが一段と厳しく、朝日の出る時間もどんどん遅くなり水たまりの氷が日に日に厚くなっていった。
9時にようやく街が明るくなったが今日も太陽は雲間に隠れていた。

M.デュブルーユとM.ラシャルムは明日の朝リヨンへ正太郎と旅立つが、初日の舞台にいけないと言う3人にM.シュリーが舞台稽古の後サラと共に食事に招待してくれた。

ル・グラン・ヴェフールに9時という約束で正太郎がヴァルダン通りまで迎えに行き、エドモンも乗せて明るいうちにサン・トノーレ街へ連れてきた。

正太郎はMomoM.シュリーが一緒だと何時開放してくれるか判らないと脅かされ、自分の荷物はヴァルダン通りのほうへ運んで、夜中に起こすことになるかもしれないが頼むよとデルモット夫妻に頼んだ。

「よろしいですともル・リのしたくは整えて起きます、いつ何時でもお帰りの時はたたき起こしてください」

「頼みます」

正太郎は2人にも其の覚悟で付き合ってくださいと脅かしておいた。

夜の食事にエドモンとマルティーヌが招待されなかったのでその代わりシブーストでお茶にして売り物のサン・トノーレを食べ別れの宴の代わりとした。
マルティーヌはエメが呼びに行って帰りも送ることにしたのだ。

まだ日が残る4時過ぎに6人でテーブルを囲み薔薇の話をして場が和み、ヴァルダン通りの庭造りに2人も協力し4ヶ月に一度は泊まりがけで来てくれることになった。

「私が年間契約しますのでよろしくお願いいたします」

「いえ交通費だけいただければそれで充分です」

2人が費用まではと辞退するのをエメは「其れだと此方も気がひけて長続きしないといけませんので」とようやく一般の庭師の費用分だけ頂戴しますと言うことで費用として1回1人20フラン往復は1等車利用と話がまとまった。

「そんな手間代にもなら無い費用で来ていただくなど申し訳ありません」

エメの態度がよほど気に入ったか2人の園芸家はあの庭をドナルド爺さんと必ず其のイギリスからこられる方に自慢できる庭にいたしますと約束した。

「何時リリーはパリへ来ると書いてあったの」

「ヴィエンヌからイタリアを回って23日にはパリへ入るそうよ」

今年はパリでクリスマスをすごすことにしたようだ。

「リヨンへは寄るとは書いてこなかったの」

「マルセイユに22日だそうだから寄る積もりはなさそうね。ショウは22日の夜に帰るのでしょ。1日違いね」

「だってノエルの贈り物の都合があるしね」

「ロレーヌも大分今年は張り込んだそうよ。ね、マルティーヌ」

「ええノエルもMlle.ビリュコフも今年はMlle.アフレのお手伝いでと大分したくも進んでいますので」

「ショウは大分20日の観劇の事でモニクにごねたそうね」

エメにまで其の話は伝わったようだ、サラが知ったのも其のあたりなのかもしれない。

「いいさ、初日にこだわることも無いしね。エメがビエをとってくれれば年が変わってから行ってもいいし」

「普通、男の人がビエの手配をして誘うものよ」

エメは笑って園芸家たちの顔を見てまた笑った。

「ほんとうですよショウ。あなたが誘うべきですよ」
プランティエ姉弟も笑ってショウは招待から外れたことが本当に悔しい様ですねと一緒に笑った。

和やかにお茶とガトーを楽しんで子供たちはエメが送り届けに帰ると3人はぶらぶらと繁華な通りを歩き、時間を見ると6時半まだ2時間以上余裕があり、ヴァレンティノの前を通りぬけるところで園芸家は立ち止まった。

ポスターには妖艶な踊り子たちが描かれM.ラシャルムはこんな美人が本当に出ているんですかと正太郎に聞いた。

よく見ると金髪をなびかせたロレーヌ・アフレとナタリー・モーリアだった。
すこし誇張しているけど美人ですよとドアマンに10フランを渡して誰か来ていると聞くとロレーヌもナタリーも来ていると言うので都合を聞いてもらった。

あの長い黒髪の鬘のロレーヌが出てきて「お兄様、ノエルの準備は出来ているわ。ナタリーもいるけど中へ入る」と聞いてきた。

「まだ店は開いていないのだろ」

「大丈夫よ。ねアルマン」

「ロレーヌが言うなら構わないですよ。でもまだ何も出せませんよ」
ロレーヌはかまわないでしょお兄様と甘えて手を引いた。

「ル・グラン・ヴェフールに9時に招待されているから8時半まで街をぶらつく予定さ」

正太郎が言うと「此処は7時30分の開場だから其の後はお酒も出せるわよ」とロレーヌがドアマンにウィンクして中へ入った。

まだ薄暗い場内を舞台の前の席へ誘い舞台の灯りを増やしてもらうと鬘を取った。

「アッ」「おおっ」
2人から驚きの声が上がりポスターから抜け出たようなロレーヌが其処にいた。

「驚かれました。彼女外に出る時はあのような鬘をつけることが多いのですよ」

「まさかポスターの本人が目の前にいたとは今の今まで気が付きませんでした。驚きましたよ。其れとショウがこのような美人の妹さんまで居られるとは」

「まさかショウは本当の兄ではありませんよ」
舞台衣装を身に着けた4人ほどの踊り子が舞台の端にポーズをつけて出てきて開幕前の稽古を始めた。

「リヨンのキャバレーの比ではありませんな」
まだ本格的な舞台も始まらないうちから2人は圧倒されていた。

正太郎が10フラン金貨を5枚渡して耳打ちすると「任せてね。お兄様から入場料はいただけませんわ」と言って舞台に上がり袖に消えた。

あのポスターの衣装に着替えてナタリーと2人が真ん中で羽飾りも豪華に12人の踊り子が舞台を踊りまわった。
最後にナタリーと2人で舞台の階段から降り際に投げキッスをして3人の椅子の脇へやってきた。

ターブルに腰をかけやるせなげな表情を見せた二人は踊り子を見慣れている正太郎にもぞくぞくする妖艶さが秘められていた。

「お遊びは此処まで」
舞台から男の声が掛かり2人は投げキッスをしながら舞台の袖に入った。

M.ショウですか。私はここの主でロレーヌの父親です。家内共々お世話になっっとります」

「始めまして此方こそ開場前のキャバレーにのこのこ入りこみまして申しわけありません」

「いやいや私が許可しての舞台稽古ですのでその様におっしゃられると恐縮してしまいます。踊り子にも小遣いを頂きお礼を申し上げます」

其の頃には舞台から降りて3人に握手をして「あと5分で表も開きます。聞けば8時半にはここを出られるそうで、食事に出られるなら軽くカクテルを飲まれながら其れまで舞台を楽しんでください。私いや店のおごりで暫く席を埋めてくださいませんか」

「ありがとう御座います。喜んで舞台を楽しませていただきます」

「では8時半近くになりましたらお迎えを差し上げます。どうぞお楽しみください」
其の挨拶が済むと同時のように店に華やかに装った客が続々と入って来た。

「驚きましたなショウはいい顔ですな」

「僕も驚きました。ロレーヌとは大分長い付き合いでしたが劇場主が父親とは始めて知りました」
正太郎は本当に驚いていたのだ、母親も立派な歌手なら父親も事業主だったのだ、我が侭がいえるはずだ。

席に落ち着くとヴランデーベースのバレンシアと桃のカクテルが出てきた、正太郎はセルヴァーズの2人に5フランを渡した。
ざわついていた客席が静かになり舞台では例によってカンカンの派手な嬌声を上げる踊りで始まった。

「パリでも始まりはカンカンですか」

「今は何処もこれが始まりの合図になったと聞きましたよ」
3人は其の後のボードビル、奇術師のこっけいな様子を楽しみ前とは順序が違うが軽演劇が行われナタリーたちが稽古していた踊りが一段落すると若い踊り子たちに二枚目が絡む劇が始まった。

舞台の暗転の合間にロレーヌとナタリーが衣装の上からコートを羽織、3人を迎えに来たので席を立った。

ドアマンに正太郎は5フランを渡して「メルスィ・オ・ルヴォワー」「メルスィ・ボク」と言葉を交わした。
店の外まで見送りに来た2人は園芸家の頬に軽くビズをして正太郎には肩を抱いて「オ・ルヴォワール・ショウ」と代わる代わるお別れの言葉を投げかけた。

3人も交互によい舞台をと別れの言葉を投げかけてヴァンドーム広場へと入った。

園芸家はまだ上気した顔をして歩いていた。
イタリア座の前に来た頃にはようやく落ち着いたか「パリには考えられない美人がいるものです」とM.ラシャルムは溜め息をついた、ロレーヌが18になったばかりだと知ったらどう思うのだろう、兄と正太郎は呼ばれているが2月ほど彼女のほうが先に生まれているのだ、其れを知ったらなおさらだろう。

ボジョレー街のル・グラン・ヴェフールには5分前に着いた。

ヴォワチュリエが出迎えてくれ「お待ちしておりました。M.ショウ。席にすぐご案内いたします」メートルがドアの向こうに現れた。
コートを渡しながら先にトワレットゥに案内してもらい、3人は自分の身支度を点検してから席へ案内してもらった。

サラとジャン・ムネ・シュリーにマリー・エロイーズ・デュポンさらにマノン・ミリュエル・ケ=デルヴロワとアン・マリレーヌ・ル-フォールが豪華に装いカクテルを楽しんでいた。

「今丁度9時になったばかりだ。ショウはいつも正確だね」
ジャン・ムネ・シュリーが立ち上がって女優たちを紹介して周った。

今度は正太郎が2人をリヨンからこられた高名な薔薇園芸家ですと紹介して周り、席に着くと早速カクテルが配られた。

「料理は僕のほうで勝手に決めさせてもらった。君たちに好き嫌いが無ければ幸いだ」

正太郎たちがM.シュリーが頼まれたもので充分ですというと満足そうに肯きコミドランが料理の開始とシャンペンを注いで周った。

プラのソルのソテー、シトロン・コンフィの皿はすばらしかった。
話は園芸家たちの半年に渡るヴィエンヌの話を中心でまわり、向こうで食べたガトーに女優たちは目を輝かして聞きほれた。

オマールにトマトのガスパッチョやステーキと、どれをとっても一流の味を引き立てるワインとともに食事は進み、アヴァン・デセールではガトー・サヴォワが出て、ソムリエが次に注いだのはソーテルヌのシャトーデュケム、正太郎たちには手が出ない高級ワインだ。

白ワインの甘味が豊かに広がり供されたのは真ん中にくぼみがあり、ババにシロップとラム酒をしみこませ桃をはさんだサヴァランでこの夜の晩餐は終わった。
代金もチップも全てM.シュリーが引き受け女優たちを送り出したあと「後は男同士、フォリー・ベルジェールで仕上げと行こう」と歩いて15分ほどの道なのに馬車を連ねて向かった。

店では11時の舞台が半ばまで進み舞台から遠い席だったが正太郎の顔を見ると4人の女性が他の席から移ってきた。

「やはり、ショウと来ると待遇が違うぜ」
正太郎が5フラン銀貨の持ち合わせが無いからと10フランの金貨を配るのを見てM.デュブルーユは眼をむいていた。

「驚いているぞ。お前たち俺とショウは話があるからそちらの2人の紳士にサービスしなさい。食べ物は充分だからとりあえずクルバットのカクテルにあとは君たちの好きなものを頼みたまえ」

二人の接待を任せてムネは正太郎に顔を寄せて何事かを相談しだした。

シャンペンと女たちの話に次第に2人も楽しくなってきたか正太郎たちに構わず、面白おかしくヴィエンヌでの逸話を語り、女たちが面白がるとさらに色々と各国の役人の色事を教えては笑い転げていた。

ムネの話も終わりようやく舞台の踊り子に目が行くようになった正太郎は、店の中にルノワールやマネたちが来ていてフロアのバーのある一角で騒いでいるのが目に入った。

「おや知り合いでも来ているのかい」

「画家の人たちが向こうで騒いでいますよ」

そうか彼らも此処の常連だったなとムネがつぶやき「おやもう2時だ今日はお開きとするか明日も10時から稽古なんでな。悪いが此処でおしまいだ」と勘定をいいつけた。

ドアマンが3人乗れる馬車を呼んでくれムネと別れてヴァルダン通りへ帰った。

「やっと開放されたね。すまないねM.シュリーが特別な話があるそうで君たちにも遅くまで迷惑でしたね」

「そんなことありませんよ。こんな経験めったにあることではありませんよ。今夜は興奮で眠るどころではありません」

サラ・ベルナールだけでなくコメディ・フランセーズの有名男優に女優が食事に付き合ってくれたのだ、頼んでも出てきてくれることなどめったに有ることではないのだ。

「しかしショウは顔が広いですね。あれだけの人たちと知り合いとは驚きです」
偶然ですよ、サラとはパリへ入った晩に友人共々知り合いましてね、其の輪が広がっていったので僕というより友人のM.ドゥダルターニュのおかげですと謙遜するように説明した。

ヴァルダン通りでは馬車の音でデルモット夫妻が起きて来てすぐに玄関の明かりが灯され、暖かいミルクがたっぷりの紅茶が用意された。
其れを飲みながら夫妻に今晩会った人たちの話を二人がして明日は8時に馬車が迎えに来るからと確認して7時には起きようと約束してシャンブフ・ア・クシェへ向かった。

何時ものガール・ド・リヨン9時15分発には楽々と間に合い寝不足の3人はディジョンの駅で停車しているのに気が付くまで眠りこけていた。
何処まで話したっけM.デュブルーユが言うほどいつの間にか話しが途切れて寝てしまったようだ。

笑いながら昨晩の事が夢のようだと言いながら、誰が誰だったか正太郎に名前を言わせては容姿や話し方を思い出してはあんな綺麗でしとやかな人たちにあったことが無いとM.ラシャルムははしゃいでいた。
ガール・デ・リヨン・ペラーシュに定刻どおり着き、そこで別れて正太郎はル・フェニックス・ホテルへ馬車で送られた。

その日のうちにブティックへ出かけてジャネットと土地の話をしてバイシクレッテの店舗に向かいバスティアンにM.キャステンの都合を聞いてもらった。
M.キャステンは息子に引き合わそうと薬局に向かい、2階の応接間に上がると4人で話し合い、あすの朝9時に不動産屋の立会で契約をすることになった。

「では14400フランはクレディ・リヨネ銀行の手形でよろしいですか。それとも現金のほうが」

「クレディ・リヨネ銀行なら手形で良いよ。M.ビュランにはすぐにでも連絡を入れておくよ」

「判りました。パリ支店で手形を用意してきましたので明日お渡しできます」
正太郎は一度手形を見せて確認してもらった上でサックに仕舞った。

M.ショウ、今の話しの土地と君が先に買った土地の間に16m四方の土地が残るのだが同じ値で買い受ける気はあるかね小屋がある場所だよ」
M.キャステンは窓から其の小屋を指差した。

「16m四方というと256uですね。5120フランですか」

親子は紙に書いて計算していたが「そうだね。合っているよ」と正太郎に伝えた。

「判りましたそちらは明日現金で用意させていただきます。金貨と札のどちらを用意してきますか」

「金貨でどうかな。50フラン金貨がいいのだが」

「では契約の時間を30分ほどずらしていただけますか。フランス銀行で降ろす都合がありますので」
親子が承知して店の前でバスティアンとも別れブティックに戻り明日契約と話した。

「モニクが大分乗り気でしたから説得されたようね」

「モニクもそうだけど、DDが乗り気でね買いなさいと進められたんだよ。メゾンデマダムDDも来年早々に新しいパンシオンを建てるし最近やる気満々だよ」

「あそこはMomoが後継者でしょ」

「そう、あのあたりも人も増えたし会社に学校とこれからも住まいは足りなくなる事は間違いないよ。メゾン・デ・ラ・コメットも其れもあるので建てましする事にしたんだよ」

M.アンドレとモニクは大変ね」

「其れより君も早く人を養成して会計をある程度出来る人を探さないとね。其れとこの裏手の古い小屋のある土地を一緒に買う事にしたよ。5120フランの出費が増えたよ」

「あら大変あの小屋は取り壊したほうが良いと周りで心配していたのよ、取り壊す費用も此方もちかしら。でも会計士の事は本当にそうだわ。いい人が見つかればいいけど。お針子は2人決まったけど新聞に公告でも出そうかしら」

来年早々にはブティックを移す改装工事も始まるので忙しくなるのだ。

正太郎はフランス銀行の手形1000フランを3枚渡して「工事費だよ。これはM.アンドレが承認したShiyoo Maedaからの投下資金だから口座も別にして別勘定で会計報告を頼むよ」と頼んだ。

其の晩は簡単な食事をして早めに寝ることにした、昨晩からの疲れが溜まっていたのだ。

翌日の20日は暗いうちにホテルをでて40分ほどの朝の散歩で気力も充実し、何時ものムエットの声で頭の回転も元に戻った気がしてきた。
眉よりも細い月がソーヌ川のプレスキルの突端の上に残る8時にはホテルへ戻り朝食をとると銀行へまだ暗い中を歩いて向かった。

レピュブリック通り14番地のフランス銀行リヨン支店で30000フランの手形を出して口座を開設し、手形8000フランを50フラン金貨と交換し、976フランになるように50フラン金貨18枚と10フラン金貨7枚、5フラン銀貨1フラン銀貨を袋に落とし込んだ。

サックは160枚の50フラン金貨とパリから持ってきた取りどりの硬貨で肩にずっしりと食い込んでいた。
ポン・ユニヴェルシテまで来て橋を渡ると時計は9時半を指していた。

M.キャステンの薬局に着くと2階で待っていたM.ビュラン立会で契約書にサインし、クレディ・リヨネ銀行の手形14400フラン、50フラン金貨102枚と20フラン金貨さらに手数料の976フランの入った袋を出した。

お金の計算をそれぞれがしてM.キャステンもM.ビュランへ手数料の976フランを支払った。

正太郎はM.ビュランが付いて登記を済ませに役所へ出向き、登記が完了して不動産屋とM.デボルド・ヴァルモールの残金の支払日が決まったらブティックまで連絡をと話し合って別れた。

其の足でクレディ・リヨネ銀行の本店へ向かいここでも30000フランの預金口座を開設してギヨーバラ園へ向かった。

バラ園では総出で出迎え、すぐ応接室で3回のオークションの結果の報告書をだして1部を正太郎に渡して呉れた。

1回目 12月3日 

3種200球6240フラン。平均31フラン20サンチーム。

2回目 12月10日

3種200球6340フラン。平均31フラン70サンチーム。

3回目 12月17日

3種200球6450フラン。平均32フラン25サンチーム。

合計600球19030フラン。 平均約31フラン71サンチーム。

Shiyoo Maeda12665フラン ギヨー6365フラン

総数 7940球

ギヨー   3000球 31500フラン支払済み

Shiyoo Maeda 500球 送付済み

オークション 600球 

残数    3840球

そしてクレディ・リヨネ銀行の手形で12665フランが用意されていた。

「ありがとう御座います。いつもお世話になりっぱなしで申し訳ありません」

「いや此方こそ大分儲けさせて頂いているよ。ところで薔薇は横浜で売れているのかね」

「ええ、ほぼ倍近くで取引されたと電信が来ました。まだM.ランボーの2回目の結果がわかりませんが大きく値が下がることは無いと思います」

正太郎がそれらの書類をサックに仕舞うと其れを待っていたかのように体のがっしりした鷲鼻の老人が若い背の高い痩せた人と入って来た。
ギヨー老人がM.ジュイノーと其の息子さんだと紹介してくれた。

挨拶も終わり席に着くと熱いカフェが出され気持ちが落ち着くと「電信で連絡した百合根を欲しいというお方だが、パリとシャルトルに農園をお持ちだ。特にTkakoを来年にはパリで売り出したいと言うので私のところへこられたのだよ」

其の老人はゆっくりと経緯を話しだした。

「きっかけはヴィエンヌの食堂だった。私の家でも食用と園芸用の両方を栽培しているが食べた事が無い風味の百合根だった、聞けば博覧会で販売していたものだというので見に行ったら清楚な百合が咲いていたが、すでに百合根は全て売り切ったと聞いた、其処にあるものはヴィエンヌに寄付されるので売れないという話だ。パリへ戻ると幾つかの園芸店で球根を売り出していると聞き、廻ったが既に手遅れだった。突きつめて探すと此処で扱っていると言うので出て来たがすでに前回の分は売り切れで、残りはこれから売り出すと言うのだ。オークションのものを手に入れようとしたが争えば値が釣りあがるばかりで此処で保管しているものに目をつけて交渉した。前につけた値段は撤回する、オークションの値段までは出せないが30フラン50サンチームなら3種がいくつに混ざろうと構わないから引き取りたいのだ」

ギヨー老人も「どうだろうショウ、この際残り全てを出すと困る園芸場もでるが3000に限って出してもらえないか。それならあと840が残るから足りないときはわしたちの分を回しても他に迷惑はかけないからうんと言ってくれないか。今回35フランが卸価格と設定したんだが」老人は頭をさげんばかりに懇願した。

もしかしてこの人たちに世話になったこともあるかと正太郎は「判りましたそれだけの値段を付けてくださったのにお断りは出来ませんよ。M.ジュイノーにお分けいたします」と手を出して握手を求めると正太郎の手を両の手でがっしりと握り閉めた。

「助かるよ。わしもギヨー君とともに立派な百合を農園一面に咲かせゆくゆくはパリの街の人にわしとギヨー君の百合が其の日に無ければすごせないと言わせて見せる。来年入る百合根もわしに扱わせて欲しい。ギヨー君の値段は知らんが今話した値段はきっと払うと約束する」

息子と名乗る人はフランス銀行の10000フランの手形で9枚と50フラン金貨を30枚出してどちらに渡せば良いですかと聞いた。

「一度ギヨーさんへお願いします。其処から僕へ支払う約束ですのでお願いいたします」

ギヨーさんへ渡された手形は一度金庫へしまわれた、そして2人の紳士は受け取りを貰うとジョセフが案内して百合根を受け取りに下へ降りていった、降りがけにも正太郎の手を握り次もよろしく頼むと何度もいって降りていった。
よほどヴィエンヌで見た百合の花が忘れられないようだ。

「ショウあの人たちに横浜で写真に付けられた色を見せたら間違いなくヴィエンヌで見た百合たちだそうだ。食べたのはどの種類の百合根かはわからないそうなので幾つかは調理して試すそうだよ」

金庫を開けて自分の取り分の30000フラン分をどかしてシュワルツ夫人に帳簿の整理を頼むと渡し、正太郎には61500フランを渡してくれた。

正太郎は先ほどの書類の最後にM.ジュイノー、3000球91500フラン。

Shiyoo Maeda61500フラン。M.ギヨー30000フランと書き入れてともに袋に入れるとサックに仕舞った。

「今回はこれで残りは840球でしたね」

「そうだよ。ずいぶん早く片が付いたもんだ。それでわしの分も販売に廻せば売り上げからショウのほうへ回すようかな」

「まさかそんな契約はしていませんよ。あの3000は此方様の自由でどう扱おうとぼくの出番はありません」

老人は「よく言ってくれた前にそういう話はしたが、契約書にはかかれていなかった。君の誠実さには感謝の気持ちしか表せないが」と正太郎の手を取ってこれからも頼むよと何度も言うのだった。

「実は大きなことを言っても30000フランを1日で儲けるなど経験が無いものでな、心臓が飛び出すかと思ったよ」
冗談交じりで何時もの老人にすぐ戻った。

机で事務をとりながら聞いていたシュワルツ夫人もにっこりと笑って新しく熱いカフェにミルクをたっぷりと注いでくれた。

12月の薔薇代金送料保険混み金額の11225フランの小切手を出して領収書を書いてもらうと「良いノエルをお迎えください」と事務所を後にした。
正太郎は銀行への預金と土地代金の支払いで心持ち軽くなったサックに改めて74165フラン分が入ったのだ。

「やはり金貨は重みが違うな」
50フラン金貨や20フラン金貨がまだどっさりと入っているのだ。

横浜での支払い済み分が42500フラン、タカと学生の費用32000フランを差し引くとマイナス335フランだが、それに前回貰った31500フランがノエルたちの勧めもありShiyoo Maedaに純利益で入ることになったので31165フランとなった。

残りの百合根を別にしても31165フランはShiyoo Maedaにとって大きなお金だ、年2回この利益を得られることが続けられれば大事な商品の仲間入りだ。
其れも自分が動かなくともギヨーバラ園が全てを仕切ってくれるのだ。

正太郎は馬車を捕まえるとクロワ・ルースのM.ランボーの出店に向かった。

店は盛況で温室で咲かせた切り花が所狭しと並べられM.デュブルーユも手伝っていた。
M.ランボーに12月分の支払いと12月、3月の半金合計に送料と保険代金の11225フランの小切手を渡した。

「やぁいつもながらの先払いで助かるよ」

「向こうでも評判が良くて1回目はギヨーバラ園と合同での売り出しでほぼ倍で引き取っていただけました」

「其れは凄いね。だが一緒だとどちらが良い値段だったかわからんな。そろそろ横浜に2回目が着いた頃だろ」

「確か15日の予定でしたから年内に連絡が来るはずです。遅くも定時連絡が次は1月5日ごろです」

「楽しみもあるが不安もあるな」

「2回目は前に買い損なった人が高くとも買うか、町に薔薇が溢れて買い叩かれるか心配でもあるのです」

「ショウの顔つきを見ると心配している顔でもなさそうだ。わしを脅かしているのかな」

大きな声で笑い12月12日の船はまた一緒だったよと其れのほうが高いとなると次は気を引き締めないと笑われるなとM.デュブルーユと一緒に笑った。
和やかなうちに次回もよろしくお願いします、こちらこそと挨拶を交わして店を後にした。

待たせておいた馬車でブティックに戻ると「あの小屋は明日から取り壊すわ。ご近所でも目障りだし浮浪者でも入り込むと厄介ですから」と報告された。

「一応M.キャステンには話してくださいね。登記が済んだとはいえ中に大切なものが眠っていると困りますから」

「さっき奥様とこられた時に相談して全て任せるとおっしゃられましたよ」
其れ反対に金目のものでも見つかれば大儲けだねというとナタリーやオドレイは大きな口をあけて笑い出した。

「駄目だよ、ナタリーもオドレイもまだ結婚前のレディなんだからそういう時は扇で隠して小さな声で笑うんだよ」
もうショウは王妃が笑うさまと勘違いしているのよとさらに笑いが止まらない様子だ。

「そういえばショウはパリから扇を横浜へ輸出したそうね」

「ありゃ、モニクが喋ったんだ。ヴィエンヌから誰かが買って帰りそうな気がしたんで其の前にと思ってね」

「そう、売り込まれたんだといっていたわよ」

「其れも有るけど、マリーアントワネットやポンパドール夫人の絵に描かれていたような豪華なものが欲しいなと言っていたら。サン・トノーレ街のヴァルタンという店で作られたのを持っていて中々売れないと聞いて食指が動いたんだよ」

「16本で5000フランもとられたのって本当なの」

「本当だよ」

「それで売れたの。400フランしたものがあると言っていたわよ」

「いやまだ判らない。15日には船が着いたはずだから今度の定期連絡でわかるかも。値段の事は怒られるかも知れないけど、きっと欲しがる金持ちが出ると思うんだ。実を言うとジャネットは知っているだろうけどあの伊藤さんのところにこういうのが入りましたと教えてくださいと但し書きをつけたんだ」

「其れどういう意味なの」

「奥様にアルフォンスがドレスを作ったんだ、其れを手直しするのに横浜へ来れば必ずそういう小道具を欲しがっていると思ったのさ」

「いまさらそういうのは手遅れじゃないの。横浜のドレスを売る店ならそういう品も置いてあると思うな」
正太郎は少しガッカリしたがつい口車に乗って高級品に手を出したのが悪いんだと思い直したが「でも高級品というほどでも無いから何とかなるさ」と強がった。

「そりゃ王妃の扇なら2000フランくらい出しても良いという話しは聞いたことが有るけどさ。それにしても元値が400フランだと1000フランは頂かないと」

Shiyoo Maedaのほうが赤字でなければ上出来ですとM.アンドレにも言われたよ」
ジャネットが店員に呼ばれ事務所から出たのでほっと一息つく正太郎だった。

冬の日はどっぷりとくれ6時には表を歩くにも月も無いのでガス灯にランタンが頼りだ、正太郎はホテルに戻るのにナタリーを送ってからポン・モランを渡ってプレスキルに入った。

何処に行くかなと考えながら歩きいつしかマロニエ通りのシェ・ママンの前にいた。
中へ入るとアランが1人で食事を始めるところだった。

「いいところに来た今晩はショウのおごりだビールの追加だ」

「何でぼくのおごりなの」

「この間の賭けだ。1時間以内に44台しかフィニシオン出来なかったぜ」

「それじゃ仕方ないか。いい物を頼んでくれたまえ」
正太郎の前にもビールが置かれたのでソーセージのフライとジャガイモのフライを頼んで後はなにを頼むかメニューを眺めた。

「其れくらいにしときな」

「何でだい」

「俺も今晩は此処で軽くし上げてからよそへ行くのさ、だから付き合いな」

「やったじゃ勘定は安くつくな」

「そうは行くか。夕食一回だまだ今晩の食事は終わらないよ」

「1回と一晩じゃ違うだろ」
知らん顔でビールを飲んで正太郎が頼んだものにまで手を出して「早く食べろよ」と催促するアランだ。

やれやれニコラの同類だ、そう思いながら顔は自然とほころんだ。

「何思い出し笑いしているんだ。リヨンにいい女でも出来たのか」

「其れがいればこうしてアランと飲んでなんぞいないよ」

「其れもそうだ」
皿が空になると立ち上がりアランの勘定もチップも混みの5フランを払って外に出た。

「何処に行こうか」

「其れより手形を持っているので一度ホテルに預けるから馬車を拾おうよ」
ベルクール広場のグランドホテル側に出て馬車を拾いボンディ河岸へ向かった。

50フランに20フラン、10フランの金貨5フランの銀貨を幾つかのポシェに流し込み、テルメ街の坂の途中のカフェ・コンセール・マルメという店に向かった。

馬車を降りて店に入るとイタリア人らしき髭の男とスペイン風の衣装の女性が舞台で歌いながら踊っていた。
席に着くとアランがドイツのモーゼルとスペイン料理らしき名前のものを頼んだ。

「此処は不思議な店だね」

「まだ驚くには早いぜ」
舞台では黒人の女性が豊かな胸をさらけ出して腰を振って踊りだした、音楽も正太郎の聴いたことが無いリズムだ。

それでも出された料理はツェラー・シュワルツ・カッツと言う甘口のワインとあっていた。

「こいつはいいだろ」
黒い猫の絵が張られたワインは舞台で繰り広げられる各国の踊り子の不思議な踊りをさらに不思議な世界へ導いてくれた。

アランが次に頼んだグラーヒャー・ヒンメルライヒシュペトレーゼというワインは不思議な香りのする甘さが口当たりのよさを誘い、太鼓の音が幻想的に聞こえてきた。

チーズとハムの皿とポテトサラダが出されスペインのシェリーをソムリエが進めた。
食前酒とばかり思っていた概念は崩れる美味しさだった。

エレデロス・デ・アルグエソはポテトサラダに切り込まれていた玉葱の甘さと林檎の酸味にこれほど合うのかと正太郎は驚いた。

「アラン、今日の酒と料理はすばらしいよ。これなら料金を払うのにもアランに感謝したいくらいだ」

「しめた。それなら他に一軒いいところがあるから其処へ行こうぜ」
仕舞ったと思ったが酔った頭は「良いとも」という自分の言葉が喜びの声を上げているのを教えてくれた。

2時間ほどで35フランの勘定はこんなに安くて大丈夫かと思わせたが5フランのチップを乗せて出すと支配人がおくりにきて、表のドアマンにもアランは5フランを渡して馬車を呼ばせた。

サン・タントワーヌ河岸のサン・タントワーヌというキャバレーはリドと雰囲気が似ていた。
入場料は一人2フラン、セルヴィスに5フラン渡して席に着くとセルヴァーズが注文を取りに来た。

アランは注文をして10フランを盆に載せるとすぐにカクテルが運ばれ、女給が2人席に付き正太郎がすかさず5フランを胸に入れた。
フロアで1曲踊り席に戻ると料理と林檎が出され、女給は器用に切り分けると正太郎とアランにフォークで食べさせた。

「好きな酒を頼んで良いよ。僕たちにはブランのシャサーニュが有れば出してくれたまえ」

アランが言うと1人が手を上げるとシャンペンがすかさずセルヴァーズによって運ばれ女給が「ブルゴーニュのシャサーニュ、ブラン」と注文を伝え、アランは牡蠣があれば頼むとセルヴァーズに伝えた。

フロアから1段高い舞台では若い歌手が切ない声でシャンソンを歌い、其の後を引き受けた紳士然としたボードビリアンが其の様子とは違う可笑しな芸をみせて客の笑いを誘った。

シャンペンがまた追加されて生牡蠣は氷の上に並べられ12個が並べられたうち正太郎が二つ食べるうちにアランは次々に飲み込むように全てを食べた。
ワインがなくなると今晩はここまでにするかと女が引きとめる中、アランは勘定書きを取り寄せた。

仔細に点検して正太郎に渡すと82フランとしてあった、前の店とは大違いだ、あまりにも前の店でアランをおだてたのが悪かったようだ。
20フラン金貨を5枚と2フランの銀貨をひとつ置いてチップ込みだよとセルヴァーズに伝えた。

こりゃシャンペンには女の取り分が大きいと判断して帰り際には女たちにチップを渡さずに席を立った。
ドアマンに5フラン渡して馬車を頼みアランを送るとホテルに戻り上着を脱ぐとル・リに倒れこんだ。


Paris1873年12月31日 Wednesday

華やかだったノエルと違いパリの大晦日は静かだ。

今年は雪の大晦日になり、ヴァルダン通りではオウレリア・マック・ホーン主催の晩餐会を開いた。
呼ばれたのは50人ほどだが殆どの部屋に飾られた装飾に感嘆の声を上げるのだった。

日本式の部屋は雛人形と鎧兜などが置かれていて、アメリカ風の部屋はインディアンのテントが飾られ、エジプト風の部屋には絨緞の上に様々な壷が置かれた。
正太郎が此処へ運んでおいた雛人形、鎧兜以外は全てヴィエンヌで買い揃えたもので、エメから住所を教えられていたので送りつけてきたのだ。

「ロンドンに送らなかったのですか」

「此処に置いておいてもいいでしょ」

「其れは構いませんが、持ち帰らないと後で寂しい思いをしますよ」

そんなやり取りをしたがフフフと笑うだけで後は知らん振りだ。
クリスマスを充分楽しみホテルを引き払ってヴァルダン通りには26日から今日の準備にかかりきりだったようだ。

Mr.ラムレイはそれには係わらずホテル住まいだ、正太郎とセディと一緒にノエルの後も孤児院に必要なものを調達に回り、厳しい冬のためにいくらかでも孤児たちが暖かくすごせるようにロレーヌが欲しがるものを聞いては街中を回った。

暖かいクロワールは大人たちが、食堂は子供たちが集まり招待された人とドナルド爺さんや手伝いに雇ったジャン、爺さんの手伝いをする近所の子供たちも3人、エドモンの友達も5人が招待された。

パリから呼ばれたシェフと其の下働きが3人、デルモット夫妻はセルヴァーズとしてこの晩餐会を盛り上げた。

子供たちはガトーの種類の多さに顔をほころばせ、左翼の書斎や喫茶室、右翼は応接間とあちらこちらにリリーが飾ったヴィエンヌのお土産を見て歩いた。
2階の部屋の飾りもエドモンの案内で見て周りテントにもぐりこんで大喜びだ。

9時には近所の子供たちはお菓子とリリーからのプレゼントを抱えてMr.ラムレイが馬車で送り届けた。
2回目のノエルが来たように子供たちは楽しそうだった。

クロワールのピアノをノエルが弾きマダム・デシャンとMomoは歌い続けていたがジュディッタとエメが歌いだすとカテリーナもアリサと交互にピアノを弾いて賑やかに夜は更けて行った。

西園寺は日本の笛を吹きアリサとカテリーナは其れにあわせてピアノを連弾した。

「ピアノとジャポンの楽器がこんなに合うなんて」
一同は3人の技量を褒め称えた。

シェフは12時までの約束で調理場を片付けると迎えの馬車で一堂に「美味しかったです。トレボン。オ・ルヴォワール」と見送られてパリへ戻っていった。
其の頃には一同はお酒も回りすっかり楽しくなっていたのだ。

雪は次第に積もりだしたが残った人はまだ帰る気配を見せず、ミチとタカにソフィアが歌う日本の歌と正太郎が賑やかに野毛の山を歌うと、ニコラとダンにラモンが揃って一緒に大きな声で楽しく歌った。

ノエルたち5人は此処に泊まり、そのほかのものは約束した2時に迎えの馬車が来て雪の中を帰って行った。
ドナルド爺さんはデルモット夫妻が雪だから1階の自分たちの隣の部屋へ泊まっていく様にと勧めたのでまだ飲み続けていた。

「爺さんは強いね」

「なぁにこれっくらい」
そういいながらふらふらと自分にあてがわれた部屋へもぐりこんだ。

リリーはジュディを自分の部屋に寝かすことにしてあるからと2階の4部屋をノエルたちに振り分けた。
エドモンはいつも2階で1人寂しかったようだが、普段はデルモット夫妻が隣へ休むようにと下で寝る事も多かったようだ。

エドモンは久しぶりにマルティーヌと姉弟で、ノエルはタカとミチとソフィアには1部屋があてがわれた。
正太郎が余分にル・リを買い入れて各部屋に二つあったのでこういう時に困る事は無かったのだ。

「随分ル・リを置いてあるんだね」
夫婦の方が泊まっても良い様にホテル並みにしました、と帰りの馬車で明日の予定などの合間にMr.ラムレイと家の事、庭の事等を話した。

ニコラはまだどこか寄りたそうだったが、Mr.ラムレイが馬車から降りた頃にはうとうとしていたので其のままメゾンデマダムDDまで帰ってしまう正太郎だ。

ダンに抱えられるように部屋に放り込まれ、ル・リに押し込まれた事も気が付かないようだ。
正太郎がショスールだけは脱がして毛布を余分にかけて部屋を後にした。
セディとベティが心配そうに見ていたが安心したかMomoと自分たちの部屋へ上がっていった。

「何か飲むものはあるかい、ショウ」

ダンとラモンが小さな声で囁いた。

「ヴランデーとエビアンが部屋にあるよ。ミモレットチーズくらいしかないけどいいかい」
充分だと自分の部屋からコップを持ってきて3人で正太郎の部屋で暫く話をしてヴランデーを楽しんだ。

ヴランデーが少なくなるとエビアンを足して飲みながらチーズをかじり話題は最近新しい作品を書いていないミレーの事になった。

「彼の絵はアメリカ人が高く評価していいやつは10000フランもするが、モネにマネ、ルノワールの絵はサロンでの評価が低いから300フランもしないよ。ショウが彼らに目をつけたのは正解だ」
ラモンは正太郎の部屋にあるルノワールの3枚の絵を見ながら話した。

「こいつはYokohamaには送らないのかい」
正太郎はその3連の小さな作品が気に入っているのだ。

「ぼくは其のミレーさんの絵を見た事が無いのですが」

「何だ知らないのかい。バルビゾンに住んでいて農民の絵を描く事が多いんだぜ。レジョン・ドヌールまでもらったんだぜ。木靴を履いた羊飼いの乙女とか農家の日常の生活を描いているんだぜ」

「もしかして其れらしき絵を見たことがあるのですが、その人の作品かどうかわかりません」

「何処で見た」

「モンルージュの家を買ったときに屋根裏にありました」

「今度見てみよう」

「でもサインがミレーではなかったような気が」

「まぁ良いさ、見たからと言って損をするわけでも無いからな。今何処にある」

「メゾン・デ・ラ・コメットに飾ってありますが」
本物なら凄いぞ、模写でも誰か有名な奴のならもうけものさと2人が煽るので正太郎は其の晩あったことも無いミレーという人の夢を見てしまった。

夜は中々明けなかった、新年の太陽は雪がやんだ10時頃になってようやくぼんやりとした顔をのぞかせた。

起き出したメゾンデマダムDDの住人は普段と同じような生活を始めたが、正太郎をせかしてダンとラモンはメゾン・デ・ラ・コメットへ早速出かけた。
暖炉のあるティールームに其の絵は飾られていてM.アンドレが綺麗にさせた其の絵が気持ちを落ち着かせると此処へ飾らせたのだ。

~ンとうなるように見ていたラモンとダンはミレーらしいがと2人で相談しだした、横53センチ縦71センチほどの絵だ。
ダンはアメリカではミレーの評価が高く、画商の持つ画を幾つか見ているそうだがこの顔が良く判らないのはどうなのかなという表情だ。

ダンは壁からはずして額から出してみていたが、カンバスの裏にあるFM/Jというサインは石版画などで見たように思うがどうなんだろうとラモンと話し出した、有名になるまえの絵か画商の持つ絵か金持ちのコレクションの模写かもしれないと自信は無いようだ。

木靴を履いた少女が棒を支えにたち其の奥には多くの羊が描かれ、木立の向こうには黒い牧羊犬が羊を散らさないように駆けているようす、奥には田園の風景が広がっていた。

大きさの割には多くのものが描きこまれ、雑草の雰囲気はミレーらしさが出ているとラモンは受けあった。
すこし調べてみるか、いや本人に確認させたほうが確かだぜと2人は正太郎に言うと絵をいったん元に戻した。

M.ミレーが住んでいるバルビゾンまでは馬車で4時間、行ってみるかとラモンとダンは明日の朝7時出発だと勝手に決めてしまい、掛け直した絵をはずしてルモワーヌ夫妻にはもしかすると5000フラン位の値打ちはあるぜ、と脅かして包む為のシーツを出してもらうとメゾンデマダムDDに持ち帰った。

学校もクリスマス休暇の続きでセディも連れて行くことになった。

馬車屋には2日の朝7時にバルビゾンへ行くので1日がかりだと連絡に正太郎が出向くことにし、其の連絡をしたあと今日も貸し切りで頼んでジュリアンの店へ向かい其のあとノートルダム・デ・シャン街でエメに其の話をした。

M.ミレーね。最近新しい絵は描いていないらしいけどサロンでは高く評価されていたそうよ。マネ先生やルノワールさんとは意見が合わないようだけど、化学と同じで画も進化しているのよね、パリでは昔ほど人気が無いようだけどアメリカ人が高いお金で買い集めていると良く聞くわ」

何処かに伯母が集めたエッチングがあるはずと書斎のある部屋へ行きガゼット・デ・ボザール(Gazette des Beaux-Arts)と書かれた箱を持ち出した。

居間のある自分の部屋に戻り箱を開けると中に新聞の間にLA BOUILLIEと書かれた紙に挟まれた手のひらサイズの版画があり、J F Millet 1861のサインがあった。
若い母親が子供に離乳食だろうかさじで食べさせようとしていた。

「サインは全然違うよ。でも書体は似ていたかな」

「なんなのそれ」
正太郎はJFMとだけ書かれていたことを話し、明日ビエルゾンまで4人で出かけるんだと話した。

「まぁ、私を置いていく気ね」

「仕方ないよ。ダンたちが急に行く気なったのだし。この天気では明日遠出しても面白いことなど何も無いよ」

「其れで鑑定をしていただくのに、お土産は何か持っていくの」

「考えて無いよ」

「もう男どもはなにを考えているのよ。ミレーさんのところには子供が大勢いるのよ、それに奥さんにもお土産を用意しなさい」
エメは待たせていた馬車に同乗してサン・トノーレ街でお土産にするお菓子とフラールを3枚買い入れ「後はヒロシゲにウチワとセンスを幾つかもって行きなさい」と命令した。

其の次の朝は7時に迎えに来た馬車にクストーさんが用意してくれたサンドウィッチとワインを持ち込み、西の空に丸い月が残る中をサン・ドニから東へ向かい、アメリカ地区の外を回り、ヴァンセンヌの森の西側の辺りで薄暗いままの空の下をナシオナル橋でセーヌを渡った。

セーヌ県からまたセーヌ川沿いに道をとり太陽が昇りだしかかった8時半近くにはヴィルヌーブ・ル・ロワの駅まできていた。

「思ったより早かったな、これなら10時には着きそうだ」

ダンはワインとサンドウィッチを交互に口に運んで、アメリカ人の絵に対する嗜好をラモンと議論していた。

ジュヴィジー駅の辺りで太陽が昇り、正太郎とセディはセーヌの眺めを窓から飽きずに眺めていた。
右手には湖が見え其の周りを回るようにセーヌから分かれた道は鉄道に寄り添うように南へ登っていた。

鉄道はエタンプ方向へ遠ざかり丘を越えるとまたセーヌが近づき対岸の丘は陽の光を受けてまぶしいくらいの雪で真っ白だ。

バルビゾンは鉄道の駅はムーランが有りガール・デ・リヨンから1時間20分掛かり肝心の訪ねる家までの道を考えれば馬車のほうが楽なようだ。
春なら鉄道で保養に来るにはいい場所だな、ダンたちはすっかりピクニック気分だ、フォンテーヌブロー・アヴォン駅からは城めぐりも出来るのだ。

フォンテーヌブロー・アヴォン駅まで特急を捕まえれば50分、ムーランは急行で50分だ。

馭者が声をかけ地図で場所を確認すると、今いる場所はムーラン駅と5キロくらい離れていた。
フォンテーヌブロー宮殿までは10キロほど、正太郎は暖かくなったら遊びに来るかと一瞬エメとアリサの顔が浮かんだ。

「肝心のM.ミレーの家は何処なんだ」
ラモンは全然知らないようだ、南西に集落があり其処へ向かった。

テオドール・ルソーもこの村で亡くなり、多くの画家が住んだ村なので容易に探せるだろうとたかをくくってきたが、中々目指す家にたどり着かなかった。
馭者が居酒屋で訪ねると道が一本違っていて、此処からは畑の向こう側になると教えてくれた。

アトリエは石の塀に連なるレンガ造りの建物、通りに面した大きな窓が中央にあり日の光を取り込むつくりになっていた。

馭者に正太郎が5フランを渡してあの居酒屋で体を温めて待つように言って目指す家を訪れた。

ラモンが連絡も無く訪れた事を詫び、来意を告げると夫人が居間へ招じ入れてくれた。
4人を暖かく迎え入れた家族に目的の絵を見てもらい、子供たちと夫人への贈り物を渡すと嬉しそうに受け取ってくれた。

「これは20年ほど前に描いたものにまちがい無いよ。10年ほど前からは人に渡す前に写真に取ったがそれ以前のものだね。何処にあったね」

正太郎が買い入れた建物の屋根裏部屋に布に包まれていたと話すと「では前の持ち主が戦争の時にでも其処へおいたまま亡くなったのかもしれないな。コミューンの戦いもあったし、つい最近までパリは物騒だったからね」と自分の描いた物にまちがいが無いと夫人とともに認め、ノートを調べて今日の日付の紙に1855年 jeune bergereと裏地のサインと同じFM/JJean-Francois Milletのサインを書いてくれた。

「鑑定料はいかほどでしょうか」ラモンが言うと「君も絵描きらしい負けとくよ」と手を振った。

アトリエに誘われ、たくさんの絵を見せてくれ、「買う気が有るなら安く出してあげるよ。ただし3点までにして欲しい」そう心が動く申し出をしてくれた。

「アメリカ人はいい値段を付けてくれるが、小さな作品は喜ばないのさ。おや、失礼、君たちはアメリカ、スペイン、ジャポンの人といったね、その少年は何処の人といったかな」

「かれはパリの生まれで父親は生粋のパリジャンです」

「父親はというとメールはどこか違う国の生まれかな」

「イギリスの生まれです」
セディははっきりとした声でM.ミレーに「セディ・マクシミラン・アンクタンです」と名乗った。

「面白い、一緒のアパルトマンの住人だといったね、ではセディ君にはこれを上げよう」
画家は少女の顔が描かれた小さなエッチングをお土産だとセディに呉れた。

正太郎は持って来た絵と同じ縦53センチ横70センチほどのものを選んだ。
農夫のおかみさんが窓から大きく半身を乗り出したものだ。

ダンとラモンは油彩だが縦25センチ横35センチほどの小さなものを選んだ。
どちらも夕方の畑の農民を描いたものだ。

帰りの馬車の中で聞くと高いものは持ちきれないと売る事になってしまうからと2人は同じことを言った。

居間に戻り夫人と相談していたが、お土産の広重や子供たちが嬉しそうに手にとる3体のビスクドールと街の写真、機関車の模型などを見ると「絵は他の人の手前安いと言っても限度があるがお土産は上げよう」と婦人に耳打ちして3枚の小さなエッチングとパステル画を持ってこさせた。

正太郎が選んだ絵は1200フラン、ダンとラモンの絵には300フランを画家が申し出た。
正太郎が全て立て替えて50フラン金貨で支払った、こういうこともあろうかと2000フランを金貨で用意してきて良かったと後でエメにも褒められる正太郎だ。

居酒屋で休んでいる馭者を男の子が呼びに行ってくれ、布に包まれた絵はダンがまとめて持って馬車に積み込んだ。

家族に別れを告げ、村を出たのは2時を過ぎていたが興奮してでもいるのか4人は昼を食べなかったことも思い出さないようだ。
オーステルリッツ駅の近くで3時20分だったのに気が付いた正太郎はお腹が空いたのも急に思い出した。

「何か買って帰ろうか」

「やはり腹が減ったか」
ラモンがそう言ってファウンテン広場のパティスリー・オ・シャ・ノワールへ向かわせてパンとガトーショコラを買い入れ、正太郎は栗のタルトにチョコレート・トリュフをDDへのお土産とルモワーヌ夫妻に買い入れた。
イノサンの泉がある広場にノエルの前は市場がたちダンやラモンもセディにベティを伴って買い物に来た場所だ。

先にメゾン・デ・ラ・コメットへ向かい、正太郎が此処で降りて羊飼いの乙女を描いた絵を元の場所に掛けた。
画家に書いて貰った書付をルモワーヌ夫妻に渡して「これが入る額も買ってくるから一緒に飾ろう」と話してお土産のガトーを渡した。

「凄い値打ちものなのですか」

「似た絵でもこの倍の大きさには5000フランくらいの値がつくそうだけどこの大きさの絵は高くても2000フランくらいだそうだよ。今日買い入れたのは1200フランだったから、此れもそれ位だと思うよ」
それでもルノワールが描いて旦那に送ったアルジェ風の女性に比べれば高い絵なのだ。

正太郎にはあの絵のほうが価値もあると思うし、この間描いて貰った小さな河岸の絵のほうが好みなのだ。

歩いてメゾンデマダムDDに戻り、台所で凍えた体を温めダンが披露している絵を見にクロワールへ入った。
やはり興奮が冷めてみれば此処にいる人たちはマネやモネ、ルノワールの絵が好きな人たちだ。

それでも絵には価値があることに間違いはなく、いい物を安く手に入れたことを喜んでくれた。

「正太郎は其の絵を何処に飾るの」

「事務所のぼくの机から正面が荷物置場なのでそれを屋根裏に上げて空いた壁に飾ります」

「ふぅん、そうすると正太郎はいつも其の絵を眺めながらお茶をするんだ」
マリー・アリーヌはからかい顔でそう言ってダンと顔を見合わせた。

「こんなにふっくらしたおかみさんはショウの好みと知らなかったわよ。エメの新しい絵かM.ルフェーブルの描いたあのマンドリンを持っている絵を飾ればいいのに」

あれはやはり2枚書かれてエメは手に入れるのに写真とともに800フラン支払ったのだがピサロ先生は「ほぉ珍しく安く言うたか。2000は払えというかと思ったよ」と言って正太郎を唖然とさせた。

「それじゃいつもエメに監視されているみたいじゃありませんか、飾るなら陽が当たらないようにぼくの事務机の横にしますよ」

正太郎の机は後ろに明かり取りの窓があり机の横には本棚が2列あるので其の間に今は花が置かれた場所があるのだ、今はエメの書斎にかけられていて2人のほかにはリディ一家にジュディッタくらいしか見られないのだ。
メゾンデマダムDDで10日の間クロワールに掛けられた時は正太郎でさえ見とれる出来だった。

「あの花瓶の場所」

「そうですよ」
お茶を楽しみ、ミレーの絵とラモンの描く女性が似ているという話から、ラモンも上流階級の派手な衣装の女達より農夫の素朴な衣装を着せた女性を描いたらどうなのとMomoに言われるのだった。

相変わらず裸の太目の女性か宮廷風の女官、公園の噴水を描く事が多いのだ、売り物にM.タンギーに頼まれるパステル画の小品はかれの豊かでない財政を支えているのだ。
ふた月に1枚正太郎のために100フランで描く55センチ四方のパリの街は横浜へ送ると30円の値が付くので他の絵や品物に混ぜて時々送り出していた。

お土産のエッチングとパステル画はダンとラモンの勧めもありモンルージュのメゾン・ノエル・ルモワーヌに持っていくことになった。

朝から暖かい陽が射していた、と言ってもパリの朝は8時44分に日の出と新聞には書かれている。
池の氷は厚くはり、セーヌはもうじき凍りつくだろうと新聞には書かれていた。
一年前の正太郎は使節団の通訳をかねていたので目の回るような忙しさだったのだ。

事務所に出かける前に横浜12月31日発信の電信が届けられた。

伊藤たちへのパリでの貸し金の支払いが済んで、其れは正太郎の資金に加えたこと、薔薇は2000本が24260フランになったこと此れも資金入り。

百合根が小兵衛さんからオランダ人が三菱を通じて長崎で買い集められていると連絡があり薩摩からは他に出さない処置がとられたとして有った。

先んじるために3万球を買い揃えたので至急申し出の商品と共に送付すると記され、ひと月後には同じ位は集荷できるので送るが今回の値段は送料保険混みで182550フランと記されてあった。

株分けの都合もありその次の送付は9月必要数について8月末までに連絡、扇は1500円で伊藤様が全て買い占めたこと此れも資金入り、ビスクドールを各種50体8種類集めて至急送ること、機関車の模型は好評だが500フランまでなら10台買い入れることなどが記されていた。

正太郎の資金は諸々相殺の上85600フランであること。

やはり小兵衛さんはソフィアのこともあり心配してくれたようだ、正太郎が留学費用に百合根の販売をするとソフィアから鹿児島へ手紙を出してあったせいだろう。

正太郎はギヨーバラ園に今までの金額で出しても一つ4フランの留学基金は確保できると計算してほっとした。
ただこれから競合が進めばどうなるか予断は出来なくなったようだ。
ベティが其れでショウの儲けは出ますと心配して聞いた。

計算して正太郎の取り分は全て10フラン50サンチームで出すと、14760フランだとMomoに言うと二人はほっと息をはいた、儲けが出るのか心配したようだ。

「もう充分留学費は確保したから大丈夫さ」

「でもショウが儲からなければ後で困るでしょ」
2人は他人事では無いと言うのだ。

ワインは6000本がオークションで81250フラン此れは高級ワインが多かったためらしいと但し書きがあった。

6000本は試供品混みで75000フランの引き取り、お金は例によってスミス商会経由で支払われることなど。

「其れが順当だよね」
Momoとベティに話しながらノートでの暗号を翻訳しながら要点をまとめた。

ワインの売り上げ

1回目128050フラン 横浜資金入り
2回目150280フラン 入金済み
3回目156250フラン 入金予定
売上合計 434580フラン

送料保険混みでM.アズナヴールへの支払いは246000フラン
3回の儲けは予想外の188580フラン

ジュリアンの利益94290フラン、Shiyoo Maedaに94290フランを入れれば送られる金額の残りは117950フランとなるのでエメの口座から1万ポンド降ろした分が元に戻せそうだ。

前に共同で10万フラン戻してあり、横浜資金もまだ余裕があるので今回15万フランを入れても困らないだろうと思えた。

ジュリアンが今の建物土地を買い入れるのは近いだろうとMomoに話しておいた。

「またリヨンへ行くようだよ。今度は百合根も大口だ。他からも入ってきそうだから売値が下がるかもしれないよ」

「其れで大丈夫なの」
また話が戻ってしまった。

「卸価格を安く設定して対抗するようだね。ギヨーバラ園にはすこし様子見をして安く売るか仲買の人が損をしないように、後で補填をすることも考えようかな。大口のM.ジュイノーのこともあるしね」

正太郎は大口のM.ジュイノーが損をしないように、百合根の情報を送るように要請する電信を打つ事にして、電文の下書きを書いて暗号表に基づいて言葉を少なくした。

「今日はこれからジュリアンのところとM.ジュイノーにエメのところを回って明日リヨンへ出かけるからね。今回は明後日には帰ってくるよ」

「大変ね電信だけでは通じない話もあるのですものね。言葉が直接聞ければいいのに」

「頭のいい人は言葉が送れる様に考えているんじゃないか」

「またショウは夢のような事を言うのね」

「電信だって其のうち電線が要らないように出来るかもよ」

「またショウはシラノの話し辺りから可笑しな本の読みすぎよ」
2人は本気には出来ないようだ。

M.ジュイノーのパリの住所を見直したが河岸の場所に心当たりが無かった。

「メジッスリ河岸って何処だろう」
ベティが知っていてジェランフ・ドゥラエ・プラントのある場所はシャトレ座とポン・ヌフの間だと教えてくれた。

「ショウは彼方此方歩いて場所を良く知っているくせに」

「だってあのあたりはルーブル河岸だとばかり思っていたんだよ」
部屋に二人が付いて来て明日の仕度をセルヴィエットに詰めてくれた。

着替えをしている間にセディが馬車を呼んで来て、事務所で連絡を確認し、電信をアランに出しに行かせ、ジュリアンの店でワインの価格の報告、メジッスリ河岸の植木・花店へ行くと親子は揃ってよく来てくれたと歓待してくれた。

「横浜の価格に変動が起きるかもしれません。僅かですが出荷価格が高くなります」

「其れは大変だどのくらい高くなるのかね」

「此方に渡す値段には影響はありません。もしかして安くなる可能性もあります」

「よく判らんがどういうことだね」

「実はオランダの商社がNagasakiで買い付けを始めたそうです。今年一杯は其れほど集められないでしょうが、大きな会社が後ろ盾で集めるので来年度以降百合根の株を増やすことになれば大量にフランスに入って来るかも知れません」

「其れは商売で仕方の無いことだよ。情報はありがたいが、そういうことが起きるのは仕方ないことだよ。其れで其のオランダからの品物の前に入れられることはできるのかな」

正太郎は電信の束を見せながら説明した。

「此れは百合根の情報を知らせてきたものです。ぼく以外には読めないかもしれませんが30000球を至急送り出すそうです。あと今月中にオランダ商社に品物が渡らないように買い占めて、同じくらいは送り出せると言って来ました。ぼくの会社はYokohamaTokyoKobeNagasakiOsakaNagoya、などの支店網とロンドンのスミス商会と連携していて、今度の大手の会社とは違うグループとのつながりから暫くは価格で対抗できますが、どのようになるか判りません。もし半年で100000球を越す百合根がパリに入ることになれば価格は維持できないと思いますが、ヨーロッパを抑えられれば相手はアメリカを輸出相手にフランスから逃げるでしょう」

親子は話し合っていたが「よく判ったしかしあの値段の百合根が安くなったとしても半額に暴落はしないだろう。君が儲かる価格を設定してくれれば私たちは引き取る用意がある。M.ギヨーと相談して価格競争に今から備えようじゃないか」とM.ジュイノー親子は大物らしく正太郎を励ましてくれた。

M.ギヨーと相談して此方様に充分儲けが出る価格設定をさせていただきます。明日にはリヨンへ出て明後日には戻りますのですぐに報告に参ります」

「若者らしくいい動きだ。期待しているよ。私たちはその2回分を全て引き取ることもできる。5年後に行おうと息子と話したことが来年には実現できるなら、何オランダの人間には負けんよ。資金が必要なら何時でも申し出なさい」

「ありがとう御座います。現在はバイシクレッテとワインの利益が充分出ていますので大丈夫ですが大量に買い入れるときはお願いに上がるかもしれません」
何時でも御出でなさいと正太郎を元気付けて送り出してくれた。

リヨン駅で往復の切符を買い入れエメに昨日からの話しをすると、絵はYokohamaに送るのというので事務所だと答えるとM.ミレーの絵が外国に流れていくのが多いのでパリに留めてくれるのは嬉しいとビズをしてくれた。

「忙しいからと言ってあまり無理しないでね」

「判った。帰ってきたら夜に顔を出すよ」

メゾンデマダムDDに戻り食事を済ませるとクロワールでお茶が出され、ジェランフ・ドゥラエ・プランで聞いた其のうち行いたいと話していたが何だろうと言う話題になった。

「百合の時期だとパークに関係が有るかな」

「そうよ。其れよ」
マリー・アリーヌはニコラの言葉にすぐさま反応した「大統領は王党派よりだし、フルール・ド・リスは共和国になって敬遠されて、パークの間は赤や紫のアネモネを飾るようになったわ、其れをまた百合の花に其れも正太郎が言う大きな白い花の百合を売り出す心算よ。此れで決まりよM.ジュイノーはパリの街から百合の復活を成し遂げるつもりだわ」と主張した。

そうすると百合を増やすのは株分けするのと輸入するのとどちらが有利かという話になった。

鱗片挿しという方法だと球根の各片をばらばらにして腐葉土を混ぜた土に尖った方を上にして埋めて日陰に置いて芽を出させると正太郎が説明した。

「あたらしい品種を作る時は交配して種を取るんだけど花が咲くまで時間が掛かり根気の無い人には無理だよ」
薔薇を交配している人たちにはなんでもない作業なんじゃないのとMomoが紅茶のお替りを配りながら話しに加わった。

3日の朝何時ものガール・ド・リヨン9時15分発でガール・デ・リヨン・ペラーシュ16時15分到着という御馴染みの特急だ。

ホテルに荷を置くとギヨーバラ園へ向かった。
正太郎が電信の束を見せながらジャポンの百合根の事情を話した。

「そうするとオランダの商社とMitubisiという商社が手を組んだというわけですかな」

Nagasakiのグラバーという商社の名を聞かれた事は」

「イギリスの武器商人だな」

「其の商社の後を受け継いだのがオランダ商会とMitubisi商会です」

「危険な連中だな」

「彼らもフランスで今は倍以上で売れるとなれば、粗悪品でもジャポンの検疫がうるさく無い今大量に買い付けて送り出すはずです。受ける商社に付いてはまだ判りませんが粗悪な球根が流れ込まないことを願うばかりです」

「2月の末には30000かM.ジュイノーは引き受けてもよいと言うのだな」

「そうおっしゃっておりました」

「其れで価格は今のままで出せると言うのかね」

「はい私のほうは今回の分につきましては赤字にはなりません」

「それでM.ジュイノーを私たちの仲間として入れても君は構わないのか」

「はい、しかし此方の取り分を有る程度は確保しないと長続きしないと思います」

「判ったどうだね前回は30フラン50サンチームだが其処から10フラン引いて渡しても君のほうは大丈夫かな」

「はい私のほうに依存はありませんがさらに引いて17フランとして私のほうの取り分を11フラン50サンチームとしていただけませんか」

「君そんな値段でやっていけるのかね其れだとわしは5フラン50サンチームの取り分だよ」

「30000球がお2人で引き受けられるならそれでやっていかれます」
老人はすこし考えていたが婿と息子に相談してみるかと2人を呼びに行かせた。

婿のジョセフは義父に「ショウの取り分を11フラン50サンチームという事は私たちの仕入れ分が1フラン値上がりすると言うことですか」と疑問をぶつけた。

「いえあくまで30000球は10フラン50サンチームでギヨー農園に売り渡させていただきます。其処から6フラン50サンチーム上乗せして17フランでM.ジュイノーへ降ろしていただきます。もし此方様が手数料無しというなら私のほうの取り分を削られて構いません」

ジョゼフは驚いた顔をして聞いていた、事態は其処まで悪化するかもしれないと正太郎が考えているのがわかったのだ。

アンドレがやってきて老人とジョセフの話しを聞いた。

「どうだねジャン」
アンドレのファーストネームだそうだ。

「驚きました。ショウは立派な商売人です。自分の儲けを削っても我々が困らないように図ってくれます。これを其のまま放置してはリヨンのものとして恥です。どうでしょうこの際M.ジュイノーに15フランまで引き下げて我々は3フランの手数料で引き渡す、ショウの上乗せに1フラン50サンチーム。此れは検疫の費用を考えればショウの取り分と我々の分も同じくらいになります。そうすればいくら安く入るにしてもM.ジュイノーが其の商社に対抗できると思います。2軒が共同で新しい品物が入るまで30フランの卸値を維持して共同戦線をはり相手の出方しだいで値を下げられる様に協定を結びませんか。ジョゼフはどう思う」

「君の言うとおりだ。我々だけが儲けるのはリヨンのものの恥だ。必要経費が出て手数料が入ればそれ以上M.ジュイノーから儲ける必要も無い」
3人の意見はすぐに決まり今の事を正太郎が紙に書いて承諾をしてもらうと同じ文面をさらに2通書いて4人でサインをして3軒で分けて持つことにした。

「ショウ、其れを其のままM.ジュイノーに見せて構わないよ彼には元値からなにから話してある」

「判りました、私は明日の昼の特急でパリへ戻りますので明日は此方に顔を出せませんがよろしくお願いいたします」
代わる代わる握手して正太郎はバラ園を後に満月の下をブティックへ向かった。

「まぁ、ショウじゃありませんか何か起きましたか」
8時を過ぎて明かりが見え中でマシーヌ・ア・クードゥルを操作するお針子をオドレイと指導していたジャネットは驚いたようだ。

「誰かいたら明日朝に来ると伝言を頼むつもりだったんだよ」
簡単に百合根の事を話して明日何時もの列車で帰るから、明日の朝顔を出すよと告げてポン・ユニヴェルシテからプレスキルに入った。
ベルクール広場を抜けるとガス灯に浮かぶシルエットはアランだ、もっさりとした足取りで正太郎の前を横切った。

「アラン、食事かい。だいぶ遅いね」

驚いた顔のアランが振り返った。

「脅かすなよショウじゃないか。何時来たんだ」

「4時15分着のだよ。バラ園に話があってね。食事かい約束かい」

「いや今日もさびしく1人で食事さ」

「婚約したんだろ」

「相手はリヨンに住んで無いんだよ。姉とパリで学校さ」

「そうなんだ、ぼくはまだ食べていないから一緒でもいいかい」

「勿論だとも友達じゃないか、其処のシェ・ママンでいいか」
2人でビールとソーセージにチーズ、オムレツとラグー・ド・ブフで話が弾むとどこか行こうと言うことになり、リドまで馬車で向かった。

2時間ほど遊び店を出ると満月の下をポールにユベールと競争相手だったアンドレという青年がふらふらと歩いていた。

「やぁ、仲良くなったようだね」

「ええ、この前の祝勝会のあと意気投合しましてね今日もネオ達と一杯やってきました。ショウは何か用事でも出来ましたか」

「立ち話もなんだからどこか付き合えよ」

「ショウが付いているからサン・タントワーヌでもいこうぜ」

アランが大きく出た、大分ご機嫌になって居る様だ。

「あそこは大分高いと聞きましたよ。リドではどうです」
ユベールがアランに相談するように持ち掛けた。

「今出てきたばかりだ、戻るより向こうに行こうぜ」
半ば強引に3人を引き連れ馬車に分乗し、サン・タントワーヌ河岸へ向かった。

ご機嫌なアランはセルヴァーズに10フランを渡し、次々に林檎や梨に異国の果物を取り寄せ、つまみにソーセージにポテトのフライ、サラミなどを頼んで席に付いた女給にはシャンパンを、自分たちにはブルゴーニュのシャサーニュ、ブランと頼ませた。

女達には正太郎は持っていた5フラン銀貨を次々に渡したので席は賑やかに笑いが止まらず女達の普通の話でも酔った5人にはおかしく聞こえた。

舞台では静かな音楽が流れ会話の邪魔にはならなかった。
舞台でこの間もシャンソンを歌っていた若い歌手がバーのカウンターで黒いキセルで煙草を飲む様が手持ちぶさたのようで女達に呼んでいいかと聞くとマリーと名乗った娘が正太郎の脇へ呼んで来た。

「何か飲みますか」

「カクテルを頂きます」
女給が心得て歌手に持ってきたのをブルゴーニュのシャサーニュ、ブラン2本とアランが追加した。

アランが中々哀愁のある歌い方でお若いのにたいそうなものですと褒めた。

「まぁお若いなんておからかいになられては困りますわ」
声は煙草で潰れているようだが、喉元からその下に見える胸の谷間は20台の前半とも思えた。

正太郎もそれ以上年には触れずパリで知り合いの何人かのシャンソン歌手の消息を話し、リヨンでは何処にいい歌い手が出ているか女達を交えて話してもらった。

「私も一度はパリへ出てみたいものですわ。中々旅行する機会も取れませんの」

其の話からパリへ出たが、あまり街を出歩く機会が無くバイシクレッテで走る毎日だったとポールとユベールが話し、通り過ぎるだけだった街の様子を面白おかしく話した。

また出番が来たか呼ばれて席を立つ歌手の胸元に「メルシー・マダム」と声をかけながら20フランの金貨を滑り込ませた。
目ざとく見つけたアランが化粧室にたった正太郎の後から追いかけてきて「あの娘にほれたか邪魔なら消えるぜ」と言い出した。

「なんだい。可笑しなアランだな、普通にチップをあげただけだぜ」

「馬鹿いうな20フラン金貨だぜ、簡単にあげる金額かよ」
正太郎はポシェに手を入れると5フランと10フランに混ざって20フラン金貨が入っていた。

「仕舞った、リドで酔っていたせいか入れそこなった。20フランはこっちだった」
其処には20フランが3枚と50フランが4枚残っていた、右のポシェから20フランをつまみ出して左へ戻しておいた。

「何だつまらねえただの勘違いか」
2人で席へ戻ると3人が連れ立って化粧室に向かった。
アランが牡蠣はあるかと聞くと50位は残っているはずですと言うので全部だと鷹揚に言った。

仕舞った50フランを見られたからの様だ、この間も牡蠣で高くとられたんだと思ったが「アランは生牡蠣が好きだな」と笑いながら女達にこの間俺が二つ食べる間に10個食われたよと告げ口をした。

3人が戻り話はアンドレの事になり彼は市役所に勤めていることが判った。

歌手が舞台に出てきてこの間のように哀愁を帯びた歌から徐々にテンポのいい歌に変わり、最後に男歌のラムール・オウ・クレール・デュ・リューナを歌って舞台を降りた。
其の後は若い男性歌手が上がったが先の歌ほど上手いとは思えぬ歌い手だった。

牡蠣は氷の上で新鮮に見えアランに食べられないうちに食べないとすぐなくなるよと3人に正太郎が脅した。

やはり正太郎が3つ食べている間にアランは22個も殻を積み上げた。
女達が拍手してアランをチャンピオンだと持ち上げナポレオン皇帝も日に300個は食べられたとうわさがあります、あなたも挑戦したら如何と持ち上げた。

「こういう店で300も食べたら破産だよ」
おどけて君たちのおごりで挑戦するなら受けて立つぜと言う其の物言いが可笑しかったか、笑いが止まらない様子で暫く失礼しますと皆で席を立っていった。

いい幸いと正太郎はセルヴァーズを呼んで勘定をしてもらった。

5人で120フラン前回に比べると大分安く付いたように感じて20フランをチップに追加して送りに出てきた女達に5フランのチップを与えた。

満月が西へ傾くポン・ボナパルトでそれぞれが分かれて家路についたのは4時半をとっくに過ぎていた。
正太郎は凍えそうな川風のなか、ふらふらと河岸沿いにソーヌをさかのぼり15分ほどでホテルに着くと8時に起こして呉れるように頼んでやっとの思いでル・リに倒れこんだ。

ドアのノックで目が覚め、髭を剃りドウシュを浴び急いで着替えて馬車を頼んでから朝の食事を取った。
ブティックは日曜でも9時から3時まで開いているので朝日が昇りだした頃にはもうジャネットが店に来ていた。

「ショウ大丈夫なの、大分疲れているようよ」

「たいしたこと無いよ昨日はあれからアランにあって朝まで付き合ったのさ」

もう無茶をしてと睨んだが「M.デボルド・ヴァルモールはクリスマスのあと閉店セールをして店を閉めたわよ。昨日からニースへ出て家探しよ、高台の1等地に400uほどの別荘の売り物あると聞いたそうなの、其れが気に入れば決めてくるそうよ。何でも20000フランで建物は綺麗で6部屋もあるそうなの」

「そいつはいい物件だね。メイドを置いてもお客部屋も確保できるね」

「それから5日から隣へ大工が入って店の改造をしてくれるのよ。食料品店のほうは大家さんが戻ったらすぐバイシクレッテの店に改装して良いとおっしゃったわよ」

「では戻ったら残りのお金を払うと大家さんに言って呉れるかなニースが決まらない場合は決まるまで2階に住んで構わないんだと話して置いてくださいね」

後となりのアパルトマンは大家が立ち会った上で16軒の家賃は10年間据え置きと契約を新たにしたとジャネットが報告し、最大年間4224フランの家賃収入になると話した。
その代わり給水設備とドウシュにトワレットゥの改修が必要で760フランが掛かるが今月分と来月分の家賃で賄えるそうだ。

「判ったわ。ショウは何時もの11時45分発で戻るのね」

「そうだよ。今日はバスティアンのほうは休みなのかな」

「いえバスティアンは出ているはずよ。ポールたちが休みでお昼までは店に居るわよ」

「じゃ、顔を出して其のまま駅へ行くからね」

「ショウ、忠七の帰る船が決まったわ。トリエステでロイド会社シンド号に積み替えて今月の20日出航よ」

「シンド号なんだ、あれ確か上海までだったよね。乗り換えが有るのに」

「ヴィエンヌのほうからの指令で忠七の荷とヴィエンヌの荷を乗せられる船が其れしかないから一緒に帰るように連絡がきたそうよ。あちらはトリエスト港で荷物の積み込みをするようなの」

「買い物は全て順調なのかな」

「前に送った荷の不足分とジャカードを幾つか用意したそうよ。あと350フラン勘定が不足だけどどうします」

「忠七さんに餞別にしてノートを損益でしめてください。あと日本からの生地が来れば何とか儲けが出るでしょうから」

バイシクレッテの店では中古をばらしてミシェルが綺麗に磨いていた。

「寒いのにせいが出るね」

ミシェルはにっこりして正太郎を見上げるとまた仕事を続けた。

「ショウ今回は急ぎだそうですね」

「昨日来てもう帰るのさ、次はM.デボルド・ヴァルモールがニースから戻ってきた後になるよ」
四方山話を暫くしてポン・ユニヴェルシテを渡って駅へ向かった。

M.ジュイノーの店で正太郎が取り決めてきた文書を親子に見てもらった。

「彼らも君も思い切ったことをするね。ギヨー親子のことだから20フランくらいかなと思ったが15フランとは驚いた。私も此れで販売店に彼らと同じ値段で出すことが出来るというものだ」

共々正太郎の手を握って「彼らが引き取りたい数以外は全て私が引き取るよ。だから彼の方の卸売り分も予定に入れて計算するようにしてくれたまえ」と店を送り出して正太郎がポン・ヌフをシテ島に入るまで見送ってくれた。

エメに暖かいスープとヴェルミセルの料理を出してもらい、2人はリヨンでのアランたちとの一晩の遊行を笑いながら話した。
「本当にアランなら300個の生牡蠣を食べてしまいそうね」

「あの時もポールたちを女給が煽らなければ30は軽く食べる勢いだったよ」
パリへ呼んでル・アーヴルの牡蠣をご馳走したいものねとエメは其の話しを喜んでいた。

馬車を頼みに2人でエミールの馬車屋へ出かけた。
エメは正太郎とメゾンデマダムDDの前まで乗り込み、別れ際に明日買い物に行きたいから2時に来てほしいとビズをしながら囁いた。

DDは機嫌がよくクロワールで皆と談笑していて、正太郎の疲れが激しいようだわと心配してくれ、ダンがそれならと最近みようみまねで覚えたマッサージをしてくれた。
体が芯からほぐれ正太郎はベティが入れた紅茶にたっぷりのヴランデーが効いてぐっすりと眠ることができた。

忙しかった明治7年1月の5日間はようやく終わった。

 2008−08−31 了
 阿井一矢


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 其の二   水屋始末  
 其の三   Pickpocket
 其の四   遷座祭
 其の五   鉄道掛
 其の六   三奇人
 其の七   弗屋
 其の八   高島町
 其の九   安愚楽鍋
 其の十   Antelope
 其の十一  La maison de la cave du vin
 其の十二  Moulin de la Galette
 其の十三  Special Express Bordeaux
 其の十四   La Reine Hortense
 其の十五  Vincennes
 其の十六  Je suis absorbe dans le luxe
 其の十七  Le Petit Trianon
 其の十八  Ca chante a Paname
 其の十九  Aldebaran
 其の二十  Grotte de Massbielle
 其の二十一 Tour de Paris
 其の二十二 Femme Fatale

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