習志野決戦 − 横浜戦        根岸 和津矢

各地の侍や農兵が話す言葉は特別の場合を除き方言を使わずに本文を構成してあります。
習志野は幕末には小金牧の一部で下野牧と呼ばれていました。
小金牧は野田から佐倉、千葉市にかけて広がる広大な牧場でした。

習志野は明治に為ってつけられた名ですが通りがよいのでそちらを使いました。
この時代各地の方言で話す人たちをそのように書くというのは作者には難しいのと話がよくわからなくなる危険が有り現代語に近い言葉といたしました


 妄想幕末風雲録ー酔芙蓉番外編

小栗上野介が慶喜から罷免されて在所に引きこもり、勝は西郷に親書を送り平和裏に江戸開城に向かうかと思われたが3月8日の昼西郷が駿府で急死、山岡と益満は急遽江戸に戻る。

同8日上野寛永寺内大慈院では慶喜が食中毒で急死して事態は容易ならぬ雲行きとなった。


 
習志野決戦―横浜戦

 

大政奉還の後慶喜の辞官納地が小御所会議を経て決定した。

その事を春嶽から聞かされた慶喜は二条の城から大坂城に拠点を移した。

 

1868年1月25日土曜日

 慶応4年戊辰元日 大坂 

朝、慶喜は討薩の表を表わして軍勢を京に向けて発進させた。

朝廷では征夷大将軍に仁和寺宮嘉彰親王を任命し、山陰、東海道、東山道、北陸道、中国、四国、九州の鎮撫総督を定めて王政復古の足音が高く響いた。

鳥羽伏見の戦いは旧幕府軍の敗戦となり慶喜は容保、定敬、板倉勝静と共に大坂城を1月6日に脱出しアメリカの船に避難の後7日の朝開陽に乗り込んだ。

矢田堀と榎本は城に上がって居り責任者のいない開陽副長の沢を脅かすように船を天保山沖から出させて江戸には10日に戻ってきた。

昨年暮れに罷免されていた勝は慶喜の呼び出しを受けて京都との交渉を任されることになった。

1月13日 江戸

江戸城における慶喜の気持ちは二転三転しており13日の会議においては小栗の主戦論が通り西軍と戦うことに決したのだった。

このときの小栗は勘定奉行を慶応元年から務めて居り、この時は海軍奉行並と陸軍奉行並をも兼任していて、当に徳川幕府の牽引車だ。

しかしいつもの幕府のころよりの旧弊はなくならず、諸役との連絡がつかずにいるうちに慶喜の気持ちは変って仕舞った。

 

1月16日 江戸城内 

この日になっても動かぬ軍隊に業を煮やした小栗が直接慶喜に詰問してしまいその場で罷免されてしまった。

勘定奉行には小野、岡田ほかの方もいたが小栗の後任として大久保一翁や勝義邦と組んでこの後のことを託されたのは大目付を勤めていた松平大隅守信敏だった。

神戸海軍所の設立当時から勝とは気が会い坂本とも意気投合したお仲間だ。

この時期に期せずして三名の同じ志のものが要路に立つことになった。

方針は恭順、しかしお家の存続が危うくなるときはあくまでも戦い抜くことが昨年来の大久保と勝の方針だ。

このほかには、松平太郎、大鳥圭介、等が同じ気持ちだった。

大関増裕は一時死亡説も出たが「頬から耳の後ろにかけて銃弾にえぐられて危うく一命を落とすところだった」と阿部邦之助が心配して黒羽に尋ねたときに傷跡も生々しく、それでも意気軒昂と恭順の一義が通らぬときは戦うべしと阿部に話した。

容保と定敬の兄弟は慶喜の行動に憤りを覚えるのだった。

大坂から引き払うときの「江戸に戻って体勢を立て直して必ず上方に攻め上る」といった言葉は江戸に戻ると恭順と言う一言で片付けられるのだった。

この日江戸に戻ってきた新撰組も城中にあがり勝から直接この次の打つ手についての相談を受けた。

新撰組の一枚岩は崩れ出しており、近藤の尊攘浪士の取締りのゆるさがこのような事態を呼んだとまで極論する隊士までいると土方は心配していた。

1月17日 赤坂

17日になってようやくに勝が海軍奉行に任命されるという後手ごての人事で最高責任者と言う言葉とはかけ離れた地位だった。

この日寅吉は元氷川に喜八郎と出かけ隠匿してある武器の様子と食料品の数を確かめた。

昨年から始めた両総と安房の各地を廻る信太、阿部などの総房相各地へ差し向けてあった人たちからの情報ともつき合わせて5万人の軍勢が3か月分の滞在に十分と判断できた、そして町の者が疎開してきたときのための食料は浦賀と鎌倉に10万人が一月暮らせるだけのものを集める手はずを始めた。

これは藤沢の調練場に軍勢を集結したときに街道沿いの人間を鎌倉の寺に疎開させるためのものだ。

神奈川から平塚で戦を起こすのは小栗の意見もあり箱根を西軍が越えてから神奈川に上陸させた軍勢を押し出す作戦で、勝は表向き「あくまでも恭順」と唱え戦う様子を見せないように注意して居た。

この日ひそかに榎本が勝の家を訪れ戦うための軍資金の一部と十八万両を大坂から持ち出してきたことを告げた。

「榎さんよ、その金はとりあえず船に分散して積み込んでおいてくれ、もしくは横浜に運んでマーカンタイルかオリエンタルで手形にしても良いさ。そして横浜から石炭を買い入れて館山と浦賀に蓄積しておいてくれないか。大久保さんにはこちらから了解を取っておくよ。それに大久保さんにはほかに仕事があるから会計総裁は駿河守様にお願いするようになる予定だ。それと肝心の大久保さんの会計総裁も認可されていないのさ」

「ナンですか、そりゃ。いくらなんでもこんなときに手続きに時間を取られていては何も出来ませんぜ」

「そういうことさ、だから幕府がつぶれることになってしまうのさ。戦はしないというのが上様の方針だよ、しかし上方の様子では西郷までが徳川を取り潰す予定だと言う方向に転換したらしい。木戸や大久保に西郷とこの三人と岩倉、三条の公家があくまで取り潰しだというなら上様を英吉利か亜米利加に亡命させても戦うことになるだろうさ。しかしまだその時期が来ていないから表向きは恭順と言う方針に従ってほしい。海軍は矢田堀さんに任せることにしたよ、だから恭順は海軍総裁の意見だと榎さんは押さえに回ってくれないか。戦をするときは一翁さんにこの勝も江戸を燃やして上様を水戸に送り出しても戦う予定さ。詳しい事は阿部邦に聞いておくれよ」

「わかりました。勝さんの気持ちが恭順と聞いて今日はひざ詰めでも戦ってもらう気持ちで来ました。お家の存続が第一、恭順が聞き入れられずお取りつぶしなら戦うというその言葉を榎本は信じましょう」

「ありがとうよ、同士として大鳥さんと黒羽の大関様が相棒で西郷でも木戸でもが恭順をあくまでも受け入れられぬというときは、小栗さんも主張しておられるように箱根を越えさせてから、一気に藤沢の鉄砲場付近で迎え撃つように作戦を立てている。実は請西の林さんが訓練地として木更津を使って上陸戦の実地を行っているよ。誰か連絡をつけて指令が出たら一気に船で軍勢を神奈川に押し出せるように船の訓練もしておいてほしい」

「良いですともそれを聞いて気が晴れました。私や矢田堀さんが開陽を降りている間に沢君を脅して船を出させてしまい、あきれて物もいえん気持ちでした。上様とはいいながら心腹は出来ません。沢さんも同じ気持ちだったようで何度も天保山沖で船をぶん回して脅したらしいですが私も戻れなく仕方なく江戸に向かって船を進めたようです。勝さんだって何度も煮え湯を飲まされたで御座いましょうに」

「それはそうだが前上様と違い、心から従うことが出来ないものは多いのさ。しかしいまそれを言い出したらまとまることも出来ない。この日本と言う国のためにも戦を大きくして外国の侵略を許すことになると大変だよ。まず局外中立を求め、パリ万博で徳川に対して薩摩は同等の邦だと宣言したのを逆手にとっていくら錦旗が出てもそれは無視できる人間だけで戦うのさ」

「それが出来ますか」

「まず薩摩長州を分断することさ。そうして佐賀土佐を味方に引き入れて岩倉、三条の公家を追い落として天子をこちらに取り込むことさ。そうすりゃ越前も鳥取もおそらく芸州だってこちらと共同歩調を取ってくれるよ」

「それが出来ますか。出来ないときはどうします」

「いまからそれを心配しても始まらねえよ、俺はあくまで上様の仰せで大久保さんと恭順の道を進む。掛川の太田様が決裂のときは単身江戸に駆けつけて参謀として戦の配備をすることになっているから後二月はじっと辛抱してくれないか、そのころには誰か先方が箱根を超えてくるだろう。何事もそれからさ」

「わかりました。では勝さんと大久保さんが指揮を取って恭順、海軍総裁には恭順の意見の矢田堀さんが決まるということで良いですね」

「そうでやんすよ。しかしあんたといい陸では大鳥さんと総裁以外は戦をすべしと言う人ばかりだからややこしいことさ」

「では詳しい事は阿部邦に聞くとしましょう」

「阿部邦は今頃下総か安房だろうから例の大倉屋に連絡をつけさせなよ。表向きは総房三州鎮静方として信太歌之助をお仲間に回ることになっているのさ」

「もう其処まで手を回していますか。驚きましたさすが勝さんだ」

「何事も上方には知れないように手を回してあるよ。俺の仲間は臥煙に火消しそれと浅草の車善七に長吏の弾左衛門が協力してくれているよ。あいつらの連絡網は幕府の隠密組織など及びもつかねえくらいうまく出来ているよ」

「そうですか勝さんといい大鳥さんといい侍に頼らぬ気持ちは日本に帰ってきてよくわかりました。船の上でも両刀を手放さずマストにも上がれぬ士官ばかりで船を動かすなんぞ呆れた者達ばかりですから」

「船の人員は即戦闘に向くものにして良いよ。そいつは任せる矢田堀さんには人事まではかかわらなくてよいと伝えるから心配しなくて良い、戦闘時以外は刀を置くこと、刀を捨てたくないものは陸に上がること、そいつは徹底してくれ。陸戦隊や切り込み隊でも戦闘時以外は刀を置いてマストに取り付けるようにさせておくれよ。それといまストーンウォルがどこにいるか調べているがMr.ヴァルケンバーグは中立だが船は金が支払済みと言うことで引き渡すといっている、そのためにも後20万ドルは必要だ」

「あの金がものをいいますか」

「そうだ、フランスへの去年の支払いが出来ないで参っていたがこの際フランスなどに構っておられんよ」

「差し押さえに出ませんか」

「横浜から金を出させればそのくらいは集まるだろうがまだその時期じゃないよ。いよいよとなれば蔵前に脅しをかけるさ。それと弾左衛門がそのときには自分たちが金を集めると寅吉に約束してくれたよ」

榎本は寅吉が盛んに銃を仕入れて隠匿した事は知らずとも横浜で食肉用牧場と競馬馬用の牧場などを持っている寅吉が長吏の一族とも取引がある事は横浜にいったときや大鳥から聞いて知っていた。

「呆れたお人だ、勝さんは底が知れません。私のほうは戦の仕度を気取られないように訓練をして気が緩まぬように締めておきます」

「そうしてくれ。武器がそろわぬときは大倉屋にいってくれればこちらで何とかするよ」 

「ストーンウォルが着けばガトリングも積んであるそうですからだいぶ有利ですな、では今晩はこれで失礼いたします」

「おくらねえよ」と勝は居室から出なかった。

勝はその後も作戦の練り直しを夜遅くまで続けた。

太田資美、寅吉、勝が立案した横浜上陸作戦とは、木更津、館山から船で横須賀、金澤、神奈川の3箇所に上陸させた兵を藤沢を目指して進軍させ、別働隊は江戸から厚木を目指して進み、さらに艦艇を相模湾に差し向かわせて江ノ島付近に上陸、これは土地の漁師に手はずをつけてあり小船を出させて上陸させる予定。

先方が来ていると想定される西軍の出先部隊をこちら側から押さえに出て、川崎制圧と丸子制圧をしたあと江戸防衛軍のうち砲隊は多摩川を超えさせて、大砲は大八を馬に引かせて街道を進み先頭はWinchesterを装備した騎馬隊が進む。

横浜は東軍の警衛部隊に任せて西軍の先方部隊の駐屯を許さず出来るだけ戦を起こさずに撤退させその睨みのためにも旗艦としてストーンウォルはぜひとも必要だった。

東山道軍と北陸道軍からの応援を川越付近におびき出し江戸に引き入れて周りから焼き討ちにするとの噂を流れ出す町民に混ざり乞胸頭の仁太夫配下の者たちが西軍の耳に入れることで、進路を江戸のまちは回避させて佐倉、水戸へ進軍させるように仕向け途中において小金牧あたりで下野牧に軍勢の方向を向けさせる手はず。

此処では徳川陸軍の正規部隊と伝習隊が待ち受けて総力戦に持ち込む予定だ。

勝はそのときには佐倉に本陣を置いて関宿軍の到着を待ち一気にはさみうちにおしつぶす予定で居た。

これらは寅吉が弾左衛門配下の者達と普段から連絡を取り、集めた情報と流す情報の操作によって行うことにしてあった。

そのほか勝の人脈は料亭の八百善や各料亭の女将に花柳寿輔、盲人支配の検校にも及んで居り、侍に頼らぬ組織の充実をして居た。

それに蔵前の淀屋、茅場町の乳熊屋などの有力者が口利きで金を集めてくれることになっており資金は潤沢になることを望んでいた。

木場の旦那衆にもいまから江戸焼き討ちが西軍によって起きるか東軍によって起きたときのためにその財力と木材の必要を説いて回って居た。

江戸の治安状態はよくなく町奉行、加役だけでは手が足りなくなることは必定で旗本の次男三男からの町の警護の人員を確保することになった。

 果たして歴史どおりに西郷が三田の薩摩屋敷までこられるかが恭順の一義が通るかどうかの分かれ目であった。

「コタよ、お前と同じように時間を飛び越えたものが居れば歴史はどう変わるかわからんぞ。そいつが向こうに居ればどっちかの歴史に介入してくるかも知れねえよ。そのときは交渉がまとまらぬこともあるからな、どの時点まで待てば良いか判断が狂わぬようにお前も気を緩めるなよ」

 

1月19日10時 江戸城 

そのさなか19日には城中に上がった仏公使ロッシュが慶喜に再挙を勧告するということがあったが慶喜の気持ちは恭順と決まって動かなかった。

 

1月23日 京 

慶喜の処分も二転三転していて23日、京では岩倉具視が、春嶽に慶喜寛典の内意を示していたがそれもつかの間であくまでも徳川取り潰しの意見が岩倉の本心といわれていた。

 

慶喜は密かに春嶽に嗣子を紀州藩主徳川茂承にしたいとの連絡を取っていたが、それは家茂の遺志を無視した意見で後にそれを聞いたものは慶喜への信頼をなくすのだった。

岩倉は春嶽が朝廷に愛想を尽かさぬように慶喜寛典のことに付き恭順謝罪の周旋を申し入れていた。

京では次々に東征の人事が決まっていた。


(本隊)東海道軍  東海道鎮撫総督 橋本実梁 1月5日

副総督 柳原前光

軍監  林玖十郎 (宇和島)

参謀  海江田武次(信義・薩摩) 

 

    東山道軍  東山道鎮撫総督 岩倉具定 1月9日

参謀  乾退助   (土佐) 

参謀  伊地知正治 (薩摩)

参謀  河田景与  (鳥取)

大軍監  香川敬三  (元水戸藩)

軍監 豊永貫一郎 原保太郎 

有馬藤太(薩摩)中村半次郎(薩摩)

岩村精一郎(土佐)谷干城(土佐)

 

   北越道軍 北陸道鎮撫総督 高倉永祐

副総督  四条隆平

総指揮官  黒田了介 (薩摩)

軍監  岩村精一郎(土佐)

参謀  山県狂介 (長州)

等が主な人事といわれて江戸まで聞こえてきた。  

2月15日に東征大総督軍が京を発進。

16日には徳川家存続が総裁局で決まった。


1月23日 江戸

23日になってようやくに勝が陸軍総裁と若年寄に任命されて、榎本は海軍副総裁に任命された。

勝は総裁を受けたが若年寄は辞退した。

海軍総裁は矢田堀鴻、会計総裁大久保一翁もこの日に改めて任命された。

勝は慶喜に戦略案を示し裁可を受けた。

勝がどこまで話したかまでは誰にも言わずとも、了した事はたちまち開戦論者の間に広まり、ロッシュ公使が再度城中に上がったことでも相当に話は広がったらしく、慶喜は抗戦論を否と答えた。

この最中の25日には英、米、仏、蘭、伊、普の六ヶ国の公使領事は局外中立を宣言した。

京の情報では西郷が大久保あてに徳川の仕置きを厳しいものにすべしと手紙を出したという噂があるということが横浜にも聞こえてきた。




1868年2月23日 日曜日

慶応4年2月1日

寅吉はガンキと共に大山街道を厚木に向かって歩いていた。

長吏の一族でもなかなかの顔のガンキはこの街道沿いの街から街を回り細かな畑道から村人しか知らないような獣道まで承知していた。

入会地でも彼は村人の承認を取らなくとも山芋や薬草を集める権利を持っていた。

桜ヶ丘と言う高座の照手姫の伝説の残る岡から厚木のほうを見回していた。

「ここで戦をするのは得策ではなさそうだな」

「ハア、やはり藤沢の大庭城址のあたりが厚木に追い込むにはよいでしょう」

「そうすると横浜から来る隊と丸子の隊は手前で相手が通過するのを待たせるか」

「そうなさいませ。勝先生も言うように出来るだけ八王子まで追い込むほうを優先したほうがよろしいでしょう」

「それで厚木を見張る場所は確保できたのかよ」

「俺の荷物を預かって呉れる家が逆川の近くにあります。其処は岡を越えると厚木が見渡せて相模川の河原が目の下にあります」

「そいつは良いや、相手からは見えないほうが火を焚いて皆の食事を盛大にやっても大丈夫だな。後は厚木が安全だと敵さんに思い込ませるだけだな」

「そいつは任せてください。乞胸たちはそういうことが得意中の得意ですよ」

二人は各地に散っている乞胸や穢多と呼ばれる人たちを此処相模と武蔵に集まってもらい、戦が起きたときの民の救済と町を戦禍から守る手立てを助けてもらうことにしたのだった。

厚木太郎右衛門の流れを汲む人たちも協力してくれ、その打ち合わせのために今日は海老名の逆川の近くまで出向いてきたのだった。

2月3日 京

3日に新政府は関東親征の出兵を諸藩に命じ恭順の意のある藩主は京に向かいはじめた。

5日に慶喜は京の春嶽に書簡を送り恭順の態度を表明したが、江戸では会津桑名庄内を筆頭に主戦論が幅を利かせて居り、8日になって松平容保、松平定敬の登城が禁じられた。
9日に京では東征大総督に有栖川宮熾仁親王が任命され総指揮官には西郷吉之助隆永(薩摩)が予定されていた。

三道より江戸進軍が決定したがまだ江戸では其処までの情報は届いていなかった。

15日に江戸に届いた情報では新政府軍が東海道・東山道・北陸道の三方から江戸に進軍を開始する際に、諸藩に次の三つを厳命していた。

禄の高い者を安易に指揮官に任命しない。

銃隊と砲兵隊以外の参加は禁止、刀鎗部隊の禁止。

不必要な衣装は禁止と甲冑の禁止。

これは江戸にも伝わり勝もすぐに大久保、榎本と会談してこちらも恭順の手前、身分の高いものを排除するに丁度よいということですぐさま実行にうつし出した。

京では東山道軍の総指揮官に土佐の乾退助が任命されすぐさま京を立った。

2月3日 赤坂

薩摩藩士花川三樹が元氷川を訪れ大久保一翁の書簡と共に海舟も同人に託して西郷・海江田に書簡を送って徳川の恭順に付き寛典のことを申し述べた。

2月12日 江戸

敏速に動く京の情勢をよそに江戸では慶喜は謹慎のために上野寛永寺大慈院に入るため城を出た。

このときの徳川は勝義邦、大久保一翁、矢田堀鴻の3人に任されたと言っても過言でないだろう。

このときには松平信敏の勘定奉行から会計総裁となる事も決まり一翁の役目は旧幕臣と大名との応接と言うことに決まった。

一翁と信敏の間を岡部駿河が一時的に埋めることもこの日決まった。

2月15日 上方

京では西郷の東征大総督府総指揮官が決まり全軍の指揮は西郷の肩にかかることになった。
大坂ではフランス水兵の横暴に土佐藩兵が駆けつけ銃撃となりフランス水兵は11名が死亡(13名との風聞もあり)。
フランス公使の抗議に対して、賠償金15万両の支払いと暴行者の処刑などすべての主張を新政府が呑み、これをうらむ土佐藩の後藤象二郎は岩倉、三条の弱腰とその要求を呑んだ大久保、木戸の両人を信頼できないと乾退助に報告して居た。
そのころ乾は大垣で板垣と改名、新政府に対する批判を胸に秘めることとなった。 

2月16日 江戸
会津の容保は抗戦の意志を固め会津目指して下向した。
桑名の定敬は小千谷に行くことにしてあったが武器や資金のことでまだ動くことが出来なかった。
江戸では抗戦、恭順の意見がまとまらない藩もそれぞれの領地に戻りだしており徳川家の家臣団も旗本中心の者だけとなってゆくのだった。
「見てみろよ大名といえど親藩、譜代はお旗本ではないか、先を争うように江戸を後にするのは徳川を見放したも同じことさ」
勝は寅吉にそういってあざ笑うのだった。
いくら恭順とは表向きとはいえ江戸に大きな軍を置くのは暴発の危険もあり那須と佐倉、館山にそれぞれの部隊をそれとなく脱走と言う形で送り出すのだった。
「信濃方面は手遅れみたいだから忍に預けてある歩兵を関宿まで回そう、古谷に歩兵は任せることにした」
「新撰組はどういたしますか、途中で遊んでいて甲府到着は遅れたと爺から聞いて居ります」
「あいつらは鳥羽伏見以来近藤ではまとめ切れないだろう、近藤は甲陽鎮撫隊として名前だけのお役目で八王子まで出させようと思う、従わないものは大関様の下に行かせよることにしよう。この際負け戦の経験者は大事だからな」
慶喜をあきらめたロッシュ公使は上方に向かい船出した。

この日越後長岡の牧野忠訓は江戸を発ち越後に下向した。
浅草本願寺で尊王恭順有志が集まり彰義隊を結成して市中取締りのお手伝いを申し出て一翁が即日認可し、南北町奉行と加役にも通達の上腕印をつけることを決めたが同時に町役にも通達し、市中取締りの御用金の押し借りのあるときは厳重に処罰との方針を示した。
このころ京では仙台に向かう奥羽鎮撫総督に九条道孝、副総督に沢為量、参謀に醍醐忠敬、下参謀に大山格之助、世良修蔵を任命、即日兵を集める通達が出された。

28日には新選組に甲陽鎮撫を命じ軍団の編成を急ぐように通達された。
しかしあてがわれた金も五千両、兵はフランス伝習を受けた長吏の雇いの兵だけだった。
フランス軍事顧問団は横浜に移動し尚も士官たちは大鳥たちに抗戦のために尽力をすると申し出たが、受け入れる事は無く横浜の公使館に移動した。

2月25日 江戸

勝は陸軍総裁を御免の上改めて軍事取り扱いを命じられた。

これはいまの徳川の全権を改めて勝に任せたという証だった。

勝はこれ以降、軍事総裁として陸、海軍の全権を掌握して京方との対応を一身に背負うことになった。

2月30日 京

其の日の昼、京では各公使を天子が引見するので行列を組んで京に入ったパークス公使が暴漢に教われたが、土佐の後藤たちの懸命の防戦により無事で書記官のサトウの乗馬の鼻先を切りつけられたほかは護衛の兵数人が怪我をしただけで済んだ。

 


1968年3月26日 木曜日 

慶応4年3月3日
月が変わり雛の節句の朝、横浜からエドワルド・スネルが年三万ドルと言う約束で船員ごと借り受けていたコリアと言う亜米利加の商船に乗り長岡藩の藩士と河合が北周りで国許に引き上げた。

この時には新潟で引き渡すはずの最後のガトリングの銃弾も積んで船は満載の米と銃器に銅銭も載せて居た。

桑名の松平定敬も同乗して飛び領の小千谷を目指していた。

800トンの商船は蒸気を目一杯焚いて十二天の沖合に出て本牧の鼻を回って消えていった。
やはり寅吉の危惧したとおり八王子にとどまらず新選組を主体の甲陽鎮撫隊は笹子峠を越えてしまったが、板垣率いる東山道軍はすでに甲府に入って居た。
その同じ5日には駿府に東海道軍の有栖川宮が入って居た。
勝が西郷への使いを高橋精一郎に頼んだが慶喜公が離されず高橋の推挙で山岡鐵太郎が行くことになった。

泥舟先生は不穏な情勢の中、上様がお放しに成らなかった。
勝は西郷に外国の介入が及べば汚名を後世に残すと手紙を書きそれを慶喜公の嘆願書と共に預け、勝のところに預かっていた益満休之助と同行して、大総督宮に会いに出かけるのだった。

3月6日 八王子

土方が援軍を神奈川まで迎えに行くことにして戦列を離れている間に、血気にはやるものたちは笹子峠を超えて攻撃を仕掛け、装備の違いから東山道総督府参謀の河田左久馬と軍監の谷干城、副長の山地忠七で率いられた土州、因州の兵5百に勝沼で散々に打ち負かされ八王子まで退却してきた。

長吏からのフランス伝習の兵は土方が出かける前に「無理な進軍命令が出ても従う必要などないぜ、装備が違いすぎる、俺が横浜から弾左衛門に頼んで兵を集めて新式銃も集めてくるまで八王子を守れ」と言うので笹子峠を越えた晩には半分ほどは逃げ出していた。

東山道先鋒総督府の参謀薩摩の伊地知正治と土佐の板垣退助は甲府から動かず碓氷峠に向かった岩倉の連絡を待っていた。

またもや銃創による負傷で近藤は大八に乗せられて江戸まで戻ってきた。

結局、土方の援軍は間に合わず途中で解散となってしまった。

3月8日12時 横浜

パークス公使とアーネストサトウが横浜にサラミス号で戻ってきた。

「コタさんよ、お前さんの予想通りに進んでいるよ。今頃は西郷さんも駿府に入ったころさ」

「江戸からも使者が向かったが話が通じて戻るなら、もう直にこの騒動も一段落さ」

「そうなってほしいものさ。戦が続けば俺たちの仕事も忙しいし、この邦のためにもよくないよ」

「そうだな。俺が買い込んだ銃があまり活躍してほしくは無いもんさ」

「此処に来る途中で聞いたがガトリングを引き取ったそうだな」

「買い手が付かなくて参ったとファヴルブラント商会が泣きついてきたので引き取ってやったのさ。丁度弾も十万発付いていたので八千両で手を打ったのさ」

「あちらさんは喜んだろう」

「それはそうさ、いま彼方此方と大騒動だが一挺で五千両といわれちゃ買える物じゃないぜ、なんせミニエーなら五百挺も買えるからなぁ」

「いまどきミニエーでは勝負にならんだろう」

「そうは言っても数さえあればと言う、どうにも頭の固い藩が多いのが現状さ」

3月8日12時 駿府

駿府に入った益満と山岡を仰天させる事態がそこで待って居た。

この日の朝早くに西郷が急死したということで、大総督宮に会うどころか薩摩の海江田と大村藩の渡辺と会って手紙を渡すのが精一杯の有様で二人は馬に打ち乗って急ぎ江戸目指して街道を下るのだった。

3月8日13時 上野

「上様、上様いかがなされました」

近侍のものの声に高橋があわてて部屋に飛び込んだときには慶喜は声も出ず苦しさに顔をゆがめてうめいていた。
昼に食べた食事を吐いて、さらに胃の腑から喀血して苦しむ慶喜に侍医が手を尽くすがその甲斐も無く未の下刻前に亡くなった。

最初に吐いてからわずか一時間あまり医師にも苦しむ慶喜に急ぎ解毒剤を飲ませようとしても苦しむ慶喜が暴れて口中に物を含ませることも、口をあけることも不可能だった、松本が駆けつけたときにはもはや手遅れであった。

「何を食べた」

「梅漬けと杏で御座います、後は昼餉に豆腐の汁とやわらかく焚いた白米、大根のぬか漬け、鶏の軟らか煮で御座いました」

「その中に毒に成るものが含まれていたというのか、考えられんな」

「青酸による中毒の手当てを行おうとしましたが、あまりにも苦しまれて解毒剤も含ませられませんでした」
上様重態との知らせに城中では大騒ぎになり相次いで上野に向かう人で大騒ぎとなった。
「食中毒か、毒を盛られたのか」人々の噂は広がり収拾をつけるのは困難になる事は必定で混迷を深めるばかりだった。

奥付き医師もその死因を突き止められないまま吐いた物をいろいろな医師に調べさせた、確かに食べたものに含まれる成分であり、しかしそれだけの量で亡くなる筈がないというのが見解であった。

「わが国の医師ではそれを調べる事は不可能でございました」

「して死因は何であるか」

平岡に尋ねられて松本は「青酸による中毒死で御座いました。しかし青梅や杏に含まれるものは微量で、なくなるのは一時に200以上も召し上がりませんと亡くなる筈もありません。しかし青酸は食事に混ぜて食べさせられるにはそれらに臭いがあり難しい事でございます」

「毒を盛られた可能性はいかに」

「いまも申し上げたように覚悟の自殺をする以外口中に入れる事は微量ならともかく、相当の工夫が必要でありましょうが私どもにはそれは不可能かと考えられますし、嘔吐された中に含まれる青酸には亡くなるだけの量を呑まれた形跡は御座いません。自殺をされたとは考えられませんし、今の医学で突き止められないほかの死因があるとしかお答え出来ません」

松本良順以下医学所で保管されたそれを後に調べても確かに青酸中毒と言うことしかわからなかったし、それが致死量にあたる量とも思えぬのだった。
相次いで東西で二人の重要人物が急死した事は大事な局面にどのような事態を引き起こすことになるやら誰にも見当がつかない事態になってしまった。
江戸城では慶喜公危篤の使いを各地に出し、すでに先代家茂公が田安亀之助様を養子とされており後をついで恭順のためにお城に入られたことを伝えた。

そして翌日には家達君として徳川宗家を継がれたことを便へ慶喜公の亡き骸はこの緊急時と言うこともあり寛永寺に密葬された。
東山道軍は甲府から動かず、東海道軍も駿府でとまり各地の情勢はどのように動くのか勝も困惑から寝もやらぬことになった。

3月9日 江戸城

堀田正倫は下総各藩の代表として慶喜赦免の嘆願のため江戸を出る矢先に、上様ご不快、続いてご他界との報を受け京への出立を取りやめ勝にこれからの方策の相談のため城中に上がった。

「堀田様、いまこそ麟太郎は胸のうちをすべて明かします。上様恭順のみぎり、もし嘆願が受け入れられず飽くまで徳川お取りつぶしのときは各地に散らせた兵を下野牧と関宿に集結の上一戦に及ぶ考えで御座いました」

「安房、それでは朝廷に対しお手向かいいたす所存か」 

「はい、一翁とも相談いたし天昌院様、静観院宮様お許しがあり、田安亀之助様を家茂公のご遺志でもある宗家相続人といたし、恭順嘆願の上それでもお取りつぶしが朝廷の方策であるなら、徳川のお家のためでなくこの国のためにも一戦に及びその信を天下に問うつもりで居ります」

「慶喜公助命嘆願のため本日、京に上がる予定であったが、改めて亀之助様宗家相続と恭順のことについて嘆願に出向こうと思うがいかがか、そのほうが徳川の代表者である以上、予もそのほうの意向を無視して京に上がるわけにもいくまい」

「そのご出立はいま駿府に向かって居ります山岡が戻るまで延期をお願いいたします。大総督宮と西郷に徳川の処置についての嘆願をいたしておりますので帰りましたら同席の上その後の方策を立てたいと存じます」

「しかと承知した。そのほか聞いておくことは無いか」

「もし一戦に及ばざるをえないときは佐倉をわがほうの拠点として亀之助様をお預かりいただき、下野牧で最終決戦を行う考えで御座います。そのときに堀田様ご不在では戦うことも不利と予想されますので本心は江戸で亀之助様の御養育のお手伝いをお願いいたしたいというのが本心でございます」

「そうかでは其のときがいたれば佐倉は亀之助様にお返しいたし、わしはその幕下でお主たちの指図に従おうではないか」

「ありがとう存じます」

勝は畳に頭を擦り付けんばかりに下げて感激していた、この人の父君も徳川のために命を捧げたも同然の生き様であり、またこの方もと思うと、涙があふれんばかりで頭を上げることも暫しできなかった。

この時正倫わずかに18歳で勝とは親子ほども年に差が有った。

「ではこれからは、そちの指図にわが佐倉はすべてまかせようぞ。そちの思いのままに城も兵も動かしてよい。すべてこの正倫が許そうぞ」

勝は家茂公に始めてお目にかかったときの事を思い出して、改めて涙があふれるのを堪える事が出来なかった。

この方が10年早く生まれていればこの難局の一端の責任者として重き責任を背負うことになっていたかもしれないとも思うのだった。

「わが藩は勤皇こそが徳川のためと思いそのための方策が藩の方針であり、そのほうも勤皇の志が厚いと信じておる。このたび戦となったとき飽くまで天子のお命を求めるところまで戦うのか」

「私たちは三条卿、岩倉卿の退陣を求め天子がこの国の代表として国に君臨することを拒む所存は御座いません。ただ国の政治は天子が関与しない体制に持っていく気持ちであり君臨すれど統治せず、政治は位階、家柄によらぬ総裁、参議の合議による賢公会議となす所存であります」

「では戦に勝っても亀之助様が将軍職として国を治めることを目指すわけではないのか」

「ただいまの国情は、いち徳川が独占することを許しません、天子の下すべての藩が平等に国ために働ける舞台を作り上げることが、私どもの使命と考えております。功名、褒賞を望まぬ真摯な国を思う者どもと共にこの国の礎となる覚悟でございます」

いつもの勝と違いこの若き藩主に国の為とは何をなすことか、何が徳川と日本のためと考えるかを真剣に聞き真剣に質問する正倫にすべてを語る勝であった。

「よいよい、わが藩には勤皇の志し厚き重臣もあり、そのほうの意見はこの身からも話すがそちからも申し聞かせてくれ」

勝は正倫について平野重久が待つ溜りの間でまた自分の意見とこれからの見込みなどを話すのだった。

老境の域に入った平野は正睦公のころよりの藩の重役であり、もとより勝のことも承知でありその意見見識も買っていて素直にその意見に従い亀之助様の恭順が受け入れられぬときは佐倉をその居城となして東北諸藩を糾合してもお守りいたすと力強く約束するのだった。

江戸を放棄してでも戦を起こすという勝にすべてをゆだねてみようと思い切ることが出来た。

この勤皇の老武士をして此処まで勝にしたがってくれるならこの戦が起こっても徳川が負けるはずは無いと勝は自信がわいてくるのだった。

昨年来寅吉や阿部、信太などと下準備したことが此処に来て現実味をおび江戸を最後まで焼かなくとも戦が起きたときでも勝算ありと一翁にも報告に及ぶのだった。

「勝さん、五分五分から七分三分くらいにはなったかな」

「左様で御座いますね、後は京に居る伊達公に春嶽公、そして島津公親子いかんで御座いましょう」

「ほう、島津親子までもその仲間に数えるのか」

「さいで御座いますよ。西郷が江戸まで入ってきてくれればともかく、駿府に居たのでは交渉も何も出来ませんから」

「勝さんが言うように西郷が最後のところでこちらの嘆願を聞いてくれるだろうか」

「私は彼を信じております、それはこちらも万一のときの手立てはすべて行いましたがそれは西郷が江戸まで来ないときのための最後の手段で来てくれさえすればこの国のためにも必ず前上様の恭順の一義と亀之助様のお家相続恭順を認めてくれると信じて居ります」

「勝さんを私が信じておるように勝さんは西郷を信じてすべてを任せるか」

二人の信頼は西郷にも及び必ず徳川の存続が許されると信じて疑わなかった。

3月10日10時 赤坂

小栗から勝に権田村に着いたとの手紙が来たのは10日で、そのすぐ後に益満が駿府から引き返してきた。
「大変ですよ。西郷先生が亡くなりました。大総督宮に会うどころか駿府は混乱でどうなることか、とにかく官軍の動きも止まったままで箱根を越す事も出来ないようです。山岡さんもお城に上がり大久保様に報告に上がっております」
何時に無く深刻な勝に戸惑いを覚えながらも益満は報告をした。

「そいつは困ったな、実は前上様がお亡くなりになられたよ」
益満の顔が驚愕でゆがんだ。
「エエッそれは大変ですが。誰が御家を継がれますか」
「田安亀之助君だよ。家達と名乗られることになった。慶喜公が亡くなられたので恭順は受け入れられるだろう」
「そうなればよいのですが、京の情勢も西郷先生の影響が及ばなくなるとどのように動くか、特に岩倉、三条のお二人は危険で御座いますよ」

勝は呆然ともして居られぬと気を取り直してこれからの方針をどうするか話を進めながら考えるのだった。
「それなんだよ、嘆願の使者は次々に出してはいるが返事もはかばかしくない上にこれでは一気に徳川の家を取り潰せという意見が通るかもしれん、そうなると戦だよ、お前さんなどすぐに首が飛ぶかもしれんぞ、今のうちにほかのものと姿をくらませておけよ」

「いいのですか逃げ出させると先生が困りませんか」

「俺のことよりお前さんの方だって大変だぜ、西郷さんがなくなれば大久保一人では長州を押さえるのは難しかろう。お前さんたちも大総督宮にこちらの有様を報告して戦が起きないように説得してくれよ」

「でも私が行けば、先生が各地に軍勢を散らして江戸を空っぽにして町に入った軍勢を外から焼き討ちすることを報告しないわけには行きませんぜ」
「だからよ、それを海江田さんや大久保さんに伝えて恭順を達成させてくれればそういうことにはしないさ。いつも言うように蝦夷地の開拓を許してくれるなら徳川は丸裸で朝廷に従うと伝えてくれ、一辺に丸裸は無理かもしれねえがまず150万石くらいにしてくれればすべての家臣団を朝臣としてそのうちの30万石くらいでもやっていけるだろう」
「わかりました150万石は勝先生のほらだという風に報告してまいりましょう」
「ハハ馬鹿やろうが、おいらたちは何も好き好んで戦をしたいのじゃねえよ。辞官納地は良いが徳川だけにそれを押し付けても納得は出来ないよ。前から小栗さんも言う郡県制の国家をひとつにしての前に進める話ならすべて投げ出すのは覚悟のうえだよ。それとお前たちの相棒だった赤報隊の相良が死んだよ」

「どこかで討ち死にでもしましたか」

「怪しいですね、坂本さんの後、新選組が御陵衛士の伊東甲子太郎をやったのも岩倉卿の差し金ではないかと言われていますし、アアこれは赤報隊の中に入ったものから京の藩邸のものが聞いたそうです」

「ナンだ駿府からとんぼ返りをしたと思ったら途中でそんな話まで聞き込んできたかよ」

ヘヘヘと頭をかきながら少し情報交換もしてきましたと益満は言って「それでね坂本さんは伊東たちと見廻り組の仕業ではないかと言うものがいたのですよ、それも影で岩倉卿と大久保先生が糸を引いたとも言うのですが眉唾だろうといったのですが西郷さんのことも」

「しかしなぜ西郷がやられないといけねえのだよ、まさかとは思うが上様のこともあるからな。いくらなんでもそろいすぎているぜ」
「私もそれとなく調べてみます」

「オイオイおめえがこんどは消されないように気をつけねえといけねえぜ」

「わかりました。隠密はお家芸でござんすよ」

益満は南部やほかのものが戻ると密かに相談をしていたが、奥に入り別れを告げると夜陰にまぎれて西に向かうのだった。

北陸道鎮撫総督の高倉永祐は加賀を出て越後に入ったが長岡は中立を楯に恭順に応じようとせず交渉は長引いていた。

3月11日13時 赤坂

アーネストサトウが西郷の死亡と慶喜の死亡を聞きつけて勝の元に情報を集めに馬でやってきた、相変わらず別手組のものが二人護衛についていた。
「おいおい情報が早いじゃねえか、コタにでも聞いたか」
「いえ、コタさんは横浜に居ませんよ。どこにいるのか此処3日ほど見かけません。8日の昼にうなぎを食べた後どこかに出かけた様でその後は会っていませんよ。ところでこの後のことですがどうするのですか。京で聞いてきた話では徳川は取り潰せという意見が強くて、いやそれはだめだ寛典を持って皇威を示すべきだという方は軍事参謀に強硬な意見のものをつけて東へ進軍させていますよ」
「そうか、大総督として送り出されている有栖川宮はやはりそういう意見の方だったか、ではこちらの恭順は通る可能性があるな」
「無理、無理ですよ。西郷さんは京の大久保さんに徳川の処分は厳しくしなければいかんと意見を具申していたそうですよ」
「俺もそれは聞いたが、そういわなければ兵が萎縮するからな。俺でもそういうよ」
「岩倉卿は徳川の領地没収の方針だそうですよ。宇和島とか越前や芸州には慶喜の恭順を認めるというそうですがね」
「そうなのか、そいつは困った」
本当に困ったように頭を手で覆うようにつかんでは考えるのだった。
「コタさんもそういって先生と西郷さんが会えれば話はつくと言っていましたがね。実は長州の大村と言う人がだいぶ強い意見だそうでうちのハリー卿も心配していますよ。総督府の参謀木梨精一郎と言う人が横浜に入って来て初めて西郷さんの訃報を聞いたらしく腰を抜かすほど愕いていましたよ」
「そうか横浜に何の用事で来たのかな、武器の調達か金の工面か、それとも公使たちに協力でも頼みに来たのかい。局外中立の宣言を聞いてないのだろうかな」

「ハリー卿に江戸総攻撃で負傷者が出たらイギリスやフランスの軍の病院に治療に収容をしてほしいと頼みに来たのですよ。」
サトウは其処で一息ついてから勝にさらに話を続けた

「降参したものを攻撃するのは国際法上からも間違っている、わがほうは江戸総攻撃は賛成できない、それゆえ軍の病院に収容は許さないとすっぱりと断られていましたよ。諦め切れないらしく私が横浜を出るときまた公使館に訪ねてきていました」

「こちらは恭順の方針だが、新しく家を継がれたのは家茂様がなくなる前から決められていた田安亀之助様だよ。まだ6歳の幼君に厳しい処分は願い下げだよ」

そのころ東山道軍は笹子峠を越えて八王子に先方軍を進め付近の情勢を探って東海道軍との歩調をあわせるために進むことが出来ないでいた。
江戸に戻った新選組は分裂していたが、八王子守備はとりあえずなくしてその方面の兵に総引き上げが通知され、3月11日になって永倉新八、原田左之助に靖兵隊を組織させて新式銃の操作を徳丸ヶ原で行いだした。
隊長に永倉新八、原田左之助の二人が選ばれて、離散隊士を集めるのだった。近藤は銃創の治療に和泉橋医学所に入りなおし、土方は改めて新選組の生き残りと銃隊を組むために奔走しだした。

3月12日 会津

容保が戻った会津では軍制改革が進み新たにスペンサーを五百挺とスナイドル三百挺を買い受けることにして武兵衛(ジョン・ヘンリー・スネル)に買い付けを申し付けていた。
武兵衛はエドワルドと手持ちのミニエー・ライフル銃五千挺を売りたがっていたがプロシャからの新式銃も銃弾が間に合わず手に入れそこなったこともあり、しいて逆らわず急いで横浜に向かう仕度をしに家に戻った。

会津ではWinchester Repeating RifleSpenser Repeating Riffleの訓練をアメリカ人から受けたものも多くいまさら旧式の銃に戻ることなど考えられないものが多くなっていた。
梶原平馬が金の用意をすることになり山川大蔵がついて30人の人間が横浜目指して強行軍で進んでいた、背にはそれぞれが200両と言う大金を背負い目指すはゲルル商会、其処で内金としてそれを入れてあるだけのSpencerにスナイドルを求めてくる予定だった。

その後を追うように佐川勘兵衛が会津に入り容保の示す軍制改革の様子に驚きの様子を隠せなかった。

3月14日 午前 江戸城大広間

確堂、慶頼に付き添われた家達の前にすべての旗本、役職にあるものたちが呼び出されていた。
幼い子供とは思えぬよく通る声で一言ずつ思い出すように立ち上がってしゃべった。

「家達である。予はすべてを勝に一任した。恭順の遺志は貫徹しなければならぬ。しかしながらわが身を勝にゆだねたいまどのようなことがあろうとも勝に従うこと。予自らが勝の言葉に従ってこれからの行動を行う。皆も勝の言葉は予の言葉とおもうように」

なぜかこの言葉はお庭先端に居る者にまでよく聞こえた、そして確堂が改めていまの言葉を大声で再度話すのだった。

一同が平伏している間に家達はおくに入り、改めて勝が「不肖、この勝が御一任を受けて軍事総裁職として皆様に申し上げる。前上様以来徳川は恭順の方針である。すべてこの勝に従っていただく。しかしながら恭順には不賛成の方は即刻領地領国へお引き上げ頂たい」

高飛車とも思えるこの勝の言葉に城中では彼方此方で盛んに抗戦すべしととくものも多く見られたが家達公が直接勝にゆだねたとの一言で心ある人たちは揺るがぬ決心を胸に秘めていた。

3月14日 京

京では五箇条のご誓文が発表され新政府の形が出来上がりつつあった。

このときの新政府は次のようになっていた。

総裁  有栖川宮熾仁親王

副総裁 岩倉具視 三条実美

議定   小松宮嘉彰親王  山階宮晃親王  正親町三条実愛

聖護院宮嘉言親王 徳大寺実則   知恩院宮博経親王

万里小路博房   鷹司輔煕    有栖川宮幟仁親王 

      中御門経之  島津忠義   浅野長勲  松平慶永 

      山内豊信   長谷信篤   岩倉具視  三条実美

      伊達宗城   中山忠能   細川護久  近衛忠房 

      鍋島直大   白川資訓   亀井茲監  鍋島直正 

      蜂須賀茂韶  東久世通禧  毛利元徳  池田章政

      徳川慶勝 以上議定30名

しかし会計と指揮は三条と岩倉の二人が押さえる形でその相談は大久保一蔵と木戸準一郎が受け持っているといっても過言ではなかった。

木戸は病がちで、大村がその代わりに軍事の参謀を任されていた。

薩摩の家老を勤めている小松帯刀に西郷と友人だった吉井友実は大久保と違い徳川に寛典を持って望むべきと主張して新政府の中で孤立しかけていた。

その意見のものは多くいたが三条、岩倉に押されて強く出ることが出来ない環境にあった。

そのためもあるのか大総督宮の有栖川宮は駿府に居り京に呼び戻されることのないまま実権のないも同然の総裁職だった。

 


3月17日 駿府

急遽東海道軍の参謀局主席の肩書きで大村益次郎が駿府に二千名の兵と着いたのは3月17日のことだった。

3月18日 朝 横浜 江戸

そのころ横浜では相変わらず木梨がパークス公使との交渉に手を焼いていた。

18日に最後通達とも言うべき江戸に届けられた文書は即刻江戸城の引渡し、一同は武器を引き渡し水戸にて謹慎、江戸には百名以下の明け渡しの役人と町奉行所の役人以外は敵とみなすと言うものだった。

いくら旗本八万騎は大げさでも勝と大久保が調べると三万以上の旗本が江戸にいたので家族を含めてその生活は新政府のあずかり知らぬことと言う通達に従う事は無理な相談だった。

しかしその旗本のうち戦の役に立つものが半分はおろか五千がいいとこだろうと大久保と勝は踏んでいた。

北陸に進んだ長州の山県が率いる混成軍は八千を数え各地から徴発される食糧だけでも近在の大名の負担は耐えられる限界を超えていた。

そのため各地の豪農、商家からも御用金を出させるために怨嗟の声が上がるほどだった。

分遺隊として二千五百名が東山道隊に合流のため信濃に入り其処で東山道総督府の岩倉具定、軍艦の原保太郎・豊永貫一郎と合流松本から上州を目指していた。

3月18日10時 江戸

江戸では勝も大久保も此処に来て西郷のいない東海道軍を指揮するのが大村と聞いて戦争の意志を固めて全軍に指令を発した。

陸軍総裁大鳥圭介
副総裁参謀大関増裕、副総裁参謀藤沢次謙、副総裁参謀白戸持隆。

海軍総裁榎本武揚
副総裁参謀矢田堀鴻、副総裁参謀稲葉正巳、副総裁参謀佐々倉桐太郎

が任命された、いままでの地位、履歴にかかわらず臨戦態勢の軍事内閣とも言うべき布陣だった。

総裁は軍を掌握し、副総裁参謀は勝や大久保、松平信敏と共に軍の配置、装備、糧食などについてのさまざまな難問と取り組むことになった。
中でも大関は黒羽に居て勝とこの恭順が破れたときの準備が済んでおり、この知らせが届くや否や急ぎ関宿藩と協議の上、この地を要害と化して西軍の進撃を止めるべく宇都宮藩とも協議するなど忙しく立ち働いていくのだった。

勝と大久保が用意していた組織はすぐさま機能しだしてあっという間に江戸武蔵に両総も野州にもさらに安房、相模にも指令が飛んだ。
「こうなると家達様を佐倉にお移り戴くのはよいが天昌院様静観院宮様の事だが京から勝さんにお身柄のことについてお守りされるようには言われているがこの際京にお戻りいただくお許しが出ない。お二人とも城と運命を共にすると強い意見で困る」

「それですが家達様の御養育をお二人に引き受けていただくということで説得するしかないでんしょう」
「わしがいくらそれをいってもお聞き入れがない勝さんが引き受けてくれんかといいたいところだがこの非常時に勝さんの余裕もないだろう」
「どうでんしょう、山岡と高橋の二人に引き受けていただくというのは」

「オオそりゃ良いことだ、とくに高橋は前上様の事で引きこもってしまいかねない命がけの仕事を与えることこそ高橋を生かす道でしょう。早速呼び出しを致しましょう」  
城中に高橋と山岡を呼び出すための使者が出て行った。

田安慶頼が大玄関までわざわざ出向いて白書院まで案内してきた。
異例といえば異例こんな事は前例もないことだった。
其処には幼い家達が居て父親に促されると、呼び出された二人に声をかけた。

「苦労である。わが身はこれより佐倉に移るやに聞かされたがこの城にはわが母とも言うべきお方がお二人お残りになられる。そちたちにお二人の守護を申し付ける」
幼い子供とは思えぬしっかりした言葉でそれを伝えると老女に導かれて白書院を出て行き入れ替わるように松平確堂が入ってきた。

「突然で愕かれたろう、軍事総裁は家達公のいわれなき罪を問うという京方の方策に異議を唱え、三条、岩倉両卿の罷免を求めて戦いを起こすことになった。天昌院様、静観院宮様にお城から出られるように話したが受け入れられなかった。万一のときのためにもそちたち二人にご守護を申し付ける」
「お聞きしてもよいでしょうか」
「何なりと」

「軍事総裁は天子の御譲位を目指しておられるのでしょうか」
「いやそれは違う、一翁も勝も昨日らい我々と協議いたしたがこの国難の時代に長く戦を続けるよりも一気に押し寄せる軍勢を殲滅し、京方の同じ意見の者たちと共に天子の周りの戦による国づくりと称して徳川をいけにえにせんと望むものを排除し、身分格式にとらわれぬ平等なる政治局の成立と天子の君臨すれど統治せずというご身分になっていただく方針である」

「それは天子のご身分をただの飾り物とされるということでございましょうか」
「飾り物と尊敬を受ける邦民の象徴とは違うとおもうがいかがか」

「新しい政府には軍事総裁が責任者として統治されるわけで御座いますか」
「いや勝は飽くまで委任された軍事総裁であって、新政府総裁を目指すものではないと言明致した。勝はこの戦で勝った後も諸侯会議による互選による政治上局と、実務を行う下局による政府が出来ることを望んでおる」

「では戦に勝った後も家達様の将軍家復活を目指さないのですか」
「左様である、家達様は徳川宗家として御家を継がれたのみであり、政治に関与されることは無い。政治局とは無縁であられる」

高橋と山岡は自然と頭が降り二人に平伏して「お二人の安全とお身柄は身命を賭してお守りいたします」そう約束するのだった。

「詳しい事は勝と大久保から聞くように、そちたち二人は大奥向きの一切の権限を委任されたということである」
静観院宮の侍女として仕える土御門藤子が迎えに来て確堂が付いて大奥に高橋と山岡は入った。

静観院宮と天昌院が並ぶ部屋で二人は確堂に紹介されて拝謁した。
「わらわは、この千代田の城と運命を共にする所存ぞ、そちたちはわらわとともに命を捨てる覚悟はあるのか」
天昌院の言葉に高橋は即答した。
「もとよりの事であります。しかしながら天子の叔母君であらせられる静観院宮さまの御ことを朝廷より勝に対してお身柄の安全を確保すように通達も御座いましたさらに」

高橋は此処で息をつき暫し沈黙の後「家達様はただいまわれら二人に母君とも頼むお二人の安全はそちたち二人に任せたと仰せで御座いました。城と運命をともされるお気持ちに変わりがなく、われら二人にお供申しつけられて幸せで御座います」
「そのほうの気持ちはわかった。山岡はいかに」
「仰せにより直答いたします。この山岡も喜んでお供仕ります。しかしながら一戦もせずにただ犬死はしとう御座いません。お二人にも徳川の者として戦っていただきたく伏しておん願いもうしあげます」
「わかりました。徳川のものとして死ねと言う言葉気に入りました。しかしながらわらわは戦の仕方も知りませぬ」

「では、そのことも含めてわれら二人のもうすことに従っていただけるで御座いましょうか」
山岡はお二人とその近くに座を占めているお清の老女、中老方にも賛同を得るように求めて回りを見渡した。

皆うなずくように「われらお二方のためにいつでも死ぬ覚悟は出来ております。山岡殿のお言葉に従って立派に最後まで戦うことをお約束いたします」
天昌院も静観院宮も共に賛同して山岡、高橋の指図に従うということを約束したのだった。

「では明日までにいろいろと係りの者とも打ち合わせをしてまいりますが、どなたか連絡のお役目のものを任命してくださいませ、そのものに順次必要なものと必要な事柄を連絡いたします」
あっさりと一翁が手をこまねいていた事柄を二人は片付けることが出来るようだ。

3月18日14時 小田原 

大村が率いる先方軍は箱根を越え満開の桜の花の下を小田原城に入った。
有栖川宮大総督と共に箱根を超えた東海道軍本隊は小田原城を接収して陣を張って、先方軍として鈴木武五郎が率いる800名の銃兵が横浜を目指して進軍を開始した。
村田新八(二番小隊長)・篠原国幹(三番小隊長)がその主な人員だった。

3月19日7時 神奈川
昨日から急ぎこの日のために用意されていた辞令が届き、木更津から19日には横浜防衛軍が、軍団長の林昌之助に率いられて神奈川に上陸すぐに部隊編成を整えて東海道を進軍した。

この部隊は六百名からなり、京から戻った兵と両総諸藩からの銃隊が主力だった。
その装備は一小隊八十名のSnider隊が五隊で編成され、エンフィールド隊も八十名の小隊が二小隊ついて、Winchester Repeating Rifleの士官が四十名突撃隊として最後尾について用意されていた騎馬で進んだ。

此処には江戸から船で神奈川に派遣された工兵二百名が守るように横浜から加わったガトリングの車が最後尾につき、さらにその後からは荷駄に食料弾薬を積ませた部隊が護衛の兵を含めて二百頭の馬と共に街道を上っていた。

3月19日7時 金澤

第一先方軍として同日、松平太郎が率いた隊は金澤上陸部隊として三百名こちらにはスナイドル銃のShort Rifleで全員が武装していた、各自が五十発の銃弾を背負い本隊に先回りするように此処から鎌倉に出て大仏から手広に出て柏尾川沿いに藤沢に出た後、旧街道を鉄砲場に出て上陸部隊の先詰めをすることになっていた。

3月19日未明 腰越
第二先方軍として土方歳三が率いる新選組を主体とした混成軍は横須賀上陸部隊で此処から山を超えて小坪に出た後鎌倉の海岸沿いに進み、腰越に上陸する部隊の援護が役目だった。
スナイドルShort Rifleで武装した二百名の兵はしゃにむに突き進んで19日の夜明け前、約束の3時間前には七里ガ浜に到達していた。斥候に出た二十名の分隊の報告を聞いてすぐさま腰越に入り、かねて打ち合わせてあった漁師の船は沖に軍艦が見えると、いっせいに漕ぎ出して兵を下ろすために出て行くのだった。
此処に上陸するのは大手町大隊の700名で小川町大隊は小田原を目指して開陽、回天、富士山の三隻と運送船に分乗して上陸用の小型船と共に相模湾を進んでいた。
第一先方軍は敵と遭遇していないのかまだ先についていないのか銃声も聞こえず合図ののろしも上がっていなかった。
のろしは鉄砲場と江ノ島の双方で8時に上げる約束でその時間まで後5分を切り仕度に追われる伝令たちに号令を便へ一分前に点火をさせた。
こちらの狼煙が上がりだすと同時に鉄砲場からも狼煙が揚り、上陸部隊の隊長の秋月登之助が陸に上がると挨拶もそこそこに土方は前進を命じた。
明日の朝には馬に引かせて大砲部隊が進軍してくる手はずなので、出来れば前進して切り込みをかけたいところだが、小田原からどこまで前進しているのかまだ斥候が出ている第一先方部隊からこちらには何も言ってきていないので様子がつかめなかった。
勝からは「切り込みは銃の弾が切れるまでは絶対にしてはならん。約束が守れないなら後詰に使う」と念を押され、はやる気持ちを抑えるのに必死だった。

3月19日9時 藤沢鉄砲場

各小隊長以上に渡された時計は9時を回り鉄砲場で第一先方軍と合流した土方は威力斥候に出ると駄々をこねたが「いま分隊規模で参方向に威力斥候が出ているから10時30分までに帰るからそれから進軍するから待て」といわれてこれからの作戦の指令書の確認をするのだった。
敵は街道をこちらに向かい戦闘となれば有利な高台の大庭城址に上がるからそれまでは攻撃をしないとかかれてあった。

「いくらなんでも下から上に攻め上るのは不利だぜ、先に高台を占領すべきだろう」
「いや口頭で林さんと大鳥さんから言われたが敵に出来るだけ高台に上がらせるように仕向けろといわれている。本隊が街道を押さえて藤沢の町外れに銃列をひいて敵の進軍を食い止めてわれわれが高台に追い込む役目だ。其処に敵の本隊が来れば南湖に出て戦闘を開始する予定だ、こちらと挟み撃ちにしようと降りてくる其処に上陸部隊の突撃隊が突っ込むのさ、そうすれば乱戦となり銃よりもわれわれの剣のほうが有利さ。それにこちらは元込め銃ばかりで装填もらくだから、楽勝だよ」
「ナンですそりゃ、寄席の落とし噺みたいで御座いますな」
そばにいた士官も皆で笑っているところに、最初の海沿いの斥候が戻ってくるのが見えた。

10名の者がそれぞれ騎馬で戻ってきたのには土方は愕くのだった。
「どうしましたこの馬はどこで手に入れましたか」
「これも勝さんの作戦で、柏尾川沿いに待っていた先行のものが三十頭の馬を用意していたんだよ。それに銃弾も予備が一万発、そのときに見せられた文書にサインをさせられたがそれにはもし退却するときがあればこの場所に銃と弾薬が隠してあるということをかかれていたよ、それには大仏の切通の手前と手広の赤い幟の茶店と遊行寺の道場坂の途中の赤い幟の茶店だそうだ。書付はサインしたところを切り取り後は燃やして灰事持って帰ったよ」
「そんなとこまで用意がしてあるのですか勝さんは恐ろしい人ですな」
2番目の斥候が戻り敵の先方が馬入川の上一里の街道を外れたところで川を渡っていると連絡が入った。
「おあつらえ向きだな、北側から回り込んで大庭城址に向こうさんから入ってくれるようだ。向こうも斥候が出てこちらを見ているのだろう、高々千名規模の軍勢と高をくくって本隊が来るのを待っているのさ」
三番目の斥候分隊が馬のいななきもけたたましく戻ってきて「敵は大庭城址に向かって大山街道を進軍中」と報告をしていた。
そのころ横浜には横浜警衛隊として軍団長京極高朗が率いる500名が上陸して奉行所、太田陣屋に入り江戸から通達があったとおりにすべてが順調に元に戻りつつあった。

街道を進む荷駄隊を追い越すように江戸防衛軍のうち六郷大隊と砲兵隊が神奈川を通過した。

品川、川崎、丸子に入ってきていた西軍の先鋒部隊を制圧しての進軍だった。
先鋒部隊といってもつい前日まで六郷大隊丸子大隊などその辺りに居なかった兵が目の前に大挙現れて新式銃のSpenserWinchesterを持って一斉射撃をされてはなすすべもなく降参してしまうほかなかったのだ。

同時に豊島大隊、千住大隊もその付近の制圧に乗り出していたが内藤新宿は大きく開けていたのは不気味だった。
六郷大隊は予定より早く夜に入る前に藤沢に到着できる模様だった。

神奈川から進軍してくる部隊に西軍の街道警備の諸藩の兵は逃げ去るか降参して道を譲るのだった、あえて攻撃を仕掛けるものもなく順調に藤沢に集結しだしていた。
午後2時鉄砲場では後詰の大手町大隊も到着して、第一先鋒軍の300名、第二先鋒軍200名、大手町大隊の700名と膨れ上がり、舟で送り込まれてきた食料を分配していた。
各自には焼きおにぎりと沢庵がついた包みが渡され思い思いに食事を始めていた、そのほかには乾パンが10枚ずつ配布されそれは背中にかけた包みに仕舞うように指示された。
部隊が到着する前に雇われた土地のものが早手回しに五十にものぼる厠までがあるのにも秋月は愕くのだった。
おのおのがその際自分の銃の銃弾を腰の袋に入れ替えることも指示され帯に結びつけるのだった。
横浜から馬を連れた博労が着き騎馬の斥候はその間にも分隊規模の斥候が20分おきに出かけて「2時間以内に帰還すべし」と注意を聞かされては出かけるのだった。
藤沢から伝令が来て防衛軍本隊が藤沢に到着したことを伝えたのは3時、砲兵隊が戸塚を通過したのもその時間だった。
夕方には食料も新たに届き熱い汁までが出され、これが戦場かと思わず疑う光景だった。


3月19日10時 小田原

時間が遡って同19日の10時の小田原では総督府が徳川の軍艦が港に迫ったの見てあわてて城から出て行き、上陸した小川町大隊の本田幸七郎が小田原藩と交渉していた。
三隻の巨大軍艦と後からは三艘の輸送船に小型蒸気船もついてきていた。

港近くまで進んだ軍艦からは兵が続々と短艇と小型蒸気船に乗って運ばれて陸に上がってきた。

小田原の台場の砲は沈黙を守っていた、榎本たちが心配していた砲は大村たちの手で破壊されていたのだ。

城と其処から出た軍勢に向けて睨みを聞かせるように大砲が向けられたままだが砲門は開いていても発射されることはなかった。
榎本艦隊の開陽、富士山、回天で榎本もじきじきに乗船して指揮を取っていた

「今頃は下田付近まで西軍の船が来ているだろうから見張りは昼夜交代で油断するな」
まさか戦闘状態のいま油断する士官など居はしないが、榎本は大坂で逃げられた春日を思い出していた。
小田原を出た東海道軍は大村率いる六千名にのぼり城を砲撃できる位置にいる三隻の巨大軍艦に苦々しげににらみつけながら江戸を目指すのだった。
伝令によって二つの軍を合わせても2千名足らずの徳川軍など物の数ではないと高をくくっていた大村は新式装備の大砲を持ってくる薩摩と佐賀の舟が到着すれば徳川のへな猪口海軍などすぐに退散すると本気で考えていた。

「今日明日にも小田原に到着して伝令が来る手はずでしたがいたし方ありません、がしかし五艘の軍艦と輸送船団が兵と大砲を運んできますからあの参艘の舟など木っ端微塵で御座る」
大総督の有栖川宮に見栄を張るのだった。
快速を誇る薩摩の春日丸を筆頭にいったいどこで道草を食って居やがると本心では苦々しく思っている大村であった。
参謀の海江田はそんな大村によい感情を持ってはいないが主席参謀と言う肩書きには逆らうことは出来なかった。
大村が言う高速戦艦群は

春日丸(薩摩)1269トン 砲門数6門16ノット

丁卯丸(長州)  125トン 砲門数5門16ノット

孟春丸(佐賀) 357トン 4門
           英式  アームストロング旋回砲2門
       英式6斤アームストロング砲2門

乙丑丸(長州) 205トン 砲門数8門 

乾行艦(薩摩       砲門数6門

それと輸送船から成る船団だったが船足の遅い運送船に合わせたためいまだ相模湾に到達していなかった。

3月19日12時 相模湾

しかし大村の誤算は腰越で兵を下ろした船団の内から蟠竜艦長松岡磐吉と朝陽艦長伴鉄太郎が相模湾を一度大島の東に出てそこから伊東に向けてゆっくりと進んでいることを知らなかった。

3月19日12時 伊良子沖

春日の船上では艦長の赤塚と副長の伊東が密談をしていた海軍先鋒大原俊実(綾小路俊実)参謀島義勇(佐賀)の二人のことだった。
「大原卿だが確か去年は綾小路卿といって正月には相良たちと赤報隊で進発したのに彼を見殺しにしたうえこんどは海軍総督、なぜなんだ俺たち薩摩を使い捨てにでもするつもりではないのか」

「岩倉卿の指図でしょうか。坂本先生といい西郷先生といいどうも岩倉卿の差し金の気がして知れません」
「佐賀の船の大砲が優れていると聞くやあちらを坐乗艦とするなど、こちらを先頭に立ててなにかあれば真っ先に逃げ出す気じゃないのか」
先頭に春日そして運送船を守るように殿は乾行艦(薩摩)艦長北郷主水が従っていた。

3月19日17時 長崎 グラバー邸

長崎での感触から木戸、大久保はグラバーを始め多くの商社が新政府に持ち舟を提供して兵の輸送にも便を図ってくれると信じて疑いを持た無かった。
しかし坂本、中岡の死に続き西郷のことを知ったグラバーは変心していた。

伊藤には「俺は降りるぜ、坂本が死んで西郷も亡くなっては勝も寅吉も君たちの応援はしないだろう。新政府などくそくらえだ」
「そう言わんでくれよ、木戸先生始め俺も井上さんも今のままではいかんと考えているのさ。岩倉卿、三条卿と大久保先生の独断で動く新政府は偏りすぎている。西郷先生亡き今、お前さんに匙を投げられてはどうにも成らんよ。まだ頼んだ銃に銃弾も着いていないじゃないか、あれが無いと補給も続かないのだぜ。こうなっては横浜に頼ることなど出来るわけないじゃないか」

「知っているのか、佐賀だって今のやり方に本心から従っていないぜ。国には新政府の軍隊と互角に張り合える艦隊を残して新式銃の兵だって半分も東征軍に参加させていないだろう」
「俺だって困っているんだよ、でこと狂介が勢いついて先走っているが、俺の本心は木戸先生と同じで徳川をあまりいじめれば窮鼠猫をかむということになりかねない」

「もう江戸は戦に切り替えたよ、横浜からわずか3日で船が着くという離れ業で新式船が連絡に来たぜ。それに徳川の装備は君たちが考えているよりも進んでいるよ。薩摩の新式装備の軍隊をすべて送り出さなければ勝てはしないだろう」

「それが困ったことに西郷先生が半分以上の兵を国においていたのさ、どうして送り込んでくれないのか木戸先生も不思議に思っていたのだ」
「それわな、昨年寅吉が話していたよ。坂本が亡くなった後横浜であったが後藤では薩摩の大久保の言いなりになって自分の意見が通らないだろう。西郷先生は心の中では徳川に同情しているが兵の指揮を高めるためにも旧弊な武士集団を排除するために徳川をつぶせというだろう。そういっていた通りの動きになったが西郷さんがなくなった今、五代もこれで大久保の独裁が始まれば西郷さんが懸念していたすべての軍勢を送り出す。それでは危険が増えると話してくれたよ、それでこの戦は勝てる見込みがなくなるということさ」

「なぜ危険なんだ。アそうか徳川の海軍か」
「そうだよ、薩摩だって自分たちの国が砲撃されたと聞けば国に帰る兵が増えて戦場からいなくなるさ、例のストーンウォルだが今頃横浜に着いたころだぜ」
「だがあれはまだ全額支払は済んでいないのだろう。新政府の側に引渡し交渉をしているはずだ。横浜には木梨参謀がいるはずだ」
「もう今頃は戦が始まっているころさ。相模川をはさんで両軍がにらみ合いでもしているだろうよ」

3月19日17時 藤沢

グラバーの話のように19日の夕刻には大庭城址には先鋒軍の薩摩兵800が陣をひき徳川の軍とにらみ合いが続いていた。
相模川河畔に大村の率いる本隊が到着したのは日が落ちたころで、すぐに斥候が出て先鋒のほうから連絡に来た者からの情報を確かめていた。

「藤沢の本隊は五百足らずで、海岸の歩兵部隊は約千名こちらの四分の一も居らん。幕府歩兵の弱いのは皆も承知で御座ろう、明日は一気に押しつぶしその勢いで江戸を押しつぶそうではないか、駿府に送った使者が到達したころだろうから、今頃は補充の兵が五千名糧食と共に名古屋から箱根に向かって進軍して御座ろう」
皆が賛成の声を上げ意気盛んに明日の攻撃の手順を相談する中、海江田は苦虫を噛みつぶしたように先鋒の薩摩兵を気遣っていた。

「小田原も一時明け渡したがなに艦隊が到着するまでの辛抱さ、補充の兵だって通過するのを城側も手出しも出来ずに大門を閉じて城にこもるのがせいぜいさ」
大村たちはこのとき駿府も箱根も太田資美の説得と銃隊の力に負けて箱根を越える兵はいないことに気がつかなかった。
本多正訥は田中からまたこの城に戻っていた、前には征討軍に明け渡した城をまた徳川のために守ることになった。
沼津の水野家もいったん恭順として道中警護と資金調達を命じられ、一万両の献金を無駄に出したが太田の説得と家達公御処分に不満を唱えて決起した。
ことごとく総督からの伝令は捕らえられて名古屋に集結していた後続の隊には連絡は届かなかった。
浜松では慶喜に愛想を尽かしていた元老中の井上正直が太田からの使者に対して家達公の御ために街道を下る兵を一人足りと通さぬと返書をよこして、兵百名を小田原に送ってきた。

岡崎藩でも太田の使者に対しお味方を誓うと答え直ちに尾張に使者を送りつけた。
家達公にお味方仕る、これより上方の兵の通過は許さぬとの通達を送り届けた。

岡崎には掛川からWinchester Rifle infantryで装備された兵が60名派遣されてきたので街道に関所を設けて通行を厳しく監視した。
尾張ではその対応にも追われることとなり、京への使者の往復で寝もやらぬ有様であった。
そのころ新政府の10艘からなる艦隊は徳川の反抗が始まったことを知らぬまま遠州灘をゆっくりと航行していた。
荷物を満載した帆船にあわせ軍艦も機関を焚かずに同じように帆走していたのだ。

この日奥羽鎮撫総督府の九条道孝総督に大山格之助、世良修蔵が乗ったイギリスの商船が仙台を目指して寒風沢港に着いた。
仙台に奥羽鎮撫の錦旗を授けてその威光で奥羽平定をもくろんでいた。

3月20日5時 南湖
20日の夜明けとともに渡河を開始した西軍は攻撃も受けず東海道を進軍していた。中軍の渡河が終わり街道を進みだすと南湖の松林からいきなり銃撃が始まりあわてて応戦したが、敵の影は見えず進軍を急がせて鶴峰八幡の前を無事通過して、大庭城址の先鋒軍を目指して茅ヶ崎の一里塚から左に折れようと号令をかけたところにまたも銃撃があり騎馬の兵が街道を江戸の方向に三十騎ほどがあわてて駆け去るのだった。

本隊は体制を整え街道を東に追跡を始めた。
海岸への道の先に兵が見え其処から銃撃が始まり遮蔽物を探す前に次々と倒れる兵を叱咤しても各藩の兵をまとめて反撃に出る事は出来なかった。
斥候の報告どおり海岸の鉄砲場に陣があるらしく其処からかわるがわる兵が出ては攻撃をしては後ろの兵と交代するのだった。

「なぜあいつらは突撃してこない。いままでとは少し違うぞ」
大村たちがそれに気がついたころ、大庭城址の兵が本隊の危機の連絡を受けて丘を下って救援に向かった。

引地川を左手に見て街道に出る先鋒軍に東軍の砲兵が撃ちかけ倒れる兵を尻目に薩摩の強兵は小和田を目指して一散に駆け抜けていた。
其処へ大手町大隊の兵の銃撃があり薩摩の村田、篠原の両小隊長は剣を抜いて切り込みをかけると相手は脚ばやく松林を潜り抜けて消え去ってしまった。
「ふん口ほどにも無い腰抜けどもだわい」

しかしそれは前哨戦でしかなく土方をはじめとする抜刀隊が切り込みをかけその兵も翔るように街道を横切っていき、それへの追撃を許さぬように銃撃は峻烈を極めた。
いままでの幕府の兵と違う戦いに戸惑いを覚えつつ先を急ぐと街道をこちらに急ぐ海江田と出会い、すぐさま取って返して藤沢の町を目指すのだった。
街道に倒れる兵は東海道軍ばかりで敵兵の姿は見えず引地川にかかる橋を五百ほどの兵が渡ったころに前方に銃列を引いた隊が見えこちらも銃を撃ちかけるがまだ射程が遠く前進をしながら遮蔽物を探すのだった。

海側から騎兵の突撃がありそれを切り抜けると大砲がとどろく中愕くほど多くの銃声が連続して東海道軍を襲った。
横浜でファヴルブラント商会からこの戦いの前に寅吉が買い受けていたガトリングが街道の真ん中で火を噴いていた。

勇敢にもスナイドルの弾が切れた鈴木武五郎が銃を捨てガトリングの死角から周りの兵と突撃したがガトリングとは外れた思いもかけない場所から撃ちかけられて戦死してしまった。

相手に損害を与える間も無く海江田は退却を命じ大庭城址目指して川沿いの道をさかのぼった。
川向こうからは歩兵が盛んに撃ちかけてきて逃げるのがやっとの兵は応戦すべき間もなかった。
「海江田さん大村の本隊はどうしました」
「こっちにはこないよ、作戦だとか行って大山を目指して迂回していった」
「そんな馬鹿な、本隊が来ればこんな少数の敵などすぐにでも蹴散らせるのにどうしたというんです。いまさら臆病風に吹かれては西郷先生の遺志は貫徹できません」
集合をかけて数を確かめると先方軍、海江田隊合わせて620名しか残っていなかった。
それも無傷のものは少なく弾も残りが少ないことに気がついた。

「仕方ない、こちらも本隊に合流しましょう。体制を整えて反攻に出るしかないでしょう」

「あれが噂に聞くガトリングか、こちらもスナイドルだけでなくSpenser を装備した部隊がいれば何とかできるが、このまま引き下がるのは薩摩武士の名折れだ」
村田はそういい海江田に体制を立て直して突撃しようと申し入れるのだった。

伝令が帰ってきて大村の命令で「すぐさま大山を目標に進み厚木で合流」と指令があり兵のうち負傷者を先行させて退却するのだった。
負傷者は自分の腰からボクサーを後の兵に託して「必ず生きて追いついてくれよ」そういい残して脚を怪我した者は腕を撃たれたものと助け合いながら、重症のものは馬に乗せたりして厚木を目指すのだった。

3月20日16時 一之宮

追撃は無く、いぶかしく思いながらそれでも三里ほども進むと、本隊の一部が陣を張っていた。
「無事でしたか、大村参謀はだめだといいますが、独断にて此処でしんがりを勤めますから負傷者は先に戻ってください」
「よし俺と、篠原君の部隊だけが残ってくれ」
「しかしそれでは兵の数が少ないです」
村田はそういって幾人かの兵と共に其処にとどまった。
「いいのだよ、どうやらあちらも今すぐ追撃する余裕は無いようだ。どうも街道を守備するのがやっとのようだ」
しかしそれは海江田の誤算で、上席参謀の大村も気がついていないが太田資美の応援部隊に続々と小田原城に駿遠三の徳川恩顧の諸藩の部隊と脱藩部隊七百名が駿府で編成されて(指揮官遊撃隊頭取並桃井春蔵)現れていたのだ。
この部隊の隊長の桃井はこのとき44歳剣豪としての名がとどろきこの日のために出身の沼津藩に潜んでいた。
武器はミニエー銃主体だが小田原で船から下ろされた200挺のスナイドルとボクサー式薬莢100発ずつが手渡されて銃になれたものからミニエーと交換した。
訓練用に模擬弾が渡され交互に弾込めの訓練が始まった。


20日10時 小田原
官軍が相模川を渡るのを確認した連絡員は馬を使って小田原に入りすぐさま連絡に太田の元に出向いた。
「申し上げます。西軍の本営は相模川を渡りました。連絡のとおりに秦野へ進軍されますように」

「判った。早速兵を進めましょう。本田さんすぐに兵を整列させて出発いたしましよう」
「それから次からはこまめに連絡が入る予定ですが私にもどのようなものが次の連絡員かは不明ですので木札と申し様にお気をつけください」
「敵の謀略と言うことも有るのか」

「その心配はないと思いますが、必ず二人が近くで動くように言われて居りますので異変があればそれが伝わるはずです」
「と言う事ならお前たちは相当の人数で動いているということか」

「ハハ、それは口が裂けても申し上げられません」
太田の指揮する300名のWinchester 部隊と小川町大隊の700名は打ち合わせどおり厚木を目指して出発した。
桃井は小田原藩の者と共に交代で関所の警備に出向いていた。
「愕きました、勝さんの指令だという書類を船の中で開いたところ太田様の部隊が着いたら連絡を待って厚木に進軍、秦野までは陽のあるうちに入るように書かれていますので今日の事なのですかね」
「まさか日にちまでは打ち合わせておりませんよ。こちらも箱根を夜明けと同時に下るように言われて居りました。総督府の軍隊が残っているときは連絡があるといわれていましたが、小田原の手前で沖に大船が何艘もとまっているので西軍のものかと愕きました。其処へ連絡員だというのが来て、小川町大隊を送ってきた船で、総督府の先鋒は今頃相模川を渡って横浜防衛軍と戦っているころで、城から総督府も移動しましたと言うじゃありませんか。もう安心して歓声を上げたくなりましたよ」
「それでどうなんですかね、秦野で敵と遭遇ですかね」

「それがそのときに連絡員がいうには読みとして本隊は厚木に向かうだろうと言うのです。江戸から別働隊の六百名が多摩川を渡り厚木方面に向かっていて、藤沢からは大手町大隊と横浜防衛軍から五百名が付いて三方向から厚木を目指す予定だそうです」
太田と本田ではついこの間までは身分も違いこのように親しく口を聞くなどとは双方とも考えられないことだったが、今は敵に向かって進軍する同じ同志として気が合う様子で身分など気にする余裕も無かった。

盲人と思しき者が道に出て先頭の兵に木札を示して「隊長に取り次いでくれ」と申し入れていた。
その士官は木札のことを知らされているので道の脇にその盲人と下がり馬に乗った太田と本田が来るのを待って取り次ぐと先頭に馬を走らせて戻った。
「何か連絡かね」馬を下りた二人は松の根方に腰を下ろした。

「伝言で御座います。秦野に野営地と糧食が届きますのでその場所近くでまた連絡員が参りますからそのおつもりでお進みくださいとのことです」
「ありがとう、だがあんたがた盲人まで使っているのかい」
「私たちは、米山銀一さまのころよりの繋がりで今回のお役目を引き受けております。どこの宿場にもおる坐頭、勾当、針医は米山検校の徳を慕って居ります」
「そうか連絡ご苦労でした」
太田は丁寧に挨拶をして先頭部隊を追って馬を歩ませた。

20日14時 町田
そのころ丸子大隊のうちから江原鋳三郎が240名の3小隊と新たに編成しなおされた遊撃隊の伊庭八郎、人見勝太郎の3小隊240名合計480名は、町田に差し掛かっていた。
「申し上げます」
近在の百姓と思しき者が木札を見せて先頭の伊庭に声をかけた。
人見を先に行かせ話を聞いた。
その木札は昼前に赤線、午後は青線、午の時は赤青の2線が引かれたものを連絡員がだすと小隊長以上に通達がされていた当にその木札だった。
「何か連絡か」

「はい今朝茅ヶ崎一里塚から藤沢宿手前にかけて戦闘が行われ、お味方は大勝利で死傷者約30名、西軍は死者100名以上のなきがらを残し敗退。今頃は海老名国分寺付近で御座います。敵の本隊は厚木に到着のころではないでしょうか」
「それは重畳。それでわが軍はどのあたりまで進めばよいか」
「しばらくはこの街道沿いに海老名付近までお進みください。次の連絡は4時までに入ると存じます」
「ウムいま2時40分か」

相手も首に長い鎖をかけた時計を懐から出して私の時計は2時42分ですからほぼ同じで御座います。では次の連絡が来るまではご用心の上お進みくださいませ」
伊庭はすぐに小隊長を集め今のことを伝えた、江戸を出るときはまさか小田原の敵が厚木に来るとは予想していなかったので、半分がっかりした気持ちだったが明日は鳥羽の復讐が出来ると人見と共に勇気がわいてくるのだった。
兵の装備もスナイドルが中心で先込めを持つ兵は一人もいないという最新式の兵ばかりだった。
特に遊撃隊のうちの80名はWinchesterと言う最新式の連発銃で装備されていた、徳丸が原と丸子で演習してその速射には驚きを隠せなかった。
M1866カービンと言うその銃は8発の連射が可能だった。
13発連射の歩兵銃は下野牧決戦のために三番町大隊に五百挺装備されていた。
それぞれが50発の銃弾を携行しており戦闘の前には必ず補充部隊を到着させると丸子を出るときに留守部隊の福田隊長が約束してくれていた。
またも連絡員が現れ「いま敵の殿(しんがり)がこの先壱里に居りますので此処で次の指令をお待ちください。藤沢からは秋月様、土方様、松平様の隊が寒川で陣を張っておりますので誰か伝令を私と同道させてください。そこで小田原からの本田様方の隊との連絡が入ると思われます。そちらは秦野を目指して小田原を出ております」
「承知した、木塚君、君は3名のものを同道してこの男と共に寒川に連絡に行ってくれたまえ」
「はい承知しました、では早速出かけようか」
「はい、敵の遅れた兵と遭遇しないように何名かが先を歩いて居りますので私の後からおいでくださいませ」
この戦のために1月からこの付近の獣道までを知り尽くした者たちが何人も西軍の周りを探索していたのだった。

敵に捕まったときは素直に雇われたと言って木札のことも話すことといわれていた、その事は周りのものが察知して連絡方法の変更が行われることもすべて話すことまでが打ち合わせてあったが今のところ定刻の連絡に遅れたものは一人もいなかった。

木塚は寒川の陣で松平と打ち合わせを行い秦野の隊とも連絡が付き、こちらの人員は少なくとも装備は優れていることも確認できた。
土方はこのように作戦がうまくいくなど信じてもいなかったが、無駄な切込みをするよりも敵をじらして確実に倒すことがこの戦では大事なことで決して一度で殲滅することが戦ではないと勝から言われたことがいまさらながら思い起こされるのだった。

敵を八王子方面まで追い込み江戸に引き入れたときは江戸を火の海にしてもその時に殲滅する。
それには東山道の甲州の隊と中山道から来る隊をも含めて行わなければだめだということも聞かされていた。

阿部邦が大鳥さんの元にいる二番町大隊と勝が各藩から選りすぐった三千名の脱走といわれる勇士からなる兵を温存して下野牧においてあるのもその日のためだという話も聞いた。
木塚と連絡員が丸子大隊へ戻ってきた。
「それで小田原からは何名の兵が出ておる」
「いまは太田資美様の300名のWinchester部隊と小川町大隊の700名が秦野に居られます。今日は小田原藩兵と後続の部隊の参加はさせて居りません」
「そうするとこちらが千二百名、秦野に千名、海老名付近に480名か」
「実はそれ以外に、横浜から大山道を六郷大隊の大築様が兵300名と進んでおられますが丸子大隊と合流されるはずです。そちらは荷駄隊の護衛が主の仕事で御座いますので戦闘には加わらないそうで御座います、参方からの隊が合流したときの糧食がそれで10日分ほど到着いたします。それと林様の隊ですが後始末が終わり次第順次海老名に向かうとの連絡も入っております」

「ガトリングも来るのか」
「いえ大砲部隊と林様のスナイドル部隊でございます」
その話をしている中360名から成る部隊の先頭が寒川に入ったとこちらにも伝えてきた。

林は相州一ノ宮の寒川神社の脇を流れる小さな川の近くにある本営に入った。
「まだここにいるのかい、敵はどのあたりだ」
「この先に殿部隊がいるそうです」と先ほどらいの各隊の編成と場所をこの付近の地図を開いて確認しあった。

それには目印として町や建物の写真も添えられ厚木を三方向から囲み八王子方面に向かわせる作戦を確認した。
「やはり勝さんは鋭いな、恭順といいながらも一翁さんや松勘と組んで先々の手を打つなんて俺みたいにただ戦うだけではいかんと言うことがわかりましたよ」
土方は林にそのようにいい明日の作戦の打ち合わせを綿密に行うのだった。
「今頃厚木では町の噂で俺たちが参方から厚木を取り囲んで攻め込むと噂を流しているころだろう」
「えっ、そんな情報を流して夜襲をかけられると面倒ですね、寝ずの番でも歩哨を立てますか」
「いやそちらは連絡員のうち馬に乗れるものが100名ほど先にいるそうだ。戦になれば皆印物をつけて先導してくれるということだよ」
「ほうそんなことまで指令がありましたか初耳です」
「俺も此処に付く少し前に指令書が着いて読んだばかりだよ。今回のは焼かなくてよいというのでもらったよこれがそうさ」
其処には連絡員八番と記してあり、時刻は3時10分と印があり其処から先になにか書いたあとが残りきり取られていた。
「此処はどうしました」
「これは俺の名前と俺の時計の時刻を書いて渡した跡だよ」
「愕きました、鳥羽に伏見のときもこのくらい綿密にやればよかったのですがただただ数を頼んで突進したのが間違いでした」

「それで明日だが出来るだけ兵の損耗を押さえて相手を厚木から押し出すことさ、押して来たら退いて、別の部隊が挟み撃ちにするこれと同じように出来るだけ自分たちだけで魁をしないことだよ。そいつが一番戦で難しいことだと大鳥さんとも木更津で何度も打ち合わせたことだよ」


20日19時 厚木

そのころ海老名の殿の薩摩兵も川を渡り厚木の町で休んでいた。
「大村参謀なぜあそこで引いたのです、われわれだけ残して別の道を行くのはあんまりでしょう」
「馬鹿を言うな、退くとはなんだ。総督も賛成されての作戦である、駿府からの援軍が来るまで兵の損耗は押さえねば成らん」

「それではわが薩摩兵のみ突出したまま置き去りで、それが作戦でごわすか。呆れた作戦でごわんど」
「腰でも抜けたか。わがほうにはそんなことで文句などつける兵はいらんと総督に申し上げようか」
「あんまりな申しようで御座ろう。戦で腰が抜けるなど薩摩にはおりもさん」

「まま、お待ちなさい、仲間割れしては相手の思う壺でござります」
大村藩の渡辺がそのようにとりなし、海江田の腹の虫も少しは落ち着いたようだ。
「それで伝令は戻りましたか」
「いや小田原に上陸した兵がわがほうの後をつけてうろちょろしているので、戻れぬみたいだ。何小田原の藩からは兵を連れては来れなかったようだから、駿府からの兵が箱根を越えてくれば挟み撃ちだよ」

そのようなやり取りをしている部屋に町の情報を調べに出した士官が戻り「賊軍は三方から厚木を取り囲んだ模様です」
付近の見取り図を町の者に書かせた戸板に印をおいて説明を始めるのだった。
「どうやら町の者たちも戦が起きそうだと近在に避難を始めだしました。夜襲がありそうだと申して早々と町を出るものが後を引きません」
「そんな度胸があるものか、高々鳥羽伏見の生き残りの寄せ集めだろう」
「しかし先ほど藤沢でガトリングが街道の真ん中で火を噴いて居りましたぞ」

「あんなもの大八の上に銃を並べただけのものと同じだ、恐れるほうがいかん。第一あんなんが畑やでこぼこの山を抜けて動けるものか」
「それもそうか、追いかけてくる気配が無いのは戦力が少ないからかもしれん」
「江戸だってもぬけの殻だろう早く此処を切り抜けて甲府の板垣や伊地知と合流して江戸を攻めるべきだ」
「では向こうへは使者を出されましたか」

「ウム、ここについてすぐ合流点は八王子と出してある、向こうからの援軍は無用とも申しておいた」
「それは良いですが総督ほかお公家さんたちは戦闘の邪魔ですから先に千名ほどつけて先行させますか」
「ではこれから相談に行って明日夜明けに部隊を出そう」

参謀室から出た大村の背を睨んでいた海江田はどっかと腰を下ろして腹が減った何か食わしてくれと従兵に言って白湯を飲むのだった。
大総督宮からの返事は下参謀から伝えられた。

「明朝夜明けと共に上席参謀が兵二千と共に宮をお守りして先行いたします。
厚木を出て日野に至る街道を後からの追撃をかわしつつ八王子までこられるように大総督宮からの伝言で御座います」
そういう若い宇和島出身の下参謀の顔からは血の気が引きいかにも気に入らんと言う風情だった。

「してどこの兵が上席参謀と共に宮を守るのだ」
「長州の兵を含めて上席参謀と共に来た兵すべてです」
「ナンじゃ、肥後に芸州、薩摩は後からこいか」

「わがほうの宇和島も大洲も阿波も居残りで御座います。戦が怖くて居残りが嫌ではありません。参謀局の意見を無視されてはどうにも成りません」
「それはどういうことか」

「海江田さんたちが到着する前に私たちも遅れた兵の収容に寒川でとどまると申しましたが受け入れられずここでも町の外で野営を張って敵の進軍を食い止めるべきと申しました。しかし上席参謀が自分は宮から作戦指揮をおおせつかっている。自分の意見は宮の意見であると強引に町に入り込み町から食料、軍用金まで調達しております。これでは官軍としてあまりにも情けない」

涙を流すこの若い下参謀の意見ももっともで敵を食い止めるどころか江戸に入るための作戦だとばかりのごり押しには海江田も言葉を失って居た。
「上席参謀は勝手にやらせよう、それより町の手前に小隊規模で6方向を選んで歩哨を立てよう。一刻交代でいまから夜明けまで交代勤務じゃ。宮が出た後30分後に寝ていない歩哨部隊を先に後を追わせる。その後30分後に順次出発させよう。その組み合わせは渡辺さんお前さんの役目だ」
飯を食いながらも海江田はそのように指示を出し下参謀は早速渡辺と相談して伝達のために出ていった。

「海江田参謀、総督宮も京の岩倉卿も共に徳川寛典論だそうですがどこでひっくり帰ったのでしょうか」
「西郷先生のそばにいた君なら知っているだろう、先生の本心は徳川を許すつもりだと」
「はいそれは、徳川を半地から100万石程度で残すという話でした」

「そう半地と言うのはもう無理だが実は徳川の領地を取り上げた分から新政府をまかなわなければ金が無いのだということさ、出来るだけ取り潰してしまおうというのは一部の人間の言うことさ。坂本たちも言っていたが皆平等に生業を成し遂げて国に奉公する、だからそれには武士も農民も無い平等の世の中を目指すべき、それには徳川はつぶすそして各地の大名も平等に天子の下で一町民として領地を返上しなければいかんと言う意見でごわした」
「それなんですが、そんなにうまく藩を返上しますか」

「しなければ成り立たない藩が多いだろう、と言うのが西郷先生、大久保先生の意見だ。しかし坂本君、西郷先生亡きいまそれは机上の空論でしかないかもしれん」
「五箇条の御誓文によれば上下心をひとつにしてとありその趣意が貫徹できれば行えるのではないでしょうか」
「しかし岩倉卿みたいに越前や宇和島には慶喜寛典といいながら徳川取り潰しと言うことを申すからな」

「それなんですよ、弟の登が心配していますが、田安亀之助の宗家相続は慶喜の意思と違うので認めない。お家取り潰し、江戸城明け渡し、領地召し上げではこの戦の収まりは付かないでしょう」
佐賀の下参謀に出ている若い武士も「長州のものは盛んに錦旗がでた以上逆らうものは朝敵だから殲滅すべしでは自分たちに置き換えてみれば最後まで戦うものが多いのは当然です」
「それは、大村の前で言うなよ、あいつは前にも幕府もほかの藩も寄せ集めのガラクタ兵ばかりだから一気に押し出して叩き潰せば済むと考えてその気で人を使う節がある」
二人は夜遅くまで明日の作戦を話しながら連絡を待ちあまり寝ている暇も無かった。

一.広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ。

一.上下心ヲ一ニシテ盛ニ経綸ヲ行フベシ。

一.官武一途庶民ニ至ル迄各其志ヲ遂ゲ人心ヲシテ倦マザラシメンコトヲ要ス

一.旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基クベシ。

一.知識ヲ世界ニ求メ大ニ皇基ヲ振起スベシ。

我国未曽有ノ変革ヲ為サントシ,朕躬ヲ以テ衆ニ先ンジ,天地神明ニ誓ヒ,大ニ斯国是ヲ定メ万民保全ノ道ヲ立ントス。衆亦此旨趣ニ基キ協力努力セヨ。

この14日に出された五箇条のご誓文はすぐさま大総督府まで届けられていた。
有栖川宮は徳川寛典論だがそれはいま封じられようとされていた、三条、岩倉はもう自分たちの立場が薩摩、長州の後ろ盾で磐石と思い出したのか盛んに東海道軍、東山道軍、北陸道軍に督促の連絡をよこして江戸城接収を急がせていた。正親町三条実愛卿も過激で知られていたが二人に押されていまはその意見を同じように言わなければ自分の立場が無いところまで二人に操られていた、本来この人が薩摩と結びつき岩倉を引き立てたのだがその影響はいま小さくなっていた。
土佐の後藤はブレーンの坂本が居ないいま大久保に操られていたし、木戸は病がちで、小松も大久保に逆らわず総裁局は三人の思うままであった。
広沢は木戸がいないとやはり岩倉に操られてしまっていた、前は自分たちが三条、岩倉を使っていたとばかり思っていたのが逆転して、公家の力が強くなりすぎていた。
その意思を大村は督促をかねて出てきたのだった。

 


3月21日7時 甲府
甲府では、八王子から戻った伊地知と板垣がこれからの方針を話し合っていた。

「中仙道の部隊は沓掛に本営を置いたそうだが、大村が負け戦でこちらに来るという連絡が入ったが」

「それだが、大して数もいない軍勢に何をしているんだとしかいえんな。海江田さんからも連絡が来たが、大村自身は戦闘に加わらずに逃げたとまで言っている」

「逃げたは大げさかもしれませんがどちらにしてもあまりにも徳川への処分がひどすぎます。それでは脱走した軍を勝が呼び戻して反撃に出たとしか思えません」

「しかし徳川の兵は弱かったはずだ、海軍はともかく陸軍がそんなに強いとは信じられんよ、海江田さんの報告では鈴木君が戦死少なくとも100名は戦死してそれ以上の重症者を連れてくることが出来なかったということだ」

「あの人たちが散々にやられるなど普通ではありませんよ。不意打ちを食ったわけではないということでしたし、それよりも、八王子方面に逃げてきた江戸の者たちの話を聞きましたか」

「おお聞いた、何でも俺たちを江戸に入れた後、周りから町ごとやきつくしてしまうという話だろ。田安亀之助は佐倉に勝と大久保が付いて退いて江戸を空にしたという話だろ」

「こちらも人を出していますから明日、明後日には戻って真実かどうかわかると思いますから私がここに残り後詰をいたしましょう」
「そうしてくれ、兵はどれだけ残す」
「土佐の兵八百がいればここは大丈夫でしょう。西国諸藩から銃がそろい次第五千名の兵が出てくる予定だそうですから、箱根を越えるにしても中山道を通るにしてももうしばらく時間が必要でしょう」
「ではこの伊地知が残りの三千あまりと明日八王子まで宮をお迎えに行きそこでその後の作戦を協議の上こちらに伝えよう。およそ万を数える精鋭がそろえば互角に戦える部隊等どこにもいやしない」

「そうしてください、沓掛の部隊にも高崎から南下させて桶川か川越まで来させよう。勝と亀之助の首を取ればそれで終りですよ」
その連絡が中山道の部隊にとどく前に早くも上州に入った部隊は近くの藩に対して帰順命令を出していた。

3月21日5時 厚木

朝早く静かに出発する兵で街道は混雑していた。追いかけてくる兵は無く見えぬ影におびえるごとく次々と出てゆく軍勢を寅吉たち連絡員はその陣容を川越しに遠眼鏡でのんびりと見ていた。
「そろそろ全軍が出て行くころだな」

「はいもう直に殿(しんがり)の薩摩の兵が出てきます」かわるがわる見張りに出ていた者から連絡が入り乞胸たちが次々に各部隊に連絡に出ては帰ってきた。

「それぞれの部隊は追撃をせずに入れ替わりに三方向から厚木に入るようです。太田様と松平様が兵三百と町に入りそのほかの兵は町の先に陣を張って備えをするそうです」

「そうか指令書どおりにしてくれるみたいだ」
「そんなことまであの指令書には書いてありましたか」
「そうだよ、出来るだけ追撃は避けること。相手と五里以上距離を置くこと。策敵行動はせず連絡員の報告を待つこと。これを守ってくれていればこちらの損耗は少なく相手を疲れさせることが出来るのさ、今日の戦の一番の手柄はお前さんたち乞胸と長吏の人たちのおかげだぜ」
「寅吉の旦那にそういっていただくとこのみつきの苦労が吹き飛びやす」

「気をぬかねえでくれよ。下野牧に追い込むまでは俺たちのお役目だからよ」
「任せてくんねぇ、おいらたち200人が各地に散って必ず相手を川越から下野牧へと江戸を迂回させて二月以内に追い込んで見せますよ」
「じっくりといこうぜ。相手があせって急いで動かれてもこちらの兵隊が動くのが遅れては元も子もないからな」

「大丈夫ですよ、脚をとめる手立ても考えてありますから」
「そうかい、お前さんたちの知恵を期待しているぜ」
また人が入れ替わり殿の兵も追尾されていないと気が付いたらしく安心して油断が見えるという話。
「その話を松平様のほうにしてきたかい」

「はいそうしましたら騎馬の威力斥候部隊にWinchesterを持たせて相手の後ろから連射したらすぐ帰れと命令して居りました。それでその後300名を万一のために30分だけ前進して帰りを待て、何があっても相手が追いかけてこない限り30分待って帰ってくるように厳命されていました。命令違反は厳罰であると土方さんに伝えておられました」

「マァ良いか、どうしても土方さんは相手に恨みがあるからな」
「さいで、上方と甲府では新選組も散々でしたし、あの時は土方さんの言いつけを無視した結果ですから」
「オオよく知っているな。そういうことだ、少しは懲りていれば幸いさ」
「あのときにはあっしはお供しませんでしたが、ガンキの弟たちが弾左衛門様の言いつけで付いてゆきました。土方様の言いつけをまもらねえものが多くて笹子峠を越えようというので逃げ出したそうで」
「逃げて正解さ、行っちゃいけねえと言う命令を無視するほうがいけねえのさ。そのおかげで徳川の兵は弱いという評判でこっちは戦いやすくなったけどな」
其処へ馬をガンキに引かせて松本先生がおいでになった。
「良順先生、部隊のほうにいかなくて良いのですか」
「戦がまだ起きていないらしいから俺の出番は無いらしいよ。松山と大沢の二人に包帯や傷薬を持たせて黒鍬の工兵に渡すようにしておいたから帰ってきたらどこかで飯でも食おうか、お前さんのことだ何かうまいものでも用意した場所を確保してあるだろう」
「先生に会っちゃかないませんな。芋や鶏肉の鍋くらいしかありませんぜ」
「それと飯に酒があれば良いよ」

「酒ですかそいつは残念だ、ビールしかありませんぜ」
「それで良いさ。藤沢近辺の戦闘でこちらは8名死亡で15人が軽症、歩けぬ重傷者は5人だが、相手は80名の死亡と残された重傷者が230名こいつは藤沢で治療所を開いて収容してきたし氏名のわかるものは荼毘にするようにしてきたぜ。医学所から10名の応援を呼んで敵味方関係なく治療させているよ」

「そいつは良いことでござんす。こちらの様子はお聞きになられましたか」
「何でも殿を脅かしに行ったそうだな。深入りをしなければ良いが」
「それですよ、勝先生も心配して居りましたが、今回ことが守られるならこの戦は必ず勝てますよ」

そういうことだな。命令を聞かない兵では戦は勝てないからな」
そういっている間に二人の医者が戻ってきたので、食事の支度をしている百姓の家の庭で時ならぬ宴会が朝から始まった。
その間にも人が出入りして情報を伝えては飯をかき込みまた出て行った。

小田原と箱根は磐石だそうで駿府も勝先生の行動に賛意を表して街道を閉ざして厳重に調べて不審者を通さぬ構えだそうだ。
名古屋でも異変に気づき京に早馬を出して指図を仰いでいた。
小田原から魚の干物を大量に買い込んで越させたのでこの家の婆さんにたくさん分けた。

「あれすまねえだね。コタさんの旦那は気前が良いね」
「よせやい、庭や畑を踏み荒らした侘びだよ」
「そんなら、こんど横浜の土産でもねだろうかね」

「良いとも、婆さんのように様子のいい年寄りにねだられては無視も出来ねえよ」
「それは褒めているだかね」

「そうだよ、此処に本陣を置かせてもらって飯を食っていられるのも、婆さんのおかげだよ。家の者たちも明日には帰ってきて大丈夫だよ」
「そんなら戦は起きないだかね」

この様子ならでぇ丈夫だよと寅吉に言われて家に入る婆さんは世の中に怖いものなどない様子だ。
「たいしたもんだな。人間も年を取るとあのくらい物に動じなくなるんだな」

「そういうことのようですね。人生の達人とでもいうのでしょうか、田舎の婆さんとは思えぬしっかりしたものです」
この家は厚木の町からはだいぶ離れており火を焚いても向こうからは見えぬ二里ほども離れて居り、岡と相模川が間にあり逆川といわれる川が入り組んだ谷間にあった。

前にこのあたりに来たときに土地の古老が話してくれたところでは「いまの薩摩の島津様は鎌倉の御家人だそうで、この付近に領地がありご家中のご先祖はこのあたりのものが多い」と話してくれた。
そういえば鎌倉の御家人の流れは毛利も同じで故郷とも言える東国を目指しているといえば言えなくもないのだ。

3月21日10時 江戸

アーネストサトウは勝を城中に訪問していた。
「勝さん昨日の戦いは勝利したそうだが、あなた方は恭順の意思を捨てて内乱に持ち込むおつもりですか」
やや強い口調でMr.サトウは勝に詰問した。

江戸から田安慶頼と松平確堂が付き添って家達が佐倉に移動したことも知っているようだ。

藤沢次謙が付いて兵600名が周りを固めて街道を進み、21日の佐倉では藩主の正倫が兵隊と共に街道に整列して城中にお迎えをしたのだった。
「イギリスや、フランス公使は中立と言う立場に変わりはないのだろ。Mr.ヴァルケンバーグも同じ立場で見てくれるだけと請合ってくれたぜ」
「それは日本の国内の問題にはわれわれが干渉しないということで、あなたが恭順の道を捨てて天子の軍と戦う理由は何ですか」

「前上様がなくなり罪もない幼い幼君に対してお家が取り潰し、身はお預けではあまりにもひどい仕打ちではないか。よしんば貴国がこの立場にたって考えてみよ、クィーンに非があり位を譲ってその後継者に罪があるから国を明け渡せといわれて、そのまま国を明け渡す国民が居るのか。前上様の恭順が難しい国内問題にひとつの光明をさしかけたが、大総督宮に対して京からの指令であると、大村上席参謀があくまで江戸の徳川家の存続を許さずと書面で退去謹慎を言い渡され、即刻江戸より立ち去れという、そのような理不尽な要求には従えない。われわれは京の岩倉、三条両公の退陣と大久保、木戸、後藤、三氏の退陣を要求して戦っている。全国の賛同者に対しこの戦が終わっても賞典はなく、国を挙げての挙国一致政治局の創立と天子の下すべての民が共に国のために役立つことを目的とした政治を目指している。したがって徳川の家も亀之助殿改め家達様の元で30万石程度あればよいと考えておる。その他の家臣はそれがし勝も大久保も市井の一人として御国の役に立とうと考えておる」

「それで軍資金はあるのですか」

「小栗さんの時代にフランスからの借款は壊れたが、ロシアが貸そうといってきたがそれは断った。自らが丸裸になってもと言うものだけで戦っており、賛成できないものはいままでの知行地に赴き帰農はもとより、われわれと直接敵対するも、西軍方についてわがほうに挑むも自由と申し渡して残った兵で戦う所存である」

「駿河三河遠江伊豆の各地は徳川にお味方と決まったようだが、尾張、紀伊は西軍と気脈を通じたままだそうだがそれでも勝算があるのか」
「詳しい事はいまもうせぬが、わが軍が東征軍の街道軍、山道軍を撃破したときに大勢は決まり家達公と我々が国を支配することがないと得心が行くだろう。全国にその意思が通達されたときこそ新しい国づくりの第一歩が始まると考えている」

「それでは其の時の国の指導者は誰か決まっているのか」
「もちろんそれは祐宮睦仁親王すなわち天子である。しかし天子は君臨しても統治はせず政治総裁と参議が各地の大名とその代理人から互選されるべきである。しかしその下に総裁局として軍事と民事そして外事の司法官を置き其処には実際の仕事が出来るものを全国から集めて新しい国づくりを行い決して位階家柄で選ぶ事は無い」

勝はこの戦で勝った後も諸侯会議による互選による政治上局と、実務を行う下局による政府が出来ることを望んでいたしまたその方策も寅吉や榎本とも幾たびか話してイギリスの仕組みやアメリカの仕組みを日本にあった仕組みにしようと考えていた。「前に伊藤から聞かれたことがあるが、勝さんたちは議会政治を目指さないのか」

「いまはまだ民間の民が其処までの教育を受けていない。日本と言う国の土台が出来るいまから20年30年先を目指して議会による国の運営を目指すためにも天子が直接統治する事は避けなければならない」

「しかしそれでは大名を無くすと言うことに繋がらないのか、それに尊王の志士たちは天子の直接統治がない君たちの説に賛成するだろうか」

「それは大久保一翁も春嶽公も以前から建白しておるように徳川も領地を返上し天子の下で共に国の礎となることを確認している。幸いにも前上様が生存中に徳川は一万石以上のものはすべて同格の大名であるとして主従の関係を絶っているので旗本が残るだけである。先ほどももうしたように戦いに勝っても昇進も褒章もない、しかしもとの徳川の領地いまは朝廷に没収されている関西の200万石にさらに150万石程度があれば旗本の採用による国家の要員による仕事はなくなることは無いはずだ。天子の直接統治と言うが天子一人の独裁政治と言う事はわが国の現状からして不可能である」

「幕府の事務から国家の事務と言うことですか」
「そうだ、しかしそれには仕事の出来るものを選ぶ目が必要だ」
「その選ぶための人も決まっていますか」


「決まっている。しかしそれは今言うべきときではない。それはこの勝でも大久保一翁でも矢田堀でもないし松平勘太郎然りである。今上州で帰農したいという小栗さんに対して至急江戸に戻るように使節を送っておる、彼が戻ればその人材の選ぶ目の確かさから公平な人材を選び出せる一人となるだろう」

「戻られますかね、私たちが入手した情報では上野は恭順が決まり総督府側で小栗の居る辺りからの脱出は困難だそうですよ」
「愕いたな、その通りなんで困っている。野州はこちらで押さえているが高崎藩はまだ日和見をしているが、こちらも其処まで軍隊を送る余裕がないのだ。野州から軍隊を動かすのにはまだ時間が必要だ」

「野州とは下野のことだな」
「そうだ上総関宿から北方の宇都宮、日光と那須野付近はこちらに賛同してくれた。会津に越後が賛同してくれれば仙台もこちらに付くだろう。後は信濃だがこいつは当分難しいだろうな」

「そうすると名古屋から信濃を通って応援軍が関東に入ることになるのか何かおかしいな、そうか勝さんあんたは大した軍師だな」
「ほめてくれてありがとうよ」

「そうかそれで江戸をモスクワでナポレヲンを破ったように燃やしておいて袋のねずみと言うことか」
「そういうことさ」

「しかしそううまく江戸の町に入ってくれるのかい」
「そいつはどうかな、そのときは別の手も有るさ、横浜に戻ったら考えて見なさい」

「そうしよう、われわれも恭順した徳川をこれ以上追い詰めてはいかんという意見でしたし。今横浜の公使領事は大坂に向かっていて向こうでどのように対応するのかいえませんが、あくまで中立の立場は崩しません。あなた方が交戦の発表を各国に通知して改めて中立の遵守を求め、これは国の中の改革のための蜂起であると表明した事は良いことでしたとしかいえません」

「ありがとう。早速佐倉の家達公の元にも通知を出しておきます」
サトウは夕暮れ前に城を発ち高屋敷によって品川から船で横浜に戻った。

3月22日11時 仙台

仙台藩主伊達慶邦は但木土佐を従え松島の観瀾亭を訪れていた。

奥羽鎮撫総督九条道孝に拝謁した慶邦は会津討入を命じられるが、副総督沢為量、参謀の醍醐忠敬、下参謀の大山格之助、世良修蔵達のその強圧的な態度は慶邦付の仙台藩士の反感を買うに十分だった。

 


3月22日7時 相模湾

朝から南西の風が吹く波の高い日だった。
伊豆沖から島の指揮する征討軍の艦隊が小田原の城下を目指して風に乗って北上してきた。

大島の影に居た蟠龍と朝陽はいち早く見つけて最後尾の船の後ろにつけることにして大島の影に回りこみ最後尾から追跡を開始した、乾行艦も追いかけてくる軍艦に気づき前の艦に盛んに信号を送るが帆船群を置いて逃げ出すわけにも行かず届かぬと知りながらも砲を後ろ側に向けて打ち出して注意を向けさせていた。

敵が初島を通るころには蟠龍が追いつき砲戦を開始した。
その砲声は小田原沖にも届き、機関の火を絶やしていなかった三隻は開陽と富士山、回天の順に並び初島を目指して南下を開始した。
榎本は春日だけは逃がしてなるものかと、船影を自ら探すかのように双眼鏡を覗き込んでいた。

「榎さん何艘位来ますかね」
艦長の沢に訪ねられ「運送船を含めて十隻と情報が入ったが、戦艦が先に来るなら五隻くらいかな。だいぶゆっくりとしているところを見れば帆走で此処まで来たかも知れんな」
「こちらを甘く見られているうちに殲滅しておきませんと厄介ですね」

「そういうことさ、ストーンウォルが横浜に入るだろうがそいつを引き渡してくれるかはよくわからんからな」
見張り員がマストの上から敵が蒸気を焚き始めたと怒鳴る声が榎本にも直接届いた。

「すぐにも戦闘開始となるだろうが、普段通りの動きが出来れば大丈夫さ、必ず敵を陸との間におくように出来るかが勝敗の分かれ目であろうさ」
榎本は興奮を押し隠すかのように大砲の間を回り、最初の一発は号令があるまで待て最初にガトリングを撃つからその後各自狙いを定めて発射、その後は各自の判断で装填しだいぶちかましてやれ」

船首には昨日届いたばかりのガトリングを操作する春木常太郎とその分隊にも声をかけて其処に陣取った。

「最初の一発は自分がここで指揮をするから号令がかかるまで撃たないで待機だ、船のすれ違う速度が速いから懸命に回して船尾が見える前に一度打ち方をやめてくれ、その後は出会う船に弾が届くところと判断できたら、春木君にすべてゆだねる」

最後尾の乾行艦は北郷主水が指揮をしていたが蒸気は焚いていても、帆船の海岸に向けて逃げだすまでがんばり蟠龍に帆船への攻撃が出来ないように航行していた。
東から蟠龍と朝陽2隻に並びかけるように砲撃されてなすすべもなくマストを折られ舵も聞かなくなって手石島の岩場で座礁してしまった。

艦長以下本田や沖が盛んに砲撃を仕掛けたが火薬庫に火が入ったか愕くほど大きな火柱と共に吹き飛んでしまった。
砲の搭載していない帆船は伊東に逃げ込むしかなく乗り組みの兵を下ろすためにあわてて砂浜に乗り上げるのだった。
蟠龍が残りの帆船群に砲撃をして脅しをかけると全員が陸に逃げ出し船には火を放ったようで次々と黒煙が上がった。

春日と丁卯は前から来る三隻の黒煙を認め目一杯の速度で勇敢にも突撃を開始した。
孟春丸に乗っていた海軍先鋒の大原卿は「船を回せまわせ」と叫んでいた。

船は確かに舵を効かせ船首を初島に向けて二隻の追跡してくる船に対して初島を回り込む形で頭を押さえるかのように進んだ。
「違う違う、外洋に出てのがれるのだ。麻呂を殺すきか」

中牟田はその声を無視するように乙丑丸と共に朝陽に襲い掛かって行った。

10ノットで進む開陽は敵艦まで二海里に迫り開陽で榎本は号令をかけた「両舷、砲門開け」共に煙突から吹き上げる黒煙の中、春日は風上から猛スピードで開陽に迫っていた、沖に出る余裕はなく開陽に真鶴岬との間に押しこまれる形となり、あわてて開陽の行方をさえぎるかのようにStuurboord を切った。

開陽まで一海里を切り共に砲門を開いている様子が見えたところで併走するかのように見えたが沢が「Stuurboordいっぱい」と号令をかけ此処でミズンマストに帆を張るように命令した。
榎本は「沢君もなかなかやるわい」と嬉しそうにうなずくのだった。

思惑が外れたが速度の違う春日と併走しても置いて行かれるのを沢が気づいて取った面舵だった。
岬側に入った開陽から榎本の号令で春日とすれ違い様にガトリングを春木が操作して船べりをなぎ払い同時に両艦は砲戦を開始した。

双方の距離は2丁ほどで至近弾が榎本の近くを掠めて船を通り抜けていったほどだった。
それこそあっという間にすれ違い、開陽は右手に初島を見ながら沖を蟠龍に向かうために回頭して裏帆を打って苦戦している乙丑丸を射程内に追いすがって砲撃し帆をずたずたにしたが、榎本は「もっと下を狙え、喫水すれすれを狙え」と声をからしていた。

ようやく並びかけるところまで来た開陽の大きさに愕く水兵の顔までが見えるところに片側一斉射撃で船はずたずたになってしまった。相手の弾もこちらへの被害があったが続けての射撃の後沈黙した上、機関も帆も役に立たず海上を漂うだけとなった。

春日が反転しようと回っているところに富士山と回天が追いすがり盛んに砲撃をするが五丁ほどの距離があり効果はなかった。
丁卯はその大きさゆえか、回天も富士山も目標が定まらず命中する砲弾はなかった。

其処へ乙丑を沈黙させた開陽がのしかかるように近づいて砲撃をしてこれも初島に追い詰めて岩場に座礁させることに成功した。
しかし体勢を立て直した春日と孟春に前後をはさまれてしまった開陽はアームストロングの砲弾を立て続けに受けたうえ横波をまともに受けて座礁していた丁卯にのしかかるように座礁してしまった。

敵討ちとばかりに回天と朝陽が前に立ちふさがり、初島との間に孟春を置く形に縦列ですれ違い瞬く間に船首のアームストロングを沈黙させた。
座礁した開陽からはガトリングが孟春の船首からトップマスト付近の兵をなぎ倒していた。

逃げ場を失った大原は艦長の中牟田に白旗を掲げさせ機関の動きを止めた。
開陽からボートが下ろされ榎本自らが孟春にやってきた。

参謀の島が出て大原卿が乗っていることを告げ、中牟田と共に刀を下において恭順の意を表わした。
春日一艘は追いすがる富士山、蟠龍を寄せ付けず南に逃げ延びていった。
拿捕された乗組員を富士山に収容して小田原に向かわせ、残りの船で開陽にロープをかけて岩場から引き離すのだった。
運送船からは兵隊が伊東に軍艦からは初島にとそれぞれが上陸していたがそれに構う余裕もないので火薬庫へ火を放って丁卯を爆破した。
乙丑は白旗を掲げ其処に停船して戦意を失っていた。

3月22日17時 小田原

回天に引かれて乙丑は小田原まで来て乗組員は陸に上げられて捕虜となった。
思いもかけない勝ち戦に浮かれる乗組員に榎本と沢は不機嫌だった。

「春日に逃げられては元も子もありませんな。誰が操船しているのかあそこでStuurboordを取られるとはおもっても居ませんでした」
「仕方ないよ、あっちは追い風で勢いが付いているがこちらは機関の力しか使えなかったからな。それにしてもトップマストの裏帆を打つのを待っていたがうまく操船して回頭するのに時間がかからずに戦闘に戻られたのには参ったよ」
「修理にだいぶ時間がかかりそうですね」

「マ、春日一艘で江戸湾や此処に殴りこみもかけられないだろうから、大坂に戻って陣容を立て直してくるには一月はかかるだろう」
「その間にスト−ンウォルが来てくれると助かりますね」

「塚本君を艦長に予定しているが今頃首を長くして太平洋を眺めているだろうな」
やっと二人の顔にも笑みが戻りこれからの打ち合わせと戦果の報告に小田原藩から早馬を出してもらうために陸に小型蒸気船で榎本は向うことにした。
捕虜となった西軍の兵士のうち大原卿始め主だったものは富士山で横浜に向かうことにして士官と水兵は小田原藩であずかる事にしてもらった。

早馬が横浜と江戸に戦果を報告に飛んで出て、第三艦隊の残りの三隻を交代のために小田原に向けて出航の手配も行った。
結局敵味方の軍艦が相模湾を三崎に向けて出たのは翌朝の4時ごろだった。

浸水激しい開陽はやっとのおもいで小田原まで来たが修理も此処ではおもうように出来ず回天に付き添われ横須賀に向かうことになった。
朝陽と蟠龍は引き続き代わりの船が来るまで此処に残り、孟春は乗組員を分け合って榎本が乗り込んで乙丑を引いた富士山と横浜に向かった。
小田原藩では根府川の関所を閉めて陸に上がった兵の侵入を防ぐと共に無駄に追討をしないことにした。

そして桃井指揮する兵のうちからSnider隊の200が箱根を越えて沼津の応援に向かった、陸に上がった西軍の兵を伊豆から出さないための処置であった。
後にこの兵の内300名と水夫110名は沼津にたどり着き此処で降伏し、小田原に送られた。

初島に上がった二隻の船の乗組員は小田原藩が差し向けた船の呼びかけに応じて降伏して横浜に送られた。
下田に向かったものは其処で奪った船で脱出に成功していた。

3月22日22時 横浜

横浜警衛隊の京極の元に小田原からの早馬での報告が入り急ぎ林の元に急使が送られて戦果の報告をした。
太田の元には小田原からも早馬が来ていて横浜からの連絡より先についていた、林はその使いが横浜の様子と物資の到着予定表も運んできたので早速参謀会議を開き厚木から前進することにした。

京極はそれぞれへの手配と横浜で大原卿ほかの捕虜を預かるかを勝に尋ねる使者を送った。

3月23日早朝 仙台

奥羽鎮撫隊は長州藩桂太郎率いる七百名が仙台に入るために船で送られて伊達領に入ってきた。

3月23日7時 橋本
厚木から本営を橋本に移した防衛軍は林が海軍の勝利の報告を受けて各隊にもその戦果を報告してありすべての兵士がそのことを知っていた。
そのときには集まった部隊は補給部隊も入れれば三千六百名以上に膨れ上がり橋本の先には扇形に銃隊、砲隊が交互に広がっていた。
一時横浜に戻した半分の隊も大砲部隊も新たに充実した陣容になっていた。
各地からの応援部隊も銃の配給を受け急遽、木更津、下野牧で大鳥の元で訓練を受けていたのが此処にも送り込まれてきていた。

本営は軍団長の林昌之助の下で一小隊八十名のSnider隊が五隊四百名。
騎馬の士官が四十名Winchester M1866カービン8連発の突撃隊を形成していた。
(エンフィールド隊二小隊は藤沢に残されていた。)

先鋒隊には丸子大隊と砲兵隊で五百名(指揮官 福田八郎右衛門)、大手町大隊と砲兵隊で九百名(指揮官 秋月登之助)になりそれぞれが橋本を囲むように散開していた。

第一先鋒軍三百名の松平の元からは騎馬の威力偵察隊が片倉まで出て八王子の軍の動きを見張っていた、馬も此処には百六十頭が集まってきていた。

田名陣営が最後尾で掛川藩太田資美の指揮する三百名のWinchester 部隊と本田幸七郎の小川町大隊の七百名のSnider部隊、合計千名がここにいた。
本田も太田も前に出たがったがこれは林が許さなかった。

合議のときに「太田さん、あんたの部隊の活躍は勝さんも言われて来たようにまだまだ先だよ。順次馬が届くだろうから騎馬戦の訓練を怠らないでください」
そういわれて資美は引き下がらずを得なかった。

太田の元には同じWinchesterでもM1866 Turkish infantry隊百名、Yellow Boy隊百六十名それと騎馬隊のYellow Boy隊四十名で構成されていた。
イエローボーイ隊のうち八十名は騎馬での突撃訓練を受けて居りいつでも騎馬隊に編成できるのだった。 

最初寅吉から買い入れたYellow Boy百挺に加え勝からの指示で送られてきたWinchesterinfantry二百二十挺とYellow Boy百二十挺それと今回はつれてきていない国許の防衛のために佐々木が指揮するM1866 Carbine部隊の百二十挺が加わり訓練を続けていたものだった。

この銃で組織された軍はこの時代アメリカ騎兵隊のほかにはなく、この戦が起きるかもしれないと考えた勝と寅吉が考えた最新式の銃の威力による戦いの早期終結のための切り札だった、すべてで五百六十挺にも上るWinchesterは薩摩の兵のスナイドル部隊スペンサー部隊が出てきたときには威力を発揮できると考えたものだ。

掛川一藩ではこれだけの兵士を養成するのは無理だし、いくらなんでも西軍の進撃してくるときに隠せるものでもないので安房小湊での信太や阿部邦が密かに掛川藩からの士官と共に養成していた兵士だった。

勝は西郷の死を聞くと寅吉がチャーターした船で四百名のWinchester Rifleの部隊を掛川に送っておいたのだ。
これは稲葉正巳の協力で出来たことだった、正巳は昨年京に出るときに和戦両方の備えと言う勝の懇願に協力していた。
木更津にも近い椎津の鶴牧藩でも林と協力して訓練を受けさせていた。
勝はすべての薩摩兵が出てきたとの情報をいかに早くつかめるかがこの戦の鍵と早いうちから考えてきて出来るだけ早い機会に西軍の軍艦の殲滅を榎本に指示していた、もし五万とも言われる薩摩兵のうち最新式銃で装備されたとおもわれる、スナイドル、スペンサー部隊が出払った薩摩に向けて全艦隊で出撃を考えていたのだ。

しかし西郷もそれを読み込んで半数の兵も東征軍には参加させて居なかった。

荻野山中藩の陣屋には六郷大隊大築が指揮する荷駄隊が控えて居り此処が糧食の集積所となり毎日のように忙しく人が出入りしていた。
六郷大隊の銃隊の半数と砲隊は阿部邦に預けて町田に駐屯していた。

町田には各地から来た脱藩の兵士が千二百名も集まりそこでスナイドル銃の取り扱いの講習を受けさせて訓練に余念がなかったし、横浜でもフランス伝習の士官が教官となって自らもChassepot をやめてスナイドルの取り扱いを習い受けて、新しく横浜に来た八百名のものがスナイドル銃の取り扱いを習っていた。
共に入隊心得を聞かされ、それに同意書を書かされた上での入隊だった。
給与はなし、恩典もなし、ただただひたすらに新しい日本の国のために働く気持ちのものを入隊させていた。

とはいえ、全軍の兵に何も出さないわけではなく寅吉が大倉屋、安田屋などと用意した物資の配給と共に七日ごとに二朱の手当てを支給していた。
各地の駐屯地においては物売りも集まってきており足りないものも出る事は考えられた上での処置だった。

その費用の見積もりは一翁が昨年来考えたて居たことは一月で一万五千両の現金一年の給与として十九万五千両と予備費として十二万五千両の三十二万両の現金を捻出するべく工夫していた。
ほかに必要な物資の金額は阿部邦に寄れば考えるのも恐ろしいという金額になりそうだった。

勝は戦を起こさないことが第一、万一戦になっても一年といわず半年以内に京でこちらに味方する西国兵による叛乱で再度三条卿等の反幕府勢力の一掃を計っていたのだ。
町田での訓練は銃の取り扱い、騎馬に騎乗できるものはCarbine銃による騎馬隊の訓練をも受けていた。

町田ではすべてが歩兵として扱われ家柄による特別な扱いはなく此処を預かる阿部邦之助がすべてを仕切っていた。
中でも優秀なものは士官として取り立てられ、分隊の指揮をするべく特別な教科も受けさせられると言う厳しいものだった。

大築は江戸と厚木を結ぶ線として町田を通り道として選び、物資の中継点として此処に200名の兵と砲兵が居てそのものたちすべてが教官となりえた。
大築には大鳥から代わりの人員が到着次第輸送に慣れた者を残し部隊とともに下野牧に入るように連絡が来て部隊長小山田を選び士官として河田と島田を砲兵隊銃隊の教官として残したうえで兵千五百と共に横浜に向かうことになった。

町田に横浜そして木更津は各地から集まる兵の訓練地となっていった。
第二先鋒軍土方は200名の隊員と黒鍬の百名が付いて共に関宿に向かい大関が指揮をして関宿藩と宇都宮藩の者と共に陣地の構築をしていた。
関宿藩では元家老の杉山対軒は脱走して西軍に加わり、木村正右衛門が17歳の年若い藩主と共に家達に従うことを申し入れて、大関指揮する部隊に加えて各地からもこの地を目指して兵が集結していた。

佐倉を守るにはこの地がよいと早くから大関も薦めて一翁が交渉したことが実を結んでいた。
関宿は水運の便もよく江戸にも佐倉にも便がよかった、佐倉には取手まで高瀬舟が使え、印旛沼には小型船でも入れることもその連絡の便利さから重要な拠点だった。
そして大村が指揮する征討軍ならば伊地知が共に立案するであろう佐倉突撃が現実味を帯びてきたいま東山道隊の中山道部隊と北陸道隊が南下するのを防ぐ重要な拠点であった。

彼らが関宿軍を牽制させて背後をつかれぬ様に一部でも其処に突撃部隊の一部の兵でも残す事は勝たちにとって重要なことになると判断した。
大原卿を捕虜とした事は厚木に居た寅吉にも知らせが京極から入り、誰に聞いても大原卿と言うのは老人のはずだが、もしかして赤報隊の綾小路卿では無いだろうかと言う意見が多かった。


3月23日16時 横浜

続々と機関を焚いた軍艦が入りその中から大原卿、島、中牟田はほかの士官と切り離されるかのように太田陣屋内に入った。
「麻呂はこのようなむさくるしいところはいやじゃ」
ほかの二人とも引き離され牢舎内に独りにされると盛んに騒いでいたが勝からの指令で誰も尋問にも牢に近づかなかった。

一方島と、中牟田も監禁はされたが別に牢に入れられるわけでもなく一軒の家でその周りを警備の兵が居るだけと言うものだった。
「これでは逃げ出すのも容易のようだが、このような待遇をされているのに逃げるというのはちとまずいですかな」
「大原卿がどこにいるかわからぬのに置いて逃げるというわけにも行きませんな。悪くとも首を落とされるのがせいぜいでしょうから」
「そうそう、まあじっとしている間には何か言ってくるでしょう」

二人の武将はさすがに肝が太く落ち着いて調練の様子を眺めたり聞いたりして成り行きに任せるようだ。
夜に入り江戸から吉岡艮太夫が別手組を率いて捕虜の警備のために横浜について太田陣屋内に駐屯した。

3月24日10時 長岡

河井継之助はコリアに乗ってスネルと共に長岡に帰藩した後、上席家老(執政)に任命された。
同じ船には松平定敬も乗っており、柏崎に藩士220名と到着した。
長岡藩では村松忠治右衛門とともに兵制改革と禄高の平均制と言う改革に着手した。
長岡藩は兵制を洋式に改め銃隊を組織し、8小隊が集まって大隊、4大隊で32小隊、小隊は三十六名で編成、千百五十二名の軍隊を整えた。

3月27日10時 横浜

勝は京から戻っていたパークス公使を尋ねて横浜に向かった。
小田原に居た蟠龍、朝陽と交代したのは同じ第三艦隊の、咸臨丸、観光丸、翔鶴丸の三艦で荒井は引き続き小田原で翔鶴丸に乗り込んでいた。
勝は品川に戻ってきた蟠龍、朝陽のうちから蟠龍を選んでの横浜行きだった。

寅吉とはピカルディであって連絡員からの総督府の情勢を確認した。
「こちらの兵がすべて予定通り配備できるのにあと40日はかかるだろう。会津の山川さんが尋ねてきてくれてWinchesterが用意できるなら自分が出てきて黒羽に入ってもよいというが、どこくらい用意がある」

「後八百挺ありますから、そのうち五百挺まわしてもよいでしょう追加で二千挺を注文しましたがスナイドルと違い生産が間に合わないようです」
「では関宿まで黒羽から兵を出すから其処まで運んでくれ。高崎がぐずぐず言っている間は山道軍も動くことができないだろうし街道軍も八王子で止まったままだよ、どうやら越谷あたりですべての軍勢をまとめるために後からの五千名規模の隊が追いついてくるのを待つ気らしい。その間にこちらは準備を進めておこう、いよいよこちらの待つ下野牧に誘い込めそうになって来たぜ」

「会津もそういたしますと国から出て戦う気持ちがあるということですか」
「庄内が中心で奥羽連盟を作ろうと本気で動いているよ。後一月時間が有れば何とかなりそうだが、問題は越後の桑名の飛び地の小千谷と長岡の動きだな」
「中立は此処にくれば意味がないでしょう。桑名会津と共に北陸道の西軍と戦いになれば庄内も出てきて長岡はいやでも西軍と戦うでしょう、雪の解ける閏4月ころまで引き伸ばす算段を考てくださいませんか。あそこに出ている長州の山県参謀と、こちらの大村上級参謀を捕らえられれば土佐と薩摩はもしかするとこちらに付く可能性があります」
「何か策があるのか」

「策と言うより、猿飼のものが教えてくれましたが赤報隊の相良を殺させたのは大久保一蔵と岩倉副総裁の申しつけらしいですよ。それと岩倉卿は前の天子のなくなったことでも疑われていますし、西郷先生も天子の亡くなられたのと同じ症状との噂もあります」
「それは俺も聞いたがそれを誰に話してどうしようというのだ」

「パークス公使と、薩摩の小松様、芸州の辻様、長州の木戸様、宇和島の伊達様この人たちの耳に入れることと、坂本さんも岩倉卿が御陵衛士の伊東先生と見回り組を動かしたといううわさです」
「それで近藤をそそのかせて伊東を始末させたのか、あそこには確か薩摩の隠密と言ううわさの男が居たと聞いたことがある」
「これを板垣さんと伊地知両参謀の耳に入れれば局面が変わりそうです」

「それと海江田だな、あれは大村とも仲が悪いしな」
「先生それはいけません」

「なぜだ」
「海江田さんの耳に入れると大村と仲たがいさせるための謀略と取られかねません。あくまで海江田参謀には伊地知参謀か有栖川宮のほうから耳に入るほうがよろしいと思います」

「それもそうだな。狙いは伊地知と板垣の二人に絞るか、それでその情報は精度が高いのか」
「天子のほうはうわさだけですが西郷先生と慶喜公は岩倉卿の手のもの直接か、岩倉卿の指図によるものと確信しております。その証拠を握ったと思しき相良が急いで処刑されたことでも間違いは無いと思います」

「もう少し確かな証拠が出てくればな」
「土佐のものは例の大坂の事件で岩倉卿と大久庭一蔵、大村上級参謀を恨んでおりますし、坂本さん中岡さんのことで会津と新選組を恨んで居りますから御陵衛士か見回り組のものが名乗り出れば岩倉卿と結びつきます」

「とりあえずうわさだと断りを入れて春嶽様の周辺に流しておこう、それと話があとになったが例の大原卿だが赤報隊に参加した綾小路俊実らしい、本人は否定しているし島参謀と中牟田は知らないととぼけてるが、顔を知っているものをいま探させているからもう直にわかるだろう」
「でも赤報隊の参加者は全員処分されたのじゃないのですか」

「いやどうも一番隊だけで鈴木三樹三郎などの2番隊3番隊はほかの部隊に吸収されて残っているらしい、それで入っていた公家の二人も新たにお役目に就いたという話だ、滋野井卿は北陸道副総督と言うのはわかったが、綾小路卿は行方がわからないが下の名が同じ俊実だから本人だろうと聞いても、己は大原俊実であるとしか答えが帰ってこないらしい」

なかなか京のことに詳しい人が見つからないようで苦労しているが、目鼻が付けば坂本のことも犯人がわかるかもしれない。
どうやら赤報隊の真実はこの人が握っていると勝も感づいたらしく、じんわりと締め付けて追及するために江戸送りとする為に蟠龍艦に乗せる手続きをした。
勝は公使館にパークスを訪ね、いまの話をそれとなく伝えるのだった。 
サトウが勝に「あなたは何時暗殺されるかわかりません。私が写真を撮るから写しておきましょう」そう勧めて半ば強引に写真を撮った。
 
                                   
「公使、私たちはまだ完全に東の国々を味方につけたわけでは有りません、寅吉の努力で戦が長引かないように近代兵器を備え無駄な篭城戦が無意味な戦いになり、すぐに片が付くでしょうが、家達公が運悪く敵に捕らえられそうなときは貴国也、亜米利加也へ亡命させていただけませんか」
「良いでしょう、私も天子の軍が恭順を二代に渡り表明したにもかかわらずそれを討つということには賛成できません。喜んでわが国にお迎えいたしますし、運悪くわが艦隊がお迎えできないときは亜米利加で引き受けてくれるようにもうし伝えておきましょう。フランスに頼らずわが方に申し入れてくれてうれしくおもいます」
パークス公使はまこと武士の心を持った男だ。

勝はフランスだと人質に取られたように感じて仕舞うもののですからと大口を開けてわっはっはと笑うのだった。

「勝さんAdmiral Goumeaが会いたいといってますが会って行きますか」
「オオそれはぜひ会いたいものです。どこに行けば会えますか」
「こちらから連絡をしますから、寅吉の事務所はどうですか。20番のところが良いでしょう」
「ではこれからあそこの事務所に出向いてお待ちします」
「よろしいMr.Warrenに連絡をつけさせます」

勝はまた寅吉の事務所まで降りてきた。
「コタよ、Admiral Goumeaが会って話があるとさ」
その日勝とGoumeaが何事か相談して榎本を明後日にも横浜に越させることになった。

3月27日17時 小千谷

会津第二遊撃隊が小千谷に布陣した、隊長には井深宅右衛門隊百五十人、山内大学隊五十人が差し遣わされてきた。
この編成はすべてSpencer部隊であった。
そして桑名藩の兵に対してもスナイドル百挺、銃弾十万発を分けてその編成を手助けするのだった。

3月29日14時 横浜

榎本はゴーマー(ゴーメァGoumea)提督に会いに横浜に出てきた。

開陽は修理中で行速に乗って横浜にやってきた。

寅吉の店により通訳がてら寅吉を連れて指定されているイギリス軍営に谷戸坂を登って訪ねた。
二人は何度か会っていて挨拶もそこそこに本題に入った。

榎本は勝からただ訪ねて用件を聞いてきてくれとしか言われていないようだった。
「榎本提督、わざわざ来てもらったのはお願いがあります」
「どうぞ、お聞きいたします」

何を言うのか不安な気持ちで榎本は聞いた、どうせ難癖をつけるか難題を押し付けるのだろうと思っているのが見え見えの言い方にもゴーマー提督は笑ってこういうのだった。

「私と同僚のケッペル提督は水兵の操帆訓練のために江戸湾での横断訓練を実施したい」
やっぱりだこの戦争の最中何を言い出しやがるという顔で寅吉を見ている榎本だった。

「それで予定は横浜から館山に向かい、そこから折り返して浦賀で停泊翌日浦賀を出て萩尾に向かいそこから横浜に戻る。毎日一艘ずつ横浜を出て訓練を実施するのであなた方に戦に巻き込まれないように護衛に2艘の護衛艦を同行してほしい」

なんだとこの一艘でも警戒の艦がほしいときに二艘の護衛だとそんな気持ちが手に取るように寅吉には伝わってきた。
おととい最初に勝先生と聞いたときには寅吉自身もそう思える提案だった。

Mr.ウォーレンがそばでニコニコしながら「榎本さん、万国公法に拠れば中立国の船が攻撃されたときは直ちに反撃することが許されています。護衛艦が攻撃されたという事は中立国の船を攻撃したと同じです」
榎本は「エッ」と思わず声を出してしまった。
そうかそういうことか思わず何も言わず手を出して二人の提督は固く握手を交わすのだった。

「これは飽くまでイギリスの船を守ってもらうということです。誤解しないようにしてください」
「わかりました訓練の日程と艦名表の交換をさせてください。今日は江戸湾警備の責任者の中島君が船に居りますのでつれてまいります」
「いやそれには及びません。立案はガンルームの士官が行いますから、オーシャンまで榎本提督ともどもおいでください。ロドニーにはケッペル提督が居ますから彼にも来て貰いましょう。来月半ば過ぎには大坂に行く船が居ますのでそのときにはまた運行表の交換をさせます」

寅吉も含めて四人で谷戸橋の近くの病院の桟橋から提督のカッターで行速に向かった。
榎本が声をかけて中島は船のカッターで後からついてきた。
さらにロドニーによってケッペル提督も乗せてオーシャンに向かった。

ガンルームで士官たちと操帆訓練の日程と中島が立てていた江戸湾警備のすり合わせが行われた。
明後日の4月1日陽暦4月23日木曜日から朝8時に横浜出港で8の字を描くコースは必ず江戸湾の入り口付近に船が遊弋しているということになるコースだった。

「われわれの訓練にもなり警備も出来、一石二鳥とはこのことだ」そういって上機嫌の中島と榎本を船に上げたあと寅吉とMr.ウォーレンは谷戸橋の病院の桟橋まで送ってもらった。
船で中島と榎本は「こうなると水兵が少ないですが長崎からは連れて来難くなっていますからこの際拿捕した船の水兵の中で働く気のあるものをこちらで雇ってしまいませんか」
「そうだな、こちらで長崎、塩飽のものから一人ずつ選んで小田原で説得させよう、誰か一緒について小田原まで行って貰おう」
「小田原に銃と銃弾を届けるのに護衛に富士山と回天が行くので肥田さんにそのお役目をさせてくださいませんか」
「そうだなあの人柄に水兵もこちらの側についてくれるかも知れんな」

第二艦隊から太平丸、順動丸を一時的に第四艦隊に借りて四隻の蒸気船が替わり番子に横浜から2日間の訓練に同行することになった。

3月29日10時 江戸城

主な家臣の家族は成田、潮来、牛久への避難を始めていた。

江戸でも江戸防備隊と町奉行、加役、彰義隊による警備で火つけ盗賊の被害は減りつつあった。
この日アーネストサトウと、スタナップが砲艦コックチェーファーで横浜から品川に来て馬で千代田城にやってきた。
「大久保さん、江戸を荒らしていた薩摩の伊牟田が切腹したのを知っていますか」

「いや初耳だ」
「京で部下の乱暴をとがめられて一月ほど前に詰め腹を切らされたそうです」
「オイオイお前さんどこでそれを聞いたい」
勝は相変わらず伝法な口調でサトウに聞くのだった。
「神戸から来た領事館員が京の情報を持ってきました。ハリー卿はサラミス号で2週間後には京に向かい信任状を渡すことになりました」
「それで」
「あなた方の政権はなくなったことをお知らせしないといけなくなったということです」
「承知した。大政を前上様がお返ししたときからわが国は天子の元にひとつの国になったのだから当然だよ」

「しかしあなた方は天子の軍と戦をしているので困るでしょう」
「それは君たち外国の公使、領事が中立と言う立場を表明したことでも我々を交戦国として承認したも同じと解釈している」
「それであなた方はこの後どうされるのですか」

「戦は今わが領内の関東南部で行われようとしている侵略には断固戦う。越後方面では各藩が同盟を結んで西軍と戦う用意を始めた、そこには奥羽の連盟軍が参加して西軍の侵略を阻止するであろう。我々は奥羽、越後の連盟の支援と関東諸国からの連合による軍勢をもって西軍を排除してさらに東海、近畿諸藩にも我々と同盟を結ぶように働きかけている」

スタナップが口を開いて訪ねた。
「我々はあなた方を応援している、フランスの士官もそのように話していた。しかし中立の立場から表立った協力は出来ない。しかし我々の参謀が立てた案だけは雑談の中で思わずしゃべったということで聞いてほしい」
「承ります」

「我々が東軍の艦隊を指揮したなら、まず関東制圧をした後一気に海軍で大坂を砲撃してその後指揮官の出ている長州を砲撃して通過した後長崎を制圧して物資の確保を行いその勢いで薩摩を砲撃して敵の背後を脅かした後さらに大坂に別働隊の上陸兵と陸路駆けつけた兵で京大坂を制圧する」
「ありがとうその意見は海軍総裁の榎本にも伝え参考にさせていただきます」

「よろしい、これは大筋であるから必ず細かい作戦と補給を続けられるように軍艦だけでなく補給船の確保にも力を置いてください」
「ありがとう。今我々の作戦を明かすことは出来ませんが必ずご好意に報いた戦いをいたします」
勝はこの間にもさまざまな藩に対して同じように天子の元で新しい国づくりをわずかの人間の欲望に踊らされずに我々と同盟を結び戦おうではないかと檄を飛ばしていた。 

それは薩摩、長州、宇和島、安芸、鳥取にも及び徳川取り潰しの急先鋒の三条、岩倉両卿の罷免、木戸、大久保、後藤の罷免を最終目的で連盟を結んだ藩もそうでない藩も天子の元で同じ日本の邦民として新しい国を作ることを目指そうではないかと結んでいた。
後日京に向かったパークス公使たち一行は江戸湾に三隻の軍艦を残して呉れた。

サトウたち二人が帰った後「勝さん、伊牟田がやられて小島四郎の相良がやられて、これは益満と南部が危なくなりましたな」
「あれらも西郷が居ないいま気をつけて身辺を油断なく調べていることでしょうから。危険があれば逃げ出しましょう」
二人は敵方のことまで心配そうに話すのだった。
このころ京に潜んでいた益満の元に金輪五郎が訪ねてきていた。

「オオごろさあ生きていたか」
「休さんも無事でよかった。相良さんも伊牟田さんもやられてしまったよ京に居るのは危険だぜ、早いとこ行方をくらませたほうが良いかも知れんな」
「南部さんも肥後さんも宇和島に逃げ出したので俺は横浜に出るよ」

「まさか敵方に見つかったらそのほうが危険だろう」
「此処では味方か敵かよくわからんが、向こうなら全部敵だから安心さ」
「愕くような理屈だなでもその方が良いかも知れんな。俺も一緒に行こう」

二人は神戸に密かに出てアドベンチャーに乗り組んで横浜に向かうことに成功した。
益満は金輪から相良のことなど知りえることを船中でくまなく聞いていた。

年貢半減などあり得ない話は綾小路卿、滋野井卿の二人に踊らされたという愕く内容だった。
この二人の近くに居た金輪が聞いてきた坂本の謀殺は岩倉卿と三条卿の陰謀だという話に驚愕した。

3月30日12時 長岡

梶原平馬が長岡に差し遣わされて、新潟にいたエドワルド・スネルより七百八十挺のスプリングフィールド、エンフィールドを購入した。
先込めとはいえよい銃には違いなかったがいまさらなにに金を使うのだと後で聞いた山川はあきれるのだった。

別に横浜から手に入れた銃はスナイドル三百挺、Spenser Repeating Riffle二百挺に前に購入して有った銃がMartini Henry Rifle Infantry百挺,Snider Short Rifle百挺,Spenser Repeating Riffle二十挺の計二百二十挺それと山川と約束した空手で関東に入る兵に与えるWinchester M1866五百挺、前のプレゼントのWinchesterYellow Boy百挺などの新式銃が装備される事となった。

そのほかヘンリーから買った銃も数多く装備されていたが先込め銃が多かった。

習志野決戦 − 横浜戦 完

 習志野決戦 − 横浜戦
 習志野決戦 − 下野牧戦 
 習志野決戦 − 新政府
 習志野決戦 − 明治元年

幻想明治 第一部 
其の一 洋館
其の二 板新道
其の三 清住
其の四 汐汲坂
其の五 子之神社
其の六 日枝大神
其の七 酉の市
其の八 野毛山不動尊
其の九 元町薬師
其の十 横浜辯天
其の十一
其の十二 Mont Cenis
其の十三 San Michele
其の十四 Pyramid

横浜幻想  其の一   奇兵隊異聞 
 其の二   水屋始末  
 其の三   Pickpocket
 其の四   遷座祭
 其の五   鉄道掛
 其の六   三奇人
 其の七   弗屋
 其の八   高島町
 其の九   安愚楽鍋
 其の十   Antelope
 其の十一  La maison de la cave du vin
 其の十二  Moulin de la Galette
 其の十三  Special Express Bordeaux
 其の十四   La Reine Hortense
 其の十五  Vincennes
 其の十六  Je suis absorbe dans le luxe
 其の十七  Le Petit Trianon
 其の十八  Ca chante a Paname
 其の十九  Aldebaran
 其の二十  Grotte de Massbielle
 其の二十一 Tour de Paris
 其の二十二 Femme Fatale
 其の二十三 Langue de chat
     



幕末風雲録・酔芙蓉
  
 寅吉妄想・港へ帰る    酔芙蓉 第一巻 神田川
 港に帰るー1      第一部-1 神田川    
 港に帰るー2      第一部-2 元旦    
 港に帰るー3      第一部-3 吉原    
 港に帰るー4          
    妄想幕末風雲録ー酔芙蓉番外編  
 幕末の銃器      横浜幻想    
       幻想明治    
       習志野決戦    
           

 第一部目次
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 第十一部目次
 第十二部目次
       目次のための目次-3

 酔芙蓉 第三巻 維新
 第十一部-1 維新 1    第十一部-2 維新 2    第十一部-3 維新 3  
 第十二部-1 維新 4    第三巻未完   

     酔芙蓉 第二巻 野毛
 第六部-1 野毛 1    第六部-2 野毛 2    第六部-3 野毛 3  
 第七部-1 野毛 4    第七部-2 野毛 5    第七部-3 野毛 6  
 第八部-1 弁天 1    第八部-2 弁天 2    第八部-3 弁天 3  
 第九部-1 弁天 4    第九部-2 弁天 5    第九部-3 弁天 6  
 第十部-1 弁天 7    第二巻完      

  酔芙蓉 第一巻 神田川
 第一部-1 神田川    第一部-2 元旦    第一部-3 吉原
 第二部-1 深川    第二部-2 川崎大師    第二部-3 お披露目  
 第三部-1 明烏    第三部-2 天下祭り    第三部-3 横浜  
 第四部-1 江の島詣で 1    第四部-2 江の島詣で 2      
 第五部-1 元町 1    第五部-2 元町 2    第五部-3 元町 3  
       第一巻完      

       酔芙蓉−ジオラマ・地図
 神奈川宿    酔芙蓉-関内    長崎居留地  
 横浜地図    横浜
万延元年1860年
   御開港横濱之全圖
慶応2年1866年
 
 横浜明細全図再版
慶応4年1868年
   新鐫横浜全図
明治3年1870年
   横浜弌覧之真景
明治4年1871年
 
 改正新刻横浜案内
明治5年1872年
   最新横浜市全図
大正2年1913年
   横浜真景一覧図絵
明治2471891
 


カズパパの測定日記


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