1968年3月26日 木曜日
慶応4年3月3日
月が変わり雛の節句の朝、横浜からエドワルド・スネルが年三万ドルと言う約束で船員ごと借り受けていたコリアと言う亜米利加の商船に乗り長岡藩の藩士と河合が北周りで国許に引き上げた。
この時には新潟で引き渡すはずの最後のガトリングの銃弾も積んで船は満載の米と銃器に銅銭も載せて居た。
桑名の松平定敬も同乗して飛び領の小千谷を目指していた。
800トンの商船は蒸気を目一杯焚いて十二天の沖合に出て本牧の鼻を回って消えていった。
やはり寅吉の危惧したとおり八王子にとどまらず新選組を主体の甲陽鎮撫隊は笹子峠を越えてしまったが、板垣率いる東山道軍はすでに甲府に入って居た。
その同じ5日には駿府に東海道軍の有栖川宮が入って居た。
勝が西郷への使いを高橋精一郎に頼んだが慶喜公が離されず高橋の推挙で山岡鐵太郎が行くことになった。
泥舟先生は不穏な情勢の中、上様がお放しに成らなかった。
勝は西郷に外国の介入が及べば汚名を後世に残すと手紙を書きそれを慶喜公の嘆願書と共に預け、勝のところに預かっていた益満休之助と同行して、大総督宮に会いに出かけるのだった。
3月6日 八王子
土方が援軍を神奈川まで迎えに行くことにして戦列を離れている間に、血気にはやるものたちは笹子峠を超えて攻撃を仕掛け、装備の違いから東山道総督府参謀の河田左久馬と軍監の谷干城、副長の山地忠七で率いられた土州、因州の兵5百に勝沼で散々に打ち負かされ八王子まで退却してきた。
長吏からのフランス伝習の兵は土方が出かける前に「無理な進軍命令が出ても従う必要などないぜ、装備が違いすぎる、俺が横浜から弾左衛門に頼んで兵を集めて新式銃も集めてくるまで八王子を守れ」と言うので笹子峠を越えた晩には半分ほどは逃げ出していた。
東山道先鋒総督府の参謀薩摩の伊地知正治と土佐の板垣退助は甲府から動かず碓氷峠に向かった岩倉の連絡を待っていた。
またもや銃創による負傷で近藤は大八に乗せられて江戸まで戻ってきた。
結局、土方の援軍は間に合わず途中で解散となってしまった。
3月8日12時 横浜
パークス公使とアーネストサトウが横浜にサラミス号で戻ってきた。
「コタさんよ、お前さんの予想通りに進んでいるよ。今頃は西郷さんも駿府に入ったころさ」
「江戸からも使者が向かったが話が通じて戻るなら、もう直にこの騒動も一段落さ」
「そうなってほしいものさ。戦が続けば俺たちの仕事も忙しいし、この邦のためにもよくないよ」
「そうだな。俺が買い込んだ銃があまり活躍してほしくは無いもんさ」
「此処に来る途中で聞いたがガトリングを引き取ったそうだな」
「買い手が付かなくて参ったとファヴルブラント商会が泣きついてきたので引き取ってやったのさ。丁度弾も十万発付いていたので八千両で手を打ったのさ」
「あちらさんは喜んだろう」
「それはそうさ、いま彼方此方と大騒動だが一挺で五千両といわれちゃ買える物じゃないぜ、なんせミニエーなら五百挺も買えるからなぁ」
「いまどきミニエーでは勝負にならんだろう」
「そうは言っても数さえあればと言う、どうにも頭の固い藩が多いのが現状さ」
3月8日12時 駿府
駿府に入った益満と山岡を仰天させる事態がそこで待って居た。
この日の朝早くに西郷が急死したということで、大総督宮に会うどころか薩摩の海江田と大村藩の渡辺と会って手紙を渡すのが精一杯の有様で二人は馬に打ち乗って急ぎ江戸目指して街道を下るのだった。
3月8日13時 上野
「上様、上様いかがなされました」
近侍のものの声に高橋があわてて部屋に飛び込んだときには慶喜は声も出ず苦しさに顔をゆがめてうめいていた。
昼に食べた食事を吐いて、さらに胃の腑から喀血して苦しむ慶喜に侍医が手を尽くすがその甲斐も無く未の下刻前に亡くなった。
最初に吐いてからわずか一時間あまり医師にも苦しむ慶喜に急ぎ解毒剤を飲ませようとしても苦しむ慶喜が暴れて口中に物を含ませることも、口をあけることも不可能だった、松本が駆けつけたときにはもはや手遅れであった。
「何を食べた」
「梅漬けと杏で御座います、後は昼餉に豆腐の汁とやわらかく焚いた白米、大根のぬか漬け、鶏の軟らか煮で御座いました」
「その中に毒に成るものが含まれていたというのか、考えられんな」
「青酸による中毒の手当てを行おうとしましたが、あまりにも苦しまれて解毒剤も含ませられませんでした」
上様重態との知らせに城中では大騒ぎになり相次いで上野に向かう人で大騒ぎとなった。
「食中毒か、毒を盛られたのか」人々の噂は広がり収拾をつけるのは困難になる事は必定で混迷を深めるばかりだった。
奥付き医師もその死因を突き止められないまま吐いた物をいろいろな医師に調べさせた、確かに食べたものに含まれる成分であり、しかしそれだけの量で亡くなる筈がないというのが見解であった。
「わが国の医師ではそれを調べる事は不可能でございました」
「して死因は何であるか」
平岡に尋ねられて松本は「青酸による中毒死で御座いました。しかし青梅や杏に含まれるものは微量で、なくなるのは一時に200以上も召し上がりませんと亡くなる筈もありません。しかし青酸は食事に混ぜて食べさせられるにはそれらに臭いがあり難しい事でございます」
「毒を盛られた可能性はいかに」
「いまも申し上げたように覚悟の自殺をする以外口中に入れる事は微量ならともかく、相当の工夫が必要でありましょうが私どもにはそれは不可能かと考えられますし、嘔吐された中に含まれる青酸には亡くなるだけの量を呑まれた形跡は御座いません。自殺をされたとは考えられませんし、今の医学で突き止められないほかの死因があるとしかお答え出来ません」
松本良順以下医学所で保管されたそれを後に調べても確かに青酸中毒と言うことしかわからなかったし、それが致死量にあたる量とも思えぬのだった。
相次いで東西で二人の重要人物が急死した事は大事な局面にどのような事態を引き起こすことになるやら誰にも見当がつかない事態になってしまった。
江戸城では慶喜公危篤の使いを各地に出し、すでに先代家茂公が田安亀之助様を養子とされており後をついで恭順のためにお城に入られたことを伝えた。
そして翌日には家達君として徳川宗家を継がれたことを便へ慶喜公の亡き骸はこの緊急時と言うこともあり寛永寺に密葬された。
東山道軍は甲府から動かず、東海道軍も駿府でとまり各地の情勢はどのように動くのか勝も困惑から寝もやらぬことになった。
3月9日 江戸城
堀田正倫は下総各藩の代表として慶喜赦免の嘆願のため江戸を出る矢先に、上様ご不快、続いてご他界との報を受け京への出立を取りやめ勝にこれからの方策の相談のため城中に上がった。
「堀田様、いまこそ麟太郎は胸のうちをすべて明かします。上様恭順のみぎり、もし嘆願が受け入れられず飽くまで徳川お取りつぶしのときは各地に散らせた兵を下野牧と関宿に集結の上一戦に及ぶ考えで御座いました」
「安房、それでは朝廷に対しお手向かいいたす所存か」
「はい、一翁とも相談いたし天昌院様、静観院宮様お許しがあり、田安亀之助様を家茂公のご遺志でもある宗家相続人といたし、恭順嘆願の上それでもお取りつぶしが朝廷の方策であるなら、徳川のお家のためでなくこの国のためにも一戦に及びその信を天下に問うつもりで居ります」
「慶喜公助命嘆願のため本日、京に上がる予定であったが、改めて亀之助様宗家相続と恭順のことについて嘆願に出向こうと思うがいかがか、そのほうが徳川の代表者である以上、予もそのほうの意向を無視して京に上がるわけにもいくまい」
「そのご出立はいま駿府に向かって居ります山岡が戻るまで延期をお願いいたします。大総督宮と西郷に徳川の処置についての嘆願をいたしておりますので帰りましたら同席の上その後の方策を立てたいと存じます」
「しかと承知した。そのほか聞いておくことは無いか」
「もし一戦に及ばざるをえないときは佐倉をわがほうの拠点として亀之助様をお預かりいただき、下野牧で最終決戦を行う考えで御座います。そのときに堀田様ご不在では戦うことも不利と予想されますので本心は江戸で亀之助様の御養育のお手伝いをお願いいたしたいというのが本心でございます」
「そうかでは其のときがいたれば佐倉は亀之助様にお返しいたし、わしはその幕下でお主たちの指図に従おうではないか」
「ありがとう存じます」
勝は畳に頭を擦り付けんばかりに下げて感激していた、この人の父君も徳川のために命を捧げたも同然の生き様であり、またこの方もと思うと、涙があふれんばかりで頭を上げることも暫しできなかった。
この時正倫わずかに18歳で勝とは親子ほども年に差が有った。
「ではこれからは、そちの指図にわが佐倉はすべてまかせようぞ。そちの思いのままに城も兵も動かしてよい。すべてこの正倫が許そうぞ」
勝は家茂公に始めてお目にかかったときの事を思い出して、改めて涙があふれるのを堪える事が出来なかった。
この方が10年早く生まれていればこの難局の一端の責任者として重き責任を背負うことになっていたかもしれないとも思うのだった。
「わが藩は勤皇こそが徳川のためと思いそのための方策が藩の方針であり、そのほうも勤皇の志が厚いと信じておる。このたび戦となったとき飽くまで天子のお命を求めるところまで戦うのか」
「私たちは三条卿、岩倉卿の退陣を求め天子がこの国の代表として国に君臨することを拒む所存は御座いません。ただ国の政治は天子が関与しない体制に持っていく気持ちであり君臨すれど統治せず、政治は位階、家柄によらぬ総裁、参議の合議による賢公会議となす所存であります」
「では戦に勝っても亀之助様が将軍職として国を治めることを目指すわけではないのか」
「ただいまの国情は、いち徳川が独占することを許しません、天子の下すべての藩が平等に国ために働ける舞台を作り上げることが、私どもの使命と考えております。功名、褒賞を望まぬ真摯な国を思う者どもと共にこの国の礎となる覚悟でございます」
いつもの勝と違いこの若き藩主に国の為とは何をなすことか、何が徳川と日本のためと考えるかを真剣に聞き真剣に質問する正倫にすべてを語る勝であった。
「よいよい、わが藩には勤皇の志し厚き重臣もあり、そのほうの意見はこの身からも話すがそちからも申し聞かせてくれ」
勝は正倫について平野重久が待つ溜りの間でまた自分の意見とこれからの見込みなどを話すのだった。
老境の域に入った平野は正睦公のころよりの藩の重役であり、もとより勝のことも承知でありその意見見識も買っていて素直にその意見に従い亀之助様の恭順が受け入れられぬときは佐倉をその居城となして東北諸藩を糾合してもお守りいたすと力強く約束するのだった。
江戸を放棄してでも戦を起こすという勝にすべてをゆだねてみようと思い切ることが出来た。
この勤皇の老武士をして此処まで勝にしたがってくれるならこの戦が起こっても徳川が負けるはずは無いと勝は自信がわいてくるのだった。
昨年来寅吉や阿部、信太などと下準備したことが此処に来て現実味をおび江戸を最後まで焼かなくとも戦が起きたときでも勝算ありと一翁にも報告に及ぶのだった。
「勝さん、五分五分から七分三分くらいにはなったかな」
「左様で御座いますね、後は京に居る伊達公に春嶽公、そして島津公親子いかんで御座いましょう」
「ほう、島津親子までもその仲間に数えるのか」
「さいで御座いますよ。西郷が江戸まで入ってきてくれればともかく、駿府に居たのでは交渉も何も出来ませんから」
「勝さんが言うように西郷が最後のところでこちらの嘆願を聞いてくれるだろうか」
「私は彼を信じております、それはこちらも万一のときの手立てはすべて行いましたがそれは西郷が江戸まで来ないときのための最後の手段で来てくれさえすればこの国のためにも必ず前上様の恭順の一義と亀之助様のお家相続恭順を認めてくれると信じて居ります」
「勝さんを私が信じておるように勝さんは西郷を信じてすべてを任せるか」
二人の信頼は西郷にも及び必ず徳川の存続が許されると信じて疑わなかった。
3月10日10時 赤坂
小栗から勝に権田村に着いたとの手紙が来たのは10日で、そのすぐ後に益満が駿府から引き返してきた。
「大変ですよ。西郷先生が亡くなりました。大総督宮に会うどころか駿府は混乱でどうなることか、とにかく官軍の動きも止まったままで箱根を越す事も出来ないようです。山岡さんもお城に上がり大久保様に報告に上がっております」
何時に無く深刻な勝に戸惑いを覚えながらも益満は報告をした。
「そいつは困ったな、実は前上様がお亡くなりになられたよ」
益満の顔が驚愕でゆがんだ。
「エエッそれは大変ですが。誰が御家を継がれますか」
「田安亀之助君だよ。家達と名乗られることになった。慶喜公が亡くなられたので恭順は受け入れられるだろう」
「そうなればよいのですが、京の情勢も西郷先生の影響が及ばなくなるとどのように動くか、特に岩倉、三条のお二人は危険で御座いますよ」
勝は呆然ともして居られぬと気を取り直してこれからの方針をどうするか話を進めながら考えるのだった。
「それなんだよ、嘆願の使者は次々に出してはいるが返事もはかばかしくない上にこれでは一気に徳川の家を取り潰せという意見が通るかもしれん、そうなると戦だよ、お前さんなどすぐに首が飛ぶかもしれんぞ、今のうちにほかのものと姿をくらませておけよ」
「いいのですか逃げ出させると先生が困りませんか」
「俺のことよりお前さんの方だって大変だぜ、西郷さんがなくなれば大久保一人では長州を押さえるのは難しかろう。お前さんたちも大総督宮にこちらの有様を報告して戦が起きないように説得してくれよ」
「でも私が行けば、先生が各地に軍勢を散らして江戸を空っぽにして町に入った軍勢を外から焼き討ちすることを報告しないわけには行きませんぜ」
「だからよ、それを海江田さんや大久保さんに伝えて恭順を達成させてくれればそういうことにはしないさ。いつも言うように蝦夷地の開拓を許してくれるなら徳川は丸裸で朝廷に従うと伝えてくれ、一辺に丸裸は無理かもしれねえがまず150万石くらいにしてくれればすべての家臣団を朝臣としてそのうちの30万石くらいでもやっていけるだろう」
「わかりました150万石は勝先生のほらだという風に報告してまいりましょう」
「ハハ馬鹿やろうが、おいらたちは何も好き好んで戦をしたいのじゃねえよ。辞官納地は良いが徳川だけにそれを押し付けても納得は出来ないよ。前から小栗さんも言う郡県制の国家をひとつにしての前に進める話ならすべて投げ出すのは覚悟のうえだよ。それとお前たちの相棒だった赤報隊の相良が死んだよ」
「どこかで討ち死にでもしましたか」
「怪しいですね、坂本さんの後、新選組が御陵衛士の伊東甲子太郎をやったのも岩倉卿の差し金ではないかと言われていますし、アアこれは赤報隊の中に入ったものから京の藩邸のものが聞いたそうです」
「ナンだ駿府からとんぼ返りをしたと思ったら途中でそんな話まで聞き込んできたかよ」
ヘヘヘと頭をかきながら少し情報交換もしてきましたと益満は言って「それでね坂本さんは伊東たちと見廻り組の仕業ではないかと言うものがいたのですよ、それも影で岩倉卿と大久保先生が糸を引いたとも言うのですが眉唾だろうといったのですが西郷さんのことも」
「しかしなぜ西郷がやられないといけねえのだよ、まさかとは思うが上様のこともあるからな。いくらなんでもそろいすぎているぜ」
「私もそれとなく調べてみます」
「オイオイおめえがこんどは消されないように気をつけねえといけねえぜ」
「わかりました。隠密はお家芸でござんすよ」
益満は南部やほかのものが戻ると密かに相談をしていたが、奥に入り別れを告げると夜陰にまぎれて西に向かうのだった。
北陸道鎮撫総督の高倉永祐は加賀を出て越後に入ったが長岡は中立を楯に恭順に応じようとせず交渉は長引いていた。
3月11日13時 赤坂
アーネストサトウが西郷の死亡と慶喜の死亡を聞きつけて勝の元に情報を集めに馬でやってきた、相変わらず別手組のものが二人護衛についていた。
「おいおい情報が早いじゃねえか、コタにでも聞いたか」
「いえ、コタさんは横浜に居ませんよ。どこにいるのか此処3日ほど見かけません。8日の昼にうなぎを食べた後どこかに出かけた様でその後は会っていませんよ。ところでこの後のことですがどうするのですか。京で聞いてきた話では徳川は取り潰せという意見が強くて、いやそれはだめだ寛典を持って皇威を示すべきだという方は軍事参謀に強硬な意見のものをつけて東へ進軍させていますよ」
「そうか、大総督として送り出されている有栖川宮はやはりそういう意見の方だったか、ではこちらの恭順は通る可能性があるな」
「無理、無理ですよ。西郷さんは京の大久保さんに徳川の処分は厳しくしなければいかんと意見を具申していたそうですよ」
「俺もそれは聞いたが、そういわなければ兵が萎縮するからな。俺でもそういうよ」
「岩倉卿は徳川の領地没収の方針だそうですよ。宇和島とか越前や芸州には慶喜の恭順を認めるというそうですがね」
「そうなのか、そいつは困った」
本当に困ったように頭を手で覆うようにつかんでは考えるのだった。
「コタさんもそういって先生と西郷さんが会えれば話はつくと言っていましたがね。実は長州の大村と言う人がだいぶ強い意見だそうでうちのハリー卿も心配していますよ。総督府の参謀木梨精一郎と言う人が横浜に入って来て初めて西郷さんの訃報を聞いたらしく腰を抜かすほど愕いていましたよ」
「そうか横浜に何の用事で来たのかな、武器の調達か金の工面か、それとも公使たちに協力でも頼みに来たのかい。局外中立の宣言を聞いてないのだろうかな」
「ハリー卿に江戸総攻撃で負傷者が出たらイギリスやフランスの軍の病院に治療に収容をしてほしいと頼みに来たのですよ。」
サトウは其処で一息ついてから勝にさらに話を続けた
。
「降参したものを攻撃するのは国際法上からも間違っている、わがほうは江戸総攻撃は賛成できない、それゆえ軍の病院に収容は許さないとすっぱりと断られていましたよ。諦め切れないらしく私が横浜を出るときまた公使館に訪ねてきていました」
「こちらは恭順の方針だが、新しく家を継がれたのは家茂様がなくなる前から決められていた田安亀之助様だよ。まだ6歳の幼君に厳しい処分は願い下げだよ」
そのころ東山道軍は笹子峠を越えて八王子に先方軍を進め付近の情勢を探って東海道軍との歩調をあわせるために進むことが出来ないでいた。
江戸に戻った新選組は分裂していたが、八王子守備はとりあえずなくしてその方面の兵に総引き上げが通知され、3月11日になって永倉新八、原田左之助に靖兵隊を組織させて新式銃の操作を徳丸ヶ原で行いだした。
隊長に永倉新八、原田左之助の二人が選ばれて、離散隊士を集めるのだった。近藤は銃創の治療に和泉橋医学所に入りなおし、土方は改めて新選組の生き残りと銃隊を組むために奔走しだした。
3月12日 会津
容保が戻った会津では軍制改革が進み新たにスペンサーを五百挺とスナイドル三百挺を買い受けることにして武兵衛(ジョン・ヘンリー・スネル)に買い付けを申し付けていた。
武兵衛はエドワルドと手持ちのミニエー・ライフル銃五千挺を売りたがっていたがプロシャからの新式銃も銃弾が間に合わず手に入れそこなったこともあり、しいて逆らわず急いで横浜に向かう仕度をしに家に戻った。
会津ではWinchester Repeating RifleとSpenser Repeating Riffleの訓練をアメリカ人から受けたものも多くいまさら旧式の銃に戻ることなど考えられないものが多くなっていた。
梶原平馬が金の用意をすることになり山川大蔵がついて30人の人間が横浜目指して強行軍で進んでいた、背にはそれぞれが200両と言う大金を背負い目指すはゲルル商会、其処で内金としてそれを入れてあるだけのSpencerにスナイドルを求めてくる予定だった。
その後を追うように佐川勘兵衛が会津に入り容保の示す軍制改革の様子に驚きの様子を隠せなかった。
3月14日 午前 江戸城大広間
確堂、慶頼に付き添われた家達の前にすべての旗本、役職にあるものたちが呼び出されていた。
幼い子供とは思えぬよく通る声で一言ずつ思い出すように立ち上がってしゃべった。
「家達である。予はすべてを勝に一任した。恭順の遺志は貫徹しなければならぬ。しかしながらわが身を勝にゆだねたいまどのようなことがあろうとも勝に従うこと。予自らが勝の言葉に従ってこれからの行動を行う。皆も勝の言葉は予の言葉とおもうように」
なぜかこの言葉はお庭先端に居る者にまでよく聞こえた、そして確堂が改めていまの言葉を大声で再度話すのだった。
一同が平伏している間に家達はおくに入り、改めて勝が「不肖、この勝が御一任を受けて軍事総裁職として皆様に申し上げる。前上様以来徳川は恭順の方針である。すべてこの勝に従っていただく。しかしながら恭順には不賛成の方は即刻領地領国へお引き上げ頂たい」
高飛車とも思えるこの勝の言葉に城中では彼方此方で盛んに抗戦すべしととくものも多く見られたが家達公が直接勝にゆだねたとの一言で心ある人たちは揺るがぬ決心を胸に秘めていた。
3月14日 京
京では五箇条のご誓文が発表され新政府の形が出来上がりつつあった。
このときの新政府は次のようになっていた。
総裁 有栖川宮熾仁親王
副総裁 岩倉具視 三条実美
議定 小松宮嘉彰親王 山階宮晃親王 正親町三条実愛
聖護院宮嘉言親王 徳大寺実則 知恩院宮博経親王
万里小路博房 鷹司輔煕 有栖川宮幟仁親王
中御門経之 島津忠義 浅野長勲 松平慶永
山内豊信 長谷信篤 岩倉具視 三条実美
伊達宗城 中山忠能 細川護久 近衛忠房
鍋島直大 白川資訓 亀井茲監 鍋島直正
蜂須賀茂韶 東久世通禧 毛利元徳 池田章政
徳川慶勝 以上議定30名
しかし会計と指揮は三条と岩倉の二人が押さえる形でその相談は大久保一蔵と木戸準一郎が受け持っているといっても過言ではなかった。
木戸は病がちで、大村がその代わりに軍事の参謀を任されていた。
薩摩の家老を勤めている小松帯刀に西郷と友人だった吉井友実は大久保と違い徳川に寛典を持って望むべきと主張して新政府の中で孤立しかけていた。
その意見のものは多くいたが三条、岩倉に押されて強く出ることが出来ない環境にあった。
そのためもあるのか大総督宮の有栖川宮は駿府に居り京に呼び戻されることのないまま実権のないも同然の総裁職だった。
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