クララ・ホイットニー Clara A. N. Whitney Kaji アルマ・クララ・ノートン・ホイットニー・カジ は、1860年8月30日 (1861年とクララの明治日記の見返しには記入がありますが)アメリカのニュージャージー州ニューアークで生まれました。 父 ウィリアム・コグスウェル・ホイットニー( William Cogswell Whitney ) 1825年6月25日 アメリカ合衆国ワシントン郊外ジョージタウンに生まれる。 父William Whitney 母Pamelia Cogswell 母 アンナ(Anna Lavinia Mockridge) 1834年4月25日Newark,, New Jersey生まれ? (1832年?) 兄 ウィリス(ウィリイ)( Willis Norton Whitney ) 1855年10月18日Newark,, New Jersey生まれ 妹 アデレイド(アディ)( Adelaide Norton Whitney )
サイトをチェンジした後もアディの生年について調べていますが、特定できません。 アイ君の記事のままで手を加えるのは控えましたので誤謬した部分もそのままにしてあります。 2022年1月9日-阿井一矢 |
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Clara’s Diary-An American Girl in Meiji Japan 訳者 一又民子 ・ 高野フミ ・ 岩原明子 ・ 小林ひろみ 中央公論文庫より |
ご注意くださいませ
アイの感想文・抜き書きについて、クララの本を読んで自分なりに感じた感想を手短に記しました。
自分で読んでからここを読みたい方は、しばらく続きを読むのはご遠慮くださいね。
惠の掲示板・秘密部屋とダブってるところは割愛してることもあるのでお知らせくださればこちらにもコピーいたします。
誕生日は日記の各所から換算して1860年とさせていただきました。 ( Whitney databaseも参考にいたしました) 上巻42ページ 15才の誕生日 1875年8月30日 上巻310ページ 勝 逸 と同い年の16才 1877年1月19日 (勝逸 万延元年1860年 8月 3日生まれ) 上巻412ページ 昨日は私の17才の誕生日 1877年8月31日 |
1875年(明治8年) 8月 3日 火曜 14歳のクララはオーシャニック号で横浜に家族5人で到着しました。 8月30日 月曜 15歳の誕生日、この日の日記は川遊び(隅田川<大川>か?)に船で出かけ、浅草寺にも寄った事など割合長い日記になっています。 日本到着後の不安な毎日から(主に経済的なことなど)開放された様に明るく遊ぶアメリカ娘が目に浮かびます。 9月 5日 日曜 この日の日記に勝海舟から学校開設を条件として1000ドルの寄付がこの週内にあったことが記されています。 当時の1000ドルは確か1000円に相当したと思います。 今のお金で、7000万円くらいでしょうかしら。 ものすごい額だと思います、海舟の一人だけの資金とは思えませんがそれにしても思い切った寄付だとビックリ(*_*)いたしました。 9月14日 木曜 木挽町14番地に引っ越し。 アメリカからの荷物も到着、福沢氏小野氏から敷物をプレゼントされる。 このころよりクララはプレゼントになれくだされものが常識みたいに感じていくようです。 10月 7日 木曜 初めて本格的な地震に遭遇、驚いたでしょうね。 東海岸生まれの地震をほとんど経験していない少女にとって最後の審判の日かと思ったというのはオーバーな表現では決してないでしょうね。 11月26日 金曜 この前の汽船で故国からの便りのうち「クリスチャン・ウーマン」誌に母の出発の記事が載っていた。 ママをもっと誇りに思い、そういう態度をとるべきだとその記事を読んで、心に誓いを立てたようです。 水曜日にお浜御殿に小野氏の案内で出かけました、十分楽しんだ様子が覗われます。 このことで多くの書き込みが有りました。 木曜日の感謝祭の日に勝氏、大鳥氏、箕作氏、杉田氏といった一団のお客があった。 クララは海舟の刀に興味を持ち、抜いてみたそうです。 鞘は金塗りの木か金属で、刃は両羽で鋭かったが、柄は白い真珠貝でできており、金色の竜と何かの形がちりばめられていて、非常に美しかった、という風に観察しています。 そして特筆すべきは、東京会議所が清国へ全権大使としていかれる森氏からこの家を買ってくれたと続いています。 土曜日は小野氏が休みなのでと書き出していますが、27日のことなのかな?。 11時に3台の人力車に分乗して王子まで遊びに出かける。 王子稲荷での感想として人間が下等な動物を拝むなんてと憤りをあらわにし、わたしたちの偉大な宗教はなんと高貴ですぐれたものだろうと続いています。 稲荷の本当の御祭神と御使いについての説明は双方の語学力ではまだ無理のようですね、マ日本人でもお狐さんが祭られていると思ってる方が多いんじゃ仕方ないですね。 そしてクララは小野氏から日本の女性が精神がない、本が読めない、子供たちを教えることができないときかされます。 12月25日 土曜 クリスマス やはり当時はイブではなくこの日にお祝いをしたみたいです。 勝家からもお嬢さん二人と男の子が来たと書いてありますが、まだそれぞれの名前には注意が向いていないみたいでした。 大鳥圭介一家は生後間もない赤ちゃんまで参加したそうです、クリスマスツリーも飾り総勢32人も集まってのクリスマスパーティが開催されたそうです。 12月27日 月曜 クリスマスパーティの記事が新聞に載ったと書いてあります。 この年のあわただしい半年が終わり、クララの好奇心旺盛な一面と敬虔なクリスチャンとして自立したいと勉学にも意欲を見せるクララがいとしいです。 アイの14才〜15才のころに比べて大人びた考えに驚かされます。 当たり前かね、アイが自立心に欠けてる事は誰もが承知のことだもんね。 |
クララの明治日記2 1876年(明治9年)丙子(ひのえね)に進む |
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▲明治8年8月3日Whitneyの横浜到着を知らせる大久保一翁宛森有礼書簡 (一橋大学 図書館所蔵) |
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ホイットニー3兄妹 1885年撮影 左から妹のアデレード(19才)・クララ(25才)・兄のウィリス(30才) |
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ウィリアム・コグスウェル・ホイットニー | アンナ |
木挽町13番地 木挽町商法講習所 明治9年8月21日には、この木挽町校舎に移っています(「東京府職官表」によれば明治8年11月には木挽町に商法講習所が設置されています)。 |
W・C・ホイットニー略歴
1875年 (明治 8年) |
8月3日,ホイットニー一家横浜に到着。 銀座木挽町の森有礼邸に入居する。 |
9月13日,東京会議所がホイットニーを雇入。 森有礼私設の商法講習所に貸与する形とし約定書調印。 雇入期間は5年,給料は年2,500円。 |
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9月24日,銀座尾張町2丁目23番地に商法講習所を開設。 | |
1878年 (明治11年) |
5月,商法講習所経費節約のため契約期間の途中で解職される。 |
11月,津田仙(津田梅子の父,農学者)が設立した銀座簿記夜学校に移る。 | |
1879年 (明治12年) |
ウイリアムの療養と、長男ウィリスの医学研究のため,ホイットニー一家は帰米 12月にまず父親のウイリアムが横浜出港 残りの一家4人は翌13年1月横浜出港 |
1882年 (明治15年) |
8月29日,再来日の途上ロンドンで没。Hampstead墓地に埋葬。 |
11月18日アンナ(49才)・ウィリス(27才)・クララ(22才)・アディ(14才) 再来日する。 |
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1883年 (明治16年) |
4月17日 アンナ永眠(49才)、青山墓地に葬られた最初の外国人とされる。 |
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