横浜幻想
 其の一 奇兵隊異聞 阿井一矢



登場人物 (年齢は数えと満とに分かれています1870年)

ケンゾー 1849年( 嘉永2年 )生まれ 22歳
      
( 吉田健三 Mr.ケン )

正太郎  1856年生まれ( 安政3年 ) 15歳

おかつ 玄三 勝治 千寿 辰次郎 
寅吉 28才 容 24才 春太郎 22才 千代松 24才 

井関盛艮(知事・もりとめ)安部弘三 相生町の伝助 長次(下っ引)

ウィリー( Willy ) WilliamBWalter  

エリカ  ( Miss Mayer ) Erica Mayer 

M.J.B Noordhoek Hegt  マリアヌス・ヨハネス・ベンジャミン・ノールトフーク・ヘクト

Charlotte Noordhoek Hegt 1864年生まれ 6才

ヤール( Jarl )JarHeldt Noordhoek Hegt1844年生まれ 26才

ハンナ( Hannah )1843年生まれ 27才

清次 由太郎 紋太  ( 街の子供たち )

天下の糸平     ( 田中平八 )

海坊主の親方・伊兵衛( 丸岡の親方 )俊 

喜重郎       ( 丸高屋の親方・高木喜重郎 )

秋月孝太郎 奇兵隊脱走首魁



 奇兵隊異聞

横浜の港に着いたジャーディン・マセソン商会のアンオブデンマークから渡船でイギリス波止場へ降り立ち、WBWがお気に入りのボーラーを脱いで腕を高く上げて振る様子に背を向けて元町へ足を向けた。

「ちょっとばかしの別れに大げさなやつだ」背中が笑っていたと後で冷やかされるのは承知のケンゾーだった。

昨年の11月に全面開通したスエズ運河を通っての航海は穏やかな日々だったし、ウィリーと寄港地での商売も上手くいってケンゾーはジャーディン・マセソンから貰ったコミッションで懐は暖かかった。

グレゴリオ暦1867年11月15日は日本の慶応3年10月20日その日の朝にここ横浜を無一文同然で船に乗ったが、寅吉旦那の援助での留学は成功といえた。

今は明治となった事はやり取りされていた手紙で知ってはいたが、日本の暦では何年の何月何日かさえケンゾーには判らないので、とりあえず昔働いていた店に向かうことにしたのだ。

谷戸橋へ向かう途中にあったピカルディも義士焼きのとらやもなくそこにはホテルが建っていた。

「そうだあのころ長崎のグリーン夫人と此処にホテルを開く話が出ていたのだったな」

そう思い出し橋を渡ると右へ折れ其処には虎屋にとらやピカルディの看板が見えてほっとするのだった。

荷物はジャーディン・マセソンに届けてもらうことにしてきたのでロンドンで仕立てた背広にトップハット、帽子の下はロンドン仕込みの乗り組みの清国人が昨日手入れをしてくれて小粋にオールバックにしてくれた。

手には土産を入れたトランクといういでたちで店の前に立ち顔見知りがいないかと中を見渡したが顔を知らない若者ばかりだった。

「勝治さんはおいでですか」

「番頭の勝治なら裏で旦那と用談中ですが何か御用でしょうか」

「ロンドンからケンゾーが帰ってきましたとお伝えしてくれませんか」

「けんぞう様ですね、少々お待ちくださいませ」

中々の気の聞いた応対で小僧は裏へ入っていったが直ぐに戻ってきた。

「どうぞ此方へお入りください」

先にたってなじみのある中庭に通ると、昔のように旦那と勝治が縁先に座って書類を広げていた。

トップハットを脱いだケンゾーが声を出す前に「久しぶりだな、都会で磨かれていい男っぷりになったじゃねえか」そういう寅吉も散切りの五分わけの頭が似合っていた。

「御久しゅう御座います。商法も自分の好きなケミストリーについても留学期間の間に、学ぶべき事柄は納得できるだけの事は勉強させて頂きました。これからはその成果をお店の為のお役に立てたいと存じます。この身を粉にして働かせていただきます」

「オイオイばかなことをいうなよ。お前さんをイギリスへ送ったのはこの店の為なんかじゃねえよ。せっかくの新知識だ、お前さんがこの日本のために役立つ人間になったならそのことを多くの人に役立つことに使ってくれ。その中で少しだけ暇が出来た分だけ店に協力してくれればそれで十分だ」

「しかしそれでは」

「良いってことよ、それよりお前さんとりあえずの住まいはどうする予定だ」

「お店で働かせていただくつもりでしたので特に決めては居りません」

「そうか、それなら境町に空き家が出来て年寄り夫婦が留守番に入っているから、其処に居候で暫くいてくれよ。年寄りもお前さんみたいのがいれば張り合いがあるだろう。仕事はひと月ほど様子を見てなにがしたいか決めれば良いじゃねえか」

「承知いたしました。ではお言葉に甘えてそうさせていただきますが勘が戻るまで勝治さんの下で暫く働かせてくださいませんでしょうか」

「そうか、お前さんがそういうなら横浜になれるまで勝手働きと言うことでそうしなよ。何か良い商売を見つけるかジャーディン・マセソンの代理店みたいなことでも始められるか考えてごらんよ」

「ありがとう御座います。これは旦那様、奥様へのお土産で御座います、店のかたがたへは別に荷が降りましたら持参させていただきます」

ケンゾーは鞄からロンドンで最近出されたばかりの様々な書籍に髪飾りと真珠のちりばめられたブローチを差し出した。

其のブローチはスエズを抜けたとき土地のアラブ商人から安く買ったものだった。

「オイオイ随分高そうな土産じゃねえか。無理をしてねえか」

「いえこれは英国でジャーディン・マセソンの手伝いをしてその報酬から買い求めましたのでお納めくださればうれしゅう御座います」

「そうかそれなら気持ちよく頂かせてもらうよ。容もいま新しい住まいの庭の世話をしているから山手までいっしょに来てくれ、その後境町の家に連れて行くよ」

ケンゾーが馬に乗れるというので二人は馬で千代と正太郎が歩きで地蔵坂から219番の家に向かった。

「ところで旦那様、今日は何日になるのですか。日本の暦がわからないのですが」

「おおそうか、今日は明治3年の2月9日だよ。陽暦では3月10日の木曜だという事は判るだろ」

「はい船の中でもそれは船長が日記をつけるので確認しました」

「そうだ、話は飛ぶが陸奥さんがヨーロッパへ和歌山藩の執事として洋行することになったそうだよ」

「そうですか、懐かしいな。坂本先生の亡くなった後の海援隊は消滅したと聞きましたが隊の方々ともお会いしたいものです」

「横浜にいればいろいろな情報が入るから昔の知り合いのことも追々とわかるさ。亜米利加へ何人かが留学したよ、お前さんは焦らずになじむまで気楽に過ごすさ」

「はい、時々は旦那様のお供をさせて頂いてもよろしいでしょうか」

「そうだな昔どおり連絡員の制度はそのままだから千代に言ってできるだけ町を見て廻ることさ。その合間には俺の商売の手伝いに商館廻りを一緒にして最近の横浜の有様を納得いくまで見て廻りなよ」

「はいそうさせていただきます」

「後は千代と、そうだ今ついてきている正太郎をお前さんにつけるからイギリスで学んだことなども教えながら日本の情勢等も正太郎から教えてもらいなよ」

「はい、やはり正太郎君でしたか断髪しているせいか孤児院で手伝っていたあのころよりすっかり大人びて見違えてしまいました」

「横浜では髷をやめる者が大分多くなってきたから最近は日本人の整髪師も出てきたのさ、それで正太郎も早速俺と共に散切りにしたんだ。Maison de bonheurのところから先月此方に移らせたが仏蘭西語に、英吉利語もこなすし町ではすっかり人気者さ。最近は清国人の広東語に、寧波語までどうにか扱えるようになったよ」

「たいしたものですね」

「誰とでも直ぐ友達になれる素直さが受けて、大人も子供も正太郎と話がしたくなるようだぜ。まだ15になったばかりだが、太四郎が今は神戸なのでゆくゆくは春の片腕となるだろうと期待している。今は千代たちが連絡員のことも覚えさせるために引き回しているのさ。健三郎が帰った今お前さんがいろいろと最近の外国の情報を仕込んでくれれば俺達も助かるよ」

「旦那様、その健三郎ですがケンゾーになじんでしまいましたので其のまま健三で通そうと存知ますがいかがでしょうか」

「いいだろうよ、何事もご一新で変わってしまったが名前も今風に改める人が多くなった。御時勢に合わせてそれもいいだろう」

話をしているうちに石炭置き場を下に見て、緩やかな坂に直され馬で登るのも楽になった地蔵坂を登りきり、新しく建てられたばかりの寅吉の家に着いた。

寅吉がスィフトさんとガリバーさんの家に貸し出した敷地との間を公園風の庭にした小道から入ると、お容さんが何人かの女達と茣蓙の上でお茶をしていた。

「後から千代と正太郎も来るから東屋に茶の仕度をしてくれ」

寅吉が声をかけると馬を預かるもの、茶の支度へ家に向かうものを指図してから容が「もしかして健三郎さんかしら」

「はい奥様さようで御座います。昨日着いたジャーディン・マセソンの船で英吉利への留学から帰ってまいりました」

「すっかりイギリス紳士になって、驚きましたわ」

口ではそういうが何事にも動じない落ち着いた雰囲気の容であった。

「お父っ様ァ」

小さな女の子が若い女中に抱かれた腕の中から紅葉のような手を差し出して寅吉に抱っこをせがんでいた。

東屋への道の途中で女中から「さぁ明子をこっちおよこし」と受け取ると女の子は寅吉の首へ手を回して抱きついてきた。

「明治の改元のお達しがあった一昨年の末に産まれたので明るいという字を取ってあきこというのさ」

目の中に入れても痛くないというのはこのことなのだろうとケンゾーは見ていてほほえましくなるのだった。

日本を発つときにはこの家は庭を作り出したばかりだったが、小ぶりの松の木や藤棚も落ち着いた雰囲気を出し、西洋風の東屋から見ると藤棚の先の池の周りには石畳の道が家を取り囲むように続いていた。

池の向こうに玉砂利と岩で枯れ池があり、其処から大きな石灯籠にかぶさるように刈り込まれた松の木があり、北側に椎木や楠が家を守るかのように植えられ日本家屋が庭を見下ろすように建てられていた。

東屋は東側にある二つの西洋館との境にあり庭はそこで西洋風の庭園と西側の日本庭園に分かれていた。

「どうだいここにいるとこっちが西洋であちらが日本風だ、めちゃくちゃな作庭だがようやく落ち着いたよ」

「ロンドンでも日本ブームで松の木の前に石灯籠を配するのがはやって居ります」

土産に喜ぶ容にロンドンの上流夫人のファッションのことや町の様子など、容に聞かれるままに話をした後、男達は揃って境町まで行くことにして歩きの千代と正太郎が先に出た。

正太郎はわき道から地蔵坂に出る辺りで千代に話しかけた。

「千代さん旦那は私にケンゾーさんについて暫くあちらのことを学びながら引き回してもらえといいますが、私に商売は向かないとお考えなのでしょうか」

「いや、俺はそうは思わないぜ。正太郎は新しい形の商人に成れと旦那はお考えだと思うんだ。春さんが今は横浜の虎屋を率いているがそれを早く西洋風な会社にしようと旦那達は話し合っているのさ。其の春さんの後を引き受けさせる候補の一人が正太郎さ、後何人か候補はいるがどうしても今までの商人のありようから抜け出すのは難しいのさ。だから正太郎に外国の新しい情報を吸収させようとケンゾーさんに附かせるんだろうぜ」

千代は今の春の立場を考えて昔の同僚にも鴻上さんもしくは春太郎さん一歩譲って仲間同士のときであっても春さんと呼びかけるように厳命して自分も実践していた。

「それならケンゾーさんが旦那の下で働きたいというのに、どうして自分で仕事を探せ、などといわれたのでしょうか」

「それだよ、さっきも東屋で旦那達が話しているのを聞いていて不思議に思っているのさ」

「旦那の千里眼で何か見えたのでしょうか」

西の橋を渡り前田橋からほむら道に曲がり二人で笑いながらそんなことを話しているところへ寅吉とケンゾーの馬が追いついて「先へ行くぞ」と馬上から声がかかり追い越していった。

公園の予定地の辺りから先の北側が境町、其の先には最近裁判所から神奈川県庁と呼び名が変わったばかりの庁舎が亜米利加公使館、英吉利総領事館と共に威容を誇っていた。

船を下りてから行きかう人の数の多さと建物の数も驚く光景の連続だった。

ケンゾーは「其のうち様子も知れるだろう」と勤めて平静を装っていた。


一月どころか10日もするとケンゾーは横浜にも慣れてきたし、境町の家に許可を受けて同居させているウィリーから英一を手伝わないかと何度も誘われていた。

吟香氏の開いた本町五丁目のコーヒーハウスバッカスにいたケンゾー達のところに英一を抜けてきたウィリーがきて其の話になった。

「今しばらくは寅吉の旦那のところに厄介になるつもりだ」

最近三日に一度は同じ話になる二人だった。

ウィリーはケンゾーが同僚なら営業成績が上がり自分も早く出世ができるのにとそれも伝えそう話すし「香港のMr. William Keswickも君を雇えというし支配人も君の噂を聞いて好待遇で迎えるという話なんだぜ」

「ありがとう、うれしい話だがもう暫く好きにさせてくれたまえ」

「いいだろう、君の席は何時でも空いていることを忘れないでくれ」

「それにしても香港本店の最高責任者が何で俺を知っているんだね」

「それはね、きみがロンドンで数々の難題を解決したのをヒューマセソンから言ってきたからさ。それとジョイからも連絡があるんだろうしな。俺だって船長だってコロンボでの事は感謝しているんだぜ」

「何のことやら、あれはただの偶然で俺でなくても気が附くくらい簡単なことだったじゃないか」

「そんなことないぜ。俺達では気がつかないくらい細かいことに注意が届くケンゾーならではさ」

その場にいた正太郎にも「君も寅吉さんのお気に入りでさえなかったらうちで欲しい人材だと支配人が言っているよ」まんざらお世辞とも思えない様子だった。

「話はそれくらいでテニスをしにいかないか」

どうやらそれが目的での早引けのようだった。

「コートはあるのかい」

Noordhoek Hegtさんの息子の家でコート開きがあるのさ。山手のほうだそうだが正太郎は場所を知っているかい」

「はいしっていますよ。ハンナさんの家です、ご主人がヤールあ、ヤーヘルト・ノルトフーク・ヘクトさんです。ご案内しますか」

顔を売りに行く気らしいと察したケンゾーは「境町の家にラケットを取にいこう」と勘定を払って店を出た。

三人揃って三分もかからない家に向かい支度をして近くで貸し馬を借りて前田橋から箕輪坂を登った。

坂の上の右手汐汲坂寄りには最近おかれた居留地取締の番屋が置かれていて表には足軽らしき男が二人棒を持って立っているのが見えた。

左に曲がり坂を登ると病院の手前に洋館が増築されたヘクト邸が見えた。

正太郎が顔見知りの門番に立つ男に声をかけて馬のまま庭に乗り入れた。

「いつも門番がいるのかい」

「いいえいつもは庭の手入れや水の汲上などに来て居ります。今日はコート開きなのでお客のお迎えに雇われたのでしょう」

「そうだったのかいつも門番がいるくらいいかめしいお屋敷かと思ったぜ。ほうアドニスが咲いているぞ」

「はい日本では福寿草と呼んでいます、早いところでは一月ほど前から咲き出しています。もうそろそろ時期が終わります」

「正太郎は花が好きかい」

「孤児の家では季節の花を大切にしていました、自然と花の咲く時期を覚えました。この家の裏の庭ではいま沈丁花と呼ばれるウインターダフネがいい匂いをさせているころですよ」

馬を繋いでまだ蕾もついていない桜の木の脇からテニスコートのほうへ入るとダフネの花の香りがしてきた。

「ショータローよくきたわね。あらお客様なの」

ハンナがコート脇の台の上から声をかけてきた。

「はいハンナさん、紹介します」

「待って待って。今降りるから」

老人ながらがっしりとした髯面の男に助けられて台から降りてきた。

Mr.ヘクトこんにちは。ハンナさん紹介します此方はジャーディン・マセソンのMr.ウオルター、この人は私の先生のMr.吉田です」

「ハンナですわ良くいらっしゃいました。此方は私の舅のMJBNoordhoek Hegtです」

* マリアヌス・ヨハネス・ベンジャミン・ノールトフーク・ヘクト( M.J.B.Noordhoek.Hegt

それぞれが自己紹介と握手をしているところにヤールがコートから出てきて紹介され挨拶に加わった。

「やぁ、皆さんラケットを持参されているという事はテニスをしにおいでですね。私たちの先生のMiss Mayerを紹介します」

ダブルスを組んでミス・メイヤーとケンゾー、ウィリーとハンナで早速対戦をした。

ケンゾーにミスが多くハンナの組が圧勝して終わった。

「すみません僕の判断が遅くて余計な負担をかけてしまいました」

「仕方ありませんわよ、Mr.ウオルターがとてもお上手ですもの」

謙遜するでもなくウィリーはどんなもんだいと言う顔でケンゾーに「後2年も毎日腕を磨けば俺に追いつくぜ」と笑いながら肩を叩いた。

「大体一月くらいであそこまでラケットをふれれば上出来だ」

「あら初心者でしたの。すばらしいわ、素質がありますよ」

ハンナも「始めて一月といいますとお帰りになってからですの」

ハンナはケンゾーが洋行帰りだということを知っていたようだ。

「いえロンドンを発つ一月ほど前にウィリーから手ほどきを受けまして、こちらに戻ってからはラケットを持ったのも今日が最初です」

「これからはコートも彼方此方に作られるそうですし、新しい山手の公園でもコートが作られるそうですわよ。ご一緒できると楽しいですわね」

コートから戻ったヤールも話に加わってきた。

コートではMr.ヘクトが相手を圧倒していた。

大柄な体に拘わらず機敏な動きで相手がコーナーに打ち込むボールを適切に打ち返していた。

「舅は運動も好きですが今度は劇団を指揮して上演するのに劇場を作ると申していますのよ。既に設計も済んでいますの、お二人は其方には興味がありますかしら」

「いや演劇はどうも」

「あら残念ウィリーさんならいい役者になれると思いますのに、舅はもう目をつけたと思いますよ。今はアラディンの配役を選んでいますの」

ウインターダフネの香りがひと際さえてきて自然と花の話になった。

「ショウタロー、家のリリーマグノリアはまだ咲かないのよ、どこか咲き出したところはあって」

Mr.ThomasThomasのお宅と寅吉旦那の家では昨日から咲き出したそうです」

ケンゾーは驚いた、ここのところほとんど一日中一緒に出歩いている正太郎がそんなことを知っていたことにだ。

「正太郎君、君何時の間にそんなことを知ったんだい」

「アァ先生はいつも一緒にいるのに不思議だと考えたのですね。それはですね家に戻ったときによく小さい子達がお使いに来るでしょう。彼らは暇なので彼方此方の家のお手伝いに買い物や届け物をしながらそのような小さなことでも僕に話してくれるのですよ。どこ其処の家の猫が今日は遠くまで散歩に来ていたとか、誰の家の猫が仔猫を生んだとかね。まるで噂好きのおばあさんみたいに町の情報がMaison de bonheurにいるころから僕のところに集まるのですよ。寅吉旦那が俺の子供のころと同じでお前は自然と情報のほうで集まる体質だというのです」

話は木蓮のことに戻って「先生リリーマグノリアは木蓮のことです」

「アッあの赤紫の花のことかい」

「そうです白いのはユーレンマグノリアで白木蓮といいます。あの築地の傍のは辛夷と言う花で同じ仲間です。あれは単にマグノリアと呼ばれています」

「こぶしというのかい、花の名前はあまり知らないのだよ」

Maison de bonheurとか植木場で教えてもらいましたから普通の人より知っている程度です。アッ知事さんがおいでですよ」

「やぁ、皆さんこんにちは。正太郎君久しぶりだね、最近Maison de bonheurから虎屋へ移動になったそうだね」

「はい、今はお店の先輩に当たる吉田先生の下でいろいろ学ばせていただいています」

「始めまして吉田健三と申します。10日ほど前にロンドンから戻りました」

「オオ君が吉田君か。石川屋から噂は聞いたよ、知事を拝命しているイセキモリトメじゃよ」

石川屋は境町のケンゾーたちの住まいの近くで生糸や北陸の物産の売り込みをしていた。

50にはまだ間がある知事の盛艮だが髯は立派だが頭はだいぶ後退していた「髷を結うときには不便を感じなかったが散切り頭にしてからはここが目立っていかん」といつも頭をぴしゃぴしゃと叩いては人々を笑わせていた。

最近の英吉利のことを聞いたり、鉄道の埋め立てで伊勢山の土を削るので神社を野毛に移動させ、伊勢の森と言う名にちなんで伊勢から皇大神宮を勧請して其処を新たに伊勢山とする話などをヘクト親子とお茶を飲みながら出された菓子を旨そうに食べ、話題は広がり続けた。

「最近おかしな盗難が多くて役所では困っている。なぜか壷が盗まれたり掛け軸がとられたりと言う届けが多い」

「よほど高価なものですの」

ハンナがお茶をついでまわりながら話を聞きたがり先を話すように知事に促した。

「それがそれほど高価なものとも思えないのだよ。盗んでも売り払おうにも二束三文でしか売れないようなものばかりだ」

「どうしてでしょうね」

「そうなんだよ。高価な皿や時計があるのにそれには目も呉れないのだ」

ウィリーは店に寄るというのでジャーディン・マセソンへ向かい、残った者達は夕刻までかわり番子にコートに出てプレーを楽しんだ。

正太郎もケンゾーのラケットを借りてミス・メイヤーの手ほどきでコートに入った。

ハンナが応援してラケットにボールを当てられるように為り直ぐに彼方此方と走りまわされるのだった。

「其の様子なら直ぐに上手くなるわよ。Mr.吉田について時々は遊びにいらっしゃいね」

ハンナがそのように誘いケンゾーも「ぜひお邪魔させていただきたいものです」そういう話に直ぐ決まり「お天気のよい日にはお待ちしています」と直ぐにでも毎日お出でなさいといわんばかりだった。

夕日の中をケンゾーたちと連れ立って知事は馬で山を降りて町へ戻った。

境町に戻ると近くの岡本から旦那のお呼びがかかっているというので正太郎とケンゾーは其方に廻った。

部屋へ通されると海坊主の親方と寅吉旦那それと喜重郎さんがひそひそ話をしていた。

「待っていたよ。正太郎もこっちへおいで」と新しい膳を出させて招いてくれた。

「何か難しい話でもなさっておられましたか」

「いや、埋め立ての人員の確保と割り振りの差配を誰にしてもらうかの下相談さ。それとこの間から彼方此方で盗難が続いている掛け軸なんだがこの家でもいつの間にか2本なくなったそうだ。それも赤富士のやつだけなんだとさ」

「先ほどヘクトさんのところで井関知事から聞かされましたが、それは高価なものなのですか」

「そうでもないだろうぜ。おいお俊いくらぐらいのもんだ」

「あれは図柄をいろいろ取り違えて五本を三分で買いましたよ。まだおんなじのが店にはたくさんありましたよ。それがさぁお客が帰って片づけをしたときには確かに架かっていたと光も言うしあたしもそう見えましたのさ。その後帰ったのは越後屋の手代とかいう二人ずれさ。まさか呉服屋が掛け軸なんぞ持っていく訳がないだろうし」

「でも越後屋の手代と言うのは間違いありませんか」

「顔は知らないけど越後屋の大風呂敷に反物を入れた行李をくるんでいたしお光に何本か開いて見せたそうだよ」

ケンゾーは先ほど井関知事から聞いた壷と掛け軸の話をした。

「家では壷は取られたことはないけど、あんなもので届けを出すのも面倒だねえ」

「と言うことだとですね、ここと同じように取られても届けを出していないうちもあるかもしれませんね」

「そうかもしれないね」

ケンゾーは其の話を切り上げて呼ばれた用件について寅吉に話を振った。

「そうそうお前達を呼んだのは卯三郎さんと花火師の鍵屋が来るから引き合わそうと思ってさ。前々から卯三郎さんたちは花火の色や形について工夫しているが中々思ったように出来ないで悩んでいるのさ。いい思いつきでもあったら教えてあげてくれ」

謙遜するケンゾーにどんなつまらない事だろうと本職が聞けば工夫次第で花も咲くからと二人に話を預けてきた。

其の後は卯三郎さんたちが来るまで埋め立ての話や夏の遷宮祭の支度のことなどお俊さんが座を取り持ちながら話を聞かせてくれた。

待ち人も現れてにぎやかに芸者も呼ばれてきた、知り合いが最近開いた芸者屋の抱え芸者だということだがなかなか芸達者で器量も人並み以上に優れていた。

その夜は穂積屋さん鍵屋さんも交えてにぎやかに遊んで別れた。


翌朝ケンゾーが起きると正太郎は出かけていた。

昨日の話しだがケンゾーにはおかしいと思うことがいくつかあった、掛け軸は全部で何本盗まれたのか、それと他で盗まれたものはどういう図柄だったのか、考えながら紅茶にブランディを垂らして飲み縁側で朝日が山手から昇ってくるのを眺めていた。

正太郎が帰ってきて縁側に上がってきた。

「先生、町で聞いた話では盗まれたのは赤富士の刷り物を掛け軸に貼り付けたものだったそうです。子供たちが知っているのは全部で8本、壷はひとつだけでした」

「こんな早くから町の子達はなにをしているんだ」

「母親がお茶工場に出かけるので自然と集まる場所が出来ています。今は三ヵ所ほどで30人くらいは集まっています。大きい子達が辰さんの肝いりで引率して消防用具置き場の周りの掃除や小さい子達のお守りをしています。でも出てこない子達がまだ大勢いるのでその子たちがどうしているかベアトリス先生は心配しています」

「其のお茶工場にはどのくらいの人数が働きに出ているか知っているかい」

「辰さんの話ですと今年の正月頃には300人は働きに居留地に入っているそうです。清国の人たちも500人はくだらない人たちがお茶工場で働いているそうですから大変な数ですね。でも一年中仕事があるわけでは無いので仕事にあぶれてしまうのは日本人のお上さん達なのです」

「そうかお茶工場の暇なときも何かできる仕事を考えないと其の人たちは大変だな」

「先生そういうことも良い考えをひねり出してくださいね」

「そうだな、女の人たちが一年中仕事に就けるように仕事を作るように考えてみるよ。考えがまとまったらウィリーに話しておこう」

其のウィリーが起きてきて俺にもお茶を入れてくれと椅子に座った。

「俺の名前が出ていたが何のことだい」

正太郎が今の話と昨日の岡本での話しをウィリーに説明した。

「そうだなそいつは気が廻らなかった。一年中安定した仕事をケンゾーが考えたら必ず俺のほうで其の人たちを雇うことにするよ」

正太郎たちは其の後掛け軸の話と壷がひとつだけだったことの意味を考えていると食事の支度が出来たと賄いを引き受けてくれているおかつさんが呼びにきたので食堂に向かった。

日本家屋の台所を改造して隣の部屋にはテーブルが置かれて其処で食事ができるようにしてあった。

ウィリーは早く日本になれようと朝の食事は日本式にしたいとここに住み込んだだけあって早くも味噌汁にも慣れてきたようだ、ケンゾーが頼んで煮干しではなく削り節だけの出汁にして作らせたので早く慣れたのかも知れない。

さすがに沢庵は勘弁してくれと言うので食卓にも置かないように頼んであった。

今朝は豆腐の味噌汁と目玉焼き、付け合わせに茹でたジャガイモに新鮮なバターが添えられてあった。

「横浜は贅沢なものだ」

フォークで刺した白菜の塩漬けに醤油をちょっぴりつけて口に運びながらウィリーが正太郎に話しかけた。

「どうしてですか、英吉利ではもっと贅沢な食卓で朝の食事をされていたのでは無いのですか」

「イヤイヤ、俺達のいた下宿では朝はスープとパンにジャムが付けばいいほうだった。なぁケンゾー」

「そうだったな。ここでは新鮮な卵に新鮮なバターまでがついているものな。贅沢には限りがないがよほどのことがなければ朝から目玉焼きなど附かなかった」

「そうなんですか、知らなかったなぁ。英吉利や仏蘭西ではもっと贅沢な人ばかりだと思っていました。横浜でも毎日卵が付くのは珍しいのです。ここのおばさんの実家が虎屋に卵を卸す人の多い村なので息子さんから三日にあげず届くんです」

「そうだったのか、一月の食費を一人五分で賄ってくれといってあるから赤字にならないならそれでもいいさ」

「安くていいよな、ロンドンでは一月3ポンド以下では暮らせやしないからな。五分だと一年でも六十分だろ」

「そうだ、年で十五両だから六ポンドだ」

「計算が速いな、日本の金も難しいが英吉利もややこしくていかんよアメリカのように1ドルが100セントと言うのがわかりやすくていいよな」

「日本でも新しい貨幣単位を導入するぜ。偽札を防ぐためにドイツやアメリカで札を印刷させたり、金貨や銀貨を新しい単位で作るそうだ。また聞きだがMrキンドルを造幣首長に迎えるという話だ」

元陸軍少佐、元香港造幣局長とか言うあの気位の高いおっさんだろ、すごい高い給与を出すそうじゃないか」

「そうそう、東洋銀行の支配人Mr.ロベルトソンからの話を聞いたものが言うにはトーマス・ウイリアム・キンドルと言うことだった。一月1024ドルだそうだ」

紙を出して計算していたが「嘘だろ、そうすると1年で3720ポンドかよ。うらやましい限りだな、日本の政府は金が有り余っていると見えるな」
「金などないさ、旧式がいかんと何でも新しくして借金で首が廻らなくなるのが落ちさ。鉄道だって引けば儲けにはつながるだろうが、素人集団で相手の言いなりでは儲かるのは金を貸す銀行だけだぜ」

「百万ポンドの公債の事だろ、まぁ其のおこぼれでわが社も儲けにつながっている手前文句を言う訳にもいかんがな」

「せいぜい悪口をいいながらでも商売させてもらうしかないよな」

「しかしケンゾーは望めば政府の中枢にでももぐりこめるだろうに」

「そいつは同かな、俺にはお役人は性に合わんよ。寅吉旦那のように多くの人に仕事を与え、次世代のための人材を育てるほうが良いな」

「店で聞いたが、長崎のグラバー商会がいよいよ倒産となりそうだ」

「ジャーディン・マセソンは影響がないのかい」

「それほどの負担にはなるまいよ。もう既に元本の回収は済んで利の支払い分が残るだけだからな。かわいそうなのは弱小の商社さグラバーの経営が原因でなくて売り込んでもらった先のお大名が昨年の版籍奉還で倒産状態じゃ回収の見込みなどないのさ。国が肩代わりするとは言うがどこまでしてくれるか良くわからないらしい」

「其の先の政策として廃藩置県としていよいよ中央集権国家となるという話も聞いたよ」

「田舎のお役人が国の中枢の大事を取ったり三年前には異国嫌いだったお公家さまたちが政治を取り仕切れるのだろうかな」

「旧幕府から人材を召しだすしか方法は無いだろうさ。寅吉旦那の話だと勝先生を召しだしては直ぐ辞表を出されて困っているそうだ。大体外務大丞だの兵部大丞といっても部局だけでも上に二人いてその下に付けといってもうんと言うわけなどないさ」

「反対勢力の親玉を召しだすというのはよっぽど人材がいないのだな」

「その代わり勝先生は補助的な役割の局長クラスに多くの幕臣や親徳川の有力藩の人材を数多く推挙しているそうだ。鉄道関係も塾頭の佐藤先生を推挙したそうだ」

「先生、先生のご存知の陸奥先生ですが」

「何か噂を聞いたかい」

「はい、神戸からの連絡がありました。紀州藩の代表で神戸から船で出かけられましたが、政府でもあわてて紀州藩に掛け合って半年後に代理を送って帰国させることになったそうです」

「そうかそれなら来年春過ぎにはこちらに戻られるかな」

「海援隊の方のうちアメリカに留学された方々も早く帰国してお役につくように連絡が出たそうです。勝先生の塾関係でも高木先生、富田先生にも官へ出仕するように連絡が行くそうです」

時間が来てウィリーは仕事に出かけ、正太郎とケンゾーは元町の虎屋へ歩いて向かった。

二人は勝治と打ち合わせをして、その日頼まれていた口利きを何軒かの商社へ出向き虎屋との契約を結んだ。

時間はまだ三時だったので弁天通り一丁目の虎屋に春太郎こと鴻上春太郎に会いに行った。

春は横浜虎屋の責任者として町で知らないものは無いくらい押し出しの効く人間になっていた。

水屋も横浜の半分は彼の下に入り人が増えれば増えるほど水の需要は大きくなっていたのだ、共同水道は案はあっても予算の関係で中々本決まりにならなかった。

人口が大きく膨らんだ横浜の水を賄うだけの水源は相模川か多摩川でしかまかなえず今だそこから水を引く手立てが見つからなかった。

春太郎は寅吉が共同経営者にまで彼を引き上げていた。

例の不思議な掛け軸の盗難は春も聞いていたが首を傾げるばかりだった。

町でもそれほど多くの人の話題に上らないのは、こそ泥や空き巣被害ほど盗まれた当人には響かない品物や金額のせいかもしれない。

「イヤァ昔と町の場所が変わったりして新しい町より面倒になってしまいました」

「ケンゾーさん、町の名前もそうだし例の掛け軸がらみのおかしな話はまだある、知事様のほうで聞いたという壷だがあれはたいした値打ちもない安物の上に、裏手に割られて捨てて有ったそうだ。なぜ家から持ち出したのかよくわからんと安部様が話してくれたよ」

安部とは昔の奉行所時代から横浜の治安に預かる同心で今は町の治安を預かる羅卒として勤務していた。

政府も県庁も手不足で実際の町の治安は居留地ではMr.ベンソンが旧幕時代から取り締まりにつき、横浜は各名主から選ばれた町役人の下に昔の御用聞きそのままの親分、下っ引がいた、目明かしと言う古い呼び名で話す人までいまだにいるそうだ。

「ケンゾーさん話は変わりますが、あなたと英国での知り合いが間も無く青森でお預けの身から解き放されるそうです」

「もしかして信五郎いや董君ですか、佐藤先生の話しではまだ先になりそうだと聞かされましたが」

「早ければ今日明日にも青森で御解き放しになりそうです。今は董三郎と名のっているそうですが大倉屋さんのお計らいで新選組の生き残った人たちと10人ほどが横浜へ船で向かうことになりそうです。青森は雪が深くて陸路は覚束ないそうですのでね」

「そいつは嬉しい知らせです。ロンドンでは三回ほどしか会えませんでしたが不思議と考え方や勉強の方針にうなずけることの多い人でした」

「家の旦那もあの人やアメリカへ行った高橋和吉君などヘボン先生夫妻の教え子を大分買って居りますよ。将来の日本の大きな力になる人だといつも言われています」

「そうですか、私も出来る限り其の人たちのお役に立てるように力を尽くしましょう」



翌日の朝、元町に顔を出してからケンゾーと正太郎は辰さんに会うために野毛へ向かった、今日は朝から子の神社で消防の寄り合いに参加していると聞いたのだ。

「きっと千寿さんが子供達にいろいろな遊びや砂に字を書いたり絵を描いたりして教えていますよ」

「なぜ砂に書くんだい」

「あの子たちには紙や筆を買う余裕がないし、砂ならお天気さえ良ければどこにいても勉強になるからです。もう少し大きくなれば寺子屋にでも行かせる親も出るでしょうが」

「いくつぐらいの子が多いんだ」

「たいていは三才から五才位ですが中には子守の子もいるので十才くらいの子も混ざっています。簡単な字でも習ったことがない子が多いので遊びを交えて千寿さんが集まってきた子達に教えています」

「そうか、どこかそういう小さな子から大きな子までいろはから簡単な漢字や英吉利語か仏蘭西語を遊びながら教えられればいいな」

「僕もそう思います。孤児の家に来るかわいそうな子はそれでもあそこで食べるもの着る物に勉強も面倒見られますが、入ることの出来ない子達が何も勉強する機会がないまま大きくなるのはこの国の将来にも大きな損失です」

「そうだね、そういうことも俺たちで出来る事はなるたけ協力しないといけないね。横浜だけでなく多くの田舎の人たちにも新しい学問を学んで欲しいものだね。ただね正太郎君いくらそれが正しい道で直ぐにでも必要だということでも自分が飛び込んでそれを行うよりも、私わねそういう気持ちの人を援助できる商売の才覚があると自負しているんだ。だからできるだけ稼いでそういう気持ちの人を援助するつもりだ。そういうことも必要だと英吉利で学んだし、寅吉旦那が言う商売は自分だけの利益じゃないということを実践していくよ」

「はい先生。僕も焦らず今すぐに出来なくとも、一歩一歩前にこの国が進むようについていこうと思います」

「そうだね。共にこの国に明るい未来があると信じて自分の道を歩いていこう」

二人は吉田橋から野毛橋を渡り子の神社へ向かった。

やはり正太郎の言うとおり千寿が小さな子や子守っ子に絵や字を書いてそれにまつわる昔話やおとぎ話を交えて遊んでいた。

「千寿さんこんにちは。辰さんは今日ここで寄り合いがあると聞いてきたのですが」

「正太郎君今日は、家の人はもうじき出てくるわよ。もう話が終わって主だった人たちは帰ったから直ぐ出てくるわ」

ケンゾーを紹介して挨拶を交わしているうちに辰さんが出てきて話に加わった。

ケンゾーが気にかかっていた事をお茶場で働く人たちから聞きだしてもらうことにして子の神社をあとにして藤見蕎麦で昼にした。

二人は貸し馬の背でのんびりと山手へ向かった。

Coffee Hillで馬を帰して町の噂を聞くために中に入り、富士が夕日に照りだすのを見てMaison de bonheurに向かった。

二人のマドモアゼルに今日聞いたお茶場の女性の子達や、小さな子達の学校を引き受けてくれそうな人の心当たりを探してくれるように頼んだ。

「私たちもこれ以上は無理があるので亜米利加か英吉利の人たちとも話し合って見ますね」

二人もやはり気にかかっていたらしく場所と人選にお金の話をどこに持っていくか相談すると約束してくれた。

やはりここにも掛け軸の盗難の話が大げさに伝えられていた、泥棒の話や食べ物の盗難は聞くが「あまり転売する値打ちのない安物の掛け軸は不思議ですね」と首をかしげるのだった。

ケンゾーたちは二人のマドモアゼルに別れを告げて暗い月の中ちょうちんを提げて地蔵坂を下った。

西の橋付近で大きな荷を風呂敷でくるんだ二人ずれとすれ違った。

すれ違うとき不思議な香りをかいだケンゾーは振り返ってみると二人の男たちは元町へ入っていった。

声を潜めた正太郎が「どうしました」と聞いてきた。

同じように声を潜めたケンゾーが「提灯を消してくれ」とささやき男達を付け出した。

「お帰りなさいませ」

住田家と言う小さな旅籠に入ったのを見届け、境町へ戻りながら「あの香りどこかでかいだような気がする」とケンゾーはつぶやいた。

「先生あれは最近丸屋さんが売り出したベーラム油と言う髪油の匂いと同じですよ」

「ベーラムはラム酒に月桂樹の葉を浸して作ると聞いたことがある」

「早矢仕先生も自分のところで作れないか研究しているそうです。まだ良いものが出来ないので仕方なくドイツからの輸入に頼っているそうです」

「そうだ、其のベーラムの香りにもうひとつ何かが混ざっているそれが何かがわからないのだ」

「でも丸屋さんでは何も混ぜていないはずですよ。Mr.John Mac Hornさんが輸入して丸屋さんへ卸していますから」

「ではどこか別の店で輸入品に油でも混ぜて鬢付けの代用品でも作ったのかな」

ケンゾーは首をかしげながら何処かで嗅いだ匂いには違いがないはずだがと考えながら境町まで黙って考えをまとめるかのように歩いた。

正太郎もケンゾーの邪魔をしないように前を提灯で照らしていた。

 


朝、いつものようにケンゾーは台所でコーヒーを入れ廊下のロッキングチェアーに座った。

やはり今日も正太郎は夜明けと共に町を廻ってきたらしく、庭から廊下に上がってきた。

ウィリーも起きてきて正太郎にコーヒーを入れて来てくれるように頼んだ。

ケンゾーの分も追加して三杯のコーヒーと砂糖にミルクを持ってきて三人で朝の一刻を過ごした。

タバコをすわない二人の大人は商売のことなどを話し、新聞のことや居留地の噂を題材に食事の支度が出来るのを待った。

いつもウィリーの起きるのを待って竈に火を入れるのがこの家の習慣になっていた。

「ところで君たちの旦那のお店では女物の香水は入れているが男性の物には興味がないのかね」

「そうだ、それだ」

「なんだケンゾーいきなりどうした」

「それだよ、それ。男性のための香水さ」

「だからそれがどうしたんだ」

「まだ君には話していなかったが昨晩家に帰ってくる途中で髷にベーラムの香りがする連中とすれ違ったのさ。其のうちの一人が他の香りを仄にさせていたんだ。其の匂いがロンドンで嗅いだフジュールロワイヤルそっくりだったことに今気がついたんだ」

「ほう馬鹿におしゃれな男じゃないか、しかし髷を結っているところなどそんな香水を使う様子とも思えんな」

「それで昨日から悩んでいたのさ、洋行帰りならそのような習慣に染まっていることも有るだろうがね。見た様子では担ぎ呉服みたいだったし」

「なんだね。其の担ぎ呉服と言うのは」

「着物の生地を商う男たちのことだよ。荷物を持って家庭を廻ったり、女たちの多く働くところへ見本を持っていって予約を取るのが商売さ」

「それならおしゃれな男がいても不思議では無いな」

「それにしても髪油に香水とはね、日本人にはめったにいないのだよ」

「先生、其の香りがする人たちが何かおかしいことでもあるのですか」

「正太郎、担ぎ呉服がそんなに儲かる商売とは思えないのだよ。ベーラムにしても香水にしろ高価なものだろう」

「そうでしたいくら呉服が売れても、そんなにおしゃれに金を使えるのは不思議に思わなかったのは、僕が横浜の風に染まりすぎたのかもしれません」

「そうなんだよ。この横浜から出ないでいるとここが日本だということも忘れてしまいそうだ。江戸だってここから見れば今は田舎同然らしい」

「オイオイ、お江戸の町なんぞ言うなよ。今はトウケイというのだろ」

「そうだった、つい癖でな、イギリス人のウィリーから注意されてはかたなしだ。それも含めて気をつけて生活しないと日本人だということまで忘れてしまいそうだ」

「大丈夫だよ。本当は店でもトウケイなぞと言うものはめったにいないそうだ、いまだに江戸に行くとか、築地居留地のエドホテルに泊まりにいくと言うのだぜ」

まさかそんな事は冗談にも過ぎるぜと笑いながら食堂で朝食を食べてその日の仕事へ向かった。

ケンゾーと正太郎はまず元町へ出向き勝治とその日の打ち合わせをした。

其の後相生町に戻り気になっていた岡本のお俊さんが掛け軸を買った店を訪ねて見た。

立派な紳士然としたケンゾーが身なりの良い正太郎を従えて三丁目の貴舩堂と言う店に入ると番頭が跳んで出てきて「何かお探しでしょうか、番頭の木助が何でもご相談に応じます」洋行帰りのお大尽と見たか馬鹿に愛想良く応接間のテーブルへ案内した。

「いや暫くぶりの日本なのでとりあえず安手の掛け軸を二本ほど欲しい。今建てている家が出来たら改めてよいものを探そうと思うが、異国の友達が君の家には日本の版画もないのかと言うので何か掛け軸に装丁した派手なものはないか」

どうやら後でうまい商売にありつけると踏んだか何本かの版画を掛け軸に仕立てたものを持ち出してきて部屋の彼方此方に掛け出した。

中に北斎の富嶽三十六景の凱風快晴がすり違いか色が違うものがあった。

「この北斎のものを仕立てたのはいくらかな、できればもう少し買ってもいいのだが」

「では後何本かありますのでお持ちいたします」

持ってきたのは三本で前の物とあわせて五本になった。

「摺りが違うようだな」

「さようで御座います異国のかたのお土産にはこの色の青みが勝った物、色町のお店のかたは赤いほうがお好みのために版元がいくつかすり色を変えて居ります。此方はさる大店のご主人が酔狂でご自分で装丁までされた貴重なもので御座います。五本お求めいただければ二両二朱でいかがでしょうか。これでも大分お勉強させていただいております」

ケンゾーは大分ぼりやがると思いながらも鷹揚に「それで良いだろう。この子に持てるように包んでくれたまえ」と財布から二分金四枚と二朱銀を出して渡した。

ケンゾーは英吉利から帰る時にスミス商会から君の分の残金だから直接横浜物産会社へ返したまえと渡されてきたが、寅吉の方でそれは処理済の金だからケンゾーの資金にしたまえとそのまま貰えたのとジャーディン・マセソンの手伝いをしたときの金がまだ十分残っていた。

境町に戻ると正太郎と鴨居から提げて眺めて見た。

「先生大分儲けられましたね」

正太郎が今まで我慢していたかのように見世の様子や番頭の物腰など観察していたことを話し出した。

「本当だ。値切っても良かったがもう少し番頭の口を軽くさせようと大様に切り出して失敗したな」

「あの番頭、赤富士が盗まれていることも知らないようでした。他の店で買っているのも盗まれたのでしょうか。それにしても大店のご主人が酔狂で軸物にしたなど売り込み文句にしてもおかしな口上でしたね」

「本当に正太郎君の言うとおりだ。幾日かたってもう一度あの店に行って見れば何か判るかも知れないな」

「まだ何か買う予定ですか」

「どうせ横浜で働くなら春さんに相談して家を見つけるさ。其のときのために顔を売るのもいいかもしれないと思ったのさ。何度か行けば掘り出し物にも有り付けるかも知れないしな」

「でもこれからは言い値では買わないほうが良いですよ」

「そうだな。あまりあそこに儲けさせては商売替えでもしかねないか」

そんなこともないでしょうがと正太郎が笑いながら塗り物仕立ての切り軸を触っていたがひとつだけ軸先が緩むのに気がついて捻って見た。

「先生細い穴が開いていて中に何か紙が入っています」

「ほうそんな仕掛けがあったか、おやおや大分細い穴をくりぬいたものだ」

「これなら空洞だとは気がつかないくらいですよね、どうやって紙を取り出しましょう」

「反対側はどうなっているか見てみよう」

其方も少し力を入れると外れて同じように穴があった。

正太郎が細い火箸を借りてきて反対側から押してみると紙縒り状に捻った紙がでてきた。

紙には中居屋重兵衛後の印としてこれを記すと書かれていて、さらに元治元年師走としたためてあった。

重兵衛後の証拠として二代目にこれを残すゆめゆめ違うべからず

元治元年如月長崎へのたびの途中横浜商人寅吉と申す男と道ずれとなりそれまで肌身につけていた貸付証文を無効として同人に宅せり

同人には証文の効力無効なりせど少しは商売に利ありと渡しけるが一向に其の相手先への音連れなしと聞くゆえに我が家の後を継ぐ者にこの書を託すものなり

其の後も商売のこと家の事など書かれていたが後ろの部分が裂かれていた。

「途中で切れているのはどういうことでしょう。寅吉と言うのは家の旦那でしょうか」

「長崎への途中と言うことからもそうかもしれないが、どうしてこんな所にしまいこまれているのかね」

「中居屋さんは店じまいをしましたが大層な財産を残したという話も伝えられています」

「そうかそれでこの後半を手にした者が前半の部分に先代のお宝のありかでも記されていると探しているのかな。それにしてもなぜこんな軸に入れてあるんだろう。店に行って寅吉旦那と話してみるか」

二人は二丁目の横浜物産会社へ出向き連絡員に旦那の所在を尋ねた。

当番の信司郎と丸高屋へいったと聞いて駒形町の丸高屋を尋ねた。

喜重郎社長の応接室で話をしているというので都合を聞くと二人とも入ってよいというので入室すると県庁の安部様と岡本の親方も交えてコーヒーを飲んでいた。

「どうしたい、急ぎの話でも有るのか」

「旦那ちょっと外へおいでいただけますか」

「良いとも、皆さん少し中座をいたします」

断りを入れて庭に出ると二人は先ほどの書付を渡して掛け軸の話をした。

「ほうそんなからくりがあったのか、あのときの重兵衛旦那は相当の年寄りに見えたがやはり体が弱っていたのかもしれない。あのときのお供さんとは一度顔を合わせたが、双方道中の途中だったので声を交わさずに別れた。あの時は江戸へ官軍が集結しだしてあわただしい一昨年の今時分だったよ。部屋にいる人たちは例の書付の経緯を知っているから遠慮はいらないから中で話そう」

寅吉が先頭で部屋に入り座が落ち着くと寅吉が其の話を持ち出した。

「ほう、例の俺たちが立会の上で燃やした書付がそんな風に今時なんの役に立つというのだ」

「安部様、それはこの書付を読まずにいた者達にはまだ重兵衛さんのお宝の在り処を記してあると思って居るかもしれませんぜ」

喜重郎親方がそのように言うと「この後の半分には総額いくらになるとでも書かれていたかもしれんな」

「しかしなぜこんな細工をした軸が町へ出てしまったのでしょうか」

岡本の親方が「あの時二代目がなくなって店を仕舞った時の大さらえで出物にでも混ざったかも知れんな。二代目は絵が好きで大層な数のものを掛け軸仕立てにしたりしていたから白地のままのものが出てきても不思議では無いだろう、大層しまり屋で自分の使うものは安手の物が多かったそうだ」

「それで貴舩堂の番頭が大店の主人自ら装丁した軸などと言ったのですね」

「それにしても、もうない証文を探してこんな掛け軸を探し回るとは無駄なことじゃな。これ以上騒ぎにならなければいいが」

その日は掛け軸の盗難の理由の一端がこれで判明したかもしれないと一堂は安心してそれぞれの仕事に戻った。


翌日の朝、紅茶にしようと仕度を始めたケンゾーのところへ正太郎がすっ飛んできた。

「先生大変です。昨日の貴舩堂が強盗に入られました」

「エッそれであそこの人たちは無事かい」

「ええ、怪我をした人はいなかったそうですが、掛け軸は全て持ち去られたそうです」

「そりゃ大変だ、昨日安部様に元町の住田家へ入った担ぎ呉服の話をしなかったがそっちを当たって見るか」

「私の友人を使って見張ってもらいますか、先生は朝飯を済ませたら前田橋までおいでください。それまで人を集めて見張っておきます」

「そうだな目当てのものはまだ見つけていないのだから焦る事は無いな。番頭たちが脅かされて家で掛け軸を買ったことを喋ってもここへ盗みに入るなら早くても今晩遅くなってからだろうから、安部様の方へ話して手を回してもらうにも時間があるというものだ。見張るのもおなかが減るだろうからお小遣いを上げて買い食いでもしてもらおう、あとで細かいお金を持っていくよ」

「そうしてくださいますか。一朱でもあの子たちには大きすぎるお金なので銭の方が良いのですが」

「良いともそうするよ」

正太郎は朝の食事もせずまた急いで出て行った。

ウィリーはやり取りを聞いていたが良くわからないようなので紅茶を飲みながら説明をするのだった。

「大丈夫かい。子供たちだけで」

「その方が良いのさ。なまじ大人がうろちょろしてはここの家に押し入る前に逃げ出してしまうさ」

「よせよ、ここに押し入るのを黙ってまっているのかよ。だが其の男たちが犯人と決まったわけでもないのだろ」

「それはそうさだがあたって見なけりゃ判らないこともあるさ。今晩から夜は岡本へ避難して昼間だけここにいれば良いのさ。それに現行犯で捕まえないと後が厄介だ」

「そうかそれなら年寄りも安心かな」

おかつ夫婦へもそれを話すと玄三は「なにここへ押し入るならおらがとっつかまえてくれますだ」

「そんなに意気込みなさんな。餅は餅屋に任せてみんなで高みの見物と行こうよ。寅吉旦那も面白がって岡本に篭城するかも知れねえよ」

それでもケンゾーは食事が済むとありったけの小銭をおかつ夫婦にも出してもらった上で、握り飯をこさえてもらって前田橋へ向かった。

「待たせたね」

「先生旅館から例の呉服屋たちは動いていないようです。知り合いの女中っ子に聞くと五人の担ぎ呉服が10日前から泊まっているそうです」

「よくやったね。さあこれが朝飯だ、それからこれが細かい銭だよ、中に小粒の銀も入れてきたから何人かで分けて何か食べに行かせなさい」

「ありがとう御座います。由坊今何人来ているんだい」

「俺たちの仲間だけだから11人だよ」

重い巾着を覗くと中に一朱と波銭に混ざり巾着には刺しが二つと細かい一文銭が入っていた。

「さぁ、これだけ持っておいきよ。一朱と波銭をひとつかみ渡すと「こんなに預かっていいのかい。みなが喜ぶよ」と遠慮せず嬉しそうに駆け出した。

「さぁ、俺たちは元町の店に顔を出して連絡場所の確保をしておこう」

店に向かう途中で順吉と寅吉旦那が山から下りてくるのに出会った。

これ幸いと「お話があります」と言うことでピカルディの脇から入り奥座敷で経緯を話すと「ではここを本陣としようぜ。安部様を探して俺とケンゾーがお会いしたいと連絡をつけてくれ」順吉にそう話して「正太郎誰か二人ほど此処へ連れておいで中へ入りにくいだろうから木戸のところへ一人立たせておけば連絡が付けやすいだろう」正太郎が出かけるとケンゾーは虎屋に出かけラムネを20本買い入れて勝治には簡単に訳を話して旦那が裏にいるから何かあったら相談してくれと頼んだ。

話をしているうちに子供が来て「正太郎さん、あいつら二人ずつ組になって出てきたよ。前田橋を渡って天主堂の方に歩いていくんだ。それで何人かが小さな子を負ぶって後をつけているよ」

「気をつけなよ。俺と先生は天主堂まで谷戸橋から行くから其処で連絡が付くようにしてくれよ」

「がってんだい」

こまっしゃくれた様子の子供だが其処で張り番を命じられたものに「後で迎えに来るから此処で待っているんだぜ」

そう声をかけて駆け出した。

順吉が安部の旦那を案内して元町へ戻ったのは小一時間ほどしてからだった。

「役所に出たら丁度順吉が来て大体の話は聞いたよ。向こうで待っているよりこっちの方が何かと便利そうだから知事閣下の承諾を受けて出向いてきた」

「さようでしたか。まだ目鼻が着く話ではないのですが、どうにも動きが怪しいので探りを入れています」

安部たちがここで暫く雑談をしているとケンゾーと子供たちが戻ってきた。

「正太郎君は二人の子と見張りを続けています。やはり境町の家を替わり番子に覗いて周りの様子を確かめて帰ってゆきました。今は住田家で打ち合わせでもしている事でしょう」

「判った。家のほうで手配が住むまで吉田さん見張りを頼むよ。相生町の伝助に見張りを変わらせるからそれまで此処で采配を取ってくれ」

安部の旦那はそういい置いて県庁に戻り今夜の手配をすることになった。

ケンゾーはラムネを取り出して其処でたむろしている子達に飲ませた。

寅吉も嬉しそうに小さな子の面倒を見る兄貴株の子たちに何かと話しかけていた。

正太郎たちと替わりに何人かが出て行き、先ほどまで住田家の近くにいた正太郎が由坊と戻ってきた。

相生町の伝助が二人の下っ引を連れて元町に出てきて「安部の旦那から話は聞きました。そいつらが吉田さんの家に押し入る下調べをしていたなら例の強盗に間違いはありませんぜ」

正太郎と打ち合わせをして子供たちに「後は任せておきな」そういうと共に下っ引を清次と言う子供に案内させて見張りを代わらせに行かせ、子供たちを引き上げさせた。

「これからも何かあったら俺の手伝いをしてくんな」子ども扱いをせずに直接頭株の二人の子供に名前を尋ねた。

「おいら由太郎だ」

「おいらは紋太だ」

どういう字を書くのか聞くと答えたので手控えに書いて、二人に何か有ったら俺のところに相談に来なよといってから、今日はご苦労だったなといくらかの小粒を握らせて「みなで何か買って食いな」そういって帰らせた。

「正ちゃん、今日は面白かったよ。また何か有ったら呼んでくんな」

風のように子供たちは去って行った。

伝助は寅吉に「此処に県庁から駈使が連絡に来ますから連絡所に使わせておくんなさい」

「それはいいが、駈使とはなんだよ」

「まだご存知ありませんでしたか。旦那らしくもない、足軽のことを今度は駈使と呼べとお達しでさぁ」

「かけしたぁ、どういう字を当てるんだ」

「駆けっくらの駆けるに使用人の使うという字だそうでやすよ」

「言いにくくて仕方ないな。つまらねえ改名だな」

「新しいお役人は何でも自分の考え通りに変えたいそうでやすよ。知事閣下さえ東亰の改変改変の連続には手を焼いているそうでやすぜ」

そういい置いて住田家の周りを見にやらせている下っ引の様子を見に出かけた。

夕刻前に荷物を担いだ二人が出てきた、それに下っ引の長次と駈使の二人が前田橋の先で待ち受けて後を付け出した。

二人は駒形町まで出て飯屋に入り日が暮れるまで其処にいた。

住田家から残りの三人が出てきたのは日が暮れてから、それを伝助たちが後をつけて前田橋を渡った。

元町へ出張ってきていた安部が宿へ出向いて聞き合わせたところ勘定を済ませて今晩は新吉原で遊んで朝一番で江戸へ向かうと言う話だった。

「旦那何かありましたか」

「いや、ただの聞き合わせだよ」

「宿帳には近江の者と書いてありますが家の亭主の話ですと長州訛りがあったそうです」

「ほう長州もんか」

「お武家の出では無いようでしたが、函館でお働きになったときの事をちらと漏らしてお出ででした」

「ありがとうよ、助かったよ」

宿から出てきてケンゾーたちと打ち合わせをして境町の岡本へ向かった。

ウィリーと正太郎、ケンゾーも寅吉たちと岡本に入って夜が更けるのをまった。

家は寅吉の手でおかつ夫婦は横浜物産会社へ避難させて連絡員のものを千代が率いて明かりをつけて賊が来るのを息を潜めて待っていた。

連絡どおり九字になると明かりを小さくして寝入った振りをして賊が入りやすくした。

岡本に駈使が連絡に来て三人の方は県庁付近から本町五丁目の煮売り屋に入ったと連絡が来た。

駒形町付近から吉田橋付近を徘徊していた二人は成駒屋で江戸から来た二人の担ぎ呉服風体の者と落ち合いコマガタバシを渡って馬車道から本町通り付近へ移動中と連絡が来たのは10字に近い時間で上弦の月がうっすらと空にかかる頃合だった。

「どうやら敵さんは七名になったようだ。そろそろ指令を出して公園予定地へ人を集めよう」

安部の旦那の指示が出て駈使たちは各町内の親分たちへ申し合わせ通り配置に付くように連絡へ出た。

火消し組合の者と居留地の消防組は公園へ集まり万一取り逃がしたときや火をつけられたときの用心にポンプ車を移動させてきた。

各自がひっそりと集まり集合を終えたのが12字丁度、煮売り屋を出た賊たちが県庁脇から境町のケンゾーの仮住まいに現れたのはそれから直ぐ後だった。

風呂敷を解き中から長脇差を腰にさして庭に侵入しだした賊を取り囲んだのは各町内の親分たち、その多くは長十手の使用を許された元は神奈川奉行所の同心たちだった。

新政府の役につくよりはと各町内の取り締まりに雇われた腕自慢たちだった。

其の後ろには棒やさすまたで脚ごしらえも厳重な下っ引や駈使。

寅吉とケンゾーは遠巻きに公園近くで正太郎に見物させるために出ていたが近寄る人々がいないのも各町内の筋々で人止めを火消しがしているためだった。

安部が「長州訛りから見ますと奇兵隊の脱走では無いでしょうか」と知事閣下の了解を得たのは少し大げさながら大勢の人を集めるためだった。

それを聞いては元同心たちの指揮はいやがうえにも上がっていた。

庭に七人全部が入ったのを確認して一斉に明かりがともされた。

真昼かと思うばかりに照らされて一瞬はすくんだ賊たちだったが其処はさすがに修羅場を生き抜いてきた仲間と見えて木戸を盾ににらみ合いが続いた。

どこを抜けてきたのか芸者を二人連れた平八さんが現れたのも其のときで、寅吉がすいと人を掻き分けて「平八さんちと取り込みがありますからこちらへお下がりください」

「おや、寅吉の旦那か、なにがあるのですかね」

いつもの大声が切っ掛けになってか賊たちが一斉に飛び出してきた。

手薄のところと見たか二人ほどが寅吉と平八の傍の芸者を狙って走ってきたが、寅吉が芸者二人を後ろの下っ引に投げ出すように渡して一人の長脇差の下へ入った。

正太郎から見るとまるで旦那が刀の下へ切られに入ったように見えた。

其の一瞬には賊は三間ほど先に投げ飛ばされ長脇差はいつの間にか平八が持っていた。

平八がもう一人の片腕を大根でも切るようにすっと切り上げると腕の筋を切られた相手は刀を落として後ろに二三歩下がった。

其処を長十手の重四郎親分が脇から出て肩をぴしりと打ち据えて早縄をかけてしまった。

寅吉に投げ出されたものは打ち所でも悪かったかそのまま気絶でもした様に動かずにいるところをこれも駈使によって早縄がかけられた。

別方向に出た五人は下っ引連中では手に負えず、安部が一人をようやく捕らえたが後の四人が波止場方向へ逃げ出した。

其方に待機していた下っ引、駈使たちは網と大八で道をふさぎ町会所の倉庫付近で四方から押し寄せる捕り手に四人の賊はついに諦めて刀を投げ出して縄目を受けた。

寅吉とケンゾーが時計を見ると一字を回ったばかりあっという間の出来事だった。

七人の賊は野毛の役宅へ連行して安部が取り調べることになり、引き立てられていった。

消防組も火が出ないことに安堵して解散となり、それぞれのねぐらへ戻った。

ケンゾーの仮住まいに虎屋一同が集まり、芸者は人をつけて送らせた平八も参加した。

「いやはや、旦那の早業には恐れ入った。長どすの下で右手がひらめいたと思ったら俺の右手に束が差し込まれ相手は空を飛んで行ったんだからな」

「右手だと見破られましたか」

皆は其処まで見ていなかったので見たという平八旦那の腕も相当だと気がついた。

千代は自分が子供のときに投げられたことまで自慢に話すし、柳原の土手の天狗話まで持ち出していた。

春もいつの間にか仲間に入っていて千代と変わり番子に今の馬車道で昔寅吉が酔った水兵からお容さんを守った話を型までつけて話し出した。

酒やビール、つまみには鯣やチーズにハムなどを用意させて於いたのでそれを出しての夜中の宴会が始まった。

ウィリーは自分の部屋からロウダーズを2本とオールドパーを持ってきた。

「大層なものをしまってあるじゃないかよ」

寅吉が驚いて覗き込むのを嬉しそうに皆に茶椀を空けさせて少しずつ注いで廻った「Mr.根岸がご存知とは嬉しいですね。こいつはあまり日本には入ってこないでしょう」

「ミスターは恐れ入るな、お前さんはケンゾーとは立場が違うんだコタか寅吉と呼んで呉れていいよ」

「ではコタさんの旦那、こいつを何で知りました。オールドパーは最近売り出されたばかりですよ」

「あちらの新聞に広告が載っているよ。俺の店でも入れたがジンやラムほどは売れないのであまり買っていないのさ。名前の由来も聞いたがえらく長生きした爺さんから取ったというそうだな」

「はいそういう話だそうですよ。それではケンゾーに売り込みをさせて日本で大々的に売りませんか」

「それもいいがこのままではきつくて大量に売れるわけにはいかないな、ジンやラムのように薄めて飲まないのかい」

「あまりそういう人はいませんね。でもソーダで割るかコップに氷を入れて冷やして少し薄めるのはいいかもしれませんね」

平八は味が気に入ったか「ケンゾーさんとやらぜひ虎屋さんで売り出させていつでも手に入るようにしてくれよ。俺が知り合いの料亭に売り込みの口利きをしてもいいよ」

最近相場師の間では神様のように言われだした平八には天下の糸平と言うあだ名まで付いていた。

「糸平さんよ。ちと頼みがあるのだが先ほどの芸者の置屋をやっている新道の高田屋のお倉さんだが、何処か出物が有れば料亭を出させようと考えているのだが後押しをしてくれませんかね」

「お倉はいいが、亭主はどうしょうもないぜ」

「それわねぇ、だが商売には口出しをさせなければ人脈もあるしあの夫婦、岡本にも縁があるようだし後押しは俺と喜重郎さん、それに浅草の新門も面倒を見るよ」

「旦那がそういうなら、いい出物が有ったら口を聞いてもいいぜ」

「頼みましたぜ。あんたが後ろでにらみを効かしてくれれば客の素性も確かな筋のいいのが来てくれるでしょう」

「それなら高島さんと平専にはコタさんの旦那から話をしてくれませんかね。そうすりゃ鬼に金棒だ。だが見世は一、二年の間辛抱してじっくりとやらせましょうや」

「いいだろうぜ、其のころには鉄道も開通して東亰から横浜に遊びに来る酔狂も増えるだろう。今から芸者屋でしっかり稼がせて亭主の手綱をきっちりと取るのを見てからでもいいでしょう」

「さすがコタさんの旦那だ、今日明日と言うなら潰れて元々だがじっくり構えてやらせれば一代は流行らせる事は受けあいますぜ。今は遷宮祭の準備で亭主の亀さんも浮気の虫も起きずに何かと張り切っているようだし、浅草から昔の仲間を呼んで衣装の図柄を選んだりしているそうだ」

この遷宮祭、大行司は高島屋と宝田屋、手古舞が二人の先払いと決まっていた。

祭主には龍山家の親祇さんと決まった、若干16歳の彼は横浜ゆかりの石川家の出でもあったし誰もが諸手を挙げて賛成したのだ。

残念ながらまだ先払いの手古舞には候補者は多くいても帯に短し襷に長しと言う有様でこの際地元に拘わらず、若くて背の高い見栄えの良い子を探してこようと言う話が出ていた。

「俺の方でちと年が幼いが良い娘の心当たりがあるんだ」

平八さんはそう酔った口調で何度も何度も話した「俺が子はまだ小さくでだめなんだ。こんな機会は二度とないのに残念だ。だからこそ俺の推薦する娘を選んで欲しいのさ」

どうやら嫁さんの縁戚にあたる日本橋のものだという話だ、財布から写真を取り出して「いい娘だろ、正太郎の嫁さんにどうだ。今から婚約して置いて損はないぞ」そのように言っては旨そうにチーズをかじり、ウイスキーのお替りをウイリーにせがむ平八だった。


強いウイスキーに酔った面々の気がついたときには春の日が横浜といえどまだ珍しいガラス戸を通して差し込んできていた。

梅は咲いたか桜はまだかいな

庭のほころびだした桜のにおいに誘われてか平八は其処まで歌うと座布団を抱きしめて大鼾で寝てしまった。

寅吉がコートをかけて「暫く寝かしておきな」そうケンゾーに言うと連絡員たちと帰っていった。

おかつ夫婦が戻ってきて竈に火を入れて飯が炊けるにおいがしてきて平八は目が覚めたらしく「茶漬けをごちになりたいな」そう正太郎に頼んで台所に行かせた。

暫くして、おかつが呼びに来て台所へ揃って出て行った。

ウィリーは食べ終わるとあくびをしながら仕事に出て行った。

行きがけにケンゾーから例のウイスキーを含めて二万本の注文を貰い「ケンゾー本当にそんなに売れるのかよ」

「任せろよ、注文の品の見積もりが出次第手付けと時期について契約をするから計算が出たら教えてくれ」

其の話を聞くともなしに聞いていた平八はウィリーが出てゆくと「たいしたお人だね、俺たちの話から二万本の注文を出すなど気に入ったよ。コタさんの旦那同様長い付き合いをお願いしますぜ」

「此方こそ、糸平の旦那さんには教えを頂きたいものです」

「何、俺の方はただのくそ度胸さ。コタさんの旦那には頭の上がらん旧悪を抑えられているからな。聞いたことがあるだろう」

「いえ、糸平の旦那の事は一度も聞いたことがありませんですが、正太郎君は聞いたことがあるかい」

「僕が聞いたのは千代さんからですが、丸高屋さんで働いているところを大和屋さんに引き抜かれたということだけです」

「そうかい、やはりコタさんの旦那は懐が大きなお人だな」

「僕もそう思います。僕のような小僧っ子にも一人前の大人と代わらずに話を聞いてくださいます」

「そうだね、私も拾っていただいたようなものですし、何の見返りもないのに英吉利まで留学させてくださいました」

「何かね、けんぞうさんは洋行帰りだったか、さぞかし英吉利にはいい女が多いのかね」

「それほどでもありませんでしたよ。色とりどりで物腰の柔らかく上品な人もいれば長屋の上さんの様にぞんざいな人もいましたから」

「そんなものかね。着ている物と喋る言葉が違うくらいか」

「そういうことですね。ただ居留地に時々いるような横柄な人はあまりお目にかかりませんでした」

「オオそういうことか、居留地の横柄な人間には参ることもあるが全部がそうでもないしな」

茶漬けを食べた後も話したりないかのようにタバコ盆を出させて上手そうに紙巻きタバコを何本も吸い付けた。

「この紙巻きタバコもわが国で造れるようになればいいが、なかなかいい紙がないようだ。やはり英吉利からのものが一番だな。葉巻はきつくて俺には向かんよ」

ようやく話を終わりにして平八が太田町の見世へ向かうのを見送った後「正太郎君もう少し起きていられるかい。二軒ほど廻ってから熱い蕎麦を手繰って2時間ほど昼寝としゃれ込もう」

「いいですね今寝ると反対に起きるのがつらくなりそうです。もう少しがんばって昼寝をするのが楽しみです」

「そうだ眠いのを我慢するのと、後これだけ遣れば寝られるというのでは体が疲れる度合いが違うらしい」

二人は元町で勝治に会って酒の売れ筋について教えてもらいウィリーが話していたウイスキーのことも情報として伝えた。

「春さんが旦那と相談しているのは食品の虎屋と酒の虎屋に分けるかと言うことなのですがどのように思いますか」

「自分の意見は、酒、味噌、醤油に付随する食品乾物、食品乾物を主体にして味噌、醤油、酒を、付随とする見世の二通りが必要では無いかと思います。分離しても上手く機能するには卸だけならともかく小売ではお客様への便利さを欠いてしまうでしょう」

「そうか、では卸し部門は分けて小売部門は場所によってどちらかに重きを置くように進めてみましょう」

「さすが勝治先輩です。自分も酒を主体として売り込みの輸入商を目指してみます」

「ケンゾーさんがそいつをやられるなら虎屋が代理店の一号にならせていただきますよ」

「嬉しいですね、よろしくお願いします。しかし先輩にさん付けされるとこそばゆいですよケンゾーと呼び捨てにしてくださいませんか」

「いやどうも英吉利紳士のケンゾーさんに呼び捨てはやりづらいな。同だろうミスター吉田ではよそよそしいから名前のほうから取ってMr.ケンと言うのは」

「いいですね。其のMr.ケンというの頂です。商売の名刺にもそのように通称で呼んでくれるように書いて作らせましょう。気に入ったナァ。ね正太郎いい呼び方だよな」

「はい、先生なれなれしすぎでもなく、よそよそしくもなくとてもすばらしいです」

「決めた、ケンゾーと呼びづらいという人にはMr.ケンと呼べということにします」

勝治に礼を言って分かれてピカルディで買い物をしてから谷戸橋を渡りバンドを歩いて亜米一へ向かった。

グランドホテルからインターナショナルホテルの辺りまで歩いて立ち止まり「ピカルディのころと違ってあのホテルは生気がないね」

「そうなんです。グリーン夫人は上級のお客を選んで泊めたがると寅吉旦那も言っています。ベアトさんも心配して旦那と共同でグリーン夫人から営業を引き継ごうと相談を持ちかけてきたそうです。元々はホイと言うひとが共同経営でグリーン夫人とやられる予定がお亡くなりになったせいで営業にも影響が出ているそうです」

正太郎が聞いたホイと言うイギリス人が殺された経緯がケンゾーには謎として残った。

商売につながる情報を亜米一で仕入れてアメリカのウイスキーの輸入についても自分の所もしくは虎屋を代理店にできないか打診した。

「出来れば君よりも虎屋が引き受けてくれるなら考えてみる」とMr. Walshも約束をしてくれた。

洲干町まで歩きはらのやへ上がって熱々の天ぷらそばを食べて境町へ戻った。

「先生、藤見蕎麦と違ってお上品で僕のような田舎者にはあっさりしすぎていました」

「やっぱりそうか、値段は高いしやはりお上品は俺たちには合わんか」

「先生もそうなんですか。なんか嬉しいな」

「俺は貧乏武士の出でお上品とは程遠いのさ。口はおごっていないが天ぷらや蕎麦は上方風より江戸風の濃い汁で少し甘ったるくて濃い味が一番だ」

家に戻りケンゾーはパンを渡して「夕食は簡単に鳥でも焼いてくださいよ。汁物は任せますから」二人は歯を磨き「一刻ほどしたら起こしてください」とおかつに頼んで布団にもぐりこんだ。

日暮れ前におかつに起こされた二人は寅吉からの使いが来て元町の中川へ七字に出向くように連絡が来たことを知った。

「何でも食事を外人さんたちと中川でするので食べてくるなと言う話でした。せっかくのパンが無駄になりますね」

「いやパンは今晩でなくとも明日の朝でもいいさ。他に硬くなったパンの食べ方もあるからあすにでもお教えしますよ」

ラスクの造り方を簡単に話して明日暇があったら自分で作るから覚えてくださいとおかつに話して風呂に入って着替えをして、ようやく正太郎を連れて家を出た。

中川に着くと寅吉と見知らぬ頑固そうな若い異人が待っていた。

「もうじきヤールとハンナが来るから、そうしたら食事だ。この人はミスター・ヴィーガント、こっちはMr.吉田とその弟子の正太郎」

それぞれが挨拶をしているところに二人が到着して寅吉が交互に紹介をしてビールを頼んだ。

「これはこの人がこの間まで勤めていたビール会社で作ったものだ。経営方針のいさかいで辞めたそうだが実はヤール君が長崎のMr.グラバーの意向で新しいビール会社を開こうというので、それぞれを紹介しようとここに来てもらったんだ」

「グラバー商会は倒産しそうだと聞きましたが」

「さすがケンゾーもうそんなことまで耳に挟んだか。それはもう隠しようがない事実だ。実は資産は土佐関係と鍋島関係に分散されている。そのほかに独立した子会社に恩が売ってある。たとえばこのヤール君もそうだ。グラバーが倒産しても家族にはこれ等の関係者が生活の保障をしてくれるのさ。それでビールだがMr.ヴィーガントがヘクトさんの家族になら雇われてもよいということで紹介することにした。細かい契約はケンゾーとヤール君に任せるから話に加わって欲しい。正式契約はクラークさんが行ってくれる。とりあえずは設備資金と水それと材料の調達だ」

「水は新しい井戸の物を持参しました」

ハンナがそういって瓶に入れた水を手渡すとガラスコップに移して眺めてから盛んに味を調べていたが「いい水だ、虎屋さんが話してくれたジェラールの水のうち元町の物と遜色ない。車橋のはビールには向かない」

「エエそうなんです。我が家の井戸とジェラールの水に舅が手に入れた天沼の湧き水は同じ成分のようです」

細かい事はヤール君の都合で三人が話し合って仕事や役割分担を決めて取り掛かって欲しいと寅吉が話してその夜は牛鍋でビールと言うことになった。

正太郎にはジンジャービールが出され楽しい夜となった。

「役割は簡単に分けると設備と資金は私が集めてMr.吉田に必需品の調達、Mr.ヴィーガントが醸造と言うことでしょう。ハンナには販売と経理を任せたいと思いますが、其の線で細かい事は明後日の月曜日午前の10字に74番のMr.クラークの事務所でいかがでしょう」

「結構でしょう、私の事はエミールとぜひ呼んでください。アメリカ人と言うことにはなっていますが生まれはプロシャのバイエルンです。イギリス風のババリアと言うほうが通りがよいそうです」とヴィーガントが賛成した。

ケンゾーも「了解しました。今この正太郎を見習いで連れて歩いておりますので同席させてもよろしいでしょうか」そう聞くとヴィーガントも賛成したので「私は皆さんケンゾーもしくはMr.ケンと呼んでください」とケンと言う呼び名の由来を今日決めたことなどを話してそう呼んでくれるように頼んだ。

其の後は寅吉が昨日の大捕り物の顛末を面白おかしく安部の旦那や伝助親分の活躍を話して笑いに包まれて散開となった。

捕まった七人の取り調べは続いており、まだ安部のだんなや伝助親分からの詳しい話は来ていないそうだった。



境町の家に伝助親分が来たのはまだ朝の食事が始まらない七字に時間があるころだった。

憤懣やるかたない様子でタバコを盛んに煙管に詰めながら話してくれた。

「安部の旦那も怒りが収まらない様子ですが、今朝早く東亰から護送隊が到着して調べは此方で行うから引き渡せと命令が来ました。糸平の旦那が腕を切ったのはやはり奇兵隊の脱走で秋月孝太郎と言う木戸様襲撃の犯人だそうです」

「それでお手柄の安部様と親分はお褒めに預かれたのですか」

「どんなものでしょうかね、長州関係者がもみ消して何時の間にやら斬罪とでもなってチョンでがしょう」

「それではお二方の活躍が認められないではありませんか」

「長いものには巻かれろで終わりの気がしますよ。しかしね此方のお調べでは賊の一人に中居屋の手代がいて旦那の亡くなる前に先代からの使いのものからお宝のありかがかかれた書付が届いて、受け取った書付を富士の掛け軸に隠したことを盗み聞いたそうでござんすよ。何でも先代の使いと言う人が木をくりぬいた棒状のものに密書を三部いれて持参したのを亡くなった旦那が軸にしたということと、富士の掛け軸にした事は判ったがまさかあんな安手の錦絵が張られた旦那の酔狂で作られたものだというのは、何本か富士の掛け軸を手に入れた後でわかって、それがようやく貴舩堂に納められた物と判明したのがついこの間岡本に行った時に念のためにどこで買ったものか女中に聞いて判ったという杜撰な話だったそうです」

伝助はそこで講釈師よろしくキセルを灰吹きにぽんとはたき茶を一服して話を進めた。

「先代のお宝と言う話を切れ切れに聞いた手代は従兄だった元の奇兵隊の脱走と箱根であって其の話をしたところ隊の資金としようと話が出来て横浜に来たそうです。三部に別れていた最後のものは店じまいのときにちょろまかしていたそうで、そいつは二代目が自分で書いた赤富士だったそうでござんす。それで最初は二代目が呉れてやった先に盗みにはいって見たが見つからず。たまたま岡本で見た赤富士を盗んで見たところ真ん中が見つかったそうでござんす。そうそう壷については心当たりが無いそうでござんす」

再び茶を頼んでおかつが出したどら焼きを上手そうに伝助は食べた。

「真ん中には宝と言うのは二つありひとつが証文で持ち主は前に書いたようにゆだねたものに任せてあるということがくだくだと書かれていました。最後の部分には其の総額二万二千両と当てにするなと言うことなどと共に家のどこに小判が埋められているか書いてありましたがそいつは二代目が掘り出してしまった様でござんす。最初の部分を知事閣下が秋月に見せると夢で御座ったか、もしそれを我が方の資金とすれば同士の糾合を果たして長門、京、江戸、会津、函館と良い様に使われて、もうお前たちは用済みと追い出された我々の無念をもう亡くなった大村先生の後追い出しの責任者の木戸と前原に天誅の刃を加えたかった。無念そうに昨晩は言っておりやした。しかしどうしてもまだ仲間がいそうなのですがそれについては口を割らせないうちに東亰へ持っていかれちまいました。」

ケンゾーには「吉田さんにはこれからもよい付き合いをさせていただきたいので時々は寄らせていただいても良いですかね」そうきかれ「良いですよ、伝助親分私たちはたいてい朝七字半まではここにいますが連絡は横浜物産会社の連絡網で直ぐに付くはずです」

「そうだってな、あのお店のやる事は素早い事で有名だよ。連絡員と言う人たちは飛脚以上の健脚ぞろいと言う噂だ。成駒屋で家の馬車より早く江戸までいかれちゃ商売あがったりだと言っていましたぜ。それから真砂町の長十手の重四郎親分が昵懇に願いたいと言付けを頼まれました」

「承知いたしました。機会があればぜひともお会いいたしましょう」

「吉田さんはこれで街の有名人だし、正太郎君も子供たちの英雄でござんすよ」
笑いながらそんな冗談を飛ばしてせかせかと木戸をあけて出て行った。

「壷の割られた意味がわからんね」

正太郎に通訳してもらっていたウィリーは小首をかしげながらケンゾーを見ていた。

「何か訳があると考えるだけでわくわくするよ」

ケンゾーもまだ奇兵隊の残党がらみで何か起こりそうだとの予感がしていた。

 
 横浜幻想 其の一 奇兵隊異聞  了 2007 02 11

酔芙蓉の番外編としてのお話いかがでしたか、これからも番外編の主役はコタさんからケンゾーと正太郎に移り、横浜の街の事件簿としていく予定です。  
 阿井一矢 ( 根岸 和津矢)


横浜幻想  其の一   奇兵隊異聞 
 其の二   水屋始末  
 其の三   Pickpocket
 其の四   遷座祭
 其の五   鉄道掛
 其の六   三奇人
 其の七   弗屋
 其の八   高島町
 其の九   安愚楽鍋
 其の十   Antelope
 其の十一  La maison de la cave du vin
 其の十二  Moulin de la Galette
 其の十三  Special Express Bordeaux
 其の十四   La Reine Hortense
 其の十五  Vincennes
 其の十六  Je suis absorbe dans le luxe
 其の十七  Le Petit Trianon
 其の十八  Ca chante a Paname
 其の十九  Aldebaran
 其の二十  Grotte de Massbielle
 其の二十一 Tour de Paris
 其の二十二 Femme Fatale
 其の二十三 Langue de chat
     

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