酔芙蓉 第三巻 維新

 
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慶応4年2月21日 − 1968年3月14日 土曜日

 
維新 − 流星


今回はだいぶ長くなりました〜〜。
教授は馬の名前と持ち主にだいぶ遊びがある様で〜〜す。

慶応4年2月21日 − 1968年3月14日 土曜日
維新 − 流星
堺事件
資料によってフランス人の死亡数が違っていますが、アーネストサトウは11名死亡(即死2名、行方不明7名、負傷7名、無事帰還5名と初期の連絡)と書いています。
伊達宗城と小松帯刀がフランス公使に謝罪に訪れ、イギリス公使館に来ての話でこの争いに参加したものは土佐藩士20名、鳶のもの20名と話したと書いています。
この事件は書く人によってもどちらに非があるかを違う角度で捉えています。
最初に森鴎外は、大和橋から帰っていた歩兵隊の陣所へ、町人が駆け込んで、港からフランスの水兵が上陸したと訴えた。フランスの軍艦は港から一里ばかりの沖に来て、二十艘の端艇(はしけ)に水兵を載せて上陸させたのである。両歩兵の隊長が出張の用意をさせていると、軍監府から出張の命令が届いた。すぐに出張して見ると、水兵は別にこれと云う廉立(かどだ)った暴行をしてはいない。しかし神社仏閣(ぶっかく)に不遠慮に立ち入る。人家に上がり込む。女子を捉(とら)えて揶揄(からか)う。開港場でない堺の町人は、外国人に慣れぬので、驚き懼(おそ)れて逃げ迷い、戸を閉じて家に籠るものが多い。両隊長は諭(さと)して舟へ返そうと思ったが通弁がいない。手真似で帰れと云っても、一人も聴かない。そこで隊長が陣所へ引き立ていと命じた。兵卒が手近にいた水兵を捉えて縄を掛けようとした。水兵は波止場をさして逃げ出した。中の一人が、町家の戸口に立て掛けてあった隊旗を奪って駆けて往った。
と言う風に書いています。
これに反して大岡昇平は堺港攘夷始末の中で次のように書いています。
午後3時フランス兵を乗せた二艘のボートが堺港に入港。うちひとつは着岸。パリスの乗ったボートは測量開始。
4時ごろ土佐藩兵は通報後直ちに出動。測量監視のため 旭茶屋二階に部隊を配置。
5時ごろパリス測量隊が砲台場に上陸するのを発見。
同 着岸組のうちのふたり、デュレルとルムールが八番隊の尋問中に突然逃 亡をはかる。
逃亡者やパリス測量船に向け発砲、照準はあらかじめつけてあったと見られる。
外国を敵視する風潮の昭和初期に書かれた多くの資料は事実とかけ離れいくものが多く見られていますが鴎外と大岡氏の書かれた所が真実に近いのでは無いでしょうか。
事件の決着は15万ドルの賠償金と20名の処刑で決まった。
ロッシュ公使が妙国寺での切腹の現場に立ち会ったのは間違いであるとアーネストサトウは書いています。
ディュプレー号指揮官トゥアール大佐が代理として臨席、20名の切腹の立会が始まったが夕暮れが近く帰艦が遅れるのを気遣って11名の切腹が終わったところで手を上げて制止したと書いています。
(ディュプレー号について実際の綴りが分かり次第乗せます、読み方は英語読みが多くあり、ジュプレー・デュプレーなど様々に書かれています)
次の日に,残った隊員が申し訳ないといって,大阪の大江橋の上で全員切腹した記事もありましたが真偽のほどは掴めていませんし、噂話としても眉唾であろうと思われます。
鴎外は三月二日に、死刑を免じて国元へ指返(さしかえ)すと云う達しがあった、と書いてその先赦免に至るまでを克明に書いて居ります。
11名の遺体は妙国寺向かいの宝珠院に葬られ、土佐十一烈士墓として昭和13年(1938年)国の史跡に指定されました。
また、後に同宝珠院にフランス兵の慰霊碑が建立されています。


根岸競馬場

前に使ったことのある画像は1865年の侍競馬の絵と判明しました。

改めて画像を載せておきますが、明治になってからのベアトの写した根岸競馬場の写真と永林信実の絵も一緒です。
実際に本文のようなレースが行われたか資料が見当たりませんが想像は楽しく書くことが出来ました。


トーマス

Thomas・Thomasは1861年19歳のとき横浜に来ました。
生糸検査技師から1864年ワトソン商会に勤めていたストラチャンと共にストラチャン&トーマスを設立。
生糸茶の輸出綿織物の輸入で成功の後、毛織物機械の輸入も手がけた、手形買い受けなども行う。
62番と63番に商会、山手6番に家がありました。
外国人商工会議所会頭、競馬会の日本レースクラブ理事など歴任。
1842年生まれ1923年大震災のときに横浜で亡くなる。
山手外人墓地4区に永眠しています。

ジャーディマジソン
一番館は実は三番館でした、居留地1番地にあるイギリスの貿易商社ジャーディン・マセソン商会は、トーレル、デントに続く「英三番」館でしたが地番を1番とされて其の後、英一番館と称しました。
William Keswick(ウィリアム・ケズィック)は横浜開港と同じくして来濱、居留地一番地の英一番館、21番の屑糸部門、22番海運・保険部門を有する巨大商社となります。
同人は1862年上海支店に移り、1868年には香港本店の最高責任者となり、さらに1886年にロンドンマセソン商会の中心人物となり1899年には下院議員となっています。
1912年死去享年78歳
息子はJJ・ Keswickで横浜支店長を務め外国人商工会議所会頭を勤めました。

慶応4年3月1日 − 1968年3月24日 火曜日

維新 − ヘキ坂

添付画像は赤マーテンの家付近から天沼とジャパンブルワリーを写した物だそうです。

慶応4年3月1日 − 1968年3月24日 火曜日
維新 − ヘキ坂
ヘキ坂はヘクト(Hegt)坂で今の代官坂です、この当時は箕輪坂でしたが後に道沿いのヘクト邸内を削って道を広げたため地元の人からそのように呼ばれていました。
寅吉が思い出せなかった道は南坂や陣屋坂でしょう、そのうちセントジョセフカレッジの名前を思い出して坂の名も思い出すでしょう。
慶応4年当時にイギリス病院がある場所が紅蘭(今の雙葉学園)と言うことまでは思い出しています。
昔イギリスの軍営があって陣屋町としてその名前が残りました。
最初、明治3年(1870年)12月6日に山下にHegtによって建てられたゲーテ座(Gaiety Theater)は横浜本町通り68番地でした。

建坪413u、石造平屋造で、ローマの神殿建築を思わせる建物だったそうです。
明治5年(1872年)11月にゲーテ座はパブリックホールと改称されました。
この建物は明治42年(1909年)10月21日に焼失しました。
明治18年(1885年)4月18日に山手256〜257番地に地下1階地上2階建でレンガ造、建坪890u、収容人員350人のホールが建設されたのは現在の港の見える丘公園近くの元軍営のはずれにあたる場所です。
この建物がゲーテ座と呼ばれるようになったのは、明治41年(1908年)12月以降だといわれています。

この建物も大正12年の大震災で崩壊しました。

麦酒
Spring Valley BreweryはW・CopelandからThe Japan Brewery Company(麒麟)が継承していますが継承したのは土地であって製法ではありません。
弁天―師走にはビールの歴史が天沼のビアザケとして簡単にまとめてありますがもう一度整理して見ます。
実は前回最初からL・マイヤーが46番で始めた様に書きましたがどうも途中参加だったようです。
L・マイヤー、ジャパン・ブルワリー
横浜ブルワリー(ジャパン・ブルワリー 初代) 
明治二年(1869年)山手46番に置いてG・ローゼンフェルトがドイツ人E・ヴィーガントを醸造技師としてサンフランシスコで契約、居留地の外国人向きにビールの醸造販売を開始。
G. Rosenfeld(t)  L. Klein 注横浜もののはじめ考にはローゼンフェルトが所有者としてかかれておりブルワリーを処分したときの所有者はクラインであったとされています)
(Emil. WiegandババリアBavaria生まれ=バイエルンBayern)  
明治三年ヴィーガント解雇。
明治五年(1872年)L・マイヤーは山手46番にて広告を横浜毎日新聞(現代の毎日新聞とは別です)に載せる。(出典・相鉄瓦版)
明治七年(1874年)に廃業。 

J・ヘクト ヘクト・ブルワリー
明治三年(1870年)山手68番にJ・ヘクトがヴィーガントの参加を得てヘクト・ブルワリーが醸造・営業開始。
明治五年(1872年)ヴィーガント解雇、同人は一時亜米利加へ帰国、
明治八年(1874年)ヴィーガント再来濱してババリア・ブルワリーとしてヘクトから賃貸契約を結んで経営(ヘクト・ブルワリーは閉鎖)。

W・コープランド スプリング・バレー・ブルワリー
明治三年(1870年)
山手123番を含む四区画2480坪(中区千代崎町1丁目)を取得して醸造所(スプリング・バレー・ブルワリー)を開設、当時は天沼ビヤザケといわれていた。
明治八年(1875年)
醸造所隣接地121番にビヤハウスも営業開始。
明治九年(1876年)
6月15日付けジャパンガゼットに広告を載せてヴィーガントと共同でコープランド&ヴィーガント商会を設立したと報告。
山手68番は工場の一部として残す。
明治十二年またもヴィーガントは折り合いが悪くなり翌明治十三年1月解散。
コープランドが公売により手に入れて営業継続。
明治十七年(1884年)
相次ぐ裁判の出費に因る不振から公売に付される。
同年醸造技師及び醸造機械一式を浅田甚右衛門(東京府下中野)が譲り受けて浅田麦酒醸造所が開設され翌明治18年から発売される。
朝田ビールはイギリス式ビールを販売(同社は明治45年、1912年廃業)
コープランドは「スプリング・バレー・ビヤ・ガーデン」の経営を継続しました。

麒麟麦酒 ジャパン・ブルワリー 
明治十八年(1885年)
香港籍のThe Japan Brewery Company(ジャパン・ブルワリー)として新会社設立。
コープランドの醸造所跡に本社を置く。
ジャパン・ブルワリーが設立当初所有した土地は、105B、123、240A、240B、240Cの5区画(土地権利書によれば2776坪、建築技師ダイアックの測量では3350坪)で、アボットから購入しています。  
The Japan Brewery Company 初代会長J.Dodds 
資本金50.000ドル500株 
発起人 中心となったのはジャパン・ガゼットのオーナーのW.H.Talbot(タルボット)と、証券・金塊ブローカーのE.Abbott(アボット)でした。
Thomas Blake Glover(グラバー)等外国人33名・岩崎弥之助日本人1名(後に増資時に渋沢栄一、荘田平五郎、高田慎三、益田孝、後藤象二郎、大倉喜八郎等も参加)計34名でした。
明治二十年(1887年)
ドイツから醸造技師・H・ヘッケルトを招く。
ドイツから醸造設備も取り寄せブルワリーを本格的に再興。
明治二十一年(1888年)
ジャパン・ブルワリー社、ドイツ風ラガービールを「キリンビール」ブランドで発売。販売は明治屋が一括(長崎、横浜を除く)、大瓶1本18銭(容量不明・633ミリリットルが大瓶と決められたのは昭和18年)。
明治二十六年大瓶1本14銭、明治四十二年は大瓶1本22銭に値上がり。(明治四十二年頃の東京では牛乳一合3銭9厘・もり蕎麦3銭3厘)
明治三十二年(1899年)
ジャパン・ブルワリー・カンパニーが改組してゼ・ジャパン・ブルワリーとなった。
明治20年(1887年)7月から明治32年(1899年)4月まで醸造技師を務めたのはH・ヘッケルト(Heckert)。 
カイザー(C.Kayser)は明治32年(1899年)6月から明治35年(1902年)6月までで、そのあとにアイヘルベルク(E.Eichelberg)が明治35年(1902年)7月に副醸造技師より昇格しています。
明治四十年(1907年)
ゼ・ジャパン・ブルワリーの事業を引き継ぎ新会社として麒麟麦酒株式会社が設立、香港籍から日本国籍に変更。
敷地は20区画6678坪にまで広げられました。 
大正十二年(1923年)
9月1日関東大震災に於いて本社工場は全壊。
同年仙台の東洋醸造(フジビールを製造・販売)と合併。
大正十五年(1926年)
生麦工場建設。


Willian Copeland 
コープランドは元の名をヨハン・マルティニウス・トーレセンといって1834年にノルウェーのアウスト・アグデルで生まれました。
アレンダール・ブルワリーでビール醸造技術を学び後にアメリカに移住します。
元治元年(1864年)来濱。
慶応二年(1866年)137番ジェームス商会(横浜牧場・運送業)の経営に参加。
慶応三年(1867年)4月頃ジェームス商会解散。
134番に独立してコープランド商会(運送業)設立
明治二年(1869年)山手123番を含む一帯を入手。

   
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