横浜幻想
其の十四 La Reine Hortense 阿井一矢
ラ・レーヌ・オルタンス街


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Paris1872年6月21日 Friday

朝7時オーステルリッツ駅に到着して正太郎とジュリアンは別の馬車に分かれた。ワインの壜は正太郎が預かりメゾンデマダムDDの地下室に預かってもらうことにした。

「マダム・デシャンにMomoも含めて今夜にも報告会を開こう、そのことをマダムに伝えてポンティヨン夫妻にも来てくれる様にしてくれ。時間は8時でいいかな」

「其れで良いでしょう。ほかにも参加者がいないか調べて誘っておきます」

「良いとも人選と料理は任せたよ」

正太郎は自分もちで其の会を開いてワインはジュリアンが貰った試飲用で良いだろうと計算しながらノートルダム・デ・シヤン街へ向かった。

建物の下で「少し待っていて呉れ給え」とBlanc vinとカヌレの入った箱を抱えてエメの部屋へ向かうと、階段にリュカが座っていた。「ヤァ、リュカどうしたい」

「エメのマンドリンの時間でつまらないから出てきた」

「ジュディッタがこんなに早い時間から来ているの。Bordeauxのお土産のカヌレとマカロンが有るけど来るかい」

「だってジュディッタが早いのはいつも朝飯をエメにたかっているからさ。僕が行ってもいいのかい、お邪魔でじゃ無いのかい。」

「生言うなよ、今日は夜行特急で帰ってきたばかりだからまだ行くところが沢山あるからこれを渡してすぐ帰るのさ」

話しながら階段を上がり一番上のエメの部屋をリュカがノックした。

「どうぞ」

「エメお客だよ」

リュカはそういってテーブルのところに椅子を持って行き自分が座った。

「ショウ。お帰りなさい」

エメは優しく髭がまばらに生えてきたショウの顎にキスをした。

「ただいま、今日はまだ急がしいからお土産だけ置いて帰るね。リュカやジュディッタと今日中に食べて下さいね。このワインは向こうで取引が成功したワインだよ、400ケースがジャポンに送られて残りの200本あまりをマダム・デシャンのところに保存してもらうことにしたんだ」

「そんな帰ってきてすぐに又行くの」

「今晩マダム・デシャンの家に来られるかい。ジュディッタも来られるなら招待するよ、ジュリアンたちとBordeauxの報告会をかねてパーティを開くから」

「ジュディッタどうなの予定はある」

「招待なら喜んでいくわ」

「決まったね。夜8時からだけど30分前までに来て欲しいんだ僕の部屋も紹介するよ」

「かならず時間までに行くわ」

正太郎は待っているよといって下へ降りた。

8時45分に馬車が着いて庭へ入り玄関のアプローチを見るとベルリーヌ馬車それも馭者に助手がついた豪華なものが止まっていた。

正太郎は馭者に手伝ってもらって荷物を内玄関に積み上げてもらい、チップをつい弾んだのでうれしそうに馭者は帰っていった。

「ただいまMomo。マダムはどこなの、お土産のカヌレだよ」

「マダムはお客様と応接しているけど部屋へ案内するわ」

「いいのかいお客様が来ているのに」

「かまわないわ」

サラでも来たのかなと思いMomoがあけたドアから見ると知らない顔の紳士が悠然とコーヒーカップを手に立っていた。

「ショウが帰りました。ドアを開けた時間は3分前でした」

応接間の時計が可愛くチンという音をたてて針が9時をさした。

「私の勝ですわね」栗色のふんわりした髪の夫人がマダム・デシャンにそういっているのが正太郎には可笑しく聞こえた。

「負けましたわ。ショウ貴方なんで真っ直ぐ帰ったの、エメのところに寄らなかったの」

「え、寄ってお土産を渡してきましたよ、帰り道ですからね。其れってどういう事なの」

「貴方が駅から予定通りに2時間以内で帰るか帰らないか賭けをしたのよ。私はエメのところで道草を食うのと、列車が遅れるのはいつものことと賭けに乗ったの。おかげでマルゴーの1862年を取られたわ」

「僕に賭けなきゃ駄目ですよマダム。信用無いのかな」

其の話をしながら部屋を良く見ると壁際の3脚のテーブルの上にはコーヒーカップが置かれ豹足のタブレーには覚えのある顔の黒人の娘が座っていた。

「あれ君、ジュディじゃないのオウレリア様の小間使いの」

にっこりしたジュディに「懐かしいね今日は誰と来たの」

「勿論私とよ。ジュディは私の手足同然ですもの」

オウレリア・マック・ホーンが立ち上がって優雅に振り向いた。

「驚きました。見ない間に素敵なレディになられました」

「アラ横浜へ行ったときはレディじゃなかったみたいな言いかたね」

おなじみのオウレリア節が始まった。

「そういわれましてもあの時は、活発豪胆なお嬢様という雰囲気でしたし5日居られたYokohamaで三回ほどしかお話もできませんでした」

「まぁ良いわ、褒めてくれたとして許してあげる。マダム・デシャンからワインを巻き上げたから其れでいいわ」

マダム・デシャンは最近、正太郎がエメにお熱と踏んで、久しぶりにパリへ戻ってすぐ引き上げてくるとは予想外だったようだ。

「先にお土産の赤ちゃんカヌレとマカロンです。昨日の夕方に作られたものですが今日中に食べて下さいといっていました」

嬉しそうに包みを受け取って「皆さん好いお菓子が来ましたからコーヒーかお茶の御代わりをしてくださいね」

そういってMomoにはお茶の支度を言いつけて台所へお菓子を持っていった。

正太郎はパーティの相談もあるので台所まで附いて行きマダム・デシャンとクストー夫妻に今晩の相談をした。

「其れで何人予定しているの」

「僕のほうは6人だけど、オウレリア・マック・ホーンさんとジュディも呼ばないと」

「それならM.ラムレイもね」

「あの紳士はどういう方ですか」

「アラ知らなかったの。Mlle.マック・ホーンの執事よ」

「そうだったんですか、Yokohamaへはジュディをお供に二人で来られましたので知りませんでした。クストーさん表に荷物が来ているんだけど後でMomoと預かり表の作成とEntrepot du vin Clandestin(秘密のワイン倉庫)へしまってくださいね」

「何が来ているの」

「ゆっくり話しますから先にお菓子をね」

「ウ〜ンどれを先にするか迷うじゃない」

それでもお菓子を乗せたワゴンを正太郎に押させて客間へ向かった。

中でもBlanc vinのベレールを20本、後からは木箱で12箱が来るときいて「では今晩5本ほどあけましょうよ」とマダム・デシャンは陽気になった。

名前は知っているようだ。

シャトー・ポタンサックとシャトー・ラセールのものが名前をボルドーとしての産地だけの表示ながら約1500ケースの買い付けをしたことも伝えると「正太郎がロンドンへ来た時は私たちボルドーに買い付けに行っていたの。Jacky兄さんと寅吉にケンゾーからも貴方のことは手紙が来たわ。私が応援するから遠慮せずに買い付けてしまいなさいよ。ジュリアン・ドゥダルターニュという人と狙い目のシャトーは有るんでしょ。2万ポンド位は何時でも貸すわよ」

「儲けがあるかどうか判らないのに。お借りしても利息どころか元金も後で返す予定がつきません」

C'est sot(馬鹿ね)寅吉とケンゾーのお気に入りの貴方から利息なんて要らないわ。でも儲けが出たらパリに家でも買ってね。そうしたら私がパリへ遊びに来易いわ、別荘をパリの近郊に持つなんて素敵じゃない」

夢見るお嬢様という言葉そのままのMlle.マック・ホーンであった。

「どうせなら家の会社のワインの責任者を呼ぶからその人とボルドーへ行くとよいわね、パリから人をロンドンへ派遣してお金と一緒に来てもらうから正太郎の取引銀行へ一時預けておきなさいね」

一人でさっさと決めてゆくのはマックさんが言うとおりじゃじゃ馬そのものだ。

「ショウにそんなに信用を置くなんてあなた方の一族はこのショウとどういう関係なのです」

知りたがりのマダム・デシャンはカヌレをもう5個くらいは口に運んで今度は興味が移ってそのことが知りたくなったようだ。 

「そうねあたしたちだってものすごいお金持ちというほどでもなかったのよ」

オウレリアは同じようにカヌレを口に入れて噛みしめた後紅茶で喉を潤おすと寅吉のダイヤ鉱山の株の大暴落を噂と連絡のミスと判断した賭けに便乗してオウレリアだけでも10万ポンド近い現金と同じ価値のある株券を持ったことなどを話しだした。

Momoは目を丸くして聞き入って、正太郎の先生のケンゾーに貸し付けた金が倍になって戻ってきたことなど「使い切れないわ」というオウレリアの言葉を「信じられない」とつい口にのぼせた。

「そうなのよ。私も信じられないのよ。会社の役員報酬が年に2千ポンドでしょ、銀行利子が6千ポンドに投資した会社からの配当が2千ポンド。私の性格ではダイヤモンドやルビーにサファイヤ、エメラルド、そんなもの興味なんか無いのよ。精々がドレスに帽子くらいでしょ残る一方よ。一番お金がかかるのはこの人」

Mr.ラムレイのほうを見て「このMr.Glen Lumley(グレン・ラムレイ)年860ポンドで私の執事を引き受けてくれているの。元は伯爵家の家令をしていたけど代替りの際辞めて私のところへ来てくださったのよ。ボディガード兼執事なんだけどこう見えてもボクシングにフェンシングはたいした物よ」

Momoは執事の給与が860ポンドもかかると聞いて正太郎に其れはフランだと幾らに為るのか尋ねた。

「この間フランスに入ったときは1ポンドが23フラン40サンチームで交換したよ、現金は170ドルと50ポンドが現金で残っていてそれをカレーについたときにフランにしたんだよ。だから860ポンドは2万124フランだね」

今度は本当にめまいがしたようだ眼をぱちぱちと瞬いてMr.ラムレイを見つめていた。

「お嬢さんそんなに見ると服に穴がいてしまいます。私の給与が高いのも服や靴など衣装代がかかる俳優と同じだからです。Mlle.マック・ホーンに、お仕着せの執事服を着るのに飽きたというと、では衣装代は自分もちで勤めなさい。その代わり何時でもきちんとした身なりでいる事という制約がついているのですよ。半分は其れの費用に消えてしまいます」

いずれにしても半分でも一日28フランほどの給与はMomoには理解できない金額の話しのようだ。

「じゃぁ、ショウに貸し付けてもいいと言うのは46万フラン以上」

本当に今度は座り込んでしまうMomoをMr.ラムレイが手を引いて助け起こした。

ジュディはそんなお金には無頓着なのか始終ニコニコとしているだけでMomoには不思議に思えるようだ。

「其れでですが、オウレリアさん今晩の夜食会に来ていただけますか。社交界の晩餐というような気取ったものではなく極々身内の集まりなのですが」

「好いわよ何時」

「8時です。お二人も一緒にどうぞ来てください」

「其の時間にまた来るわ。マダム・デシャンご馳走様でした。ではMr.ラムレイ、ジュディ、ホテルで一休みして着替えてきましょうね。こんな気取った服装で一日中すごすのは耐えられないわ」

3人はMomoと正太郎に見送られて馬車に乗って帰った。

「ショウ、ベレールが19本しか無いわよ。どうしたのかしら」

「いけね、エメのところに一本置いてきたんだ。だからマイナスにしておいて」

d'accord(ダコー・了解)」

本数はバラバラだが、50本のワインを運んできていたのだ。

シャトー・ボーセジュール・デュフォー・ラガロース、Saint-Emilion。4本。

シャトー・ベレール、Sainte Croix du Mont。19本。

シャトー・パプ・クレマン(パップ)、Pessac。2本。

シャトー・ラネッサン、Cussac Fort Medoc.5本。

シャトー・レオヴィル・ラス・カーズ、Saint Julien。2本。

シャトー・ベイシュヴェル、Saint Julien。8本。.

シャトー・アニー、Cussac Fort Medoc。2本

シャトー・モーカイユ、Moulis en Medoc。2本。

シャトー・ブラネール・デュクリュ、Saint Julien Beychevelle。2本

シャトー・ポタンサック(テオ)、 Chateau Potensac Ordonnac。2本

シャトー・ラセール(ポール)、Chateau Lasserre Ordonnac。2本

シャトー・ポタンサック(テオ)、シャトー・ラセール(ポール)、はetiquette(エチケット・ワインラベル)はなくジュリアンが紙に名前をかいて張ってあるものだ。

「これはどういうことなの」

「ワイナリー名でなくボルドーとしたほうがジャポンやデンマークへ持っていくのに通りがいいとAzienda Agricola(自家栽培のみで醸造を行うシャトー)の許可を貰ってネゴシアンがラベルを作るんだよ。自分の名を入れても売れないよりまず売れてもらうことが大事だという結論さ」

「では混ぜるわけじゃないのね。テオの長女のナタリーとは仲がいいのよ」

「テオたちの村はだいぶ遠いといってけど知っていたの」

「テオはお爺様のお弟子さんなの、ポールという人は知らないけどやっぱりお弟子さんなのかな」

「そうかもしれないね二人は年が離れているけどとても仲が良いみたいだったよ」

「私のPere(父さん)もテオがお気に入りよ。お爺さんはConduttore(指導者)の素質があるし好い土地を手に入れられれば自分より良いワインが作れるだろうといっていたわ」

「フランスに来て一番判らないのは其処なんだよ。どうして土地によってそれ以上良いワインができないんだろう、土地の改良だけではよいワインが作れないのだろうかな」

「父さんが言うには土地の下を流れる地下水が影響するんだろうといっているわ、だから勝手に井戸を掘って大量に水をくみ上げないようにいつも言っていたの。だから川の近くで地下水の良質の物が流れている場所からは良いワインができる。又川から離れていても森が其の水の蓄えを補ってくれるといっているの。だから沢山ワインを造りたくても山に寄った地区では北側に多くの木を植えることを勧めているわ」

Momoはやはり正太郎のワインの手ほどきをしてくれる良い先生であった。

夕方5時半に帰ってきた最初のUn locataire(下宿人)はMarie Aline Bonnard(マリー・アリーヌ・ボナール)で「良かった今晩はどうしようかと思っていたの。夕食の予約をしなかったので抜いちゃおうかなと思ったのよ」

「まさか抜くなんていけませんよ。ただでさえ痩せているんだから、これ以上痩せたらモデルにもなれませんよ」

「ありがとう。ショウだけよそんな心配してくれるのわね。私の彼なんて食事なんてしなくて済めば一番楽だなんて言うんですものなかなか夕食に誘ってくれないのよ」

其の話の途中でSarah Liliane Lemoyne(サラ・リリアーヌ・ルモワーヌ)が帰ってきて話しに加わった。

二人とも普段こんなに早く帰ることは無いので「鼻が利くな」とクストーさんは正太郎に耳打ちして笑った。

ラモンはどこに行っていたのか、へとへとに為って帰ってきて「ありがたい。パンを買ってきたがこいつは別の使い道もあるから取っておける」

ニコラが教えてくれたのだがラモンはデッサンの消しパンとして取っておくというが食べながら描いているのでいくらあっても足りないのだ。

Nicolas Schneider(ニコラ・シュネーデル)が珍しく7時前に帰ってきた。

「どうしたの今日は早いじゃない」Momoが早速からかい出した。

Momoの顔を見てからじゃないと夕飯を食いに行くのに寂しいからだ」

「フン、今日ショウが帰ってきてることを知っていてでしょ。何処かへ連れ出そうとしても駄目よ」

「どうしてだ」

「今晩8時からジュリアンと一緒に夕食会が開かれるからお客を呼ぶのよ」

「で、俺は呼ばれていないのか」

「ショウに聞いてみたら」

「何へそを曲げているんだ。俺が何かしたか」

「別に。ニコラも出たければ出ていいのよ。ショウは下宿人は全部呼ぶといっていたから」

「なら出ていいんだろ」

「勿論よ。お土産のワインもどっさりあるし。もしかすると良い物が出てくるかもね」

「そいつは出ないわけにゃいかないだろうぜ」

「いいの、エメも来るわよ」

「ショウが招待したのか」

「そう其れと後はエメのお友達でしょ。ポンティヨン夫妻でしょ。ショウの知り合いのイギリス人一行よ」

「ずいぶんの人数だな。食堂だけでは入りきらないな」

「そう広間も庭もすべて使うのよ。ショウの言うにはジュリアンが二人くらい連れてくるかもしれないといっていたわ」

「エミリエンヌ・ブリュンティエールかまぁ良いだろう」

「そう、ショウはニコラが逢いたくないと言うかなと心配していたわ」

「どうしてだか聞いたか」

「何も言わなかったけど、そう独り言を言っているのが聞こえたから」

「まぁいいさショウの部屋に行ってそのことは話しておくさ」

「何かあるのね」

「いや、俺の親父とエメのママンがDeuxieme Cousin(又従兄妹)なのさ」

「なぁんだ、またニコラのことだからしつこく口説いて振られたんでしょ」

「そんなことしていないよ。それにUn chat et un caprice d'une femme(猫と女性の気まぐれ)にゃ勝てないさ」

7時半になってエメとジュディッタがやって来た。

Momoに案内されて正太郎の部屋を訪れた二人は其の部屋のこぢんまりとしたスペースに驚きを隠さなかった。

「ショウは気前がいいからもっといい部屋に入っていると思っていたわ」

「そうかいこれでも僕にとっては十分な広さだよ。お客が来ても下の応接間を使わせてくれるし、書斎もタバコやパイプを使わない条件で使えるしね」

ル・リ(ベッド)に洋服掛け、机に椅子というだけの部屋に二人は馬車の中で想像していた部屋と違いすぎると、あれこれと部屋を詮索しながら言い合って「エメのアパルトマンに引っ越してきなさいよ」ジュディッタが言ったが正太郎はそのことには返事をしなかった。

エメが来たと知って早速ニコラがラモンをつれてやって来て部屋は一杯になった。

「ニコラお久しぶり」

「やぁ、エメは相変わらず元気そうだな。ラモンこの人は俺の親類のエミリエンヌ・ブリュンティエールというんだ。そちらの人は良く知らないからエメに紹介してもらおう」

Sig.na Giuditta Ercolani(ジュディッタ・エルコラーニ嬢)よ。私の親戚のM.ニコラ・シュネーデルと画家のM. ラモン・マルティン、あとお一人男性が居られるはずだけど」

「ダンはまだ帰って来ていないんだ。戻ったら紹介しますね」

Momoがジュリアンとお連れのマドモアゼルが来たがどうするか聞きに来たので一同で下へ降りることにした。

「ヤァエメが来てくれたんだ。ジュリアン、M.ルーとM.ピエールは呼ばなかったの」

「いやもう直にくるはずだ。ジャン・ピエールもバスチァン・ルーもヴァルミ河岸の新しい住まいのことで忙しいがきっとくるとさ」

正太郎が一同を順に紹介して「このマドモアゼルはジュリアンの知り合いでMlle.エメ・オービニエ」

Mlle.オービニエ、此方のMlle.エミリエンヌ・ブリュンティエールが僕の知り合いのエメだよ」

二人のエメは互いに肩を抱いて宜しくといって何事か耳に囁いてから笑ってジュディッタと紹介しあった。 

ポンティヨン夫妻にオウレリアの一行も5分前に、ジュリアンの友人のバスチァン・ルーとジャン・ピエールが時間前ぎりぎりに着いて仲間に加わりMomoが二階の残る人たちへも食堂へ降りるように触れて廻った。

「ダンが帰ってこないわね」

「仕方ないさ連絡のつけようが無いもの、はじめようか」

ジュリアンが乾杯をして食事会が始まってまもなくダンが帰ってきて仲間に加わった。

「ショウあとで話があるんだが」

「じゃ散会したら部屋で」

正太郎は例の話しだろうと思い其の話は新しい情報かなと期待した。

楽しく食事会も終わり買い付けたワインの話もジュリアンが面白おかしく話すので広間に移ってからも楽しく過ごすことが出来た。

オウレリアは二人のエメがたいそう気に入ったようでジュディッタを交えて4人で打ち興じていた。

ポンティヨン夫妻を正太郎とジュリアンが門の前まで送り、ジュリアンとエメ・オービニエに仲間たちも帰り、エメとジュディッタのための馬車を待つ間オウレリアはエメと二人で相談をしだした。

「エメは正太郎が好きなのね」

「はいそうです。彼といるととても楽しいです」

「そう、私の家族は彼の会社の人たちととても親しくしていてね、正太郎がフランスで商売のための元手に困らないように資金の世話をすることにしたの。貴方が正太郎を信頼してくれるなら私たちは貴方を信用して其の資金の管理をお願いしたいわ」

「でも私たちまだお会いしたばかりで」

「いいのよ。信用するかしないかは長年付き合ったって判らないかも知れない。私は今日初めて貴方にあって信用できると思ったの。其れとマダム・デシャンが貴方と正太郎はAmant(恋人)だというけど私はそれ以上のAmant Fiable(信頼できる恋人)に見えたわ」

「ありがとうございます。Mlle.マック・ホーン、 いえオウレリアと呼ばせて頂いてよろしいですか」

「良いわよ。エメ私と貴方は今日からお友達よ」

正太郎はすべてのお客が帰ると早速部屋でダンたちと山城屋の情報の書類の整理を始めた、明日は其れを日本語に抄訳して出来上がり次第原本共に鮫島に届けることにした。

「もうすでに電信でジャポンには帰還命令を出してくれるように頼んだそうなんだ。だからこれは重要証拠で其の帰還命令が来次第公文書でジャポンに送らないといけないのさ」

「そうか。でも悪い奴だな。金を増やす努力もしないでパリへ着いてからでもこの書類では15万ドル以上も使っているぜ。まともに品物を買ってジャポンに送れば倍近くにはなるだろうにな」

「そうなんですよ金を使っても其れを取り返す取引をしてるなら良いのですがこれではあんまりです。鮫島様も金を使い切らないうちにジャポンに送り返さんと大変なことになると心配しています」

15万ドルはほぼ75万フランに相当したのだ。

正太郎がジュリアンたちから集めた情報では、ワインでもロンドンの上流階級のものが飲んでいる1本30フランから100フラン、いやそれ以上の貴重品を壜もしくは樽で買い集めようとして、その筋からも値上がりに悲鳴を上げだしているという話が聞こえてきているそうなのだ。

アメリカやロンドンから其の貴重なワインを樽ごと買う人もいるそうだがジュリアンはそういう飲み方はparti. balle. Diner(パーティ・夜会・晩餐会)でも成り上がりのすることでワインが好きなものが遣る事ではないと言っていた。

実際に山城屋が手に入れてジャポンに送られたのはニコラが調べてくれたものでは10万フランにも満たない品物だったそうだ、其れもワイン、シャンパン、ブランデーの高級品ばかりで庶民には縁の無い物ばかりだそうだ


Paris1872年6月23日 Sunday

正太郎は昨日仕上げた資料を持ってラ・レーヌ・オルタンス街26番地へ向かった。

昨日は休みというダンに弁務使公館まで使いを頼むと11時から午後の2時までは弁務使公館にいるという返事なので早めに出て途中インターコンチネンタル・ルグランでオウレリアに改めて挨拶へ寄ると、鮫島に挨拶をしたいと言うので同道して行く事になった。

歩いてどのくらいと聞かれ「ゆっくり歩いても1時間以内で着きます」と答えた。

カピュシーヌ大街(Boulevard des Capucines)から続くマドレーヌ大街 (Boulevard Madeleine)をマドレーヌ寺院まで歩き、其処から左へ折れてロワイヤル街のラデュレで鮫島へのお土産にマカロンを買い入れてファヴル・サン・トノーレ街をエリゼ宮へ向かって歩いた、途中には馬具商で有名なエルメスがあり最近は女性用のバッグでも名を馳せていて、スクリーブ街のルイ・ヴィトンと並び称されていた。 
ルイ・ヴィトンはカプシーヌ大街からスクリーブ街へ移って来たばかりだ。

オウレリアはルイヴィトンのグリ・トリアノン・キャンバスを持っていたがそのことを言うと「よく覚えていたわね、あれはずいぶん役に立ったわ、皮の旅行カバンも好いけど持ち運びにはグリ・トリアノン・キャンバスのほうがジュディも喜ぶの。持っていて楽なのと綺麗ですものね。ねジュディ」

「はいお嬢様。ジュディはあのグリ・トリアノン・キャンバスを持って歩くのが大好きです。そろそろ新作がでるころです」

「そうね帰るまでに買いに行きましょうね。ホテルの目の前ですものね」

Mr.ラムレイは其れを聞くと少し顔をしかめて「オウレリア様、前のもまだまだ使えます。ジュディは自分が新しいカバンを持って歩きたいからです」

「ネ、正太郎これだもの私はお金を使うのも自由に為らないわ」

Mr.ラムレイは確りもので自分の意見はしっかり言うタイプで雇われているというより教授役の様だ。

「オウレリアさまここにもお菓子やさんが」

「そう此処はダロワイヨというお店、この通りは有名なお菓子屋さんが多いのよ正太郎はどこか入ったことあるの」

「マダム・デシャンのお使いで此処も先ほどの店もそれからシブーストいう此方とは反対のサン・トノーレ街の店にも入りました。それぞれ持ち味があって美味しかったです」

「それなら帰りには正太郎がお勧めの店で何か食べて帰りましょうね」

ジュディは嬉しそうに歯を見せてにっこりとした。

フリーランド大街と交差して其の先へ進むとラ・レーヌ・オルタンス街26番地はすぐそこにある。

「正太郎君、道はぴったりだね。まだ二月足らずだというのに、道に詳しくなったね」

「いえ、Mr.ラムレイこれは横浜にいたときも途中の船でも暇があると言葉の勉強と道の名前を覚えるのに時間を十分使えたのとマダム・デシャンのお使いであちらこちらの御菓子屋さんへ行くので覚えました」

「マダム・デシャンはそんなにお菓子がすきかい」

「そうなんです。ワインとお菓子があれば食事は二の次です」

「面白い人だね。話しも面白いし正太郎君はいいところに下宿したね」

「僕もそう思います。僕は散歩も好きですし、それにあちらこちらのお店に顔を出してParisの流行を調べるのも、横浜へ帰ってどの商売をするのが良いかの勉強にもなるのです」

「探検はすきかい、其れとメゾンデマダムDDの人たちに聞いたら、ある人のことを調べているそうだね」

「此処ではいえませんが、後で詳しくお話します」

11時前について鮫島の都合を高野が聞きに言ったあと僅かの間に其れをはなしていると執務室に正太郎一人が呼ばれて先に入り、オウレリアたちはMr.マーシャルが相手をしてくれた。

「鮫島様、これが私たちの調べた書類です。其れとこれが私の必要と思えるところを簡単に約したものです。すべて番号が振ってありますので改めてフランス語に堪能な人に翻訳をさせてください」

「いいところに書類がそろった。岩倉様、三条様、の許諾が出て副島様から緊急公電で今朝早くに山城屋に帰国命令が着いた。これだけの証拠が有れば明日にでも呼び出しを掛けよう。書類を読む準備もあるから明日の午後一番に出頭するように早速手配しよう。其れとこの間の人たちとは違う人たちが来ているそうだね。会ってあげるから此方へ案内してきなさい」

正太郎と高野が3人を案内して部屋へ入り横浜のスミス商会のロンドン本店の役員のMiss.マック・ホーン に其の執事のMr.ラムレイ、小間使いのジュディと紹介すると3人が自分の名前を告げて挨拶した。

鮫島は綺麗な発音の英語でそれぞれに挨拶し、二人のレディには手を取って優雅にキスをした。

ジュディはいままでその様に挨拶されたことがなく嬉しそうだった。

「ケンゾー君に聞いたことがあります。YokohamaのMr.ジョン・マック・ホーンの妹さんだとね。正太郎をよろしく引き回してやってください」

「あらお聞きでしたか。恥かしいことですわ。正太郎には私のほうも貿易の手伝いをして頂くつもりですわ公使閣下」

「ヤァ困りましたな。恥ずかしながら私いまだCharge d’Affaires(少弁務使・代理公使)なのでござる」

「其れは失礼致しました。正太郎が言うには独逸とも兼任されておられるというのでさぞかしお国では重要なお役目と思ってしまいました」

「イエイエ、イギリス、フランス・ドイツには公使が着任するのが本来なのですがわが国にはそれだけの予算をいまだ外国関係に割く余裕が無いのです。お聞きかもしれませんが其の少ない金を食い物にしているものに手を焼いております」

「其れはどこの国にもいる困った害虫でございますわね。さぞ東京では其の駆除に手を焼かれて御出ででしょう」

鮫島は何か話が食い違っていることに気が付いて「山城屋、またはヤマシローというものについてお聞きではありませんか」

「この間ボルドーで高いワインを求める東洋からの打診があり指値が高いのでネゴシアンが値上がりしそうで取引が遣りづらいと困っているという噂を聞きましたが、正太郎は何か知っているの」

鮫島は正太郎が其の話をしていないことに気が付いて「いや、これは私が話しを先走りしすぎました。実は其の男、私の国の金を食い物にしていて、帰国命令を明日にも出す予定で居ります。Parisを中心に大層遊びまわり商売そっちのけで金をばら撒いております。ほかにも何人か留学生が其の取り巻きで勉強もせず遊びまわるものが出て心を痛めております」

「まぁ其れはさぞかしご心痛でしょう」

「そうなのです。正太郎やケンゾーに寅吉が信頼しているジョン・マック・ホーンさんの妹さんと言うこともあり打ち明けますと、帰国命令は出してもマルセイユなり、リバプールなりで船に乗るかを確認するすべも無い弱体の弁務使公館なのです。それだけの予算の枠が無いし正太郎に探索してもらう費用さえ満足に出して遣れません」

「まぁ大変、私たちでお手伝いできるところはお申し付けください。リバプールにも支店があり、マルセイユにもあります。電信でも人を社用で派遣して船に乗り込む確認でも私どもの会社でお手伝いできますわ」

「其れはありがたい。マルセイユまで後をつけるのに一等車にでも乗られたら往復に300フラン以上掛かってしまう現状ではおいそれと人を派遣できないのです」

この時の鮫島が与えられていたドイツ、フランスでの総予算は二万五千ドル、鮫島はパリの公館費用として月千五百円、年間一万八千円は十万フランを組んでいた。
そのうち鮫島は年間で二千四百円の給与、フランにして一万三千三百フラン、月僅か千百フラン、ここから鮫島個人の使用人の費用に交際費を出せばこの間正太郎に渡した100フランは大きな金額なのだ、公館費用パリ、ベルリン二ヶ所を維持するのは容易ではなかった。
パリ公館の家賃は1月千二百フランになり年間一万四千四百フラン、フレデリック・マーシャルが年間八百四十ポンド、これは一万九千六百五十六フランで鮫島は自分以上にこの人を重用していた。

「お任せくださいParis支店からは常時ロンドンと人が行き来しております。それにマルセイユならこのMr.ラムレイに行って頂きます、向こうとの連絡には一等車での往復が費用として認められていますのでご安心ください」

鮫島は安心してお任せいたしますと深々と頭を下げMr.ラムレイと固く握手して「マルセイユへ行くときは宜しくお願いいたしますぞ」と頼み込んだ。

オウレリアは自分の金で人を派遣するのだろうと正太郎も鮫島も感じたが其れを口には出さない礼儀は二人とも弁えていた。

I know it」と口には出さずとも鮫島はオウレリアに感謝の気持ちを表すのに柄巻きも鞘も装飾の綺麗な短刀を差し出して「これは私の感謝の気持ちですお受け取りください」と差し出した。

「まぁ、こんなに高価なものいただけませんわ」

「これは金額では表せられない私の感謝の気持ちです。受け取っていただけると私は嬉しく思います」

正太郎も其れを受け取るように勧めオウレリアは嬉しそうに受け取った。

「中を見てください。切れ味は試しておりませんが簡単な手入れの仕方をお教えいたします。詳しいことは正太郎も知っているね」

「はい、吉田先生も寅吉旦那も私に手入れの仕方を教えてくださいました」

鮫島が引き出しから目釘抜、打粉、拭い紙(下拭用(油取り用)上拭(打粉取り用)丁子油、油塗紙の入った箱を二つ取り出して「同じものがありますので、一つお持ちください。普段は柄をはずす必要はありません」

一通り目の前で手入れをして改めて羽二重の小風呂式に包んで手渡した。

「これはcrepe wrapperですかfuroshikiですか」

「風呂敷です、正太郎イギリスでもfuroshikiと言うのかね」

「そうですcrepe wrapperは袱紗です」

鮫島はイギリス語にも通じているが日常会話に困らなくともそういう特殊な言葉には通じない言葉が多いとこぼした。

「では明日の午後の呼び出し時間に私たちは表で隠れて山城屋に見つからないようにします」

「正太郎頼んだよ、そうしてくれたまえ。ミス、オウレリア・マック・ホーン宜しくお願いいたします」

鮫島はこの麗しきオウレリアに十分に報いたいと心から思った。

一同は挨拶を交わしてラ・レーヌ・オルタンス街26番地を後にしてシャンゼリゼへ向かった。

「どこかでお昼にしましょ」

オウレリアが道を歩きながらMr.ラムレイに相談してLedoyen(ルドワイヤン)が良いでしょうとの勧めでコンコルド広場へ向かった。

Carre des Champs-Elyseesにあるこの店はかのナポレオンがジョセフィーヌとここで出会い恋に落ちたという噂があるとMr.ラムレイが話してくれた。

ランチのメニューからアミューズにキャビア乗せクリーム仕立てを選び、前菜はオマール海老のサラダそしてメインは鳥料理にして鳩を選んだ。

デザートは後のこともありローズムースのみにしてお酒などは抜いた。

それでもMr.ラムレイが支払いをするときに勘定書きを正太郎に見せると32フランとしてあった、一人8フランは庶民の二日分の報酬に該当するのだ。

Mr.ラムレイが支払って後でオウレリアから貰うことに店に入る前から話がされていたので正太郎は見るだけで頷いた。

Mr.ラムレイはチップに5フランの金貨を足して支払いを済ませ店を後にした。

コンコルド広場からマドレーヌ寺院の手前にあるサン・トノーレ街に入り教会の真向かいのシブーストへ入った。

まだお腹に入れるには早いとオウレリアはお土産に包ませて「正太郎エミリエンヌ・ブリュンティエールの家は近いの」と聞いた、どうやら其処で食べようと決めたようだ。

確か今日は午後はいるはずと「ええ近いですが歩くと40分くらいですね」

「それなら3時のお茶を其処で取りましょうよ。つい10人分ほど買ってしまったからエメがいれば少しあまるくらいね」

「それでしたら心配無用ですよ、一番下の階に友達のリュカという少年がいますから呼べば喜びます」

「そう、そうしましょうか、正太郎貴方後二つサン・トノレを追加して」

正太郎が二つ頼んでお金を支払った。

「そうよ其れをリュカにあげなさいね。ご家族もいるでしょうから」

母親はいるのを知っていたが後の家族はいるのか聞いたことが無いがまぁ好いだろうと店を後にしてMr.ラムレイと菓子の話しと通りの先に見えるヴァンドーム広場のことを話しあった。

1702年にルイ14世の栄光を称えて作られPlace des Conquetes(征服広場)からPlace Louis le Grand(ルイ大王広場)へと名前を変え、王の騎馬像も広場の中央に設置されたナポレオン1世のアウステルリッツの戦勝祝賀のトラヤヌス記念柱を模した記念コラム(円柱)も一度は撤去されたがいまは再建されていた。

ル・ムーリスの脇を通り山城屋は其処に3ヶ月逗留していると話すとMr.ラムレイはあきれがおだったが、其の話は置いておいて菓子の話を元のテュイルリー宮殿が有った場所を抜ける間中してジュディを呆れさせた、宮殿は去年のパリ・コミューンの騒ぎで焼失したのだ。

丸く焼いたブリオッシュに、カラメル掛けした小型のシューを、まわりに並べてアメではりつけ、中央にクレームサントノレ(クレームシブースト)を絞ったものだとジュディにいうと早く食べたそうな顔をしたので、更に美味しそうな菓子の話を続けるMr.ラムレイだった。

サン・トノーレとサン・トノレと、通りと菓子の呼び方が違うことも話題に上りコンコルド橋へ河岸をくだり左岸へ渡ってもまだそのことを二人は議論していた。

Mr.ラムレイは議論をするのが好きなようで正太郎は其の好い相手と見て議論の話題を振って正太郎の意見にこういう話もあると盛んに仕掛けてきた、パリのことについても相当詳しいようでテュイルリー宮殿も若い頃に見たことがあるそうだ。

Boulevard Saint-Germain(サンジェルマン大通り)を馬車トラムの線路に沿って歩き道の名前がBoulevard Raspail(ラスパイユ大通り)と替わってもそのまま進んでRue de Fleurus(フルールス街)へ入るために線路を横切り右へ入った。

「いいところに住んでいるわね。何階なの」

「エントランスが無いので最上階の5階です」

リュカが窓から顔を出したので「ハーィリュカ、エメは部屋にいるかな」

「うん、さっきまでいたよ」

「ありがとう。それでさ。リュカは兄弟がいるの」

「うん、妹がいるよ」

「そうなの、それで今ママンはいるの」

「何か用なの」

「いるならお菓子を買ってきたから置いていこうと思ってさ。リュカの分はこっちにあるから一緒に上に行こうよ」

「ママン、ママン、ショウがお菓子を買ってきたからエメのところで食べようってさ。良いでしょママン」

母親が同じ窓から顔を出したので「これ二つ有りますからお嬢さんと、リュカは僕たちと一緒に上で食べますので」

「まぁご親切に、この子はエメに何時も可愛がって頂いて幸せものですわ。Mereがお湯を沸かして持って来ますと言うんだよリュカ」

「うん分かった」

リュカが先にたって階段を上がりギターの音が漏れる部屋をノックした。

「エメ、C'est Shiyoo et un visiteur(ショウとお客さんだよ)」

ドアを開けながら「リュカ何度言ったら分かるの言葉が変よ。まぁオウレリアも一緒でしたか、ごめんねリュカ」

部屋に入るとかいがいしくリュカが椅子をテーブルの前に並べてオウレリアが座りやすいように引いて待ち受けた。

「挨拶は抜きにしましょうね。リュカがお菓子のほうに気が行っているから」

「ママンがお湯を持ってくるからすぐお茶を飲めるよ」

「まぁ気が利くわね。ではカップをしたくしておきましょ。6ッ必要ね」

「分かったすぐしたくするね」

ジュディが手伝ってお皿にお菓子も出してお茶の支度が済んで後はお湯がつくのを待つばかりに為った。

「エメはギターがすきなの」

オウレリアは先ほど聞こえたギターに興味を持ったようだ。

「最近習いだしたばかりなのです。マンドリンが1年くらいギターは2ヶ月くらいかしら。マンドリンはショウのほうが上手いくらいですわ」

「アラ、正太郎は意外な才能が有るのね、二人で何か聞かせてくれる」

「僕はサンタルチアと来れいとしのツィターだけしか知らないのです」

「では正太郎が其のサンタ・ルチアを弾いてエメは歌えるならお願いね」

一曲歌い終わるとタイミングよくお湯が届き「ありがとうリディ、貴方も食べていかれる」

「私とモニクの分は頂いたから下で頂くわ。やかんはリュカに持たせてね」

たっぷりと入ったお湯をティポットに注してお茶の葉が沈むタイミングを見てカップに注いだ、リュカはジュディに手伝って貰い台所で水をたしてやかんを火にかけて戻ってきた。

Mr.ラムレイが其れをじっと見ていて「いいタイミングです。お嬢さんなかなか飲み頃を心得ていらっしゃる」

本当に其れはいい香りとシュガーを入れなくとも甘みを感じさせる好いものだった。

それぞれがサン・トノレを楽しんで紅茶をもう一杯飲むと又オウレリアが正太郎にもう一曲と所望した。

来れいとしのツィターを弾いてエメに渡すと「Serenata(セレナータ)という曲で習っているところなのです」と断って弾き出そうとしたときにノックの音が聞こえてリュカが開けるとジュディッタが入ってきた。

「マンドリンが聞こえたから見にきたのよ」

「いいところに来たわ。お菓子もあるしいいお茶も有るの。この間から習っている曲を弾くから聞いて頂戴」

椅子とカップをリュカが隣の台所から用意してきた。

「おやまぁここの家はカップが沢山あるのね」

「此処は私が来る前は伯母が住んでいたのを其のまま引き継いだのでお客用の物が20セット台所にあるんですの。皆様に出した分はお客様に使う中でも特別なものらしいのですが、私には良くわからないのです」

「そう、これはトスカーナのリチャード・ジノリのインペロシェイプよ」

青紫のプラムが描かれ、赤や青の小花が散りまるで九谷焼を思わせる図柄だ。

「正太郎はよく知っているはずよ。もともとはジャパンのクタニの陶器の図柄から写されたものだから」

さすがオウレリアはイタリアからの貿易も担当していて詳しかった。

正太郎はそういえば先生はイタリアからのものをイギリスと共同でといっていたから其の中には陶器も入っていたのかもしれないと思い当たり、先生はお酒が主体だったので陶器は気がつかなかったなと一人ごちた。

「ワォ〜、オウレリアはそんなことまで知っているのね」

「エメ、私のこと今度からRilly と呼んでね。学校の友達は私のことをそう呼んでいたの。私が貴方を呼ぶときにエメで此方がオウレリアと呼ばれるとお友達らしくないわ」

「判りました。リリーこれからそう呼ばせていただきます」

「それから正太郎は此方ではショウと呼ばれているようだし、私たちもそう呼ばせていただくわ。最もジュディとMr.ラムレイは他の呼び方をすると違う人みたいに聞こえてしまうのでそう呼んでね」

エメがセレナータをマンドリンで弾き出すと其れにあわせてジュディッタが高い澄んだ声で歌いだした。

リュカが台所から新しいお湯を運んできてお茶の葉をジュディが入れ替え皆のカップに注いで廻った。

多めに買ったサン・トノレもジュディッタとリュカが片付けてくれてカップはジュディがエメを手伝って片付けた。

ジュディッタはオウレリアと楽器のことやさっきエメが弾いてジュディッタが歌った歌詩について話していた。

「そうねこの曲はまだできて2年も経たないからそれほど広まっていないようね」

ジュディッタはパリで楽器店を手伝いながらマンドリンとギターの教室を週2回ずつ月曜から木曜までの午後に開いているということを話した。

後の3日間は自分の勉強時間といっていたが楽器か他の物なのかは言わなかった。

リュカに馬車を呼びに行ってもらい、身支度を済ませた4人は馬車に乗り込んでインターコンチネンタル・ルグランへ戻った。

「ショウ明日は11時に此処に来てね。馬車を用意して置きますからそれでラレーヌオルタンス街の角で見張りましょ。ショウがどの男が相手なのか教えるのよ、その後は私が帰りをつけてどこへ戻るか調べるから」

「大丈夫ですか一人で」

「平気よ、ショウとMr.ラムレイはジュディと馬車で十分離れて後からついて来るのよ、相手が馬車に乗ったら其れでつけて行けるわ、ル・ムーリスに泊まっているのが判れば後は本職の探偵に見張らせることにしましょうね。Mr.ラムレイ今日のうちに連絡をつけて頂戴」

「では馬車は二台用意しましょう。そのほうが安全です。私とショウに探偵はベルリーヌにジュディは念のため別の一台に」

Mr.ラムレイそれなら目立たない観光用の辻馬車に心当たりがありますから一台はジュディのために其れを此処に11時に来て貰います」

「そうか其れが好いか私の顔は見られると困るがショウは大丈夫かな」

「僕はYokohamaでは遠くから見ただけですが一度パリでシーヌから来たと言って会ったことがありますがMr.ラムレイに雇われているといえばまさかの時には弁解もできます」

打ち合わせも入念にして正太郎はストラスブルグ駅(東駅)へ行ってみることにした。

疾風のアルマンはいなかったが運の良いことにアロルドがいてメゾンデマダムDDまで向かわせて、相談があるからと助手台に座って明日のことを包み隠さず話して協力を頼んだ。

「ようがすぜ。あっしが出られないときは親父さんに行ってもらいやしょう。で10時にメゾンデマダムDDまで行けばよろしいですね」

「そうしてください。インターコンチネンタル・ルグランに11時と言ってありますが早めに行けば向こうで呼ぶベルリーヌの馭者の人とも打ち合わせができます」

どうやら7時の夕食時間に間に合い明日は10時から出かけるけど帰宅時間はわからないということをMomoに話しておいた。


Paris1872年6月24日 Monday

Lundiの朝正太郎はダンが出かける前に今日のことを打ち合わせた、追跡が上手く行かずよそへ行ってしまった時や、まかれた時、山城屋がホテルに戻るのを確認してもらう人員を確保してもらうためだ。 

「それでリヴォリ街のLe Meurice(ル・ムーリス)で良いんだな」

「そうです。ダンは顔を知っているでしょうが、ほかの人は知らないでしょうからラモンに似顔絵を描いてもらいました。東洋人だからそうは多く泊まっていないはずです。特徴はほら例の左肩が少し上がり気味で歩きますから」

「そうだったな。昔カタナをさしていたときの癖だそうだな」

「そうなんです。僕のような町のものはそういう歩き方はしませんが武士だった人には左に刀を差していたときの重みがなくなった分の癖が抜けない人が多いのです。山城屋は特にそれが残っていました」

ル・ムーリスは1835年にテュイルリー公園にある壮麗な宮殿をホテルにしたものだ。

テュイルリー公園には、革命時にはルイ16世とマリー・アントワネットの王家一家が幽閉されたテュイルリー宮殿があったが1871年のパリ・コミューンで其の宮殿は焼失したが同じ公園内にあるル・ムーリスは無事だったのだ。

「しかしあんな豪勢なホテルに泊まるなんて山城屋は金が無尽蔵に有るとしか思えんな。普通の金持ちでは十日も泊まったら大変な事なのにもう3ヶ月も泊まっているんだろ、アラブの王族やロシアの貴族でもなかなか其処までは続かないぜ」

ル・ムーリスは山城屋のように供を連れて泊まればどうみても一月3600フランは取るだろうとダンは言うのだ。

オウレリアたちが泊まったインターコンチネンタル・ルグランでさえ3人で其の半分で済むだろうとダンは推測してもいるが正太郎にはさっぱりわからないホテル事情であった。

「そんなところに泊まる必要なぞありませんよね。僕だったら3日で退散しますね」

「馬鹿いうなよ。一日だってごめんだな、金もそうだが気取った上流階級面した元貴族や元王族に、ヨーロッパ中の王族御用達みたいなところに居られる物かよ。いくら気取ったところでお郷はすぐに知れるさ」

幾人頼むか判らないので日当に12フランを渡しダンが学校へ出かけた後正太郎はアロルドが来るまで庭の草むしりを手伝った、マダム・デシャンは庭師に任せず自分で雑草を引き抜くのを日課にしていた。

ニコラが出かける前に「ショウそろそろ山城屋へ帰国命令が来る頃だろ」と聞いてきた「今日その申し渡しが有るそうです」

「やはりな。弁務使公館へ緊急電信が入ったと聞いたが其れがそうか」

会計の仕事のニコラまで其れを知っているということは電信の中身はフランス外務省やパリ警視庁では掌握しているかもしれないと感じた。

「其れでな、カジノでヤマシローたちがエカルテでだいぶ負けが込んでいるそうだ。若い奴らの借りをヤマシローがだいぶ肩代わりしたそうだが、ヤマシローだけでなくそいつらも帰国させないと国に大損をさせてしまうぞ。自費留学ならともかく国費留学でカジノなぞ呆れた連中が多いのは送り出すほうにも責任があるな」

ニコラは知らん顔をしているようだが正太郎の頼んだ分の情報は確実に調べだしてくれていた。

「其れとショウの国は外交に慣れていないようだが、本心をさらけ出しても国対国では其れが良いことにはつながらないよ。手の内をすべてさらけ出しての外交では相手の思う壺にはめられるのが落ちだ」

ニコラが言う言葉は、此方にはお前の国はスパイされているから気をつけろということをそれとなく教えてくれたように感じたのと、昨日休みのはずのニコラがいなかったのはそのことを含めて調べて廻ってくれたことに気が付いた。

馬車が来て正太郎は昨日話したように先にル・ムーリスを廻ってインターコンチネンタル・ルグランへ向かった。

「ショウの旦那ル・ムーリスの前にあったというテュルリー宮殿は見ましたかい」

「僕が来たのは最近で燃えてしまったと聞いたけどね」

「さいですか、あっしもパリに入ったのはこの宮殿が燃えた後でしてね、親父さんから聞いたぐらいで見ちゃいないのですが大層な物だったそうですぜ」

正太郎は写真でしか宮殿を見ておらず、昨日歩いたときにMr.ラムレイが此処にあったと言う場所には石積みと噴水しか残されておらずガッカリしたのだ。

Eglise Saint-Roch(サン・ロック教会)の脇Rue Pyramides(ピラミッド街)を抜けてオペラ大通りを左に折れればすぐ先にオペラ・ガルニエが見え、もう一度左へ曲がればインターコンチネンタル・ルグラン、入り口の馬車溜りへ着いた時には11時にまだ15分あった。

オウレリアがいつも頼む馭者がいたので近寄ると中からMr.ラムレイといかつい顔の若者が出てきた。

Mr.ショウ早かったね。此方が念のため協力をお願いしたM. Guynemer (ギヌメール)だ、パリ支店でよくお願いする人で機転の利く面白い人だよ」

簡潔で判りやすくすべてを物語る紹介だ。

「ヤァ君がM.ショウなんだ。僕はValentin (ヴァランタン)友人はValと呼ぶから君もそうしてくれたまえ」

「では僕もムッシューは省略してくださいね。ショウと呼んでください」

「良いともショウ、俺たちは仲間だ」

Mr.ラムレイから細かいことも聞いていると言うのでアロルドを紹介してジュディとMiss.Mac Horn がアロルドの観光馬車に乗ることを伝えた。

11時にオウレリアとジュディが降りてきたので2台の馬車はキャプシーヌ大通りへ出てRue Cambon(カンボン街)からサン・トノーレ街へ出てシブーストでお茶を飲みながら相談をした。

12時に正太郎とヴァルとMr.ラムレイはベルリーヌ馬車に乗って弁務使公館へ先行した。

万が一、山城屋が早めに公館へ来ているといけないからだ、鮫島は1時前には会わないということにしてあるがどうなるか判らないからだ。

打ち合わせでは山城屋が現れれば高野が表へ出てベルリーヌ馬車がいれば窓の近くで合図をしてくれることになっていた。

山城屋はいつものシナ人を連れて弁務使公館に現れた。

「山城屋和助が参りましたと鮫島様にお伝えください」

「判りました。少弁務使はいま昼食後の休憩時間ですがご都合を聞いてまいります」

時間は1時15分予定通りに現れた山城屋に弁務使公館は緊張が走った。

鮫島は山城屋を執務室に呼び入れると「すぐ済む急ぎの書類があるから少し待ってくれ」といって高野には10分ほどしたらお茶の支度をして君が持ってきてくれたまえと頼んだ、表で連絡をつける時間稼ぎだ。

「ヤァ忙しいところ呼び立ててすまなかった」

「いえ鮫島様にはご挨拶にも参られず申し訳なく思っております」

「商売が忙しいのは結構なことだ。実は今日の呼び出しは外務卿の副島様から緊急公電が昨日届いてな、公館の都合で連絡だけになってすまない、用件は君に早急に帰国せよとの話しなのだ。遅くも三日後にはパリを発てる様にしてくれんかね」

「何事かございましたか」

「此方では良く判らんのだよ、アメリカから岩倉様の一行も来られるしパリ、ロンドンは忙しいのでなぁ。君の話しは三条様からのお呼び出しのようだ」

「判りました。三日といわず明日の夜行でマルセイユへ向かい出来うる限りの一番早い船でYokohamaへ向かいます」

「其れは重畳。実はマルセイユの船便を調べたら五日後にマルセイユを出て上海へ行くフランス郵船のアレキサンダー三世というのが一番早いそうだ。その後だと十日後のフー・クリー号Yokohama行きだがこれは途中の停泊予定地が多いらしい」

「其れは好都合でございました。鮫島様のほうでお調べいただいた其の船の予約が取れ次第マルセイユへ向かいます」

鮫島が別れの乾杯の支度をするからと山城屋を引き止めて高野と共にドアの外へ出ていまの話を正太郎たちへ伝えるように言付けた。

高野から其れを聞いた正太郎がほかのものに通訳してオウレリアを馭者に呼んでもらうと今のことを告げた。

10分もしないうちにせかせかとした足取りで山城屋とシナ人が出てきた。

正太郎の合図でオウレリアが散歩をしている様子で其の後を付け出してアロルドの観光馬車がジュディを載せてゆっくりと動き出した。

ベルリーヌ馬車のほうは後からつけるため100メートルほど間を空けて馬を歩ませた。

山城屋はPlace du General Brocardの手前で辻馬車を見つけるとシナ人が「Rue Scribe(スクリーブ街)」と言って料金も聞かずに乗り込んだ。

其れを聞いたオウレリアが観光馬車を呼んでアロルドに行き先を告げると乗り込んで後を付け出した。

山城屋の馬車はファヴル・サン・トノーレ街をサン・トノーレ街へ向かい途中でエルメスの店に寄った。

オウレリアがベルリーヌ馬車へ来てスクリーブ街までといっていたけどどうしてここで止まったか調べに店に入ると馬車から離れた。

ジュディをつれて店に入り「この娘をお供に連れて買い物に都合の良いものが欲しい」と店員に告げて幾つかの品物を見せてもらいだした。

山城屋は手当たり次第に革鞄を買ってそれを馬車に積み込ませていた。

支払いに手間取っている間にオウレリアは30フランの小さなバッグを買って「パリにいる間に又来るわ」といって店を出た。

山城屋が出る前にオウレリアの観光馬車は先にスクリーブ街へ向かいインターコンチネンタル・ルグランまで先行して待ちうけた

ベルリーヌ馬車はヴァルを残してマドレーヌ寺院の前で馬車を止めて山城屋が乗った馬車が来るのを待った。

オウレリアはアロルドに見張りをさせてルイ・ヴィトンに入りStriped Camvasのバッグを物色しだした。

山城屋がシナ人と入ってきておゃっと言う顔をしたがオウレリアは知らん顔をしてジュディに「どっちがいい」と聞いて少し小ぶりのものを25フランで求めた。

Mr.ラムレイは少し渋い顔をするだろうとオウレリアは愉快に思って微笑んだのを見て山城屋たちは単なる買い物好きの女たちと見て安心したようだ。

表に出るとアロルドの馬車に乗ってオペラ・ガルニエの前で待機した。

ヴァルが出てきたと合図をしたのでオウレリアは山城屋の馬車の後を付け出した。

馬車はリシュリュー街68番のフランス郵船で止まり二人は中へはいって30分ほどで出てきた。

ルーブルまで出た馬車はル・ムーリスの前でとまり荷物を降ろして馬車を返した。

ジャンヌ・ダルク像の前で待ち受けていたオウレリア達と馬車から降りてテュイルリー宮殿跡から見ていたヴァルとMr.ラムレイは馬車を呼び寄せて正太郎とオウレリアに相談してヴァルとアロルドを残して一度引き上げることにした。

正太郎がダンを見つけたので窓から呼んでヴァルを教えて共同歩調を取るように頼んで軍資金に20フラン札を2枚渡した。

「こりゃ心強いな」

ダンは嬉しそうにポシェに小さくたたんで押し込んだ。

オウレリアとジュディの持っているバッグを情けなさそうにMr.ラムレイは見ていたが「明日の支度に私もエルメスで買い物をしますから正太郎とラデュレの前で下ろしてください」と言った。

「ショウ、あれだけバッグを買い込んだということは間違いなく明日の特急に乗るだろう。あのル・ムーリスへ私とショウが今晩泊まって、私が同じ列車に乗れるようにル・ムーリスのギャルソンに鼻薬を利かせよう」

「そうですね。其れが一番良いでしょう、それで軍資金は大丈夫ですか」

「昨晩オウレリアさまから800フラン預かったよ。いい遊びのつもりのようだから私も探偵に為った積もりで支度をするつもりだ」

エルメスでは100フランで2つのバッグを買い入れ近くの店で細かなものを買い入れて其れを押し込んでル・ムーリスへ向かった。

幸い部屋が取れて荷物を部屋へ置いてギャルソンに10フランを渡して実は商売敵の動静によってはマルセイユまで行くのだが切符の手配ができるかと聞いた。

「其れはようございました。幸い二人分の席を明日の夕刻発の予約を私が取りに行くのですがお二人ですか」

「いやマルセイユは私一人だ。この男は仕事での使い走りで明日からは安ホテルに移して泊まらせるのさ」

「往復を一等になさいますか」

「そうしてくれたまえ」
360フランを渡して「其れでお釣りがあるかな。有ればチップにとっておきたまえ」鷹揚なイギリス紳士のMr.ラムレイにギャルソンはお礼を言って「では切符は間違いなくReceptionnisteに用意しておきますのでお発ちのときにお受け取りください」と出て行った。

「金持ち気分と言うのは疲れるものだな。ショウはどうだ」

「はらはらしましたよ。あそこまでチップを弾むのは大変なことですね」

「何、あのくらい弾めば少しくらいのことは気にしないのさ。これからインターコンチネンタル・ルグランで自分の荷物の中から明日の服装に何がいいか選んでこよう、ショウも今晩は此処でダンやヴァルと連絡に忙しいかもしれないよ。もしものために夜会用の服だけでも取りに行くかい」

「そうします。表にアロルドがいますからそれで一緒に行きますか」

「いやホテルで別の馬車を呼んでもらおうよ、私が降りた後それでマダム・デシャンのところまで行き給え馬車を待たせてインターコンチネンタル・ルグランへ来る頃にはこちらの支度も済んでいるさ。アロルドにはショウが先に出て其れを伝えておいてくれ。山城屋に会っても例のシナ人にでも新しい主人だと紹介するんだよ。上手く伝ができればマルセイユまで行くと先に言えば怪しまれることも無いだろう」

Mr.ラムレイは十分考えてのル・ムーリスへの宿泊のようだ、Mr.ラムレイが周りを監視して正太郎は十分注意してアロルドたちに連絡をつけた。

ホテルの前に馬車が来てギャルソンがお待ちの馬車ですと伝えて乗ろうとすると山城屋に付いていたシナ人がどこからか現れて「申し訳ないが相乗りさせていただけないか」と聞いてきた。

ついMr.ラムレイが「オペラ・ガルニエだがどこまでだ」といってしまった。

「北駅まで行きたいのですが」まずいと思い正太郎が「Mr.ラムレイこの人は僕の国のかたで知り合いの陳藩若(Chen fanruoチャン・ファンルォ)さんと言います」

「なんだショウの知り合いかそれなら良いだろう。どうせショウは荷物を取りにメゾンデマダムDDまで行くんだ、乗りなさい」

陳藩若が「メルシー」といって乗り込んできた。

「そうかショウと同じお国の人か」

「私は上海ですがこの方は香港だそうです」

インターコンチネンタル・ルグランでMr.ラムレイは降り,馬車は北駅を目指したがチェン・ファンルォは「ショウといったな其れは苗字か名か。お前の家はどこだ。どこまで行くのだ」と矢継ぎ早に質問をしてきた。

「私は姜寿(Jiang Shouヂアン・ショウ)といいます。モンマルトルのソウル街42番地に下宿しています。其処へいってMr.ラムレイに言われたとおりに夜会にも出られる服を取りに行きますがチェン・ファンルォさんはどちらまで行かれるのですか」

「北駅といったがお前の家まで行こう」

「私に何か用ですか」

「さっきほかの馬車のところにいたろう。あの馬車は俺たちをつけていた」

「エッそうでしたか。それは物騒なことですね何か狙われるような大事なものでも」

「お前も怪しい」

「でもあの馬車の馭者と話していたのが僕の知り合いだったので傍で話をしたのですが妖しい人ではありませんよ。前にしていたTravail(トラバーユ仕事)の仲間でソルボンヌの学生ですよ」

とにかくお前の住まいまで行こう、話しは其れからだということでメゾンデマダムDDまで附いてきた。

Momoただいま。此方は同じ国の人で香港から来たチェン・ファンルォさんだよ。僕の部屋で話があるから2階へ行くよ」

「ショウお帰り、じゃこの人もシーヌの人なの」

Momoは経緯を察したようでそう話してくれた、頭のいい娘なのだ。

「ふぅん、上海生まれと言うのは嘘じゃない様だな」

部屋を見てあちらこちらを見ていたが書類も手紙もすべて出かける前にカバンごとマダムの金庫に入れて此処には置いていないので正太郎は安心して見るに任せた。

其の間に夜会用の礼服を取り出してトランクに入れた正太郎は「私はこれを取りに来ただけですからもう出ますが何かまだ疑っておられるのですか」

「この服はなんだ」

サンフランシスコで買った上下のジーンズを見て尋ねた。

「これはアメリカへ渡ったときに仕事着に与えられたものです、其れとこれはニューヨークからフランスへ来るときに餞別に買ってくれたものです。そちらは船がYokohamaに泊まった時に親類の人が呉れました。ロシアの人が呉れたものもあります」

「なんだみんな貰い物か」

「そうです、この夜会服も頂き物です。お持ちだった人が太られて着なくなったものです」

ワインの書類や金目のものまでがマダム・デシャンの金庫にあるので此処には本当に小出しの金しか無いのでどう調べても妖しいものは見当たらずチェン・ファンルォも仕方なく部屋を後にした。

待たせておいた馬車でインターコンチネンタル・ルグランへ戻り「チェン・ファンルォさんはこの後どうしますか。Mr.ラムレイは此処に商売の仲間の人の荷物があるので其れを持って明日にはマルセイユに行かれるので其の荷物を取りに行っているので僕が迎えに行くのですが」

「そうか俺もル・ムーリスまで戻るから其れまで待とう。馬車はどうせ待たせるのだろう」

「そうです、そういう約束です」

正太郎についてMr.ラムレイに会いに行こうとしたようだがMr.ラムレイはエントランスで悠然と待っていた、オウレリアたちには事情を話して降りてこないようにしたようだ。

「やっときたか、では出かけるか、おや君は用が済んだのかね」

「ええ、僕の用事はもう済みましたので帰りが同じなので又乗せてもらうことにしました」

「まぁ良いさ、好きにしたまえ」

3人は表向き仲良く馬車でル・ムーリスヘ向かった。

ル・ムーリスで礼を言ってチェン・ファンルォは先に下りてホテルへ入っていった。

「あいつチップも出さないな」

Mr.ラムレイは馬車代のほかに2フランのチップを渡して「俺もだいぶお大尽のような金遣いになったぜ」と笑いながら部屋の鍵を受け取った。

「なんだか僕たちに疑いを持ったようですね。アロルドは疾風のアルマンと入れ替わったようなのでばれることは無いと思いますが」

「ショウは面白い人たちと知り合いだな。皆役立ちそうな人ばかりだ」

Momoの機転のことも話すとMr.ラムレイはそういって明日着ていく衣装を正太郎に見せSavile Rowのガンマニーで誂えた薄茶色のスーツを見せながらこういうことが起きるのを長い間夢に見ていたと話しをしてくれた。

亜米利加のPoeのThe Murders in the Rue Morgueに出てくる探偵を見習う予定で選んだ服といいながら今日買ったトランクに必要なものを選んで詰め替えた。

ノックの音で正太郎が開けると其処には山城屋とチェン・ファンルォが立っていた。

「良いかねお邪魔しても」

「どうぞ」Mr.ラムレイが声をかけた。

「此方はジャポンの偉い人たちの御用を務める山城屋様です」

チェン・ファンルォはそう紹介したのでMr.ラムレイは手を出して握手をした。

「俺のことはフランス人はヤマシローと言うのだそうだ、君たちマルセイユまで行くと聞いたが」

M.ヤマシローそうだが、行くのは僕だけだ」

「そのショウという子は行かないのかね」

「こいつはパリで遣る仕事があるので連れて行かんが、何かようでも」

「いや用は無いが少し気がかりなことがある。表の馬車だ」

正太郎は入るときにアロルドから疾風のアルマンの馬車に変わっていたのを見逃さなかったので「僕が話をしていたという馬車ですか」とわざと聞いた。

「そうだ」

「まだ表にいるのですか」

「さっき入るときには気が付かなかったがいるだろうと思う」

Mr.ラムレイは何でも賭けにするイギリス人そのままに「いなかったらどうするね」と賭けに乗るぞというそぶりを見せて誘った。

「いなければそれでいい」

「そいつは可笑しいな。俺たちに妖しいからと可笑しなことを言い出したのはそちらだ。俺はいないほうに10フラン賭けるぜ」

二人は相談していたが「では自分が見てきます」とチェン・ファンルォは「ヂアン・ショウも一緒に来い」と連れ出した。

ヴァルもダンもうまく隠れているらしく玄関からは見えなかったし、疾風のアルマンも若い婦人を乗せてのんびりと馬を歩かせていた。

「いないようだな」チェン・ファンルォはやっと得心した様子で2階のMr.ラムレイの部屋へ戻った。

「いませんでした。賭けは俺の負けです」

潔くチェン・ファンルォは10フラン金貨をMr.ラムレイに差し出した。

「良いぞ、ショウこれで今夜はカジノの元手が増えた」

「カジノに行くのかね」

「どうするか考えていたが、飯だけでは夜が詰まらんのでね」

「俺たちの行きつけのカジノがあるから付き合わんか」

山城屋はどうやら正太郎たちを今夜の遊び相手に連れ回そうと考えたようだ。

Mr.ラムレイが上手く話を聞かせたのかもしれない。

「エカルテやルーレットにポーカーゲームか」

「そうだなパリは余りポーカーを遣らないようだ。わしは横浜でポーカーの手ほどきを受けたからそのほうがいいのだが」

そういってポケットから使い古したカードを出し器用にシャッフルを手の内でして見せた。

「ヂアン・ショウ、君はポーカーを知っているかね」

「船の中で盛んに遣るのを見ましたが掛け金を際限なくあげる遣り方にはついていけないので手は出しませんでした」

「パリのカジノでは一回10フランから100フランまでと決めて勝負をさせているよ」

「では先ほどの10フランをかけて1回勝負でもしますか」

Mr.ラムレイはどうやら賭け好きのイギリス人の振りもしたいようだ。

シャッフルするように山城屋が言ってショウにカードを渡した。

表を出して軽く広げてカードが揃っているかを確認した後、裏返して少し不器用に見えますようにとシャッフルしてカードを5枚ずつ配った、山城屋が先にカードを選べるようにして2ペアになるように細工してMr.ラムレイのほうはワンペアにした。

「1枚」山城屋は2ペアを持っていることを隠す様子も見せなかった、正太郎が見ていてもこれではカジノで良い様にされてしまうと思えるほどだ。

Mr.ラムレイはこのままといって替えなかった。

「良いのかこちらは2ペアだぜ」

「そうかしまった、アメリカ式にブラフは聞かないか」

「そういうことだ、パリのカジノはこういうやり方で少しつまらんのだよ」

Mr.ラムレイは手をさらけてエースのワンペアを見せた。

「俺の勝ちだ」と2と5の2ペアを見せて10フラン金貨を取り返してチェン・ファンルォに放り投げた。

「いかがですか今晩」

「カジノですかな」

Mr.ラムレイはさも興味深そうに聞いた。

「左様ですよ。賭けごとはお好きらしい」

「そういわれるとお断りは失礼ですな。時間は」

山城屋は時計を出して「後2時間したらお迎えに参りますがいかがですかな」

「結構でしょう、下のサロンに降りていますよ」

正太郎もこの眼で山城屋がどのようにカジノで散財していたか実地に見られると言うので興奮を隠してMr.ラムレイに話しかけた。

「旦那様、明日の列車の時間がまだ判りませんので遅くまでは困ります」

「何、寝なくとも列車で寝る時間はいくらでもあるさ。どうせ朝早い列車の予約は取れていまい」

山城屋はMr.ラムレイは何の用事でマルセイユまでと聞いてきたが、何支店の監察ですよ、ロンドンのほうと離れているのでどういう仕事振りか見に行くのですと答えた。

二人が部屋を出ると「ショウはカードを操れるのか。上手く金を返して引っ掛かりをつけたな」Mr.ラムレイは正太郎に聞いてきた。

「そうなんです。Mr.ラムレイは見破りましたか、あのカード使い古しているので簡単に混ぜる間に上手く配れるようにしました」

「どこで覚えたんだ」

「船の中です。知り合いの人がカードのいかさまに引っかからないようにと、どこを見て覚えるのかも詳しく教えてくれましたし、サンフランシスコのなまりの強い言葉やばくち打ちの裏技なども教えてくれました」

髭の手入れなどは下の床屋で遣らせてサロンでお茶を飲みながら山城屋を待ち受けたが此処では話しは昔のパリの話題だけにした。

「俺の若いときはまだ独逸との戦争前でオスマンが大改造を始めた頃だった。前の主人が旅行好きであちらこちら廻ったがパリは汚い街だったとしか印象が無いのさ。確かに庭園と建物は立派だったが、しもの世話をほったらかしにした可笑しな都だった。風呂もトイレも無いホテルがあって入れ物にした排泄物を毎朝取りに来る役目のものがいて其れをセーヌに投げ捨てるのさ。ひどいところでは町の溝に捨てるので通りを歩くと汚物の臭いがしていて、閉口したもんだ」

「話には聞いたことがあります。田舎のほうが清潔だったという話ですね」

「そうだ、いまは下水道も完備して町は綺麗だし清潔そのものだ」

Mr.ラムレイは30代後半に見えるがいくつなのだろうかと正太郎は疑問に思ったが口には出さなかった。

12本の大通りを凱旋門から放射状に伸ばしたり道を真っ直ぐにしたりスラムを取り払ったりすさまじい勢いで町を改造した様子を時間が来るまで話してくれた。

都合20回はパリに来たということで街の移り変わりを観察できたようだ。

「だがな表は綺麗だが引き出しや衣装戸棚を開けると乱雑にしている女と同じで見かけだけで判断はできない裏の町も有るぜ。今晩は其の一端を拝めそうだな」

Mr.ラムレイは主人が使用人に話すようにそっくり返るようにして話を続けたし、正太郎も心得て主人の話を聞く使用人らしく畏まって聞いた。

Eugene Haussmann(ウジェーヌ・オスマン)の功罪もイギリス人らしい観察力で見事に理論を展開して正太郎に聞かせてくれた。

正太郎はユゴーの本で知っていたことの詳細をもっと聞きたかったが山城屋が現れたのですぐに立ち上がって席を勧めた。

「いやもう出かけるから座る必要は無い。Mr.ラムレイでは出かけますかな」

「良いでしょう、カジノにはまだ時間が早そうだ何処かで軽くやっていきますかな」

「良いですな。何処か知っておられますか」

「パレ・ロワイヤルに行けば何でもありますぞ」

「其れはいい、行きつけのカジノはそこにあるのでな。歩いても5分くらいだ」

4人で表に出て歩き出すと疾風のアルマンの馬車にはヴァルが乗っているのを追い抜いた。

正太郎はわざと「パレ・ロワイヤルのどこへ行きますか」と聞いた。

Mr.ラムレイは振り向いて「まだ去年焼けた後が残っているラ・ロトンドだ」

山城屋も振り向いて正太郎とチェン・ファンルォに向かって「食事はあとだまず一杯引っ掛けてからだ」と長州なまりの残る日本語で怒鳴った。

「チェン・ファンルォさん、今お宅の旦那は何を言ったのですか」

「飯は抜きで酒だといったんだ。ヂアン・ショウは腹が減ったのか」

「私は大丈夫ですが、家の旦那様は油断すると食事を抜いてでも賭け事に夢中になりますので、私が気を配りませんとお酒だけで終わる日も有るのです」

「そいつは使われるほうは堪らんな」

「そうなんですよ。まだ五日ほどですが2回は抜かされました」

正太郎はMr.ラムレイと打ち合わせどおりに5日前に雇われたと二人が通じる寧波語で話を続けていた。

Mr.ラムレイお宅の使用人も家のも、アアぺちゃくちゃ何を話しているのか判らん言葉では悪口を言われても判りませんな」

「そうそう、使用人はどこでも主人のあら捜しがうまいですぞ」

二人は山城屋のたどたどしい仏蘭西語でその様なことを話していた。

Mr.ラムレイはグラン・ブルヴァールの方面やモンマルトルはどこへ行かれますかな」

「グラン・ブルヴァールは昔、といっても5年ほど前にカフェ・リッシュに行きましたな。後最近ではカフェ・アルディにもね」

「そいつはいい店ですかな」

「いい店と言うより、高い店ですな。リッシュの店へ行くには、大胆(アルディ)でなくてはならず、アルディの店に行くには、リッシュ(金持ち)でなければならないなぞという流行り言葉に引かれていっただけで元貴族や王族の溜まり場ですな」

「なるほど、昔の名声でどうにか維持しているということでしょうかな」

「左様ですな。ほれ其処がラ・ロトンドの入り口ですぞ」

店に入ると奥にサラとヴァルテスがダンディな紳士と一緒に陣取っていた。

こちらを見てヤマシローを確認すると近付いてきて「ヂアン・ショウ、いつ伯母のところを辞めたの」と話しかけてきて「申し訳ありません、この子は私の伯母のところで働かせていたのですがあなた方のお知り合いですか」と言葉を続けた。

サラやヴァルテスたちにこの名前でフォリー・ベルジェールでは名乗るということを伝えてあってよかったと思った。

これで完全に山城屋とチェン・ファンルォは信用したようだ。

Mr.ラムレイは席を勧めてサラを座らせてから聞いた。

「ホウ、ヂアン・ショウは貴方の伯母様のところの使用人でしたか。5日ほど前に知り合いから頼まれて雇いましたが仕事振りはどうでしたかな」

「普通ね、よくもなく悪くもなく。上海から来たというけどフランス語は上手よ。イギリスの言葉も話すしポーターにはもったいないと思っていたの」

サラは上手く話を持っていき向こうに仕事関係のものと話があるからと席を立った。

「ずいぶん綺麗な女だな」

チェン・ファンルォは正太郎に聞いてきた。

「あの人、隣のコメディ・フランセーズに最近引き抜かれたサラ・ベルナールという俳優さんですよ、あそこに居られるのはヴァルテス・ド・ラ・ビーニュさん。男の人は知らない人です」

正太郎はぶち壊しに為らないように画家たちが現れないことを祈った。

山城屋とチェン・ファンルォは酒を飲みながら盛んに向こうを気にしていたが「ヂアン・ショウ、お前知り合いなら今晩カジノに付き合うか聞いてこいよ」と切り出してきた。

「まさかあの人たちを誘うには200フランは小遣いを渡して好きに遊べという位の事が必要ですよ。其れも其の金をすったらそれでお仕舞いという後の時間は此方と何もしないと言う事になりますよ」

「なんだつまらんな、俳優なんぞプロスティチュエと同じだろうに」

「そういう人もいるそうですが。あの人たちと付き合うには財産なんぞすべて投げ出してもいいという人が居るそうですからね。でも僕は少しあの人たちに貸しも有るので一晩カジノへ誘うくらいでしたらどうにかなりますよ」

うっかりと正太郎は自慢してしまった。

山城屋はすっかり乗り気になったようだが向こうでも今晩の遊び相手に此方を選んだようで紳士が席を立つと二人が此方へ近付いてきた。

Mr.ラムレイが席を勧めると二人は席に座って給仕にカクテルを頼んだ。

「これからカジノへ行くのですが、ご一緒願えませんか」

「そうね夜の予定は無いから其れもいいけれど資金を用意してこなきゃね」

「私がお一人300フラン用意しますから。いかがですか」

すかさず山城屋が持ちかけた、あわよくばという気持ちが見え見えの顔だ。

「でも、初めてのかたにお借りするのも困りますわ」

「いやこれは軍資金で負ければ其れきり、お勝ちになれば貴方のお小遣いにしてください」

さすが山城屋は太っ腹であった。

少々お待ちをと山城屋はトイレに立つ振りでカーテンの向こうへ出てすぐに戻り3枚の丸めた100フラン紙幣を二人へ差し出した。

少しは礼儀を知っていて周りから判らないようにして渡すのを見て正太郎はこれでおかしな金を使わない男なら良いのにと改めて思った。

丸めたままの紙幣を二人は手提げにしのばせると「今晩はどこのカジノへ御出でですの」と聞いてきた。

「ギャラリー・ドルレアンのサボンの店です」

山城屋はそういって手を上げて勘定書きを持ってこさせた。

此処は私が払いましょうとMr.ラムレイが其れを受け取って「このご婦人方のはどうしたね」と聞いて其れも一緒に支払い2フランのチップを添えた。

6人に増えた寄り合い状態でカジノに向かったのはまだ8時で外は明るいが、すでに20人ほどが遊びに来ていた。

Ecarte(エカルテ)のテーブルは人で溢れていてルーレット台はまばらだった。

山城屋がルーレットは遣ったことが無いが向こうへ行きましょうとサラとヴァルテスを誘って6人ほどが居る台へ向かった。

其処には若い女クルーピエ(ディーラー)がいて小さな熊手でチップを配っていた。

サラはヴァルテスと一緒に300フランを10フランのポイントに交換した。

サラはEn Plein(アン・プラン)で12に2枚とNoirに2枚賭けヴァルテスは7に2枚とルージュに2枚を賭けた。

山城屋は其れを見て20に10枚の10フランのポイントを賭けた。其の声を聞いて女クルーピエは熊手で器用に番号のところへ送った。

Mr.ラムレイは其れを見ていて正太郎に5フランのチップを10枚渡して好きなところに賭けていいよと言って自分は8.9.11.12.の4点がけを指定して20フランを賭けた。

正太郎は考えていたが10フランを13に賭けさせた。

「良いぞショウ。そういうことだ」

山城屋は怪訝な顔でMr.ラムレイと小声で相談した「どういうことだね」

「ディーラーが女性だから12と7を避けようとするでしょう。そうすると力加減で0から17あたりを狙うでしょうがあそこにはあの人たちが200フラン以上も賭けていますからショウの13からこちら側が有利になると読んだのでしょう」

台をにらんでいたが「23から14までの間に落とすか0しかディーラーは勝ち目が無いのか」

「其れですがもうじきRoue(輪)を回しますから其処で賭けてくるものが居ますよ。向こうも其れを狙っていて0から12あたりを狙うはずです」

「君其れを見込んでの4点賭けかい」

「そうなんですが其の裏を読んだのがショウでは無いでしょうか」

「わからん理屈だな。カードと違って投げさせてみないと判らん。ダイスのほうがまだましだ」

「そうですね。Les des(サイコロ)の目も一つなら6分の1ですが増えれば確立が減りますね。ばくち打ちはダイスやカードの数字を自在に扱うそうですが、こいつはそうやすやすと思ったところへ行かさないように客も象牙のBoule(ボール)を投げた力加減で一斉に賭けて来ますよ」

台から身を引いて二人でフランス語にイギリス語が混ざりながら小さな声で話していた。

鈴の音がして輪が廻りだしてボールが投げ入れられたと同時に3人の男が26.32と叫んで10フランずつポイントを出し残る一人が3.15と声をかけて10フランのポイントが置かれた。

Le pari etait de finition(賭けは其処までです)と声がかけられ後はボールが落ちるのを見守るだけとなった。

douze (ドゥーズ 12)ルージュと声がかかり配当が配られた。

サラには720フランが20フランのチップで配られ、Mr.ラムレイには180フランが配当されヴァルテスに40フランが帰り損得無しになった。

「読み過ぎだなMr.ラムレイ、それでも配当が来るならいい読みというべきかな」

「ラッキーなだけですよ。0の右半分を賭けてくると読んで失敗したのかもしれませんね。今度はどこにしますかね」

「俺はカードが開くまでの時間つぶしさ。今度は少し様子を見て輪が廻るぎりぎりに賭けよう」

サラは100フランずつ12.15.18.21と賭けてきてヴァルテスは11.14.17.19と20フランずつを賭け右列コロンに100フランのポイントを置いた。

サラに乗るように男たちは争って其の周辺にポイントを賭け出して場は急速に盛り上がりだした。

Mr.ラムレイは14.15.17.18の四点掛けに20フラン右列コロンに20フランのポイントを置いた。

正太郎は31.32.34.35の4点掛けに10フランのポイントで36にアン・プラン(1点賭け)で10フランを賭けた

輪が廻るとすかさずかける男たちに混ざりサラは36に100フランと声をかけた、とすかさず女クルーピエは「賭けは其処までです」と言って締め切った。

「くそッ」

山城屋は思わず顔をしかめてこぶしを握り締めた。

「参った。36を狙ったが締め切られてしまった」

「其れはいけませんね。輪が廻ると雰囲気で締め切るディーラーが居るそうでここはその様ですね」

trente-six (トラント・スィス36)ルージュと声がかかると「お〜っ」という歓声が上がりサラに「おめでとう」と声をかけに来る人が何人も居た。

サラは今回も36倍で3600フランを手にした、差し引き3100フランも一回で手にしたのだ。

正太郎は360フラン、ヴァルテスが300フランMr.ラムレイは60フランが配られた。

其の後はEn Prison(アン・プリゾン)で0が出たりして5回続けて負けてしまいこれで最後だと山城屋は残る200フランのポイントを1から6までのにSixain(シザン)に賭けた。

サラは手元にあるポイントを数え2000フランを残して残り250フランを左コロンにポイントした。

ヴァルテスは残るポイントが50フランに減り其れを1.2のア・シュバル(2点賭け)とした。

正太郎は手元にMr.ラムレイに渡された50フランを残して100フランを山城屋のシザンに乗ってポイントしMr.ラムレイは100フランを中列のコロンとした。

「おいチェン・ファンルォお前に100フラン出すから好きなところにかけて良いぞ。その代わりこれで仕舞いだ」

チェン・ファンルォは其れをポイントに変えてもらうと1.2.3.4.の4点賭けにした。

ほかの者たちは其れを見て一斉に大きな数字に賭け出して中には500フランという金を賭けるものまでいた。

輪が廻るといつものように0の周りへ賭ける者が居た。

「ショウ、2にかけてごらん」

Mr.ラムレイが耳元で囁いたのですかさず「2にアン・プラン」と50フラン出したところで「賭けは其処までです」の声がかかった。

「ショウ見てごらんアン・プランは16から18の間に集中しているよ」

18.22.9.31.14.20.1.33.16にはポイントが山積みに為っていた。

ドゥ(2)ノアールと声がかかりそれぞれに配当が配られだした。

サラは750フラン受け取り250フランをチップとして残り2500フランを換金した。

ヴァルテスは900フランだが100フランをチップにして残りを換金した。

山城屋は最後にようやく勝ちを納めて1200フランを手にし200フランを鷹揚にチップに出して換金させたしチェン・ファンルォは900フランの内から50フランをチップとした。

「旦那これはだんなの金です」と出したものを「良いよこれはお前のものだ」と受け取らなかった、サラたちに自分を良く思わせるというより本来はそういう豪放な男なのだ。

Mr.ラムレイも300フランの配当と残りのチップをたすと550フランあり50フランをチップに出して換金した。

正太郎は2400フランを50フラン金貨で受け取り台の周りのものから祝福を受けて200フランをチップとした。

それぞれが暖かくなった懐を抱えて何処かでお別れに食事をというと「M.ヤマシローのおかげで儲けさせていただいたので私たちでご馳走しますわ」と言うのを「いや儲けたのはあなた方の運が強かったからですよ。明日にはパリを発つ私にご馳走させてください」

M.ヤマシローは何処かへお出かけですか」

「いやいや、国からお呼び出しを受けまして帰国いたします」

どうやら山城屋は口調からすると大事なお呼び出しでいい話と思い込んでいるようだ。

どこかで日本の言葉で話す声が聞こえ山城屋を呼んでいる方向へ山城屋が向かっていった、正太郎は何を話しているか聞こうと思ったが止めてサラと話をしていた。

「ショウは名前の通り幸運を呼ぶのね。貴方がいたからM.ヤマシローもお金を出したのよ」

其れを聞いていたチェン・ファンルォが「どういうことでしょうかマドモアゼル・ベルナール」と尋ねた。

「あらいやだ、貴方同じお国の人でしょ。ヂアン・ショウは字が難しいので書けないけどUne celebration(祝賀)すると言う意味でしょ」

「ああ、そういうことですかfelicitations(おめでとう)という意味も有りますね」とチェン・ファンルォは言って「ヂアン・ショウの苗字のヂアンと言うのは大昔の王族の名前でも有るのですよ」と持ち上げた。

なにこれも朱大人がショウという名にふさわしいと勝手に昔つけてくれたもので正太郎は当時知らなかったのだ。

デュグレレがシェフになったカフェ・アングレに行きたいとヴァルテスが言い出してサラも賛成したところに山城屋が戻ってきたのでチェン・ファンルォが話をすると良いだろう一度だが行ったことがある、馬車を二台頼んでくれといって「参りましたよ。あそこに居る人たちが俺たちも連れて行けと煩いので断るのに困りました」とサラとヴァルテスに言った。

2台の馬車が来てイタリアン街のカフェ・アングレに向かった。

「ショウは向こうに乗りなさい」とMr.ラムレイが言って山城屋とチェン・ファンルォの馬車にMr.ラムレイが乗り込んだ。

イタリアン大街27番地まではアッというまだが正太郎はいまの内にとサラとヴァルテスに礼を言っておいた、カフェ・アングレで馬車から降りてきた山城屋は上機嫌だった、相当上手くMr.ラムレイに煽てられたらしい。

店では山城屋の顔よりもつれてきたサラの顔を見たヴォワチュリエとセルヴィスが丁重に案内をしてメートル・ド・テルに引き継いだ「個室の用意が出来るまでお待ちください」と階段の上の長いすを指し示した。

5分もしないうちにシェフドランにコミを伴って部屋へ案内をした。

「私、コミのクラピソンと申します。この部屋の御用は私が担当させていただきます。シェフドランはM. ガヴォティが担当いたします。ではメニューをご検討してくださいませ。失礼ながら食前酒はいかが致しますか」

山城屋は不慣れなのでMr.ラムレイお願いしたいと振ってきた。

「では失礼ながらご婦人方の意見も聞きながらそうさせていただきましょう。M. ガヴォティ今晩はご婦人方も異論がなければVeuve Clicquot(ヴーヴ・クリコ)にしたいがいかがですか」

二人優雅にうなずいたので「ではヴーヴ・クリコ、6人にいきわたるなら2本でいい」

M. クラピソンは「用意してまいります」と部屋を出てMr.ラムレイは「M. ガヴォティ今日のお勧めメニューはどれだね」と聞いた。

「フィレ肉ステーキ、トリュフとフォアグラのソースがお勧めです」

「では其れにあわせて決めていこう。アミューズのトマトのガスパッチョとモスタルダのアイスに異存は、小エビのクリームスープも異存ないね、リゾットかグラタンはどれが好いかな」

「本店のお勧めはUn poisson et cocotte du riz(お米に魚のドリア)でございます」

ヴァルテスは「此処にきたら其れを楽しみにしていますわ」

「それでは頼まない訳には行かないね、チーズとデザートは任せるよ」

「かしこまりました、ではソムリエに伝えてまいります」

「頼むよ」

「かしこまりましたでは仕度をしてまいります」

ソムリエがすぐに冷やされたヴーヴ・クリコを恭しく持ち込み光沢の有る布をかぶせて優しく栓を抜いた。

M.クラピソンが配ったグラスに注いで回り「皆さんの健康を祝し今日のよき出会いを楽しみましょう」とMr.ラムレイが言ってグラスに口をつけた。

「ご挨拶が遅れましたがソムリエのマルティルでございます。ワインリストをごらんに為られますか」

「リストは好いが今日のメニューに会いそうな若々しいワインを選んで欲しい」

メニューを反復するように考えていて「いかがでしょうチーズが後になりますが本日はAffidelice(アフィデリス)がご用意できますので先のワインは赤そしてシャブリと御一行さまの人数でございましたらそう致しませんか」

「そうしようじゃないか」

「ではDomaine de la Romanee-Conti(ドメーヌ・ド・ラ・ロマネコンティ)の1861年がございますがいかがでしょうか。M.デュヴォ・ブロシェが丹精込めた最高のものでございます」

「ほ、其れはすごい、2本だと相当高くつくがM.ヤマシロー値段は飛び切りだが飲めば其の味に驚きますぞ」

「わしも其の名前は知っているがいまだ飲んだことが無い。手に入らなかったのだ。ぜひ頼んでくれ」

「ではそちらはすぐに栓を抜いて用意いたしましょう。お料理がメインに行くまでには飲み頃になりましょう。シャブリは其れまでに考えてまいります。すべて2本お出ししてよろしいですね」

「結構後は任せる。M.ヤマシロー、シャンペンの代わりをどうぞ」

残り少ないシャンペンを隣の山城屋に注いで2センチほど残してソムリエに下げてくれたまえと渡した。

ソムリエが下がると山城屋は小さな声で「残っているのにもったいないな。君が飲めば好いのに」と囁いた。

「あれはソムリエの見習いの勉強のためです。後のワインも出来るだけ残して下げさせると見習いたちも厨房の若者も舌の勉強になるのです」

そういうものかと不審げな顔つきだがあえてそれ以上は異論を唱えなかったし出てきた赤ワインはもう一本追加したいくらい上手いと山城屋は満足だった。

シャブリは聞かない名の物だったがチーズは相性が良くMr.ラムレイはソムリエをわざわざ呼び寄せて賞賛した。

最後にSaint-Honore aux fraises des bois(木苺のサン・トノレ)とTarte Tatin(タルト・タタン)が出てきた。

「いまどきりんごとは珍しいわ」ヴァルテスとサラは大喜びだ。

正太郎はサン・トノレがもうパリの有名レストランの定番になったのかと驚きを隠せなかった。

Mr.ラムレイは「M.ヤマシロー。今日はこのヂアン・ショウに最後のアドバイスが効いて、だいぶ儲けさせましたから飲み物の分は彼に出させますがご了承くださいませんか」

Mr.ラムレイがそういうなら異論はありませんぞ」

ワインとサラとヴァルテスの雰囲気に負けてか山城屋は素直だった。

「お二人はこれからの予定は」

Mr.ラムレイがわざわざサラたちに聞くと「明日は午前中から舞台稽古がありますのでもう時間が12時も廻りましたので失礼致したいのですが。M.ヤマシローそれでよろしいかしら」

「勿論ですとも。今晩は十分楽しい思いをさせていただきました」

「では化粧直しにお時間を頂く間に馬車の手配をお願いいたしますわ」

M.クラピソンが二人を化粧室に案内してくれとセルヴァーズに言いつけM. ガヴォティは給仕と共にテーブルを片付けだした。

M.クラピソンが明細書を持参してMr.ラムレイに渡し其れを検討したMr.ラムレイはワインの計算書を「ヂアン・ショウ君の分だ」と差し出しもう一枚を山城屋に渡した。

山城屋は良く見もせずに50フランの金貨を4枚出してつりはチップにしてくれたまえと鷹揚に言った、勘定は168フランだった。

正太郎のワインリストはなんと120フラン同じように3枚の50フラン金貨を出してつりを受け取った中から20フランをチップにして皿に乗せて席を立った。

其れを見た山城屋はにっこりと「いい心がけだお前は大物になれるぞ」と正太郎をおだてたのをチェン・ファンルォが教えた。

サラたちの馬車の馭者に先ほどの10フランとポケットから後10フランを出して「これはチップ込みですよ。大事な人たちですからよろしくお願いいたします」と頼んだ。

山城屋は上機嫌で「俳優でも一流という女優は違うものだ。まぁ今日はお目見えだな」といって笑った。

正太郎にお前何かシナの歌でも知っているかと山城屋はチェン・ファンルォに通訳させて聞かせたので朱大人から教えられた歌を披露して更に続けて歌った。

ユェゥオ・ウチ・シュアン・マンティン

ジュアンフェム・ユフォ・ヅィチョウミァン

グス・チュエンウィ・ハンサンシ

ユェバン・ズォンスェン・ダオ・ケチュャン

「少し俺たちとは違うが好い出来だ。山城屋様これは日本風には月落烏啼霜満天、江楓漁火対愁眠、姑蘇城外寒山寺、夜半鐘声到客船、と為ります」

「おう其れは知っているぞ。日本風に歌えば月落ちからす啼いて しも天に満つ、こうふうぎょか愁眠に対す、こそ城外の寒山寺、夜半の鐘声かくせんに到るだ」

いい声で朗詠して上機嫌の内にル・ムーリスへ戻り鍵を受け取ると「M.ヤマシロー、明日の列車の切符が取れています、午後の6時発です。駅はGare de Lyon(リヨン駅)ですのでお間違えの無いようにしてください。切符はお発ちのときにお渡しできます。其れからMr.ラムレイの切符も同じ列車です、マルセイユ到着は翌日の朝5時40分です」其れを聞いてそれぞれの部屋へ戻った。



Paris1872年6月25日 Tuesday

正太郎はそれでも7時には起きだしたがMr.ラムレイはもう起きて髭をそっていた。

「おはようございますMr.ラムレイ」

「おはようショウ。良く眠れたかね」

「いえカジノの興奮のせいか寝つきが悪かったです」

「はは俺もだよ。昨日は面白かったね。たまにはああいう夜も面白いものだ。今日はヤマシローに捕まらない内に何処かで息抜きをしよう。ヴァルのほうも代わりが来ているだろう」

二人は朝飯を外で食べようとジャンヌ像まで歩き其処にいたヴァルと其の仲間に会って後を頼む事にした。

Mr.ラムレイこいつは俺の仲間でダミアン・バルテズといいます。交代して午後から又僕が此処に来ます。通りの向かう側はダンの仲間が見てくれていますからどちらに来ても大丈夫です」

「ヴァル一緒に朝飯を食おう。何処か好いところが有るかい」

「サン・ロック教会の傍に僕が良く行く朝飯を食わせてくれるところがありますが其処で好いですか」

「其処に行こう。ショウが金をだいぶ稼いだからご馳走になろうぜ」

「聞きましたよ。すごい勝ち方をしたそうですね。7000フランはカジノから巻き上げたそうで」

「まさかそんなに一人で勝てやしませんよ。全員での話ですよ。一番の稼ぎ頭はサラ・ベルナールさんでしたよ」

ジャンヌ像の後ろの路地を抜ければ左手がサン・ロック教会で其処から二つ目の路地に入っていった。二人並ぶと肩が触れるくらいの大改造前のパリの街がそこにあった。

「此処です」

其れは小さな店で昼間でもランプを灯さないと暗い店だが店は磨きたてられテーブルも開かれた窓も塵一つ見当たらなかったし、働く女将さんは威勢良かった。

「おはようヴァル今日は何がいい。おや珍しいお客を連れてきてくれたのかい」

「そうだ。此方はMr.ラムレイ、こっちの痩せたのはショウというんだよろしくたのまぁ」

「任せときな。そちらの旦那、こんなところで食事なぞするようには見えないが良いのかね」

「勿論さ。此処は20年前に来た事が有るよ。女将さんまだ10くらいだったかな。シェフが髭の格好のいい人だったように覚えているよ」

「ありゃ其れは失礼したね。確かにあたしは此処で育ったよ今30だから其れはあたしに間違いないよ」

「なら今でもUn rouleau du chou(ロールキャベツ)は名物かい」

「お客さん知ってなさるね。良いともそれを出しますかね。家の親が今でも作っているから昔のままの味のはずさ。私の亭主もなかなかの腕だよ、今朝はポテトフリッターが中にベーコンと玉葱を炒めてから入れてあるので美味しいよ」

3人はパンと牛乳も頼みロールキャベツとポテトフリッターにオリーブオイルをかけたもので朝食とした。

「オウレリアさんには報告に行かなくていいですか」

「今日は油断しないように言ってホテルの部屋から出てはいけないと念を押しておいたよ。それで無いとすぐ出歩きたがるからね。だから僕が列車に乗ったあとで報告に行って呉れれば良いよ」

「カジノの話しもしておきますか」

「そうだね大げさにサラやヴァルテスと食事に行った事もね。Missオウレリアはサラのファンだからきっと悔しがるよ」

ヴァルも僕も付き合いたかったな、サラはパリじゃ有名ですからねと残念そうに言いながらポテトフリッターを口に押しこんだ。

「ホテルに戻りますか」

「いや午前中はほかの人にまかせよう。僕たちは昨日の食べすぎた栄養が体に贅肉として付かないように名所巡りをしょう」

Mr.ラムレイは歩き回るのが好きなようだ、この時期のパリは田舎から遊びに来る人で有名な場所は大勢の人で溢れるはずだ。

ヴァルと別れサン・トノーレ街を西へ歩きながらMr.ラムレイはこんな話をしてくれた。

「昨日カジノでジャパンの若者たちに山城屋が呼びつけられたろう。あの時俺が見たのは山城屋が金貨を何枚もあいつらに渡してぺこぺこしていた。国では良い家の出の様に見える若者だが、ああいう悪に集られてはいくら山城屋が稼いでも使われる一方だ。ショウが言うように国の金に手をつけるのは悪い、遣ってはいけない事だ。だがああいう毒虫が居るとヤマシローならずとも俺が使う金はお偉方が穴埋めすべきだと考えてしまう危険性が潜んでいるよ。あれ一人を悪者にするのは可笑しな話だが犠牲者に誰をするかと為れば偉い奴らには手が出せないのはどこの国もおんなじだ」

ヴァンドーム広場に入りホテルの前のテラスにいた黒猫と少し遊んだ。

「いい猫だろ。僕が最初に老伯爵のお供に此処へ来た時はこの猫の何代か前の黒猫がここにいたよ。伯爵のお嬢さんが気に入ってね、そこの余り有名でも無いホテルに居たときは毎日ここで遊んだものさ。僕は父親の従者という身分で此処に泊めていただいたのさ。老伯爵のお供で毎日路地の探検に歩いたものさ。老伯爵は有名なホテルより旅籠屋とでも言うような下町のホテルが好きだったよ」

昔を思い出してかMr.ラムレイの顔は若々しい様相で暑い日差しの下でシルクハットを取ると10歳は若返って見えた。

広場の塔は昨年の騒動の後建て直されいまは往時の威容を取り戻していた。

Mr.ラムレイ昼間だというのに可笑しな家がありますね」

「ショウ気が付いたかいあの家こそ有名なVirginia Oldoini(ヴィルジニア・オルドイーニ)の家だよ。あの二階のブラインドが降りた部屋こそ彼女の居る住まいだよ」

「その人僕知りませんが有名な人ですか」

「そうか、本名は知らないか。La Castiglione(ラ・カスティリオーヌ)といえば判るかな」

「エッあのパリを救ったという人ですか」

「そうだよ。ビスマルクと交渉してパリが破壊されることから守ったことで有名な人さカスティリオーネ伯爵夫人とも呼ばれるようだがね」 

ナポレオン三世皇帝の愛人といわれイタリアから来たこの人は多くの政治に干渉していたがプロシャとの戦争が始まる前にイタリアに戻り皇帝が捕虜になったと聞くやパリに戻ってビスマルクと交渉してパリを戦禍から守ったといわれていた。

第二帝政時代といわれた頃のパリで活躍した一人なのだ。

「ショウ、これは余りパリの人は知らないことだがイギリスへ亡命した三世皇帝の息子はウールウィッチ砲兵学校で学んでいるよ。ボナパルティストたちの期待の星さ。わが国の女王陛下もお気に入りでベービィと婚約させたという噂もあるくらいだ」

Mr.ラムレイ、其のベービィとは誰なのですか。ロンドンでも聞かなかった人ですが」

「そうか女王の末の娘で名前を。Beatrice Mary Victoria Feodore(ベアトリス・メアリ・ヴィクトリア・フィオドア)という人さ。いまはまだ15歳だから正式婚約では無いだろうけどね。女王の一番上の娘はヴィクトリアでプロイセンの王太子の妃だよ」

「その人の話しは良く聞かされました。聡明な方でVicky(ヴィッキー)と呼ばれていてフランス語、ドイツ語、ラテン語を5才でマスターしたという人ですよね」

「そうなんだよ、だからイギリスではヴィクトリアと名前を付けるのが流行っているんだよ。弟たちは余り評判がよくなくてこの人が次の女王ならと言う人も多いのさ。継承権というものがなければぜひこの人と言うのだがプロイセンへ嫁いでは仕方ない話さ」

広場から奥へ抜けると昔僕が来たときは此処に教会があったという場所にRue de la Paix(ドゥ・ラ・ペ街)がオペラ・ガルニエまで抜けていた。

古くからある道というキャプシーヌ街を抜けてマドレーヌ大街を渡り、セーズ街からマドレーヌ寺院の裏手に出てマルゼルブ大街を通り抜けると先に見える細い路地から様子の良い二人の子が棒を振り回しながら飛び出してきた。

危うくMr.ラムレイが避けると其の子供たちは何者かに追いかけられるかのように後ろも見ずに駆け去った。

庇がくっつくほど狭いその道はソーセ街とプレートが張ってあった。

「やめてくれよう、俺じゃねえよう」

「お前じゃなきゃ誰だ、ほかにいないじゃないか。このカメは高かったんだぞ」

防火用の水がめなのか路地は水浸しだった通りかかった若者が「親父さんそいつじゃねえよ」ととりなしていたが「じゃお前は誰が割ったか知っているのか」と八つ当たり気味に怒鳴った。

「いや俺は見ちゃ居ないがそいつが此処へ入ってきたときにはもう水が広がっていたんだ」

「じゃお前はこいつじゃないと証言できるんだな。一緒に警察に行っても其れがいえるんだな」

「いや、其処まで確かなことはいえない」

「じゃカメを弁償するのは誰がしてくれるんだ」

親父はあくまでも其の子供のせいにして親に弁償させなけりゃ許さないといきまいていた。

「もしムッシュー。其の子じゃないと思いますぜ。僕たちが此処へ入るときに路地から飛び出してきた子が二人棒を振り回していましたぜ。其のカメを其処まで割るには一人では相当力も居るし其の子じゃ無理なようですよ」

「おや旦那もこいつの味方ですかい。俺の味方は警察しか居ないということですか。このままじゃ引っ込みませんぜ」

「どうだろう。其のカメの残骸俺に売りませんかね」

「何ですと。可笑しな旦那だね、こんな陶器のかけらなぞ庭に捨てても邪魔なだけですぜ。それで良いなら1フランで買ってくださいよ。だがそれじゃ新しいカメを買うには足りないのですぜ」

「おい其処のおっさんよ。俺じゃねえといっているんだ、そんな金出すことなぞねえぜ」

「黙ってろ小僧、せっかくこの旦那が金を出してくださるというんだ。お前が弁償しないなら誰でもカメを新しくしてくれりゃ俺に不満はねえんだ」

頭をかるくはたかれて少しなみだ目ながら「そこのおっさん。おいら恩にゃきないぜ、それで良いなら口を利いてくれよ」

子供ながらこのままではこの親父から逃げることも出来ず警察に連れて行かれれば痛い思いもするかもしれないとMr.ラムレイにすがりたくは無いがほかに手立てもないと思い至ったらしい。

正太郎が「どうでしょうね。そのカメの残骸を1フラン、片付け料に1フラン、新しいカメ代に2フランで」

「そうか4フランで新しいカメが買えるかどうか判らないが皆が口を利いてくれたんだ。それで承知しましょうぜ」

正太郎が隠しから2フランの銀貨を二枚出して親父に渡すとやっと子供の手を離してぶつぶつ言いながらカメの残骸を片付けだした。

Mr.ラムレイがさっさと先に行くので正太郎も後を追うように路地から抜け出した。

先ほどの子は後をぶらぶらと付いて来て「ようよう、アンちゃんたち」と後ろから声をかけてきた。

「なんだい」

「なんだいじゃねえよ。そんなにさっさぁといっちまっちゃ俺を助けてくれた礼も言えねえじゃねえか」

「別に助けたわけじゃないよ。君が壊したわけじゃないんだろ」

「あたりきだい」

「じゃ礼なぞ言わなくても良いよ」

「可笑しな奴だな。人が礼を言いたいというんだ。素直に愛けりゃ良いじゃないか」

正太郎もMr.ラムレイも可笑しくなってつい大笑いをしてしまった。

「ケッちっとも面白くなんか無いや」

正太郎はYokohamaの子供たちの事を懐かしく思って其の子に興味がわいてきた。

「ゴメンゴメン。僕たちはあの路地から棒を振り回して出てきた二人の子供を見たのさ。だからあのカメを割ったのは其の二人の子供だとすぐ判ったのさ。君を助けるというよりあの親父さんがかわいそうになったからだから恩に着なくて良いよ」

「ふうん、そんなもんかよ。でも礼は言っとくぜ。言ったように恩にはきないぜ」

「それで良いよ。じゃ又ね」

二人が歩き出しても又後をぶらぶらとついて来た、Mr.ラムレイが立ち止まったのはファヴル・サン・トノーレ街のエリゼ宮の前で「此処は1718年にエヴェール伯爵が建てたもので、ギリシャ神話の英雄が死後に住む安住の地、Elysianに因んでつけられたんだぜ」という話を感心して聞いていた。

「此処に来年から大統領が入ることになるので中の工事が始まったそうだよ」

Mr.ラムレイはそんな町のことまで知っているのに正太郎も付いてきた子も感心して聞いていた。

其の新大統領官邸予定地の脇を抜けるとシャンゼリゼの外れの街路樹が茂る公園とコンコルド広場の間を抜けるとその先はセーヌで遠くにはオテル・デ・ザンヴァリッドが見えていた。

「あそこは通称アンヴァリッドで傷病兵の治療院と教会にナポレンの墓もあるんだ。200年くらい前の建物さ」

セーヌの川岸では涼しい川風が吹き観光客目当ての露天の物売りが数多く出ていた。

椅子を置いてパラソルの下でアイスクリームを食べる人たちのほうへMr.ラムレイが近付き3つのアイスをpaquet en papier(紙パック)に入れて買い入れてきた。

黙って正太郎と子供に渡すと川のふちに腰掛けて木のさじで美味しそうに食べだした。

「美味いなアンちゃん、おいらこんな贅沢なの初めてだよ」

「そうかい、良かったね。俺はショウというんだ、君は」

「おいらはセドリック、セドリック・アンクタンだよ。姉ちゃんはセディと呼ぶんだ」

「なかなか好い名前だね。まるでイギリス貴族につけられたようだ」

「おいらの爺ちゃんはスコットランドで伯爵だったんだぜ。だけど母ちゃんがフランス人と結婚したときに縁を切られたのが苦になって若死にしちゃったんだ。其のあと父ちゃんも死んじまって父ちゃんの親戚が引き取ってくれたんだ」

「そうか、学校には行っているのかい」

「おじちゃんが行かせて呉れないんだ。働きに行かせるには小さすぎると言うので無駄飯食いといわれているのさ。何か仕事をさせてくれるところが無いか探していたんだ」

Mr.ラムレイが正太郎のほうを見ているのに気が付いて「なあセディ、いまいくつだい」

「おれ、9歳だよ」

「ホォ年齢の割りに確りしているな。それで姉ちゃんは学校に行かせて貰っているのかい」

「姉ちゃんも行かせてもらえないんだ。今12なんだけどとうちゃんが生きているときは行っていたんだけど今年は一回も行かせてもらえないんだ。おじちゃんの子供たちの世話で一杯なんだ。5人も小さい子が居て伯母さん一人じゃ面倒が見切れないんだ」

「ナァセディ、バイシクレッテに乗れるかい」

「うん乗れるよ。おじさんのところはChiffonniers(シフォニエ・屑屋)をやっているんで時々壊れたのが来るから其れを直して乗るんだ」

「君も直せるのかい」

「難しいのは無理だけどおじさんの弟は直すのが上手いのさ」

「僕の商売の手伝いをしてみないか。モンマルトルの向こう側だけどバイシクレッテに乗れるならいろいろ連絡に出られる子が居ると助かるんだ。大人用じゃなくて君の体にあわせたバイシクレッテも用意するよ」

「どんな連絡だい。悪いことならお断りだよ」

「一番多い仕事はワインの仕入れの相談に知り合いの酒屋との連絡さ。街の配達人や手紙では時間もお金もかかるから誰か働いてくれる人が欲しかったんだ」

「フゥン、姉ちゃんやおじちゃんとも話してからで良いかい」

「良いとも」
正太郎は周りを見てMarchand de papier a lettres(手紙・紙売り)から一束買い入れてメゾンデマダムDDの住所と付近の見取り図を紙に書いて渡した。

「僕は此処に下宿しているから此処へ返事をしておくれよ。Momoという人に言っておくから僕が留守でも話が通じるようにしておくよ」

「判ったじゃ明日の朝には返事をするよ。今日はありがとう。ムッシューご馳走様」

最後には明るくMr.ラムレイにも挨拶をしてエトワール凱旋門のほうへ駆け去った。

「正太郎頼みがある」

「あの子でしょ。僕が仕込んで見ますよ」

「いや、其処こともあるのだが、老伯爵がなくなった後お屋敷を辞めたのも実はお嬢様のことがあるんだ。フランス人と駆け落ちをしてパリヘ向かったことまではわかるんだが其の後がわからないんだ」

「あの子に面影でも」

「そうなんだ最初はそう思わなかったがね、だんだんとそんな気がしてきたのさ。今朝あそこで食事をして黒猫と遊んだことが昔の記憶を呼び戻したのかもしれない。お嬢様が家を出られたあの頃、僕は大学の学寮に居て男のほうは何にも知らないのだけど、僕の父親がなくなった後で老伯爵が亡くなる前に手紙を見せてくれてね。其処には体が弱ってその日の暮らしに困ることと子供が二人生まれて、姉がベティ、弟がセディということが書かれて居たんだ」

Mr.ラムレイは其処で少し考えてから話を続けた。

「伯爵家はJohnstone-Douglas(ジョンストン=ダグラス)というのだが通称ブラックダグラス、お嬢様はBettie(ベティ)でMary Elizabeth(マリー・エリザベス)なのでエリザベスと子供に名付けたかも知れない。老伯爵ロバート様はいまから6年前にお亡くなりになった。最後の手紙はいまから7年前の日付だったのでお返事はなさらなかったかもしれないし。出されても届かなかった可能性が有る。あの子たちがお嬢様の忘れ形見でも何も遺産を受け取れることは無いだろうが少しでも生活が安定できる手助けをしたい」

「判りました。此方からは何も言わずに出来るだけの情報は集めてみせます。私たちのYokohamaでの仕事の一つは情報をいち早く集めることでもありましたから其れが活きるかもしれません」

「たのんだよショウ。そうであってもなくても力には為って上げてくれ給え」

二人はセーヌのコンコルド橋とLe Pont Des Invalides(アンバリッド橋)の間の川岸で行き交う船を見ながら暫く黙っていたがようやくMr.ラムレイはいつもの調子が戻ってきた。

「ショウ、あの川下の橋には面白い話があるんだ最初はアレ・ダンタンとよばれる鉄製の吊橋が架けられたのさ。パリ万国博覧にあわせて石造の橋の架橋が始まって1855年5月1日の初日に橋の引き渡しが行われるはずだったのが出来上がったのは翌年の5月だったのさ。パリに来た人は架橋の仕事を見物する羽目になったそうだよ」
この話の後のことだが橋は1879年の修復工事の際クレーンの重量に耐えかねて橋が崩れ落ちるという一幕もおきた。

後ろに建つ館との間の道でシャンゼリゼとモンパルナスを結ぶ大事な橋でいまは立派に役目を果たしていた。

サント・シャペルの鐘がなって二人の時計を合わせてみると共に11時2分前で、どうやらあっているようだなとMr.ラムレイが言った。

其の通り鐘の音の最後が川に沿って響きが遠ざかったのは11時1分だった。

川の2段になった堤の下の道をシテ島に向かい橋の下をくぐってからテュイルリーを横切りホテルへ戻った。

4時に呼んだ馬車が来て、レセプションでM.ヤマシローは出かけたのかを聞くと「馬車を呼ばれましたがまだ降りていらっしゃいません」と受付係が答えた。

「では僕はお先に駅へ行くからとお伝えください」

Mr.ラムレイはそういってチップに5フランを渡して馬車へ向かった。

「ショウは駅へ付いたらこの馬車でマダム・デシャンへ一度戻ってから別の馬車か歩きでインターコンチネンタル・ルグランへ連絡をつけてくれ。後は俺に任せて大船に乗った気持ちで待つて居るんだ」

「判りました、道中お大事に」

「平気さ。向こうには支店の迎えも来ることに為っているから間違いは無いよ。僕のことはオウレリアさまの代理で今回は特別役員の待遇で丁重に扱ってくれるそうだ」

ジャンヌ像のところのヴァルに手を振ってリヨン駅へ向かった。

駅で荷物をプラットホームに運び列車が入ってくるのを待った。

荷物を運び込むと正太郎は「ではよい旅を」「後は任せて置けよ」と挨拶を交わして駅を出た。

山城屋の馬車が着いてチェンを含めて4人の者が降りてきたので正太郎は「よい旅をお楽しみください」と挨拶をして馬車でメゾンデマダムDDに帰った。

Momoにはセディという少年が訪ねて来たときのことを詳しく話してインターコンチネンタル・ルグランへ出向いた。

オウレリアの部屋へ都合を聞きにギャルソンを遣らせるとヴァルとダンが報告に来ていたらしくジュディが付いて呼びに来たので211号室へ一緒に上がった。

三階まで階段を上がり部屋へ通ると疾風のアルマンも来ていた。

「ショウ。相手は無事列車で出発したよ、総勢4人で好いんだよな、シナ人とヤマシローに従者が二人だよな。Mr.ラムレイはのんびりと本を広げて寛いでいるのを確認したが言葉は交わさなかったよ。4人用のLe lit de la premiere classe(一等寝台)も完全に一人で占領しているようだったよ」

ヴァルが確認してきたことを伝えてくれ、ダンと疾風のアルマンは表にいて、馬車は人を降ろすとすぐ帰ったこと、列車が発車したあと暫く其処にいたが異変が無いことを話した。

「この間ボルドーへ行ったときは二人でも一人でも夜行の1等の個室は同じ料金で独占できると聞いたけど」

「オルレアン鉄道とは違ってParis, Lyon & Mediterranean(パリ・リヨン、地中海鉄道)はそうは行かないのさ。見知らぬものでも部屋が空いていれば押し込むのがいつものことさ。Mr.ラムレイのは1等の簡易寝台車だから4人は乗せることも有るのさ。リヨンまで行くうちには乗り込ませるだろうよ」

ヴァルは正太郎に各鉄道によって遣り方が違うことを教えてくれた。

「やれやれこれで一段落ね。後はMr.ラムレイが5日後に帰ってくるまでのんびり過ごしましょ。ジュディ明日からシャンゼリゼにフォーブル・サン・トノーレ街でお買い物よ」

翌日のMercredi(水曜日)朝7時に朝食を食べ終えてお茶を飲んでいるところへMomoがセディが来たわよと食堂に呼びに来た。

「ヤァ早速来てくれたんだね。気持ちは決まったの」

「姉ちゃんも来てあんちゃんに会ってから決めると付いてきてくれたんだ」

内玄関の中へは入らずにセディはそう言って後ろを振り返った。

其処には12と聞いていたが背は高いが痩せた少女がいた。

「ボンジュール、マドモアゼル」

「おはようございます。貴方がムッシュー・ショウですか。私はセディの姉のベティです」

「そうだよ。僕はShiyoo Maedaです。場所によってはヂアン・ショウと呼ばれて居るけどね」

不審そうにショウを見るので庭のベンチに二人を誘った、其処の近くではマダム・デシャンが草むしりをしているので話が聞こえるように近くへ寄ったのだ。

「僕はジャポンのYokohamaから来たんだよ。其処にいるシーヌの人たちが呼びやすいショウという名前にあわせて向こう式の名前をつけてくれたのが姜寿(ヂアン・ショウ)という名前なんだ」

「アラじゃ二つ名前が有るの」

「其れがねShiyoo Maedaのほかにジャポンには正式にShiyoutaro Maedaと呼ばれることも有るのさだからわかりやすいショウだけで良いよ」

「ではM.ショウ、弟はバイシクレッテで連絡に町を廻れば好いだけですの」

「一番大事なのは字を読めることと、街の名前を覚えることが大事だからそのための勉強もしてもらわないといけないよ。足し算や引き算も覚えることが大事だから勉強もしてもらう事になるんだ。勉強は嫌いじゃないと好いんだけど大丈夫かな」

「勉強時間も仕事の内ですか」

「そういう勘定にする予定だよ。だから朝8時から午後の5時まで冬の夕方は早く終わるようにする予定だけど其れで良いかな。あ、朝なんだけど早くてもよければ僕と同じ朝食をここで食べてくれても好いんだよ」

二人は顔を見合わせていたが「いい条件ですが。どうしてセディを雇う気になったのですか」とベティが聞いてきた。

「ああ、そうだ其れを言わないといけないね。其の前に君の名前はベティだと言っていたけど其れで好いの」

「私ですか、ベティは愛称でElizabeth Anquetin(エリザベス・アンクタン)ですわ」

マダム・デシャンは草むしりをしていた手を休めて此方へ来て「あなた方、大体の話しは聞いたけど家はどこなの通うのに遠くないの」

「今日6時に家を出て来ました。今は時間が判らないのでどのくらいか判らないのです」

「いま7時15分だよほぼ1時間かな。バイシクレッテで通えば半分だね」

「でもおじさんはバイシクレッテを使わせてくれません。それに使わせてくれても大人用で長く乗って居られませんわ」

「其れは大丈夫だよ、セディの体に合うバイシクレッテを僕のほうで用意するよ。それで賃金だけど一日8時間で1フラン60サンチームお昼は此方もち。其れから服だけどお仕着せを着てもらうように為るけど出来るだけ洗濯をして清潔にして欲しいんだ。さっき質問されたことだけど昨日の経緯をセディから聞いているかな。それでMr.ラムレイ、この人は昨日一緒にいた紳士だけどこの人も君が確りした少年だと気に入ったのさ」

「判りました。ぜひ働かせてください。この子はきかん気で我がままですが、貴方がたのことは昨日の話を聞いて確りした人だと思いました。マダム私たちの家は17区のPorte d'Asnieres(ポルト・ド・アスニーレ)に有ります。おじはいまは屑屋ですがオスマン知事が町の改造をはじめる前はシテ島で洋品店を開いていたのです。此処の近くのベルシーニ街へ移らされてきて去年の騒動でベルシーニ街の家が燃えてしまって仕方なくいまの場所で屑屋をしています。土地は自分のもので無かったので今のところへ移りました」

「アラアラ、其れは大変ねおじさんは仕立屋なのそれとも売るだけだったの」

「両方です。自分で仕立てて販売もしていました」

「なら腕は有るのね。自分の店をもう一度開く気はあるの」

「その気はあると思うのですが、仕入れたものもすべて灰になってからは昔と違ってお酒を飲むようになってしまったので、いまは暮らしが大変で其処までの資金が貯まる事が無いのです。私とセディが働いて少しでも恩返しが出来ればおばさんも楽が出来るのですが」

マダム・デシャンはセディが此方で朝食が食べられるように夏7時、冬は8時までに来るようにベティに言ってショウがその分を負担するなら私は食堂へこの子が入るのを拒みませんといってくれた。

二人が帰るのを引き止めて「ラ・レーヌ・オルタンス街まで行くので一緒に途中まで行こう」と着替える間待たせて二人を伴って出かけた。

途中のルジャランドル街に中古を扱う自転車屋を見つけてセディにあったミショー型の子供用のバイシクレッテを買い入れた。

「こいつは新品同様ですぜ。良いとこの坊ちゃんが乗っていた奴を払い下げていただいたやつでそこらの新品より上出来でさぁ」

143フランで其れを買ってセディに与えて「明日から其れに乗って来るんだよ」といって其れを曳かせて歩いて、サン・ラザール駅が見える踏切を渡りポルト・ド・アスニーレへ向かう姉弟と別れた。

「あ、そうだ自分用のも買えばよかったな。今頃気が付くなんて仕方ないナァ、帰りがけに同じ店で買えば少しは負けてくれるかな」など考えているうちにファヴル・サン・トノーレ街に入っていた。

弁務使公館で高野に鮫島の都合を聞くと「すぐ会えるはずだけど待っていてくださいよ」と執務室へ都合を聞きに行ってくれた。

鮫島が高野君も話を聞きたいだろうからお茶の支度をしてすぐに来なさいと正太郎には椅子を勧めてくれた。

一昨日からの話を漏らさずすると鮫島は腹を抱えて笑って「馬車に乗り込まれたときは驚いたろう」と又笑って「しかしみんながルーレットで儲けては病み付きになるんじゃないのかな」といってさらに笑った。

今日の鮫島は元気があふれ出ていた。

「だが、其の山城屋にたかっていた連中は困ったものだ岩倉様が来るまでに調べて国に追い返す算段を考えておこう」

高野にもそういって「勉強に来るのならともかく博打場に入り浸っていては国費の無駄だな」と嘆いた。

正太郎はニコラが言っていた電信の話をして暗号でも使わないとすべて相手に筒抜けで岩倉様の外交も無駄になるかもしれませんと進言した。

「其れは、Mr. マーシャルも心配して教えてくれたが肝心の東京からの電信が平文のままなのでどうし様も出来ないのが現状だ。早く外務省で其れを改善してくれなければとやきもきしているところだ」と話した。

正太郎は朝の店でマギー型のバイシクレッテを1台新品なら320フランはするものを180フランで買い入れ、メゾンデマダムDDに帰るとジュリアンが来ていて、この間はなしをした事務所は、12.Rue Lepic(ルピック街12番地)に年6000フランで契約したそうだ。

「買っても好いが直にほかに移動するかもしれないからな。3年契約にしたんだ。店を通り抜けると裏に倉庫もあるし倉庫には地下室もある庭も荷車が5台くらい引き入れて作業が出来る。難点は馬を置ける余裕が無いから貸し馬の厄介になるくらいかな」

「それで働いてくれる人のあては出来たの」

Reimsから二人、一人は50過ぎだがあと一人は15歳の小僧だ。エメが結婚を承諾してくれて店を開いたら結婚式だ」

「そりゃお祝いも弾まないといけないね」

「気にするなよ。ショウはワインの仕入れで金も大変なんだからよ」

Momoがフフフと笑い出したので不審げにジュリアンが見ると「ショウはいまお大尽様々よ。オウレリアさんが貸し付けるお金の話しのほかにカジノで儲けたの。だからお祝いはたっぷり貰ったほうが好いわ」とぶちまけた。

正太郎がこの間からの経緯とオウレリアの金はエメが管理することカジノで2200フラン儲けた話をした。

Mr.ラムレイは今頃マルセイユかとジュリアンも大体のことは聞いているので彼が探偵気取りで薄茶色のスーツにソフト帽で列車に乗り込む様子が目に浮かぶようだと笑って正太郎の肩を思いっきりはたいた。

「ところでエメは試験に受かったのか」

「明日が発表日ですよ。頭のいい人ですから多分大丈夫でしょう」

エメはデカルト学校(Lycee Louis-le-Grand・リセ・ルイ=ル=グラン)の1年で3年制のテルミナル(最終学年)はパスしてバカロレア資格試験に受かればあと二年のCPGE(グランゼコール準備学級)に学ぶ予定だ。
其の後はCollege de France(コレージュ・ド・フランス)へ行くと話してくれた。

「う〜ん、頭がよすぎるのも大変だな。それで将来は何になると言ってた」

「いやまだ其処までは聞いていないけどこの間は自分の限界を確かめたいといってたよ、ランズの街の両親も兄弟もエメの遣りたいようにがんばりなさいと手紙が来たのを見せてくれた。おばさんの遺産がそのために使われるのは賛成だとも記されていたよ」

「そうかこの間の話しだとあの部屋と幾許かの金といっていたがもしかするとあの建物全体なのかな」

「僕は聞いていないけどフォリー・ベルジェールも辞めても大丈夫ということは余裕はあるみたいだ」

「なんなのショウはそういうことを聞かないの。恋人のことはすべて知りたいというのが本当じゃないの」

Momoは恋愛に憧れがあるようだ、コレージュを卒業してもう十分とマダム・デシャンの養女としてこの館の管理を共にすることでほかに望みは無いようだ。

もっとも町へ余り出無いので若い人と知り合う機会も少なく憧れだけでなかなか先へは進まないのだ。


Paris1872年6月29日 Saturday

今日はエメのフォリー・ベルジェール最後の日だ。

正太郎はジュリアンにバスチァン・ルー、ジャン・ピエールを誘って4人で店へ行く予定だ、昨日はニコラとダンにラモンを誘って出向いて騒いできたので呆れたMomoには正太郎は遊びにParisに来たの、それとも商売、もしかして勉強と朝からからかわれていた。

セディも街に慣れて居るので使いを頼んでも間違えることもなくバイシクレッテで走り回るのが楽しいとまで言うがMomoとマダム・デシャンが代わる代わる教える算数と書き取りには困っているようだ。

9月からEcole Elementaire(小学校)の4年生に入るためには8月中に遅れた分の勉強をしなければならないのだ、3年の勉強は殆どしていないので正太郎は古い教科書を見つけてきた。

「セディ、3年から遣るなら2年の勉強をもう一度遣れば好いんだよ。どっちがいい」

そう聞くと4年生から遣りたいと言うのでMomoとマダム・デシャンはこれ幸いと午前と午後に授業を始めたのだ。

ベティにも勉強を遣らせたいとPorte d'Asnieresに言って話をすると馬車を呼びに遣らせてMomoにセディも乗せてお土産にソーセジを持って出て行ったのは5時、セディの働く時間が終わってすぐのことだった、余り早くてもおじというテオドール・バルバートルが帰っていないといけないからだし、遅ければ酔っ払っているといけないからだ。

バイシクレッテを置いて3人は馬車でバルバートル家まで行くと小さな子たちがワラワラと集まってきた。

セディに案内されて家に行くと主は帰ってきて今行水をして汗を流していると言うのでマダム・バルバトールとベティの話を始めた。

「よいお話ですけど家の人がなんと言うか」

「良いですわよ、M.バルバートルに聞いてからで」

主が着替えて戻りマダム・デシャンはベティのことを家で働きながら学校へ遣りたいと話をした。

「そりゃ奥さん願っても無いことだ。兄貴が戦死してこの子達の面倒を見るのもこの有様で思うに任せないし今年は一度もガッコへやってい無いんだ。お前なん年までやったんだっけ」

「わたしはCollege(コレージュ・中学校)の最初の学期まで行きました。学校へ行くには又1年からでないと受けてくれないと思います」

マダム・デシャンは「家で部屋を用意してセディと同じ部屋に住まわせてベティは私が、セディはショウが給金を払って学校も行かせます」

「おじさん話を受けてください。二人のお給金はおばさんへ届けます。私たちはおじさんたちへ恩返しがしたいのです。働いてお金をおばさんへ届けますから早くお店を再開してください」

馬鹿やろう泣かせる事言うんじゃねえやいとM.バルバートルは言って「奥さん明日この子達の荷物を持って私がお伺いいたしやす。感謝の気持ちで一杯です」

セディとベティは馬車が見えなくなるまで手を振って見送った。

マダム・デシャンはMomoにあんたの仕事も少しは楽になりそうだというと「でもマダム、あの二人そんなに気にかかりますの」

「そうでも無いけどMomoは養女なのにいつまでもメイド役ばかり遣らせる訳には行かないでしょ」

「マダム。私自分の今の仕事好きですよ。マダムのお手伝いでメイドも秘書もすべて兼ねているいまの生活が続くことを願っていますわ」

「ありがとうねMomo。遠い親戚だというだけで貴方をボルドーから呼び寄せた上私のわがままにつき合わせてばかりで」

「そんなマダムが喜ぶことは私の喜びですわ」

二人はセディとベティの学校と仕事をどうするか其の夜のうちに勉強のスケジュールまで書いて相談するのだった。

日曜日の朝8時に約束とおりにテオドール・バルバートルはセディとベティの三人で荷車を押してやってきた。

二人には背一杯のおしゃれさせてやってきたテオドール・バルバートルはマダム・デシャンとMomoに「くれぐれも二人を頼みます」とベティの給金については一言も聞くことが無く二人には「体に気をつけて働くんだぞ、たまには子供たちに会いに来てくれ」そういって荷車を押して帰っていった。

「貴方たち朝の食事はしてきたの」

「はい済ませてきました」とベティが答えた。

「ではお部屋へ案内するわね。昨日の今日で掃除は済ませていないので掃除が先よだから汚れても好い服を持って付いてきてね」

Momoにつれられて二人は屋根裏部屋へ向かった。

屋根裏部屋といっても廊下で仕切られていて片方はMomoの部屋そこで着替えをするように言われ交互に着替えてこれから二人が暮らす部屋へ入った。

掃除が済んでいないという割には蜘蛛の巣も無く朝日が差しこむ明るい部屋だった。

「ル・リ(ベッド)は夕方までに届くから安心してね。3階までは水が出ないから2階から運ぶのべテイは其のはたきで梁の埃をはたいてね。其の脚立に乗るのよ。セディは下からお水を運ぶから付いてきてね」

てきぱきと仕事を分担させ、二人にはスカーフで頭に埃が付かないようにしてからMomoは部屋の掃除を始めさせた。

梁はMomoが脚立に乗って拭き掃除をして壁はBettyが床はセディがモップでと上から下まで綺麗に磨き上げた。

「此処は貴方たちの部屋になるのだからDimancheはいまみたいにすべてを拭いてきれいにするのよ。普段は朝起きたら窓を開けてはたきをかけて埃が落ちたら其れをはいて集めるだけでも好いし、気になるなら床を固く絞ったモップで拭いても良いわよ」

綺麗になった部屋をMomoは満足げに見て二人に「着替えてお昼にしましょうね。まず荷物を運んでさっきの服に着替えてね」そういって率先して下へ荷物をとりに行った。

革鞄がふたつと大小の紙箱、それときれいな宝箱が一つという火事で燃えてしまったということがしみじみと判る寂しい荷物だった。

Momoも服を着替えて下へ降りるときに2階の住人もお昼を食べに食堂に集まりだした。

「ヨォ、セディ其の子が君のお姉さんかい」

気さくなニコラとダンが声をかけてきたがMomoが食堂でマダム・デシャンが紹介するから後でねと二人を奥のテーブルの椅子に座らせた。

正太郎を抜かした全員が今日はいてマダム・デシャンが席に付くと早速話をした。

Momoと同じように皆さんの世話をするベティのElizabeth Anquetin(エリザベス・アンクタン)よ、今年12才よ。9月からはコレージュに行くので皆さんもお勉強の手助けをしてくださいね」

「よろしくな俺はラモン」と挨拶をし下宿人それぞれが名前をベティに教えた。

マリーが「そういえばショウが居ないわね。まだ帰らないの」とダンに尋ねた。

「昨日はエメのバカロレア資格の合格にフォリー・ベルジェールをやめるお祝いが重なったからね。ジュリアンたちと其のお祝いで朝まで遊んで今頃は何処かで高いびきで寝ている頃さ」

「まぁ、あの子頭がいい娘なのね、じゃ9月からCPGEに入るのね」

「そうだよ。リセも第1学年で最終学年を飛び級でCPGEに行くんだそうだ」

3年間のリセを2年で済ませるのはなかなか難しいのに夜も働いていたと聞いてベティもセディも驚きを隠せないようだ。

「皆さん、この二人はこれから屋根裏部屋の東側Momoと同じ側に住んでいただくからよろしくね」

マダム・デシャンが合図をしてMomoとクストー夫人がスープを運んできたのを見てベティが立とうとするのをマダム・デシャンが「ベティ貴方今日はお客様なのよ、お昼も夜も手伝わなくて好いの。明日からはセディも下宿人の一員だから貴方は弟としてではなくほかの人と同じように接するのよ。今日だけはMomoにすべて任せてね」

「はいマダム。そうさせていただきます」

おいしそうに昼の食事をして部屋へ上がってもう一度掃除が行き届かなかったところが無いかを見て廻る二人だった。

馬車で2つのル・リに新しい布団にシーツなどと化粧台、衣装ダンスが運ばれてきてダンにラモンもニコラまでが手伝って屋根裏部屋へ運び入れた。

Momoとマリーがベティの服をすべて持たせて2階のサラの部屋へ連れて行き働きやすい服に寸法を調べてその場で仕立て直しをしてくれ、エプロンも有りあわせの生地でさっさと二つ作ってくれた。

二人の下宿人もMomoもベティの新しい仕事服に満足の様子だった。

「さて後は部屋のカーテンに下着や小間物ね」

「其れはクストーさんが買い入れに行くとき私が付いて市場で買ってくることになっているから大丈夫よ」

Momoはマダム・デシャンから必要なものを買うお金も預かったとベティを安心させた。

皆に大騒ぎでベティの新しいUne bonne(メード)のVetements actifs(作業服)を見せて周り、クストーさんもこれならいっぱしのメードで通用すると太鼓判だった。

皆が大騒ぎでベティの衣装の支度が済んだ頃になってやっと正太郎はメゾンデマダムDDに帰ってきた。

マダム・デシャンは早速正太郎にセディの部屋代と食事代についての負担分の交渉を始めた。

「ベティと同じ部屋だから半分で良いでしょうね。其れと食事代は月ぎめで契約してあるから新たに契約する必要がありますか」

「う〜ん、ショウも最近は確りしてきたわね。良いわ部屋代は月10フラン出してよ。それで手をうつわ」

マダム・デシャンにしては大譲歩なのだろう、セディがMomoとマダム・デシャンから受けている授業は学校が始まれば終わるので授業代までは請求しないようだ。

ベティは学校の合間に出来る手伝いは時間が許す限り行い姉弟の学校の費用は正太郎の負担ということになった、その代わり一日2フランと40サンチームをマダム・デシャンがベティに支払いその内食事代などで半分を差し引くということも決まった。

「では一日1フラン20サンチームもいただけるのですか」

「そうだよ、でも下着や化粧品までは支給出来ないからね。其の中から小遣いに学校で使う必要なものは買うんだよ。家で着るメード服や履物は支給出来てもすべてをまかなうのはいまの状態では無理なんだからね」

ベティはおじに負担がかからない上幾許かの現金が手に入ると聞いて嬉しそうだった。


Paris1872年7月2日 Tuesday

正太郎は朝早くにリヨン駅にMr.ラムレイを迎えに出かけた、あさ8時20分到着予定と昨日電信が来たからだ。

レマルク街の馬車屋でリヨン駅へ行って人を待ってラ・レーヌ・オルタンス街26番地まで5フランとチップ2フランで約束をしてマルセイユからの特急を待った。

5分遅れで着いた特急からMr.ラムレイが元気に降りてきた。

「ご苦労様です。よく眠れましたか」

「うん、ぐっすり眠れたよ。きてくれたということは電信が間違いなく着いたようだね」

「はい山城屋の乗った船が出港したという電信は昨日の朝、Mr.ラムレイが特急の予約が取れたと言うのは夕方届きました。

「其れは面白い、電信を頼んだのは日曜日の午前中の11時と午後の3時だよ。一日掛かるとは驚きだね」

「日曜で配達員が居なかったのかもしれませんね」

正太郎は昨日弁務使公館にフランス郵船のアレキサンダー三世がマルセイユを予定通り30日のあさ9時に出航し、山城屋一行4人が乗り込んだことを伝えてあることと、Mr.ラムレイがパリへ戻ったら報告に伺うと書かれた電信を届けたことを報告した。

「では早速馬車を捕まえてLa Reine Hortenseへいこう」

「馬車は表に待たせてあります」

「そりゃ上出来だ。ではいこうか」

少し空いて来た駅前には馬車が待っていて、トランクを積み込んだ馬車はゆっくりと歩みだしてセーヌにそってモルラン橋を渡って下流に向かった。

コンコルド広場の右手のサン・トノーレ街へ入りラ・レーヌ・オルタンス街26番地に着いたのは9時50分ごろだった。

M.ショウ、お待ちしますか」

「1時間くらい掛かるからそれでも好いかい、此処からインターコンチネンタル・ルグランへ寄って帰るけど」

「お待ちしますよ。帰りも同じだけ出してくださいますか」

「いいですが待ち時間はどうします」

「それも料金の内に入れますからお気遣いなどいりやせんよ。時間がかかるようでしたら教えてください何処かで昼でも食いますから」

「ありがとう。そうさせてもらうよ」

二人で中へ入り高野に来意を伝えると「鮫島様もMr.ラムレイが帰るのを首を長くしてお持ちですが来客が居られますので少し待ってください」と都合を聞きにいってくれた。

高野に案内されて執務室に入ると若々しい紳士が仕立てのよい服で椅子にかけていた。

Mr.ラムレイご苦労様でした。電信を見て安心を致しました。此方の方は日本の貴族でSaionji様といわれます。山城屋のことは気遣い無く話していただいて結構です」

固く握手して西園寺を紹介して椅子を二人に勧めた。

マルセイユでの山城屋一行の様子やアレキサンダー三世への乗り込みを見送ってきた様子もつぶさにMr.ラムレイが話をした。

話しはMr.ラムレイの服装について西園寺がまるでポーの小説みたいですなということから西園寺がフランスよりもロンドンのガンマニーのあるセヴィルロウの通りの洋服屋に及んだが、鮫島が話した正太郎の下宿のワイン倉に興味を覚え「伺いたいものだ」というので二人をイギリスのハイティーの時間に御出でになりませんかと招待した。

「明日でも好いかな」

「私のほうは大丈夫です」

「では明日4時で西園寺様はいかがですかな」

「僕のほうは依存がありませんな。コレージュの授業は9月、塾の方は来月からと決まったので其れまで暇なので招待はありがたい。正太郎君といったね其のワイン倉には相当数が置いてあるのかな」

「そうですね管理をしている女性の話では8000本ほどあるそうです」

「其れはすごい明日といわず今日其の倉だけでも見せてもらえるかね」

「其れは大丈夫ですよ。マダム・デシャンは商売ですからワイン倉を見て買い入れてくれる可能性のある人を紹介すれば喜びます」

西園寺は馬車に乗り込んでからもMr.ラムレイと又セヴィルロウの話をしだした、

だいぶおしゃれな人のようだと正太郎は感じた。

西園寺はバカロレアの資格を3年で取りたいとリセへの入学を昨年試みたがパリ・コミューンの影響で断念してロンドンへ行っていて、パリへ戻った今まずフランス語を流暢に話すことからとリセを諦めてコレージュで基礎から学ぶことにしたそうだ。

その日の西園寺は大はしゃぎだった、Momoに案内され明日の4時の招待もマダム・デシャンが承知して、好きなワインを選んで飲ませてくれることに話が落ち着いて自分の下宿先の不満と良いところを話してマダムの意見を聞きたいとマダム・デシャンの気持ちをくすぐった。

正太郎はマダム・デシャンがサービスで飲ませるはずが無く高いワインを選ばないで欲しい、できれば安物をと願うのだった。

メゾンデマダムDDの昼は終わっていたので、お昼を誘われて西園寺が下宿する5区のムフタール通りサン・メダール教会近くの家に行く途中の24, rue de la Grande-Truanderie のLe Pharamond(ファラモン)へ寄ることになった。

西園寺はお公家育ちに似ずパリの煮込み料理にぞっこんだと可笑しげに話してくれた。

下宿先は1, Rue Arbalete(アルバレート街1番地)といっても、この通りムフタール街をはさんで東西120メートルくらいしか無い其の街の東端4階建ての3階部分に3部屋と台所にバスもあるし、日本から御付きが一人ついて世話をしてくれているのだ。

グランゼコールにもエメの通うリセ・ルイ・ル・グランにも近く目指しているパリ大学にも近く入学が決まったのもCollege Lavoisierの付属学校だそうだ。

西園寺のおごりで昼を食べてセバストポル大街で馬車を拾ってノートルダム橋でシテ島へ渡った。

この橋は1853年にそれまでの基礎を利用し5径間の石造アーチ橋が架けられ、橋脚の両側は雄羊の頭の像で飾られていた。

プティ・ポンで6区へ渡り馬車トラムに沿ってサン・セヴラン教会の前を通ってマリー修道院付属女学校の先サンジェルマン大街を横切った。

リセ・ルイ・ル・グランの前を通るときに知り合いが此処の1年生の内にバカロレア試験を通って最終学年をパスしたことを話すと自分も飛び級の制度が利用出来る様に遊び歩かずに勉強に励むつもりだと話した。

正太郎はできるだけフランス人や他国からの留学生とお付き合いをして言葉になれて仕舞う事ですと話した。

パンテオンに沿って左へ折れてムフタール街へ向かい賑やかな通りを右手に折れると其処がムフタール街その先役場がある先教会の脇がアルバレート街1番地の下宿の建物だ。

部屋へ寄れと言う言葉に従って馬車を帰して三階の部屋へ上がった。

部屋にはマンドリンと日本の琵琶それに笛も置かれギターを大事そうに取り出す西園寺はまるで音楽留学のようだろうと笑い出した。

「どうだ何か弾けるか」と聞かれマンドリンは習いましたがギターはうろ覚えですと答えジュディッタ・エルコラーニと言う友人のそのまた友人が楽器屋で教室を開いていますと話した。

「では何か弾いてごらん」とマンドリンを渡されたのでいつものサンタルチアを披露した。

「僕はパリへ入った時は大騒動の真っ最中でロンドンへ引っ込んでいたがパリで覚えたのはこれだ」といってLe temps des cerisesを歌いながら弾いてくれた。

歌い終わってさくらんぼの時間て言うのは可笑しいな。時期かな季節かなと首をかしげた。

「季節だとUne Saisonですから時期なのでしょうが花でなく実のことを表現するなら実る頃はいかがでしょうか」

「そりゃ好いな、言葉を訳すにも日本人は表現が豊かだがイギリスやフランスでは言葉が少ないから覚えやすい代わりに味気ない」

日本の和歌をフランス語に訳して歌うとまるっきり違う歌みたいでまだまだ表現力が乏しいのでそういうことに興味のある人と知り合いになりたいものだと話して、辞書や図鑑まで広げて二人で詩を約してみた。

Quand nous chanterons le temps des cerises
Et gai rossignoles et merles moqueur
Seront tous en fete
Les belles auront la folie en tete
Et les amoureux du soleil au coeur
Quand nous chanterons le temps des cerises
Sifflera bien mieux le merle moqueur

桜んぼの実る頃 陽気なサヨナキドリとクロツグミは すべてが浮かれ出す
美しい女たちはものぐるほしく 恋人たちは心に太陽をいだき
桜んぼの実る頃に クロツグミは綺麗な声でさえずる

二人で代わる代わる意見を述べてこのように約してみたが韻律をもう少し勉強してみようと西園寺は言って其れを仕舞い今度は笛を出して聞かせてくれた。

正太郎はでは明日メゾンデマダムDDに4時に御出でになられることを楽しみにお待ちしておりますと部屋を辞去した。


Paris1872年7月3日 Wednesday

壬申、明治5年皐月28日、朝正太郎はいつも出掛けにはマダム・デシャンに預けるバックから手帳を取り出して日本の日付を確認した。

セディと二人で歩きでモンマルトルの丘を越えて北駅からモントルグィユ街、通称市場通りのストレーへ今日出すお菓子を買い入れに向かった。

北駅近くのフォーブル・ポワソニエール街をセーヌへ向けて進むと街はプティ・シリリュス街と変わり其の道の名がモントルグィユ街になる手前からが市場どおり既にサラマンジュにレストランの買い入れも済んだらしく道には街のおかみさんたちが買い物にいるだけだった。

ストレーでアリババを12個、ピュイ・ダムールも12個、そして大きめのサバランは2個だけ買い入れた。

ピュィ・ダムールは、小さなケーキでパイ生地の中身は、バニラ風味のカスタードクリーム表面をキャラメリゼしカリカリッと砕ける表面と、カスタードクリームとの食感が楽しめ正太郎はラムのきついアリババより好きだった。

4時に西園寺と鮫島が馬車で到着し早速Momoの案内でワイン倉へ下りて行った。

ベティも付いて来るようにMomoに言われて説明を懸命に覚えようと耳をそばだてていた。

正太郎は二人が何を選ぶかはらはらしていたが名前の知らないワインをうなずきながら選び出した。

「お二人ともいいワインを選ばれましたわ。其れは今年からあと3年くらいが飲み頃でしょうね」

Momoの褒め言葉に満足そうに肯いた二人は壜を預けて正太郎と上にあがり外の銀杏の木陰にある椅子に座った。

ヴォーヌ・ロマネ・クロ・パラントゥにコント・ジョルジュ・ド・ヴォギュエはそれぞれデキャンタージュしてアリババと共にMomoが二人に勧めた。

正太郎がヴォーヌ・ロマネ・クロ・パラントゥを口に含むと既に香りが馥郁と立ちボルドーに無い花の香りが鼻腔をくすぐった。

これはいいワインだ、きっと高いぞ正太郎はそう思ったがいまはワインを楽しむほうが先と二人に話題を振りながら会話も楽しむことにした。

「ショウ、君話によると競馬にカジノと盛んに儲けているらしいね」

「西園寺様其れは噂ですよ。鮫島様からお聞きなのでしょうが競馬場もカジノも1回ずつ行っただけです。運良く儲けさせてもらいましたがあまり足しげく行くところではないですね」

「好きで行くので無いほうが儲かるらしい。イギリス人が言ってたな素人だけに儲けが出るが何回も行くとすぐ足が出る」

「そうそう、ビギナーズラックといいましたかな」

「それですよそれ、ショウはいまそれでいい目を見ていますが何度も行けばきっと負けが込むでしょうな」

二人は正太郎にそれとなく余り賭け事にのめりこむなと忠告をしてくれているようだ。

「パレ・ロワイヤルにまだカジノがあるとは知りませんでした」

西園寺が言うにはパリへ入ったときパレ・ロワイヤルのカジノはナポレオン三世とオスマンによって閉鎖されたと聞かされていたそうだ。

鮫島は正太郎が少年のくせにもうパリに来ていっぱしの遊び人のようにキャバレーに競馬場、カジノと盛んに回りおまけに商売でボルドーまで出かけてきたことを盛んに話題にした。

「そういえば知り合いの知り合いが楽器屋で勤めながらマンドリンにギターの教室を開いているといっていたがショウは其処で習ったのかな」

「僕はYokohamaで孤児の家のMaison de bonheurで働いていたときに教わりました」

「そうだ例のマドモアゼルとはその後どうしたかな。フォリー・ベルジェールで働きながら学校へ行っていると言う、あれ以来弁務使公館には来ていないが」

「エメですね、彼女は先月でフォリー・ベルジェールは辞めました。9月からはリセ・ルイ・ル・グランのグランゼコール準備級で学ぶことになります」

西園寺は女性で勉強が其処まで出来るフランスにわが国も追いつかなくてはいかんと鮫島とも教育のことについて盛んに話し合いだした。

「僕の名前の望一郎は発音しづらいらしく西園寺とばかり言われて望一郎とは誰も言ってくれんが何か好い手立ては無いかな」

「あだ名か愛称があれば其れを覚えてもらうことですね」

「そうか学校へ入ったらそうしてもらうか。どうも堅苦しい名前が邪魔をしてるようだ」

この時の西園寺は24才見た目が正太郎と余り変わらない少年のように見えるそうで困っていた。

「鮫島さまが27歳でしたね」

「いや先日28歳となったぞ。正太郎は17に為ったか」

「そうです。来月18に為ります」

「正太郎の17は数えか、それとも西洋風の数え方か」

「数え年齢です」

3人は勉強もありフランス語で話していたのでMomoは其れを聞いて吃驚した顔を見せた。

「おやMlle.Momoはショウの年を知らなかったのかな」

「聞いていませんでした。いえ聞いたかもしれませんが少年とは思いませんでした。東洋の人は若く見えるとマダム・デシャンが言われたので見掛けが少年でも年は上だと思っていました」

正太郎と西園寺を比べれば正太郎のほうが年上に見えると言うと西園寺はガッカリした顔で「これですから僕には彼女が出来ません」とため息をついた。

ワインも空になりお菓子とHors d’oeuvre(オードブル)にCanape(canape)も無くなり鮫島と西園寺は「楽しかった」と給仕をしてくれたMomoに50サンチームのチップを渡して馬車に乗り込んだ。

マダム・デシャンは正太郎に明細を渡して「都合のよいときに支払ってね。ワインは卸の値段だから安いでしょ」というが正太郎は明細の合計を見てすぐに支払ったが金額は目の玉が飛び出すほどであった。

Vosne Romanee Cros Parantouxが12フラン、Vosne Romanee Cros Parantouxは13フラン、カナッペとオードブルで12フランいくら良いハムとキャビアがついていたとしてもたまらない値段だった。

今月のappartementの費用の半分が飛んでいってしまうのだ、名も知らぬWine(正太郎が知らないのだが)がこれほど高いとは有名なものはレストランでいくら取るのか、この間のカフェ・アングレで頼んだらと思いは高級ワインの値段と名前を覚えないといけないなと改めて感じた。

Momoはその日の夕食時間もご機嫌で正太郎の来客の様子や年齢をダンやニコラたちに聞かれるままに話した。

「ショウが17だって、参ったなこれからキャバレーに誘いにくいじゃないか。ショウが居ないと女たちがさびしがるぞ」

「誘えば良いさ。ただ余り酒を勧められないだけだ。少し控えれば好いのさ」

ニコラはそんなこと気にするなといわんばかりだ。

夜8時過ぎにオウレリアから6日の晩に誕生日の会を開くからAu Petit Bacchus 61 rue Saint-Louis-en-l'Ileに8時に集まって欲しいと招待状が来た。

律儀に下宿人一同にさらにマダム・デシャンとMomoにもそれぞれの名前で送られていた、招待状には民族衣装、仮装、普段着、礼服、いずれにても御出でくださいませとオウレリアの字で書かれていた。

正太郎の分にはジュリアンとエメ・オービニエも招待したいが連絡先がわからないと書かれていて鮫島にも招待状を出したことが記されてあった。

ジュリアンはいまReimsへ戻っているのでエメ・オービニエだけでは無理かと思ったが明日聞きに行くことにした。

Momoは同じエメの貴方の恋人も連れて行かないと駄目でしょというし、そっちも明日廻ることにした。

「だけど何であんな遠くでやるんだろ」

「そうね誰か伝でもあって其処にしたかほかに好いところが空いてなかったんじゃないの。2日目だと有名どころは無理なのよね。二人か3人くらいならテーブルで済むでしょうけれど30人くらいだとキャバレーみたいにフロアーが広くないとね」

それもそうだとダンも其の意見に賛成しメゾンデマダムDDの一同はベティにセディの姉弟、クストー夫妻を残して全員が参加することになった。


Paris1872年7月5日 Friday

8時にセディと共にLoodにバイシクレッテで出かけた。

モンマルトル墓地へ出てダムステル街へ向かいオスマン大街のオ・プランタンの前に出てイタリアン大街からクレディ・リヨネ銀行のわき道からLoodへ出た。

クレディ・リヨネ銀行とフランス郵船の間にある食堂は朝の混雑が一息ついたところだった、この店朝と昼が主体で夕方は5時から8時で店じまいなのでもしかしたら出られるかもしれないと正太郎はおもいママンに相談をした。

「明日の昼にジュリアンが戻って来るというから一緒に出られるなら行かせるよ。ジュリアンのエスコート無しじゃ困るからね」

「判りました。ジュリアンが着きましたらぜひ出てくださるように伝えてください」

ママンが承知してジュリアンが着いたら話をしてくれることになった。

店にはもう新しい娘が雇われて何時でもエメの婚礼が行われても大丈夫な状態になっていた。

セディを紹介して時々は此処へ来るでしょうからよろしくと頼む正太郎だった。

道路を渡りフランス郵船の事務所でセルジュ・ブリュツクさんにセディを紹介した。

「この子が僕の連絡に来ることもありますから眼を掛けてあげて下さい」

「良いとも裏の事務所の連中にも紹介しておこう」

3人で一度表に出て裏の倉庫へ行くと主任のM.クールニュが「ヨオ、セディじゃねえか。いまどこにいるんだ。M.ブリュックこの子と知り合いでしたかい」

「いんや、いまM.ショウから紹介されたばかりだ。君こそ知り合いかね」

「このセディの父親とはこの間の戦争で機関銃ミトレイユーズの部隊で一緒にセダンで戦いました。マルセル・アンクタン中尉は砲弾の破片が当たって皇帝が捕虜になる3日前になくなりましたが、あっしは足を抉られただけで助かりやした。セディとは中尉の家で何度も会っています。それで姉さんは元気かい」

セディが話をするまもなく矢継ぎ早に話をするM.クールニュは本来気のいい人なのだろう。
ようやくセディがおじのこといまの家の事、M.ショウに雇われてベティと共にメゾンデマダムDDにいることを話し終わると涙が浮かぶ眼でM.ブリュックにこういった。

「このセディは本来伯爵の家をついでもいい血筋なんでさぁ。おっかさんもあっしは何度もあったが気立てのいい人でしたがね。病がちで親父の軍隊の給料では暮らしも楽でなく苦労していたようですが、あっしらペイペイの兵にも分け隔て無く優しくして呉れやした」

セディは母親の事を聞くと少しなみだ目になりかかったが青い瞳が潤んで見えるだけで涙はこぼさなかった。
M.ブリュックも正太郎にそういう子なら此方も出来るだけ贔屓にするから頼み事は遠慮なくといってくれた。

M.ショウ、だがこんな小さい子に連絡をさせるなんて君も人使いが荒いのかな」

M.ブリュックそんなことありません。僕に簡単に出来ることと言えばそのくらいのことしか出来ません。まだ近くの連絡にしか出していただけませんがこのあたりも大体の道はわかりますので連絡に使っていただきたいくらいです」

言葉遣いも一時より急速によくなり子供とは思えぬ物言いにM.ブリュックも感心して「セディ君良く判ったよさっきも言ったが僕たちに出来ることは力に為るから相談してくれたまえ」

「ありがとうございます。M.ブリュック、M.クールニュこれからもよろしくお願いいたします」

「今日はこれからどこまで行くんだい」

「これから近くのイギリスの商社の支店と僕の知り合いの家を覚えてもらうためにリュクサンブール宮殿の先までいきます」

「そりゃ大変な道のりだね。気をつけて行き給え」

二人に見送られてバイシクレッテでリシュリュー街をテレーズ街まで下りスミス商会のパリ支店でMr. アーチボルド・カーライルにセディを紹介した。

「ショウは明日のMiss.オウレリアの誕生会には出るんだろ」
「はい其の連絡もかねて出てきました。メゾンデマダムDDは招待していただいた8人が出席致します。M.ジュリアンとMlle.オービニエはまだジュリアンと連絡が取れないので出られるか確認が取れません」

「よしよしそちらが8人だとだいぶ盛大になるぞ。出来れば30人は集めたいと思っているのだよ。僕が責任で会を開くのでね。プティ・バッカスにも其のつもりで40人来ても大丈夫なように支度をするように頼んであるのさ。費用はMr.ラムレイがカジノの儲けを出すというので豊富に金が掛けられるんだ」

「ありゃ、それなら僕もカジノの儲けをいくらか出しませんといけませんね」

「聞いたよ。でもMr.ラムレイの話しだと後でワイン代を負担させたから元金以上に出させたからと気にしていたよ」

「元金の40倍になりましたからね。当分Mr.ラムレイの言うことには逆らえませんよ」

「ハハハ、そんなこと気にすること無いさ。彼は金持ちだからね」

「そうなんですか。確かに給与は高いとは聞きましたが」

「いやね、まぁ良いだろう話したって。彼の代々勤めていた伯爵家からの年金と親の遺産をあちらこちらに投資してあるので働く必要など無いのさ」

「そうなんですか。それで服装に金を掛けても大丈夫なのですね」

そういうことさという言葉を聞いてセディと正太郎は店を後にした。

テュイルリー庭園に出ていた屋台でアイスを買って川岸に座って二人で食べてソルフェリーノ橋を渡って7区へ入った。

Palais de la Legion d'Honneur(パレ・ドゥ・ラ・レジョン・ドゥヌール)の崩れた石積みを横目にサン・ジェルマン大街に出てラスパイユ大街へ曲がればセーブル・バビロンの広場がある、正太郎はバイシクレッテを降りてボン・マルシェが見える場所にとめた。

「セディ、帰りに此処で少し買い物をしていこうな」

「はいM.ショウ」

またバイシクレッテにまたがりサン・プラシッド街のゆったりとした上り坂を走りレンヌ街を越えればノートルダム・デ・シャン街12番地は角から4軒目だ。
リュカは学校から帰ってきていた「ヤァ、リュカこの子は僕の手伝いをしてくれるセディだ。これから僕の代わりにエメに連絡に来てくれるから仲良くしてくれたまえ」

「ダコー。それで君何年生」

「僕今年学校に行けなかったけど試験をして通れば4年からで良いと学校で言ってくれたんだ」

「それなら僕と同じだね。いま3年なんだ。いいバイシクレッテを持っているんだね」

「これ。M.ショウが買ってくれたんだよ。連絡に走り回るのに使うようにってね。君乗れるの」

「まだ乗れないんだ。今度練習しようと思ってるけど貸してくれる人が居ないんだ。大きいのは足が届かないのさ」

「リュカ、僕たちエメのところへ行くからバイシクレッテを預かって呉れるかい。降りてきたら乗り方を教えるからさ」

「ダコー」といってリュカは裏庭の隅へ二人を案内した。

3人で5階まであがりエメの部屋でセディを紹介した。

「ショウ、リリーから招待状が来たわよ。貴方も行くんでしょ」

「メゾンデマダムDDは殆どの人が出るよ。セディとベティにクストーさん夫婦は留守番だけどね」

「私は誰と行くの」

「僕とに決まっているさ。ほかに迎えに来てほしい人でもいるのかい」

エメはにらんだが小さい子が二人居るので其れっきりだった。

「ナ、エメのほうがショウに夢中なんだぜ。面白いだろ」

「リュカ。表に行きなさい」

エメが怒り出したのでセディを誘って下に降りることにしたようだ「セディ怒りんぼに付き合っているより下でバイシクレッテの乗り方を教えてよ」と逃げ出した。

「もう、リュカったらお構い無しなんだから」

怒っているエメを後ろから抱きしめた正太郎が「子供に怒ってもしょうがないだろ」というと声も優しくなって「だってほかに誘う人がいるのかなんていうんだもの」と体をよじって正太郎にキスをせがんだ。

「帰りにボン・マルシェでセディの服を買ってあげるんだけど、前に約束したルパーシカに合わせた君の服を買いたいけど付き合ってよ」

「そうね、私もそろそろ催促しないといけないかなと思っていたの。ショウが思い出してくれて嬉しいわ」

二人は下へ降りてリュカとセディのバイシクレッテのレッスンを見物していたがそろそろと思い「セディ、買い物に行くから終わりにしなさい。それでリュカもボン・マルシェまで付き合うかい」

「行っていいの」

「勿論さ。エメの服も買うから君の意見も聞かせておくれよ」

歩いて4人で行くことにして子供たちはスキップしながら先に立ってデパートに向かった。

サン・プラシッド街を歩きながら「ショウ、貴方それで誕生日会にお祝いは何にするの」

「エッ何かプレゼントが必要なの」

「そうよ、小さなものかスカーフのようなものでもいいから気持ちのこもったものが必要よ」

「では何か考えないといけないな」

二人であれこれと意見を交換しているうちにボン・マルシェに着いた。

「リュカ、君とセディに同じVetements et pantalon(服とズボン)を買うから気に入ったものを選んで良いよ」

「ほんとにいいの」

「勿論さ、だけど余所行きのじゃないよ。普段着に着れる奴だよ」

二人は喜んで子供用の服が並ぶ場所で店員と話を始めた、聞いているとセディもおじの影響か生地に詳しくリュカもデザインには煩そうで店員は困っているようだ。

「リュカ、決まったの」

どうやら二人の意見がまとまったようで夏物のバーゲンの中に茶色と赤のShorts (半ズボン)が気に入ってセディは黄緑と青のチェック柄を選んだ。

「では其れにあったベストを探しなさい」

其の間にエメと正太郎は明日のプレゼントにオリエンタルな香炉と香料をセットにして二人の名前で送ることにした。

店員が二人を並ばせてショーツを穿かせた後服を体に当てて鏡に映し様子を見ながらリュカには青の線の入ったシャツに茶色のベストを勧めた。

「これ気に入ったよ、ほんとにいいの」

「良いとも。ではリュカにはそれと靴下も2足に靴もそろえてください」

店員の一人が承知してショーツを履き替えさせて靴下売り場へ連れて行った。

M.ショウこの水色に合うベストが見つからないのだけど何が良いでしょうか」
セディがおずおずと正太郎に聞いた。
店員が「バーゲンじゃないものにTartan(タータン)の赤と青に黄色の細い線が入ったものがあるのですが如何でしょうか」とエメの方に向かって聞いた。

「どうするショウ」

「其れを持ってきてくれます。それとも移動しますか」
そう店員に言うと「ムッシューにはこの間もルパ−シカをお買い上げいただいたでしょうか」といきなり聞いてきた。

「そうです。この人にそれと合わせた服装をしてもらいたいので今日はそちらも買う予定です」

正太郎がそういうとすぐにお持ちしますとセディにあわせたタータンのベストを持ってきた。

「セディ、それすごく良いよ。モチ、ショウは其れを買ってあげるんだろ」

リュカもう人事でなく着替えをさせた店員と二人で正太郎を見つめたので、値段を聞きもせずにそれにしようなと言って靴下と靴も同じように買いにやらせた。

「ショウ、あれ12フランもするのよ、店員の嬉しそうな顔みた」

耳元でエメが言うにはなんとリュカの靴を除いた上下全部の値段と同じだった、バーゲンとは言うものの値段が安い感じはしなかった。

「仕方ないけど後でショーツもいいものにしないとつりあわないかな」
正太郎も耳に口を寄せて囁くと「まぁ子供だからショーツはすぐ擦り切れるから高いのは無駄よ」と囁き返した。

子供たちの分を清算して婦人服売り場で先ほどの店員が「此方の紳士に青いルパーシカをお売りしたのだが其れにあわせたものを此方のマドモアゼルに見繕ってください」と話を通してくれた。

エメにリュカと二人の店員がまとわり付くようにしてようやく決まったのはまるで牧場に遊ぶ乙女と言う雰囲気の青のタータンのベストにギャザースカートだ。

Tablier(タブリエ・エプロン)も無いとまずいかな」

正太郎が店員に相談すると「そうですね。チロル風にまとめるならそのほうが良いでしょう」と答えが返ってきて白地にピンクの花で赤の縁取りのあるタブリエを勧めた。

「エメはどうなの」

「ルパーシカにあわせるならそう来なくちゃね。明日のプティ・バッカスにはこれで行こうかしら。ショウはどれにするか決めてあるの」

可愛いタブリエを選んでエメは満足そうだった。

「僕はジャポンの物を持って来ていないのでエメが其れで出るなら僕はルパーシカで行くかな」

「そうしなさいよ、私もドレスより田舎から出てきた様子が出て良いわ」

二人は意見がまとまって其れにしようと決めエメの家に戻った。

階段の下で別れて正太郎とセディはバイシクレッテに荷物を縛りつけメゾンデマダムDDまで戻った。

Momo僕たちはルパーシカとチロル風の衣装で明日の誕生会に出ることにしたよ」

「マダム・デシャンは魔女の扮装がお気に入りで其れにしようといま衣装のタイユの手直しを自分でしているわ。私はこの間買った夏の衣装にアルフォンスが似合いすぎて駄目と言ったタブリエをつけて出るわ。そうすれば魔女の見習いみたいでしょ」

そうかなと思ったが正太郎は魔女の衣装がどのようなものか知らないので「楽しみにしているよ」とだけ言った。
どうやらメゾンデマダムDDの住人は誰も正装では出ないようだ。
Momoのはシニョンとシニョンキャップを載せてボザムの付いたジレの上からアンサンブルのホワイトに青の線が斜めに走る上着にチェックのスカート、確かそんな服だったと思い出したが魔女は本に出てくるのは黒い服にとんがり帽子のくたびれた老婆としか思いつかなかった。



Paris1872年7月6日 Saturday

オムニバスに使う大型の馬車が来て8人は其れに乗り込んでメゾンデマダムDDを出たのは6時半を少し回ったころだった。
マダム・デシャンは張り切って馬車が出るとすぐに歌い出す始末だ。

A cheval sur la disciplineはジャック・オッフェンバックが作曲しオペレッタのヴァリエテ劇場で上演されたLa Grande-Duchesse de Gerolsteinの最初の出だしだそうだ。

其の後は替わる替わるに歌が飛び出して道を行き交う人に手まで振って四つ角では通りがかりの人も一緒に歌いだした。

バルベス街に出ても歌は続きマジェンタ街に入ると其の勢いはさらにましてOrphee aux Enfersのどたばた騒ぎまで始めた。

ミュゼ・ナシオナル・デ・テクニークの前を左に曲がりボーブル街に入るころにはさくらんぼの歌がはじまった。
最近付け加えられたという最後の小節をニコラとマダム・デシャンが声をそろえて歌いほかのものにも教え一緒に歌うように誘った。

J'aimerai toujours le temps des cerises
C'est de ce temps-la que je garde au coeur
Une plaie ouverte
Et dame Fortune en m'etant offerte
Ne pourra jamais fermer ma douleur
J'aimerai toujours le temps des cerises
Et le souvenir que je garde au coeur

正太郎も節回しは西園寺が歌ったのと同じなのでどうにかついて歌うことが出来皆に拍手されてさらに一同で合唱した。

いつしかノートルダム橋を渡りシテ島の向こうのプティ・ポンを渡りきっていて既にカルチェラタンに入りオデオン座の前を通ってエメの家の前に着いたのは7時15分に少し余裕があった。

ルパーシカを着た農民が先導して魔女に侍女が付き従い5階まで軽やかに上がりエメの部屋をノックした。

エメが開けるとマダム・デシャンの魔女が杖を差し出したので驚きの声を上げたが後ろの正太郎に気がついて「アラまぁ、マダム・デシャンではありませんか。驚きましたわ」と中へ入れるように脇へどいた。

中にはジュディッタが天使なのか棒の先に星をつけて立っていた。

「マァ、マダム・デシャンは黒魔女かしら。私と敵対関係みたいですけど今夜は仲良く致しましょうね」

「勿論ですわ。見かけよりお人よしの魔女ですのよ。貴方の白魔女素敵、似あって居ますわ。エメのは少し手直しすれば可愛さがますわね」

マダム・デシャンはそういって針箱から針と糸を出させてスカーフを器用に肩に縫い付けて膨らみをもたせた。
廊下へ出ると下では街の人たちとLe temps des cerisesを合唱する声が聞こえた。

「もうお酒が入っているの」

エメがMomoに聞いていたが「まだ一滴も」という返事に「いまからそれでは今晩は大変なことになりそう」と大げさに驚いて見せた。
下へ降りるとリュカと其の母親や近くから出てきたらしい人が10人ほどニコラの指揮で歌を楽しんでいた。

「さぁ、魔女が二人お出ましだ。急いで馬車に乗らないと消されてしまうぞ」
そうおどけて道化師の服装のラモンが真っ先に乗り込んだ。

来た道をオデオン座まで引き返しサン・ミシェル大街の馬車トラムの線路に沿ってサン・ジェルマン大街を右へ曲がった、其処からプティ・バッカスまでは2分も掛からない距離だ。

一同が馬車を降りたときにジュリアンがエメ・オービニエと歩いてやってくるのが見えたので中へ入らずに待った。

「皆さん今晩わ、たいそうおめかしで」
ジュリアンは水夫のように水色のスカーフに縞のシャツ濃紺のパンタロン、エメはオランダ風のドレスに羽根飾りのついた帽子を被っていた。

店のドアからMr.ラムレイが顔を出して一同を中へ誘った。
既に中には20人近い人が来ていて、入り口付近でそれぞれと挨拶をするオウレリアはアメリカの女性のCowboyが好む飾り紐のついた上着にジーンズ姿だ。

受け取った贈り物は後ろの女性たちが名前を書いて壇に飾っていた。
エメと正太郎の香炉はスカーフから出されて目立つところへ置かれた。

ほぼ招待客が揃ったようで庭とバーでは多くの人が楽しんでいる様子で、賑やかな笑い声で溢れていたエメは渡されたシャンペングラスをおいしそうに飲みながら顔見知りとなったメゾンデマダムDDの住人と話が弾み、正太郎は入り口から一段降りたバーに近いフロアでヴァルたちと談笑していた。

「お待ちしていました。鮫島さま」
Mr.ラムレイの声で振り向くと五つ紋の羽織袴に小刀だけさした鮫島と町の商人の様子の羽織姿の西園寺が供にトランクを下げた高野を連れて来ていた。

オウレリアは二人に挨拶をして「着替えてまいります」と鮫島にことわって二階へジュディをつれて上がっていった。

「西園寺様どうしました町人みたいですよ」

「良いだろう、これは扮装と言うものさ。衣冠束帯は持ってきてあるが、それではまずいと高野から借りたのさ、あれは侍の出なのに日本の町の者の衣装をたくさん持ってきていると聞いたので借り出したのさ、その代わりぞうりは無いと言うので足下がこれだ」

下駄かと思った正太郎が見たのはブーツだった。

「昔、坂本さんがYokohamaへ来られたとき革靴に刀を差して袴姿でしたがブーツとは驚きました」

「いいものだろう。ロンドンにいるときにわざわざノーザンプトンまで遊びに行って靴を5足誂えたときのものだ。セント・ミッチェル通りにある工場はトリッカーズと言う店だったな。だが着物では踊るのに困るので普段の服も靴も持ってきているんだよ。Patent Leather(パテントレザー・エナメル)と言うもので、パリで買ったものだ。高野が持ってきているから着替えの場所があれば後で着替えてもいいな」

Mr.ラムレイが二人をスミス商会の支店長Mr.カーライルとこの間手伝った調査員のM.ギヌメールにM.バルテズそしてロンドン支店から来たバウスフィールド夫人を紹介した。

鮫島と西園寺は周りをいつの間にか様々な人たちに取り囲まれて羽織や紋付きについての説明に追われてしまった。

オウレリアはドレスに着替えて降りてきて其れを合図に広間では楽隊がワルツを演奏しだした。

暫く踊りが続きアコーデオンに合わせて軽快な踊りを踊りだす人で広間は溢れてきた、バンドネオンも加わりボレロのリズムに誘われて二組のカップルがフロアーに出て披露した。

鮫島と西園寺にも多くの人が誘いに来て踊りにくいだろうと思う正太郎をよそに様々な曲に答えて相手を楽しませていた。

9時を過ぎた頃サラ・ベルナールにヴァルテス・ド・ラ・ビーニュが6人ほどの踊り子を従えてやってきて座は一段と盛り上がった。

鮫島と西園寺はトランクを持った高野とMr.ラムレイが付いて二階へ案内されて着替えをして降りてきた。

正太郎がサラとヴァルテスを紹介すると鮫島はヴァルテス、西園寺はサラと広間の中へ出て優雅に踊りだした。

次に相手を変えてもう一曲を踊り終わると拍手が起こり、今度はオウレリアを相手にそれぞれが軽快なテンポの曲に乗って広間一杯を使って踊りだした。

それに乗るように様々な相手と踊る中、正太郎とエメも何度も輪にはいって疲れを知らないように踊るのだった。

そして今度はピアノがカーテンの陰から持ち出されオウレリアが一曲、そしてバウスフィールド夫人が続き、ジュリアンにエメ・オービニエからの要望で席が譲られるとOrphee aux Enfers(地獄のオルフェ)からユーリディスの登場場面のシャンソンが弾き語りで歌われ、途中からジュリアンの手で合図されると堰を切ったように合唱となった。

次の曲にはカンカンポルカ、先ほど馬車で騒いでいた序曲が弾かれた。

楽団も其れに乗って賑やかに演奏が始まるとサラ・ベルナールたちが連れてきていた若い踊り子たちが腕を連ねて威勢良く踊りだした。

「エメ、この間フォリー・ベルジェールでも踊り子がこれをやっていたけど昔から流行っているの」

「10年位前からのようよ。見習いの踊り子が最初に覚えるのがこの踊りなの。私も付き合いでやらされたわセルヴァーズ(女給仕)やお酒のお相手だけに雇われた人も全員覚えないといけないのよ」

手拍子と盛んな拍手で踊り手もジュリアンもなかなかやめさせてはもらえなかったがジュディッタ・エルコラーニとマダム・デシャンが見かねて前に出てMignon(ミニヨン)の一節をドイツ語で歌いだした。

Kennst du das Land, wo die Zitronen bluhn,
Im dunkeln Laub die Goldorangen gluhn,
Ein sanfter Wind vom blauen Himmel weht,
Die Myrte still und hoch der Lorbeer steht,
Kennst du es wohl?Kennst du das Land, wo die Zitronen bluhn,
Im dunkeln Laub die Goldorangen gluhn,
Ein sanfter Wind vom blauen Himmel weht,
Die Myrte still und hoch der Lorbeer steht,
Kennst du es wohl?

「知っていますかシトロンの花咲く国を、緑の葉陰で金色の果実が実り。かなゲーテだね」

鮫島は正太郎にそういってヴァルテスを見ると突然のように「15日からオッフェンバック先生のLe Roi Carotte (キャロッテ王)をブッフ・パリジャン座で配役も新たに再演しますがごらんに来られませんか」と誘われた。

Mlle.ド・ラ・ビーニュは出られるのですか」

M.サメジマ、どうぞ私のことはVerts(バーツ)とお呼びになってくださいませ」

「では失礼してバーツ、貴方は其の舞台に立たれるのですか」

「先生の推薦でLa Princesse Cunegonde(キャンディード姫)をやらせていただきます」

「ではぜひ見に行かなくては。席を明日にでも予約しに行きましょう。それでサラ・ベルナールさんはどの役ですかな」

「サラはいま休養中ですわ。それと残念なことに所属が違うので同じ舞台に立つ機会は無いのです。彼女は10月公演のコメディ・フランセーズが移籍初舞台に為ると聞きましたわ」

この頃のヴァルテスはジャック・オッフェンバックの愛人との噂も囁かれていて今度の舞台も其のせいでの抜擢と街の噂になっていたのだが、もとより鮫島も西園寺も正太郎さえも知らなかった。

サラは後援者の多くが新しい役のことで今から気をもんでいて、できれば最初から新しい役で再デビューするよりも前に当たった役で舞台を飾ることを望んでいるのだ。

マダム・デシャンとジュディッタの後を受けてサラはエメを誘い前に出てフランス語でミニヨンを歌いしばらくは集まった人を誘い繰り返し、繰り返しprintemps sous un ciel toujours bleu! までが歌われた。

其の後は暫く楽団の奏でる静かな音楽が流れ、集まった人たちはこの際とばかりにスモーガスボードやチーズフォンデューに舌鼓をうった。

スモークされたサーモン、ニシンの酢漬け・オイルサーディン、ハム・ソーセージをパンにはさみ、サラダの皿を給仕させて椅子で食べるもの庭のテーブルへ移動するものと分かれて話があちらこちらで弾み其の間をオウレリアが回っていた。

ワインに冷やされたビール、シャンペンにスコッチとブランデー、酒に眼が無いものにはバーは宝物箱のように見えていただろう。

めったにこれだけの酒や料理が用意できないことも多く、集まった人はオウレリアの誕生祝いを何度も口に出して、仕度を担当したMr.ラムレイとMr.カーライルを誉めそやした。

12時が近くなりお開きの時間が近付いてきた、ラ・マルセイエーズを楽団が演奏して徐々に歌う人が増えて皆で合唱してM.カーライルが閉会の挨拶をしてオウレリアとMr.ラムレイがドアの外で待ち受けて別れの挨拶を交わしてくれた。

「ショウ、あさっての11時にテレーズ街の事務所にエメと来てね。例のお金の話しとボルドーへ行くときに一緒に行っていただく人を紹介するわ。ジュリアンには先ほど伝えたから大丈夫よ」

「判りました11時にお伺いいたします」

正太郎はエメをエスコートして馬車に乗せジュリアンには手を振って別れの挨拶とした。
馬車はジュディッタとエメを家の前で降ろしてコンコルド橋からモンマルトルへ向かった。
来るときと違いだいぶ燥ぎ疲れたか大きな声で歌う元気は残っていないようだ。

正太郎はニコラとダンにラモンの4人で頭を寄せて明日レ・アールの市場に買い物に行く相談をしていた。

「な、それであの娘に俺が明日にはトマトにチーズを買い入れるからイタリア式のパスタをご馳走しろと持ちかけたのさ」

「それで其の子はダンに気があるのかい」

ニコラは其の娘にダンが惚れているのか遊びなのか聞き出そうと懸命だが、ダンはのらりくらりと交わしてただ可愛くて声も綺麗でと褒め言葉だけを言って会いたくなるように仕向けるのだ。

「それで俺たちが付いて行って良いのか。ダンと二人での食事を望んでいるんじゃないのかい」

「ラモンそんな仲じゃ無いんだってば。友達を紹介するから君も何人か連れてきて俺が食事の材料にワイン等を用意するから其れでパーティを開こうと言うことさ」

「なんだ其れを早くいいなよ。ダンは数学者だけあって言うことが難しすぎるぜ。俺達と知り合いに為ることがその子たちにいいことでも有るのか」

「よせよ。さっきビールを飲みながら言った事をもう忘れたのか。相手は町の娘や行きつけのキャバレーの娘じゃなくて、あちらこちらからソルボンヌやエコール・ノルマル・シュペリウールに学びに来てる娘さんだ。女だてらにパリへ留学するだけあって話しも面白いし付き合うにはいい相手だぜ」

正太郎はよっぽどダンはキャバレーにカフェをやめてそういう人たちと付き合えば良いのにといいたかった。

「もしかしてショウも入れると言うことはワインはショウに出させようと言う魂胆か」

「そうに決まってるだろ。俺たちでほかのもは用意してワインはショウに5本も有ればいいから出してもらえばだいぶ助かるぜ。そのくらい良いだろ」

「5本と言わずに倍の10本までは提供しますよ。何も全部飲まなくても残れば次回と言ういいわけになりますよ」

「良いのかショウ。エメにばれたらことだぞ」

「その内、エメも仲間に誘えば済むことですよ。先ほどきていた西園寺様と言う人もバカロレア試験のために勉強していますから誘えば仲間に入りますよ、それとジャポンの貴族でお金持ちですからお金には不自由していないので金銭的にも仲間に入れるといいことがありますよ」

ニコラもそうだなその人も次回があれば誘い込もうと賛成し明日は朝飯抜きだろうから昼を市場の近くで食べながらまた相談しようと決めた。

その日はシャワーも使わずマダム・デシャンが歯だけは磨いて寝るように煩く言うので並んで歯を磨いてそれぞれの部屋へ引き取った。


Paris1872年7月7日 Sunday

4人はなかなか起きられない様子で最初に起きたのは正太郎のようだった。

朝から強い日差しの中ボンネットにレースをかぶせてマダム・デシャンは相変わらず雑草を抜いていた、正太郎は朝の挨拶をして暫く手伝っているとダンが起きてきて朝の体操を始めた。
10時になってラモンとニコラも起きたらしく2階から正太郎を呼ぶ声が聞こえたので「下に居ます」と答えると窓からニコラが顔を出して「後15分経ったら出かけるぞ」と怒鳴った。

「ダン、あの二人顔をあたる暇があるのかな」

「何簡単さ、あの二人頬髭を残して其の周りだけしかそらないからな。俺やショウみたいに顎のしたまで綺麗にする必要が無いのだから楽なものさ」

二人が降りてきてワインを5本ずつ担いで呉れ、バルベス街まで歩いてヴィクトワール広場まで行くオムニバスに乗り込んだ。

馬車の中で昼はどうするかを相談したが正太郎がこの間西園寺が連れて行って呉れたレ・アール中央市場近くのビストロ・ファラモンはどうかと言うと、ニコラは行ったことがあるとすぐ賛成してそこで朝昼兼帯の食事を取ることになった。
広場のルイ14世の騎馬像は正太郎が横浜で見た絵とは随分と違う様子なので不思議そうな顔で見上げているとニコラが「どうした行くぞ。そんなにルイ14世が珍しいか」聞いてきた。

「いえね。確かダルタニャン物語の話にも出てくるルイ14世と言う人だと思うのですが、パリに来る前にみた本の絵とは違うので見ていました」

「そりゃそうだ。こいつはまだ40年くらいしか経っていないのさ。昔の奴は革命のときに取り払われて其の後で作り直されたんだ。もっとも俺も最近署員用に作られたパリの案内書で覚えたばかりだ。なんせパリ警視庁はパリ育ちが数えられる位少ないからな」

正太郎達もダンたちの後を追って歩きながら今度もって来てやるよとニコラが約束した。

市場とサン・トゥスタッシュ教会の間を抜けてビストロ・ファラモンに着くと席はすいていてビールとパンにストロガノフを全員が頼んでゆっくりと食事にした。

1時間かけてゆっくりと食事をして払ったのは2フラン40サンチーム。もっともビールも1杯ずつだからかもしれない。

正太郎が3フラン出してチップ込みとして店を出た。
「驚いたな。えらく安い店だ。ああいうところを知っていると言うジャポンの貴族と言うのは面白そうだ」

ダンは西園寺が町歩きは正太郎より好きらしく年中市場めぐりで出歩いていると言う話しに、もう友達になったような気がすると言い出してラモンに笑われていた。

市場は昼時でにぎわっていた、ダンは40フランの入った財布を見せて「これで買い物をするから後で三等分だ」と言うのにかぶせて「ワインはともかく買い物の分は僕にも持たせてくださいよ。4等分すれば一人頭が少なくなって楽ですよ」と名乗りを上げた。

ラモンは嬉しそうに肯き、ニコラも「今ショウは金持ちだからな」と賛成したので話しは決まり、ダンは慣れた様子で野菜の屋台が並ぶ場所へ直行して様々な野菜(正太郎の知らないものが多かった)とトマトにジャガイモを買い入れた。

其の後肉屋の市場へ行くとベーコンとハムの大きな塊を買った、それからニコラに相談して食器売り場へ出向いて大きなキャセロールに金属のサラを10枚買い入れ、笊までも買い入れてから食材売り場で胡椒やいろいろな香辛料にパスタに果ては小麦粉やパンを摩り下ろす道具まで買い入れた。

「もうもてないぜ。お前所帯道具をそろえるならそういってくれ」

さすがにニコラに言われてあとは向こうで考えるかと諦めたようだ。

「いくらなんでも俺たちでは買い入れるものを書いてもらわないと何がもれたかわかりゃしない」

ニコラに其処まで言われてようやく市場を後にした。
木造の家並みが続くボルタ街に有る家は裏庭が公園ほどもある大きな家だ、ダンが荷物を降ろすと先に集まっていた5人の女性は台所にすべてを運んでからダンにチーズが無いと大声で伝えて早く買ってらっしゃいと顔を覗かせた。

「近くに無いか。市場までは遠いぜ」

「マリア、ダンが不平を言っているわよ」

「ダン、お願いよ。チーズが無いとパスタが引き立たないわ。それとストレーでアリババを買ってきてよ」

「仕方ないナァ、ショウ一緒に行こうぜ」

「アリババはあったら12個買ってきて、大家さんへ3つ届けたいの」

高いのによく言うよとしぶしぶながら家を出てミュゼ・ナシオナル・デ・テクニークの脇をとおりグルネタ街を抜けるとストレーの目の前だ、お菓子は僕が支払いを持ちますからと先にアリババを12個買い入れ、マカロンが眼についたので30個と10個の二つを買ってクロワッサンも20個買い入れた。

「なんだショウそんなに買ったりしてもって帰るのか」

「違いますよ。念のため買ってみただけですよ。残ればあの人たちが片付けるでしょ」

「そうだな。あいつら相当食いやがるからな」

どうやらどこかで飯をと誘って痛い目を見たことでもあるようだ。

市場通りでチーズの塊と玉葱に大蒜を買ってもダンの財布に4フラン残り意気揚々とアパルトマンへ引き上げた。

裏庭からアコーデオンと笑い声が響いている中を2階の部屋へ上がるとマリアという子が一人でテーブルに布を広げてお茶の支度をしていた

「ほら言われたもののほかに気が付いたものを買ってきたぜ。ほかのものはどこにいる」

「窓から覗いてみなさいよ」
下を覗くと丸く輪を描いてアコーデオンの音色に乗せて軽快に飛び跳ねていた。

「なんだアリャ」

「ポルカと言うのよ。プラーガ(プラハ)から来た娘が大家さんのアコ−デオンを借りて演奏して踊りを教えているのよ。お茶の支度が出来たと呼んでね」

ダンが上から呼ぶと6人で笑いながら駆け上がってきた。

アリババを3個と10個入りのマカロンを大家さんへマリアが届けに降りている間にほかのものが率先してお茶を注いで廻った。

お茶にブランデーをたらしたのとアリババのラムとの相乗効果で口が軽くなり話が弾む中それぞれの名前を教えあった。

マリアが此処の主でミラノから来たイタリア人、マルティナはヨークシャーのリーズから来たという話しでこの部屋の真上が住まいだ。

エレーナがプラハから来たオーストリア・ハンガリー人(本人はボヘミア人だといった)、ジェニファーがボストン生まれのアメリカ人、二人はヴェネローゼ街の同じアパルトマン。
そしてもう一人はロシアから来たというお人形のように可愛いアリサ・ビリュコフ、やわらかな金色の髪に薄い水色の眼は、見つめられると心臓の強い正太郎でも恥ずかしくなるくらいだ。

アリサは普通にこう書くのよAlisa Biryukovと紙に書いてからその下にАлиса Бирюковとロシアの文字で書いてくれ「ドーベントン街21番地に住んでいるのよ」と正太郎に囁いた、この中では一番フランス語が綺麗で正太郎がそういうと小さいときから家ではフランス語で会話が出来たというには驚いたが「ロシアの上流家庭ではフランス語が話せないと駄目だそうだ」と左隣に居たダンが耳打ちをしてくれた。

アリサとマリアにマルティナがソルボンヌの学生、ジェニファーとエレーナはエコール・ノルマル・シュペリウールで学んでいるそうだ。
学ぶ学校も専門も違う二人がソルボンヌの学生と知り合ったのはアリサの紹介だそうだがどのように知り合ったかまでは言わなかった。

今晩はイギリス式プディング、イタリアのパスタ料理、ロシアの煮込みのポトフと三人が料理当番残りの二人が片付け係と役割が決まっていると話してくれた。
アリババで陽気になった一同は下の庭に降りて全員でポルカを踊りだした、大家のGermain(ジョルマン)爺さんはエレーナが何度か演奏しているうちに曲の大体がわかったと替わって即興の音程で皆が踊りやすい弾きかたで緩急をつけ、若い者たちを楽しませてくれた。

一人余った娘に爺さんの小さな孫が加わり其の子が面白い動きをするたびに爺さんが「ホレホレ」と掛け声をかけて忙しい音でせかせるのが面白くて疲れるのも忘れて1時間以上も踊ってしまった。

「さぁさ、男さんたちは近くにトルコ式の風呂に入れる処があるから其処で汗を流してきてね、ジョルマン爺さんが案内して呉れるわ。其の間に腕によりをかけてご馳走をしたくしてあげるわ」

マリアが宣言するように踊りはおしまいと声をかけたのは5時をはるかに廻っていた。一同がセルヴィエット・ドゥ・バン(浴室用タオル)などいらないと言うジョルマン爺さんに従ってタンプル塔跡を通って教会堂の前にいくとオリエントと看板が書かれた建物があった。

「此処はトルコやアラビアにエジプトから来た人のために建てられたがパリのものも最近は多く来るし東洋の人には人気だよ」

正太郎を見て爺さんはそう言った、此処では下着を入浴中に洗ってアイロンをかけてくれると言うので全員がそれを頼むと一回きりの使い捨ての下穿きを買う値段を含めて一人1フラン40サンチームだと言った、入浴代は垢落としをしてもしなくても2フラン庶民にはなかなか来られない値段だ、爺さんにも此方で持つからと勧め正太郎は17フランを払い貴重品を預けて中に入った。

日本の風呂とは少し違うが三助代わりの若い女性がオリエンタル風を気取っているのか薄いベールを体にまとい垢をこすり落としていた、オスマン帝国ではハマム(ハンマーム)といわれていて男性には男、女性には女のあかすり師がつくと正太郎についた女性が教えてくれた。
皆シャワーにバスタブで簡単にしか体を洗わないので、垢が驚くほど出て其れを洗い流す湯が大量に供給されていた。

蒸し風呂はYokohamaでもいくつかありそれと似た構造でダンは「ノルウェーや向こうで言うサウナに似ているようだ。本の絵では石を焼いて其れを部屋の真ん中に置いて汗を出すと書いてあったがやり方は違うが熱くて堪らんな」と其処まで言うと出て行ってしまった。

正太郎は気にならないがダンやニコラは皆が一緒に風呂に入ると言う習慣が無いらしく落ち着かないようだった。

「ショウはどこへ行っても落ち着いているがこういう場所でも平気なのか」

「別に気にはなりませんね。体を洗うのに女の人に洗ってもらうのには少し恥かしい気もありますがね」

其の程度かとニコラは驚いていたがさっぱりしていい気持ちで下着を羽織った。
下穿きも綺麗に洗ってアイロンがかけてあり気持ちよくクローク係に全員の分だぜと2フランのチップを出して預けたものを確認して受け取り、表へ出ると風が心地よくほほをなぜた。

20区のArrondissement(役所)はタンプル塔跡の先にあり木立の間から新しい建物が夕日に映えて、こうもりがまだ明るい街を飛び回り羽虫が餌なのかツバメと争うように屋根の上を舞っていた。

「こうやって見るとどっちがツバメか判らないな」ダンが眼を細くして空を見上げ、つぶやいて「そういえばあの夕日ばかり描いていた絵描きはどうした」と正太郎に聞いた。

「クロードさんならLe Havre(ル・アーヴル)へ港の絵を描きに行くと出かけましたよ。ラモンさんによろしくと言っていたけどいつ帰るかまでは言っていませんでした」

いつもぶどう園の上の階段で夕日を見ては描いていたが見物人が来ても話をしながらゆったりと絵筆を動かして話をするのが日課のような人だった。
モンマルトルのノルヴァン街にあるM.タンギーの画材店にラモンと正太郎はお茶をご馳走になるときにM.クロードも同席して若い画家の話を聞くのが楽しみだと言っていた。

正太郎は此処にラモンと良く行くが、飾られている余り技術の優れない絵でも「何時かは日の目を見ることになるさ」と悠然と夫婦で店をやるM.タンギーと仲良くなり「日本の版画を買いたい」という申し出を受けてルノワールの分のほかに広重さんや昔の浮世絵師のものでも新刷りされたものを送ってもらうことにした。

マリアのアパルトマンの下に戻るとビーフを煮込む良い香りが通りへ漂っていた。
「オイオイ、いいにおいだな。あのロシア娘料理も上手いみたいだ。オッこの香りはローストビーフのようだぜ」

ダンは食い物にも煩いのか単に鼻が利くのか漂う香りの中の煮込み料理とオーブンで焼く肉の匂いを嗅ぎ分けていた。

ブロッコリーとベーコンを炒めたパスタにトマトとバジルのパスタ、アラビアータという唐辛子とトマトのパスタと3種類のパスタにヨークシャー・プディングにローストビーフとジャガイモのフライが庭にしつらえられたテーブルに並び大家のジョルマン爺さんの一家も出て正太郎たちの帰りを待っていた。

「やっと帰ってきたわ。もう食べ始めようかと思っていたところよ」

ダンにマリアが言うのにかぶせてキャセロールの大鍋にボルシチをたっぷり煮込んでアリサとエレーナが「うそばっかり今やっとパスタの準備が終わったばかりよ」と言いながら大家の台所から出てきた。

「何が入っているんだ」

匂いに誘われてニコラが早くよそって欲しい気持ちを隠して聞いた。

「トマトに、ズッキーニ、feve du haricot(ソラマメ&インゲン豆)、ベーコンにビーフ、ジャガイモにキャベツも入っているわ。お皿に配るから順番に並んで頂戴」エレーナがお玉を肩にかけて仁王立ちでニコラに言った。

アリサがサワ−クリームのつぼをテーブルに置いてこれをかけると美味しいわよといって自分はパスタを3種類自分の皿に取り分けた。

爺さんの孫のエリック坊やはマリアとアリサの間に入り嬉しそうにカリカリのプディングにかぶりついてボルシチをスプーンですくった。

賑やかに話しも弾み正太郎はアリサのボルシチの腕前を褒めた。

「ありがとうショウ。でも其れはエレーナも協力してくれたのよジャガイモの皮をむいたりトマトを刻んだり後でお皿を洗うときにお返しもしないといけないわ」

「其れは僕にも手伝わせてくださいよ。こう見えても鍋を洗ったり、食器を洗うのは得意ですからね」正太郎はアリサに点を稼ぐのに夢中だ。

ニコラはそんな正太郎に「言いつけるぞ」と耳打ちして牽制をかけてきてすぐジェニファーにエコール・ノルマル・シュペリウールは何時から学びだしたかを聞いていた。
「去年からよエレーナとあと2年学ぶ予定なの、其の後は此方に残るかアメリカへ戻るかまだ未定よ。私はエレーナと違い技術が向上しないようなので美術館にでも勤めようかと思っているの」
エコール・ノルマル・シュペリウールは高等師範学校(略称 ENS)だ。

ダンも盛んに飲んで食べてと忙しくラモンはエレーナと先生のことやサロンの悪口を言い合っていた。

ようやくワインもなくなりテーブルの上も片付きだし「そろそろ片付けるか」とダンの声で男たちは食器洗いの手伝いに大きな台所を使って(このアパルトマンは共同の大きな台所を12人の居住者が共同で使っていた)精を出した。

アリサやエレーナたちは監督して洗い終わった分からナプキンで綺麗にこすった。

「お皿や鍋は持って帰るの」

「いや其れはマリアに上げるからまたこの次があったら誘ってくれ」

ジョルマン爺さんのおかみさんのマリーが「ふた月に一度位じゃどうだろうね。あたしも今日みたいな憂さ晴らしの日があると楽しいよ。若い人たちがこうやって騒いでいるのを見ると嬉しいもんさ。日曜日は家で静かに本を読むなんて堅苦しい事は無しにしたいもんだね」

賛成と言う声が出てダンとニコラは参加人員が増えても大丈夫かと聞くと「この庭なら20人は平気だよ。会費を集めて若い人を集めて御出でなさいよ」マリーおばさんが太鼓判を押した。

「其処までしなくとも良いさ余り増えると過激な奴も来たりするからな。精々ゲストにあと二人か三人を呼ぶくらいにしょうぜ」

「ではダンのほうの人数が決まったら此方も学校で食事付ならどうと誘えば来たがる人は多いでしょうから其れにあわせるわ」

話がまとまり4人の男たちとアリサとエレーナにジェニファーは東駅まで歩き3人に馬車代として4フランをダンが馭者に払い辻馬車に乗せた。
見えなくなるまで手を振って正太郎たちは少しふらつきながらモンマルトルの丘を東回りにメゾンデマダムDDへ向かった。

「これで40フランすべて使ったがショウにはずいぶん余分に出させるようだが良いのかよ」

「大丈夫ですよ。あの競馬の金もカジノの金も皆さんとこうして使う分にしていますから精々たかってください」
そう言うものの帰り道正太郎は散々にニコラとラモンに冷やかされっぱなしだ「ショウ、お前いつかエメにばれるぞ」とニコラが言えば「そうだあんないい子が彼女に居てまたほかの娘にちょっかいを出す気か」と両脇から冷やかされっぱなしの正太郎だ。

「まさか、エメは彼女にゃ違いないですが。たまたま席が隣になっただけで話をしないわけにいかないじゃないですか」

「そりゃ単なるいいわけだ、あの娘の眼を見たかありゃお前に気があると見て誘いを掛けている眼だ」とダンまでが言い募った、3人ともこの間正太郎の年を聞いてから完全に弟扱いでからかうにいい相手と認識してしまったようだ。

「ダンそりゃ無いですよ。僕には眼が見えませんぜ。隣で確かに顔を寄せて話しはしましたが見つめあったわけでも無いし、まして相手の眼の色の変化まで見ることなど出来ませんでしたよ」

そういうとさらにかわるがわるあれはショウに恋をしかかっていると煽る三人は、酔いも手伝って執拗に正太郎をからかうのだった。
正太郎も反撃に出てアリサは可愛いと思うけどダンはどの子が好きなのと聞いてみた。

「俺か、俺はなアリサがもう少し背が高くて胸が大きければな。せめてジェニファーくらいの背が欲しい。ジェニファーが赤毛でなけりゃいいんだが」

「俺は、マリアがもう少し肉付きがよければ」とはラモン「俺はマルティナの声がよければ申し分ない」と言うのはニコラだ。

「なんだ3人とも気に入った娘は居るんだね、そりゃ自分で描く絵や彫刻と違うんだから完全な人はいないよ。エレーナのことは誰も言わないけど美人過ぎて誰も手を出しにくいということなの」

あの娘は別格だな、どう見ても周りが放っておくわけが無いと3人が口々に言うのは自分には無理だと諦めているのかもしれない。


 2008−04−28  了
 阿井一矢


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