酔芙蓉 第一巻 神田川  
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安政2年12月12日―1856年1月19日

・ 神田川 

安政3年1月15日―1856年2月20日

・ 小正月

安政3年1月18日―1856年2月23日

・ 七福神

安政3年3月2日―1856年4月6日

・ 連雀町

安政3年3月3日―1856年4月7日

・ 雛祭り

安政3年3月4日―1856年4月8日

・ 花見

花散らしは本当はお蓉ちゃんに着てほしかったけど、長い流行の・あれなんか変かな・市松小紋にしてみました。
市松人形や写楽の絵でおなじみの佐野川市松にちなんだものです。
添付画像はお尋ねの花散らしのあでやかな薄紅色の着物はこういうものと思います。
色は違うけどbS85のお蓉さんのモデルの絵も花散らしの江戸小紋ですね。



これも花散らしの江戸小紋です、題は花見弁当になっていたかな。


実を申さば江戸時代は内風呂は町家では基本的に禁止されていましたが、幕末には規制も緩やかに成ってきました
、ということでした〜〜

よく長屋で井戸端会議のおかみさんを見かけますが江戸の長屋では井戸ではなく水道からの水を枡にためておくものです。
江戸の水道は現在の水道の圧力式のものとは違って、石樋や木樋で給水しておりました。
流下させる方式で、高いところから低いところに流すものでした。
これらの水道管は地中に埋設されていて、また、水を汲むところには桶が置かれていました。
丁度井戸から水を汲むように桶の水を取り出していました。 
神田上水は天正18年(1590年)の開設で当初は小石川上水と呼ばれていました。
武蔵野の井ノ頭の池(恩賜公園・東京都三鷹市と武蔵野市にまたがる)を主要水源として、神田、日本橋一帯に給水していました。この上水は神田川上を木造の掛樋で交差していたのでここが今の水道橋あたりです。
山手の四谷・麹町・赤坂から下町の京橋方面は、玉川上水でした。
またこの桶(桝)にためるほかにあまって流れた水は水道尻という場所から川に流していましたが、この水を受け止めて水売りが水に不便な地区に売りにいきました。
ということでお風呂は今と違い大変な贅沢なので、自宅に井戸がないと出来ないことなのでした。
ということで寅吉さんのところでも井戸を掘り当てましたが、経費は135両かかりました、恐ろしいことです。



安政3年4月朔日―1856年5月4日
 ・ 更衣

教授からのメールに衣替えについての解説が付いていました。
最近の話は教授から解説付きでメールが来て、アイがそれを添削(字と用語)してWebに載せています。

4月朔日(ついたち)
「更衣(ころもがえ) 今日より五月四日迄、貴賤袷衣を着す。
今日より九月八日まで、足袋(たび)をはかず。單羽織(ひとえはおり)を着す。
安政3年4月1日―1856年5月4日
お江戸も初夏となりました。
この季節の明け六つは今の4時20分ごろですから朝はまだ寒いでしょうね。
お蓉さんの家では朝から袷衣(袷・裏地付きの着物)を出して着替えさせています。
そんなに厳格にという気持ちよりも習慣だから気持ちの切り替えという軽いものでしょうが、公式には幕府が年4回の衣替えでの出仕を制度化していました。
ほぼひと月ほどで梅雨に入る頃になると単・帷子(ひとえ・かたびら)に切り替えます。
4月1日〜5月4日が袷(あわせ)、5月5日〜8月末日が麻の単衣(ひとえ)の帷子(かたびら)、9月1日〜9月8日が袷、9月9日〜3月末日が綿入れの小袖
四月一日に行なわれる防寒の為に入れていた綿を抜く事は有名で「四月一日」と書いて綿抜きと読むのは、この着物の衣替えから 来ました。


それから時刻ですが明け六つとは夜明け前およそ30分で〜〜す。
詳しい時刻の設定方法はは難しすぎるのでゆるして〜〜。
明け六つの次が五つ、四つなのよ〜〜。
お昼が九つこれは一年中同じですよ。
で八つ、七つ、と来て暮れ六つで夜になります。
で皆さんの好きなおやつは、冬なら1時半ごろで夏ならば2時半頃になるらしいで〜〜す。

もう一つの画像を使うために二つに分けたデ〜〜ス。
どちらが解りやすいのかしら、好きなほうで参考にしてちょ〜〜ね。
夏時間冬時間にご注意。





安政3年7月6日―1856年8月6日

 ・ 七夕


江戸後期の鉄製銚子ー宴席などではこれを使いました。

教授の七夕のメールに銚子について但し書きが付いてきました。

銚子は徳利と同じように現在は扱われていますが、この時代の少し前にはお酒は片口から注ぐか、暖めるときはちろり【銚釐】で暖めたりしていました。
銚子(徳利)で温めてだすのはこの頃より増えてきましたが燗酒はよいお酒でないとおいしくないですね。
ちろりは長火鉢などの灰の中に入れてお燗をしましたが後年は水の入るお燗用の部分が付いたものも出ました。
本来の銚子は鉄製です、弦と注口(つぎぐち)のある鍋。吊しかけて酒などを暖めるのに用いるもの、さしなべ、さすなべ。 

万葉集に、
さし鍋に 湯沸(わ)かせ子ども 櫟津(いちひつ)の 檜橋(ひばし)より来む狐(きつ)に浴(あ)むさむ (16−3824)

刺名倍尓 湯和可世子等 櫟津乃 桧橋従来許武 狐尓安牟佐武
さしなべに、お湯を沸かせものどもよ、櫟津の ひのきの橋を渡ってくる狐に浴びせてやろう 、 「来む」はキツネの泣き声コンとかけています。
この狐という字はキツと読まれていましたが教科書等にはキツネと書き入れてありますがkazuyaはキツと古音での発音を尊重いたします、でも試験にはキツネと書いてくださいね、こんな問題は出やしないか。ワハハハハ。
宴会をしていた時のこと、明け方に狐の声が聞こえてきました。そこで、皆が、意吉麻呂(おきまろ)に、そこいらにある食器・狐の声・川・橋を詠みこんで歌をつくるように言いました。そこで、意吉麻呂(おきまろ)が詠んだ歌がこれです。
安政3年7月6日―1856年8月6日 七夕
文中に有るシチセキとは七夕の古語です、江戸人は使って居たようです。
イブに飾り七日に川に流したところがおおいようです。
織姫と彦星へのお供えとして季節の野菜を供えました。
万葉集には、巻八に、山上憶良による12首、湯原王2首、市原王1首などが見られます。巻九に2首、巻十には秋雑歌(ぞうか)の中に、98首にものぼる歌が残されています。
巻十五(3首)、巻十八(1首)、巻十九(1首)、巻二十(8首)にも七夕の歌があり、それらの総計は百三十首です。

Kazuyaの好きな歌は
2049 
天の川 川門(かわと)に居りて年月を 恋ひ来(こ)し君に今宵会へるかも 

盂蘭盆と中国の七夕の乞巧奠(きっこうでん)それと棚機女(たなばたつめ)行事が合わさり七夕なりました。

安政3年7月7日―1856年8月7日 

 ・ 影供

安政3年8月15日―1856年9月13日

・ 中秋


お月見は仲秋よりも中秋を使います。
一年には「春夏秋冬」の四季がありますが、旧暦では3月毎に季節が変わり、「一・二・三月」は春、「四・五・六月」は夏、「七・八・九月」が秋、「十・十一・十二月」が冬そしてそれぞれの季節に属する月には「初・中(仲)・晩」の文字をつけて季節をさらに細分するのに使いました。 
土用は中国の『陰陽五行説』からきています。
 中国では、春・夏・秋・冬の四季に、木・火・土・金・水の五行をあてようとしましたが数的に無理でした。 そこで、春・夏・秋・冬に木・火・金・水をあて、各季節の終わりの18日余りに土をあてました。これが土用です。
 平賀源内が広めた夏の土用、丑の日にちなんで、江戸時代の鰻の名店と言えば、神田・深川屋、茅場町・岡本、霊岸島・大黒屋、浮世小路・大金、親父橋・大和田などです。 

安政3年8月15日―1856年9月13日

15夜は別名を芋名月ということからもわかるように、この日は縁側に台や机を出し、芋や柿、栗、枝豆、青梅、団子などを三方に載せ、御酒徳利に薄(すすき)を挿して月に供えます。
月見団子は15個、薄は15本か5本がきまりだったそうです」。
供えた団子は、その後で千切りした大根と味噌汁にするのが習わしであったようです。
旧暦九月十三日は「十三夜」といい、十五夜に月見をしたら、十三夜にも月見をするものとされていました。
十五夜だけでは、「片月見」といわれて忌み事とされました。
十三夜は「豆名月」または「栗名月」ともいわれ、枝豆や栗なども供えられます。
文中の6夜待ちは26夜待ちの事で気の短い江戸っ子は言葉もはしょったようです。



 

安政4年1月1日― 1857年1月26日

 ・ 元旦


安政4年1月1日― 1857年1月26日
お正月のお食い積み(お喰い積)は今の鏡餅のように床の間に飾る事が多いようです、おめでたいものを取り揃えて箱膳に飾りました。
新年の挨拶もこの頃から、あけましておめでとうございますと言い出したようです。
「御慶申し上げます」というのがこの時代には昔風となり、「初春のお喜びを申し上げます」など大黒舞(享保頃より三河漫才に変わってきたようですがね)の影響も見られます。
三河万歳は太夫が三河から来て、近在から集まる才蔵を日本橋四日市(中央区日本橋一丁目)で見つけてコンビを組みます、昨年良かった才蔵は今年も組もうとする太夫によってすぐ決まりますが売れない才蔵は仕事を探しに走り回る目にあうので必死でした。

安政4年1月2日―1857年1月27日

・ 書き初め


書き初め、手習い師匠の家に新年の挨拶と勉強の開始をする書きぞめは新年の行事の大切な催しです。
3日に出かけた初詣は大勢での移動のために船が使われました。
歩いても亀戸天神だけならば往復に子供の足といってもゆっくりしても日のあるうちに往復して遊ぶ事が出来、藤の季節には深川から格好の物見遊山に出かけられるのです。
着物については本職の時代考証の人に聞かなかったので、自信がありませんがお話なのであのように書いて想像いたしましたら粋な町娘の姿になるようなのでおしとおしました。
今回文中ではでてこない船頭をしてくれる与七さんが松嶋屋さんのお気に入りで堀多喜のご亭主でお芳ちゃんの父親です・七福神めぐりで芳坊と呼ばれたおてんば娘です。
どこかに書いた気がするが、まだ出ていないのですが長屋の子にも芳吉という子が居ります。
松嶋屋さんは米問屋で仙台堀にも店がありこの冬木町は本店です松嶋屋さんでは小売をしていませんでした。、。
お多加ちゃんの家は春米屋(搗き米屋・精白して小売)で屋号は五木屋です。

安政4年1月3日―1857年2月16日

 ・ 初詣

安政4年1月16日―1857年2月10日

・ 薮入り


薮入りは1月16日、江戸時代休みといえばこの日といわれますが、今の感覚よりも仕事ずくめではなく、唯実家に帰る事がないということであったようです。
奉公が仕事ばかりではなく十露盤(当時は五つ玉、上二つ下五つ)習字などを教われるのでした。普通20歳くらいで親元に帰るか番頭として奉公を続けるか決めました。

安政4年3月1日―1857年3月26日

・ 墨堤


今回はお蓉さんの手紙このように書かれたそうで〜〜す。
想像が多くそれとお家流のフォントなど無理なので、草書体も無理手書きなぞさらに無理。
というコメントがついていました。
この手紙の続きは買わないときは引き札をお返ししてくださ
いというコメントが続きます。
安政4年3月1日―1857年3月26日 墨堤
牛御前は牛嶋神社に明治の神仏分離でなって関東大震災以前は現在位置より北側の長命寺近くの墨堤にあったようです、お朱鷺さんに書いた手紙はすぐさまお届けされたようです
のでご安心を。

御目見えを独立してないのにはあとでの含みがあるので要注意。


花見の様子がダイジェストになっているけど、これからも花見の様子が出るからつないで見ると江戸の花見が連続で楽しめるで〜〜す。
今回の墨堤の昔の様子で〜〜す。
今の言問橋、桜橋はなくて竹谷の渡しと言うのが交通の手段でした。


添付は隅田川・水神

安政4年3月1日―1857年3月26日
 墨堤 ・ (御目見え)・ 日本橋 ・ 十軒店
と今回は長いですが、おつねさんが松嶋屋さんと花見の日をこの日にした理由と二つの町の花見を合流させてみたのです。
まきりんが検索の通り原船月は人形師です。
木遣りのことですが、岩さんのいたよ組から名人が出て、兄と弟というのは歌の駆け引きを二人で交互に歌うためです。

安政4年3月1日―1857年3月26日
 ・ 日本橋
安政4年3月1日―1857年3月26日
 
・ 十軒店

 


安政4年3月10日―1857年4月4日

 ・ 吉原

安政4年3月20日―1857年4月14日

 ・ 桜

安政4年3月20日―1857年4月14日
 
・ 紅華緒


安政4年5月1日―1857年5月23日

・ 藤


亀戸天神の亀の張り子で〜〜す。

幕末期、嘉永5年(1852年)の番付『江戸前 大蒲焼』には西の大関筆頭に「霊岸島 大黒屋」、関脇に「茅場町 岡本」の店が載っている。
明治期には富島町(現・新川)に、うなぎや「大國家」があり有名だったとあります、江戸前とは、江戸湊で獲れた天然ウナギを指した。 

亀戸天神、寛文二年(1662年)、九州の太宰府天満宮の神官(道真の子孫と伝えられる)大鳥居信祐が、武蔵国は本所亀戸につくった小祠が始まりとされます。


鳥越明神、浅草蔵前に鎮座し、倭健(大和武尊)天児屋根命、徳川家康、をお祭りしています。創建は古く白雉二年(651年)といわれています。

安政4年5月1日―1857年5月23日
 ・ 玉姫稲荷

玉姫稲荷、昔この辺りに砂尾長者といわれた分限者が住んでいました。
その一人娘の玉姫は、恋いに破れ鏡が池に身を投げて命を絶ってしまったのです。
悲恋の美女、玉姫を祀ったのが玉姫稲荷だといわれます。
境内中央に口入れ稲荷があり、商売繁盛、縁談、就職に御利益有りということです。

東京地名考(朝日新聞社会部編、朝日文庫)によれば、柳橋は、もともと吉原に向かう船が集まる船宿の地であったが、天保の改革(1842年)で深川の岡場所を追われた深川羽織芸者が、この地に移り、やがて花街となったと紹介されています。


安政4年5月25日―1857年6月16日

・ 堀多喜


安政4年閏5月1日―1857年6月22

・ 水神


ハナショウブには、江戸系、肥後系、そして伊勢系の3系列があります。
普通に言う菖蒲は、この字ではなしょうぶも、あやめも、そして五月の節句の風呂に入れる香りの高いショウブ(さといも科)をも表すのでどのことを書いているか解らないことがあります。
杜若も同じ花の仲間(アヤメ科)ですが少し重い花弁がつきます。

安政4年8月3日―1857年9月20日

・ 葛布



掛川の葛布は、裂いた糸が細かいほど高級品とされ、昔から女性の手内職仕事でした。
葛袴と呼ばれて夏袴地にはなくてはならない必需品です。
5月から8月ごろにかけて、山で葛の若い蔓(つる)を刈り取り、葉を取った蔓を煮て、水につけて一昼夜おきます。
刈った青草の間にこの蔓を入れて3日間発酵させて外皮を腐らせ、水の中で外皮を取り除き、さらに芯を抜いて繊維質を取ります。
この繊維質を「葛苧(くずお)」といい、米のとぎ汁に半日浸して艶を出します。
このあとさらに水で洗って乾かせば葛苧が仕上がります。
この葛苧を細かく裂いて、つなぎ合わせて葛糸をつくります。
この葛の糸と麻、棉、絹で機織りにかけて葛布を織りあげ、美しい織り物製品に仕立てられます。
実際の安政4年ごろの掛川藩のこの当時の藩主は、太田摂津守資功公で実際の実権は父の大田備後守資始公が握っていました。
公は、近江宮川藩主堀田正穀の三男で、後に遠江掛川藩主太田資言の娘婿となって襲封し,奏者番,寺社奉行,大坂城代,京都所司代を経て,1837年(天保8年)に老中に就任。
在職中は老中水野忠邦のいわゆる「天保の改革」に反対して1841年(天保12年)に辞職。そのまま致仕。
1858年(安政5年)に再び老中に任じられ,外交問題を担当。しかし,将軍徳川家定の後継問題で一橋慶喜を推すなどした水戸藩の処遇問題で大老井伊直弼と対立。翌年罷免され,謹慎を命ぜられる。
1863年(文久3年)に三度、老中に就任するが程なくして辞職。
1867年(慶応3年)に69歳で没しました。
ここで兄上として出てくるのは、1841年天保12年から、掛川藩主の太田摂津守資功公です、1862年(文久2年)になくなられ、太田備中守資美公が相続されました。
歴史妄想なのでこういうことは唯の余談ですね。


歴史と妄想のハザマが出たり入ったりのいつもの教授ペースで〜〜す。

 

安政4年8月3日―1857年9月20日

 ・ 芳町

安政4年8月15日―1857年10月2日

・ 手古舞

添付はあやめです。irisとしてありました。

八幡宮本祭り今は三年に一度の大祭も江戸の時代には本祭りと、影祭りとして行われました。1807年には人が多く出て(橋下を一橋公が船で通り一時人留めがなされ一気に人が溢れたのが原因)老朽化していた永代橋が落ち、1500人(500〜2000ともいわれる)もの人が亡くなったと記録されています。永代島に寛永4年(1627)に創建された八幡宮、建立当時は遍照院といわれた永代寺。京都仁和寺は、長盛上人の住まいに永代寺という寺号を与え、永代寺が誕生したのである。以後、この地域の町名は、頭に永代寺を付けて「永代寺門前町」、「永代寺門前山本町」、「永代寺門前仲町」 といわれた。
明治の廃仏毀釈で永代寺は廃寺となり八幡宮がのこりました。 
1643年(寛永二十年)8月15日八幡祭開始される。
深川八幡官の大神輿は三社託宣に因み、八幡造り、神明造り、春日造りと三基 関東大震災で焼失 手古舞は着用のわらじも舞踊や歌舞技で使用する重ねわらじを履きぜいを尽くす親が多かったようです

安政4年8月28日―1857年10月12日 

・ 柳橋

柳橋の家の図面をを書いて見ました。
玄関は東向きです。
井戸はついていました、玄関は路地に面していて格子戸の前に雨戸が入るそうです。
二階は廊下に6畳二間と物干しがあるそうです。


安政4年9月朔日―1857年10月15日

・ 色取月


安政4年9月朔日―1857年10月15日
・ 色取月

いろどるつきって何のことかいつものように解説が添付してないので調べたら旧暦9月の呼び名のひとつでした。
秋も深まりもみじが赤くなる季節かぁと思い至りなぁるほど〜〜と思うアイで〜〜す。

 
 第一部完  


幕末風雲録・酔芙蓉
  
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       第一巻完      

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