横浜幻想
其の十 Antelope 阿井一矢
アンテロープ


登場人物 (年齢は数えと満とに分かれています1872年)

ケンゾー ( 吉田健三 Mr.ケン )

1849年(嘉永2年)生まれ 24才 

正太郎 (前田正太郎)1856年(安政3年)生まれ 17才

清次郎 15才 花 11歳 まつ 9才 (正太郎の弟妹)

おかつ 玄三 勝治 千寿22才 辰次郎31才 源太郎20才

寅吉30才 容25才 春太郎24才 千代松25才 伝次郎31才

陸奥宗光 28才 弘化元年7月7日(1844年8月20日)

安部弘三(羅卒総長) 

斉藤敬之(羅卒権総長) 杉浦譲(駅逓権正)

佐藤政養(與之助)    佐藤新九郎(立軒) 

亀次郎 倉 (富貴楼)駒形町新地(明治3年)→尾上町(明治6年)

相生町 の伝助 長次 玉吉(伝助の下っ引)

真砂町の重四郎 ( 長十手の旦那)惣治 冨次(重四郎の下っ引)

清次 由太郎 紋太 松太郎 孝 ( 街の子供たち ) 

ウィリー( Willy ) WilliamBWalter  

エリカ  ( Miss Mayer ) Erica Mayer 

Augustin Van Buffet Goone ゴーン 1834年生まれ38才

Mary Van Buffet Goone ゴーン夫人1840年生まれ 32才

Sophia Van Buffet Goone1856年生まれ 16才

JohnJackyMac Horn 1838年生まれ 34才

M,J,B,Noordhoek Hegt
 マリアヌス・ヨハネス・ベンジャミン・ノールトフーク・ヘクト 1821年生まれ  51才 

Charlotte Noordhoek Hegt 1864年生まれ 8才

ヤール( Jarl )JarHeldt Noordhoek Hegt1844年生まれ 28才

ハンナ( Hannah )1843年生まれ 29才

William Henry Smith スミス 1838年生まれ? 34才 

天下の糸平    ( 田中平八 )1834年(天保5年)生まれ39才

海坊主の伊兵衛親方( 丸岡の親方 )俊 境町二丁目・入舟町

喜重郎      ( 丸高屋の親方・高木喜重郎 )駒形町三丁目

高島嘉右衛門   ( 高島屋 易の大家)入舟町新地(常盤町五丁目)

天保3年11月3日(1832年12月24日)41才

内田清七     ( 京屋 清七 )真砂町 

益田徳之進 ( 中屋徳兵衛・進・孝徳・孝 )

      嘉永元年10月17日(1848年11月12日)25才

大谷嘉兵衛 弘化元年12月22日(1845年1月29日)28才

西郷小兵衛 弘化4年(1847年) 26才

西郷従道  天保14年5月4日(1843年6月1日)  30才

伊藤博文  天保12年9月2日(1841年10月16日)32才

勝安芳   文政6年1月30日(1823年3月12日) 49才

 Antelope

この正月は戸塚の実家で過ごした正太郎は横浜へ戻ってきた。

明後日の七草人日にはアメリカ号が戻ってきて上海へ向けての往復航路で人や荷物を運び20日の日にはサンフランシスコへ向けて横浜を出航するのだ。

「いいな正太郎俺もアメリカへ行きたかったよ」

Locomotiveに異常に関心がある松は正太郎があげたアメリカの蒸気機関車の写真を大切そうに抱きかかえてそう言った。

「まっちゃんも必ずそういう機会が来るよ。俺はそう感じるんだ。その日のためにもしっかりと勉強してアメリカやイギリスへ何時でも出かけられるように言葉が通じるようにするんだよ」

「判ったよ。イギリスの言葉だけでもしゃべれるように努力するさ」

友達と別れて正太郎はMaison de bonheurへ向かった。

道々行きかう人が正太郎に新年の挨拶をするので地蔵坂を登りわき道へ入るまでだいぶ時間がかかった。

「兄ちゃん体に気をつけてしっかり勉強に励んでくださいね」

「ああ大丈夫だよ体には気をつけるし、お琴さんからもおなかを下したときに飲む薬もいただいたし吟香さんからも目薬をたくさんいただいたよ」

「正太郎もすっかり大人ね。フランスへついたらお便りをくださいね」

「いいとも、ミチが喜びそうな贈り物も一緒に贈ることを約束するよ」

「アラうれしいわ、いいものをお願いね。船はアメリカ号なのねコロラド号に比べて五日は短縮できると聞いたわ」

「それでも横浜から片道二十日はかかるよ。海が荒れなければ楽な航海だと陸奥閣下は言うけど少しは心配なのさ」

「お宅の旦那は船が強くないらしいから貴方も船に弱いかもね」

「脅かすなよ、東京との往復ぐらいしか経験がないから外海に出たときのことが心配なんだぜ」

ミスベアトリスが出てきて話に加わり「船が出る前にもう一度来てね。ノエル様といろいろ用意したいものがあるの。それとベアトさんに写真を撮っていただいておきますからね。貴方がランスの私の母の家に寄ってくださるというので重い荷物はやめてノエル様と相談してそれぞれの写真にしたのよ。手紙はやり取りしているけど最近の写真は貴方から私たちの日常の話とともにしてくださるとうれしいわ」

「判りました。Maison de bonheurの写真は送られたことがありますか」

「此処が開設できたときに送ったけど蓮杖がこの間とって色付けしてくれたのがあるからそれを持っていってくださる」

「それなら蓮杖さんに聞いてガラスが残っていたら焼き増しして新しく色付けしてもらいます。ガラスが残されていないときはこちらのをお預かりします」

「そう、ではそうお願いすることにしましょうか。あの写真とてもきれいですものね」

ミスノエルも手が空いたと部屋に来て話に加わり「ランスではノートルダムへ必ずよりなさいね。此処ではフランスの王になる人が戴冠式を行う有名な大聖堂なのよ。それとこの街はシャンパンが有名だから呑み過ぎないでね」

Notre-Dameは正太郎もご存知のようにマリア様のためにささげられた聖堂で有名なのはパリには勿論のことですが、大きな町には必ずあるから其方にも寄るといいわよ。あとランスには有名なBasilique Saint-Remiが在るのよ、フランス人の神と人民に奉仕する心を学んでくださいね」

「はいしっかりとフランスの心を学んでまいります」

「それから私たちの働きかけが実ってサンモール会では日本への修道女の派遣を検討してくださっています。よい方々が見えられることを願っています。私たちは神の教えを守っては居りますが正太郎も知っているように一般人ですからいつかは普通の生活に戻るつもりです。日本へ来られた方々が孤児の家を引き継いでくださればフランスへ戻り新たな仕事を始めることになるでしょう。そのことも伝えてください」

いつかはそうなるであろうと思っていたがその日が近付いているということに改めて思いを深くするのだった。

正太郎がMaison de bonheurを後に山手を降りて元町の虎屋へ新年の挨拶へ行くと芳幾さんと広重さんが来ていた。

勝治や半蔵に挨拶して二人の絵師とも新年の挨拶を交わした。

「ヤァ正太郎今度フランスへ渡るんだってな」

「はいそうなりました。半月後にはアメリカ号に乗ってサンフランシスコ経由でニューヨークへ其処からロンドン経由でパリへ入ります」

「体に気をつけてしっかり勉強しろよ」

「はいありがとうございます。それでお二人は絵のほうのお仕事ですか」

「広重さんが機関車の写生に来たが俺は山々亭有人の條野伝平さんをケンゾーさんへ紹介するために来たのさ。今までは俺が代理の格好で話を進めてきたが伝平さんが横浜で本格的な契約をケンゾーさんと結ぶのさ」

「ではいよいよ新聞の発行が本決まりなのですね」

「そうさ、伝平さんは元年に條野採菊の名で福地桜痴先生とともに江湖新聞を発行したが官軍に発行停止にされて以来やっと念願の新聞発行に取り掛かれるのさ」

「それで新聞の方針は決まりましたか」

「やはり最初は横浜の毎日新聞のように政府や地域の政治に経済が主体になるようで順次読売的な町の話題を増やす予定で名前も東京日日新聞だ。正太郎がサンフランシスコに到着するころには第一号が発行できるだろう」

「今朝実家から戻りがけに野毛で旦那とお容様には新年の挨拶をいたしましたが家には吉田先生が居りませんでしたが、もしかして印刷機がついたのでしょうか」

「そうだよそれで伝平さんが急遽横浜まで出てきたのさ」

出版願は御布告を始、御各省之御転任、御館御移住等之事、日々米穀及物価之相場、開店売薬等之報告、商事之新報、農事之評論、外国新聞之訳挙、新技之発明、不意之凶変、其余珍説奇話、流行之俗謡ニ至候迄と大蔵省に提出して官許が降りたのだ。

創刊号は美濃紙版一紙に片面二色刷り官書公報に江湖叢談の二つの欄で構成するという話であった。

境町に戻りケンゾーがまだ帰宅していないので弁天通りの全楽堂へ向かい蓮杖にMaison de bonheurの写真のことを頼むのだった。

「何枚あればいいのだ」

「フランスへのおみやげが二枚、私に一枚の三枚です。それから日本の写真を土産に五冊の本にしてください」

「あれは一冊が12ドルもするがよいのかい」

「はいアメリカやイギリスでお土産を渡す必要が出来るかもしれませんので出来るだけ豪華にしてください。割り増しは請求してください」

「何、君のことだ12ドルで出来る限り見栄えをよいものにしてやるよ」

蓮杖が約束をしてくれて出発の三日前には取りにくることにして通りを戻って一丁目のバッカスに顔を出した。

吟香がまだ幼いをまつを抱いた勝子とともに東京から出てきていた。

ヘボンの昨年の上海での印刷には同行しないで日本に残ったのだ。

ヘボン塾は若いキダーにゆだねられていた。

「吟香さんお久しぶりです。新年おめでとうございます」

「御慶」そう簡単に吟香は言うと「おかつさんにさっき会ったが実家に十日ほど出かけていたそうだな」

「はい戸塚に二親と妹が二人居ります」

「ではコロラドで山城屋がアメリカへ渡ったことを聞いていないようだな」

「エッ、本当ですか。昨年からうわさがありパリへ行くかもとは聞いていましたが、アメリカですか」

「そうか、正太郎と同じコースでパリへ行くのかもしれないな。向こうで顔を会わせる事になりそうだな」

「そうなるかもしれませんね。私は向こうで16ヶ月の間自分で何が出来るか勉強するのですが山城屋は資金の回収で忙しいでしょうね」

「正太郎、話はそう伝わっているが資金の回収など無理なことさ。相場に手を出して出した損を穴埋めしろといわれても向こうの商人、銀行家が承知するはずがないさ。そういう契約での相場の取引だぜ」

「そうですよね。それを承知でどうするのでしょうね」

二人が山城屋のことを話題にしているとケンゾーと山城屋の大川が入ってきた。

「オッ、面白い取り合わせのお客様だ」と吟香はつぶやいて奥へ入った。

正太郎は二人と新年の挨拶をして席に着いた。

ケンゾーがコーヒーを正太郎の分もと三つ頼んでくれた。

「正太郎君はフランス留学だそうだね」

「はいそうです番頭さん」

「正太郎、大川さんはいま横浜山城屋の社長さんだよ」

「エッ、それは知りませんで失礼いたしました」

「いやいいんだよ。実はケンゾーさんに資金のやりくりの相談なのだよ、君も聞いてくれないか。旦那様がコロラドに乗るときに店の金や何やらで三十万ドルの手形を持っていってしまい東京も横浜も今月の末の支払いの資金が危ないので今あせっているのだよ。ケンゾーさんさっきも言ったように5000ドル融通がつかないだろうか」

「そのくらいは用意できるのですが今までのいきさつもあって山城屋さんにはその分の抵当か資金の入る見込みがないと融通するところが見つかりにくいのではないでしょうか」

「そうなのだよ。石川屋も糸屋もともに首を縦に振ってくれないのだ」

「山城屋ではなく大川さん個人になら私一存で融資しますが年20パーセントの利を支払えますか。資金は英一が出します」

「本当ですか。では支払いはお金が借り出せた日から90日後としてください、利息の計算はどういたしましょう」

「365分の90で252ドル端数はおまけでいいでしょう。しかし大川さんそんなに高い利息を払ってまで店を助ける義理がありますか」

「いや店というより働く人達の生活を守らなければなりません。私の私財を投げ出してもそれは守らなければならないのです」

「判りましたでは金のほうは何時なりとも用意できる手配をしておきます。しかし月末に支払い用意が出来たときは遠慮なくキャンセルして結構です」

ケンゾーが山城屋はともかく大川個人を信用して資金を提供するようだ。

大川が帰ると正太郎はケンゾーとともに家に戻った。

留学の準備がほぼ整っていて後は挨拶回りに来週から回るところの書き出しを手伝ってもらった。

「先生それにしても山城屋は何を始める気でしょう。30万ドルなんて大金が今の山城屋にあったというのも驚きですが」

「もしかするとカジノで一か八かの勝負にでも出るのかな」

「まさか其処までおかしなことはしないでしょうが、向こうで現金で何か仕入れてくるというのが普通の考えではないでしょうか」

「正太郎は善人だからその様によい方向で物事を考えるんだろうな。俺のようなすれっからしになると山城屋がやけっぱちになったように見えてしまうのだよ。正太郎がパリで山城屋の情報を集めることになりそうだな、旦那からそのことも鮫島様に手紙で知らせてもらおう」

ジェラールに贈られた一昨年発行のパリの地図を眺めながら話は向こうで通う学校とCompagnin des Messageries MaritimesMonsieurカルノーから紹介された十八区にあるアパルトマンのことなどに及んだ。

「新しく作られた街だと言うから情緒には欠けるだろうし、家は安普請かもしれないな」

「それなら横浜と同じようのものですね」

「はははそうりゃそうだ、まるで横浜と同じかもしれんな」

ケンゾーは異国での日本と違う習慣に気を配って生活するように注意をいろいろとした。

阿部の部下として新しく神奈川県邏卒権総長に為ったのは平部朝致という人でポリスは羅卒という呼びかたをされることになった。

取締(ポリス)が邏卒(大・中・小の階級)とされて邏卒総長および検官に区長が置かれ、邏卒は横浜の市街・居留地を巡邏して歩いた。

陸奥はこの月外務大丞を兼ねることに為り副島を助けることになった、副島とそりが会わない陸奥はその連絡役に大江を指名して東京との連絡役を任せて自分が出向くのは極力抑えるようにした。

陸奥は租税の研究で田租改革建議をもって国税の徴収を建白してその研究をしていたので大隈と会いに出かけることも有ったが外務省にはあまり近寄らないのだった。

神奈川砲台の任務についていた金澤藩兵は太田陣屋を引き払い砲台警備の任務から解き放たれその後には東京鎮台第三砲隊が駐屯することになった。

その任務に就くときに西郷従道が指揮をして金澤藩兵との引継ぎ式を行った。

正太郎がパリに留学と寅吉から聞いた従道は紹介状を一通書いてくれた。

「東郷平八郎という薩摩の暴れ者のうちでもあにさがお気に入りの一人だ。今ポーツマスの商船学校へ入るためにイギリスのイロハから勉強している。会えるかどうかは判らんがフランスへ渡る前に一度尋ねてごらん。そのとき会えなくとも機会は有るだろうから此れを持って行きなさい」

「ありがとうございます。必ず東郷さんのところへ訪ねてみます」

「そうしなさい。ダートマスの海軍兵学校への入学は英国政府が許可しなかったがへこたれずにがんばっているようだ。そろそろ日本を出て一年に為るから訪ねてくれれば彼も喜ぶだろう」

東郷は昨年春3月に日本を出てイギリスへ向かったので今は1月ほぼ一年がたつのだ。

彼が入ることになる商船学校はウースターと呼ばれ船自体が学校で正式名称は

The Incorporated Thames Nautical Training CollegeH.M.S. Worcester

というのだ。

アメリカ号が上海から戻り正太郎は荷物を船に積み込んでもらい船室にも入って住みごごちを確認した。

「正坊、おい正太郎じゃねえか」

声をかけてきたのはシルクハットをかぶった紳士、よく見れば萬蔵であった。

「萬蔵さんでは有りませんか、アメリカへ渡ったのではありませんでしたか」

「おおそうだよ、少し仕事を頼まれてスエズから香港へ回って一仕事、其処から上海でまた一仕事してこのままサンフランシスコまで戻るのだ。お前さんはどうした誰かの見送りか」

「いえ私がアメリカ経由でフランスへ渡ります」

「じゃ俺と同じ船か、俺は一等を一人で独占したがお前は」

「私も一等船室が取れましたがボーイ付で二人部屋です」

「そりゃ豪儀な話だ、ボーイがつくとは偉くなったなぁ。ところでこの船はコックの見習いに日本人が乗っているぜ」

「本当ですか、では味付けが少しは日本人向きですかね。それから偉くなったのではなくて同じ留学生を三等船室ではかわいそうだとボーイという名目で同室にしました」

「そうか、コックのやつこの前の航海で岩倉様や伊藤様木戸様にたいそうほめられたと自慢していたぜ。ところでいいところに正太郎がいてよかった、卵を安く買えるだろうか。新鮮なやつが買えると助かる」

「コックさんならジェラールさんのところで買うのではありませんか」

「いや船のまかないとは別に俺が買うのさ。なんと言っても日本人だたまには卵に醤油をたらしてかき回したやつを熱い飯にぶっ掛けたやつを食いたいからな」

「それでしたら境町までご一緒しましょう」

「お前のところか」

「そうです私の分の卵だと今日届けてくれる予定のがまだ来ていませんでしたから明日乗せる心算でした。藤太郎さんが産みたてを届けてくれることに為っています」

「それではお前のが減るだろう」

「なに心配後無用です。早速参りましょう」

はしけに乗って象の鼻で降りて乗船証明を見せて関門をくぐった。

境町の家に着くと其処へ馬車がついていた。

「藤太郎さんの馬車がついています、卵をたくさん積んでいるはずですいくらでも卸値で分けてもらえますよ」

「そいつはありがたい」

台所口へ入ると藤太郎が襷がけの女の人と共にお茶を呼ばれていた。

「正太郎もう荷物を積み込んだのか、待っていればいいのに」

「先に重いものを運んでもらいました。もう一度松太郎君が自分の荷物を持ってきますので午後にまた荷物運びです。それからこの方は萬蔵さんといって同じ船でアメリカへ渡る方ですが卵を譲ってくださいませんか」

「いいとも、記念に何個でも持っていってください。正太郎がいないからおかつさんへ二百個ほど預けたところだ」

おかつさんが笑いながら卵を二百も持たせたって食べきらないうちに腐っちまうよと笑いながら藁ずとに入れた卵を指し示した。

「何事も少ないよりましさ」

萬蔵はアメリカでは一個10セントも取るが横浜では1セントで買えるから腐らずに持っていければ大もうけが出来るというコックの話からアメリカの物価は物が高い横浜に比べても5倍から10倍だという話におかつは目を丸くして聞いていた。

藤太郎は慶応の昔の卵の値段は小売では一個四十文もしたが物の値段が上がったのに同じで買えます、それというのも虎屋さんが私たちに本格的に卵の生産を出来るようにしてくれたからですと話していくつお持ちになりますかと聞いた。

「そうだな、百個ほしかったがくれるというのに数が多くてすまないから買わせてくれ」

「遠慮しないでください。正太郎がほしいといえば五百でも持たせる心算で今朝の産みたてを集めて大急ぎで藁ずとに村中総出で包んできました。普通は前日の分を朝虎屋さんへ卸すのでジェラールさんが船に売るより新鮮です」

「オイオイ正太郎は人気者だなまるで船でゆで卵でも販売しながら海を渡れといっているようだ」

「そいつはいいですね。正太郎いっそその気で全部持っていけよ」

「だめですよそんな事をしたらコックさんに怒られてしまいます。船室で火を使うなどもってのほかですし料理部屋でゆで卵を作れなどいえませんよ」

「いや売るのは無理があるが自分用のをゆでてくれというくらいの我が侭は聞いてくれるぜ、俺もお前もなんと言っても一等船室だからな」

結局正太郎が相室のものの分も含めて二百個、萬蔵がコックのリベートも含めて二百個を受け取らされた。

藤太郎は馬車に自分の嫁さんを先に乗せて「これから弁天町に行くが用事はあるか」と聞いた。

「春太郎さんに今晩の送別会に一人追加させてくださいと頼んで置いて下さい」

「珠街閣に五字半だったな。俺も一度家に戻って出直してくるよ。こいつにも晴れ着で来させたいからな」

馬車を見送って萬蔵に友人が来たらもう一度荷物を運びますので少し待ってくださいというところへ松太郎が両親と共にやってきた。

松太郎はアメリカの鉄道会社Central Pacific Railroadで働きながら勉強させると県令の陸奥や寅吉が船賃と当座の生活資金を提供したので、急遽留学生としてサクラメントの鉄道員養成学校へ入学が決まった。

ここは日本人だけでなく各国からの留学も受け入れると黒田を通じて陸奥へ横浜で希望者がいるだろうかと連絡があったものだ。 

陸奥の肩書きは県知事から昨年11月14日付で県令と名前が変わっていた。

「名前など同でもいいが各国の公使や領事に伝えるのが面倒だ。おかしな改変にはうんざりだ」

陸奥はそんなことも不満のひとつに数えるほどいつも不機嫌だと評判だが、実際は面白い話や遊びが大好きな男だが、最近夫人の体の具合が悪く医者も養生が大事という診断しかしないのも不満のひとつなのだ。

陸奥は約束どおり大江を県の参事に引き上げたし星亨を通訳官として雇い入れた。

松太郎とその両親を伴って萬蔵に正太郎は象の鼻の根元にある税関へ向かった。

税関には珍しく上野が表に出てきていた。

顔見知りの正太郎が挨拶すると「アメリカ号か久しぶりだ船長に挨拶に行くか」そういってはしけに同船してアメリカ号へ向かった。

上野が許可を出して同行者として松太郎の両親も船へ連れて行かれその船室の豪華さに目を疑った。

「すごいものですな。松太郎のやつは幸せものだ。こんないい部屋で好きな機関車の勉強にアメリカへいけるなど、この果報者め」

自分の子供の幸せを願いいながら頭をはたかなければ気がすまない父親はやはり寂しいようだ。

 

明治5年1月29日1872年3月8日 Friday

吉田先生今この手紙は太平洋の真ん中、ハワイ島沖で書いております。
まもなく日付変更線にかかるという話です。

明日早朝に横浜に向かうGP号と行き会う予定だそうです、船の乗組員の話だと予定より早すぎたので船足を遅くして進むと言うことで横浜から乗った人達は手紙を書くのに大童です。

同室の松太郎君も私も幸いに船酔いもなく元気ですし彼の勉強もはかどっています、私や萬蔵さんというよい話し相手に恵まれ勉強のために出来る限りイギリスの言葉で話すことにしています。

私のフランス語はドイツ人のCichewieczさん、ツィヒェヴィーツさんと聞こえるのです、ご本人もそれでよいというのでそうかなと思うのですが、この方がパリに三年ほど住んだことがあるというのでフランス語でやり取りさせていただいております。

松太郎君はわずか十日足らずでいや本人は横浜にいたときにも勉強をしていたせいもあり簡単な単語はかけるようになっています。

萬蔵さん直伝の横浜英語ならぬ簡単英語発音も船員には十分通じるので驚きです。

藤太郎さんに卵はすごく喜ばれているとお伝えください、同船のイギリス人のコルトン男爵など目玉焼きが毎朝食えるとは思わなかったと私たちの卵まで食べつくしかねないほどお気に入りです。

すべての方のお名前を挙げて感謝の気持ちを書き連ねたいのは山々ですが此処では先生と旦那様を代表とさせていただいて感謝の気持ちを伝えさせていただきます、私を支えてくださるすべての方に感謝いたします。

さて松太郎君はどういう手紙を書いているだろうかと思っておりましたが見事に候文で両親に船のことを書いておりました。

アメリカ号船内にて  前田正太郎


日本 明治5年2月13日1872年3月21日 Thursday

サンフランシスコ 1872年3月20日 Wednesday

ミチ様、横浜はまだまだ寒いでしょうか、私たちが横浜を出航してから21日目グレゴリオ暦の3月19日の夕刻サンフランスシスコに到着しました、途中日付変更線を通ったので横浜とは日付が一日前にずれました。

税関から一晩だけ泊まるホテルに手荷物を持って向かいました、夜中まで騒ぐ人が多い町内で横浜の居留地に似ています。

翌日町へ出て其の発達した街に驚きました、萬蔵さんの案内で泊まったホテルは木造二階建てながら庭が広く静かな宿です。

今日になって船から荷物が降りて萬蔵さんの知り合いのホテルへ向かいました。賑やかなホテルだと思っていたのが私の思い込みによるもので街中にこんなよい宿が有るというのが不思議なくらい安心して泊まれるホテルです。

横浜を出た次の日はカレンダーによると今年はうるう年ということで2月29日がありましたのでカレンダーを持たない人は計算が合わないとこぼしていました。明日にはサクラメントに出て萬蔵さんの知り合いの家を訪ねます、松太郎君の落ち着き先が決まるまで其処で勉強のお手伝いをしながらニューヨークまでの旅の仕度をします。

サンフランシスコは物価が高く荷馬車の幌で作られた作業服を買おうとしたら上下で三ドルといわれました、萬蔵さんのお勧めで便利だからと自分用に二着と松太郎君に二着プレゼントしました、今からこんなにお金が出ていて大丈夫かと心を引き締める必要があります。

アイスクリームが一ドルもします、横浜で水兵さんたちが行列をするのが良く判りました、こちらは萬蔵さんが奢ってくれました。

萬蔵さんは昔の仕事には手を出さず会社の資金提供をして其処から入る利益で生活しているそうです。

船でカードのいかさまに気をつけるように様々な手口を教えてくれましたが、其のお世話にならないようにしないといけません。

同封の写真はサンフランシスコの様子です、ミスノエルとミスベアトリスが喜んで下さると嬉しいのですが。

ミチや清次郎に話したゴールドラッシュの担い手フォーティナイナーズの金堀りたちは町から殆どいなくなったそうです。

先ほどの作業服ですが其の金堀りたちにLevi Straussという人が売って大もうけをしたそうです当地の人達はリーバイスと呼んで愛用しています。

幌付馬車や帆船でサンフランシスコ付近へ集まった人達から要らなくなった幌や帆を安く買い入れてそれをデニムジーンズという物に仕立てて売ったそうです、此れはツィヒェヴィーツさんの受け売りですが本場はイタリアのジェノバだということも教えていただきました。 

ではCPRRの予約が取れ次第に大陸横断鉄道に乗ってNew Yorkを目指す旅に出発です。

San Francisco 郊外のホテルAMERICANAにて 前田正太郎




明治5年3月2日1872年4月9日 Tuesday

New York 1872年4月8日 Monday

旦那様、正太郎は本日ニューヨークへ降り立ちました。

こちらの時間で3月26日の夜サクラメントを有名なAntelopeに引かれた九両編制の列車は出発しました。

同じ列車にはドイツ人のツィヒェヴィーツさんが乗り込んでいます。

ものすごく物知りで教えることが上手な方でこの鉄道の建設当時の話など面白おかしく話されるのですが過酷な労働を強いられた清国の人達に対する同情は見られませんでしたが、日本人である私には親切に接してくださいます。

横浜で見る機関車に比べ大きく力強い様子ですが、CPRRはいまだに木材を燃料にする機関車が主力です。

松太郎君には萬蔵さんが紹介してくださった家でお別れしましたが、プリュインさんが決めてくださった代理人の方がお出でになり現地の小学校に通い、日常会話に困らない程度になったらすぐに機関車乗務員養成学校に入学して、CPRRで働きながら勉強できるようになると約束をしてくださいました。

列車のボーイは中国人が私たちの係りでとても親切です。

アンテロープの替わりにゴールデンスパイクの儀式に望んだJupiterはサクラメントを出発する一字間前に駅に戻ってきました。

シェラネバダ山脈という狭隘な谷間を抜けると見渡す限りの平原が続きました。

ユタのプロモントリー峠Promontry SummitUPRRに乗り換えて此処からは煙突が細い円柱の126号機関車に曳かれてオハマを目指しました。 

途中洪水で二日間延着しましたが無事オハマに到着してホテルに宿泊いたしましたところ此処には伊藤様や林様がお泊りになったとボーイが自慢しておりました。

前便でもお伝えしましたが私の手紙より早く伊藤様、大久保様が横浜へついたことと思われます。

旦那様がお話していた通りパークス公使を抜きにして外遊日程を決めたしこりが此処に出てしまったようです。

全権信任状でしょうか外交官の国を代表する権限を証明する文書を持参していないということはデ・ヨング公使の手抜きだったというほかありません。

ツィヒェヴィーツさんもそれを聞いて日本人の教師として自負していてもアメリカ人など所詮そんなものさと辛辣です。

鉄道はサクラメントからオハマまで1776マイルありほぼ東京と上海に匹敵する距離だそうですが此処でほぼ半分の旅程が終わったに過ぎません、アメリカが広大だと痛感いたしました。

オハマからシカゴそしてエリー湖を北上してクリープランドからNYCのバッファロー駅で急行に乗り込みNew York Grand Central Terminalについた時には同じ旅程を組んだ人の多くと友人となりました。

服装もサンフランシスコで買ったものはとても着心地がよく座席に座っていても体に負担が少なくて重宝しています。

駅近くの同じホテルに宿泊が決まったミスコールマーがこの街を明日案内してくださるそうで彼女はこの街で生まれ、ソルトレークシティに両親と移り住んだそうですが大学はボストンを選んだそうで今は三年生だそうです。

江戸っ子の話をして三代住めば立派な江戸っ子というと私で五代目のNew Yorkerと自慢されてしまいました。

彼女が明日はTiffanyで買い物だと張り切っております、先ほどホテルまで行く前にマンハッタン島を半周した馬車から見て興奮した様子で話す様子では茂木屋か越後屋に匹敵するお店で、江戸の虎屋本店を大きくしたお店のように感じられました。

正太郎は地図を見ていたのでミスコールマーがCityhallpark付近でWonderful Tiffanyと叫ぶように言ったときには通り過ぎていたので見ることは出来ませんでした。

ミスコールマーが推薦してくれたホテルは石造りのきれいな三階建てでセントラルパークの東側にあります、ここには三日間の予約をしましたがなんと十八ドルの前払いを要求されました。

パリのアパルトマンの朝の食事込みの値段一ヶ月分に相当しました。

この値段で朝食しか出されずほかの食事は別料金だそうです。

船に乗る予約が決まり次第安いホテルを探そうと思いましたがイタリア人などが多く言葉が通じないことがおおく危険だから此処に泊まるよう勧めるのですが此れから先々の出費を考えると懐を心配せずには居られません。

ミスコールマーの話が多く出ますがどこかお琴様に似て知的な方です、列車内でも紳士が大勢誘いをかけてきますが毅然としてホテルも日程も決まっておりますのでそれにしたがって行動しておりますと、お付き合いは出来ないことをやんわりと話される様子は淑女とはこういう人なのだなと感じられました。

船出の前に各鉄道会社別のLocomotiveの写真を集めて送ります。

紐育 マウントヴァーノンホテルにて 前田正太郎


明治5年3月12日1872年4月19日 Friday

New York 1872年4月18日 Thursday

先生いよいよ五日後にはPortsmouthへ向けて船出と決まりました。

New YorkNYCでついたと前回の手紙で旦那様へ連絡いたしましたが正式な鉄道の名前は合併によってNew York Central and Hudson River Railroadと為っていたそうです。

Hudson川にかかる鉄橋は大きく橋脚の土台も石造りのしっかりした物です。

此処New York近辺では各鉄道の経営がばらばらで大きなSteam Locomotiveで旅客や荷物を運ぶものから日本で買い入れたSteam Locomotiveに似た小さな鉄道会社まで様々です。

ただ機関車の形式は軸の形が0−4−0や2−4−0は古いタイプとして生産は行われていないようでした。

現在は4−4−0以上の大型のものが主力機関車です、でも相変わらず木材を燃料とする機関車が多く存在するのにはSteamの力に限界があると感じました。

ミスコールマーに案内されてマンハッタン島にある有名なお店には残らず巡り歩いた気がいたします。

横浜で旦那様と先生が誂えてくださったa dinner party用の服はミスコールマーが見てもNew Yorkであつらえるより良い生地が使われているとほめられました。

旦那様が良くご存知のMr.BobMr.DickそれとMr.Pruynのご家族総出で会いに来てくださいました。

此処New Yorkの新聞は毎日のように岩倉様たちの動静を絵入りで報じています。

其のせいか私が町へ出るとIwakuraと一緒に来たのか、彼はどういう人物だと盛んに質問攻めに会います。

其のたびにMr.Pruynがこの少年は彼らとは別にフランスへ留学すると誇らしげに説明をしてくださいます。

三人のご家族総勢十二名と私正太郎にMissColemanの十四名でHudsonRiverを蒸気船でさかのぼる舟遊びに出かけロックランドレイクでの楽しいピクニックを味わいました。

先生コールマーと聞こえるし、そう発声してもそれで良いというのですがサインしていただくとコールマンとしか読めないのです、アメリカの人の名前は耳で聞くのと、書いていただくのではだいぶ違うので戸惑います、移民の方が次々にお出でになり各国の言葉が入り交ざった結果だとMrs.Pruynが話してくださいました。

ミスコールマーもキャスといいなさい親しみが湧くわと私のこともショウと呼んでくださるようになりました。

Miss Catherine Colemanが正式な名で学校の友人はCCと呼ぶそうです。

Bobさんからも名刺を頂きRobert Cartwrightがお名前だと知りましたしディックさんはRichard RussellさんでDickとは結びつかないお名前で驚きました。

ご本人はリチャードの愛称がディックと言うんだぜそれからロバートがボブさ、とこともなげに言うのですが、このほかにも横浜で使っていたイギリスの言葉がこんなに通用しないのかと驚きを新たにしました、San Franciscoでは萬蔵さんの使う簡単な発声のほうが通じていたので試すと其のほうが判りやすいと皆様にいわれました。

奥様方が私のトランクの中身のチェックをしてくださり足りないものなどを買い揃えてくださいました、そして皆さんがフランスで普通に生活するのに必要な普段の服として色鮮やかな若者好みのものをCathと共に誂えて下さいました。

其の服を着て一同で写した記念写真を送ります、私の後ろで肩に手を置いているのがCathです、日本へ送る分は五枚焼き増しをしていただいたのでしかるべくお分けください。

そのほかの方のお名前は写真と同じ袋に入れて旦那様の鉄道の本と写真の間に入れてありますので其方で引き写していただくと幸いです。

CathMr.Pruynの一行と意気投合してNew York滞在を伸ばして昨日一同とボストンへ旅立ちました。

今日からは一人で街をうろついて見ます、ホテルへ告げると長い滞在で親しみが涌いて下さったかホテルのオーナーが案内人を付けるから一人歩きは止せと相撲取りのように大きな女性を付けてくれました。

お昼を奢るというとにっこりと笑ってパスタというイタリアの麺を大きなお皿で山盛り食べたのには肝をつぶしましたが二人で一ドルしかかりませんでした、卵とミルクがパスタに絡まりカリカリにいためたベーコンと匂いのきつい粉のチーズがたっぷりと乗っていましたが美味しい物で注文するときに頼む名前と少なく頼むときはどうするかを教えてもらいました。

私は半分食べたところでもう入らないというとそれも貰っていいかと食べつくすのにはさらに驚きでした。

イタリア人は皆こんなに大食いなのかと思い込んでしまいそうになります。

Carbonaraと書いてどうやらカルボナウラもしくはパスタパンチェッタペコリーノと頼むそうですがフランスで通じるかは知らないといわれました。

先生昼食に二人で一ドルなんて請求が安いと感じてしまう正太郎は完全にアメリカに毒されています、早く船に乗ってお金を使わない生活をしないと金銭感覚が可笑しくなるNew Yorkです。

卵ですがSan Franciscoよりは安いのですがそれでも小さいもので五セントでした、これからすれば卵が入ったパスタが一皿五十セントなのも仕方ないのかもしれません。

紐育 マウントヴァーノンホテルにて 前田正太郎


明治5年3月16日1872年4月23日 Tuesday

New York 1872年4月22日 Monday

先生、今日船に荷物を運び終わりました、税関では入国する様々の人の持ち物検査が厳重に行われていますが、出国する荷物は簡単にパスをくれます。

私を案内してくれたMrs. BiasiniBeatrice Biasini ベアトリチェバシーニといいます、ホテルは今日までの案内料として今日の午後の分を含めて十ドルを請求して来ました、先に契約が大事だという先生の教えを改めて思い出す結果となりましたが、自分で決めておいたNew Yorkでの出費が半分で済んでいて余裕があり領収書を出してもらうことでそのまま支払うことにしました。

Cathたちの親切が続くままに好意的と考えていた私の迂闊さもこの程度の出費で教訓と出来たことが幸いでした。

では手紙を出して街の最後の探索と夕食をMrs.バシーニと其の妹に奢る約束なのでこれから出かけます。

紐育 マウントヴァーノンホテルにて 前田正太郎

 


明治5年3月16日1872年4月23日 Tuesday

New York 1872年4月22日 Monday

ミチ様、紐育にこちらの日にちで4月8日について早くも15日が経ちました。

大きなCentralpark、港崎の後に出来る公園の五倍もある大きなものですが其の周りを横浜で知り合ったBobさんやDickさんの家族と馬車で回ったりHudsonRiverを蒸気船でさかのぼりピクニックをしました。

Cherryblossomが咲く大きな池の周りで大人数でお弁当を広げて歌ってダンスをして楽しみました。

これから最後の街の探検に出かけます。

案内はホテルで紹介してくれたMrs. BiasiniというMr. Pelaezを女性にしたようなうっすらとひげが見える大きな人です。

この奥様は食べるのが大好きで安くておいしいお店を沢山知っていますのでイタリア料理、立ち食いのお店などを案内してくれます。

こちらでミチやミスノエル、ミスベアトリスに似合うボンネットが有りましたので先生への荷物と一緒に送りましたのでお受け取りください。

紐育 マウントヴァーノンホテルにて 前田正太郎


明治5年4月1日1872年5月7日 Tuesday

Portsmouth1872年5月6日 Monday

ミチ様普通の人達がリバプールからロンドンへ向かうのに私はアメリカでの予約の関係でPortsmouthへ上陸いたしました。

途中カナリー諸島へより其の後葡萄牙のリスボンの町へ此処では二日間の観光が含まれていました。

Lisbonは現地の葡萄牙ではLisboaと書き、リジュボアと発声するそうです。

此処には古代のローマ帝国が築いた城の跡に建てられた城砦があります。

四角形の古いお城ですが30年ほど前に大修理が行われ大きな城門が其の際に作られたと案内人が説明をしてくれました。

根岸への掘割の谷間の上に大きな石造りのお城があると想像してください。大きさは居留地全体と同じ広さがありそうでした。

此処Portsmouthには海軍の軍人の養成のための学校Royal Naval Collegeが10年前まであり今でも其の気風が残っていて西郷様が紹介してくださった東郷様がいま商船学校への入学準備をされています。

明日には紹介された下宿先へお尋ねする予定です。

Portsmouth BritannicaHotel 前田正太郎


明治5年4月2日1872年5月8日 Wednesday

Portsmouth1872年5月7日 Tuesday

先生昨日Portsmouthで下船してホテルを決めて其の日は休んであくる七日の日に東郷様の下宿先へお尋ねいたしました。

西郷様からの手紙は読んだとおっしゃって久しぶりのお客だ飯を食おうと安食堂さながらの裏通りの船員相手の食堂へ入りました。

そこで名前も知らない不思議な料理と黒ビールにスコッチを飲みながら数時間を過ごしました。

私が支払いをすると誘ったのに悪いなぁと薩摩言葉丸出して仰ってからこのほうが通じんなとイギリスの言葉で会話を続けました。

日本人同士なのにおかしな話だと豪快に笑い船のこと最初にLowschoolに入れられて往生したことなど面白おかしく話してくださいました。

写真屋を見つけ二人で取った写真を次回の手紙に同封いたします。

此処とロンドンをしばらく往復した後パ・ド・カレーに渡る事に致しました。

Mr.Pruynへの説明不足でフランスへ渡るのに此処が便利と決めてくださいましたがやはり当初の予定のDoverからCalaisそしてParisを通り抜けてReimsへの旅をしようと思います。

Portsmouth Hotel Britannica 前田正太郎

 


明治5年4月12日1872年5月18日 Saturday

Calais1872年5月17日 Friday

先生今朝のDover海峡はそれほど時間もかからずに渡りCalaisの港に降り立ちました。

此処からParisまでの旅とさらに80mile先のランスまで鉄道が開通していて馬車の世話にならずに済むそうです。

先生が紹介してくださったMr.Holderがロンドンで待ち受けていてランスまでの旅の手配とCalaisでのHotelParisでのHotelさらにReimsでのHotelまですべての契約と手配を行ってくださいました。

さすがは英吉利人で細かいことも確りと契約してくださいましたので以後はそれに従って行動いたします。

Calais Hotel Alpine 前田正太郎

 


明治5年4月13日1872年5月19日 Sunday

Paris1872年5月18日 Saturday

先生、朝Calaisを出た列車は途中でSteam Locomotiveを付け直してParisへ夕刻に到着いたしました。

此処はParisへの北への入り口の駅でGare du Nordガールデュノールといいます。

此処は10区で十六ヶ月の間お世話になるアパルトマンのある十八区に近い地区です。

駅前のHotel Montmartreはきれいな石組みの門がついた五階建ての建物です。

此処からReims方面までの駅はGare de l'Estですぐ隣の駅ですが東とは言ってもこの駅はパリの北側にあります。

Paris  Hotel Montmartre 前田正太郎


明治5年4月14日1872年5月20日 Monday

Paris1872年5月19日 Sunday

先生、Paris市内を観光で乗る馬車の御者が駅名の由来を語ってくださいました。

Gare du Montparnasseは昔のナポレオン皇帝がオーストリア・ロシア連合軍をAusterlitzで打ち破ったことを称えて付けられたそうですがこの駅は其の戦いから四十年ほど後になって建てられたそうです。

鮫島様のことは知らないようですが日本人で大変な金持ちが来ていて毎晩のように豪遊していると話してくださいました。

どなたか元のお大名家かお公家様の家での留学生かもしれません。

自分は貧乏な留学生でそういう人にあやかりたいと言うとどこに行けば盛んに遊んでいるか教えてくれました。

横浜で言えば新吉原の遊郭を一人で借り切って何人もの女性に囲まれて大騒ぎを毎日のようにしたとうわさになっているそうです。

まるで昔の奈良茂か紀文のお大尽遊びが伺われる話です。

フランスに入り物価が安く助かる日が続いていますといっても紐育、倫敦に比べてですが、先ほどの御者の話では労働者で日に四フランか五フラン、お針子など十字間働いてベテランの人でもようやく二フラン貰えるかどうかだと言う話です。

日本のお金にして新しい円で言うと三十六銭、ドルですと三十六セントです。

此れでは紐育でパスタの大皿が頼めません、横浜のお茶場の女性が十字間で一朱もらっているのですが物価は横浜の三倍以上のフランスで楽な生活ができるとは思えません。

その馬車の観光ですが私を含めて六人での二字間のパリ観光で一人五十サンチームでした。

セーヌは濁っていましたが流れに浮かぶ船での観光を楽しむ人が大勢居りました。

凱旋門は大きく見事な建物です、そのほかの名所などは写真を集めて其のときにお知らせいたします。

途中で食べたアイスクリームは固くて木のさじが折れるのではないかと言う位なのにそれほど冷たくありませんでした。

小旅行に必要なトランク以外は荷物をHotelでお帰りまで預かるというので一日20サンチームで預かってもらうことにしました。

Paris  Hotel Montmartre 前田正太郎



明治5年4月15日1872年5月21日 Tuesday

Reims1872年5月20日 Monday

先生、此処ランスは古くから発展してきた町だそうです。

朝八字にGare de l'Estガール・ドゥ・レストをでる予定のSteam Locomotiveは七分遅れて駅を出ました。

三字間の旅は殆どが畑の中、果樹園の中を走っていました。 

大きな駅はParisとランスの間では見かけませんでした。

Hotelでマドモアゼルノエルとマドモアゼルベアトリスの書いてくれた住所を見せるとマドモアゼルベアトリスの実家は馬車で30分くらいというのでお土産だけを持って出かけました。

Mademoiselle Beatrice Degletagne家の敷地は広大でブドウ畑が続く丘の上にありました。

日本から来ましたと言うとMaison de bonheurのこととすぐにお分かりになってご両親に歓迎されました。

馬車の御者に迎えは何字にするかと聞かれるとMonsieur Degletagneがこちらで送るからかえっていいよとワインのビンを一本与えて返しました。

此処ではシャンペンとワインを数多くはないが生産していると教えてくださいました。

蒔絵の綺麗な箱に入れて持参した様々の写真に涙ぐむMadamにお二人から伝えられたことなどを告げると再会出来る日を心待ちにすると仰って下さいました。

そして明日は部屋を用意するから此処に泊まるように進められさらにマドモアゼルベアトリスの従兄弟に当たる方がお出でになり、今晩は俺がホテルまで送り明日マドモアゼルノエルの実家まで案内すると朝9字に迎えに来ることまで約束してくださいました。

そしてノエル様の家のLemoyne家まで明日日本からの客人が行くということも伝えてくださいました。

親族一同が大広間に集まり賑やかな歓迎パーティを行ってくださいました。

ミスベアトリスの二人のお姉様のLydiane様発声はラディアーヌかリディアーヌと聞こえます、そして一番上のSabine様もお子様連れで来て下さいました。

Sabineは横浜にも同じお名前の方が居られてサビーヌと発声が楽で一度で判って頂けました。

少ししか食べられず飲まない私に遠慮しているのかと思われたかマダムが盛んに勧めるので、日本人はあまり食べることが出来ないのですと伝えると、皆様が大笑いでこんなおかしなことを聞いたのは初めてだとさらに勧めるので大弱りでした。
歓迎会は三時間以上も続いたでしょうか今朝ホテルで合わせた時計は九字を指しています。
それでも西へ傾いた太陽はまだ完全に沈んでおりません。
仏蘭西へ入ってから日の長いことは驚くばかりです。

Reims Hotel Reims 前田正太郎

 


明治5年4月17日1872年5月23日 Thursday

Reims1872年5月22日 Wednesday

先生昨日は馬車で一字間ほどのLemoyne館にマドモアゼルノエルの父上をお訪ねいたしました。

大きな城館のようなお屋敷には大勢のご家族が集結してお出でで私と案内のJulien Degletagneさんを歓待してくださいました。

 Veuve ClicquotPommeryTaittingerなどの有名銘柄とは違いますがこの地区では大変貴重なワインとシャンペンを作られているそうです。

私のパリでの連絡先として十八区のアパルトマンを聞くと早速メモをしてここにシャンペンを送って下されると気前の良いところをお見せくださいました。

蓮杖さんのアルバムはDegletagne家と同じように喜ばれノエル様のお婆様は笑顔であれこれとお尋ねになられました。

夕食会が様々な花が咲く庭で行われ近隣の人までもが自分の自慢のワインを持ってお出でになっては私に試飲してくれと次々に飲まされ案内役のJulien Degletagneさんもここに泊めてもらうことになり家には連絡に人を出してもらう始末です。
部屋で今日は飲み疲れたと意味もなく可笑しくなり二人で鼻歌を歌い笑いながらシャンパンの話で盛り上がりました。

Reims Bouzy Lemoyne 前田正太郎


明治5年4月20日1872年5月26日 Sunday

Paris1872年5月25日 Saturday

ミチ様、お二人のマドモアゼルの実家のあるランスからパリへ戻りました。

三日間に渡りNotre Dameに様々な醸造所を見学して回りました、ベアトリス様の従兄弟の案内で彼の馬車でのReimsです。

Julien Degletagneはジュリアン、ショウとお互いに呼ぶほど気が会う付き合いとなり一族を代表してパリへ私と共に出てきました。

彼は五日の間私とパリの街を歩いて地元に有意義な何事かを持ち帰るように言われてきました。

本人は何単にFaites l'achat a Parisとリストを渡されてのお使いさと言っています。

温かい晴れの日が続いていたフランス北部に比べ南のパリは雨でした。

Mademoiselle Noelle Lemoyneの実家からいただいてきたシャンペンを見たホテルのボーイは驚いた様子でこう話をしてくれました。

こいつは貴重ですよ、此処の食堂のソムリエでもこいつはめったに手に入らない高価なChampagneだ、そういって幸運を喜んでくれました。

もっともジュリアンが傍にいてチップを弾んだせいがあるかもしれません。

アパルトマンの大家さんへのお土産が良いものと知って気をよく致しました。

ジュリアンは何度も来ているパリだそうですが阿蘭陀や白耳義まで何度か商売の旅に出ていてホテルに慣れている様子がボーイにわかるのでしょうか。

二人でHotelの食堂で夕食をとり宵の口からふらふらと一字間程でしょうか町を散歩して漸く自分の部屋のUn litに戻れました。

Paris  Hotel Montmartre 前田正太郎



明治5年4月24日1872年5月30日 Thursday

Paris1872年5月29日 Wednesday

先生25日にMontmartreappartementMadam Duchampを訪ねました。

Delphine Duchamp夫人は未亡人の四十台半ばに見えるふんわりとした赤毛の小さな方で声の綺麗な優しい雰囲気の方です。

お名前の発声はデルフユヌデシャンです。

Monsieur Carnotからの手紙を見せるでもなく東洋人と見るや抱きつくように歓迎の挨拶をしてくださり、手紙を読みながらもSylvainから前もって手紙も来ているし彼の提示した金額はこちらもそれで良いと早口で仰りました。

ただ朝食はつくがお昼は朝に予約して五十サンチーム、夕食も同じで一フランかかるということです、独身者といっても学生が多く時間が不規則なので朝食も六字半から七字半までに食堂に入ることに為っているそうです。

船では食卓の時間が決まっていたのでHotel並みに時間にゆとりがあるのはありがたいと感じました。

ジュリアンを紹介し彼の持参したシャンペンとLemoyne家からの贈り物のシャンペンをお渡しすると嬉しそうに小間使いに渡して地下室にしまうように命じました。

我が家の酒蔵はとても良いものがあるのよと聞いたジュリアン共々其の小間使いと共に地下室へ降りて酒蔵を見学してきました。

この付近は昔修道院があってワインの生産が盛んだったのという話や小間使いのMademoiselle Momoの父親はBordeauxの有名な酒蔵で働いていることなどを話してくれました。

Momoは日本語で桃という名で十分通じる発声です。

最初マドモアゼルを付けていましたが二度目からはもうMomoだけでいいのよと友達のように仲良くなれる予感がする子です。

部屋数は六室がUn locataireでこちらは男性が私を含めて三人、女性は二人空き部屋が一室ありこれらはすべて二階にあります。

トイレが男性専用と女性専用の二つがあるlocataireに親切なappartementです。

屋根裏部屋と三階部分がありMomoが屋根裏部屋、料理人夫婦が大きな部屋それと物置部屋がありました。

一階はエントランスの応接間に食堂それとMadam Duchampの居間と寝室がありますMadamDDは、あMadamDDとは此処の主をlocataireが敬愛を込めてそのように呼んでいるそうです、居間と寝室は私のUne piece secreteと片目をつぶって笑いました。

立ち入り禁止区域ということのようです。

私の部屋は八畳間ほどもあり隅にUn litが置いてあります。

書き物机と椅子それとClosetがある日当たりのよさそうな部屋でした。

扉がついたPlacardが有り其処に洋服や普段着をcrochetで吊るす様になっています。

横浜で作るhangarのように型が崩れないようなものはなく単なるhookに横棒が付いただけの物が引っ掛けてあるものです。

Hotelで私のhangarを見たジュリアンもこいつはいいものが有るなどというのでフランスではあまり使わないのでしょうか、型崩れを防ぐようにカーブがついた物は服を扱う店では使っているのを見ますが家庭にはないのかと不思議な感じが致しました。

ジュリアンが幾つか欲しいと言うので半分差し上げました。

明日にはHotelから荷物を持ってくるというと、ではお昼までにいらっしゃい昼食を一緒にしましょうと誘われました。

今日はラレーヌオルタンス26番地に有るという日本弁務使公館に鮫島様をジュリアンと共にお尋ねしてPortsmouthで東郷平八郎さんとお会いしたことを話すと、あのお喋り平八が良く辛抱していると懐かしそうに話されました。

お大尽の日本人の話をすると首を傾げておられましたが、今そんな様子の日本人はいないようだがと言う話をジュリアンに通訳しながら続けました。

まだ通訳を入れないとフランス語が堪能でない鮫島様でもジュリアンがゆっくりと話す片言は理解できるようです。

ジュリアンは日本人かもしれないがヤマシローという男がChampagneを買い付けたいとReimsを通訳付で歩き回っていたという話から例の山城屋に二人とも思い当たりました。

例の公金の話が西郷様からも手紙でそれとなく知らせがあったという話やドイツやイギリスへの留学生の中には山城屋からの援助を受けているものがいるらしいので鮫島様の身辺にスパイがいるかもしれないから足元に注意ということも知らせがあったそうです。

こちらでもドゥミモンドの方面に詳しいものがいるので聞いてみようと情報収集に協力を要請されました。

フランス人に手伝う人材がいないという話からJulien Degletagneも其の一員として協力を申し出てくれました。

明日30日のお昼をMadamDDの館でジュリアンと食べて彼はもう一晩ホテルに泊まってReimsに戻るといっています。

彼は私といった有名な遊び場所に行くのではないかと思います。

フォリーベルジェールFolies Bergereで歌に踊り、手妻などを見せるCabaretという酒場です。

Paris  Hotel Montmartre 前田正太郎



明治5年4月30日1872年6月5日 Wednesday 

Paris1872年6月4日 Tuesday

ミチ様MadamDDの館に住んで五日経ちました。

前にもお知らせしたようにフランスの物価は聞いていたよりも高く感じます。

しかしながら紐育に比べれば巴里は住みやすい町です。

La maison de la cave du vinと周りの人の言うこの家はワインセラーがこの家で最も重要な部屋でもありMadamDDの一番の収入源であることが判りました。

彼女の夫が行っていたWineの卸問屋の付き合いがあったホテルや酒場から特別なWineBrandyそしてChampagneを探す人たちが此処の地下倉を最後のよりどころとして探しに来るそうです。

MomoDDと管理するこの倉には確りした帳簿と在庫管理表があり一本たりともその帳簿からもれている壜はないそうです。

Un resident du batiment de la femmeには素敵な料理人がいて煮込み料理は素敵な味がします。

彼と其の夫人は二人そろって料理人というよりはLa cuisine du de du chef de l'hotel de qualiteだといっても可笑しくない腕前です。

ミチも何回か食べたことがあるボナの料理に匹敵いたします。

二人に横浜では此れほどおいしい料理は食べたこともないし巴里へ来るまで泊まった様々なホテル以上だと伝えると嬉しそうにMerci小さくささやきました。

昨晩やっとlocataire全員が夕食時に集まれるということになり私の招待での晩餐会が始まりました。

DDと相談した結果Madamが女主人役で私の歓迎パーティそして勘定は正太郎とスペインから来た画家がもちWineはシャンペンが二本この間のものとジュリアンが改めて届けてくれた三本、 Lemoyne家が送ってくれた六本のうちからDDが選んで給仕するということになりました。

Locataireの人達は陽気で料理が終わったあとも歌を歌う人やWineを際限なく飲みながら話し続ける人などDDが此れで散会しましょうと言ったときには三字間以上が経っていました。

Paris  La maison de la cave du vin 前田正太郎


明治5年4月30日1872年6月5日 Wednesday 

Paris1872年6月4日 Tuesday

先生思わぬところから山城屋のことがわかりました。

この家の住人のダンの彼女、この女性怪しげな女性の館の住人で山城屋が開くパーティの常連だそうで、そのパーティに私を清国人に変装させてボーイとして潜入させてくれることに成功しました。

今こちらではもうじき日付が変わる時刻ですがパーティで山城屋は大盤振る舞いしParisでも有名なダンサー兼遊女たちに取り囲まれていました。

仕事は酒の買い付けや革製品の高級品を仕入れてはいますが遊びに夢中で其の女性たちに一月に使う金は三万ドルを超えるといううわさもあります。

ジュリアンも今晩は給仕として潜入して集まる男たちの名前を控えて其の素性を調べることにしています。

明日には鮫島様にあって更なる情報を交換してこれから何を調べることにするかジュリアンも交えて話し合えることになっています。

Paris  La maison de la cave du vin 前田正太郎


 

明治5年5月10日1872年6月15日 Saturday 

Paris1872年6月14日 Friday

ミチ様此処十八区のモンマルトルはパリ・コミューン推進の中心的な場所だったそうで昨年三月の蜂起では多くの人達が丘伝いに二十区へ逃げそこで多くの人が犠牲になったそうです。

DDの館周辺の道には三階建てでさらに屋根裏部屋のある建物が並んでいます。

Rue Ravignanはラヴィニャン、Rue des Saulesはソールと坂道が多く丘の上のブドウ畑まで散歩道としては最適です。

館から出るとソール通りを右に曲がってすぐにある角がRue de L'Abreuvoirラブルヴォワールで、ブドウ畑の向かいのソール通りとRue SaintVincentサン・ヴァンサンと交わるところにCabaretdes Assassinsデザササンが有ります。

此処はわがDDの館の男たちの溜まり場で酒場と演芸場がついています。

Momoが男はすぐそんなところへ行きたがると私を誘うダンやニコラを軽蔑したようににらみます、もう一人のラモンは貧乏なので奢りで無いと付き合わないという話で一度だけショウが持つから行こうぜとダンが誘うとしぶしぶついてきましたが一番はしゃいで女の子に酒を奢るのには参りました。

結局この日は鮫島様に隠密費としていただいた百フランのうち五十八フランが飛んでいってしまいましたが、其の成果は着々と上がりつつあります。

ダンはDanielでアメリカからの留学、ニコラはNicolasLanceという田舎町の没落貴族という割には裕福で服には煩くCabaretの女性に一番もてますが特定の女性はいないようです。

ダンには彼女がいますが踊り子で彼氏の一人なのさと独占する気はなく時々彼女のappartementにしけ込むようです。

ラモンはRamonという25歳の背の高いやせた男で西班牙から来ていますが絵を描いてばかりであまり外出しません、女性の絵を書いているのを見せてくれましたが太った若い人の絵が多く此処にはModelに為る女性を呼び入れたことなどありません。

どこでモデルに為って貰うのか聞いてみると自分の頭をさしてここで想像するのだといいます。

絵が売れるようにならないとモデルが雇えないと酔うと泣くそうで誰も酒を奢りたがらないというのですがCabaretでの一夜は泣くこともなく陽気でした。


Paris
  La maison de la cave du vin 前田正太郎


明治5年5月10日1872年6月15日 Saturday 

Paris1872年6月14日 Friday

旦那様Parisで正太郎は吉田先生のWineの仕入れの一部分を手がけつつあります。

このことは電信で簡単にお知らせしたように添付の書類を見て儲けにつながりそうなものだけを試飲の上、先生を通じて横浜で販売をお願いいたします。

散歩をしながら山城屋の探索をかねてCabaretに出入りしているうちに様々な銘柄と日本への輸出を狙っている小さな商社の社員たちと知り合いに為りました。

ジュリアンの手助けもありフランス人の普段飲むワインより少しだけ高級なものといってもそれほどの金額が張らないもので、樽売りを希望する安いものよりビンに詰めたものを自分の持参した小切手の内一万五千フラン分を仕入れました。

旦那様も知っているように此れは私がポンドで預金してあったお金のうちの半分に相当します、仕入れは平均が五フラン程度の安ワインですが中には横浜で知った名前のものも混ざっています。

旦那様先生ほかの方々で試飲されて電信でお知らせくだればその銘柄を中心に次は仕入れる心算です。

山城屋が回っているそうですが一本三十フランもする高級なものばかりを狙っているそうでなかなか売り渡してくれるところが見つからないそうです。

樽で買い入れられる安ワインを勧める酒蔵が多いのには驚くばかりです。

Compagnin des Messageries Maritimesの紹介してくれた銀行とMadamDDの館の近くにある小さな町の銀行に幾つか分けて預けてある他に正太郎個人のお金は残りが三万フラン有りましたので半分に減りましたがそれは仕入れに使い先生宛に日本へ輸出することにします。
其の手配も
CMMがすべてを仕切ってくださることになりました。

Monsieur Carnotからの紹介もあって仕事は順調ですし、ジュリアンのおかげでBordeauxにも直接取引が出来るシャトーが見つかりそうです。

Saint-JulienサンジュリアンはGrands Cru Classes G.C.C du Medocメドックの一部でMomoの父親が働くChateauChateau Leoville Las Casesシャトーレオヴィルラスカーズは10年ほど前の格付けで二番目の位置になってしまいましたがMadamDDはフランスの誇りだという評価を与えています。

ジロンド県ボルドーのメドックでは次の格付けが決められています。

 第1番Premiers G.C.C.、第2番Deuxemes G.C.C.、第3番Troisiemes G.C.C.
 第4番Quatriemes G.C.C.、第5番Cinquiemes G.C.C.の五つです。

此処のワインが横浜へ輸出できそうですので期待してください。

商売のこともそうですが私の好きな機械のことについても新しい試みの印刷機なども見に回ります。

勝大先生も進めてくださった町歩きのことですがだんだんと範囲を広げています。Moulin Radetムーランラデは丘の中ほどのブドウ畑にあり深井戸から畑に水をくみ上げています、Rue Girardonジラルドンは此処から坂道を下りRue Lepicルピックに行き当たります。

この坂の途中のMoulin de la Galetteムーランギャレは二百年以上前から小麦粉などを粉に引いていたのですが最近Cabaretになりました。

此処にはラモンの仲間の画家が良く集まってきます、風車は店の目印であり看板としての役割を今はしているそうです。

この前には急な階段があり元町百段に似た感じがして此処からはパリの街がよく見渡せます。

暗殺者の居酒屋という物騒な名前のCabaretにはLa maison de la cave du vinのニコラがダンと入り浸っています。

二人には少し仕事も手伝っていただき其の儲けや鮫島様からの隠密費の内から出す分でCabaretUne fille de la danse et une serveuseさらにbarmanまでにも聞き耳を立てて町をうろついてくれます。

もともとダンは三日に一回はCabaretに出入りしていて陽気な亜米利加人とうわさが立っていてそれほど不自然ではないようで山城屋の豪遊も耳に入れてきては報告してくれます。

其の遊びの詳細は鮫島様が書類にして岩倉様に同行してくる佐々木様と大久保参議、木戸参議さらに日本の副島様と西郷先生に報告されているはずです。

Paris  La maison de la cave du vin 前田正太郎


明治5年5月20日1872年6月25日 Tuesday 

Paris1872年6月24日 Monday

先生ついに山城屋への召還命令が着ました。

三条太政大臣直々に兵部への命令書が出たと公文電報が鮫島様のところへ18日に到着しました。

鮫島様が直々呼び出して電文を見せた上公文書が来てから帰国するか今直ちに出発準備をして船便の一番速い船で帰国するかを迫りました。

山城屋は、いかしかた無しと無念そうな顔をして其の命令電報をにらんでいましたが割合あっさりとラレーヌオルタンスの日本弁務使公館を後にして滞在先のホテルへ戻りました。

其の後をつけたのは何とAurelia Mac Horn様です。

先生の一番弟子である正太郎が英吉利へ来たときにボルドーへ出かけていて会えなかったのは残念と思い立って此処ParisこそUne ville de l'art, la ville du modeだとmaidJudystewardMr.Glenn Lumleyを引き連れてお出でになりました。

山城屋は今朝Gare de LyonからMarseillesに旅立ちました、其の後をMr. Lumleyがつけて行きました。

C. Auguste Dupinみたいでございますねそうつぶやくように私に言うと、Mr. Lumleyはソフトを目深にかぶりながら列車に乗り込みました。

執事のラムレイさんは英吉利紳士そのままでParisへ来ましたが今日はSavile Rowのガンマニーで誂えた薄茶色のスーツで亜米利加のPoeThe Murders in the Rue Morgueに出てくる探偵を気取っているようですが事件がこれから起きる気配は無いと思います。

グレンがいない間に買い物よとオウレリア様はジュデイを引き連れてl'Avenue des Champs Elyseesへ颯爽と出かけて行きました。

彼女たち一行は由緒ある老舗ホテルよりもInterContinental Paris Le Grandを選びました、もう直に完成予定のPalais Garnierの前にあるこのホテルは1867年に行われたExpositions Universelles de Parisのために国威発揚の目的で建てられた近代的な建物です。

このホテルはLa maison de la cave du vinから坂を下り大きな通りを二つほど横切ると平らな場所に出てほぼ15分で着きます。

少し遠回りでも馬車ならDDの館からRue Lepicを下るのが一番です、此れなら迷わず行きつく先にラグランドと外はすでに完成したガルニエが見えてきます。

オウレリア様もボルドーでワインの買い付けの下調べをしたそうで私の情報とつき合わせて共同買付をしようと提案され其方の担当の人をParisへ呼び寄せるそうです。

ジュリアンもその人が来れば販路が広がると期待しています。

ジュリアンはワインやシャンペンを作ることや葡萄を育てるのは上手くないが売り込みと買い付けに必要な味の鑑定には土地の人達に信頼されています。

其の商売の合間に私たちを手伝ってくれていますが、山城屋の探索が終わってこれから何を手伝おうかとDDの館近くに事務所まで開いてReimsから駐在員まで置いて私と共同の事業を企画しています。

日本向けにWineだけでなく何がいいのか研究しろと私の勉強のための図書館通いと機械工場への見学の間もせっついています。

 

Paris  La maison de la cave du vin 前田正太郎


明治5年6月2日1872年7月7日 Sunday 

Paris1872年7月6日 Saturday

ミチ様正太郎がParisへ到着したこちらの日付で5月18日のSaturdayからまだ二月も経たないというのに何と事件に仕事など矢継ぎ早に起きる毎日です。

メイドのMomoが正太郎は遊びにParisに来たの、それとも商売、もしかして勉強と言うくらい取り留めなくいろいろな事柄に翻弄されています。

散歩は朝と夕方の二回同じ道をたどり途中気が向いたほうの階段を急に降りたりして見慣れぬ道に降りてしばし呆然としたり、陽だまりで家を毎日同じように描いている画家の後ろでそれを眺める人に混ざり夕方日が西へ回ったころ、と言っても六字ごろのことでこれから暗くなるまで三字間はあるでしょう。
toileをしまう画家と話をしながら帰ることもあります。

クロードという三十過ぎの印象の髭の濃い人は大きめの帽子をかぶり毎日太陽を描いています特に夕方の赤く染まった空と太陽が得意のようです、明日からLe Havreへ海を書きに行くとラモンに伝えてくれと大またで坂を上って行きました。

横浜と違う一番は道の殆どが石畳が敷き詰められていることです、横浜はまだまだすべてに敷石があるわけではありませんのでさすが長い間都として栄えた街だと感じました。

倫敦へしばらく滞在していた西園寺公望様がパリへ帰ってきました、昨年一度パリへ滞在した後倫敦へ出かけておられました、パリへ帰ってきたのはUniversite de Paris通称Sorbonneへ入学のためその予科へ入るためです。

鮫島様の紹介でお会いすることが出来ました。

正太郎の住まいを聞かれLa maison de la cave du vinの名前からしてWineに関係が有るのか聞かれるので地下のWine倉のことを話すと興味を持ち訪れたいというので翌日お二方を招待しました、早速時間どおり三字にやって来られMadamDDの歓待を受けご機嫌で地下倉庫で西園寺様鮫島様がそれぞれ選んだWineを裏庭の傘の下で飲まれました。

この日は暑い日で二階の部屋よりも裏庭の大きな銀杏の影が射す場所がMomoの推薦で選ばれました。

勿論お客を呼べばDDは実入りがあるので大喜びです、お客はDDの接待だと勘違いしてお礼を言うしまさか呼んだものがお客に自腹だと告げるはずもありませんので、Momoにお二人はチップを別々に五十centime弾んでくれたのでMomoは夕食の時間もご機嫌でした。

この日お客が帰った後MadamDDは、三十七フランを請求して来ました、Wine二本とHors d’oeuvreCanape同じような皿二枚が出されてです、それにしても明細を見て唖然としました。名も知らぬWineが十二フランと十三フランです。
半月の
appartementの費用が飛んだことなどお二人には知る由も無いことでしょうが、それにしてもワインの値段を覚えるには時間がかかると感じています。

鮫島様が二十八歳で西園寺様は二十四歳少し幼さが残る顔立ちに二十歳を超えているとはMadamDDも思えなかったといいます。

私が今年で十七歳だと言うと東洋人は若く見えるというから二十五位かなそれにしては幼いなと思っていたとダンもびっくりしたと同時に呆れています。

十七ではCabaretであまり酒を勧められないななど、人に勧めるより自分で踊り子たちを呼び寄せてはおごるくせに正太郎にすすめたことなどあまり無いのです。

ダンが二十六歳、ニコラが二十二歳、ラモンは二十五歳皆がそれを聞いてからは正太郎を仲間から弟扱いでCabaretにはあまり誘わなくなりました。

昨晩はオウレリア様の誕生日でラタンの古いレストランへ皆で出かけてどんちゃん騒ぎになりました、今年23に為ったというオウレリア様は皆に崇拝されています。

明日にはジュリアン、正太郎に英吉利のスミス商会から派遣されてきたWine係りのMrs. Bousfieldの三人でボルドーへ出かけます。

 

Paris  La maison de la cave du vin 前田正太郎

 
 横浜幻想 − Antelope 2008 02 26 了

阿井一矢


 

今回は正太郎君の手紙という形で話を進めました。
歩いた道や鉄道など正太郎君の見た目、感じたように書いてみました。
次回はParisへ着いたところから話の重複は承知で書き進める予定です。
その際はあえて今回と道や景色が違った雰囲気になっているかもしれません。
アクサンについては排除しての表記となっています。
La maison de la cave du vin(ラ・メゾン・ド・ラ・カーブ・デュ・ヴァン、ワインセラーの家)の住所は42, Rue Saules 18 eme , Paris Franceに設定してあります。

 横浜幻想パリ幻想歩き
セーヌの右岸と左岸
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ラメゾンドラカーブデュヴァン


横浜幻想  其の一   奇兵隊異聞 
 其の二   水屋始末  
 其の三   Pickpocket
 其の四   遷座祭
 其の五   鉄道掛
 其の六   三奇人
 其の七   弗屋
 其の八   高島町
 其の九   安愚楽鍋
 其の十   Antelope
 其の十一 La maison de la cave du vin

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