明治17年(1884年)12月12日金曜日
明子からの電信が8時15分、上海からの電信が届いたのは8時50分。
明子の分は山川が之も暗号かと興味深げに見守る中、翻訳し終わると容がそれを持って千代にそれぞれの家族に無事にシカゴまでの到着を知らせる電信を打たせにやらせた。
上海からの電信を翻訳していると東条と山添がやってきた。
東条はその足でとんぼ返りをして10時30分の列車で東京へ戻っていった。
「上海12日5時(東京時間)作製電信文。次電にて最終。11日6時済物浦より千歳丸出航、行く先長崎。公使乗船せず。」
竹添公使の連絡は明日だなと山川は落ち着いたものだが10時過ぎ外務省から3人の人間がやってきた。
一人は栗野慎一郎でもう一人は健太の父親の石井錠輔、それと栗野の部下の磐田京作と名乗る若い男だ。
石井は栗野の乗る船が決まり、午後に東京へ戻る事にしたそうで其の船は神戸までの今夕出港の近江丸だ、神戸に出て14日午後5時神戸から済物浦まで同じ共同の相模丸に乗り換えて行く事になったそうだ。
そのことで井上の指示で電信の最新の写しと山川との打ち合わせをしたいと此処へやってきたそうだ。
山川以下寅吉を含めて6人で洋館へ移り綿密に打ち合わせをした。
「では公使の報告は明日になると言うことか」
「船が今日中に長崎へ着くのは無理でしょう。あの千歳丸では55時間が精一杯でそれ以上は難しいかもしれません」
「そうすると早くても長崎への到着は13日の午後1時かすぐさま電信が打たれても夕刻になるか。石井君帰ったら神戸への訓電が14日の出航に間に合うようなら出してもらうようにしてください」
相模丸は四国沖から鹿児島の佐多岬を回り巡航速度12ノット出せるのだが済物浦到着予定は19日10時だ。
「判りました。私は2時45分の列車で戻りますので、少書記官は充分気をお配りください」
「判った、私たちは3時までに乗船しておくからその様に報告してください」
「はい、神戸到着は明日13日の午後5時でしたね。電信のあて先は兵庫ホテルでよろしいですね。14日午後5時ですと3時乗船と見込んで訓電を出す必要がありますのでホテルもしくは相模丸へ届けてもらうように要請します」
「そうしてくれたまえ。山川大佐昼を付き合っていただけますか」
「良いとも君の事は弟の健次郎や妹からも良く聞かされているよ」
「やぁ、参りましたな。健次郎君には弱い尻を掴まれて居りますからな。お手柔らかに頼みます」
「何、ほめる事ばかりで悪い事は何も聞いて無いよ。ところで食事は何がいいかな。此処にいればコタさんが何でもご馳走してくれるぜ」
石井もそうですよ栗野さんコタさんに奢らせましょうと煽った。
石井は健太を呼んでもらうと一同に私の長男で少し体が弱いので横浜で精密検診を頼むので此処に厄介になっていますと紹介した。
健太は一同に挨拶してついてきた了介を「寅吉さんの長男の了介君です」と栗野に紹介した。
「父さん、今朝十全の川田先生は血管が細いため、血を送り出すのに心臓への負担が大きくかかっているとの診断をくだされました。無理な運動をせず食事に気を配って丈夫な血管を作るのが一番だとおっしゃいました。昨晩寅吉さんが連れて行ってくれたシナ人の料理店の奥さんが教えてくれた食事療法の話しをしたら、自分は賛成だが高木先生の意見をお聞かせくださいと手紙を書いてくださいました」
「そうかでは高木先生が賛成してくれたら漢方の食事療法を試してみよう。月曜日だったね、戻るのは」
「はい父さん。高木先生は火曜日の朝10時の予約です」
「私は今手が離せない事が多いので母さんに付いて行って貰う事にしよう。もし伸三の手が空くようなら彼にも同行してもらってこれからの事を相談しよう」
「判りました。今晩から了介君たちと氷川商会の長屋での義太夫のおさらい会に行っても良いでしょうか」
「勿論構わないとも誰の会なんだね」
「お薗さんというまだ11才の竹本玉之助に先生の竹本芙蓉太夫、その先生の竹本綾瀬太夫の3人の会です」
「其れは凄い。綾瀬太夫を聞けるなんて健太はついてるな」
親子は義太夫の話で夢中の様子なので寅吉は栗野に天麩羅かうなぎもしくは洋食にしますかと聞いた。
「済物浦でも洋食や天麩羅くらいは食べられるだろうから鰻を頂きたいですな」
「山川様も其れで良いですか。今はいい鰻が入る時期ですぜ。住吉町の若菜か、太田町の多満喜がお勧めです」
「若菜は最近評判がいいそうですな。先日横浜へ出たものがそう言っていました」
栗野がそう評判を聞いたと言うので人力を八十松が呼びに出て6台をつれてきた。
「すこし早い時間ですが焼きあがるころに昼になるでしょう」
寅吉がそう言って人力を連ねて地蔵坂を下った。
西の橋から居留地を抜けて加賀町通りから弁天通りへ抜け、馬車道で左へ曲がれば100メートル先右側が住吉町五丁目の若菜だ。
6人で座敷へあがり白焼きを頼みビールで旅の無事を祈って乾杯した。
石井と山添はまだ仕事があるとそれだけでやめたが栗野と山川は磐田にも勧めてどうせ動かずに済むからと何杯も美味そうにお替りをした。
後から出たうな重は蒸し具合、焼きもたれも評判どおりで東京の老舗にも引けを取るまいと山川と栗野はご満悦だ。
食後もどこかで時間をつぶそうというので最近出来たサロンという酒とコーヒーを飲ませる店へ向かった。
大江橋と櫻橋の間の蓬莱と言う店は昼間から多くの者がカステラやロールケーキでカフェやシャンペンにビールを頼んでいた。
2時まで石井は其処にいて駅へ向かって出て行った。
2時半栗野たちを日本波止場まで送り、3人は人力で住吉町へ向かい寅吉の事務所で電信が来るのを待つことにした。
「旦那、浅草から胡蝶太夫とお春さんがお見えですがそちらへお通ししてもよろしいですか」
下から千代がテレホンで相談してきた。
山川に「旧知の浅草の人が来たのですがここでもよろしいですか」と聞くと構わんよと言うので三階へあがってもらうように伝えた。
お夏にお春の姉妹はそれぞれの娘を連れて千代に案内されてやってきた。
お夏の娘もお春の娘も今年11才の可愛い盛りではじめて上がった3階の不思議でお可笑しな機械や真ん中のビリヤード台に驚いていたが洋装の二人は直ぐ部屋の雰囲気に溶け込んだ。
姉妹に山川と山添を紹介して「何時までYokohamaにいられるんだい」とお夏に聞いた。
「月曜の朝には戻りませんと。3日ほどコタさんに泊まるところの世話もお願いしたいと来ましたのさ」
「良いとも、ホテルに旅館に俺の家でも好きなところに泊まれるぜ。俺の家の洋館にでも泊まるかい。ベッドが二つ置いてある部屋が二つあるんだ。明日から馬車を使うか人力を雇ってやるよ」
「あら其れは良いわね。でもこの娘達ベッドから転げ落ちないかしら」
「其れもいい経験だろうぜ」
お春は娘の父親を誰とは口を割らないが、正太郎から聞かされた話からあれが父親だろうと推測はしているのだ、小梅に別邸を建てたのも其の辺りの事だからという理由を正太郎が新婚旅行で横浜へ来た時内緒で話して行ったのだ。
「おかめちゃんは今晩なにが食べたいかな。小父さんがどんなお店でも紹介するよ」
「コタさんはもういや。おをつけないでとあれほど頼んだのに」
そう言って亀子はすこしむくれた、お春はその名をこの子の父親がつけるように薦めたと子供が嫌がってぐずるとそういうのだ。
「亀子ちゃん」
寅吉がそういうと「あい、なぁにコタさん」と直ぐ笑顔になる亀子は芸者になるのが夢だそうだ。
「亀子ちゃんは凄く愛想がいいのにうちの子はすこし晩熟(おくて)のようなの。唐手(トゥ―ディー)は二人とも上手だし、最近は上ニ番町の嘉納先生に柔道を教わりに行くようになったのよ」
お夏はあまり口を聞かない静を見てそういった。
「講道館か其れはいいことだね、先生は学習院でも教えているし英語学校も開いたそうで忙しいそうだけど、最近起倒流柔術の免許も授かったそうだよ。女の子を入門させるとは進んだ先生だよな」
寅吉は三船先生が昔の講道館は少し違う型を練習したという話を思い出し、了介と共に南神保町に開いた道場に嘉納を訪ねて入門した。
「横浜からたまにしか来る事は出来ませんが門下に加えて下さい」
「良いですよ。共に道を学ぶのもよいことです。ところであなたはどの流派を学んだのですか」
「流派というほどの物ではなく、若い時に勝先生の塾で学んだ時に塾にこられた方々から手ほどきを受け、掛川藩の篠崎光衛門という方が先生といえば先生ですし、後で勝先生の同門の信太歌之助先生に手直しをしていただきましたので起倒流鈴木清兵衛先生の孫弟子と言ってよいかもしれません」
「なら私と同門と言ってよいですよ。私は最近飯久保恒年先生より免許を授かりました、貴方のほうが兄弟子と言ってよいですよ」
「そんな事はありませんよ。ここ20年近く自己鍛錬以外に練習もしておりませんので」
そんなやり取りの後了介の柔軟性を幾人かが替わり番子に訓練をしてくれ自宅で行う練習を書いた紙を渡してくれた。
嘉納治五郎の柔道は日本伝講道館柔道として警視庁に於いても採用されていてこの年弱冠25才の新進気鋭の柔術家だ。
精力善用、自他共栄を基本理念とし、さらに柔よく剛を制すを真髄とし、精神鍛錬を目的としたのだ。
「コタさん今日やって来たのはもうひとつお願いがあるのよ」
「なんだい、俺でよければ力になるぜ」
「大池も完成して中ノ島に茶やを出す話も決まったし、後は新しい六区に奥山の人たちを動かすだけなの、今のような小屋がけでなく本格建築にしないといけなくなったけど浅草だけでは資金が集まらないのよ、花屋敷の山本様も大分出してくださるのですけどまだまだ資金不足なの」
「良いとも六区全てでいくらかかる予定だね」
「二十六万円という話だけど其れで収まるかどうか」
「俺のほうで十万集めて出したとして後幾らくらい集めればいいんだ」
「今十六万あるからそれで丁度ね」
「では後五万ほど出資の出来るものを探そう。あとはそちらで賄ってくれ。銀行は小舟町の安田で頼むよ。第三も同じ場所にあるからどちらでも同じような物だがな」
其処へお春たちの口座を開くと話しが決まり「之で肩の荷が下りたわ、後一年以内で移動を完了させる予定なのよ」とお夏はほっとした顔つきだ。
「胡蝶さんの方で演芸場と寄席を開く気はあるのかい」
「今の一座の常打ち小屋と義太夫、講釈、などの席に噺家や浪花節など企画は多いのよ。芝居小屋は他の人に任せるわ」
「お春さんは茶やくらいで良いのか。待合や置屋はどうだい」
「コタさんと共同なら良いわね」
「金は都合するぜ。喜重郎さんが戻れば二万や三万はお安い御用だ」
「まさかそんなにかかりゃしないわよ」
ベランダに二人の子供と双眼鏡を持って出た寅吉は静を肩に乗せて海辺や横浜駅を見せて説明し、続いてかめ子を乗せるとグランドホテルや町会所を教えた。
「あたいコタさんのお嫁さんになりたい」
かめ子は肩の上で寅吉の頭にすがりながらそうつぶやいた。
「駄目よあたいがコタさんのお嫁さん。それにかめちゃんは芸者になるんでしょ」
「芸者だって旦那様は居るわよ」
「あれは本妻さんじゃなくておめかけさんよ」
「なら本妻さんは静ちゃんでおめかけさんは私」
上と下でやりあう二人を山川が可笑しそうに見ていたがたまらず大きな声で笑い出し釣られて山添もお春にお夏の姉妹も笑い出してしまった。
下からテレホンで「お茶にしますか。コーヒーにしますか」と容が聞いてきた。
「コーヒーと子供たちには甘いクリームをたっぷり入れられるようにしてくれ」
「下に降りますか」
「いや、ビリヤード台に板を置くから千代にケットを何枚かもってくる様に言ってくれ」
「判りました。ケンゾーさんが来ていますが」
「構わないから上がってもらってくれ」
千代がケンゾーとケットを別けあって上がってきた。
ケットを台に広げ其の上に綺麗に磨き上げられた板を何枚か渡して置いた。
ケンゾーはお春たちを見て驚いたようだが子供たちに愛想良く「お嬢さんお名前は、おじさんは寅吉の旦那に商売で世話になっているケンゾーというんだよ」と聞いてきた。
「あたい、高木かめ子」
「あたいは島田静です」
それを聞いてケンゾーは目を潤ませてかめ子を抱き上げた。
「お春さんあなただけに子育てを押し付けたままで申し訳ない。ここに居る皆さんが証人だ。かめ子は私がつけるようにお春さんに頼んだ名前で私がこの子の父親です」
「あなたよろしいのですか。その様な事」
「構わないよ。会わぬときならともかく娘の顔を見てそのまま帰ることなど俺には出来ない。かめ子長い間教えることなくごめんよ」
「お父様なの」
「そうだよ。かめ子とは長寿の名前で鶴は千年、亀は萬年と言う言葉から選んだんだよ」
「嬉しいわ、お父様が付けてくださった名前誇りに思います。お父様あたいコタさんにおめかけさんにしてもらうんだけどいいかな」
エッと絶句するケンゾーにお春は先ほどのやり取りを可笑しそうに話した。
「芸者に旦那のおめかけさんか、かめ子は欲張りだ。でも旦那のおめかけさんなら着物に櫛簪は何時でも新しくて高い物をねだって大丈夫だ」
そう笑いながらかめ子の頬を擽った。
コーヒーの支度を八十松たちにさせながら聞いていた容は可笑しげに「あら大変コタさんは昔から小さい子に大もてだから。鈴江に小一にお菊ちゃんはどうしますの」と笑いながら寅吉に話しを振った。
コーヒーを飲みながら子供たちを両隣に座らせた容は新橋や芳町の半玉たちの名前を次々に挙げだした。
「コタさんはそんなに大勢面倒見ているのかい」
「山川さま、まさかですぜ。お化けの日に子供たちにすててこ踊りをやらせるのに圓遊師匠を呼んでね、半玉連にやらせた時に師匠が面白がってね、寅吉の旦那にみんなの旦那になってもらえば出の衣装に困る事が無いなどとたきつけられた娘がその気に為って言い出しだけで、もう忘れているでしょうよ」
「幇間も多くいるのに圓遊を呼んでおさらいをしたのかい」
「横浜に居た大和屋の石川様が贔屓筋の関係で一緒に呼び出したんですがね。新橋のたいこ連が吉原への対抗意識からすててこ踊りは旦那をしくじってもやりませんといきがるのでね、子供たちにお化けの日だけという約束でやらせたんですよ。芳町で五人、柳橋で五人、新橋で八人、1日で三ヶ所の座敷を掛け持ちする此方のほうが疲れるくらいでした」
山川は呆れて「客が疲れる座敷周りをするなんて相変わらずだ。お容さんコタさんは浅草に10万も投資するというが気に為らんのかね」と容の顔色を伺った。
当時鹿鳴館の建設費が十二万円だったというので大騒ぎしたので十万と言う金額は一財産ともいえた。
「浅草ですか。六区へ奥山を移転するのに三十万はかかると伊藤様がおっしゃって居りましたから、半分くらいは投資することになるかと思いましたわ。仲見世の煉瓦街も建設が決まったそうですし、まだまだお金のかかる話は多くなるでしょうからそのくらいで済む事も無いでしょう。うちの人の道楽みたいな物ですから儲けにつながる事は無いでしょうさ」
お夏が先ほどの話しを容に説明するとケンゾーが「其の金は誰が借り受けになるのですか、個人ですか会社ですか」と言い出した。
「ケンゾー之は投資にはならんよ。何処かの席亭や小屋の金主と言うことで戻りは期待できないよ。会社の株主と言っても配当が出る事は無いぜ」
「それでは2万円ほどお春さんに預けますから。どこかの株をもらってください。其れと1万円を預けますからかめ子の将来やりたい商売に使ってください。金は今日のうちに届けます。かめ子にはこれからもさびしい思いをさせるだろうがお父さんが居ると言うことを忘れないでおくれ」
もう一度抱き上げて頬擦りをすると部屋を後にした。
二人の子は容にすててこ踊りの歌を知ってるか訊ねられるとドレスの裾を摘んで踊りながら謳いだした、家でもやっているようだ。
向こう横町のお稲荷さんへ 一銭あげて ざっと拝んで お仙の茶屋へ
腰をかけたら渋茶を出して 渋茶よこよこ横目で見たらば
米のだんごか土のだんごか お團子だんご
こいつあ又いけねえ まだまだそんな事っちゃ 眞打にゃなれぬ
あんよを叩いてしっかりおやりよ
おまはんの足だと思っちゃいけね ひとの足だと思ってお叩き
「ねえコタさんは小たつのお姉さんにもやらせたの」
「そうよ、お菊ちゃん、壽々ちゃん、小豊ちゃん、ゑり子ちゃんも一緒にやったのよ。小一ちゃんは知らないかな」
「その人は知らないけどお菊ちゃん、壽々ちゃん、小とよちゃん、ゑり子ちゃんは知ってるわ、金春新道に家があるそうよ。長寿庵で何度もあったわ。銀座や尾張町で買い物して歩いてゆくのよ。お店が何処にあるか小母様知ってる」
「よく知っているわ。小たつちゃんたちもあのお店が贔屓よ」
其のやり取りを聞いていた山添の顔つきを見て山川が「何か知っていそうだな」と問いただした。
「はっ、昨晩最終で前の席に座った妙齢の婦人が板新道の小たつと名乗りました」
「可笑しいなそれで。其れとお前自慢のスカーフをしていないな」
「はっ、昨晩の夫人が羽織も道行きもおまけに頭巾もせずに寒そうなので与えました」
当時流行りだしたおこそ頭巾は外出時の防寒に最適と町を行く婦人の多くがしていたのだ。
それだけかと山川は徐々に山添の話しを引き出しにかかった。
「最初から順をおって話せ」
一度聞き終わると改めて整理させるように話しをさせた。
話しが終わると溜まらず一堂が笑い出した。
「何か可笑しいですか」
「其の話だと鈴江ちゃんは律儀に一円を車夫にやってしまいますわね」
「其れが何か」
「板新道をご存知」
「確か竹川町と言っていましたから駅から其れほど離れていませんようで」
「新橋から普通二銭から五銭も張り込めば充分ですのよ」
寅吉が笑いながら「俺のせいだよ、珠街閣から横浜駅まで二円貼り込むように山添中尉に話しをしたせいだ」と一同に話した。
「浅草から円太郎や鉄道馬車で新橋停車場まで通しなら二等で五銭、人力なら十二銭、鉄道の上等で新橋横浜を往復でも二円ですわ。中尉はものすごい事をされたんですわよ」
鉄道馬車で浅草から新橋まで3区間、1区間二銭で一等は三銭だ。
「其れでですか、僕が横浜駅で一円のチップを出したら灯り持ちと二人して駅へ入るまで見送っていたんですよ」
「一円余分に出されたんですか」
寅吉もそれには驚いたようだ。
「こいつはお坊ちゃまで金の値打ちを知らんのですよ」
「そんな事ありませんよ、自分も本省から新橋駅まで普段なら五銭以上やった事はありません」
「でも人を見る眼はいまいちですわ。小たつは今年一本になったばかりの十五才ですわよ」
「エッ、どう見ても十八か九に見えました。幾ら夜目とは言え驚きました」
「しかし鈴江も困った物だ、直ぐ一目ぼれするくせに手を出されると嫌気が起きるのも母親譲りだ」
「家へ来ればいいのに、世話になったという小川様にもお礼を言わないといけませんわね」
「来週東京へ出たら竹川町と木挽町へも顔を出すさ。容も一緒に来るかい。八十松に了介を預けて一緒につれてゆけば楽ができるぜ。たまには福井町にも顔を出したらどうだ」
話しが一段落する頃ケンゾーが上がってきた。
「此処に一万円の手形を三枚用意してきたからお春さんが預かってくれ」
「このような大金、女ずれで持ち帰れませんわ」
「では旦那にお願いしよう。よろしいですか」
「良いだろう、来週この人たちと健太君が東京へ戻る時に一緒に行きましょう。俺のほうの金も手形で用意して付いていくよ」
話しが決まり八十松と千代を此処へ呼んで来週は東京へ出ると言う話しをしておいた。
「そうだ八十松君は店を持つという話だが何時ごろだい」
ケンゾーはどこかで其の事を聞いていたようだ。
「まだ三年は先の話です。自分である程度覚えたら本格的にどこかで修行しませんと」
「それで国へ帰るのかい」
「いいえこの横浜で店を開きたいです」
「それなら其の時はわしと旦那で資金の面倒を見させてもらうよ。何利息など要らんよ気にしなさんな。共同経営の幾許かの権利で十分さ」
「そうだな資金は充分用意するから八十松が六割わしとケンゾーで四割として置けば良いだろう」
「でも五百円は用意しないと店を開けないと聞きましたがあと三年でそんなに貯められません」
「千円もあれば綺麗な店を開いても大丈夫さ。二人で五百円ずつ出すからそいつから六百円を貸すから株の資金に出せばいい。残りの四百円が二人の株さ。店に五百円運転資金に五百円後は八十松の腕次第だ。自分の金は万一の資金に預金しておきなよ。俺のお勧めは正金か安田だ」
ケンゾーも美味い洋食屋が一軒増えれば横浜のためだと八十松を応援する気だ。
女達と千代に八十松も下に降りて3人になると「この中尉は遊び人でな、陸軍大学へは行かんで良いとわしの副官のまま予備へでもやって呉れと言うのだよ。出世もしたく無いらしい。ビリヤードの腕は良いそうだ。さっきから台が気に為っているのさ」山川がそういうと待ってましたとばかりに寅吉に「やっても良いですか」と言って自分で上の板を片付けた。
すこし手慣らしをしてすぐに30を突いて見せた。
「たいした物ですね。すこし名人に教われば50くらいは行きますぜ」
「どこかいけないところでも」
「姿勢ですよ。玉を追うよりも見ているものに見栄えが良いかを気にする余裕が出れば成績も安定しますぜ」
寅吉はその場で背筋を伸ばし簡単に40を突いて見せた。
「こりゃ驚きだ。鹿鳴館へくる各国の公使館の者でもなかなか突きませんよ」
山添は感心して両脇から見てもらいながら突いてみて「すこし窮屈ですが暫く姿勢を気にしてやって見ます」と寅吉に礼を言った。
山川は20を突くのがやっとで「俺はこれ以上は上手くならんだろうな」とあきらめ顔だ。
7時15分に千代が電信を持ってやって来たので千代も立ち合わせて其の電信を約す事にした。
「上海12日15時(東京時間)作製電信文。次電無し最終電信。千歳丸出航の遅延理由9日朝英国領事スコット来館、米公使フート等の要請。死亡確認士官、歩兵大尉磯林眞三、兵3名。民間人を含む36名合計40名。10日米海軍士官引率、日本人16名、支那兵および朝鮮兵の護送付き仁川居留地到着。夕刻米公使、英国総領事、独国総領事、漢城より来館。朝鮮国王、日本にたいし悪き感触は無いことを伝えるように要請の由。11日朝鮮政府督弁書簡内容、日本を非難。榎本公使、ユアンシーガイ等の上申書内容入手可能近日報告か」
8時の列車には間に合わないので待機させっぱなしの臨時列車で戻る事にした二人は人力車を呼んで駅へ向かった。
「今回世話になった埋め合わせはいつかさせてもらうよ」
寅吉と千代に見送られて山川はそう言って笑って駅へ向かったがその顔は車夫が梶棒を上げると引き締まった。
「さてみんなお薗ちゃんのほうへ行ってしまったようだが、亀ちゃんと静ちゃんはどうしたい」
「付いてゆきましたよ。会が終わってからお容様と川角(かわずみ)でお食事をするそうです。洋館でお泊まりと決まりました」
「お薗ちゃんの出番は最後だったか」
「そうです」
「なら俺たちも顔を出してお前のところへ行くか。八十松が容たちと行かないなら誘っても良いな。後身体の空いてる奴がいたら誘おうぜ」
「判りました」
二人は店を当番の手代に任せてその日の会場に使っている従業員のための大広間のある家に向かった。
50人は楽に座れるはずが玄関先まで人が溢れていた。
「いいところへお着きで、これから真打ち登場ですぜ」
「こらこら、真打ちなぞというなよ。大師匠に聞こえたら具合が悪かろう」
「其の大師匠が先ほど今回の真打ちは玉之助ですと断りを言われて最初に壷坂をやられました」
「そうか其れは残念な事をしたものだ」
板敷きには詰めあって80人ほどが座っていた、長屋が空になったんじゃないかと思うほどだが座っているのはかみさん連中で表に立っている亭主連をよそに玉之助が母親と舞台に現れると盛大に手を叩いた。
年の内に春は来にけり一臼に餅花開く餅搗きのサッサ、搗け搗け、エイサッサと始まると会場は曲輪文章吉田屋の段を一言も聞き漏らすまいとしんと静まり返った。
寅吉も2人分の隙間を開けてくれた板戸脇から其の声に聞きほれていた。
私に恨みがあるならばこなさんにも恨みがある。去年の暮から丸一年、二年越しに音信なく、それは幾瀬の物案じそれゆゑにこの病。痩せ衰ふたが目に見えぬか。煎薬と煉薬と針と按摩でやうやうと命つないでたまさかに逢ふてこなさんに甘ようと、思ふところを逆様な、コリャむごらしいてどうぞいの。私の心が変ったら踏んでばっかり置かんすか。叩いて腹がいるかいな。コレ死にかゝってゐる夕霧ぢゃ。笑ひ顔見せて下さんせ。エヽエヽエヽ心づよや胴慾な、憎やと膝に引寄せて恨みつ泣いつ声をあげ、空に知られぬ袖の雨、隈なき夜半の月影も曇るばかりに見えにけり。ほんの女夫ぢゃないかいな。
真近にいる健太は其の声を聞いて感動していた、幼い声のこの少女が持つ雰囲気は夕霧の切ない気持ちを充分に表現していた。
名を万代の春の花見る人、袖をぞつらねける。
そして今日の話は其処で終わりを告げ観衆は立ち上がって舞台の近くへ寄り集まり口々に良い出来だと薗を褒め称えた。
寅吉は千代と表へ出て「八十松め健太たちと前にいては中々出てはこれまいから二人でたまには酒でも飲むか」と川筋へ出て安倍川へ向かった。
「ねえ旦那、夕霧が子をなしたのは15という話でござんしょ。今日話しが出た小たつさんが男と出来ても不思議はござんせんね」
「そういうことだ。母親のほうも好きな男が出来たら好きなようにさせたいと言っていたが、そろそろ父親の事もきちんと話してやるべきだろうな。その前に弟の武之助さんに会うべきだろうな」
「確か石井さんの同僚でしたか」
「そうだよ。今日済物浦へ出かけた栗野さんの部下の一人さ。去年まで東京府に出仕していたが伊藤さんや井上さんが引っ張ってくれたのさ」
鮫島武之助は今年30才、慶應義塾を出てアメリカへ留学後に東京外国語学校教師を勤めたこともあった。
「では今度東京へ出たらお会いしますか」
「石井さんに頼んで都合をつけてもらおう。小たつとは其れを知らせずに座敷へ呼んで顔を見せた後、別口で話しをしておこう。きみ香にも納得させないといけないしな」
関山鈴江が生まれた明治3年、鮫島尚信は東京府権大参事から大参事へ昇進し8月には外務大丞そして9月には欧州へ旅立ったのだ。
鈴江が4才の時一時帰国してそのとき3度ほどあったそうだが、そのときからきみ香には鮫島が再び日本へ戻らぬ予感でもあったのであろうか、父親として甘えさせる事はしないで欲しいと鮫島はきみ香に頼まれたそうだ。
パリで亡くなる前年、正太郎に夫人には内緒で持参した写真を預けたのは本人にも自覚が有ったのではないかと思われるのだ。
一瞬寅吉は母の顔を思い出して鈴江やきみ香の顔と比べて考えたがまるで違うし鈴江の顔とはすこしも似ていないと自分でもその考えが可笑しくて笑い出してしまった。
長い付き合いの千代はそういう寅吉を見て勝手に何か商売のヒントでもまた掴んだようだと何時ものように誤解していた。
「小たつさんの事で思い出しましたがお軽さんからの話しを聞きましたか」
「容が言ってた櫓下の玉助という娘かい」
「ええそうです。移籍料に二百円欲しいと言ってきたそうですが、承知なさったのですか」
「其処までして養女にしたいというからには何か見込みでもあるんだろうぜ、どうせ衣装一式共に買えと言い出すだろうから容には此方から三百円で一切合財引き取らせてしまえば良いと言っておいたよ」
「まだ12才くらいだそうですぜ、それほどの衣装や飾りを持ってるとは思えませんぜ」
「お軽にも新橋へ出てきてもらうつもりさ。福井町を今度はもも代に引き継がせても良いからな」
「しかし新富座開場以降の櫓下は最近火の消えたようだそうですが、公園の整備が終われば浅草もまた息を吹き返すでしょうに。手放すのはよほど内情が苦しいのですかね」
「其れだ其れ」
「何ですかい」
「ほれかめ子の話さ」
「あ、芸者になりたいという話ですか、まだ3年は先でしょう」
「置屋の株など値打ちも無いがお春さんに言ってその家を手に入れておけば何時でも使い道があるさ。半玉も来年学校を出たら内箱でもつけて経験させればいいことだ。待合に料理屋は無理でも置屋の一軒や二軒大して金が要るわけじゃないから赤字が出ない程度に芸で売る娘を幾人か抑えさせれば良いさ。幸いケンゾーの金が生きる事になる」
「そういえばよいタイミングで金を出してくださいました。縁があるのかもしれやせんね」
「最近は俺のお株を奪うほどお前のほうが先が見えるようだ」
「冗談言っちゃ困りやすぜ」
「そうかい、それじゃ俺の千里眼でお前の息子が東京大学の先生になると言うのはどうでぃ」
「幾ら学年で一番だと褒められてもね。東京大学は無いでしょう。入ることも難しいのに先生とは冗談でしょうね」
「其れがな。そう馬鹿にしたもんでもなさそうだ」
「お鳥には言わんでくださいよ。あいつ俺以上の親ばかで中学は東京へ下宿させても良いと言う始末ですからね」
二人でそんな話しをしているまに長者橋の安倍川に着いた。
東京大学はこの当時唯一の大学で明治10年(1877年)4月12日に東京開成学校と東京医学校が合併して設立された。
後に帝国大学令(明治19年・1886年)の公布によって東京大学と工部大学校(元の工部省工学寮)を統合して「帝国大学」に改称・改組された。
このときに大学院も設置される事になった。
お鳥も部屋に呼んで浅草の置屋の話しをし、玉助という娘をお軽が養女にほしいという話と玉助の居た置屋の株を買い取って奥山付近に家を建てて持って来ようかと言う相談をした。
「武郎だが東京へ行かせるのか」
「ええ、うちの人がなんといったか知りませんが、旦那聞いてやってくださいよ。あたしゃ無学ですがやっとの思いで授かった子が先生にお前の息子は努力家で頭も人一倍優れているといわれて其れを手助けするのが親の務めと言うことぐらいは判りますのさ。此処のところは来年にもぜひとも東京へ出すつもりです」
「そうか、俺も応援してやるよ。何処の中学へやるか親子でよく調べていい学校を選びなよ」
「決めていますよ。あの高橋さんが校長をしなさってる共立学校ですよ。なんと言っても東京大学の予備門への合格者が多いと言うことを聞きました。4年もしくは5年で駄目なら東京大学でなくとも学力に合ったところへ入りなおせばいいのですからまずは其処へ入れて後は本人次第です」
東京大学予備門は明治10年(1877年)東京英語学校と官立東京開成学校普通科(予科)が合併し、東京大学予備門として設立され、明治15年(1882年)東大医学部予科東京法学校予科と明治18年(1885年)東京外国語学校仏学科・独学科を併合した。
明治19年(1886年)帝国大学令・中学校令に伴う改正で、工科大学予科を併合し第一高等中学校となり予科三年、本科二年とされた。
明治27年(1894年)予科が廃止され本科三年として高等学校令により第一高等学校と校名が定められた。
「ダルマも偉くなったものだがそいつは最高の選択だ、ヘボン先生のところにいた鈴木知雄という人も其処で教えているそうだ。神田相生橋は安倍川町からでも連雀町からでも近くて良いぜ。千代も諦めてお鳥に任せるんだな」
「旦那、相生橋はもとの昌平橋でござんしたよね、洪水で流されて食い違いの下流にあの木橋のままでは不便でしょう。学校は阿部主計さまの練塀を壊して出来た坂道を駿河台へ登る途中に出来たと聞きましたが」
明治5年(1872年)筋違見附の取り壊された石材を使い、翌年筋違橋の場所にアーチ二連の石造りの橋が完成、東京府知事大久保忠寛は萬代橋(よろずよばし)と命名最近は萬世橋とかかれまんせいばしと街の中で言われだしていた、昌平橋は相生橋と名前が変わり明治6年8月の洪水で流され萬世橋の下流に木橋で架けられてこの当時二厘の橋銭がとられていた。
「そうだよ。お前の親たちも孫がそばへ来れば喜ぶぜ。もう諦めてお鳥のいう通りに任せるんだな」
「そうしますよ。何処へ下宿させるかはお鳥に武郎も交えてよく話し合って決めます」
千代も寅吉がお鳥の味方と知り我を通す気も失せた様だ。
お鳥が寅吉の為に火の気を増やし部屋を暖めてビールで3人で武郎の将来を祝って乾杯した。
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