幻想明治
 其の二 明治17年 − 弐 阿井一矢
板新道


 根岸寅吉 (根岸虎太郎)

1911年 明治44年4月18日生まれ(天保14年1843年)

横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。

 根岸 容 

弘化5年1月5日(1848年2月9日)生まれ

江戸深川冬木町に生まれる。 

 根岸明子 

明治元年12月10日生まれ(1869年1月22日)

久良岐郡野毛町三丁目に生まれる。

 佐伯 琴 (根岸 幸) 

1920年 大正9年9月9日生まれ(嘉永5年1852年)

横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。

 根岸了介 

1877年 明治10年11月7日生まれと届出

神奈川県久良岐郡横浜町末吉町5丁目54番地に生まれると届出。

(神奈川県第1大区4小区)

(明治10年5月5日山手220番生まれ)

 根岸光子 

1885年 明治18年5月31日生まれ


明治17年(1884年)12月10日水曜日

この日の朝末吉町の氷川商会の寅吉の元に上海からの電信が届いた。

其れを読むと「東京へ出てくる。了介も連れてゆくよ。連絡は精養軒に3時までは居る予定だから列車は新橋発4時で戻るからそのつもりで」と店へ付いて来ていた了介と供には八十松を連れて9時15分発の列車に乗った。

新橋で2台の人力に乗ると「三宅坂、陸軍省正門」と告げると車夫は威勢をつけて「ありゃりゃゃあ」と叫ぶと鉄箍のはめられた車輪の音も高く響かせ駅前を飛び出した。
外堀(汐留川)は新シ橋の先、虎ノ門から霞ヶ関へ入り外務省の角を左へ曲がり有栖川邸に沿って右へ行くと外桜田の陸地測量部で内堀へ出て三宅坂の正門で人力を降りると、そこで車夫と了介達を待たせ衛兵に「西郷様はおいでになられて居ますか」と聞き合わせた。

「何用だ」

「横浜から寅吉が参りましたとお伝えください」

「胡乱なことを言うな。此処を何処だと思っている」
兵は乱暴な言葉遣いをしたので衛兵伍長が詰め所から出てきた。

「何だ」

「こいつが陸軍卿はお出でか等と胡乱なことを申しますので」

「なに用か、しかとした事を申せ」
士官は兵よりもいくらか丁重にだが警戒を緩めずに訊ねた、総務局長の小澤が馬で三宅坂を登って来るのが見えた。

「之は良いところで」

「何だ寅吉ではないか。衛兵どうした」
小澤は衛兵の手前かいつもとは違う口調だ。

「はっ、こやつ西郷様はおいでかなど胡乱なことを申しますので問いただしておりました」

「そうか、わしや西郷様とは友達づきあいの男じゃによって今日の所は通してくれんか、連絡は何時でも此処で付くように書付を今度から持たせるから頼む」

「承知しました」

「役目大儀、ところで陸軍卿はおいでになっているか」

「30分前にお入りになられました」

「よし通るぜ。寅吉は供と人力のまま付いて来いよ」
小澤武雄は小倉生まれ歴戦の勇士でこの年40歳の男盛り、総務局長として5年目、西郷、大山と供に陸軍を支える重要人物だ。

建物脇に車夫と了介、八十松を待たせようとすると井沢は自分の馬丁に「其の四人を連れて茶でも飲ませておいてくれ、酒保で菓子をな」と金を出して馬を預けた。

部屋へ入り自分の秘書官に「西郷様の都合を聞いてきてくれ。横浜から寅吉が出てきたと伝えてくれよ」と部屋へ入り「コタさんどおしたんだ、顔色がよくないぜ。わしが芝の海軍省との連絡で出ていなかったらすんなりとはいかなかったようだぜ」と心安げに尋ねた。
馬と機関車で話しが会う横浜へ来れば友達づきあいの小澤は人がいなくなると顔をほころばせた。

「其れが朝鮮で重大事変が起きたようですが。此方では把握しておられるか心配で出てきました」
その話しを始める前に西郷が秘書官と入って来た。

「どうしたコタさん此処へくるなんて大事件でも起きたか」

「まさに其のことで御座います。電信は暗号になっていますので翻訳しながらお話しますが、此方ではいまだ漢城での事変を把握されていませんでしょうか」

「何も聞いていないぞ、小澤君はどうだ」

「まだ何も連絡は入っておりません」
西郷は秘書官に言いつけて次長の児島益謙を呼び出させた。

「まず之が電文の全てですが、今夕までに第2信を送るとしてあります」
数字の2とFFで区切られたところを自分の手帳の暗号表のページを開いて見せた。
そして其の後漢城発、事変あり、と続くところは平文と暗号の組み合わせを見せながら話しをしていると次長の児島がやってきた。

黙って其の電文の続きを聞いた西郷は「王宮を金玉均の一派が押さえたが清国軍が動き出しそうなので失敗しそうだというのだな」と寅吉に確認した。

「そうです、今一度紙に書きながら説明いたします」
電信の記号と区切りを使った暗号を手帳と確認してもらいながら最初から説明した。

「上海10日5時(東京時間)作製電信文、次電今夕、漢城発5日16時、事変あり、1884年12月4日21時郵政局付近で出火、閔泳翊が郵政局内で刺される、5日に国王の名で内閣改造を発表、金玉均等改革派軍部掌握できず、清国軍いまだ動かずとも兵を集めて兵装を整える」

「まだ之だけではキムオッキュンを清国軍が排除するかどうかはわからないな」

「ただこの電信にはミンビ一派を全て拘束したとされていません、その閔妃の一派の事大党の要請が有れば清国軍は王宮を制圧するでしょう」
漢城の日本軍わずか120名あまり、連絡将校を入れても150名以下で重砲の装備の無い隊で清国軍は1500名に大砲等の装備もあるのだ。

「国王がわが公使に約定どおりに王宮警護を申し出ると厄介だな。其の隙に公使館を狙われると人員に損害が大きく出そうだ」

「困ったことです。此方から兵を送る準備をしますか」
児島が西郷に準備をするか尋ねた。

「いやいかん、今清国と争うにはわが国には余力も準備も無い。王からの要請で軍を送れと言ってこない限り大義名分も無い。しかし個人の情報網に5日で横浜へ連絡が来たのに竹添君は連絡方法も思いつかんのか。それとも身動きの付かない事態なのか」

3人の軍の首脳は顔を寄せ合って「戦支度は極力抑える。軽挙妄動、独断専行をしないように眼を光らせるように」と西郷が伝え「外務省へは小澤君が出向いてくれ。この電信はもらって良いな」と念を押した。
翻訳文を寅吉が読み上げそれぞれが書き写すと小澤は直ぐに出て行った。

「山川君が出ていたら呼んでくれ」
小澤の秘書官に告げて人員局長の山川を此処へ呼んで貰った。

「何だコタさんが来ているのか」
昔馴染みの浩は緊張が溶けたという顔つきで入ってきたが話しを聞いてそれで直ぐ軍を送る用意をしますかと児島のように切り出したが「正式な連絡も無いまま軍を動かすのはこれからの軍の統制問題にも絡むのでだめだが。朝鮮の王からの要請があれば派遣はやむをえないが、今清国と争うより国力の充実が先だよ」と動かないことを伝えた。

世は松方正義の政策によるデフレが続き財閥は金を儲けても地方地主、零細農家は困窮していた、その影響は自由党解散という現象も引き起こしていた。
政府の不換紙幣は数を減らし紙幣の発行高に対する準備金も以前の4倍の35パーセント近くまで恢復してきていたが貧富の差は高まるばかりだった。

大隈重信のインフレ政策と増税によりまかなわれた西南戦争の付けを松方の緊縮財政で支出を抑え更なる増税を実施、国営事業の売却、日本銀行の設立、財閥系企業と官との癒着は進み、デフレにより破綻する農民は数を増すばかりだった。

軍事費が国家予算の25パーセントを占めるという状況は寅吉には呆れる予算編成としか見えないやり方であった。
其の農民からさらに軍役を課すための徴兵制度は働き手を奪う結果を招いているのだ。
幾ら長男、戸主および代人料を支払った者は免除といえ地方の小作農家に其れを逃れるすべもなかった。

府県町村による地方税も例外なく値上がりし、西南の役以降を見ても5割り増しのところが多く見られた。
今年神奈川では3月19日大住・足柄上郡の農民100余名が騒擾をおこしたが即日鎮定、3月29日大住郡8ヶ村の農民数十名が騒擾をおこしたが翌日鎮定。

4月7日には高座郡吉岡村の農民100余名が騒擾をおこし即日鎮定されるという危険な状態であった。

5月にはまたも大住・愛甲郡の農民100余名が騒擾をおこし、6月にはいると大住郡馬入村および近村の農民が騒擾を起こしさらに7月31日には高座郡上鶴間村の農民300余名が騒擾をおこし即日鎮定された。

8月14日神奈川・東京9ヶ村の農民300余名が負債延納を要求して騒擾をおこしたが翌々日鎮定と相次いで騒ぎが起きていた。

続いて9月5日神奈川県南北西多摩3郡33ヶ村(現東京都)農民210名が押収書類および検束者奪還のための騒擾をおこしたが即日鎮定。

10月14日大住郡子易村の農民40余名が騒擾をおこしたが即鎮定と秩父だけでなく全国規模で騒ぎは広まりつつあったのだ。
徳川の時代のうち250年近く農民は虐げられてきたといわれ、その様に教育もされているが、ここまで国の根幹をなす農家をいたぶる政府に寅吉は協力して良いのだろうかと自問しつつも流れに掉さすことも出来ないようだ。

連絡将校として山川が副官1人を供に横浜まで同行することになった。
元は会津藩家老、現在の身分の陸軍省人員局長大佐は県令と同じ位階だ。

「了介君は海軍の軍人希望かな」

「まだ判りません、船よりも陸軍のほうが良いかも知れません」
この返事に山川はニコニコと「そうか、良い軍人になって欲しいな。寅吉は其れで良いのかな」と寅吉のほうを見て笑った。

5人は列車の時刻まで采女町の精養軒で食事をとることにして寄り道をして食事をしていた。
寅吉は八十松と了介に精養軒のビーフシチューを食べさせたいと山川に告げて4時の列車まで時間を潰すことを了解してもらった。

「コタさん、朝鮮の事変は拡大はせんのか」

「公使の無事が確認できれば西郷様も川村様も動かないでしょう。イギリス公使館、アメリカ公使館、それぞれの領事館に動きが無いのでまだ連絡が無いか自国の公使に危険が及ばないとの判断をしているのだと思います」

「しかし昔の連絡網の拡大版のようだが凄い物だな。上海へどのように連絡網がつながっているのか知りたいくらいだ」

「私も詳しくは知らないのですが、電信と船のほかには鳩や手旗信号の組み合わせを使うらしいです。朝鮮から船で青島、大連、上海、其処から、北京、香港への連絡網があるらしいのですが、私に情報の一部を売ってくれる組織があるのです」

「それ以上は知ろうとしないのかい」

「最近一年で得た情報のうち商売関係は全部正確で、噂と断った情報のうち3割はただの噂でしかありませんでした。と言うことは噂と無い今回の情報で次信があると言うことは情報の出所が確かだと言うことでしょう。上海まで済物浦からの電信は無く、連絡が大回りなので直に長崎へ船で連絡を付けるなら今日までに竹添公使から連絡が無いと言うことは漢城から出られないか、まだ済物浦に到着して居ないかでしょう。私と同じ連絡網なら今日中に北京に連絡が入っているはずです。ユアンシーガイがもっと切れる男なら事件が起きた直後に第1信を打つはずなんですが」

「金玉均を買っている人が多いがどうだね」

「理想は良いのですが、人を動かすには金と時期が必要です。かの国の国王は神輿に担ぐには立場が弱すぎます。軍部を掌握できないままの改革派には人民も付いてこないでしょう、軍は閔妃一族が抑えたままです。1000年にわたるシナとの関係を日本から辞めろと言っても聴く耳を持たぬ人は多いはずです。わが国の防衛のためといえ他国の内情に深く立ち入るのは其れを利用して懐を肥やそうとする野心家に餌を与えるだけでしょう」

「わが国の防衛には役立たんか」

「わが国の防衛という目的で他国の領地へ打って出て戦うのでは自国の民を守るために他国を犠牲にすると言うことではないのでしょうか。相手の国民にも感情と言うものはあるはずです。急いで争いを起こすのは誰のためになるのかを考えると決して国民のためとは思えません」
寅吉はこの会津の苦労人に自分の思うところを述べて少しでも国民の平安と他国への侵略はわが国にとってもよいことではなくあくまでも受け身に徹すべきという意見を知ってもらうことに勤めた。
朝鮮で清と日本を争わせて漁夫の利を狙うロシアの餌食となる危険もあるのだ。

3時を過ぎて駅まで歩くことにして四人でぶらぶらと世間話。

「了介君は明子君がいないとさびしいだろう」

「僕は男ですから、姉が居なくともさびしい事など有りません」
了介は山川に憤慨して見せた、其の様子を見て山川は「コタさん、この子は頼もしい男子だな。わしの妹を米国にやった時は幼くて心配だったが明子君は大人だからな」と寅吉のほうへ向いた。

「しかし心配もあります。あの時の留学生は捨子さんたち幼い子は良かったのですが大きな娘達は失敗しましたから」

「あれは仕方ないよ、あの娘達は余りにも日本式で育ったからな。今回はアメリカやフランス、イギリス式の教育を受けた娘たちだからきっと上手くいくさ」
山川は了介にも気を配って心配する事は何も無いと話す内に新橋の駅前に入った。

「お待ちしておりました。横浜を2時の列車で来ましたので行き違いになるといけませんので此処でお待ちしておりました」
千代が来ていて電信を渡した。

山川が駅長と掛け合い部屋を提供してもらうと早速解読をし其のあいだに千代に了介達を預け5枚の一等の切符の手配をさせた。

「緊急上海10日10時(東京時間)作製電信文、次電今夕、漢城発6日21時、清国兵王宮を砲撃。国王は避難の模様。日本兵は公使と供に応戦の末公館へ戻り無事」

「之は大変だ山添君、君は直ちにこの電文と訳文を持って西郷閣下に連絡を、わしは横浜へ出て次電の到着を待って戻る。其れから山手の寅吉の家まで連絡将校を派遣してくれたまえ」

「かしこまりました。ではお預かりします」
山添中尉は渡された一円銀貨2枚を人力の車夫に受け取らせ「三宅坂陸軍省」と叫んで飛び乗った。
車夫は銀貨2枚を見て仲間を呼ぶと二人引きで飛び出していった。

列車に乗り一等車の席で二人は今の電文と先の電文の写しを見ながら「コタさん之だと先ほどの電信の後5時間で出したようだが5日の16時から6日の21時のあいだに事態は悪化したようだな」と切り出した。

「その様です。親清国派の事大党の巻き返しが始まったようです。国王は日本兵に保護されていると言うことでなく反対に監禁されたと閔妃一派が袁世凱たちを動かしたのではないでしょうか」

「ありえそうだな」
離れた席では千代が八十松に精養軒のビーフシチューについての話をさせながら了介に窓から見える景色や駅の説明をしていた。
横浜駅には定刻の4時53分に着くと千代には末吉町へ行かせ、容が寄越していた馬車で山手へ向かうことにした。

「明日の朝一番には連絡将校が此処へ来るだろうが緊急事態に備えて臨時の列車を動かせるように手配もしておく」
駅長に顔の聞く寅吉が付いて面会し、機関車と乗務員の手配を念のため24時間待機と伝え料金は動かさなくとも陸軍省へ請求して欲しいと頼んでから馬車に乗った。

「電信が来るなら6時過ぎでしょうからひとっ風呂浴びましょう」
風呂でも朝鮮の事情、清国の事情、兵力の比較等を話し合った。

「ではコタさんは戦になれば勝つことには間違いないと言うのか」

「海軍は今のままでは危なく制海権が取れない危険もありますが、かの国の軍隊は負けることを恥とは思っていません。幾らでも此方を呼び込んで戦域を拡大させるでしょう。今の政府が戦で負けるように手伝う地方の有力者も多いでしょう。そうなりますと際限ない消耗戦に成り現地調達の必要に駆られた軍は統制が効かなくなる恐れがあります」

「となると戦を拡大しないうちに講和に持ち込まないと全てを失うまで戦うことになると言うのか」

「其れはかの国の歴史を読めば明白です。3000年にわたる他国からの侵略に耐えて来た国です。わが国とは考える年月の長さが違いすぎます」

山川の背中を流しながら寅吉は大局を見てくれて戦を煽る民権派と名乗る人たちが騒ぎ出さないことを祈っていると伝えた。

「彼らを力で抑えれば大丈夫か」

「其れは難しいでしょう。徳川の時代に同じ事を考えた井伊大老の事が見本です。抑えれば抑えるほど政府と反対意見を述べる人が増えるでしょう」

風呂から出て紅茶を甘くしてブランデーを入れラスクを出させて話しをしているうちに8時半を過ぎて待っていた電信を持って千代がやってきた。
其の電信を約すと山川は馬車で駅へ向かった。

「上海10日17時(東京時間)作製電信文、次電明朝、済物浦発8日10時、漢城7日午後2時公使館より公使以下200名ほどの人員退去す。西門の鎖錠を切断し開扉し出門す。漢江船にて渡河し翌8日午前7時に済物浦に至る。領事館に到着確認」

「コタさん連絡頻度が上がっているようでわずか2日で済物浦から上海に連絡が来ているな」

「驚きました随分早い連絡網です。漁船では無理でしょうね。蒸気船でも相当早い船で無いと無理でしょう」

「朝には竹添公使から連絡が入るだろう。連絡将校はわしと入れ違いだろうが緊急用の臨時便はそのまま駅長に指示しておく、わしは10時の便に乗れるだろうから其れで戻る」
其のやり取りの後馬車を見送ると直に山添中尉がもう1人と連れ立ってやってきた。

「寅吉は車夫にはいい顔だな、駅で山手の根岸寅吉で通じたぞ。山川大佐は」

「今頃駅に着いた頃です最終の10時発で東京へ戻られます。この後連絡が入ったときは臨時列車が何時でも出せるように山川様が手配されました」
山添と一緒に出てきた東条と名乗る寡黙な男は其の電文の訳文を見ながら「大きな被害は無いようだが公使館へ避難できなかったものに対しての情報が無いな」と鋭いところを見せた。

山添が東条さんは陸軍大学校の一期生で切れ者だよと寅吉に告げ、風呂を勧められると温まらせてもらうと入り、酒は要らんので茶漬けでも食わせてくれとお松津さんに頼んで部屋へ案内された。
この頃ニューヨークでは従道の長男従理が危篤におちいったと大山に報せが来た。


明治17年(1884年)12月11日木曜日

朝8時待っていた電信が着いたので二人が立ち会って翻訳を開始した。
「上海11日5時(東京時間)作製電信文、次電今夕、済物浦発9日17時、金玉均、朴泳孝、徐光範、徐載弼などが済物浦に向かって逃亡との噂あり、確認不能。日進、千歳共に停泊のまま。漢城発未確認情報、公使および日本軍が国王を幽閉して臣を屠殺した非道の悪党に荷担。公使館を焼いて退去と非難」

「昨日の電信では公使館を焼いて退去としていないのは焼き討ちだな」

東条は電信の裏側を見抜くようにつぶやき「竹添公使から連絡が来るまで臨時便の確保を続けるように要請しておくから」と山添に伝えすぐさま馬車で駅に向かった。

日進艦は1468トンの1869年就役した元佐賀藩がオランダに発注した艦だ。
千歳丸は459トン郵便汽船三菱会社の持ち舟、1867年に久留米藩が買い入れた後、政府と民間の間で所有が行き来していて10ノットの速力が出せるのだが、9日夕刻にまだチェムルポに停泊中と言うことは今日中に長崎への到着は不可能に近かった。

チェムルポからチンタオ318海里、同シャンハイ485海里といわれる中チェムルポからの連絡が36時間で上海から発信されたのは長崎周りより早いと山添と話し合った、済物浦・長崎の間は510海里ほどと寅吉が説明したのだ。

「と言うことはチェムルポから長崎へ千歳を向かわせればすでに連絡が来ないといけないな。それと言うのは事態の推移を見守ってからと考えているのだろうか」

「そう考えるしかないと思います」
陽が落ちた5時になって山川がやってきた。

「コタさん北京から外務省へ事変の報告が来たがいまだ竹添公使からの連絡が無い。榎本公使は日本側が先ず清兵に戦端を開いたらしいと清国側から報告されたと言ってきたがありえない話であると自分の意見も添えてあった」

今日政府での協議で明日早朝までに意見を取りまとめて長崎周りで竹添公使に連絡を入れることになった。朝鮮に対する日本政府の政略は、平和と内地の政略及び政党に干与せざるにあり。と入れる事が決まってあとは伊藤様。井上様。西郷様が三条様に面談の上での裁可を今晩中に取り付けることになった」
寅吉も朝鮮国内の争いに関与しないと聞いてほっとした。

「しかし之で相場を張ったら大儲けが出来ると思う奴は多いだろうな」

「大佐、寅吉はそういう男で無いと見抜いての此処が前線本部なのですかね」

「其れはそうさ。儲けが優先なら陸軍省へ等来ずに横浜で銀相場でも買い捲っているさ。明日の朝でもまだ間に合うぜ」
山川はそう言ってニコニコと笑い「ここに居れば明日の朝に陸軍省から連絡員も来るから今晩は上手い料理でも食べさせてもらうさ。今晩電信が着たら山添君が戻ってくれたまえ」と大きな声で言うと可笑しげに笑った。

「後はまた外交交渉で日本の立場を明らかにして受けた損害を請求することになるだろう。井上様が全権公使として済物浦へ出かけると言うているが今のところ乗船の護衛に軍艦を出すか軍艦で出向くかまでは決まっていないが、清国から増援部隊が出ない限り派遣部隊は出さない方針だ。西郷様は出すにしても九州から一大隊規模で済物浦の警備強化に出すことに限定するようだ」
中華料理にしようと山川が言うので珠街閣へ使いを出すと共に、氷川商会へも7時に珠街閣へ向かうと連絡させた。

八十松と今週は医者の診察のために横浜へ出て寅吉の家に泊まりこんでいた慶応の石井健太という中学生に了介の三人を人力で先に出させて馬車で居留地へ向かった。
八十松たちは別の部屋で食事をさせ3人はビールを頼んで料理の品定めを始めた。

八十松はこの年27才、石井健太は15才了介が8才で話題は先月聞きに行った圓生の話しから義太夫の事やヒラキで聞いた浪花節、祭文語りの赤穂義士伝や寄席に上がれぬ講談師の新しいネタの清水次郎長物語などを話し合った。

「健太さんは三田の近くに家があるのですか」

「そうだよ慶應義塾の近くの聖坂というところで土地の人は月の岬と呼んでいる場所さ。家の近くには亀塚稲荷神社という神社が有るのさ。了介君は今年学校へ上がらなかったのかい」

「僕は父さんの意見で今年は講談や義太夫に落語を聴いてまわるように言われたのです。姉が留学することに決まって二人であちらこちらと日本の芸能を学ぶように指示されました」

「可笑しなお父さんだね。普通は早く働くようにとか勉強するようにとか言うのにね」

「そう思うでしょ。姉さんもいつもそういいますし、父さんのお友達の丸高屋の会長さんも同じように言いますよ。洋館の父さんの研究室もそうですが末吉町のお店の3階の部屋には見たことも無い器械が沢山ありますし、アイスクリンや冷たいお菓子を作るのも好きなんですよ」

「僕の父さんは寅吉さんと友達だそうだけど勉強熱心で商売も上手だといつも褒めるよ」
健太は不思議そうに首をかしげた。

「僕は父さんの影響で義太夫のほうが好きなんだけど了介君は」

「僕はまだどれが一番好きなのかよく判りません。でもお店の近くの娘義太夫の見習いのお薗ちゃんの声はとても良いです。そうだ、お薗ちゃんは玉之助という名で東京へ行くことになっているんですが贔屓になってやってくれませんか。学生さんに応援してもらうのが一番だと父さんや亀次郎さんが言っていました」

「お薗ちゃんと言うんだね。玉之助だね覚えておくよ」

「明日から先生の先生という竹本綾瀬太夫さんが来るんですよ。3日間連続で夜の6時から長屋の人たちにお薗ちゃんの勉強の成果を披露するので母と僕も呼ばれているのですが八十松さんが付いて来てくれるのですが健太さんも聞きに行きませんか」

「月曜日の朝の列車で東京へ戻るので3日間大丈夫だから連れて行ってくれると嬉しいな。それにこんなおいしい料理が次々に出てくると病気のことなんて忘れてしまいそうだよ。明日検査の結果もわかるというし、先生はたいしたこと無いと言ってくれるのであとは東京で共立病院へ月に一度診察に行くくらいで大丈夫と言っていたから気持ちも楽になったよ」

健太は心臓が弱いというが痩せているくらいで其れほど体が悪いとは了介達には見えないのだ。
給仕に出ていた聖玉が「後何か注文があるか聞いて来るように言われたけど何か食べる。スープくらいがいいかしら」と八十松に尋ねた。

「スープで良いです」

「ではそちらの人に合わせて心臓を丈夫にするスープを出しましょうね」

「判ります。僕の心臓が弱いと言うことが」

「そうね、心臓の力が弱そうだけど無理な運動をしなければ大丈夫そうよ。血管が細いので心臓の負担が大きくなっているのよ。焦らずに体力を徐々に付けていけば普通に生活できると私たちの医者も同じような症状の人に言っているのよ」

「診察してくれた十全病院の先生もそう言っていました」

「うちの下の娘が同じような症状なのでいつも材料があるから直ぐ出せるわよ。小豆やラッキョウのお粥を食べるのが一番効果があると私たちのふるさとでは信じられているのよ」

「母に言って試して見ます」

「そうしてみてね。効果が出るようなら横浜であらためて私たちの医者に見てもらうこともお勧めよ。イギリスやフランスにドイツからのお医者とは違うけど身体を養う事が第一の方には効果があるわよ」

「父と寅吉さんに話して承知していただけたらそうしてみます。まずは十全の河田先生と東京の高木先生の意見に従うのが今の僕の立場なので」

「其れはそうよ。先生方に今の私の話しをして承知していただいてからが本当の事ですもの」
其の話しをしているうちにスープが出来上がったのは寅吉が子供たちのためにとっくに頼んでいた冬瓜のスープにすこし足しただけの様だ。

食事の終わる頃千代が連絡に来て翻訳文と電信の紙を持って食事が済んだ山添は「まだ最終に間に合いますのでそれで戻ります」と出ようとした。

「中尉、こまかい金をお持ちください」
寅吉は一円銀貨を信玄袋から一掴み出すと山添に渡し「車夫には景気よくやってくれと二円渡してやってください」と頼んで店の前から見えたシナ人の車夫を呼んだ。

蝦夷町と小田原町の角に居た車夫は嬉しそうに近寄ってきた、どうやら寅吉の顔を知っているようだ。
山添は二円を渡して「駅までだ、景気良く頼むぜ」と寅吉が言ったように頼んだ。

「アイャァ、旦那景気が良いね。早いから掴まってくださいよ」
車夫はすこし訛りは有るが日本語も達者のようだ、仲間を呼んでカンテラを持たせて先行させることにして、山添を載せた人力はゴム巻きの車輪の音も静かに本村通りへ向かい、徐々にスピードをつけて薩摩町を抜け日本大通りをわたり、太田町通りを駆け抜けていった。

弁天橋を渡ればガス灯に浮かぶ横浜駅だ、時刻は9時38分悠々と最終の一等車に収まった山添の前に「失礼します」と断って若い粋筋の女が座った。

「ついてるぞ今日は」
山添は其の女の様子にしばらく見とれていたが直ぐに眼をつぶって今日の料理の事や寅吉と山川が話したシナの人心の事に思いをはせた。

「もし旦那」
其の声にいつの間にか山添は寝ていたことに気が付いたようだ。

「む、すまん今どのあたりだ」

「六郷の橋を越しました。品川で降りるといけませぬので失礼ながらお声をかけさせていただきました」

「それはすまん。わしは新橋までだが君は」

「あちきも新橋まで参ります。人力があればいいのですが」

「なに、最終の客を待つものは大勢居りますよ。しかしこの寒いのにその様な襟かけもなしでは寒いだろう」
山添は之も何かの縁だ男物で気に入らなければ車夫にでも上げてくれと自分の首の大きなフラールを渡した。

「ありがとうござんす。あなた様はどちらまで。あちきは板新道(いたじんみち)の新松屋の小たつと申します」

見た目より若い声の芸者はそう自分の名を告げたので山添は緊張した面持ちで名乗った。

「はっ、自分は陸軍省人員局の山添孝之中尉であります。本省へ連絡に戻る途中であります」
其の言いようが可笑しかったのか若い芸者はコロコロと笑い出した。

「やはり可笑しいかな。どうもいかんな若い美人と話すと緊張していかんな」

「もし美人と言うのは嬉うござんすが、若くなければよろしいように聞こえますわ」

「君のような美人と訂正しよう」

「まぁお口がお上手ですこと」
二人が可笑しげに話す内に品川の駅に列車が到着した。

「横浜へは御用ですかしら」

「そうなんです。これから報告に本省へ一度帰るのであなたを送れないのが残念です」

「まぁお口がお上手ですこと。あらまた言ってしまいましたわ」

「あなたこそ御一人で横浜ですか」

「スティルフリード写真館で写真を撮る約束で出てきましたの。夜のお約束もあったのですがきちんとした料亭かホテルでのお食事かと思いましたら可笑しな事をなさる上、上着や財布を隠されたりするので逃げ出しましたのさ」

「其れは剣呑」

「小川様という写真館でお会いした乾板の売り込みをされている方の機転で相手のお方が列車に乗ったのを見て其の後の列車に致しましたら之が最終だそうで」

「よく金がありましたね。かんぱんというとパンの売り込みでもしてる人ですかな」
可笑しげな顔をしていたが直ぐ気が付いたようだ。

「食べるほうの乾パンではなくて写真に使う物ですわ。お金は櫛を一枚お金に致しました、足元を見られて百二十円のものが僅か四円でした。おかげでこの通り簪だけでござんす」

「人力の代はお持ちですか」

「後一円ありますわ、上等が一円駅までの人力が一円、時間が開いたので食事に一円出しましたのさ。足りなければおかあさんに出していただきます」

山添はお待ちなさいとポケットから寅吉が渡した銀貨から二円を出して「二円を車夫に渡して板新道と言えば間違いなく飛び出してゆきますよ」

「そんなに沢山要りませんわ」

「家に着いたら貴方の残りの一円を渡して名前を言うのですよ。そうすりゃ車夫のあいだに貴方の名が広まります」
小たつは其の銀貨を嬉しそうに帯に挟んで「中尉さんも隅に置けませんわ」と微笑んだ。

「なぜだい」

「だって二円も近場に張り込んだ上で車夫への心付けなど普通の遊び人でも気が回りませんわよ」

「はは、之わねぇ、今日有る人からの受け売りさ。私の上司の友人で横浜の商人が先ほど人力に乗ったら先に二円を渡して駅まで頼むというんですよと教えてくれたのさ。あなたは女性だけど新橋駅から距離も近いのに二円を張り込んでおまけに一円のご祝儀を出せば道行きや羽織を着ていないこと、男物のフラールを首に巻いていたことなど思い出しもしませんよ。人力のケットに包まれば寒さもしのげますよ。僕も後で一円だしたら大喜びで駅に入るまで頭を下げられたには参りましたがね」
自然と大きなフラールで襟元を隠していた小たつを楽しげに見ている自分に気が付く山添だった。

スティルフリードはライムント・フォン・スティルフリード・ラテニッツと言ってオーストリアの貴族の家柄だそうでベアトから譲り受けた写真館を兄のフランツに譲ると夏前に日本を離れていた。
小川はこの年アメリカから帰国し乾板の製造を始めたが売れ行きは芳しくなかった。

新橋の駅について山添は席をたつ時に自分の外套を肩に掛けてやった。
駅から出て人力の男に「大事な人だから頼むよ」と声をかけた、小たつはケットを手に持つ車夫に「兄さん竹川町の板新道まで頼みます」と二円を帯の間から出し手渡した。

若い車夫は「之は姉さんおかたじけ」と受け取った。

小たつは山添に「中尉お世話になりました」と言うと外套を肩から外してわたした、山添は「其のままもって行っても良かったのに」と手渡され冷たい手が触れたときその手を引き寄せて抱きしめたいという欲求が起きたが「風邪を引くなよ」とあっさりと受け取り自分の肩にまわした。

小たつを乗せると「ねえさん、ケットに包まっておくんなさい」と車夫が膝に乗せたのを広げて包まるのを見て梶棒を挙げカンテラを揺らして走り出した。

山添は別の人力を捕まえ「三宅坂陸軍省正門」と声をかけて一円銀貨参枚を車夫の手にカチンと音を出して乗せた。

車夫は「こいつはありがてえ、きょうびついて居やがる」というや金輪の音も勇ましくカンテラを揺らし飛び出していった。

小たつの乗った人力は銀座の鉄道馬車の石畳を避け、蓬莱橋から第十五銀行の前を抜け三十間掘りは出雲橋を渡り竹川町へ入った、板新道の家につくといわれた通り「ここの抱えの小たつと言うのよ、御ひいきにね」と一円を渡して新松屋へ入り女将のきみ香の部屋へ向かった。

「お母さん悔しい」

「まぁなんだねこの娘は。好きな男と横浜へ遊びに行って帰ってくるなりなんなのよ」

「だってあいつ写真を撮った後、食事をして帰ろうと誘うのよ」

「そのくらいなんだよ。あたしゃ今晩帰らないと思っていたのに」

「ふん、おかあさんはあいつと出来ても構わないと思ってたの」

「だって好きな男に操をささげて何処がいけないのさ」

「写真を撮るまでは好きだったわ」

「よくわからない。なにがあったのさ。それに着て出た道行も羽織も無いし其の男物らしいスカーフはどうしたんだね」

「帰りに軍人さんにもらったのよ」

「また一目ぼれでもしたのかい」

「違うわよ。ただ列車で一緒になって男から逃げてきたといったら二円呉れて之で人力にのってお帰りと寒いだろうからと之を呉れただけよ」

「財布はどうしたい。其れとコタさんが呉れた櫛は何処へやったのさ」

「質屋へ入れたわ。四円しか貸してくれなかったわ」

「馬鹿だねこの娘は。困った事が出来たらコタさんかお容さんに連絡するように教えたでしょうに」

「だって旦那やお容様に男に騙されそうになったなんて恥かしいわ」

「まだお前15なんだからそんな気をはらなくてもいいのに」

「あいつ、あたいの年を聞いて急にそれならまだおぼこかだなんて急に獣の眼になって可笑しな真似をするんですもの。布団も無い座敷で急に押し倒しておいていきなり羽織をむしりとられたの、でお姉さんたちが話していたように先に手水を使わせてくださいと猫なで声を出したらいちころでさ。早く済ませるんだぜと煙草に火をつけたので部屋から出てそのまま逃げてきたのよ。ここにこなかった」

「来てないよ。横浜にまだ居るんじゃないのかい」

「8時の列車に乗ったのを見て最終へ乗ったのよ。玉も付かない遠出に飛んだもの入りよ。明し線香を灯すつもりも無いくせにいい気なものよ。あの目か一今度お座敷へ呼んだら逆手の逆注ぎでもしてやるわ」

「もう直に日も変わる時刻なんだから今晩はもう来ないよ。一緒に熱いのでもやるかい」
きみ香は悪口には付き合わずにそう言って水屋から酒を出して銚子に注いで銅壷へ入れた。
木挽町から寿弥が風呂敷を抱えてやってきた。

「姉さんお届けもの」
座敷に入ると小たつの鈴江に笑いかけた。
小辰は前にはつねやの女将だった小龍(こりゅう・こたつ)以来の名前の字を変えたもので、まつやにはつねや、新松屋のあたり名で陸奥亮子が私と同じ鈴の字を持つこの娘に相応しいわとお披露目に来て祝ってくれた名だ。

「逃げられたと笑っていたけど。あの銀行からの声はもうかからないわよ」

「仕方ないわ私が初めてだと知ったら獣になる男なぞ此方から願い下げよ」

「もうこの娘は誰に似たんでしょう。まつやのおかみさんも進さんが之を持ち込んできたとき笑っていたけど」

「ふん、幾ら部下だってそんな役目を引き受ける進さんも進さんだわ」
風呂敷の中身は道行きや羽織と信玄袋、中身は古代錦の紙入れや化粧道具だった。

鈴江は明治3年の生まれ物心ついたとき父親は遠い街に居るといわれ、明治13年にフランスのパリで亡くなったと後で聞かされているが、名前を聞くと野田仲平だといわれ、西郷がふと誠蔵も残念なことをしたとつぶやいたのを聞いて鈴江は父親の名が幾つかの名で人に記憶されていることを知った。

「昔イギリスへ留学のために渡り、其の後アメリカで勉強して幾つかの難しい仕事をこなした挙句身体を壊してパリで亡くなった」
木挽町に出てきた寅吉からそう聞かされたが「名前は何と言うのですか」と聞いても「今はいえないが昔の名前は野田仲平といった」としか教えてもらえなかった。

「あぁあ、こんな眼にあうなら私も明子さんと一緒にアメリカへ行けば良かったわ」

「いまさらなにを言うのよ。お容さんが三回もお前に勧めてくれたのに学校も嫌、ましてアメリカへなぞ行きたくないと駄々をこねたくせに」

「だって父親の事も知らない私が行けば明子さんに迷惑がかかると思ったのよ」

「きみ香さん、そろそろ話してあげたら」

「おすみかあさんはご存知なの」
小たつは期待の篭もった眼で寿弥を見た。

「わたしゃ知らないよ。其の頃あんたのかあさんは柳橋、私は新橋でまるっきり付き合いが無かったもの。お容様がきみ香さんをはつねやの女将にさせるために木挽町へ越させたときは鈴江ちゃんを抱いてきたのさ。其の頃はまだあたしが抱え芸者だったのよ」

「何だ知らないんだ」

「コタさんが良いといったら話すよ。あんたももう振り袖を着る年でも無いし」

「約束よ。今度身体のあいている日に用事をつけて横浜で櫛を請け出さないといけないし」

「櫛をまげて鉄道の運賃を払ったのかい」

「そうよ、おすみかあさん。財布の入った巾着と羽織と道行きもを置いて逃げ出したんだもの」
小たつは何処で小川が逃げ出すのを手伝ったか話す気は無いようだ。

「で、その軍人さんの名前を聞いたのかい」

「聞いたわ陸軍省の人員局の山添中尉ですって。なかなか真面目そうでいい人だったわ。私が座る席が見つからなくてその人の前に座ったときは私に惹かれたような眼をしたのに、直ぐ眠って六郷の橋を渡っても起きなかったのよ。それで此方から品川で降り無くても大丈夫ですかと声をかけたの。あんなに無視されたの始めてよ。だから二円呉れた時、私を一緒に送ってくれるかと思ったのにあっさりさよならよ」

「人員局というと山川様の部下ね。今度連れて来て頂く様に話してみるわね」

「いいわよ。別に気がある風でもなかったし」

「なにを言うの。お礼を言わないといけないでしょ。お客様にご祝儀を頂いたのと訳が違うのよ」
親娘は互いに酒を注ぎあい、合間に寿弥にも勧めて盛んに言い合った。

「お迎えでござんす」
寿弥の迎えに人力が来たようだ。

「それじゃあんまり二人で飲んでないで早くお休みよ。小たつをあんまりお酒に強くさせないでよ」

「あんたこそ寝酒の飲みすぎは身体に毒よ」
寿弥が帰ったとあとも暫くは二人でのやり取りは続いたようだ。

其の頃シカゴには明子たちの一行が長い列車のたびからグランド・セントラル・ステーションに降り立っていた。
一行は通訳など不要と思っていたようだがサンフランシスコからは案内人に一人年配の日本人が付いて来てくれていた。

「それでマンサンはもうアメリカで生涯を送ることにされたというわけですか」

「そうですよお嬢さん。私が最後に横浜を出たのが13年ほど前でしたから随分江戸や横浜も変わっているんでしょうね」

「もう江戸という人などよほどのお年寄りくらいしか言いませんよ」

「そうでしたね。今11時になりますが食事にしますか」

「サンフランシスコについてから何度時間の調節をしたか思い出せないくらいです。お食事時間も早くなったり遅くなったりでまごつきますわ」

「そう東京では今は真夜中の2時。日付も12日に変わりましたよ」

「今電信を打てば横浜へ朝配達してもらえますね」

「3時に打てばちょうど良いですよ」

「では其の時間に打ちに連れて行ってくださいます」

「良いですよ。ミス・アキコ。寅吉さんも電信を待っているでしょうしね」

6人の若い女性を引き連れて萬蔵は駅前のホテルに向かった。
サンフランシスコに着いたのは予定通り12月5日、午後2時に税関での手続きをして街のホテルに泊まり、翌日荷物が船から下りたのを受け取るとサクラメントの駅近くのホテルへ移動したのだ。

船から税関を抜けると清次郎が中年の小太りの男と出迎えてくれた。

「お嬢さんお元気そうですね」

「清次郎もすっかりアメリカ紳士ね」
面はゆげな清次郎は男を「此方は通訳とボストンで落ち着くまでの案内をしてくださる萬蔵さん。兄がパリへ行くとき、同じ船でアメリカの普段使われる言葉や習慣などを教えていただいたそうです」と紹介した。

「緒方萬蔵です。此方ではマンサンと呼ばれています」
マンサンは6人の淑女と次々に握手を交わした。

「今晩はこの近くのホテルですこし騒がしい場所ですが我慢してください。明日は鉄道の駅近くの落ち着いたホテルへ移動します。8日の日に大陸横断鉄道に乗車しますので付近の案内はセイジローと私マンサンが致します」
萬蔵はアメリカ生活が通算すれば18年くらいになりましたとホテルのロビーで寛いだ時話しをしてこれから幾日かは同じ旅をするについてあなた方のうちでリーダーを決めて置いてくださいと頼んだ。

「一時に6人の方からあれこれ質問されても此方も困りますし、ボストンについてから下宿先へ落ち着いた後もその方を通じて交渉するほうが便利です」

「それなら此方の、ミス・アキコです。船でも何度も話し合い、役を日替わりで務めてみましたが彼女が一番適任です。それに電信を打つときはアキコのお父様の会社宛に打つことになっていますので其れが一番です」
菅沢常(つね)と名乗ったはきはきした物言いの娘が「マンサン、私たちアキコが一番という結論になったのですわ」と岡崎芳香(よしか)の言葉を裏打ちした。

1876年6月4日に運行された大陸横断超特急は、ニューヨークを出発してからサンフランシスコに到着するまで83時間39分という記録を作った。
今回其れを7日かけて移動しニューヨークで2日滞在してボストンへ向かうと改めて説明された。

サンフランシスコに5日に到着した一行はサクラメントを8日朝に出て主な都市はソルトレイク、シャイアン、オマハを経由してシカゴに11日に到着、そこで2日乗り換えで休養を取ってニューヨークに15日に到着、2日休んで18日にボストンへ向かう予定だ。

10日間の大陸横断はつらいでしょうが今回は遊びではなく学ぶための旅ですので我慢してくださいと清次郎が一同に伝え自分はソルトレイクまでお供しますと話した。

「マンサンは年に何回くらい大陸を横断しますの」

「此処3年ほどは少なくとも4回は往復していますよ。それだけ日本から勉強、視察にくる人が多くなったと言うことですね。私の収入の半分は其れで稼いで後は投資した配当で生活しています」
萬蔵は片道の通訳と案内で360ドル、往復なら550ドル、滞在費持ちで2ヶ月まで雇えるそうだ、片道10日で750ドル、往復で2ヶ月だと2000ドルは必要になると話した。

「それだけ日本人も金持ちになったと言うことなんでしょうね。私の費用は10人くらいで雇わないと高いですからね」
今回は清次郎が雇い主で正太郎からの金で500ドルプラス経費と帰りの切符代で雇われていた。

明子は西郷従理が腸チフスのためワシントンで10日に亡くなった事をまだ知らない。

西郷従理享年10才



明治17年(1884年)12月12日金曜日

明子からの電信が8時15分、上海からの電信が届いたのは8時50分。

明子の分は山川が之も暗号かと興味深げに見守る中、翻訳し終わると容がそれを持って千代にそれぞれの家族に無事にシカゴまでの到着を知らせる電信を打たせにやらせた。

上海からの電信を翻訳していると東条と山添がやってきた。
東条はその足でとんぼ返りをして10時30分の列車で東京へ戻っていった。

「上海12日5時(東京時間)作製電信文。次電にて最終。11日6時済物浦より千歳丸出航、行く先長崎。公使乗船せず。」
竹添公使の連絡は明日だなと山川は落ち着いたものだが10時過ぎ外務省から3人の人間がやってきた。

一人は栗野慎一郎でもう一人は健太の父親の石井錠輔、それと栗野の部下の磐田京作と名乗る若い男だ。

石井は栗野の乗る船が決まり、午後に東京へ戻る事にしたそうで其の船は神戸までの今夕出港の近江丸だ、神戸に出て14日午後5時神戸から済物浦まで同じ共同の相模丸に乗り換えて行く事になったそうだ。
そのことで井上の指示で電信の最新の写しと山川との打ち合わせをしたいと此処へやってきたそうだ。

山川以下寅吉を含めて6人で洋館へ移り綿密に打ち合わせをした。

「では公使の報告は明日になると言うことか」

「船が今日中に長崎へ着くのは無理でしょう。あの千歳丸では55時間が精一杯でそれ以上は難しいかもしれません」

「そうすると早くても長崎への到着は13日の午後1時かすぐさま電信が打たれても夕刻になるか。石井君帰ったら神戸への訓電が14日の出航に間に合うようなら出してもらうようにしてください」
相模丸は四国沖から鹿児島の佐多岬を回り巡航速度12ノット出せるのだが済物浦到着予定は19日10時だ。

「判りました。私は2時45分の列車で戻りますので、少書記官は充分気をお配りください」

「判った、私たちは3時までに乗船しておくからその様に報告してください」

「はい、神戸到着は明日13日の午後5時でしたね。電信のあて先は兵庫ホテルでよろしいですね。14日午後5時ですと3時乗船と見込んで訓電を出す必要がありますのでホテルもしくは相模丸へ届けてもらうように要請します」

「そうしてくれたまえ。山川大佐昼を付き合っていただけますか」

「良いとも君の事は弟の健次郎や妹からも良く聞かされているよ」

「やぁ、参りましたな。健次郎君には弱い尻を掴まれて居りますからな。お手柔らかに頼みます」

「何、ほめる事ばかりで悪い事は何も聞いて無いよ。ところで食事は何がいいかな。此処にいればコタさんが何でもご馳走してくれるぜ」
石井もそうですよ栗野さんコタさんに奢らせましょうと煽った。

石井は健太を呼んでもらうと一同に私の長男で少し体が弱いので横浜で精密検診を頼むので此処に厄介になっていますと紹介した。
健太は一同に挨拶してついてきた了介を「寅吉さんの長男の了介君です」と栗野に紹介した。

「父さん、今朝十全の川田先生は血管が細いため、血を送り出すのに心臓への負担が大きくかかっているとの診断をくだされました。無理な運動をせず食事に気を配って丈夫な血管を作るのが一番だとおっしゃいました。昨晩寅吉さんが連れて行ってくれたシナ人の料理店の奥さんが教えてくれた食事療法の話しをしたら、自分は賛成だが高木先生の意見をお聞かせくださいと手紙を書いてくださいました」

「そうかでは高木先生が賛成してくれたら漢方の食事療法を試してみよう。月曜日だったね、戻るのは」

「はい父さん。高木先生は火曜日の朝10時の予約です」

「私は今手が離せない事が多いので母さんに付いて行って貰う事にしよう。もし伸三の手が空くようなら彼にも同行してもらってこれからの事を相談しよう」

「判りました。今晩から了介君たちと氷川商会の長屋での義太夫のおさらい会に行っても良いでしょうか」

「勿論構わないとも誰の会なんだね」

「お薗さんというまだ11才の竹本玉之助に先生の竹本芙蓉太夫、その先生の竹本綾瀬太夫の3人の会です」

「其れは凄い。綾瀬太夫を聞けるなんて健太はついてるな」
親子は義太夫の話で夢中の様子なので寅吉は栗野に天麩羅かうなぎもしくは洋食にしますかと聞いた。

「済物浦でも洋食や天麩羅くらいは食べられるだろうから鰻を頂きたいですな」

「山川様も其れで良いですか。今はいい鰻が入る時期ですぜ。住吉町の若菜か、太田町の多満喜がお勧めです」

「若菜は最近評判がいいそうですな。先日横浜へ出たものがそう言っていました」
栗野がそう評判を聞いたと言うので人力を八十松が呼びに出て6台をつれてきた。

「すこし早い時間ですが焼きあがるころに昼になるでしょう」
寅吉がそう言って人力を連ねて地蔵坂を下った。

西の橋から居留地を抜けて加賀町通りから弁天通りへ抜け、馬車道で左へ曲がれば100メートル先右側が住吉町五丁目の若菜だ。
6人で座敷へあがり白焼きを頼みビールで旅の無事を祈って乾杯した。

石井と山添はまだ仕事があるとそれだけでやめたが栗野と山川は磐田にも勧めてどうせ動かずに済むからと何杯も美味そうにお替りをした。
後から出たうな重は蒸し具合、焼きもたれも評判どおりで東京の老舗にも引けを取るまいと山川と栗野はご満悦だ。

食後もどこかで時間をつぶそうというので最近出来たサロンという酒とコーヒーを飲ませる店へ向かった。
大江橋と櫻橋の間の蓬莱と言う店は昼間から多くの者がカステラやロールケーキでカフェやシャンペンにビールを頼んでいた。

2時まで石井は其処にいて駅へ向かって出て行った。
2時半栗野たちを日本波止場まで送り、3人は人力で住吉町へ向かい寅吉の事務所で電信が来るのを待つことにした。

「旦那、浅草から胡蝶太夫とお春さんがお見えですがそちらへお通ししてもよろしいですか」
下から千代がテレホンで相談してきた。

山川に「旧知の浅草の人が来たのですがここでもよろしいですか」と聞くと構わんよと言うので三階へあがってもらうように伝えた。

お夏にお春の姉妹はそれぞれの娘を連れて千代に案内されてやってきた。
お夏の娘もお春の娘も今年11才の可愛い盛りではじめて上がった3階の不思議でお可笑しな機械や真ん中のビリヤード台に驚いていたが洋装の二人は直ぐ部屋の雰囲気に溶け込んだ。

姉妹に山川と山添を紹介して「何時までYokohamaにいられるんだい」とお夏に聞いた。

「月曜の朝には戻りませんと。3日ほどコタさんに泊まるところの世話もお願いしたいと来ましたのさ」

「良いとも、ホテルに旅館に俺の家でも好きなところに泊まれるぜ。俺の家の洋館にでも泊まるかい。ベッドが二つ置いてある部屋が二つあるんだ。明日から馬車を使うか人力を雇ってやるよ」

「あら其れは良いわね。でもこの娘達ベッドから転げ落ちないかしら」

「其れもいい経験だろうぜ」
お春は娘の父親を誰とは口を割らないが、正太郎から聞かされた話からあれが父親だろうと推測はしているのだ、小梅に別邸を建てたのも其の辺りの事だからという理由を正太郎が新婚旅行で横浜へ来た時内緒で話して行ったのだ。

「おかめちゃんは今晩なにが食べたいかな。小父さんがどんなお店でも紹介するよ」

「コタさんはもういや。おをつけないでとあれほど頼んだのに」
そう言って亀子はすこしむくれた、お春はその名をこの子の父親がつけるように薦めたと子供が嫌がってぐずるとそういうのだ。

「亀子ちゃん」
寅吉がそういうと「あい、なぁにコタさん」と直ぐ笑顔になる亀子は芸者になるのが夢だそうだ。

「亀子ちゃんは凄く愛想がいいのにうちの子はすこし晩熟(おくて)のようなの。唐手(トゥ―ディー)は二人とも上手だし、最近は上ニ番町の嘉納先生に柔道を教わりに行くようになったのよ」
お夏はあまり口を聞かない静を見てそういった。

「講道館か其れはいいことだね、先生は学習院でも教えているし英語学校も開いたそうで忙しいそうだけど、最近起倒流柔術の免許も授かったそうだよ。女の子を入門させるとは進んだ先生だよな」
寅吉は三船先生が昔の講道館は少し違う型を練習したという話を思い出し、了介と共に南神保町に開いた道場に嘉納を訪ねて入門した。

「横浜からたまにしか来る事は出来ませんが門下に加えて下さい」

「良いですよ。共に道を学ぶのもよいことです。ところであなたはどの流派を学んだのですか」

「流派というほどの物ではなく、若い時に勝先生の塾で学んだ時に塾にこられた方々から手ほどきを受け、掛川藩の篠崎光衛門という方が先生といえば先生ですし、後で勝先生の同門の信太歌之助先生に手直しをしていただきましたので起倒流鈴木清兵衛先生の孫弟子と言ってよいかもしれません」

「なら私と同門と言ってよいですよ。私は最近飯久保恒年先生より免許を授かりました、貴方のほうが兄弟子と言ってよいですよ」

「そんな事はありませんよ。ここ20年近く自己鍛錬以外に練習もしておりませんので」
そんなやり取りの後了介の柔軟性を幾人かが替わり番子に訓練をしてくれ自宅で行う練習を書いた紙を渡してくれた。

嘉納治五郎の柔道は日本伝講道館柔道として警視庁に於いても採用されていてこの年弱冠25才の新進気鋭の柔術家だ。
精力善用、自他共栄を基本理念とし、さらに柔よく剛を制すを真髄とし、精神鍛錬を目的としたのだ。

「コタさん今日やって来たのはもうひとつお願いがあるのよ」

「なんだい、俺でよければ力になるぜ」

「大池も完成して中ノ島に茶やを出す話も決まったし、後は新しい六区に奥山の人たちを動かすだけなの、今のような小屋がけでなく本格建築にしないといけなくなったけど浅草だけでは資金が集まらないのよ、花屋敷の山本様も大分出してくださるのですけどまだまだ資金不足なの」

「良いとも六区全てでいくらかかる予定だね」

「二十六万円という話だけど其れで収まるかどうか」

「俺のほうで十万集めて出したとして後幾らくらい集めればいいんだ」

「今十六万あるからそれで丁度ね」

「では後五万ほど出資の出来るものを探そう。あとはそちらで賄ってくれ。銀行は小舟町の安田で頼むよ。第三も同じ場所にあるからどちらでも同じような物だがな」
其処へお春たちの口座を開くと話しが決まり「之で肩の荷が下りたわ、後一年以内で移動を完了させる予定なのよ」とお夏はほっとした顔つきだ。

「胡蝶さんの方で演芸場と寄席を開く気はあるのかい」

「今の一座の常打ち小屋と義太夫、講釈、などの席に噺家や浪花節など企画は多いのよ。芝居小屋は他の人に任せるわ」

「お春さんは茶やくらいで良いのか。待合や置屋はどうだい」

「コタさんと共同なら良いわね」

「金は都合するぜ。喜重郎さんが戻れば二万や三万はお安い御用だ」

「まさかそんなにかかりゃしないわよ」

ベランダに二人の子供と双眼鏡を持って出た寅吉は静を肩に乗せて海辺や横浜駅を見せて説明し、続いてかめ子を乗せるとグランドホテルや町会所を教えた。

「あたいコタさんのお嫁さんになりたい」

かめ子は肩の上で寅吉の頭にすがりながらそうつぶやいた。

「駄目よあたいがコタさんのお嫁さん。それにかめちゃんは芸者になるんでしょ」

「芸者だって旦那様は居るわよ」

「あれは本妻さんじゃなくておめかけさんよ」

「なら本妻さんは静ちゃんでおめかけさんは私」
上と下でやりあう二人を山川が可笑しそうに見ていたがたまらず大きな声で笑い出し釣られて山添もお春にお夏の姉妹も笑い出してしまった。

下からテレホンで「お茶にしますか。コーヒーにしますか」と容が聞いてきた。

「コーヒーと子供たちには甘いクリームをたっぷり入れられるようにしてくれ」

「下に降りますか」

「いや、ビリヤード台に板を置くから千代にケットを何枚かもってくる様に言ってくれ」

「判りました。ケンゾーさんが来ていますが」

「構わないから上がってもらってくれ」
千代がケンゾーとケットを別けあって上がってきた。
ケットを台に広げ其の上に綺麗に磨き上げられた板を何枚か渡して置いた。

ケンゾーはお春たちを見て驚いたようだが子供たちに愛想良く「お嬢さんお名前は、おじさんは寅吉の旦那に商売で世話になっているケンゾーというんだよ」と聞いてきた。

「あたい、高木かめ子」

「あたいは島田静です」
それを聞いてケンゾーは目を潤ませてかめ子を抱き上げた。

「お春さんあなただけに子育てを押し付けたままで申し訳ない。ここに居る皆さんが証人だ。かめ子は私がつけるようにお春さんに頼んだ名前で私がこの子の父親です」

「あなたよろしいのですか。その様な事」

「構わないよ。会わぬときならともかく娘の顔を見てそのまま帰ることなど俺には出来ない。かめ子長い間教えることなくごめんよ」

「お父様なの」

「そうだよ。かめ子とは長寿の名前で鶴は千年、亀は萬年と言う言葉から選んだんだよ」

「嬉しいわ、お父様が付けてくださった名前誇りに思います。お父様あたいコタさんにおめかけさんにしてもらうんだけどいいかな」
エッと絶句するケンゾーにお春は先ほどのやり取りを可笑しそうに話した。

「芸者に旦那のおめかけさんか、かめ子は欲張りだ。でも旦那のおめかけさんなら着物に櫛簪は何時でも新しくて高い物をねだって大丈夫だ」
そう笑いながらかめ子の頬を擽った。

コーヒーの支度を八十松たちにさせながら聞いていた容は可笑しげに「あら大変コタさんは昔から小さい子に大もてだから。鈴江に小一にお菊ちゃんはどうしますの」と笑いながら寅吉に話しを振った。
コーヒーを飲みながら子供たちを両隣に座らせた容は新橋や芳町の半玉たちの名前を次々に挙げだした。

「コタさんはそんなに大勢面倒見ているのかい」

「山川さま、まさかですぜ。お化けの日に子供たちにすててこ踊りをやらせるのに圓遊師匠を呼んでね、半玉連にやらせた時に師匠が面白がってね、寅吉の旦那にみんなの旦那になってもらえば出の衣装に困る事が無いなどとたきつけられた娘がその気に為って言い出しだけで、もう忘れているでしょうよ」

「幇間も多くいるのに圓遊を呼んでおさらいをしたのかい」

「横浜に居た大和屋の石川様が贔屓筋の関係で一緒に呼び出したんですがね。新橋のたいこ連が吉原への対抗意識からすててこ踊りは旦那をしくじってもやりませんといきがるのでね、子供たちにお化けの日だけという約束でやらせたんですよ。芳町で五人、柳橋で五人、新橋で八人、1日で三ヶ所の座敷を掛け持ちする此方のほうが疲れるくらいでした」

山川は呆れて「客が疲れる座敷周りをするなんて相変わらずだ。お容さんコタさんは浅草に10万も投資するというが気に為らんのかね」と容の顔色を伺った。
当時鹿鳴館の建設費が十二万円だったというので大騒ぎしたので十万と言う金額は一財産ともいえた。

「浅草ですか。六区へ奥山を移転するのに三十万はかかると伊藤様がおっしゃって居りましたから、半分くらいは投資することになるかと思いましたわ。仲見世の煉瓦街も建設が決まったそうですし、まだまだお金のかかる話は多くなるでしょうからそのくらいで済む事も無いでしょう。うちの人の道楽みたいな物ですから儲けにつながる事は無いでしょうさ」

お夏が先ほどの話しを容に説明するとケンゾーが「其の金は誰が借り受けになるのですか、個人ですか会社ですか」と言い出した。

「ケンゾー之は投資にはならんよ。何処かの席亭や小屋の金主と言うことで戻りは期待できないよ。会社の株主と言っても配当が出る事は無いぜ」

「それでは2万円ほどお春さんに預けますから。どこかの株をもらってください。其れと1万円を預けますからかめ子の将来やりたい商売に使ってください。金は今日のうちに届けます。かめ子にはこれからもさびしい思いをさせるだろうがお父さんが居ると言うことを忘れないでおくれ」
もう一度抱き上げて頬擦りをすると部屋を後にした。

二人の子は容にすててこ踊りの歌を知ってるか訊ねられるとドレスの裾を摘んで踊りながら謳いだした、家でもやっているようだ

向こう横町のお稲荷さんへ  一銭あげて ざっと拝んで お仙の茶屋へ

腰をかけたら渋茶を出して  渋茶よこよこ横目で見たらば

米のだんごか土のだんごか お團子だんご 

こいつあ又いけねえ まだまだそんな事っちゃ 眞打にゃなれぬ 

あんよを叩いてしっかりおやりよ

おまはんの足だと思っちゃいけね ひとの足だと思ってお叩き

「ねえコタさんは小たつのお姉さんにもやらせたの」

「そうよ、お菊ちゃん、壽々ちゃん、小豊ちゃん、ゑり子ちゃんも一緒にやったのよ。小一ちゃんは知らないかな」

「その人は知らないけどお菊ちゃん、壽々ちゃん、小とよちゃん、ゑり子ちゃんは知ってるわ、金春新道に家があるそうよ。長寿庵で何度もあったわ。銀座や尾張町で買い物して歩いてゆくのよ。お店が何処にあるか小母様知ってる」

「よく知っているわ。小たつちゃんたちもあのお店が贔屓よ」
其のやり取りを聞いていた山添の顔つきを見て山川が「何か知っていそうだな」と問いただした。

「はっ、昨晩最終で前の席に座った妙齢の婦人が板新道の小たつと名乗りました」

「可笑しいなそれで。其れとお前自慢のスカーフをしていないな」

「はっ、昨晩の夫人が羽織も道行きもおまけに頭巾もせずに寒そうなので与えました」
当時流行りだしたおこそ頭巾は外出時の防寒に最適と町を行く婦人の多くがしていたのだ。

それだけかと山川は徐々に山添の話しを引き出しにかかった。

「最初から順をおって話せ」
一度聞き終わると改めて整理させるように話しをさせた。

話しが終わると溜まらず一堂が笑い出した。

「何か可笑しいですか」

「其の話だと鈴江ちゃんは律儀に一円を車夫にやってしまいますわね」

「其れが何か」

「板新道をご存知」

「確か竹川町と言っていましたから駅から其れほど離れていませんようで」

「新橋から普通二銭から五銭も張り込めば充分ですのよ」

寅吉が笑いながら「俺のせいだよ、珠街閣から横浜駅まで二円貼り込むように山添中尉に話しをしたせいだ」と一同に話した。

「浅草から円太郎や鉄道馬車で新橋停車場まで通しなら二等で五銭、人力なら十二銭、鉄道の上等で新橋横浜を往復でも二円ですわ。中尉はものすごい事をされたんですわよ」
鉄道馬車で浅草から新橋まで3区間、1区間二銭で一等は三銭だ。

「其れでですか、僕が横浜駅で一円のチップを出したら灯り持ちと二人して駅へ入るまで見送っていたんですよ」

「一円余分に出されたんですか」
寅吉もそれには驚いたようだ。

「こいつはお坊ちゃまで金の値打ちを知らんのですよ」

「そんな事ありませんよ、自分も本省から新橋駅まで普段なら五銭以上やった事はありません」

「でも人を見る眼はいまいちですわ。小たつは今年一本になったばかりの十五才ですわよ」

「エッ、どう見ても十八か九に見えました。幾ら夜目とは言え驚きました」

「しかし鈴江も困った物だ、直ぐ一目ぼれするくせに手を出されると嫌気が起きるのも母親譲りだ」

「家へ来ればいいのに、世話になったという小川様にもお礼を言わないといけませんわね」

「来週東京へ出たら竹川町と木挽町へも顔を出すさ。容も一緒に来るかい。八十松に了介を預けて一緒につれてゆけば楽ができるぜ。たまには福井町にも顔を出したらどうだ」
話しが一段落する頃ケンゾーが上がってきた。

「此処に一万円の手形を三枚用意してきたからお春さんが預かってくれ」

「このような大金、女ずれで持ち帰れませんわ」

「では旦那にお願いしよう。よろしいですか」

「良いだろう、来週この人たちと健太君が東京へ戻る時に一緒に行きましょう。俺のほうの金も手形で用意して付いていくよ」
話しが決まり八十松と千代を此処へ呼んで来週は東京へ出ると言う話しをしておいた。

「そうだ八十松君は店を持つという話だが何時ごろだい」
ケンゾーはどこかで其の事を聞いていたようだ。

「まだ三年は先の話です。自分である程度覚えたら本格的にどこかで修行しませんと」

「それで国へ帰るのかい」

「いいえこの横浜で店を開きたいです」

「それなら其の時はわしと旦那で資金の面倒を見させてもらうよ。何利息など要らんよ気にしなさんな。共同経営の幾許かの権利で十分さ」

「そうだな資金は充分用意するから八十松が六割わしとケンゾーで四割として置けば良いだろう」

「でも五百円は用意しないと店を開けないと聞きましたがあと三年でそんなに貯められません」

「千円もあれば綺麗な店を開いても大丈夫さ。二人で五百円ずつ出すからそいつから六百円を貸すから株の資金に出せばいい。残りの四百円が二人の株さ。店に五百円運転資金に五百円後は八十松の腕次第だ。自分の金は万一の資金に預金しておきなよ。俺のお勧めは正金か安田だ」
ケンゾーも美味い洋食屋が一軒増えれば横浜のためだと八十松を応援する気だ。

女達と千代に八十松も下に降りて3人になると「この中尉は遊び人でな、陸軍大学へは行かんで良いとわしの副官のまま予備へでもやって呉れと言うのだよ。出世もしたく無いらしい。ビリヤードの腕は良いそうだ。さっきから台が気に為っているのさ」山川がそういうと待ってましたとばかりに寅吉に「やっても良いですか」と言って自分で上の板を片付けた。

すこし手慣らしをしてすぐに30を突いて見せた。

「たいした物ですね。すこし名人に教われば50くらいは行きますぜ」

「どこかいけないところでも」

「姿勢ですよ。玉を追うよりも見ているものに見栄えが良いかを気にする余裕が出れば成績も安定しますぜ」
寅吉はその場で背筋を伸ばし簡単に40を突いて見せた。

「こりゃ驚きだ。鹿鳴館へくる各国の公使館の者でもなかなか突きませんよ」

山添は感心して両脇から見てもらいながら突いてみて「すこし窮屈ですが暫く姿勢を気にしてやって見ます」と寅吉に礼を言った。
山川は20を突くのがやっとで「俺はこれ以上は上手くならんだろうな」とあきらめ顔だ。

7時15分に千代が電信を持ってやって来たので千代も立ち合わせて其の電信を約す事にした。

「上海12日15時(東京時間)作製電信文。次電無し最終電信。千歳丸出航の遅延理由9日朝英国領事スコット来館、米公使フート等の要請。死亡確認士官、歩兵大尉磯林眞三、兵3名。民間人を含む36名合計40名。10日米海軍士官引率、日本人16名、支那兵および朝鮮兵の護送付き仁川居留地到着。夕刻米公使、英国総領事、独国総領事、漢城より来館。朝鮮国王、日本にたいし悪き感触は無いことを伝えるように要請の由。11日朝鮮政府督弁書簡内容、日本を非難。榎本公使、ユアンシーガイ等の上申書内容入手可能近日報告か」

8時の列車には間に合わないので待機させっぱなしの臨時列車で戻る事にした二人は人力車を呼んで駅へ向かった。

「今回世話になった埋め合わせはいつかさせてもらうよ」
寅吉と千代に見送られて山川はそう言って笑って駅へ向かったがその顔は車夫が梶棒を上げると引き締まった。

「さてみんなお薗ちゃんのほうへ行ってしまったようだが、亀ちゃんと静ちゃんはどうしたい」

「付いてゆきましたよ。会が終わってからお容様と川角(かわずみ)でお食事をするそうです。洋館でお泊まりと決まりました」

「お薗ちゃんの出番は最後だったか」

「そうです」

「なら俺たちも顔を出してお前のところへ行くか。八十松が容たちと行かないなら誘っても良いな。後身体の空いてる奴がいたら誘おうぜ」

「判りました」
二人は店を当番の手代に任せてその日の会場に使っている従業員のための大広間のある家に向かった。

50人は楽に座れるはずが玄関先まで人が溢れていた。

「いいところへお着きで、これから真打ち登場ですぜ」

「こらこら、真打ちなぞというなよ。大師匠に聞こえたら具合が悪かろう」

「其の大師匠が先ほど今回の真打ちは玉之助ですと断りを言われて最初に壷坂をやられました」

「そうか其れは残念な事をしたものだ」
板敷きには詰めあって80人ほどが座っていた、長屋が空になったんじゃないかと思うほどだが座っているのはかみさん連中で表に立っている亭主連をよそに玉之助が母親と舞台に現れると盛大に手を叩いた。

年の内に春は来にけり一臼に餅花開く餅搗きのサッサ、搗け搗け、エイサッサと始まると会場は曲輪文章吉田屋の段を一言も聞き漏らすまいとしんと静まり返った。

寅吉も2人分の隙間を開けてくれた板戸脇から其の声に聞きほれていた。

私に恨みがあるならばこなさんにも恨みがある。去年の暮から丸一年、二年越しに音信なく、それは幾瀬の物案じそれゆゑにこの病。痩せ衰ふたが目に見えぬか。煎薬と煉薬と針と按摩でやうやうと命つないでたまさかに逢ふてこなさんに甘ようと、思ふところを逆様な、コリャむごらしいてどうぞいの。私の心が変ったら踏んでばっかり置かんすか。叩いて腹がいるかいな。コレ死にかゝってゐる夕霧ぢゃ。笑ひ顔見せて下さんせ。エヽエヽエヽ心づよや胴慾な、憎やと膝に引寄せて恨みつ泣いつ声をあげ、空に知られぬ袖の雨、隈なき夜半の月影も曇るばかりに見えにけり。ほんの女夫ぢゃないかいな。

真近にいる健太は其の声を聞いて感動していた、幼い声のこの少女が持つ雰囲気は夕霧の切ない気持ちを充分に表現していた。

名を万代の春の花見る人、袖をぞつらねける。

そして今日の話は其処で終わりを告げ観衆は立ち上がって舞台の近くへ寄り集まり口々に良い出来だと薗を褒め称えた。

寅吉は千代と表へ出て「八十松め健太たちと前にいては中々出てはこれまいから二人でたまには酒でも飲むか」と川筋へ出て安倍川へ向かった。

「ねえ旦那、夕霧が子をなしたのは15という話でござんしょ。今日話しが出た小たつさんが男と出来ても不思議はござんせんね」

「そういうことだ。母親のほうも好きな男が出来たら好きなようにさせたいと言っていたが、そろそろ父親の事もきちんと話してやるべきだろうな。その前に弟の武之助さんに会うべきだろうな」

「確か石井さんの同僚でしたか」

「そうだよ。今日済物浦へ出かけた栗野さんの部下の一人さ。去年まで東京府に出仕していたが伊藤さんや井上さんが引っ張ってくれたのさ」
鮫島武之助は今年30才、慶應義塾を出てアメリカへ留学後に東京外国語学校教師を勤めたこともあった。

「では今度東京へ出たらお会いしますか」

「石井さんに頼んで都合をつけてもらおう。小たつとは其れを知らせずに座敷へ呼んで顔を見せた後、別口で話しをしておこう。きみ香にも納得させないといけないしな」
関山鈴江が生まれた明治3年、鮫島尚信は東京府権大参事から大参事へ昇進し8月には外務大丞そして9月には欧州へ旅立ったのだ。

鈴江が4才の時一時帰国してそのとき3度ほどあったそうだが、そのときからきみ香には鮫島が再び日本へ戻らぬ予感でもあったのであろうか、父親として甘えさせる事はしないで欲しいと鮫島はきみ香に頼まれたそうだ。
パリで亡くなる前年、正太郎に夫人には内緒で持参した写真を預けたのは本人にも自覚が有ったのではないかと思われるのだ。

一瞬寅吉は母の顔を思い出して鈴江やきみ香の顔と比べて考えたがまるで違うし鈴江の顔とはすこしも似ていないと自分でもその考えが可笑しくて笑い出してしまった。
長い付き合いの千代はそういう寅吉を見て勝手に何か商売のヒントでもまた掴んだようだと何時ものように誤解していた。

「小たつさんの事で思い出しましたがお軽さんからの話しを聞きましたか」

「容が言ってた櫓下の玉助という娘かい」

「ええそうです。移籍料に二百円欲しいと言ってきたそうですが、承知なさったのですか」

「其処までして養女にしたいというからには何か見込みでもあるんだろうぜ、どうせ衣装一式共に買えと言い出すだろうから容には此方から三百円で一切合財引き取らせてしまえば良いと言っておいたよ」

「まだ12才くらいだそうですぜ、それほどの衣装や飾りを持ってるとは思えませんぜ」

「お軽にも新橋へ出てきてもらうつもりさ。福井町を今度はもも代に引き継がせても良いからな」

「しかし新富座開場以降の櫓下は最近火の消えたようだそうですが、公園の整備が終われば浅草もまた息を吹き返すでしょうに。手放すのはよほど内情が苦しいのですかね」

「其れだ其れ」

「何ですかい」

「ほれかめ子の話さ」

「あ、芸者になりたいという話ですか、まだ3年は先でしょう」

「置屋の株など値打ちも無いがお春さんに言ってその家を手に入れておけば何時でも使い道があるさ。半玉も来年学校を出たら内箱でもつけて経験させればいいことだ。待合に料理屋は無理でも置屋の一軒や二軒大して金が要るわけじゃないから赤字が出ない程度に芸で売る娘を幾人か抑えさせれば良いさ。幸いケンゾーの金が生きる事になる」

「そういえばよいタイミングで金を出してくださいました。縁があるのかもしれやせんね」

「最近は俺のお株を奪うほどお前のほうが先が見えるようだ」

「冗談言っちゃ困りやすぜ」

「そうかい、それじゃ俺の千里眼でお前の息子が東京大学の先生になると言うのはどうでぃ」

「幾ら学年で一番だと褒められてもね。東京大学は無いでしょう。入ることも難しいのに先生とは冗談でしょうね」

「其れがな。そう馬鹿にしたもんでもなさそうだ」

「お鳥には言わんでくださいよ。あいつ俺以上の親ばかで中学は東京へ下宿させても良いと言う始末ですからね」
二人でそんな話しをしているまに長者橋の安倍川に着いた。

東京大学はこの当時唯一の大学で明治10年(1877年)4月12日に東京開成学校と東京医学校が合併して設立された。

後に帝国大学令(明治19年・1886年)の公布によって東京大学と工部大学校(元の工部省工学寮)を統合して「帝国大学」に改称・改組された。
このときに大学院も設置される事になった。

お鳥も部屋に呼んで浅草の置屋の話しをし、玉助という娘をお軽が養女にほしいという話と玉助の居た置屋の株を買い取って奥山付近に家を建てて持って来ようかと言う相談をした。

「武郎だが東京へ行かせるのか」

「ええ、うちの人がなんといったか知りませんが、旦那聞いてやってくださいよ。あたしゃ無学ですがやっとの思いで授かった子が先生にお前の息子は努力家で頭も人一倍優れているといわれて其れを手助けするのが親の務めと言うことぐらいは判りますのさ。此処のところは来年にもぜひとも東京へ出すつもりです」

「そうか、俺も応援してやるよ。何処の中学へやるか親子でよく調べていい学校を選びなよ」

「決めていますよ。あの高橋さんが校長をしなさってる共立学校ですよ。なんと言っても東京大学の予備門への合格者が多いと言うことを聞きました。4年もしくは5年で駄目なら東京大学でなくとも学力に合ったところへ入りなおせばいいのですからまずは其処へ入れて後は本人次第です」

東京大学予備門は明治10年(1877年)東京英語学校と官立東京開成学校普通科(予科)が合併し、東京大学予備門として設立され、明治15年(1882年)東大医学部予科東京法学校予科と明治18年(1885年)東京外国語学校仏学科・独学科を併合した。

明治19年(1886年)帝国大学令・中学校令に伴う改正で、工科大学予科を併合し第一高等中学校となり予科三年、本科二年とされた。

明治27年(1894年)予科が廃止され本科三年として高等学校令により第一高等学校と校名が定められた。

「ダルマも偉くなったものだがそいつは最高の選択だ、ヘボン先生のところにいた鈴木知雄という人も其処で教えているそうだ。神田相生橋は安倍川町からでも連雀町からでも近くて良いぜ。千代も諦めてお鳥に任せるんだな」

「旦那、相生橋はもとの昌平橋でござんしたよね、洪水で流されて食い違いの下流にあの木橋のままでは不便でしょう。学校は阿部主計さまの練塀を壊して出来た坂道を駿河台へ登る途中に出来たと聞きましたが」

明治5年(1872年)筋違見附の取り壊された石材を使い、翌年筋違橋の場所にアーチ二連の石造りの橋が完成、東京府知事大久保忠寛は萬代橋(よろずよばし)と命名最近は萬世橋とかかれまんせいばしと街の中で言われだしていた、昌平橋は相生橋と名前が変わり明治6年8月の洪水で流され萬世橋の下流に木橋で架けられてこの当時二厘の橋銭がとられていた。

「そうだよ。お前の親たちも孫がそばへ来れば喜ぶぜ。もう諦めてお鳥のいう通りに任せるんだな」

「そうしますよ。何処へ下宿させるかはお鳥に武郎も交えてよく話し合って決めます」
千代も寅吉がお鳥の味方と知り我を通す気も失せた様だ。

お鳥が寅吉の為に火の気を増やし部屋を暖めてビールで3人で武郎の将来を祝って乾杯した。

明治17年(1884年)12月15日月曜日

朝一番で新橋へ出た一行は健太を力車で送り出すと駅前の鉄道馬車の停留所へ向かった。
直ぐに二頭引きの馬車が来て14分ほどで着いた日本橋で降りると江戸橋へ回りこみ橋を渡ると魚河岸の脇、荒布橋で西堀留川を渡れば小舟町。
三丁目の安田銀行へ一同で入り高木春の名義で三万円の口座、島田夏の名義で十万円の口座を共に同銀行横浜支店の手形で払い込み印判とサインの確認をして通帳をわたされた。

「浅草寺近くに支店を開く予定は無いの」

「今田原町付近に探しているのですが」
行員はすこし不安そうな表情で答えた。

「支店が出来ればそちらで引き出す事もできるかしら」

「はい其れは大丈夫で御座います」
行員は口座を移すといわないのでほっとしたようだ、銀行の表まで見送られ、荒布橋を渡り人通りが少なくなってはいたが魚市場を避け、来た道を逆に歩き日本橋の停留所でお春たち4人を見送り「まだこんな時間じゃきみ香をおこすのもかわいそうかな」と時計を見ながら容と相談した。

「まさか、10時を過ぎていますのよ。もうとっくに起きたでしょうがエイダのところへ顔を出して紅茶でも頂きましょうよ。手紙を書いて連絡を寄越すように挟んで置けば済みますわ」
そうするかと寅吉は八十松に持たせた鞄から紙と鉛筆を出して走り書きをし、川筋を白魚橋まであるき、橋を渡れば金六町、三十間掘川側沿いを木挽橋まで歩き尾張町新地から板新道へ入り新松屋の前まで進んだ。
ハンケチで一円を錘に結んだ文を格子戸から中へ落とし路地を左へ曲がれば三十間掘の川筋へ戻り、出雲橋で堀を渡り8丁目のピカルディに向かった。

11時半を過ぎて表に止まった力車から小粋な女が降りたと思ったら鈴江だ。

「お待ちどうさま、お母さんも待っていますから家に来てくださいな。長寿庵に1時丁度に鍋焼きを届けてもらうように頼んでありますから。其れとアンパンは若い衆に頼んで買いにやらせました」
寅吉なにを思いついたか尾張町から銀座四丁目に移っていた木村屋の餡麺麭を買いにやらせるように書き付けておいたようだ。

「なに、コタさんは木村屋へ買いに遣らせたの家でもやっていますのに」

「其れも10個ほど包んでくれよ。神田へ土産にするんだ」

「淡路町ですか」

「そう店は淡路町と名が変わったが、おつね母さんの住まいは連雀町にあるのさ」
おつねさんはもう店に出ず、女中と下男夫婦に守られての楽隠居で好きな芝居見物や師匠連の会へ顔を出す日々だ。
横浜へ住まないかと言ってもいつも「この神田が良い」と言って動かないのだ、60を過ぎて昔の朋輩も少なくなって寂しいだろうと思いきや新しい知り人に誘われての名所巡りも楽しいようだ。

「そうだ、鈴江は家から此処へ力車で来たのか」

「ええ、家を出たら知り合いが何処へ行くと聞くので、パン屋のピカルディだというと乗せてやるからと言うので頼みましたのさ」

「それで祝儀も弾んだか」

「いやさ無賃乗車でござんすよ。金を出すと怒りなさるのですよ。この間も日本橋の白木屋まで行くと円太郎を待っていたら乗せられましたが10銭出したら怒られて其れからは向こうから乗れというときにはお足を出しませんのさ」

「こいつはたまげた。お前さんそんな贔屓がいたとわな」
あいな、と鈴江は得意げな顔をした。

「それなら駄賃はいらねえだろうが、こいつは特別に此処まで使いに来た駄賃だ」
寅吉は袱紗にくるまれたものを手渡した。

「あれさ、こりゃ前に頂いた物とそっくりですわ」

「覚えていたか」

「そりゃぁもう」
鈴江めとぼける気のようだ。

「その帯のあいだに見える財布の質札と引き換えだ。金は出してきたから札を返す約束だから寄越してくれ」
鈴江の顔が驚愕の表情に変わった。

「ほほ、あなた鈴江が驚いていますわよ」

「コタさんの旦那は千里眼だと母さんから聞いていましたが本当なんですね。それじゃあたしが横浜へ行ったことも」

「道行に羽織に頭巾までほっぽり出して逃げ出した事も知ってるよ。駅前のサロンで最終まで待って東京へ帰ったそうだな。なぜ店へ行って俺のほうへ言わないんだ」

「だって恥かしいもん」
口を尖らして可愛く言う様はこいつめ之で大人をごまかして味を占めたという表情だ。

「中尉はマフラーまで呉れたそうだな。車夫に一円のご祝儀をやったのか」
畳み込まれて驚きもいっそう強まったか足が萎えたように手をテーブルについてエイダが支えて椅子に座らせると震え出した。

お容が後ろへ回り「鈴江が困っていますよ。種明かしをしてあげなさいな。心配要らないのよ、あなたを責めているんじゃないの、うちの人の何時もの冗談よ」そう優しく血の気のうせた手をさすってやった。

「中尉は名前を言ったかい」
寅吉はやさしく聞いた。

「ええ山添中尉と。連絡で陸軍省へ向かう途中だとか、私に二円とマフラーを呉れ之を車夫に与えて降りる時に残りの一円を、ああ之は櫛をまげた時に四円しか貸してもらえずそれだけしか残してなかったので其れを祝儀に出せば道行きも羽織も着ていないことも車夫が忘れてしまうだろうと教えてくれました」

ほほ、と容が笑い「幾らなんでも新橋の駅から竹川町に三円出した芸者を忘れるもんですか、そのうち師走に羽織まで質に入れた様子の芸者がと評判になること請け合いよ」と摩っていた手が温まってきたのを確認して優しく肩を抱いた。

「あれあれ、小たつさんのことだったのね。うわさが幾つかあって板新道の芸者と言うのは同じで名前が小たつと小つまに小と代という風に幾つか聞きましたよ」
エイダと五左衛門が笑いながら鈴江にコーヒーを出しながら教えた。

「いやだぁ、もう広まってるの」

「そう、師走のさなか男に貢いで帰る途中だと言う評判で、相手は陸軍の将校と言うのからありゃ役者が変装していたと言うのまで聞いたよ」

「何であたしたちの耳に入らないのかしら」

「そりゃ時間帯が違うのさ。お前のところのおつんに聞いてごらん。町の八百屋か魚屋で聞けば話しが膨れ上がって面白い事が聞けるぜ」
鈴江がコーヒーを飲み終わると容が支払いをして店を後にした。

先頭は了介と手をつないだ鈴江でしんがりを八十松が歩いた。
板新道の新松屋へ落ち着くと直ぐに長壽庵から熱い鍋焼きが届いた。
汁に天麩羅の衣が溶け出しごま油のよい香りが漂い冬というに汗が吹き出す中、美味しく蕎麦を食べると待ちかねたようにきみ香が寅吉に尋ねた。

「コタさん今回は何の用事ですの」

「ほら其れだ」
鈴江の懐を指差したので袱紗ごときみ香へ手渡した。

「あれ何時の間に」

「旦那の千里眼で見抜かれたの」
途中で町の噂話に変わった続きの話しを容が朝鮮の話しを省いて二人は旧知の山川大佐について山添中尉が店に寄ったという風に話しをした。

鈴江はその話しが終わると座を立って片付けをしているおつんを手伝って台所へはいり暫くすると戻り「旦那の言うとおりもう町の噂になっているそうです。おつんは知っているのを黙って聞いているのは辛くてと零しています」とおつんにどういう話になっているかを話させた。

「まさかそれだけで揃って東京へおいでですか」

「いや今日は浅草公園の建物の移動で金が居ると言うのでお春さんとお夏さんたちと小舟町の安田に金を預けに来たのさ。此処はつけたりで之からおつね母さんのところへ行くのさ。其れとお軽が養女に欲しいという娘の事もあるのでそっちは容の掛かりだ。了介は3日ほど八十松と西洋料理屋めぐりだ」
中尉の話しを色々と鈴江に話させると話しに齟齬は無いようだが世間知らずの二人にはきみ香もあきれるばかりだ。

「何かいこの間二円呉れたという金を全部車夫に上げてしまったのかい。おまけに一円の心づけだってお前の線香代は幾らだと思ってるんだい。まったくしょうの無い子だよ」

「お金の計算などした事無いわ。あたしの線香代は幾らなのかあさん」

「もう、あんたのは今三本のお座敷でいただけるのは三十銭だよ。売れっ子の萬歳(まんさい)さんや徳松さんでも一円だよ」
平座敷二時間四本と計算されているそうだが見番では三本で二時間のお座敷としていた、客には一円の玉代と請求しても検番を通して置屋へ入るのは一本とはいえ新米ではそんなものだ。

「お約束のお座敷のある日にお約束前に後があっても一円、あんたがあげた力車代にもならないよ。幾らお座敷が好きなあんたでもご祝儀を計算に入れて月に五十円が良いとこさ。番付で有名なよし町の小辰ほどに売れればあんたも稼げるよ」
東京名家五幅通意当娯覧各業見立が出されたのはこの年の3月、芳町の小辰と〆子に米八、新橋はおいくに山登さらに清吉、日本橋で〆吉に喜久次と梅吉、柳ばしの小秀、山谷堀で小さんなどは一気に有名人の仲間入りだ。

この時代五十円は大金、五人家族で女中も二人ほど置いても楽に暮らせるのだが、掛かりだけでも三十円は出て行く芸者では二枚鑑札でも百円程度稼がないと楽ではないようだ、旦那持ちと言っても中々100円出す事は少ないのだ。
中尉クラスで70円、大佐で250円の給与は当時の人たちにとって相当な高給取りだ。
新松屋は後一人の抱え芸者に看板借りが二人いるので4人の芸子にあと半玉二人、置屋としてはまずまずだ。

「其れはともかくきみ香に頼んでおきたい事も有るので寄ったんだが、福井町を次の女将にもも代を指名してお軽を来年秋には金春新道に新しい置屋をここと同じようにまつ吉と共同で開こうと考えてるのさ。将来はからす森にも幾軒かを考えては居るんだが」

「お軽さんは良いですが芸者はどうしますのさ。その養女の娘はまだ12くらいだそうじゃ有りませんか。福井町は小ゑいがもうじき一本のお披露目が出来るから其れですむでしょうが」
話は聞いているようだ。

「そいつも考えてるよ。一枚の中には借金を抱えてるのもいるだろうから、いい娘なら引き抜いてもかまわねえよ。金は何とかするから二枚の娘は別口に回してくれ。15から18くらいの娘をそろえたいのだ」
寅吉は淀屋さんの没落以後は木挽町松屋を含めて三軒の置屋と料亭のはつ花に月に300円の金を予算として足が出たところへ補填していた。
寅吉はからす森は浜の家、築地は瓢家か新喜楽、木挽町は元一の橋今の木挽橋近くのたか源、もちろんはつ花へも顔を出していた、と言っても年に直せば3度も顔を出せばいいほうだ。

「明日の夜に新喜楽に部屋を予約してくれないか。小たつにあと3人ほどに半玉をいくたりか呼んでくれ。こちらは4人の予定だが人数の変更が出たら明日の午後3時までに新喜楽へ直接連絡をするよ。部屋が取れないときは他を当たってくれないか。今日は神田へ泊まる予定だ」

「時間は7時くらいで良いですか」

「そうしてくれ、8時でもいいからできるだけ新喜楽にして欲しいんだ」

「判りました」

新喜楽は10年前の明治8年に伊藤きんを女将に始めた料亭、政府の役人でもあまりわがままは言えない店だ。
2時半過ぎ新橋の停留所から萬世橋まで出ておつねさんの家に寄った。

格子戸を開けると中から聞こえるのは、あの花が 咲いたそうだが 羨まし さっと雨もつそのときは 妾(わし)もあとから咲くわいなだった。

小唄のおさらいをしにお葉さんにお弟子のさきを呼んで人が集まっているとかで大勢が家にいたので餡麺麭全てに横浜土産を渡して元気な顔を見て「3、4日はこっちに居るからまた顔を出すよ」と仲間に残りたい容を残して淡路町の店に向かった。

お葉さんは清元お葉、このとき四十五才になり四世延寿太夫の妻女で二世延寿太夫の娘だ、さきとは横山さき、お葉さんの弟子筋の有力者、おつねさんとは20年来の師弟で今日も忙しい中を出てきてくれていた。

店で部屋に落ち着くまもなく寅吉は力車を借り切って夕暮れの街を麹町の外務省へ向かった。
石井の仕事場を訪ね同僚の鮫島と二人を明日築地の料亭に招待したいと都合を聞いた。
石井と鮫島は共にこのとき大書記生で軍の中尉に相当した。

「明日で良かった、今晩は夜中まで仕事だ」
鮫島はそう言って「店はどこだい、時間は」と聞いた。

「築地三丁目の新喜楽です」

「おおっ、其れは凄いところだな」

「其れですがねまだ予約の確認が取れていないのですよ。一応8時、もしくは7時と連絡させているのですがね。采女町の精養軒に6時に集まる事は可能ですか、お茶でもして時間をつぶして行こうと思うのですが。予約が駄目なら他にしても其処で集まればどうにでもなります」

「よし其れでいこう、あと誰がくるんだい」

「私とお二人、後一人二人増えても大丈夫ですよ」

「では一人追加させてくれ。同じ鹿児島のもんだ」

「判りました。お三人招待させていただきます。其れと鮫島様にちとご相談が」

「ではこっちに来たまえ」
鮫島の後から応接室へ案内されると「実はお兄様の忘れ形見の鈴江ですが、今15になりまして父親のことを教えておこうと思うのですが、あなたを叔父とは紹介しないまでも顔だけでも見てやって欲しいのですが」

「そうかあの娘ももう15か、良いでしょう。わしも兄の子供に会うのは初めてなのだ、どのような娘に育ったのか知りたいと思っていた」

「ありがとう御座います」

「それでその娘に鮫島の名を名乗らせないと言うのはどうしてなのだね」

「其れはお兄様と母親の関山君子のあいだで決められた事なので私にはわからないのです」

「まぁ良いでしょう。其れも人生だ。生活に困る事は無いのかね」

「其れは無事に過ごして居ります。芸者と言うことはご存知の通りですが自前で出ておりまだ決まった旦那はおりませんし好きな男が出来ればいつなりと辞めていいんだという事は親娘とも承知でございます。母親も置屋を辞めても生活の困ることも無いようになって居ります」
鮫島武之輔は其れで納得してくれたようだ。

これから何処へ行くと聞かれ「ひとりなので団子坂へでも出て蕎麦でも手繰るか淡路町へもどって連雀町の支店、もしくは新しく近所に出来たまつやのほうへ行くかと考えています」と答えた。

「コタさんは鰻好きだと聞いたが蕎麦好きでもあるのかい」

「ええ、自分で店を四軒持っていますが其処は職人に好きにやらせて自分は適当に食べ歩いて居ります」
鮫島は呆れたように寅吉を見て「鰻屋はやら無いのか」と言い出した。

「うなぎやはどうもね。食べ歩くには良いですが店までは」
可笑しげに寅吉を見ていたが「面白い男だよコタさんは」とついに笑い出した。

「最近大倉や安田とは飲むのかい」
尚信から青森へ船を仕立てて銃器を運んだ話や義兄弟の盟約を結んだ事などを聞いた事があると武之輔は思い出したようだ。

「横浜へ来ればお呼びがかかりますが二人とも忙しいようで中々機会が無いのです。今年は五回ほど位で三人揃うのはめったにありませんね」
その後尚信の思い出を二人で語り寅吉は庁舎を後にした。

月明かりの無い道を車夫はカンテラを揺らし日比谷門から鍛冶橋へ出て一石橋から竜閑橋で鎌倉河岸を回り神田美土代町(みとしろちょう)を抜けて雉子町の養繧堂東京店の前から萬世橋を抜けて神田明神から本郷へ湯島坂を登り駒込追分から千駄木の通称団子坂の藪下にある蔦屋へ、ほぼ一時間の道のりを車夫は駆け抜けた。

「いつもながらたいしたもんだよ。一緒に蕎麦を手繰ろうぜ」

「旦那のお供であちらこちら食べさせていただくのでお客に聞かれたとき何処がよいでしょうと勧めるので喜ばれるのでござんすよ」

「そうかい、そいつは好都合だ。俺も一人で蕎麦を手繰るより仲間がいたほうが食も進むのさ」
車夫の元助はまだ30前だそうだが酒はやらない代わりに甘いものと蕎麦好き、鰻好きだと言うことで寅吉のお気に入りだ。

「しかし旦那も好きでござんすね連雀町の藪とお店を通り越して此処まで来られるとは」

「此処わな座敷で食べる上客も入れ込みの俺たちのようなものでも区別無く大事にしてくれるので気にいってるのさ。今は二代目だそうだがいい職人も多く手を抜かないのも評判だ」
元助と二人で店に入り夜に入っても多くの人がいる中を小上がりに案内させて燗酒二本に元助のために玉子焼きを二つ頼んで女中が伝えに去ると「そばはせいろかい」と聞いた。

「へえ旦那あっしは月見でお願いしやす」
遠慮しないのも元助のいいところだ。

「そうかい、では月見にせいろを2枚だ」
酒と玉子焼きを運んできた女中に頼んだ。
玉子焼きは元助に二つともやり寅吉は手酌で蕎麦が来るまでゆっくりとやりだした。

帰りは池之端七軒町へ出て湯島天神から広小路の馬車鉄道に沿って萬世橋へ向かった。
店では賑やかな声が外に漏れていてきみ香にお軽も来て容に三味を弾かせて遊んでいた。

「賑やかだな、今日の小唄をおさらいしてるのかい」

「あれさ今日はあっさりとご帰還のようで、さては振られなすったね」

「茶屋遊びは明日だぜ、今日は招待する人の都合を聞きにいって、今飯代わりに団子坂で蕎麦を手繰ってきたばかりだ」

「之ですもの、うちの人と食事をしていたら体が可笑しくなりますよ。昼に鍋焼き、よるはもりと来てはねぇ」
たぐると聞いて容は盛り蕎麦とわかったようで、二人の女将もそれに賛成だと笑い声を上げた、粋筋のお座敷では今小唄を爪弾きで贔屓の芸子にやらせたがる客が増えているので女将たちも新しい曲には敏感だ。

「明日は石井さんと鮫島さんにあと一人を招待した。武之助さんを鈴江に会わせるのが目的だが叔父に当たるとは知らせないつもりさ。向こうも兄貴の子供の顔を確認するだけで其れを納得の上で来てくれる事に為ったよ。鈴江には後で尚信さんが父親だと教えるつもりだが其れでいいか」

「あい、あたしもそろそろコタさんの許しが出たら教えるつもりでしたのさ」

「では明日はお軽と容に浅草で玉助の移籍を決めてしまおうか」

「旦那、本当に三百円も用意されるのですか。それに話しが合えば置屋の株もお春さんに買わせるとか」
女達はそのこともあって集まっていたようで寅吉は全て容の裁量に任せると伝えた。

「あなた明日の新喜楽さんは7時から四人でのお座敷の予約が取れたそうです。それで隣座敷も押さえたそうで倍に人が増えても連絡は要らないそうで御座いますよ。芸者衆も鈴江はともかく小つまという半玉ながらよい娘を抑えましたそうでおいくさん、徳松さん他芸達者のお約束も取れました」

「そいつはいいことだ。座敷も誰に飛び入りされても何とか為ると言うことだな」

「それでもお偉方に来られては石井様たちが困りますわよ。出来れば身分の下の人になさいませ」

「そうだな用心しておこう。お偉方には違うお座敷にでも招待と言うことかな」


明治17年(1884年)12月16日火曜日

朝八十松に10円を細かく分けて預け、了介には首から提げるお守り袋に十円札二枚と一円銀貨五円金貨を入れて迷子札の確認もした。
5年前に比べ米の値段は半分に落ち、町では一升の白米が六銭の時代二人で三十六円を持って出かければなにがあっても困る事が起きようはずもなかった。

二人が行く予定の精養軒のランチは六十銭でコーヒーが付いたし、ディナーでも上級で一円八十銭。

幕末の横浜開港時代と同じように明治13年には金貨銀貨の海外流失が起き日本の経済は落ち込んでいた。
翌年政府は改造紙幣を発行したが一円銀貨に対し一円六十九銭でしか通用しない事態が引き起こされた。
翌々年明治15年には日本銀行条例を公布し日本銀行の営業が開始され、明治17年に入り一円銀貨に対し紙幣は一円十銭前後を行き来しだしていて紙幣への信頼は付き出していたが朝鮮の事が公になれば銀相場の高騰はまぬかれないのだろうと寅吉は思っていた。

容と寅吉に見送られて二人は人力車で深川へ向かった。

まだ川向こうまで鉄道馬車が行っていないためだ、容の二親と藤吉夫婦への土産と口上を伝えに行かせたのだ、八十松にはその後上野に回り精養軒で食事をして日暮れまでに一度戻れば良いとしてあるのだ。

容と寅吉は連れ立って隠居所に向かいおつねさんと茶飲み話をして福井町へ歩いた、茅町まで馬車鉄道も通じているが柳原土手を歩く機会はめったに無いからだ。

「久しぶりですわ、貴方とこうして歩くのも」

「そうだな、たまにはいいな。普段は馬車だ人力車だと歩くよりも時間が忙しい事ばかりだものな」
お軽には11時と約束してあるのでまだ小一時間の余裕を見て連雀町を出たのだ。
神田川に沿って浅草見附に出て両国広小路の雑踏を隅田川まで出るといまだ木橋のまま隅田川に掛かる両国橋を眺めた。

「此処はまだ鉄橋にしないのですかしら、鉄道馬車が向こう岸へつながれば便利ですのに」
この時代まだ本所、深川には橋の向こうへ鉄道馬車は通じておらず、上野、新橋のあいだも鉄道馬車と円太郎が頼りなのだ。

橋を様々な形の自転車を引いて歩く人たちが見えた。

「あなたあのバイシクレッテは随分と昔の物もあるようですね、相変わらず車輪を直接回す型が多いようですわ」

「その様だね。正太郎が勧めていたチェーン式の型はあまり無いようだね。200円では殆ど売れないからね。正太郎もパリジェンヌ商会を諦めてスミス商会と手を結んでイギリスのスターレーやアルボンという人の工場に投資を切り替えたそうだよ。横浜でも製作しているがまだまだ高いからね」

「女性が袴かスカートで乗れるようになればもっと売れますのに」

「そうかもしれないな。梶野の親父にでも話して作らせるか」

「あまり入れ込まないでくださいよ。直ぐ他の事を忘れて夢中になるのは目に見えていますから」

「正太郎が送ってきた見本のローバーと言うのが改良できそうだぜ。パテントの引っかからない改良が出来れば良いんだがな」
そんな話しをしながら思い出の多い柳橋を渡り亀清楼の前で知り人に出会い暫く立ち話をして篠塚稲荷にお参りをし、茅町一丁目の第六天にもおまいりした。
榊神社と名が変わっても相変わらず第六天と土地の人たちは言っていた。

奥州街道の茅町の馬車鉄道の停留所には人が10人ほどもいて馬車が来るのを待っていた。
出来た頃は何処でも構わず乗る事が出来たが、最近は煩くなって停留所での乗り降りしか出来ないようだ。
線路を横切り福井町へ向かう二人の後ろから浅草橋から来る円太郎のラッパの音がした。
ガタクリ馬車の円太郎は鉄道馬車の路線と並行する道も走っていたし線路の無い道沿いにも入りこんでいた、此方は手を上げれば何処でも停まってくれるのだ。

福井町の家の裏も酒井家の屋敷から今は新平右エ門町となり小さな家が増えている、寅吉は勝の勧めもあり家の周りを買い入れておいたのでその地代家賃で木挽町を含めた置屋で赤字が出ても大丈夫にしてあった。
隣の老夫婦があの瓦解の時相次いでなくなりその時地主から両隣を含む3軒を先ず買い入れ、三丁目を殆ど買い入れたついでに酒井家で手放すと言うので五千八百両で買い入れたのだ。

その資金は大倉屋が政府に売った銃の代金のうちから賄われた。
福井町三丁目と新平右エ門町でもとからある十八軒と三十六軒の新しい家作を建て元淀屋さんの番頭をしていた堀田八郎右衛門というたいそうな名前の老人夫婦を差配として初音屋の隣に入ってもらった。

庭の中でも泉水の周りは公園のように残して淀屋さんの隠居所を建て、家作の物は自由に入れるようにして管理をするものを雇い入れておいた。

初音家は安政4年8月に此処を借り入れてから火事に遭わず大分古くなったがこまめに手入れもしているので根太に緩みが来ない限り建て直す必要が無いでしょうと言う頑丈な家作だ。
家の前には人力車が二台人待ちをしていた。

「此処を借りた時は建てて間もないようだったがそれでも30年以上過ぎたにしては両隣も綺麗なもんだな」

「あいな、よほど前の家主の人が気を入れて作らせたんでござんしょうよ」
その声が聞こえたか中からお軽が顔を出した。

「よいところへおいででした。頼んだ人力車もついいましがた来たばかりでござんす。辰さんもう暫くまっておくれな。お容様と旦那は中へお入りくださいな」
八畳には抱えの芸子三人と半玉二人がいて寅吉達に挨拶すると隣の六畳間へ移った。
神棚の下にお軽を座らせ「もも代さんは話しがあるので此方へ」と容が呼び寄せた。

「皆さんも話しは聞いているでしょうが、今度半玉にお軽さんが養女にされる人が加わります。仲良くしてくださいな」
一同が声をそろえて「話はおかあさんから聞いて居ります。一同でその方を歓迎いたします」と答えた。

「それでまだ先になりますが、来年秋ごろには新橋に新たに置屋を増やしますのよ、お軽さんにはすまないけどその娘と新しい置屋を引き受けていただく予定です。此処はもも代さんにお任せするつもりで居りますが、芸者を続けたいなら雇いの女将を探すことにしても実際はもも代さんが此処のおかあさんです。また旦那が出来て身を引くなら其れはそれでお目出度いことなので歓迎いたしますので遠慮なく好きな男を作りなさいな」

「男はもうこりごり。旦那はコタさんで充分ですわ」

「あら、手も握ってくれない旦那でよろしいの」
お軽もそれには溜まらず笑い出してしまった、一年に二度くらい其れも一人で来る事がめったに無い旦那だ。
芸事が好きで男などいらないと言うのは本心か判らないが男嫌いのおきわさんも藤吉と相ぼれで世帯を持ったし、その前後にも此処から何人も嫁に出しているのだ。

半玉の娘にも「小ゑいさんがもうじき一本のお披露目も有りますし旦那を持って盛大にやるか自前でやるなら他の方のようにとらやが全面的に費用を持ちます。全て自分の気持ちを正直におかあさんへ伝えてくださいね」と話しをした。
お軽と容を浅草へ送り出して寅吉は久しぶりに冨松町の源兵ヱ店へ吉松を訊ねることにした。

最近若いかみさんをもらいまだまだ元気なところを見せている、神田佐久間町四丁目とこの富松町元地付近は名前が変わり新橋(あたらしばし)も美倉橋となって久しいのだ。
三倉といわれていた三つの倉地の角を曲がり藤見蕎麦の手前を左に入ると佐久間吉松と表札の出ている家が正面にある、工場は母屋の裏手側の三丁目が入り口だ。

玄関口から庭を回り事務所にいる吉松に窓から声を掛け工場のガラス戸を開けて中へ入った。

「久しぶりだ、鰻でも食いに行くか」

「出られるのか」

「あたぼうよ。最近は社長様で仕事は気休めくらいな物だ」
最近は飾り職から脱却して自宅脇の工房では昔の簪のほかに工芸品を作る職人を20人も雇っているので「自分はもっぱら趣味のように仕事をしている」と茶を持ってきたかみさんと笑って話した。
そのほかに近所のかみさんたちに卸す細工物も注文が多いのだ。

「明神下へ行くか」

「神田川か、最近お高くとまってると評判だ」

「社長様にはおにあいだ」

「コタさんこそ社長に会長、相談役といくつ顔がある」

「数えたくもねえよ」
此処へ来ると昔一緒に神輿を担いだ頃の口調に戻るようだ、前回はいせ源で泥鰌を大汗をかいて食べたのだがそのときは神輿仲間10人ほどが一緒だ。

二人は火除け地の秋葉神社通称アキバッパラの脇から一丁目の横浜物産会社の裏を抜けた、大通りの上野側に見える時計塔は京屋時計店、広小路を歩くと左手は相生橋だが「昌平橋としかいわねえよ」という有料の木橋、御成り道の線路を越すと先ほどから目立つ旅籠町一丁目の岩蔵こと水野伊和造の土蔵造二階建ての京屋本店の時計塔の下、その先湯島坂の坂下が明神下の臺所町、昔は御臺所町と丁寧に言った所、板塀をめぐらした店は先年の火事の後建て直されていた。

二人で座敷へ上がり佃煮でビールを頼み、うな丼が出てくるまで話しが弾んだ。

「冬は熱燗だと昔は思っていたがビールにしてから之が無いと食がすすまねえ」

「はは、吉松さんは酔えば何でもだと思っていたぜ」

「いゃ、ワインだ、シャンペンだとかは願い下げだ。ウィスキーにブランデーも試したがこいつが一番喉に合うようだ」
祭りの話になり今年の祭りは大荒れだったと其れは其れで話題になるのだ。
10年以前に政府の圧力に負けて将門様を末社に降ろし、新たに二之宮御祭神に常陸国磯前社より少彦名命を勧請した事が発端でこの年まで祭りを行う事がなかったのだ。
宍戸教部大輔(前名山縣半助)の指導によるとの噂も上がる中、当時の神主まで追放しての街ぐるみでの抵抗は間に教部省の廃止なども有り伊藤が宮内卿を兼務したこの年、福沢諭吉の仲裁が入り祭りが復活したのだ。

「でえてえ明神様を神社だとよ。稲荷も神社なら湯島天神までが湯島神社たあいってえなんだってんだ。のてにおすめいの官員様方にゃいかものが多いのかよ」

「将門様は本祭りでお怒りだぁな。四十六台も山車が出たが無事のほうがすくねえ位だったな」
寅吉は爺がよく電線ばかり張り廻らしやがって地中に埋めると言うことを考えねえのかと言っていたのを思い出した。
明治の末から電線に邪魔されて此処神田も横浜も大きな山車の運行が出来なくなったことを嘆いていたのだ。

「お怒りももっともだぜ。だがよ巡幸の順番は誰がなんと言おうと換えるこっちゃねえんだ」
まるで自分が祭りを背負っているような口だが寅吉もそれには同調した。

9月15日は大荒れで神田祭はこの後明治20年に四十本の山車が出たが盛大な祭礼も明治22年を境に不景気と電線架線などの影響を受けて各町に備え付けられるのみとなった。
明治25年の神田祭は台風・疫病流行の時期を避け祭は9月から5月に変更斎行された。

将門様はなんと末社に下げられた明治7年(1874年)から110年後の昭和59年(1984年)に再び本殿三之宮に奉祀されることになるのだ。

散々飲み食いして二人で二円三十銭、女中に十銭、下足番に二銭与えて店を出た、ビールを頼まなければうな丼は五十銭のものだ、安手の店なら二十銭も出せば充分美味い物が食える。

「ビールを5本も飲んだ割りに安く済んだな。今晩も付き合いがあるので俺は一眠りするから此処でお別れだ」

「俺も昼酒で疲れが出たから昼寝でもするか。炬燵で寝て風邪を引きなさんな」

「ハハ、寒がりはお互いだ。其れがビールとは可笑しな二人だぜ」

「次は芳町にでも誘ってくれよ」

「いいともお目当てのおしゃくさんでも出来たか」

「おきゃんで気の利いたのがいるから仲へ入れて呼んでみたいのさ」

笑いながら萬世橋の袂で別れた寅吉は橋の上で吉松の後ろ姿を見ながら川下にある木橋を眺めていた。

「確か俺の小さい時はあの橋はなかったような気がするぞ。萬世橋は御成り道から直につながっていたな」
酔いが回った頭は小さい頃の記憶を呼び出していた。

「神田に住んでいた時に何で思い出さなかったのかな」

そう思いながら上流の元の昌平橋のあったところの上に出来ていた橋にも電気鉄道の線路があったことを思い出した、駿河台にニコライ堂という建物があったことも思い出したのは其処に足場が組まれているのを見えたからだろう。
父親と神田へ出てきて聞いたのは萬世橋の架け替えが何度もあり昌平橋と萬世橋が何度も入れ替わったおかしな話しだ、横浜駅や東京駅によく似た萬世橋駅は正面に広瀬中佐の銅像が聳えていた。

「そうかあの時は東京駅から線路がつながったと言うので出てきたんだ。高架線で東京駅から此処へ来たのは琴が産まれる前の年の春だ、西郷さんの銅像を見にいったが上野まで東京駅から直接行けなかった様な記憶があるな。地下鉄も構想だけだったのかな」

一言一行(いちげんいっこう)潔(いさぎよ)く
日本帝國軍人の 鑑(かがみ)を人に示したる
広瀬中佐は死したるか

ふと口ずさんだ歌はあそこで見た銅像からの連想だろうか「このほかにも杉野はいずこと学校でみんなで歌ったものもあったな。今のは銅像の前で父が歌っていた奴だ」寅吉は幻の萬世橋駅が其処に見えたような気がして周りを見渡したが行き交う人も馬車鉄道も普段の通りだった。

萬代橋(よろずよばし)が萬世橋(まんせいばし)と呼ばれるようになり、川下に木橋で相生橋の昌平橋が出来ていたが、その昌平橋も昔の流された橋の上流側に明治32年に架橋され、木橋の場所には明治36年(1903年)新萬世橋が完成すると元萬世橋(眼鏡橋)は中央本線が新萬世橋まで延伸されることが決まった明治39年(1906年)に撤去され筋違橋以来の場所に橋はなくなった。

その新萬世橋は関東大震災で被災し修復が行われたが震災後の帝都復興事業地下鉄銀座線開通工事で神田川の水路変更が行われ下流に移転、そして昭和5年に元の現在の位置に再架橋されている。

昌平橋のほうも大正12年(1923年)に再架橋され被害を受けたが修復され昭和3年から5年(1928年〜1930年)にかけて修復及び歩道の増設工事が行われた。

明治8年の東京大小区分繪図には水道橋、水道樋の架かる駿河台の下流は萬代バシ、和泉バシのみが記入されていて、明治11年実測東京全圖には萬世橋と和泉橋のあいだに昌平橋が載っている。

萬世橋駅の建設が(設計辰野金吾・葛西万司)甲武鉄道により始まりその後国有化され明治45年4月1日に御茶ノ水〜万世橋開通と共に営業が始まった。

甲武鉄道は、新宿・羽村間を結ぶ甲武馬車鉄道としての始まり、後に計画は修正されつつ明治22年(1889年)に新宿・八王子間が開通した。
東京市街線の建設に着手した甲武鉄道は、(明治28年(1895年)には新宿・飯田町間を順次開通させていった。
明治37年(1904年)に御茶ノ水駅まで延伸した甲武鉄道は、明治39年(1906年)に国有鉄道となっていた。
その後、昌平橋仮駅を経て万世橋駅が開業した、煉瓦作り二階建ての駅舎は横浜駅にも引けをとらなかったが、大正8年に萬世橋〜神田〜東京間が開業するとターミナルとしての意義を失い乗客は減少、さらには関東大震災で駅舎は焼失、応急復旧しただけの簡素な駅舎となった。
昭和11年に鉄道博物館(昭和23年に交通博物館と改称)が万世橋駅に移転してきたが御茶ノ水・神田両駅から近いなどの理由により昭和18年10月31日限りで廃止されたが停車場変遷大辞典に運輸営業は之を休止すと記されていて廃止の通達は出ていないそうだ。

新しい新橋駅は明治42年(1909年)に烏森駅として開業しており東京駅開業に伴い新橋駅と改称、元の新橋駅は行き止まり駅のまま汐留駅となった。
大正3年(1914年)12月20日東京駅開業、設計・辰野金吾。
大正4年(1915年)10月15日二代目横浜駅開業、旧横浜駅は桜木町駅と改称、設計・鉄道院。

広瀬武雄は旅順港閉塞戦において第一回「報告丸」、第二回「福井丸」の指揮官となり、行方不明の部下杉野孫七上等兵曹(後に兵曹長)を捜索中にボート上で被弾戦死、遺体は胴体部分が陸地に漂着しロシア軍により埋葬され、死後中佐となり軍神として国民的英雄となった。 

八ツ小路(八辻原)に出て右手の道を行けば元の阿部伊豫の屋敷跡その練塀の後の道を上がれば共立学校、そのまま進んで新しい町屋が続く道を行けば観音坂の下にある虎屋本店。

「お帰りなさいませ」

「了介達や容は戻ったのかい」

「八十松さんと了介さんは一度戻られてすぐ寄席へ行くと出かけられました。お容様はまだお戻りでは御座いません」

「それなら俺は風呂屋へ出かけるから」
幸恵に下着の替えと石鹸にぬか袋を出してもらい松木湯へ出かけた、一銭の湯代に五厘の三助、昔の顔見知りとばかっぱなしを暫くして年があけたらまた出てくるのでそのときはゆっくりと飲み明かそうとの話。

店に戻り采女町まで人力車を頼んで築地精養軒に向かったのは5時20分。

精養軒のボーイに外務省の鮫島さんや石井さんたちが来ているか聞くとまだと言うので四人の席を頼んで案内してもらいコーヒーを頼んで寛いだ。
ベルトから煙草入れを抜いて根付けの大黒様を玩んでいると「待たせたかな」と鮫島たちがやってきた。

顔を知らないその紳士は「あなたが虎屋の寅吉さんですか。パリで鮫島公使や正太郎からよく噂を聞きましたよ。私は陸軍大学教授の新納武之助といいます」と優しげな口調で話した。

「あなたが武之助さんですか。お話は鮫島公使が一時帰国した時に伺いました。正太郎がパリではお世話になったそうでお礼を申し上げます」

「いやいや、世話になったのは私のほうですよ」
席についてそれぞれもコーヒーを頼んで年の話になった。

「コタさんは僕と同じで今年本厄の42ですよ」

「石井君も若いですが。寅吉さんも随分若々しいですな。私なぞまだ35だというのに随分ふけて見られますよ」

「そのほうが教授らしくてよろしいですよ。陸大はうるさ型が多くて大変でしょう」

「そうそう、東条君に会いましたかあれなどおとなしいほうですからね。何かあれば教授をとっちめてやろうという荒くれ者が多いですな」
コーヒーを飲みながら今晩行く新喜楽と呼んだ芸者の話題になった。

「最近は外務卿がお気に入りの浜の屋が人気だそうで伊藤様が張り合って新喜楽をご贔屓だそうですな」

「その様ですね。瓢家へ行く事も多いそうで鹿鳴館にいない夜は瓢家か新喜楽を探せというくらいだそうですよ」
鮫島が一同へそう言って顔を見合わせた。

「今晩あたりばったりですか」

「親玉が現れなければ構いませんよ。井上様は新喜楽へはめったに行かないそうですから」
鮫島が外務卿は例の事での相談事が忙しいのですよと言葉を添えた。
ハムと卵のサンドウィッチを頼んでコーヒーをお替りしたら直に6時50分になり勘定を寅吉がして4人は采女橋を渡り新喜楽まで300メートルほどの道を歩いた。

座敷へ通り座が決まり女将が挨拶に出た。

「これは新納(にいろ)様お久しぶりで御座います」
一同に挨拶をした後、新納には別に声をかけた。

「おかみさんも最近はお盛んなようで喜ばしい」

「ありがとう存じます、新納様にもご評判よろしく先ほどは案内の者にまで過分のお心付けありがとう存じます」
きんは其れで下がり仲居が直ぐに膳を整え「芸者衆を呼び入れてもよろしいでしょうか」芸者が勝手に座敷へ入っては来ないようだ。

「入れて良いよ」
寅吉がそのように言うと隣座敷の襖が開いて、おいく、徳松を先頭に小つま、小たつと続いて花次に歌次と名乗った老芸妓が遣ってきた。

「前のお座敷が引いておりまして二人ほど遅れてまいります」
男達は先ずちろりで温められた酒を注がれて飲み出した。
料理も出揃い後はよろしくお願いしますと仲居が下がり座は華やかなおいくと徳松の踊りの披露から始まった。

幇間の玉凹(たまおう)につれられてきん冶と桃太という若い芸者が遣ってきた。
玉凹が断りを言って二人に挨拶代わりに越後獅子は、すつてんころりん、てんころりん、くるりと廻つてしやんと立つてかぶり振る、獅子ぢやものととなり座敷で着物の裾を器用に膝で押さえてくるりと回転して見せた。

「ほお、最近評判の越後獅子の芸者とはお前たちか」

「さいでござんす。ほんの座興で御座います」

姉さん芸者たちに挨拶をし4人に酒を注いで回り30分もしないうちに玉凹にせかされるように座敷を出て行った。

老芸妓の太鼓と三味線に乗って小たつが最近はやりだしたというサノサを踊って小つまが歌った。

人は武士 気慨は高山彦九郎 京の三條の橋の上

遥かに皇居をネ 伏し拝み 落つる涙は加茂の水

 情人でなし 恋でなおなしただ何となく 食いつきたいほど好きな情人

 と云うてあなたの情人でなし 情人でないのに 

他人が取るかと案じられまする

生るも花 咲くも花だよ今日この頃は ふとしたことから他人の花

と云うて未練はネ なけれども 逢うていささか云いたいことがある

 手を握り グッドバイよと二足三足 別れかねてぞ後戻り

 互いに見交わすネ 顔と顔 何にも云わずに目に涙

9時を過ぎて芸者たちが座敷を引き上げると此方もお開きとなり鮫島と寅吉は石井と新納を送り出してから人力で板新道へ向かった。
きみ香に小たつと会って来たと鮫島武之助が之まで育ててくれた礼を言い、力になれる事があれば寅吉に言えば自分のほうへ伝わるからと話しをして先にもどって行った。

12時近くようやく戻ってきた小たつに父親の事を話した。

「ではパリにお墓があるのですね」

「そうだ、パリのモンパルナス墓地にあるそうだ」

「一度はお墓参りがしたい」

「半年あれば行って帰ってこれるぜ」

「半年は無理よ。芸者を辞めてからでないと」
横浜へ出てきた時に写真をあげる約束をして「そういえば3人で写したのは此処にもあるはずだ」ときみ香に聞いた。
きみ香が小箪笥から袱紗にくるまれた手紙と写真を小たつに見せて「あんたが生まれて直ぐに写した物だよ」とその当時の思い出を語った。

「あの頃の芳町に柳橋は官員さん特に西国の人には遊びに身が入らない土地だったのさ。コタさんと何度かはつね家にも来たのよ。亡くなった河嶌屋の先代(六代目)やご隠居がご一緒されてお座敷へ呼んで下さる事もあってね、そのうち憎からず思うようになって付き合いが始まりあんたがお腹に出来た時は喜んでくれてね。欧州へ行くという時も一緒にと言ってくれたんだけどあたしゃ船も外人もが嫌いでさ断ったのさ」

「そういえば旦那も船はあまり好きじゃないとか。虎屋さんは皆さんそうなんですかしら」

「そんなことありゃしねえよ。現に俺だって長崎へは何度も船で出てるぜ。外国まで行くほどの事が無いだけさ」

「なんだ」

「なんだは無いだろう。噂を信じる奴があるか」
河嶌屋嘉兵衛といえば先々代の五代目は寅吉におつねさんが世話になった新川で有名な酒問屋、正宗を扱う老舗だ、灘の清酒褒紋正宗、菊花紋正宗、日本正宗、三福正宗、鶴大本家正宗、菊水紋正宗などなどが主なものだ。

当代は大阪から養子に迎えた七代目嘉兵衛、幼い時は政之助と呼ばれ今は19才の若者に成長し、亡くなった先代の娘のノブと祝言を挙げたばかり。
六代目の当主はノブが3才の明治2年、五代目は隠居していたが後の事も考え幼い政之助を大阪から迎えたのだが、明治15年に風邪をこじらせたのが原因でなくなり続いてノブの母親も亡くなるという事態が起こり五代目の老夫人が番頭たちと店を守っていた。

「噂といえば先ほどのお座敷でお客様がこんな話しを教えてくれました。三重県令の内海様が芸妓に手を出さないという約束を3人のお方とされたそうです」

「あれ其れはあたしも聞いたけど伊藤様と井上様に藤田様が其のお相手だと言うことだよ」

「芸妓と限ったことではあるまいが。あの連中はお酌に手を出すのが趣味のような人たちだから相手の手を出した女には他のものがちょっかいをかけないと言う思い上がりさ。お披露目の金主にでもなる約束だろ」

「コタさん声が高い」

「金魚は冬で安いか」

「もうコタさんわぁ、其れは鮒が安いという地口でしょ」

明治12年世に言う藤田組贋札事件で一時は危機に陥った藤田傳三郎だが後に熊坂長庵の逮捕により嫌疑は晴れたが、講談ねたとして語り継がれることとなり大倉の缶詰事件と共に三流新聞の格好のネタとなった。

この事件は明治11年12月各府県から集められた国庫金に偽札が大量に混ざっていた事が判明した。
真相解明のため12年1月川路利良が欧州に海外警察視察という名目で派遣された。

川路はドイツでの贋札の入手経路を調べるはずがマルセイユへ向かう船中で発病しパリに着くと病床に臥してしまった。
正太郎や鮫島公使の薦めで転地療養もしたが快復せずフランス郵船のヤンセーで8月24日にマルセイユを出て10月8日横浜に降り立った。
上陸して直ぐの10月13日になくなって後任には急遽畑違いの大山巌が大警視に就任した。

川路利良の留守中9月15日に藤田が拘引され16日に東京へ移送された、証拠不十分で藤田らは12月20日に釈放された。
明治15年になって9月20日と発表されているが11月半ばとも言われる摘発は神奈川県の警察の応援を得て神奈川県愛甲郡中津村の医師兼画家工である熊坂長庵から二円紙幣の贋札(二千枚行使とされた)八百十五枚と用紙及び印刷器具が押収された。

しかし押収された印刷器具であれだけ精巧な偽札が印刷できたとは信じ難くドイツで印刷された密輸入と見るべきなのだろうが、押収紙幣はどのようなものか知る人は口をつぐんでしまった。

無期徒刑を言い渡された熊坂長庵は樺戸集治監に入獄後四十二才で死亡している。 

井上が返り咲き藤田組は息を吹き返しつつあったこの年、明治17年9月に政府から元南部藩の小坂鉱山は藤田組に払い下げられた。

そんな経緯を知る寅吉はおしゃくの小娘に手を出すも出さぬも無いものだと心のうちで憤慨しながら夜中の道を人力で淡路町へ戻った。

起きて待っていた容に雨戸を開けてもらい中へ入り吟香からの手紙を読みながら今日のそれぞれの話しをした後眠りについた。

ぐっすりと八十松と同じ部屋で眠る了介は深川の夢を見ていた。


「伯父さん今日は」

「おお、待っていたぜ。手紙を読んで今日来ると言うので紀和と昌枝が首を長くして待ってるぜ」

「母も此方へ伺う処ですがよんどころない用事があり、浅草で人と会わなければ為りませんので来られぬことをお詫びするように言い付かりました」
藤吉め驚いた顔で「参ったまだまだ子供だと油断したら立派な口上じゃねえか。ほら見ろい爺様まで吃驚眼だ」と後ろでサトイモの皮を桶で洗い流している与吉を振り返った。

「お爺様もお元気でなによりです。了介もこの通り元気です」手を休めた与吉が「よく出来たな。さぁ、こっちにお出で」と店脇の土間から奥の座敷へ案内した。

「座敷へ挙がりなよ。確か八十松さんだったなあんたもな」
二人を奥の座敷へ案内して座らせると奥から茶道具を持って昌枝が出てきた。

「昌枝さんのご婚約がなりましたそうで今日は父母からのお祝いの品物を預かって参りましたのでお受け取りください」
おすみとおきわさんが座るのを待ちかねた様に先ほどまで背負っていたバッグから袱紗にくるまれた物を一同の前で披露した。

「まぁ綺麗」

「ほんに之は真珠じゃないかい」

「はい父がかねて昌枝さんが結婚する時のためにと誂えて置いたものだそうでひと月ほど前に届きました」
髪飾りにするように三つの大きな真珠がそれでもすこし大きさが違うのか木の葉の形の金細工の上に留められていた。
おすみが勧めて髪に留めて鏡に映して見ほれる昌枝だった。

「ああ、疲れた」
了介は口上を忘れまいと力が入っていたようだ。

「よく口上を覚えていたね。立派だったよ」

「了ちゃんありがとう。之でお役ごめんねゆっくりしていきなさいね」

「ありがとう御座います。でも今日は八十松さんと上野まで出かけて精養軒で食事をしませんと」

「それなら紀和と昌枝も連れて行っておくれな。日本橋と銀座で買い物もさせたいし」
紀和は籐吉の嫁になると決まった時店を手伝わなくともよいと両親も勧めたが、店番だけでもと店に出ていた。
子供が出来た時寅吉と容が手に入れていた家作の差配をすることに家族で話し合って決めたのでそれ以来店を手伝わなくともよくなっていたが、遊んでいるのが嫌いな紀和が身奇麗にして店に居るだけで長屋のおかみさんたちが余分に買い物をして行ってくれるので看板娘ならぬ看板嫁だと評判だったのだが今は昌枝がその役だ。

「了ちゃんも買い物に付き合ってくれるといいのに駄目かな」
今年18になったばかりの昌枝は姉の明子よりはるかに大人びて見えすこし恥ずかしかったが「父からお金をたくさん預かったのはもしかするとそういう時に僕に払うようにということかもしれません。食事を僕に奢らせていただくならぜひご一緒に」

「なんと驚いた了介は昔のコタさんそのままだな。なぁ、おすみ」

「そうですよ。私たちが出会った頃は13くらいだったけど、今の了介はあの当時のコタさんそのままですよ」
貰い子と判っていても寅吉そっくりに成長してきた了介が容の子供のように思い自分たちの血を引く子供と信じたい二人だった。

慌てて昌枝と紀和が着替えをしている間におすみが2台の人力を追加させその4台の人力に乗り込み、亀久橋から霊巌寺へ向かった。
本誓寺のある大工町の高橋で小名木川を超え本所二の橋で竪川を越えて二つ目で大川を目指した。
陸軍の用地の先は右に此処に移ってきた亀沢町、左は横網から石原町、大川を木橋の厩橋を五厘出して渡れば浅草黒船町、森下までまっつぐと鉄道を横切り寺町を抜ければ田原町の角に出て馬車鉄道に沿って進めば上野の駅は直ぐ其処。

上野ステーションを通り過ぎ馬車鉄道の線路と別れ、清水堂の下を回りこんで不忍池の馬場を左手に見下ろし、坂を上ると大仏が木々の間から顔を覗かせ其処が精養軒の入り口「昼のドンの後30分したら迎えに来とくれ」とお紀和が車夫それぞれに二十銭を握らせた。

「おかみさんこんなにいただいちゃ申し訳ねえ」
天ぷらそばや天丼が五銭、上酒を二合頼んで六銭、二十銭では昼には多すぎるのだ。

「良いわよ。でも其れは昼酒を我慢する御代込みよ。今日は後で通り一丁目の白木屋と煉瓦通りの婦人子供服店の伊勢幸へ寄るからね」
お紀和と昌枝は渋い青紫双子織りの川越唐桟に帯の色を変えてのいでたちで薩摩絣、博多平の了介と八十松を従えるように精養軒へ入った。
オムレットとビーフシチュー、食後にシュークリームを出してくれるようにボーイに注文した。

「お飲み物はいかがなさいますか」

「食前にシャンペン。食後にコーヒーを」
紀和がその様に注文を出した。
コーヒーとシュークリームが出た頃になってお城からドンの音が聞こえてきた。

勘定書きを八十松が取り寄せ約束したように了介が三円六十銭の勘定を支払い席にお紀和が五十銭銀貨を置いて四人は店を後にした。

元黒門町に降りると鉄道に沿って日本橋を目指した人力車は何台もの馬車鉄道を抜いてひた走った。
このあたり片道なので亀住町の停留所での行き違いと別に2ヶ所行き違いの場所があるので旗振りの番人の指図があるまで動けない馬車があるのだ。
萬世橋の先は2車線になって居て動きはスムーズで、日本橋は木橋のままだがその上にも線路は通っていた。

通り一丁目の白木屋は下足を預けて上がるとガラスケースの間に丁稚に手代、女性の店員が客の好みと買い物の種別を聞いて係りのものへ引き継いでいたがお紀和の顔を知っている店員が直ぐに寄ってきた。
おきわとしての福井町時代からいる手代で今は番頭格の40台の優しげな男で二人の女性店員を従えて2階へ案内した。

顧客用の座敷で昔ながらの着物の品定めが始まった。
了介と八十松は退屈なのでお薗ちゃんへのお土産にしようと御高祖頭巾に洋傘を見たいというと若い方の女性店員が売り場へ案内してくれた。

見ていると近くで親娘らしい様子のよい人が買い物をしていたが「道行をもう少し濡れてもよい生地で軽く作れないかしら」と店員と話しているのが聞こえてきた。

「外国のコートというものがありますが」

「でも其れは洋服の上に羽織るのでしょ。着物に合うものが欲しいわ」

「うちの衣装のデザイン担当に考えさせましょう。いいものが出来ましたらご連絡します。喜代様の方でよろしいでしょうか。こう様のほうがよろしいですか」

「どちらでも良いわ。ああ、私にして頂戴。期待してるわよ」
喜代は尾張屋質店の未亡人でこの年52才やり手と評判の女傑だが了介たちの知るところではなかった。
相州久里浜の出の茂兵衛を先代が入り婿とし10年ほど前に亡くなった後は喜代が店を切り盛りし、娘のこうにも養子を取っていてゆくゆくは茂兵衛の名を継がせる予定だ。

洋傘は氷川商会で見るものばかりなのでやめて御高祖頭巾を金春色と若紫のものを選んだ。
つい高級品のほうを選んでしまったようで二つで五円だという話だ。
二人で半分ずつと話しあう様子をほほえましく見ていた店員を先ほどの親娘が手招きした。

何事か話し合っていたようだが戻ってくると五円と品物を受け取り丁寧にひとつずつ紙で包み小風呂敷きで包むと了介に手渡した。
2階へ戻ると二人の着物に帯も決まっていて白木屋を後にした。

通り一丁目の白木屋を出て人力へ乗ると線路の右手先通り三丁目の丸善、横浜で御馴染みの有的先生の丸屋善八の日本橋店だ。
京橋を渡り柳の木が植えられた道筋に車を止めて入った伊勢幸では洋服を選び出し始めた二人を置いて八十松が目薬の精リ水と檸檬水を買いに一軒置いた楽善堂(がくぜんどう)へ行くと断って二人は表に出た。

「了介君ではないか」

通りの向こうから60近い痩せた人がやって来た、梧竹先生だ。

「先生、京都ではなかったのですか」

「何時までもいられるものかよ。明子の見送りに行かれずにすまなかったな」

梧竹は7月に帰国した後この伊勢幸の2階を住処にしているのだ。

楽善堂の前から其れを見ていた吟香も出てきて和菓子のさかゑやの前まで歩み寄って「なんと了介か明子君は一緒じゃないのか」と聞いて来た。

「姉は先月アメリカのボストンの街へ留学しましたが」

「なんだと、本当か知らなかったぜ。店によっていきなよ。先生もご一緒に」三人を誘って店に入った、了介は朧にしか覚えていない吟香だが姉の名を知っていると言うことは自分の名前を聞いただけで父や母に姉の事を連想したのだろうと感じた。

楽善堂は丸善に似て二階は通りに面してバルコニーに鎧戸がついた和洋折衷の造作で煉瓦街といえ多くがこのようなつくりだ。
八間の間口を四間ずつ半分に仕切り薬房と書房があり吟香自身が向こうで買い入れた清国渡りの筆墨、硯に西洋の文房具、書籍も販売していた。
居住部分の食堂は洋風でシャンデリアを下げハイカラな生活、家族や女中、販売、製剤の使用人などの住居があった。

この年吟香は上海に逗留していて五日ほど前に戻ったばかりだそうで「コタさんは元気か」と了介に聞いた。

「はい元気です、今日は神田のお友達や新しいお知り合いと昼も夜もお約束で忙しく出歩いているはずです。母も来ているのですが浅草へ出かけました。僕は今日深川の叔母と従姉弟と一緒に伊勢幸へ来ました」

「何だそうか東京にいるのか、なら淡路町の店のほうへ連絡をしてみるか。そうだ手紙を書くからコタさんに渡してくれればいいんだな。梧竹先生と明日にでもどこかで一杯遣ろうと書いておくよ」
最近の吟香は東京が本拠か上海が本拠か判らないほどしきりに行き来していた、後に有名になる四男劉生はまだ生まれていない。

檸檬水と目薬の精リ水を八十松が買い入れ「先に車夫に預けてきます」と出てゆき直ぐに戻った。

「戻ってきたら通りに柳は植わっているわ東京も彼方此方時計塔が目立つなど変わりように驚いたぜ」

「吟香君などまだ良いさ、わしなど2年ぶりだからな。ガタクリ馬車から馬車鉄道に街は馬だらけじゃないか」

「あれには参りますな、掃除人はいても馬はお構いなしに致しますから」
吟香はレモン水をお湯で割って一同に薦めた。
吟香の手紙を受け取り二人に挨拶をして伊勢幸へ戻ると折りよく買い物が済んだようで店から出てくるところだった。

「尾張町交差点まで、左に折れたところに襟円というお店があるから」
そこでまた二人はあれこれと小間物を選び筋向かいの田村屋へもひょいと顔をのぞかせて一言声をかけると直ぐ出てきた。
昌枝はそんな母のやり方に慣れているのか荷物を車夫にあずけると了介とどこかで甘いものを食べようと誘った。

「なら元すきや町にある虎屋へ行こうか」
聞きつけたお紀和が昌枝に言ってさっさと力車のほうへ歩いた。
尾張町の交差点は人力車を従えて歩いて越え新道の虎屋へ出向いて店脇の休みどころで汁粉を注文した。

「じい様におみやを買いたいのですが」

「何を買うの」
昌枝は興味深げに聞いた。

「此方の羊羹と薩摩屋で新しく売り出した口つき煙草を買おうと思います」

「あら、其れは良いわね、此方の羊羹はおばあさまもお好きよ。煙草の紙巻きはさきごろまでは輸入しか無かったけどやっと売り出したそうで名前は確か天狗煙草だったかしら」
交差点を朝野新聞側へ渡りもう一度木村屋と京屋のある側へ渡ると薩摩屋は直ぐ其の先だ。

天狗煙草は二十本入りで四銭、吸い口のついた紙巻きだ。
寅吉が輸入の煙草をいつも深川と連雀町に届けるのを覚えていた了介がお土産に持っていってもらうことを考えたのだ。
二十四個の入った包みを買い入れて昌枝に「じじ様へ渡してくださいね」と頼んだ。

深川へ戻るために永代橋へ回る二人と別れ、一度神田へ出て其れまでの人力を帰し、荷物を置くと八十松は門口で二人引きの人力を捕まえ今川小路俎板橋と行き先を告げた。

夕暮れの街を俎板橋の手前で人力を降りて染川へ入り、二時間ほど演芸を楽しみ暗くなった町を三河町の御宿稲荷神社まで人力を捕まえて下った。
三河屋久兵衛が一丁目に出した三河屋は上等のコースで八十銭だ「昔と五銭ほどしか値上がりしていないそうだよ」と八十松が話しスープから出てきた料理を楽しんだ。

淡路町に戻ったのは9時、容にせかされて風呂屋へ向かい、戻ると吟香さんの手紙を思い出して母親に預け今日の報告と使ったお金の計算をして、八十松がレモン水を熱いお湯で割ってすこしだけ甘みをつけて幸恵も呼んで4人で楽しんだ。
御高祖頭巾は自分の小遣いと八十松さんとで半分ずつ出しましたと母に伝える事も忘れぬ了介だった。

福井町を出た人力車は鳥越神社へ出て三筋町から安倍川町へ向かい田原町の線路を越え、本願寺の裏手から浅草寺の裏手に出て富士社といわれていた浅間神社前の置屋双葉屋へ着いた。

「辰さん一時間ほどどこかであすんでおいでな」

二人へそれぞれ十銭を2枚握らせると「飲みすぎなさんなよ」というと格子戸を開けて中へ入った。

今日来る事は伝えてあったので玉助と言う娘と女将のたか助が待っていた。

養子縁組の話はあっさりと決まりこのまま柳橋へ同道すること、衣装ならびに装飾品なども引き取ることに決まり容は用意してきた五円金貨で三百円を引き渡した。
中岡いせという名で谷中の生まれだという娘は中々利発そうで仕込みがいがありそうだった。

たか助と置屋の株とこの家の事を話すと株を手放して何処かへ奉公にでも出ると言うので「新しい浅草公園の六区へでも出て置屋を続ける気は無いの」という風に容が持ちかけてみた。

「この娘を手放した金で借金を支払えば百円も残りゃしませんのさ。おっかさんがいた頃はあちきも左褄で稼ぐ事も出来ましたが、いまさら寂れた櫓下ではどうにもなりませんのさ」

「それならあたしたちに雇われません。今うちの主人が置屋を四軒面倒見ていますが何もお手かけになれという話でも無く、雇われ女将で好ければですけどね」

「それで何処でやられます。この家は貸し家で株と言っても金にはなるものでもありませんのさ」

「あなたがよければ支度料に五十円、月々のお手当ては三十円だけですが経費は此処での食費も含めて全て此方持ち、女の子を仕込むのと検番とのお付き合いが仕事。家は此方で用意して株も五十円で手放すなら今日此処で書類を作って雇われ女将として明日からの生活の面倒は見ますよ」
たか助は本名中山玉だそうで一同が納得できる約束事を取り決め、当分はこの家で暮らしてもらう事にして五円金貨で百円を支払った。

「其れから之は今月のお手当て、会社組織の手前月給という形で今月末から三十円が届きますから貴方の好きに使えるお金よ、此方は経費、毎月五十円以内で納めて残れば半年毎の清算のために積み立て、帳面をこのお金から買い入れて毎日の食費やお付き合いも含めて此処から使いなさいね、それで貴方の仕事は毎日帳面に其れをつけることよ。近いうちに私たちの会社から人を寄越しますその時の印に何か預からせてね、其れを持ってこない人は私たちと関係有りませんよ。忘れたなんてのは通用しない世界ですのよ。小間使いに女中一人ずつは経費で落としますから幾ら掛かるかお軽さんまで連絡してね。直ぐその分を別会計で届けます」

その分も五円金貨で八十円を渡した。

乗ってきた人力に玉助とお軽を乗せて先に待乳山聖天へ向かわせ護摩供養の予約を取らせた、5分も遅れずについたお容と共にお参りをした後頼んでおいた護摩を焚いて貰った。
三人と福井町、そして各置屋とはつ花の発展と家業繁盛で二十円の供養料、気合の入った護摩供養は三十分ほどで終わった。

二人を福井町へ帰したお容はお春に会いに花川戸へ向かって河岸をくだった、家業は譲っての親娘での穏やかな日々を暮らすと言っていたのだが奥山移転の話しが出て、そうも言っていられなくなり姉のお夏と忙しい毎日のようだ。

事務所を開いたという吾妻橋の際で何処かへ出る風情のお春がいた。

「お容さんもう話しがすみなさったかえ、夕方まで掛かるかと思いやした」

「あっさりとお金の力で解決さ。ついでに株と身柄で百円払って雇うことにしましたのさ」

「たか助さんも元は売れた芸者でしたがね。おっかさんが亡くなってからは目がでないそうでした。其れほど借金もなかったはずですが」

「二百円あれば方がつく話のようでしたよ。明日からは落ち着いて生活できるでしょうよ。あそこは貸し家だそうなのでどこか買い入れておきたいと思ってお春さんに相談に来ましたのさ」
奥山が移転したらあの辺りが良いだろう此処が良いだろうと話し、家はお春に任せるから見つかったら電信を打つことにして別れて力車で矢の倉へ向かった。

昔の朋輩と会って話しも弾み陽がくれてから淡路町に戻ると寅吉は采女町へ、了介達は寄席の染川へ出かけたという話だった。


明治17年(1884年)12月17日水曜日

朝から冷たい雨が神田の街を冷やしていた。

了介達はその中を9時半に靖国神社と名を換えた招魂社へ歩いて向かった。
今日は前々から了介と八十松が話し合った皇居を一回りする予定の日だ。
容は天気のよい日にするように勧めたが寅吉は「了介が雨の中を歩いて回るのもいい勉強だ」と言う言葉で其れに従った。

容が昨日の勘定の減った分を補充したのを受け取り首から下げた了介に「風邪をひきそうだと思ったら途中からでも人力でかえってくるのよ」と寅吉に聞こえぬように囁いた。
何時もの薩摩絣に博多平、高下駄に素足ただ上だけはパリから送られてきたモントーを二人に羽織らせた。
二人は足袋だと濡れるとそのほうが冷たいと嫌がったのだ、番傘を差すと神田川の土手から淡路坂を登り三菱の岩崎彌之助邸(東紅梅町)の先にある太田姫神社に今日の散歩にご加護をとお祈りした。
稲荷の多い江戸の街でも由緒ある稲荷だ、太田道灌の時代というから江戸城とほぼ同じ時代の勧請だ。

「了介君この東京案内には此処は昔ひとくち坂と言われていたそうだよ。その後相生坂と言われたことも有るそうだね」

「そのひとくちざかというのはいもあらい坂のまちがいではないのですか」

「そのこともかいてあるよ。太田姫神社は昔一口稲荷といわれたそうで、その頃はいもあらいいなりだったとね」

「父さんがよく言う廃仏毀釈の盛んな時期に名前が変わったのですか」

「その様だね。明治5年に変更されたと書いてあるからね。相生坂も今は川の向こう側がそうだと書いてあるよ」
八十松が東京案内などの肩にさげた袋の本には五穀の神であり、穢(けがれや災い)も洗い清めてくれるということから、えもあらい稲荷と呼ばれ、関東一帯に天然痘が流行、太田持資(道灌)の姫もその病いに罹り山城国一口稲荷に平癒を祈願したところ、姫は全快し長祿元年(1457年)江戸城築城の折鬼門の地に勧請したとされている。
家康はその稲荷を駿河台に移したのが慶長11年(1606年)の事だが其処までは書いてないようだ。


太田姫稲荷考

由緒として書かれている中に小野篁と太田姫の命の係わりが出てきているが、稲荷五社大神祓には倉稲魂命・大巳貴命・太田命・大宮姫命・保食命の五柱の大恩神(おおおんかみ)が出ている。
太田命・大宮姫命のどちらかの伝承違いでは無いだろうか、小野篁は竹駒神社(武隈明神・宮城県岩沼市稲荷町1−1)を承和9年(842年)陸奥国司として赴任した際伏見稲荷を勧請して創建している事等係わりは深いようだが、山城の一口稲荷が現存していないらしく、それ以上の事がわからないようだ。
太田道灌の姫と太田命が混同して口伝してきたと考えるべきだろうか。
また伏見稲荷では宇迦之御魂大神、佐田彦大神、大宮能売大神、田中大神、四大神を祭っている。
田中大神、四大神は創建後5世紀ほどたって祭られたようだ。
現本殿の五間の中央に宇迦之御魂神(倉稲魂命)、右の間に大宮能売神(稚産霊命)、左の間に佐田彦神(保食神)を祀っていて農耕神で延喜式内社だ。
田中大神は鴨建角身命または大己貴神といわれ、四ノ大神は社伝で五十猛神、大屋姫・抓津姫・事八十神と記している。
太田命は猿田彦大神の子孫とされているが伏見稲荷のホームページ内には記述がなかったが伏見稲荷を勧請したとされる神社は先の稲荷五社を御祭神としているところが多い


駿河台を下ると四階建煉瓦造りの病院の下がロシアのお寺だと幸恵が話していた建物、土台は完成していて足場が組まれていた。
その建物の脇には司教だろうか黒服の背の高い人と金髪を風になびかせ毛皮の外套を着た女の人が道路に背中を見せ傘の下で図面を見ながら話し合っていた。
路地を伝い小川町の大きな銭湯の脇へ出て錦町を神田橋まで下った。

此処も御門といわれた城内へ通じる石組みがあった場所で櫓門は取り払われたが川幅を狭くして石垣が迫っていた。
今年になって架け直された新しい木橋の下を荷舟がゆったりと下ってゆくのが見え橋の手前で向こう側を確認しては次々に通り過ぎていった。

「今日は此処からお城を一回りだ。先ず日本橋川を俎板橋までだよ。家康がこの城へ入った日を江戸御打ち入りと称して昔は八朔を祝ったそうだよ」
大きな声で八十松が号令をかけて二人は歩き出した、堀の向こうは昔の一ツ橋家の屋敷のあった場所、今は近衛に政府の役所が入っていてその向こう側に内堀が有ると地図に出ていた。


江戸氏が喜多見へ本拠を移した後、長禄元年(1457年)扇谷上杉氏の命により太田資清・資長(道灌)親子は此処に城を築いたといわれる。

天正18年8月1日江戸城に入った家康は翌年4月には城周辺の整備が進んだとして江戸城の修築に掛かった。
寛永13年(1636年)三代家光の頃にほぼそれ以後の江戸城の規模になったそうだ。

堀端を昨晩の俎板橋へ向かい錦町河岸への緩やかな坂を登り途中には一ツ橋御門跡の一ツ橋河岸、さらに道をたどれば雉橋御門跡、ここを渡れば左が竹橋御門で右は清水御門、橋を渡らずに日本橋川に沿って俎板橋を目指した。
一度濠から離れた道はまた濠へ戻りその先の今川小路の染川は雨の中でわびしげにさえ見えた。

「夜と違ってさびしいところですね」

「やはり人の集まる夕刻で無いと上野や浅草とは違うようだね」
俎板橋の先は堀留で掘削をして神田川とつなげると言う話しも出ていた。
堀留には多くの荷舟がもやっていて此処から先が神田川とつながるのは明治36年だ。
俎板橋を渡り九段坂を登った、大きな鳥居が坂下からも見えたが東京招魂社もやはり靖國神社と名前が変わった。
こんな雨の中でも押屋を仕事にするものたちが小屋がけした場所から表をうっとうしげに見守っていた。

坂によって違うようだがここは荷車、人力車で一銭取っているそうだ、三宅坂は二銭だがこちらより急とは思えないと八十松は了介に教えた。
桜の樹が土手に数多く見える牛が淵の北の丸田安御門の内側は近衛兵の陣営、道を挟んで靖國神社参道入り口、参道を取り囲むように招魂社競馬場、根岸を見慣れている了介達にはあまりにも小さな馬場に拍子抜けがした。

本殿へお参りして富士見町へ出て来ると三番町との間の道を登った、途中から道は御厩谷坂(おんまやだにざか)という名でくだりになり四つ角で地図を開いて下ってきた道をそのまま行けば袖摺坂、二人は左手五味坂を登り千鳥が淵へ出た。
堀端を右に進めばイギリス公使館の大きな門が見えてくる。

堀には橋が掛かり吹き上げのお庭入り口の半蔵門は衛兵が手持ち無沙汰げに立ち番をしている。
半蔵門の先の堀端には大きな柳の木が五本あった、このあたり土手道は狭く人力車は雨の中やりにくそうに柳の陰に避けた了介達とすれ違った。
その先は隼町、軍の衛戍病院がありさらに三宅坂には陸軍省、この地区には役所が多く集まっているところだ。

道を下り三宅坂を過ぎると掘は左にカーブしてその先にある桜田門で二つに分かれ日比谷へ出る堀はまた右へ流れを戻し左手にある日比谷門のところで直角に左へ曲がっている。
日比谷門の橋の下を流れる流れは汐留川へ続き、新橋を経て浜離宮の先で海とつながっていた。
二人は日比谷門から数寄屋橋へ出て元数寄屋町側を歩いて京橋南鍋町の米津風月堂で昼を食べることにした。

11時に店に入り十銭のカレーライスで済ませて店を出てくるともとの堀端へ戻り鍛冶橋へ向かった。
此処は外濠川、堀の向こうは明治14年以降に兵営の移転が進みまばらに官庁の建物が点在しているがお城まで野原が広がり今年架けられた幅の広い八重洲橋からは内濠までが見通せ、呉服橋御門の昔を知る古老には信じられない光景が続くところだ。
八重洲橋とは明治17年(1884年)に呉服橋と鍛冶橋の間に丸の内の八重洲に通じる橋が架けられた故の命名だ。 

馬場先門・和田倉門付近の内濠は家康の時代にヤン・ヨーステンの屋敷があり八代洲河岸といわれていたが明治5年に八重洲と改められた。
この付近は御親藩、譜代大名などの上屋敷がありその屋敷の間に定火消しの屋敷があった場所だ。


大正3年の東京駅の開業の際には八重洲橋は撤去されてしまい駅の乗降口も丸の内側にしか無いという不便さだったが関東大震災後に東京駅に八重洲口が開設され大正14年(1825年)に再び八重洲橋が架橋されたが昭和23年の外濠の埋め立てにより橋は再び消え去った。

昭和29年東京駅周辺の地名が再編成され、東京駅の西側の八重洲町は廃止、丸の内となった、東京駅の西は丸の内、東の町が八重洲と改称し、初めて中央区八重洲という地名が生まれた。

その丸の内を三菱が手に入れるのはまだ先の明治23年、そのときおまけのように神田三崎町も手に入れている。
三菱ヶ原と呼ばれ三菱1号館の完成は明治27年だった。

二人は呉服橋を渡り元の大名小路へ入って行った、道三掘りにはぜにがめ(銭瓶)橋その先の道三橋辺りで左へ曲がる掘りに沿って和田倉御門へ向かった。
小雨にけぶる和田倉橋の右手は大手町、辰の口憲兵隊の先には内務省に大蔵省などがある。

内濠沿いの八重洲河岸「此処も昔は八代洲河岸、どうして八重洲としたかこの本にも乗っていないよ。昔に覚えた物は役に立たないけど東京府中の中央より東の方は、馬場先御門・教部省、大名小路・司法省、八代洲河岸には測量司、和田倉御門辰の口となっていてその先もあったけどもう忘れたよ」と馬場先門さきの八代洲河岸に残る因州32万石池田家上屋敷の表門の前で引き返して八重洲町と有楽町の間の道を警視庁のある鍛冶橋へ出た。

外堀を渡らず監獄署脇を通り八重洲橋で槙町へ出てもとの呉服橋へ出ると一石橋で日本橋川を渡り常盤橋御門外には雨の中濡れそぼる人力車が何台も停まっていた、饅頭笠の車夫もひとかたまりで小屋の軒先で雨が上がるのを待っていた。

一石橋はこの橋から呉服橋,鍛冶橋,銭亀橋,常盤橋,日本橋,江戸橋,道三橋に一石橋を加え八橋が見渡せるので,この橋を八つ橋あるいは八見橋と言われても居たそうで名前の由来も幾通りか有るらしいと二人で本を読み比べた。
龍閑橋を渡ると急に雨が上がり、風が冷たくなってきた。

神田橋で今日の予定は終了と美土代町と三河町の間を上り雉子町に出てようやく淡路町の虎屋へ入ったのは一時半にすこし前普通なら二時間程度の道のりだ。

「お容様から御こと付けで戻ったら銭湯で冷えた身体を温めてくるように言いつけられて居ります」

幸恵が二人に着替えと風呂の道具を持たせて追い立てるように稲川楼へ向かわせた。
小川町の稲川楼は士族の商法といわれた元は武士だった人が始めた銭湯だが吹き抜け天井の高さで人目を引いて遠くからも此処へ来る客が多かった。
湯船に浸かり今日の歩いた道筋の話に興じ、十分身体を温めて歩いて五分も掛からぬ虎屋へ戻った。
幸恵が暖めた甘酒を勧め、三人でおつねさんが届けた空也餅を食べた。


朝、了介と八十松を送り出すと洋服にパリから送られてきたモントーの寅吉と和服にやはり正太郎がソフィアに作らせた和風仕立てのモントーを羽織った容は萬世橋から京橋へ鉄道馬車で出向いた。
伊勢幸で梧竹先生を訪ねて一緒に吟香を訪ねた。

「やぁ久しぶりだ。お容さんはますます女っぷりが上がったな」
あの大きな身体に白くなった髭も立派だが身体を揺すって笑う様子は出会った頃そのままだ。
魯文さんが店に居て俺も誘えと笑いかけた。

「其れで何処で飲む。戻ったばかりであまり知らんぞ」

「銀座近くなら竹川町の花月楼はどうです。芳町まで足を伸ばしますか」
元の吉原があった難波町、住吉町、高砂町、新和泉町に隣接した街で堀江六間町と昔言われ、葭町とも書かれた花街は江戸の時代には芝居茶屋も多く陰間の代名詞のように言われていたが勿論芸妓の数も多かった。

平成の時代の人形町一丁目〜三丁目がその場所だ。
後に有名な川上貞奴もまだお酌の半玉で小奴と名乗っていて、吉松が気に入っているというその小奴は伊藤たちがもう眼を付けていて小たつ達が聞き込んできた話は寅吉もとっくに承知だ。

大正時代にはおよそ900人の葭町芸者が妍を競っていたそうだ。

昭和の時代でも昭和3年に芸者屋278軒、芸者629人、お酌84人、幇間4人、お出先150軒があった。

昭和23年で芸者屋177軒、芸者278人、幇間1人、お出先121軒。

昭和30年でも芸者屋187軒、芸者307人、お出先146軒あった。

芸者のいた地名をあげると芳町、中洲、矢の倉浜町、茅場町、霊岸島、日本橋、中橋広小路、薬研堀、橘町、柳橋、築地、木挽町、新富、新橋(銀座今春)などが高名だ。

住吉町裏河岸の俗称へっつい河岸は寅吉や容が馴染みの汁粉屋甘泉堂や末広神社と名が代わった稲荷もある。
二人は浜町河岸から足を伸ばして其処でひと時をすごした時代もあった。

今も残るも明治座はこのとき千歳座として落成したばかり、千歳座とは人が口に乗せず久松町久松座とこの後も地図にも載る位だ。 

明治座

両国広小路に端を発し明治5年取締を命ぜられ明治6年4月28日久松町37番地に喜昇座として開場、明治12年6月久松座となった。

明治13年類焼し浜町2丁目に仮小屋で明治16年5月迄興行し、12月24日元地へ建築の許可を得たが工事中暴風雨の為に吹倒されるなどの目にあったが、明治17年12月落成、千歳座と改称。

明治18年1月4日開場式を行った当時の建物は、間口18間、奥行27間。

明治23年場中より出火焼失し、建築中一時日本橋座と改めたが明治26年11月落成、明治座と改称。

この後も火災からは免れず大正12年9月関東大震災、昭和20年3月10日東京大空襲、昭和32年4月2日失火焼失と5回の焼失を受けて再建された。

「いや近間なら歩いていける。陽が落ちたらどこかで出会って景気をつけて出かけようぜ」
板新道に新松屋という置屋を訪ね座敷を取らせるから時間などは3時までに連絡すると二人へ伝えて寅吉夫婦は大通りを歩いた。

板新道へ出たのは12時過ぎ、彼方此方顔を出して容の為の買い物をしていたためだ、荷物は淡路町へ届けさせ二人は尾張町交差点を新橋へ向かい雨も上がってうっすらと陽がさす中を身軽のまま新松屋へ入った。

「今日は花月楼へ座敷を取ってくれるように頼みに来た」

「今晩でござんすか」

「そうだ、魯文さんに楽善堂の主と伊勢幸の客人を招待するんでな」

「それでお容さんは」

「あたしは、まつ吉とでも遊ぶ事にしますのさ」

「では四人さんでよござんすね。芸者のほうはどうなさいます」

「魯文さんが来るんだ月琴が奏でられるのがいいな」

「梅が枝でござんすね」

「そうどうせなら法界節に看々踊りとクュウレンカンで攻めても好いな」

「ホホ、そりや珍しいと喜ぶものが居るでしょう。ではちょっといってまいります」
君子は身軽に立ち上がって横丁をまっつぐと大通りを越してその先の花月楼を訪ねた。

「おかみさん、家の旦那が三人お客を呼ばれるので賑やかなお座敷にしたいそうで」

「若い芸者をそろえますか」

「其れが月琴の出来る娘でも居れば若い方が華がありますが、梅が枝に法界節に看々踊りとクュウレンカンで賑やかにしたいと言うのですよ」

「ではあなた、検番に言って人をそろえてくださいな。時間はどうなさいます」

「六時から八時それで都合で伸びるようなら適当に人を集めてくださいな」

「面白そうね。寅吉さんのおかみさんはどうなさいました。先ほど煉瓦街をご夫婦で中むつまじく歩いておられましたよ」

「奥様は昔の朋輩と夜は過ごすそうで御座いますよ」

「其れは残念ね、去年は此方でお客様と遊ばれた時は其れは其れは楽しくて奥様が居られれば座が引き立ちますのに」

「どうやら小唄のお稽古を付けて頂いて、其れをまつやのおかみさんとおさらいするようですよ」

「それなら旦那と別座敷でやられませんかとお誘いしていたとお伝えくださいな。いえ何もうちの売り込みと言うことでも有りませんがね。お容さんにまつ吉さんがこられれば当然あなたも寿弥さんもとにぎやかになりますのさ」

「話してみますわ。お世話になるようでしたら連絡を寄越しますわ」
いっそワッチが直談判に行きましょうと女将の平岡嶺(りょう)は後を任せるときみ香について出た。

「そいつは面白そうだ。おいらたちも遊び飽きたら顔をだそうからぜひお願いしろよ。おかみさん此処に五十円あるから両方の座敷をこれで景気良くしておくんなさい。足りなくなったら此処へ付けを廻してくれればよろしいので」

「判りました。寅吉の旦那の気風に負けては居られません、それで足が出てもうちの亭主の損とさせていただきますよ。ではきみ香さんに芸者の手配はお任せしますよ10人ほども集めてくださいな。両方とも6時でよござんすか」
普段は後払いだが寅吉は信玄袋から掴み取って出すと嶺は見得を切って五円金貨を十枚受け取って店に戻った。

寅吉達は揃って木挽町へ向かいまつやの前で別れて君子は検番へ向かった。
まつ吉は高坂松代と登録したのは明治3年(1870年)9月19日の平民苗字許可令、明治8年(1875年)2月13日の平民苗字必称義務令により、国民はみな公的に名字を持つことになった時に父親の本姓の高坂を選んで登録した。

座敷に上がり3人で新しく出す置屋を何処にするかを話しているときみ香が寿弥と揃ってやってきた。

「此処でおさらいをすりゃ今晩はその発表会みたいなもんだ」

「精々遊ばせていただきましょう」
松代はそう笑いながら「之でお軽さんも呼べば忘年会だあね」とどうせなら呼び出しましょうとお容に相談した。
その場で容が手紙を書いて使い奴が福井町へ届けに出て行った。

寅吉は「どれ、それなら俺は先生に時間を伝えに行こう」と容に夜になるまでどこかで遊んでくるよと出て行った。
四人は女だけになった気安さで町の噂に最近の客筋、待合に料亭の料理の評判を話し合った。

「新橋、築地、銀座のうちで一番は伊勢勘、注いで新喜楽、花月楼、千とせに瓢家。ちょいと下がってわっちたちのはつ花」

「二葉町の松栄楼は評判倒れだと噂が出てますが」

「あれは板前が新富町の濯金楼へ移っちまったからだよ」

地域外の店は何処がという話で「元大坂町の百尺は評判がよいようさ」と寿弥が言うと「東京名家でも山谷の八百善を褒めてるようですが」と容が話しに加わった。

「あすこは相変わらず別格で、上野八百善はお上りさん目当てだとすこし辛口の通人が多いようですわ」
浜町の岡田、登代田に矢の倉の福井楼などの名も挙がり一度はいかないとわからないと容が言い出した。
めいめいが聞き覚えの情報交換をしながら羊羹でお茶をして三時過ぎに別れて六時に花月楼に集まる約束。

寅吉は梧竹先生に「五時に弓町蛤新道の宋風楼という店で一杯引っ掛けて六時に花月楼へ行きますから五時すこし前にお迎えに参ります」と告げ吟香へも同じように告げると信玄袋をぶらぶらと八重洲橋へ向かった。

一丁目に爺の愛用していたタニザワの鞄店はまだなかった。
(1874年創業、銀座進出1890年)
京橋を渡り北紺屋町から五郎兵衛町へ抜けて鍛冶橋へ出た。
外濠川をたどり八重洲橋を渡れば有楽町一丁目の司法省に監獄署、八重洲町の警視庁と、昔は北町奉行所も呉服橋との間にあった厳しい場所。

寅吉は此処で安政の大地震の中へ迷い込んだ当時を思い出し、氷解塾へ通った頃との違いにしばし呆然としていたが橋を戻って桶町の横丁から南伝馬町一丁目にある春陽堂書店を訪ねた。
馬車鉄道の馬車が通り過ぎるのが横丁から見えると其処が春陽堂、主の髭は相変わらず立派だ。

画入唐詩選、大久保常吉(夢遊)編集を10冊、これは明子や正太郎にも送るつもりで余分に買い入れた。
実録文庫から松前屋五郎兵衛一代記の上下、白子屋於駒大岡政談上下に五右衛門の濱千鳥真砂白波上下を各二冊買い入れ、淡路町の名刺を出して其処へ届けてもらう事にした。
他の本屋で売り出したヴェルヌの翻訳物をぱらぱらとめくっていると髭の主人が「翻訳物にも興味がおありですか」と寄ってきた。

「うむ、井上さんの翻訳は良い出来だが英語からの二次翻訳でどうもね」

「フランス語がおできなのですか」

「すこしかじっただけですが、娘がいればあまり難しくないものならどうにか」
寅吉は子供時代の翻訳物に比べて馴染めない本が多いと思って居て正太郎から直接送らせて読んで見たが英語ほど楽ではないと断念したのだが、その本は明子と了介は勉強になると喜んでいた。

「本が手に入るなら翻訳者に渡してやらせてみるのですが」

「それなら幾らでも手に入りますよ」

「本当ですか」

「デュマとユゴーにヴェルヌなどフランスの物やイギリス、アメリカの本も今すぐにでも横浜へ戻れば余分に有りますからお譲り出来ます」

「何時お戻りですか」

「あさっての夕刻四時の汽車で戻りますが」

「其れで出かけて其の日に戻れますか」

「横浜に五十五分、自宅までの往復に一時間、私の家で本を出す時間などで一時間見て七時に横浜駅へ戻るとすれば八時発の列車に十分乗れますな。最終の十時で良ければ飯をご馳走できる余裕も生まれるというものですな」

「いや本を安価で譲っていただけるなら飯は此方でご馳走させていただきたいほどですぞ」

「高い安いは私にはわかりませんが、向こうの定価で譲る事は構いませんよ。送料は他の物に混ぜ込んで送らせたので請求するほどのものでも有りませんのでね。確か手付かずのものと子供たちが読んでいた物と両方とも有りますから。おいでになるなら一晩泊まって翌日の朝の一番で戻られるのは都合が悪いですかな」

「今日が17日の水曜日、あさっては19日の金曜日ですか、戻りが土曜の8時として10時前に戻れますね。都合をつけるとして泊まるところは」

「我が家の客間でよろしかろうと存知ますが如何ですかな」

「其れは申し分御座いませんが」
話しが決まり寅吉は横浜の名刺を渡し東京は淡路町が連絡場所で出てくると其処へ泊まります、今回は妻と長男に供のものを連れて来ましたと告げた。

「東京が虎屋さんで、横浜が氷川商会さんですか」
そうだと話しをはしょりでは明後日の三時半に新橋駅でお会いしましょうと店を出ようとすると「ところで先ほど画入唐詩選を10冊もお買い入れいただきましたがどなたかへ贈り物ですか」と聞いてきた。

「ああ、娘がボストンへ留学したので余分を見て三冊ほどに、パリにいる人へ三冊送るつもりですよ。後は自分用と予備のつもりで」

それで好奇心は収まったようで髭を揺らして「面白いお客様とめぐり合いました。明後日は私が持ちますから南京街の料理店を紹介してください。會芳楼という店がとても面白い演芸と美味しい料理が出ると聞きました」と食べるのも飲むのも好きでしてとまた笑って手を出してきた。

「其れは残念、去年店じまいをしてあの場所は領事館になりましたよ。気の置けない店がありますから紹介しますよ」
寅吉も笑いながら握手をしてでは明後日と言い合ってわかれた。

店を出るといきなり「ギンザドコデスカ」と可笑しな訛りの声がした。
金髪長身の毛皮のモントーを羽織った女性だ。

寅吉が英語で「此処は日本橋南伝馬町で直ぐ其処の橋を渡れば銀座ですよ」というと首を傾げるので「シ・クロア・レ・ポン・デ・ラ・ギンザ」とたどたどしいく答えてみた。

「ガクゼンドウ、メグスリ」とその女性が言うので「ギドン・ヴー」というと腕を組んできたのでそのままに京橋を渡り楽善堂へ送り届けた。

「オー・ギンコウ。メグスリ買いに来たわよ。スルガダイから歩いてきたわ」

「マダム・オーリガ、通訳もつれずによくこられたね」

「ギンコウがマンセイバシの角から線路に沿ってくれば良いと教えたから聖堂の建築現場で馬車は帰して歩いてきたけど、橋を渡っても見つからなかったのよ」
吟香は寅吉よりはフランス語もわかるようだ、そこでやっと手を組んでいるのが寅吉だと気が付いたようだ。

「何だ案内人はコタさんか。う、どういう知り合いだ」

「南伝馬町の本屋の脇で捕まって此処を案内してきたのさ。橋が三つだといわなかったのか」

「いけね。京橋とは言ったが橋の数は言わなかったな」
彼女はロシアのプチャーチン提督の娘オーリガだと吟香は寅吉に紹介した、上海でうちの目薬を買ってくれたのさと簡単に紹介して店の奥の洋間へ案内した。

其処にはすでに魯文が来ていて紅茶を飲んでいて寅吉達にも入れてくれることになり、椅子を勧められて漸く寅吉の腕を放してくれた。
東京ハリストス復活大聖堂の建設を含め日本宣教団支援の為に皇后からの命を受けての来日だと吟香が説明してくれた。
ロシアの宮廷人はフランス語を自国語と同じように話せるのだとも教えてくれた。

「帰国前にヘダというところを訪ねたいの。父の遺言の100ルーブルを届けたいのよ」
100ルーブルはほぼ100円だ。

嘉永7年(1854)ロシア皇帝の命を受けディアナ(Диана)号に乗ったプチャーチン中将は日本と正式な国交を結ぶため下田にやってきた、前年のパルラダ(Паллада)号(1832年造船)に替えて新鋭艦のディアナ号への乗船だ。 

1852年10月19日(以下日付はロシア暦のユリウス暦を含むので注意)、クロンシュタット港を出港したフリゲート艦パルラダ号はポーツマス港を(1853年1月30日)に出港、アフリカ沖のマデラン島を経由して3月10日に喜望峰に到着、インド洋を約2ヶ月かけ横断しシンガポール入港、小笠原諸島父島二見港に到着し、東洋艦隊の3隻と合流、1853年8月22日(嘉永6年7月18日)長崎港に到着した。

皇帝ニコライ一世から、あくまでも平和的手段、直接の話し合いにより友好の道を開けと命令されて長い航海の末やってきたのだ。

11月18日(嘉永6年10月23日)一旦長崎を離れ上海に向かった艦隊は翌1854年1月3日(嘉永6年12月5日)長崎に再入港し第一次交渉が終わった1854年2月5日(嘉永7年1月8日)には長崎を離れた。

プチャーチンは長崎を出港した後ロシア艦隊を解散しパルラダ号は琉球フィリピン視察の航海に出た。

この間1853年10月4日にはトルコがロシアに宣戦布告し、ロシア側も11月1日に宣戦布告してクリミア戦争が始まった(イギリス・フランスは1853年11月30日に黒海のシノペでトルコ艦隊がロシア艦隊に全滅させられたのを契機に世論が後押しをして1854年3月28日参戦)。

世界で初めての天気予報はフランスが最初。

1854年11月13日〜14日にかけて、黒海付近が激しい暴風雨に見舞われ、黒海で行動していたフランスのアンリー四世号は暴風雨によって沈没した。

フランス政府は、天文台長ルベリエーに命じて調査させ今回の暴風雨の接近は予知できたことが明らかになったのでフランス政府は気象局を設け日々の天気図をつくって発行することにした。

これが世界の天気予報のはじめで、日本の気象業務が開始されたのは明治8年6月1日になってからだった。

ディアナ号はパルラダ号に遅れること一年、クロンシュタット港を出て大西洋を南下しゴール岬から太平洋に出てハワイを経てパルラダ号とディアナ号がインベラートル(沿海州)で合流したのは7月11日。

艦隊は日米和親条約が1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に締結された事を知ると日本との条約締結のためディアナ号に乗ったプチャーチンはインペラートルを出港し6日後、10月21日(8月30日)箱館に入港、11月8日(9月18日)には大坂の安治川口沖停泊、12月3日(10月15日)に下田に入港した、この間艦隊と離れての単艦での行動となった。

プチャーチン海軍中将と筒井政憲、川路聖謨両全権との間で行われた条約交渉開始2日後、1854年12月23日(安政元年11月4日)の朝に大地震が発正、津波に襲われたディアナ号は舵や船底に大きな被害を受けた。

修理のため戸田が選ばれ回航する途中で強い季節風にあおられ、田子の浦沖まで流され周辺の漁民も協力のうえ曳航しようとしたが沈没。

プチャーチンと約500名の乗組員は2日間をかけて陸路戸田へ到着、帰国のために船の建造はディアナ号の船内から持ち出されたスクーナー型帆船の図面を元にして取り掛かかった。

当時幕府にロシア語のできる通訳はおらず障害を乗り越え、約100日かかり本格的洋式帆船が完成した。

ヘダ号と名付けられたこの船は100t、50人乗り。

7人の船大工も参加し幕府は3000両を補助した。

そのさなかにも条約交渉は進み安政元年12月21日(1855年2月7日)下田長楽寺に置いて日露和親条約が締結された。

帰国のため安政2年2月25日にアメリカ船のカロライン・イ・フート号で159人がカムチャッカのペトロパウロフスクに帰国。

3月22日建造したヘダ号で、プチャーチンはじめ48人が津軽海峡を経て、ニコライエフに到着、後にヘダ号は批准書交換の際、幕府に返還された。

プチャーチンが首都ペテルブルグに到着したのは7ヶ月後の11月だった。

残り278人は6月1日になってドイツ船グレダ号を使いヨーロッパ経由で帰国を図るが英軍艦に拿捕されイギリス本国に抑留、1856年3月、クリミア戰争終結後にようやく帰国が完了した。

プチャーチンがアメリカ号で、再度長崎に来航するのは1857年9月21日(安政4年8月4日)、日露追加条約のための来日だ10月24日(9月7日)締結、10月27日(9月10日)帰国。

またプチャーチンがアスコリド号で下田に着いたのは1858年7月26日(安政5年6月16日)神奈川上陸が1858年7月30日(6月20日)、江戸芝真福寺に到着したのは1858年8月12日(7月4日)で8月19日(7月11日)に日露修好通商条約が締結された。

明治政府は明治14年に勲一等旭日大綬章を彼に贈りましたが明治16年10月18日プチャーチンはパリで永眠しました。
エフィム・ワシリエビッチ・プチャーチン
Путятин, Евфимий Васильевич )1803〜1883(ロシア暦)
オーリガ(Ольга)1848〜1890(ロシア暦)

安政時代
安政元年11月4日(1854年12月23日)の安政東海地震(死者2000人とも3000人とも)。
安政元年11月5日(1854年12月24日)に安政南海地震(死者1000人とも3000人とも)が発生、このふたつの地震周期は32時間、一説には併せて死者3万人とも言われる。
安政2年10月2日(1855年11月11日)は安政江戸地震(死者4000人とも10000人とも)と合わせて「安政三大地震」と言われる大きな地震が起きた。
安政元年6月15日(1854年7月9日)安政伊賀地震(伊賀や北勢地域を中心に死者1300名以上)。
安政5年2月26日(1858年4月9日)安政飛越地震も発生している他各地を襲った大きな地震は名前が残らぬ物も含めると相当数に登った。

前後十年以内に全国で起きた大きな地震は九州も含め各地に大きな爪あとを残している。

「良いですともご案内しますよ。私が留守でもこのコタさんがね」
勝手に寅吉を案内人にしてしまった。

「どこか日本らしいとこで食事がしたいわ」

オーリガは吟香にそう言って「今晩遅くなるわとホテルには断ってきたわ」と何処かへ案内しろと言わんばかりだ、一月末に三崎町へ住まいを移す予定だともオーリガは話しをした。

「なぁ、コタさん一人増えてもかまわんだろ。先生もいやというまいよ」

「もう時間ですからそのまま付いてきた事にして伊勢幸に行きましょう。目薬を忘れないようにね」
四人で一軒置いた伊勢幸へ出向いて使い奴には一人増えたと花月へ向かわせ、五人で陽の落ちた道を河岸から蛤新道の宋風楼へ向かった。
銀座通りのガス灯の灯も河岸にまで届かず提灯を連ねて歩いた、旧暦霜月朔日で月も無い町は灯が落ちると真っ暗闇、川向こうは情緒なぞ無い京橋青物食物河岸と名がつけられた元の大根河岸だ。

昔の新両替町一丁目、此処は昔より銀座丁とも言われていたが先に見える橋が中之橋いまは南紺屋町の紺屋橋手前に蛤新道がある、元は丸太新道と言った通りは入ると直ぐの弓町に宋風楼が小粋な店を開いている。
五人は小あがりで熱燗とこんにゃくに鳥の塩焼きを出させた、オーリガにはチーズが有ると言うので其れを出させたがこんにゃくを試してみてその感触に顔をしかめた。

「こいつは無理だったか、肉の干物のほうが良かったかな」

「吟香さん、そんなものがここにあるかい」
魯文は此処が初めてだ。

「有るよ」
昔と変わらぬぶっきらぼうな店の主人が聞きつけて鹿の干し肉を裂いて出してきた。

オーリガは其れを火鉢でさっとあぶり引きちぎるように口に運び燗酒を飲み「すこし弱いわ」と言うのには梧竹先生も驚いたようだ。

「ブランデーが有る」と言うので其れを出してもらい店主が熱い湯を出すと其れでわってがぶがぶと飲み干して之でもすこし弱いけどと言い出す始末だ。

「割らないほうが良いだろうが後でヴォートゥカを飲ませますよ」

「日本にもあるの」

「これから行く店に有りますよ。俺の店で売り込んだからね」

「あなた酒屋なの」

「輸入して卸しているのですよ」

「それなら色々なお酒が手に入るのね。好いワインも有るかしら」

「シャトー・ボーセジュール、シャトー・ラネッサン、シャトー・レオヴィル・ラス・カーズ、シャトー・ベイシュヴェルなどがボルドーから入りましたよ」

「グラン・ヴァン・デ・レオヴィル・デュ・マルキ・デ・ラス・カーズがあるのね。何時分けてもらえる」

「ラス・カーズなら今晩にでも取り寄せられますよ」

「ほんと、ぜひ分けて欲しいわ。父が好きだったの。皇后陛下もお気に入りの逸品よ」
軽く仕上げて人力を呼んで竹川町へ出ると花月楼で四人を部屋へ送り込むと女将に使いを出す手配をしてもらった。

「女将この間、家から買ってもらったラムやヴォートカはまだあるかい」

「残っていますよ」

「座敷でプンチュを作ってくれないか」

「よござんすとも。あのお方随分背の高いお方ですね。ドイツの方ですか」

「いやロシアから来た人だよ。ほら駿河台にロシアの寺を作ってるだろ。あれの支援の為に来たそうだ」
吟香は細かい事は抜いて寅吉にそう説明したのだ。

使い奴が来ると「連雀町の根岸常というお宅へ行ってくれ。こいつが家の近所の地図だ。手紙に頼みごとを書いてあるからフランスの酒をもらって来てくれ」そう言って駄賃に一円と力車の往復に使いなと二円を渡した。
おつねさんの家は地下倉があったのでそこへワインを寝かしてあるのだ。

「旦那人力車に之は多いでがんすよ」

「かまわんよ。一円渡して戻って気に入った走りをしたら祝儀に一円出してやんな」

そう言ってから「こいつが俺のしるしだから」とベルトから煙草入れを抜いて手紙に添えてわたした。

女将がラムを2合に茶を2合、サトウを20匁入れて熱くなるまで小鍋で温め、ゆずを半分絞り込み、生姜をすって搾り入れるとオーリガや一同に薦めた。

「寒い時には之が一番ですよ。ヴォートカでも試してみますか」

「オー、ヴォートゥカ、ハラショー。スパシーバ」
一気に飲んでお替りを頼み、新しく女将が手作りした酒はゆっくりと味わった。

その頃には膳も整い芸妓達が十人挨拶して入って来て五人が座に着くと他の者たちが隣座敷で太鼓や月琴も賑やかに梅が枝を始めた。

梅ケ枝の手水鉢 たたいて お金が出るならば
  もしも お金が出たならば その時ゃ身受けを それ頼む
この頃の 米相場 当って もうけになるならば
  もしも もうけになるならば その時ゃ芸者衆 それ頼む
青柳の 風の糸 結んで えにしになるならば
  もしも えにしになるならば 桜の色香を それ頼む

「この歌はそちらの魯文さんがが詩を書いたんだよ」
そう教えるとオーリガは手を叩いて喜んだ。
賑やかに謳い踊る芸妓たちも楽しそうだ、胡弓も持ってきた様で座に着いたうちから一人が其れを持った。

かんかんのう きうれんす
 きゅうはきゅうれんす
 さんしょならえ さあいほう
 にいかんさんいんぴんたい
 やめあんろ
 めんこんふほうて
 しいかんさん
 もえもんとわえ
 ぴいほう ぴいほう

「なにを言っているか判らないけど楽しい歌ね。之も魯文なの」

「こいつは清国の歌を聞き覚えで謳っているので日本人にもわけが判らないというものですよ」

「可笑しいわね。日本人は不思議ね」

プンチュはオーリガにまかせ此方は此方で楽しむ事にした。

法界節が始まると芸妓たちは総出で楽しみだしたようだ。

春風に 庭にほころぶ梅の花 鶯とまれや あの枝に ホウカイ
  そちがさえずりゃ 梅が物言う 心地する ササ ホウカイ
一日も 早く年明け主のそば 縞の着物に 繻子の帯 ホウカイ
  似合いますかへ こちの人 素人染みたでないかいな ササ ホウカイ
その時に 別れがつらいと泣いたじゃないか 半年経たずに この始末
  オヤホウカイ 半年経たずに この始末

魯文に促されて吟香は上海で覚えたと次々に不思議な歌を披露した。

最初戸惑っていた老芸妓達も何時の間にやら吟香の歌声に合わせて胡弓と月琴をかなで出した。

カン カン エエ。
スウ ヌ テ キウ レン クワン。
キウ ヤ キウ レン クワン。
シャン シュ ナア ライ キャイ ポ カイ。
ナア バア タウ ルウ カ。
カ ポ ドワン リャウ エエ エエ ユウ。

「ハラショー」
オーリガは手を叩いて喜んだ。

吟香は興が乗ったかおどけた手振りで「俺が翻訳するとこうなるんだ」と歌いだした。

見ておくれ、わたしがもらった九連環。
九とは九つの連なった環のことよ。
両手で解こうとしても解けません。
刀で切ろうとしても切れません。
ええ、なんとしょうかいな。
どなたかいませんの解いてくれる人。

そんな人がいたら夫婦になってもいいわよ。
その人はきっと好い男よ。

とそこで梧竹先生を指差したので一同は笑い転げた。
先生もそうまで言われても肝心の九連環が無いぞと囃した。
芸妓たちのうち何人かがそわそわと出たり入ったりするので「寒さがきつくてシイシイか」と魯文さんが可笑しげに訊ねた。

「いえさ。置屋のおかあさんたちが忘年会で小唄のおさらいをしてるので気になるのですよ」
戻ってきた芸妓の一人が座についてそう魯文に話した。

「そうか、此方の約束の時間もすぎたんだ、後はこっちに花代をつけて遊んできていいぜ」
魯文は鷹揚に桃代に言って後は自由に変わり番子で遊んでお出でと送り出した。
十人居た芸妓も小たつに小つま、小いち、小とよ達半玉連と入れ替わった。

「コタさんのおかみさんいい声だわ」

「小たつさんのおかあさんも負けていないわよ」

其れを聞きつけた吟香が「何だお容さんも来ているのかそれならオーリガに紹介しなくちゃ」と寅吉を置いて四人で小いちに案内させて出て行った。
残った3人が覚えたての端唄や小唄を次々披露して座敷へやってきた女将を交えて遊びだした。

「あちらはどうだい」

「皆様お静かにお容さんや松代さんの小唄に端唄などを聞いていますよ。新しいものを覚えようと真剣ですもの。あんたたちも此処で遊んでいて良いのかい」
小たつが代表して明日からしごかれるのは間違いないから今晩は遊ばせてくださいなと泣きまねをして笑わせた。
半玉連を新たに三人従えて小いちが戻ってきた。

「なんだよ。今晩此処は半玉の溜まり場か」

「コタさんの旦那が一杯の飲んでくれたら他へ行ってもようござんすよ」
生意気盛りのゑり子がそう言って杯を寄越した。

「おいらがそんなに飲めるはず無いだろう」
そう言って杯を置くとではここで何本も線香を灯させてもらうわと脅かす子供たちだ。

その騒ぎをがらりと襖を開けて入って来たのは士官学校の生徒のようだ。

「まぁ、鶴田さん此処は人のお座敷ですよ」

女将がせいするのを「まぁ良いさ俺の知り合いだから」と寅吉が座を勧めた。
鶴田虎次郎はこじろうで、寅吉とは旧知の鶴屋の総領息子だが家業を嫌い軍人希望で市ヶ谷へ入校していた。

「今日は寅吉の小父さんに頼みが有ります」

「今日は酔ってる様だがしらふの時のほうがよか無いか」

「いえ、自分は少尉に任官されて一年経ちました。来年卒業すれば二年を待たずして直ぐに中尉になれます」

「それで何かねだろうとやってきたかい」

「そうです。嫁をもらおうと思います」

「そりゃめでたい」

「おめでとう御座います」
女将や半玉たちが声をそろえた、鶴田虎次郎はこのとき23才だった。

明治7年(1874年年)12月に市ヶ谷台に陸軍士官学校が開校され明治8年(1875年)2月に第一期士官生徒が入校。

1881年(明治14年)に5年に延長され少尉に任官した後も在校したので、生徒少尉と称していた、虎次郎はその五年目の生徒で六期生だ。

当時少尉から中尉へは早くとも二年が必要とされていた。

「其れがまだ相手の気持ちを確かめておりません」

「そりゃ困った。おいらにゃ仲人口は無理だよ」

「仲人は桂大佐が帰国すれば為って頂くつもりです」

「ほう、そりゃ大物だ。しかし帰国は大分先だろう」

「相手も二年は戻らんかもしれません。今ボストンですから」

「明子達と一緒かい。はて誰だろう」

「その明子さんです」

「何か約束でもしたのかい」

「いえ岩崎君と共に横浜であった時に僕たちのどちらかと結婚して呉とは言いましたが、まだその様な気持ちはありませんと」

「断られたのかい」

「いや、感触は十分ありました」

「それなら帰国したら気持ちを聞けばいいだろ」

「自分は桂大佐のお気に入りでこれからの日本を率いる軍人として明子さんのような開明的な夫人を嫁に迎え、各国の要人と対等に話し合える事が必要です。そのためには好きだ嫌いだという前に国の為に私の嫁になるべきです」

「そうは言うが俺には明子にだれそれと結婚しろという気持ちは無いよ」

「なぜですか、僕なら小父さんと小さい時から知り合いで、明子さんにも家柄年齢身分何一つ悪い条件はありませんよ。決して華族でも、政府要人の息子でも有りませんが自分にはわが帝国を率いるだけの度胸と才能が備わっています」

「もう一度言う。私は娘の縁談を親の意見で決めるつもりは決して無いんだ。娘が選んだ男が君なら其れを祝福しよう。しかし他の誰を選んでも同じように祝福するつもりだ」

「あなたは国の為に僕の嫁になる事が一番だと言う事がわからないのですか」

「酒の気の無い時に議論しようじゃないか。今他の部屋へ行っているが四人ほどお客を接待しているのでまたにしよう」

虎次郎はすこしぐずっていたが吟香が髭の大男を従えてやってくると直立不動で敬礼をして部屋を出て行った。
なんと吟香の背中から出てきたのは従道だ、幾らなんでも陸軍卿では同じ部屋でぐずってもいられない。

女将が笑いながら「急いでお友達と出てゆかれましたよ」と戻って告げた。

「直ぐに山川君も此処に来るよ。今お容さんと話しをしているから」

「そうそう、オーリガの通訳を若い中尉がしてくれているので先に戻ってきたのさ」

吟香はそう言って女将に「閣下がプンチュのごしょうもうだ」と頼んだ、その話しを聞きつけてしたくのあるこの部屋へやってきたようだ。

早速支度がされると半玉たちに「お前たちもすこし試してみな」と従道が分け与えた。

「桂、桂と大分騒がしいようだったがどうしたい。巌さんたちはもうニューヨークについた頃だよ」

「では遅くも来月末には戻られますね」

「うん、ドイツで優秀な参謀を見つけたとかで教師に招聘する予定だそうだ」

「だそうだでは困りますね、代理と言えあなたが陸軍卿ですぜ」

「俺は小澤君が持ってくる書類に判を付くだけさ」
プンチュを嬉しそうにお替りして台の物を小いちたちに食べさせてもらっている様子は之が虎次郎達が恐れて逃げ出す陸軍卿とは思えなかった。

賑やかに梧竹先生を先頭に戻ってきたのはそれからまもなくで山川に山添中尉もやってきた。
小たつは真っ赤になっていたが山添も其れを見て頬を染めた。

「おんや、お安く無いぞこの二人何かわけありか」
他の半玉たちが聞きたそうに顔を向けたのを寅吉が「小たつを残してお前さんたちは向こうで絞られてこいよ」と追い払った。
山川が一同にこの間の事を説明すると「中尉は実家が伯爵だからな」と金離れがいいのはそのためだと従道が言うと「伯爵は兄貴が継ぐので僕はただの厄介ですよ」と反発するように言った。

「それにしても予備役へ入ってもいいなどと言うのは生活に困る事が無いからだろう」

「何処かの教師にでもなって子供たちに教えるつもりです」

「平教師では給与も今の半分も取れんぜ。つまらんぞ」

「そうは言いますが僕には多くの兵を指揮する能力に欠けていますよ。僕の部下になったものが可愛そうですよ。東京師範学校に入りなおして学ぶつもりで居ます」
そんなやり取りを可笑しげに聞いている小たつの目は恋娘のように輝いていた。
やれやれまた惚れた様だと寅吉は可笑しかった。

「おいたちが来たら座敷があいとらんちゅうで誰がきちょうか聞いたらおまはんとお容さぁたちの名が出たで、そんまま上がってお邪魔したのさ」
従道は笑いながらこの部屋へ来る前に容たちの部屋へ上がった経緯を話した。

「それでさっきの士官は何で桂の名を持ち出していたんだ」
寅吉が経緯を説明すると可笑しげに聞いていたが「やれやれ随分といきがった士官殿だな。中尉もそのくらいの気持ちになれんかいな」と山添をからかいだした。

小たつもお呼びがあるとかで座敷を去り、吟香が馬車でオーリガたちを送ると言うので女将が手配に出て行った。
風呂敷に首を伸ばしたワインが二本届けられていて其れをオーリガがいとおしそうに持って寅吉に盛大にロシア式に別れの挨拶をして出て行った。
寅吉も容が迎えに現れまだ飲み足らぬ従道を残して帰る事にした。

「こりゃこりゃ付き合いが悪いぞ。女房殿の尻にいまだひかれておるか」

「まぁ、閣下は、寅吉はもう充分酔って居りますでござんす。これ以上置いておくと寝るだけでつまらんでござんすよ」

「ワッハッハ、冗談冗談。引き取っていってくれてもいいがその代わり何か披露してからだ」

容は「では御馴染みの鬢ほつを」
従道たちが呼んだ新小川のお山が三味を抱えて容の脇へ座った。

三下がりに調子を合わせ従道をなじみ、寅吉を色に見立てた。

鬢のほつれは 枕の咎よ
 それをお前に疑られ
  勤めじゃえ 苦界じゃ
   許しゃんせ

2台の人力は淡路町へ向かった。

須田町の角で降りて二人は淡路町へ入ると「お前中々いい女だな」と突然のように寅吉が言い出し容の肩を引き寄せて唇を寄せた。

「まぁ、あんたはオーリガじゃあるまいしロシア式の挨拶ですか」
容もオーリガの洗礼を受けたようだ、そのまま固く肩を抱きしめると「そうじゃないがあれだけ次々に粋な芸者連が現れてもお前が一番だと言うことさ」今日の寅吉はいつもより口が回るようだ。

「たんとおからかいに」
最後まで言わさずまた口を吸うと店の戸を叩いて中からの返事を待った。

「旦那ですか」
中からは八十松の声がした。

「そうだ、今帰った」
くぐり戸開けて八十松が二人を中へ入れて閉まりをした。
座敷には幸恵も茶の仕度をして起きていた。

「まだ起きていたのかい」

「はい、まだ11時を回ったばかりですし。先ほどまで父も来ておりましたので。了介さんも今さっき寝間に入ったばかりです。其れからご本が届きました」
幸恵の父親はブンソウ事大沢文崇、今は東京横浜物産社長で東京虎屋社長も兼ねている。

子供の出来なかったブンソウは姉の次女を養女に迎えたのは10年前、幸恵は今年21才、いちど縁談がまとまったが相手が式を挙げる前に亡くなり、それ以来3年この店を引き受けて忙しい日々を社長代理として店と東京へ来た時の寅吉一家の世話を一手に引き受けていた。

八十松が入れてくれた茶を飲みながら花月楼での話しを交互に二人に話し歯を磨くと部屋へ引き取った。


明治17年(1884年)12月18日木曜日

前日の冷たい雨と風が嘘のように温かい朝だ。
7時に住み込みの店員と揃って食事を食べる了介に「今日は何処へ行く」と聞いた寅吉に「今日は神田付近の稲荷を廻ります」と答えた。

「そうか神田は稲荷が多いからな全部は無理だろうがいくつくらい回る予定だ」

「出来れば午前中に7ヵ所ほど全部で12ヵ所回るつもりです。ブンソウさんに地図にしるしをしていただいたのでその分だけでもと思っています」
昨晩文崇が来ていたのは幸恵がその事を頼んだためのようだ。

「どういう順番で回るんだい」

「柳原稲荷から佐久間町、明神、水道橋と周り小川町へ下ってやっちゃ場の付近を回る予定です。最後は連雀町に須田町の稲荷を回って仕舞いです」

「そうか上手く考えた道順だな。それなら道に迷わず回れそうだ」

「ハイ、ブンソウさんと幸恵さんがあそこにもある此処にも有ると地図にしるしをしてくださいまして道順も教えてくださいました」
食事が終わるとその地図を父親に見せて「後どこか抜けている稲荷がありますか」と聞いた。

容と二人で地図を見ながら「ある事はあるが同じ神田でも離れているからな」と容と話し合った。
中猿楽町の開徳稲荷になら錦華小学校から寄り道しても良いだろうというと幸恵が「あれそんなところにもありましたか」と二人に聞いた。

「昔は裏神保小路の屋敷ばかりの辺りさ、小さな稲荷であまり知られていないからな。其れと藍染稲荷というのが神田岩本町にあるはずだ」

「其れは父も言っておりましたが場所もわからないそうで外しました」

「元の市橋様の屋敷近くだ、川が残ってるはずだ」

「あなたあの稲荷を入れるならお玉稲荷も入れないと」
於玉稲荷神社は明治4年に葛飾に移動し今は小さな社が残るのみだ、昔は相当大きく桜ヶ池の傍にあった稲荷はお玉が身投げした後池の名も稲荷もお玉をしのんだ人によって名が代わったためそれ以前の稲荷の名が伝わっていないようだ。

「今はこの地図だと松枝町だな」
二人が記憶をたどり道筋を指でたどって印をした。

近間は省いて柳原河岸の柳森稲荷からお玉稲荷その先の藍染稲荷と周り美倉橋で対岸へ、和泉町の金綱稲荷と藤見蕎麦と吉松さんの佐久間製作所の間の草分稲荷。
旅籠町の講武稲荷から代地の田代町の花房稲荷、其処から明神の男坂へ回り浦安稲荷神社・末廣稲荷神社・三宿稲荷神社で裏参道を降りてわき道から妻恋坂へ出て嬬恋稲荷。
清水坂を降り湯島聖堂で相生坂と出会い神田川を水道橋へ向かう、下へ降りるより三崎稲荷へ行くほうが道順としては順当だ。

8時半に淡路町の店を出て萬世橋へ出た二人は河岸沿いを下って昌平橋の先、富士塚のある柳森稲荷へ向かった。

道灌が江戸城を築城の際に城の鬼門除けにと柳の森を植樹し、ここに鎮守として京都伏見稲荷より勧請、当時は神田川の対岸にあり万治二年神田川の築堤の際に対岸に移されてきた。
石段を降りる右側面にある溶岩に触り、二人はおたぬきさんの福寿社で今日の稲荷廻りも楽しい日だと確信したようだ。
延宝八年富士浅間社合祀、お狸さん福寿社幸神社は明治二年に合祀されたと本には出ていた。

「延宝八年とはまた古い年代だ、確か四代目の将軍家の時代じゃなかったかな」

「どのくらい前ですか」

「元禄より前だから200年位かな」
まさに延宝八年は30才で亡くなった家綱の晩年の年だ。
昨日の予定を変えて和泉橋を渡らず岩本町を抜けて松枝町のお玉稲荷へ向かった。

「この近くに有名な千葉周作先生の道場があったそうだよ。この付近は大きな池があって昔は桜が池といわれたそうだけど今は埋め立てられて無くなってしまったんだそうだよ。稲荷も昔は境内が広かったとこの本には出てるけど分社のあった葛飾に明治になってから遷宮したそうだよ」

「それでブンソウさんはもうないと勘違いしたのでしょうかね」

「そうかもしれないね。旦那もお容様に言われてまだ有るのかと言っていたものね」
安政2年の大震災で焼失した神田お玉が池の社は明治4年に分社のあった葛飾へ本社として遷宮したためこの地の稲荷は町の者が細々と守るだけとなっていた。

藍染川という細流が後を留めてはいたが池も無くなり何処からか湧き出すのかわずかな水が流れていた。
布を染めては川で洗うため、川水は藍色に染まって流れていたといわれているが今は紺屋も僅かに残るだけだ。
不思議な弁慶橋を渡り久右衛門町を抜けて大和町の藍染稲荷も守る紺屋が少なくわびしげに冬の陽射しを浴びていた。

弁慶橋は明治18年取り払われ今は弁慶堀にその名を残している。
藍染稲荷は岩本町2−16付近に有ったそうだが平成18年ごろに無くなったらしいという話だが未確認です神田稲荷地図には載っていました。

二人は豊島町へ出て美倉橋を渡って向柳原へはいった。
前の富松町の佐久間町4丁目の藤見蕎麦の先を左へ入り草分稲荷の元上州安中藩板倉家中屋敷の有った場所を探した、町屋の間にひっそりと稲荷はあった。

和泉町へ出ると飛脚問屋京屋弥兵衛勧請の金綱稲荷が朱鳥居も新しく回りも整備され、お参りに訪れた近所のおかみさんらしき人とすれ違った。
秋葉社のある火除け地を抜けて線路を通る馬車の間を抜けて旅籠町へ入り三丁目の講武稲荷を訪れると若い男の人が何事か祈念して颯爽と出てくるのに出会った。
互いに会釈してすれ違い二人も此処で今までと同じように家内安全、商売繁盛をお願いして元の御成り道へ戻り線路を横切って田代町へ向かった。
講武所芸者と呼ばれるお姉さんたちの参詣も多いとブンソウが昨晩話していたが粋筋のお姐さんが歩く時間でもなく出会うことはなかった。
講武稲荷は大貫伝兵衛が安政年間に旅籠町三丁目の講武所付属地の払い下げを受けたいと浅草橋場長昌寺境内の稲荷に祈念し、安政3年5月許可を得る事が出来、社をこの地に勧請したと伝えられ明治15年からは町内預かりとなった。

神田須田町二丁目代地、小柳町三丁目代地、神田松下町一丁目代地、神田花房町代地と呼ばれる町は神田代地と人の口にのぼり明治5年に田代町となっていた。
花房稲荷はその路地を入った場所に有った。
また線路を越して末廣町と金澤町の間を抜けて明神下へ出た。

「昨日ブンソウさんが話していた明神下の同胞町にあった曲亭馬琴の住居跡はこの辺りかもしれないよ」
昨晩印が打たれた場所は男坂への角近くで小さな家が建てこんでいた。

「著作堂主人の書いた本は随分読みました」

「あれが読めるなんて大したものだよ。僕なんぞ里見八犬伝を読むのさえやっとさ」
南総里見八犬伝の執筆は、文化11年(1814年)から天保13年(1842年)までの28年を費やし最後の所を書いていた頃には老齢と長年の多忙な作家活動のため目が見えなくなり、息子宗伯の妻のお路に口述筆記をさせたそうだ。
二人は八房に伏姫や八犬士の事を話しながら男坂へむかった。
階段の左は有名な三階建ての開化楼、上には漁師も目印にする大銀杏が聳えているが開化楼にさえぎられて階段からは萬世橋が見えなかった。

「之だと開化楼に上がらないと景色どころじゃないね」
二人でそんな事を話して石段を上がりきると石造りの鳥居の先に小さな門があるが二人は楼門のある左手に進んだ。
楼門は随神門(随身門)で前には先ほどより大きな鳥居があり前の参道を下って大鳥居の脇の天野屋で甘酒を飲んで身体を温めた。
参道を戻り鳥居をくぐり楼門を抜けると本殿が正面に見えた。
参詣の人に混ざり子供が多く遊びに来ていてその子守をする少女も大勢いた。

「あの娘達は学校へ行かせてもらえないのかな」

「そういう子も居るだろうね。4年もしくは3年で卒業とされた子も多いんではないかな」
横浜だけでなく東京でも全ての子が6年もしくは8年の教育を受けるのは難しいようだ。

石畳を進むと大きな自然石の上に狛犬が乗っていた、まず右手に進んでご挨拶と腰をかがめてお辞儀をしてから左のほうへ向かい同じようにお辞儀をして手水場へ進んで二人はそこで手を洗いうがいをして身を清めて本殿に進んだ。
其処には普通の狛犬が訪れる人を出迎え二人は軽く会釈して本殿に手を合わせた。

本殿の右手から末社の並ぶ奥へ廻り先ず将門公の社に丁寧にお辞儀をして今日の目的の稲荷を廻った。
境内神社も多いが今回稲荷以外は軽く会釈して通り過ぎることにして裏参道の先の末廣稲荷神社は別名出世稲荷、元和二年勧請と立て札が出ていた。

「元和というと何時ごろなのかな」

「関が原の戦があった後のはずだよ。およそ300年前かな」
三宿稲荷神社は立て札に神田三河町の氏神で後に内山稲荷社と合祀されたとのみかかれていた。
鳳輦庫の先に浦安稲荷神社、元豊嶋郡千代田村にあり天保十四年に神田明神内に遷座したと立て札があった。

「之は判りやすいよ。天保14年は寅吉旦那の生まれた年だから42年前だよ」

「本当ですね父さんと同じなら誰に聞かれても直ぐ答えられますね」
摂社の地主神三社(江戸の三天王)の一之宮が南伝馬町江戸神社で古くは江戸大明神、牛頭天王あるいは江戸の天王といわれた。 

二の宮大伝馬町八雲神社、三の宮小舟町八雲神社ともに祭神は建速須佐之男命。

末社には魚河岸水神社、籠祖神社があった。
二人はその境内神社を軽く会釈して本殿の前に戻り改めて挨拶をして裏参道へ向かい階段を降りて妻戀町へ向かった。
妻戀神社内にある妻戀稲荷は江戸時代には関東惣社を名乗り、王子稲荷と並ぶ信仰をうけたと本には出ていた。

妻戀坂と呼ばれだすのは坂の南側にあった霊山寺が明暦の大火(1657年)の後に移動し坂の北側に嬬戀神社(嬬戀稲荷)が湯島天神町から移ってきてからのことだ。
清水坂へ出て東京師範学校の塀沿いにお茶の水の高台に出た二人はその渓谷の見事さに足が止まった。

御茶ノ水の由来

神田川の北岸にあった、高林寺の井戸水が名水の誉れ高く、徳川家康がお茶に愛用したとの言伝えによっている。

高林寺は、神田川の開削に伴い失われ、御茶ノ水の名のみが残されている。

御茶ノ水橋は明治23年にならないと架橋されず谷は深く風光明媚の場所のままだ。

下流の聖橋はさらにそのあと、震災復旧事業で昭和3年の架橋だ。

対岸下流には大田姫稲荷の社と大きな岩崎邸が見えていた。

「昨日思い出さなかったんだけどね、千代さんから聞いたんだけど。あそこは岩崎彌之助さんが結婚祝いに家をもらったけど義理のお父さんの後藤様から土地は貰えなかったので結局後で買い取ったんだそうだよ」

「不思議な話ですね。普通家をやると言う時は土地も着いてくるのが普通ですよね」

「そういうことだよね。面白い話だよね」
やっと二人の足は水道樋のほうへ向かった。

神田浄水懸樋(水路橋)近くには石垣が築かれて樋を守る番人の小屋もあり茶屋に料理屋が数多く並んでいた、この樋が取り払われるのは明治34年、江戸東京の街の飲み水を送り込む大切な懸樋は長年の使命を終えた。
御茶ノ水坂を降ると水道橋がある、此処もいまだ木橋のままで橋の向こうはさいかち坂、橋から錬兵場で訓練する兵隊が見えた。
橋を渡り右手の木立の中土手沿いに三崎稲荷が新しい社殿を覗かせていた。

「之は大変だこの由緒書きによると何度も場所が替わっているようだね」
二人で指を折りながら勘定してみた。

さいかち坂は皀角坂(さいかちざか・白の下に七)新撰東京名所図会には駿河台鈴木町の西端より土堤に沿いて, 三崎町の方に下る坂なりと記されていて名称について新編江戸志によれば、むかし皀角樹多くある故に, 坂の名となす, 今は只一本ならではなしと書かれている。
「サイカチ」とは野山にはえる落葉高木で, 枝にとげが多く, 葉は羽状形で, 花も実も豆に似ている。

創建は詳かでなく建久以前、仁安の頃と伝えられ道灌公江戸城築城時に神田山山麓武蔵国豊島郡三崎村に鎮守の社として祀られていた。
慶長八年二月家康公江戸町造りの為、駿河台の山を削り,その土砂を持ちて日比谷入江を埋め立てのため西二町の地に奉還移転。
万治二年江戸城外堀神田川の改修工事により東南の地に奉還移転。
万延二年講武所の設置により皀角坂の神田川岸へ奉還移転。

「少なくとも三回ですか、四ヵ所に社が有った事になりますね」

「之だと道灌が動かしたかどうか判らないからね。家康公以前は記録も定かではないようだね」
明治38年(1905年)甲武鉄道(現JR中央線)開通の為移転をして、現在の地に鎮座させられる事を二人はまだ知らない。

此処まで3時間かけて歩いてきて昼が近くなっていた。

「今日は稲荷に縁が深い蕎麦屋へ行って見るかい」

「そんなお蕎麦屋さんがあるのですか」

「澤蔵司稲荷という話しを聞いた事があるかい」

「お坊さんが本当は狐だったという話ですね」

「そうそう、その澤蔵司だけど此処から歩いて15分もかからない其処の砲兵工廠の向こう側に傳通院というお寺があってそこで修行していた澤蔵司が蕎麦好きで毎日のように通ったお店があるんだよ」
そば切りが歴史に登場するのが近江・多賀大社の慈性という社僧が書き遺した慈性日記で、慶長19年(1614)2月3日の条で江戸に行った際、常明寺という寺で蕎麦切りを振る舞われたとする記録があり、澤蔵司が元和6年(1620年)廓山上人により慈眼院を別当寺としてその境内に祀られたのと江戸に蕎麦切りが広まりだしたという話しが上手く繋がっている。

二人は本と地図を見比べて牛天神を回っていく事に決めて小石川橋を渡った。

「このあたり元は黄門様で有名な水戸家のお屋敷跡さ」
説明しながら時計回りの道をたどり北野神社通称牛天神もとの金杉天神へ向かった。
源頼朝がこの地で風待ちをして一眠りした時、夢に牛に乗った菅原道真が現れ良き事ありと告げ翌年その言葉通りになり頼朝はこの岩を祀り牛天神を創立したという。
牛天神の階段下にはその時頼朝が寄りかかったという牛の形の岩が注連縄で守られるように安置されていた。

「頼朝というと随分前の話ですね」

「700年は昔の事になるだろうね。昔はお城の前は海で駿河台も埋め立てで削られる前はもっと高かったそうだから頼朝公の時代や日本武尊の頃はこのあたりを回って浅草へ出たのかもしれないね」

「春に姉さんたちと回った鳥越神社にも日本武尊の話しがありましたよね」

「そうそう、さっきの妻恋稲荷もその時の伝説が残っていたよね」
八十松は簡単な歴史の先生よろしく了介に当時の地理や人物の逸話を話しながら今日も回っていた。

牛天神の階段を見上げてその左手安藤坂を登った、ひろい道は途中段があり荷車を押し上げるのも押し屋がいて段に板を引いて押し上げるときは何人もが手伝っていた。

「あの人たちの手間は高そうですね」

「どうしても此処でなければという以外は遠回りしたほうがいいみたいだね」
九段坂や三宅坂と違い東京案内にこの坂の押し屋については書かれていないようだ。

その段差のある右手に人力車が何台も止まっていた、池田屋と言う商人宿があり其処の客待ちらしく了介達には見えた。
坂の上までは其処から200メートルもないが小さな了介にはずいぶんと遠くに見えていた。

稲荷蕎麦萬盛はその坂の上、二人は天ぷら蕎麦を頼んだ。
大きな海老が2匹乗っていて六銭五厘、食べ応えのある蕎麦と天麩羅に満足して店を出て坂を降ると華やかな装いの若い女性が大勢宿の先の庭の木戸から賑やかに話しながら出てきて待たせていた人力車に次々に乗って坂を降っていった。

此処は萩の舎(はぎのや)、中嶋歌子の塾であり和歌に書道(千蔭流)と古典を教えていた、一葉事奈津はまだ入塾していない、開塾は歌子38才の明治10年、一葉は明治19年8月15才(満14才)の時の入塾だ。

坂を隆慶橋まで降り江戸川を渡った。

「江戸の時代はこのあたりも牛天神の門前町だと書いてあるよ。ずいぶん大きかったようだね」
階段下の牛岩からでも300メートルはあり間には諏訪町と江戸川町のふたつの街が出来ていて多くが鰻や川魚の問屋だ。

橋を渡れば新小川町、船河原橋の先の飯田橋はまだ新しく此処は外堀だと本には書かれていた、ふたつの橋近くで外堀と江戸川が一緒になり神田川となる。

明治五年(1872)になると、元飯田町や周辺の武家屋敷などが、飯田町一〜六丁目に再編されます。通称として親しまれた「飯田」は、明治維新後にようやく正式な町名となったのでした。そして昭和八年(1933)、飯田町四丁目の北側、同五丁目と六丁目などが、新たに飯田町二丁目となりました。

飯田町の北側にある江戸城外堀に橋が架けられたのは明治十四年(1881)のことです。橋は町の名前にちなんで「飯田橋」と命名されました。その後、明治二十三年(1890)に修築されたのち、同四十一年(1908)には鉄橋に、昭和四年(1929)にはコンクリート製の橋に改良され、現在に至っています。

千代田区ホームページにはこのように書かれていた。

飯田町先の小石川橋近くで錬兵場を見るとベースボールをしているのが見えた。

「ありゃ陸軍の敷地内でベースボールをしてるよ」
了介を肩車して見られるようにした。

「あのピッチャーの球では父さんのほうが早いですよ」

「そうだね、旦那の球は中々打てないよ。千代さんの話だと十年前は今からでは想像できないくらい早い球を投げていたそうだよ。旦那のあの落ちてくる球は僕などバットに当てる事も出来ないよ」
この当時アメリカのプロ野球でオーバースローは認められたばかり、横浜は普段から上手投げが主流だった。
さいかち坂を登り右手小栗坂に入り坂を下った、三崎町と猿楽町の間の坂は緩やかに駿河台を下り錦華小学校の校門前から路地を通り中猿楽町の開徳稲荷へ向かった。

五十稲荷神社こと栄寿稲荷は五十様の縁日として五の日、十の日に市がたつのでその名があると幸恵が教えてくれたが今日は閑散としていた。
錦町の豐川稲荷は本山が豊川にある山号を圓福山とする曹洞宗の寺院。

「今日回っている稲荷の中で此処は大岡越前が招聘した豊川稲荷と同じで稲荷神ではなくて荼枳尼天をお祭りしてるんだよ」

「では伏見稲荷と豊川稲荷は違う物なのですか」

「伏見は倉稲魂命(うがのみたまのみこと)が主祭神で豊川は仏教を守る天部の一人の荼枳尼を祭るお寺なんだよ」

ダキニは元インドの女神で農業神だ。
性や愛欲を司る神、生きた人間の心臓を食らい、人肉を食べる夜叉神とされヒンドゥー教ではカーリーの眷属とされていた。
仏教に取り入れられたのは大日如来が化身した大黒天によって調伏され死者の心臓であれば食べることを許可され自由自在の通力を有し、六月前に人の死を知り、その人の心臓をとってこれを食べるといわれる神だ。
江戸の庶民は荼枳尼に鬼子母神や聖天を稲荷と同じように神として信仰していた。

江戸三大鬼子母神    字について鬼の角を取ったものが使われる事が多い。
     
 

入谷の鬼子母神(真源寺)と雑司ヶ谷の鬼子母神(法明寺)に中山の鬼子母神(下総中山法華経寺)の鬼子母神の事とされている。

鬼子母神(きしもじん)は訶梨帝母(かりていも)でハーリテー、訶利底、青色鬼、大薬叉女などの別名がある。

三大聖天。

平井聖天(燈明寺)、浅草待乳山聖天(本龍院)、武蔵国長井庄妻沼聖天(埼玉妻沼町歓喜院)。

三稲荷は伏見稲荷、豊川稲荷のほかは我こそ三稲荷のひとつと名乗りを上げる稲荷が多いようで特定できないようだが佐賀県鹿島市の祐徳稲荷神社を挙げるのが普通だ。

二人は稲荷の違いを話しながら鎌倉河岸の御宿稲荷神社へ向かった、ここは家康が神田の地へ入った時に宿にした家にあった稲荷を祭ったものだ。
旭町の佐竹稲荷神社は昔この地に江戸屋敷を構えた秋田二十万石佐竹家が藩邸の鬼門除けに寛永十二年邸内の一隅に社を建立し稲荷の神を勧請したもの、藩邸は下谷に移り火伏せ祈願の社は此処にとどまった。
旭町の由来は明治初頭、佐竹稲荷の五本骨扇に月丸の佐竹家家紋を日の丸と見誤り旭町としたと伝えられていた。

多町二丁目一八稲荷付近はやっちゃ場の喧騒がいまだ残っていたが其れは稲荷の縁日目当ての人波だった。
徳川三代将軍家光が眼病を患ったときに、乳母の春日局が湧き水を汲みに来たと伝えらる稲荷の周りは歩くのも大騒ぎだ。
二人は「すりに気をつけて」と声を掛け合いながらお参りをして縁日の喧騒を楽しんだ。

神田雉子町八番地元草分名主(草創名主)斎藤家の住居近く、新銀町(しんしろがねちょう)真徳稲荷神社は落ち着いた雰囲気が漂っていて小さな祠を拝んだ二人は次の稲荷を目指して人の大勢歩くやっちゃ場へ戻った。
和光稲荷は同じ新銀町の路地にひっそりとあり今日は大勢の人が供え物をしていた。

おつねさんの隠居所近く佐柄木町には小さな豊潤稲荷がある、そこで足を止め小さな茶屋で商うタイヤキを食べた。
義士焼き、今川焼きの店はめっきり減りこのような恵比寿鯛の形をした香ばしく焼き上げたものを商う店が増えていた。

連雀町の通りの向こうに在る延寿稲荷神社へお参りをすれば残りはひとつ新しく出来た蕎麦屋のまつやの先にある連雀町一八番地の出世稲荷だ。

連雀町が出来た当事よりこの町にあり明治7年5月町内信者により連雀町18番地に社殿造営、遷座し明治8年に東京府より境内見捨地とされた。

連雀町は神田川筋違橋御門の内側にあたる江戸はじまりより連尺(物を背負うときに用いる荷縄、またそれを用いた背負子)をつくる職人が多く居住して連尺町の名が付けられそれをしゃれて連雀町の文字が用いられた。
明暦3年(1657年)振袖火事により連雀町は火除地として土地を召し上げられ、筋違橋南方へ移動、連尺を商っていた25世帯は遠く武蔵野に代地を与えられ移住させられた。

二人は路地を抜けて団子坂藪蕎麦支店脇から淡路町へ出て虎屋へ戻った。

「お帰り」と容が出迎えてくれ「お昼は食べましたか」と聞いた。

「はい、母さん。今日は稲荷蕎麦というお店に連れて行っていただきました」

「まあ、珍しい。八十松さんがお蕎麦だなんて」

「たまたま神戸時代の友達が横浜に来た時に聞いて地図に書き入れておいたんですよ。今は三井鉱山で会計事務をしているんですが社長のお宅へうかがった時に知ったそうなんです」

「其れで美味しかった」

「天麩羅蕎麦は良い出来でしたね。盛りを頼まないと蕎麦のほうはわかりませんが」

「コタさんは行ったことあるかしら」

「私が来てからはお供した事がないのですが車夫の元さんに聞けば知ってるかも知れません」

「そうね、元さんはいつもコタさんとお昼を食べたりする事が多いです物ね。明日はその元さんに頼んであるんですけどね、朝から勝先生のお宅まで行くのよ、そのあと新橋から横浜へ戻るのよ」
その日寅吉はブンソウと会社の事で報告と将来のことなどを話し合っていた。

翌日寅吉は元さんの二人引きの車に了介と乗り容と八十松の乗る車を引き連れ三台で遠回りをして靖國から先の牛込御門跡まで回り、了介に道筋を説明しながら進んだ。
外濠を亀ヶ岡八幡へ向かいそこで一同で参拝をして濠沿いを降り四谷御門、青山御所を通り過ぎた。

西の丸御殿は焼失したが元紀州藩邸を御所としていた明治天皇はいまだ新しい宮殿建設を許さなかった、西の丸に新宮殿が完成するのは明治21年になってからだ。
赤坂御門で濠は食い違いを見せその先500メートルほどに寅吉が最初に江戸の町へ来た時の勝海舟の家が有った場所。

「此処は俺と琴が安政の大地震の後先生の奥様に助けられた場所さ。地震の前の事はあやふやだが父親の名はお前と同じ了介だったよ。だがどうしても神奈川では見つからなかったのさ。記憶もあやふやになっちまったし京都にいる琴もまだ3歳でしかなかったのでな。母親は光の子と書いてこうこ若しくはひかりこと呼ばれていたんだがどうやっても見つからないんだ」
其処から氷川町へ向かい氷川神社に参詣した。

祭神は素盞鳴尊・奇稲田姫命・大己貴命。
創建天歴5年村上天皇の御代武州豊島郡人次ヶ原に祀られていた、八代将軍吉宗が享保十五年に三次浅野家屋敷跡のこの地へ老中水野忠之に命じ造営された。

その事を寅吉は了介に話しながら一の鳥居を入ると右手に鎌倉に負けぬ大銀杏が聳えていた、左には九神社と額のかかった鳥居。

先に進むと鳥居脇に手水舎、ここで一同はうがいをして身を清めた。
「此処の土地は今の先生の家と同じように浅野家の分家一族が多く屋敷を構えていた場所で此処は雪の南部坂の講談で有名な内蔵助が瑤泉院
に別れを告げた屋敷跡だ」

楼門の先、大きな石灯篭には享保九年閏四月奉納とされていた。

「父さん之だと昔から此処にあったのとは違うようですね」

「よく気が付いたな。俺は今まで其処へ気が回らなかったよ、どれどれ赤坂表伝馬町・裏伝馬町・元赤坂町か遷座前の古呂故が岡の時のもののようだな
。表のは水野様が此処を造営した時のものと言うのは知ってたがこいつは了介にしてやられたぞ」

狛犬も可笑しげな顔を参詣する四人に見せていた、寅吉は頭をなでて「何時見てもこいつは心の中の蟠りを忘れさせてくれる」寅吉はその前で愉快そうに笑った。

容も「ほんに可笑しげで、どちらの狛犬も恐ろしげな顔をしているのに。此処だけでござんすよ気が晴れますでござんすよ」と釣られて笑い出した。

本殿で手を合わせ右手にある黒門を出て鳥居をくぐると包丁塚、鳥居脇の石段を降りると古呂故(ころこ)稲荷、地頭稲荷、本氷川稲荷が並んで建っている。

四合稲荷として明治31年に遷座合祀され、勝海舟が四合(しあわせ)稲荷と名付けたのは寅吉も知らない話だ。

赤坂氷川神社縁起

創立の起源は、古い書物によると、天歴5年(村上天皇 951年)武州豊島郡人次ヶ原(俗称古呂故ヶ岡・赤坂4丁目一ツ木台地)に祀られました。
 これよりおよそ百年後の治歴2年(後冷泉天皇 1066年)、関東に大旱魃が発生、降雨を祈るとその霊験(しるし)があり、以来よく祭事が行われました。
 江戸時代、幕府の尊信は篤く、八代将軍 徳川吉宗公が享保元年(1716年)将軍職を継ぐに至り、同14年(1729年)に老中岡崎城主水野忠之に命じ、現在地(豊島郡赤坂今井台)に現社殿を造営、翌15年(1730年)4月26日に、一ツ木台地から現在地への遷宮が行われ、28日に将軍直々の御参拝がありました。

赤坂消防署ウェブサイトより抜粋


四合稲荷

地頭稲荷神社は享保年間の現氷川神社遷座以前より祀られていた。

古呂故稲荷は赤坂一ツ木二番地の古呂故天神社境内(氷川旧社地:氷川御旅所)に祀られていた稲荷社、明治17年氷川旧社地の売却の際氷川神社境内に遷座。

本氷川稲荷神社は本氷川神社(昔は溜池付近にあり、のち承応3年(1654年)現氷川神社の隣地に遷座)の境内の稲荷社であったが本氷川神社と共に明治16年氷川神社境内に遷座

玉川稲荷神社は水道方玉川庄右衛門の邸内社とされているが御神体が玉川上水に流れてきた故に玉川稲荷と称したもの。赤坂門外濠端より明治21年氷川神社境内に遷座。

大正14年に、鈴降(すずふり)稲荷神社(赤坂一ツ木町に鎮座)、及び縁起(えんぎ)稲荷神社(赤坂丹後坂下に鎮座)の二社を、 また昭和9年に明徳(めいとく)稲荷神社(赤坂新町に鎮座)を遷座合祀し、現在に至っています。勝海舟筆の「四合稲荷社」という扁額も現存しております。
江戸七氷川筆頭・赤坂氷川神社ホームページより
抜粋

平成の今はそのほかに西行稲荷がこの場所に大正10年に遷座しており、別名火伏の稲荷といわれ、火災除けの御利益もあるのだそうだ。

西行稲荷神社享保の時代、田町5丁目(現在の赤坂3丁目付近)に西行五兵衛というものがおり、榎坂を通行中に狐の形をした三寸程の稲荷のご神体らしい像を拾い、勧請したため、「西行稲荷」としました。

町の発展に伴い、大正10年氷川神社境内に遷宮し、別名「火伏の稲荷」ともいわれ、火災除のご利益があるといわれています。
 毎年5月に田町三四五町会が中心となり例祭が行われます。

九神社天祖神社・春日神社・鹿嶋神社・八幡神社・諏訪神社・秋葉神社・厳島神社・金刀比羅神社・塞神社、以上の九社を合祀したお社です。
九社それぞれへの遥拝所的な要素があります。

江戸七氷川筆頭・赤坂氷川神社ホームページより抜粋 

他に稲荷は山口稲荷神社、桶新稲荷神社があります。


黒門は通らずに再び本殿に戻り反対側へでると小さな稲荷の祠、その先で車夫たちが待っていたが乗らずに歩いて元氷川坂(本氷川坂)を降り、この坂の途中に昔の氷川神社があったそうだと了介に教えた。

坂を下った角の家で「此処が父さんの通った先生の氷解塾が有った場所さ。明治元年から5年まで先生は駿府住まいだったから東京へ半分駿府に半分と行き来していたんだ」車夫たちを従えたままその様に話して300メートルほど離れた海舟の屋敷へ向かった。
氷川坂へ出て坂を上り途中の転坂(ころびざか)へ入って坂を上ると大きなイチョウの樹が見えた。

右へ折れると右手にホイットニー一家の家、道の左は海舟邸、赤坂元氷川町四番地2500坪といわれる屋敷の表門へ向かった。


門を入り車夫には厩のところで待つように頼み顔見知りの貸し家の住人に土産に持ってきた菓子を渡して車夫の面倒を見てくれるように頼んだ。

表玄関には行かず左手に進むと梅太郎君が出てきた。

「やぁ、奉職したと言うのに今日は出ないのかね。先生は在宅かい」

「居りますが今来客中で母のほうへ顔を出してくださいますか。僕は今日は非番なのですよいつも木曜が休みですが日曜は出るので礼拝にでられず困ります」
また元に戻り台所口へ梅太郎が案内してお民さんの方へ顔を出した。

横浜土産やきんつばなどをわたし来客が帰るのを待ったが中々帰らぬようなので寅吉が廊下伝いに顔を出すと壷屋の主人だ。

「何だ、それならうちの家族を紹介しよう」
おとよさんにそう言って呼びに行ってもらった。

「昼はどうする」
先生がそう聞いたが「新橋の駅前の牛肉屋で鍋を食べてかえります」と答えた。

「なら俺と梅太郎もごちになろう。鰻といったら怒るところだったぜ」

梅太郎は「牛鍋は久しぶりですよ。夏にいろはで食べて以来だ」とにこやかに笑った。
いろはは三田四国町が本店で今年五店目を開いて中々盛況だ、壷屋の最中でお茶を呼ばれ了介と八十松は梅太郎が案内して邸内を回ってきた。

十二時を過ぎたので奥様に挨拶して新橋へ向かった。
芝口の牛鍋屋今朝は中川屋と同じように味噌仕立てではなく醤油味だ、女中に6人が上でこの人たちは入れ込みでいい肉をたっぷり用意してくれ」と一円銀貨を握らせた。

先生は女中の先導で先に容をつれて2階へ上がり、車夫たちにも朝から此処で飲み食いしてお別れだと告げてあり、入れ込みで酒も充分用意させて「車を引けなくなったら車夫を雇って自分の車をひかせて乗せてもらうんだぜ」と笑いながら階段を上がって停車場が見える座敷で上等な肉をたっぷりと出してもらった。

先生も寅吉もビールを軽く飲んだが梅太郎は了介や八十松と囲んだ鍋を片付けるのに夢中だ、女中が運んでくる肉が間に合わないようで「そんなに急いで食わなくとも列車は幾らでも後がある」と先生に笑われた。

「ほんに気持ちがよいくらいですよ」

座敷の係りにも容が十銭を十五枚皆に見えるように渡したので回りの女中もにこやかだ、座敷係は10人ほども居るのをざっと見て財布からあるったけの十銭を出したようだ。

容は途中で階段を降りて四人の車夫にも五十銭を渡して「今日の費用は例の通り店へ請求しておくんなさいよ。こいつは帰りの雇いの車夫の分さ」さっきの寅吉の声が聞こえたようで元さんは上機嫌でお愛想を言った。

「そういえば元さんはうちの旦那と稲荷蕎麦という安藤殿坂上の店に行ったことあるのかい」

「へえ、お容様確か二度ほど、いい蕎麦屋でがんすよ。種物もいいが藪と違う盛りのよさも捨てがたいでがんすよ」

「その盛りがよいと言うのは味かい、量かい」

「両方でござんすよ。さすが深川、神田で育ったお容様だ其処まで聞いてくださると嬉しいねえ」

もう大分酔っているようだ、酒がいけない元助も仲間に言われて口にしたようだ。

2時間ほども飲み食いして上下十人で十八円、料亭風の牛肉屋の値としては横浜では考えられない安さだが東京横浜でも腕のよい大工で月十五円程度しか稼げないのだ。

この頃上等肉で百匁一円並肉なら二十銭、場末の牛鍋屋で一人前五銭と言うのもあったし十銭が普通だった。

三時前には先生と梅太郎を送り出して烏森稲荷におまいりした。

三時半に駅に戻ると約束どおり髭の春陽堂の主人が小僧を一人連れてやってきていた。

「切手を買いましたか」

「いえ、旦那が何処へ乗るか聞きませんでしたのでこれからです」

「それなら家内に買わせますから小僧さんも一緒にこちらで出させていただきますよ」

「そんな滅相な」

「良いってことですよ」

そう押し問答している間に容が上等を六枚買い入れてきたので上等の待合室で改札の始まるのを待つことにした。

髭は小僧に「お得意様がお前も上等に乗せてくださるそうだ、厠は其処にあるから用を足してから乗車するぞ」と二人で待合室を出た。

改札が始まり髭の主人と寅吉が差し向かい、後の四人で離れた席に着いた。

早速容は小僧に名前を聞いて了介達を紹介し八十松の荷からラムネを出して子供たちに飲ませた。

列車が出る頃にはすっかり気を許した小僧はちょっとした話でも顔が崩れるようになっていた。

髭の篤太郎は書斎の棚の本の多さに驚いていたが「この段がフランスの分ですか」と聞いた。

「いや3段全てがフランスで、となりの3段がイギリスやアメリカの英語の分ですよ。ドイツ語やロシア語もありますがこちらは飾りでもっぱら英語に翻訳したほうを読んでいますよ」

暫く考えさせてくれとコーヒーを甘くして飲んでいたが「あまり欲張っても翻訳が出来ないでしょうから今回はフランス人の分と其れを英語にしたものがあれば都合のつく分をお譲りしてください」としたでに出た。

それで選んだ作家は次の分で中でもデュマとヴェルヌは幾冊も説明を聞いて積み上げた。

 オノレ・ド・バルザック

Victor Hugo ヴィクトル・ユゴー 


アンリ・ルネ・ギ・ド・モパサン


Alexandre Dumas
 アレクサンドル・デュマ・ペール

三銃士

二〇年後

ブラジュロンヌ子爵そして10年後

モンテクリスト伯爵

Alexandre Dumas filsアレクサンドル・デュマ・フィス

椿の淑女

Stendhalスタンダール

Jules Verne ジュール・ヴェルヌ

気球に乗って五週間 - 三人のイギリス人によるアフリカ探検の旅1863年

地底旅行1864年

月世界旅行 地球から月へ1865年

月世界旅行 月を周って1870年

海底2万マイル1869年

80日間の世界の旅行1873年
寅吉が題名をだいたいこんなところでしょうと紙に書いて渡した。

「今日は之だけいただいてゆきたいのですが。随分本棚がすいてしまいますね」

「大丈夫ですよ。暫くは他の本でも置いて置きますから。パリのほうへ電信を打てば次回の便でまた本が送られてきますから。もし必要な物があれば一緒に送らせますから年内に連絡をください。しかしヴェルヌは井上さんの訳で出ているのに良いのですか」

「何話しをしたらぜひフランスの原文を読みたいと頼まれた人が居りましてね、翻訳して出せなくとも義理が果たせますので」

容と了介に本屋主従の四人を馬車で珠街閣へ先に出して寅吉は訪れて居たケンゾーと打ち合わせをして人力を並べて共に南京町へ降りた。


話は正太郎のパリから大分ときも過ぎました。
横浜幻想のアンテロープ編の1872年(明治5年)からだと12年後の横浜です。
今回の話の中心は了介と明子になります。
2008年12月05日其の一あとがきより        阿井一矢


2009−02−24 了


幻想と現代社会へ続く歴史の真実との狭間を探してくださいね。
教授からの原稿を小出しながら更新中 アイ

幻想明治 第一部 
其の一 洋館
其の二 板新道
其の三 清住
其の四 汐汲坂
其の五 子之神社
其の六 日枝大神
其の七 酉の市
其の八 野毛山不動尊
其の九 元町薬師
其の十 横浜辯天
其の十一
其の十二 Mont Cenis
其の十三 San Michele
其の十四 Pyramid

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カズパパの測定日記