横浜幻想
 其の十六 Je suis absorbe dans le luxe 阿井一矢
贅沢三昧


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Paris1872年9月21日 Saturday

昔使われていた革命暦のカレンダーは今も売られていてこの前後は日付が無いというもので、すぐ廃れたが一時的に復活したこともあり、物好きな者のためにいまだに売られていてニコラがそういうものが好きな正太郎のために部屋に飾ってくれていた。

セディとベティはマダム・デシャンが希望した学校への通学に朝から忙しい日が始まり、エメの学校も最初の学期から厳しい勉強時間割で正太郎は週に1度ほどしか会えなくなったが、今週は学校も休みでエメのほうから正太郎に会いに来ていたが、仕事も増えてアリサとは此処20日ほど顔を合わせていなかった。

エメと違い奔放なアリサは正太郎にとって魅力に溢れていて暫く合わないと落ち着かなくなるのだが、其の頃になるとエメが現れて正太郎の気持ちの昂りは抑えられるのだった。

ジュリアン夫婦の仕事も順調に売り上げが伸び、夜の配達に住み込みの二人は忙しかったし、乾物屋からジュリアンの店に移ってきた通いのジャン・セヴラン・レヴィ=ブリュール(Jean Severin Levy-Bruhl)は朝7時から夜7時まで休みなく働いていた、独り者ということもあり食事はエメが面倒を看たし、メイドのアガットがマルク(Marc Rouquetty)とイヴォン(Yvon Malgoire)の物を含めて洗濯物を引き受けていたし、ジュリアンはお仕着せの服を与えて週一度は洗濯屋へ出していつもさっぱりとした服装と髪を店の金でさせていた。

ブティック・クストゥの店員に負けないお洒落はキャバレーやカフェーのセルヴァーズによい印象を与え注文聞きに廻るジャン・セブランの評判も良かった。

正太郎は横浜並みに洗濯屋も始めるかと本気に考え出していた。

正太郎は投資した金が少し戻る予感に、これじゃ会計士を雇わないと自分は何も出来なくなるとマリー・アリーヌの工房の上の部屋に自分の事務所を開いたのは今月の8日のディモンシュ(Dimanche日曜日)で休みの者が集まって事務所開きとして何も無いところにタブレー(Tabouret椅子)とビューロー(Bureau机)を事務用品を買い付ける業者から借りてパーティを開いた。

近くのレストランへ頼んだ物とクストー夫妻が腕によりをかけた盛り皿にマカロンを山盛りにした皿は集まって呉れた人、立ち寄ってくれただけの人にも好評であった。

スリップはYokohamaからは登録商標について問題なしといってきて大和屋も了解とされていたが、スリップ自体は固有名詞として商標登録には使えないこともわかり女性用はSlip de Marie(スリップ・デ・マリー)と商標登録をし男性用はSlip du Coustou(スリップ・デュ・クストゥ)とすることにした。

マリー・アリーヌは二人のお針子と毎日此処で50枚のスリップと幾枚かのキャミソール(Camisole)を注文にあわせて作成していた。
店で採寸しサラ・リリアーヌのデザインにマリー・アリーヌの美的感覚が合わさりサン・トノーレ街やフォーブル・サン・トノーレ街の有名店が提供するコルセットに負けない勢いでおしゃれなマドモアゼルに浸透してきていた。

腰と胸を強制的に締め付けるコルセットより自然な体形を求める男性は其れを歓迎してプレゼントするのだ。

スミス商会では量産可能でイギリス人に合わせたものができればロンドンとニューヨークへパリからの品ということで輸出したいとサラ・リリアーヌへ申し入れるためにM.カーライルが店へ出向いてきた。

マシーヌ・ア・クードゥル(Machine a Coudreソーイング・マシーン、ミシン)はテオドールの工房と此処にも共に3台ずつ合計3600フランを出して正太郎が買い入れて貸してあるが、殆ど使うこともなく手縫いに人気が集中していた。 

事務所は少し広いかなと思ったがメゾンデマダムDDから歩いて5分ほどモンマルトル・オランジェ銀行本店の前フェルディナンド・フロコン街4番地という立地条件も良く3階のため月80フランと言うのも気に入ったひとつだ。

広い事務所は正太郎の机と応接セット側とシーヌからのものと思われる衝立で、事務用の3人分の机に長いすとに分けた為、マリー・アリーヌなぞ此処は私たちの休憩所にちょうど良いと、一階のサラ・リリアーヌと共に応接セットに陣取り、お昼の出前まで取るようになってしまった。

2階は半分サラ・リリアーヌの商品置き場に貸したので家賃も50フランですんでマリー・アリーヌは懐が暖かく「これならショウが貸してくれた500フランはすぐ返せるし、マシーヌ・ア・クードゥルも買い取ってあげられるわね」と景気のよい話はするものの菓子を持参するわけでもないのだ。

マリー・アリーヌと半分の株を分け合い彼女の分500フランは正太郎が貸し出して1000フランの資金で工房を立ち上げたのだ。
正太郎の取り分は月50フランの給与と株主配当を半年事に出すという約束、マリー・アリーヌは月200フランの給与ということも取り決め、二人のお針子に1日4フランで8時間、時間外は1時間70サンチームというお針子としては最高級に近い給与でマリー・アリーヌが見つけてきたのだ。

「まいるなぁ。君たち自分のところで食べてくれないかな」
いくら言っても居心地がよいこの場所がお気に入りで、何やかやと理屈をつけては上がってくるのだ。

最初会計士と事務員の面接をしてもらって以来其れが当たり前のようになってしまってマダム・デシャンに頼まれるお菓子のついでに、自分用に買ってくるものが正太郎の口に入る前に消えていることなぞ何時ものことだ。

事務員が入れるコーヒーと紅茶に日本式の渋いお茶とが目当てなのさとダンが遊びに来ては菓子をつまみカフェ・クレームを注文する始末で、やはり時間をつぶしにラモンまでも来たりしていたので正太郎が本を読む時間は増えることもなかった。

デュマ・フィスの椿の貴婦人(La Dame aux camelias)はどうやら読み終えたが、ヴェルミセル作りのゴリオ爺さん(Le Pere Goriot)の話しも中々読み終えることもなく買い入れた本は溜まるばかりだ。

本屋に寄って買い入れる本は増えてこの事務所の本棚から借りていくニコラの友人やラモンが連れてきた人たちが増えたということは正太郎の付き合う人も増えてきたということなのだろう。

この事務所に様々な商品を売り込みに来る商社員までがいて正太郎を驚かせていて、中でものになりそうなものはニコラやM.ギヌメールが会社の内情を調べてくれる事になって、まがい物に引っかかる危険性は少ないようだ。

会計士は30代の小太りの男性で助手に若い女性事務員を二人付けて正太郎が資本を出した店に出向いて帳簿の点検と指導をして廻るのが日課だ。

正太郎は横浜みたいに人力車なら安く雇えるがパリにはなく、馬車を常雇いするには大変だともっぱらバイシクレッテでの移動をして、アンドレと事務員はモンマルトルの丘を一回りするオムニバスで毎朝移動して一回りするのが日課だ。

イヴォンヌの店は驚異的な売り上げをだしているが、テオドールは大きな店に移ればこういうわけにいかなくなるとこの場所、この環境、この資本形態が一番だとジュリアンに言って今の状況の侭が一番だといってくれていた。

驚いたことにここでもスリップ・デ・マリーとキャミソール・デ・マリーは酒場の女に人気で体にあわせて採寸したものをマリー・アリーヌが仕立てて廻すものが週に10枚を越すようになってきた。

「特注品はやはり儲かるね。酒場の女全員が付ける様になれば商売は大きいことは間違いない」とはマダム・デシャンの言葉でボルドーから帰ってきたMomoと二人で正太郎にお菓子をねだるのだ。

Momoがお土産にボルドーに運んだ下着は向こうでも評判でいろいろなタイユを選んで100枚送ることになった。

マガザン・デ・ラ・バイシクレッテは特に名前が無く店先に置かれたバイシクレッテが看板代わりになり1日6台の割で売れていった。
320フランのパリジェンヌ商会のバイシクレッテは先月の開店以来120台の販売台数はオリビエ兄弟を狂喜させるに十分だった。

正太郎はミショーとも3年間の販売契約と輸出契約を結び、月10台引き取りが最低条件で280フランでの卸価格になったが、最新式については380フランの国内売価を守ることを約束することが契約条件に入れられたので、ダンたちは安いパリジェンヌ商会のものを学生価格280フランで売る手伝いを継続してくれマガザン・デ・ラ・バイシクレッテを通さずに正太郎が売ることにした。

だがこれも街のものには高嶺の花で月100フラン前後しか収入のない庶民といわれる街のものには中々買える物ではないのだ。

オリビエ兄弟は自分たちの工場の敷地に倉庫を新設して正太郎のために輸入品でも此処に置いておけば良いと開放してくれ、スミス商会からイギリス製の新式のペニーファージング(Penny farthing)を20台買い入れ其処に置いてもらった、ポンドとの格差は狭まらず500フランという高価格ながら今月6台が売れていたがスピードを競うならともかく街中での運転は危険を伴うのでまだ余り普及しそうに思えない正太郎だ。

ルネは歯車を連結する構想と車輪を止めるブレーキを開発するのに頭を使う毎日だがおいそれと実現する話ではなさそうだった。
夢で見た構造と実際が中々一致しないのだ

正太郎が240フランでパリジェンヌ商会から買い入れてマガザン・デ・ラ・バイシクレッテに250フランで卸し店では1台70フランの儲けが出るので今日までで8400フランの販売益が出た計算で、その他の品物を入れれば年内にも投資金額が回収できると10日前に雇ったアンドレ・アドリアン・ベルトレという正太郎には発音しにくいこの太り気味の主任会計士は断言した。

「アンドレそうは行かんぜ、この金でまた次の製品を仕入れるからな。倉庫にある品物が回転よく動くまでは利益は出ないよ」
ジュリアンに諭されるように言われても「僕が見てきた会社でも此処は特別ですよ。支店を開く資金を用意してパリ以外でも売り出せば当たることは間違いありませんよ。他の人がやる前にやるべきです」そう強調するのだ。

アイムとはメゾンデマダムDDの住人と行くキャバレ・デ・ザササンで相変わらずよく出会うが、最近ルネがおかしいと言う話からサビーナで見た女性がムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットで見かけた貴婦人だということを話してしまった。

アイムは「そうか、もしかすると相手にもて遊ばれているのかもしれんが仕事に支障が起きるほどのこともないからもう少し様子を見よう」と言った。

6月13日に送り出したワインが横浜について品物の内から2000本をオークションにかけたと電信が来て16000フランで売れたと書かれていた。
横浜では其れを参考に卸値を算定した結果残り2250本は虎屋の弁天通り店と元町店が13600フランで引き取ったこともあわせて書かれていて120本は試供品として処理したことの了解を求めてあった。

Yokohamaを立つ時に店番号と主な言葉は暗号化されていて簡略な記号だけになっているので金額以外は人に見られても中々判別できないようになっているのでジュリアンやMomoには其れを訳してから電文と共に見せて話をした。

代金はスミス商会経由ですぐ正太郎に払い込まれてきたので自身のクレディ・リヨネ銀行口座は元の金額に回復した。
ジュリアンは喜んで「ほぼ倍か運送費を入れてもいい儲けだ」と喜んでくれて仲間のジャン・ピエールとバスチァン・ルーに報せに行ってくれた、勿論その夜フォリー・ベルジェールで宴会に為ったことは言うまでも無かった。

オテル・モンマルトルからルグランも出て来て、ニコラが正太郎に附いて来たので6人で9時から夜中まで騒いでいると、M.ルノワールが仲間と来て合流して朝までどこをどう歩いたか気が付くとルノワール、ジュリアン、正太郎の3人でピガール広場の噴水脇で妖しげな女たちと一緒だった。

「ショウ。お前と部屋へ行こうとさっきから女が誘っているのになぜ付き合ってやらん」
ルノワールはビンを振り回しながら怒鳴っているのに「もう酒は飲めません」と言っている自分に気が付いたのだ。

ジュリアンは自分の家に近づいたところで安心したのか水の出ていない噴水の脇で女の膝枕で寝ていた。
其のルノワールも女を抱きかかえて首をぐらぐらさせて振り回すビンが女に当たらないかと正太郎を冷や冷やさせた。

正太郎の両脇にはどこで一緒になったかよくわからないが薄手のドレスに羽根飾りが付いた帽子の太った女と、痩せ気味の若い女が正太郎に何事かを囁いていたが、なまりが強く良く判らない言葉に聞こえた。

M.ルノワール、この人の言葉がわからないよ」
正太郎が言うと「よせよ田舎言葉だと言ってもフランス語だ」其の声が聞こえたかようやく女が正太郎にも判る言葉で話してきた。

「こんなところで寝ても金にならないから私の家でいい事しましょう」
正太郎は此処までの事情がわからないまでも何処かでルノワールが拾ってきたなと思い「お金は上げるから一人で寝に帰りな」といって5フラン銀貨を2枚渡すと嬉しそうに痩せた女を抱きかかえてふらふらと去っていった。

其れを見てルノワールも自分のひざにいる女に軽く平手でほほをぴしゃぴしゃと叩いて起こし5フランをわたして「家で寝ろ」と追い出してジュリアンを起こしに掛かり、その下の女にも同じように5フランを渡して追い返した。

「ええ、いい気持ちで寝ているのになんだ」
ジュリアンは起きて自分が道端で座り込んでいるのに気が付いて驚いたようだ。

「今までソファに寝転んで柔らかい枕で寝ていたと思ったが夢か」

「違うよ女に膝枕させていい気持ちで寝ていたけど、朝露にぬれて風邪を引かない様に起こしたのさ」

ルノワールに言われて去ってゆく女達の後ろ姿をぼんやりと見つめていた。

「おい、ピエールあのアブサンは強烈だぜ、レパーデス(leopardess・雌豹)は偽物でも出しているのかやけに効き過ぎるぜ。ショウお前大丈夫か、だいぶ金貨を配っていたようだぜ」
ポシェに財布に隠しからと全てを出すとそれでも260フラン持って出てきた金は70フラン残っていた。

「確かフォリー・ベルジェールで140フラン払ったけど其の後50フラン使ったようだね」
「3軒廻ってそれだけならたいしたこと無いな」
ジュリアンはそういって自分の金を数えて「俺は30フラン減っているな、ピエールはわかるか」
全然解らん俺は昨日いくらもって出たか覚えていないと言いながらすべてを噴水の縁に並べ100フラン札が2枚と金貨銀貨で40フランもあるので自分で驚いていた。

「コリャどうしたことだ。俺はこんなにもっているはず無いぞ」
そういって考え込んでしまった。

ジュリアンは「ショウ、お前いつも隠している金があるだろう。あれでも渡したんじゃ無いのか」といって襟を指した。
服を脱いで襟の裏を調べるとやはり200フランは入っていなかった。

「何でルノワールさんに払ったんだろ」

「俺もわからんが、いまさら返すのもいやだから今度絵を描いてやろう。それでいいだろ」

「そうかも知れんな。ほかに思い当たることも無いが、思い出したら連絡を取り合えば良いさ」
ジュリアンがそういって立ち上がって「俺のうちへ来いよ」と連れ立ってクリシ−大街を西へ歩きクストー街から店へ向かった。

明るくなりだしたといえ6時半になったばかりの店ではイヴォンとマルクがもう起き出したのか荷物の整理を始めていた。
「休みだというのに仕事をしているのか」

「こりゃ旦那がたおそろいで。夜中に注文が続いて来ましてね、昨晩は寝る間もありやせんでしたよ」

「なんだそりゃ、断りゃいいのに、余り働くと体を壊すぞ」

「ジュリアン其れは無いよ、せっかく夜中まで配達してがんばっているのに」

「それもそうだ、俺が悪かった。アブサンがまだ効いているようだから勘弁してくれ」

「いいんでさぁ旦那。朝飯を頂いてから寝るつもりでいやしたからね。今奥様が朝の支度をしてくださっている間、こうして時間つぶしをしているだけでさぁ。其れより旦那、昨晩はワインとビールが現金で600フランも売れましたぜ、こんなこたぁ初めてでさぁ」
ジュリアンもルノワールも呆れて正太郎に「これじゃ昼間より夜の商売に切り替えたほうがましだぜ」と交互に言い募った。

ジュリアンはエメも起きていると聞いて少しは酔いがさめたようで「朝飯の追加を言ってくるから顔でも洗ってしゃっきりしろよ」と階段を上がっていった。

小声でルノワールは「やはりエメは怖いのかな」「そりゃそうでしょ。まだ結婚してひと月やっとですからね」と囁き返してマルクからサビエットを受け取ってイヴォンが持ってきた桶の水で顔を洗った。

2階へ上がると上機嫌のエメが迎えてくれて「すぐ温かいスープにパンが出るから下の二人を呼んでくださいね」とジュリアンのほうへ頼んだ。

食卓にハムと野菜、目玉焼きと焼いたジャガイモが出され竈からは焼きたてのパンが出てきてルノワールは驚いていた。
ヴェルミセルを砕いて入れたクリームスープは暖められた皿によそわれベーコンを散らし入れて出され、飲み終わると竈で焼いた鶏の丸焼きがエメの手で切り分けられてルノワールと正太郎には腿の骨付きが置かれた。

「奥さん客に気を使わなくても良いですぜ」
そうルノワールが言うと「気にしないでたくさん食べてくださいね。後まだ入るならソーセージを炒めますよ」エメはまめまめしく雇い人の皿にも肉を切り取りながらそういってくれた。

ジュリアンは幸せだな、奥さんと最高の料理人が一緒にもらえたようなもんじゃないか、おまけに焼きたてのパンが朝から出てくるなぞ贅沢なもんだ、とエメが喜ぶ最高の褒め言葉を大きな声で喋って「スープが残っていませんか」と皿を差し出すとエメはうれしそうに微笑んでお替りを注いでだした。

ディジェスティフはどうしますとエメに聞かれて正太郎は「もうお酒は沢山です。何時間飲んだやら判らない位で、気が付いたらピガールの噴水で三人とも酔いつぶれていた位です」と聞かれぬうちに昨夜から飲み続けていたということに話をしてしまった。

「ところでニコラはどこで別れたっけ」
ジュリアンは正太郎に確かめるように聞いた「ジャン・ピエールとバスチァン・ルーはフォリー・ベルジェールを出たところで別れてルグランさんは次の店、其の後の店でも陽気に騒いでいたけど、レパーデスの時は居なかったから其の間に消えたみたいだね」と答えた。

正太郎もアブサンを飲むまでの記憶は確りしているようだ。

「まぁ、4軒も飲み歩いたの、ジュリアンまさか全部ショウに支払いをさせたんじゃないでしょうね」

「そんなこと無いぜ。フォリー・ベルジェールだけはショウが持ったが其の後の店は交互に支払ったよな」

「そうですよ奥さん、3人ともそれぞれ同じくらい使おうと次々誘った覚えがありますから。最後は誰が払ったか定かでは無いだけでね」
ルノワールはそういったが女と抱き合って寝ていたなぞ口が裂けても言える事では無い。



Paris1872年10月11日 Friday

秋も深まってきたモンマルトルの丘のブドウ畑はさびしさを募らせるが其れに反して焼き栗の香りが広がり、テルトル広場では大道芸人のバイシクレッテを改造した一輪車の芸を見ている見物人の手の袋からも同じ香りがただよっていた。

広場や通りでは掃除人が人ごみの間を縫って落ちた殻を掃除するのに余念がなかった。

エメはブルゴーニュの新酒祭りは11月15日のボジョレーから始まると教えてくれたが、ここモンマルトルでも11月の最後のヴァンドルディ(Vendredi金曜日)に市民に新酒を振舞うという行事(現在は10月第2週末3日間)があり、その日から3日間はさまざまな芸人がこの丘に集まって華やかなサーカスも開催されるとマダム・デシャンが楽しそうに話した、今年は29日から12月1日までだ。

鮫島の話では岩倉卿の一行は8月にリバプールに上陸した後イギリス国内を積極的に見て周り今頃はエジンバラであろうと西園寺と共に訪れた正太郎に話してくれパリには12月半ばと連絡が来たことを教えてくれた。
そしてまだ正太郎には報せが届いていないらしいがと横浜情報としてグレゴリオ暦の今月9日に鉄道の開業式が行われたはずと教えてくれた。

新橋・横浜間28.8キロメートル所要時間53分、上等席1円12銭5厘だ、パリでは知らない話しだが実は井上勝は悪天を考慮して12日に開業式を延期しそのため高島嘉衛門は緊張の連続で体調を崩し住民代表の祝辞は原善三郎が行ったのだ。

3月前からもめているペルーのマリヤ・ルーズ号の事件は陸奥県令から参事であった大江卓に引き継がれ、陸奥は国税の担当である租税頭に任じられ大江は8月には県令となりこの事件の解決にその手腕を振るうことになった。

メゾンデマダムDDの近くのマルキャデー通り公園ではジャンヌとエドマ夫人、次女のブランシュが乗る乳母車を押すメイドが遊びに来ていた。
輪回しの棒と自分の腰まである輪を器用に押して公園を走るジャンヌは楽しそうで笑い声は同じように遊ぶ子供たちと混ざり見ている人たちの微笑みを誘っている。

正太郎は事務所からルジャランドル街の自転車屋へ行く途中其れを見ながらエドマ夫人と話が弾んでいた。
「見て見てショウ、私この池の周りを丸く輪を廻して来られるのよ」

可愛くジャンヌが声をかけて短めのフリルのスカートを翻して池の周りをすばやく一回りしてきた。
「すごいよジャンヌ、僕もまだ丸く廻れないんだ、どうしても半分くらいで輪がはずれちゃうんだ」

「まぁ、ショウも輪回しをやるの」

「そうだよでも真っ直ぐならセディより早く走れるんだけどね」

「其れはショウのほうが大きいから競争にはならないわ」

「それもそうだね、今日はこれから出かけるけど、事務所にマカロンがあるから食べにおいで。下のサラ・リリアーヌに言って上に行けばおいしいお茶を入れてくれるよ」

「ほんと、お母様ショウの事務所にご馳走になりに行きましょうよ」

「良いわね、私もお茶が飲みたかったの。ショウのご招待、無にしちゃ悪いわ」

「では奥さん、下にサラ・リリアーヌが居なければたいてい上でお茶をしていると思いますよ」

公園からルジャランドル街の中古のバイシクレッテを扱うカミーユ・ローランの店に向かった。マガザン・デ・ラ・バイシクレッテで下取りしたバイシクレッテを此処で売りさばくのに正太郎は買い取りではなく指値をして売値の35パーセントを渡すことで契約が成立していたのでその集金と次の品物をどのくらい置けるかの相談に行くのだ。

M.ショウ。新しいのも扱いたいが何台か廻してくれませんか」

「良いですよどうしますか現金仕入れ。それとも後払い」

「後払いでも良いですかい」

「それでもいいけど利益は薄いよ。ミショーから入れたらどう」

「最近のミショーは高いですからね。家はペニーファージングで勝負したいのですがね」

「あいつは更に高いよ。最近ファントムも入れたけどそっちはどう」

「いえね。競争したらペニーファージングにはかなわないですからね。もう木製は半値でも中々売れませんし、この際勝負に出たいのですよ」

「あれはまた30台来るけど現金なら10台で3800フラン、だけど僕のとこは500フランで売りに出しているんだよ其れで商売になるかい」

「後払いだと高いもんに付きますかね」

「中古と同じで売れた分だけ払うという契約だと410フランはほしいな。それで商売になるかい。中古なら相当儲かるだろうに」

カミーユ・ローランは考えていたが3台預かって売れたらそのつど補充と言うのはどうでしょうねと正太郎に相談してきた。

「最初の3台を買える予算はありますか」

「先ほどの380フランなら3台買い取れるのですがね」

「そう、少し考えてみようね。その間机を借りるよ」
正太郎はいろいろと計算を出していたが「良いでしょう3台はその値段で出しますよ。その後も1台ずつでも同じ値段で出しましょう。その代わり中古も今までどおり扱ってくれますか」

「いいのですか。助かります。ミショーの社員の鼻をこれであかす事が出来ます」

何かミショーとトラブルでもあったのかと思ったが深く聞かずにサックから紙を出して契約事項を書いて確認させた上、もう一枚書いて双方がサインをして3台分の1140フランと中古の販売分の65パーセントの409フラン50サンチームを受け取って領収書を書いた。

「それでペニーファージングは今日中に配達しますけれど急ぐなら一緒に取りに来ますか」

「どこまで行けば良いですか」

「クストゥ街まで行けばあるはずですから馬車を拾って一緒に行きましょう。帰りにバイシクレッテを乗せられる奴を拾えば其れで戻ればいいでしょう」

「クストゥ街の店の様子も見たいから一緒に行かせて貰います」

店番を店員に言いつけて二人は馬車屋で大き目のを雇ってクストゥ街まで出かけ、バルバートル兄弟に先ほど交わした取引のことを話した。

「お世話に成っとります」

「いやぁ、此方こそ中古を引き受けていただいて、店がすっきりして助かっています」

此処で下取りしたものは手直しをした後カミーユ・ローランの店へ運ぶのだ、その際正太郎が下取り価格の倍の値段を付けて売り上げから65パーセントが店の会計へ戻されるのだ、その帳面の操作にも会計士が居ないと面倒になってきていた。

兄弟は店にあったペニーファージングを6台全て明るい通りへ持ち出してカミーユ・ローランに点検させてから3台を選んで馬車に積み込んだ。
「この分は帳面につけないで車体番号を控えた紙を挟んで保留にしてください。向こうの倉庫から補充したら車体番号を控えた紙は僕のほうへ廻してください。次回からもM.ローランのは同じ手続きでお願いします。例の学生割引と同じやり方です」

「解りました、倉庫へ午後に行く予定でしたので補充しておきます」

正太郎が向こうの帳面にはショウの引き取り分と記入して於いてくださいと伝えて馬車でカミーユ・ローランの店に戻った。

「いやはやあの店には驚きましたいつもは中古品を持ち込んでくれるだけで内容が解りませんでしたが、あそこまでバイシクレッテが置いてあるとは知りませんでした。倉庫には大分あるのですか」

「そう昨日の締めでは倉庫に取り混ぜて58台そのうちペニーファージングは30台ありました、貴方の店でたくさん売っていただければまた追加を輸入することが出来ますからたくさん売ってくださいね。今日話しは通しましたから何時でも1台からでも配達いたしますよ。前日申し付けていただければ翌日の午前中、昼前なら夕刻5時までに配達いたします」

正太郎は馬車代に4フランかけても急ぎに間に合わせをするほうが信用は増すと兄弟にいつも言っているのだ。

事務所に戻り今日の成果を話し事務員に現金を渡してモンマルトル・オランジェ銀行へすぐ預金に行かせて正太郎は机に向かってぼんやりと考え事をはじめた。
「少し甘かったかな、案外とペニーファージングが売れるのは何でだろう。どう考えてもあれでいいはずが無い。ルネの考えていることが実現できればそのほうがいいはずだ、歯車さえカバーで隠せば」

其処まで考えてアブリ(abri保護)が必要なんだ歯車を隠す物があれば足も服も保護できると考え付いた。
「出かけてくるよ。今日は戻らないからね」

そう事務員に言ってパリジェンヌ商会へ行くためにバイシクレッテにまたがって一散に町を走り抜けた。

途中、馬車にバイシクレッテに馬車トラムを何台抜いたろうか、走りながらこれならダンと競争しても付いていくことが出来そうだと、太くなった腕と足を交差する道で止まった時に眺めて、自分がいつの間にか逞しくなった事にいまさらのように感心してしまった。

パリジェンヌ商会でルネに話していると、マガザン・デ・ラ・バイシクレッテからエドモン・バルバートルが来て話しに加わりルネと二人で早速柔らかな鉄をまげて歯車のアブリ(abri保護)をして見たが相変わらず歯車同士の直接の噛み合わせた物では車が重く力が無いと動かせないのだった。

「これ以上前の歯車を大きくすると重すぎてどうにもなら無いよ。3連の歯車も試したがよく無いな」

「やはりイギリスで平たいチェーンを作ったという話の品物が来ないと上手く行かないようだね」

「あれも話しだけでまだ来ないのだよ。来てくれればなんとでも工夫が付くがこちらでは作れる物が見つからないのだ」

ルネは夢で見た2つの歯車を図面で見せこの間をつなぐ物さえあれば重心もつりあうしと話して、皆で機械工場や動力を使う人たちとつながりを作って何とかしようと話し合っていながらも正太郎は久しぶりにアリサのアパルトマンを訪問しようと考えていた。

エドモンが馬車に荷を積み込んで帰ったあとアイムとお茶を飲んでいると「なぁショウ。どうにもアリサは物になりそうも無い。お前に譲るからなんとかしてみたらどうだ」と言い出した。

「譲るといわれてもエメにばれたらまずいからなぁ」

「そいつは俺がカバーしてやるよ、さっきのアブリはいい考えだ、だから俺がUn abri(避難所)に成ってやる」

言葉遊びじゃないんだからと笑って「これからストレーでアリババでも買ってご機嫌伺いにでも行ってこようかな」と誘い水を向けてみた。

「いい考えだ。あいつはラムが強いからな。この間みたいに強い酒を飲ませてもなんとも無い奴にはあのくらい強くなけりゃ効き目も無いさ」

「前の時そんなに強いのを勧めたの」

「そうだどうせヴォートカとか言う奴で鍛えているだろうとルネがブランデーをがぶがぶ飲ませたが反対にあいつがまいって寝込む始末だからな」

「あの時ルネが僕みたいに参っていたのはそのせいだったの」

「そうだショウもブランデーを付き合って飲まされていたのに気が付かなかったのか」

「そうだったんだ、あの時間はもう相当酔っていたからなぁ、それであそこで寝てしまったんだね。あれから二月以上たったけどまたやりたいね」

「そうだなそろそろと思っているが、ショウはちゃっかりあの後2回昼飯を食ったそうだな」

「其れは情報が間違っているよ。1回はキャバレ・デ・ザササンに付き合って呉れたお礼の昼食会、1回はダンたちとの懇親会だよ。両方ともメゾンデマダムDDの下宿人とダンの友達が付いてきたよ。アイムは事務所開きのときアリサとカテリーナも乗せてきてくれたけどあの後進展が無いの」

「無いから諦めるのさ。どうにも俺とはアン・スィニャル(Un signal信号)が合わないらしい」

その話をしながらも正太郎はムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットで寝て居た時のことを思い出してあの時の夫人の素性はなんだったのかが今更の様に気になった。
ルネも事務所に来て話しに加わったがあの婦人については正太郎のほうからは切り出さずに居たが、今日もルネのほうから話すことはなかった。

キャバレ・デ・ザササンとムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットの時の話を振ると、また会合を開きたいものだと二人は盛んに言ってロシア娘はわからんと二人ともお手上げ状態だということを盛んに言っていたが、正太郎がちゃっかり手をつけていることには気が付かないようだ。

これからの生産見通しを確認して横浜への輸出を月末に行うことが確認できたのでその後でムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットで遊ぼうと約束して工場を後にして市場通りのストレーへ向かった。
モントルグィユ通りは午後の喧騒を見せて行き交う人で溢れていた、アリババは3個しかなくほかのものを4ッ入れて7個とし、ほかに取り混ぜて7個入りをもう一つリボンの色を変えて包ませた。

正太郎は表に出てから「こりゃ参った。このままじゃ駄目になるな。馬車を捕まえるか」とレ・アールへ向かってバイシクレッテを曳いて歩き始めた。

サン・トゥスタッシュ教会の前にアロルドの馬車が停まっていたが本人は見えなかったので暫く待つと大量の荷物を抱えて出てきた。

「やぁ、久しぶり」

「おやM.ショウじゃありませんか。親父さんに聞いたらバイシクレッテの販売を始めたと聞いてお呼びが来ないのもそのせいかとガッカリして居りやしたぜ」

「今日は買い物かい」

「あぁ、これね女房に買っておけと頼まれましてね、今日は陽が暮れたら終わりにして帰って来いと言われているんでさぁ」

「それなら川向こうに行く位は大丈夫だね」

「どのあたりですですかい。最もショウのだんなの仕事ならどこまででも付き合いやすぜ」

NHNの博物館の近くのドーベントン街だよ。実はお土産にアリババを買ったけど壊れないようにもって行くのに困ってね。何処かにバイシクレッテを預けて歩こうかと考えていたんだ」

「なんだそんな近くでいいのですかい。任せてくださいよバイシクレッテも積み込んでいけば帰りも楽でござんしょ」

「向こうですぐ用事が済めばまた此方まで帰るから少し待ってもらうようになるからそのつもりで頼むよ」

正太郎は料金を特に相談もせずにバイシクレッテを積み込んで乗り込んだ。

21番地へ付いて玄関のノッカーを叩くとM.ブロティエが出てきたのでお土産を持ってきたからMlle.ビリュコフへお渡しくださいというと「ご在宅ですので中へお入りください」と勧められたので馬車を返すことにしてアロルドに3フラン渡してバイシクレッテを降ろして貰った。

バイシクレッテを玄関の中へ入れて2階へ案内され、箱の一つはM.ブロティエに「ご家族とお食べください」と渡した。

アリサはメイドにお茶の支度を言いつけて「少し待っていてね」と部屋を出てすぐにカテリーナにもう一人小さな女の子を連れて戻ってきた。

「マリヤ、ご挨拶なさいこの人は私のお友達でジャポンから来られたムッシューShiyoo Maedaよ。ショウこの娘はセルビアから来ているマリア・オブレノヴィチよ。まだ11歳なの、でも5年もパリに居るからフランス語は自在に話せるわ。従兄妹は今年セルビア大公になられたクラリ・ミラン・オブレノヴィチなのよ」

「マリヤです。お見知り置きくださいな」

Shiyoo Maedaといいます。ジャポンの横浜から来ました。僕こそ仲良くしていただけるようお願いいたします」
正太郎は片ひざを付いて小さな公女の手を取ってキスをした。

「まぁ、ショウ7つも有るのね。でもアリババは3個しか無いわね」

「其れしかなかったんだ、だからアルセーヌの家族には行き渡らなかったんだよ。でも僕はアリババでなくて良いよ」

「そうそれなら私たちで一つずつ頂くわ。ユリヤ達に分けてもいいかしら」

「勿論良いですよ」

「ユリア、貴方残りはタチヤーナと向こうでお食べなさいな」

「はい頂いて参ります。ありがとうございますお嬢様」

皿に移した残りの箱を嬉しそうに抱えて部屋から出て行った後カフェ・クレームをカテリーナが注いで廻り4人でお茶にしてオペラや美術館、博物館の話しで盛り上がり、またキャバレ・デ・ザササンで皆さんの歌が聞きたいわとカテリーナが口火を切ってあの時の話しで盛り上がり、夜中に転寝をしていたらものすごい美人が隣で寝込んだので起きるのに邪魔になって向こう側にいたルネに寄りかからせたが二人とも帰るまで起きないので置き去りにしてきたけど、後で聞いてもどこの誰だかルネが知らないと言い張っていることを面白おかしく正太郎は話して聞かせた。

「マリヤ、貴方もうすぐ夕食だからあちらのほうへ戻りなさいね。ユリアに此処を片付けるように頼んで行ってね」

「ウイ・シトワイヤン」

すぐユリアが入ってきてテーブルを片付けて「御用が出来ましたら紐を引いてくださいお嬢様」と伝えて引き下がった。
アリサはカテリーナだけになると正太郎を隣の部屋へ誘いカテリーナは心得たようにピアノに向かった。

眼もくらむようなひと時が終わりアリサはめったにアパルトマンに来ない正太郎に恨み言を言ってル・リから起きようとさせなかった「体を拭いてあげるから」そういってもいつもなら喜んでさせるアリサだが足を絡ませてキスをせがんで容易に正太郎をル・リから出ることを許さなかった。

「ショウは私をアイムに押し付けようとしたでしょ」

「そんなことしていないよアイムが紹介してほしいといったのはカテリーナのほうだよ」

「だってバイシクレッテを届けに来た後も何度か私に贈り物が来たわよ」

「可笑しいなムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットの時はルネが君にべったりだったと思ったけど」

「確かにあの時はそうだったわね。私の思い違いなの」

「そうさ君のような素敵な人を他の人に取られたく無いよ。そんなこと考えられない。アイムが君たちに好意を持つ気持ちはわかるけど、他の人に取られたく無いよ」
正太郎は同じことを何度も口にのぼせ、乱暴にアリサの足を自分の肩にかけて圧し掛かるように抱きしめた。

カテリーナに送られてアパルトマンを出た正太郎はモンジュ街の金物屋でランタンを買って火を入れ、周りに気をつけてのんびりと走り昔は橋の上に病院が有ったと言うポン・オウ・ドゥブルを渡りノートルダム大聖堂と綺麗になった病院のオテル・ド・デュー・パリの間の道を抜けてアルコル橋からオテル・ドゥ・ヴィルの帰宅する市庁舎の役人の間を縫ってレ・アール市場へ向かった。

「エメとは夕暮れの町を歩きたくなるのにどうしてアリサとはそういう気持ちが起きないのだろう」正太郎は自分の気持ちの内にある二人の重さを量るように自分の心を覗いたがその様な難しいことなぞ今の自分には無理だとすぐに諦めて前を注意しながらメゾンデマダムDDへ戻っていった.


Paris1872年11月11日 Monday

横浜から手紙が来た。
孤児の家のMlle.ベアトリスにMlle.ノエルからだ。

メール・マチルド他4名のサン・モール修道会の修道女が横浜に上陸されたこと。
メール・マチルドはマリ・ジュスティン・ラクロという方で自分たちの事業を引き継ぎこの横浜で骨をうずめる覚悟であること。

ミチを留学させるため共に伴いフランスへ帰国すること、ミチの為にも日本語を忘れさせないために後一人女の子を選んで5年ないし8年の留学をさせる計画のあること。

孤児院の予定は山手58番が年内にも借りられるので其処にある建物に孤児の家を開設し自分たちの預かる子達のうち小さい子は其処へ来年3月をめどに引き取られること。

Maison de bonheurは来年春をめどに閉鎖すること。

二人の実家には連絡をしてあること。

それらがミチの手紙と共に送られてきて正太郎はパリもしくはReimsへの住居の世話をしたいと折り返し返事を出し、電信でも簡略な自分の気持ちを横浜へ伝えた。

ボルドーからのワインも横浜についてジュリアンの分も含めてオークションは盛況で1100本に26000フランの値が付き、そのほかの分は今計算中で予測価格は1450本32000フランでそのほかは試供品として処理するとあった。

ジュリアンは大喜びで関係者をトゥールネル河岸トゥール・ジャルダンに招待した。

この分のワインの大半はジュリアンの商品なので年内にも正太郎との事前の取り決めで価格の65パーセントが支払われる予定なのだ。

オウレリアの一行もパリに来ていて、正太郎とエメが此処へオウレリアを招待したいと言うのを聞いていたので、この際自分がと申し出たのだ。

「しかし思ったより日本人は金持ちじゃないか」

「そうですよね、驚きました僕はこんなに高く売れると予測すらしていませんでした。やはりボルドーという響きがジャポンではオート・カリテ(高級・高品質)とでも聞こえるのでしょうかね」

「まさかな、しかしネゴシアンのM.アズナヴールのおかげだな」

「ほんとにあの方には親切にしていただきました。儲けは大事だが友情も大事だというあの方の仕事の哲学は見習うべきものが多かったです」

「そういうことだよ。友情は確かに大切だだが自分の身を削りすぎてもと言うのは共倒れになる。どこかで友人を助ける線引きは必要さ、だがそれ以上の線引きの無い友情は同志という硬い友情としてあることも覚えてくれ」

「勿論だよジュリアン」

「よし、ショウと俺は同志だ」

「そうだね共に儲けて面白いことをしようね」

「そうさ遊ぶため、食べるため、家族を養うために働くのが男だ。その一つがかけても男として失格だ。其れを満たした上で友情は犠牲を伴うこともあることを覚えてくれ」

「難しすぎてよくわからない理屈だね」

「そうじゃないんだ。理屈で考えているうちは、真の友情なぞありえないということさ」

やはりジュリアンは大人なのだ、正太郎はこの男と知り合えて本当に良かったと思えるのだった。

ジュリアン夫妻にエメと正太郎、オウレリアとジュディにMr.ラムレイの7人はその夜9時にサン・ルイ島にあるマリィの店というカフェーで待ち合わせて其処から歩いてトゥール・ジャルダンに向かった。

肌寒い川風を受けながらも河岸につながれた船では多くの人が料理に舌鼓を打ち酒を酌み交わし騒ぐ様子が伺えた。

店に入ると初めてながら応対は良く、庭の見える席に案内されアペリティフのシャンパーニュにはアラン・ロベールが選ばれ、アミュゼのキャビアもボルドー物で最上級品、ジュリアンはエメに教育されたのか鱸のプロバンス風という皿にも果敢に手を付けた。

お目当ての鴨料理にシャトー・ラフィット・ロートシルトがソムリエの手でささげられMr.ラムレイさえも驚嘆の声を上げたほどで、様々な見事な料理とワインが出された。 

チーズと共に出されたワインはミュスカ(Muscat)、ジュリアンは批評もせず楽しく晩餐を盛り立て立派なホスト役を務めていた。

アソルティマン・ド・パティスリーの台から正太郎はミルフィーユを選びカルヴァドス・オ・ペイ・ドージュで今日の会席は終わりを告げた。

食事の間の話題はサラの舞台のことだ。 

5日たった今も評判は悪く急遽取りやめになりそうだと噂が飛び交っていて、エメと正太郎にとっても気の重い話題だった。

オウレリアはそんな気分を吹き飛ばすように正太郎の商売の話しに話題を振り向け「すっかりパリになじんで体もたくましくなった」と上流階級の人が聞いたら笑い出すようなほめ方をした。

正太郎の腕はジュリアンに負けないくらいたくましくなり、それほど力仕事もしないのにとMme.ジュリアンのエメが不思議そうに言うのだ。

「バイシクレッテのせいだよ。あれに乗り出してから足も長くなったし腰まわりにも筋肉が付いて子供らしさはなくなったがね」

「そうね、3ヶ月前から比べると着るものも粋になって、背も伸びてもう大人の仲間入りね。彼女も居るし」

そういってエメの手を優しく叩いた。

バイシクレッテは資金の投入が多く掛かったが見通しは良く、ジュリアンはアントワープの共同経営の店のものに店を開く気が無いか打診中だ。

スリップ・デュ・クストゥにスリップ・デ・マリーはボルドーに販売店が開かれた。

ジル・ビュトール・デュシャン・ヴィヨンが代理店として酒屋の前の店舗に自分の夫人を責任者として夫人用品の店を開いてParisからの品物として自分のところでは縫わないことにして商品の価値を高めて売り出したのだ。

Parisと同じ最低価格にしてマシーヌ・ア・クードゥル縫いを2フランとし、手縫いは1フラン高の3フランに設定した。

Parisでは手縫いだけを置いて輸出用はマシーヌ・ア・クードゥル縫いを出すことにし、ロンドンへ各2000枚をスミス商会が買い入れてくれて、ニューヨークへも同数が10日の日に送り出されていった。

サンフランシスコにはオウレリアが連絡して横浜からのものが送り出されていくことになり、大陸の何処かで出合うことになるかMr.ラムレイなどは出来るならこれを賭けにしてみたいものだと笑い飛ばした。

「ショウこれからは半年間月500枚ずつ計1000枚を買い入れるからそれぞれに各250枚送り出すよ。1枚1フラン20サンチームで買い入れても3フラン以上に値をつけても売れる予定だ」

M.カーライルはもっと売れそうだなと今から偽者が出てくることを予測して、今のうちに名前を売り込むことを考えるように注意されたサラ・リリアーヌはキャミソール・デ・マリーもあわせて送り出すことをもくろんでいた。

スリップが卸で1枚35サンチームの儲けでも各4000枚となれば1400フランがそれぞれの店舗の販売益となったのだ。

マシーヌ・ア・クードゥル縫いは一人で1日120枚をこなすことが可能で裁断をする専門のお針子を一人増やしても十分採算が取れると計算してそれぞれの店舗に一人増員された。

最初に雇い入れたお針子は今月分から1日8時間5フランとし時間外は30分50サンチームとしたので働くものは大喜びでスミス商会の仕事を間に合わせてくれた。

ブティック・クストゥの初めての配当はジュリアンも承知して純益の50パーセントが積み立てられ、それでもジュリアンに300フラン、テオドールに300フランが配当され正太郎の取り分900フランが初期投資の損益を埋めてくれた。

Mr.ラムレイが正太郎に委託した300ポンドはレートが7020フラン、その全てが店への投資に回さないうちに利益につながり関係者は先行きの明るさに喜びが溢れていた。

「ショウ次はなにを考えているの、寅吉みたいに食べ物屋でもやる」

「いえ僕は食べ物屋はどうもねワインが今の僕にはいいようです。機械物が好きですから何かそちらを考えて見ます」

「期待しているわよ」

正太郎はいまバイシクレッテで夢中でまだほかに力を分散したくないのだ。

オウレリア一行を乗せた馬車がトゥールネル橋のガス灯の明かりに照らされ、夜霧の中で橋の上から浮かび上がるようにサン・ルイ島の中へ消えていく様子は幻想的で馬車脇のランタンも霧の中へかすんでいった。

其れを見送っていた正太郎たちにジュリアン夫妻もそれぞれの家に向かって馬車で送られていった。



Paris1872年11月22日 Friday

前回の手紙を追いかけるように横浜のミチから手紙が着いた、9月1日の日付で前の手紙を出した日の12日後の差出だった。
M.カルノーと婚約と最初に書かれていて読み進むうちに正太郎には微笑みが浮かんできた。

噂でしか無かったMlle.ベアトリスがM.カルノーと婚約した報せなのだ、10回目の申し込みを受けて承諾したそうだ。
Mlle.ノエルもその手紙の間に挟みこむように嬉しいことだと書いて来ていた。

結婚式は来年3月新居は寅吉が世話をして今の場所に新しい家を二人の希望を聞いて丸高屋で建てる事も決まり神戸にいる太四郎も設計に加わりたいと横浜に来ていてM.カルノーへ申し入れて帰ったそうだ。
正太郎は早速お祝いの手紙と電信を打ち、婚約祝いにうろ覚えながらベアトリスに合いそうなタイユのドレスをサン・トノーレ街に出かけて誂えた。

「ムッシュー、それでタイユはこれでよろしいですか」

「そうなんだ、Yokohamaに本人が居るので正確にはわからないのだがアン・サンチュールで腰を締めるようにしてもらえるといいのだが」
正太郎は昔から体形の変わらないベアトリスが今もそのままで居るだろうとは思ったが、体にぴったりなものより緩やかなものを選んでタイユの指定をした。

「かしこまりましたそのお方が受け取って喜ばれることは間違いありません。価格は160フランでお受けできます。5日で仕上げますが途中で見に来られますか」

「ブティック・エンペラーの名前を信用しますよ。では先払いで160フラン置いてゆきます」

「かしこまりました、後は掛かることは無いでしょうが前払い金としてお預かりいたします」

160フランとは言いながらもこちらの顔色を見てまだ要求しそうなことを言い出した、金持ち相手の高級店と言うのは困ったものだと正太郎は思った。
「君それなら今正確な計算を出すことが出来ないかな」

その店員は少し考えをする振りをしていたが、金持ち相手にいつもならタイユ合わせのたびに値を吊り上げようとしているのが今回は無理と判断したようで「ムッシュー、私の責任で160フランでお渡しするように努力いたします」とまだ言葉を濁しながらも請け負った。

「頼みます。では28日に取りに来ますのでお願いします」
受け取りを出してもらい店を後にしてセーヌの川岸へ出た。

正太郎はこの日久しぶりにオムニバスと馬車トラムを乗り継いでサン・トノーレ街まで出てきたので川岸へ出て秋の深まり行くパリの夕暮れを歩きたかった、パリへはいったのは5月18日、半年が過ぎたばかりなのにいろいろなことがありすぎたと感じていた。

横浜に居ては味わえない食事も飽きが来ないが、たまには握り飯で沢庵が食べたい、お茶漬けに鮭の塩引きなどと贅沢な願いなのだろうかと思ってしまうのだ。
西園寺に約束した2時にはまだ間がありのんびりと横浜を思い出しながら歩くうちにテュイルリー宮殿の焼け跡に残ったオレンジ温室の脇へ出ていた。

テュイルリー河岸の船着き場の脇でアイスクリームを食べている男がいた、正太郎は寒くないのかなと見つめているとその男は箱をゴミ捨て場に投げ込んで振り返った。
「やぁ、M.ショウじゃ有りませんか」

「ウイ・シトワイヤン、確かシェ・カフェー・ブライアンの人だよね」

「ええ、あそこで働いていたマキシム・ジェラール(Maxime Gaillard)です。ムッシューはこの近くでしたか」

「僕はモンマルトルのソウル街だよ。今日はサン・トノーレ街まで買い物に来てこれから川向こうの友達のところに行くのさ。今いたと聞こえたけど、店をやめたのかい」

「何時までも使われていないで自分で店を開こうと思いましてね。今日は店探しですよ。余り喉が渇いたのでイモダ・アイスクレーム・パーラーで肉汁入りのグラッセ(Glace)を買いましたが、夏と違って河岸で食べるには向きませんな」

イモダはイタリア人がやっている店で、さまざまな味のものを出すが正太郎は素朴な横浜で食べた味が一番の気がするのは身びいきなのだろうか。

「もうじきストーブが焚かれるようになれば部屋で食べるのも良いですよ」
パリでは横浜と違い子供の小遣いでもためて買える40サンチームだ2朱に満たない7匁だ。

「いい場所でもありましたか」

「其れがね思ったように行きませんのさ。神さんの親が金を出すといいますが中々予算どおりには行きませんや」

「店が決まって開店の日がわかれば何人か連れていきますから、ジュリアンの店へ連絡してくださいよ。彼に言えば仕入れも面倒見てくれますよ。カフェーやテの卸問屋にも顔が聞きますからね」

「そいつはありがたい。M.ジュリアンはルピック街でしたね」

「そうです。クリシーから入ってすぐですから、彼が居なくても僕の名を言えば連絡も付きますから相談に乗りますよ。ところでM.ジェラールはカフェーやテを入れるだけで料理は出来ませんか」

「ギャルソンの前はコックが本業でしてね、あのコミューンの騒動で働いていた店が焼けてからですよカフェーに勤めたのはね」

「それなら料理店を開いてもやっていけるんだ」

「其処まで腕に自身は無いのですよ。親方が生きていればもう少し修行が出来たのですがね。途中で挫折した口ですよ。ル・プティー・ムーラン・ルージュに居ましたが其処で軍隊に取られましてね、仲間には天才的な奴も居ましたぜ。この間あったら早く自分の店を持ちたいといっていましたが、腕がいいだけでは今のご時世中々ね」

マキシムは仲間の名がジョルジュだといったが今どこで働いているかは知らないようだった。
くれぐれも連絡をして呉れる様に話し、正太郎は河岸沿いにポン・ヌフまで出てセーヌを渡った。

サン・セヴラン教会で待ち合わせの約束をしていたエメと落ち合いリセ・ルイ・ル・グランへ向かった。
すれ違う学校帰りの友人たちは正太郎のほうを気にしながらも立ち止まらせては話しかけてきた。

「エメ、何か忘れ物なの」

「違うわ、これから彼のお友達のところへ行くの。ムフタール通りの先だからマドレーヌの丘を此方から廻ってゆくの」
出合った何人かがエメを呼び寄せて正太郎のことを散々冷やかしては分かれていくが、そんなことが3回も続いて「これじゃ待ち合わせをほかの場所にすれば良かったわ。ショウを見せびらかして歩いているようなもんだわ」

「自分でショウに分かり易い場所だからと、選んだのに僕にあたるなんて可笑しいよ」

そういった正太郎にエメは腕を強く掴んで引き寄せて「こうなったらどうぞ見てくださいとこうして歩けば、遠慮して誰も声をかけないかも」

そういう言葉が聞こえたようにまた呼び止められて後ろを振り向けばお馴染みのピサロ先生にジェローム先生だった。

「仲のいいことじゃな。ルフェーブル先生の絵はだいぶよい出来だぞ。エメの表情が素敵だがあのマンドリンはなぜ弦が切れたのかな」

「ルフェーブル先生は写真を撮った後、どうも気に入らんとマンドリンの弦を何本か切りながらポーズをつけてやっとあのデッサンをしました、少し木に寄りかかった様に見えるのが御気にいったようでもう一度明日の午後にデッサンのやり直しだといっていましたがもう色が入っているのですか」

「そうじゃが、う〜んもう1枚同時進行で描く気かもな」

「2枚描くなら1枚モデル代に貰おうかな」

「そりゃどうかなあの先生中々確りしとるからな。それに買うとなれば高いぞ。ルノワール君やモネ君のようにはいかんぞ」
暫く立ち話をしてピサロ先生とジェローム先生に別れたのは1時40分だった、二人が見えなくなってから時計を覗いて「どうやら時間ぴったりにつきそうだね。これ以上引き止められなければだけど」というまもなく何人かが声をかけ中には正太郎の腕をとるエメに遠慮なく話しかけながら同じ方向だからとローモン街をどこまでもついて来る娘までいた。

「どこまで行くの」エメが痺れを切らして聞くと「あなた方がどこまでいくか知らないけど、その人がよく行くドーベントン街よ。彼、私が居るアパルトマンでお昼を食べたわ」

その言葉を聞いて正太郎が首を伸ばしてエメ越しに覗くと向こうも同じようにしてこちらを見た。「確かスペインから」

「そうブランカよ」

「マドモアゼル・ブランカ・オルディアレスだったよね」

「わぁ、覚えていたんだすごい、あれだけ沢山の人が居るのに名前を覚えられるなんて貴方の彼ってすごい人ね」

「でも良く行くは余分だよ、何回か行ったのは確かだけど」

「そう、今月は来ていないの」

エメは黙って正太郎の腕に力を入れてきたが何も言わずに二人の話を聞いていた。

「今月は一度も訪ねていないよ」
正太郎はノートをサックから出して日付を確認して10月11日のヴァンドルディ(Vendredi金曜日)だから1月前だね」

アリサと会ったのはそのほかに何度かあるがアパルトマンにたずねたのはあのアイムが諦めるといった日だから嘘ではないのだ。

アリサと最近会ったのはついこの間の15日だ、ブローニュの森で落ち合いロンシャン付近の丘を散歩して渡し舟で蛇行してきたセーヌを渡りシュレーヌのヴァレリアンの丘の下にあるアリサの別荘だという小さな家に向かった。

敷地の入り口に栗林にオレンジらしい樹に囲まれた小さな家で鍵を受け取り夕日を受けて御伽噺のような田舎家へ入ると炉辺には火が焚かれ鍋からはいい匂いが部屋を満たしていた。

暖かな部屋にはテーブルに隣の部屋にシャンペンが冷やされていると書付があり、アリサは其れを持ってくると正太郎に栓を抜くように指示した。

その夜は満月、二人はその家に泊まり、夜中のパリの灯が見える二階で夜遅くまで語り合った。

何か感ずいて居るのかと思ったが、ただ口が軽いだけの娘のようで「エメそのアパルトマンはお昼が安くて食べ放題なの、お友達を急に連れて行っても2人や3人は問題ないのよ。40サンチームで食べ放題なんて素敵でしょ。来週マリー・クリスティーナも誘うから一緒に行きましょうよ。15分くらいだから往復しても1時半の授業に充分間に合うわ」と誘った。

「良いわね。私も沢山食べるから安いのは大歓迎だわ」

嘘つけと今度は正太郎がエメの腕をぎゅっと引き寄せたが知らん顔で「ブランカ、何度言えば覚えるの、マリー・クリスティーナじゃなくてマリー・クリスティアーヌよ」

「ふ〜んだ、その位いいじゃない。彼女は気にしていないわ」

「それはもういい疲れて諦めたのよ」

「なら同じよ」
ローモン街が突き当たり3人は左へ曲がってアルバレート街へ入った。

1番地の西園寺のアパルトマンの前で此処に訪ねる人が居るからと別れの挨拶をすると「来週のランディ(Lundi月曜日)はお昼の約束よ。此処から5分も掛からないから」そう言って足音も軽く去っていった。

「何しに行ったの」

「アリサのとこかい」正太郎はノートをエメに見せた。

「アイムのお使いストレー、アリババ3個ピュイ・ダムール4個、ピュイ・ダムール3個ミルフィーユ4個、14フラン80サンチーム可笑しな数ね」

「アリサとカテリーナにセルビア大公の従兄妹という女の子それとアリサのメイドたちの分とアパルトマンの管理人のM.ブロティエの家族の分だよ」

エメは半信半疑ながら可笑しなことならノートに書いておくはずも無いだろうと判断してくれたようだと、正太郎は勝手に思うことにしてアパルトマンの入り口の管理人に断って三階の西園寺の部屋のドアをノックした。
執事役の高梁がドアを開けて「お待ちしておりました。何時もながらショウは時間が正確ですな」そういって中へ入ると「この方がMlle.エミリエンヌ・ブリュンティエール様ですか」と聞いた。

「そうです。僕の大事な人Mlle.マリー・エミリエンヌ・ブリュンティエールです」

「おう、失礼しましたお嬢様。どうもフランスの方のお名前はたいそう長くて覚えるのが大変で」

「いえ高梁様、僕のほうが伝えた時にマリーを付け忘れました」

「ショウは何時もながらお優しいことで」
広間には西園寺は居ず、ベランダから声がして高梁に案内されてベランダに出た。

三階とは思えぬ広さに不思議そうな顔をすると「ショウは此処へ出るのは始めてかい」

「ええ、この間来たときはカーテンが開いておりませんでしたので知りませんでした」

「あのソファが邪魔をして脇からしか出られないのさ。此処の下は二階の風呂場と台所があるのさ。おかげで部屋は夏でも下から暖められることが無くて助かったよ。此処だけでも一部屋分はあるからね。マリー・エミリエンヌ・ブリュンティエール良くいらっしゃいました。事務所開き以来ですね」

M.西園寺お久しぶりでございます」

「おや、今日は表情が硬いね。痴話げんかでもしたかい」

「そうでは有りませんが此処へ来る間リセの友人にからかわれましたので」

「そうかショウのことだね。彼は優しいからね、いろいろな女の人がショウのことを話題にしても気にしないことさ。この男こう見えても君にぞっこんだよ」
西園寺は日本に居た時にフランス語の基本を学びこちらに来てどうやら通じるくらいだという割りに急速に言い回しにも進歩が見られていた。

エメは優しい西園寺の言い分に納得したか話し方にも余裕が見え、其れを察した西園寺の話題もエメの話が中心となって行った。

「それでヂアン・ショウは最近忙しいようだが」

正太郎が最近の仕事の内容やこれから何がしたいかなどを話し、サラの近況に今日出会ったマキシムという男の話をした。

「そのジョルジュと言うのはもしかするとジョルジュ・オーギュスト・エスコフィエという男かもしれないよ。高梁と同じくらいだからパリでは小さい人だけど中々面白い男で、今はスフィンクスで働いているよ。腕はぴか一だね、料理は斬新だし東洋から来た僕でも感心するくらいだから、これからのパリを代表する料理人になるだろうと弁務使公館のM.マーシャルがそういっていたよ。ところで弁務使公館へ最近行ったかね」

「今月はまだ伺っておりませんが」

「そうか日本で山縣が陸軍中将近衛都督の職を免ぜられたのは聞いたね」

「はい其れはお聞きいたしました」

「今、山城屋に公金についての返済などについて横浜に到着しだい陸軍省の方で取り調べがあるらしいが、横浜に到着しだい身柄をどこが押さえるかでもめているらしい」

「いまだ長州の方々は山城屋をかばう気のようなのでしょうか」

「あの藩は金遣いが荒いからな。そのおかげでわれら公家諸侯も助かったことも有るが、公金も自分の懐も区別が付かんのは困りものだ。長州一国の時と同じ感覚では日本が潰れてしまう。しかし吉之助が山縣を弁護して陸軍大輔はそのままだそうだ。いま薩摩と長州が割れるのはふせがないかんというが、これが後々禍根にならなければいいのだがね。山縣が陸軍大輔の職に居れば山城屋のことも握り潰される危険もあるのだよ。佐賀は気が短くて勝負にならんし吉之助も嫌気が差せば前のように国に引っ込むと言いかねんからね」

若い西園寺はいろいろの国の長所短所を述べてから思い出したように「鮫島さんだがね」と思わせぶりに切り出した。

「彼も地位が上がることになった。名前も弁務使から弁理公使と成る事が決まった。体外的には今までと違いミニスター・レジデント(Minister Resident)と名乗れることになった。弁務使公館もこれからは公使館だよ。正式には神無月14日だから今月の14日からそうなった」

「其れではお祝いをしませんと」

「其れだ君、費用を持つ気があるかね。まだ僕は政府留学生で金の自由が利かんのだ」

「おっしゃっていただいて嬉しいです。それでどこがよろしいですか」

「さっき言ったスフィンクスはどうだね。26日にはベルリンに発つそうだ。それで忙しいだろうがディマンシュ(Dimanche日曜日)に店が開いていればどうかね。今日の帰りにでも確認してくれないか、駄目ならランディにしてもいい」

「分かりました時間はディマンシュなら昼間でもよろしいですね」

「そうディマンシュなら役場関係とは関係なく開くことも出来るしバーツやサラ・ベルナールのお二人にも出ていただきやすい」

「バーツはともかくサラはどうでしょうか」

「そうか、今はよくないかな。だが元気付けてあげたい気も有るのでなぁ」

「よろしいですわ帰る道筋でスフィンクスを予約して、そのままサラのところと連絡をつけますわ、勿論バーツとも。其れから此方へは連絡をいたしますから鮫島さまへは西園寺様からお願いいたします」エメは援け舟を出すように話しに加わった。

「よろしいでしょう。急ぎですからどのくらい呼べばいいかな、公使館から3人、僕と高梁に君とエメ嬢。バーツにサラ・ベルナールとこれで9人」

「今パリにMr.ラムレイもリリーもいますのでジュリアン夫妻を加えて13人」

「そうか念のため20人で予約を取ってくれないかな、だいぶ散財させるようだがきっと埋め合わせするよ」

「お気にしませんように。これは私も鮫島さまとのYokohamaからのお付き合いの続きでございますから」
話しは決まり今日呼ばれた用事にやっと入れることになった。

「ハハハ其れはね。たわいも無いことなんだよ、米が届いてね、君の顔を見てからすぐに高梁が仕度をしてくれているのだ。彼の家は代々僕のところの賄いでね、腕はいいのだ。パリにも鮭が手に入ると言うので探していたら手に入ったので塩引きに彼がしたのさ。そいつが今日明日が食べごろだというので色々と料理をしてくれるのだ高梁と2人で鮭ばかり食べていては堪らんので君たちを呼んで片付けてもらう手伝いをしてほしいと呼び寄せたのさ。エメが口に合うか知らんがジャポンの味も試していただこうと思ってね」

その話をしているとメイドが二人付いてテーブルの用意が出来ましたと高梁が広間から呼びかけた。
「メイドも雇われましたか」

「そう通いでね。僕と高梁だけだと全て洗濯屋に出しているより、通いで来て貰う方が経費が掛からんと言うので頼んだのだ」

テーブルに着くと「コースとは違いますので順番にかかわらずお好きな物だけでもお召し上がりください」とエメに話しワゴンからまずサーモンのバターで蒸し焼きにしましたと片身が出てきて其れを切り分けてくれた。

ソースはこれをお使いくださいと醤油が出された。
エメは初めてだったがソース・デュ・ソジャ(Sauce du soja醤油)をかけて最初は首をかしげていたがバターの香りに助けられ、食べているうちに美味しさを感じてきたようで「美味しいソースですわ。初めてのお味ですが魚にはあっているように思います」といってくれた。

その次にステーキが小さく切り分けられて出て大蒜の香りが少し強めだったがこれにも醤油を勧められて試して驚いた顔をして「大蒜がとても優しい味になりますわ、このソースはバターに合うようですわね」そういって西園寺に微笑みかけた。

「困ったなぁ、僕がバターになれるのに半年掛かったのに、其れがソース・デュ・ソジャと合うことで克服したんですよ。最初から日本の味が克服できては困りますな」
そういってホッホッホッと優しく笑った。

「だが次はそうは行きませんぞ」と脅かして出てきたのは塩鮭の焼き物だった。

正太郎は思わず涙が出たのをエメも西園寺も見逃さなかった。
「やはり懐かしいかね。僕も公家なぞといっても昔子供の頃は貧乏でね塩引きはご馳走の内だったよ」

「はい横浜でも函館からのものは貴重品でした。僕が働き出して仙台物を実家の母に届けた時のことを思い出しまして。失礼いたしました」
その涙をエメは立ち上がってスカーフで何度も拭って、優しく頭を抱きしめてくれた。

「いいねえヂアン・ショウは幸せ物だよ、ショウ言っとくけどエメを泣かすようなことをしたら僕が承知しないよ。エメもショウが言うことを聞かない時は僕に言いつけに来たまえ、懲らしめてあげるよ」

「いえそれには及びませんわ。私にはショウがなにをしても許すことが出来ます。ただ私には隠し事をせずに打ち明けていただきたいものです」

「おお、おお、参るねえ。君たちにはほんとに参るよ。僕も早く言葉を自在に扱えるようになって恋人を作りたくなったよ」
高梁はスープ用のカップに温かいご飯をエメには少なめによそい、竹を削った箸を出してくれた。

「さすがのエメもこれは使えまい」

西園寺はそういったがなにを隠そう煮た豆をつまむのに箸の使い方をとっくに教えておいたので、ご飯を口に入れるのには苦労していたが器用に鮭の骨をより分けられて西園寺は手を上げて嘆いていた。

今度は味噌に糠漬けでも出さないと駄目だよ高梁といって降参降参とおどけているうちに午餐会は終わりを告げた。
「この米はイギリスに入った岩倉公からの贈り物さ僅か二升ほどだがダイヤモンドをもらうよりうれしいものさ」

「貴重なものをありがとうございます。スペインの米は粘りが無い上に此方では粘りを洗い流すか、炒めてから炊くのでぱらぱらとして米という感じがいたしませんでした。一年もたたずに米の味を忘れるところでした」

「ははは、ショウは大げさだね。ヂアン・ショウというほうがいいかね」

「パリでは同じように通用します。Shiyoo Maedaのほうが僕らしくないといわれる始末ですから」

食後に魚ばかりだったからとポートワインが出されてビスクと一緒に話が弾んで居たが夕暮れが近づいたので「スフィンクスの予約を取りに行きます」とアパルトマンを辞去し、モンジュ街で馬車を拾ってシャトレ広場の先にあるスフィンクスへ向かった。

「此処は任せておいてね。知り合いが居るの」
エメはドアの前にいた背の高いヴォワチェリエに「こんにちはジス。セルヴィスのアロンは居ますの」と声をかけた、

Mlle.ブリュンティエールお久しぶりです、今日はお食事ではないのですか」
「そう予約に来たのよ。お腹は一杯なの」
今お呼びしますとドアを開けて二言三言話していると小太りの老人が出てきた。

「マドモアゼル、まず中へお入りください。夕刻は魔が差しますぞ」

「ありがとうM.クローデル予約状況と日曜は今でもお店をあけているのか知りたいの」

「あけていますとも昼がよいですかな。それとも時間の指定がございますか」
暖かい応接セットのある場所で長いすへ二人をいざなって、給仕にカフェーを持ってくるように言いつけて予約台帳を広げた。

「20人の席を用意できるとしたら何時がいいかしら。予算はワイン別で400フラン」

「左様で其れは結構なお値段での会合でございますな。シェフも腕の振るいがいがあるというもので、ところでお聞きしますが明後日のディマンシュでよろしでしょうかな」

「そうよ、できれば遅いお昼ということで4時からお願いできないかしら」

「勿論Mlle.ブリュンティエールのことですから否やはございませんぞ。伯母様にはこのクローデルめ少年時代からお世話になりましたからな。今の貴方がどのように無理を言われても異なやを言うことはございませんぞ」

「まぁ、M.クローデルったらそんなに力をお入れにならなくとも結構ですわ」

コーヒーを持って小男というほどでもないがエメに比べて少し低いかという人がコック帽を小脇に抱えて出てきた。
「マドモアゼル、お久しぶりです」

「お久しぶりね、M.エスコフィエ、貴方最近評判がよろしいわよ」

「マドモアゼルにそういっていただくと嬉しいです。ル・プティー・ムーラン・ルージュで最初にお会いした時はパリに来られたばかりでした。私はその後は軍に入りましたのでそれ以来でございます。今日はお食事ではないのですか寂しうございます」

「まぁまぁ、日曜に会を開きたいのでそのお願いなのジャポンから来られた方のミニスター・レジデント閣下になられた昇進祝いなの」

「まさか此方の紳士でしょうか。まだマドモアゼルと同じようにお若いのに」

「違うわ」エメはにっこりと笑って正太郎の手をとると「私のいい人」といった。

「そのご招待する方はSamejima様という方よ。紙をいただければ列席予定の方のお名前をこちらのヂアン・ショウが書き出しますわ。ショウお願いね。貴方はヂアン・ショウで書いておいてね」

エメは笑顔で楽しそうに正太郎に頼んだ。
「それでお酒は別で予算は20人で400フラン。貴方に全てお任せするからそれで腕が振るえる余地が有るか検討してくださる」

「勿論ですとも予算はいくらでもというお客様より遣り甲斐がございます。そのご予算ですとフォアグラにキャビアも最上のものがご用意出来ますぞ。魚介は如何いたしますかな」

「海老が死ぬほど嫌いな人が居るのできれば魚は少なめに」

「かしこまりました子牛に羊に鴨に雉などいかがですかな」

「そちらは大丈夫ですわ。サラ・ベルナールもヴァルテス・ド・ラ・ビーニュもお呼びしたいのだけど、あの方たちの好みはご存知かしら」

「其れは奇遇でございます。ただいまデセールが出ておりますからもうじき終わる頃でございます」

「どちらが来てらっしゃるの」

「お2人でございます。実はサラ様ですが落ち込んでおられるのでヴァルテス・ド・ラ・ビーニュ様がお慰めに」

「どうかしたの。まさか終幕になったの」

「左様でございます。昨日急遽打ち切りになったそうで先ほどからお慰めに」

「では私とショウがお尋ねしてよいか聞いてくださる」

「かしこまりました」とシェフは帽子を被り直して去っていってすぐ戻り「席へご案内いたします」とエメを案内して奥へ向かった。

「全て書き出しておきましたが、この番号だけのところは来られるか分かりませんので開けておきますが当日ミニスター・レジデント閣下のお名前を言われた方はお通ししてください」

Naonobu Samejima様でよろしいですか」

「そうです僕はショウといってくだされば招待した人には通じますのでショウに呼ばれたという方も通していただけますか」

「かしこまりました。お二人どちらかのお名前が合言葉でございますな」

「左様です」

西園寺の住所を書いて簡単に全て解決済みとしたため、M.クローデルが配達を頼みに店の前にある便利屋へ頼みに行ってくれ、すぐに戻り「今出かけましたから30分で向こう様へ届くでしょう」と請け合ってくれた。

給仕が正太郎を呼びに来て話が終わるのを待つとサラの席へ案内された。
「ショウお願いがあるの」

「サラの言うことなら何なりと」

「ありがとう。お芝居が打ち切りになった事聞いた」

「今さっき聞かされたばかりです。驚いています」

「上演前から私にごてごてした飾りの付いた衣装を宛がうし、台詞は少ないし最悪だったわ。それで次のお芝居でもう揉めているの、相手役に超有名人をあてがい何とか私の名誉を挽回しろと言って下さる方も居るのだけど肝心の相手役が今回の有様を見て乗り気じゃないの。最も私が生意気なことを昔から言うので反感も多いけど」

「其れで誰なんです、そのお相手は」

「ジャン・ムネ・シュリー」

其れはすごいパリ一の伊達男で勇名をはせている売り出し中の二枚目だ。
「それで僕は何をすれば」

「今晩11時に来てほしいの。今晩これから打ち合わせがあるのよ。通りかかった振りでコメディ・フランセーズの前に遅れずにね」

判りましたと言わなければいけない気迫が篭もっていた、さすが女優は違うなと正太郎は思って必ず行くが日曜は出席してくれるか聞いてみた。

「馬鹿ねショウは。其れはもうエメに約束させられたわよ。貴方の役目はその交換条件。貴方のことは私たちの格好の話題なのよ。女優のお友達は貴方とお近づきになりたがっているわよ、気をつけることね。さもないとエメを泣かすことになるわよ、なんせ貴方は幸運の女神ならぬファローそのものですもの」

「ごめんサラそのファローって何の神様なのかな」

「そうかジャポンでは知らないかな。ペルシャの神様で幸運と財宝の神と言われているわ」

「ペルシャですか」

「そうペルシャ、今のアラビアのことよ」
正太郎はエメを送って時間を計っていくことを承知して、スフィンクスの二人の支払いを代わってディマンシュの会の約束の念押しをして外に出た。

「遅れないように来るのよ」念を何回も押してサラはコメディ・フランセーズの前で馬車を降りバーツは住まいのあるオスマン大街81番地へ送り届けた。

ルピック街へ出向いてジュリアンにはメゾンデマダムDDへは遅くなるので何処かへ泊まると連絡をつけてもらうことを頼み、バイシクレッテを一台とランタンを借り出して馬車に乗せ、ノートルダム・デ・シャン街まで向かい10時まで其処で時間をつぶした。

「早く行かないとサラが表で困るわよ」
エメに言われて慌てて服を着て正太郎が表に出たのはまだ11時に45分もある頃だった。

ランタンの灯を入れてポン・ヌフからサン・トノーレ街へ出て左へ曲がればすぐ其処のコメディ・フランセーズの前へ出るとやはり終演の看板が出され、昨日で打ち切られたことが書かれていた、時間は後20分もあるので、しばらく先へ進んで時間を見計らって戻ってきてオテル・デュ・ルーヴルの裏口にあるシャルトル通りの角で待つと、ほどもなく楽屋出入り口から出てくる人に混ざりサラ・ベルナールの一行が出てきた。

盛んに話しかける紳士を振り切りカンテラの明かりを不審そうに見ていたが正太郎に気が付いて駆け寄ってきた。

付いてきた紳士を早口で「ジャン・ムネ・シュリー」と正太郎に紹介して「このジャポンの紳士は私の幸運の神よ。いい所で出会ったわ。この次の出し物はきっと大当たりよ」

その紳士は怪訝そうに見ていたが「カジノで儲けさせてくれたと言うのはこの人かな」と聞いてさもあらんという顔つきで頷いて髭をなで上げた。

正太郎はサラもこういう人が好みなのかなと思ったが「ヂアン・ショウとしてサラにはお付き合いいただいています」

「あっそうか、君かジャポンの振りをしたがるシーヌで実は本当のジャポンだというのは」サラがその話をしているところを見ればこの人を信頼しているようだと正太郎は気が付いて「よろしくお見知りおきください」と改めて挨拶をした。

「其れでなんの用でここに居るんだね」

「ノートルダム・デ・シャン街に居る友人のところからモンマルトルのソウル街へ帰る途中です。今其処の看板を見てサラはどうしているかなと考えていたら皆様が出てくるのに出会いました」

その頃には遠巻きにしていた女優陣から何人かが走りよってきた。

正太郎の周りを取り囲んで自分の名刺に住所を書き込んでポシェに投げ込んで走りさって行ったが、この間オウレリアの誕生会でカンカンを踊った中にいた二人はまだ正太郎のバイシクレッテを支えに寄りかかって話を聞いていた。

「あなた方家に戻らなくていいの」
サラに言われると正太郎の腕を掴んで「サラと同じように私たちにも幸運を授けて頂戴」と可愛い顔を近づけて甘い声で囁いた。

二人からは甘い香りがしてアリサの色気にも負けない妖気にそそけ立ち、身体がかっと熱くなる正太郎を見ていたサラは「それならショウをつれてお酒を飲みに行きましょ」と二人を誘って「M.シュリーどうかこの人の幸運を信じて仕事を引き受けてくださいませ」と頼んだ。

「君たちがこの男の幸運を信じるのは勝手だが、僕はこの若い男を知らんのだ。幸運が有るかどうかカジノへ行って確かめよう」

そういって自分の馬車を呼んで正太郎のバイシクレッテのランタンの灯を吹き消して馬車に積み込むと「君はサラたちの馬車で附いて来た前、行き先はグラン・ブルヴァール、カジノ・ローマ」と颯爽と馬車に乗り込んで出発した。

馬車に乗り込んだサラは二人に遠慮しながらも「お金を持っているの」と聞いてきた「私今日は50フランしか無いわよ」「心配ないですよ」そういって肩にかけたサックから金貨の詰まった袋を取り出した。

「此処に300フラン。それと此処に300フラン」と財布にある50フラン札を見せた。

「600フランね」

「まだありますよ」
そういって服の襟を探らせて100フラン札を引き抜いてもらった。

「もう1枚反対側」体をよじりそれも抜いてもらった。

「いつもこんなに持ち歩いているの」

「さっきエメから300フランは日曜の会のために預かってきましたから、今日使っても僕のお金を明日引き出せばすみますよ。君たちもこれで遊んでくれたまえ」

正太郎は2人の若い女優に50フラン札を渡してサラにも100フラン札を渡して「幸運を」というと3人も声をそろえて「幸運を」と正太郎を励ましてくれた。

正太郎は自分の幸運がこれで去るのか、まだまだ続くのか運試しだなと思ったがサラが傍に居る時に悪運に見舞われたことは無いのでサラとファローに祈った。
馬車はフランス郵船の角を右へ曲がりサラが握る手の熱が高くなり其れが正太郎にも伝わってきた。

BNCIの銀行らしからぬ正面玄関を見ながらヴァリエテ座のあるモンマルトル大街へ出れば其処がグラン・ブルヴァールと人が言う不夜城の続く繁華街だ。
右へ曲がると500メートルも進まないところにカジノ・ローマがある。

M.シュリーは顔馴染みらしく中へ悠然と入り200フランを10フランのポイントに換えてルーレット台へ向かって「君も此処でやり給え」と自分の脇へ誘った。
正太郎は300フランを20フランのポイント15枚に換えて貰った。

「ショウ此処のルールは5フラン単位、上限300フランだ」

4ヶ月前の山城屋と遊んだカジノのときを思い出しながら最初何気なく18に20フラン1枚のポイントを置いてクルーピエの様子を監察した。

サラは14.15.17.18の4点へ10フランのポイントを置くと二人の女優も其れに倣った。
500フランほどの掛け金が集まるとおもむろに取っ手を回し、賭けがそれ以上無いと見るや「賭けは其処までです」と声がかかりやがてボールは0で大きくバウンドしてあっさりと18に飛び込んだ。

「ディズュイット・ルージュ」

「ショウ残念だな20フランしかかけずに」

M.シュリーはルージュに100フランを掛けて倍にしていた。

次も正太郎は18に今度は60フランを置いた。

サラは前回と同じ4点掛けを同じ場所に20フラン置き同じように2人も後を追いかけた。

輪が廻り始めるとすぐに正太郎は「アン・プラン、オンズに60フラン」それと同時に「賭けは其処までです」とクルーピエのあせる声が響いた。

正太郎はやったと思った、そのあたりがぽっかりと空いていてクルーピエが狙ったのは其処だと感じたのだ。

ルーの勢いは中々衰えず弱まってきた回転は少しずつその数字がはっきりと見え11で一度弾んで0に落ちそうになったが何度も弾んでようやく落ち着いた。

「オンズ、ノアール」

其れまで関心が薄かった観客の多くがサラを取り囲むように近寄ってきた。

「サラだ、あのサラだよ」という声が囁き交わされているのが聞こえるように正太郎には思えた。

M.シュリーが今度は黒に賭けていてまた100フランを倍にした。

「ショウこのままでは朝まで掛かる、後3回で辞めるからそのつもりで賭けろよ」

M.シュリーが煽るように言うと正太郎も頷いて「今晩はそれでお願いします」と返事をした。

正太郎は同じようにまた18と17に60フランと15と21に100フランをポイントした。

M.シュリーは考えていたが12に50フランを置いてノアールへ300フランを置いた。
「サラ僕と同時に同じ所へ張って、二人の分も預かって上乗せしてね」

「判ったわよ任せておいて」

サラは熱の篭もった手を正太郎の左の指先へ絡ませて機会をうかがった。

輪が廻りだしてボールを投げ入れると間髪をいれず「アン・プラン、ディス100フラン、アン・プラン、トラント・ドゥ100フラン」正太郎の声が終わるかどうかにサラの透き通る声が「アン・プラン、ディス、100フラン。アン・プラン、トラント・ドゥ100フラン」と響いた、その声は舞台で演じる時のように一瞬カジノを凍りつかせたように声がなくなり「オーッ」という声と共に人が群がってきた。

すぐさま「賭けは其処までです」とクルーピエが遅ればせながら震える声で叫んだが輪はとっぜんのように回転を弱め32番へ吸い込まれるように収まった。

「トラント・ドゥ100フラン」のサラの声を聞いた人々は一斉にサラに握手を求めサラ・ベルナールは揉みくちゃに為っていた。

「トラント・ドゥ(trente-deux)ノアール」

クルーピエのか細い声はそれでも台の傍にいた人を正気に戻らせ、配当を受け取ったものはまたサラの袖に触って「僕にその幸運の手にキスをさせてください」と懇願するものが後を絶たないのでルーレット台は賭けを続けることが出来ない状態になった。

M.ショウ今晩はもう駄目だな。この騒ぎじゃこれまでにしよう」

「はい判りました。僕もついていましたが貴方も中々ですね一晩やったら僕のほうがすってもムッシューは負けそうも有りませんね」

「ありがとう君はやっぱり運が強い、あの役は引き受けるよ」

「ところで僕はムッシューが何をやるのか馬車でも聞いていないのですが」

「ん、なんだサラは話していないのか。彼女はだいぶ昔にやったブリタニキュスのジュニーだよ今から5年ほど前の当たり役の再演だ。もちろん僕がブリタニキュスさ」

「残念ながら僕はパリへ来て半年なのでその舞台を見ていないのです。そのときのらしい写真はアパルトマンの隣の人が飾っていて見た事は有りますがね」

「ふむ、あの時より今のサラのほうが適役だとは思うがね。僕もプライドがあるからサラのお助け役での出演はいやだったが今日から考えを変えるよ。きっと舞台を成功させて見せる」

M.シュリーは男らしく引き締まった顔で断言した。

ようやく騒ぎが収まり正太郎はポイントが6120フランあったので1000フランと更に620フランを気前良くチップとして4500フランをポシェに押し込んだ。
サラと2人の女優は1000フランずつを手にして手元の残りのポイントを惜しげもなく全てチップとして差し出した。

其れを見ていた多くの人は今までファンで無いものもサラたちコメディ・フランセーズの女優のファンになることは間違いあるまい。
「オ・ルヴォワール・アドゥメン、ショウよい夢を見てね」

「オ・ルヴォワール・ボンヴォワイヤージュ、いえ旅でなくよい芝居をというべきでした」

「いいのよ其れで舞台は旅に出るのと同じですもの」

サラたちの馬車を見送り正太郎のバイシクレッテを積んだ馬車はM.シュリーの家のあるシテ・オートビルへ向かい、正太郎には客間を宛がってくれて馭者に執事も交えて広間で時ならぬ酒宴が始まった。

M.シュリーは遅くなった正太郎を自分の家に誘い執事と馭者に今晩の話を聞かせそれぞれに100フランを渡して臨時給与だ好きに使い給えと渡したのだ。
正太郎はこの人は色々噂があるが心も懐も大きな人だと感じていた。

M.ショウは本物の幸運を呼ぶ男だ、我が家もこれからはぴいぴいと泣き叫ぶツバメの仔じゃなく、孔雀のように着飾ったご夫人で溢れかえるぜ」と2人の従僕に宣言した。

結局朝まで飲んで倒れこんだジャン・ムネ・シュリーに別れを告げ、客間には泊まらずふらつく足取りでバイシクレッテを曳きながらコンドルセ街を登り、ラ・マルシェの前でフロシュート街へ入り、ようやくピガール広場へたどり着いたときには夜が明けていてクストゥ街へ入るころには限界が近づいてきている正太郎だった。
ルピック街のジュリアンの家にたどり着くと起きて来ていたエメに後を頼むとのめり込む様に二階のソファに倒れこんだ。

10時過ぎに喉が乾いて眼が覚めると事務員のMlle.シャレットが心配そうに覗き込んでいた。
「やぁ、Mlle.シャレット、君一人かい」

「ボンジュール・ムスィウ。プレジダンディレクトージェネラルなんですから確りしてくださいよ」

「その長い呼び方勘弁してよ。ボンジュール・マドモアゼル・シャレット」

「マァ、M.ショウこそ何時まで私のことMlle.シャレットという気ですか。いいかげんジャネットと呼んだら如何」

「其れより水をもらえるかな。僕事務所で寝ていたのかな」

「確りしてください。周りを見て此処はルピック街ですよ」
水を飲んでようやく落ち着いて「昨日夜中にジャン・ムネ・シュリーと飲んでね」其処までいうと後ろで「オウ」と息を呑む声が聞こえた、エメと帳簿の整理をしていたMlle.ベルモンドの声だ。
周りが見えてきた正太郎に「どこで飲んだの、どこで知り合ったの。どんな人」矢継ぎ早にエメを中心に正太郎の周りで騒ぎ立てた。

頭を抑えながら「ゆっくり小さな声で頼むよ。昨日此処からエメのところへ寄って帰りにサラ・ベルナールに頼まれたコメディ・フランセーズへ寄ったのさ。M.シュリーがどうしてもカジノに行かなけりゃ承知しないと連れて行かれてしまったんだ。その帰りに自宅で執事やお抱え馬車の馭者を含めて4人で朝方まで飲んだんだよ。いい人で気風もいいし雇い人にも優しい人だったよ」と簡単に告げた。

「それでカジノでは勝ったの。負けたの」

「確かM.シュリーは500フランくらい持って帰っていた様だよ」

「それでショウはどうなったの」

「良く分かんないよ」とサックから金貨の袋を出して「これはエメから預かった分、それから財布はありゃ空だ。それから」ポシェに隠しからと5枚の名刺とドンドン出てくる札と金貨に3人は眼を丸くしていた。

「良く判らないが4000以上あるかな。勘定してよ」
2人の事務員が勘定すると4500フランが有ったと言うので襟を探り「あっここのは女優の卵に軍資金にやったんだ、そうすると4000儲かったようだ」とまた水を飲んだ。

どうやら頭もすっきりしてきて「サラと女優の卵は3人揃って1000フラン持って帰ったよ。だからカジノは大損害さ」といってまた横になった。
眠気はそれほどでもないが体がいうことを聞かないのだ。

「何か食べなさいショウ。そうすれば少しは元気になるから」

「うん頼むよ」
そういってサビエットを借りて顔を洗いに下へ降りて塩をつけて歯を指でこすって洗い、顔もざぶざぶ洗うとすっきりとして眠気もとんだような気がして腹がすいていることに気が付いた。

昨日の夕方前に西園寺のところで食べた後エメの部屋でビスケットを3枚ほど口に入れたほかには、サラミが2枚くらいとチーズのかけらを食べた気がするくらいなのだ。

店にジュリアンが帰ったらしく威勢の良い声がして裏へ廻ってきた。

「よぉ、ショウ起きたか」

「今起きたとこだよ。昨晩はジャン・ムネ・シュリーと飲み明かしてすっかり参ったよ」

「あの伊達男か」
ケッという音でタンをはいて呆れたように言うので「ジュリアン二階でそんな事いっちゃ駄目だよ。ジャン・ムネ・シュリーのシュリーと聞いただけで眼の色が変わる人たちばかりだからね」と注意しておいた。

「フン、あいつに参っているのはパリ全ての女どもだ。嫌になるぜ」

そういいつつも正太郎と二階へあがると「ショウに何か出してやれよ」とエメに言いつけてくれた。

「今スープが出来るわ。ジュリアンはカフェにする」

「ああ、そいつを頼む」
テーブルに無造作に積まれた金貨と札を見てなんだこいつはよと正太郎を見た。

「昨晩説明したように鮫島様の昇進祝いの予算にエメが出したのがその袋の金貨」

ジュリアンは重さを測るように手に提げて「300フランはあるな」と言い当てた。

「あたり。予算は酒抜きで400フランだからエメが300出して後は僕が」

「其れでこいつはなんだ」

M.シュリーが中々話しに乗らずにカジノで決着をと言うので付き合ったんだ」
それでと皆が聞き耳を立てる中を割り込むように熱いスープが置かれた。

ジャガイモとベーコンがとろっとろとに溶けたお腹に優しいクリームスープだ。

「これっていつもジュリアンが飲みすぎた時ようなの」

「そうよ、いいからすこしのんで、それから話を続けなさい」
言われたようにスープの熱々を3口ほど含んでから「グラン・ブルヴァールのカジノ・ローマへ連れて行かれてね、君が勝ち残ればサラの言うことを聞いてもよいとルーレットを始めたのさ」そこでまた2口飲んで「最初18に20フランが大当たりで、次は11番で60フランのアン・プラン最後は32のアン・プランの100フラン、チップを大げさに張り込んで置いてきたけどその残りさ」

其処まで言って後はスープを噛み締めるように飲んだ。
盛んに4人で何かかやと話していて「4500フランか。まったくこいつは賭けで負けたことが無い。しかしこの名刺はなんだ」とジュリアンが呆れたように言葉を切った。
「昨晩サラと待ち合わせた時に居合わせた女優の卵がいたずらでポシェに放り込んでいったんだよ」
「M.シュリーはどうしたんだ」
肝心の話がまだだと4人は興味深げに正太郎を見つめた。

M.シュリーは500フランほど勝ったようだよ。サラと若い女優たちがそれぞれ1000フランずつ、それでM.シュリーは今度の役を引き受けることにしてサラたちを帰した後、僕を自宅へ誘って朝まで飲んだんだ」

3人の女は同じ話でもM.シュリーの名が出るたびに眼を輝かして聞いていた。
「肝心の何の役をやるのよ。其れが知りたいのよ。じらさないでお話なししなさいな」

M.シュリーはブリタニキュスでサラはジュニーだよ」

「あの伝説の当たり役ね」

「そんなことM.シュリーが言っていたような気がするけどダンの部屋の写真しか見ていないんだ」

「私も見ていないけどママンがサラのことを言うときは必ずのように今年のスペイン王妃ドナ・マリア・ヌブールよりすばらしい舞台だったと眼を輝かしていたわ」

それでいつからなの、席は取れるの、とサラのファンなのかM.シュリーの舞台が見たいのか判らないが口をそろえて「それだけ恩を売りつけた上で儲けさせたんだから一番いい席を貰うのは当たり前だ」と正太郎に迫った。

「明日聞いてくるから其れまで待ってよ。今は何もそれ以上知らないんだから」

ようやく正太郎は開放され、事務員二人はしぶしぶオムニバスの時間を調べ帰っていった。

正太郎は少しまどろんで昼になってからオムニバスでアパルトマンへ戻った。

 


Paris1872年11月24日 Sunday

朝から正太郎は忙しかった、事務所は休みだが午前中に打ち合わせのためにルピック街のジュリアンのところへ出向きまた急いで戻って窮屈な燕尾服に身を固めた。
山高帽は被りたく無かったが「今はこれを被るのが流行り」とMomoにあっさりといわれ、冷やかすニコラを睨み返したが効果は無く2時に来るエメを待ち受けてスフィンクスへ向かった。

3時についてM.クローデルとの打ち合わせも入念にして何時なりと人が着いても大丈夫となった。

「緊張するね」

「本当にそうだわ、まさか此処まで正装するとはね、一昨日には想像もしないで引き受けたのですもの」

「まさか大久保様が先乗りで打ち合わせにパリへ来られるなぞ思ってもいなかったんだよ」

「その方ジャポンでは偉い人なの」

「大蔵卿と言うのだけど財務大臣だよ。それで今は外遊中だから他の人が代わりを仰せつかっているんだよ。ジャポンでは上から10番までに入る偉い人さ。今回は鮫島様との打ち合わせだけで、明日にはまたロンドンへ戻られる忙しい人なんだ」

「緊張するわね」

「でも大丈夫。厳しい人だけど本当は心の広い優しい人だよ。よく話をする旦那様の先生の勝先生も信頼しているし、まだイギリスにいる伊藤様もこの人を日本で大事な方の五人にたとえることが多かったんだ」

「ショウさっきは上から10番で今度は5番と言うのは可笑しいわよ」

「それわね、身分の順番が10番に入るということで人間のとしての高潔さと政治の力が5番目に入るということなんだ」

「そう其れで了解できるわ。ショウはお会いしたことがあるの」

「一度だけだけどね。吉田先生のお供で船が出るときにご挨拶したくらいだよ」

「覚えていらっしゃるかしら」

「無理だと思うよ大勢の中の一人だったからね」

時間が近づいて最初の客は西園寺だった「ご苦労様、ショウは中々その燕尾服が似合うよ」

「ありがとうございます、まだおいでの方は居られませんが控え室へ入られますか。高梁さんはいかがいたしました」

「彼は表で鮫島様たちが来るのを出迎えてからといって外にいるんだ。君たちの補佐役でここにいよう。大久保さんもこられると聞いて早めに出てきたが顔見知りの僕がいたほうが良いだろう」

「お願いいたします。大久保様と鮫島様がおいでになられるまで此処にいて頂けると助かります」

ジュリアン夫妻が到着して控え室へ入り、オウレリアとMr.ラムレイが到着したのが5分前、M.カーライルとM.ギヌメールも続いてきてくれた。

サラとバーツが二人の若い女優を連れてきてすぐ後を追いかけるようにM.シュリーが来てくれて正太郎よりもエメは喜んで迎えた。
「ジュリアンは苦虫を潰した顔をしているんじゃないかな。見に行きたいくらいだよ」

「あらどうして」

「あちらのエメは熱烈なファンらしいよ。今の君の100倍は喜んでいるはずさ」

エメはフフフと可笑しそうに笑い、其れは西園寺にも伝染して3人が笑っているところへ大久保を案内して鮫島が入ってきた。

「鮫島様おめでとうございます」

「ショウ今日はありがとう。西園寺君にも礼を言います。大久保先生を案内してきたよ、M.マーシャルと高野君に大久保先生のお供で来られた田中君と林君は次の馬車だ。ショウは二人を知っているそうだね」

「はい、お会いしたことがございます」

「二人も会えると言うので喜んでいるよ」

大久保が澄んだ声で西園寺に挨拶をした、勿論日本語だ。
「西園寺様お久しぶりです」

「大久保先生にもご壮健でなによりです」

「うん、君も勉強にせいが出ているようでなによりです」

「先生、この少年が今日のお膳立てをしてくれた前田正太郎です。そちらがマドモアゼル・ブリュンティエール」

「君が正太郎君かイギリスから来る時に君の事は伊藤君からも聞いたよ。今回は世話になる」

「ありがとうございます。私の恋人のマリー・エミリエンヌ・ブリュンティエールに挨拶をいたさせますので暫くフランス語で話すのをご容赦ください」

「良いともでは西園寺君に通訳に入ってもらおう」

「エメ、改めて紹介しよう。この方が日本から来られたムッシュー・オオクボだよ」

「始めてお目にかかります。私はマリー・エミリエンヌ・ブリュンティエールと申してShiyoo Maedaとお付き合いをさせていただいております」

優雅に足を引きドレスの端をつまみあげて優雅に頭を下げると大久保はエメの手を持ち上げてキスをして「大久保利通です。前田正太郎君にはわが国にとって大事なお役目を手伝っていただき感謝しております」そういった言葉を西園寺がエメとM.クローデルに聞こえるように通訳して大久保はもう一度手を胸に当ててお辞儀をした。

身の丈は正太郎より僅かに高く痩せていてフロックコートがよく似合い、あごひげは無く鼻下の髭は癖があるらしく左右に少し分かれて伸びていた。

青みがかった瞳は澄んで優しげにエメには見えた。
「君たちに上げようと今朝書いたものだ」と堅忍不抜・為政清明と2枚の12号のトワルに書かれた物を風呂敷から出して1枚ずつ渡してくれた。

「和紙の適当なものが無いのでホテルの前の店で買い入れたものだ、この意味はどんな事にも心動かさず、政事は潔白で隠し事があってはいけないということだよ。同じもので悪いが出来が良かったのでつい勢いで2枚も書いてしまった」

優しい笑顔を見せてその後は豪快に笑う様子は正太郎とエメには好ましい人と写った。

西園寺が案内役でセルヴィスの後に付いて席へ案内され、控え室からは集まった人々が続々と鮫島に挨拶をして西園寺から大久保を紹介されて席へセルヴィスとシェフドランが案内した。

「お見えにならない方がございますが、お初めになられますか」

「いえもう少し待っていただけますか」

後ろを振り返ると挨拶が済んでいない人が4人居たので「挨拶が全て済みましたらシャンペンをその後で」

「かしこまりました。そのように申し付けてまいります」

M.クローデルが席を立ったそのときエメはさっと緊張し「ル・プレジダン」とつぶやいて正太郎の手先を固く握り締めた、何事かと見ると大統領だ。

高梁が先導し、猪首のがっしりしたティエール大統領がM.マーシャルに案内され高野が最後を護衛官と歩いてきた。

エメは後ろに足を引いて「ボンジュール・ムッシュー・ル・プレジダン・ティエール(Bonjour Monsier le President Thiers)」と挨拶をしたので正太郎も手を胸に当てて同じ挨拶をした。

「硬くならないでM.ショウだねそしてMlle.ブリュンティエール、君たちのことはM.マーシャルから聞きました。今日は公式では無いので君たちとも友人として暫くお付き合いをさせてください」

噂と、見た目からは想像できない少し甲高い声で易しく言われてエメの手にキスをして緊張気味のセルヴィスの案内で中へ向かった。

その後から顔なじみの林と田中が屈託の無い笑みを浮かべて入ってきた。

「お二人は横浜にいたとき何度かお目にかかったんだよ。僕の先生や旦那様のお知り合いでもあるんだ」

正太郎は英語に切り替えて二人に話した。
「田中様言葉には慣れましたか」

「慣れたなれた。林君なぞ俺に話す時は絶対に日本語を使わないんだぜ。覚えるより慣れろとはこのことだ」

二人が最後であろうと正太郎とエメも中の席へ向かい後で来た人があればつたへてくれるように頼んだ。

高梁が先に西園寺に伝えたので、中では一斉に起立して迎えたが、ここでもル・プレジダンは「皆さん今日はM.Samejimaのお祝いに非公式に駆けつけましたので最初の乾杯だけのお付き合いですが非礼をお許しください。今日はこれからも行かなければいけないところがありますので」との挨拶をして配られたシャンパンで共和国万歳、日本万歳と乾杯して「M.Ookubo、公式訪問されるときを首が長くなるほど期待してお待ちします」と自分の首を伸ばして護衛官に守られて表まで出て見送るエメと正太郎に「仲良くしてくださいよ。君たちこそがわが国とジャポンの信頼そのものを顕していますぞ」と去っていった。

「わぉ、緊張したわね。こんなの初めて」
「僕もさ。君がル・プレジダンといった時は何が起きたかと疑ったよ」
M.クローデルも緊張いたしましたと胸をなでおろし、エメと正太郎が席に着くとシェフが主賓の鮫島と大久保に挨拶をして宴会が始まった。

シャンペンの後シェリーが出てキャビアに蕪の漬物が添えられていた。

鱸の塩蒸しが出されまず綺麗に描かれた塩の上の絵が披露された後木槌で固まった塩が砕かれると豊かな香采と鱸の風味豊かな香りが漂った。ワインはブルゴーニュのシュヴァリエ・モンラッシェのBlanc vinが出された。こうしてみると多くのアルコールが飲まれたようでも一口ずつ楽しんだというほどでよほど弱い人でなければ酔うほどでもないのだ。

フォアグラのソテーに鴨のワイン煮、鹿肉は生に近い風味でかすかに生姜のにおいがした。

牛肉は噛み応えがありながらも負担にはならないもので肉汁もたっぷりと豊かな味を含んでいて出されたワインはドメーヌ コント・ド・ヴォギュエ、ジャン・ピエールが正太郎に勧めたことがある高級ワインだ。

話題は大統領からサラの新しい役の成功を願う会から祝う会へとM.シュリーが先走るように祝い始め鮫島もバーツのこの間の成功を祝い大久保には皆が正式なパリへの訪問をお持ちしますというところでデセールも終わり、主賓の鮫島と大久保について高野にM.マーシャルの4人が退席し、林と田中が正太郎に挨拶をして「来月半ばになると思う」と言葉をかけた。

西園寺と高梁が去り、オウレリアについてMr.ラムレイが明日朝メゾンデマダムDDで会おうといって去り、M.シュリーが去り残るはジュリアン夫妻と女優の4人にエメと正太郎ということになった。
「もう少しお付き合いしたいけど何処か場所を変えません」

「キャバレーでも良いですか。カフェーのほうがよいですか」

「ショウ、今日サン・トノーレ街のヴァレンティノは開いているのかしら」

「あそこは休み無しですよ。」

「それなら其処へいきませんこと」

ジュリアンは夫人に聞いてお付き合いしますというので馬車を分けて出ることに為り、正太郎とエメが清算をすることにして計算書を取り寄せ、チップを含めて760フランを金貨と札を混ぜて支払った。

見送りにM.エスコフィエはじめ一同が玄関先へ出てきて馬車が見えなくなるまで見送った。
「さぁ此処もこれからは格が上がるよ。なんせ一時的とはいえ大統領が乾杯の音頭を取ったんだからね。だからといって値段を上げたりせず、品物を落とさず、お客様に喜ばれる店をめざしてください」
店主が顔を出さないも道理でM.クローデルがセルヴィスを兼ねた店主だった。

エメの部屋に一度向かってもらい荷物を置いてコンコルド橋からサン・トノーレ街へ入りヴァンドーム広場の先にあるヴァレンティノの前で下りた。

50サンチームの入場料を払いwaitpersonに聞くとすぐ一行の座る席へ案内された。

「遅かったわね」

「大事な頂き物を置いてきたものですから」

「いろいろ頼んだけど特にほしいものはある」

「いや特にありません」といってから「エメにはカクテルを」というより早く二人の前にピンク色のカクテルが置かれた。

「後5分で出し物が始まるわ」
ジュリアン夫人は「こういうところは初めて」だとエメに興奮を抑えたように話しかけてきた。

先ほどまでのスフィンクスでの興奮がまだ続いているようでジュリアンが若い女優たちと話しをしていても気にならないようだ。

舞台では踊り子が跳ね回りここでも最初はカンカンのレビューだ。

その後道化役と可愛い少女役のこっけいな踊りに輪投げやナイフ投げ、手品が続き華やかな歌声の響く中踊り子が衣装もきらびやかに舞台狭しと踊りまわった。

サラたちは商売人の眼で踊り子たちを見つめ「ショウ私たちもいつかこういう踊りを舞台で取り上げなければいけない日が来るわよ。昔風のオペラにこっけいな軽演劇だけではお客は納得しない日が必ず来るわ。そのとき慌てるよりも大げさでもいい、観に来られる人が納得してくれるお芝居がやりたいわ。一部の通人しかわからない舞台なぞ消えてなくなるのよ」

正太郎はこれだものサラは何時も壊しやだのこの前の舞台の後マドモアゼル・レヴォルト(反逆娘)だよと噂がもう町へ出ているのだと思った。

バーツはジュリアンたちと4人であれこれ批評しては手を叩いて声援を送り舞台で繰り広げられるどたばた喜劇に大きな声で笑い、カフェ・コンセール全体を盛り上げる効果を生み出していた。

舞台でもバーツやサラに気が付いた演出家が受けを狙い、ことさら派手に振りつけたようにバレーの衣装の踊り子に扮した男優と騎士に扮した女優のやり取りが可笑しさを振りまいていた。

「あの騎士役の娘、良いわね。いつかは花形の女優になるでしょうね」

そういって給仕を呼んで「あの騎士の方を舞台が跳ねたらお呼びできないかしら」と10フランの金貨を一度見せて前掛けに差し入れた。
「お呼びします」給仕が約束したようにその娘が着替えて現れたが、立って迎えた正太郎より靴底が高い分だけ顔の位置が上にあった。

「ロレーヌ・アフレと申します。および頂き嬉しく思います」
柔らかな金髪は肩の下までありハシバミ色の瞳は聡明な様子を表していた。

「マァ好い姿勢だこと。上背もあるし貴方一流の舞台女優の素質がおありよ、正規の学校で習われた」

「いえ行きませんでしたの」

「そうでも今からでも良い指導者と舞台作家に恵まれればパリを代表する踊り子になれるわ。バーツも紹介するから私たちとお友達になってくださいな」

バーツや二人の踊り子、正太郎や其処にいたエメにジュリアン夫妻も次々に紹介して正太郎に目配せをしてきた、エメが金貨を手に渡したので意味がわかり内緒話をする振りで胸元に5枚の金貨を滑り込ませた。

「ありがとうムッシュー」
その娘は正太郎に礼を言って立ち去ったが、指示をしたのがサラだという事がわかった証拠にサラの手をとって「いつか貴方と同じ舞台に立てる世の中が来ることを夢見て勉強します」と礼を言って楽屋へ戻っていった。

「いくら上げたの」
「金貨5枚5フランと10フランが混ざっていたから30から40だと思う」と答えると「ショウは其処まで気前がいいことするから女の子に好かれるのよ」と自分でまいた種なのに正太郎が悪いことをしたようにエメににいたずらっ子のように言いつけた。

若い二人の女優は「一昨日あそこにいて良かったわ。今年半年分の給与で稼いだより一晩で稼がせていただいたもの。でもどうしてM.ショウは博打打にならないの、聞いた話をあわせればいくらでも稼げるでしょ」

「其れはどうかな。たまたま勝てただけで毎日出かけて行っても勝てるほど甘い話とはいかないよ。だってそれじゃカジノはみんな成り立たないよ」

1日4フラン、5フランしか稼げない人のほうが多いのに、1000フランがはいっても平然ともらえるものは貰っておこうという此の娘たちの方が可笑しいと正太郎は思っているのだ、その気持ちがある限り色香に迷って金を振りまいて遊ぶ男にはなるまいと覚悟を新たにしているのだ。

この可愛げの残る女優の卵にも男がいて貢がせているのか、それとも貢がせられているのかと思うと迂闊に近づけない危険な匂いを敏感に感じていた。

そんな正太郎でも傍から見れば金離れの良い男に見えるのだから、可笑しなものだとメゾンデマダムDDの住人が笑うが、マダム・デシャンは気をつけて遊ぶのよと出かけるときの注意は怠らなかった。

とっくに死語となったはずのグリセットがプロスティチュエ以下の娼婦としてパリの歓楽街には多く存在し、ニコラはバーツさえもプロスティチュエの鑑札を受け取らざるをえないと教えてくれ、遅くも来春には警視庁から呼び出しが行くだろうといっていた。
ブティック・クストゥがテイラーを使わないのも仕立て屋、お針子が洗濯女と同じ意味での簡便な娼婦と思われているので、正太郎も洗濯屋を開こうかという考えに歯止めが掛かっていた。

ニコラはロレットという言い方がグリセットに変わり、許可の無い私娼として取締の対象になりプロスティチュエを公娼として検査義務がある公認娼婦として扱う代わりに税金対称にする方針だと打ち明けてくれた。
俺のような下っ端でも今のままほおって置けば性病の蔓延は防げず、パリはそういう意味でも危険な街になると多くの医者が警鐘を鳴らしているとも言って、メゾンデマダムDDの男たちに教えてくれ遊ぶにも節度が必要だという割には飲めば前後不覚になるまで飲むのはニコラだった。

「そうだジュリアン。わすれていたよ」

「なんだ」

「ほら僕のところのMlle.ベルモンドにMlle.シャレットから頼まれていた話さ」

「ああ、そうか。Mme.ベルナールの舞台は何時開演になるかという話しか。いかがですか、まだ何時になるか判りませんか」

「決まっているわ。来月の14日後3週間しか無いわ」

「何時ごろアン・ビエが売り出しになるか聞きましたか」

「来月1日よ。エメは来てくれるの。バーツのときは留守で初日はだめだったでしょ。コメディ・フランセーズは何箇所も売り場が有るけどこられるなら手配するわ。お金は一昨日貰ったようなものだからいい席を3日間2席とるわ、それぞれ6人は入れるわよ。ショウと二人で1席でもいいけどね」

「お願いしますわ。ショウと初日、後2日目と3日目は知り合いに配りたいの。ジュリアンも行くでしょ。そうすればマダム・デシャンにMomoとMlle.シャレットにMlle.ベルモンドで1日、あと1日はジュリアンのほうでママンに上げたいでしょ」
エメはその席が1日40フランだと正太郎に教えたので240フランかとすぐ商人の頭で考えてしまった。

「私たちにも招待させてほしいわ。サラが取った席を続けて3日間二人で負担するからお客を連れてきていただけるかしら」

マリー・エロイーズ・デュポンというアリサに似た銀色の髪の胸の大きな娘とアン・マリレーヌ・ル-フォールと名乗った褐色の髪をお下げにした娘がそれぞれが1席をサラと共に連続6日間抑えると提案してジュリアンとエメに人を集めてくれるように懇願した。

「判ったショウとエメは二人で行きな、うちのエメも俺と二人必ず初日に伺います。その後は4人から6人必ず6日間人を送り出しますからお任せくださいMlle.バーツは何時いかれますかな」

「残念ながら12月は私の方も稽古が重なるのと初日が23日なので伺えませんの。でも私のほうにも来てほしいですわね」

「そうなんですがね。この間もブッフ・パリジャンはビエが取れずに伺えなかったのですよ。裏からでも手が回せませんかね」

劇場の主催者の彼女と噂のバーツが手に入れられないはずは無いと思うのだが「私も頼まれるのですが難しくて」と暗に自分で何とかしてほしいと言うのだった。

エメが良い席でなければ希望の日がわかればとジュリアンに言ってあとで相談しましょうと話を切り上げて席を立つことを勧めた。
表に出て並んでいる辻馬車に4人の女優を乗せ正太郎は助手に10フランを渡して場所は後ろの人に聞いてくださいと言って馬車を出させた。

ジュリアン夫妻も乗り込んで先へ行かせエメと正太郎は次の馬車に乗り込みコンコルド橋からノートルダム・デ・シャン街へ向かうように告げた。


Paris1872年11月29日 Friday

朝から正太郎はルノワールの部屋にいた。

引っ越すといっていたサン・ジョルジュ街ではなく元の家だ、何のかんのといってはここに居ついたままなのだ。

1回目の北斎は殆ど売り払ったりプレゼントしたりで、またほしいと言うのでタンギーに頼まれていた分も含めて500枚近い浮世絵、横浜絵を送らせ、その中から選ばせるために此処へ持ち込んだのだ。

ルノワールはあぶな絵は撥ねて初代広重のものを30枚選び出した。

「歌麿や北斎はどうです」

「今回はいい。呉れるなら貰うぜ」

「また其れだ。ルノワールさんは金離れが良いと女たちに受けがいいのにしらふの時はいつも其れですぜ」

学校は休みで遊びに来ていたピサロ先生が傍でくすくす笑いながら「ショウ、気にするなそいつはいつもそうやって画商から物をねだる癖がついているんだ」と愉快そうにまたくすくす笑いを始めた。

M.ピサロ何時オーヴェル-シュル-オワーズへお戻りに」

「この週末は戻らんよ。セザンヌ君に子供が生まれてわしゃ暫くパリ住まいだ」

「同居人に遠慮するなぞ先生らしいな。さっさと追い出しゃいいのに」

ルノワールは辛らつだ。

「君きみ、そりゃかわいそうだよ」

正太郎は余計にねだられないうちにさっさと仕舞いこんで「ルノワールさんモンマルトルのフェステバルには遊びに来ますか」

「子供じゃあるまいし大道芸人の詰まらん芸を見物したり、遊具で遊ぶ気は無いよ。酒でも飲んでいるほうがましさ」

「まつたく僕より長くパリにいて其れですか。新酒祭りで飲み放題なのに午後にはその日の分がなくなりますよ。3日間飲ませるのには夕方まで好き勝手に飲ませるわけに行かないそうですからね」

「ジュリアンは飲み放題だといわなかったぞ」

「だけどあの時、新酒祭りで酒が飲めると誘われたでしょ」

「そうだったかな。ピサロ先生コリャ行かないとまずいですかね」

「その絵はどうする」

「ポンデザールは逃げませんが、酒は無くなりますからね」

「行くか」

「正太郎はどうするんだ」

「僕はこれで帰りますよ」

「しめた、馬車代が浮くぞ」

「今すぐ行きますか。僕はもう帰りますよ」

「いくとも10分待ってくれ」

「ではエメの家の下まで来てください。其処に馬車を呼んでおきますから」

「彼女も連れて行くのか」

「そうですよ。マダム・デシャンにつれて来いと頼まれていますからね。Momoもジュディッタと出かけるのを楽しみにしているんですよ」

馬車屋で6人乗れるものに馬を2頭つけてエメの部屋の下で待たせ、支度して待ってるリュカに上へ呼びにやらせた。

ジュディッタも着飾って3人が降りてきたのとピサロ先生とルノワールが着いたのが同時で正太郎とリュカが乗り込んでも、挨拶やらなにやら話して中々乗らないのでリュカはやきもきしだした。

「リュカ慌てなくとも祭りは3日間だよ」

「だけど面白いのは今日の昼前のサーカスが一番さ。コレット乗りと握手できるのは開演前だけだよ。10時には並ばないとコレットの前は満員になっちゃうよ」

ようやく全員が乗り込んでリュカが馭者に「出発」と声をかけて馬車が動き出した。

ソウル街で降りてピサロとルノワールはキャバレ・デ・ザササンのほうへ上がってゆき、リュカは待ちかねていたベティとセディに挨拶もそこそこにその後を追いかけるように走り出した。

エメ達がMomoと話している間に正太郎は2階でラモンと話を済ませて下に降りてきた、ジュディッタはMomoと何か相談があるらしく後から来ると言う事になった。

DDは行かないの」

「行きますとも。クストーさんが留守番をしますからね。Momoはジュディッタと出ていらっしゃいね」

「はいマダム」

DDは一人で行くの」

「ショウとエメがサンピエール教会まで付いて来てくれれば後は一人のほうが良いわ。たまにはぶらぶら歩いて子供たちの遊ぶのを見るのも良いわね」
結局マダムをエスコートするように坂を上り教会前で酒樽の傍にルノワールといるピサロに出合った。

コルト通りと此処に、後はお楽しみと発表されていないが全部で4ヵ所に樽が置かれているそうだ。
3人が話し始めた脇を抜けてエメとショウは階段を上がり一番高い広場まで出た、そこで自転車乗りや玉乗りを眺めてから東側の階段の途中に座ってピガール広場やパリの町を眺めた。

階段下の広場では噴水の周りで丘の上と同じように芸人が大勢出て見物人を笑わせているようでここまで笑い声が届いてきた。
エメは幸せだった、こうして何も考えずショウに寄りかかり冬が近づくパリの街を何時までも眺めていたいと感じていた。

「私ね」

「ん」

「こうしてショウといると落ち着くの。今とても幸せよ」

「ぼくもさ。君といるとパリに来て良かったと思うのさ」
ブリュネットの髪が一つに編まれて肩に掛かり正太郎は回した手で髪の先と一緒にエメの体を引き寄せた。

エメの水色の眼はその正太郎の指の先を見て「綺麗な爪、ショウの爪の形とても素敵よ」横浜にいるときもよく子供たちに正太郎の爪先は細かい作業にむいた指先をしているといわれたものだ。

正太郎はエメの指がなぞる爪に心地よさを感じていた。
「いい気持ちだよ。そうしてエメが指先を触っていてくれると安心できる」

「まぁショウは子供みたい」

「そうかもしれない。君といると幸せってこういうものなんだという気がするんだ。もうじき冬だというのに体の芯から温まるようだよ」

二人はそうしてモンマルトルの喧騒から遊離して二人だけの世界に浸っていた。

子供たちが大勢階段を上り下りしだして気球が揚がり其れに乗る順番を待つ人が見え「あれに乗りましょうよ」とエメが立ち上がって正太郎の手を引いて階段を降りた。

テルトル広場の一段上の広場に100人ほどが集まっていた。

「1回2フラン。パリの全てが見えるよ。パリがはじめての人でも案内人も一緒だから何でも教えますよ。見なきゃパリへ出て来た甲斐が無い、土産話にゃ最高だよ。パリっ子も見たことが無い空からのパリが見えるよ。勿論パリジェンヌもパリジャンも上に揚がって街を上空から見てごらんよ。空中散歩が僅か2フランだ」
巻き上げ機には3人の黒人が取り付いて今揚がった気球を引き降ろすのに汗をかいていた。

「ドゥ・ペルソンヌ(二人)」

「はいよ、マドモアゼル」
しり込みしていた人もそのエメの言葉に勇気付けられて何組かが申し込んだ。

「1回に3人までだよ。二人いるからひとりだけ優先に乗れるけどいないかい、いなけりゃ気球が揚がるからね」

その声に「プレ・モア、スィル・ヴ・プレ」と若い女性の声がして黒髪のベレーの長身の女性が人を掻き分けて出てきて2フランの銀貨を案内人の手に押し付けると真っ先に籠に乗り込んだ。

エメと正太郎が籠に入ると紐が緩められて気球は高度を上げて眼下のテルトル広場がドンドン小さくなりオペラ・ガルニエやルーブルがそしてセーヌに浮かぶシテ島にサン・ルイ島まで形が判りカルチェ・ラタンにその先のパンテオンまでがよく見え、案内人がそれらを説明して観客の3人は指差す方向へ顔を向けた、さすがの正太郎も籠の揺れに足はいうことを聞かずに、つま先に力が入り体ごと向きを換える事は出来なかった。

しがみつくようにエメも気球が上がる前とは違い景色は見ていても其れを楽しむ余裕までは無いようで説明を聞くのがやっとだ。

一回り説明が終わる頃には徐々に気球は下がりだし、風車が眼の下に近く成り出すとほっとして足先の力が抜けてゆくのだった。

今度はジュリアンの店の辺りや北駅に東駅も正太郎やエメはすぐに見つけてはしゃいでいるうちに気球は無事係留された。

「もう終わりなのね」
余裕が出てきたエメは体の震えも無くなり何時ものエメに戻ったようだ。

「面白かったわね。M.ショウ、またね」
その黒髪の娘はそういって短く刈り込まれた髪にベレーを被り直しスキップを踏んで陽気に去って行った。

エメは何も言わず人ごみを縫うように正太郎の手を引いて歩きア・ラ・ボンヌ・フランケットの先のティヨル(Tilleulライムツリー)の下で向き直ると「どういうことなのショウ」ときつい表情で正太郎の服の前を押さえた。

「知らない人だよ」

「嘘おっしゃい。それなら何で貴方の名前を言うのよ。どこの踊り子、どこのセルヴァーズなの」

「本当に知らない人だよ。覚えが無いよ」

「知らない」
エメは怒って人ごみのほうへ駆け去ったが、後を追おうにもテルトル広場へ向かう人にルピック街へ下りてゆく行く人とで混雑していて後を見失ってしまった。

エメはどこを歩いたのか一番上の広場まで出て来ていて「ショウのうそつき」とパリの街へ向かって大きな声で怒鳴ってため息をついて階段に座り込んだ。

「後も追いかけてこないで薄情者」と言葉に出すと少し気持ちも落ち着いてきたが「知らない人が名前をわざわざ言って行く筈が無いじゃないの」と憤りがまた強くなってきた。

階段の先からさっきのベレーの娘が仲間らしいひと目で踊り子とわかる娘たちと笑いながら登ってきた。

「まぁマドモアゼル。M.ショウはどうしましたの」

「ア・ラ・ボンヌ・フランケットの角で別れたわ」

「なら私たちとサーカスへ行きませんこと」

「いいわ、行きましょ」
その踊り子たちの仲間に入りエメはテルトル広場のサーカスに並び、入れ替わりの順番を待って中へ入った。

曲馬とコレット乗りの妙技にわれを忘れて拍手を送った。
1時間ほどで外に出るとリュカたちが手に綿菓子を持ってカードゲームの賭けをする台を眺めていた。
綿菓子(綿飴)お話では1872年のパリでと出てきましたが、ウィキペディアによると1897年アメリカで電動製造機が開発されたと出ています。

「リュカ賭けは駄目よ」

「エメ僕たち見ているだけだよ」

「それならいいけど」

「あれショウはどうしたの」
踊り子らしい人たちの中に囲まれているエメにショウがいない事に気が付いたリュカが不思議そうに聞いた。

「さっき別れたわ」

「そうあの人たちフォリー・ベルジェールの人なの」

「ううん、知らない人」
その言葉が聞こえたのか「まぁ、マドモアゼルはお忘れになったの、この間席へ呼んでくださったばかりなのに」と憤慨した口調で笑い顔を見せた。

そのハシバミ色の眼と笑顔はヴァレンティノで席へサラが呼び寄せたロレーヌ・アフレという娘だと思い出したが髪の色が違うので戸惑った顔をしたようだ。

「アアこれ、鬘なの普通は短い髪の上に長い鬘をする人が多いらしいので反対だと見つからないの」
そういって黒髪を持ち上げ頭を揺すると下から柔らかな金髪が現れて肩先へ掛かった。

道理で後頭部が大きな人だと感じたはずだわとエメは納得して、ショウに悪いことをしたと反省したが「もったいないわ、その髪のほうがよくお似合いなのに」と褒めた。

「でもこうしておかないとお店のお客に見つかるとしつこいの、いつもこれで街を歩くのよ、そうすると誰も気が付かないわ。あなた方も気が付かなかったでしょ」
そうなのだエメもショウさえも気が付かなかったのだから変装は成功しているようだ。

「ねえ、マドモアゼルはエメと言うのね。フォリー・ベルジェールで働いているの」

「ううん、今はリセ・ルイ・ル・グランのグランゼコールの学生。前にフォリー・ベルジェールに頼まれてセルヴァーズをしたことがあるの」

「学生なんだ、M.ショウも学生」

「彼はジャポンから来たけど学生ではなく、商社から派遣されて仕事の勉強に来た人」

「この間はチップをたっぷり頂けて嬉しかったわ。こうしてお仲間と遊びに来られるのもそのおかげよ。あの人たちの晴れ着も質から請け出せてそれでも残りが出たわ」
踊り子は見かけが派手でも実生活は苦しく、男に貢がれるか貢いでいる人が多く晴れ着をプレゼントしても男に貢ぐために質に入れてしまうものが多いのだ。

「ねぇ、これから予定は有るの。ムッシューはどうするの」

「無いけどどうかして。其れにショウは関係ないわ」

「ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットに行かない」

「いいわ」
5人でムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットに行くことになって「リュカ、ショウにあっても話ちゃ駄目よ」と念を押した。

「うん、僕喋らないよ」
リュカに約束させて坂を下って行くのを見送って「ねえ、セディ、僕は約束したけど君たちは何も約束しなかったよね。ショウを探して教えようよ。絶対可笑しいぜ」

「いいのかい、後でエメにしかられないの」

「僕がしゃべらきゃいいんだもん」

「そうだわね、ショウと一緒じゃないなんて可笑しいわ。あの気球がもう一回下りてきたらここに戻りましょうね。リュカが見つけたらここへ連れて来るのよ」

3人は手分けして正太郎を探すことにして3方向へ別れることにして、ベティはふたりにワインの樽置き場へ向かうと告げてコルト通りへ入った。

ワイン樽のところにはルノワールやワインを振舞ってもらう人の中に正太郎もいたがワインのジョッキを抱えてがぶがぶと飲んでいた。
「こんにちはM.ルノワール」

「ヤァお嬢さん一人かい」

「弟たちと一緒だけどショウを探していたの。やっぱり此処で自棄酒を飲んでいたわ」

「あいつ可笑しいのだぜ。さっきからああやってお替りを続けているんだ」

「止めさせて下さる。少し話があるの」

「いいとも。おいショウちょっと話があるんだ」

ベティは先ほどの踊り子たちとエメの話をして、わざわざリュカに口止めをするなんて可笑しいとルノワールにも聞かせて判断を仰いだ。

「何があったか知らんが。お前が行かなきゃ話しにならんだろ。水をもういらんというほど飲んで腹を空っぽになるまで吐いて来い」

「いやだルノワールさんてば、レディの前で汚いわ」

「こりゃ失礼お嬢さん」
そういいながらも正太郎のジョッキを取り上げて井戸端へ連れて行くと水をくみ上げて頭を流しに伸ばさせて上から冷たい水を浴びせた。

自分のスカーフを首から取るとその正太郎の頭をごしごしと拭いて今度は桶の水を抱かせて嫌がる正太郎に無理やり飲ませた。
いくら正太郎より小さいといえ、軍隊経験のあるルノワールはそういうことなぞ朝飯前なのだ。

ブドウ畑の陰に連れて行きすっかり吐き切った正太郎に温かいレモネードを買って飲ませてから「さぁ。男らしくムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットまでエメを迎へに行って来い」と道へ突き出した。

ふらつく足取りで正太郎はコルト通りの角を曲がりコンスラのほうへ歩き出した。

その後をルノワールとベティが離れて歩き、遠くにリュカとセディが見えたのを口に手を当てて招き寄せて4人で後をつけた。
ジラルドン通りの角を下り、ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットに入るのを見て子供たちは入り口まで駆け下りてルノワールを待ち受け、ルノワールが1フラン払って4人は中へ入った。

フェステバルの帰り客で中は満員で正太郎はエメを探して外の庭に出て行った。

エメたちのテーブルで何か話す様子を離れたところで見ていると、セルヴァーズが来て「M.ルノワール席はありますよ」と勧めたがシーと口に手を当てて「今見ものが始まるので後で」と向こうへ行かせた。

向こうで何を話しているかは聞こえないがエメが盛んに一人でまくし立てているのをほかの4人は可笑しそうに聞いているようだ。

正太郎がエメの手を取って何かを言っていて、黒髪の背の高い娘が椅子から立ち上がるのをルノワールは息を詰めて見ていた。
エメが正太郎の手を振り払うと立ち上がった娘が「もう勘弁してあげたら」という声がルノワールに聞こえた。
徐々に4人は正太郎たちの傍に近づいていたようだ。

ベレーを取って黒髪を持ち上げて首を一振りすると、ふんわりとした金髪の柔らかな髪がサーッと音を立てたように俺には聞こえたと後でルノワールはジュリアンに主張した。

「アツ」と声がして正太郎が後ろの椅子に引っかかり椅子と共に後ろにひっくり返り、そのまま後ろトンボで一回転して立ち上がって「君わっ」と叫ぶように言って立ちすくんだ。

「そうよロレーヌ・アフレよ。判らなかったのね」

そのときルノワールは正太郎めついに浮気がばれたんだと思ったそうだ。

エメがスカーフで正太郎の背中に付いた埃を払い後ろから抱き付いて「馬鹿ねショウ、貴方も気が付かなかったのね。かんちがいしてごめんなさい」と言うのを聞いて「チッ」と舌打ちをしてしまった。

思いのほか其れは大きかったようで振り返った一同は木陰に隠れるようにして覗くルノワールたちを見つけた。

「まぁM.ルノワール」

エメと踊り子たちが一斉に声を上げた。

「あなた方ルノワールさんをご存知なの」

「エメこそ」
女たちは一斉に大声で笑い出したので、仕方なくルノワールに引き連れられたリュカたちも木陰から出てきた。

エメからはルノワールしか見えなかったようでリュカを見ると「リュカあれほど言っちゃ駄目と言ったのに」「ぼく、言って無いよ」と口を尖らせて言うのを受けてベティが前に出た。

「ごめんなさい、エメ。私がルノワールさんに相談したの」
「仕方ないわね、リュカにしか言わなかったのは私だから」エメはまだ正太郎の後ろから抱きしめたままでそういってまたくすくす笑い出した。

「なんだ、たいしたこと無いのか」
ルノワールはそういって「先ほどの正太郎の様子はただ事では無いと思った」と先ほどからの話を小声で踊り子たちに言うと「ごめんなさい。ふたりがあまりにも仲がいいものだから気球の中で当てられっぱなしだったのよ。焼けて焼けて、わざと判らない様に作り声でM.ショウと声をかけて見つからないうちに逃げ出したの」とロレーヌ・アフレが悪かったわと正太郎に謝った。

「いいんです。でも参りましたよ、エメにどう説明していいかわからないし、嘘をつきようにも本当に知らないことを証明できないしね」

エメは子供たちにシュ・ア・ラ・クレムとプロフィトロール・オ・ショコラの両方とココアをたのんで座らせ「食べ終わったら夕方までにメゾンデマダムDDに帰るのよ」と念を押してから50サンチームの銀貨を3人に握らせ「ありがとう」と正太郎に聞こえないくらいの小さな声で三人にお礼を言った。

その間にロレーヌ・アフレの一行は正太郎とルノワールにいろいろと話しかけては笑いをこらえきれずに大きな声で笑い其れを喜んだルノワールはさらに冗談を言い続け「君たちこのお方を誰だと考える遠く東洋から来られたカード使いの魔術師であられるぞ」と大げさな紹介をした。

「見たいわ。ぜひご披露して。劇場の手品師はあまり上手くないの、すぐ種がばれるんだもの」

「でもカルトゥは持ち歩いていませんよ。僕は手品師でも魔術師でもありませんから。ただ船のたびが暇なので手慰みに遊んでいただけですよ」

一人の子がすばやくセルヴィスに頼んでカルトゥを買い入れた。

「仕方ないなぁ」と言いながらやはり酔いが手伝うのか正太郎はすばやくカードを切り出してエースに爪の先ですばやく印を付けてしまった。

萬蔵が驚いたほど早く習得した技術だ。

きり終わるとルノワールに渡して「何回か切ったら其処から4枚抜いてください」と頼んだ。

その4枚から1枚をずつ踊り子に渡して貰っている内に正太郎はすばやく手持ちのカードから何が抜けたかを覚えてしまった。

そして切りそろえているうちに全てのカルトゥを色別にしておいて其処へ差し込ませた。

そしてもう一度念を押すように切りながら一番下へそれらを持っていきさらに一番上に切りそろえて「さて誰のカードから出しますか」というと赤毛の踊り子が「私の、名前はナタリーよ」と言うので一番上に印が見えたので「シアンヌですかな」と老人の声で言うと驚きの声を上げた、当たった様だ。

「出て来い。ナタリーのシアンヌ」と呼びかけると一番上からカルトゥがするりと落ちた。
ロレーヌ・アフレが拾うとまさにハートのエース「当たったわ」と叫んだ。
さてこれでおしまいと正太郎が言うと「ずるいわ一人だけなんて」と言っている隙に3枚のカードを覚えて間に挟みこんでおいた。
「では後は疲れますので数字は無しで行きますよ」

「そんなの駄目よ。ちゃんと最後までやって」

左から抜き出したカードを順に並べながら「では仕方ないこれはキゥイジニエ(クローバーの3)、次はウルス(ハートの11)そして最後は」期待した眼が見えたので「Mlle.アフレのディヴィルネス(ダイヤの13)」ロレーヌ・アフレは目を丸くして「どうやったの」と聞いたが正太郎は答えなかった。

私たちのは聞かれてウルスヘ手がいくと左の娘がピクッと反応したのでわざと手を引くとほっとため息をつき右へ手をやると今度は右の子が反応したのでわざわざ大道のカード師の手捌きでカルトウを裏返して混ぜてそれぞれに弾いた。

「アッ私のウルス」
右の娘は正直に驚き左の娘はキゥイジニエを手にとって声もなかった。
「皆さん正直だからこんな素人芸にだまされるのですよ。この間見させていただいた奇術師は劇場の雰囲気に合わせておどおどとやっていますが、僕より数段上手にカルトゥを扱っていましたよ。僕のは全てトリックですから」

ルノワールは「最後はわかったが、最初の1枚がどうして出てきたか判らんな」とつぶやいた。

其れを言うと本職に迷惑がかかりますからと正太郎は種を教えなかったが「最後はショウが数を言うたびにふたりが眼をしばたいて指先がピクッと動いたあれなら俺でもわかる。だがどうしてロレーヌのカルトゥがあれだと判ったか不思議だ」

「あれもMlle.アフレが反応を見せてしまったんですよ。最後はといった時に3人の中で眼が輝いたのはMlle.アフレだけでした」

「そんなとこまで見るのか。だからショウは賭け事に強いのかな」

「ただの運ですよ。船の中で教えてくれた人はカルトゥをなぞっただけで数を当てました。会社によってカルトゥに微妙な印刷のゆがみが出るそうです。本物のばくち打ちと見たら逃げるのが一番だと教えてくれて、勝負はしないことを約束してからカルトゥを教えてくれました。ポーカーは一番危険だともね」

「それじゃショウでもカルトゥの1から13まで並べることができるのか」

「色別くらいなら出来ますが全てをそろえるには時間がかかります」

正太郎はまだ酔いが残るのかカルトゥを受け取ると一度裏返して両手に分けて切り合わせて3度ほど入れ替えると表にして見せた。

「わからんな今度はおもてをみせてやってくれ」

ルノワールにばらばらにさせてから受け取り、最初にこうやります両手に分けてあわせほぼ色別になったカードを見せながら上から半分とると黒を残しという風にやりながら切りそろえた。

やはりよくわからんと言うので最初に印を付けたエースを取り出して一番上に置いてからロレーヌ・アフレに切らせて受け取り開いて裏返しのままエースを4人の前に抜き出し「これはすべてAです」と告げて赤毛の娘に先ほどと同じシアンヌを裏のまま出して次の子にシアンをやはり裏のままで置いた。

「これがシアンヌ、シアン、アクテュール、そしてMlle.アフレの前はアクトリス」
4人が自分の前のカードを裏返すと見慣れているエメでさえ驚きの声を上げた。

後ろで拍手がするので振り向くとベティたちも正太郎の後ろから覗き込んでいた。
「種が見えた」

「ウウン、後ろからでも殆ど判らないけど、さっきの最後の3人のはわかったわ」

「ゆっちゃあ駄目だよ。大道のカルトゥ勝負もあれと同じようなのが多いから絶対勝てないように出来ているのさ」

そういってそのエースを3枚裏返して1枚は取り除いてからアクトリスを見せて一番上に置いて左から並べてゆっくりと入れ替えた。
「さぁお立会、今のがわかれば10倍だよ。これは冗談だけど掛け率は3分の1だよねこれが当たらないのが大道の人の腕だよ、判らずにいい加減にかけると当たることがあるんだけどね。なまじ見えていると当たらないのさ」

「だが此処にきたのは間違いないぜ」

ルノワールがさしたところへ踊り子たちも指を置いた「リュカは判ったかい」と正太郎が聞いた。

「何時ものより簡単だよ」

「そうかじゃどれだい」

「みんなと反対側」

「よしあたり」

正太郎が裏返して見せると不思議そうな顔をして皆が今度はリュカを見た。
「判るのかよ」

「だってショウが教えてくれたもん、でももう少し難しくなると全然駄目さ」

「俺たちにはまるっきりということか、道で賭けるのは無理だな。だがルーレットはどうして当たるんだ」

「あれこそ運ですよ。僕は2回行ったけど。サラが傍にいたときだけですよ。最初の時はMr.ラムレイが言うとおり賭けて大きく当たったくらいですからね。競馬だってジュリアンとルノワールさんがいたから勝てただけで全然判りませんよ」

「じゃサラが幸運の女神かい。向こうさんはショウが幸運を運んで来ると言っていたぜ」

「そう思えばむやみに賭けに手を出さないし、誘う人がいても断るのが容易ですからねいいことだと思いますよ」

カルトゥをポシェに仕舞って「僕が此処は払いますから好きなものを頼んでくださいね」とエメに「何か飲むかい」と聞いた。
「おっとショウはまだ飲めるのか」

「カクテルくらいならばね、それと安心したらお腹も空いているのに気が付きました。ジャガイモのフライがあればビールもほしいな」
「やっぱり飲むのか」と笑ってセルヴァーズを呼び止めて踊り子たちにも聞いていろいろと頼んだ。

「いたぞいたぞ」とピサロ先生を筆頭にラモンたち5人ほどが入ってきて賑やかになってきた。

踊り子たちを代わる代わる誘っては踊りの輪に加わったので、エメも正太郎に誘われて踊りの輪に加わり楽しく踊り、相手が替わって正太郎とロレーヌ・アフレや赤毛の子が相手になっても、おとなしくピサロ先生の相手をして踊りの輪に入った。



Paris1872年12月14日 Saturday

サラがメゾンデマダムDDに届けてきたアン・ビエは今日14日の初日から始まって6日間の通しチケット2部屋分だ。
14日はサムディ(土)、1日休みがあり16日ランディ(月)、17日マルディ(火)そこでまた1日休みのあと3日間、19日ジュディ(木)、20日ヴァンドルディ(金)21日サムディ(土)となっていた。

初日は約束通りにエメと正太郎にジュリアン夫妻がひと部屋ずつの使用の予定でいたが希望者が殺到して正太郎にエメが懸命に手配しても人数分を確保できない有様だった。

そのためジュリアン夫妻とエメに正太郎が1部屋とした。
「いいさ、6人分の席を4人で入るんだ、詰め込むという事じゃないしな」

「そうするしかこれだけの希望者を裁ききれないよ、アリサまでがわがままを言ってサラに直談判しても部屋を確保しろと言ったって年内は下席の一番後ろか4階席でも危ないのだからね」

「ショウお前、アリサに弱みでも握られたのか」

「西園寺様が後押しですよ。6人で初日というのではジュリアンには迷惑でも其処に入れてもらうしかないのですよ。西園寺様にM.マーシャルがアリサにカテリーナそれにセルビア大公の従兄妹という娘を招待するというのでは断りきれませんよ。条件にジュディッタを押し込ませてもらって、やっと調整できたんですからね」
その後正太郎はアリサたちと西園寺がどうして知り合ったか等を追及されたがアリサとの事がばれない様に気をつけて話して置いた。

鮫島は岩倉卿一行のパリ入りが近く、先に入ってきた者の世話やジュネーブから来ていた大山の世話で忙しく観劇どころではなかったのだ。
冬のために7時開演とされていた初日の舞台は5時には劇場入りする人を見る人でオテル・デュ・ルーヴルの周りは人で溢れていた。

正太郎はこの間エメにあわせて買い入れた服を着る事にして3時にノートルダム・デ・シャン街へ付いて其処で着替えをして陽が落ちる5時になる前にジュディッタを伴って3人で迎えのベルリーヌ馬車に乗った。

アリサとの約束もありエメと共にコメディ・フランセーズの前でM.マーシャルと西園寺の馬車で来る一行を出迎えサラの楽屋へ花束を届けたことを伝えてから与えられた桟敷へ案内された。

舞台に近い席はブルジョワという人など貴賓席で殆ど割り当てのようになっているがジュリアンと正太郎に西園寺たちの席はそれらを眺められる本当の意味での1等席だ。
6層に別れた席の舞台上手3階席は普通ではとても手に入れられるものではなく一人40フランの席は6人掛けなので1部屋1日240フラン、それに割り込ませてもらうのに一人300フランの値が付いていると噂が出ていた。

エメに内情を教えられて正太郎はサラたちが身銭を切ってもこの部屋を確保したことを知って、自分があの時心の内と言えど金勘定で部屋の値踏みをして仕舞ったことを恥じていた。
この席は社交界にデビューさせる若い人たちを見せるための特別席でもあり、年頃の娘の居る金持ちにはいくら金を使っても手に入れたい特別席なのだ。

正太郎にそのことを持ちかけてきたものは多かったが、その話には乗らずに世話になった人へサラからの贈り物、アン・マリレーヌ・ル-フォールにマリー・エロイーズ・デュポンからの贈り物と招待する人を6日間決めたのだが、その後で西園寺とM.マーシャルだけでなくアリサに泣き付かれて仕舞ったのだ。

昔の王侯貴族は庶民に見られないためわざわざ5階席、6階席という舞台を見るというより見下ろす場所からオペラグラスで俳優の顔を見ていたそうだ。
舞台から言うと4列目ドアから入ると左がジュリアンと正太郎、右に西園寺一行とわかれ其処にはセルヴィスが御用を承りますとシャンパンに果物が置かれたワゴンにアソルティマン・ド・デセールの用意までしてあった。

「ジュリアン、これを毎日してるとサラたちの負担は大きすぎないだろうか」

「其れはそうだが金を届けるのはもっとまずいぜ。きっとパトロンが付いて見栄を張って俺たちを喜ばせようと計らってくれたのさ。そう思って楽しむことが一番サラたちも満足して呉れるよ。なまじ花(包み金)や何かで困らせないほうが一番さ」

正太郎はエメにも相談してジュリアンの言うことに従うことにした。
優雅に4人で席についているこちらをオペラグラスで覗き込む人は多く、エメがMereから送られたドレスと其れにあわせた正太郎の服は格好の見ものなのだろう。

隣の西園寺が部屋に来て「すごい事になっているな。開演前からこれではM.シュリーの人気だけでなくサラの前回の挽回を期待する人がこの芝居にかけるコメディ・フランセーズの意気込みを体中で感じ取っているようだ」と話して行った。

入れ替わりにアリサがマリア・オブレノヴィチを連れて来た。
「表では余り話している状況でなかったので皆様にご紹介しますわ。私のお友達のマリア・オブレノヴィチです。従兄妹はつい先日セルビア大公になられたクラリ・ミラン陛下です」

可愛く挨拶するマリアにジュリアンもふたりのエメも嬉しそうに挨拶を交わし「暫く此処へ」と前の席へ座らせると正太郎には一斉に劇場の視線が集まったように感じられた。

6時半ごろにはそれこそ立ち見席に入った人はアン・ビエの販売枚数以上は居るだろうと思えるほどであった。
最初の幕は開演時間の15分前に揚がり、こっけいな音楽とおかしみのある歌で始まった。

いよいよ待ちに待った幕が上がり人々はサラの第一声を待った。

ネロとアグリピーヌとの緊迫感の第一幕からジャン・ムネ・シュリーのブリタニキュス、愛人ジュニーのサラが出てくると場内は息を呑むような緊迫感に包まれ、ネロの強引な口説きをジュニーが拒む場面、腹心の部下ナルシスのあくどい仕業に場内の雰囲気が変わった。

ブリタニキュスが殺された直後、宮殿の外へ出たジュニーが神君アウグストゥスの像にすがって祈る場面ではすすり泣く声さえ観客席から聞こえてきた。

舞台が跳ねた後も観客は総立ちでジャン・ムネ・シュリーとサラ・ベルナールを称える声で劇場を揺るがした。
まさにサラ・ベルナールはヴェスタ聖女ジュニーの再来であり彼女以上にこの役をなし遂げられないだろうとエメは正太郎の手を取って褒め称え、身を乗り出して観衆と共にふたりを褒め称え続けた。

俳優が勢ぞろいし前にジャン・ムネ・シュリーとサラ・ベルナールが出てきてさらに観衆の興奮は高まった。
5回のカーテンコールが終わってもまだふたりを呼べと叫ぶ観衆にコメディ・フランセーズは湧きかえった。
最後には二人だけのカーテンコ−ルが何回も続きついにその興奮の一夜が終わる時が来た。

スミス商会パリ支店前に3台のベルリーヌ馬車を頼んで待たせておいたのを其処まで馬車を呼びに行かせコメディ・フランセーズに回させて、それぞれの住まいへ送り出した。

6日間同じように手配をたのんで送り迎えをしてもらうのだ。

ジュリアン夫妻とM.マーシャルが乗り込んだ馬車に続いて西園寺がアリサたちを送り、最後の馬車に正太郎、エメとジュディッタが乗り込んでノートルダム・デ・シャン街へ向かい其処へ泊めて貰った。


Paris1872年12月16日 Monday

5月18日に初めてパリにはいって7ヶ月目、横浜とは時間が違うとはいえ忙しかった夏も過ぎてパリでは8時だというのにまだ朝日が昇ってこない。
今日午後に使節団がParis入りと報道されていて街は大騒ぎと思っていたが団長の岩倉が宿泊予定のオテル・デュ・ルーヴル付近も特に変わりが無かった。

フランス政府はシャンゼリゼの元のトルコ公使館を使節団の宿舎として事務そのほかの応対を此処で行えるように仕度をしてくれていた。

パリの日本人の混雑を恐れた大山はジュネーブに今朝早くに戻っていった。
正太郎は鮫島と西園寺に連れられてジュネーブに立つ前日の15日にこの穏やかな表情の大山巌と名乗る人に会った。

「おはんがM.ショウか」

「ムッシューは恐れ入ります」

「ハハハ、おはんの旦那のコタさんとは友達ずきあいじゃ、遠慮はいらんぜ。おいはジュネーブだが特別忙しくもなか、パリにもこれからは来たら一緒に飯でも食おう」

横浜で聞いていたように豪快で愉快な人だった。
「弥助ドン、岩倉様は明日到着なのに帰っていいのですか」

「しかたなか、向こうで約束が有るけん破るわけにゃいかん。伊藤君にも会ったし、ジュネーブかベルリンでお会いすう機会も有るさ。しかし狂介も面倒なことだ、公金ではいかんともしがたあが、あいつが居ないと国が困る。何とかならんか」

「西郷先生が替わりにお役に付いたそうですが、金が戻ればともかく始末に困ればどうなるやら、65万ドルはいかにも多すぎます」

「半分でも戻らんのか」

「私の調べと信吾さぁからの手紙では10万ドルも妖しいかと」

「狂介め腹でも切らなければいいのだが」
正太郎は金より人材という話は驚きだが、国のためと言いながら徳川の時代に比べこの人たちの時代に明るい未来があるのかと一抹の不安がよぎるのだった。

パリには続々と日本人が集まりだしていて、今月はパリに居る日本人が150人を超すだろうと鮫島はそのホテルの確保や役所との応対に追われていてようやくひと段落着いたのは今日の昼だったのだ。

それぞれが個別に勉強のための面会や手続きを一斉に鮫島に頼みだしたのだ、正太郎はイギリスに居るうちに申し込んでおかないほうが悪いと思っても、そういう理屈の通ることの無い人達なのだ。

オテル・デュ・ルーヴルに岩倉特命全権大使と大久保副使、山口副使、何1等書記官、田辺1等書記官。

オテル・ド・ジブラルタル(サン・イアサント街)に木戸副使、山田理事官と福地1等書記官。

左岸のオテル・ダルブ(ラ・アルプ街1番地)には伊藤副使、田中理事官と林董三郎2等書記官。

など各ホテルに分宿し連絡を密にするために雇われた馬車を含めれば1日12000フランは掛かると鮫島は試算していた。
1日2400ドル大山はその話を聞いて「山城屋が使い込んだ金は自分だけでつかったのでは無いだろうが、その金でこの使節団がパリに半年滞在してもおつりがくるのか」と嘆息した。

まさに国家の命運をかけた外遊といえ成果は眼に見えて揚がっては来ないのだから正太郎にはこの外遊、留学に出た人たちが民のことを考え国の行く末を見据えて勉強してくれることを願った。

正太郎にメゾンデマダムDDの住人はその費用の一部を捻出させようと誰かが山城屋を使って金を増やそうとしたのではないかとうがった憶測を言って、議論になり「そういう見方をすれば正太郎が言う武士の責任を取る、腹きりで幕が引かれてうやむやになるか」と司法と行政が確立していない今の政府はまだまだ安定しないとその議論に発展した。

普段政治に無関心な面々もこれだけ多くの日本人がパリへ入るというので興奮しての議論になったようだ。
正太郎は使節団とは関係なくコメディ・フランセーズへ出かける人の面倒を見るため忙しかった。

ドレスの借り入れ、装飾品の借り入れ「お願いだから髪結いと爪の手入れに靴は自分持ちで頼みます」といわざるをえないほど出費が掛かるのだ。
正太郎とエメが試算したところでは800フランは覚悟が必要だとの結論に達した。

「まったくあの時ルーレットで勝って良かったのか疑問だよ」

「いまさらなにをいうの。パリの社交界で付き合うとしたら、ヤマシローの使ったお金なぞたいした額じゃないのがわかるわよ。私たち程度で済むのは出が貧乏人だからお金の大事さがわかるから無駄に使っていないせいよ。この10倍くらいかける人はざらに居るのよ」

聞くだに恐ろしい話だと正太郎はわざと震えてエメに抱きついてキスをした。
「いやぁねそんな恐ろしがっても後の祭りよ。でもこんなことは一生に一度で沢山だわ」

エメはこういう時こそ底力を出す心強い友であった、昔団十郎は千両役者といわれたがM.シュリーやサラはいくら稼げるのだろうかとやはり商人の血が計算をさせるのだった。

伊藤に田中、林の3人とは何度か顔を合わせ「正太郎は何を目的で勉強するのか」と西園寺の部屋で聞かれた時「私はこのパリやニューヨークにあるデパートをそのままわが国に建てても地震が怖く、其処まで高い建物はすぐに建てられませんがパリのパサージュという形式の市場はすぐにでも建てられます。其れを一業種一店舗として20店舗ほどをひとまとめにする位のものを日本各地に建てて、弱小商人でも固まって商いができるようにしたいと考えています。ぜひ田中様にも市場、パサージュを見て歩いて頂き等ございます」

理財会計調査を専門の大蔵省派遣の田中光顕理事官だが其れをぜひ町の者に役立つ形で紹介してほしいと言葉を添えたのだ。
その場には伊藤たちと先乗りしていた音楽好きの村田新八が居て持参したアコーディオンの技を披露した。

中々達者で「我流の指使いさえ直せれば相当の難しい曲でもこなせる」と西園寺が言って、欧州に居るうちによい先生から基本をもう一度習うことを勧められていた。
それらのパリに来た人、前から居る人の多くはこの西園寺のアパルトマンへ入れ替わり立ち代わり現れては、食事をご馳走になり中には洋服をねだるものまでいた。

この日エメのところでジュディ(木曜日)から送り出す人の打ち合わせの後、約束の時間の7時に西園寺のところへ出向くと岩倉卿の出迎えから戻ってきたところだった。
一行は朝の7時15分にホテルを出てヴィクトリー駅からドーバーへ、其処からカレーに渡り6時に北駅に到着したのだ。
其処からシャンゼリゼの用意された公館へフランス政府の差し回しの馬車で晴れがましく送られていった。

「今晩の歓迎会は出なくていいのですか」

「君、僕など行っても場所塞ぎになるだけだよ。なぁ新納君」

「ええそうですよ。それでなくとも大勢集まるのに邪魔になりますよ。通訳は猟官運動が好きな人に任せましょう。足りなくなればどうせ明日から追い使われるの眼に見えていますからね」
17才の新納も一緒についてきていた、6年パリに居てこの街の裏表を知り尽くしたように正太郎とは初対面から話が合った。

「もう半年以上居るのか。噂も聞かんし、わしの事も知らないとはパリは広いものだ」

「いえそうでは無いでしょ、貴方様は勉強一筋パリの裏を知っていると言っても連れ回す悪友が私とは違う場所を知っておられるのでしょう」

「そうかも知れんな川の向こうはめったにいかんよ。金がいくらあっても追いつかんと聞かされてはな」

「私は川の向こう側ばかりでこちら側は最近西園寺様がこられてからですから」

その日もそんな話から西園寺がコメディ・フランセーズの一夜を面白おかしく話し「日本の歌舞伎も金が掛かるそうだが、ありゃ相当掛かるな。ショウがチケットを貰わなければいける場所ではないな、下と上の一般席ならいけるだろうがね。聞いたら一番安い席で5フラン上等席は80フランだそうじゃないか。ジュディッタがそういっていたが、それなら上等席にたまには行けそうだと話したら笑われてしまったよ。あそこは特定の家族席で年間どころか代々の指定席でそのために芝居が開かれた全部の日の分を負担するといわれて呆れてしまった。自分でいけないときは招待するにして、芝居がつまらない時には其処を空席にして役者に警鐘を鳴らす役目もあるといわれては迂闊に近寄れんぞ。しかもこの間のように1日6人分の負担だそうだ年間のことを考えたらそのようなこと出きる方が可笑しなことだよ」

西園寺はだいぶジュディッタに脅かされたようだ。

新納は正太郎に「西園寺様に聞いたが君は中々艶聞が多いらしい」と少し羨ましそうに聞いてきた。

「まさかね、其れは西園寺様にからかわれたんでしょう」

「どうかな。マドモアゼル・ブリュンティエールという彼女が居るそうだが、どうやらロシア娘とも訳ありとか」

「まさか西園寺様にからかわれたのですよ。この近くの学生で同じソルボンヌの人の紹介で何度か食事をさせていただいたくらいです。エメが同じ学校の友人とそこの食堂でお昼を食べる仲なのにそんなことに発展したらえらいことです」

西園寺は同年輩のふたりの話を面白そうに聞いていたが「ショウ今週は仕事どころでは無いそうだね。ジュディッタから聞いたが観劇の人達の支度に追われているそうだね」

「ええそうなんです。余りにもいい席なので少しは見栄えもとおもいまして、貸衣装に貸し装飾品の手配に馬車の手配、自分の行くより手が掛かります」

困った顔の正太郎に笑いながら「当分パリはどこに行っても日本人に出会うだろう中には夜の町が好きな人も居るからね」と暗に伊藤のことを指して「10日前にパリに来てフォリー・ベルジェールに妖しげなカフェ・コンセールともっぱら夜も寝ないで勉強だ」と愉快そうに笑うのだ。

「でも今頃ホテルの周りは大変ですよ。土曜日と同じようにコメディ・フランセーズに人が集まるとオテル・デュ・ルーヴルへ行く人とでルーブルからサン・トノーレ街は歩くことも出来ませんよ」

「そうそれさ、帰ってきた本当の理由さ。考えてみたまえ8時からの宴会だよ11時に終わっても丁度その頃コメディ・フランセーズから俳優が出てくるのを待つ人で大騒ぎさ。先に帰るといえるなら遠慮も出来て当たり前だよ。挨拶なら明日からいくらでも機会があるよ」

そんな話をしているところに使節団から呼び出しが来て通訳が必要なのですぐ来るように服装は燕尾服と指定されていた。

「やれやれ逃がしては呉れないよ。新納君も住まいに呼び出しが来ているかもしれないよ。正太郎は今のところ安全だろうがね」
西園寺の馬車に同乗してメゾンデマダムDDまで帰ることにしてオテル・デュ・ルーヴルの前まで行くと、やはりサムディと同じようにこの日もコメディ・フランセーズの周りは人で一杯になっていた。
正太郎は其処で降ろしてもらい西園寺はエリゼ宮殿近くにある元のトルコ大使館へ向かった。



Paris1872年12月22日 Sunday

日曜の朝8時半を過ぎてようやく明るくなったが曇ったままのモンマルトルの丘をバイシクレッテで越えてジュリアンの店に向かった。

ルピック街をぐるっと回りこんで半年の間に新しい家が増えたと思いながら下っていった。

酒屋で打ち合わせしてブティック・クストゥで3種類のスリップ・ド・クストゥを5枚ずつ買い入れて、アリサのアパルトマンへ向かった、昨晩伊藤たちに頼まれたものだ。

「いくら体を洗っても此方に居ると体の垢を落としきれんね」

「田中様バスタブの中でこすったくらいじゃ物足りませんか」

「ああ、もう一年も風呂にどっぷりつかって三助に背中を流してもらうことも出来んからな」

伊藤は其れを聞いて「土佐でも銭湯で其れをしていましたか」と笑いながら聞いた、東京も湯屋(ゆうや)と云うよりも銭湯と西の人になじみの言い方をする人が増えてきていた。

「いんや、国ではそういうことはなかったが川でざぶざぶと体を洗う快感には勝るものが無いがね、東京に出て銭湯で三助に流させることを覚えてからは家の風呂より銭湯がよくなってなぁ」

林もそうですな私も青森で謹慎していた時は風呂が懐かしかった、東京へ出たときは真っ先に銭湯に向かいましたとロンドンに居た当時やはり風呂にどっぷり使っている夢を見たと話した。

「君たちそれじゃいかんぜ、わしはそんなことは思ったことも無い。慣れてしまえばあの小さいバスタブで十分だ。今回の洋行はいい船でいいホテルだが最初の密航の時」と伊藤はイギリスから持ち込んだウィスキーを飲みながら小さな船でインド洋を航海したときの話やアフリカを大回りした苦労を話して聞かせた。

「みなさんどうです。トルコ式の風呂で清潔なとこを知っていますが、垢をこすってもらいにいきませんか、風呂場も銭湯のように広いし垢も丁寧にこすり落として体をもんでくれて下着もその間に洗って乾かしてくれますよ」

「そんなに至れり尽くせりのところがあるのか」

「いかれますか」

「いかんでどうする。だがパリに何年も居る奴らも田中君が風呂にどっぷり浸かりたいと言っても笑って相手にしてくれんかったぜ」

「皆さんフランス式にシャワーを浴びるかバスタブに入って石鹸で洗えば、と言うのが文明と思われているのですよ。東京に横浜でも湯屋はまだざくろ口をくぐるほうが多いですし、温泉風に明るく湯が豊富に使える湯屋はまだ少ないですから」

「そうかも知れんな。全て此方が上だと思い違いもはなはだしいが、パリはいいな、なんせ鼻毛がのびんぞ。イギリスはロンドンに入ったとたんにいきなり鼻毛が伸びだして皆で大笑いだ。昔来た時より一段と汚れがひどい街になっていたぜ。あれが文明と言うならわが国もそうせにゃ遅れるのかいな」

これには居合わせた人が大笑いで鼻毛を伸ばすのが流行ると困りますなと中々笑いが止まらなかった。

正太郎は3人を連れてテンプル街のオリエンタルへ向かった。

「ショウはふんどしはやめたのか」

「これですか、横浜ではこの下にふんどしをしている人が多いですがこれにしたらもうやめられませんよ」

「パリの流行なのか。伊達男は足にぴったりのパンツを穿いているのを見るが其れは初めてだ」

「これは横浜の大和屋さんが売り出したズボン下という奴ですが、此方では僕が作らせて、スリップ・ド・クストゥという名前で1枚2フランから売られていますよ」

「ショウはコタさんの仕込みか商売が上手いそうだがそいつが儲けの元か」

体を湯船につけてゆったりとしながらそんな話や、横浜でコタさんと酒を飲んだ話を伊藤がすると、林がパン屋のピカルディで菓子に紅茶を飲んでいた当時の話をして横浜を懐かしんだ。

思い切り垢をこすり落とした後、体をもんでもらってもう一度風呂に浸かると、洗い終えて乾かされた3尺を着けて「そのショウの穿いている奴を買えるか」と言うので「明日西園寺様へ行くので届けましょう」と約束してその日はフォリー・ベルジェールで2時間ほど遊んでホテルへ送った。

「明日は昼に西園寺様のところに行きますが、皆様のご予定は」

「明日は見学したくも向こう様がお休みで此方もお休みじゃ。それならそいつは西園寺様のところで受け取るからホテルに寄らんでもいいよ。何か約束でもあるのかな」

「知り合いのところで昼を食べようと約束したんですが、皆さんも付き合いますか」

「そうするか、田中君も明日は用が無いのだろ」

「そうです。明後日からは朝から夜中まで勉強のもしなきゃいかんし、市庁で財務官と約束が詰まっています」

「それなら3人追加してもいいかな」

「西園寺様へ行く前に聞いておきますから、駄目でもほかへご招待しますよ」
話しが決まり今朝はM.ブロティエとシェフのアリスに都合を聞きに行くのだ。

「勿論大丈夫ですとも、5人ですね」

「そうです、他の人と同じ料金でもいいのですか」

「5人なら皆様で2フランで結構ですよ。特別何かお頼みなら別料金でお受けしますよ。近くのモンジュ広場の市場は日曜も開いていますからね」

「鴨が買えたらキッス・ドゥ・カナール(cuisse de canard)なぞどうです。M.ショウ」
M.ブロティエの助言で「そうだわね、五人に足を出して残りは夕食に使えるわ。M.ショウ後の清算で良ければこれからすぐ仕入れてきますよ。今朝見たときはいいものがあったから今行けば間に合いますよ」

「それお願いしますね」
話がまとまりアパルトマンを出るところでアルセーヌと出会い、バイシクレッテのことを話しているとアリサに見つかってしまった。

部屋へ引き上げられて「ショウはあれから来ないし、手紙もよこさないけど、私を西園寺に押し付ける気なの。馬車の中でもいろいろ話をしたけどショウのほうからあの部屋に西園寺を呼んだそうね」

「何か話が行き違っているよ。あの時はほかに部屋が空いていないのに強引に君たち3人を入れるのに、お針子と同じよりも初日のほうがいいと思ったからだよ。サラからエメと1部屋ジュリアン夫妻で1部屋の招待をしてもらったけどそれをやりくりしてああなっただけさ。僕のせいじゃないよ」

本気で怒りかけた正太郎の後ろでカテリーナが笑っているのが鏡に映った、アリサを観察して見るとわざと怒らせようとしているように思えた。

「アリサは隣にエメが居るところへ呼んだのが気に入らないの」

「当たり前でしょ」
正太郎は一歩前に出ると、アリサが一歩下がったので化粧台に体が触れてビクッとしたところを捕まえて強引にキスをした。

嫌がっていたアリサも暫く抱かれていると傍にカテリーナがいるのを忘れたように正太郎の体に手を回して小鳥のようにキスをしてあえいだ。

「もうショウは誤魔化すのが上手いんだもの。かなわないわ」
後で西園寺とジャポンからのお客を連れて食堂にお昼を食べに来ると話すと「早く言えば此処へ呼んであげられるのに」と言うのにかぶせて「西園寺様とでもいいかかい」というと思い切り耳を捻じられた。

「痛いよ、ちょっとした冗談だよ」

「今度言ったらその耳を食べてやるわよ」

「耳は聞くほうで話したりしないよ」

「それならこっちを食べてあげる」

アリサは強烈なキスをして正太郎をたじたじとさせた。

「アッ残っている、良かった」
正太郎が唇を触ってほっとした声を出すと頬を胸に押し付け、堅く抱きしめたアリサは「私を怒らせたら本気でその口をアリスに料理させるわよ」と可愛い顔で見上げていうのが鏡に映った。

「顔を見せてごらん」とあごを持ち上げると期待に満ちた眼が正太郎を見上げた。
優しくキスをして「お昼にお客と来るから食堂へ降りてきてくれる」ときいた。

「いくわ。ショウ一人で無いのが残念よ」

鏡にはカテリーナが呆れた顔をしているのが映っていたが、構わずにアリサが求めるままにキスをして、アパルトマンを後にしてアルバレート街へ向かった。

既に例の3人は来ていて正太郎が差し出した袋からスリップ・ド・クストゥのタイユを見て自分に合いそうなものを次の間へはいって着替えてきた。

「ニューヨークで買ったものよりゆるいな。向こうのは腿に食いつく様に強いから何か物足りんな」

「ははは、暫く穿いていると病み付きになって手離せ無くなりますよ。パリの街どころかロンドンとニューヨークまで送り出されたくらいですからね、そのうちこれを穿いたものの方が多くなりますよ。パンタロンにはこれが一番ですよ」

「今のような下穿きではぴったりしすぎて和服に慣れた我々にはまいりますものなぁ、このくらいゆるければ西園寺様の言うとおりに為るかも知れませんが日本でも買えますかな」

「横浜では殆ど同じものが売られているそうですよ。そうだなショウ」

「ええ、大和屋さんと言うお方が作られまして、冬場の寝巻きの下へ穿くようにと売り出されております」

「しかしロンドン、ニューヨークに比べパリは住みやすい所でございますな。街の物価は安いので助かります」

「其れは下街だけさ。少し高級品を扱う店へ行くと呆れるくらい高いことを言うよ。ダイヤの指輪に真珠のネックレスなぞ偉く高いことを言うそうだよ。耳掻きの先に乗るほどのダイヤで3千フランはするが其れが安物だといわれては呆れるばかりですからね」

「それではロンドンの貴族の夫人のダイヤのネックレスなぞ大変な金額になりますね」

女王の首飾りは10万ポンドといわれるのだ、其れが話だけとしても欧州の貴族はわが国の国家予算に匹敵する金持ちが居ても不思議は無いしそれさえしのぐのがシーヌの皇帝だと日本の貧しさを実感する伊藤たちだった。

「国が貧乏でも心意気だけは彼らに負けない気概を持ちましょう」

西園寺にも田中にもそして林に正太郎にも力強く伊藤は言って「そろそろ腹が減りましたな。ホテルの朝はパンにスープばかりで腹持ちが悪いですな」と笑った。

5人連れ立ってモンジュ街を抜けてアリサのアパルトマンのもう一つの入り口にある看板を見た。

Le souscripteur peut entrer Cuisine d'Alice と其処には書かれていた。

「アリスの台所か、面白いね。此処は初めてだけど予約さえ取れば住人でなくても入れるんだね」
西園寺は感心して暫くたたずんでいた。

看板の置いてある庭から入れば食堂の入り口、中でセルヴァーズをしていたミミに「5人頼んで有るけどどこでいいかな」と聞いた。
既に何人かが食事を始めており、5人のためのテーブルにはグラスとシャンペンが置いてあった。

「好きなものをご自分であそこからお皿にとってきてお食べください。何度お替りしてもよろしいですが、残すとお皿洗いの罰がありますので注意して持ってきてください。シェフの特別料理がスープと一緒にすぐ出ますので其れまでは軽いものでシャンパンを飲んでお待ちください」

ミミが他の人の世話を焼きだしたので正太郎が誘って野菜とチーズを取りに立つ間にM.ブロティエが出てきてシャンペンを開けて注いでくれた。

「ショウ、予約はどうすれば取れるんだい」

「あのセルヴァーズをしている娘か、学生に頼めば大丈夫ですよ。たいてい顔見知りの娘に此処に来てから頼んでいるようですけどね」

「40サンチームで本当に食べ放題でやっていけるのかい」

「最近値上げしたんだそうですよ。下宿人だけではもったいないと昔から近くの留学生を昼に入れていたそうですがね」

シャンペンをお替りしてくださいと伊藤たちに勧めているとアリサが降りてきて西園寺はじめ席に居た伊藤たちに挨拶をした。

フランス語は余り話せない3人に西園寺が通訳してアリサに椅子を持ってきた正太郎が座るように勧めた。

6人分のスープとキッス・ドゥ・カナールが出てきて「鴨の腿肉をオーブンで焼いたものです」とシェフのアリスが出てきてソース・デュ・ソジャを勧めた。

「やや、醤油かなこの香りは」

「そうですわ、M.ショウから日本の方とお聞きしてご用意しました」

「ヤァこのスープはホテルのものより数段美味いですな」

田中が褒めたのを西園寺がシェフに通訳すると「嬉しいですわ、後ウサギのシチューがお薦めですから是非お試しください」と奥へ入った。

その頃には大勢の学生が日曜なので友達と連れ立ってやってきて入れ切れないものは庭で思い思いに話をしたりして時間をつぶしだした。

「こりゃ早く食べて出ないとまずいか」

伊藤が心配して聞くので「大丈夫ですよ。今日は日曜だから余分に来て居るだけですから」と言ってアリサにもそのことを言うとアリサは西園寺のほうへ話かけた。

「西園寺様からおっしゃってくださいませ。もう食べられないというところまで食べて下さって構わないのですと」

「判りましたマドモアゼル」

そのことを伊藤たちに通訳してまた西園寺は立ち上がると新しい料理を楽しそうに選び、それにつられて林も田中も立ち上がった。

「何か持ってこようか」

正太郎がアリサに尋ねると「一緒に行きましょ」と立ち上がってタルト・オ・ポワールを正太郎と同じように一切れ皿に入れ其れを正太郎に持たせて更にイチゴジャムの乗ったタルトを持って席へ戻った。

「お菓子ばかりでいいの」

「こっちはイチジクでそっちの中身は梨よ、すぐカテリーナが来るから一皿あげれば食べるからいいのよ」
そういって半分に切って一皿にまとめたところにカテリーナが降りてきてアリサが名前を紹介して席に付かせてその皿を渡して食べるように言った。

「これなぁに」

「梨のタルトとイチジクのタルト、私が両方食べたいから半分ずつにしたのよ」

「私、梨だけでいいのに」

「ならショウがまだ手をつけていないから換えて貰いなさいよ」

結局皿を換えてカテリーナは梨のほうを食べた。

シェフがカテリーナに鴨が有るけど食べると聞いてアリサと同じものを出した。

「今日はサービスいいのね」

「其れはM.ショウたちが食べたからそのおすそ分け」

相変わらずふたりは食べる順番に関係なく好きなものを好きなように食べるのを見て「順番は関係ないのか」と伊藤は正太郎に聞いた。

「コースで頼むわけで無いのでいいのじゃないですか」

「そうか、わしゃあの高級店の順番に少しずつ出てくるのは閉口じゃ」

それにはほかのものも賛成し、話がそのことで弾んだので、そのつど西園寺がアリサとカテリーナに説明している間に正太郎はミミに支払いをして席へ戻った。

「ショウ、全部で2フランだけで良かったのかい。シャンペンも出ていたよ」

「鴨の分だけ今朝頼んだのでその分だけ余分に支払いました。シャンペンはシェフのおごりだそうです。それから此処はチップはいらないと念を押されました」

「そうだろうなあれだけ品数が有って5人で2フランじゃ無理だよね」

「其れでいくら追加したんじゃい」

伊藤が聞いてきたので「2フラン追加分を払いましたのであの鴨の足が1本40サンチームでした。最近1羽2フランはするようですから、残りは夕食に使うそうです」

「そりゃ確りしとるわい、それでなきゃやってゆけんわな」

それも西園寺がふたりに訳したのでふたりは可笑しそうに「それならこれもショウのおかげね」と骨だけの鴨の腿の骨を見せて可愛く笑った。

食後のカフェもそれぞれお替りして5人は満足し、二人に別れの挨拶をして食堂を後にした。

「ショウ、どう見てもあの二人と君が出来ているようにしか僕には見えなかったよ」

「そうじゃ。そうでなければあのように皿を簡単に取り替えたりするわけ無いじゃろうに」

伊藤に西園寺が言う言葉に林も田中も賛成だと、正太郎に白状したほうが身のためだと盛んに追及されて弱る正太郎だった。

アパルトマンへ戻ると馬車が停まっていて中から正太郎も顔を知っている神奈川県参事の内海が出てきた。
「お待ちしておりました。緊急招集が掛かりました。西園寺様もご一緒においでくださいませ。部屋には今安場さんが西園寺様のお帰りを待っています。私はまだ何事か聞かされておりませんがロンドンから寺島公使が来られています」

「正太郎、君も来た前」

「しかし伊藤様」

「いいのだ何か有っても彼がいれば通訳にも困らないから。林君は部屋からわしの荷物や正太郎の荷物を持って西園寺さんと後からオテル・デュ・ルーヴルまで来てくれたまえ」

伊藤に勧められるまま、その馬車に乗り込んでモンジュ街を走りぬけた。
馬車は川岸をポン・ヌフまで出てセーヌを渡り、ルーブルの先にあるオテル・デュ・ルーヴルへ着けた。

4階までエレベーターで上がり廊下で待機していた1等書記官の田辺に「何があった」と聞くと「とりあえず寺島様から発表されますので中へ。その少年は表でお待ちいただけますか」

「いや寺島君とも知り合いで大久保先生ともフランス大統領とも顔見知りなのだ。この際必要になるかもしれないので通る。岩倉様にはわしが説明する」
伊藤が強引に押し切って正太郎を中へ連れて入った。

奥のテーブルには岩倉卿と思われる落ち着いた顔の人に顔見知りの大久保副使、駐英特別全権公使として赴任してきた寺島がいた。そして苦虫をかんだようにしている何処か病気でもと思われる顔色の木戸がいて山口はソファに腰を深くかけていた。

正太郎がニューヨークで見た写真は髷を高く結い上げていたが今は伊藤と同じように横分けにしていた。

「ヤァ、久しぶりだ正太郎」

「寺島様お久しぶりでございますこの度は駐英全権公使だそうでおめでとうございます」

「うんうん、正太郎も元気で何よりだ」

「岩倉様、緊急ということでこの正太郎という少年はフランス語も達者で街の機微にも通じていて、大久保先生もご存知ですがフランス大統領とも知り合いでございますのでこの際私が入室を許しました事をお詫びいたします」

「よいよい、彼のことは大久保さんや鮫島からも聞いている。木戸さん、山口さんよろしかろ」

「はい大使がお認め下さればそれで結構でございます」
ふたりが其れを認めてくれて正太郎は窓際に下がって話を聞くことにした。

ドアが開いて鮫島が入って来てようやく寺島が「皆さんお集まりいただき申し訳ない。ロンドンに昨日緊急公電が入ってきました。これが電文ですが実は日本において12月3日をもって今までの太陰太陽暦すなわち和暦を西洋起源の西暦として明治5年12月3日を明治6年1月1日すなわち西暦紀元1873年1月1日となすと言ってまいりました。鮫島君のほうに連絡が入っていないとまずいので急遽連絡にまいりました」

先に聞いていた岩倉に山口はそれほど動揺も見られなかったが木戸は椅子からずるっと落ちそうになるほど動揺していた。

「大隈卿は正気なのか、今それをわれわれに相談無しに行うとは、何を西郷さんに三条太政大臣も何をしているのだ」
留守政府がいきなりこういうことを決めるのは何かせっぱ詰まった事情があるのかと正太郎は考えたが思い当たる節は見つからなかった。

大久保はウ〜ンとうなったきり天を仰いで「こりゃまさに青天の霹靂じゃ。しかし大隈卿には何か必要な事項があって決断したのであろう。それで無ければこよみをかえると言うことなぞ簡単に大木君や徳大寺様が許さんだろう」
その言葉に木戸もようやく落ち着いて「それで通達は、各国への通達は」

「19日に各国公使、領事に通達がなされたそうです」

「それではもうパリへ連絡がついていると言うことか。鮫島君の方へは」

「私のほうへは来ておりません。寺島様が御出でに成らなければ大変な恥をかく所でした。ありがとうございます」

「この時期パリへ入っていることは承知のはずなのに、ロンドンへ連絡するとは何をしているのだ。しかし26日の公式謁見のまえに報せが届いて何よりだ」

「このことは今日中に使節団の全員に通達が届くようにしないと後で困るから必ず通達してくれたまえ、伊藤君と山口君は間違いなく連絡をつけて名簿で確認をしてくれたまえ」
「判りました、では早速」と正太郎は鮫島君に預けるからとそこに残して別室の書記官、理事官に通達に向かった。

「正太郎といったね。山城屋のことはご苦労だった。今頃は日本でその身柄の取り調べが行われているだろうが、なにぶん国の恥になる事なので処分そのほか不満が出るだろうが辛抱してくれたまえ」
岩倉卿は全て判っているが今日本をひっくり返してその膿を全て出し切れないと言うことを暗に教えたようだ。

「しかし何で伊藤君は君を此処へ入れたんだ」

「私にもわからないのですが、西園寺様のところに居ましたら一緒の馬車に乗れとつれて来られましたので何事か判りません」

正太郎も首をかしげ鮫島に預けると出て行ったのでその後をどうしたらよいか判断に苦しんでいた。

「何か彼には思うところがあるのでしょう」
鮫島がそういって岩倉卿のお付きが入れてくれた茶を正太郎にも進めて飲むように言った。

「そうだ正太郎がいい」
鮫島が急に何か思いついたようだ「ショウ此処では急にお客が来てもホテルから何かとらないと間に合わないのだ。フランスのケーキや菓子を常備するにはどうすればいい」

「其れでしたら店と契約して毎日買い付けるのがよろしいです。日持ちのしないものはその日のお客が来ないと判れば誰かが試食するでしょうし、夜に急にこられた方には日持ちのするものを出せば済みます、緊急の時はそういうものを間に合わせる店もあります」

「そういう店と連絡はどうすればいいかな」

「一番いいのはホテルのものに、そうですね此処なら給仕頭に50フランもリベートを渡しておいて滞在中の緊急時の調達をあらかじめ頼んでおくことです」

「其れは夜間でも間に合わせてくれると言うことかな」

「そうです。パリの高級店ではそういう商売をしているパテスリーを必ず抱えていますから、彼ら独自の連絡網で足りないものは融通しているそうです。表向きはその様なことはしていないように装っていますので、此方も知らん顔で頼むことです。そうすれば街の値段の倍くらいで調達してきます」

「まるで昔の牢屋のつるのようだな」
寺島は木戸と顔を見合わせて愉快そうに笑い出した。

伊藤が田中を従えて「いたいた、良かったまだいたか」と燥ぎながら入ってきた。

「正太郎がよこした下穿きももう4時間くらいはいているが昔からはいているように体になじんで気持ちがよい。それでこれはどこの店にいけば買えるのだ、正太郎からでもいいかな」

鮫島を除く不思議そうな一同に「昨晩正太郎が穿いている下穿きがよさそうなのでもって来させましたがこれが気持ちいいのでございますよ。厠へ行ってもふんどしやロンドンあたりのあの窮屈なソックスまがいのものよりいいものでございますので。鮫島さんはお使いですか」

「ハハハあれを穿いたらほかのもは使えんよ。西園寺さんもお気に入りだ」

袋からだして見せびらかして急いでしまいこんで「失礼いたしました」と頭を下げた、岩倉のいるところで下穿きなぞまずいと思ったようだ。

「気にするな、わしゃ右大臣だ全権大使だといっても6年前まで貧乏公家で下穿きも自分で洗っていたくらいだ気にすることは無い」

そういって此処へ出せと伊藤に言って袋から出させてお付きの者に「お前少し試して具合がどうか教えなさい」と伊藤から取り上げた。

「あ、其れは」

「まぁ良いだろう君がもっとほしければまた買いなさい」

「いえそうではなくて大きさが幾つかあるので体に合わせてはいてください。そうしないと窮屈なのや、ぶかぶかな物が有りますので」

伊藤は既に正太郎の代理店みたいな口調で説明しだした、こんなところで伊藤が披露するとは思えなかったのでショウは驚きを隠せないでいた。

「ははは驚いているぞ。正太郎、いや皆さんこの男はショウもしくはヂアン・ショウと呼んでやってくださいパリでは正太郎では通じませんがショウといえばこの前にあるコメディ・フランセーズではいい顔でございますよ。俳優で彼の名を知らない者なぞ居りません」

「そういえばこの一週間わしらを見に来ているのかと思ったら、芝居が当たってその俳優や観客を見物に来ているための混雑だそうで、東京の歌舞伎役者の比ではありませんな」

「左様でございますよ。今パリ一の伊達男といえばジャン・ムネ・シュリーで女優はサラ・ベルナールとまで言われています」

「あの騒ぎでは観劇に入るにも容易ではあるまい」

「左様でございますな。ビエの入手は大変だそうで奪い合いが続いているそうでございます」

「ショウならどうにか成るかな」

大久保はそういって正太郎に口を利いたらどうだと勧めた。

ドアから田辺が入って来て西園寺を中へ入れた「私が向こうの話が済んだら来られるように申し付けておきました」と伊藤が言うと木戸はいやな顔をしたが大久保がご機嫌で「この間は通訳に使ってすまなかった。君はこの前にある劇場の初日に見に行ったそうだが劇は面白かったかね、フランス語がよくわからなくとも大丈夫かな」と聞いた。

「劇は昔のお家騒動のようなもので偉大な皇帝の子孫の争いに女が絡んで一騒動という話ですが、皇帝になるべき人を差し置いて皇帝になった者とが女をめぐって争うという話です。まぁその女こそが本来の偉大な皇帝の子孫だという筋書きで劇を難しくしております」
西園寺は中大兄皇子と大海人皇子とが額田女王を挟んだ話や高市皇子と大友皇子に十市皇女の話が合わさったようだといえなかったようだ。

伊藤や木戸たちが万葉を習ったかどうか正太郎には疑問でも有った、士子から習った話の万葉の時代の女性は、今より自由でフランスの宮廷での女性たちに似た恋愛をしたようだ。

西園寺が退出すると言うので伊藤と鮫島も部屋を出ると、正太郎の案内でコメディ・フランセーズの楽屋口へ向かった。

番人に5フランを正太郎が渡してサラ・ベルナールにヂアン・ショウが来ていると伝えてもらった。
休みだが来ていると周りにいた人が噂をしていたのを聞いた伊藤がぜひ会いたいと言うので都合を聞いたのだ。

マリー・エロイーズ・デュポンが衣装のまま飛び出してきて「ヂアン・ショウよく来たわね。いまサラは衣装あわせの最中で出て来られないけどもうじき終わるから入っていらっしゃい、M.鮫島もM.西園寺もどうぞ。あらそちらは」

「この方は前のオテル・デュ・ルーヴルに泊まっているジャポンの外交使節の副使のM.伊藤ですがこの方も一緒で良いですか」

「ヂアン・ショウが連れてきた方なら大歓迎よ」

マリー・エロイーズに続いてアン・マリレーヌまで出てきたので道行く人までが手を振ってこっちを見てくれと叫んでいた。
その人たちに手を振って4人を中へ入れ、劇場の椅子席の間を縫って舞台の前まで連れて行ってくれた。

「まだ興行の途中なのに衣装を変えるのマリー」

「そうじゃないのよ。余りに人気が出たので衣装も汚れないうちに予備を2着作ることになったのよ」

ふたりは袖から舞台に上がり自分たちの衣装を見せるために踊って見せて「すぐ呼んでくるから此処にいてね」と下手に入っていった。
「驚いたなあんな綺麗な踊り子と知り合いか、この間ヴァレンティノで見た踊り子も綺麗だったがそれ以上だな。どっちがサラ・ベルナールだね」

鮫島が笑い出して「あれはまだ若手の助演女優ですよ」というと眼を白黒させた。
舞台に照明がさしてサラ・ベルナールがあの衣装で出てきて台に寄りかかった、照明まで協力させたようだ。

「ヂアン・ショウこの間はありがとう」

「此方こそあれ程までのよい部屋をありがとうございます。私もエメも勿論ジュリアン夫妻も舞台のサラやM.シュリーに感激していました」

「本当にショウのおかげよ感謝していますわ。M.鮫島にも来て頂きたかったのですがお忙しいとのことで残念ですわ。今衣装を着替えたら今日の仕事は終わりなのですが何処かでお茶でもいかがですか」

「光栄ですな今をときめくサラ・ベルナールのお誘いを拒む者など居りませんぞ。喜んでお供させていただきます」

「まぁM.鮫島はヂアン・ショウよりお口がお上手だこと。ジャポンの方は皆さんそうなのですか」

それには西園寺に通訳してもらっていた伊藤が堪らず笑い出したので、つられたように舞台のあちらこちらから笑い声が響いた。
マリー・エロイーズにアン・マリレーヌともう一人の女優が普段着に着替えて出てきて4人を客席から連れ出してサラがでてくるのを待って表へ出た。

大勢のサラが出てくるのを待つていた人からは溜め息ともつかぬ声が聞こえてきた。

馬車を2台に分乗してサラとマノン・ミリュエル・ケ=デルヴロワと正太郎に名刺を呉れた17くらいの娘を先に乗らせてサラは西園寺と伊藤に同乗するように言って正太郎には「ヴァレンティノよ」行って先へ出て行った。

正太郎は馬車に乗りながら馭者に「ヴァレンティノ」告げてドアを閉めた。
「この間は散財させてすまなかったね。僕あんなに1部屋を確保するのに大変だとは知らなかったんだ」

「いいのよ。貴方が稼いだも同然のお金ですもの。それにあの後ついている事ばかりなのよ。ね」
ふたりで鮫島にも色々と礼を言って「私たちまでヂアン・ショウとM.鮫島からの花籠が届いて鼻が高いの、お金では幸運は買えないわ」とふたりで嬉しそうに笑った。

劇場は夜の部の1回目が始まる前で簡単に席に案内され料理にシャンパンが出た。
伊藤は正太郎とマリー・エロイーズにマノン・ミリュエルの席を選んだ。
ふたりに少しジャポンの言葉で話さないと通じ無いのでごめんねと断ってどうして向こうじゃないのですかと聞いた。

「あのふたりに任せて岩倉様たちの席を確保してもらおうと思ってな、年内最後の日あたりがどうか当たってもらっているのだ。26日が過ぎれば5日間は暇になる予定なのだよ」

「そうでしたかサラが取れればいいのですがね。少しお聞きしても良いですか」

「いいともなんだね」

「木戸先生ですが何処かお悪い様ですし元気が無いようですが」

「うん、少しからだが弱い人でな腹を壊したようだ。ロンドンから少しよくないのだよ」

「医者に見せましたか」

「日本から来た医者も、ロンドンの医者もよい手立ては無いようだ。労咳でも無いし今の医術ではわからないらしい」

「それと伊藤様と何か上手く行っていないのですか」

「気が付いたか、わしゃ西郷先生の意見で山縣を追放しないのには反対なのだ。日本のためには軍隊の改革に必要なのかもしれんが、今のように公金を民間に貸し出して其れが回収できないのに、その責任も取らずに済むとわかれば同じようなことをする者がでても其れを罰することも出来ない。木戸先生に山縣の解任をロンドンを出るときに申し入れた、其れが身内びいきの強い木戸先生には気に入らんようだ」

正太郎も納得して「伊藤様もご自分を大切になさらないといけませんよ」と言うと「子供らしくないことを言う」と伊藤は愉快そうに笑った。

シャンペンを飲みながらマノン・ミリュエルが今の話を聞きたそうなので子供らしくないという部分を話すと「ヂアン・ショウが子供だなんて可笑しいわ。いくつなの」と聞き返された。

「ディズュイット(18)」とさばを読むと「東洋の人は若く見えると教わったけど信じられないわ。あれだけ稼いで人付き合いも話も面白いのに」と更に信じてもらえなかった。
伊藤に其れを通訳すると「そりゃそうだ。正太郎の旦那のコタさん顔負けの活躍らしいじゃないか、西園寺さんから武勇伝は聞いたぞ。それと今日の昼のふたりの内どっちが彼女だ」と切り替えされた。
「そんな関係ではありませんよ」

そんなやり取りをしながらも食事も出し物も楽しんでいるとサラがこの間のロレーヌ・アフレを呼んでナタリー・モーリアを正太郎のほうへ呼び寄せた。
正太郎がふたりに10フラン金貨のチップを胸に落とした。

途中で席を換えてMlle.アフレが来て「この間はごめんなさい」謝ったのでMlle.ケ=デルヴロワは早速正太郎をからかいだした。

伊藤が何を話していると聞くと隣から西園寺が身を乗り出して全部通訳をしてしまった。
「なんてこった。正太郎は商売どころか女にも持てるのか」と大げさに驚いて見せた。
西園寺が席を入れ替われというので替わると「ショウ、M.鮫島が席をどうにかできないかというけど予算はあるの」とサラが聞いた。

「どうなんですか」

「20人確保できれば1000フランは出してくださいと西園寺君はゆうのだが」

「今そんなに多くの席を一晩で確保するのは難しいのよ。この間の席の一つくらいなら私にもどうにかできるけど今度の舞台は久しぶりの大当たりで、週5回の舞台じゃ無理だから6回に出来ないかと俳優陣と劇場が話あってはいるのだけど。1日2回公演では体も持たないし、大統領からの命令でもなきゃお断りという人までいるのよ」

「鮫島様、其れですよ。大統領、ティエール大統領ですよ」
「其れがどうしたんだね、ショウ」
「謁見は26日でしたよね」
「そうだが其れがどうした」
「そのまえに打ち合わせにまだ行かれるのでしょ。外務大臣には会えるのでしょ」
「そうだよ」
「それで謁見の後コメディ・フランセーズへ招待してくれと外務大臣に頼んでおいたらいかがですか」

手帳を取り出して「来年の1月1日に新年の挨拶に行かれるのでしょうから、其の日に大統領共々観劇をするとすれば劇場側も俳優も特別な日として午後に1回の特別興行を行ってくれるかもしれませんよ」

「そうね大統領も来てくれるならジュール・ペランも我を張らずにその1回だけで妥協するでしょうね」
興味深そうに聞き耳を立てていた隣のテーブルのふたりの女優もそのくらいなら開催に賛成に廻って良いと約束して「明日にでも暦の改暦を行ったことを報告してその話を持ち込んでみる」と鮫島が伊藤と西園寺に約束して結果は明日の帰りがけにオテル・デュ・ルーヴルへ伝えると約束した。

「それならコメディ・フランセーズに私たち明日は4時の楽屋入りなので結果を知らせてほしいですわ」

「承知いたしました。4時に今日のヴォワチェリエに言えばよろしいですか」

「そうですわ、そうしていただければ大統領から話が来る前にM.ペランも心構えができると言う物ですわね。それに大統領に3階席と4階席を開放して残りの1800席余りを売り出せばそちらの収入も大きいので魅力ですわよ」

その晩正太郎は西園寺の家にバイシクレッテを置いたままヴァレンティノの前で別れて一人で馬車を拾いメゾンデマダムDDへ戻っていった。


Paris1872年12月31日 Tuesday

明治5年最後の日だ、雲の間からモンマルトルの丘に陽が射し出したのは8時40分になってから、9時過ぎに凍りつくような坂道をタンギーの店までラモンと歩いて向かった。

ラモンが買い入れたトワルをふたりで抱えて道を下ってメゾンデマダムDDに戻るとベティが入れてくれた熱いカフェが有り難かった。

「ショウ、暫くバイシクレッテは道が凍って危ないから乗っちゃ駄目よ」

「わかったよベティ」

正太郎は一昨日坂でバイシクレッテを制御できず、飛び降りた時に腕をすりむいて服の片袖を駄目にしたのだ、幸いほかに傷というほどのものもなく足を引きずりながら帰ってきたとき心配したMomoやセディも包帯を巻くベティがこれなら包帯も1日するだけで大丈夫と言う言葉で安心したのだ。

その晩はやけどのような痛みが続いたが翌日包帯の下にはかさぶたが広がり消毒をして乾かすと痛みは殆ど消えていた。

新聞も使節団が大統領と謁見した日から動静に関した記事も増えてきてそれぞれの関係役所を訪ねた人の名前が毎日載っていた。

明日大統領の招待でコメディ・フランセーズの特別公演に使節団を招待する記事も載っていて街の話題もようやく使節団のことが人の口の端に載ることが多くなった。

「ショウ、フランス人とは不思議なもんだなアメリカやイギリスと違って外交よりも我々がコメディ・フランセーズに招待されたことのほうが大きく報道されている」

「そうなんですよ。此処の国の人はそういうことを理解できることが友好的な国だと判断する基準のようですね。何を買ったとか何を呉れたよりフランスの文化を認めたと言うことが大事なようです」

伊藤の口利きでスリップ・ド・クストゥは大きい物100枚、中を200枚、小を300枚買い入れると連絡に来てその話やコメディ・フランセーズへの招待の礼をどうすればいいかという話に及んだ。
注文が来て26日からお針子たちは大忙しだ、大きなほうはMlle.ボナールの工房にも手伝ってもらい出来上がった分から連日のように正太郎は配達して廻った。

「ショウが言っていた孤児院や傷病兵への寄付と言うことで外務省も承諾してくれたよ。明日ベルサイユ宮殿での慶賀の挨拶の後大統領に贈呈する事になった。役者はどうすればいいかな」

「劇場支配人のM.ペランと主演のM.シュリーには刀剣、サラ・ベルナールには工芸品を贈り後の方には花束を翌日以降でもに贈ることがよろしいかと」

「そうかその3人にオテル・デュ・ルーヴルへ出向いてもらうことが出来るかな」

「芝居が跳ねてオテル・デュ・ルーヴルへ戻られたら其処へお呼びできるように話をしてみます」

「そうか、これからすぐいけるかな」

「まだ楽屋入りの時間前なので明日の打ち合わせと言う名目でdirecteurのM.ペランにお会いできると思いますよ」

「ではいこう」という話になりオテル・ダルブへ配達に来た正太郎は伊藤と年末の街へ出た。

馬車でコメディ・フランセーズに着いたのは2時半でM.ペランは快くあってくれた。

贈り物の贈呈の話は気持ちよく「芝居が跳ねた後オテル・デュ・ルーヴルへお尋ねします」と話が決まった。
「孤児院と廃兵院への寄付はいい事をお決めいただけました。それを聞けば座員一同感謝することは間違いありません。それと座員への花束ですがお願いがあります」

「聞きましょう」

「出来れば1フランでよろしいのですが袋に入れて花に添えていただけないでしょうか記念に其れを持つと言うことはジャポンの方からのお礼として生涯の栄誉となります」

「よろしいでしょうお約束いたします。それでいくつ用意いたしましょう」

裏方を入れて226名が此処に居りますが全員にお願いできるでしょうか」

「承知いたしまた。花束も同じ数を用意すればよろしいですか」

「出入りの花屋がありますので其処で名前も承知して居ります。花束は女優の数だけでよろしいのです。今は62名が在籍して居りますし其処には袋も用意がありますのでお話しいただければ個人の名前も全て書き入れてくれます」

花屋の場所を聞いてグラン・ブルヴァールはマドレーヌ大街のクラリスの花の店(Magasin de la fleur Clarisse)へ向かうことにして表に出た。

「金を出してもらってこよう」とオテル・デュ・ルーヴルで岩倉様の裁可を頂き「余りけちなことをしては日本の名折れだ一人1フランでなく5フランの金貨を入れなさい」と岩倉が直々会計に指示を出されたので伊藤は226個の5フラン金貨を会計から受け取り62の花束に620フランを出してもらった。

太刀の話もふた振りとサラ・ベルナールには香箱と蒔絵の文箱をと決まり正太郎と共にマドレーヌ大街7番地へ出向いた。

明日の方がよろしいでしょうとの花屋の女主人の勧めでそれらを頼みお金を支払った。

「マダム、もしかしてこの数字M.ペランが入っているでしょうか」

「少し待ってね」

台帳を調べて数を当たっていたが「この名簿は226名全て書かれていますがM.ペランはありませんわ、ヴォワチェリエまで書いてありますから抜けておられるようです」

伊藤とマダム・クラリスとも相談してM.ペランにも花束と5フランの袋を用意してもらうことにした。

「これで一人も欠けていないですか」

「大丈夫ですわ、お任せください。もし一人でも足りないときは私どもが責任を持ちまして対処いたします。あなた方に迷惑が及ぶことはありませんのでご安心ください」

心強いマダムの言葉に安心して伊藤は2つの領収書を受け取りオテル・デュ・ルーヴルへ戻り追加された15フランを会計から受け取ると「ショウ何処か美味い物を食わせるとこへ連れて行けよ」と持ちかけてきた。

「何が良いですか」

「最近いい飯ばかりでな、町の雑多な料理が食いたい」

それではとリシュリュー街を抜けてLoodまで歩いて向かった。

エメの後から入った娘は店にすっかりなじんで人気もあるらしく以前より若い客が増えたとママンは自慢そうに言って「エメに人気がなかったと言うことじゃないよ。最近の若い者に受けるようだよこのイレーヌという娘はね」と慌てて言い添えた。

場所柄商社に堅い商売の多いこの場所にもかかわらず気取りけなどさらさら無いこの店に伊藤はご機嫌だ。

ビールから始まり蒸した魚料理に海老のフライ、ポテトのフライ、ビーフシチューと大いに飲んで食べる様子にママンは大喜びだ。

「ショウみたいに余り食べないのは困るけどね、同じ国の人とは思えないね」

「たこのマリネが有るけど、この人食べるかい」

「ママン、バルサミコがあるかな」

「あるとも其れがいいかい、タコにラディッシュのサラダだよ。ショウが使うレホール(Raifort)にソース・デュ・ソジャも出すかい」

「そうしてください」

伊藤はタコのぶつ切りに黒い酢を出されて面食らっていたが醤油と混ぜてくださいと正太郎が勧め、食べだすと止まらない勢いで皿を空にして「いやぁ酢の物とは違うがこりゃいいものを覚えたぞこの黒いのはなんだ」

「バルサミコというイタリアの酢ですよ」

「手に入るかな」

「酒を商っている処ならどこでも手に入りますよ。ママン余分にあるかな」

「何本だい」

「いくつあるの」

「5本あるからもって行けばいいよ」

「それなら貰ってくよママン」

包んでもらい食事の4フランと合わせて6フランに50サンチームのチップを払って店を後にした。

「ほう一人2フランか安いもんだな」

馬車を拾ってオテル・ダルブの名を告げて乗り込むと伊藤は満足したようにロードの料理を褒めた。

ホテルに戻るとジュネーブから大山が出てきていた。

「電信を頂いたので出て来ましたよ。夕方には付く予定が途中事故があったらしくだいぶ遅れてしまいました。21時間も掛かりましたよ」

話をしていたのはもう5年近くパリにいる前田だった、正太郎とは掛け違って話をする機会は無かったが使節団のためにこのオテル・ダルブでの通訳を担当していたのだ。

鮫島が大山に明日の大統領への新年の挨拶へ同行するように求めてのパリ入りだ。

「明日は正太郎も来るのか」

「僕のほうはコメディ・フランセーズのほうへは出ずに別行動です」

「ほうそうなのか。伊藤さん彼は外れたのですかな」

「いや、既にショウは初日に観劇したと言うので西園寺さんと共に辞退しまして他の人に回してくれました」

「其れで明日の挨拶は誰が同行しますかな」

「代表は鮫島君で岩倉様は勿論ですがこのホテルからは私と大山様に前田君が行くことになって居ります。朝9時に馬車がまいりますのでその前にお支度をお願いいたします」
それで今日は珍しく何処かへ遊びに行くかとも酒を飲もうとも言わなかったのかと正太郎は伊藤が公私を分けて朝に酒の気が残ることを恐れたのを知った。

「それでは私はこれで失礼いたします。いよいよ明日は日本でも新年になりますのでよいお年をと申し上げます」

「おうおい、正太郎、何を言い出すのだ確かまだ3日だろう月が細いぞ」

「大山様はまだ前田君から聞いておりませんか」

「付いたばかりで此処へ座ったばかりじゃ」

「実は大山様が岩倉様にご挨拶に見えた土曜日の後にロンドンから寺島様が来まして」とその日曜日の様子を伊藤が説明をした。
正太郎はその話が終わるともう一度別れの挨拶をして前田に送られてオテル・ダルブを後にした。

「君も前田だそうだね。名前は聞いていたが話をする機会が無かったが使節団の仕事が終わったら何処かで飯でもどうだね」

「喜んでお供させていただきます。此処でしたら西園寺様へはよく伺いますのでお知らせ下されば喜んで参上いたします」

「判った僕の下宿も近いからそうしよう」

「オ・ルヴォワール前田さん」

「オ・ルヴォワール前田君」

ふたりは其れが可笑しくて笑いながら正太郎は何度も後ろを振り返りながら馬車を拾う為にサン・ミシェル広場向かうとホテルの先で客を待っていた馬車に乗り込んだ。
エメに夜遅くとも行くと言ってあったので少しでも早く着くため、歩くのを止めて馬車にしたのだ。

「さむかったでしょ。今日も使節団の仕事」

「そうスリップ・ド・クストゥの配達と」今日一日の出来事を熱いカフェ・クレームをふたりで飲みながら逐一話して聞かせた。
「5フランはすごいわね。頂いた方は記念に自宅の鏡に袋を貼って自慢にするわ。M.ペランに相談したのは正解よ。お菓子はその通りよねフォリー・ベルジェールでも夜中でも調達するルートがあったわ。ショウは何処でそんなこと覚えたの」

「ニコラが前に教えてくれたんだよ。夜中に明かりがついて仕事をしているパティスリーがあるので聞いたのさ」

「じゃ、夜中まで遊んでいて教えてもらったのね」

まずいと思ったがエメはそれほど気にもせずに話は明日の舞台のことから自分の学校のことを話してくれだした。
正太郎に肩を寄せて手を取って正太郎の爪を触りながら明日は何処へ行こうかを話して幸せな一夜は過ぎていった。



Paris1873年1月4日 Sunday

使節団がパリへ入ってもう20日余り、今日は久しぶりの晴天このところ陽がささない日が続いていた。
パリっ子はすっかり日本人にもなれて買い物をしていても其れを見るというほど関心は無くなって来ているがそれでもぞろぞろとお供を引き連れて買い物をする人は好奇の眼で見られることが多かった。
昨日は使節団は寄付をした孤児院に招待されて贈り物を携えて岩倉卿に東久世卿他20名が訪問した。

相変わらず伊藤は事あるごとに正太郎を引っ張り出しては街を歩き回っていた。
大久保は岩倉にとりなしてああして街を歩いて庶民から見た政府を学んで居るのですと言っても木戸は胡散臭い眼で見て「もっと政府の財務に有意義なことを学べ」と謹厳実直を絵に描いたようなことを言って顔をしかめるのだ。

田中がその分林と共に通訳に前田を引き連れて市庁の財務官と財政の予算についての計算方法算定基準、税の徴収方法など各国との比較をしながら忙しく勉強していた。

伊藤は藩別の集まりには偏らず薩摩であれ土佐であれ留学生の会であれ正太郎を通訳につれているという名目でこまめに顔を出しては小遣いの少ない下級の者は懐から幾許かの飲み代を渡していた。

木戸はそんな伊藤が疎ましく岩倉には使節団の副使ともあろう物が如何わしい場所に下賎な安食堂に出入りするのはけしからんと申し出ては岩倉や大久保になだめられる日が続いていた。

伊藤に其れを鮫島も注意するのだが「上からだけ見ていてはその国のことがよくわかりません。わしのような者がいなけりゃ上っ面だけ見て国民を見ることも出来ません」とこのパリの間だけでもと鮫島に話していた。

2月15日にはパリ出立の予定でベルリンまでは鮫島が同行する予定なのだ。
その鮫島がオテル・デュ・ルーヴルから出てくるところへ伊藤と正太郎の馬車が着いた。

「いいところへ来た此方の馬車へ」
誘われて二人が座ると「スフィンクスへ」と馭者へ告げてサンドニ街へ向かわせた。

「大久保様と田辺さんが先に行っている」とだけいうと難しい顔をした。
正太郎も何か難しい問題でもと思ったが其れを聞ける様子でもなかった。

伊藤は雰囲気を察して使節団がこれだけ外国を廻っているのに相変わらず言葉の行き違いから起こる失敗談が多いことを可笑しそうに話して鮫島の気を静めさせた。

「待っていたぞ。遅かったなもう直に頼んだ料理も出てくるところでシェフドランが心配していたところだ。伊藤君と正太郎の分も追加しような」

席について注文の追加を頼んでようやく鮫島が話を始めた「山城屋は陸軍が抑えていると言うことが判りました。信吾さんは手出しが出来ない状態のようです」それを聞いて大久保は「闇の中へ葬られるかもしれんな」と嘆息した。

大久保は同じことを何度か口にしていたが「もう其れは済んだことだし遠く離れた我々が心を痛めても元には戻らん。気を換えて料理を楽しみ、酒を楽しもう」と出てきた料理とワインを楽しみだした。
話題はM.ペランの太刀を受け取った時の仕種やサラ・ベルナールの気品のあるドレス姿に及び、アメリカの上流階級の婦人にロンドンの貴族の奥方とは違う気品がある、あれは噂に聞く娼婦の娘だというだけでは出てくるものではないと出自を知っているかと正太郎に話を振ってきた。

日本語でのやり取りなので聞かれても大事無いと判断して正太郎は知っている事を話し、叔母のやっているドゥミ・モンドの館に潜入した時のこと館の様子なども話した。

「そうか母親がドゥミ・モンディーヌ(高級娼婦)と言うのは間違いないか、それで祖父はベルギーの公爵か、あの国はアフリカから簒奪した金で貴族は金持ちが多いと聞いたがそれで」と正太郎に先を話すように勧めてワインを注いでくれた。

「父親は資産家の息子でサラ・ベルナールが結婚した暁には10万フランの持参金を払うと約束して月々の養育費も負担したそうです。そしてサラは叔母のロジーヌの愛人だったモルニー公爵の援助をも受けてグラン・シャン修道院での寄宿生活での学業に励みました」

正太郎はフランスでは修道院が女子の寄宿生活を引き受けて教育を受けさせる学校としての制度があることを説明し同じようなことが今横浜では実現しつつあることも話をした。

「エメから聞いた話では15才のときド・ブラバンデールという夫人の下で社交界での礼儀作法を躾けられたそうです。今のサラ・ベルナールが優雅な立ち居振りまいをするのはそのときの薫陶と俳優としての訓練の賜物だそうです」

料理はメーンに進み大久保は正太郎の話しに時々鋭い質問を入れて教育機関のことにも興味を示しながらコンセルヴァトワールについて正太郎があまり詳しくないと聞いて誰かに国立の俳優養成や博物館に様々の仕組みを国が行う意義について調べさせようと鮫島にもその手伝いを頼んだ。

試験に受かりコメディ・フランセーズの中にある俳優養成所に入学した後、2年間の養成期間の後11年前に16才でデビューしたことを話すと大久保を含めて4人が「あれで27才だとショウお前の聞き違いじゃないのか、若々しく気品のあるあの様子はどう見ても20才から23くらいにしか見えん」と口をそろえた。
正太郎は自分のことでも無いのにサラが褒められるのは嬉しかった。

「卒業は次席だったそうですが文部大臣カミーユ・ドゥーセがサラとコメディ・フランセーズの契約を認めてくれたそうです」

デセールを食べポートワインを飲み陽気になった伊藤は正太郎にさらにサラのことを話せとせがんだ。

「家族のことや妹のことを侮辱した先輩俳優に手を振るったかどでコメディ・フランセーズを退団させられましたがコメディーを中心のジムナーズ座と契約しました、ある問題でブリュッセルへ出向いた時にド・リーニュ王子と恋に落ちて子供を儲けています、この方の正式な名前は聞いたのですが覚え切れませんでした。その子には僕も会いましたが母親似の賢い子でエメもお気に入りで僕も将来のある人に思えました。

「なんだこの間の芝居よりその話を書いたほうが数倍面白い劇になるじゃないか。もうサラは貶める人が出るはずも無い大女優だな」

ベルギーでその王子に会えればサラのことで話題が増えることは間違いないが何処で話せば迷惑が掛からずに話せるかが問題だな、その王子は話がわかる人かどうかも調べるように田辺に記憶させた。

「新進のサラが一躍世の注目を浴びたのは3年前ザネットという遊吟詩人役を引き受けてその劇はル・パサンLe Passantでした」

その話の途中で大久保が「そのル・パサンとはどのような意味だね」と聞いてきた。

「フランソワ・コペという詩人の詩が元の話ですが、通行人と訳しては味気ないのですが去ってゆく人か行きずりの人とでも訳したほうがいいと思います。後は当たり役の連続で今芝居の前1回だけが不評でした。今回の興行で不動の名女優として人が認めてくれると思います」

「うまい、正太郎は講釈師にもなれるぞ。丁度食べ終わって最後のワインが注ぎ終わったところだ、これをサラ・ベルナールの成功を祝しての乾杯をして今日の食事を終わりにしよう」
大久保がそう宣言してサラ・ベルナールに乾杯と飲み干し勘定書きを求めて大久保が112フランを清算し20フランのチップを金貨でトレーに載せた。

表で三人と別れ伊藤と正太郎はオテル・ダルブへ戻りロビーで次は10日の金曜日に付き合う約束して横浜と新橋に施設した鉄道や神戸京都間で出来上がりつつある鉄道のことを話し亡くなったモレルの事をしのんだ。

「佐藤君や井上勝君とも知り合いだったな」

「はい旦那様から紹介をしていただきました」

「彼らの苦労を思うと山縣らの放漫な金の使い方は余りにもいい加減すぎる、井上馨様は密航以来の仲間だが其れを追及してくれないのは情けない。大隈卿や江藤君も副島君も口を噤んでしまったのは西郷先生が抑えたのかもしれないが清濁併せ呑む懐の大きさが先生の命取りにならんことを祈るばかりだ。狂介は恩などいささかも気にかける相手ではない」

「伊藤様の気持ちは良くわかります、しかしながら若輩の私が言うのも僭越ですが木戸先生と対立したままでは伊藤様のお身のために為りません。大久保様に間に立っていただき木戸先生ともよい関係を保つべきです」

「ありがとう心に置いて言動に気を配ろう。正太郎わしはね日本も早く議会の整備を整えるべきだと思う其れはアメリカ式では無理なことは勿論ドイツ式でも良くないと思う。フランスに範をとるかイギリスのような形をとるかだと思っているが本心はフランス式の更に上位に天皇を置いてその下に大統領をおきたいと思っているがそれでは徳川のやり方と差異がなくイギリスのようにするべきとの意見が多い、そのやり方で我が国で実施するには国民性の違いから指導者に信頼性がなくなると心配している」

「国民が選ぶ将軍とお考えでよろしいのですか」

「そうだ其れは任期が長くして指導できなければ政策を実行することが難しくなるだろう。徳川の世のように都合が悪くなると出てこなかったり隠居したりしていては国のためにはならないのだよ」

大山が外出から前田と戻ると伊藤は話を変えて「パリも寒くなりましたがそれ以上に雪が深いベルギーやオランダに行くのは気が重いことでございます」

「伊藤君は相変わらず寒がりのようだ、ジュネーヴはもっと寒いぞ、そうだ正太郎も遊びに来ないか山はもうスキーを楽しむ者やスケートを楽しむ者で賑やかだぞ」

「ブルブル、大山様は雪が好きでございますか」

「好きも嫌いも無いよそれに慣れるだけさ、とは言いながら一人で外に出る気にゃなれんがね。余り雪が積もると鉄道も動かなくなるので困ることもあるのでそれ以外はたいしたことも無いよ」

「パリで学べばよろしいのに」

「其れがな、此方にいれば日本人との付き合いが増えるから言葉を覚えるのに向こうがいいと思ったのだがそう上手く言葉を話す機会が無いのだ、赤ん坊同然では仕方ないフランス語でジャネヴではそれさえ知らなかったくらいだ」
大山は60の手習いはともかく30にしてこれでは埒も無いというがイギリス語で伊藤と話し通訳の田中とはフランス語でと自在に操ることができる多彩さを発揮していた。

「はは、薩摩弁では通訳が必要だがこのほうが通じるとは面白いな。伊藤さんもこれにドイツ語も話せるようになれば通訳入らずですぞ」
まだフランス語は上手く操れない伊藤は正太郎に手助けしてもらいながら話を途絶えさせることなく町の人情に庶民の暮らしを語った。



Paris1873年1月9日 Thursday

村田は西園寺の勧めに従いパリに滞在する許可が出た。
既に36歳になる村田が音楽的な才能もあり大久保はグランゼコールのことを彼の勉強課題に与えたのだ。

「10年先いや100年先の日本にわが国の文化を伝えるためには此処フランスのやり方を学びわが国に即した文化工芸の伝承を如何に保存し伝えるべきかを学んでほしい」

大久保は軍事、政治ではないものもわが国には必要な学ぶべき一つだと思い彼に其れを託したのだ。
武人としての彼が其れを良として「先生、私の目標として其れがわが国においての誇りである文化の育成を、いかに育て守るかの手立てを学ぶことをお約束いたします」

「すまん、君に武人として政治家としての道を踏み外すことを頼んでしまったかとも思うが今其れを任せる人がいないのだ」

「ご心配なくお任せください。あれもこれも全てお国のための仕事でございます。村田は立身出世を望む者ではございません」

西園寺を含む留学生たちはこの村田を兄のように慕い始めていて髭の濃いいかつい男に優しい芸術への憧れを感じて更にパリ滞在に歓声を上げるのだった。

「しかし村田さんは大久保先生より年上に見えると町で噂ですぞ。木戸先生は20代に見られるし実際の年とはかけ離れて写りました」

「新納君や前田君のようにパリに長くいれば我が輩だとて若返ると言うものさ。なんせ食い物が違うだろう」

「いや其れは反対ですよ、わが国の者が若く見えると言うことはこちらの食い物は年を取る進行が早いと言うことにつながりますよ」

「悲観させることを言ってくれるなよ。それではすぐ老人になってしまう。国の子供たちに浦島太郎のように若いままで戻って驚かすことも出来んじゃ無いか」
浦島とのたとえが可笑しかったか若い連中は声を上げて笑った。

この日から村田は伊藤と正太郎について街を廻るためにオテル・ダルブへ移って来た。

「西園寺様のところへもこれなら歩いて行くのも楽でござる」と伊藤がお役目で出歩けない時は西園寺のところで同じようにフランス語の勉強の手助けを正太郎にしてもらいながら夜には正太郎を伴って西園寺とカフェ・コンセールをめぐって歩いては其処で行われる演奏に耳を傾けるのだった。


Paris1873年1月11日 Saturday

此処のところまじめに官庁への訪問、勉強に忙しかった伊藤も午後に正太郎に田中、林と通訳の前田に村田もを誘って正太郎に案内させてLoodへ出向いて早めの夕食にした、といっても5時でもうじき陽が落ちる時間でLoodに着いた時は月が薄らと光って陽は完全に落ちていた。
このところ4日ほどパリは晴天が続いていて寒さが増してきていた。

「6人大丈夫かな」

「大丈夫よショウ」

イレーヌは日本人に慣れてきて「コンバンワ」と伊藤に挨拶して喜ばせた。

随行員は此処に慣れて毎日誰かが顔を出しているようだ。

「ママン魚を焼いてくれないか」既に誰かが頼んだのか此処へ来れば焼き魚に醤油を出してくれると言うことが広まっているのだ。

「ショウは一回も頼まなかったね」

ママンはそう言って「イトウサン、ショウは変わった子だよね。昔から家にいるように此処へ顔を出して食べる物も一度も違う味付けをしてくれなんていわなかったよ。だけど焼き魚を食べたいというササキという人を連れてきて自分でやり方を教えて、そいつを出してからは来る人が絶えないよ」判りやすく言おうとして言葉が変だがそのほうが伊藤には通じたようだ。

「ママン、これでジャポンの飯が出れば最高だが其処までは言わないからオムレツを頼む」

注文まで短期間に自分で出来るようになった伊藤に村田は眼をむいて「まいったな。伊藤さんは木戸先生に文句を言われながらももう既に通訳無しで町の人と会話ができるか。こりゃわしも町に出て勉強せにゃいかんな。ショウに前田君、君たち金の掛からないところで飯を奢るから精々わしも町を案内してくれ」

前田も喜んでお付き合いいたしますと約束した、彼は公使館での臨時収入以外それほどの収入が無い現状では飯をご馳走してくれると言うことはありがたい申し出であったのだ。

「村田さん高級なレストランで肩肘張るよりこういう店屋のほうのがうまいと言うのはわしが貧乏育ちだからですよ」

「其れを言うな貧乏育ちは政府の役人殆どがそうだ。この林君のように横浜育ちの人とは違うよ」

林は僕がいたヘボン先生のところは教育が厳しく食事も質素でしたからこういう店のほうが落ち着くのですと出てくる料理に舌鼓を打って喜んだ。

焼き魚は伊藤たちも見たことが無い魚だったが、塩加減も良く香りの良い魚が出され醤油にライムが添えられていて、其れを絞ると良い香りが漂った。
「トレボン」と林が声を上げるとママンは嬉しそうに厨房へ入っていった。

6人で満足するまで食べてビールを飲んで伊藤が「ラディシオン、スィルヴプレ」と頼んで勘定を17フランとチップに2フランを置いて店を後にしたのは7時半「どこかで軽く飲んでショーでも見るか」と伊藤が提案してフォリー・ベルジェールへ出向いた。

「冬のため8時半からの舞台になります」と正太郎が伝えると「歩いてどのくらいじゃ」「15分と掛かりません」「それなら歩こう」と言うことになり、月明かりとガス灯の明かりに浮かぶヴァリエテ座まで出て、フォーブル・モンマルトル街を通りジェフロア・マリー街の寒空に震えながら客を引く女の間を通り抜けてリシェル街32番地のフォリー・ベルジェールの正面に出た。

6人で12フランの入場料は正太郎が払い中へ案内されると顔馴染みのセルヴァーズが席へ案内してくれてすぐ席に6人の若い娘が付いた。

「ボンソワー・M.イトウ」と伊藤の席に付いたミシャが挨拶をした、確りと覚えたようだ。

「ボンソワ・ミシャ」と伊藤が返し村田をその隣に座ったミネットに教えた。

伊藤が5フランの銀貨を配り今晩俺たちは飯を食ったが君たちは好きな物をたのんで良い」と前田に通訳させてシャンペンを出すように頼んだ。

「メフスィボク・M.イトウ」と喜んでセルヴィスに思い思いに頼んでいた。

「コモンヴザプレヴ、モンノエラ・ムラタ」村田はどうやら覚えたフランス語を使う良い機会とばかりに正太郎にまだフランス語が良く判らないからゆっくり話してくれと頼ませてミネットに話しかけた。

「モン・ノ・エ・ラ・ミネット(Mon nom est le Minette)」

「おお、ミネットと言うのか」

「ウイ・ムッシュー・ムラタ」

片言ながら村田がミネットと話しだしたのでそちらに気を置きながら時々通訳に入り正太郎は隣のニーナに最近の流行り歌を歌わせて林とその隣に座ったシルヴィにも促して歌わせた。

どうにかそれに付いて行く林の首にすがって「トレボン」と褒めるシルヴィに気をよくした林も雰囲気になれて舞台を見る余裕も出て、始まったアクロバットに歓声を上げた。

両の腕に掴まらせた美女を自分の体を回転させながら振り回す様子に女たちも息を呑んで見守りようやく回転が緩やかになるとほっと息を継ぐのだった。

60分のショーも終わり正太郎がそれぞれに5フランの銀貨を渡して、店の支払いは伊藤が48フランで済ませ、女たちに見送られて雪混じりの雨の中を2台の馬車に分乗してオテル・ダルブへ戻った。

正太郎は降りずに窓から別れを言ってエメのアパルトマンへ向かった。

土曜は遅くなるのでエメに泊めて貰うとマダム・デシャンには言ってあるので今夜もノートルダム・デ・シャン街へ泊めてもらうためだ。
部屋を暖めソファで本を読んでいたエメは「お帰りなさい」と嬉しそうにドアを開け熱いカフェを入れてくれた。

この一週間の出来事を話して伊藤さんの事を中心に話し、村田と言う人がアコーディオンを習う先生を西園寺が探すように頼んだことも話すと、いい人がいるから月曜にアリスのキッチンへ1時までにこられたら待っていると約束した。

エメはアリサへのこだわりはなくなったようで、食堂であえば友達として楽しく食事をしてまたどこかでみんなで遊ぼうと相談もしているようだ。

翌日のディマンシュの朝、正太郎とエメは連れ立ってオテル・ダルブへ出かけ、村田にそのことを告げて伊藤が望んでいたスリップ・ド・クストゥとパリジェンヌ商会への見学に向かった。どちらも忙しい伊藤のために時間を決めて待っていてくれた。
正太郎はルネにこの間の事故のことを話し、後ろの車輪にファン(Freinsブレーキ)が必要なことを話した。

「そうか凍っていると前の車輪が止まると危ないのか」

そういって何度か実験して此処に針金で固定して皮製のファンを固定しようとすぐに試作品を作り出した。

その様子やアイムたちが車輪の製作機械や溶接する様子を眺めてこれも日本で作れるかと正太郎に聞いた。

「既に話しは聞いたことがありますし大八も人力車の製作も出来るのですから後は道の整備しだいでしょう」

「そうか日本は石畳も少ないしな」

村田や田中と話をしていて「こいつで郵便を配達させたら流行りそうだ」と思いついたことをすぐ話してくれた。

2時間ほど見学しているうちにルネが針金を工夫してハンドルから引いて後ろの車輪を止めるファンの試作品を仕上げた。

「どうやらこれで動くから後はもう少し工夫して取り付ければ来月にはいいものになるだろう。そうすれば部品を横浜に送って向こうで取り付けさせれば安全になる」

「いい考えだね。其れが上手く行けば取り付け料金だけでやらせてもいいな」

「それなら値段もサービスしてやるから修理用に余分に買ってくれるかい」

「いいよ、試作が上手く行ったら僕のにも附けてくれるかい。そうすれば改良点があればすぐ教えられる」

「いいとも明日にでも持ってきなよ」

11時過ぎまで其処で見学して、様々な会社のバイシクレッテを乗る正太郎を見ながらお茶にして昼は抜いて早めの夕食でいいだろうと伊藤が提案してスリップ・ド・クストゥの仕事場を見に出かけた。

輸出用の製品の仕事をするために10時から2時まで出てくれているので、其れに間に合うようにクストー街へ向かった。

12時半についてM.バルバートルの仕事場より先に1階の売り場を見てイヴォンヌの案内で2階へ上がった。
ジュリアン夫人が顔をのぞかせて「エメ、お昼は食べたの」と聞いた。

「まだよ、此処の見学が終わったらお昼を食べに行くの」

「なら支度をするから家で食べるか聞いてよ」

正太郎が伊藤に話すと「家庭料理か、村田さんそいつもいいかも知れませんな」

と相談してジュリアンの家で食べることにした。

「7人よ。私も手伝おうか」

「お願いジャガイモの皮をむいてくれると助かるわ」
エメは2階のジュリアンの台所へ入り込んだ。

マシーヌ・ア・クードゥルで次々に縫われていくスリップ・ド・クストゥに感心してみている伊藤たちは「わしの穿いているのもこうして作られるのか」と言うのでお針子に頼んで手作りの物をM.バルバートルが採寸し、特注品で各自二つその場で作りプレゼントすることにした。

「パリで売る物はこうした体に合わせた物か既成の物でも、あそこで今行われるように全て手作りです。器械縫いは輸出用と地方都市へ送り出す物です」

正太郎が説明している傍で既に裁断されて名前の頭文字を縫いこみ、次々に仕上げられる様子に感心し、村田は「体が太ってきてもこれなら此処で特注品がすぐ出来ると言うことだな」と安心したように正太郎に言った。

村田の分が先に出来てM.バルバートルが検査してから紙に包んで正太郎が名前を書き込んで机に置き出来た物を積み上げ「これは試作品として皆様へのプレゼントですので、どうか行く先々で宣伝してくださると、私もこの店も儲かります」と笑いながら紐で絡げた。

ジュリアンが顔をのぞかせたので「友人のジュリアンです。友人と共に遊びも商売も全て僕の先生でもあります」と紹介した。

ジュリアンの店でそのワインの多さに驚く一行を地下倉庫へ案内すると「此処には1本2フランくらいから50フランでも買えないものもありますが皆さんに1本お土産に差し上げます」と大きく出た。

「ジュリアン僕が指導してもいいか」

正太郎がそう申し出ると「そうだなショウの意見が聞ければよいワインが選べるというものだ」前田がほかの者に通訳もしないで言い出した。

「だめ駄目そんなことしたら破産しちまう」
その雰囲気でなんだという顔の田中に「今この倉庫にあるものから好きな物を貰えると言っています」と前田が通訳した。

「それならショウに選んでもらおう」

「其れを今話したらショウに選ばせたら破産してしまうと断られました」

「それなら君がラベルを見て選んでくれ」

「無理ですよ。僕は安ワインしか飲みませんから高いのなんか知りませんよ」

「なら俺たちが選んだ者が安物だったら其れは駄目だといってくれ」

5人はあれだこれだと言いながら探していたが、シャンペンの棚では平気な顔のジュリアンもシャトー・ラトゥールの1856年の棚の場所で手に取られたときは動揺していた。

しかしそれほど高い物を選ばず喜んだジュリアンはヴーヴ・クリコ・ポンサルダンを持ち出してきてこれを今冷やして置きますからと、正太郎に上で氷のバケツの入れてくれと店へ上がらせた。

暫く前田を通訳に講釈をたれていたジュリアンに連れられて2階へ上がってきた面々に夫人のエメを紹介し、用意された食卓へ着かせた。

伊藤が副使節と聞いてもそれほど驚かないのは、大統領と顔を合わせた自信からかも知れないなと正太郎は思い、ふたりが給仕する食事に専念することにした。
まだ料理の得意で無いエメもママンのところに1月いて、台所仕事の幾許かはできる様に為っていた。

伊藤たちは竈やあちらこちらから手品のように出てくる料理とシャンペンに酔い口も軽く日本の歌だと面白おかしく大きな声で歌いだした。

「エメ、料理にワインでも混ぜたの」

「シチューの味付けに使ったぐらいよ」

その割には今日の伊藤は上機嫌だ、いつも相当酔っても歌まで歌いだすことは無いのだ。

ジュリアンがアコーディオンを持ち出してエメが故郷のゲント地方の歌をフラマンの言葉で謳うと、村田はアコーディオンを借り受けてイギリスで覚えたというスコットランドの曲を披露した。
ショウも何かやれというのでエメとふたりでサンタ・ルチアを歌わされてしまった。

夜にどこか行こうという話しでエメに相談するとグラン・ブルヴァールのサンドニにあるバ・タ・クランかキャビシーヌ大街4番地のル・グラン・カフェはどうかと勧めた。

「オペラ座の横にある奴か」

「そうそのル・グラン・カフェよ」

「其処は行ったこと無いな」

「それならふたりとも一緒にどう。余り如何わしい場所じゃないわよ」

「よせよそれじゃ俺が如何わしい場所に入り浸っているように聞こえるぜ」

その話は前田が伊藤たちに全て通訳していたので一同は笑いをこらえるのに懸命だったが「M.ジュリアンもご一緒にどうですか」と誘った。
「伊藤様、いまだと早すぎるので7時にお迎えに上がりますからジュリアン夫妻と僕たち二人もお付き合いします。明日は月曜ですからそこで軽く仕上げてお開きが丁度良いのではないでしょうか」

「そうだな。其処は何か見せ物でもあるのかな」

「今は軽演劇とパントマイムが見ものだそうですわ、お食事は勧められませんが軽く摘みながらお酒を飲んで笑える劇場です。言葉が良く判らなくても動きで見せる劇場ですので楽しめると存じます」
其れを前田が通訳すると興味がわいたようで「芝居のだんまりの物の様だと聞いたがそうなのか」と前田に言わせた。

「そうです。アルルカンを演じる役者の動きも注目ですし、ピエロの夢を見るような動作にも、おかしみが溢れて悲しみなのか可笑しさなのか良く判らないのですが見ていて時間を忘れさせてくれます。サーカスには欠かせない道化者です」

「ニューヨークで同じようなのを見たことがある。面白そうだな」

ジュリアンには7時半に劇場の前でと約束して5人は一度オテル・ダルブで降りて支度などして待ってもらうことにした。

正太郎とエメはノートルダム・デ・シャン街へ戻って仕度をして6時半に馬車に来て貰うことにしてオテル・ダルブへも1台回すように頼んだ。
1時間余りしか無いというのにエメは正太郎に髭をそれと言いながら、着ているものを洗うから脱げと迫った。
二人がル・リから出て正太郎が急いで髭をそる間にエメは化粧も着替えも済ませていた。
正太郎の着替えも手伝って下へ降りたのは約束の6時半雨が降り出していたせいか肌寒かった、ホテルの前には50分に着いた。

迎えの馬車も来ていたので正太郎が中へ入ると、珍しく木戸と佐々木に山田顕義もが通訳に田辺をしたがえて来ていて伊藤がどういう所へ出入りしているかの視察だと馬車に乗り込んだ。

正太郎の馬車に木戸と佐々木に乗ってもらい、もう1台馬車を頼んで馭者には場所を前田が告げて後から来ることになった。

「正太郎、今晩は何処へ行くか決まっているそうだな、今から場所を換えることはゆるさん」
二人はエメに遠慮しながらもきつい顔でその様に命じた。

キャビシーヌ大街4番地のル・グラン・カフェへは7時半を少し過ぎてしまったが、正太郎はジュリアン夫妻を含めて13名分19フラン50サンチームの入場券を買って中へ入りセルヴィスに5フランを渡すと3つのテーブルがトリアングル(三角形)に並ぶ仕切られたブースへ案内された。

正太郎の席には木戸に田辺と佐々木が座り、一番前に林とジュリアン夫妻とエメとが座わった。
伊藤に田中光顕には山田顕義と通訳に前田そして村田が座った。
正太郎はセルヴァーズに3つとも同じようにとビールと簡単なつまみの料理を頼んで5フランのチップを渡した。

「メルスィー・ムッシューすぐ御持ち致します。マドモアゼルにはカクテルなどいかがですか」

「そうしてくださいそれと暫くしたらシャンパンを3本、舞台の幕が開く頃が良いです」

木戸が此処は席に女が付かんのかと聞き「呼べば来ると思いますが、此処で呼んでいる人は見えないようなので、セルヴァーズは酒を注ぐこともしてくれるかどうかわかりません」

「では何時も何処へ行くのだ」

「オテル・ド・ジブラルタルの近くのヴァレンティノが多いですね。後は食事にスフィンクスとか下町のサラマンジュくらいです」

サラマンジュは安食堂ですと田辺が口を添えた。

「あそこはいかがわしいことなぞ無いぞ。わしも大久保さんも行くが女は舞台が跳ねると客の求めに応じて挨拶に来るぐらいで酒も注がん」

「芸者とは違い、よくは知りませんが京都の舞妓さんのような存在では無いでしょうか」

「それなら判る。芸は見せるが酒の相手はせんと言うことか」

「フォリー・ベルジェールや其れに類したところでは酒の相手もしますし、それ以下の如何わしい酒場では連れ出し料を払えば外へも付き合うようですがまだ伊藤様は其処へ案内しろとおっしゃいません」
気難しい顔をしていた山田顕義も隣の村田と何かを話していて「間違いないようです木戸先生」と報告し村田は木戸に呼ばれて話しをした。

ようやく顔もほころびだして「すまなかった。今宵も伊藤は如何わしい場所で女をはべらして豪遊していると讒言するものがあってな。相手がすなわちお前、正太郎だ。例の下着で二人が私服を肥やしてその金で遊び歩いていると言うので岩倉様は全部でたかの知れた金額でその様なことはできんが、打ち捨てておく訳にもいかんから、今日直ちに居場所を探して査察せよとのお達しだったのだ。悪く思わんで呉れ。何も恩義の無い村田君にもいま聞かせてもらったが、その様な場所へ誘われたこともなく、今日はバイシクレッテの工場と下着のできる様子を見に行ったと教えてもらった。下着もフランス人に買いに行かせたら小売値段は2フランであった、そこには何も不正も起きておらんし、花屋も手を回したが何も無いと判って後は今夜のこの店で、おかしなことは無いとわかった。これからも身を謹んで誤解を受けぬよう心がけてくれ」

下着は600枚1200フランで納めたので急いだ分お針子への臨時給与を上乗せした分で儲けは普段より少ないくらいなのだ。

木戸はシャンペンを楽しみピエロの悲しそうな顔に笑い転げて前の席の田辺に「あれで喋ったら台無しなのか」と聞いて更に可笑しそうにしている前の席の山田顕義の肩を叩いて子供のようにはしゃいだ。

1時間の舞台が終わり席を立ちながら「順序が逆になりましたが」と断りエメとジュリアン夫妻を改めて木戸と山田顕義、佐々木に田辺にも紹介して請求書は、わしがと木戸が「ほう13人で70フランにならんのかシャンペンがついた割りに安いものだ」とチップを込みでと田辺に言わせて10フランの金貨を8枚渡した。
表で木戸たち一行を見送りジュリアンは歩くと言うのも無理に乗せて3フランを馭者に渡し「チップ込みですわ」とエメが念を押した。

2台に分乗してオテル・ダルブへ向かったが伊藤は首をすくめて山田に「佐々木様を連れてこられたにはまいりましたな。旧悪は全て掴まれて居りますから今晩はMlle.ブリュンティエールのおかげで首がつながった」とおどけて首筋を叩いた。

エメに其れを話すと可笑しそうに「それでは伊藤様の命の恩人ですわね。ショウがおかしな遊びに誘っても断っていただけますか」と席を詰めて乗り込んだ前田に通訳をさせて頼んだ。

「勿論ですともMlle.ブリュンティエールの言葉に従いますぞ。ショウがいくら勧めても断固断りますじゃ」
オテル・ダルブの前で村田に「明日の昼はアリスのキッチンと言うことなので西園寺様の部屋へ12時までに伺います」と約束して、今晩もエメの部屋へ泊めてもらう正太郎だった。



Paris1873年1月13日 Monday

朝昨日の冷たい雨はやんで夜明け前から街は明るかった。
エメが学校へ出るために下へ降りる時に一緒に降りて馬車でメゾンデマダムDDへ戻り自分の転んで少しゆがんだバイシクレッテを積み込み、事務所で今日の予定を告げてパリジェンヌ商会へ向かった。

「ははは、こいつか、何処で転んだ」

「サンバンサン墓地の坂だよキャバレ・デ・ザササンへ降りるほうさ。ペダルに力を入れたら横滑りしたんでブドウ畑へ飛び降りたけどバイシクレッテはこの通りさ」

「ショウは怪我しなかったか」
腕を捲り上げて擦り傷のなごりを見せて「反対側だと墓地の壁で危なかったけどね。もうこの通り良く見ないと判らないくらいに成ったよ。でも冬場は気をつけないとけが人が出かねないね」

「3日で例のファンを取り付けて置くよ」

「頼むよ、使節団の人がパリからブリュッセルへ向かえばまた乗る機会が増えるから」

「任せておきな」

待たせておいた馬車でアルバレート街へ向かった。

広間には村田のほかに若いふたりの人がいた。

「少し前まで山田さんがいて、彼がこのふたりを連れてきたんだ。僕から紹介しておこう。此方はデカルト学校の野村尚赫(なおひろ)君、小三郎が通称だショウと同じ18歳だよ。その隣は堀江提一郎君彼の本名は大久保春野君だが旅券は堀江で申請したので今も其れを使っているんだよ」

背は低いが精悍そうな人は維新のときのその名を使ったので本名より通りがいいので役所が勝手に使ったのですよ、困った物ですと笑った。

「西園寺様に此処の上があいているがと誘われて引っ越しをしてくることにしました」
堀江は村田にそういって指で上を指した、4階建てのアパルトマンの最上階だ。

村田37歳、堀江27歳、西園寺24歳、西園寺は1等留学生だが野村と堀江は2等留学生なので年額400フラン支給が少ないそうだ。

「今パリには他に大勢いるが忙しい人ばかりだが野村君はMlle.ブリュンティエールの後輩だよ、数学では優秀なのだが体を壊して年末に退学して今休養中だ。堀江君と言うのも年上に失礼だが彼は今度フォーブル・ポワッソニエールのヌーベル・フランセの勤務に変わったんだ」

野村は「僕はロワイエ・コラール小路のリリュークさんの家の3階に下宿して今は病院に通いながら自宅で勉強しています」と正太郎に話した。

ふたりに正太郎は名刺を渡して「今はあちらこちらと飛び回って居所が自分でも何処にその日いるのか把握できないのですが、その事務所へ連絡をいただければ事務所で探します」と伝えた。

デカルト学校は最近、正式に名乗っているが、いまだにリセ・ルイ・ル・グランという人が多く在学生も先生もそちらを望み変更が検討されているそうだ。

正太郎が自分のことを話していると「そうか君は横浜か。僕は横浜の横浜語学所開校の準備で行ったことがある」とその当時の横浜の話で盛り上がった。

西園寺が少しくらい増えても大丈夫さと連れ立ってアリスのキッチンへ昼を食べに向かった。

ミミに話をすると席をすぐに作ってくれ、思い思いに取り皿にとって食事を楽しんだ。

アリサにカテリーナも学校から昼食に戻り、今日は此処で「Mlle.ブリュンティエールが連れてくる人に会う約束」だと話すと食事が終わったら学生が憩う広間を提供してくれることになった。

「タバコやパイプは禁止なの。でもカフェは好きなだけ給仕しますわ」

「すまないね」

「いいのよ。ショウに西園寺には色々な人を連れてきていただくので、アリスも喜んでいるわ」

話をしているところへエメとブランカにもう一人連れ立って食事にやってきた。

アリサがエメと話をして先に連れて来た女性を正太郎たちに紹介した。

M.西園寺此方Mlle.アルベルティーニ、クラリッサ此方はジャポンの貴族のM.西園寺よ。そしてお髭の素敵なかたがM.村田。今アリサが広間を使っていいと言うので食事が終わりましたらそちらでお話しますわ」

「僕たちもう終わりですが。先にお食事をしますか」

「それなら先にお話しましょうね」

アリサやブランカまで付いてきて正太郎は物好きだなとおもったが好きにさせることにした。

Mlle.アルベルティーニはイタリアから数学の勉強にデカルトへ来たのよ。前はミラノの音楽学校で学んでいてアコーディオンとピアノは得意なの、それなのに何を考えたのかデカルト(リセ・ルイ・ル・グラン)へ留学してきたのよ」

「其れで村田さんに」

「そう教わる気があるなら授業料は1時間1フランでいいと言うの。一度M.村田のアコーディオンを聴いて、教える要素があるかもっと高度のテクニークをお持ちなのか知りたいそうなの」

西園寺が逐一村田に通訳しながら話すと「わしは我流なので余りテクニークは無いので、ぜひ手ほどきをお願いしたい物です。耳は良いほうなので聞いた音を出すことはどうにかできますが、楽譜は読めないのですよ」

其れを話しているとアリサが話しに加わり此処にアコーディオンとバンドネオンがあるから学校が終わる5時にもう一度集まらないか提案した。

西園寺は喜んでお受けしますと言ってから「Mlle.アルベルティーニのご都合も聞かずに失礼しました。いかがでしょうか」と礼を失したことを謝りMlle.アルベルティーニの都合を聞いた。

その丁寧な行動にMlle.アルベルティーニは「どうぞかた式ばらずにクラリッサとお呼びになられてくださいな、学校が終わりましたら6時までにお伺いいたしますわ」

「では6時にお集まりになってね。入り口は隣のアパルトマンのほうのからお願いしますわ」

村田は「よろしくお願いします。Vous remercier dans、モンノエラ・ムラタ」

たどたどしいながら自分の名前を名乗る様子はサムライの風格があり立派な髭も好感を与えたようだ。

エメたちは食事に戻りアリサは学校へ戻ると言うので西園寺たちも6時までに伺うと約束してアルバレート街へ戻った。

「ショウは勿論付き合うのだろうね」

「今日は伊藤様から呼び出しもありませんので大丈夫です」

「そういえば村田君から聞いたが伊藤さん、遊びが過ぎると讒言があったが上手く切り抜けたそうだね」

「あれは伊藤様がひょこひょこ出没するのが気に入らない人がいて、そのせいで木戸先生が釘を挿されに来たのでしょう。先生も本心は同じ長州としてもっと自分に相談して決めろと言うことではないのですか」

留学生のふたりの出身藩が判らないのでその様に話をしておいた。

「正太郎君は平民だというけどフランスでは身分の差は問題にしないようだね」

「その様ですね。私は日本もいずれそうしないと諸外国に遅れをとる時代が来るのではないかと思います。士族のみの軍隊から山縣様が作ろうとしている国民全ての軍に平民の将官が出る世の中が来るとおもいますが、其れまでは今までの武士の方たちとの争いが起きるのではないかと感じます」

「それでは君は武士だけで軍を編制するのに反対かね」

村田がそう切り出した。

「反対というのではなく、国内を守備する軍なら昔のように士族の方々で済みますが、国外の軍と争う時がいずれあると存じます。そのとき平民は軍の中枢にいる場が与えられず一兵士として戦に出ろというのでは国全体の士気は上がらないと存じます」

「ショウは其れを幾年先と見ているのだ」

「これは私の意見ではありませんが、私の旦那様と大先生の勝先生は早ければ7年以内に国内の大変動がおき20年たてば国外との大変動が起きると教えてくださいました」

「そうかショウは勝先生の孫弟子なのか」

「そうなります」

「それで武士には頼れないと言うことか。徳川の旗本に大名は戦場の争いには向いていなかった物な。あれは事務方の仕事には向くが戦には向かんな。しかしショウは山縣君には反対ではないのか」

「私や私に教えてくださった人たちは山縣さんの国民皆兵に反対なのではなく、その指揮系統の最高責任者に陛下を置いて、陛下のお袖に隠れて昔の徳川の世と同じ事になることを懸念しています」

「ウ〜ン、そうか其れは大きな問題だな。今はまだいいが我々の子供の時代になれば建軍の精神は損なわれるかもしれんな。おいも心がけておこう」

話は一昨年のパリ・コミューンの蜂起になったが擁護論を言う者は居なかった。

「可笑しいなショウは市民派では無いのか」

笑いながら西園寺が煽った。

「市民の蜂起には独逸に対する講和が原因だとおもいます。あれは戦争を続けるべきだという講和反対の蜂起だとおもいます。私は時代がたてばあれが市民のための蜂起とされるとおもいますが、今あの戦いが国のために良かったかといわれれば賛成することができないのです」

「本当にショウは18なのかよ。立派な意見だ。だがわが国では市民すなわち国民全てというわけにはいかん。まだまだ学ぶべきは多いだろうが侍に全て平民になれと言うことは出来ないだろう」

「100年掛けてフランスもまだ試行錯誤しています。イギリスも女王をいだきながらも市民の権利を守って居ります。その貴族王族がいない分アメリカはこれから世界を動かす先頭に立つ力があると思われます」

「そうかもしれんな。これから使節団は各国をめぐりその長所短所を探り当ててわが国にあった制度を見つけて勉強せにゃいかんだろう」

村田の言葉に堀江が自分の意見を話した。

「自分は背も低いし体力もこちらに来てその不足に気が付きました。まず日本人は体力、知力を欧米に追いつかせなければなりません。自分は軍のその方面を受け持ち財務、補給を学ぼうとおもいます」

「いいことだ、堀江君それも大事な学ぶべき点だよ」

様々な意見を戦わせる様を西園寺は楽しそうに眺めていた。

陽も落ちかけたパリはアルバレート街の窓から見ると天文台の丘の上に大きな満月が輝いていた、5時半を過ぎて一同は身だしなみを整えてアリサのアパルトマンへ向かって歩いた。

M.ブロティエが2階へどうぞと一同へ声をかけてアリサの広間へ案内した。

エメもクラリッサと来ていて楽しそうに談笑していた。

村田も自分のアコーディオンを持ってきたし、クラリッサも持ち込んだのでカテリーナまでがこれで演奏会が開けると大喜びしてピアノで音程の調節役を買って出た。

まず村田がどの程度なのかと2曲演奏してそれぞれの意見を求めた。

「音楽的な才能はすばらしいわ」

「そうね、ただ指が押さえる場所を正確に選んでいないから音が割れるのね、でも其れが不思議な高揚感を引き出しているわ」

「正確な指使いを覚えた上で演奏すればすばらしいわ」

議論の末クラリッサが「M.村田が私の授業を受けてくださるなら、正確な音程で引けるようにいたします。そのあとあなたの感性に合う音楽に仕上げてください」村田にそう告げて授業を受けるように勧め村田が今月はまだ使節団方の手伝いもあるので2月からと頼んで此処の食堂を連絡場所にしていいかアリサの了解を求めた。

同じ右にピアノ式の鍵盤と左手側にボタンがついているが少しずつ違いがあるように正太郎には思えた。

村田のアコーディオンを見ていたエメがあらこれフランス製だわと声を上げた。「フルーティナだわ」其処にはFLUTINA, made by M.Busson Parisと記されてあった。

「知りませんでしたな。フィラデルフィアで購入した物ですが。フランス製、それもパリですか」

驚く村田にそれぞれが手に取り音程を確かめ、いいものですわ大切になさってくださいと褒めた。

「私のは叔父の物だったけどこれもフランス製みたいよ1853年と記されているわ」

エメが見て「メロフォーン、G.A.ペルラン、パリ、1853年製ね」

其処にはMelophone, made by G.A.Pellrin Paris1853と記されてあった。

「私のはウィーンで作られた物よ。名前も年号も無いからちいさな町工場の物かしらね。ミラノで使っていた物は弟に置いてきたのでパリの日曜の市場で見つけて愛用しているの」と愛しそうにクラリッサ・アルベルティーニは抱きしめてサクランボの歌を弾き出した。

正太郎と西園寺が歌うとエメも歌いだしてまだ知らない者も教えられて歌いだした、村田は音を出さずに鍵盤に指を這わせその息遣いも覚えようと耳をそばだてていた。

村田がイギリスで覚えたという曲を披露するとTis the last rose of summerだわとクラリッサが後を続け英語の歌詞があるわと豊かな声量の声をわざと落として聞かせてくれた。

Tis the last rose of summer Left blooming alone
All her lovely companions Are faded and gone 
No flower of her kindred, No rosebud is nigh
To reflect back her blushes Or give sigh for sigh

正太郎はエイダさんが良く歌っていた曲だと思い出した、そして五左衛門さんと吟香さんが訳した歌詞もおもい出した。

「もう一度最初から」と村田さんに頼んで今度は正太郎も加わって合唱した。

夏の終わりの薔薇は一人残りて咲き 君の友は皆散りてともに咲いた兄弟もなし 蕾もなく君がため息は悲しみを誘う、歌詞は悲しいけどふるさとを思い出す郷愁に何度もエメがそしてアリサも弾いてくれと二人にせがんだ。

「ショウは中々色々な歌を知っているなエメが教えたとは思えないから横浜仕込みかな」

「そうです。今東京の木挽町でパン屋を開いているエイダ・ホーキンズさんというイギリスのご夫人に教わりました」

その夜はアリスが食堂に支度をしたと言うので一同は下に降りて夜食を食べて散会した。馬車を頼んでエメとクラリッサを送り出して西園寺と一緒にアパルトマンまで歩きムフタール街の馬車屋で仕立てた馬車で西園寺と別れた。



Paris1873年1月17日 Friday

パリは久しぶりの晴れ間が覗いた。
使節団はシュレーヌのモン・ヴァレリアンの砲台へ向かった。

其処はアリサの別荘のすぐ上のにあり使節団の通訳はモンワレイヤンと発音していたと戻ってきた前田が正太郎に笑いながら教えた。
パリの市街を外敵から防衛するために1841年に建設された城砦で普仏戦争の際にはプロシアに降伏することに反対しパリ・コミューンに集った人々を壊滅する重要な役割を果たした。

函館五稜郭は此処をモデルに作られたとシャノワンが岩倉卿に説明していたそうだ。

Mont Valerienの手前のシュレーヌは保養地として人気だがシュレーヌの酒を飲むなら三人で行けと悪口を言われるくらい人の口に上る悪酒で有名だ。
アリサと行った時には気が付かなかったが前田の説明によると、砲台とベルサイユ間では9000メートル、此処には今1500人の守備兵と大砲が120門、武器庫にはシャスポーが6万挺も装備されているそうだ。
シャスポーはプロシャとの戦の後価値が下落して5フランになり製作は終わったそうだ。

明日はバンセンヌへ行くとシャノワンが説明していたそうだが伊藤は別行動にするので正太郎に朝9時に来るように前田が伝えた。
その前田と正太郎はビュット・カイユまで馬車で向かった。
彼が紹介する蜂蜜を買いに行くためだ、マダム・デシャンの勧めもあり肺炎らしい野村小三郎のためにジュレ・ロイヤル(Gelee royale、ローヤルゼリー)を買い入れようと思い立ったのだ。

ミエル(Miel蜂蜜)も健康に良いが少し酢っぱ味のあるジュレは弱った体にも良く胃に負担にならず健康を回復する妙薬だそうだが20グラムで30フランくらいはするそうだとマダム・デシャンは教えてくれた。

ベネローゼ街のエレーナとジェニファーの下宿の先にプレイス・ディタリーがあり幾筋もの道から西南に伸びる道へ入り300メートルほど行くと左側に大きな庭が付いたレザベイユ(Les Abeilles)という養蜂場があり其処に小さな店舗があった。

中に入り用件を話すと快く高価なジュレ・ロイヤルを分けてくれた。

「このさじで白湯または紅茶に溶かして1日3回、それ以上は飲んでも無駄だからきちんと守ってくださいね。それからそのまま口に入れるのもいいけど酸っぱいから止めたほうが良いわ」

品の良い40過ぎに見えるマダムがそう教えてくれてこれで1か月分はあるわと渡してくれたのが35グラムとラベルが貼られていて33フランと言うことだった。

「3個頂いても良いですか」そう聞くと今冬だから3ヶ月は大丈夫だけど火の傍に置いては駄目と念を押された。

帰りの馬車で「3つとも渡すのか」と前田が言うのに「二つは僕が預かっておきます。小三郎さんには一つ渡します、もしそれで効果が出るようなら其の時に次の分を買うか残っていれば其れを。これは西園寺様から渡してもらおうとおもいます」と話した。

アルバレート街で馬車を帰し西園寺に要点を書いて渡してから前田と3人で小三郎の下宿に向かった。

小三郎に西園寺が渡して「よく用法を守って飲むんだよ。体が回復すればまた学校にも通えるんだから」と元気づけてまだ丸みが残る月明かりの中をプチバッカスへ向かいそこで夕食をとって別れた。 



Paris1873年1月18日 Saturday

オテル・ダルブへ9時に少し前に着くと伊藤と長田_太郎(パリ公使館2等書記官)に村田の三人が待っていた。

「今日は何処へ行くのですか」

「東京の家族に送るドレスを誂えたいが聞くと余りにも高く言うのだ」

「幾ら位と言われましたか」

「280フランだそうだ。56ドルだ」

「其れは貴族用の服屋ですよ。サンフランシスコと違いパリの街ではその10分の1も出せばいいものが手に入ります」

「な、長田君この通りだよ。ショウに言えばという鮫島君の言葉どおりだろ」

「ほんとですね。パリについてエッ、そんなにするのか驚きましたがあいつら足元を見て吹っかけたのですかね」

「ブルジョワや王侯貴族の御用達はそれくらいのことは言いますよ。伊藤様なぞはそのくらいのもを誂えて当たり前と言われても不思議ではありません。それでシルクが良いですか木綿で良いですか。シルクはほぼ倍はしますが着心地は下着をつければそれほど変わらないようですね」

「1着50フランまで、出できれば2着はほしいのだが」

「それだけ出せればいいものができますよ。後はタイユが判ればいいのですが」

「体はフランス人と比べればだいぶ小さいからな」

「其れでしたら大体の寸法で作らせてYokohamaで手直しをされれば体に合わせてくれますよ。店も紹介しますから手直しもしてもらうように手紙をつけて送れば大丈夫です」  

「そのくらいならわしも送ろうかな」と村田が言うと、ではわしもと伊藤が言って「ショウ、俺の給与じゃ高いのは無理だよ、そのくらいなら何とかなるから、村田さんや長田さんの分もわしの家内についてYokohamaへ寸法直しに行けばよいじゃろ」と一人で決めて二人に「手紙にそう書いときなされ」と薦めた。

馬車でパサージュ・ジュフロワに有るル・マガザン・デュ・リスまで出かけてM.アルフォンスに事情を話すと「少しまってくださいね」と店を出て幾人かの背の低い娘をつれてきて「この子達と比べてどうか」と3人に確かめさせてそれぞれを抱きしめて胸の大きさを教えろといわれて3人は眼を白黒させて恥ずかしそうに抱いて確かめた。

正太郎もそのやり方には驚いたが50フランの注文服が6着と言うので女の子に金を弾んだようでおとなしく3人の腕を回すのに微笑んで任せた。
ようやくアルフォンスが満足するタイユの採寸が終わり「ではショウがYokohamaで仕上げができるように余裕のある服にしとくわね」と3日後の仕上がりを約束した。

3人は前払いしておくから正太郎に取りに来てくれと頼んで書付を貰うと正太郎に預けた。

アルフォンスは袋にそれぞれの名前を書かせ中に採寸票を入れ、其処へ正太郎がアルフォンスにわかるようにフランス語で書いておいた。

「これで無いと間違えて渡すとYokohamaで大変な騒ぎになるからね」
用意周到とはこのことだと村田が言って店を後にし、正太郎がお茶にしましょうとパサージュ・ヴェルドーとの間の道に出た。

ジュフロワの裏口と向かい合うように有る、ブラッスリーEnoliaへ誘ってルラード・ロールケーキのマロングラッセを砕いて生クリームと混ぜ込んだものとカフェ・クレームで一休みしながらこれから何処へ行くかを話し合った。

正太郎がジュフロワの裏口を何気なく見ているとアリスに手を引かれたモーリス坊やが見えた。

「やぁ、モーリス。今日はアリスと買い物かい」

「ショウこそ買い物なの。エメは一緒じゃないの」

お天気も体のことも聞かずに二人が話していると荷物を抱えてサラがジュフロワから出て来た。

「わぉ、サラそんなに荷物を抱えてどうしたの」

荷物を受け取りながら聞くと「モーリスの買い物ついでにアルフォンスへ頼んだ服を取りに行くのよ」と言って伊藤に気が付くと「ご機嫌いかがですかM.伊藤」と例の澄んだ声で聞いた。

伊藤が連れを紹介している間にモーリスとアリスにもルラード・ロールケーキを注文して座らせた。
道端だが風が当たらず熱いカフェ・クレームを飲むにはいいところだ。

サラは荷物を貰ってくる間此処にいるのよと二人に言ってショウをお借りしますとル・マガザン・デュ・リスへ向かった。

「ショウたまにはエメとこなきゃ駄目よ」

アルフォンスが2階へ上がった隙に正太郎にキスをしてから澄ましてエメのことを話題にした。

「今ジャポンの使節のことで忙しいので其れが済んだら二人でうかがいます」

「約束よ」サラは本気でキスをして正太郎をまごつかせた。

「2月公演はレノス・デュ・フィガロ(Les Noces de Figaro)でメゾ・ソプラノのシェルバン(Cherubin)をやることに決まったわ」

「そいつは見ものですね。確か男の子の役でしたよね」

「あらショウはよく知っているわね。伯爵の小姓役よ」
アルフォンスが降りてきて品物を受け取り、正太郎に荷物をもたせ、勘定を済ませると陽気に歌いながらモーリスの席まで戻った。

伊藤が勧めた椅子に腰掛けると「今の歌をもう一度聞かせくれませんか」という求めに応じてくれた。
道の彼方此方からサラに気が付いてジャポンの者と一緒なのにも驚いてか、遠巻きに10人ほどが見つめていた。

    Voi che sapete

ヴォイ ケ サペーテ ケ コーザ エ アモール

ドンネ ヴェデーテ スィーオ ロー ネル コール

ドンネ ヴェデーテ スィーオ ロー ネル コール

クエッロ キオ  プローヴォ ヴィ  リディロ

エ  ペル  メ  ヌォーヴォ カピール ノル  ソー

セント ウナッフェット ピエン ディ デズィール

コーラ エ ディレット コーラ  エ マルティル

ジェロ  エ ポイ  セント ラルマ アッヴァンパール

エ イン ウン モメント トルノ ア ジェラール

リチェルコ ウン ベーネ フォーリ ディ メ

ノン ソ キル  ティエール ノン  ソ コゼ

ソスピーラ  エ ジェーモ センツァ  ヴァレール

パルピート エ トゥレーモ センツァ サペル

ノン  トゥローヴォ  パーチェ ノッチ ネ ディ

マ プール ミ ピアーチェ ラングゥル  コズィ

ヴォイ  ケ  サペーテ ケ  コーザ エ  アモール

ドンネ ヴェデーテ スィーオ ロー ネル  コール

ドンネ  ヴェデーテ スィーオ ロー ネル  コール

最後の繰り返しは正太郎の気持ちのように聞こえた。
ご婦人方よ、見て下さい 私の心は恋していますか。
ご婦人方よ、見て下さい 私の心は恋していますか。

歌い終わると拍手が路地に溢れてサラは恥ずかしそうに立ち上がってお辞儀をした。

「いゃすばらしいですな。其れはこの次の舞台での歌ですかな」

「はい2月公演の小姓役で出ますので。アリエッタというこの歌は第2幕第3場で歌うのですわ」

「其れは幾日か判りますか」

「初日は15日ですわ」
手帳を見ていた伊藤は「おお、その日なら間に合いますな、ショウなんとしても席を確保してくれないか。16日は大統領の別れの宴席があるので其れしか都合がつかんぞ」

サラは考えていたが「ショウ、この間のふたつの部屋でよければ初日にショウと伊藤様のためにご招待しますわよ」

「いいのですかご好意に甘えても」

「勿論よ。そちらのお二人もいかがでしょうかしら」

「勿論喜んで」

長田は元日の舞台で感激した事を伝えて呉たまえと正太郎に言って自分でもたどたどしいながらも其れを伝えた。

「嬉しいですわ。喜んでいただける方に聞いていただける事、見ていただけることが私の喜びです。ショウ後でビエは事務所に届けるわ」

「ありがとうございます。必ず今度の舞台も成功しますよ。伯爵夫人は誰に決まりました」

「マノン・ミリュエルに決まったわ。若いけれどあの気品は誰にも負けないわよ」

サラは若い女優も褒めて伊藤たちにモーリスにも挨拶をさせ、ファーブル・モンマルトル街の通りに待たせてある馬車まで正太郎に荷物を持たせて向かった。

「ショウ、きっとエメと遊びに来てね」

「約束するよモーリス」

二人は馬車がモンマルトル大街で曲がるまで手を振った。

「いや今日は儲け物だったね長田君」

「ほんとですな。村田さんなぞうっとりとしていましたからね」

「其れを言うなら君もだよ」

「そうあの色気にはぞくぞくしましたな。彼女が男装で出てきたら主役も食われかねませんな」

3人は正太郎を置いてけぼりで盛んにサラのことを話題にしてようやく「ところでふたつの部屋と言っていたが何人が入れるのだね」

「12人です、1部屋6人の席があります」

「そうかこの4人のほか後8人か」

冷静になってきた長田が「伊藤様、我々はよろしいですが、もし木戸先生のお耳に」

「そうじゃ、伊藤さん我々だけで決めては、何かとまずいでしょうぞ」

「そうだな、ショウ何かいい手はあるかな」

伊藤はもう決めた顔だがあえて正太郎に話をさせようとしていた。

「まず岩倉様から今晩にでも参加希望者を募ると理事官を通して話をすることと、M.ペランに部屋の確保もしくは椅子席でもと確保をお願いすることです。今から行って少なくとも30人分を余分に確保できればもし使節団の予定が入れば私がその席を埋めて買い入れてもよろしいです」

「そうか確保できるなら早めに手当てをしておこう」
4人はコメディ・フランセーズまで歩きながら打ち合わせをしてとりあえず正太郎がお金を出して置くことにした。

使節団のうち公邸にいる理事官の肥田為良に話して明日中に希望者を聞いて席が足りないときは手当てができるか調べる、少ない時は正太郎が席を埋めると言うことになった。

正太郎はぎりぎりまで待って人を集めても100年も当たっている御馴染みのオペラには明日といわれても行きたい人は大勢いると踏んだ。

最近エメの影響でそういう話もマダム・デシャンと話す機会が増えて情報だけは豊富な正太郎だった。

M.ペランはすぐ手配をしてくれ、サラが楽屋入りをしてきたらその分も取れるようにしてくれた。

ビエ販売窓口はすぐさま予約券を発行してくれ、左右両側に2部屋ずつ計24人分、椅子席8席分の32名合わせて1120フランの支払いを正太郎が代行した。

シャンゼリゼの公館へ向かい肥田理事官に話をしていると大久保卿が戻り伊藤の機転をほめ、早速オテル・ド・ジブラルタルにいるはずの木戸と山口の両副使のもとへ福地を連れて一同と出向いてくれた。

「今の当たり狂言を止めてもう入れ替えのオペラをやるのか、もったいない話だな」

「政府の管轄の劇場ですからうけたと言ってそうもいかんのでしょう。でもいい機会ですお世話になったM.シャノワンにM.コンセーそれにM.マラーなどの方を招待できますぞ。彼はそのオペラも熟知しておられるだろうとショウもいいますので楽しんでいただけるでしょう」

「此方は岩倉卿のご都合しだいで我々4人が部屋を分けて接待もできましょう」

「そうだな、では理事官とも相談してその日は午後に予定を組まないように今から通達をなして誰をどのように接待するか振り分けましょう。村田君折角のサラ・ベルナール嬢の申し出でもあるからその部屋は君と長田君、ショウに任せるからパリでお世話になった人を残りの席へご招待しなさい。できるだけご婦人方をな。我等のほうもご夫人ご同伴と申し出る予定だ」

「二部屋ともお任せ頂いてよろしいのですか」

「勿論だとも、考えてみたまえ伊藤君、君たちを招待されたのにわが国の者ばかりよりこの国の人たちも招待したほうが盛り上がるという物だ」

木戸は物分かりのよいことを話し「さて人選に困りましたな。誰を何処へと言うのは田辺君と何君、福地君に任せてしまいますか」

「そうですな1部屋に通訳ができるもの1名副使1名、招待客ご夫妻、の4名は決まりでしょう。岩倉卿ほか理事官にどの部屋へ入って頂くかを決めていただきましょう、椅子席は身分の下でも尽力していただいた方をやはりご夫人同伴でお呼びすればよろしいでしょう」

「さすれば8家族がご招待できますな」

「左様左様、それ以上となれば大事になりすぎてしまうから、よい数字と言うことでありましょう」

山口がその様に話してパリは芸術の都というがあのオペラ座が完成していないのは残念至極でござるといかにも残念そうに話した。

「しかし中を見学したが大きいでしたな。5段の観客席で二千以上もの座席が有ると言うのはすごい。コメディ・フランセーズも前には二千人が収容できたというが其れを上回る上に建物も名古屋、姫路の城にも勝る豪華さだ」

正太郎はそのふたつの城はベアトや蓮杖の写真館で見たが色がわからないので豪華なのかどうかは判らないが規模ははるかに城の方が大きいとおもうのだった。

「正太郎では会計から立て替え分は出してもらいなさい」

木戸が大久保の了解を得てその様に取り決めてくれた。

「今度は花束その外はいらんでしょうな。伊藤君どうおもうね」

「木戸先生今回は不要におもいます」

「そうかでは今回は我々も観客としてよりも接待をする側としての自覚を持って行動してくれたまえ。会計にその日の部屋での接待の予算と何を用意すべきかも調べて齟齬の無いようにしてくれたまえ。そちらは伊藤君に任せるから」

「かしこまりました。田辺さんとも話し合ってお役目を果たします」

正太郎は偉い人も大変だと感じた、遊びで観劇もできないのでは気が休まらないだろうと思ったがそうでもなさそうな伊藤の顔つきだった。

大久保はまだ此処にいると言うことなので福地が大久保の代わりに田辺に話についていき会計とも打ち合わせて正太郎に50フランの金貨で支払いをしてくれた。

福地はヴァンセンヌの森と城のことを伊藤に話し、調練場の様子も話してその規模についてもパリ周辺の施設の事と比較しながら説明した。

「しかし陸軍はフランス、プロシャとも優秀だがどうしてこちらが負けたのかの研究を大山さんはどのように報告されたのだ」

「この間岩倉様ほかの方へは一に準備だと話されました。プロシャはその準備に国境への線路の施設を優先させ、機関車その他の輸送手段が調わない間でもその連絡網を先に準備し円周を描くように連絡網を完備し、少ない機関車を有効に動かしたそうですが、フランスはその機関車を戻すのに手間どったので多くの兵を国境に送れなかったことや、物資の輸送が遅れたと報告なされています」

「兵の強弱、兵員の数よりも兵站が調うかどうかが勝敗に大きく関わるか。パリの防衛も100年前には通用しても今の近代兵器は日々発達し、砲弾の到達距離は伸びているからな。わが国は陸軍より海軍に力を注げという勝さんの言葉がいまさらのように重要だな。日本に戻ったら勝さんをもっと活用してもらえるように木戸先生に話しておこう」
鮫島がやってきて「実はこれは我々とゆかりのあるナポレオン3世皇帝ですが1月9日の日にカムデン・プレイスでなくなったそうです」
「イギリスにいた時には元気だと聞いたが皇帝の支持者にはいたい話だな」
使節団の中には彼を支持していたものもいたようで一時の沈黙が有った。

村田や長田に福地を誘って伊藤が「遅くなった昼夜兼帯の飯にしよう」と正太郎にまだ行っていない様な店で日本人は余り知らないところは無いかと話しかけた。

正太郎が名前を次々挙げても福地か伊藤はだれそれが行ったと話したと言って、中々決まらなかったがアスティエ(Astier)という名は聞いたことが無いと全員が言うので其処へ行ってみることにした。

5人で話しているところへ大久保が帰り「腹が減ったがどこか行かんか」と誘った。

「今、正太郎に日本人が知らない店を知らないか話させていましたがアスティエという店はご存知ですか」

「いや知らんな。其処はいい店かな」

「特にワインの充実した店で私のメゾンデマダムDDのワイン倉とも関連があるいい店です。私は2回行きましたがレピュブリック広場の先の11区の落ち着いた店です」

「其処はコースでなければ駄目かな」

「いえ好きな物を注文して大丈夫です。それとレストランでは何処でもシェフドランかコミドランと相談してみれば好き嫌いにコースでも短縮も可能です」

「そうなのかどうも話しべたなのか勧められた物をそのまま食べてしまう」

笑いながら馬車を2台呼ばせてアスティエへ行くことにした。

大久保の馬車に正太郎を乗せ伊藤の馬車は村田と福地に長田の4人が乗り込んだ。

「正太郎、今まで他に人がいて聞けないことが多かったが、山城屋のことに付いて知っている事を話してくれ」

「承知しました」

正太郎は横浜時代に係わったと思われる奇兵隊に絡んだ事件などや麻薬事件さらにパリでの行状などを知りえる限り話した。

「そうかそれでは鮫島君が悔しがるのも当然だ、木戸さんとのこともあり山縣の台頭を何処まで押さえられるかわからんが出来得るだけの手は尽くそう」

「ありがとうございます。横浜以来の気がかりもそれで全て解決いたします」

「信吾にも言って横浜には彼らの手をつけさせず、君たちのことは必ず守らせてもらう」

そうかその心配も有るがこの人が請け合ってくれるならその心配は起きるまいと思うのだった、今でも西郷さんたちの庇護下にある虎屋は安全だが大久保が引き受けるなら其れは磐石で伊藤も安全となるだろう。

ゆったりと進む馬車は20分ほどで店に着き、6名の席があるか尋ねて見ると今席が空きましたのですぐお入りに為れますと言うことですぐ庭の見える明るい席へ案内された。

カクテルで前菜を食べ思い思いに頼んだ料理で満足する一同はデセールを止めてチーズでシャンパンを飲んだ。

長い外遊で様々なチーズになれた一行はアオカビの入ったチーズやヤギのチーズも試したそうだ。

フォアグラとポロ葱、白ポルト酒のジュレは大久保はじめ頼んだ者を満足させる出来であり、他の物にした村田を悔しがらせた。

「次の機会がわしや長田君には有りますからな、まぁ良いでしょう」

そんな村田に大久保は愉快そうに笑ってシャンパンのお替りを勧めた。

馬車で公館へ向かう大久保や長田、福地に分かれて正太郎は物足りないと言う伊藤と村田をタンプル大街のジュモーの隣のカフェバランタンへ連れて行った。

ジュモーの飾り窓に見えるプペ・アン・ヴィスキュイ(poupee en biscuitビスクドール)に関心を持った伊藤は「娘のうぶこ(生子)への土産にほしいが高そうだな」村田も其れを見て衣装がだいぶ手が混んで居りますな」と自分もほしそうな顔で覗き込んだ。

「お二人とも此処はお国とは違いお手元が忙しいでしょうから、私が立て替えますよ。国へ帰ってから清算していただければ私は其れでよろしいのですが」

「そうかそうしてくれると助かるな。娘は6歳でな」

「そうでしたかわしの所は5歳でございますよ。何か送れば父の顔を思い出してくれるでしょう」

「左様ですな、わしなぞアメリカへやられたり彼方此方へ飛ばされたりで家に帰ってもすぐには近寄ってくれませんのじゃ」

3人で中に入ると店員はあせっていたようだが正太郎が流暢に言葉を操れると知って盛んに自分たちの人形の自慢を始めた。

ロンドン万国博覧会で金賞を受賞其れはジュモーの衣裳が絶賛された証で、パリの万博でも賞賛されたと様々な人形を持ち出し最新作の人形を見せた。

「人形は12フランです。着せ替え用の衣装は4フランからで承ります」
3人はエッと驚きの声を上げた、価格くらいは店員の言う言葉が理解できる二人もだが正太郎もそんなに安いかと驚きの声をあげ顔を見合わせた。

貴族やブルジョワが特注で作らせる人形には1体100フラン以上の物が有ると常識として正太郎はじめ伊藤たちには有ったのだ。

それではと伊藤と村田は二対の人形とそれぞれに3着の衣装を選んで包んでもらった。

正太郎も明子さんへお土産と同じように選んで包んでもらい包みの上にそれぞれの送り先の名前を記入しておいた。

人形はリシュリュー街68番地のフランス郵船へShiyoo Maedaの名で留め置きしてもらうことにして配達を頼んだ、最近契約で倉庫へ買い集めた品物を置いてもらうことにしてあるのだ。

「ではドレスと同じ便で送らせて頂きます」

「頼んだよ」

店を出て隣へ腰を落ち着けビールとソーセージにジャガイモのフライをたのんだ。

「安いのには驚きましたな」

「左様であの見た目と店員の申しようでは50フラン以下のことはあるまいと思いましたな」

二人は代わる代わるそういって正太郎に「同じような人形の店はあるのか」と聞いた。

「スタイナーとゴーチェと言う店がありベルリンでも陶器の同じような衣装を付けた人形があるそうです」

「何か違いは有るかね」

「私の見た範囲では顔つきに違いが有るくらいでした」

「なぁショウ、ついでのことに家内が贈り物に使えるように手紙を書くから5体ほど集めてくれんか。其れをドレスと一緒に送ってほしいがかまわんだろうか」

「よろしいですとも、間違いなく自分の眼で見てよいものを選んで送らせて頂きます」

「頼むよ、国へ戻ったら間違いなく支払うよ」

村田も同じように他の店の物を選んでくれと正太郎に頼んだ。

この頃のパリにはスタイナー(Jules Nicholas Steiner )とゴーチェ(F Gaultier )にジュモー(Pierre Jumeau)のほかにもパニエ(Pannier)、メゾン・ユレ(Leopold Huret)、シュミット(Schmitt)、ブリュ(Bru Jeune et Cie)、クレイモン(Pierre Victor Clement ),ペロン(Lavallee Peronne), ロメール(Marie Rohmer)など幾つかの人形工房があり子供たちの夢を豊かにしていた。

「明日はフォンテンブローじゃ」

フォンテーヌブロー宮殿(Palais de Fontainebleau)はリヨン駅からほぼ80分ほどだ。

「明日はわしがお供の番じゃから田中君にその随行員がぞろぞろついてくるのだ、村田君も明日は東久世様が行かれるのでお供だから正太郎の出番はなしじゃ」

村田も伊藤も明日は駅に9時の集合といわれているので、その日は深酒をせずオテル・ダルブへ9時には戻り正太郎とロビーで暫く話をした後早寝をしたようだ。

その日曜日のパリは曇っていた。

エメの部屋で目覚めた正太郎は岩倉様の随行員が代わっても、いつも先頭に立って廻るのは大変だといまさらのように思った、天気が崩れそうに思えたが列車に宮殿の中だから天気が崩れても不自由はしないだろうなと思いエメと久しぶりにのんびりとすごそうと決めた。

9時過ぎには街は明るく成り出してきた。

「サラの家に久しぶりに行きましょ」

のんびり二人でと思っていた正太郎に昨日サラとモーリスに出会って今度の出し物はフィガロだと話し、モーリスが逢いたがっていたと話すと正太郎の思惑と違いそう誘って支度をさせた。

馬車に乗ってフォーブル・サン・トノーレ街のダロワイヨにより、マカロンとトルテを買い入れてからパリの街を横切ってアメリックのドゥ・クリメ街へ向かった。

ブリタニキュスは後5回の舞台で終わりフィガロの稽古が始まるのでサラは忙しかったが二人の歓迎のために仕度をして天気が崩れそうな中を傘を持って公園にピクニックに出かけた。

禿山の並木道を5人で歌いながら元気に歩き、池に出るとそこに池の周りを廻る馬車が止まっていたので其れで池の周りを一周した。

岩山の展望台の寺院までは天気も悪いので上らず東屋で持ってきたお弁当を広げた。

岩山ほど見晴らしはよくないが北駅に東駅その先にあるモンマルトルの方向はよく見えた。

「今度は晴れた日に岩山に上りましょうよ。あそこまでモーリスは1度しか上ったことが無いから」

エメとモーリスは約束を交わして、風は無いがやはり1月のパリは寒くすぐに引き返すことにした。

フィガロの話をエメと話して使節団がビエを購入して自分もこの間の席をM.伊藤とショウにとったことを話して「この分は誰が使うの」という話になった。

M.伊藤は使節団のほうで世話になった人を招待するのでサラが取ってくれたうちの1部屋は僕、もう1部屋はM.村田にM.長田。後どうしても公使館のM.鮫島にM.マーシャルを呼ぶので後7人はこれから選ぶ予定です」

「あらそれって男の方ばかりね」

正太郎が夫人同伴で8組を招待される予定のことを告げてサラが呉れた席はふた席を空けて後5人出来れば夫婦もしくは女性を招待する予定だと話した。

「ショウ、どうして二席あけておくの」

「使節団のほうで飛び入りの招待をすべき人が出たらそちらから押し出された人のための予備です。だから明けておいて余裕を持たせようと思います」

「当然エメは入れるのでしょうね」

「もとよりのことです。後僕の勘ではMlle.マック・ホーンがその頃出てきそうな気がするのです。出来ればベティにも見せてあげようと考えています。其れを口実にエメに見立ててもらってドレスを買ってあげようと今思いつきました」

「ショウは正直ね。普通はもっと前からそう思っていたような振りをするのよ。だけどその娘は誰なのかしら」

まだ話したことがなかったかなと思ったが姉弟のことを知っていてもらえばいい事もあるかと経緯をエメと交互に話した。

「あら伯爵のお孫さんなのね」

サラはその様に考え深げに行って「一度その方にお会いしたいわね。25日で今の舞台は終わりで今月は休暇が出るからメゾンデマダムDDに訪ねしていいかしら」と正太郎に聞いた。

「下宿人はもとより一同で歓迎しますよ。時間も約束して良いですか」

「ディマンシュの午後の2時では如何かしら。エメもこられるでしょ」

「伺いますわ、ショウは大丈夫かしら」

「使節団しだいですがもし伊藤様の都合がよければ招待して良いですかね。ワインの倉に興味がおありでしたから」

「私はにぎやかなの好きよ」

ドゥ・クリメ街近くの疾風のアルマンの馬車屋で馬車を頼んでエメを家まで送り正太郎はソウル街へ戻った。

サラが来るとマダム・デシャンに報告するとその晩の食事に下宿人にシャンパンをついで廻り、したくはどうしようかと今にもサラが来るようにはしゃぐDDだった。



 2008−05−26 了
 阿井一矢


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