Paris1872年11月22日 Friday
前回の手紙を追いかけるように横浜のミチから手紙が着いた、9月1日の日付で前の手紙を出した日の12日後の差出だった。
M.カルノーと婚約と最初に書かれていて読み進むうちに正太郎には微笑みが浮かんできた。
噂でしか無かったMlle.ベアトリスがM.カルノーと婚約した報せなのだ、10回目の申し込みを受けて承諾したそうだ。
Mlle.ノエルもその手紙の間に挟みこむように嬉しいことだと書いて来ていた。
結婚式は来年3月新居は寅吉が世話をして今の場所に新しい家を二人の希望を聞いて丸高屋で建てる事も決まり神戸にいる太四郎も設計に加わりたいと横浜に来ていてM.カルノーへ申し入れて帰ったそうだ。
正太郎は早速お祝いの手紙と電信を打ち、婚約祝いにうろ覚えながらベアトリスに合いそうなタイユのドレスをサン・トノーレ街に出かけて誂えた。
「ムッシュー、それでタイユはこれでよろしいですか」
「そうなんだ、Yokohamaに本人が居るので正確にはわからないのだがアン・サンチュールで腰を締めるようにしてもらえるといいのだが」
正太郎は昔から体形の変わらないベアトリスが今もそのままで居るだろうとは思ったが、体にぴったりなものより緩やかなものを選んでタイユの指定をした。
「かしこまりましたそのお方が受け取って喜ばれることは間違いありません。価格は160フランでお受けできます。5日で仕上げますが途中で見に来られますか」
「ブティック・エンペラーの名前を信用しますよ。では先払いで160フラン置いてゆきます」
「かしこまりました、後は掛かることは無いでしょうが前払い金としてお預かりいたします」
160フランとは言いながらもこちらの顔色を見てまだ要求しそうなことを言い出した、金持ち相手の高級店と言うのは困ったものだと正太郎は思った。
「君それなら今正確な計算を出すことが出来ないかな」
その店員は少し考えをする振りをしていたが、金持ち相手にいつもならタイユ合わせのたびに値を吊り上げようとしているのが今回は無理と判断したようで「ムッシュー、私の責任で160フランでお渡しするように努力いたします」とまだ言葉を濁しながらも請け負った。
「頼みます。では28日に取りに来ますのでお願いします」
受け取りを出してもらい店を後にしてセーヌの川岸へ出た。
正太郎はこの日久しぶりにオムニバスと馬車トラムを乗り継いでサン・トノーレ街まで出てきたので川岸へ出て秋の深まり行くパリの夕暮れを歩きたかった、パリへはいったのは5月18日、半年が過ぎたばかりなのにいろいろなことがありすぎたと感じていた。
横浜に居ては味わえない食事も飽きが来ないが、たまには握り飯で沢庵が食べたい、お茶漬けに鮭の塩引きなどと贅沢な願いなのだろうかと思ってしまうのだ。
西園寺に約束した2時にはまだ間がありのんびりと横浜を思い出しながら歩くうちにテュイルリー宮殿の焼け跡に残ったオレンジ温室の脇へ出ていた。
テュイルリー河岸の船着き場の脇でアイスクリームを食べている男がいた、正太郎は寒くないのかなと見つめているとその男は箱をゴミ捨て場に投げ込んで振り返った。
「やぁ、M.ショウじゃ有りませんか」
「ウイ・シトワイヤン、確かシェ・カフェー・ブライアンの人だよね」
「ええ、あそこで働いていたマキシム・ジェラール(Maxime Gaillard)です。ムッシューはこの近くでしたか」
「僕はモンマルトルのソウル街だよ。今日はサン・トノーレ街まで買い物に来てこれから川向こうの友達のところに行くのさ。今いたと聞こえたけど、店をやめたのかい」
「何時までも使われていないで自分で店を開こうと思いましてね。今日は店探しですよ。余り喉が渇いたのでイモダ・アイスクレーム・パーラーで肉汁入りのグラッセ(Glace)を買いましたが、夏と違って河岸で食べるには向きませんな」
イモダはイタリア人がやっている店で、さまざまな味のものを出すが正太郎は素朴な横浜で食べた味が一番の気がするのは身びいきなのだろうか。
「もうじきストーブが焚かれるようになれば部屋で食べるのも良いですよ」
パリでは横浜と違い子供の小遣いでもためて買える40サンチームだ2朱に満たない7匁だ。
「いい場所でもありましたか」
「其れがね思ったように行きませんのさ。神さんの親が金を出すといいますが中々予算どおりには行きませんや」
「店が決まって開店の日がわかれば何人か連れていきますから、ジュリアンの店へ連絡してくださいよ。彼に言えば仕入れも面倒見てくれますよ。カフェーやテの卸問屋にも顔が聞きますからね」
「そいつはありがたい。M.ジュリアンはルピック街でしたね」
「そうです。クリシーから入ってすぐですから、彼が居なくても僕の名を言えば連絡も付きますから相談に乗りますよ。ところでM.ジェラールはカフェーやテを入れるだけで料理は出来ませんか」
「ギャルソンの前はコックが本業でしてね、あのコミューンの騒動で働いていた店が焼けてからですよカフェーに勤めたのはね」
「それなら料理店を開いてもやっていけるんだ」
「其処まで腕に自身は無いのですよ。親方が生きていればもう少し修行が出来たのですがね。途中で挫折した口ですよ。ル・プティー・ムーラン・ルージュに居ましたが其処で軍隊に取られましてね、仲間には天才的な奴も居ましたぜ。この間あったら早く自分の店を持ちたいといっていましたが、腕がいいだけでは今のご時世中々ね」
マキシムは仲間の名がジョルジュだといったが今どこで働いているかは知らないようだった。
くれぐれも連絡をして呉れる様に話し、正太郎は河岸沿いにポン・ヌフまで出てセーヌを渡った。
サン・セヴラン教会で待ち合わせの約束をしていたエメと落ち合いリセ・ルイ・ル・グランへ向かった。
すれ違う学校帰りの友人たちは正太郎のほうを気にしながらも立ち止まらせては話しかけてきた。
「エメ、何か忘れ物なの」
「違うわ、これから彼のお友達のところへ行くの。ムフタール通りの先だからマドレーヌの丘を此方から廻ってゆくの」
出合った何人かがエメを呼び寄せて正太郎のことを散々冷やかしては分かれていくが、そんなことが3回も続いて「これじゃ待ち合わせをほかの場所にすれば良かったわ。ショウを見せびらかして歩いているようなもんだわ」
「自分でショウに分かり易い場所だからと、選んだのに僕にあたるなんて可笑しいよ」
そういった正太郎にエメは腕を強く掴んで引き寄せて「こうなったらどうぞ見てくださいとこうして歩けば、遠慮して誰も声をかけないかも」
そういう言葉が聞こえたようにまた呼び止められて後ろを振り向けばお馴染みのピサロ先生にジェローム先生だった。
「仲のいいことじゃな。ルフェーブル先生の絵はだいぶよい出来だぞ。エメの表情が素敵だがあのマンドリンはなぜ弦が切れたのかな」
「ルフェーブル先生は写真を撮った後、どうも気に入らんとマンドリンの弦を何本か切りながらポーズをつけてやっとあのデッサンをしました、少し木に寄りかかった様に見えるのが御気にいったようでもう一度明日の午後にデッサンのやり直しだといっていましたがもう色が入っているのですか」
「そうじゃが、う〜んもう1枚同時進行で描く気かもな」
「2枚描くなら1枚モデル代に貰おうかな」
「そりゃどうかなあの先生中々確りしとるからな。それに買うとなれば高いぞ。ルノワール君やモネ君のようにはいかんぞ」
暫く立ち話をしてピサロ先生とジェローム先生に別れたのは1時40分だった、二人が見えなくなってから時計を覗いて「どうやら時間ぴったりにつきそうだね。これ以上引き止められなければだけど」というまもなく何人かが声をかけ中には正太郎の腕をとるエメに遠慮なく話しかけながら同じ方向だからとローモン街をどこまでもついて来る娘までいた。
「どこまで行くの」エメが痺れを切らして聞くと「あなた方がどこまでいくか知らないけど、その人がよく行くドーベントン街よ。彼、私が居るアパルトマンでお昼を食べたわ」
その言葉を聞いて正太郎が首を伸ばしてエメ越しに覗くと向こうも同じようにしてこちらを見た。「確かスペインから」
「そうブランカよ」
「マドモアゼル・ブランカ・オルディアレスだったよね」
「わぁ、覚えていたんだすごい、あれだけ沢山の人が居るのに名前を覚えられるなんて貴方の彼ってすごい人ね」
「でも良く行くは余分だよ、何回か行ったのは確かだけど」
「そう、今月は来ていないの」
エメは黙って正太郎の腕に力を入れてきたが何も言わずに二人の話を聞いていた。
「今月は一度も訪ねていないよ」
正太郎はノートをサックから出して日付を確認して10月11日のヴァンドルディ(Vendredi金曜日)だから1月前だね」
アリサと会ったのはそのほかに何度かあるがアパルトマンにたずねたのはあのアイムが諦めるといった日だから嘘ではないのだ。
アリサと最近会ったのはついこの間の15日だ、ブローニュの森で落ち合いロンシャン付近の丘を散歩して渡し舟で蛇行してきたセーヌを渡りシュレーヌのヴァレリアンの丘の下にあるアリサの別荘だという小さな家に向かった。
敷地の入り口に栗林にオレンジらしい樹に囲まれた小さな家で鍵を受け取り夕日を受けて御伽噺のような田舎家へ入ると炉辺には火が焚かれ鍋からはいい匂いが部屋を満たしていた。
暖かな部屋にはテーブルに隣の部屋にシャンペンが冷やされていると書付があり、アリサは其れを持ってくると正太郎に栓を抜くように指示した。
その夜は満月、二人はその家に泊まり、夜中のパリの灯が見える二階で夜遅くまで語り合った。
何か感ずいて居るのかと思ったが、ただ口が軽いだけの娘のようで「エメそのアパルトマンはお昼が安くて食べ放題なの、お友達を急に連れて行っても2人や3人は問題ないのよ。40サンチームで食べ放題なんて素敵でしょ。来週マリー・クリスティーナも誘うから一緒に行きましょうよ。15分くらいだから往復しても1時半の授業に充分間に合うわ」と誘った。
「良いわね。私も沢山食べるから安いのは大歓迎だわ」
嘘つけと今度は正太郎がエメの腕をぎゅっと引き寄せたが知らん顔で「ブランカ、何度言えば覚えるの、マリー・クリスティーナじゃなくてマリー・クリスティアーヌよ」
「ふ〜んだ、その位いいじゃない。彼女は気にしていないわ」
「それはもういい疲れて諦めたのよ」
「なら同じよ」
ローモン街が突き当たり3人は左へ曲がってアルバレート街へ入った。
1番地の西園寺のアパルトマンの前で此処に訪ねる人が居るからと別れの挨拶をすると「来週のランディ(Lundi月曜日)はお昼の約束よ。此処から5分も掛からないから」そう言って足音も軽く去っていった。
「何しに行ったの」
「アリサのとこかい」正太郎はノートをエメに見せた。
「アイムのお使いストレー、アリババ3個ピュイ・ダムール4個、ピュイ・ダムール3個ミルフィーユ4個、14フラン80サンチーム可笑しな数ね」
「アリサとカテリーナにセルビア大公の従兄妹という女の子それとアリサのメイドたちの分とアパルトマンの管理人のM.ブロティエの家族の分だよ」
エメは半信半疑ながら可笑しなことならノートに書いておくはずも無いだろうと判断してくれたようだと、正太郎は勝手に思うことにしてアパルトマンの入り口の管理人に断って三階の西園寺の部屋のドアをノックした。
執事役の高梁がドアを開けて「お待ちしておりました。何時もながらショウは時間が正確ですな」そういって中へ入ると「この方がMlle.エミリエンヌ・ブリュンティエール様ですか」と聞いた。
「そうです。僕の大事な人Mlle.マリー・エミリエンヌ・ブリュンティエールです」
「おう、失礼しましたお嬢様。どうもフランスの方のお名前はたいそう長くて覚えるのが大変で」
「いえ高梁様、僕のほうが伝えた時にマリーを付け忘れました」
「ショウは何時もながらお優しいことで」
広間には西園寺は居ず、ベランダから声がして高梁に案内されてベランダに出た。
三階とは思えぬ広さに不思議そうな顔をすると「ショウは此処へ出るのは始めてかい」
「ええ、この間来たときはカーテンが開いておりませんでしたので知りませんでした」
「あのソファが邪魔をして脇からしか出られないのさ。此処の下は二階の風呂場と台所があるのさ。おかげで部屋は夏でも下から暖められることが無くて助かったよ。此処だけでも一部屋分はあるからね。マリー・エミリエンヌ・ブリュンティエール良くいらっしゃいました。事務所開き以来ですね」
「M.西園寺お久しぶりでございます」
「おや、今日は表情が硬いね。痴話げんかでもしたかい」
「そうでは有りませんが此処へ来る間リセの友人にからかわれましたので」
「そうかショウのことだね。彼は優しいからね、いろいろな女の人がショウのことを話題にしても気にしないことさ。この男こう見えても君にぞっこんだよ」
西園寺は日本に居た時にフランス語の基本を学びこちらに来てどうやら通じるくらいだという割りに急速に言い回しにも進歩が見られていた。
エメは優しい西園寺の言い分に納得したか話し方にも余裕が見え、其れを察した西園寺の話題もエメの話が中心となって行った。
「それでヂアン・ショウは最近忙しいようだが」
正太郎が最近の仕事の内容やこれから何がしたいかなどを話し、サラの近況に今日出会ったマキシムという男の話をした。
「そのジョルジュと言うのはもしかするとジョルジュ・オーギュスト・エスコフィエという男かもしれないよ。高梁と同じくらいだからパリでは小さい人だけど中々面白い男で、今はスフィンクスで働いているよ。腕はぴか一だね、料理は斬新だし東洋から来た僕でも感心するくらいだから、これからのパリを代表する料理人になるだろうと弁務使公館のM.マーシャルがそういっていたよ。ところで弁務使公館へ最近行ったかね」
「今月はまだ伺っておりませんが」
「そうか日本で山縣が陸軍中将近衛都督の職を免ぜられたのは聞いたね」
「はい其れはお聞きいたしました」
「今、山城屋に公金についての返済などについて横浜に到着しだい陸軍省の方で取り調べがあるらしいが、横浜に到着しだい身柄をどこが押さえるかでもめているらしい」
「いまだ長州の方々は山城屋をかばう気のようなのでしょうか」
「あの藩は金遣いが荒いからな。そのおかげでわれら公家諸侯も助かったことも有るが、公金も自分の懐も区別が付かんのは困りものだ。長州一国の時と同じ感覚では日本が潰れてしまう。しかし吉之助が山縣を弁護して陸軍大輔はそのままだそうだ。いま薩摩と長州が割れるのはふせがないかんというが、これが後々禍根にならなければいいのだがね。山縣が陸軍大輔の職に居れば山城屋のことも握り潰される危険もあるのだよ。佐賀は気が短くて勝負にならんし吉之助も嫌気が差せば前のように国に引っ込むと言いかねんからね」
若い西園寺はいろいろの国の長所短所を述べてから思い出したように「鮫島さんだがね」と思わせぶりに切り出した。
「彼も地位が上がることになった。名前も弁務使から弁理公使と成る事が決まった。体外的には今までと違いミニスター・レジデント(Minister Resident)と名乗れることになった。弁務使公館もこれからは公使館だよ。正式には神無月14日だから今月の14日からそうなった」
「其れではお祝いをしませんと」
「其れだ君、費用を持つ気があるかね。まだ僕は政府留学生で金の自由が利かんのだ」
「おっしゃっていただいて嬉しいです。それでどこがよろしいですか」
「さっき言ったスフィンクスはどうだね。26日にはベルリンに発つそうだ。それで忙しいだろうがディマンシュ(Dimanche日曜日)に店が開いていればどうかね。今日の帰りにでも確認してくれないか、駄目ならランディにしてもいい」
「分かりました時間はディマンシュなら昼間でもよろしいですね」
「そうディマンシュなら役場関係とは関係なく開くことも出来るしバーツやサラ・ベルナールのお二人にも出ていただきやすい」
「バーツはともかくサラはどうでしょうか」
「そうか、今はよくないかな。だが元気付けてあげたい気も有るのでなぁ」
「よろしいですわ帰る道筋でスフィンクスを予約して、そのままサラのところと連絡をつけますわ、勿論バーツとも。其れから此方へは連絡をいたしますから鮫島さまへは西園寺様からお願いいたします」エメは援け舟を出すように話しに加わった。
「よろしいでしょう。急ぎですからどのくらい呼べばいいかな、公使館から3人、僕と高梁に君とエメ嬢。バーツにサラ・ベルナールとこれで9人」
「今パリにMr.ラムレイもリリーもいますのでジュリアン夫妻を加えて13人」
「そうか念のため20人で予約を取ってくれないかな、だいぶ散財させるようだがきっと埋め合わせするよ」
「お気にしませんように。これは私も鮫島さまとのYokohamaからのお付き合いの続きでございますから」
話しは決まり今日呼ばれた用事にやっと入れることになった。
「ハハハ其れはね。たわいも無いことなんだよ、米が届いてね、君の顔を見てからすぐに高梁が仕度をしてくれているのだ。彼の家は代々僕のところの賄いでね、腕はいいのだ。パリにも鮭が手に入ると言うので探していたら手に入ったので塩引きに彼がしたのさ。そいつが今日明日が食べごろだというので色々と料理をしてくれるのだ高梁と2人で鮭ばかり食べていては堪らんので君たちを呼んで片付けてもらう手伝いをしてほしいと呼び寄せたのさ。エメが口に合うか知らんがジャポンの味も試していただこうと思ってね」
その話をしているとメイドが二人付いてテーブルの用意が出来ましたと高梁が広間から呼びかけた。
「メイドも雇われましたか」
「そう通いでね。僕と高梁だけだと全て洗濯屋に出しているより、通いで来て貰う方が経費が掛からんと言うので頼んだのだ」
テーブルに着くと「コースとは違いますので順番にかかわらずお好きな物だけでもお召し上がりください」とエメに話しワゴンからまずサーモンのバターで蒸し焼きにしましたと片身が出てきて其れを切り分けてくれた。
ソースはこれをお使いくださいと醤油が出された。
エメは初めてだったがソース・デュ・ソジャ(Sauce du soja醤油)をかけて最初は首をかしげていたがバターの香りに助けられ、食べているうちに美味しさを感じてきたようで「美味しいソースですわ。初めてのお味ですが魚にはあっているように思います」といってくれた。
その次にステーキが小さく切り分けられて出て大蒜の香りが少し強めだったがこれにも醤油を勧められて試して驚いた顔をして「大蒜がとても優しい味になりますわ、このソースはバターに合うようですわね」そういって西園寺に微笑みかけた。
「困ったなぁ、僕がバターになれるのに半年掛かったのに、其れがソース・デュ・ソジャと合うことで克服したんですよ。最初から日本の味が克服できては困りますな」
そういってホッホッホッと優しく笑った。
「だが次はそうは行きませんぞ」と脅かして出てきたのは塩鮭の焼き物だった。
正太郎は思わず涙が出たのをエメも西園寺も見逃さなかった。
「やはり懐かしいかね。僕も公家なぞといっても昔子供の頃は貧乏でね塩引きはご馳走の内だったよ」
「はい横浜でも函館からのものは貴重品でした。僕が働き出して仙台物を実家の母に届けた時のことを思い出しまして。失礼いたしました」
その涙をエメは立ち上がってスカーフで何度も拭って、優しく頭を抱きしめてくれた。
「いいねえヂアン・ショウは幸せ物だよ、ショウ言っとくけどエメを泣かすようなことをしたら僕が承知しないよ。エメもショウが言うことを聞かない時は僕に言いつけに来たまえ、懲らしめてあげるよ」
「いえそれには及びませんわ。私にはショウがなにをしても許すことが出来ます。ただ私には隠し事をせずに打ち明けていただきたいものです」
「おお、おお、参るねえ。君たちにはほんとに参るよ。僕も早く言葉を自在に扱えるようになって恋人を作りたくなったよ」
高梁はスープ用のカップに温かいご飯をエメには少なめによそい、竹を削った箸を出してくれた。
「さすがのエメもこれは使えまい」
西園寺はそういったがなにを隠そう煮た豆をつまむのに箸の使い方をとっくに教えておいたので、ご飯を口に入れるのには苦労していたが器用に鮭の骨をより分けられて西園寺は手を上げて嘆いていた。
今度は味噌に糠漬けでも出さないと駄目だよ高梁といって降参降参とおどけているうちに午餐会は終わりを告げた。
「この米はイギリスに入った岩倉公からの贈り物さ僅か二升ほどだがダイヤモンドをもらうよりうれしいものさ」
「貴重なものをありがとうございます。スペインの米は粘りが無い上に此方では粘りを洗い流すか、炒めてから炊くのでぱらぱらとして米という感じがいたしませんでした。一年もたたずに米の味を忘れるところでした」
「ははは、ショウは大げさだね。ヂアン・ショウというほうがいいかね」
「パリでは同じように通用します。Shiyoo Maedaのほうが僕らしくないといわれる始末ですから」
食後に魚ばかりだったからとポートワインが出されてビスクと一緒に話が弾んで居たが夕暮れが近づいたので「スフィンクスの予約を取りに行きます」とアパルトマンを辞去し、モンジュ街で馬車を拾ってシャトレ広場の先にあるスフィンクスへ向かった。
「此処は任せておいてね。知り合いが居るの」
エメはドアの前にいた背の高いヴォワチェリエに「こんにちはジス。セルヴィスのアロンは居ますの」と声をかけた、
「Mlle.ブリュンティエールお久しぶりです、今日はお食事ではないのですか」
「そう予約に来たのよ。お腹は一杯なの」
今お呼びしますとドアを開けて二言三言話していると小太りの老人が出てきた。
「マドモアゼル、まず中へお入りください。夕刻は魔が差しますぞ」
「ありがとうM.クローデル予約状況と日曜は今でもお店をあけているのか知りたいの」
「あけていますとも昼がよいですかな。それとも時間の指定がございますか」
暖かい応接セットのある場所で長いすへ二人をいざなって、給仕にカフェーを持ってくるように言いつけて予約台帳を広げた。
「20人の席を用意できるとしたら何時がいいかしら。予算はワイン別で400フラン」
「左様で其れは結構なお値段での会合でございますな。シェフも腕の振るいがいがあるというもので、ところでお聞きしますが明後日のディマンシュでよろしでしょうかな」
「そうよ、できれば遅いお昼ということで4時からお願いできないかしら」
「勿論Mlle.ブリュンティエールのことですから否やはございませんぞ。伯母様にはこのクローデルめ少年時代からお世話になりましたからな。今の貴方がどのように無理を言われても異なやを言うことはございませんぞ」
「まぁ、M.クローデルったらそんなに力をお入れにならなくとも結構ですわ」
コーヒーを持って小男というほどでもないがエメに比べて少し低いかという人がコック帽を小脇に抱えて出てきた。
「マドモアゼル、お久しぶりです」
「お久しぶりね、M.エスコフィエ、貴方最近評判がよろしいわよ」
「マドモアゼルにそういっていただくと嬉しいです。ル・プティー・ムーラン・ルージュで最初にお会いした時はパリに来られたばかりでした。私はその後は軍に入りましたのでそれ以来でございます。今日はお食事ではないのですか寂しうございます」
「まぁまぁ、日曜に会を開きたいのでそのお願いなのジャポンから来られた方のミニスター・レジデント閣下になられた昇進祝いなの」
「まさか此方の紳士でしょうか。まだマドモアゼルと同じようにお若いのに」
「違うわ」エメはにっこりと笑って正太郎の手をとると「私のいい人」といった。
「そのご招待する方はSamejima様という方よ。紙をいただければ列席予定の方のお名前をこちらのヂアン・ショウが書き出しますわ。ショウお願いね。貴方はヂアン・ショウで書いておいてね」
エメは笑顔で楽しそうに正太郎に頼んだ。
「それでお酒は別で予算は20人で400フラン。貴方に全てお任せするからそれで腕が振るえる余地が有るか検討してくださる」
「勿論ですとも予算はいくらでもというお客様より遣り甲斐がございます。そのご予算ですとフォアグラにキャビアも最上のものがご用意出来ますぞ。魚介は如何いたしますかな」
「海老が死ぬほど嫌いな人が居るのできれば魚は少なめに」
「かしこまりました子牛に羊に鴨に雉などいかがですかな」
「そちらは大丈夫ですわ。サラ・ベルナールもヴァルテス・ド・ラ・ビーニュもお呼びしたいのだけど、あの方たちの好みはご存知かしら」
「其れは奇遇でございます。ただいまデセールが出ておりますからもうじき終わる頃でございます」
「どちらが来てらっしゃるの」
「お2人でございます。実はサラ様ですが落ち込んでおられるのでヴァルテス・ド・ラ・ビーニュ様がお慰めに」
「どうかしたの。まさか終幕になったの」
「左様でございます。昨日急遽打ち切りになったそうで先ほどからお慰めに」
「では私とショウがお尋ねしてよいか聞いてくださる」
「かしこまりました」とシェフは帽子を被り直して去っていってすぐ戻り「席へご案内いたします」とエメを案内して奥へ向かった。
「全て書き出しておきましたが、この番号だけのところは来られるか分かりませんので開けておきますが当日ミニスター・レジデント閣下のお名前を言われた方はお通ししてください」
「Naonobu
Samejima様でよろしいですか」
「そうです僕はショウといってくだされば招待した人には通じますのでショウに呼ばれたという方も通していただけますか」
「かしこまりました。お二人どちらかのお名前が合言葉でございますな」
「左様です」
西園寺の住所を書いて簡単に全て解決済みとしたため、M.クローデルが配達を頼みに店の前にある便利屋へ頼みに行ってくれ、すぐに戻り「今出かけましたから30分で向こう様へ届くでしょう」と請け合ってくれた。
給仕が正太郎を呼びに来て話が終わるのを待つとサラの席へ案内された。
「ショウお願いがあるの」
「サラの言うことなら何なりと」
「ありがとう。お芝居が打ち切りになった事聞いた」
「今さっき聞かされたばかりです。驚いています」
「上演前から私にごてごてした飾りの付いた衣装を宛がうし、台詞は少ないし最悪だったわ。それで次のお芝居でもう揉めているの、相手役に超有名人をあてがい何とか私の名誉を挽回しろと言って下さる方も居るのだけど肝心の相手役が今回の有様を見て乗り気じゃないの。最も私が生意気なことを昔から言うので反感も多いけど」
「其れで誰なんです、そのお相手は」
「ジャン・ムネ・シュリー」
其れはすごいパリ一の伊達男で勇名をはせている売り出し中の二枚目だ。
「それで僕は何をすれば」
「今晩11時に来てほしいの。今晩これから打ち合わせがあるのよ。通りかかった振りでコメディ・フランセーズの前に遅れずにね」
判りましたと言わなければいけない気迫が篭もっていた、さすが女優は違うなと正太郎は思って必ず行くが日曜は出席してくれるか聞いてみた。
「馬鹿ねショウは。其れはもうエメに約束させられたわよ。貴方の役目はその交換条件。貴方のことは私たちの格好の話題なのよ。女優のお友達は貴方とお近づきになりたがっているわよ、気をつけることね。さもないとエメを泣かすことになるわよ、なんせ貴方は幸運の女神ならぬファローそのものですもの」
「ごめんサラそのファローって何の神様なのかな」
「そうかジャポンでは知らないかな。ペルシャの神様で幸運と財宝の神と言われているわ」
「ペルシャですか」
「そうペルシャ、今のアラビアのことよ」
正太郎はエメを送って時間を計っていくことを承知して、スフィンクスの二人の支払いを代わってディマンシュの会の約束の念押しをして外に出た。
「遅れないように来るのよ」念を何回も押してサラはコメディ・フランセーズの前で馬車を降りバーツは住まいのあるオスマン大街81番地へ送り届けた。
ルピック街へ出向いてジュリアンにはメゾンデマダムDDへは遅くなるので何処かへ泊まると連絡をつけてもらうことを頼み、バイシクレッテを一台とランタンを借り出して馬車に乗せ、ノートルダム・デ・シャン街まで向かい10時まで其処で時間をつぶした。
「早く行かないとサラが表で困るわよ」
エメに言われて慌てて服を着て正太郎が表に出たのはまだ11時に45分もある頃だった。
ランタンの灯を入れてポン・ヌフからサン・トノーレ街へ出て左へ曲がればすぐ其処のコメディ・フランセーズの前へ出るとやはり終演の看板が出され、昨日で打ち切られたことが書かれていた、時間は後20分もあるので、しばらく先へ進んで時間を見計らって戻ってきてオテル・デュ・ルーヴルの裏口にあるシャルトル通りの角で待つと、ほどもなく楽屋出入り口から出てくる人に混ざりサラ・ベルナールの一行が出てきた。
盛んに話しかける紳士を振り切りカンテラの明かりを不審そうに見ていたが正太郎に気が付いて駆け寄ってきた。
付いてきた紳士を早口で「ジャン・ムネ・シュリー」と正太郎に紹介して「このジャポンの紳士は私の幸運の神よ。いい所で出会ったわ。この次の出し物はきっと大当たりよ」
その紳士は怪訝そうに見ていたが「カジノで儲けさせてくれたと言うのはこの人かな」と聞いてさもあらんという顔つきで頷いて髭をなで上げた。
正太郎はサラもこういう人が好みなのかなと思ったが「ヂアン・ショウとしてサラにはお付き合いいただいています」
「あっそうか、君かジャポンの振りをしたがるシーヌで実は本当のジャポンだというのは」サラがその話をしているところを見ればこの人を信頼しているようだと正太郎は気が付いて「よろしくお見知りおきください」と改めて挨拶をした。
「其れでなんの用でここに居るんだね」
「ノートルダム・デ・シャン街に居る友人のところからモンマルトルのソウル街へ帰る途中です。今其処の看板を見てサラはどうしているかなと考えていたら皆様が出てくるのに出会いました」
その頃には遠巻きにしていた女優陣から何人かが走りよってきた。
正太郎の周りを取り囲んで自分の名刺に住所を書き込んでポシェに投げ込んで走りさって行ったが、この間オウレリアの誕生会でカンカンを踊った中にいた二人はまだ正太郎のバイシクレッテを支えに寄りかかって話を聞いていた。
「あなた方家に戻らなくていいの」
サラに言われると正太郎の腕を掴んで「サラと同じように私たちにも幸運を授けて頂戴」と可愛い顔を近づけて甘い声で囁いた。
二人からは甘い香りがしてアリサの色気にも負けない妖気にそそけ立ち、身体がかっと熱くなる正太郎を見ていたサラは「それならショウをつれてお酒を飲みに行きましょ」と二人を誘って「M.シュリーどうかこの人の幸運を信じて仕事を引き受けてくださいませ」と頼んだ。
「君たちがこの男の幸運を信じるのは勝手だが、僕はこの若い男を知らんのだ。幸運が有るかどうかカジノへ行って確かめよう」
そういって自分の馬車を呼んで正太郎のバイシクレッテのランタンの灯を吹き消して馬車に積み込むと「君はサラたちの馬車で附いて来た前、行き先はグラン・ブルヴァール、カジノ・ローマ」と颯爽と馬車に乗り込んで出発した。
馬車に乗り込んだサラは二人に遠慮しながらも「お金を持っているの」と聞いてきた「私今日は50フランしか無いわよ」「心配ないですよ」そういって肩にかけたサックから金貨の詰まった袋を取り出した。
「此処に300フラン。それと此処に300フラン」と財布にある50フラン札を見せた。
「600フランね」
「まだありますよ」
そういって服の襟を探らせて100フラン札を引き抜いてもらった。
「もう1枚反対側」体をよじりそれも抜いてもらった。
「いつもこんなに持ち歩いているの」
「さっきエメから300フランは日曜の会のために預かってきましたから、今日使っても僕のお金を明日引き出せばすみますよ。君たちもこれで遊んでくれたまえ」
正太郎は2人の若い女優に50フラン札を渡してサラにも100フラン札を渡して「幸運を」というと3人も声をそろえて「幸運を」と正太郎を励ましてくれた。
正太郎は自分の幸運がこれで去るのか、まだまだ続くのか運試しだなと思ったがサラが傍に居る時に悪運に見舞われたことは無いのでサラとファローに祈った。
馬車はフランス郵船の角を右へ曲がりサラが握る手の熱が高くなり其れが正太郎にも伝わってきた。
BNCIの銀行らしからぬ正面玄関を見ながらヴァリエテ座のあるモンマルトル大街へ出れば其処がグラン・ブルヴァールと人が言う不夜城の続く繁華街だ。
右へ曲がると500メートルも進まないところにカジノ・ローマがある。
M.シュリーは顔馴染みらしく中へ悠然と入り200フランを10フランのポイントに換えてルーレット台へ向かって「君も此処でやり給え」と自分の脇へ誘った。
正太郎は300フランを20フランのポイント15枚に換えて貰った。
「ショウ此処のルールは5フラン単位、上限300フランだ」
4ヶ月前の山城屋と遊んだカジノのときを思い出しながら最初何気なく18に20フラン1枚のポイントを置いてクルーピエの様子を監察した。
サラは14.15.17.18の4点へ10フランのポイントを置くと二人の女優も其れに倣った。
500フランほどの掛け金が集まるとおもむろに取っ手を回し、賭けがそれ以上無いと見るや「賭けは其処までです」と声がかかりやがてボールは0で大きくバウンドしてあっさりと18に飛び込んだ。
「ディズュイット・ルージュ」
「ショウ残念だな20フランしかかけずに」
M.シュリーはルージュに100フランを掛けて倍にしていた。
次も正太郎は18に今度は60フランを置いた。
サラは前回と同じ4点掛けを同じ場所に20フラン置き同じように2人も後を追いかけた。
輪が廻り始めるとすぐに正太郎は「アン・プラン、オンズに60フラン」それと同時に「賭けは其処までです」とクルーピエのあせる声が響いた。
正太郎はやったと思った、そのあたりがぽっかりと空いていてクルーピエが狙ったのは其処だと感じたのだ。
ルーの勢いは中々衰えず弱まってきた回転は少しずつその数字がはっきりと見え11で一度弾んで0に落ちそうになったが何度も弾んでようやく落ち着いた。
「オンズ、ノアール」
其れまで関心が薄かった観客の多くがサラを取り囲むように近寄ってきた。
「サラだ、あのサラだよ」という声が囁き交わされているのが聞こえるように正太郎には思えた。
M.シュリーが今度は黒に賭けていてまた100フランを倍にした。
「ショウこのままでは朝まで掛かる、後3回で辞めるからそのつもりで賭けろよ」
M.シュリーが煽るように言うと正太郎も頷いて「今晩はそれでお願いします」と返事をした。
正太郎は同じようにまた18と17に60フランと15と21に100フランをポイントした。
M.シュリーは考えていたが12に50フランを置いてノアールへ300フランを置いた。
「サラ僕と同時に同じ所へ張って、二人の分も預かって上乗せしてね」
「判ったわよ任せておいて」
サラは熱の篭もった手を正太郎の左の指先へ絡ませて機会をうかがった。
輪が廻りだしてボールを投げ入れると間髪をいれず「アン・プラン、ディス100フラン、アン・プラン、トラント・ドゥ100フラン」正太郎の声が終わるかどうかにサラの透き通る声が「アン・プラン、ディス、100フラン。アン・プラン、トラント・ドゥ100フラン」と響いた、その声は舞台で演じる時のように一瞬カジノを凍りつかせたように声がなくなり「オーッ」という声と共に人が群がってきた。
すぐさま「賭けは其処までです」とクルーピエが遅ればせながら震える声で叫んだが輪はとっぜんのように回転を弱め32番へ吸い込まれるように収まった。
「トラント・ドゥ100フラン」のサラの声を聞いた人々は一斉にサラに握手を求めサラ・ベルナールは揉みくちゃに為っていた。
「トラント・ドゥ(trente-deux)ノアール」
クルーピエのか細い声はそれでも台の傍にいた人を正気に戻らせ、配当を受け取ったものはまたサラの袖に触って「僕にその幸運の手にキスをさせてください」と懇願するものが後を絶たないのでルーレット台は賭けを続けることが出来ない状態になった。
「M.ショウ今晩はもう駄目だな。この騒ぎじゃこれまでにしよう」
「はい判りました。僕もついていましたが貴方も中々ですね一晩やったら僕のほうがすってもムッシューは負けそうも有りませんね」
「ありがとう君はやっぱり運が強い、あの役は引き受けるよ」
「ところで僕はムッシューが何をやるのか馬車でも聞いていないのですが」
「ん、なんだサラは話していないのか。彼女はだいぶ昔にやったブリタニキュスのジュニーだよ今から5年ほど前の当たり役の再演だ。もちろん僕がブリタニキュスさ」
「残念ながら僕はパリへ来て半年なのでその舞台を見ていないのです。そのときのらしい写真はアパルトマンの隣の人が飾っていて見た事は有りますがね」
「ふむ、あの時より今のサラのほうが適役だとは思うがね。僕もプライドがあるからサラのお助け役での出演はいやだったが今日から考えを変えるよ。きっと舞台を成功させて見せる」
M.シュリーは男らしく引き締まった顔で断言した。
ようやく騒ぎが収まり正太郎はポイントが6120フランあったので1000フランと更に620フランを気前良くチップとして4500フランをポシェに押し込んだ。
サラと2人の女優は1000フランずつを手にして手元の残りのポイントを惜しげもなく全てチップとして差し出した。
其れを見ていた多くの人は今までファンで無いものもサラたちコメディ・フランセーズの女優のファンになることは間違いあるまい。
「オ・ルヴォワール・アドゥメン、ショウよい夢を見てね」
「オ・ルヴォワール・ボンヴォワイヤージュ、いえ旅でなくよい芝居をというべきでした」
「いいのよ其れで舞台は旅に出るのと同じですもの」
サラたちの馬車を見送り正太郎のバイシクレッテを積んだ馬車はM.シュリーの家のあるシテ・オートビルへ向かい、正太郎には客間を宛がってくれて馭者に執事も交えて広間で時ならぬ酒宴が始まった。
M.シュリーは遅くなった正太郎を自分の家に誘い執事と馭者に今晩の話を聞かせそれぞれに100フランを渡して臨時給与だ好きに使い給えと渡したのだ。
正太郎はこの人は色々噂があるが心も懐も大きな人だと感じていた。
「M.ショウは本物の幸運を呼ぶ男だ、我が家もこれからはぴいぴいと泣き叫ぶツバメの仔じゃなく、孔雀のように着飾ったご夫人で溢れかえるぜ」と2人の従僕に宣言した。
結局朝まで飲んで倒れこんだジャン・ムネ・シュリーに別れを告げ、客間には泊まらずふらつく足取りでバイシクレッテを曳きながらコンドルセ街を登り、ラ・マルシェの前でフロシュート街へ入り、ようやくピガール広場へたどり着いたときには夜が明けていてクストゥ街へ入るころには限界が近づいてきている正太郎だった。
ルピック街のジュリアンの家にたどり着くと起きて来ていたエメに後を頼むとのめり込む様に二階のソファに倒れこんだ。
10時過ぎに喉が乾いて眼が覚めると事務員のMlle.シャレットが心配そうに覗き込んでいた。
「やぁ、Mlle.シャレット、君一人かい」
「ボンジュール・ムスィウ。プレジダンディレクトージェネラルなんですから確りしてくださいよ」
「その長い呼び方勘弁してよ。ボンジュール・マドモアゼル・シャレット」
「マァ、M.ショウこそ何時まで私のことMlle.シャレットという気ですか。いいかげんジャネットと呼んだら如何」
「其れより水をもらえるかな。僕事務所で寝ていたのかな」
「確りしてください。周りを見て此処はルピック街ですよ」
水を飲んでようやく落ち着いて「昨日夜中にジャン・ムネ・シュリーと飲んでね」其処までいうと後ろで「オウ」と息を呑む声が聞こえた、エメと帳簿の整理をしていたMlle.ベルモンドの声だ。
周りが見えてきた正太郎に「どこで飲んだの、どこで知り合ったの。どんな人」矢継ぎ早にエメを中心に正太郎の周りで騒ぎ立てた。
頭を抑えながら「ゆっくり小さな声で頼むよ。昨日此処からエメのところへ寄って帰りにサラ・ベルナールに頼まれたコメディ・フランセーズへ寄ったのさ。M.シュリーがどうしてもカジノに行かなけりゃ承知しないと連れて行かれてしまったんだ。その帰りに自宅で執事やお抱え馬車の馭者を含めて4人で朝方まで飲んだんだよ。いい人で気風もいいし雇い人にも優しい人だったよ」と簡単に告げた。
「それでカジノでは勝ったの。負けたの」
「確かM.シュリーは500フランくらい持って帰っていた様だよ」
「それでショウはどうなったの」
「良く分かんないよ」とサックから金貨の袋を出して「これはエメから預かった分、それから財布はありゃ空だ。それから」ポシェに隠しからと5枚の名刺とドンドン出てくる札と金貨に3人は眼を丸くしていた。
「良く判らないが4000以上あるかな。勘定してよ」
2人の事務員が勘定すると4500フランが有ったと言うので襟を探り「あっここのは女優の卵に軍資金にやったんだ、そうすると4000儲かったようだ」とまた水を飲んだ。
どうやら頭もすっきりしてきて「サラと女優の卵は3人揃って1000フラン持って帰ったよ。だからカジノは大損害さ」といってまた横になった。
眠気はそれほどでもないが体がいうことを聞かないのだ。
「何か食べなさいショウ。そうすれば少しは元気になるから」
「うん頼むよ」
そういってサビエットを借りて顔を洗いに下へ降りて塩をつけて歯を指でこすって洗い、顔もざぶざぶ洗うとすっきりとして眠気もとんだような気がして腹がすいていることに気が付いた。
昨日の夕方前に西園寺のところで食べた後エメの部屋でビスケットを3枚ほど口に入れたほかには、サラミが2枚くらいとチーズのかけらを食べた気がするくらいなのだ。
店にジュリアンが帰ったらしく威勢の良い声がして裏へ廻ってきた。
「よぉ、ショウ起きたか」
「今起きたとこだよ。昨晩はジャン・ムネ・シュリーと飲み明かしてすっかり参ったよ」
「あの伊達男か」
ケッという音でタンをはいて呆れたように言うので「ジュリアン二階でそんな事いっちゃ駄目だよ。ジャン・ムネ・シュリーのシュリーと聞いただけで眼の色が変わる人たちばかりだからね」と注意しておいた。
「フン、あいつに参っているのはパリ全ての女どもだ。嫌になるぜ」
そういいつつも正太郎と二階へあがると「ショウに何か出してやれよ」とエメに言いつけてくれた。
「今スープが出来るわ。ジュリアンはカフェにする」
「ああ、そいつを頼む」
テーブルに無造作に積まれた金貨と札を見てなんだこいつはよと正太郎を見た。
「昨晩説明したように鮫島様の昇進祝いの予算にエメが出したのがその袋の金貨」
ジュリアンは重さを測るように手に提げて「300フランはあるな」と言い当てた。
「あたり。予算は酒抜きで400フランだからエメが300出して後は僕が」
「其れでこいつはなんだ」
「M.シュリーが中々話しに乗らずにカジノで決着をと言うので付き合ったんだ」
それでと皆が聞き耳を立てる中を割り込むように熱いスープが置かれた。
ジャガイモとベーコンがとろっとろとに溶けたお腹に優しいクリームスープだ。
「これっていつもジュリアンが飲みすぎた時ようなの」
「そうよ、いいからすこしのんで、それから話を続けなさい」
言われたようにスープの熱々を3口ほど含んでから「グラン・ブルヴァールのカジノ・ローマへ連れて行かれてね、君が勝ち残ればサラの言うことを聞いてもよいとルーレットを始めたのさ」そこでまた2口飲んで「最初18に20フランが大当たりで、次は11番で60フランのアン・プラン最後は32のアン・プランの100フラン、チップを大げさに張り込んで置いてきたけどその残りさ」
其処まで言って後はスープを噛み締めるように飲んだ。
盛んに4人で何かかやと話していて「4500フランか。まったくこいつは賭けで負けたことが無い。しかしこの名刺はなんだ」とジュリアンが呆れたように言葉を切った。
「昨晩サラと待ち合わせた時に居合わせた女優の卵がいたずらでポシェに放り込んでいったんだよ」
「M.シュリーはどうしたんだ」
肝心の話がまだだと4人は興味深げに正太郎を見つめた。
「M.シュリーは500フランほど勝ったようだよ。サラと若い女優たちがそれぞれ1000フランずつ、それでM.シュリーは今度の役を引き受けることにしてサラたちを帰した後、僕を自宅へ誘って朝まで飲んだんだ」
3人の女は同じ話でもM.シュリーの名が出るたびに眼を輝かして聞いていた。
「肝心の何の役をやるのよ。其れが知りたいのよ。じらさないでお話なししなさいな」
「M.シュリーはブリタニキュスでサラはジュニーだよ」
「あの伝説の当たり役ね」
「そんなことM.シュリーが言っていたような気がするけどダンの部屋の写真しか見ていないんだ」
「私も見ていないけどママンがサラのことを言うときは必ずのように今年のスペイン王妃ドナ・マリア・ヌブールよりすばらしい舞台だったと眼を輝かしていたわ」
それでいつからなの、席は取れるの、とサラのファンなのかM.シュリーの舞台が見たいのか判らないが口をそろえて「それだけ恩を売りつけた上で儲けさせたんだから一番いい席を貰うのは当たり前だ」と正太郎に迫った。
「明日聞いてくるから其れまで待ってよ。今は何もそれ以上知らないんだから」
ようやく正太郎は開放され、事務員二人はしぶしぶオムニバスの時間を調べ帰っていった。
正太郎は少しまどろんで昼になってからオムニバスでアパルトマンへ戻った。
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