習志野決戦 − 明治元年        根岸 和津矢

各地の侍や農兵が話す言葉は特別の場合を除き方言を使わずに本文を構成してあります。
習志野は幕末には小金牧の一部で下野牧と呼ばれていました。
小金牧は野田から佐倉、千葉市にかけて広がる広大な牧場でした。

習志野は明治に為ってつけられた名ですが通りがよいのでそちらを使いました。
この時代各地の方言で話す人たちをそのように書くというのは作者には難しいのと話がよくわからなくなる危険が有り現代語に近い言葉といたしました

習志野決戦 − 明治元年

1868年8月18日 火曜日

慶応4年7月1日12時 大坂

 

大坂で寅吉は幸助たちと新しく立て直され人も集まりだした川口居留地で陸奥と五代に会っていた。

陽暦9月1日は陰暦7月15日だが大坂開港が決定されていて商人も入りだしていたが神戸の居心地が好いのかそれほど多くは人が来ない様子だ。

大坂は慶応3年12月7日陽暦1868年1月1日に兵庫(神戸)開港に合わせて開市されていたが、開市から開港にパークスからの申し入れを伊達宗城が了承していて、遅ればせながら伊藤がそれを各国に通達した。

「陸奥さん、大変な役目を押し付けられましたね」

「仕方ないさ、しかし毎日のように部署が変わるから落ち着くまでは目が廻る日が続くよ。公使や領事にも後三月は責任者が変わり易いですが、伊藤が替わることは無いそうなので政策の変更はありません、としか言いようがないんだよ。天子も政府も江戸に出ることが決まったらさっさと横浜へ各国のお偉方がお引っ越しさ、それで俺も忙しいところに行かされるので参ったぜ」

陸奥は外事局で横浜専任の知事に選ばれて明日の朝、横浜に出ることになったのだ、横浜で京極の上司と言うことになるということで開陽が其の人員を運ぶ役目を言い付かった。

横浜は独立県にするか相模と合併するかまだ決まっていなかったので函館、新潟、長崎、神戸と共に暫定的な独立行政地になるようだった。

同じように江戸は遷都されれば京、大坂と共に府としての独立行政地になることが決まりそうだと陸奥が教えてくれた。

同じように県割りは多くの問題を抱えたまま走り出していた。

海援隊、陸援隊の仲間は隙間を埋めるべく藩知事のいない飛領の知事に任命されることが本決まりに為るそうだった。

海援隊の後は岩崎弥太郎が土佐商会にまとめて仕切ることになった。

すでに西国諸藩と東海諸藩は版籍奉還に八分方応じていた。

関東、奥羽、北越は一部を除いてすでに家達に一任とされて版籍奉還、廃藩置県まで了解済みだった。

議政官に島津久光が推薦されて参議から専任として移動することが了承され、

参議に陸奥から帰ってきた九条道孝が20歳になったということで加わることになった。

政策室で大きな流れと個別に必要な部署に指導を行うことが決まり、次々と替わってゆくので諸外国への対応も伊藤以下外事局の仕事は大変なことになっていた。

以下の政策室、議政官から出される布告を太政官布告として統一することになった。

あくまでも参議、参与、政策室の方策を審議して議政官から布告が出されるという流れが出来た。

政策室

有栖川宮熾仁親王 賀陽宮朝彦親王
勝海舟 大久保一翁 稲葉正巳
木戸準一郎 大久保一蔵

後藤象二郎

議政官は政策の細かな流れをつかんで誰を任命すればよいか全国からの適任者の呼び出しと細かく出される建白の審議をした。

議政官

中山忠能 正親町三条実愛 中御門経之
東久世通禧 

徳大寺実則

鷹司輔煕

島津久光

松平慶永

鍋島直正 蜂須賀茂韶 毛利元徳
長岡護美 山内豊信 伊達宗城 池田章政
伊達慶邦 上杉斉憲 松平容保 牧野忠訓

参議のうち9名は郡と道の知事に任命されて其の準備に入った。

其の地域の大名からの版籍奉還を受けて藩主を藩知事に任命し飛び領のある藩には地域の統合を命じた。

旧幕府の領地は新たな知事を各藩の選りすぐりから選び任命の上送り出し管理をさせた、代官が残っていた地域は其の役目を継続させた地域も残った。

しかし函館付近は岩倉、三条、清水谷、黒田、山県、桂、他の薩摩、長州などからの逃亡軍が押さえていていまだ休戦に応じていなかった。

参議は議政官他の役職との兼任も多かったが郡知事候補、県知事候補として後三十名以上の候補を選ばなければならなかった。

政治上局成立後は26名の参議が選任される予定だが今は郡県の長のための人員の確保が目的とされていた。

参議(郡知事候補・県知事候補)

九州郡 知事 島津忠義 中国郡 知事 毛利慶親 四国郡 知事 山内豊徳
近畿郡 知事 九鬼隆義 北陸郡 知事 牧野忠訓 東海郡 知事 徳川慶勝
関東郡 知事 稲葉正巳 奥羽郡 知事 伊達義邦 北海道 知事 長谷信篤 
九鬼隆義 稲葉正巳 島津忠義 毛利慶親 牧野忠訓
伊達慶邦 長谷信篤 徳川慶勝 細川護久 上杉斉憲
松平容保 池田章政 黒田長知 亀井茲監 九条道孝
大関増裕

参与はいま吊り合いのために大人数で部局ごとの相談役になり活動していたが参議への移動で人数を減らす予定であった。

参与(政治局)

辻 将曹 西郷信吾 井上聞多 板垣退助 横井小南 三岡八郎
広沢兵助 小松帯刀 福岡孝悌 岩下方美 阿野公誠 鍋島直大
後藤象二郎 大木 木戸準一郎 大久保一蔵 大関増裕 大田資美
山川大蔵 稲葉正巳 松平定敬 藤沢次謙 榎本武揚 大鳥圭介
勝義邦 小笠原長行 大久保一翁 河合継之助

軍事総局総裁 勝麟太郎 

軍務局(参謀本部) 長官  大関増裕 参謀 大鳥圭介 参謀 伊地知正治
海軍局 長官  榎本武揚  参謀 川村純義 参謀 中牟田倉之助
副長官  中島三郎助 参謀 甲賀源吾 参謀 荒井郁之助
陸軍局 長官 大山弥助 参謀 藤沢次謙 参謀 海江田信義
副長官  鳥尾小弥太 参謀 大築尚志 参謀 西郷信吾
騎兵師団  長官 太田資美 参謀 山川大蔵 参謀 大久保忠誠
近衛大隊 長官 板垣退助 参謀 星潤太郎 参謀 平岡芋作

民事総局総裁 大久保一翁

教育局  長官 仁和寺宮嘉彰親王 副長官 大木喬任
宗教局  長官 鷹司輔煕 副長官 亀井茲監
大蔵局   長官 三岡八郎 副長官 松平勘太郎
内務局  長官  木下大内記 副長官 井上聞多

独立部局

外事局長官  伊藤博文 (外国事務) 副長官 副島種臣
司法局長官  江藤新平 (司法裁判)

副長官 寺島宗則

宮内局長官   高橋精一郎(皇宮警備、皇宮管理) 副長官 田中光顕

公家からは議政官こそ多く選任されたが実務には適材適所の人事が行われた。

江戸に移ってからさらに人事は二転三転するだろうと誰もが予測していたのは、まだまだ隠れた逸材が全国には多くいるだろうというのが政治局の多くのものが感じていたのだ。

 

7月10日朝 大阪

開港の日が近づきグラバー商会大坂支店が独立したエドワード・ホームとフレデリック・Z・リンガーのホームリンガー商会と共に店を開いていた。

それでも30軒ほどの商社が大坂での商品の集積を目的で集まって来ていた。

やはり蔵屋敷の多い大坂は魅力があるようだ。

川口居留地での勤めとなった外国事務局判事の五代才助は川口特別区知事となった。

伊藤が外事局責任者となった後の兵庫(神戸)特別区知事になって呼び戻されて来た元の奉行の柴田剛中と共に大坂からの輸出品の関税を兵庫で納めずに、密輸の取締上輸出税だけでも大坂川口運上所で取立てたいと要請していた。

いまは外事局の仕事だが関税は大蔵局へ移管すべきだとの意見も出ていた。

江戸へ出る船に乗る順番を政治局の人員が土佐堀の薩摩藩蔵屋敷で待っていた、其のときに江戸からの連絡が入った。

「勝総裁、大変で御座います」

「なんだい榎本君そんなにあわてて江戸で戦でも起こったのか」

「冗談では有りませんよ、大関様が亡くなりました」

勝も稲葉も息が詰まるほど驚いた。

「どうしたのだ」

江戸へこのところ往復で忙しい甲賀が報告をした。

「5日の日に徳丸が原で調練中に気分が悪いと馬から下りてテントで休んでそのままお亡くなりになりました」

「まさか毒殺でも」

西郷や慶喜公のこともあり自分達も家達公のことも其のことにはことさら気をつけていたはずだ。

「イヤ、松本先生の診察では脳の血管が破裂したようだと診断されました」

「まさか若いのにそのようなことがあるのか」

「何でも前の怪我のときに脳の近くに損傷が出来ていたのではないかと言う事です」

死んだとまで言われていたあのときの大怪我がそのように後々まで大関を追い込んでいたとその場の者が彼の死を悼んだ。

彼のことだ新しい軍務局参謀本部のことでも何か考えを披露してくれると勝も大久保もいや東軍の関係者一同が期待していた夢が消し飛んでしまった。

それは同じ部屋で聞いた戦った相手の伊地知も海江田も感じていた。

奥羽北越連盟の山川や河合も大坂まで出たがまた江戸に向かうことになり陸路先発していた。

「大移動で御座いますな」河合はそういって笑っていたが部隊の半数は国許に向けて帰還させてよいとの勝の言葉に軍費を出してもらい帰還させた。

大鳥は部隊の内騎馬隊の半数を陸路帰還させて京には板垣指揮で藤沢が天子の江戸入りのお供のために残った。

大鳥は大坂城で残留の騎馬隊と共に参謀本部を置いていた。

多くのものが疑問に思った大久保一蔵、木戸準一郎、後藤象二郎の政策室入りも異議を唱える者は東軍の中からは現れなかったが、西軍の中で反発するものが出たのは勝たちの思う壺だった。

勝と一翁たちは江戸での政策室創設時に彼らを取り込むことで西軍の公家派の台頭を押さえられると読んでいたのだ、公家の中には自分達がやっと陽の目を見られる日が来たと思う間も無く、また日陰に追いやられるかと思い陰での暗躍が始まっていたが三人が一次的な罷免で済み、議政官に多くの公家が選ばれたことで安心もしたらしく、暗躍がやんで置いてきぼりを食らった尊攘浪士は出番を失ったのだ。

そして其の三人は軍事的な実力はなくなり、ただ其の政治能力のみを買われた事を自覚して「日本のため」と言う一言で新政府のために働くことを了承していた。

 

7月13日14時 横浜

勝の乗った開陽は横浜に着けることになっていた。

稲葉は甲鉄で浜御殿に降りて千代田城に向かい二人の大久保の出迎えで新しい役割や人材の掘り出しを早速に始めだした。

中牟田は昔馴染みの孟春の艦長として忙しく新政府の役人を大阪から江戸に運んでいた、同じ役目は徳川海軍だけでなく薩摩、肥後等の各藩の船にも割り当てられたが船はいやだというものは陸路江戸へ急いで向かわされていた。

昔のように大名行列など組めないのでどのような身分の高いものでも六名の従者以上は認められなかった。

どのような大大名であろうともお役目の異動は決まり以上の従者を連れての移動は禁止されたのだ、仕方なく自費で家来を先行させる者が大勢いた。

もっとも参勤交代のことを考えれば出費と言うほどのこともないのだ。

各地の領主も江戸に到着しだして、家達に目通りを願うものが毎日のようにあり忙しく千代田城に出入りしていた。

大関の死は悲しいことだがそれを悔やんでいる暇がないのだ。

跡取りは昨年の事故の後大関増勤を跡目に指定していた。

丹波山鹿藩藩主の谷衛滋の庶子だそうだ、自分の子は早世したため友好関係の有った谷衛滋の子を養子に迎えたのだ。

フランス波止場には陸奥と京極が出迎える中、船を降りた勝はイギリス公使館に行くために谷戸橋から坂を登りトワンテ山に登った。

見晴らしのよい其処では勝の乗ってきた開陽が見えて出迎えのサトウもにこやかに迎えてくれた。

「お帰りなさい、上首尾でしたね」

「君達の協力があって東西融和が成立したよ。聞いてはいるだろうが江戸を政治の都にすることに為った。タイクンからミカドに替わったが君達はミカドの政府に信任状を渡してあるから役に附くものが移動したというだけで良いんだろう」

「ハリー卿もそのままで良いだろうとおっしゃっています。政府の役人が替わっただけと判断して本国にもそのように報告しました。ただ困ったことに誰が政治を取り仕切るのかよくわかりませんので、誰に会えばよいのか不便です。勝さんで良いのですか」

「此処にいる横浜特別区知事の陸奥君か京極君で役は足りますよ。各居留地も責任者を置いたので、そのものから政府に話が上がることになったよ。外国事務は伊藤君が明日には高家の畠山様お屋敷で外事局としての仕事を始めるそうだ。なあそうだろう」

「はいそうです。勝総督」

「場所は築地二の橋だそうだ」

「では公使館も高輪にまた移しても良いのでしょうかね」

「そうしたほうが便も良いだろう、築地居留地もほぼ出来上がったしな」

「エドホテルの落成式は何時になりますか」

「京極君聞いているかい」

「寅吉の話だと来月始めに正式開業だそうですがとっくに泊まれるはずですよ、居留地のほうは11月19日の開市が決定して居ります」

「そうだ築地ホテル館の一部は昨年から営業していたんだったな」

「築地居留地は1869年1月1日の開市だそうだ。新潟の開港と同時になるそうだ」カレンダーを見ながら陰暦の日付を確認して日曜日と言うことを確認した。

「天子が江戸に入るのも其のころじゃないのですか」

「ほう情報が早いな。9月1日には京を発して2月かけて江戸に入る予定だがそのくらいになるのかな」

「だいぶゆっくりですね」

「船と違って日にちがかかるし其のころは日暮れも早く各地の大名、有力者に途中々でお目通りを許されることになっているのだよ」

パークス公使も出てきて話に加わり「ところで江戸は東亰と名前が変わるそうだな」と勝に聞いた。

「そうでやんす。伊藤君が各国の公使、領事と会って通知をすることに為って居りますがもうご存知でしたか」

「横浜では内緒ごとほど筒抜けだよ」

「江戸は東亰府、京は西京府、大坂は、字が変わって大阪府となりやんす」

どのような字だと紙に書かせてサトウに改めて記録させました。

「どうして京と亰の字を使うのですかね、大坂も坂の字から阪の字に変わったのですか」サトウが勝に質問した。

「何でも坂と言う字は士と反と言う字を書くのでサムライがそむくのは縁起が悪いというものがいてな、それでオオザカからオオサカと言う風に変更したのだとさ。亰と言う字を使うのは京の都を江戸に持ってくるわけではなく江戸に天子が行幸するという名目だからさ。いまだに頭の固いお公家さんが多いのから其の字でごまかそうという魂胆だ」

「面白い理屈ですねそれで大阪の範囲は前と同じですか」

「一応町奉行支配地の北組、南組、天満組の三組としたらしいが何でも攝津、河内を支配地に組み込むらしい。俺はあんまり詳しくないのだよ」

パークス公使がまた話しに入ってきた。

「九郡制と言うのも変わるそうだな」

「あれはまだ勉強中ですが、陸奥君どうなっている」

「伊藤さんの話ですと、三府一道八郡に分けることに為りそうです」

「誰が担当だい」

「木下大内記、杉享二、江藤新平、大木喬任、井上聞多、寺島宗則などの名前が出ていますがまだ何人か政治局から参加して試案作りに励んでいるそうです」陸奥は指折り数えて京極と確認しあっていたが全部は覚えていないようだ。

「三府は今聞いたが、一道とはなんですか」

「道は昔の東海道などの名の名残ですが蝦夷地のことで北海道となるそうです」

「東海道、中山道などの道と同じかな」

「そうです、それでまだ人が少ない蝦夷郡を改めて開発が済むまで郡としないで道の字を当てて開発が済むまで県をおかない方針だそうです」

「本当はまだ函館を占領しているものに対しての牽制じゃないのかな」

中々うがった考えを披露するパークス公使に陸奥もたじたじだった。

「陸奥君、外事局だが人員が増えたら畠山様のお屋敷では手狭になるだろうから、どこか大きなお屋敷で道が広いところを選ぶように伊藤君に相談しておきなよ」

「そういたします。大久保一翁様も紀州公のお屋敷あたりをお考えでしたが大奥の方々を一時其方に移っていただくのでまだ使えないそうです」

外事局判事として登用された人員のうち特別区知事が任命されて全国に散ったが、函館はまだ赴任できずにいた。

長崎特別区知事 大隈重信

神戸特別区知事 柴田剛中

川口特別区知事 五代才助 (友厚)

新潟特別区知事 井関盛艮

横浜特別区知事 陸奥陽之助(宗光)

函館特別区暫定知事 岩下方美(方平みちひら)

函館は放って置くのが一番と勝は手をつけないでいたが大久保一蔵や公家の多くは討伐せよとの意見を議政官に出していた。

もともとは尊王の同士の者にどうして追討軍を出す様に意見を述べるのか理解できないものが多いことも事実だった。

 

7月15日 川口居留地

寅吉は明日の船で横浜に戻る事にしてまだ大阪にいた。

幸助の縁談の日取りが決まったこともあり、新門から頼まれていたお倉の身柄を江戸に引き取る相談のためと、神戸に大阪と横浜から出てきた外国商人との取引の相談を受けて仲介したり、神戸の生島さん北風の貞忠さんと遊んだりと忙しかった。

昨年知り合った又吉は貞忠の後押しで花隈に料亭を開いた、常盤花壇となかなか凝った文明的な名前を九鬼隆義につけてもらった。

其処へも太四郎に幸助たちと丸高屋の面々を引き連れて何度か足を運び、お倉の亭主の亀次郎も同行してお前さんたち夫婦も料理屋なり芸者屋也を自分達で開けと新門からの言付けもし、江戸に戻るときは金が必要なら幸助まで言うように何度も念を押しておいた。

普通は、常盤花壇は人足など相手にしないらしいが、丸高屋では法被姿の彼らだけ先に行かせても「昔馴染みは大事だ」と又吉が玄関までいつも出向いてくれる気のいい男であった。

グラバーが自分の商船で神戸まで来て、陸路を川口まで出てきた。

「家のところから独立させた店は中々繁盛しているだろう。あれは俺が資本を出したのだがコタさんが教えてくれた版籍奉還、廃藩置県に備えたのさ」

「確かに伝次郎からトマスに伝えろとは言ったが、それと働き手の有望な者を独立させるのと同つながるのだい」

「コタさんだって盛んに独立しろと長崎や大坂、名古屋の者にいつも言うだろう」

「アアそれは俺より働いているのに俺に使われることは無いといつも思っているからだよ」

「俺もそうさ、それと廃藩置県までいくと掛け売りの金が入ってこないかも知れねえんだ」

「しかし知らん顔される筋合いでもないだろう」

「どうかな、薩摩や長州はともかく金のない藩にもだいぶ売りつけたからな」

「それは俺も同じだが、お前さんジャーディマジソンには支払いも付けになっているのか」

「そうだよ、俺の金だけでは買いきれる額じゃないのと炭鉱とドックが儲からないと来たひにゃ後2年くらいしか持たないかもしれない」

「そうか、お前さんのことだ100万ポンドくらいならびくともしないだろうが額が大きいのかい」

「額よりも金利だな、大名達からの物産も思ったほど金にならんよ。炭鉱が軌道に乗ればどうと言う事は無いのだがな、特にanthraciteが出ないかと期待しているのだよ」

「それはsteam locomotivesteamshipのようにsteam engineで動かすのに一番よい石炭のことか」

陸蒸気に蒸気船、蒸気機関の言葉は街中でも通じるようになって来ていた。

陸蒸気は早くひかれないかと待ち望む外人たちから権利の申請が続いていた。

そのためにも国内で良質の石炭が出ることが必要であった。

「そうだそいつがないか深いところまで掘っているのさ」

グラバーは自分が選んだ神さんとぜひあってくれ、長崎にも落ち着いたら夫婦で遊びにぜひこいと何度も誘ってくれた。

「お容さんに引けをとらないくらいいい女だぜ」トマスは手放しでのろけるのだった「俺のほうは子が出来たぜ、今腹がせり出してきて10月には生まれるらしいがお前さんのほうはどうなんだよ」と年内に父親になることをうれしそうに話した。

「俺のほうはまだ其の様子がないが近じかできそうな気がするよ」

「コタさんの千里眼か、子供まで見えるのか」

「まさかそのようなことが分かるはずもあるまい。千里眼を信じているわけでもあるまいに、なにを言い出すのかおかしな男だ」

「そうでもあるまい。東軍と西軍があんなに簡単に和解をして政府の中心は江戸に移るなど陰にコタさんがいたから出来たんだろうぜ」

「それは買いかぶりだぜ。江戸遷都も元はといえば佐賀の人たちや神戸にいた前島さんの建白さ。俺は何もしてねえよ」

そんなもんかなとトマスは信じていない様子でしたがお倉たちまでが寅吉の千里眼を信じているようで例のダイヤモンド鉱山、金山の話が広がり困っている寅吉でした。

長溥の話を聞いた有栖川宮熾仁親王と賀陽宮朝彦親王のお二人が江戸入りは甲鉄と決めて江戸から甲鉄が戻るのを大阪で待っていた。

明日16日には寅吉が横浜に戻ると聞いて長溥が城に呼び出しての案内で大坂城のお二人の親王の元に出向き、外国の話からチューリップに話が及び長溥が出させた本草の彩色本の話になった。

ふだんならそば近くで話など出来ないはずが二人の宮様も長溥もそのようなことなど気にしない風だった。

長溥が色さまざまな花の話になり、寅吉が話すオランダの球根の投機でさまざまな悲喜劇が起こったことなど興味深げに話が弾んだ。

寅吉の好きなトビアスの懐中時計には長溥に同席していた長知までも大騒ぎで喜んだ。

船で長溥が持っていたのが壊れたと聞いたので横浜で直しに出すので預かるのと換わりにプレゼントするつもりで横浜から持ってこさせたのだ。

寅吉は五台用意してきたので京から見送りに出て来ていた伏見宮様にも差し上げることにした。

裏蓋の絵の異国の城館がことさらお気に召したようで「このような家を建てたいものだが長崎横浜にはあるのか」と聞かれた。

「イエ、まだ長崎や横浜でもこのような建物は異国の寺以外には建てられて居りません。もう少しすれば異国から建物の設計を習ってきて建てられるものが多くなるでしょうが、まずキリスト教を認めるか黙認すれば数多くの建築家がやってきて教会を立てる傍ら個人の城館も立てることになるでしょう」

「キリシタンか、邪教と教えられたが国を乗っ取られる事は無いのか」

「昔は戦国時代のことで侍は気が荒く、苛斂誅求に泣く農民が反旗を翻すよりどころとしたものゆえそのように考えられましたが、それ以前にも加賀では一向一揆が国を支配した時代もあります。宗教をよりどころとするのは大きな力を得ることが出来ますが自分達の信じる神仏以外は全て敵と考え違いを起こしやすいものでございます。いまはヨーロッパ、アメリカにおいても侵略の先棒を担ぐ宗教ではなくなり、貧民に施しをするための宗教に生まれ変わりつつあるようで御座います。わが国の神社仏閣が貧民のために何もしないのとは大違いで御座いましょう。其のことをぜひお汲み上げくださいまして神社、仏閣の宗教への取り組みが邦民の安らかなる生活のためにあるようにご指導されることをお願い申し上げます」

「新しい政府の組織になる前に寺を破壊して神社にして仕舞えと過激な申しようのものもいたが、なるほどお上の寛大なる広い気持ちで邦民の安らかな生活に役立つ宗教こそ国の本来の宗教であるべきであろうぞ。寅吉の申しじょう必ずお上のお耳に入れて、正しく邦民の指導をされるようお願いいたそうぞ」

「ありがとう御座います。僭越なる申しじょうに寛大なるお言葉寅吉一生の感激で御座います」

寅吉が懸念していた廃仏毀釈は免れそうになった。

賀陽宮朝彦親王はいたく感激して「わしもこのお役が済んだら必ずや、邦民のためと成る神社仏閣を目指すために努力いたそう」と約束した。

勝たち政策室は激論の挙句五箇条のご誓文の趣旨は尊重するが、天皇は祭祀者として皇基を振起するのではなく、邦民のために存在する象徴であるという基本方針を纏め上げたのだ。

ただ五箇条のご誓文は変更せず政府の基本方針として、象徴天皇であり政治局が統帥権を持つということが議政官、参議、参与、上下政治局員が代々受け継ぐ政府方針のひとつとされた。

木戸は三岡の原文を自分達の都合よい天子の懐に隠れて政治を行う手段としたのだ、勝はそれを持って大久保一蔵、木戸準一郎、後藤象二郎、岩倉具視、三条実美の五人の罪の一つとして追及したのだ。

確かに時代の趨勢は尊王であり天子の力は期待されていた、しかしそれは天子一人の力で国づくりができるという絵空事ではいけないことだ。

勝は政治から宗教は遠ざける方針であったが、尊攘思想をまとめる手段として異国の様子を真似た「一国一宗教で神道こそ日本の国教である」と凝り固まった公家集団に取り付いた、狂信家からの影響の一端を取り除くことが可能になってきたようだ。

坂本の望んだ人民のための政治が現実味を帯びてきた。

船中八策に言う第二策の上下議政局を設け、議員を置きて、万機を参賛せしめ、万機よろしく公議に決すべき事。第三策の有材の公卿・諸侯、および天下の人材を顧問に備え、官爵を賜ひ、よろしく従来有名無実の官を除くべき事。勝はこの第二策第三策こそ今回の戦で東西融和を持って達成すべき目標と檄の中でも重要課題として版籍奉還、廃藩置県に並ぶ物としたのだ。

「横浜に出たらぜひホテルにお泊まりなさいませ」長溥がそう進めるので二人の宮様はその気になったようだ。

「寅吉その方ホテルの手配が出来るか」

「居留地のことなので部屋が空いて居りませんと泊まることが出来ませんが日にちが分かれば予約しておくことも出来ます。その日部屋が空いて居りませんでもどこか異国情緒のあるところにお泊まり出きるようにいたしましょう」

「甲鉄と開陽が戻ればお二人は甲鉄で横浜に出られる。わしは閑叟殿と春日と開陽でお供仕る」

「では横浜で泊まれるホテルのお手配をお引き受けいたさせていただきます。お一方従者二名様でお泊まり頂そのほかの方は別の宿舎となりますがよろしいでしょうか」

「それでよろしい」

「長溥様のお泊まりに為られたホテルは続き部屋が二つなので長溥様は別のホテルとなりますがよろしいでしょうか」

「構わんよ、他の者達は宿舎が決まっておるし適当に泊まるだろうが宮様たちもどこか予定があるだろうが多少のわがままは許していただくように陸奥に伝えてくれ」

「かしこまりました。では横浜にお先に出まして陸奥さんに伝えておきます」

寅吉は甲鉄が戻るのが18日出発は19日、横浜到着が21日朝の予定を聞いてお城を下がって幸助の待つ西国丁の店に戻った。

幸助は今晩嫁とりで横浜から千代が昨日になって漸くと祝いの品物を持ってやってきた。

容も来たがったが世の中の落ち着きもまだ定かではないし、日にちも決まっていないので寅吉は来させなかったのだ、寅吉も来る予定はなくて千代のみを出席させる予定だったが、長溥様に連れられて甲鉄で先月の25日に大坂に出てきたのだ。

石部のたかのやという宿屋の娘でたびたび名古屋と往復していた幸助と割りない仲と也、漸く嫁入りと言う運びになって母親と二日ほど前から山本町の親類の家にやってきていた。

名を静といい気立てのよい明るい子だ。

 

7月19日7時 横浜

途中だいぶ時化て下田で一泊したがフロリダ号は無事江戸湾に入り寅吉と千代はフランス波止場に降り立った。

「今回の船旅は参ったな」

「これさえなければ船は楽でよろしいですが、旦那が船は好きでないと知って居りやしたから見ていてもお気の毒で」

「お前が船に強すぎるんだよ」

「旦那は先生に似てなさるんでさぁ。何も師弟だからといって船に弱いところまで似なくても良いでしょうが」

「フンほざきやがれ」

主従無事船を下りてピカルディに顔を出してから、元町で瀧の湯に浸かりに出かけて船の垢を落として、届けられた着物に着替えて漸くインターナショナルホテルで宮様たちの予約をした。

陸奥が横浜特別区知事になってから関門はあっても通過の際に特に改められることもなくただお辞儀をして通れるように成っていた。

陸奥の建白で各居留地でもそのような取り締まり方法になっていくようだ。

ホテルでは案の定、続き部屋二つしか取れず、改装したCommercial Hotelでもどうにか二つの続き部屋を確保した。

「此処がだめなら彼方此方駆けずり回るところだった」寅吉はMr.トンプソンにそのように話して最近のホテル事情など紅茶を飲みながら聞いていた。

千代が陸奥さんの居所を探し出してきたので、境町の運上所に併設された裁判所(横浜特別区知事庁舎)に出むいた。

「なんです裁判所と言うのは」

「何でも取り締まりの捌きをつけるところと言う意味で付けられたようだが、奉行所のほうがとおりの良いように思うのだがな。勝先生もまたそのうち変わるさ、名前なんぞ同でも良いから仕事はきちっと京極さんとやってくれと突き放されたぜ。伊藤さんも議政官の人にはあんまり逆らうなと言うしここでもめても名前が変わるわけでもないしな」

寅吉は裁判とは司法局の方で使うでしょうからそのうち変わるでしょうと当たり障りのないことを言っておいた。

「そうだ奉行所の裁きの場を裁判所とすればいいんだ、そうすりゃ役所のほうは横浜特別区居留地役所、ありゃこれも長たらしくて言いにくいな」

そのうち誰かがいい名を考えつきますよとまたも寅吉は話を済ませようと簡単に受けて、肝心の宮様の宿泊施設を相談した。

「そうかホテルかそいつは良いや。彼方此方分散しても早く江戸に入ってほしいが、向こうもどんどんお偉方が集まるのでお公家様たちの入る屋敷の割り振りで参っているらしく宮様の屋敷もまだ本決まりでは無いらしい、できるだけ横浜で休んでいてもらえとうるさいんだ」

結局二泊していただき其の間に行列をそろえて江戸に入る手はずを整えることになりました。

此処から東海道を六郷の渡しを天子が通られるときの予行練習に船で仮橋を作り渡って頂くことに成っているそうだ。

そして太政官から出された布告を見せてくれた。

発表は7月18日で前もって横浜にも届けられていたのだが昨日奉行所から高札場に張り出されていた。

詔書

朕今萬機ヲ親裁シ億兆ヲ綏撫ス江戸ハ東國第一ノ大鎭四方輻湊ノ地宜シク親臨以テ其政ヲ視ルヘシ因テ自今江戸ヲ稱シテ東亰トセン是朕ノ海内一家東西同視スル所以ナリ衆庶此意ヲ體セヨ

辰七月

副書慶長年間幕府ヲ江ニ開キシヨリ落下日々繁榮ニ趣キ候ハ全ク天下之勢斯ニ蹄シ貨財隨テ聚リ候事ニ候然ルニ今度幕府ヲ被廢候ニ付テハ府下億萬之人口頓ニ活計ニ苦ミ候者モ可有之哉ト不便ニ被 思召候處近來世界各國通信之時態ニ相成候テハ專ラ全國之力ヲ平均シ 皇國御保護之目途不被爲立候テハ不相叶御事ニ付属東西 御巡幸萬民之疾苦ヲモ被爲問度深 叡慮ヲ以テ 御詔文之旨被 仰出候孰レモ篤ト 御趣意ヲ奉戴シ徒ニ奢靡之風習ニ慣レ再ヒ前日之繁榮ニ立戻リ候ヲ希望シ一家一身之覺悟不致候テハ遂ニ活計ヲ失ヒ候事ニ付向後銘々相當之職業ヲ營ミゥ品燕I物盛ニ成リ行キ自然永久之繁榮ヲ不失樣格段之心懸可爲肝要事

東亰への遷都ではなく奠都であると議政官の添え書きが来ていた。

此処横浜も知事の陸奥が居留地との交渉の窓口で、運上所を管轄下に置き、奉行の京極が警備と訴訟を引き受けることになっていた。

これは各居留地特別区共通の役割分担となった。

「どうやら廃藩置県の後はこのあたりは武蔵のうち六郷の渡しから此方側を横浜に組み入れて神奈川県という名にするらしい。それに相模と足柄、伊豆の東側さらに町田付近も入れようという話だ」

「江戸の範囲はどうなりますか」

「武蔵のうち北半分荒川以北のうちから秩父地区を崎玉、八王子を含む東西に長く上総下総に食い込んで江戸川付近までを東亰府とするらしい、それと勝先生たちの郡県制だが小栗さんの唱えた道州制が本決まりらしいぞ」

「それはどういう方式ですか」

「いま薦めている郡というのを州の下に県を置いてその下に郡もしくは区をおくということにするらしい」

「郡(こおり)と言う昔の呼び名を残そうということですか」

「そうらしい、それと面倒だから県の下は大区、其の区分けを小区と言うことで番号をつけてしまえというものもいるそうだ」

「まさか、そんな殺風景な名で呼ばれては町が沈みますぜ」

「俺もそう思うよ、しかし県の境はどうするか揉めているらしい」

「六郷のかみを全て川で仕切れば神奈川と東亰の範囲が簡単でしょうに区分けが岡の上では決めるのに骨でしょうね」

「何でも旗本領や大名の飛び地が網の目のように入り組んでいるとさ。徳川も三百年続くとそんなところまで滅茶苦茶さ」

確かに領地、知行地はきちっとまとまっておらずあちらに千石、此方に二百石など五千石程度のお旗本でも多い方は10何箇所にも分かれていて熟練の方でもその取締、帳簿の煩雑さには手を焼いていた。

其の費用を考えると版籍奉還、廃藩置県で全国一律で俸給、秩禄として支給されるほうが手間を省けるはずだ。

確かに今試案が出ている秩禄では支給される額は減るが、仕事のできるものは俸給として払われるものが多くなるはずであった。

京極は役料が年二千両、陸奥で役料年二千両でありこれ等は来年一月までの月割りで支給されることになっていた。

「来年は半額支給などと言うことは無いだろうが大幅に減らされると伊藤長官が言っていたよ」

来年からは月給として毎月の支払いに変更されるそうで政府役人は税を天引きした後を支払われるそうで減らされるというのは其の税の分で陸奥あたりは二割が税となるようだ。

いまでも各藩士、旧幕臣は兵役金、小普請金など様々に引かれるので京極など「きちっとした金額だけ引かれて後は自由なら其のほうが楽だ」といっているそうで、「無駄な供揃えで江戸と往復しないなら金もかからず余分な人数を雇わないなら其のほうが用人も喜ぶ」と陸奥に言うそうだ。

細かい事は陸奥も京極もまだ知らなかったが版籍奉還以降には試案案件そのに秩禄処分として一万石以下五千石までの千俵を最高とし,四十石以下はそのままとする。

秩禄の支給は現米を廃止,前三ヵ年平均の各地方貢納石代相場を基準として金禄が改定されて支給される、とされていた。

廃藩置県後は永世禄、終身禄、年限禄(役高)に分けて支給方法も金券もしくは利付公債で発行されることになりそうだった。
仕事が見つからない武士は失業と言うことになるので蝦夷地の開墾と産業の育成は新政府の重要課題であった。

税は五つに分けて徴収されることになりそうだと船で横浜に出る役人が話していた。

相続税・国税・地租税・地方税・商税、と名がつけられるそうだが農民の負担は軽くなるはずだと其の役人は話していた。

其の役人は木津と言う肥後人だったがこんなことも話していた。

「徴兵をして国民から広く兵を集めるのだが、まだ反対が多いが女も希望者には特別教育をして女だけの軍隊組織を作り上げる案もある」

確かに帳簿をつける仕事を女達に任せられれば事務の煩雑なことから健康な男子は解放されるだろう、役割分担が出来れば強い軍隊が構成されやすいことかもしれない。

 

7月21日12時 フランス波止場

今朝早く本牧沖に着いた甲鉄と開陽、孟春、春日から続々と新政府の人間が降り立ちフランス海軍儀状兵とイギリス第九連隊のノーマン大佐が率いる儀状兵が出迎える中を賀陽宮朝彦(ともよし)親王と有栖川宮熾仁(たるひと)親王がフランス波止場に貴人用に特別にかけられた桟橋から上がってきた。

大名、公家からなる一行は陸奥と京極の案内で運上所に設けられた御座に案内された。

湯茶の接待と双方の挨拶の後、二人の宮様は御拾いで陸奥に案内されてインターナショナルホテルへ入った。

長溥と閑叟の二人はお供の者を二人ずつ連れて京極の案内でコマーシャルホテルに向かった。

そのほかの従者役人はそれぞれの指定された宿舎に案内されて船旅の疲れを癒した。

 

7月24日16時 千代田城

二人の宮様が多くの供揃えで千代田城に入ってきた。

川越城主で前の会計総裁や南町奉行など経験豊富な松平康直(周防守、康英)が大手門で出迎え田安慶頼、松平確堂が先導して本丸御殿に入った。

天子は本丸ではなく西の丸に入るという事にして仕度が進んでいた、二人は本丸に入り天子が江戸入りをする日まで其処で政務をとることになった。

二の丸は昨年に焼き討ちされて炎上したため跡地には仮拵えの御親兵兵舎が建てられ始めていた。

西ノ丸下は伝習隊が千代田城の守備に戻り、福田が総指揮を取っていた。

周防守は勝と大久保から奥の手として官軍に恭順の上で、江戸との往来を遮断して官軍が此処を通りぬけて流山へ入りやすくするために、大村に協力するように頼まれて、裏では官軍通過後に江戸防衛軍にすぐさま城を明け渡したのだ。

政策室は木戸と後藤が京に残ったが議政官の残りの人員と8月に入れば木戸は江戸に来るということになった。後藤は天子の東遷のお供するために京に残った。

郡県制は道州制と名が改められて三府一道八州に決まりあとは州の名前と区分け作業が残った。

西京府は京都府とされた、都と言う字を入れることで京師が日本の都であることを示すことであくまでも京が首都と主張するものを宥める目的もあるようだ。

昔の律令制から取った奥羽郡を分けて海の名を太平洋(Pacific Ocean)、日本海(the Sea of Japan)として奥羽山脈で二つに分けることになった。

陸奥州陸奥(津軽を除く野辺地以東)

羽越州津軽、出羽、若狭、加賀、能登、越前、越中、越後、佐渡 

関東州甲斐、伊豆(東西に分かつ)、相模、安房、上総、下総、常陸、武蔵、下野、上野

東海州伊豆(東西に分かつ)信濃、駿河、遠江、三河、尾張、伊勢、志摩、伊賀、美濃、飛騨

近畿州近江、紀伊、山城、大和、河内、和泉、摂津、播磨、丹波、丹後

中国州・備前、備中、備後、美作、安芸、周防、長門、但馬、因幡、伯耆、出雲、石見、隠岐

四国州・淡路、阿波、讚岐、伊予、土佐

九州 ・筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅、壱岐、対馬、琉球 

いまだ県としての区分けは確定しないままで政治局員は日夜議論して藩と飛領の整理に頭を抱えていた。

天子の江戸入りに合わせて発表するとされていたのだ。

関東州は横浜と相模に箱根で分断した伊豆のうちから東側を取り入れて神奈川とする事は決まり江戸との境界の問題だけが残った。

東亰府と六郷で分ける事はすぐに決まったが川上をどこで分けるかでもめていた。

町田をどちらの行政地に入れるかで盛んに議論されていたのだ。

近畿州行政県、四国州行政県、九州行政県は割合早く決まった。

近江は京都府に組み込まれ大阪府は河内、攝津、和泉とされた。

しかし九州は長崎が特別区なので独立させるか名前を残すかで揉めているが四国と違いあまり小さな分割は後々困るとの意見が多かった。

肥前は佐賀。肥後は熊本。薩摩、大隈、琉球は鹿児島。豊後、日向は大分

そして豊前、筑前、筑後が福岡とされて後は県境の線引きが残った。

長崎特別区は独立させるという意見も多かったが佐賀に統合しようという意見が大勢を占めていた。

同じことが羽越州でも加賀を含む越中、越前、若狭での分割統合でもめていた。北から津軽県(竜飛から八郎潟まで)、出羽県、新潟県までは決まり統合して石川県の四県とする意見が政治局で多く議政官にも其の意見が多かった。

今日24日時点では県を三十五、府を三としていた。

陸奥州行政県

三県 盛岡県、宮城県、福島県。

羽越州行政県

四県 弘前県、出羽県、新潟県、石川県。

関東州行政府県

一府七県 東亰府、神奈川県、埼玉県(崎玉県を変更)、千葉県、茨城県、群馬県、栃木県、山梨県。

東海州行政県

五県 静岡県、愛知県、長野県、岐阜県、三重県。

近畿州行政府県

二府三県 京都府、大阪府、奈良県、和歌山県、兵庫県。

中国州行政県

四県 岡山県、出雲県、山口県、広島県。

四国州行政県

四県 香川県、徳島県、愛媛県、高知県。

九州行政県

五県 佐賀県、福岡県、大分県、鹿児島県、熊本県。


1868年9月25日金曜日

8月10日 京

津和野藩主、亀井茲監に御即位新式取調御用掛が任命された。

宗教局副長官の亀井茲監は慶応4年8月17日に10日後の8月27日に即位の礼を行うことを発表、21日から関連儀式を執り行うための準備に入った。

新しい時代を向かえ即位の礼も新しい様式と古式に則った折衷案が採択されることで亀井は故事の例を調べて其の役の者達と日夜研究に余念がなかった。

東亰奠都の行列の采配は後藤の方に懸かり此方も費用そのほかで頭を抱えていた。

「容堂様、金が大層懸かり大事で御座います」

「仕方なかろう戦がなかった分其方にかけてもいいだろうと勝と大久保が言い残して江戸に行った以上此方の金蔵が空になってもやるしかないさ」

「勝さんは気楽なものでしょうがお供の人数も少しは減らしませんといけないでしょう」

「江戸に出たくない公家を募ってこちらの留守を預けると申し伝えてみるかな、久光公に相談してできるだけ此方においていこうでは無いか。とりあえず広沢にも相談して早めに人選をしておいてくれ」

「かしこまりました」

天子と供に江戸に向かう会計責任者の三岡の元には亀井から式費用として四万両以上の予算申請が出され皇室の一年間の費用が全て無くなるがどうしようかと相談があった。

旧幕府時代には式費用は全て幕府が持ち皇室費用も十万両規模だったものがそれを知らない三条、岩倉たちが決めてあった費用見積もりは明らかに旧幕府時代のものに足りない金額だった。勝はそれを承知の上で予算縮小のためにあえて旧に復さないことを一翁と決めての江戸くだりだった。

三岡は「この際です私の独断で五万両用意いたします。亀井様には遠慮することなく十分な仕度をしてください」そのように予算の上乗せをして亀井の心配を無用にした。

奠都の費用はおよそ八十万両しかし江戸はともかく京には三十万両しか現金がなく諸費用もかさむ中残りはどのように調達するか三岡の腕にかかっていた。

三岡は坂本にも話した太政官札百五十万両の印刷を考えて木戸と大久保の承認を得ていたので勝にも了承を求め議政官の賛同を得て諸費用の支払いに当てることにしたのだ。

勝の進言で通用五ヵ年、税の支払いを太政官札では2年後から応じることにしての発行であった。しかし大商人の中には其の札の値打ちを信ぜずに額面の七割で売り渡すものまで出て盛んに外国商社が買いあさっているという噂もあった。

中には偽の二分金一分銀まで買い集めているという噂の商社まであるらしく三岡は其の偽金銀の取締を各居留地の奉行所にも要請した。

 

8月17日 京

亀井は太政官布告として即位の礼の日取りを発表した。

慶応4年8月21日 伊勢神宮へ勅使発遣の儀 

慶応4年8月22日 神武天皇陵、天智天皇陵、及び前三代天皇陵へ勅使発遣の儀 

慶応4年8月23日 紫宸殿・清涼殿御殿洗 

慶応4年8月27日 即位の礼 

諸費用見積もり四万八千両と言うものであった。

奠都費用の心配は太政官札の発行でしのいだが、いまだ大阪遷都論の時の燻りが公家や京の町人からも出ていて東京とは謳えない江戸の町であった。

太政官札を発行するについて大阪の大商人にいく割りかを現金と引き返させた代わりに御用商人の鑑札を与えることになってしまった。

大阪遷都は大久保一蔵が唱えたが反対が多く天子がこの年の一月に行幸しただけで終わっていた。

江戸遷都も大久保に対して神戸にいた元幕臣の前島喜輔の進言があり、佐賀藩からも江戸を新都として諸外国に対したほうが新しい街づくりをするよりも安上がりだということで上京してきた東軍の首脳も賛成したものだった。

しかし表向きは東亰行幸と言うことで進行していた。

しかし官人が二千名、御親兵が板垣及び藤沢の指揮で千三百名と予想されており泊まり泊まりの宿の手配も各藩の参勤の熟達したものがあたることになった。

「この際だ、直接のお供は三百人にして後は順次ご即位式典終了後に出発させよう。軍隊の移動では有るまいし三千名を越す人間が街道を歩いては宿場がいくつ満杯になると思う。寺や町屋にでも泊まらせなければ寝るところもない」

静観院宮さまの御嫁下の際の行列にうんざりしたことのある公家の中にも其の案に賛成するものもあらわれ後藤は其の人員の割り振りもはじめた。

 

8月17日 江戸

この日東亰府が開設された、幸門内の松平大膳(柳沢保申)邸を東亰府庁舎と定めた。

烏丸光徳(からすま・みつえ)が初代府知事となった、蛤御門以来長州と縁の深い人物だ。

有栖川宮熾仁親王とも縁が深く天子の東亰行幸までの暫定的なお迎えのための任命だった。しかしそれはうわべだけで疲弊した公家のための救済であり其の俸給は僅か三ヶ月で千五百両が支給されることになった。

首都防衛軍としての御親兵は板垣到着後になるが臨時の鎮台を江戸に置くということになって西ノ丸下の伝習隊が東亰鎮台として設置されて総数六千名で元東軍が管理を任された。勝は軍事総局総裁として大山弥助に司令官を命じた、

藤沢次謙を天子の御親兵として板垣が所望したのでそれに応じての大山の起用だった。

大鳥以下の伝習隊、歩兵隊は各地の鎮台への派兵が決まっていた。

一鎮台千六百名規模と勝や大鳥は考えていたが議政官の要請で倍の三千二百名が置かれる事になった、東亰は其の総元締めとして関東一円で鎮将府として一万二千名規模の兵を置くことになった。

勝の構想では全国での鎮台兵の予定数を関東一円で養わなければ成らない、全国では三万六千名規模とする構想を打ち出してきていた。

「一翁さん困ったことだ、こんなに多くの兵を養うには金のやりくりで大変だ。幕府時代に逆戻りだよ」

「いいさ、函館が収まれば順次縮小することさ」

「そうしたいが中々兵を増やすのは簡単だが減らすのは大変でやんしょう。徴兵されて訓練を受けさせるものと総合的に考えれば教員としての兵がいればいいと考えていたが中々うまく機能しませんな」

「これこれ、麟さんやお前さんが不精をしないでもっと動かないから議政官の不安な気持ちが強くなって、兵が多いほうが安心だということになるのだよ」

「それは此方のほうでも、多くの者がまだ国中が不安定で兵に頼りたくなるので御座いましょう」稲葉もそういってどうしても兵を多く養うことで安心感を求める人が多いことに諦めを感じているようだ。

大関のいない参謀本部は勝が指揮を取って大鳥と伊地知が増強される兵を出す藩の割り振りを急いでいた。

旧幕府軍は政府から支給される給与で全てを全国に割り振り各藩からはどのくらいの兵を出すのか聞き取りを始めていた。

伊地知はこの間の戦の経験から歩兵にはスナイドル銃、騎兵にはスペンサー銃とウィンチェスター銃を主力装備にする予定だった。

東亰鎮台はまだ騎兵のための鎮台が決まっていないため騎兵四中隊四百八十騎、歩兵三大隊三千六百名、砲兵四中隊四百八十名、輜重四中隊四百八十名、工兵四中隊四百八十名、給食賄い方四中隊四百八十名にする予定でいた。

賄い方はいままで兵が食事の仕度をすることが多かったのを輜重隊から分離して定時の食事を出すことを目指していた。

町に出て思い思いに食事をさせるよりも偏らない食事で健康維持と体力を付けることが目的であり此処で学んだものが全国の鎮台に派遣される予定だった。

鎮台司令官  大山弥助

騎兵隊指揮官 大田資美

歩兵隊指揮官 林昌之助 大隊長 松平太郎 朝田惟季 土方歳三

砲兵隊指揮官 福田八郎右衛門 

輜重隊指揮官 中島恒太郎

工兵隊指揮官 小菅辰之助 

給食賄い方  北條慎五郎

「まずは上方から戻る人員が揃えば薩摩、長州、佐賀、肥後、土佐の各藩の人材が一同に会するから選り取り見取だぜ」

勝は大山にそのように話してあせらずに各地から有能な戦士を集めるように薦めた。

板垣が江戸に入れば西ノ丸下は御親兵にして鎮台は深川、芝、千住に分散する予定だ。

 

8月20日 横浜

アメリカ公使館つきのMr.ポートマンから出されていた鉄道建設許可の取り消しが通告された、小笠原公から認可されていたが大政奉還後であるため幕府の認可はその日を境に改めて審議されたが国家事業として主な幹線を建設することに決まり、私企業としての建設に待ったがかかったものだ。

ポートマンとヴァルケンバーグの二人はすごい剣幕で伊藤に会いに来て小笠原から出た許可状をもって国際裁判にかけるとまで脅かしながら詰め寄ってきた。

長崎から出てきていた大隈重信とともに応対した伊藤は「大政奉還以後の徳川幕府の許可でありさらに将軍の認可印のない物を認める事は出来ない」と突っぱねた。

佐藤与之助(政養)が鉄道頭に選ばれイギリスから年内に野村弥吉が帰国するので協力して建設に当たるように政策室からの指名を受けたものだ。

横浜に出てきた与之助から相談を受けた寅吉は日本の地図に大きく江戸からの幹線を蝦夷地までと中山道、東海道、を通り京まで、蝦夷地から北陸を通り京まで、そして京から二つの路線を下関まで其処から海を渡り長崎までと鹿児島までを引いて示した。

「オイオイ、コタさんよ海を渡るのは難しかろう」

「大丈夫ですよ、先生の言う海軍三百年より短い鉄道100年構想と言うことで帰国する野村さんと大筋を決めてください。それよりまず江戸と横浜、京都から大阪を通って神戸までを最優先で決めることです」

「そうだなそのあたりが実現可能なところだろうな。脅かされたもので肝が縮んだぜ」

「ハハ、そんな弾でもありませんでしょう。先生のほらに比べれば小さなものですよ。それより金ですよ。見積もりを百万ポンドは用意しないと間に合いませんぜ、steam locomotive一輌で三千五百両はかかりますぜ、江戸と横浜の間を走らせるにも順次用意するにしても十輌は必要ですぜ。客車に貨車細かい買い物も案外かかりやすぜ」

「二百五十万両かよそいつは無理な話だナァ、そんな金なぞどこをつっついても出てきゃしないぜ」

「外債を募るか銀行から借りるしかないでしょう。例のポートマンさんたちは横浜で金を集めようとしましたがそんなに収益が見込めない計画では金を出すものがいなくてアメリカ本国で金を集めようとしていましたよ」

「ガイサイとはなんだ」

「アアそいつはね、必要な金を集めるについて利息をこれこれ付けるからと書類を作って金を集めるやり方ですがね、わが国ではまだ諸外国に其処までの信用がないので無理かもしれませんね」

「なんだ無理な話をしてもしょうがないだろう」

「いまは無理でもわが国に金がたくさんありそうだと見込んでくれるものがいればすぐ集まるのですよ」

「金山か石炭の山でも当てるかな」

「本当ですよ、石炭はこれからいくらあっても足りないくらいでしょう。あと新潟付近で出る臭水(くそうず)がもっと実用になるくらい出るといいのですが」

「あんな燃える水が金になるのかい」

「石炭を掘るより楽に手に入りますから、もしたくさん出るところがあれば金にはなりますぜ」

「そうかできるだけ伝を頼って出そうなところを探しておこう」

「そうしてください、後燃えるものなら何でも金に結びつきますぜ」

二人はsteam locomotiveの製造工場や実際に動かしているところの話を勝先生に叱られてまたアメリカに旅立つことになった富田、高木両先生にも頼んで情報を集めてもらうことにした。

「それよりこの中の騒ぎで忘れていましたが、長崎のグラバー商会が幕府に献上したアイアンデュークはどこにありますか」

「鉄道頭をおおせつかって調べたが、ペリーの模型は有ったがあの機関車は行方が分からんのだ。横浜にあるだろうというので来たが製鉄所にもないしフランス人に聞いても知らないというばかりだ、横須賀にも問い合わせているが行方不明だそうだ。そんな馬鹿なことがあるかと調べているが噂では大砲を作るのに溶かしてしまったのではないかと言うものまでいたぜ」

「困ったものですな、あいつがあれば試験と運転の練習が出来るのに。一からやるには金が掛かり過ぎますね」

「外人を雇いながら教えを受けるか、運転にはいまから人を送って向こうで習わせるかだな」

プロシャのカスパル・ドレイヤーから寅吉と与之助に会いたいと連絡が来て二人で161番のジャーマンクラブに出かけた。
ドレイヤーと寅吉はこれからの取引の商品について話をした。

「コタさんクルップ砲で儲けさせてもらったお礼だ」

マイセンの磁器の人形を寅吉に、与之助には「鉄道頭の就任祝いです。遠慮しないでください、仕事のつながりをつけるためでは有りません」そういって綺麗な絵皿をくれた。

二人は礼を言ってもらって帰る事にしたが「ところで少しは磁器や人形は売れたのですか」

「いやまだ半分以上売れ残っているよ。誰かいい買い手はいないかい」

「少しずつでもいいのかな」

「出来ればまとまって買ってくれるとありがたい、2年前とは違い資金に困ることもないが虎屋さんとは付き合いも長いしいろいろ商売でも世話になったから仲介してくれるとありがたい。皿が400枚と人形30体あるんだ」

「なんだあの時より多いじゃないか」

「そうなんだよ、それで困っているが仕入れた価格の合計がポンドで2700になるんだ何とか元値だけでも回収したい」

「其の値段ならいいだろう、俺が引き取って売りさばいてみよう」

「本当かい、助かるよ。何時どこへ届けようか」

「ピカルディのほうへ届けてくれないか、支払いは品物の出来を信じて今払うよ」

「本当ですか、さすがコタさんだ俺たちで役に立てることがあれば遠慮なく申し出てください」

寅吉は振り分けからオリエンタルの手形で2500ポンド現金で200ポンドを支払い「ではお願いですがあなたのほうでsteam locomotiveやレールなどの優秀な製作所を調べていただけませんか。まだまだ先のことでしょうがカタログなど出しているところや新聞などに載った写真も集めていただくと助かります」

商売につながる話に発展しそうと踏んだドレイヤー氏は「喜んで役に立ちますよ。ところで何時ごろに実現可能な話ですか」

「3年は下準備と金集めに掛かるだろう」与之助が引き取ってそのように話して「まだどこからどこまで引くかも話がついていないのだが江戸と横浜を結ぶ事は間違いないさ」と続けた。

二人は元町に向かいそこで勝次にいまの話を伝えてピカルディに連絡に行かせた。

陸奥が来て「俺に子供が出来てなぁ、結婚することにした」

「それはおめでとう御座います。それで奥様は此方にお呼びになられますか」

「いやもうこっちに着いていてな。来春には生まれる予定だそうだ。名は蓮子と言うんだ、覚えて置いてください」与之助に報告するように陸奥は話した。

与之助も祝いを述べて「何か祝いの品物でも考えんといかんな」と考えていたが「まあ子供が生まれたらそれからでもいいか。先生とも相談して何かいいものでも贈ろう」と陸奥に賛同を求めた。

話はsteam locomotiveになり、ここでもアイアンデュークの行方に陸奥も協力してくれることになった。

蝦夷地までの鉄道の引き方や九州への渡り方も話題になり「イギリスでは地下に穴を掘り機関車を通していますが、今のままでは煙で困るようですがそのうちよい方法が見つかれば地下を通すことも可能でしょう。横浜と江戸の間なら穴を掘らずに切り通しを掘れば可能でしょうから後はどこを通すか次第です」

「江戸は芝新銭座当たりがよいかな、此方は埋め立てをする予定の野毛浦あたりで洲干弁天まで引くか、しかし海岸の埋め立ても金がかかるな」

「それなんですが請負で鉄道敷地以外を埋め立て業者に期限付きで与えるというのも手でござんしょう」

「そうか永久ではまずいが期限付きなら外国資本でもいいか」

「外国資本では後で困りませんか」

「それでは誰か引き受けてがあるだろうか」

「いまの横浜なら大勢引き受けてが居りますぜ。たとえば異人館の建築を引き受けている鹿島岩蔵さん、高島嘉右衛門さん、丸高屋紀重郎さんなどいくらでも居りやすぜ」

「そうかそのうち誰がいいかな」

「鹿島には埋め立て資材の調達、高島には総指揮、丸高屋に人員と言う風に申し付ければ高島で金を集めて請け負うと思いますぜ。江戸からできるだけ直線で街道に沿って神奈川まで引いてくればよいと思われます」

「そうか横浜の根回しは俺が引き受ける」陸奥が佐藤先生にそのように伝えて佐藤先生も了承した。

「マァイギリスから野村氏が戻ればあちらの最新情報も聞けるだろう」

与之助はそれより金の集め方が頭の痛い問題だと江戸に戻って伊藤と三岡に金の工夫の相談をしようと言うことになった。

「コタさんよ。お前名前を挙げたところをみると何か資材や人員のあてでもあるのかい」

与之助が馬で江戸に戻った後、元町に残った陸奥が話をそう切り出した。

「埋め立ての土は鉄道のための切り通しを掘ったもの、土手の石は伊豆と対岸の房総の山のものと最近話が出てきている根岸への掘割の土が使えましょう。神奈川から野毛にかけて弧を描くように埋め立てればよいでしょうし其の付近の漁民には土地を与えて仕事を周旋すれば苦情も出ないでしょう」

「そうか漁民のこともいままでのように強制的に立ち退かせるだけではいかんなぁ」

「そういうことで御座いますよ。文明が進めばこれからはそのようなことも視野に入れておかないと後で困ります」

「それも含めて高島に話をしておこう」陸奥は腰を上げて太田町の家に戻るのに附いて寅吉は裁判所の傍の石川屋に向かった。

居留地のはずれで陸奥と別れて石川屋で主の覚右衛門と生糸や陶器のことなどを話すのだった。

6歳になった次男の角蔵は寅吉にもなついていておみや(土産)をねだりに店をのぞいていたので店の脇の木戸から中に入り先ほどドレイヤー氏からもらった陶器の人形を角蔵へのおみやにした。

「綺麗な人形だぁ、この色具合はとてもいいね」

子供とは思えぬ批評に父親も目を細めて聞いていた。

福井藩の元武家とは思えぬ砕けた様子のこの人は寅吉とは仕事上の付き合いは少なかったが町の中の諸々の事で寅吉たちの相談に乗っていた。

 

8月27日 京

亀井の指揮で天子の即位の礼が行われ、明治天皇と名乗られることが発表された。

これは東亰奠都の前に発表される一世一元の法に則って睦仁親王もしくは天子に変わってお呼びするときや、書かれる文書に使われることになった。

儀式には水戸斉昭が孝明天皇に贈った地球儀も飾られた。

宣明使が宣明を読み上げ参列者筆頭位の者が寿詞を読み古歌を歌った。「拝」と一同が唱和し儀式が終了した。

亀井が三岡に儀式の費用が余ったがどのように扱うか相談したが「それはこれからも天子のお仕度に必要が出たときのために別にして置いてくだされ」といわれて七千両あまりが会計官の手によって保管された。
 


1868年10月23日金曜日

明治元年9月8日 京

この日一世一元の法が発表されて元号が明治と定められた。

明治元年九月八日行政官布告

一世一元の詔

今後年号ハ御一代一号ニ定メ慶応四年ヲ改テ明治元年ト為ス及詔書

今般 御即位御大禮被爲濟先例之通被爲改年號候就テハ是迄吉凶之象兆ニ隨ヒ屡改號有之候得共
自今 御一代一號ニ被定候依之改慶應四年可爲明治元年旨被 仰出候事

   詔書
詔體太乙而登位膺景命以改元洵聖代之典型而萬世之標準也朕雖否コ幸ョ 祖宗之靈祗承鴻緒躬親萬機之政乃改元欲與海内億兆更始一新其改慶應四年爲明治元年自今以後革易舊制一世一元以爲永式主者施行
  明治元年九月八日

太乙を体して位に登り、景命を膺けて以て元を改む。洵に聖代の典型にして、万世の標準なり。朕、否徳と雖も、幸に祖宗の霊に頼り、祇みて鴻緒を承け、躬万機の政を親す。乃ち元を改めて、海内の億兆と与に、更始一新せむと欲す。其れ慶応4年を改めて、明治元年と為す。今より以後、旧制を革易し、一世一元、以て永式と為す。主者施行せよ

これをもって慶応4年が明治元年と定められることとなった。

京都に残った後藤は奠都準備に本格的に邁進する事になった。

其の費用は三岡が調達した金のうちから出されることもあり費用は潤沢であった。 

9月20日に二条城を出立、10月13日千代田城入場、当初中山道での予定だったがあまりの経費の多さに後藤の進言で東海道に変更されていた。

其の日程も決まり当初よりだいぶ速い速度で進むことになって公家の中には不平を言うものも出て天子が帰京する12月半ばまでの京の留守を預かる役目を言い渡されて喜ぶものもいた。

 

1868年11月25日水曜日

10月12日12時 川崎

神奈川で宿泊した鳳輦は総勢3300人余りの大行列とともに、川崎宿で昼食をとり六郷の船で作られた仮橋を渡ることになった。

天気も好く川面も穏やかで先行して渡った面々も揺れのない仮橋の出来映えに満足するのだった。

六郷を越えた鳳輦は大森梅屋敷で休息後、昼八ッ半に品川宿に到着した。

この日は品川宿泊まり。

政策室から有栖川宮熾仁親王と大久保一蔵、新しく任命された府知事烏丸光徳の三名が本陣で出迎えた。

品川付近の寺と各大名屋敷に分散して宿泊し、明朝9時出立と告げられ先行して増上寺門前で隊伍を整える旨が改めて後藤から通達された。

 

10月13日 千代田城

朝から品川宿は鳳輦の通過を見送る人波であふれていた。

二階からの見物は厳禁されていたが土下座の必要はなく一礼した後は顔を上げることを許されていた。

泉岳寺付近ではまだ行列も緊張した様子もなく漠然と通り過ぎたので見物に出てきていたイギリス公使館員たちをがっかりさせた。

増上寺で威儀を整え乱髪の兵士達は色とりどりの鉢巻きを渡されて隊伍を整えた。

板垣は自分で兵士の間を廻り鳳輦の前後を薩摩藩兵と土佐藩兵が固めた。

寅吉は花岳院の門前で千代たちと行列を見送った。

表門を出て神明宮門前の大勢の見物人の中鳳輦は東海道の最後の道を左に曲がり、行列は日本橋まで出てから左に曲がって呉服橋御門に入った。

北町奉行所の前で曲がって和田倉門から坂下御門にぬけて西ノ丸に入った行列は家達や勝に大久保の出迎えを受けて明治天皇は鳳輦の中から挨拶を受けてそのまま大玄関の式台に上がりお廊下で鳳輦から降りられた。

大広間で政策室他新政府の一同にご挨拶があり西ノ丸大奥がお住まいとされ、改めて千代田城は東亰城と仰せだしがあり皇城と定められた。


 酔芙蓉番外編 習志野決戦 完

 習志野決戦 − 横浜戦
 習志野決戦 − 下野牧戦 
 習志野決戦 − 新政府
 習志野決戦 − 明治元年

幻想明治 第一部 
其の一 洋館
其の二 板新道
其の三 清住
其の四 汐汲坂
其の五 子之神社
其の六 日枝大神
其の七 酉の市
其の八 野毛山不動尊
其の九 元町薬師
其の十 横浜辯天
其の十一
其の十二 Mont Cenis
其の十三 San Michele
其の十四 Pyramid

横浜幻想  其の一   奇兵隊異聞 
 其の二   水屋始末  
 其の三   Pickpocket
 其の四   遷座祭
 其の五   鉄道掛
 其の六   三奇人
 其の七   弗屋
 其の八   高島町
 其の九   安愚楽鍋
 其の十   Antelope
 其の十一  La maison de la cave du vin
 其の十二  Moulin de la Galette
 其の十三  Special Express Bordeaux
 其の十四   La Reine Hortense
 其の十五  Vincennes
 其の十六  Je suis absorbe dans le luxe
 其の十七  Le Petit Trianon
 其の十八  Ca chante a Paname
 其の十九  Aldebaran
 其の二十  Grotte de Massbielle
 其の二十一 Tour de Paris
 其の二十二 Femme Fatale
 其の二十三 Langue de chat
     



幕末風雲録・酔芙蓉
  
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