酔芙蓉 第一巻 神田川


 

第二部-2 川崎大師

川崎大師・両国橋・長命寺

 根岸和津矢(阿井一矢)

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・ 川崎大師

「コタさん湯豆腐があったまったからお食べよ」

「すまねえ今そっちに行くよ」

この正月福井町では一家総出で川崎大師に初詣に3日かけて出かけています。

二親が川崎大師に初詣に行きたいというので、江戸に出ていた鶴屋さんがついて、足の悪いお初さんと年寄りは籠で、元旦の朝に出かけていきました。

おきわさんが暮れになって足をくじいて居残り、お金が同行したので虎太郎が無用心だからと泊まりに来ています。

「こたさんは、鰻みたいなこってりしたのが好きなくせにあっさりした湯豆腐が好きなんておかしなこだね、まるで年寄りさ」

「本当はすげえ年寄りが若い振りしてるかもしんねぇぜ」

「馬鹿言ってるよ、それよりもう鱈を入れてよいかい」

「いいとも、それよりおきわさんも仕事じゃねえんだから一緒にお食べよ」

「アレ、そんなら頂こうかね」

夫婦気取りの夜が空け、虎太郎をおきわさんが起こします。

「ほら朝日が出てるよもうおきねぇ、柳湯があいたと触れが回ってるよ、湯屋に行って御出でな」

「さみいじゃねえか、雨戸を開けてよう」情け容赦なくたたき起こされた虎太郎は、仕方なく朝湯に出かけます。

「おやコタさんじゃねえか、朝湯とは珍しい」

「昨日は福井町に泊まったので、いつもとは違うのさ」

心安立てに三助と話ながら背中を流させ、お愛想を聞きながら風呂からあがると二階で茶を飲みながら近所の年寄りの話しを聞くのだった。

「新年の朝湯は堪えられねえな」

「そうとも、風呂に入ってさっぱりとして初詣にでもゆるりとでかけりゃ、御利益もまんさいだぁ」

自分町内とは違うが夕刻にたあさんと時々よる柳湯は、知り合いになったものも多く、顔見知りとなっている町内の年寄りに自分の煙草を勧め、噂話に耳をそばだてるのだった。

虎太郎の記憶とあう噂が聞こえれば記憶の後をたどり、この先の何が起こるかを先生と相談して大きな道筋を立て、対処していくために湯屋は貴重な情報源だった。

「コタさんよお前さんタバコはすわねえのに、豪勢ぎばった煙草入れに国分の上物を入れているじゃねえかよ」

「こいつは飾りでやすよ、よい煙管が手に入ったのでついでに煙草入れも作り、私のほうの店の見本代わりに持ち歩いておりやす」

「さすがに煙草は扱いませんが、煙管と煙草入れはわずかですが商っておりやす」

そういうとキセルをだして見せ「ついでに一服いかがです」と差し出すのだった。

「こいつはいいキセルだ」なん人もの手を経て戻った煙管を煙草入れに戻すと「この煙草入れは紀乃屋さんの特注で月に三つしか扱わせていただけやせん、しかも柄が違うものだから女物と対にするにゃ骨が折れやす」

「おいコタさんお前さんどこの女と対にしなすった」

「しちゃいませんよ」

「仲の花魁にぞっこんになられて参ってるそうじゃねえか、うらやましいこった」

「アレはあちらの手管でござんしょう、信じちゃいけやせんよ」

「もってえねえこった」など年よりは若い者をからかう楽しみを見逃しません。

帰りがけに風鈴蕎麦屋の親父が上がってきたので「弥吉のとっさんよ、粉が多いが俺の煙草をもらってくれよ」と煙草入れに自分の中身を空けて全て入れてしまいました。

この親父神田まで時々は商いに足を伸ばすので、頭になった岩さんのところで虎太郎が若い衆に総仕舞いにしてご馳走する事がたびたびで顔見知りです。

普段から何があっても嬉しそうな顔をしない老人ですが酒は飲まない代わりに煙草は切らした事がありません。

「コタさんよういっもすまねえな、お前さんのは上物で俺にはこいつをやるのが楽しみだよ」

住まいは茅町で虎太郎がよくいく鰻屋の多喜川、そのとなりの蕎麦屋の親父ですが昔の担ぎの味を懐かしむ客のために、早い時間ですが晴れれば流して歩くのでした。

「コタさんよおめえが喰いてえといってた、天ぷらそばを今度は屋台でもやってみようと工夫してるんだがよ、やはりさめるとうまかあねえな、とりあえず天かすを好きなだけお入れくださいと屋台でも店でもだしたら評判でよ」今日は口がすべるようです。

初音家に戻るとおきわさんが「隣で雑煮を届けてくれるからもう少し待ちねえ」

昨晩の湯豆腐もとなりの老夫婦が豆腐も自分たちで作り、鍋に仕込みをして届けてくれたもの、おはつさんがこういうときのために近所には善くしているのがよくわかります。

「おきわさんお待ちどう、コタさんがめえをとったから熱々を持ってきたよ」

「おかたじけ、後で茶を飲みにおいでよ、京から羊羹が来たのがあるんだよ」

「アア鍋を下げに爺さんと一緒によらせてもらうよ」

「もちは焼いてきたから柔いのがよきゃちっと煮込んどくれ」

そういうと裏の木戸を抜けて自分の家に帰りました。

その日の夜はどこで手に入れてきたのか河岸もあいていないのに、マグロのねぎま汁。

「ほんとにとなりの爺様は料理が美味いよ、コタさんもっとお食べよ」

「二人で熱々のねぎまで一杯やるなんてご夫婦になった見てえじゃねえか」

二人だけの酒宴は続き正月二日の夜は更けてゆきます。

明けて正月三日、今朝も朝風呂。

風呂屋の二階では老人達と虎太郎が、ばか話で盛り上がります。

「新しい煙草を入れてきたからやっておくんなさい」

「どこで仕入れてきなさった」

「おはつさんのところにでえぶ余分において有りやすので其処から持ち出しやした」

「そいやぁ、おはつさんたちゃお大師様に初詣だと」

「左様でございますよ、こんだ旦那になる方とそろってのお参りですよ」

「エエッ、おはつさんが旦那を持つのかい」

「それですがね、相手の方がぞっこんで、所帯を持つことになりやして」

「それで初音家はどうなる」

「おきわさんが夏にはおかみになって続けますよ、芸者は半玉の子が来てくれますから夏まではおきわさんが引き回すことになりやした」

「年増芸者とはいえ、柳島名物が一人消えるのは寂しいや」

「何を言いやがる、おめえなんぞ座敷に呼ぶことも出来やしねえに」

「出来なくとも箱家を連れて歩く姿を拝んでいらあ」

とても年寄りとはいえぬ威勢のよい会話です。

「て言うと一人で留守番かよ」

「いいえおきわさんと二人で居残りでござんす」

「なんだい、そうするとおきわさんはどうして行かなかったんだ」

「おきわさんが暮れに足ぃくじいて痛むので籠に乗るのもつらいというので居残りでやすよ」

「そうするとコタさんはおきわさんと二人の正月かい」

「左様でございやすよ、お金ちゃんも連れていきやしたから」

「あっしは元旦から3日の間留守居を頼まれましたが、まさかおきわさんが居残るとはしりやせんでね」

「うらやましいぜコタさんよう、知っていりゃ看病に行ったのによ」

「おめえが行きゃ看病になるめえ」

「なにお言いやがる、おめえが行きゃコタさんにつまみ出されるのがおちだあな」

「なんでぃ、こちとらぁいまでも米俵くらい軽く挿すぜ、行っちゃあ何だがコタさんくらい軽く一ひねりだあ」

「オイオイ、善兵衛さんよコタさんの強いのしらねえのかよ」弥吉さんが言うと「なんだよそりゃコタさんがどうしたって」 

「ありゃよ四、五年もめえだがよ」弥吉さんが柳原土手のいきさつを話すととても信じられねえという顔ばかりが虎太郎を覗き込みます。

笑うばかりの虎太郎に「忍術でも使いなさるか」と聞くので「いえ勝先生のところの塾生に柔術を少しばかり習いまして」と話しても信じる事が簡単に出来ない老人たちでした。

「だってよぅ、いまコタさん幾つだ」

「19になりやした」本当は18ですが数えで19も本当のこと。

「そうするとそのときゃ15くらいか、そんな子供がよぅ、大の大人ばかり五人も投げ飛ばせるかよ」アレレいつの間にか数が増えているようです。

虎太郎の仲での話が大げさに伝わり、おきわさんと二人でも何かあるとは勘繰る事もない人たちです。

虎太郎の煙草が切れると腰を上げて「お先にごめんなさいよ」と初音家に戻ります。

夕刻には無事に参詣を終えた一行も戻り、お土産を預かり虎太郎は神田に戻りました

 

・ 両国橋

「お容ちゃん、出に使う仕度は揃ったそうだね」

「あい、コタさん全部間違いなく揃いました」

「いよいよ明々後日(しあさって)がお披露目で河半には、淀屋さんがお座敷に呼んでくれることも決まったからしっかりやりねえよ」

「その後は梅川で吉野屋さんが、但馬屋さんに河嶌屋さんとおいでになることも決まった、明日の花見のお天気だけがしんぺえの種だがよ」

「アレコタさんはあちきの出の日の天気より花見の天気の心配かえ」

「そういうわけじゃねえがまず明日が先にくらあね」

昼前はどんよりしていたこの日も夕方には晴れ間が広がり富士までがみとおせるようになりました。

たあさんとおきんが一緒に両国の広小路まで出て、絵看板を眺め手妻の小屋に入ってみた。

この日は人気の紫胡蝶太夫が両国最後の日というので、晴れたら是非にも見に行きたいというので4人で観に出てきたのだ。

最初は老芸人が出てこまを回し、次に若い太夫が3人で傘の上でますを回し、土瓶を回し、賑やかに引き込めばお目当ての胡蝶太夫がまず水芸で人の目を引き、人気の紙で織った胡蝶をひとひら、扇子で扇ぎたて賑やかな囃子に乗せて何時の間にやら数多くのちょうが舞い踊る桃源郷にいざなうのだった。

気が付けば舞台は暗転し花畑に一人たたずむ胡蝶太夫に色とりどりの蝶が群がり「ハィツ」という掛け声と共にただ一羽の蝶を残し舞台に落ちて最後の蝶を見物衆に向けて扇子で扇ぎます。

見物人の上に落ちたそれを見れば最初に切り込まれた唯の紙に戻っておりました。

いっせいに起こる拍手喝さいのうちに舞台が終わり、興奮したお金にお容ちゃんを連れて人ごみを抜け出します。

午後に塾から戻ったのでまだ日暮れまでは間もあるのに少し肌寒くなり出したので、柳橋を渡り右手に見える亀清に目をやればもう人が大勢入っていく光景が見えました。

福井町に送り、あがらずにたあさんと帰路に着きます。

蔵前から堀に沿って安倍川町でしゃもを食べる算段、其処からたあさんのいる加藤様のお屋敷はほんの五丁ほど「久しぶりに外で酒が飲める」とたあさんがいうので「たあさんの久し振りは3日くれいしきゃねえから、いってぇ今度はどのくらいぶりですかい」

「そうさなぁ、五日ほどは飲んでおらんぞ」

「そりゃ大変だ、酒が切れても何のこともありやせんでしたか」

「いやその、んぁ、外では飲んでおらんということじゃ」

「ごめんなさいよ」

後ろから急ぎ足で来ていた若い粋な女に声をかけられ追い抜かれましたが、たあさんが「オイ、コタさんありゃ胡蝶太夫だぜ」大きな声でたあさんが言うと「毎度ご贔屓様です」後ろを振り向いて挨拶して先にどんどんと行きますが、こちらの二人は時間を見てののんびりとぶらぶら歩き。

「どうして解りました」

「あの隙のない身のこなしと、声からそう思ったまでじゃがの」

さすが藩邸では若年ながら剣も勉学もぬきんでた、たあさんは人を見る目も鋭いものを持って居ります。

虎太郎が軍鶏鍋を囲みながらそういうと酒に浮かれてか「いやそのな暇な帰り道にボーっと絵看板に見とれていたら懐を抜かれそうになってな、気にしてはいたが、ちと油断が見えたらしく袂を太夫が引いて小さくお気をつけなさいませと教えてくれたもんさ」

恥ずかしいとは口先だけで人気の太夫と知り合いらしく人に見えた様子が嬉しかったようです。

「いやですよお放しなすってください」となり座敷で若い女が声を荒げ「若旦那お人にかかわりますよ」 「止せよたかが女芸人の癖しやがって、人を振るたあどういう了見だ」

「おや、相談があるからここで待っている、そんな手紙を頂きゃ日ごろご贔屓のお前様のご機嫌伺いがてら酒の相手に、金の掛からぬものでも呼び出そうと考えなさったかと思い、つきあいましたのさ」

「日ごろつぎ込んだ金は並大抵じゃないなんぞ、くどき文句にゃ程遠い野暮なお話を聞きにきたわけじゃありやせんよ」

「声が高い、まあ座って話しをしねえ」易しそうに言いながらも入り口側に回りこむ様子が見えたか、此方の座敷に「ごめんなさいよ」と入ってきたのは先ほどの胡蝶太夫。

虎太郎しか見えなかったか「オイ若いのそいつは俺の女だこっちによこせ」横柄に言い募ります。

「誰があんたの女だい、利いた風なこと言うんじゃないよ」

「マァマァ、お静かにねげえますよ」易しく虎太郎が言えば甘く見たかこちらの座敷に踏み込もうとしますのでたあさんが「静かにせよ」低いが気合のこもった声で言うと「なにょ」と胡蝶太夫越しに見れば若くとも侍、方膝を立てて姿は技を知らぬ町人といえど凄みがあり「おぼえてやがれよ」捨て台詞でどんどんと階段を下りてゆきました。心配そうに覗いていた軍鶏家の亭主もほっと安心して上がってきましたが「あっあいつ銭も払わずにけりやがったどうしてくれべえ」

「すまないがあたしの貸しにしとくれよ」それに被せる様に「そっちの分も払うからついでにお酌をして帰って下さらんかね」と虎太郎が言って座敷のふすまを閉めました。

「あれすみませんねえ、コタさん」

「おい太夫いつの間にコタさんと知り合いになったんだ」

「あったのは今日が初めてだと思いますがねえ」虎太郎も不思議そうに言うと「隣までそちらのお方の声が筒抜けさ」そういいながらも「あたいのもいっぺえおくんなさいよ」「どんどんとやってよいぞ、今日はコタさんのおごりじゃ」ごちになって大束に気が大きいたあさんです。

「おや若いのに先ほどは若いお嬢さんずれでご見物されいいご身分ですね」

「舞台の上でそんなとこまで見ておられますか」

「上からは何でも客席の事が見えますよ、二人ともコタさんには安心してお任せという風に見えたこともね」

「そんなに眼が利く太夫がなぜこのようなところにきなすった」

「あい、あたいのうちは、元鳥越町で其処に両親がいますので今日は打ち上げもそこそこに久し振りに顔を見せに行きますのさ」

「コタさんお前帰りがけだ家まで送りなされよ」

「よろしいですよ、話が決まればもう少しお飲みなせえ」とたあさんにも太夫にも進め虎太郎は控えることにしました。

店の勘定を済まし、たあさんと分かれて堀沿いの少し戻ったところに先ほどの若旦那という男が、ごろつき風の若いものと立っており、「オイ若いのさっきはさんぴんが一緒だったから勘弁してやったがこんだぁそうはいかねえ、そいつをこっちによこしねえ」言うが早いか手を出したので小手を返して後ろ手にひねればたまらず「何しやがる放しやがれ」わめくそばからもう一人が殴りかかるのを足で軽く裁くと一人で堀に落ちてゆきました。

「まだ水は冷たかろう、風邪を引きなさんな」

「おいオイ、あいつを助けて早くかえんなよ」虎太郎はそういうと手を離して何事もなかったように歩き出します。

「強いんだねえ」 「そうじゃねえよ、相手が弱すぎるんだぁ」

そんな話しをしているうちに家に着いたらしく「ここだよ、きょうはありがとうござんした」そういうとひらりと身を帰して家に入ります。

「鮮やかなもんだ」独り言を言いながら道を川沿いにたどり和泉橋を渡って戻ります。

 ・ 長命寺

墨堤に今年も花見に出かけました。

「コタさんよ、今年の花見は偉く華やかじゃねえか」

「左様ですね、長命寺がこんなに人出が多いたぁおもいも知りやせんでした」

桜餅もたくさんの人が並んで買い求めていてとても買える状態ではないようです。

神田からはおつねさん始め総勢7名、浅草からは穂積屋さん、柳橋も一家総出で6人、冬木町も金助夫婦も交えて6人今年から家に戻った藤吉もいます。

「お容、もう直だなぁ」藤吉がそういうと「早くお座敷がかかるようにお酌といえども懸命に努めるんだよ」此方はおすみさん。

家族の応援もあり芸者を職業に選んだお容に皆が応援して、早く一本となり好きな芸を楽しむゆとりが出ることを待ち望んでいます。

町会所にも名前を深川、冬木町八百屋与吉娘蓉こと勝弥として届けられました。

 かつ弥 と書くこともあります。

最初はお酌、半玉で相仕に出る方の邪魔にならぬように三味も太鼓も笛もさせてもらえぬこともあるでしょう。

最初から一人前に扱ってはもらえぬのが、どこの世界も同じ。

「お容さん、まだそう呼ばせてもらうよ、でもこの留め袖のすその絵は見事だ、さぞ無理を言いなさったね」穂積屋さんがそういうと「そうでもありやせん、これはおはつさんが昔着ていたものを仕立て直したものであちきはなにも掛が出ません」

「お初さんはたいそうなものを持っていなさった」とおはつさんに声をかければ「ありがとうござんす、あちきはもう着れねえから、若いかつ弥に来てもらうのが一番」と自分の物を着てくれるお容に嬉しそうです。

「卯三郎さんは着物にも眼が聞きますか」たあさんが聞けば穂積屋さんが「いやなにこの裾の桜に遊ぶ蝶がよいと思います」

黒の留め袖、裾模様は三寸、桜の花を散らし黄色の蝶が飛び回り、帯は高尾に結び、羽織も昔の深川をしのびます。

簪は朱の珊瑚が、小さくしつらえた粟の実を作り、一本だけのビラビラ飾りの先端にもウズラが下がり粋にみえました。

櫛も朱の柳川櫛これはおつねさんから頂いたもの、象牙地に紅の染めで模様は桜の小枝に照手姫、おきわさんと対照的にあくまで古風にしてお座敷もこれで通すつもり。

長命寺の弁財天を拝み、花を見ながら堤を散策、茶屋の団子で一服。

木母寺までそぞろ花を愛でながら歩きます。

舟が先に着いており其処から荷物を降ろして昼にします。

三味をかなで歌を歌い、茶やにより身じまいを直してからそれぞれの船で帰ります。

卯三郎さんは虎太郎、たあさんの三人で浅草三間町に回るため吾妻橋際で降りて穂積屋さんの店によります。

ここで卯三郎さんに買い付けてもらった櫛をひとつ三両から五両で売れそうなものを10枚、一分から五分ほどに成りそうな物30枚をおつねさんの店に並べることにしました。

全ての櫛が名工、名品というほどでは有りませんが、卯三郎さんに100枚の仕入れ価格は120両預け残りは参両一分壱朱の買い物。

残りは卯三郎さんが処方に納めて売り上げから虎太郎に支払うことで話がまとまります。

さすが卯三郎さんは抜かりなく一枚一枚の作者と由来、仕入れ価格を書き出していました。

今度は名品といわれるものを仕入れようぜと話しましたが1枚五十両などという名品はさすがに虎太郎の手には負えません。

中からこいつはこれから名前が出るぜと持ち出してきたのは、柴田是真と銘の入った木製ながら赤蒔絵に黒い鳥が入ってさすがに優れたものです。

カラスが2枚に鵜が3枚、

「何枚買いなすった」

「今は無名に近いから5枚で25両で買ったから一枚はかつ弥にやんねえよ」そういうとカラスの入ったものを、丁寧に箱に入れてくれました。

「喜びますよ、私から先に礼を言います」

「いいってことよ、それよりコタさんが仕入れた大坂の道笑の銘が入った櫛をうちでも扱わせてくれねえか」

「もちろんよいですよ、唯偽者が混ざる可能性が多くて、河嶌屋さん以外からは信用できねえですよ、だから月に5枚以上は無理なんですが、いま20枚は在庫がしまってあるはずです」

「売れねえのかい」

「いえ、月に3枚以上売らずにとって置くようにお文さんに言って溜め込んでおりやす」

「それでどのくらい分けてもらえる」

「1枚銀300匁で仕入れましたがそれに銀10匁つけてくだされば15枚はお分けいたします」

「そんなものでいいのかい、江戸じゃ10両以下じゃ手にはいりゃしないぜ」

「大丈夫ですよ、大坂の櫛問屋の川田やの箱書き付きで来ていますから、10両で売ってもおかしくありやせん」

「明日店のほうへもらいに行っていいのかい」

「もちろん大丈夫ですよ、おつねさんにもこんなに溜め込んでどうすんだよといやみのひとつも言われないかとひやひやしていましたから、これで安心して櫛を仕入れてこられます」

松材に象嵌で飾りをつけた大人しめの櫛ですがなぜか人気があり、偽者がおおく出回る中虎太郎の店の品物は大坂に持ち込んだかたが、本人が見て本物と保証した、ということを旦那衆が保証してくれたものですから引き合いが多くあり、店には並べずに特別ですよと3枚だけ箱に並べてだすのです。

それでその3枚が売れるとその月はお仕舞い、来月また入りますとお約束するのです。

三人で安部川町の軍鶏屋の「てっせん」まで出かけました。

昨日に続いての軍鶏鍋と手羽の塩焼きも美味く酒も美味く、昼間飲み足らぬたあさんはご機嫌です。

「オイコタさんよ昨日は家まで送ったか」

「ええ、元鳥越町の明神の近くの家にここだよと飛び込んでいきましたがどうも違ういえのように思いますがね」

「どうしてそう思う」

「どうも鮮やかに振り向きざまに入りましたから、感がそういいます」

「そんなところか、どうでも知られては面倒と思われたかもしれんな」

酒も入りご機嫌な三人は店を出たところで卯三郎さんは三間町へ戻り虎太郎はたあさんをおくりそのまま下谷広小路まで出て神田明神前に抜けてから昌平橋へ向かいました。

湯島横町から出てきた町娘が「おやコタさんじゃないかどこに行きなさる」

「どなたかな」と見れど見覚えがない娘で「どこの方でしょうか」そういうと打つ振りをしたその娘。

「何言ってんだよ、昨日の今日で見忘れるとはあんまりじゃありやせんかね」

よくよく見れば胡蝶太夫「まさかここで遭うとは思いもしませんで、それにそんなに様子が違うとは信じられるもんじゃありませんよ」昨日見たときにはどう見ても22.3くらいに見えたのに、今日見れば18くらいのどこにでもいる町娘。

「例の若旦那も、この姿のわたいに、さっき上野で出あっても目もくれないからそんなとこかもね」

「おや今日あっても大丈夫でしたか」

「フンあんな男など、どう息んでもこわかぁないよ」

「マアそう意気込まなくても」と言うくらい強い口調でいい虎太郎の腕をつねるので、すれ違う若い衆が「焼けます焼けます、くろこげだぁ」などからかい口調ですれ違います。

「なんだよ」と向かっていきそうなのを抑えて引き戻すと「コタさんがいちゃつくからあんなこといわれんだ」などと八つ当たり。

「その荷物はなんだい、やけに大事そうじゃないか」というので「これは浅草からいま仕入れてきた櫛でござんすよ」

「コタさんは櫛屋の番頭さんかい」

「イエイエ唯の小間物屋です」

「そんならあたいに似合う櫛があったら買うから店が近いなら一緒に行こう」

「よろしいですよ、店は休みですが、もう花見から人も帰ったでしょうからお茶が出せるでしょう、すぐ其処ですよ」昌平橋から店までは2丁ほどなのでもう店の前です。

先ほどからかったのは町内の顔見知り、虎太郎の女ずれはめづらしくもありませんが見慣れぬ娘に心安立てに口を聞いてみたようです。

「おつねさんいまけえってよ、お客が来てるから茶でも出してくんねえよ」

そういいながら店に入り明かり取りを開いて板敷きから上がります。

「おいでなされませ、此方様はお知り合いですか」お文さんが顔を出しておつねさんがお盆にお茶とお菓子を持って続いて出てきました。

「いまそこで知り合ったよ」そういうと「いやだよ昨日も軍鶏鍋を食べたじゃねえか」

お文さんが笑いながら引っ込むとおつねさんまで「何ですよう、コタさんボケをかましちゃいやですよ」難波言葉が混じるのは最近店の手伝いに出てきている、大坂から下ってきたお由さんの影響。

人見知りのしないたちらしく胡蝶太夫が平気で虎太郎のとなりに座り済ましているので仕方なく虎太郎も「そうか、たあさんと今日もしゃもを食べてきたから、取り紛れていたよ」などこんなとこにも地口遊びの癖が抜けません。

「おや卯三郎さんはいかがしました」

「そうか三人で食べやした」

「ほんにばかだねコタさんは」と心安立てに言います

「エーットこの方は」

「春と申します」すかさず口を出しますので「そうかお春さんかい」

「なんですようコタさんはお名前も知らないお友達ですか」

お文さんが戻ってきてそう言って笑います。

「穂積屋さんでこれだけ選んできたよ、後はあちらで売ってくださるそうだ」そういって先ほど選んだ櫛を広げますと其処は女、目の色が変わってきます。

「それから大坂の景井道笑だけど15枚は卯三郎さんに回すことになったのであす来たら渡してくんな、1枚10匁だけ手間をもらうことにしたぜ」

「おやそんなものでよいのかい」

「アアあちらにはこれからも儲け仕事を回してもらえるから櫛は儲けのほかでいいよ」

「承知したよ」おつねさんの気っ風のよさ思い切りのよさがこの人の身上です。

「おやそちらの箱はなんだえ」と目ざとくお春が見つけたので「おっとこりゃ卯三郎さんがかつ弥に上げてくれと預かってきたものだ」と皆に披露しますと、オオッという眼が覗き込みます。

さすがに人にあげるものというので直接触りませんが、箱から袱紗ごと手に取り、裏表を見て「すごいもんだねこんなものをかつ弥に上げようという卯三郎さんは豪儀だね」

皆が来て替わり番子に眺めては口をそろえて褒めてかえります。

「この店は何人の人がいるんだい、先ほどからどう見ても10人は出入りしているよ」

「アアそりゃとなりの店で働く人も見に来てるからだあね」

「そうかそれじゃ隣も同じ旦那がやっていなさるか」それを聴いて笑う女たちに「どうして笑うよ」口を尖らすので「このおつねさんが女あるじさ」虎太郎がそう教えると、

「そうでやんすか、それでこの櫛はいくらでお売りなさる」風呂敷に並べた中でひときわ光るそれは見事な黒い鼈甲の櫛で、はし一の銘あり、手控えをだすと参両2朱と書きいれがあり、口開けだから壱朱の儲けをくださいませんか、三両三朱になるけど、どういたしますか」

「ほしいけど今そんなに持っちゃいないので残念だけど諦めます」本当に残念そうに言うので「それなら三朱の手付けで秋までに残りの三両をお払いいただくというのはいかがです」これにはおつねさんのほうがビックリまたコタさんの病気が始まったと台所の女どもが口さがなく話す様子がわかります。

「それならここに三朱置いてゆきますからとっといてくださいな」

「イヤイヤお持ち下さってよろしいですよ、お買いいただけるならそのほうがよろしいでしょうに」そういうと本当に嬉しそうに櫛を手に取り、「よい櫛にお目にかかれるとは思ってもおりやせんでしたが、本当に嬉しいでござんす」と微笑みますところは「ヨッ胡蝶太夫」と声が掛かりそうなほど嫣然としておりました。

 
 第二部-2 川崎大師 完  第二部-3 お披露目 


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       第一巻完      


幕末風雲録・酔芙蓉
  
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 習志野決戦 − 横浜戦
 習志野決戦 − 下野牧戦 
 習志野決戦 − 新政府
 習志野決戦 − 明治元年

横浜幻想  其の一   奇兵隊異聞 
 其の二   水屋始末  
 其の三   Pickpocket
 其の四   遷座祭
 其の五   鉄道掛
 其の六   三奇人
 其の七   弗屋
 其の八   高島町
 其の九   安愚楽鍋
 其の十   Antelope
 其の十一  La maison de la cave du vin
 其の十二  Moulin de la Galette
 其の十三  Special Express Bordeaux
 其の十四   La Reine Hortense
 其の十五  Vincennes
 其の十六  Je suis absorbe dans le luxe
 其の十七  Le Petit Trianon
 其の十八  Ca chante a Paname
 其の十九  Aldebaran
 其の二十  Grotte de Massbielle
 其の二十一 Tour de Paris
 其の二十二 Femme Fatale
 其の二十三 Langue de chat
     

幻想明治 第一部 
其の一 洋館
其の二 板新道
其の三 清住
其の四 汐汲坂
其の五 子之神社
其の六 日枝大神
其の七 酉の市
其の八 野毛山不動尊
其の九 元町薬師
其の十 横浜辯天
其の十一
其の十二 Mont Cenis
其の十三 San Michele
其の十四 Pyramid



カズパパの測定日記