Paris1873年2月1日 Saturday
パリの朝は凍りつくように寒かった、いやセーヌは完全に凍り付いて流れはその氷の下にあるのだろう。
正太郎はわざわざ遠回りして時間を調節し、朝日がセーヌの氷に映える中をオテル・エスメラルダへ向かった。
プティ・ポンの橋袂でかもめが氷の上に降りて群れている様子を眺めて居ると、餌を投げ遣る人が居てその周りには100羽くらいが集まる中、逸れているの発見して何か可笑しかった。
9時に近くなりホテルへ向かい、中へ入ると時間を気にしながら川路が階段の手すりに寄りかかっていた。
「お待たせしました」
「いやまだ1分ある。正確だな」
正太郎はこの人も約束を守るのが好きな人なのだと思った。
オルフェヴル河岸へはサン・ミシェル橋まで河岸を歩きシテ島へ渡った。
まずニコラへ挨拶してM.デュクロの部屋へ向かった、大勢のアンスペクタ(私服警官)にアジャン・ド・ポリス(制服警官)が屯していた。
警部に挨拶をして示された机に向かうと若いアンスペクタが近寄り「ボンジュール・ムスィウ。僕はクリスティアン、クリスティアン・ボネだ。君の担当になったから一緒に活動してくれたまえ」
その言葉がわかったのか川路は進んで自分から話し出した。
「ボンジュール・ボネ。モン・ノ・エ・ラ・カワジ(Mon nom est le kawaji)マサヨシ・カワジ。呼び名は正之進です」
M.ボネは「M.カワジですね。僕はムッシューはつけずにクリスと呼んでください。そうしないと話が長くなるし、この部屋で誰の事を呼んだのか誰も判らないですからね」とカワジに言ったが其処まではまだ理解できないようなので正太郎が訳した。
「川路さん彼は自分のことはクリスと呼べと言っています」
「オッそうか。私はマサノシンと子供の頃から呼ばれて居ます。どうぞマサノシンと呼んでください。そうすれば私は貴方をクリスと呼びやすいのです」
「いいともマサーノ」
クリスは勝手に進を省略してしまったが川路はその友達感覚が気に入ったか周りに集まっていたアジャン・ド・ポリスにも「モン・ノ・エ・ラ・マサーノ」と言って盛んに握手をして廻った、人に溶け込むのが上手なようだ。
中には既にホテルヘ送った警官もいたらしく「言葉が通じるようになったようだね。これでホテルまで送らなくて済みそうだ」と言って部屋に笑いが広がった。
正太郎はクリスに「僕はこれで帰りますが、ゆっくり話してくだされば普段の会話は判るようですが、専門的な言葉は綴りを書いてあげてください」と頼んだ。
「いいとも任せておきな。現場を歩き回るうちに自然に身に付くさ。それに彼には管理面を中心に教えるように警部から言われているから其れをまず覚えてもらって、どのように警官が動くかを見てもらうつもりだ」
正太郎は今の言葉を川路に伝えて勤務時間などはクリスから教わってくださいと伝えた。
「メルシー・ショウ。後は自分で1から勉強するよ」
日本に帰れば東京のポリスの取締をするこの人がフランス警察の仕組みをしたから勉強するという気持ちは正太郎には嬉しかった、上からではなく市民を守るポリスを日本に定着させてくれる事を願ってシテ島をでてクレディ-リヨネ銀行へオムニバスで向かった。
引き出したのは18000フラン残金は43900フランになっていた。
正太郎は1000フランの小切手5枚と1万フランの小切手を受け取り、100フラン札20枚に20フラン金貨を50枚貰ってサックに放りこんでフェルディナンド・フロコン街へ辻馬車で向かった。
事務所にはエメが既に帰っていて正太郎を待っていた。
M.アンドレに事務員や新しい店子となる下の2人にも集まってもらい家賃のことを話し合った。
「Mlle.ボナール4階は仕事がスリップ・ド・クストゥ専門の作業場にしますから家賃はブティック・クストゥが払い貴方には場所を提供すると言うことにします」
「では私はそこでスリップ・ド・クストゥを仕上げてブティック・クストゥへ卸すと言うことでいいのね」
「そうなります、縫い娘2人分は充分稼げるような仕事を出しますから向こうから来る人とも上手く貴方が調整してくださいね」
家賃は1階メゾン・リリアーヌ120フラン、2階マダム・ボナール100フラン、3階Paris Toraya80フラン、4階ブティック・クストゥ80フラン、屋根裏Paris Toraya30フランを正太郎の個人口座へ支払ってもらう事にして早速Mlle.シャレットが領収書を切ってM.アンドレが受け取った。
3階と屋根裏はParis
Torayaが借り受ける事にして4階はブティック・クストゥから2人とマダム・ボナールから2人を出してもらいスリップ・ド・クストゥの生産をしてもらう事にした。
「では此方も人を増やします」
「そうまず一人雇ってくれる、其れでマシーヌ・ア・クードゥルを2台上に運んで縫わせるのはどうだろ、下で裁断までして上では縫うだけでいいだろ。クストゥ街からも2台のマシーヌ・ア・クードゥルを運んで縫い娘を此方へ2人まわしてもらえばいいだろうし、君のキャミソール・デ・マリーにスリップ・デ・マリーが忙しく為ったらまた考えようよ。その人たちをボルドーへ派遣してもいいし。まず製品は君のほうとブティック・クストゥのほうと、はっきり分けるようにして置いてください」
「そうね向こうからスペイン方面に売り込んでもいいな」
Mlle.ボナールはもう先を見たがっているようだ。
「まぁ急がずにボルドーとも手紙で話し合うか誰か行って貰ってもいいしね」
「ショウは行かないの」
「ブドウの花が咲く頃には行く予定だけどまだ大分先の話だよ」
M.アンドレに1万フランの小切手を渡して個人口座へ入れて置くように頼んでモンマルトル・オランジェ銀行へ出向いてもらった。
正太郎とエメがクストゥ街へ出向いて話を決めてくることになったが今朝Mlle.シャレットが下話はしてあるので考える暇はあったので、すぐ決まるだろうと思った。
メゾンデマダムDDへよってジュレ・ロイヤルを1本取り出してもらうとサックにフラールに包んで入れた。
テオドールは快諾してお針子へ話をすると2人がフェルディナンド・フロコン街へ行っても良いと申し出てくれた。
「ではテオドール、此方も新しい娘をまず一人増やしてください。仕事はまだまだ増えそうですよ」
「判りました。早速募集しておきます。それで向こうへは何時から行かせます」
「テオドールが一度向こうへ行ってM.アンドレとも話し合って掃除が済んだらマシーヌ・ア・クードゥルを2台運んでください。仕事はMlle.ボナールと話し合って進めてくれれば良いですよ」
「判りましたこれからすぐ行って来ます。向こうの仕事場はMlle.ボナールが仕切ると言うことでよろしいですね」
「頼みます」
エメはジュリアン夫人にお茶をご馳走になっている間ジュリアンと仕事の打ち合わせをしてシャンパンを3000本、月末までにフランス郵船へ届けてもらう事にして小切手で2000フランを前金とし、残りは計算がでたらと言うことにして貰うことにした。
「3月10日ごろにマルセイユへボストン氷を積んだ船が入るそうなんだ。それに乗せればインド洋で破裂しないで運べると言うのでシャンペンを運んでもらう予定なのさ」
「いいとも任せておきなよ。ワインは大分儲かったがシャンペンはどうなんだ」
「まだ珍しいから売れているという位らしいよ。でもホテルが増えれば需要も増えるから高い物も売れ出すさ」
「其れを信じて買い入れも増やしておくか」
「そうだねジャポンが駄目でもこれからはアメリカからでも買い付けに来る商社が増えるよ」
「そうだな、でもオーストリア方面は本当に駄目になるのか。ウィーンでは博覧会で盛り上がって買い付けも増えているそうだぜ」
「今年1年でしょうね来年春にはその兆しが出ると思いますよ」
「では年内は大丈夫か」
「そうですよ。後12ヶ月をめどにウィーンとの取引は現金にしてフランかポンドにして貰うことですね」
「ウィーンの後は他の国は大丈夫か」
「まだ其処まで判りませんがフランスは当分大丈夫でしょうね。プロシャへの賠償も払う目途があるし、あの戦争で大分損が出たでしょうがプロシャのほうが不況に先になるかもしれませんね」
「どうしてそう思う」
「戦に勝っても国民には税の負担が重くなっただけで何も旨味は有りませんし、ユンカーだって領地が増えるわけでもなく植民地からの収入も思ったほど揚がりませんからね」
「やはり植民地が重要か」
「何処から吸い上げなければ豊かにはなりませんよ、遅れた地域をいたぶらなければ儲けが簡単に揚がるはずもありませんよ。でももうそんなことしては駄目な時代が来ていますね。商売はオランダ、イギリス、フランスに適わないでしょうし、僕は出遅れた東洋に眼を付けてジャポンへ色々美味い事をいって近づく気がしますね」
「其れはジャポンにはいいことかな」
「まぁ今の政権を担う人たちが健在のうちは大丈夫ですが、次の世代は危なそうですよ。鮫島様によればベルリンにいる人がこれからはヨーロッパの盟主は独逸であると、岩倉様がまだ此方にいるうちから盛んに申し入れて来ているそうですから、その人たちがジャポンに帰る頃からが危なそうですね」
「世代交代か、どこの国でもそういう危険はあるな。マァ俺たちはその危険をかいくぐって儲けるしか有るまいぜ」
「そういうことですね。せいぜい眼を光らせて巻き込まれないようにしましょうね」
正太郎はその後マガザン・デ・ラ・バイシクレッテによって何か必要なことがあるかを聞いてからエメを伴って馬車を拾ってメゾン・ユレへ向かった。
「着替え用の衣装を100枚作ってほしいのですが」
「はい何時ごろまでに間に合えば良いですか」
「25日までに間に合いますか」
「それだけあれば大丈夫ですよ。でも柄やデザインはどうします」
「ばらばらのほうがいいな、できれば10種類はほしいのですが」
「なら10種類10枚ずつで良いですか」
「そうしてください。それとフアッション・プペはもうありませんかね。新しく作れる人はいないのでしょうか」
「そうねこの間と同じ値段が出せるなら10体作らせても良いわよ」
「それお願いします。着替え用も今度は余分に30着附けてください。それで両方でいくら支払えば良いですか」
マダム・ユレは考えて計算をしていたが「プペ・アン・ヴィスキュイの衣装は250フラン、フアッション・プペは30着の衣装付で800フランにしますわ。ドレスの種類は3種類にさせてくださいね」
「いいですね、それでお願いします。支払いは100フラン札が良いですか銀行手形がお望みですか」
「札で良いですわ」
正太郎は100フラン札10枚と10フランの金貨で5枚を先払いして領収書を書いてもらい「届け先は前回と同じParis Torayaフェルディナンド・フロコン街4番地へお願いします」と告げた。
待たせておいた馬車でパリジェンヌ商会へ向かった。
馭者はプレ・デ・バスティーユで運河沿いにセーヌへ出てナシオナル橋の先のベルシー河岸のパリジェンヌ商会へ着いた。
「ここも暫く待ってください」
2人は馭者に断って工場へ入った。
アイムは上機嫌で2人を向かえた。
「今年の50台の契約はそろそろ支払いをしようと思うんだ。12000フランは現金かい銀行小切手がいいのかな」
「銀行小切手でいいよ」
「モンマルトル・オランジェ銀行のでよければ月曜に届けるから。それと別に20台を支払うからフランス郵船へ月末までに納めてください」
正太郎は1000フランの小切手を3枚出して「後は月曜日でいいかな。それとも現金がほしい」とわざとじらしてみた。
「そりゃ現金を拝めりゃ君たち2人をレストランへ招待してやるよ」
エメは可笑しそうにコロコロと笑い出した。
「なんだ、何でエメはそんなことが可笑しいのだよ」
正太郎は黙って100フランの札を10枚出して金貨の入った袋を二つ其処へ出して一つから20フラン金貨を40枚積み上げた。
「ゲッ、ショウは何時からそんな手品みたいな事するようになったんだ。持っているなら素直にだしゃいいじゃないか」
エメはまた笑い出し其れに釣られて事務員も笑い、仕方なさそうにアイムも笑い出してしまった・
「しょうがねえ、俺が言い出したんだ好きなところで飯を奢るぜ」
「そういうと思ってエメも僕もまだお昼を食べていないんだ。エメ好きな物を好きなだけ注文しても大丈夫だよ。懐の金は向こうさんのものだから」
そういって残りの袋をポシェに仕舞った。
アイムは事務員に「バイシクレッテ売り上げ20台4800フラン。交際費60フラン」と言って3枚の金貨を自分で取った。
工場へ入りルネに「エメとショウに昼飯を食わせに行くから後を頼むぜ。今日20台を月末までにフランス郵船へ納めてくれと注文が入った」と注げてマリウスに後を頼んだぜと声をかけて馬車に乗る前に服を替えに行った。
アイムは「何処がいいのだよ」と正太郎に馬車の外から声をかけた。
「最近ル・グラン・ヴェフールへ行って無いからそこがいいな」
「おお、よくゆうよ。昼からそんな贅沢してよ。ル・グラン・ヴェフール。パレ・ロワイヤルだよ」
馭者に声をかけて乗り込んで実は俺もあそこにしようと60フラン持ってきたんだと正太郎に打ち明けた。
川岸をカルーゼル橋まで進み右へ曲がって門をくぐり、リヴォリ通りを横切りリシュリュー街をデ・プチシャン街まで進んで右へ入ってル・グラン・ヴェフールで10フランの金貨で「チップ込みだよ」と渡した。
ヴォワチュリエが「M.オリビエ、M.ショウ、Mlle.ブリュンティエールお久しぶりで御座います」とドアを開けてくれた。
セルヴィスがすぐ席へ案内してくれてシェフドランがメニューを出しながら「皆様がお知り合いとは存じませんでした。M.オリビエ今年は初めてでしたか」
「そうだねM.ショウはよく来るのかな」
「昨年は3回ほど来て頂きました」
カクテルを頼みワインは控えてアミューズにオマールコンソメとジロール。
鳥料理にコルヴェールのコンフィに付け合せはポム・ベアルネーズを頼んだ。
メインに仔羊の肩肉、そら豆とトマトのコンフィ、花キャベツとブロッコリー入りのクスクス。
デセールはモモのロティ。
「昼間だからこれくらいにしようかな」
エメは正太郎にまだ他に頼むと聞いたが「それ以上は無理だよ」というとアイムが遠慮するなよと言い出して自分はそれにフォアグラのソテーィを追加した。
「まだ3時なのによく入るね」
「俺も昼抜きさ。夜を控えればどうってこと無いぜ」
「これだけ食べれば夜はパンにチーズで充分だよ」
「正太郎はいいだろうがエメは足りないかもしれないぜ。食い物をケチって痩せてきたらどうするんだ」
ジュリアンと同じようなことを言うのでエメは可笑しくてしょうがないらしい。
モモのロティの後ショコラ・ショを頼んでその香りをゆったりとした気持ちで楽しんだ。
「ワインを飲まないで呉れたから勘定が楽だ」とアイムはご機嫌で28フランに5フランのチップを置いてパレ・ロワイヤルの回廊へでた。
「明日は雪かもしれないな」
パリ育ちでは無い3人が西のトロカデロに落ちていく夕陽を見ながら庭園の外れまで歩き「パレ・カルディナルと言われていたそうだぜ。リシュリュー卿が住んでいた頃と違って歓楽街と為っていた時期も有ったが今はカジノも1ヵ所、昔は娼婦の館もあって不夜城と呼ばれたそうだが今はすっかり寂れたよな」
「その不夜城といわれたのは何時ごろなのかな」
「俺の生まれる前の話だそうだ。50年位前だとうちの夜警の爺さんが言ってたぜ」
コメディ・フランセーズ側の出口から外へ出てアイムは馬車を拾って工場へ戻っていった。
2人はテュイルリー宮殿の焼け跡の残る公園をオレンジ温室まで歩きコンコルド橋を渡った。
サン・ジェルマン大街を歩きボン・マルシェへよってモントー(manteauコート)をおそろいで買い入れた。
ハリスツイードはイギリス製だそうで、正太郎はエメが選んだ薄い青色をエメは濃い青を選んで買い入れた。
二つで286フランはいい値段だが「これなら長く使えますからお徳ですよ」という店員の勧めもありエメは手触りが優しいし肩に掛かる具合も良いわと気に入ったようだ。
残りが少なくなった袋をエメに預けて支払いをしてもらって「残りはエメが使っていいよ」と言って買い入れたモントーを正太郎が持った。
歩きながらサラが呉れた金貨や小遣いがまだ240フランあるからというと「あの日本の人形のお金なの」と察しのいいことを言った。
「そうバーツと同じ物を譲ったお金さ。320フラン呉れたよ」
「まぁ、サラも景気が良くなった様ね。この間の日曜にワインをお土産に貰ったのも効いたのかしらそれでショウにお金をすぐに支払ったのかもね。いいことだわ。バーツも少しまじめな生活をすればいいのにね。」
「気が多いらしいけど先生一筋でもないという噂ばかり聞こえてくるよ」
「困った人ね。だから鑑札をとらないと、なんて言われてしまうのだわ」
道の反対側にある人形の店を覗き込みながら暫く話をしていた。
「これ16フランもするのね。あらこれは6フラン大きさも違うけど衣装がずいぶん違うわね」
「そうだねエメも一つ飾るかい」
「人形は良いわ。置物より磁器や陶器が好き」
「磁器の人形の置物にもいいものがあるよ」
「当分いらないわ、ショウは今晩はオテル・ダルブへ帰るの」
「そうなんだよ7時までという約束なんだ」
「あら大変もう6時よ。馬車を頼んでから部屋へ荷物を運びましょ」
6時40分にと頼んで上にあがりエメは下着まで替えさせて正太郎を送り出した。
オテル・ダルブのロビーは賑わっていた。
川路が寄ってきて明日はクリスが休みでランディの8時半から出て来る様に言われたと予定表を見せてくれた。
オテル・エスメラルダの人たちが全員ロビーにいて伊藤や村田と其処に来合わせた田中と話をしているのだ。
田中がこちらに来て先ほどまで木戸先生がインターコンチネンタル・ルグランへ来ていたが先ほどお帰りになったので此処へ来たらこんなに賑やかな事になっていたと話して「どこかで飯を食おう」と誘った。
「あの人たちはどうします」
「ほおって置いても良いだろう。そうはいかんか」
田中は頭をかきながら伊藤の傍によって「ショウと飯を食いに行きますがどうしますか」と聞いた。
「飯かオリエンタルで汗を流してフォリー・ベルジェールでもいくかね」
「私たちはこれで失礼します。ホテルに食事の仕度を申し付けましたので」
河野利鎌はそういって立ち上がった。
川路は「ショウと打ち合わせがありますので私の分は分けて食べてください」と沼間に頼んで「ショウ少し相談に乗ってくれ」と頼んだ。
伊藤は河野に丸めた札を渡して「この次は無いかもしれないからこれで時間が有れば英気を養ってくれ」と渡していた。
堀江が西園寺と野村を連れて遣ってきた。
「いいところへ来た。これから風呂へ入って遊びに行くんだ付き合いなさい」
「実は野村君のジュレ・ロイヤルをショウから受け取ろうと思いまして」
「野村君体は少しはよいのかね」
「はい大分回復してきました。医者もジュレ・ロイヤルは薬と共に呑んでもいいと言ってくれていますし最近は早足で歩いても息切れがしなくなりました」
「其れは結構な事だ。ショウ今日取りに行ったのかな」
「はい、此処に持ってきました」
正太郎はフラールごと野村に渡した。
今の野村は正太郎より一つ上の19歳になっていたが背も低く体もひ弱で年下にしか見えない。
野村はたまには付き合えという堀江の言葉に「ではお世話になります」と言って伊藤に頭を下げた。
2台の馬車に分乗してオリエンタルへ向かい汗を流し垢もごしごしとこすり落としてもらいアイロンのかかった下着に着替えると意気揚々と馬車でフォリー・ベルジェールへ向かった。
10時からのショーはもう直という時間に間に合い8人は席を分けて座ることになった。
「男ばかり8人で肩を寄せ合っても仕方なかろう」
伊藤がそういって田中に西園寺と堀江を自分の席へ誘った。
正太郎は野村に村田と川路が席に付きカクテルに始まり色々と料理を選び特に野村には野菜スープにラグー・ド・ブフ(Ragout du boeufビーフシチュー)を頼むと他の者も其れは何かと聞いてラグー・ド・ブフを頼んでくれと正太郎に言った。
注文が終わると女たちが遣ってきた何時もの御馴染みの顔が混ざっていたので正太郎は5フランを握らせて僕たちは食事をするけど君たちは好きな物を頼んでいいよといって先にセルヴィスにシャンパンを2本出すように言った。
先に出てきたカクテルを4人が飲み終わる頃にはチーズにハムの皿が運ばれシャンペンもセルヴァーズが栓を開けて女たちに渡した。
8人がショーの邪魔にならないように静かにグラスを上げて乾杯して一気に呑んで次を注がせた。
今度はチーズやハムを食べながら舞台を見つつ女たちの今は何が行われているかの説明を聞いて運ばれてきたラグー・ド・ブフを旨そうに食べた。
女たちは頼んだ菓子を野村に食べさせようと懸命だ、其れを面白そうに見ていた村田は「ほれもっと勧めないと食べないよ。色男はつらいね」と女たちにもっとその男の世話をしろとけしかけた。
川路が「ショウどうもこの服ではあそこにそぐなわん、どこかあそこに着ていく服を作れんかな」と聞いてきた。
「相談ってそのことでしたか」
「そうなんだ。わしだけこの黒服ではどうもな。帽子も替えないと可笑しなもんだ。制服の警官なら其れを支給してもらう手もあるが私服ではそうもいかん」
「では明日9時半にお迎えに参ります。西園寺様のアパルトマンの先に吊るしの服を商うよい店があります。それと体に合わせるのは僕が遣っているブティックの支配人が名人ですから其処へ誂えましょう」
「余り高いのはいかんぜ。東京と違いここでは手元にそれほど金が無い」
「では、お帰りになりましたら僕の席がある横浜の虎屋へ払って下されればその分を立て替えておきますから安心していいものを作られる事です」
「ショウ。それわしにも頼めるか」
「良いですよ。でも村田様は急ぎでなければ吊るしはやめて誂えだけにしたら如何ですか」
「そうか川路君のように今日明日と言うことも無いか」
「それで吊るしだといくらぐらいだ」
「新しい物でも12フランくらいからありますよ。安物なら5フラン中古なら3フランが相場らしいです」
「そうだショウ僕もこの間作らせたのが13フランだった。小さくても同じだというにはまいったよ。中々釣るしだと体に合わなくて困るのだ」
「西園寺様みたいにロンドンに居たときに作ると生地のいいものがありますが。こちらでは生地を輸入するので少し割高になりますね。生糸が織り込まれた上級品は偉く高いですがニューヨークほど驚く値段は請求しませんよ」
「本当にそうだパリは安いのか高いのかよく判らん町だな。安物がほしければいくらでも安く手に入るのは便利な街では有るな」
女達が退屈しているようなので正太郎は「まだ飲みたければシャンパンかカクテルにするかい。村田様や川路様はどうされますかブランデーが良いですか」
「ブランデーにしよう」
「そうしもそ」
雰囲気を察したセルヴァーズが来て女たちの注文を聞きコニャック・ルイ・トレーズを1本注文した。セルヴァーズよりも女たちは其れを聞いて嬉しそうに、にっこりしたのを川路は見逃さなかった。
「何を頼んでそんなにあれらは嬉しがっているのだ」
「コニャックは産地です。レミーマルタン・ルイ・トレーズと言うのがありまして、それがそのシャンペン3本に相当しますから彼女たちに1人1フランは店から出るはずです」
「そうか、酒を頼めば女の懐に入るのかそれなら自分たちも懸命に飲むわな」
「でも客に飲ませずに自分ばかり飲むものは嫌われて席に呼ばれませんからね」
「だかこいつら呼ばんでも来るぞ」
「其れは僕や僕の仲間がいつも席に来れば5フラン遣るので酒を余り呑まなくてもすむのでいい娘が権利みたいにして席に来るんですよ」
川路は席の女たちに笑いかけながら顔を見回し「トワレットゥはどこか」と聞くと一人が案内に立った。
正太郎は伊藤に席から出てもらいトワレットゥにいく振りで金貨の袋を渡してこの間サラから貰った残りですので伊藤様からこれで勘定をしてくださいと手渡した。
伊藤はにっこりと笑ってポケットの中にジャラジャラと流し込んで袋を返すと正太郎とならんで小便をしながら覗き込んで「ホウホウ」と可笑しな声を出して悠々と先に席へ戻っていった。
変わり番子に女に案内させてトワレットゥに行くと村田と川路は女にルイ・トレーズの追加だと言って「君たちも好きな物を追加したまえ」と鷹揚に言って女の手を叩いて笑った。
2本目のルイ・トレーズがテーブルに立つているのは壮観だった。
伊藤の席では女たちが嬌声を上げて此方の席を覗き込んではまた可笑しげに騒いでいた。
「また伊藤さんは何か女に冗談でも言って笑わせて居るぞ」
「あの人の女扱いは神戸でも有名でしたからな。オセンシのふぐり以上で御座る」
2人はその後野村や正太郎に判らない言葉で何か言い合っていたがよいも手伝ってか爆笑しだした。
女たちも其れに釣られて野村にちょっかいを出し、村田たちは其れを酒の肴にニコニコと見ていた。
「村田さんも川路さんも人が悪いですよ。僕ばかりこうじゃれ付かれてもかなわんです」と悲鳴を上げれば上げるほど女たちに絡まれていた。
「おかしいな、先ほどから金を上げたショウには女たちが普通に話しだけで余りしなだれかからんぞ。ほれわしたちの隣の女はこうして膝に手をおいてなにやら言うとるが、ショウの隣の娘は野村に両方から迫っとるぞ」
野村が其れを聞いて隣の女に「そっちのショウになぜ愛想を言わんのだ」と聞いた。
女が耳元で野村に何か囁くと野村も2人に顔を寄せさせて相談を始めた。
「村田先生、これらが言うにはショウの彼女は此処の資本を大分持っているそうです。それに暫く店へ出ていたので踊り子や給仕たちにも人気があったそうです。だから遠慮して手を出さないのが礼儀だといっています」
正太郎のほうが驚いたエメはどういう人なのか判らないことになってきた、伯母や義理の伯父、その弟もしかするととんでもないブルジョワなのかと考えてしまうのだ。
ショウが呆れていると女たちのところへ隣から入れ替わってと声がかかり一度女たちが席を立って暫くすると向こうの席と入れ替わった。
正太郎は仕方ないなと席に付いた女たちに5フランずつ渡した。
今度は女たちの眼が今までと違うのに気が付いたのはやはり川路だ。
やはりポリスの眼は普通とは違うようだ。
川路は野村に「何か今度は違う眼をしとるぞ酒を奢って聞き出せ」と言ってセルヴァーズにまたルイ・トレーズを追加して女たちはどうするか聞いてカクテルを取ってあげた。
カクテルが来てようやく口が滑らかになると野村が顔を寄せさせて話を聞きだした。
切れ切れにウタマロ、ホクサイなどの言葉が混ざって聞こえた。
向こうの席から女たちが此方を覗き見しているのを正太郎は気が付いたが、伊藤の笑う声ばかりが目立った。
「両先生。こやつら伊藤様からなにやら可笑しな事を吹き込まれたそうです。ショウは歌麿か北斎だと言っています。何のことかさっぱりわかりません」
其れを聞いて村田と川路は腹を抱えて笑い出した。
其れを女たちとならんで伊藤が可笑しげに笑っている顔が覗いた。
「よかよか、野村にはわからんでもよか」
2人はどうにも堪らんと女たちに「歌麿じゃウタマロじゃ」と正太郎を指差して笑い続けた。
伊藤は此方の席へ出て来て村田の肩をたたいて笑って「さぁ勘定じゃ勘定」と西園寺に勘定書きを持ってこさせて金貨で支払い、笑いながらコートを受け取って馬車を呼ばせた。
馬車の中でも野村は村田に「私だけのけ者ですか」と散々食って掛かっていたらしい。
川路のホテルへ先に廻りオテル・ダルブへ戻るとすぐに伊藤は上機嫌で正太郎に「お休み」と声をかけて部屋に引き取った。
村田と「明日は川路様と一緒にブティック回りをしますか」と聞くと「明日は休みだから朝から付き合うぞ」と正太郎の肩を叩いて自分の部屋へふらふらと入っていった。
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