ボストンは朝の4時半にオムニ・パーカーハウスホテルの4階に朝日が射してきた。
漸く仕事を終えたアリエルがベッドに入るとミシェルが「ゆっくりとおやすみ」と抜け出そうとしたが「イヤ」と夫を放さなかった。
8時に大佐がエズラを伴ってホテルへ来たときにはミシェルとポールが出迎え、ショウはエメと子供たちに見送られて自分のバイシクレッテとエレベーターで降りてきた。
「待たせてしまいましたかね」
「いや、1分前に付いたばかりだ。早速出かけよう。遅いと思ったら声をかけてくれたまえ」
「いえ今日は途中まで馬にあわせます。10マイルでは馬もきついでしょう。わたし達は50分で走る予定ですので降りはスピードが出るかもしれません」
その言葉どおりOld State
Houseからワシントンストリートへ出てもゆっくりと身体を温める程度で馬の速度にあわせて町並みと降りの石畳の感触を確かめるように進んだ。
「社長、明日はゴムを厚くしますか、それとも空気を入れた新式にしたほうが良いですかね」
「まだあいつでは無理さ。破裂したらレースにゃならんよ。これだって今日で車輪事交換だろう」
「予備に持ってきたものと帰ったら早速交換しますか」
「ああ、明日の分も合わせて検査のためにすぐロッドに預けてアレックスへ送らないとな」
ポールを先頭に出して二人は打ち合わせをするとショウが前に出て緩やかに右へのカーブを登った。
その頃先頭では「このスピードではあの3人の実力がわからんな」
「そりゃそうだ。もう少し前に出てみるか」
「あとすこしで石畳が終わるからそうしたら早めてみるか」
ボストンカレッジの先は道の真ん中の鉄道馬車の線路分が石畳でその脇は北側が砕石、南側はまだ土のままだ。
ポールが出てきて「ショウ、前を見てください。あそこから線路脇は砕石か土のままです。どちらを通りますか」
「線路から外れてみるかいジャスティ、馬も砕石へ出るだろう。単線のようだからどちらから馬車が来るかわからんからな」
サウスエンドで左へカーブしながら道は少し下りになり馬が速くなった分ミシェルが前に出てスピードを上げた。
登りに成りカーブを幾つか左右に切ると道は直線が続いた。
左手には小高い丘が森林となり右手に線路が迫ってきた。
線路の下をくぐるかと思うミシェルの予想と違い右手の小高い丘へ馬は向かった。
丘の上は新しい家が並んでいてその手前に商店が並びオムニバスが並ぶロータリーが見えた、半周して馬を休憩させるために水呑場へ向かうとショウ達はエメが用意したレモン水を飲んだ。
「大佐、今8時40分此処まで28分でした。帰りはわたし達が馬の前を走りますから」
「良いとも君たちの実力を見させてもらうよ」
ショウは降りを22分以内と計算して途中の学校までポールとミシェルに任せることにした、砕石だと大分負担が足に来たようだ。
「のぼりは後5分ほどつめるくらいで土の戻り道が勝負かな。雨が降ったら線路を通るほうが無難だな」
「そうですね。砕石ではニューマチックタイヤが破裂しなければ有利でしょうがまだ其処まで丈夫ではないですね。明日は厚手のゴムにしますか」
「8号か、良いだろう」
この旅にニューマチックタイヤと5号6号7号8号とゴムの厚さを変えて持参してきていたが販売用の6号で今日は走ってゴムの傷みの試験をしているのだ。
タイヤには其れほど傷もないが明日スピードを上げればこれでは無理のようにミシェルは思ったのだろう。
「アレックスに手紙を添えて前後を早く同じ大きさにしたほうが交換に便利だと念を押しておこう」
「どうしてわざわざ後ろを小さくするのか私には理解できませんよ」
ポールも後輪の小さいのには首を傾げるばかりだ、僅か2インチといえギヤ比を上げても回転数に比べて前に出る力が弱いのだ。
5分休憩して二人に合図をして元の道へ飛び出す三人をエズラが追いかけて出た後大佐はオムニバスから出てきた5人に「彼らは登りで28分だった。話の様子ではまだ5分くらいはつめられるだろうというて居ったぞ。帰りは大分つめて走るだろう」と伝えて後を追った。
「平地でマイル3分がいいところだとして往復30分、35分で走らんと負けるぞ。ハミルトン先生の後輪駆動とは大分違いがありそうだ」
「ミック、我々がこの道を登るのに22分だった帰りは下りだ16分なら大丈夫だろう。38分を3分つめるのは容易ではないぜ」
彼らは寅吉達が手分けして道の整備状況を観察しながら登ってきた事に気が付いていないようだがそれでも35分と読んだのは力があると認めている証拠だ。
この時代手入れのされた走路でワンマイル2分30秒を切るかどうかがLAB(自転車連盟League of
American Bicyclists)にLAW・Bostonでの話題のひとつだ。
ダン(ダニエル)・ハミルトンはパリから帰りクラブを立ち上げこの協会設立のメンバーの一人だ。
コロンビア社のメンバーは全員新型のハイ・ホイーラー(ペニーファージング)50インチに乗っていた。
一般の人はペニーファージングもしくはオーディナリーと呼ぶこの型を彼らホイールメンはハイ・ホイーラー(High wheeler)と呼んでいた。
20分後彼らも道を下りOld
State Houseまで15分05秒で余裕を持って着いた。
大佐が待ち構えていてどのくらいで走れたとリーダーに尋ねた。
「登り22分、降り15分05秒、往復で後1分は詰められるでしょう」
「35分では無理かな」
「馬車鉄道の石畳を走れれば切れるでしょう。でも相手も同じように有利になりますよ」
「明日は砕石用に厚めのゴムにすると言って居ったよ。今日と同じものは痛みが激しいから使えないようだ。明日の10時から40分の間使えるように交渉してこよう、前から来なければいいわけだろ」
「ええそうです、抜かされるなどありえません」
リーダーは自信を持ってそう答えた、大佐は新式タイヤが有ると言うことを聞き逃したようだ。
ポープ大佐とエズラ・ジリヤールは連れだってウエスト・ボストン・ストリートレールウェイへ出向き明日の運行時間の調整を談じ込んだ。
「その時間を私のほうで借り切ると言うことで40分だけ使わせてほしい」
「大佐の事だ、なにが目的です」
「明日急にバイシクルの競争をする事になったのさ」
「それではクラブのためだ10時から40分だけで良いんですね」
「そうだ、だがその時間にOld
State Houseとジャマイカ・プレーンの間のワシントンストリートに馬車がいては困るのだ」
「運行時間をずらして調整しますよ、もしうまく調整できないときは待避線に停めて置きます」
「頼むよ。レース結果によっては売り上げにも響くんでな」
二人は事務所を出るとどちらともなく笑い出した。
「アル、君は勝てばあの新しいバイシクルを安く買い叩くつもりだな」
「ばれたか、負けてもうちで売り出すといえば飛びついてくるだろう」
「そいつはどうかな。あのショウと言うのは中々の奴のようだぜ。それにその会社のプレジデントは横浜では有名人だそうだ」
「そうなのか昨日も君はそう言っていたが、トラヤなぞ聞いた事がない名だぜ」
「表立って動かないらしい。代理人を全て立てるやり方だそうだ。Mr.プリュインもその一人だよ」
「随分詳しいな」
「俺のほうの投資に一枚かませようと娘に引っかかりを付けたが、16の小娘があっさりと2000ドルを此方に預けて寄越した。ミラーの娘と上手く友達になってくれてな」
「そういえばトマスが来るそうだな」
「20日から2週間うちのウッドサイドパークの別荘に親子で来るのさ。ミラーの家族も来る予定だ。あの日本の娘も招待してあるのさ」
「ところで線路を使う事を教えに行くか」
「そうしないとアンフェアといわれかねないからな」
二人はスポーツマンらしくホテルへ出向きショウに来意を告げて線路の占有許可を取ったので10時から40分間は自由に走れることになったと伝えた。
「ありがとう御座います。教えていただけて嬉しいですよ。明日のレースはいいタイムが出そうですね」
「期待しているよ」
二人が帰ると早速ポールを呼び寄せミシェルの部屋で対策を話し合った。
「今日のゴムの傷みなら明日は5号でもいけるでしょう」
「イヤ、案外と石畳は痛むから7号にしよう、6号が余分にあれば後輪だけでも変えるか。レースでなければニューマチックタイヤを試すんだがな」
「7号ですか、すこし重いですよ」
「おいおい、ミシェル差なんて5号と500gもないぜ」
「ジャスティはそういいますが」
「マア待てよ」ポールとミシェルの論争にショウが待ったをかけた「いい機会だ俺が空気入りタイヤ、ミシェルが5号、ポールが7号で走ってみよう」
「1台分なら6号がありますよ」
「ほんとかよ。そんなに持ってきたのか」
ポールは其処までの準備をしてあると知らなかったようだ、普段リヨンとパリに分かれていて今回も船が別でニューヨークで合流したのだ。
「ホイールは全て4台分用意しておきました。でもショウ、ニューマチックタイヤは破裂するとスピードが出せませんよ。危険ですがいいんですか」
「一人抜けても大差はないさ。ならジャスティは6号で行こうか。俺がいけるところまで最初から引っ張るから後は頼むぜ」
「エアーはどの位にします」
「一杯にして気持ち抜くのが良いだろう」
「では朝に調整して置きます」
ミシェルの部屋に備品があり3台を運び入れてあるので調整を頼んで出かける支度をしにスィートに戻った。
部屋にはクラリスとアリエルが来て持っていくドレスを紙製の手提げ鞄に入れてショウを待っていた。
「ショウ、アリエルとクラリスに付いてきてもらって明子たちがドレスに着替えたところを写真に撮ってもらいましょうよ」
「そいつはいいな。クラリスの写真の腕はパリ一だ」
「またショウは人を煽てすぎですわ」
子供たちが笑いそれに釣られて全員が笑いながら支度を進めた、エメは内線で受付へ連絡してもう1台馬車を呼ばせた。
ショウを寝室でエメが着替えさせ10時半に呼んだ馬車が着いたという報告が入りドレスを持ったメイドも付いてエレベーターで下へおりていった。
下には清次郎が待っていて馬車まで荷物を分けてもった。
「オーイ、ショウ何処へ行くんだ」
馬車に乗り込もうとしたとき向こうから呼びかける声で振り向くと勢いよくかけてきたのはダンだ。
「何だ、ボストンへ出てきたのかい」
「火曜から丁度タフツ(Tufts
University)に講義を依頼されたのさ。昨日の話で随分急な話だったがいい機会だから受けたんだ。世話になった先生の代理なんだがショウとエメの顔も見たかったしな朝一の特急で来たんだ」
「出かけるから一緒に乗りなよ。子供たちは詰めて乗れば大丈夫だから。荷物がないと言うことはもうチェックはして来たんだろ」
「ああ、チャールズタウン(Charlestown)の先生の家に厄介になるんで其処へ置いてきた。やぁ、エメ元気そうだな。サラは僕を覚えているかい」
「ええ、覚えているわ、ダニエル・ハミルトン先生よ。ジュールの2才の誕生日にお会いしたわよ。3年前よ」
「こりゃ驚いた。その日が最後だったかな」
「そうよ。だって私に4才の誕生日に会えないからと言って贈り物を持ってきてくれてその日にル・アーブルへ旅立つと言ってお別れしたんですもの」
「おいおい、ショウお前さんたちの娘は凄いな。俺なんぞ4才の時の事は思い出せることなんて何もないぜ」
「サラは特別さ。言葉も3ヵ国語で会話できるよ。ミチとタカにノエルとさらにソフィアたちとはジャポネ(Japonais)で手紙のやり取りをしてるそうだ」
「参ったね。なら僕がフランス語を思い出せなくても会話は大丈夫だな」
ダンが面白おかしく最近の生活を話しているうちに丘のパムの家に付いた。
「大分と大人数になったが大丈夫かな、写真機をクラリスが持ってきたから順番にドレスに着替えて記念撮影だよ」
アリエルとエメが順に着替えさせて日当たりのよいポーチで一人ずつの写真を撮りプリュイン夫妻が着いてすぐ着替えてもらうと全員揃ったところで集合写真を撮った。
その頃にはパーティに参加する人の大半が集まりドレスに着飾った5人を口々に褒めた。
クラリスは残りが3枚と気が付き「あと3枚残っているけどなにをとります」とエメに相談していたのを聞いたアキコがジョリーとその子供たちを入れた写真を撮ってくれるように頼んだ。
ドレスをジーンズに着替えてアンディにジェニーとサムも呼び寄せ、ブッシュさんに連れられて来て呉れたメグにナンシーも入れると納屋の前の囲いの中で写して貰った。
「子犬が動いた気がするからもう一枚」
クラリスにいわれてジョリーはアキコとヒナの間に座らせアンディはヒナの膝の上に抱き、黒の牡はアキコが捕まえ、4人の子供たちが子犬を1頭ずつ抱いてブッシュさんの足元に座り込んで写して貰った。
ブッシュさんは写真が出来たら此方へお送りくださいと名刺を渡した。
その頃にはボブとディックの家族が馬車を連ねてやってきて丘の家はおおにぎわいだ。
1時丁度にフレッドが馬車に3台のsafety
bicycleを積んでやってきた。
目敏くダンが見つけショウに「これが最新の奴か。パリジェンヌと其れほど変わりがないな。前が28インチに後ろが26インチか。どうせレディ用なら前後とも26インチが良いだろう」と仔細に検討しだした。
「一番はファンとチェーンか。随分華奢になったな2000gは軽くなったか」
「その通り、丁度その分軽くなったよ。前後とも26インチは頂きだな、出来れば男性用は前後27インチにしたいところなんだ。あと気が付かないか」
暫く仔細に眺めていたがセラがスプリングで悪路でも尻に負担が少なそうだと気が付いたことを言った。
「そのセラが上下に簡単に動くのも新機軸だ、足の長短に合わせられるのさ。そうだダンも新しいのに乗るかい。学校に昔のように乗って行かないか、今はえらくなって馬車で送り迎えがついてるのかい」
「まさか今でもバイシクレッテだよ。パリから持って帰った奴に乗っているよ。そうだ名刺があるんだ」
リーグ・オブ・アメリカン・バイシクリスト(League of American Bicyclists)理事とリーグ・オブ・アメリカン・ホイールメン(League of American Wheelmen)ワシントン支部理事の肩書きが入った名刺を呉れた。
「LABかアメリカには大きな団体がいくつもあると聞いたがその中でも有名だな」
「しってたか、それなら話しが早い。ハイ・ホイーラーが会員の多くが好む機種だ。俺たちが乗ったパリジェンヌの新型ではなぜかハイ・ホイーラーに勝てないようになってしまった」
「新型と言っても10年前だぜ、もはや旧型さチェーンが重過ぎるんだよ、やはり平坦地ではペニーファージングが強いのか」
「チームを組んで走ればそうは簡単に負けないと思うんだが」
「では10台分の本体と予備のために替えのホイールに新型のニューマチックタイヤ(pneumatic tyre)にギヤを昔のように3種類つけてプレゼントするからチームを組んでくれないか。今回販売用以外に20台分はレースチーム用の装備一式入れて送ってきてあるんだ」
「何だ、俺に呉れるつもりで狙ってたな。空気入りタイヤが実用になったか」
「まだ試験段階さ。破裂してしまうと直すのが大変だからな」
そういうわけだと二人で笑っていると最後の一枚の写真を室内で撮り終わったクラリスとアリエルが先に戻って写真の現像を頼みに行きますと待たせておいた馬車で市内に戻って行った。
「そういえばクラリスの旦那のジャスティがパリで優勝したんだよな。ショウの時代はもう終わりか」
「俺は短距離向きだな。10マイルがいいところだ。そうだ明日はコロンビアのポープ大佐に挑戦されてあそこのチームとさっき馬車で此処まで登って来た道で勝負するんだ」
「本当にやるのか、あそこのチームは強いぜ、しかし10マイルくらいかならショウに勝ち目がありそうだ。坂道も有利に運びそうだぜ、あいつら平坦地でのチャンピオンだからな」
家に入らずポーチに座り込んで二人で話し込んでいるとフレッドがジーンと出てきて契約が決まったと報告した。
「お嬢さんよろしくお願いします」
「でもバイシクルに乗った事がないのよ。最初のお仕事の日までに練習しませんと」
「そいつはボビーとも話したんだが覚えないで欲しいと言うことなんだ」
「なぜだい」
「リーグ・オブ・アメリカン・ホイールメンの連中も大勢来て貰って宣伝をするんだがその時にコスチュームに着替えてから初めての乗り方を指導してもらう予定だ。幸いスケートが上手だそうなのでバランス感覚がよさそうだ、すぐその場で乗れれば大成功さ。なまじ練習されると宣伝効果が半減してしまうと言うのさ。だからバイシクルの贈呈はその時に行うのさ」
「そういうことだそうです、確かミス・ジーン。えっと」
「ジーンは愛称でジョージアナ・ブリジット・ヴォーンですわ、ムッシュー・ショウ」
「ミス・ヴォーンですねよろしくお願いします」
ジーンは改めてジーンの名前の由来などを話しいっぺんに其処にいる人たちの中に溶け込んだ。
トミーが昨日の二人の監督とやってきた。
「今日は試合が12時30分に終わってしまったんだ。昨日ここでパーティがあると聞いていたのでやってきたんだよ」
「どちらが勝ちましたの」
「うちの大勝利さ」
ミーナともわだかまりなく話す様子にほっと胸をなでおろしたのはアキコだけではなかったようだ。
二人の監督はアキコにぜひトミーが話す球を投げるところを見せてくれと懇願してきた、グローブとボールを持ち出したトミーをアキコは軽く睨んだがすぐ柔軟体操をしてキャッチボールを始めて徐々にスピードをつけトミーの胸元をめがけて思い切り例の球を投げ込んだ。
グローブを押し込むようにボールはホップしてトミーは押さえるのがやっとのようだ。
「凄いな」
ボブとディックも驚きを隠せないようで二人の監督と握りと投げるタイミングを議論しだした。
「話は本当だ」
「こいつが常時投げられれば打てるもんではないな。トミーお前確りしろよ。お前プロなんだからもっとコントロールがよければな何時でも試合に出れるんだ」
「アキコすまんがあと2球投げてくれ」
「3球ほど肩慣らしをして投げて見ます。続けては肩と肘が壊れそうなの」
「良いとも今度はトミーの左肩付近から上に抜ける奴を投げてみてくれ」
二人の要望どおりに投げ終わると「すまないがもう少し付き合ってくれないか。俺たちも受けてみたい」と落ちる球とホップする球を2球ずつ投げさせた。
二人の監督も落ちる球の落差とホップする球の勢いに呆れた顔をしていた。
「さ、皆さん新しいお茶が入りましたから中へどうぞ」というパムの声でぞろぞろと中へ入った。
ジーンはトミーの世話を焼きながら今日決まったバイシクルの宣伝の仕事の事をどうだろうといまさらのように相談した。
「良いと思うぜ。なんと言っても平等の社会だ、どんどん女性が進出するのはいいことだよ」
「ではアキコもベースボールチームに入れるかしら」
「そいつはどうかな。素人チームには何人か居るようだがプロとなると簡単にいかないよ。オーナーが英断しても他のチームが賛成しないかもしれないしな」
誰が見てもジーンがお熱なのは明白だがトミーだけは気が付いていないようだ。
子供たちはミーナが相手をして食堂で楽しそうに歌っていてスーの特製ケーキとアイスクリームを食べさせてもらえるのを待っていた。
アキコがトミーたちにショウとエメを改めて紹介しモリルとライトの二人の監督に頼んでジミーから今朝分けてもらった写真にサインしてもらった。
「昨日はお顔も知らず失礼しました。父はベースボールが好きでよくレッドストッキングズの事を話していたのですがお名前までは覚えていませんでしたの」
「いいのですよお嬢さん。遠い異国の人に吾がチームのファンがいる事がわかってうれしい日になりました。ビーンイーターズになって3年目やっとこの名前も人に知られるようになりましたが今年は楽ではありませんよ」
フレッドが持ち込んだバイシクルにも興味を示し7年前にビーコンパークで行われた最初のバイシクルレースの事を話題に乗せた。
ダンもその話しを聞きに側へやってきた。
「あれはパーカーというハーバードの学生だったよ」
モリルはそう言って盛んにホイールメンたちの事をダンと話していたがビーコン・トロッテイング・パーク(Beacon Trotting Park)は来週開催だなと話題を変えるようにトミーに念を押した。
「そうです。うちの兄貴も今回は4レースに乗るそうです」
「Mr.マエダはトロッターに競馬なぞお好きですか」
「競馬場には年2回ほどくらいしか行きませんよ。横浜本社のMr.ネギシは牧場も持っていて今は12頭ほどの競走馬がいるのではないでしょうか」
「ほお其れは凄い、さぞかしいい競走馬をお持ちでしょうな」
「聞いた話では今は其れほどの馬を置いていないと言うことですが、去年共同でケンタッキーから牡の種馬を買い入れたそうです」
ジーンとミーナがタマたちと交替して広間に出てきた。
エメとショウはアキコの部屋を見たいと3人で2階へ上がり其処から見えるアトランティック・オーシャンを眺めた。
「実はアキコと3人だけになりたかったの。この部屋を見て横浜へ報告する以外に投資の相談がありますのよ」
エメは優しく切り出した。
「私投資のことなぞわかりませんわよ」
「わからなくてもいいんだが、実は寅吉の旦那様が電信をくれてアメリカで投資をするならエジソンのエレクトリックにベルのテレホンだと言って来てくれたんだ。後は鉄道だがこいつはむずかしいと言って来たんだよ」
「あら其れ私もミーナの知り合いのジリヤールさんに勧められましたわ。個人の資金が2000ドルあるので投資に回していただきましたの。他には海運業者を推薦されましたわ」
「エメが2万ポンド。僕が3万ポンドの5万ポンドをマベルとゼネラルエレクトリックを中心に投資するつもりさ」
「凄い、そんなにアメリカへ投資なさいますの。いまだと20万ドルくらいかしら」
「そう、その代理人をアキコにお願いしたいのさ」
「無理ですわ。私そんな大金のお世話なぞ出来ませんもの」
「君は、わたし達の代理でプリュイン&ショウの役員という名目でこの投資金の管理をするだけでいいんだ。別に一年のうちに何度も売り買いをするわけではないから、株主への配当のお金の受け取りとその分の保管人が必要なんですよ」
「でもあと2年で横浜へ戻る事になりますのよ」
「そのときは清次郎に引き継がせます、どうやらニューヨークにも氷川商会と虎屋の合同で支店を置くらしいのです。このボストンでプリュイン&ショウにはわたし達の派遣した社員がいないのでお願いします」
エメもアキコの傍に座り「なにぶん取引相手の言い分だけ聞いている投資では不安なのよ。貴方が引き受けてくだされば配当金のうちからお小遣いが出ますのよ。そうすればお友達とこのようなパーティを開く時などの細かいお金のやりくりも楽になるわよ」と話しを進めた。
日本的な心情に訴えるショウに欧米的な利もあるのよというエメの言葉にアキコは何時の間にやらダイムノベルスの主人公になった気がしてきた。
「何かあたしってビジネスウーマンになっていくみたい」
「ふふ、アキコって面白いわ」
エメは18でいっぱしのそのビジネスウーマンになっていた自分を思い出して愉快だった。
「でもペールからの電信でというだけでそんなに投資しますの」
「実はパリで知り合ったオーストリアから来ていた友人がパリのコンチネンタルエジソンから此方へ来ているんですよ」
「ボストンですの」
「いえニューヨークのエジソンマシンワークスだそうです。手紙を出して有るのですがまだ連絡がつかないんですよ。彼は発電機の開発に役立つとパリのムッシュー・バッチュラーの推薦で此方へ来る事になったんですよ」
「その方若い人なのですの」
「確か僕と同い年のはずですよ、パリへ出てきた時に知人の紹介であった時に26だといっていましたから。でもエジソンはけちですね彼に週18ドルしか出せないといったそうですよ。それでも発電機の改良に成功すれば50000ドルの報酬を出すと言ったそうで其れに期待を込めて寝食を忘れるくらい打ち込んでいるそうですがね」
「でもそんなにけちだというエジソンさんが50000ドルも出すかしら」
「其れを心配してるんですよ。彼は一本気ですからねエジソンが報奨を出さないで自分の努力に報いてくれなければ会社を辞めるかもしれません」
正太郎はそのニコラという人のことを気にかけているんだという事がアキコにもよくわかった。
「アキコは16でしたよね、エメと出会ったのは17だったっけ」
「違うわあの時は5月だったから18になっていたわ。ショウは17だといっていたけどまだ16だったのよね」
「そうか25日だったな3月14日の誕生日から2月ほど後か、あの頃のサラは随分若く見えたっけ、エメと3つくらいしか違わないと思って傍にいたバーツのほうが年上に見えてアレクにそういったら笑われてしまったんだ、でもマリィがエメは17だと言ったんで暫くはそう思い込んでいたんだよ」
二人はアキコにざっとその頃の二人の馴れ初めを話しながら下へ降りた。
「じゃショウはエメがお金持ちだと知らなかったのね」
「そうショウは私が学費稼ぎに夜にフォリー・ベルジェールで働いていると勘違いしていたの。サラ・ベルナールに競馬場へ誘われてそのドレスを作ってくれたり、競馬で儲けさせてくれたりと優しかったのよ」
サラ・ベルナールの話をしているとジーンやミーナにタマたちが集まってその話の続きを聞きたいと集まってきた。
「エメのお嬢さんにサラ・ヨーコとつけたのはサラ・ベルナールから頂いた名前なのね」
「そうなの其れとヨウサマというアキコのメールからヨウという字にコをつけてヨーコとさせてもらったんですよ」
話しが通じない部分はアキコとジーンが説明役を買って出てくれてフランス語やら日本語やらが飛び交う可笑しな場になり笑いが絶えなかった。
「ジュールもフランスへ来たショウの友人第一号のジュリアン・ドゥダルターニュとコタさんという名で親しい人から呼ばれているアキコのペールから頂いたの。アキコとショウがフランス語を教えていただいたベアトリスとジュリアンは従兄妹なの」
ショウが競馬場に誘われ馬の事は何も知らないながらジュリアンや画家のルノワールからのアドバイスで800フラン儲けた話しをした。
「あの頃の自分には800フランは大金でしたよ」
「貴方今でも800フランは大金よ」
「ボストンでも160ドルは工場で働く人でも良い方で16週分の給料ですわよショウ」
パムは今でも虐げられた労働者が多いという話と女性は安い賃金で重労働につかざるをえないと話した。
実際ビーコンヒルあたりでは移民のアイルランド人の住み込み下女だと週2ドルだそうだ。
「あの頃のパリでは女性は1日10時間働いて4フランいただければ最高でしたわ」
あの当時サラ・ベルナールはショウとエメを自分の弟と妹のようにかわいがってくれた事などを話す二人だった。
ブッシュさんがメグにナンシーと3頭の子犬を馬車に乗せて帰るのを皆で見送り、トミーたちもパムに挨拶してショウと握手して帰っていった。
プリュイン夫妻とボブたちの迎えの馬車が着いてもう少し残りたいがと後ろ髪を惹かれるように帰って行った。
留学生仲間にジーンとミーナも帰りパムの家族が洗い物を引き受けてショウとエメは広間で子供たちにせがまれてジュールベルヌやシラノドベルジュラックの不思議な世界の話しをした。
パムとスーは清次郎が話すサンフランシスコや横断鉄道の話で意気投合していた。
コニーも片づけが終わり話に加わり「サラ・ベルナールは今何の舞台で何の役を演じているのかしらと聞いてきた、サラはボストンへも来た事があり人気があるのだ。
「4月からシアター・ポルト・サン・マルタンでユゴーのマリヨン・ドロルム(Marion Delorme)を上演していますわ。人気が高くてわたし達がパリを出る時も続演が決まりましたわ」
「そのお話読んだ事があるわ」
アニーが話しに加わりコニーは読んだ事がないと話しの内容を教えて欲しいとアニーに覚えている事を話させた。
アニーが話したことに補足するようにエメはユゴーがルイ13世が意志薄弱で迷信深く残虐な性格として描いたため上演禁止になってしまった事や翌1830年に七月革命がおき、コメディ・フランセーズで1831年になってマリー・ドルヴァルのマリヨン役で上演され華々しい成功を収めたと裏の話しをした。
この当時のユゴーはルイ13世を悪く書いたのが響いてたびたび上演禁止の処分を受けていたのだ。
ショウがリヨンに静養中のユゴーをサラ・ベルナールと尋ねた時の話にはパム親子は羨ましそうに他に思い出せる事はないかとショウに細かな事まで話させその時の食事についてもショウが思い出せる限りの事を話させるのだった。
其のユゴー先生も正太郎一家がフレンチ・ラインで大西洋を横断中の1885年5月22日に亡くなりパンテオンに遺骸は納められた。
ブッシュさんがコニーたちに話していたように明日から子犬たちを2軒の家に昼間だけ連れてゆき10日ほどたったら夜も留め置くようにというアドバイスで今晩は納屋で寝かす事になった。
ショウとエメの家族も帰りスーも楽しかったわと満足そうに帰るとアキコはジョリーに会いに納屋に行きさびしくなった小屋で子犬たちと遊んだ。
ショウはホテルでダンを連れて喫茶室によりポールとミシェルを呼び寄せた。
「お久しぶりです教授」
3人が交互に一瞥以来の挨拶を交わした。
ツール・ド・パリで新型パリジェンヌでチャンピオンになったダンは少年だったミシェルの憧れの選手だった。
その頃全盛と言ってもよいショウのチームは参加レースの2回に1回の割で勝利した。
73年10月26日ツール・ド・パリにポール・モルガン・ベルナールのペニーファージング。
73年11月30日リヨン・デュ・ツールはユベールで新型パリジェンヌ。
74年05月03日ツール・ド・パリのダンは新型パリジェンヌ。
74年06月14日リヨン・デュ・ツールはポール・モルガン・ベルナールの新型パリジェンヌ。
この時のチームは強かったと今でも言うがペニーファージングの改良も進められていて新型パリジェンヌも勝てない日が続いた。
そして10年の間に5回の勝利と数々の入賞をしたが二人のポール時代の交代したのが5年前、ポール・モルガン・ベルナールはチームの総監督としてパリとリヨン、ディジョンの三つのチームを率いた。
昨年パリで勝利したのはポール・ジャスティアン・シラク、39才になった彼は2回目のパリ制覇だ。
( 幻想明治は妄想幕末風雲録の酔芙蓉、横浜幻想の続きであり自転車の歴史とはずれがあります。後輪をチェーンで駆動したのは1879年、ローバーセーフティは1885年に前後輪を同一にし、実際の空気入りタイヤの実用化は1888年、フリーホイールは1896年になってからです。)
「大器晩成とは君のことだ」
ダンはそう言ってジャスティとの再会の喜びを表現した。
パリが11月2日でリヨンは11月30日のミシェル、どちらもパリジェンヌとローバーを使って改良した新型で今回のボストンで売り出すモデルになったバイシクレッテだ。
ミシェルの部屋へ移動してその時の写真を見せて明日のレースに使うローバーとの違いを話した。
「平坦地なら前後を同じ27インチにして前傾姿勢をとりやすくすればもっとスピードが出せます」
「そうなんだよな折角フリーホイールになってもギヤを交換しなければレースに勝てない。ショウは自分で工場を持てば幾らでも作れるのにアイムに遠慮ばかりして歯がゆかったよ。それでアメリカへはどのくらい輸出するんだ」
「年内3000台のつもりさ。出来ればパテント(特許Patent)料を取ってライセンス生産に切り替える予定さ。すでにスターレーとアメリカでパテントオフィスへの登録は済んでいるんだ。向こうへは86年度から3年間1台5ドル最低保障5000台の25000ドル、その後は此方へ金が入る契約さ」
「うまくやったな20ドルで契約すれば1台15ドルか。年5000台は固い契約だ」
「ダンそいつは甘いぜ。僕のほうでは3年で30000台と見ているのさ。その後も年間20000台を見込んでいるんだ」
「本気かよ。でもなパリジェンヌから10年しかし今度は3年で改良型が出てくるだろう」
「その分も横浜へエメと行った時トラキチ旦那と引いた図面を見たろ、あれに添ったパテントを各国へ申請してあるんだライセンスなしの生産は出来てもその申請国へ輸出される事はないのさ。後10年間有効だそうだから充分儲けさせて貰えるよ。問題はドイツとオーストラリアにジャパン、さらにロシアも脅威さ此処は国内で充分売るだけの力があるからな。裁判に金をかけるのもアメリカやイギリスにフランスのようにはいかないのが悩みの種だ」
「参ったなもうそっちの心配か」
4人で大笑いになったがダンは明日一緒に走りたいが此処には3台しかないのかと不満顔だ。
「レースは3人の約束だが一番最後に後れて出てタイムを競う気なら話してみるぜ。競技用のローバーにミシェルがすぐ組み立ててくれるさ、見本のレディ用のフレームでよければな。今日見たのと同じ奴に競技用のホイールを嵌めればオーケーさただし前後ともそろえられるが26インチになってしまうんだ」
「そのニューマチックタイヤが余分に有るのかい」
「有るんだよ、明日は僕だけがそいつを嵌めるんだ。ジャスティにミシェルはそっちの奴さ」
ミシェルがスィートへ出向いて女性用を1台降ろしてきた。
見ている前でホイールを入れ替えて「明日はショウと同じ圧にしますかすこし固めに入れて置きますか」と聞いた。
「パンパンでは石畳は辛いな」
「ではショウと同じに明日の朝に調節をして置きます。其れとも馴れるために乗って帰りますか。必要な工具は余分にありますからお持ちになってよいですよ」
そう言って皮袋をひとつとハンド式の空気入れを差し出した。
「もらって良いのか。帰す必要があるかい」
「良いよあげるから持っていきなよ」
ショウがそういうと嬉しそうに乗って帰るがニューマチックタイヤがパンクすると明日困るなといいだした。
「仕方ないミシェルもう一つ出しなよ。其れを背負って走るのは危ないから馬車を呼ぶよ、そうすれば前に填めてあった分も持って帰れるぜ。夕飯を食ってから帰るかい。明日の朝も予備と一緒に馬車で来るんだぜ」
ダンでは仕方ないとショウは言って予備を入れたズックを出させて馬車の事を念を押した。
ダンは明るいうちに一回りしてみたいと馬車を呼び寄せてもらうとすぐ帰っていった。
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