習志野決戦 − 新政府          根岸 和津矢

各地の侍や農兵が話す言葉は特別の場合を除き方言を使わずに本文を構成してあります。
習志野は幕末には小金牧の一部で下野牧と呼ばれていました。
小金牧は野田から佐倉、千葉市にかけて広がる広大な牧場でした。

習志野は明治に為ってつけられた名ですが通りがよいのでそちらを使いました。


新政府

1868年6月20日 土曜日

慶応4年5月1日 江戸 千代田城

田安御門内に有栖川宮は預けられていた、この日大久保と勝は改めて挨拶に上がり、板垣と大山からの使者として差し遣わされていた益満と陸奥の二人を引き合わせた。

二人はこの日までに何度も甲府との間を行き来して双方の停戦と京への先導を話し合っていたのだ。

「京の山内豊信様から板垣参謀宛の手紙です、これは板垣参謀本人が見た証拠に此処に氏名と日付を書いてあります」と書付の最初には閏四月十二日甲府にて披見、板垣退助 そのように記されていた壱通と閏四月二十六日甲府にて披見、板垣退助と記された壱通を差し出した。

次の間に控えていた江連堯則(外国奉行)石川重敬(同添え役)の二人も襖と障子をすべて開け放して3人を残して下がっていった。

内容を読み終えた宮は驚きから暫く呆然としていた。

「しかし三条、岩倉はともかく後藤と木戸に大久保は各藩を代表しておろう、勝たちが主張して居るように罷免して薩摩や土佐に長州は引き下がるであろうか」

「木戸先生は前から徳川家を取り潰すことには賛成しておりませんし、自ら政権の中枢を担うことにはそれほどの意欲を見せては居りません。後藤先生もそれほど政治向きには意欲が無く大久保先生ただ一人のみが政治に意欲的で御座います」

「それで容堂殿はどのように」

隠居名の容堂のほうが通りがよいか豊信(とよしげ)よりも此方の名前で訊ねた。

「ハイ勝先生の主張と五箇条のご誓文に違和点は無く其の主張には賛成しております。岩倉卿には先の天子の御崩御に際してもおかしな噂がありますしこの際、薩摩土佐連合が改めて結べることが出来れば勝と手を結んで天子の下に政権の確立を目指してもよいとお考えで御座います」

「しかし公家の排除をすべしとの意見もあり、素直に聞く耳を向けてくれんものも多いのでは無いか」

「こちらに来て大久保一翁、勝先生ほかの方のご意見も伺いましたが幕府は崩壊しており、いまは徳川宗家を家達公が継がれ一大名家としての天子にご奉公をいたす所存であり、徳川家及び連盟諸藩の軍隊は天子の親衛隊としてのご奉公に何時なりと差し出す覚悟であるそうで御座います。ただ大久保、勝両人は最終的に罪人を出さず天子の下、開かれた政治局を目指すために一時公家及び諸侯の政治に関与されることをご遠慮頂き実務者による齟齬無き政治局の成立を目指すと言うことで御座いました」

「それは位階官位にかかわらず有意の人材を登用しようと言うことでいいのか」

「然様で御座います。宮様を含めてこのたび東軍の捕虜となった参謀たちも上方への帰還を早くにいたそうと折衝を重ねておられるそうで御座います」

宮には大村の戦死も海江田たちの降伏もすべてが告げられており、其の参謀たちの罪も早急に許されるということに不思議な感じを抱いていた。

其の時間、勝と大久保は江連たちと政治局の人事について話し合っていた。

「此処はやはり上方で決めているように総裁の下に政治局を置いて上下の局を一時開設しないといけないだろうな」

「外国と同じように議会を開くには時間がかかります。いままでのように米に頼る税収では無理があり、これからは商売の売り上げから税が取れるようにしないといけないでしょう」

江連はそういうが石川は「しかし居留地と違い町の商人からは売り上げからの税は今のままでは難しいので見込み税か、間口税しか取れないでしょう」

大久保は「太閤検地と同じように刀狩と地租を取るには十年をめどに進めないといかんだろう。まず各地の大名から領地を取り上げて国の礎にせんとならんな。勝さんその方策はあるか」

「まず小栗さんがやろうとしていた道州制を西軍の言う郡県制と直して、日本を蝦夷、奥羽、関東、東海、北陸、近畿、中国、四国、九州、この九つに分けてその下に今の大名諸侯を一時的に県知事として置いてから、人口の数を調べて統合していくしかないでしょう。幸いご存知の杉享二はスタチスチックを学んで居りますので彼に命じて全国に規模を広げてゆけば、人口もどこにどれだけのものが住んでいるか分かるでしょう。それといま寺が管理している人別も町役人が管理している部分も同じ役所を設けておかないと、いままでと違い国の中を行き来する人間が増えて収拾がつかなくなるでしょう。大久保さんの仕事は増えるでしょうがぜひ其の指揮を取っていただきたいものです」

「やれやれこれでは忙しくなるばかりじゃないか、それと長吏から言われている人別の事はどうする」

「もちろん彼らの功績も考え士族は無理でも卒族と言う身分に引き上げて穢多非人と言う身分はなくすべきでしょう」

四人はそれらを含めて木下大内記に命じて人別のこと統計のことを杉享二と共に行わせることにした。

「各地にも幕臣にも経済に明るいものも、藩の建て直しに成功したものも大勢居りますからそれらを呼び出して働かせることです。越前の三岡八郎が経済には詳しいので彼の意見を取り入れてください」

「こうなると小栗さんが切られた事が残念でならないよ」

東軍の出発は北陸の戦いに応援の兵と軍艦、武器を回して早めに方をつけて、中山道は板垣、大山の軍の京への帰還に任せ、東海道は徳川軍本隊と各藩選りすぐりの精鋭で押し出すことに決まりあとは宮方のご帰還の日を何時にするかだけとなった。

 

5月1日 越後

西軍と連盟軍はにらみ合ったまま、戦の準備に忙しく裏では兵站部が動いていた。

西軍は大久保が薩摩から呼び寄せていた大山に対して早急に北陸道に出るように催促の軍使を送ってきたが大山と板垣は甲府から動かなかった。

岩倉は焦れて東海諸藩にも出撃を促したが、岡崎以東の藩の情勢不穏を盾に尾張からは越後への出兵を受ける余裕がないと返事が来るばかりだった。

函館は官軍が押さえてはいるが松前の兵だけで督促をしても津軽からの兵は海を渡らなかったし秋田も返事が無いのだった。

 

5月10日 江戸

大久保と上方との話も済んでアメリカ、イギリス、フランスの各海軍の協力で総督府の有栖川宮とそのほかの公家に参謀は船に分散して乗ることになった。

其の人員の割り当てと名簿を見た宮は大原卿の名前が無いのに不審を覚えて大久保に聞くのだった。

「大原卿の名前が無いがいかがいたしたのか、島と中牟田の名前があるのにこれはどのようなわけか」

「ハイそれは、坂本、相良の謀殺と伊牟田、西郷の死亡にもかかわることでいま京に帰しますと御身柄に危険が伴いますので暫くお預かりいたします」

「然様か、しかしわが身がこのまま京に帰るについて大原を置いて帰還するのは気が引ける」

「しかし宮がお帰りになられませんとそのほかの総督に参謀だけを帰すということが出来ません、是非ともご一緒にお帰りを伏してお願い申し上げます」

「然様かでは己が帰る船に乗る前に大原に合わせてくれるか」

「それは勝と話をいたしまして出来うる限りそうさせていただきます」

フランスのアメ艦長、イギリスのヒュウエット艦長、アメリカのゴールヅバラ艦長の三隻の艦に分乗して13日には浜御殿から二百六十名、横浜で仕立てた三隻の船で四百六十名の第一次捕虜が上方に送られた。

後はおよそ二千八百名のものを向こうから迎えの船を出させずに、やはりこちらから順次送り出す予定だった。

五百六十名に登る重病人は名簿を渡して治り次第送還する事にした。

 

5月10日 越後

ついにこの日、黒田と山県は長岡と柏崎に対して攻撃を開始した。

上州からの軍と共に宇津宮を切り抜けてきた桂太郎も参戦していた。

しかし薩摩の大山が参加していないこの軍勢は装備に置いて奥羽連盟越後同盟とは格段の差があった。

 

5月20日 長岡

官軍の孟攻撃が続きガトリングの犠牲をものともせず、一時は長岡城を抜いて指揮官の河合以下は只見まで下がって防衛線を築いた。

柏崎も落ちて定敬も只見まで下がってきた。

しかし新発田で会津、庄内と奥羽連盟の諸藩の巻き返しが始まった。

 

5月28日 江戸

プロシャのカスパル・ドレイヤーが売り込んだクルップ砲は福田が試しうちをして驚くほどの性能を示した、三十六門すべてを買い取ったが十八万両とは吹っかけたものだった。

同時に砲弾炸薬も五万両を出して買い上げた。

蘭八やヘクトにヴァンリードなど多くの武器商人、工作部品商人からも三十八万両という即金で多くの銃弾炸薬に船舶部品を買い付けて榎本は大鳥に「こんなに足元を見られる値段ではたまらんな」と漏らすのだった。

ボクサー式銃弾とWinchesterの分はまだまだ十分にあり急いで手当てが必要ではないのが救いだった。

10日はかかると読んでいた下野牧、関宿の戦いが予定より早く済んだのが余裕を持たせていた。

横須賀、横浜の両製鉄所は船の修理補強と大砲の積み替えに大忙しだった。

浦賀に江戸の造船所も休みなく艦船の修理と補強に励んでいた。

 

 

1868年7月20日 月曜日

慶応4年6月1日 越後

5月28日からの奥羽越後連盟の総攻撃が始まり河合と奥羽越後連盟は長岡城の奪取に成功した。

米沢を主力とする新潟と河合指揮の長岡城の奪取を命じた黒田は率先して兵を進めたが、会津を廻って新手の隊を組織した山川の部隊に追い払われて後ろからは河合の指揮する部隊にはさまれ、新潟に押しこまれて行った。

 

6月1日 江戸

3日前の情報ではあったが奥羽越後連盟の総攻撃があると伝えられ補給の少ない西軍に対して余力のある奥羽越後連盟の優位が知らされ、越後の大勢が決したと判断した榎本は広島への出撃を命令して総司令に甲賀源吾を指名し準備に入った。

編成は次のようになった。

第一艦隊、第二艦隊共に紀州沖からは蒸気を焚いて速度が違う船は別れて二艦ないし三艦で行動してよいとの榎本の指令が出た。

甲鉄は単独行動の裁可が参謀本部で許され紀伊水道からは甲賀の判断に任されることになった。

艦隊は越後から帰還する富士山と開陽を待って出撃することになり越後に向けて帰還命令が出た。

各艦の大砲は積み替えられて装備は充実していた。

 

第一艦隊 提督代理 荒井郁之助

開陽丸 艦長 沢太郎左衛門 10ノット 砲三十六門
18センチクルップ砲 十八門
16センチクルップ砲 十二門
他        六門
(2817トン・400馬力・木製・スクリュー)
銅板補強済み

富士山丸 艦長 肥田浜五郎 12ノット 砲十三門
6.3インチ前装砲 一門
5.9インチ砲   二門
小砲   十門
(1000トン・350馬力・木製・スクリュー)

回天丸 艦長 根津勢吉(欽次郎) 12ノット 砲  十九門
ガトリング一門
56斤砲十二門
旋回砲 七門
( 710トン・400馬力・木製・外輪)

行速丸 艦長 赤松大三郎 12ノット 砲十二門
16センチクルップ砲 二門
6ポンド・アームストロング砲 一門
4ポンド・アームストロング砲 一門
小砲 八門
( 630トン・250馬力・木製・外輪)

第二艦隊 提督 甲賀源吾

 甲鉄艦 艦長 塚本明毅 15.5ノット 砲十四門
ガトリング 一門
 艦首300ポンドアームストロング砲 一門
37ポンドアームストロング砲 二門
16センチクルップ砲 六門
小砲 五門
(1358トン・1200馬力・装鋼・ダブルスクリュー)

太平丸 艦長 内田恒次郎 12ノット 砲 八門
16センチクルップ砲 四門
小砲 四門
( 370トン・355馬力・鉄製・外輪)

順動丸 艦長 古川節蔵(岡本周吉) 10ノット  砲 八門
 16センチクルップ砲 二門 
小砲 六門 
( 405トン・360馬力・鉄製・外輪)

長鯨丸 艦長 小杉雅之進 10ノット 砲十二門
16センチクルップ砲 六門
小砲 六門

(996トン・300馬力・鉄製・外輪)

榎本は臨時に第三艦隊の司令を松岡磐吉に命じ駿府、岡崎への人員の送り出しを命じた。

駿府のアームストロングは岡崎まで運び、下野牧からのものは第一艦隊に蓮田祥貴が砲兵百名と五門、第二艦隊に江原鋳三郎の指揮で砲兵百名と五門を乗せることに成った。

江戸湾の警備は第四艦隊の中島の肩に懸かり榎本は自分も出撃する予定で孟春に乗り組んで訓練に余念が無かった。

荒井は土佐沖から豊後水道を通り岩国を攻撃、甲賀は紀伊水道を抜けて敵と遭遇すれば交戦しながら広島を目指すことを命じられた。

その際向こうから砲撃されないように出来るだけ砲台付近は避けて通過する様に指令された。

紀州がどのように出るかこの時点ではまだ分からないのだった。

春木はまたもガトリングと共に開陽に乗り組んでいた、そして甲鉄のガトリングは岩田平作が受け持ち、回天に積まれたもう一台は安川大吉が操作を任された。

岩国上陸兵は平岡に指揮された、M1866 Turkish infantry部隊が新たに編成されて三百六十名が第一艦隊に分散して乗り組んでいた。

第二艦隊には武田斐三郎指揮のM1866 Turkish infantry部隊三百六十名が乗り組み広島上陸を命じられ、そのほかのM1866 Turkish infantry部隊は5日に陸路岡崎まで、上京軍に先駆けて東海道を内藤隼太の指揮で四百四十名が進発の予定で編成を急いでいた。

岡崎で大砲と砲兵に騎馬隊士を上陸させた第三艦隊に内藤隊が乗り込んで榎本の指揮で広島へ向かうことになった。

 

6月3日 江戸

大砲はすべて岡崎まで船が運ぶ手はずで其処からは街道を進むことにしていた福田はすでに自分の部隊を進発させていた。

各歩兵部隊には中島が割り振った糧食部隊がついて順次進発することも決定していた。

中島自身は中段に騎馬警備隊M1866 Carbine隊の一小隊三十名と共に自身の連絡騎馬隊三十名(M1866 Carbine装備)も与えられて前後との連絡を密にして過不足が出ないように監督をした。

街道では徴発される人夫、人足も無く問屋筋も安心して見送るだけであった。

臨時に雇うときは公定価格とされた2倍の賃金を問屋に払うと前もって連絡が行っていたので「ぜひ雇ってくれ」と言うものまで現れて中島は自分の手のもの楽をさせるために時々は雇って荷を運ばせていた。

 

6月8日 横浜

駿府への物資と駿府から岡崎へ大砲を運んで戻った松岡と共に榎本は新たに乗り組む太田の騎馬隊の割り当てを行った。

第三艦隊は次の編成で瀬戸内海に入り広島に向かうことになった。

第四艦隊から孟春、乙丑が此処に配属されてきた。

横浜から松岡萬率いる精鋭隊士二百名と永倉新八率いる千住大隊から三百名がSnider Short Rifleで武装して広島に向かって乗り込むことになった、そのためにさらにもう二艦が必要となり、輸送船団から黒龍丸600トン、奇捷丸517トンを加えることとなった。

戦が始まってから石炭の相場が上がり1万斤三十六両が先ごろは四十両になっていた。

一航海(大坂往復)に一隻およそ十五万斤六百両は必要だった。

松勘の試算では一隻二万両として三十二万両、海軍だけで九十三万両に及んだので陸海軍の西上予算百八十万両を工面するのに大童だった。


第三艦隊 提督 松岡磐吉  

(海軍総督 榎本武揚)
孟春丸
艦長 榎本武揚 12ノット
6斤アームストロング 二門
16センチクルップ砲 四門

(357トン・120馬力・木製・スクリュー)

翔鶴丸
艦長 小笠原腎蔵 12ノット
16センチクルップ砲 六門
(700トン・350馬力・木製・外輪)
蟠竜丸
艦長 松岡磐吉 10ノット
16センチクルップ砲 六門 
(370トン・60馬力・木製・スクリュー)
乙丑丸
艦長 西川真蔵 10ノット
砲 八門
16センチクルップ砲 二門
(205トン・70馬力・鉄製・スクリュー)
観光丸
艦長 永井玄蕃  8ノット
砲 六門
16センチクルップ砲 二門
(781トン・150馬力・木製・外輪)
奇捷丸
艦長 岡田井藏 8ノット
砲 八門
16センチクルップ砲 二門
(517トン・150馬力・鉄製・スクリュー)
朝陽丸
艦長 伴鉄太郎 6ノット
砲十二門
16センチクルップ砲 二門
(600トン・100馬力・木製・スクリュー)
黒龍丸
艦長 伊沢謹吾 6ノット
砲十二門
16センチクルップ砲 二門
(600トン・100馬力・木製・スクリュー)

朝陽、黒龍などは六ノットしか出ないという艦隊のため速度の遅い四艦が先発することになり,蟠龍、朝陽、観光、黒龍が昼を合図に出航していった。

夕刻には残りの船の準備も完了して横浜を出航した。

馬はすでに10日前に陸路騎馬隊士四十名と共に掛川に進発していて岡崎で合流する予定だった。

そして騎馬隊編成のうちWinchester隊士六百名が太田の指揮で船に乗りこんだ。

岡崎からの名古屋進発は6月15日に予定され、騎馬Winchester隊は六百四十騎、騎馬Spenser隊四百四十騎に達していたのだ。

関宿との編成替えも終り上京軍の編成は下記のようになっていた。

騎馬突撃部隊      五百二十騎   太田資美

騎馬Yellow Boy隊   二百六十騎 太田資美

騎馬M1866 Carbine隊  二百六十騎 太田資美

歩兵隊Winchester部隊  二千四百二十名 藤沢次謙

M1866 Carbine隊    六百名   人見勝太郎

Yellow Boy隊      五百名   藤沢次謙

M1866 Turkish infantry隊 四百四十名 関口良助(隆吉)

M1866 Turkish infantry隊 四百四十名 星洵太郎

M1866 Turkish infantry隊 四百四十名 大久保忠誠


歩兵隊 Snider部隊   三千二百名   林昌之助

Snider Short Rifle隊   四百名   松平太郎

Snider Short Rifle隊   四百名   土方歳三

Snider infantry Rifle隊  千二百名  林昌之助 

Snider Infantry Rifle隊  千二百名  朝田惟季 



斥候・伝令部隊    五百六十騎   大鳥圭介

騎馬Spenser隊     三百六十騎 (林昌之助隊)町田謙吾

騎馬Spenser隊     八十騎   (本隊参謀部)浅間慎次郎

騎馬Yellow Boy隊   百二十騎  (太田資美隊)吉兼半蔵 

騎馬Snider Short Rifle隊 八十騎   (松平太郎隊)原田左右吉


本隊参謀本部     七百名      大鳥圭介  

Spenser隊       百二十名  大川正次郎   

Snider Short Rifle   三百二十名 山角麒三郎

M1866 Carbine     百二十名  滝川充太郎

Starr Carbine     六十名   沼間慎次郎

Sharps Carbine     六十名   大岡新吾 

参謀本部付士官    二十名

 鈴木金二郎 吉沢鎌五郎 手代塚靱負 他

  

輜重隊        三千七百三十名    大築尚志 

警備隊Spenser隊     三百名   森三之丞

騎馬警備隊M1866 Carbine 二百名   中島恒太郎

連絡騎馬隊M1866 Carbine 三十名   中島恒太郎 

糧食隊        千六百名  中島恒太郎

工兵隊        三百名   安治溜治助

騎馬糧秣隊      千三百名  大築尚志


砲兵隊       千七百二十名   福田八郎右衛門

二十四ポンドアームストロング 十門

16センチクルップ砲     十門

    四斤野砲 二十門  四斤臼砲 二十門

砲兵         三百六十名 関広右衞門

補給隊        三百六十名 福田八郎右衛門

工兵隊        六百名   小菅辰之助 

警備隊M1866 Carbine隊 二百名   結城左馬之助 

警備隊Snider Short Rifle隊二百名   恒沢勇記 

合計動員数 約一万二千八百八十名

藤沢指揮下のM1866 Carbine隊には片腕になった伊庭八郎が志願して加わっていた。

関口は町田で新たに配給されたM1866 Turkish infantryの訓練を終えた隊の指揮を任されていた、スナイドルで訓練した兵はWinchesterの軽さと扱いやすさにすぐなれるのだった。

星は額兵隊を二つに分けて自分は新しいM1866 Turkish infantryで訓練した二中隊を率いていた、残りの兵は江戸警備を任されて勝の元に預けられた。

此処に参加していない奥羽連盟軍の兵は越後に出る手はずが整い、東軍に味方と決まった藩はすべて北陸道からの南下する西軍の押さえに回された。

佐倉は伝習隊や常陸の兵が守り関宿の兵も各地に分散されて新たに配属が決まり大関は新しい兵の訓練に江戸に戻った。

 

6月11日 江戸湾 横浜沖

この日寅吉は勝と共に中島三郎助の竜翔に載って沖を通過する船を見ていた。

第三艦隊に遅れること3日朝からの小雨もやんで、第一艦隊と第二艦隊は品川を出て各国の軍艦の見送りを受けながら一路瀬戸内を目指して西上していった。

勝の目にはあの日家茂公を乗せて各藩からの艟艨を率いた自分が見えていたのかもしれない、うっすらと其の目には潤みが見えたように寅吉には見えた。

「ナァ、コタよこれで船の最大速度と巡航速度さえそろえることが出来れば、今此処で見送ってくれている異国の軍艦に引けを取ることは無いだろうが、お前が教えてくれたように、軍隊があまり強くなると良いことなど無いかも知れねえな」

「それはどうしてですか」

「いまだってこの艦隊は無敵かもしれねえが、力が有り余れば其の勢いはどこかで爆発しなければおさまらねえだろう。力の兼ね合いは亜米利加、英吉利の半分にするくらいの気持ちで丁度良いかも知れねえな。それでもこの日本では維持するのは難しかろう、金がかかりすぎるからまず其の金を作る算段から始めないと国が破産してしまうよ。朝鮮、清国と連携してヨーロッパやロシアからの侵略に備えることこそ肝要だろうな」

勝はもうこの先10年、いや20年先を見ているかのようだった。

寅吉が知っている日本は軍隊が幅を利かせ文官の力が弱いことも勝の頭ではどのように処理しようとしているのかこの戦が終われば話してくれるだろうと待っているのだった。

「お前が言っていた国会の仕組みでは無理があるから、総理はアメリカの大統領のように四年任期の投票にしないといけないな」

そうだそれは何度も勝と坂本には話して半年や一年で国の指導者が入れ替わっては幕府の悪いところそのままだということ、上級官僚の人事権は内閣府にあることが望ましいことなども何度も話し合ったのだった。

日清、日露の戦いで「勝った、勝った」と浮かれ騒いで国の困難を忘れて軍隊が幅を利かせていくのを爺も父も苦々しげに話していたのを寅吉は覚えていた。

それがあるから家族でシアトルに移住しようと言うこともすんなりと決まったのだろう。

内閣府は統帥権を持ちそれは天皇から付託されると明記しなければいけないことだった。

「中島さん、あんたの息子はよく出来た人らしいな、藤沢さんもこんどは大仕事を任せたらしい」

艦の操作も士官に任せて艫に来た中島に勝は声をかけた。

「イヤアァ、どの様なものでしょうか、千人もの人間を動かせるとは思えませんですよ。足手まといにならなければいいのですが」

「あんたには失礼だが鳶が鷹を産んだと評判でやんすよ。藤沢さんの覚えも良いし将来は楽しみだね。しかしあんたといい息子といい縁の下の力持ちとはよく言ったものでご苦労で御座います」

勝は本心からこの親子の努力と献身に感謝しているのだった。

 

6月15日 新潟

加賀藩の李百里と薩摩の永平に長州の第2丁卯丸が開陽、富士山の帰還した隙をついて新潟港に現れて孤立した山県たちの救出に成功した。

しかし西郷吉之助の弟の吉次郎はこのときの戦いで北陸道鎮撫総督の高倉永祐、副総督の四条隆平を逃がすため後に残り戦死を遂げた。

さらに湾内にいた秋田藩のカガノカミと高雄を包囲して奪い取った西軍の六百名の兵が函館に向かった。

越後に取り残された西軍の兵は懸命に道をたどり富山に退いていった。

 

6月15日 紀伊水道 早朝 

加田砲台を避けて鳴門海峡に向かうか大回りでも加田砲台に近い沖ノ島を通るか此処まで悩んでいた榎本はこの際第三艦隊の八隻の軍艦が揃うのを待って友が島水道を進むことにした。

津名灘付近を航行中に後ろの船からの信号で甲鉄艦が近づいてきたことを知らされた。

明石海峡を抜けると前方に艦影を見つけたが近づくにつれ佐賀藩の艦隊と知れた。

砲戦準備は紀伊水道から両舷で準備されていたが、此方のマストの吹流しで徳川海軍と知れてか蒸気の焚き方をやめて船を停止させていた。

休戦旗を揚げた四隻の船は家島近くで錨を下ろして戦いを挑む様子は見えなかった。

佐賀藩艦艇とすれ違う際榎本は望遠鏡を左手に持ち右手で敬礼をして立ち続けていた。

中牟田に島を帰したこと有栖川宮を帰還させてことが佐賀と薩摩、肥後にもよい影響を与えていたのだ。

幕府を倒し王政復古を目指すは良いが、あまりにも短時日のうちに公家たちの専横が目立ち、このままでは国が立ち行かなくなると気がついたようだ。

機関は止めて帆をたたんで戦う意欲を少しも見せないですれ違いだした。

佐賀藩の船は先頭に甲子丸500トン140馬力、二番電流丸800トン100馬力、三番皐月丸370トン80馬力、四番延年丸700トン100馬力の四隻の軍艦だった。

それぞれが大砲に覆いをつけて、榎本に対して士官が立ち並んで同じように敬礼を返していた。

元は同じ佐賀藩所属だった孟春に坐上する榎本に対し佐賀藩の人たちはどのように感じていたのだろうか。

乗っていた歩兵達もいざ戦いかと思ったのもつかの間で無事通させてくれる佐賀藩の艦艇に不思議な気持ちを覚えるのだった。

豊島付近で第二艦隊を先行させて此処からは打ち合わせどおり10ノットでの突撃体制に入った。

速度の遅い四艦は後からついていくことになり、甲鉄は三字までには広島攻撃に入る見込みが立った。

 

6月15日 1時 来島海峡

甲鉄の艦上では武田、甲賀が先ほどの佐賀の船のことでまだ話を続けていた。

「勝先生や大久保さんの捕虜を早めに送還すると言う手が利いたようですな」

「そうだな、この分なら京でも上京軍が入るまでに此方と手を結ぶ藩が続出するだろう」

「そうなると良いですな、同じ日本人ですから何時までも戦うのはよろしくありません。こちらの意思が通じて同じ日本人として国のために尽くすこれこそがこの国に生まれた者としての役割でしょう」

「攘夷も勤皇も佐幕もそれぞれの意見があろうとも同じ国のものとして外国から国を守る、このことが我々の役目だろう」

戦いが長引けば儲けるのは外国商社だというのは敵味方とも承知での戦いであった。

 

6月15日 12時 尾張

一橋玄同こと、もとの尾張藩主徳川茂徳公でいまの一橋茂栄公がイギリス商船シャムロを雇って尾張に出かけてきた。

大久保と勝に頼まれて、尾張の開城を促しに出かけることになったのだ。

尾張は現当主の徳川義宜公の父親で実権を握る慶勝公の弟と言うことで交渉人に選ばれたのだ。

義宜公はいまだ11歳と言う年若で父親が実権を握り京に滞在していた。

宮に着いた茂栄の出迎えに尾張では赤堀源之進と生駒頼母が出て来ていた。

「出迎え大儀」

「お帰りなさりませ」

前の藩主であることもあり出迎えは丁寧を極めた。

桑名藩からも人が来ており交渉は楽に見えた。

「慶勝さま在京のためこのまま城明け渡しはいかがと思いますので、城は閉ざしたまま東軍の通り抜けを見逃すということにしていただけないでしょうか」

「其のことじゃ、軍事総裁はわしが城に入り其の上で軍隊をわしが見送るということで尾張の事は不問に付すというて居る。尾張藩としては宗家に準じて所領を朝廷に返し藩は其の機能を朝廷から委託され、領地の管理を行い藩主は知事と言う名の取締りの役職に就任して領地の管理を行う」

「と言う事は、われわれ家臣一同は殿様の家来から朝臣になるということでしょうか」

「然様である、義宜殿は藩知事と言う役職で勅任官であり、そちら家臣団は奏任官として朝廷のお雇いとなる。それを納得したうえでのわしの城入りを許すか、御手向かいいたすかわしは本日熱田に参詣をいたし明日朝に城に向かうから其のときに返事を聞こう」

「承知いたしました。早速重臣一同と申し合わせて明日お返事申し上げます」

藩の意向はすでに勝、大久保からも田安慶頼、松平確堂の二人からも申し入れがあり、大勢は家達公にお味方と決まっていた、茂栄の尾張出張に花を持たせて明日の返事に賭ける手はずを整えたのだ。

桑名藩もすでに了承しており、すぐに茂栄公尾張入りの報が飛び東軍通過に対して従う旨を岡崎に通知してあった。

 

6月15日10時 水の子島

豊後水道を北上する第一艦隊では南下する艦艇を見つけて開戦準備が進んでいた。

開陽の艦上では荒井と沢が盛んに後続鑑への戦闘準備を通告するように促していた。

「あれは春日だ、たった一艦で航行しているのはわれらのことがしれていない証拠だな」

「しかしおかしいな機関も焚かずのんびりしているぞ」

マストの見張り台から「前方薩摩藩艦艇に休戦旗が上がりました」

「どうしたのかな」

「例の参謀本部の手が利いて薩摩がこちらについたかな」

戦闘準備をしてガトリングを春木が命令次第撃てる様にして船を近づけた。

「此方は薩摩藩軍艦春日である。わが藩は東軍の申し出を受け入れ、大久保を藩代表から降ろし藩侯父子(ふし)は東軍と争わぬ道を選び申した。いまだ京では其のことが徹底しておらぬが貴艦たちの通過はわがほうの知るところであり、そのまま通過させるように申し付けられて来もうした。それと朝彦親王は広島城内の一郭に居られ、お身柄は浅野家が預かって居るがいまだ当方と足並みが揃わず毛利家の兵がご守護しているそうである。ついでながら土佐藩もわれらが大坂から出帆した時点で同意したと伝えてきもうした」

ズーフルを使いよく通る声で申し入れがあり此方からも返事を返して全速で岩国に向かった。

「荒井提督驚きましたな、薩摩は何でもご存知のようじゃ」

「しかし宮方一同を返還したことがよい方向に動きましたな。沢艦長このまま行けば岩国攻略の間に榎本総督、甲賀提督の広島攻略は成功しそうですな。今頃は斎灘あたりにでも到着しているころですかな」

「予定は本日16時攻撃予定ですから其のあたりでしょう」

「此方は18時の攻撃予定に間に合いそうで好かった」

「然様ですな10ノットで、このまま走れれば大丈夫でしょう」

瀬戸内海の上げ潮の時間に合わせた攻撃時間だった。

 



 

6月15日 京

春嶽は京にあって伊達宗城、山内容堂と共に立ち上がり岩倉、三条を含む倒幕過激派の公家たちの参内を取りやめさせることに成功していた。

薩摩の東軍協力が決まり御所の警備は薩摩が行い、長州内部でも元奇兵隊の伊藤、井上の一党が13日に京と荻で大村、山県一派を追放して一気に政権の中枢に踊りだしたのだった。

木戸は伊藤と井上の後ろで応援に周り自分は身を引いて広沢兵助に任せて表に出てこなかった。

薩摩では大久保の権威は落ち、国ではいまだ二才(にせ)といわれていた西郷信吾(隆道、後の従道)が実権を掌握して平和路線が確立していた。

藩代表には小松帯刀が代表で京での交渉に当たっていた。

長州では干城中隊副総督として京にいた広沢兵助が藩を代表して小松、後藤たちとこれからのことを相談していた。

後藤は罷免されたとはいえ土佐藩の代表として忙しく立ち働き、謹慎をするどころではなかったのだ。

前原一誠が率いる干城隊は岩倉、三条両卿とそれを支持する一派と共に若狭に逃れ蝦夷地まで落ちていった。

 

6月15日 16時 広島

薩摩と違い芸州ではいまだ京の異変に気がついていなかった。

現れた東軍軍艦に大砲を撃ちかけたがいずれも射程が届かずいたずらに海面に水煙を上げるのみだった。

弁天島まで侵入した甲鉄から300ポンドアームストロング砲と十六センチクルップ砲三門の連続射撃で大砲部隊は沈黙した。

次々に現れる東軍艦艇に海岸から銃で撃ちかける兵までいたので仕方なく甲賀は海岸線に向けて艦砲射撃を命じた。

それぞれの艦から一発を撃っただけで海岸線の兵はあっけなく消え去り上陸兵はボートに分散して八幡川河口付近から上げ潮に乗って上陸を開始した。

喫水の浅い乙丑が海岸線に近寄ってにらみを聞かせていたので現れる兵も無く無事M1866 Turkish infantry隊三百六十名とSnider Short Rifle隊五百名が上陸に成功して橋頭堡を確保し、大砲の上陸を待って広島城下に近づくため太田川上流に向けて進軍した。

榎本は海軍陸戦隊二百六十六名(M1866 Carbine装備)と共に上陸をして後を追った。

予定されていた竜王町まで太田川沿いを遡っても攻撃は無く其処に陣を張って一夜を過ごした。

広島城まで射程が届く範囲にすべての艦艇が二列に並び夜を徹して篝火を海上に差し出して警戒していた。

 

6月15日18時30分 岩国

岩国では開陽を筆頭に岩国城下に向けて一斉射撃をするか荒井は迷っていた。

与えられた情報では藩主の吉川経幹はすでに死亡しているらしいといわれ跡継ぎもまだ正式に届けられていないという話だった。

各艦艇に連絡がつきそれぞれが空砲を一発ずつ撃って様子を見ることにした。

攻撃予定に遅れること三十分で四発の空砲が次々に撃たれると海岸線があわただしくなり休戦旗を掲げた小艇が近づいてきた。

荒井が応答をすると「わが岩国藩ではただいま藩主が不在で御座るが、本藩からの指令で御手向かいはいたさないことが通知されて来ました。これが本藩から参りました書付で御座います」

それには木戸準一郎の罷免と藩侯親子の謹慎と井上が国許、伊藤が京での藩の最高指導者に指名されたうえで広沢兵助が折衝係と成ったこと、東軍と争わぬことに決したということが書かれていた。

直ちに休戦の使者が各船から出されて荒井と共に岩国城に迎えられた。

家老の宮荘主水と藩主代理の吉川経健に会って協約書を取り交わした。

15になったばかりと言う経健はしっかりした口調で「わが藩は本藩と共に朝廷はもとより東軍に対しても御手向かいの意思は御座らぬ、京の天子からの東軍と和解せよとのお達しによりこのたびは東軍に屈したのではなく、叡慮を慮って東軍との戦いを放棄したのである。朝廷に置いては東軍と軍事休戦をしてこれからの国づくりの体制を作り直されると知らせがあった」

飽くまで軍事に負けての休戦では無いと強調する純真な経健に対して荒井は「分かり申して御座る。わが主君の家達公も、軍事総裁の勝もすべて天子の下、開かれた日本の統一と天下平等の国づくりを目標に掲げて居り申す。共に新しき日本の再生に邁進いたしましょうぞ」

夜遅くなり錦帯橋まで見送られてそこからボートで荒井達一行は艦隊に戻り「明早朝広島に向かう」と沢に命令を発してから沖に船を動かして不寝番を置いて一夜を過ごした。

 

6月16日 4時 竜王町

榎本たちが白々と空けた空の下進軍の仕度を始めるころ、広島城内では交戦派と非戦派がいまだ争論をしていた。

「城外の軍勢に立ち向かっても軍艦がこの城に大砲を打ち込めばたちどころに崩壊してしまう。戦うなら城を出て戦ってくれ。殿にこのまま城が攻撃されたと報告してもお喜びなさるまい」

「戦わずして城を明け渡して何の武士ぞ。それこそ殿に申し訳が立つまい」

榎本が聞けばあきれる議論に夜を徹して耽っていたようだ。

いまだ京の政変が伝わらぬのか、城中では盛んに議論が繰り返されていた当に其のとき榎本の号令で大手門前に砲弾が続けて落ちてきた。

城中では交戦派が急ぎ出て行き太田川沿いで銃の打ち合いとなったがM1866 Turkish infantrySnider Short Rifleの部隊にかなうはずも無く城にも戻れず突撃をしたが渡河に成功した陸戦隊に包囲されて身動きが附かず降伏を申し出た。

軍艦ではマストから其の様子がつぶさに見えた。

「西から軍艦が来ます、先頭は開陽、後から三艦続いています」

甲鉄で吊り篭に乗っていた甲賀もそれを確認した。

下に降りて「塚本さん同やら岩国は戦に為らずに済んだようですな」

「そのようですな、無駄な損耗が防げて幸いで御座る」

近くで投錨した開陽から荒井がバッテラでやってきた。

「甲賀提督、岩国と長州は京で東軍との和解に応じたそうです。此方はまだ話がまとまっていませんか」

「先ほど榎本さんが城から打って出た兵を降伏させていましたからもうじき交渉が始まるでしょう」

「では私のほうの上陸兵を城のまん前に上げて援護に向かいましょう」

「了解しました、気をつけて上陸してください。まだ降伏が城の内部で決まったか分かりませんので」

二人の話がついて荒井の指示で平岡が各船から集めたバッテラで大手町方面に向けて進んだ。

城では竜王町からの兵と大手町側に上陸しだした兵を見てあわてて白旗を揚げた軍使を城の前に出して休戦の申し出をした。

「当方は朝彦親王をお渡しいただければこれ以上の戦いをせず休戦に応じる用意がありますが、それ以外の休戦交渉には応じません。お返事は一時間だけ、すなわち半刻のみお待ちいたしましょう」

急いで城中に戻った藩士たちは朝彦親王を連れて出て榎本に渡した。

床机を出して宮に座っていただき休戦の取り決めを平岡と武田に任せた榎本は大手門前で宮と話しをすることにした。

「徳川海軍総督の榎本武揚であります。お迎えに参上いたしました」

榎本の顔を見知る宮は安心していた。

「然様かわしはいかようにすればよいか」

「先ほど岩国で取り決めた休戦の証書によりますと京ではわが東軍と休戦をして新しい国家の政治方針を話し合うことに同意いたしたそうです」

「して、岩倉や三条の処分はどうなった」

だいぶこの二人には鬱憤がたまっている様子に見えた。

「まだ京のことについて詳しい情報が入っておりませんが、このまま大坂に打って出ることにしましたがご同行していただけるでしょうか。もし京に戻るのが気に染まないのであれば江戸まで最新の軍艦でお送りさせていただきます」

「いや、京に撃って出るのならわしも同行いたそう」

「ありがとう存じます。どうやら京でも体制は決まっているようで大坂に到着するころには戦も片がついている模様です」

そのように安心させる言葉を伝えて全軍を船に引き上げさせることにして先ほどの捕虜を城方に引き渡した。

百六十名ほどの出てきた兵士の半数が負傷しており死亡者は二十六名であった、犬死にとしか言いようがない無駄な死亡者であった。

夕刻までに大砲部隊も船に収まりその夜も一応の警戒を続けてはいたが何事も無く夜が明けた。

 

6月17日 6時 広島湾

出発まで30分を切り蒸気も力がついてきたころ東からフランスの軍艦が近づいてきた。

続いてオランダの国旗を掲げたジャンピが湾内に入ってきた。

狭い湾内は船端を接するほどで開陽の近くに停泊したジャンピからは沢と顔見知りのヴァンリース艦長が身を乗り出すようにして沢と話を交わした。

ズーフルで責任者を探していたフランス軍艦からバッテラが降りて人を乗せてきたが其の人物は辻将曹だった。

佐賀藩の軍艦からの情報を大坂で聞いてあわてて神戸でフランス海軍軍艦セミラミスに便乗させてもらってここまでやってきたのだった。

フランス海軍提督ジョーレスはどのように東軍が戦うかを観戦するつもりも有って同乗を許可したようだ。

「榎本提督、緊急にお話があります」城から煙も上がっていないのを確認してきたかまだ攻撃開始をしていないと見てそう切り出した。

「京では岩倉卿に三条卿が逃亡して東軍と平和的同盟による新しい政府を共に開くことが決定いたしました。当藩でも其の方針に従い東軍と軍事衝突を避けて休戦をしたい」

「分かりました、すでに城中では休戦に同意されて協約書も取り交わしました。残念ながら少数の意見が揃わぬ部隊と衝突があり死亡者が出ました。残念なことでありました。わがほうは朝彦親王も此方にお渡しいただきすでに大坂に向けて出発準備も整っております。一度城中に上がられるなら京に戻られるために艦を残しますが如何いたしますか」

「そうしていただくとありがたい、藩侯からの話も申し聞かせて誰か二人ほど京に同行させたいが良いだろうか」

「よろしいでしょう、いまバッテラを此方に越させますから暫くお待ちください」

ズーフルで富士山に話をして肥田を孟春に越させて今の話をして辻と共に城に向かわせた。

フランス軍艦とオランダ軍艦にも話をして榎本は富士山一艦を残して東上した。

航行速度は10ノットと6ノットの二手に分かれ堂々の凱旋の航海だった。

予定より遅れたが夜中には大阪湾に入れるが無理をせず夕刻、牛窓の黒島沖に停泊して夜を明かした。

 

6月17日10時 彦根

名古屋、関が原と戦もせず彦根まで進んだ東軍は板垣と大山の東山道隊と会盟して大津で二手に別れ京に進軍した。

大鳥の元へ奥羽連盟・越後同盟の上京軍三千名が山川指揮で進発したことが知らされてきた。

 

6月18日 10時 天保山沖

此処に集結した徳川海軍は、大阪城から出向いた佐賀藩の中牟田倉之助を迎えた。

「榎本提督はどちらか」

そう聞いて自分が元艦長をしていた孟春にやってきた。

アームストロングの替わりに積んであるクルップ砲をしげしげと見てから「提督、その節はお世話になりました。京では東軍の大鳥陸軍総督の到着と榎本海軍総督の到着をお待ちしております。有栖川宮が指揮をして新しい政治局の仕組みを相談するために早く京におあがりください。出来れば勝軍事総裁と。大久保さんの上京もしていただきたいと春嶽公も連絡を取られています」

「分かりました、では陸戦隊は大坂城に送ってよろしいでしょうか」

「もちろんです、大坂城ではあなた方の宿舎も駐屯軍のための施設も用意いたしました」

命令を発して次々にバッテラや差し遣わされてきた船で大砲部隊や上陸兵が陸に向かっているときに富士山が追いついて辻たちも続いて上陸をしたので船の甲板に隙間が見えるようになった。

榎本は自分の陸戦隊と荒井郁之助、甲賀源吾を連れて最後の船で陸に上がった、孟春は吉岡晴太夫が指揮を取ることになった。


 

6月18日16時 大坂城

荒れ果てている大坂城は少し修復もされている様子が伺え、あの退去の日以来僅か半年で戻ってこられたことが榎本には夢のようだった。

出迎えたのは城代に任命されていた山内豊範であった。

容堂公が三条、岩倉を推す薩摩、長州の策謀で主流からはずされていたが、勝と大久保はこの若き藩主を新しい政府の重要人物の一人と数えていた。

会計判事に引き合わされ大坂城に軍事資金八十万両がありそれをどうするか相談されたが、一徳川の金では無いとそのまま新政府の資金としての保管を豊範の管轄下においた。

6月18日16時 京

大津から来た東軍は伏見に入り淀城を開かせてその周りに陣を張ることにした。

あの日この城が開かれていればと大久保忠誠は感慨深いものを覚えた。

出迎えたのは鳥羽伏見のときは江戸在府で留守であった正邦だった。

城主である稲葉美濃守正邦は苦しい立場を切り抜けてきて漸く此処に自分の立場が立った事に安堵を覚えていた。

それは大鳥に会ったときの安心した顔つきでも分かるのだった、其処には連絡を受けて春嶽も出てきていた。

そして大坂城に榎本が入っていると聞かされて騎馬隊のうちから太田の指揮する百二十騎がすぐさま大坂に下った。

大山、板垣は島津久光と山内豊信(とよしげ・容堂)の命令で京の町筋の警護にすぐさまついて不穏な動きが起きないように警戒態勢を固めた。

6月18日19時 大坂城

太田と城中で打ち合わせをした榎本は明日早朝共に騎馬で二条城に向かうことになった。

そのほかの兵は大坂城にそのままとどまることになった。

いままでここにいた兵は各藩邸に引き取られ城中は元の徳川時代からの働くものと事務職の必要な人員二百名に山内豊範配下の六十名だけに一時的にされる事になった。

6月20日12時 二条城

昨日の打ち合わせどおり大鳥、榎本は騎馬で二条の城に入った。

従うものは騎馬隊千八十騎の堂々たる入城だった。

すぐさま朝彦親王(ともよし)熾仁親王(たるひと)が対面をして双方の協力を誓い合って共に大広間にお出ましになった祐宮睦仁親王(むつひと)にお目通りをしてお二人の宮様に政治向きの御委任を改めてお授けになったうえで、慣例を破り大鳥、榎本に目通りを許した。

睦仁親王は践祚せんそ)したがいまだ即位の礼も無きままで今に至っていた、いままで徳川の悪いところばかりを吹き込まれていたが英明なる若き天子は勝の掲げる「天子は君臨すれど統治せず」と言う檄文を読んで国のためにも政争の具にしないという東軍の主張を受け入れる決心をしていた。

罷免されたとはいえ前の摂政関白の二条斉敬(なりゆき)を密かに呼び出して其の意思を伝えていた。 

大鳥、榎本は感激して引き下がり二人の宮様と共に在京の諸藩代表とこの後のことについて相談を始めた。

勝、大久保から委任されたことと、江戸の裁可が必要な事の一覧を示し、祐筆が其のことを書いてそれぞれに示した。

そしてこれからは町の瓦版のようにすぐさま版を起こして同じ文章を閲覧できるようにすることも取り決め街から職人が集められて御用を承る事になった。


6月21日10時 二条城

配られた覚書は次のように為っていた。

1 郡県制 九郡四十三県

蝦夷郡 (分県予定地・渡島、十勝、石狩)

奥羽郡 (分県予定地・津軽、出羽、陸奥、岩城) 

関東郡 (分県予定地・相模、江戸、武蔵、千葉、常陸、両毛、甲斐)

東海郡 (分県予定地・伊勢、尾張、駿府、信濃、岐阜) 

北陸郡 (分県予定地・若狭、加賀、越後、越前・近江) 

近畿郡 (分県予定地・山城、大坂、大和、紀伊、播磨)

中国郡 (分県予定地・吉備、安芸、山口、出雲)

四国郡 (分県予定地・土佐、阿波、讃岐、伊予)

九州郡 (分県予定地・鹿児島、日向、肥前、肥後、筑紫、豊)

「九郡とは大きなわけ方で御座るな」

春嶽も宗城も話には聞いていたが周旋人として細かいところを把握しなければと考えていた。

「はいそれらは草案でありまして、まずいまの大名家が領地飛び地の整理をしてそれ以降の分け方となります。まず徳川家が率先して領地の朝廷への返還をいたし各地の大名家に置いても其の領地を朝廷に返還いたしたうえで新しい国づくりが始まると考えられます」

「それほど簡単に版籍奉還と言うことが簡単に行えるだろうか」

「それを行っていただけませんと新しい政府の財源がありません。それと多くの藩が財源不足で立ち行かなくなっております。このことを通達すればすぐさま申し出る藩が続出いたすでしょう」

周旋人として春嶽、宗城の二人は即日在京の諸藩の代表にそれを示して版籍奉還についての意見をまとめるように指示した。

そして江戸に勝と大久保の上京を促すために、大坂より甲鉄に黒田長溥を座乗させて迎えに向かわせた。

前日使いを出して呼び寄せていた甲賀源吾が承り伏見から御用船で下って翌早朝には天保山沖を江戸に向けて出ることになった。

 

6月22日8時 甲鉄

準備が整い他の艦と別れの汽笛を鳴らして甲鉄は大阪湾を出て行った。

蘭癖とも言われるくらい新しい物が好きな長溥は興奮を抑えかねて船の内部まで甲賀に案内させて飽きることが無かった。

それも其のはず薩摩の斉彬公、久光公の大叔父にあたる方であったが斉彬公より年が下でその影響は大きかった。

この年58歳の長溥は船が外洋に出てゆれが大きくなっても平気でデッキに出て海を見ていた。

そして甲賀に政治局や勝が言う版籍奉還についても知っていることを聞くのだった。

知る限りのことを話してようやく船室で落ち着いてくれた長溥から開放されて甲賀は「この調子だと、江戸からの航海は勝総裁がずっと質問攻めだろうな」と塚本に笑いかけるのだった。

大坂で石炭を積み込んだので甲鉄は休むことなく機関を焚いて潮流にも乗って夕刻には遠州灘から駿河湾沖に入っていた。

長溥は夕暮れを見に出てきて「いまどのあたりだ」との質問で当直士官が海図を出して印をすると「もう此処まできたか、明日の朝には横浜についてしまうかな」

「其処までは無理でしょが浦賀までいければそこで休んで翌日浜御殿には昼にはつくでありましょう」

「いやいや、いかんぞ、このような大事な事態だ例え夜中といえど江戸までいけるものなら進んでもらいたい」

甲賀も塚本もこの人がそのようにこの使いを大事に思っていることに深い感銘を受けた。

「承知いたしました機関を目一杯焚いて江戸に一刻も早く到着させましょう」

「頼んだぞ、わしはこれから寝酒を飲んで寝かせてもらう」

二人が承知すると居室に戻り用意されている食事と寝酒を飲んで寝についたようだ。

6月22日22時 浦賀

浦賀に入ってきた甲鉄に明かりが多く向けられていた。

見張りが見つけ夜間に進入してきた船に警戒の神速丸が近づいて誰何してきたのだ。

「此方は甲鉄、艦長の塚本である。急ぎの用事で海軍操練所までまかりとおる」

龕灯やらランプの光が錯綜する中、相手を確認した神速の海藤は甲鉄の通過を見送った。

横浜でも誰何して来た船が先ほどと同じやり取りの後、甲鉄を先に行かせた。

起きて外にいた長溥は「よく訓練されているな。これだけの速度が出る舟の前方をふさぐ形で操船して誰何するなど大変なことだ」

警戒艦隊の中島提督が聞いたら喜びそうなことを長溥はさらりといって横浜の消えない灯台の光と品川の街道沿いの灯篭に「これだけ明かりが有ると夜間でも船の航行が不便を感じんな」

そのように改めて感心をするのだった。

いくら新物好きの長溥でも夜間の航海には一抹の不安があったのだろう、浜御殿の大灯篭が見えて信号灯が点滅してバッテラが降ろされたのを見てから船を降りる支度を御つきのものが勧め、船室で衣服を改めて出てきた。

大名の長溥は僅か五人の御つきのものだけを乗船させて来たのだ。

6月23日3時 浜御殿海軍操練所

甲鉄が沖について操練所では大騒ぎになっていた。まずバッテラで士官が十名と黒田藩の侍が二名上陸し長溥の休息所をしつらえた。

追いかけるように甲賀と長溥が上陸をして直ちに勝と大久保に使いが出て行った。

家達に慶頼、確堂が付いて江戸城に入っていて、大久保も勝も其々の居宅に休んでいたが甲賀からの使いで急いで浜御殿まで来たのは夜が白々と明けるころだった。

長溥から仔細を聞いてすぐさま馬で連れ立って千代田城に上がり、確堂、慶頼とともに家達に長溥は挨拶をした。

「黒田長溥で御座います。家達様にはご機嫌麗しく恐悦至極で御座います」

早朝にもかかわらず家達は機嫌がよかった。

「身が家達である。これからも国のために働いてくれるよう」

幼君の言葉ながら威厳有る言いように長溥は世が世ならこの人が将軍として此処に居られたのにと涙が零れるのだった。

家達が奥に入り勝と大久保が早速京に上がる手続きを始めたのを長溥は見ていて「甲賀提督、昔の幕府の時代にはこう簡単にはいかなかった。時代の流れとはいえ僅かの間に江戸も進んだものだ。一時とはいえ京の変わりようの有様もすさまじかったが行き過ぎが多く心配したとおりになった。江戸でもそのようなことが起きないように皆で気をつけて政局の運営をしてくだされ。年寄りの冷や水といわず、急いては事を仕損じるという言葉の意味をかみ締めてくだされ」

甲賀も其の長溥の言葉を心に留めて行動すると誓うのだった。

 

6月23日14時 浜御殿

急いで京での着替えなどを整えさせて二人の指導者は操練所までやってきた。

呼び出された稲葉正巳も其処で待っていて三人は甲鉄に乗り組んだ。

着替えといっても東軍は戎服が制服で俗に言うだん袋だった、衣紋も長袴も東軍では禁止していたのだ。

陸に上がることも無かった艦長の塚本たちに「済まんな急ぎ京に上がるのでご苦労だがこのまま出発してくれんか」

「了解しました。いままで機関の整備をしていつでも出られますが横浜で石炭に水その他の積み込みをする間は停泊させてください」

「分かった、横浜出航は明朝8時、それまでに積み込みを完了してくれ」

船は機関を焚いて横浜に出て石炭や食料を積み込むことになった。

 

6月23日17時 横浜

勝に大久保、甲賀、長溥は連れ立ってフランス波止場に降りてピカルディにやってきた。

「コタはいるかい」

いつものだん袋姿の勝に店にいたハンナは驚きもせず「元町に居られますから呼んで参りますからこちらでお休みください」そういって庭の大きな日傘の下でお茶とクッキーを用意した。

お茶にブランディを垂らして香りを楽しみながら四人は船の事、京のことなど話し合うのだった。

「勝さん」

長溥は友達にでも言うように気安く話しかけ「今晩はホテルと言うところに泊まって見たいな。年寄りには船で寝るのは堪えるこたえる」

「ハハそれは軍艦ですからないくらなんでも上等の船室といっても限度があります。今度亜米利加のコロラドかグレート・リパブリックにでも乗られれば船の旅もよいものだそうで御座いますよ」 

「いらっしゃいませ」寅吉がいつもの法被姿でやってきた。

「オオ、コタよ、紹介しておこうこのお方は黒田長溥様だよ」

偉い方に出会っても物怖じしない寅吉は「虎屋の寅吉で御座います。お目にかかれて光栄に存じます」

「わしは耄碌爺の長溥じゃよ。お前さんの事はしっとるぞ。長州の伊藤がお前さんからSniderやボクサー式銃弾を買ったことや、亜米利加からの新式銃をたくさんそろえたことも、日本人がイギリスの相場で大もうけしたという噂もな」

驚いたことにそのようなことまでどこで耳にしたのかこの人が京の指導を撮っていたら、東軍の進撃も簡単にいかなかっただろうということをも感じる寅吉だった、すでに大坂、伏見に東軍が集結した知らせは横浜に伝わっていたのだ。

「詳しい事は後で言うが今晩ホテルに泊まれるか聞いてきてくれ」

寅吉は自分でインターナショナルホテルに出向いて部屋の交渉をした。

幸いにも続き部屋と別の二部屋が取れたので「今晩続き部屋で3人ないし4人、別に二人部屋で2部屋が空いて居りましたのですべて押さえました。夕食はお食べになるなら予約してきますが洋食がお嫌でしたら他をご案内いたします」

「ぜひ洋食を食べてみたいな。ぜひとも頼むよ」

長溥様は率先してそのように申し出て「わしの家来が二人泊まれるかな」と心配そうに聞いた。

勝は「長溥様とおつきのものに続き部屋に入ってもらい、大久保さんと稲葉さんが一部屋ずつ、わしと甲賀提督はコタのところで良いよ。お前も食事を付き合うのだぜ」

「そういたしましたら、都合八人の食事をご用意致せばよろしいですか」

指を折っていた長溥は「そうじゃ、わしの家来も食べさせてやらねばいかんな」

「ではテーブルを二つ人数は八人で予約をしてまいります」

「これこれ寅吉もわしの家来も同じテーブルで食べようぞ、遠慮するなど横浜商人にしては遅れて居るな」

闊達な殿様で御座いました、後ろで椅子に座る御家来も大口を開けてワッハッはと笑う様はこの御家来も豪傑に違いないと寅吉には感じられた。

ライオネルとアーサーに直接会って八人の食事と世話を頼むのでした。

「すぐにつれてくるから部屋に入れるようにしてくれるかい」

「任せなさい」

愛玉は胸を叩いて接客はあたしの持ち場だとばかりにアーサーとおみちを引き連れて各部屋の点検に向かった。

勝はとらやの店で勝蔵に頼んで下着の替えを買いに元町に行かせた。

ハンナに案内させて黒田様一行を先に行かせて寅吉は勝から経緯の詳しいことを甲賀が補足しながら話して「それが食事の話題に出たらどういたしますか」と聞いても「もちろん包み隠さず話して良いよ。甲賀提督この際だからぶっちゃけた話、黒田公にはこれから出来る政府の重職についていただかなければ為らぬから隠し事はなしだよ。此方の話はすべて知っていただいたほうが良いよ。軍備も聞かれたらすべて話したほうが抵抗する勢力に伝われば無駄な争いが起き難いだろう」

ハンナが戻ったので片づけを頼んでインターナショナルホテルへ向かった。

夏の暑い日も富士の向こうに落ちかけて風も涼しくなってきた。

勝蔵が換えの下着を二十人分ほど買い入れて勝に渡した。

「明日の朝までに下穿きを百人分用意して家の旦那に渡しておきます」

「頼んだぜ」

勝は何か考えがあるのか多くの下穿きをも買い入れていた。

部屋に案内されて長溥公の部屋に呼ばれた寅吉と勝はこれからの政府のことについて長溥に聞かれるまま答えるのだった。

「そうすると武士も町人も区別のない世の中を目指し、ともに外国の脅威に立ち向かうということかの」

「然様で御座います。いままでの武士だけの世の中ではこの時代外国からの脅威に立ち向かうにはいささか力不足であります。侍が戦の役に立たぬ事はあまりにも近頃の戦で証明されております。確かに一人ずつの力では侍は其の力を発揮いたしますが大砲、軍艦には立ち向かう事は出来ませぬ。日本の国の力を集めて天子の元すべての邦民が心を一つにせねば清国と同じ目に遭う事は明白であります。三条、岩倉両卿が幕府に変わり公家政治の復活を目指すことが全て悪いとは申せませぬが、行き過ぎた公家優先の政治ではこの国が成り立ちませぬ。此処はあくまで公武合体を一歩進めた邦民一体の国是を掲げて先の五ヵ条のご誓文の実行に邁進いたしとう存じます」

「そうすると岩倉、三条たちの追放と言うことと齟齬が生じはすまいか」

「私たちは追放ではなく現在の指導的立場からの一時的に免職すべき五人を選んで求めておりそれは実現されたと本日お話を承りました」

「然様である、岩倉、三条は前原が附いて京を退去いたしたがそれだけでよいのか」

「はい敵対して兵を戦闘に導かなければあえて討伐をすることは現在考えておりません、がしかしながら反乱を起こすことがあればそれを討伐せざるをえなくなります。大久保一蔵、木戸準一郎、後藤象二郎の三名に対しても免職後こちらの望む政府方針と総裁局の方針が摺りあわされれば適材適所の言葉どおりに国のお役に立っていただく所存であります」

其処まで話したところにドアがノックされ寅吉があけるとアーサーが「食事の用意が出来ました下へおいでください」とボーイ姿もりりしく外で直立していた。

外に出て鍵をかけさせて下へアーサーを先頭に降りてゆくとすでに大久保と甲賀がテーブルについていたが立ち上がって勝と長溥を迎えた。

刀掛けも用意されていて其処にそれぞれが置いて愛玉が椅子を示して長溥を座らせた。

「本日はフランス料理と中華からオムニバスでお召し上がりいただきます」

ライオネルが話してパンとスープが運ばれてきた。

それぞれがスプーンで少し音を出してすすっていたが真向かいの寅吉が音も立てずにスープを飲むのを見て長溥が「どのようにすするのだな」と聞いてきた。

「このように七分ほどスプーンに掬い舌の上まで持ってゆきまして流し込みます。飲むというより食べるというお気持ちのほうがよいと思います」実際に口に持っていく様を見せるとすぐにまねをして三回ほどで音が出なくなった。

次に温野菜とひらめの塩蒸しが出てライオネルは特性のソースと醤油の両方をアーサーに給仕させた。

温野菜とソースはうまくからみおいしいもので馬鈴薯の甘みとあっていた。

そして中華とライオネルが言っていた東坡肉とピラフが出てきた「この小エビがぷりぷりしてうまい飯だな」

寅吉は「なるほどナイフで切り分けずに済むような食事にしたな」とスプーンとフォークのみで食べられる食事は長溥の負担にもならず、おいしく食べる様は愛玉が見ていても口出しをしなくて済む楽なテーブルであった。

デザートにアイスクリームが出てこれには皆がたいそうお気に入りで毎日でも食べたいものじゃと長溥が言うほどおいしいものだった。

「勝さん前に亜米利加で食べたと使節で出向いたものが言うていたが、あちらと比べて味はどうじゃ」

「遜色がありませぬな。これだけのものが出せるのは横浜だけで御座いましょう」

コック帽を小脇に抱え、ライオネル・オルセンが出てきて食事の出来はどうかと聞かれて勝も長溥も口をそろえてほめるのだった。

食堂からサロンに出ると勝総裁が来ていると知った居留地商人たちが次々に挨拶に来るので困った挙句、長溥の部屋にコーヒーとブランディにクッキーを運んでもらって引き上げることにした。

それでも八人が入ると少し狭かったが愛玉が気を利かせてアーサーと竹蔵に頼んで長椅子を運び入れてくれて漸く落ち着いて座ることが出来た。

「船でもお話できますがこれからの方策を少しお話いたします。細かい外国の事は寅吉に聞けば本や実際の外国人からの知識でほとんどの事は答えられるでしょう」

「それならこの際乗船して京まで同行させたらどうだね。其のほうがいろいろ聞けてわしの好奇心も満足するわい」

勝は寅吉にアメリカやイギリスの最新情報を船で話させて置けば大久保や甲賀との打ち合わせの時間が取れると踏んで「コタよお前もこの再だ軍艦でお供しろよ」いくらあの時代に育って軍艦には驚かぬ寅吉でも甲鉄に乗れるチャンスはそうないと思い「承知いたしました。大坂と神戸の店にも廻りますのでお許しがあれば乗船させていただきます」

「甲賀提督よろしいですかな」

「良いですとも。コタさんなら大歓迎ですよ、甲鉄の士官たちも顔なじみですし、水兵たちは大喜びでしょう」

「なぜお客が増えて水兵が喜ぶんだい」

長溥は不思議そうに聞くのだった。

「コタは気前が良いから顔がつなげれば横浜に上陸したときに水兵が尋ねればご馳走にありつけるからですよ」

勝はそういって「長溥様も横浜に来たら寅吉のつけで豪遊なさいませ」と愉快そうに話すのだった。

「そうじゃな、なんせ百万ポンドのダイヤ鉱山の御大尽だそうじゃからな」

神戸で噂がだいぶ広がったようで「これはうかうかしていると大変だぞ」と思う寅吉だった。

長溥が懐からだした京で刷った郡県制のあらましを勝と大久保は細かく説明しだした。

それと実務は何人か大坂に呼び寄せて居留地とも折衝しなければならず人材は数多く必要なことなども話し合うのだった。

「そうすると江戸からも10人ほど大坂に呼び寄せるとして誰を呼び出すかな」

稲葉はそういってpencilと懐紙を出して大久保と呼び寄せる人間のリストを作り出した。

話が長くなりそうなので寅吉が先に辞去しようとすると長溥が引きとめ「寝るのは船でいくらでも出来るだろう。今日はもう少し付き合いなさい」

コーヒーとブランディが効いて饒舌に為った長溥は皆をなかなか部屋に帰さないのだった。

「では明日の支度のために人をやって連絡をしてきますので10分ほど中座をお許しください」そう断りピカルディで「連絡員を出来るだけ集めて来てくれ」五左衛門さんに元町に行かせ各店に指令がいくように頼みました。

二十分ほどで次々に現れる連絡員に長溥様も「これはまるでお庭番が出入りするようじゃな」とご満悦でした。

「わが国では身分の低いものが下になってものを承りますが外国では使用人が立ったままで用事を聞くので御座います」

連絡員が座ったままの寅吉の脇でたったままで用件を聞いては出て行くのをものめずらしげに見る長溥にそう稲葉が説明していた。

大久保と稲葉は何度か会って見知った千代に「面倒でも京極さんにこれを見せて江戸へ連絡させてくれ、それから船を捕まえ次第大坂に寄越すように伝えてくれ」

千代は急ぎ京極の役宅まで走り出した。

千代が帰ってきて「京極様がお手配をなされて江戸に早馬を出されました」その報告を聞いて「う〜ん、昔の幕府のころとは奉行の心構えもだいぶ違ってきたようだ。昔なら格式だのなんだので、役人が来てうるさく聞いてから漸く使いが出るくらいで物の役にはたたぬことが多かったからなぁ」と長溥様は東軍の勢いの源が理解できる事柄だなとひとりごちていた。

 

6月24日6時30分 インターナショナルホテル

朝の食事が済んだころ京極が現れ「お指図通り手配が完了いたしました。横浜に明日夕刻までに来るように便へましたので明後日の船で出られるように乗船手配をこれからいたします」

「頼みましたよ、手紙で書いたようにいろいろ複写したものも持たせてくだされよ」大久保はそういって稲葉と先にフランス波止場に向かった。

どうやらはしけに乗る時間も甲賀に聞いて書いてあったようだ。

京極は勝と打ち合わせながら波止場に出てさらに何事か打ち合わせていた。

甲賀はピカルディの事務所から先に船に向かい出港準備を塚本としていた。

最後は寅吉の先導で長溥が少しふらつく脚ではしけに乗って甲鉄に向かった。

見送った京極と千代たちはそれぞれの役目を果たしに帰っていった。

甲賀が来て「冷たい菓子が出来るのか、昨日のアイスクリンが出来ると士官たちも喜ぶぜ」と寅吉に話しかけた。

「マァマァなにが出来るかお楽しみにしてくだせぇ」今朝寅吉たちが積み込ませた氷の入った箱とさまざまな器械を士官たちはものめずらしげに見るのだった。

早速船の賄い方を使って小豆入りの甘いキャンディを作り出した。

お怜さんに頼んで多めに届けてもらったものだ、寅吉は「これなら二百人分は作れるかな」などと賄い方の五人と大きなcopper boiler(銅壷)二つに氷を砕いて入れだした。

ガラス管に二股の竹串を指して煮小豆の冷やしたものと砂糖水を入れて混ぜたものを箆でかき回してからガラス管に注ぎ銅壷に入れてガラス管の周りから塩化カルシウムを溶かした水を注いで作るのだ。

固まったものは取り出して手の空いたものから竹についた其のキャンディをもらい次々に入れ替わり食べに来た。

「こいつは良いな。この暑い日に氷をもらえるだけでもたいしたものなのにこんなにうまいものなど陸でもなかなか食べられないぜ」

寅吉が特別に輸入した四十本のガラス管は次々に冷やされて固まると陽だまりで温まった水につける、そうするとするりと抜けて渡された者は溶けない内にあわてて口に運ぶ様は寅吉の子供時代の縁日の様子そのままだった。

亜米利加人のお雇いの水夫も食べたことが無いと喜んで食べていた。

勝や稲葉も大久保もこいつは良いや、長溥様にも薦めてこようと船室で二日酔い気味だった長溥を呼んできて次々に出来てきたキャンディをもらい食べさせるのだった。

身分上下の差なく水兵に混ざり食べる様子は縁日に集まる子供のようだった。

塚本が気を利かせて機関の兵も替わり番子に食べに来て一回りしたころには残り少なくなったが「何人かまだ食べられますぜ」其の声に長溥や稲葉は出来上がる様子をしげしげと見ながら不思議そうに何くれとなく聞くが理解は出来ないようだった。

長溥や十人ほどに出したところで残り十本ほどになり「後はこれを作るものの分でおしまいでござんす」と言うと皆はそれぞれの仕事に戻り賄い方のものと寅吉とで両手に竹串を持って服が汚れないように顔を突き出して食べるのだった。

一騒動終わったころには甲鉄は早くも大島の近くを航行していた。

富士は夏の日差しで黒く見え船は伊東と大島の間を抜けだして遠くには新島が見えた。

伊豆沖を通り駿河湾から富士を後ろに見るころには日が暮れだしたが、なかなか落ちない夕日の中、甲鉄は機関を止めて帆走に入った。

「風がやめばまた機関を目一杯焚きますから休めるうちに休んでください」士官がそれぞれに伝達していった。

 

6月25日5時 紀州沖

夜になって雨が激しく降って見通しが悪かったが其の分暑さが和らいで船の中は快適だった。

朝、夜中の雨がやんで紀伊の山々が朝日に映えて木々の緑が輝いて見えた。

夜中にだいぶゆれて勝は閉口したが「勝さんあんた船は相変わらず苦手みたいだな。陸の方がよいかな」と稲葉にもからかわれていた。

「いやこればっかりは気合が足りないというしかないでやんしょう」

其処へ長溥が出てきて「聞いたらもう紀州沖に入っているそうだな。天保山には何時ごろ到着かな」

「この分なら15時には投錨できましょう」

「早いものだ江戸に向かうときは潮流に乗れるから一昼夜と聞かされたが帰りもほぼ変わらぬ時間でこれるとはたいしたものじゃ。帆走のときもだいぶスピードが上がっていたがあのアメリカ人たちもよく働くな」

お雇いとはいえ高ぶることのない水夫と機関員は本当に塚本たちと一体になって船を動かしていた。

 

6月25日17時 大坂城

甲鉄で江戸から入った勝と大久保に稲葉の三人は大坂城の変わりように驚くのだった、居留地のあたりから城内いたるところ荒れ果てており修復が進まぬ様子だった。

「これを昔のようにするのは時間も金もかかりすぎますな」

「やはり戦はせぬのが一番さ」

もっとも戦で荒れたのではなく暴民と化した一部の人間が放火したり泥棒となり城に入り込んだものだった。

江戸の町を暴徒から守ったのも町民なら幕府が撤退した大坂城を中心に居留地を荒らしたのも町民であった。

勝は今回この戦を起こすに附いて上野牧に戦場を持っていこうと考えたのも大坂で戦を出来るだけ始めないのも、大坂もしくは江戸を国の首都として残さなければいけないと大久保、稲葉共に賛同してのことだった。

山内豊範と後藤象二郎が出迎えて長溥の労をねぎらった。

「ご苦労様で御座います」

「イヤイヤ楽しい船旅で有ったよ。嵐にも遭わずうまいものも食べさせてもらったし横浜は良いところだよ、神戸はまだまだ整っていないからな」

京には明日の朝、馬で出ることになりこれからの政府のことについて此処まで出てきていた長州の伊藤俊介、薩摩の西郷信吾が話に加わり下話だがと断って軍事、民事、外事の三局の責任について相談を始めた。

勝が後藤、西郷、伊藤に示したのはまず軍事のことだった。

一、御親兵 ・・ 近衛大隊(天子及び首都防衛軍)千六百名

一、陸軍   ・・ 八鎮台 (政府陸軍拠点)     一万千二百名

  一鎮台千六百名
(盛岡・新潟・関宿・名古屋・大坂・広島・福岡・松山)

一、海軍   ・・ 七鎮台 (政府海軍拠点)   艦数未定

 (秋田・仙台・横須賀・大坂・岩国・長崎・若狭)

一、騎兵   ・・ 四鎮台 (政府騎兵軍拠点)   九千六百

  一鎮台二千四百名(千二百騎千二百名・兵千二百名)

 (佐倉・大垣・姫路・熊本)

「これを各藩から人員を出してもらい各地に配置する。ただしこれらの指導者は政府直轄として大名といえど人事に口出しをさせないこと。それから版籍奉還だが大久保一蔵を筆頭にこれはもうすでに織り込み済みで考えていたのだろう」

「はいそうです。すべて天子への奉還を前提に考えて居りました」

後藤が其のいきさつとこれからやろうとしていた進行の具合などを勝に話した。

「次に廃藩置県だが肥後の横井さんが言うようにこれは実行しなければならない。各藩主のうち太守といわれる方々は不満も出ようがすべて天子の下邦民すべてを平等にするにはここから始めないといけない。国を守るに公家も武士も町人も区別なく兵役を経験していただく」

「勝先生、それは大村が言っていた国民皆兵と言うのと同じですか」

「彼が言う皆兵とは武士ではなく農兵の活用を唱えていたようだがこれはこの国に住むもの全てが負う義務と考えてほしい」

「それでは宮様方も含めて、大名家のものもすべからく義務があるということでしょうか」

「そうだ、同じ教育、同じ理念を持って其処から育つ、国を守る気概を養うことが目的だ。ただこれだけではでは行き過ぎが出来るので私学を奨励して国の教える教育のほかにも思想理念があることを教えなければ為らない。これの釣り合いを取って国の方針を間違えないようにするのが政府の役目であり義務である」

勝は邦民だけでなく国そのものにも義務があるということを此処で明確にしたのだった。

「そうしますと、邦民、国双方に義務ありと言うことでよろしいでしょうか」

「さようでんすよ。邦民のため軍隊を養い天子のため邦民は義務を果たす。軍隊は天子、特権階級の公家、大名のために存在せず邦民全てのために存在しなければなりません」

「大名がなくなると其の軍隊を養う金の出所はどうしますか、大名の生活はどうなされますか」

西郷は不安そうに勝に聞いた、薩摩では藩侯の力が強く其の生活と政府への影響力が心配であった。

「大名、公家にいま直ちに町人、百姓になれということではありません。今までとは違うでしょうが生活を維持できる秩禄は保障しなければならないでしょう、しかし今と同じ数の人を養うことは無理なので、軍、郡県の吏員として政府と地方の役所で働いてもらうことになるでしょう」

「そうしますと大名家の家来から郡県の職員もしくは軍隊に所属するということでよろしいのですか」

「ただいまの武士階級全てを雇う事はできない。わが連盟軍は全てそれを納得承知のものしか加盟を許していない。したがって東軍と呼称している奥羽、越後の連盟とわが徳川連盟軍は版籍奉還、廃藩置県についてと武士階級兵士として参加したものでもその後、雇うこととは別々であるということを確認のうえで参加しているので官軍と呼称している西軍諸藩のみがまだこれらを呑んでいないのである」

「大山、板垣両人はそれらを承知で東軍と行動を共にしたのでしょうか、まだ彼らから詳しい話を聞いては居りませんが薩摩、長州、土佐藩は大筋では東軍の主張に合意しておりますが、しかし飽くまで藩侯のご身分を保証していただけないと内乱が起きる事は必定であります」

後藤はまだ板垣と話していないのか、とぼけているのかそのように言って勝に藩侯の身分保障を迫った。

「細かい事柄は後からわがほうの政策部員がやってきますからそれらと打ち合わせてください。今回私や大久保さん、稲葉さんが此処へ来たのは大筋合意のためで細かい事柄は其の係りのものの意見をすり合わせて齟齬のないようにしないといけないでしょう。そのための特別な役所の設置を行うことで今日はお開きでいかがかな」

大久保と、稲葉もともども「藩侯のご身分は出仕していただく役に拠るお手当てのほかは、いまの収入にかかわらずわが家達公に準じていただく、これだけは譲れぬことで家達公には生活用の私費として三十万石のお手当てを考えている、当然今までの徳川家の家来たちはそれぞれお手当てが減ることとなる」

「したがって島津公、毛利公、山内公についても家達様より多くの生活用の私費を支給する事は認めない」

夜も更け明日のこともあり其の晩は其処までとなり新政府の責任者についてはうやむやのままであった。

 

6月26日11時 二条城

昔の大名行列と違い勝たち一行は太田の指揮する騎馬隊三百騎に守られて伏見街道から京の町に入った。

町の者達も大勢見物にでてきたが騒動もなく松平春嶽、徳川慶勝の迎えを受けて二条城に入り有栖川宮熾仁親王賀陽宮朝彦親王の待つ黒書院に通った。

「お上がお目にかかられるそうだがそれは今日呼び出した大名家、公家共々でよろしいな」

「遠路ご苦労であった、こたびはいくさを治めて新しい政府の基礎を固めるために来ていただいた。そちたちが言うように格式位階に捉われぬ国づくりにお上も協力するようにわれらに申し付けられた」

二人が交互に話をする様は短時日の間に意思が通じ合ってきたようだ。

「そちたち三人が揃って上洛に応じてくれた事は昨晩のうちにお上の耳に入り、危険を冒してまで求めに応じて来てくれたのをことさらにお喜びである。この時期どのような危険が待ち構えて居るかわしらにも不安があったし、勝、大久保に稲葉まで来てくれた事はうれしく思う。わが身と朝彦親王のお名前がそのほうらの名簿にあったが今回東軍と敵対した公家諸侯の罪は問わぬ、人材を求めて敵味方なく国の礎を築きたいと大山に板垣からも聞かされたがそれを信じてよいのか」

熾仁親王が改めて念を押され勝が代表して申し上げた。

「間違い御座いません。私たちは国のために適材適所の人材をあてがい邦民すべてが同じように天子の元一丸となり夷狄の脅威に立ち向かわなければなりません。開国は相手を夷狄と蔑むだけでなく遅れた文明と機械力を身につけて国を守る手立てといたす所存で御座います。彼らとて同じ人間で私たちに同じような文明の力を持つことを望んでいる者も居ります。またただの儲けの対称にしか見ていないもの、同じ宗教を信じていないものは人間以下と蔑むものも居ります。しかしながらわれらが文明を受け入れ東洋諸国が同じ志を持つときがいたればいたずらに彼らの思うようには為らなくいたせると存じます」

「勝は開国派とばかり存じていたが夷狄は嫌いなのか」

「好き嫌いではなく、彼らと付き合うには人を見て法を説くという諺を忘れないことで御座いましょう。勝はただただ国を守るということのみを考えて居ります」

「大久保に、稲葉も開国派だそうじゃが、その真意はいかに」

「大久保一翁謹んで申し上げます。先の将軍家存命の折から越前春嶽公共々何度も大政の奉還を建白いたしたのも、我が国を守るに附いて一徳川家のみが其の任に当たるには力不足であり天子の下一丸となり国の守りを行うがためでありました」

「稲葉正巳謹んで申し述べます。我が徳川家は勤皇の志半ばで賊軍となりましたが其の真意は天子の下一丸となって国の守りを固めることこそ目下の急務であると信じて行動を起こしました」

それぞれが自分の言葉で心のうちを二人の宮様に申し上げました。

「分かり申したぞ。暫くここで待っていただきたい。在京の大名達も城に上がらせて居るから天子の臨席を待ってそちたちの方針を申し述べてくれ」

三人が了承して黒書院で茶菓の接待を受けた、大久保も稲葉も勝も三人揃ってだん袋で羽織を羽織っているだけで格式にあった服装ではなかったが出迎えた春嶽も慶勝もあえて其のことを話題に乗せなかった。

廊下で待機していた其の二人が部屋に入りこまごまとしたことを車座になって話をした。

「勝さん京の変わりようも凄かろう」

春嶽は気安く話しかけ、慶勝とも昔ならこんなに端近で車座で話すなど有り得ない事だった。

「勝さん名古屋からの話を聞いて感謝しているよ。茂栄の城入りだけで名古屋を無事通過としてくれた事は我がほうの面目もあり、わしの立場もあり、あの方法が最適であったと思う」

庭の蓬莱島にはコウノトリが松の木に羽根を休めていた。

「まるで花札の鶴の絵と同じだな」勝は不思議とそんなことを思い出していたがなに有ろう「あの絵は鶴ではなくてコウノトリじゃよ」とこの庭で春嶽が教えてくれたことも同時に思い出した。

春嶽がそのような下世話なことにも通じていたことがおかしくて、其のことも含めて30分も話しただろうか朝彦親王が迎えに来て「大広間に諸侯が集まった、そちたちが来てくれれば直にお上もお出ましになる」そういって先にたって一の間に案内して廊下側に席を与えた。

身分からして三人は廊下と思っていたがお上に近く座敷の中に席がしつらえてあったことも驚きだった。

天子は慶喜の住居だった本丸御殿を離宮として住まわれていた。

お上が着座して「参名のもの苦労であった。新しき政府とやらの話が聞きたい。先に三条、岩倉たちが作り上げようとした政府と何か違いがあるのか」

朝彦親王が「直答してよい」と勝たちに促した。

「申し上げます。われらが目指す政府は邦民一体の政府であり、公家、武家、町方全てがこの日本のために働き其の義務と共に国の繁栄のおかげを受け取ることが出来ることを目指して居ります。まず太政大臣と申し国の政治向きの最高責任者の下、全ての国民が一致協力できる政府であるべきと存じます」

少し考えてからお上は「わしは若年ゆえ詳しい事は朝彦親王と熾仁親王が聞くであろう」

居並ぶ大名も勝がどのような方策を打ち出すか不安げだった。

「前に榎本、大鳥両人が差し出しました郡県制でございますが、詳しい割り振り、国替えの部分は江戸から諸役の者が参り改めて説明をいたしますが大まかな事はこの図の通りでございます」

用意してきた大きな地図に郡の領域が赤い線で引かれてあった。

稲葉が一枚をお上に差し出して朝彦親王が受け取りお上の元に差し出した。

諸侯には刷り物で作られたものを何枚か回してみてもらった。

「これはまだ試案でありますが、この郡県の総裁を宮様から選んでいただき、郡知事を九名任命いたします」

さらに各自に新しい刷り物を配り「これは一例であり人事はまだ確定しておりません」

政治・郡県局 総裁 賀陽宮朝彦(ともよし)親王(後に久邇宮と改称)

総裁は天皇の意思を尊重し郡、県の長を内閣府に従わせるために其の統率を図る。

郡知事 九名  (参議から県知事が推薦・20歳以上60歳定年)

県知事 四十三名(参議及び参与の推薦・20歳以上60歳定年)

共に20年をめどに地域内投票に移行予定のため国民の教育を指導する。

「現在の大名家は版籍を政府に奉還して後、領地の知事として藩内の指導を取るも、時いたれば藩は県に統合されて後、其の人物本位の職につかせることになります」

「版籍奉還後、秩禄として大名家・宮家・公家には20段階授与、士分(旗本・大名家家来)も20段階に分けて秩禄授与を行い全国一斉に廃藩置県を行います」

「そういたすと全てを政府が引き受けて天子の家来といたすのか」

「そうでは有りません。軍人として働くもの、民を指導して政府の税務、会計、などに働くものは職を得られますが、そのほかのものは殖産を起こし働ける道を探させることになります。全て仕事ができるものが優先され座して俸禄を受け取る事は許されません」

「それはお上に置いてもか」

「天子は国の象徴であり、君臨しても政治にかかわる事はご遠慮願います。しからば天子の仕事とは何かといえば邦民のために政府の政策に従って行動することを仕事とお考えください」

「具体的になにをせよと言うのか」

「天子はいままでは御所にお隠れで表には出られませんでしたが、これからは行事、祭事を問わずできるだけ邦民の前に出られることをお勧めいたします」

「天子を見世物にいたす所存か」

気色ばって熾仁親王が詰め寄った。

「それは御考え違いであります。徳川は武をもって国を治めましたが、天子は和を持って国を治める手本をお見せいただきます」

天子自らが話しに加わり「わしが邦民と共に新しい国づくりの手本を示すということなのか」やはりこのお上は勝たちが目指す新しい政府のあり方を是となさってのお呼び出しだったようだ。

「さようであります。天子自らが手本を示し、全国を回られて新しい国づくりに邦民一同が協力することを奨励いただくことが国を統一する最適な道であります」

そして勝は政治局についても話を進めた、話の細かいところは大久保が引き取り皆に聞こえるように大きな声で参議についてどの様に選ばれるかを説明した。

政治局上局 総裁 有栖川宮熾仁(たるひと)親王 

上局は天子の意思を尊重し国民を内閣の指導に従わせるための協力を推進する。

参議 二十六名 (20歳以上60歳定年)

「役割は天子のお供と諸外国との付き合いに率先して動いていただくことで、政治下局のお目付けとお心得ください」

其処からは稲葉が説明をした。

政治局下局  総裁 (太政大臣・首席大臣)代議投票
(国民の投票に移行予定)

内閣府は統帥権を持ちそれは天皇から付託される 

代議 六十名 (県知事、参議、参与の推薦・20歳以上66歳定年)

(国民の投票に移行予定)

「この代議と言うのは邦民の代わりに議事を取り扱い国の大方針、施策、立法を取り仕切り国の職員を直接指導する権限を有します、これも20年をめどに邦民の投票に移行予定であり郡単位で其の地の人口と租税の納める額により割り振りをつけます。政治の大権でありますが下局の総裁が太政大臣に当たります、私たちはその他の閣僚を大臣と呼びこの総裁を首席大臣として首相の字を当てようと考えています」

さらに勝が引き取り「配られた参の用紙をごらんください」

配られていた用紙を見ていただき首席総裁の下の部局について説明をした。

「ここに書かれている名前は暫定的に私たちが考えたもので政治局が成立するまでのものとお考えください」

軍事局総裁 勝麟太郎 (軍務局・海軍局、陸軍局、騎兵師団、近衛大隊)

民事局総裁 大久保一翁(教育局、宗教局、大蔵局、内務局)

外事局総裁 伊藤博文 (外国事務)

司法局総裁 江藤新平 (司法裁判)

宮内局総裁 高橋精一郎(皇宮警備、皇宮管理)

「このうち司法局は独立した機関で幕府の町奉行大目付とは違い他の部局の干渉を受けることを排除すべきと心得ます、司法局に対し、いままでの町奉行所の役目は内務局が承ることになります。宮内局でありますが皇室全般の経費人員の確保が目的であり見張り番ではありません。此処に勝、及び大久保に高橋の名を揚げましたが政治下局及び政府の仕組みが出来るまでの暫定的なものであります。後の細かいすり合わせは江戸からの人員の到着次第取りまとめたいと存じます」

「高橋について申し上げます。江戸ではただいま静観院宮様、天昌院様ご守護を賜って居ります」稲葉が引き取って伝えた。

其のとき天子が声を発し「熾仁親王、朝彦親王にこれからの事はゆだね皆も勝の言う新しい政府の成立に協力いたすようにせよ。政府の仕組みが出来るまでは軍事総裁に勝を任命し暫定的な政府の指導者といたす。勝と大久保そして稲葉は二人の親王と共に新しい政府の仕組みを一刻も早く樹立して諸外国に其の政府の認知を実行せよ、皆もいまの言葉を受けて協力して国のために働くよう。苦労である」

若き英主睦仁親王はそのように一同に苦労であると声をかけて本丸御殿に引き取った。

「新しき政治局のためにこれまでの仕組みと違う点そのほかの擦り合わせを本日から取りまとめる。在京の役職のものと留守のものの名簿を直ちに此処へ出すように各藩のこれまでの役職のものも部局ごとに順次此処へ参集のこと、遠侍の間で集まり部局ごとに呼び出すのですぐさま連絡を取るようにせよ」

朝彦親王が号令をかけ早くも政府の土台作りが始まった。

熾仁親王が「わが身が政府の総裁職と決まっていたそうだが三条と岩倉両人が副総裁で全てを取り仕切って、木戸、大久保とを交えて動かしていたそうだ。それで三条と、岩倉は京を引き払ったが、木戸、大久保、後藤の三名はいかがいたす所存か」

「三人のうち後藤とは大坂で会いましたが木戸準一郎、大久保一蔵両人とも早くに会ってこちらの事情と改めての仕事を依頼しなければ為りません」

勝はそういってさらに「まだまだわれわれが罷免したいものは多く居りますがこの三名に加え岩倉卿、三条卿など幕府取り潰し派と思われた方々でも出来うる限り適材適所の配置で仕事を分担していただく所存であります」

「では人員が揃わぬうちでも木戸と大久保に後藤とは此処で会ってくれるか」

「後藤は確か城内に居るはずですので出来れば三人が同時に面談をいたしとう存じます」

「分かった、では春嶽殿すまんが三名の者が揃ったところで此処へ呼び出してくれ」

春嶽は遠侍の間に出て三名を呼び出す手配をした。

「それと、そちたちと江戸で話し合ったが此方の人事はだいぶ替わっておった。改めて其の名簿とつき合わせて誰を任命するか早めに決めて置きたい」

「お上は軍事総裁に勝を指名されて居られる。われら両名はいかがいたせばよいか」

朝彦親王はそう切り出したので「まずただいまは新しい人事の周旋と任命を行っていただきます。其の後は細かい事は双方の熟練した者たちが腕を振るうで御座いましょう」

議政官と名が変わっていた議定職のうち岩倉具視、三条実美の両人を除き次の者たちはそのまま継続することになった。

中山忠能 正親町三条実愛 中御門経之
東久世通禧 徳大寺実則 鷹司輔煕
松平慶永 鍋島直正 蜂須賀茂韶 毛利元徳
長岡護美 山内豊信 伊達宗城 池田章政

遠侍の間に出ていたものは呼び出され京に不在のものには連絡がつけられた。

次に参議として議政官の補佐と郡知事の候補として明日の呼び出しをかけた。

島津忠義 島津久光 浅野長勲 細川護久
池田章政 徳川慶勝 山内豊徳 長谷信篤
毛利慶親 黒田長溥 黒田長知 九鬼隆義
亀井茲監

さらに参与のうち木戸準一郎と大久保一蔵に後藤象二郎を除き次の人たちに出てもらうことになった。
 

横井小楠 三岡八郎 広沢兵助 小松帯刀
福岡孝悌 岩下方美 阿野公誠 鍋島直大
副島種臣 大木喬任

引き続き其の職に留まる事に決し二人の宮様立会で勝が「これからも新政府の基礎固めに尽力されるようお願いいたします」そのように出てきた方々に伝えた。

「京方のものばかりで東軍のものの名簿がないがいかがいたす所存か」

「まず此方の人事を固めそれと釣り合いが取れる員数で任命していただきます」

「さようか、吊り合いの取れる有能なものが多く出てくれるといい政府になるのう」

大久保、木戸、が城中に上がり後藤と共に大広間に出てきた。

「ヤァヤァご苦労様でんす」勝は挨拶もそこそこに本題に入った。

「版籍奉還と、廃藩置県を2年で完了させたい」

大久保たちが立案したこの政策を承知の上で切り出した。

木戸、大久保は目を白黒させていた、お叱りか押し込めの処置の通達でもあるかと思えばいきなり政府方針の相談だ、驚くのも当たり前だ。

「お三方には引き続きこの重大事項を担当していただきたい。難しいこともあろうかと思うが内政は大久保一翁殿が担当してくださるので協力していただきたい。ご身分は引き続き参与として政府にとどまっていただくことにした」

「私は体のこともあり国に戻り静養いたしたい」木戸が弱弱しくぼそぼそと答えた。

「それがしも藩侯のお世話で藩内の仕事がたまっており申す」

大久保が意地もあってかそう答えたが、後藤は沈思していた。

「さような事は許されぬ。お上が軍事総裁として勝を任命し、われら二人が任命権をお上から委託された。三名のものは勝の元で版籍奉還、廃藩置県の処置が済むまで自侭を許さぬ。もしお断りを申すならお上にじきじきに申せ」

「マァ朝彦様そのように強く言わずともよろしい、己が引き続き政府の重職としてとどまり居るのもひとえにお上有っての事じゃ。其方も力添えをぜひ頼む」やんわりと熾仁親王に言われて三人は平伏してお二人の宮に「謹んでお受け仕る」と声をそろえて申し上げた。

そして勝にも「この身を捧げて誠心誠意、版籍奉還、廃藩置県の達成に励みましょうぞ」と誓うのだった。

漸くにその日の連絡事項と面談が終わったのは22時を過ぎていて後は明日と言うことになった。


 

6月27日9時 神戸イギリス領事館

神戸に出た寅吉は太四郎たちと久しぶりに英吉利公館に出向いた。

アーネストサトウが出迎えて握手をしたが長州の者達が来ていた、伊藤は外国係判事と言う役職で現在も引き続き任命されていた。

「コタさんよ、私は疑問があるのだ。Mr.ヴァルケンバーグはストーンウォルの引き渡しをなぜ同意したのだ。各国公使で中立宣言をしたのにおかしいじゃないか。俺は薩摩の五代たちにあの船を徳川に引き渡さないためには中立宣言をださせるのが一番だと薦めたが、あのようにあっさりとわたしてしまうとは思わなかった」

サトウはそう質問口調で強く聞くのだった。

「そうか君はあの時はもう横浜にいなかったのだな。あれはアメリカ大統領の訓令で代金支払済みの商品を引き渡さないのは違法だといってきたからさ」

「それは聞いたよ、だからおかしいというのだぜ。日にちからして辻褄が合わないじゃないか。船が着いて僅か10日でどうして訓令が来るんだ」

「それは船が来る前に亜米利加でMr.Pruynが代理で裁判を起こしてあったからだよ。船が着いて引き渡さないときは例え局外中立といえど支払い金額の即時返還か残りの代金引換で船を引き渡すか決するように申請をしたのさ。もしどちらも拒否するなら損害賠償請求を百万ドルで起こすと匂わせたら船主がすぐに応じるように大統領を動かしたのさ。だから船に遅れること10日もしないで訓令が太平洋航路で着いたのさ。大体誰の策謀か船が二月も三月も遅れるなんておかしな話さ」

伊藤が話しに入ってきた。

「そうすると裁判を起こしたのは1月なのか」

「そうだよ。あれは陰暦の12月25日には書面で出してあるはずさ」

「そうすると逆算していくと大政奉還の決まったあたりで亜米利加に連絡したのか、用意が良すぎるな」

「伊藤さんが銃のことで11月に横浜に来たときにはもう話がアメリカに行っていたのさ。ストーンウォルが5月には小野様の手で買い入れる約束が出来て三十万ドル先払いしたのに8月には日本にもって来るべきだろう。それを余分な武器を売ろうと在庫が集まるまでニューヨークでうろうろしておまけに回航には十万ドルの費用を取っておいて更に儲けようなんて馬鹿にした話さ」

「そうかあの小野友五郎か、本人より半年遅れで船がつかないのは変だと誰でも思うよな」

「そういうことさ、それより伊藤さんは山階宮のお供をしなくとも善いのかよ」

「オッ、コタさん遅れているぜ。外国係の名前だが外国事務局督だった山階宮二品晃親王から今は伊達宗城様が俺の上司だぜ。それも外国官知事と言う役職名さ。俺のほうは外国官判事だが何でも半分知事と言うことでつけたという話だ」

これには嘘かほんとか判断できかねて皆で大笑いをするのだったが判官と言うのとの兼ね合いだった。

其処へ早馬が到着して伊藤に京に来るように呼び出しがかかった。

「何事だ。二条城に来いとは何の用事だろう、免職かな」

伊藤は首をかしげながら同藩の者達と馬に乗って京に向かった。

「京で何か騒ぎでも起きたのかな」

サトウは首をかしげて不安そうだった。

「アーネストよう、あの呼び出しが有るという事は勝先生たちの新しい人事が了承されたということだよ」

「それは何のことだ」

「いままでのお偉方がトップで実際に動くのは下っ端だったがこれからは実務に明るいものが其の役の責任者として動くことになるのさ」

「伊藤が偉くなるのか」

「そういう事だよ。船で話を聞いてきたが伊藤さんを外国事務取扱の責任者とするのさ」

寅吉やサトウたちはこの夜横浜から神戸に支店を出した顔見知りの商人達と夜遅くまでドンチャン騒ぎで遊び歩いた、皆は寅吉が儲けたという噂の金を当てにして遊びに誘うので「あれは俺じゃないぜ、スミス一族が大もうけをして其のおこぼれを俺も頂いただけだ」そう説明してもジョン・マック・ホーンの義弟であるスミス商会の支店長Mr.Lucas Ewingが横浜の寅吉が大もうけをしたと吹聴していては誰も耳を貸してくれません。

 

6月27日6時   二条城

朝早くに勝たちの宿舎に呼び出しが来た、宮様がもう直にお出ましになるので一の間に集合と言うことだった。

三人で御庭先から式台に通ると大久保一蔵以下木戸に後藤がすでに来ていた。

大広間に用意された席でテーブルと椅子を見て「中々のものですな、これで畳に絨毯でなく板敷きなら外国の領事館並で御座る」後藤は名札のおかれた椅子についてそのように話すのだった。

昨晩の打ち合わせで一応の人事の任命式を参集して来て順に行うとことにして春嶽以下夜を徹して書類と部屋の模様替えなど忙しく立ち働いていたのだ。

「ご苦労様で御座る」春嶽と宗城が部屋に入ると勝たちは椅子から降りて平伏して挨拶を交わした、椅子のままでの挨拶はまだ慣れていずどうしても下で座っての挨拶をしてしまうようだ、これには稲葉が「どうしても我々旧弊なものにはこの方が有って居りますな」と言い皆で其のことについて談笑のうちに熾仁親王、朝彦親王お二方がお出ましになった。

まず後藤と勝が認めの印を押すことになり其の印章も用意されていた。

「ほう早いものですな、京の方々の仕事はすばやいものでありますな」

勝は感心して春嶽と宗城に改めて感謝するのだった。

そしてまず勝に軍事局総裁の任命書と臨時政府最高責任者の委託状が睦仁親王の名で書かれ御名御璽が押されていた。

それを朝彦親王が勝に渡してからその日の仕事が始まった。

朝早くから続々と呼び出されていた新しい人たちが城に入りお役に任命されては出て行った。

テーブルが部屋の左右に置かれ大久保一蔵や木戸準一郎に後藤象二郎が右に並び左に勝義邦、大久保一翁、稲葉正巳が並んでおくに二人の宮様が椅子に座っているところへ通されて不思議そうな顔をするものも多かった。

中でも江藤新平はどのようになったのか分からない様子がありありとみえた。

「佐賀藩士江藤新平、司法局長官を申し付ける」朝彦親王が辞令を読み後藤が認めを押してさらに勝のところへ春嶽が運び勝も認印を押して江藤に渡した。

椅子が与えられ其処へ座らされるのも新しいやり方であったし証書を渡す勝が立ち上がって江藤の前に来て直接手渡すのも新しいやり方だった。

「江藤君司法局は簡単に言えば町奉行のなかの裁判の部分を受け持っていただくことになる。まだ完全なる独立は出来ないので各地の町奉行が江藤君の下に入るということになる、とりあえずは一翁様と相談して各地の責任者と連絡を取ってください。この京でいえば町奉行と所司代をまとめたものと考えてください。出来るだけ早く裁判の部分を切り離したい。いままでの町奉行のやり方と諸外国の裁判の方法を勉強して新たな司法の確立をしてほしい。犯罪の取締と裁判を同時に行う弊害は町奉行の有様を見ても明らかだ、拷問による自白で罪を作るなど許されることでは無い。君には難しい仕事を与えて迷惑だろうがよろしく頼む。人員そのほかは江戸から係りのものも来るから君が指揮を取って組織つくりをしてください」

「謹んでお受けいたしますが、申し上げたき議が御座います」

「申してみよ」熾仁親王が許して江藤に話させることにした。

「東西和解になり新しい政府が出来るのはよいことで御座いますが、此処半年で朝令暮改其の様は外国に対してもあまりにもみっともなきことであります。出来うれば調査の上名称、人員の移動は最小にいたしていただきたく江藤謹んで申し上げます」

「分かったそちの意見は心に留め置き必ず忘れぬようにいたす。江戸方と京方が心を合わせ新政府の固めが一日もはやくできるようそちもお役目以外にも建白することがあれば申し出るよう」

「さっそく申しあげます。京においては政治経済の地盤が固まっておらず不便で御座います、前に何度か申し上げましたが江戸を接収したあかつきには天子に江戸に移っていただき日本の中心とされるよう重ねて申し上げます」

「しかし江戸城は家達がおろう、一翁如何に思うか」

「まだ申し上げて居りませんでしたが、家達は三十万石程度の大名としての待遇を頂、千代田城を明け渡して天子にお移り頂くのが最適と存じます。江戸なら大名旗本屋敷も多く政府の事務の場所人員の宿泊施設住居に不自由を覚えることがありません」

「さようか江戸遷都は大木からの建白もあり一蔵も大阪はいかがかと申し出があった。早速諸役検討のうえで行うことを約束いたす」

熾仁親王は江戸の大きさと船から見た横浜を含む便利さに心が動いていた。

勝は寅吉から明治政府が神道を支持するあまり明らかな行き過ぎがあったという話から、宗教について慎重だった。

徳川からの寺社地への寄進は徳川家が朝廷に領地を返納する以上新たに寄進しなおされる以外返納するように予め通達を出していた。

民事総局の下に宗教局を置いて神道も仏教も新興宗教もさらに異国の宗教も其の管轄におくことにした。

「居留地の外国のテンプルは其の元の国の公使館に取締を任せ黙認といたしたいと存じます」

「しかしわが国には神道があり徳川においてもキリシタン禁令を出しておろう」朝彦親王はそのように言って顔をしかめた。

稲葉が次のように木戸たちに説明した。

「わが国では皇室でも神道でのしきたりと仏教での行事を執り行って居ります。居留地以外での布教は今すぐに認める事は出来ないと存じますが彼らの宗教を禁令のままにいたすのは異国との付き合い上も不便を来たしそれ以上に彼らの協力が得られにくくなります。わが東軍が予想以上に中立と言う彼らの政府の方針を無視した商社などに支持されたのは、一重に彼らの宗教を黙認することを徹底したからで御座います。此処は彼らの宗教を黙認してわれらの伝来の宗教家の堕落したものの目を覚まさせなければ為りません」

「仏教の堕落ははだはだしいものがある。それゆえ神道による人心の鼓舞を図ろうと神祇局の創設もして其の方策を練らしておる」

「わが国の神仏混淆は歴史が長く、いま此処で神道一辺倒の政策は民の混乱を招き諸外国から見ても自分達の宗教も迫害されると感じさせればわが国にとって好いことではありません。もっと広い気持ちの視野にたって宗教は取り組むべきでありましょう」

「稲葉の申すこともっともである神祇の鷹司輔煕が知官事であるが若年のため交代を考えていたが誰を其の任に当てようか」

「確か亀井公が担当されていると聞きました」

「さようである」

名簿を確認して「知官事が鷹司、副が亀井である」

「いかがで御座いましょう、近衛忠房様が承知していただければ其の任に亀井様共々ついていただけないでしょうか。もちろん方針の変更を承知していただけることと大久保一翁の下、宗教局の長官と言うことを承知していただければで御座いますが」

「名前だけの政府でないということを知らしめて公家、宮家といえども職務に位階が必要ないということを周知するによいと思いますが、朝彦さんはいかが思いますかな」

「よろしいではないでしょうか、博経親王、嘉彰親王にもそのように申して実務を勉強していただきましょう」

後に久邇宮となる朝彦親王は二人の弟、博経親王と嘉彰親王のことをもそのように教育する気持ちになったようだ。

兄の晃親王はこれまで外国係を賜っていたが体の具合が悪く休養をされていた。

伏見宮家は大家族で後の名を含めれば慶応4年当時には次のようになっていた(後に創設された宮家を含む)。

これまで儲君(皇太子)と四親王家(伏見宮、桂宮、有栖川宮、閑院宮)を継承する皇子以外は、仏門に入り宮門跡として生きていくのが慣わしだったが時代の流れは宮家に異変をもたらした。

伏見宮邦家親王は享和2年生れの67歳で御健在。

第一王子
山階宮晃親王 文化13年生れ 53歳、

第二王子 聖護院嘉言親王(雄仁法親王慶応四年薨去48歳)

第四王子
賀陽宮朝彦親王(久邇宮明治八年創設)45歳

(賀陽宮家としての宮家は明治33年創設・初代邦憲王)

第五王子 善光寺住職万喜宮久我誓円 41歳

第六王子
伏見宮貞教親王(天保13年相続、文久2年薨去17歳)

第七王子 曼殊院譲仁法親王(天保13年薨去19歳)

第八王子 仁和寺宮嘉彰親王(仁和寺門跡純仁法親王・明治3年東伏見宮・明治15年小松宮彰仁親王)23歳

第九王子
輪王寺宮公現法親王(北白川能久親王明治5年相続)22歳

第十二王子 知恩院尊秀入道親王(華頂宮博経親王)18歳

第十三王子 昭高院宮智成親王(北白川宮初代明治3年創設)14歳

第十四王子 伏見宮貞愛親王(明治5年相続)11歳

第十五王子 家教親王(清棲家教・明治5年臣籍降下)7歳

第十六王子 閑院宮載仁親王(明治5年創設)4歳

第十七王子 東伏見宮依仁親王(明治36年創設)2歳

不明分も有るがこのようなかたがたが宮家を構成していた。

そのほかに女子も数が多く天皇家と比べて多くの皇族を抱えていた。

 

6月27日 16時 天保山沖

江戸を勝たちに遅れて出た政治局御用係の木下大内記が率いる10名の東軍の人員がアメリカのGolden ageに乗ってきた。

第三艦隊は江戸に向けて出発したが第一艦隊と第二艦隊はまだ此処に残っていた。

榎本と大鳥は京に出ていて甲賀と荒井は大坂城につめていた。

一行は夜にかかわらず篭を雇い京に上ることにして船で天満までさかのぼった。

 

6月27日17時 二条城

漸く京に入り城中に入った伊藤は大広間で大久保一蔵、後藤象二郎、木戸準一郎の三人と勝、一翁、稲葉の三人も顔を揃え、二人の宮様までいるのには肝を潰した。

「本日外国官は全て其の職を解かれて外事局と相成った。そして其の外事局長官には伊藤俊介が選ばれた」

勝が笑い顔で伊藤に伝達した、伊藤は自分が選ばれたということが理解できないようだった。

職を解かれてといわれたのと外事局とまたしても名前が変わったということだけが聞こえ自分が其の局の長官となったことがまだ理解できない風だった。

「長州藩士伊藤俊介、外事局長官を申し付ける」

朝彦親王が辞令を読み上げて後藤から勝に渡された奉書は改めて伊藤に手渡された。

「そういたしますと伊達公はいかがいたされましたか」

伊藤は自分のことより外国官の長の伊達宗城のことを心配していた。

「伊達は他に重要な仕事があり近々其のお役目を拝命いたす。其のほうを其のときに任命いたすよりただいまから其のお役目について各国の領事、公使たちとの折衝を任せようと勝からの申し入れであるによって謹んでお受けいたすよう」熾仁親王が伊藤に再度お受けを促した、伊藤は証書を勝から渡されてもまだお受けの返事をしていなかった。

「謹んでお受けいたします」

其の返事は簡単で居並ぶものたちも多くのものが感激で口数が多かったのと比べて好ましく感じられるのだった。

 

6月28日5時 二条城

昨夜遅くに京に入った江戸からの政治局員は二条城内に宿舎が用意されていて其処で休んでいた。

「木下様、起きられましたか」

洗面を済ませた杉が庭で体を動かしている木下に声をかけた。

「起きて今体をほぐしているところだ」

「いやはや驚くことばかりで御座いますな」

「本当だ大坂で到着の届けを出して篭で揺られている間にもう京に早馬で連絡が入り宿舎が用意されているなど昨年なら信じるやつなどいないさ」

「それにしても戦が広がらずに東西融和で政治局の双方の意見を持ち寄って政府の充実を図る。勝先生の面目躍如と言うところだな。杉さんのスタチスチックの勉強をどしどし教え込まないといけませんな」

「それも必要ですがアメリカから戻った富田と高木の両名が言う経済学や持ち帰ったManual of theoretical training in the science of accountsと言うこの書物ですが、早くこれを勉強しないと税務の取り締まりも難しいでしょう」
杉は手に持っていた本を見せながら早く勝先生に披露しなくてはと木下に見せた。
「そうそうこれからは外国との取引も盛んになるし昔ながらの大福帳ではどうにも為りませんな。横浜の寅吉が見せてくれた複式帳簿と言うやつああゆうものが早く全国に広まってくれぬといけないでしょう」

高木と富田は東西決裂と聞いてあわてて勉学半ばで帰国したものだ。

勝達が出航した夕方に横浜につき其処へ出てきた杉たちと出合ったのだ。

杉に「君達は勝先生が将来の国のために選んだ人たちだ僅か半年で帰ってきては主君に対しても勝先生にも申し訳なかろう」と言われてしゅんとして元氷川で勝からの返事を待っていた。
例の本は予備を含めて5冊持ってきていた。 

6月28日13時 二条城本丸

睦仁親王に江戸遷都のことについて大久保一翁、大久保一蔵の二人が意見を申し述べ天子から認可が下りて、軍事局以下江戸に7月10日に出ることが決まり二人が先発して江戸での屋敷の割り振りと江戸城開城の連絡がつけられた。

千代田城から一時的に田安御殿に家達が移り住んで天子を迎えることになった。

大名小路の屋敷は民事局他の役所が入ることも決定し割り振りも二人が春嶽、宗城を指名して其の周旋を承った。

先の二条関白から天皇即位の礼を何時行うかとお尋ねがあり一翁は「まず9月1日を目処に天皇即位の礼を執り行いしかる後に江戸遷都のご出発をいたしたらいかがでございましょう」

「さようであるかでは其の仕度と江戸への旅については責任者の任命をしてくれるよう」

「承知いたしました。其の議は後藤象二郎にお申し付け下されますようお願い申し上げます」

「よろしい、戻り次第こちらへ出るように申し付けるようにいたせ」

二人は大広間に戻り黒書院におられるという二人の宮様に報告をした。

 

6月28日15時 二条城

次々に決まる人事は形が整って次のようになっていた。

在京のもの以外は連絡がつけられて京に集合がかけられていた。

立法府は一時的に議政官、参議、参与が受け持ち、政治上局、政治下局が成立した時点で独立することとなった。

立法、司法、行政の三権分立は近づいていた。

軍事総局総裁 勝麟太郎 

軍務局(参謀本部) 長官  大関増裕 参謀 大鳥圭介 参謀 伊地知正治
海軍局 長官  榎本武揚  参謀 川村純義 参謀 中牟田倉之助
副長官  中島三郎助 参謀 甲賀源吾 参謀 荒井郁之助
陸軍局 長官 大山弥助 参謀 藤沢次謙 参謀 海江田信義
副長官  鳥尾小弥太 参謀 大築尚志 参謀 西郷信吾
騎兵師団  長官 太田資美 参謀 山川大蔵 参謀 大久保忠誠
近衛大隊 長官 板垣退助 参謀 星潤太郎 参謀 平岡芋作

民事総局総裁 大久保一翁

教育局 長官 仁和寺宮嘉彰親王 副長官 大木喬任
宗教局 長官 鷹司輔煕 副長官 亀井茲監
大蔵局  長官 三岡八郎 副長官 松平勘太郎
内務局 長官 木下大内記 副長官 井上聞多

独立部局

外事局長官  伊藤博文 (外国事務) 副長官 副島種臣
司法局長官  江藤新平 (司法裁判)

副長官 寺島宗則

宮内局長官   高橋精一郎(皇宮警備、皇宮管理) 副長官 田中光顕

伊達慶邦、上杉斉憲、松平容保、牧野忠訓には議政官として江戸に出て待機。

稲葉正巳、大関増裕は参議、参与には太田資美、大久保一翁、勝義邦、山川大蔵、河合継之助が選ばれた。

 習志野決戦 − 横浜戦
 習志野決戦 − 下野牧戦 
 習志野決戦 − 新政府
 習志野決戦 − 明治元年

幻想明治 第一部 
其の一 洋館
其の二 板新道
其の三 清住
其の四 汐汲坂
其の五 子之神社
其の六 日枝大神
其の七 酉の市
其の八 野毛山不動尊
其の九 元町薬師
其の十 横浜辯天
其の十一
其の十二 Mont Cenis
其の十三 San Michele
其の十四 Pyramid

横浜幻想  其の一   奇兵隊異聞 
 其の二   水屋始末  
 其の三   Pickpocket
 其の四   遷座祭
 其の五   鉄道掛
 其の六   三奇人
 其の七   弗屋
 其の八   高島町
 其の九   安愚楽鍋
 其の十   Antelope
 其の十一  La maison de la cave du vin
 其の十二  Moulin de la Galette
 其の十三  Special Express Bordeaux
 其の十四   La Reine Hortense
 其の十五  Vincennes
 其の十六  Je suis absorbe dans le luxe
 其の十七  Le Petit Trianon
 其の十八  Ca chante a Paname
 其の十九  Aldebaran
 其の二十  Grotte de Massbielle
 其の二十一 Tour de Paris
 其の二十二 Femme Fatale
 其の二十三 Langue de chat
     


幕末風雲録・酔芙蓉
  
 寅吉妄想・港へ帰る    酔芙蓉 第一巻 神田川
 港に帰るー1      第一部-1 神田川    
 港に帰るー2      第一部-2 元旦    
 港に帰るー3      第一部-3 吉原    
 港に帰るー4          
    妄想幕末風雲録ー酔芙蓉番外編  
 幕末の銃器      横浜幻想    
       幻想明治    
       習志野決戦    
           

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 酔芙蓉 第三巻 維新
 第十一部-1 維新 1    第十一部-2 維新 2    第十一部-3 維新 3  
 第十二部-1 維新 4    第三巻未完   

     酔芙蓉 第二巻 野毛
 第六部-1 野毛 1    第六部-2 野毛 2    第六部-3 野毛 3  
 第七部-1 野毛 4    第七部-2 野毛 5    第七部-3 野毛 6  
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 第九部-1 弁天 4    第九部-2 弁天 5    第九部-3 弁天 6  
 第十部-1 弁天 7    第二巻完      

  酔芙蓉 第一巻 神田川
 第一部-1 神田川    第一部-2 元旦    第一部-3 吉原
 第二部-1 深川    第二部-2 川崎大師    第二部-3 お披露目  
 第三部-1 明烏    第三部-2 天下祭り    第三部-3 横浜  
 第四部-1 江の島詣で 1    第四部-2 江の島詣で 2      
 第五部-1 元町 1    第五部-2 元町 2    第五部-3 元町 3  
       第一巻完      

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慶応2年1866年
 
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明治3年1870年
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明治4年1871年
 
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カズパパの測定日記