酔芙蓉 第一巻 神田川  
酔芙蓉−第五部目次 元町  根岸和津矢(阿井一矢)

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元町 1

文久3年4月15日―1863年6月1日

 ・ 元町 ー 密航


文久3年4月15日―1863年6月1日
元町 ・ 密航
オリエンタル銀行は1842年にバンク・オブ・ウェスタン・インディアとしてインド・ボンベイで設立されました。
1845年にロンドンに本社を移転した時にオリエンタル銀行となって、一時は中国、香港、日本、インド、モーリシャス、南アフリカに支店を開設、この地域で支配的な位置に立ったこともあるようです。
日本には1861年横浜に支店を開設してありますが、英国東洋銀行としては1864年の開設として有るようです、番地の特定は出来ませんでしたがnew oriental bank(新東洋銀行)が明治19年発行の日本繪入商人録に11番地に有るのでそれかもしれません。
グラバーはジャーディン・マセソン商会のほかにこの銀行の代理人をも勤めています。
しかし、セイロンでのコーヒー・プランテーションへの投資失敗から、1892年に静かに銀行業務の幕を閉じています。
鉄道資金、明治政府は同銀行を通じて9分利付きで外債100万ポンドを募集することになり、東京・横浜間鉄道の建設工事は1870年から開始され、助っ人としての建築師長には英国人青年技師エドモンド・モレルが就任した。 
この資金は伊藤博文、大隈重信、岩倉具視が関与しています。
工部省関係の資金は主に鉄道建設の開発に向けられ英国の企業を潤しました。
横浜で上がる関税を担保に、この銀行からだけでも莫大な借り入れを明治政府はして居ります。
この資金の流れに疑問を抱いたのは、江藤新平、大久保利通ですが悉く明治創世記に亡くなってしまいます、二人のなくなる道筋に疑問は尽きません。
シナ人としては邵結萍が1862年単身で横浜を訪れ、後に居留地52番に両替商源秦号を開く、この土地は1860年イギリス人デーセンおよび1866年ロスモンドウィルソンとして紹介されているがいつ源秦号として営業したか調べがついていません。

山手における貸家の番地、番地は慶応3年(1867年)の居留地になって以降のものです、ほぼ確定したのは明治10年頃だそうです。
山手箕輪坂上・文久3年8軒の貸家がそのまま山手居留地、山手61番地〜71番地となる。
山手箕輪坂上・元治元年10軒の貸家がそのまま山手居留地、山手72番地〜81番地となる、後のジェラールの水屋敷、瓦工場も含む(外人墓地の外側元町公園付近)を設定しました。

文久3年 5月12日密航の長州ファイブ(長州五傑)
 後列左遠藤謹助   後列右伊藤博文
       中央井上勝
  前列左井上馨   前列右山尾庸三

 伊藤博文(1841〜1909)大和町出身。初代内閣総理大臣 ・伊藤俊介
 井上勝 (1843〜1910)萩市出身。初代鉄道局長官   ・野村弥吉
 井上馨 (1835〜1915)山口市出身。初代外務大臣   ・井上聞多
 遠藤謹助(1836〜1893)萩市出身。造幣局長
 山尾庸三(1837〜1917)山口市出身。工部卿、法制局長官 
 山尾庸三は明治初期の官僚として工業技術の導入を図るとともに、盲唖教育の啓蒙とその確立に尽力した人としても有名ですが、その背景には、1862年に起こった塙忠宝暗殺事件、長州藩士であった彼は、攘夷への熱情のままに、伊藤博文に誘われて、塙保己一を継いで和学講談所を運営していた塙忠宝を暗殺します。
その後それがまったくの誤解からであったことに気付き、またイギリスで見聞した造船所で実際に働いている聾者の姿に感銘して自責の念に駆られ帰国の後に盲唖教育確立に努力します。



1 この長州留学生はジャーディン・マセソン商会(横浜、英一番館)のウィリアム・ケズウィックや英国領事ジェイムス・ガワーの協力を得て、ジャーディン・マセソン商会所有のチェルスウィック号で文久3年5月12日(1863年6月27日)横浜出港、6日後、上海に到着、ロンドン行きの貨物船ペガサス号300トン(井上聞多・伊藤俊介)とホワイト・アッダー号(野村弥吉・井上勝・山尾庸三)に分乗しながらロンドンに到着しました。
文久3年9月23日(1863年11月4日)ロンドン到着 
 そして、英国留学中の世話役になったのは、ジャーディン・マセソン商会の創業者の一人であるジェームス・マセソンの甥にあたり、マセソン商会(ロンドン)の社長を長く務めたヒュー・マセソンでした。

2 維新侠艶録 井筒月翁著 によるとこうなっています。
ある日のことである。伊藤俊介が三条の橋の上を通っていると同藩の野村弥吉に逢った。
内談があるというので四条のある料理屋にゆくと井上聞多、山尾庸三、遠藤謹介、井上勝などがいる。そして異人の国へいって様子をみようじゃないかと、外国へ密航の相談だ。
イギリスイギリスというが全体どっちじゃ、馬関《ばかん》と江戸とを十ペん往復するくらいのところじゃろう、といった調子で、てんで外国の知識はない。
行くことにはきめても先だつ金がないというので、長州藩の利《き》け者で新知識に富んでいる村田蔵六に相談した。
村田というのは九段の靖国神杜に立っている銅像の大村益次郎である。村田は「よろしい、やり損なったらこれだ」と腹を切る真似をして見せて、すぐに御金蔵から五千両取り出してくれた。
そこで、横浜の英吉利《イギリス》一番館のガールという人に頼み込んで洋行という段取になった。
断髪する悲哀、五千両を為替にする不安、ダブダブの洋服を着る滑稽《こつけい》、この密航にはいろいろの珍談奇話があるが、本筋でないから略する。

3また別の資料ではこうなっていました。 
4月18日 井上、山尾、野村の3名、藩主より洋行の内命を受ける。
4月28日 洋行の為、井上は野村と共に京都を発ち、5月6日江戸に着く。
5月 7日 英国領事ガワーを訪ね洋行の志を述べ周旋を依頼する。ガワーからは船賃が700ドル(約400両)1年間の滞在費を含めると千両は必要と聞かされる。江戸到着後更に2人(遠藤・野村)増え5人分つまり五千両が必要になった。
洋行に当たって藩主の手許金から一人200両(井上、伊藤、山尾の3人で600両)を支給されたが当然足りなかった。
そこで、横浜の伊豆倉商店(長州藩御用達の大黒屋の営む貿易会社)の番頭佐藤貞次郎と相談し、麻布藩邸に銃砲購入資金として確保していた一万両の準備金があったので、佐藤は「藩邸の代表者が保証するなら5千両を貸す」という事になり、藩邸の留守居役村田蔵六 に、死を決してもその志を遂げたいと、なかば脅迫的に承諾させ、5千両を確保することが出来た。
 
2と3では、人間の記述の誤りがありそうです、それと日にち的に無理がありそうで、当てに出来にくい。
本文で少し違う展開にしたのは7日に領事に相談して12日出港では少し無理ということなので意図的に変更しています。
表:長州ファイブのその後
名前 帰国時期 明治以降の役職
井上馨 元治元年6月 外務・農商務・内務・臨時総理・大蔵の各大臣など
伊藤博文 元治元年6月 内閣総理大臣、枢密院議長など
遠藤勤助 慶応2年 造幣局長など
井上勝 明治元年11月 鉄道庁長官、帝国鉄道協会会長など
山尾庸三 明治3年 工部郷・宮中顧問官・法制局長官など


文久3年5月3日―1863年6月18日

  ・ 元町 ー 湧き水


文久3年5月3日―1863年6月18日
 元町 ・ 湧き水 
代官坂は、山手の丘を越えて、本牧へ抜けるために設けられた道で、当初は箕輪坂(みのわざか)と呼ばれていましたが、坂の途中のこの地に横浜村名主石川徳右衛門が居住していたことから代官坂と呼ばれるようになりました。
 幕末開港前後の石川家当主、徳右衛門は、日米和親条約締結のための応接場の設営、食料、その他の設備一切をつかさどりました。嘉永7年(1854)3月9日(太陽暦の4月6日)、ペリーが横浜村に上陸し、当地の住民の暮らしぶりを視察した折、この邸を訪れ、徳右衛門が供応した様子が「ペルリ提督日本遠征記」に記されています。その後、徳右衛門は横浜町惣年寄となり、町政を担当しました。
 
この辺で横浜関係は全て書き出すようにします。
元町・元町一丁目箕輪坂下 とらや パン屋ピカルディ 横浜物産会社⇒氷川商会
山手箕輪坂上・文久3年8軒の貸家がそのまま山手居留地、山手61番地〜71番地となる。
山手箕輪坂上・元治元年10軒の貸家がそのまま山手居留地、山手72番地〜81番地となる、ジェラールの水屋敷も含む。
車橋上・元治元年6軒の貸家と山林50000坪山手居留地212番地付近横浜共立学園となる。
野毛町・野毛町3丁目 とらや 横浜物産会社⇒氷川商会
弁天町・弁天通り2丁目 とらや・豚屋火事の前後に義士焼きの店の回りを買い取り横浜物産会社の店を開く⇒氷川商会 町名変更後5丁目となる。
居留地20番⇒とらや PICARDIE BAKERY・ピカルディベーカリー 山下町20番地後にグランドホテルとなる。
本牧 ・十二天 とらや
伊勢佐木町7丁目 氷川商会

文久3年5月22日−1863年7月7日

 ・ 元町 ー シャボン
今日の添付は少し長いのでいくつかに別けま〜〜す。
ハーフムーンソープの木箱とパッケージ

文久3年5月22日−1863年7月7日
 元町 ・ シャボン 
シャボンというのはポルトガル語sabaoです、soapが英吉利語
仏蘭西語でもシャボンと聞こえるようです?(イタリア語ではszappan ・ トルコ語ではsabun ・ スペイン語ではjapon ・ オランダ語ではsepo ・ フランス語ではsavan です。)  
1863年代には後世有名になるヒット商品はまだ世に出ていませんでしたがP&G(プロクター・アンド・ギャンブル)ではこの当時、南北戦争中にもかかわらず原材料の確保に成功していました。
カシミヤブーケ
1872年、コルゲイトは同社史上画期的な香料入り化粧石けん「カシミア・ブーケ」を世に出しました。以後、技術の発展とともに機械化も進み、石けんが大量生産されるようになったのです。 
アイボリー石鹸
The Procter&Ganmble Companydehaでは攪拌したままで昼休みをとってしまい、空気の含有量が変化し偶然に「浮かぶ」石けんができました。
経営者は「これはすごいことかもしれない、すばらしい」と注目しました。
ハーレイ・ブロクターは、日曜日の教会で第45聖詩「・・・汝の衣服はアイボリー(象牙)の宮殿の外で、ミルラ、アロエ、カシアの香りがし、汝を喜ばせる・・・」が音読されたさいに、インスピレーションを得て、この白い石けんにアイボリーと名づけました。アイボリーの初出荷は、1879年7月のことでした。
パーモリブ
B.Jジョンソンカンパニーが、パームオイルとオリーブオイル(ココアバターも)など、植物オイルだけで石けんを作っていました。この石けんは、後に改名した名「パーモリブ」のおかげで有名になりました。ただし現在のパーモリブの石けんは、当時のものとは違っています。


南北戦争
普通アメリカでは Civil War 南部人はThe War Between the States と言う事が多い。
北部は,中央集権的で保護貿易,商工業を中心として,奴隷制に反対していました。
南部は,地方分権的で自由貿易,農業を中心として奴隷制度の拡大を必要としていました。南部の綿花はアメリカの輸出産業の第1位でしたので、対立の激しさは奴隷制をめぐる賛否の議論でした。
1860年11月の大統領選挙に共和党のリンカーンが当選すると,翌月サウスカロライナ州が声明を発してアメリカ合衆国から脱退してしまいました。
共和党は奴隷制度不拡大をスローガンに1854年に結成された政党で,リンカーン候補は奴隷制度廃止を叫んでいなかったのに連邦脱退という異常事態が発生しました。
その後南部6州がこれに続き,リンカーンがまだ大統領に就任していない時期の、1861年2月,7州がアラバマ州モントゴメリーに集まって南部連合政府を発足させて憲法をつくり,大統領を選出しました。
U.S.A.に対するこの C.S.A.はもしイギリスやフランスのような有力国家が独立を承認すれば,新しい国家としてひとり歩きすることになりますが、リンカーン大統領は連邦からの離脱を認めず,終始反乱としてこれを取り扱いました。
1861年4月から内戦に発展,C.S.Aには南部4州が加わって合計11州となりました。北部も南部も初めは短期間に戦争が終わるものと思っていたものが多数でしたが,長期戦に突入いたしました。
総合力では北部の方が勝りましたが,南軍には司令官となったロバート=リーをはじめとした優れた指導者に恵まれ,初期の戦いでは南部に有利に進みました。
長期化した戦争は北部の総合戦力が有利に戦局を導き出して,南部の奥深く進入した北軍のシャーマン将軍はついにアトランタを占領,さらに大西洋岸のサヴァンナも手に入れ,1865年4月リー将軍は北軍のグラント将軍に降伏して戦争は終わった。
当初リンカーン大統領が動員した戦力は7万5000人、兵役期間は3ヶ月と短期間で、早期に決着がつくと考えていたと言われている。最終的な動員兵力はリンカーン大統領の北部で156万人、南部では90万人である。62万人の死者を出し国土を荒廃させることとなった。 
Kazuya的意見・Virginia戦争、これはVirginia出身者が多いからですが、南部同盟の大統領ジェファーソン・デービス、南軍のトマス・J・ジャクソン少将、ロバート・E・リー大将・陸軍総司令官や北軍のウィンフィールド・スコット連邦陸軍総司令官。  などはVirginia出身者によって占められていた。
南部ということにまで拡大すると、北軍の大統領エイブラハム・リンカーン(ケンタッキー州ハーディン郡生まれ)までがこれに加わってしまう。
実はこれもこういう話、ケンタッキー州は、アメリカ独立時にはバージニア州の一部だったが、1792年に分離し、15番目の州として成立。 
また戦場の約60%はヴァージニア(バージニア)内にあり、南軍の首都(ホワイトハウス)もヴァージニアにあったという具合である。
バージニア”という州名は、16世紀イギリスのエリザベス1世の別名 "Virgin Queen(バージンクイーン)"に由来する。 
ウエストバージニア州は元々はバージニア州の一部だったが、南北戦争でバージニア州が南部連合に属した際に、西側の奴隷制度に反対する層が分離し独立して州となった。



1860年オランダ帆船ナッソウ号船長だったフフナーゲルが「横浜ホテル」を開業。
パン屋のパルメスさんはここに泊まりました。
アメ一はウォルシュ・ホール商会亜米利加一番館の略称です、居留地2番地です。
亜米利加へのお茶の輸出の最大手でした。
お茶で大もうけをする大谷嘉兵衛はまだ横浜に来ていません。


文久3年5月30日―1863年7月15日

 ・ 元町 − 紅茶

カティサークの船首

文久3年5月30日―1863年7月15日

 元町 − 紅茶 

 

紅茶の日

ロシア漂流記でおなじみの大黒屋光太夫が1791年(寛政3年)11月1日の帰国の際、女帝エカテリーナ2世から紅茶を贈られました。

お茶会に呼ばれたとして有る資料もあります。

それにちなんで日本紅茶協会が1983年(昭和58年)に制定しました。本文では寅吉が紅茶飲んでいますが、紅茶の初輸入は1880年代のことといわれていますが、居留地では盛んに飲まれていました。

 

清国では、福建省武夷山の烏龍茶を進化させて、安徽省の祁門で紅茶が生まれたようです。

福建省の武夷山に産する紅茶は「ボヒー」と呼ばれました。

1784年に余干臣が宦官をやめて商人となって福建省から安徽省に来てから、福建省の発酵茶「工夫茶」に学び東至県に工場を設立、工夫茶にならって茶の製造を始めました。

翌年には、祁門県(祁の偏は[])に二ヶ所の製茶工場を設立して「祁門紅茶」を造りこれを拡大していった。

 

1786年に祁門の南の貴渓の胡元竜が日順茶工場を開設して、烏龍茶を改良して「祁門紅茶」を完成させます

インドでの紅茶生産。
1823年、植物学者のロバート・ブルース大尉が、アッサムで野生のチャの樹を発見。
イギリスが必要とする紅茶を栽培、自給し、他国へも輸出を計画。

1838年には、インド総督ウイリアム・ベンティンク卿の下で「茶業委員会」が設置され、アッサム地方でのチャの栽培と製茶が研究されました。
中国からの種子や苗、労働者を送り込み、調査・実験が行われて、1839年には最初のアッサム紅茶8ケースがロンドンで競売されます。

イギリス人たちはアッサムでの製茶事業にのりだしプランテーションによる、機械化され安定した品質の紅茶は、改良・工夫を重ね安価で高品質の紅茶として、小規模生産の中国紅茶を駆逐していってしまいました。
また、中国種に比べ、アッサム種はタンニンが多く、タンニンの酸化によってつくられる発酵茶の紅茶には適しているものでした。
インドでの紅茶製造は発展し、東パキスタン、セイロン島へもひろがっていきました。
また、オランダの植民地インドネシアでも、1870年台に入ってからプランテーションが開発され、ジャワ島での紅茶生産もインドやセイロンに次ぐものになりました。

ティクリッパー

19世紀の半ば、快速大型帆船が海面を切り裂くようにインド洋を駆け抜けました。広東の新茶を1日も早くイギリスに運ぶために。

船体の幅を切りつめ、船首を前かがりに突きだし、マストを少し後ろに傾けた独特のスタイルでスピードを競いました。

3本のマストに数十枚の帆を張り巡らし、風をめいっぱい孕んで走る姿は咲き誇ったバラのように華やかでした。

ティークリッパーレースは木造帆船時代の最後を飾った一大イベントでした。

先着5隻の記録はつぎのとおり。
エアリアル 福州から99日 9月6日午前8時着
ティーピング 福州から99日 同日午前8時10分
セリカ 福州から99日 同日正午
フェイアリー・クロス 福州から101日目 9月7日夜
タイシン 福州から100日目 9月8日朝  

 

クリッパーが最初に造られたのはアメリカでした。

1848年にゴールドラッシュが始まり金に飢えた男たち49ers (forty-niners,フォーティーナイナーズ)をニューヨークからホーン岬(南米南端)経由でサンフランシスコへ運びました。

1849年にイギリスで航海条例が廃止され、外国船の参入が認められると、クリッパーはサンフランシスコから太平洋をまたいで(30日前後で)中国へ向かいました。

米国船籍オリエンタル号が中国の茶を97日でロンドンに運び、従来の記録を大幅に塗り替えると、イギリスでもクリッパー建造ブームになりました。

アメリカが南北戦争で忙しくなると、イギリス船同士が日数を競い、本格的なティーレースが始まりました。

40隻が参加した1866年のレースはとりわけ有名で、3隻のクリッパーが99日間でほぼ同時にロンドンについたとか。イギリスのティークリッパーのほとんどは1850年から1870年の20年間に集中して造られています。

1869年にデビューした「カティーサーク」は今もロンドンのグリニッジに保存され、博物館となっている名物クリッパーですが進水した年には、レセップスがスエズ運河を開いた年でもありました。

エンジンを搭載した甲鉄船が運河を利用して60日間で中国とイギリスを結ぶと、木造帆船はもはやライバルではありませんでした。

アイルランド生まれのリプトンが、「農園からティーポットに」を合い言葉に、セイロン島で大規模な農園を開き、安価な紅茶を食卓に供給し始めたのが19世紀末。

ティーレースは過去の語りぐさとなり、商業帆船の時代は幕を閉じました。

カティーサーク 

カティーサークは、イギリスの詩人バーンズの「シャンターのタム」に出てくる魔女が着ている短い女性の下着シュミーズのことで、シャンターのタムでは乗馬途中に、魔女が馬の尻尾を掴む悪戯をする、カティーサークの船首像は、シミーズ姿で乳房をあらわにした魔女がポニー・テールを掴んでいます。

2007年5月21日、午前4時45分頃カティーサークの船体より火災が発生しました。
消防車8台・消防士40人が出動して消火に当たりましが、火は1時間半以上も燃え続けました。
午前6時28分頃になって漸く鎮火しました。
鋳鉄製のフレームを残して船体のほとんどが消失してしまいました。

農園からティーポットに 

リプトンは、もともとはハムやベーコンを扱う食料品店として、1871年にスコットランドのグラスゴーに第一号店をオープンしました。商売や広告のセンスに富んだリプトンは、どんどん店を発展させていきましたが、紅茶を扱うようになったのは、第一号店をオープンしてから20年近くもたった1890年のことでした。

その間に多くのブローカーが彼のもとを訪れては紅茶を売りつけたのですが、リプトンは紅茶の値段が高いのは、中間会社の儲けのためであることを知り、本当に品質の良い紅茶を適正価格で消費者が求められるような製品を提供するために、スリランカ(セイロン)に赴き茶園経営に乗り出しました。

 

BARREL、バーレル・バレル、〔樽(たる) の意〕体積の単位。イギリスでは36ガロン。アメリカでは31.5ガロン、ただし石油の場合は42ガロン(約159リットル)。

GALLON、ガロン、 液体の体積の単位。イギリスでは10ポンドの水の、特定の状態における体積を一ガロンとし、約4.546リットル。アメリカでは231立方インチのことで、約3.785リットル。日本では、後者を使用。 

ということで1バーレルは亜米利加からのものは約119リットル

英吉利からは約160リットル

LITRE、リットル、立、体積の単位。約4合半、1立方デシメートルの呼称。1964年以前には、水1キログラムが一気圧のもとで最大密度を示すときの体積(1.000028立方デシメートル)を一リットルと呼んだ。記号 l リッター

GROSS、グロス、12ダース(一四四個)を一組として数える際の単位。

〔総計の意〕ゴルフで、ハンディキャップを差し引く前のスコアの総計。


緑茶と紅茶

中国から日本そしてヨーロッパへ

紀元前2700年に中国で生まれたとされていますが、栽培の歴史は浅く紀元350年頃 中国で茶の栽培開始されだします。

729年  聖武天皇、行茶の儀を行う。

805年  最澄が唐から茶の種子を持ち帰る

1168年 栄西が宋から茶の種子を持ち帰り肥前に蒔く。

1516年 ポルトガル人がマカオで初めて茶を知ったといわれる。

ヨーロッパで最初に飲茶の風習を広めたのは1610年頃のオランダとポルトガルであったといわれているが、なぜシルクロード経由という歴史がないのか疑問。

オランダとポルトガル両国は、日本との交易を通じて、日本人の嗜んでいた茶と茶の文化に接し、それをオランダに伝えたといわれる資料があります。

1607年オランダ船がマカオから中国茶をまとまって運び、量的販売の記録

1610年オランダ東インド会社、平戸から始めてヨーロッパへ日本茶を輸出。

同年に中国からオランダの東インド会社によって茶が輸入されたとされる資料もあります。 

この飲茶の風習はさらにオランダからフランス・ドイツ・そしてイギリスへ伝えられた。

英国では1657年にロンドン市内で初めて茶が売り出されます。

1662年にポルトガルの皇女キャサリンが、英国の「陽気な国王」 チャールズII世に嫁いで王妃になってから盛んに飲まれるようになりました。

キャサリンはお茶の葉だけでなく、持参品としてインドのポンペイと砂糖と中国茶と茶道具を持参。
上流階級でオリエンタル趣味(シノワズリー)が流行して中国磁器の茶道具や茶を飲む「習慣」を宮廷にもたらしたのです。

その証拠に17世紀のイギリスでは、茶はteaではなくchaとつづられていました。

日本語の茶(CHA)、ポルトガル語、ヒンズー語、ペルシア語のCHA、アラビア語、ロシア語のCHAI、トルコ語のCHAYなどの系譜が主に陸路での伝播経路と見られます。

英語TEA、フランス語THE、オランダ語のTHEE、ドイツ語のTEE、などが海路によって伝播したと考える事が出来ます。

広東語のCH’Aと福建語のTAYが元の発音と考えられています。

「チャ」「チャイ」は元々は広東語で、「テ」「テー」は福建語。ということは、「チャ」「チャイ」の国へは広東を、「テ」「テー」の国へは福建を出発点としてお茶が伝わっていったということが推測できる。

1680年にイギリスのサブリエール夫人が紅茶に初めてミルクを使用し、以後同国で広まったと記録されています。

 最初にアメリカへお茶をもちこんだのはオランダ東インド会社で、オランダの植民地、ニュー・ネーデルランド(1616〜1664)、つまり今日のニューヨーク州でした。その首都、ニュー・アムステルダム、つまりニューヨークはアメリカのお茶発祥の地でもあります。このころ、イギリスも急速に海運国として発展し、商業権益をめぐってオランダと対立するようになりました。1651年、イギリスは国内貿易からオランダを排除するため、「航海法」を定め、植民地もその対象にするなど、積極的な対外政策を展開し、ことごとくオランダと対立し戦争となりました(4度の英蘭戦争)。

1664年にはオランダの植民地、ニューネーデルランドを侵略し、ニューヨークと改めました。これを機に植民地アメリカのお茶はイギリス東インド会社から入ってくるようになりました。

当時、アメリカは砂糖法や印紙法、タウンゼント諸法(ガラスや紙、塗料への課税)など、本国からの得も言われぬ重税に悩まされていました。

1773年に制定された茶法、この法律は茶(紅茶)に余りにも高い税(税率125%〜200%超)を掛けたため、闇市場が発生し、人々が高いイギリスの紅茶ではなく安い密輸紅茶を買うようになり、大量の在庫を抱えてしまった本国政府が植民地であるアメリカに無理矢理押し付けようとして制定された。

この茶法に激怒した民衆は事件を起こしました。 

ボストンティパーティ

1773年12月ボストンでは、独立戦争のきっかけになった茶会事件が起こっている。

サミュエル・アダムスを中心にした活動家たちがボストンの民衆と共に、アメリカ・インディアンのモホーク族に扮装し、ボストン港に停泊していた英東インド会社船3隻を襲撃、積み荷であった紅茶342箱を箱ごとボストン港に投げ込んだ事件です、ボストン港をティーポットに見立て、そこにお茶を投げ込んでティーパーティーを開こうとしたので、これを茶会事件と呼んでいます(ボストン湾は紅く染まったといわれています?)。

怒った英国はボストン港を封鎖しますが、これが他の植民地の同情を呼び、13の植民地が連帯するようになり、1775年の独立戦争につながりました。
茶会事件の船はダウンタウンとボストン港の間の運河にあり、木造船ビーバー2世号が停泊しています、復元されたもので、博物館となって展示されていて中で、当時の服装をした乗組員が観光客の案内をしています。


文久3年6月10日―1863年7月25日

 
・ 元町 ― ハウダチーズ


文久3年6月10日―1863年7月25日
 元町―ハウダチーズ
ゴーダチーズ
13世紀頃から作られているこのゴーダチーズ(ハウダ村Gouda)は、オランダのチーズの6割以上が作られています。 
熟成時に表面を油状の(フロマコート)で覆い、カビの発生や水分の蒸発を防ぎます。
輸出用には、表面に黄色いワックスをかけてあります。
このワックスは硬くて味も悪いので、食べるときに取り除いて食べましよう。
中身は淡黄色で引き締まっていてところどころに小さな気泡がでます。
種 類  ・ 圧搾チーズ セミハードタイプ
Fromage a pate pressee non cuite
産地   ・ オランダ南部ハウダ村
原料乳  ・ 牛乳、全脂乳またはレンネット(凝乳酵素)。
熟成期間 ・ 4〜6ヶ月が多いが1年〜3年がよいという意見も有る。
形と重量 ・ たらい型、直径35cm高さ12.5cm位、重さ:約12kg
310g〜610gのベビーゴーダもある。
乳脂肪48%以上

エダムチーズ
赤玉といわれ、ゴーダとともにオランダを代表するチーズです。
17世紀、世界に向けてチーズを船積みしていたオランダ北部の小さな村の名前。
まん丸くて表面を赤いワックスで包んでありよく名前を聞くチーズだが、これは輸出用で、国内のものにはワックスがなく、表面はクリーム色でした。
熟成が進むと小麦色へと変わる。味は若いうちはしなやかでバターのようなマイルドな味わいとかすかな酸味があり、成熟が進むにつれて硬くなります。
はしばみhazelに似た風味が現れ、力強さを増します。 
種 類 ・ 圧搾チーズ セミハードタイプ
Fromage a pate pressee non cuite
産地   ・ オランダ北部エダムはアムステルダムからバスで40分ほどの小さな町。 
原料乳  ・ 牛乳。
熟成期間 ・ 4ヶ月以上。1年以上を好む人も多い。
形と重量 ・ 縦長の球型、高さ14cm、重さ:1.8kg。
乳脂肪40%。


前に資料のままに「1680年にイギリスのサブリエール夫人が紅茶に初めてミルクを使用し、以後同国で広まったと記録されています」と書き入れましたが話の前後からすると緑茶の可能性が大ではないでしょうか、blackteaと為っていたのだろうか。
イギリス最古の紅茶・コーヒー卸・小売商として、創立したのが1706年トーマス・トワイニング、トワイニング紅茶として今にその名を残しておりますが、此方もgreenteaの可能性が大きいのでは。

文久3年7月2日―1863年8月15日
 ・ 元町―佃煮



文久3年7月2日―1863年8月15日
 元町―佃煮
チーズケーキのルーツは古代ギリシャ時代です。
遊牧民の間で生まれたチーズは、古代ギリシャでトリヨンと呼ばれるチーズを使ったプディングとして食べられていました。
チーズ作りが各地に伝わり、世界各国でチーズを使用したお菓子も続々と生まれます。
日本では、奈良時代に生クリームやチーズの類であった酥(そ)が作られました。
戦国時代末期に南蛮菓子としてポルトガルやオランダ人によってチーズケーキの一種ケイジャーダが紹介されますが、カステラと違い定着しませんでした。
明治時代には、ライスチースケーキやチーススフレーなどチーズを使ったお菓子がいろいろと紹介されるようになり、一部の人に愛好されました。
ケイジャーダ
ポルトガルの代表的な地方菓子です。
ケイジョとはポルトガル語でチーズを指し、「ケイジャーダ」は修道院で作られていた「チーズタルト」です。
当時、修道院では洗濯物の糊付けに卵白を使用していましたが、残った卵黄を利用して生まれたお菓子です。

  元町 2
文久3年7月9日―1863年8月22日
 
・ 元町―チューリップ

文久3年7月9日―1863年8月22日
元町―チューリップ
Tulipa gesnerianaトゥーリパ・ゲスネリアナ、チューリップの学名です。
ユリ科アマナ(チューリップ)属 
Tulip(チューリップ)の語源は、1554年頃、ドイツの外交官ド・ビュスベックがトルコに赴任していて、咲いている花を指さし、トルコ人に尋ねた。
「あの花は何という名前ですか?」
「花?、あのターバンみたいなやつかい?」
ド・ビュスベックが手紙に書いた言葉。
「テュルバン(ツリパム・Tulipam)とトルコ人が呼んでいる花がある」 
注:テュルバンTulipamとは、トルコ語で、ターバンという意味でした。   
よく有る間違いねたでした。
『チューリップ狂時代』
トルコでスルタンの花として珍重されていたチューリップが、商船に乗ってオランダに渡来したのは十六世紀後半。植物と言えば薬用か食用が主だった当時、東インド貿易でもうけた商人たちの間でチューリップ花壇作りが大流行した。
人目を引く珍しい花を持つことが富の象徴となり、この一帯で、白地に赤じまが走る花、黒に近い濃紫の花など、様々な新種チューリップが開発された。球根は、一獲千金を夢見る男たちによって酒場の隅で転売に転売が重ねられ、先物取引が過熱した。
珍種の球根となると一個の値段は五千ギルダーを超えた、家が一軒建つと言われていました、当時の大工の月収は二百五十ギルダー、十七世紀のオランダ最高の画家レンブラントが「夜警」の代金に受け取った金額は千六百ギルダーだったといわれています。
市場の狂乱ぶりがうかがえる「チューリップ狂時代」は、市場が突然破綻して、わずか三年で終焉しました。
ロバート・フォーチュン(Robert Fortune)は、1812年スコットランドに生まれたプラントハンターでした。
キク、ラン、ユリなど東洋の代表的観賞植物を英国にもたらしたのも彼である。
バラの愛好家なら彼の名を冠したバラ、Fortune's Double Yellowを知っているかもしれません、金柑の学名Fortunella japonicaは、フォーチュンの名前と日本を組み合わせたものです。
フォーチュンは二度来日し、その時の記録を「幕末日本探訪記―江戸と北京」に残しています、標題には江戸と北京とあるが、内容の九割は日本に割かれています。
「A Narrative of a Journey to the Capitals of Japan and China」
彼が最初に来日したのは万延元年、1860年その次は61年と2度来日しました、長崎でシーボルトと息子のアレクサンダーに出会っています。
アレクサンダーは明治の外務省の通訳として日本で過ごしました。
有名なシーボルトの本名はPhilipp Franz Jonkheer Balthasar von Siebold長すぎる。
彼の孫のアレクサンダーは1909年、フェルディナンド・ツェッペリン伯爵のひとり娘ヘラと結婚して、ツェッペリン家を継ぎました。
ツェッペリン伯爵は硬式飛行船を考案した人物としておなじみですね。


薩英戦争
英吉利は薩摩と直接交渉するため、6月27日に軍艦7隻を鹿児島湾に派遣させました。
薩摩藩に犯人の逮捕処罰と被害者、遺族への賠償金2万5000ポンドを要求しましたが、薩摩側は拒否。交渉は不調に終わります。
ニール代理公使は強硬手段を行使し、7月2日イギリスは薩摩の汽船3隻の拿捕を手始めとし、薩英の間で砲戦が開始されました。
 暴風雨の中、英国艦隊と薩摩の陸上砲台の間で激しい砲戦が展開されました。鹿児島城下北部が焼かれ、薩摩藩の諸砲台が壊滅的損害を受けました。
ユーリアス号(ユーリアラス号)のジョスリング艦長とウィルモット中佐が第7砲台から発射された球形弾にあたって戦死、その他水兵7名が戦死60余人が負傷する損害を出しました、砲弾はロシア製の爆裂弾と言われています。
備砲の射程はイギリス軍艦の方が上回っていたのですが、薩摩藩は二週間ばかり前に射撃演習したばかりの標的近くに敵旗艦が進入してきたために、正確にねらい撃ちできたようです。
イギリス艦隊は翌3日桜島を砲撃しながら撤収、損傷艦を応急修理し、4日に鹿児島湾を去り9日に横浜に帰港しました。
9月28日から、横浜のイギリス公使館でニールと講和談判がおこなわれ、薩摩藩側は岩下佐次右衛門、重野厚保之丞(後に安繹/やすつぐ)、その外に黒幕みたいなような役目を帯びて来たのが大久保一蔵(後に利通)でした。薩摩側ではは2万5000ポンド(六万二千五百両)を幕府から借用して支払うことで、10月5日和議が成立しました。 
 
旗艦 ユーリアラス号(ユーリアス号) 砲35門、
 パール号 
 パーシェス号
外輪単檣帆船型艦 アーガス号 砲6門
 コケット号(コンケット号)、砲14門、
 レースホース号
砲艦 ハヴォック号
アーネストサトウの書いた本は以上の七艦をこの遠征に参加したものとしてありました。
以下は日本に来たことのある船舶ですが、ここから7隻出たいうことですが、正確な艦艇名は資料によって違いがありました。
コルヴェット艦ターター号、砲21門、
二層甲板に砲を備えたコンカラー号、砲48門、
同         バロッサ号、砲21門、
外輪単檣帆船型艦レパード号、砲18門、
砲艦バウンサー号、砲2門。
 センタウル号 ケストレル号 ラットラー号 エンカウンター号 リングドーブ号 コモラント号 



T.clusiana varーchrysanthaで〜〜す。
635の補足で〜〜す、名前表記などは農林水産省のページによりました。

ヨーロッパにチューリップを紹介したのは、神聖ローマ帝国の大使で植物学者のブスベック(Busbecq)で、彼がチューリップの名付け親であるといわれてます。
彼が、トルコ人に「この花はなにか。」と聞いたところ、トルコ人が花の形が頭に巻いている「ターバン(Tulipant)」に似ていると答えたのを花の名前と勘違いしたのがチューリップの名前の由来だそうです。
ブスベックは、チューリップの球根や種子をウィーンの植物学者クルシウス(Clusius)に送り、クルシウスは、オランダのライデン大学教授になってからオランダにおけるチューリップ栽培の普及に努めました。
オランダのチューリップ産業は、クルシウスの業績によるところが大きいといわれています。
彼の名前はクルシアナというチューリップのVersionに残っています。
チューリップは、現在も中央アジア、北アフリカに150種自生していて、園芸用に栽培されているのは、約20の原種、2000品種もあります。
チューリップ狂時代には8000品種もあったといわれています、チューリップ狂時代の8000品種のチューリップに逢えた可能性の有る幕末のコタさんは見ること出来るのだろうかな〜〜。


文久3年8月17日―1863年9月29日

元町 ― 酒種パン


文久3年8月17日―1863年9月29日
元町 ― 酒種パン
本文にない酒種を使うパンは木村屋が有名ですが、あまり知られていないどころか木村屋のホームページにさえ出ていないのが当麻五左衛門です。
長崎でドイツ式のパンを作っていたこの人と阿蘭陀人のコックをしていた梅吉の二人から木村安兵衛はパン作りを学びました。
明治2年東京芝日陰町に文英堂を開いて直に火事に逢いますが、銀座尾張町に店を再開して武島勝蔵という職人を横浜から呼び寄せてから何年も工夫した結果、明治8年に山岡鉄舟の尽力で明治天皇にアンパンを献上した事で有名になりました。
なお息子の英三郎さんが開発したのがジャムパンといわれています。


ハンナの給料・・・9ドルはこの当時1ドルが3分のレートですから6両三分。
現代に直すと50万円くらいでしょうか、すごい高給のようですが当時のサンフランシスコの小学校教師の給与が20ドル〜80ドルという資料が残っています。
貸家の家賃・・・4ドル⇒参両は江戸の表長屋が一両しない頃ですから田舎の横浜では高いものですが、まだ居留地に指定される前の山手ですので異人さんたちが山手に家を持つことは出来ませんでした。
それで貸家という手段で外出して外泊という手順が必要でした。
トイレ、風呂場の下水・・・寅吉は最初裏の畑地に流下式で浸透させることを考えましたが、病院と駐屯地の下水が完備されるというのでそれを利用しました。


文久3年9月25日―1863年11月6日 

 元町―クララ・ヘップバーン


文久3年9月25日―1863年11月6日 
元町―クララ・ヘップバーン
クララ・メアリー・リート (Clara Mary Leete,1818年生〜1906年没)
最近はヘボンではなくヘプバーンと表記するものも有るようです。
明治学院の源流であるヘボン塾は「ミセス・ヘボンの学校」ともいうべき性格をもっていました。
文久2年1862年横浜居留地39番の土地を借用し、ヘボンは新築の家に移動して施療所の準備をしました。
1863(文久3)年3月末、クララ夫人がアメリカでの一時帰国から戻ってきて、彼女が先生となってその年9月頃から英語教育を中心に始まったのがヘボン塾の始まりです。 
初期の塾生には、英国大使・外務大臣・逓信大臣となる林董(ただす)、東京横浜毎日新聞社社長となる沼間守一、三井物産の創始者となる益田孝、日本銀行総裁・大蔵大臣・総理大臣となる高橋是清、日本銀行出納局長となる鈴木知雄、日本における百貨店創始者となる佐藤百太郎、日本で最初の医学博士となる三宅秀(ひいず)などがいました。
(文久2年10月幕府は横浜在留官吏の子弟のため運上所前の官舎に英学校(英学所)を設け、アメリカ人ブラウン、神奈川奉行手付翻訳方石橋助十郎・太田源三郎を教師に任命しました。英語のみならず数学、地理学、博物学を教授したが、そこからは安藤太郎、大鳥圭介、矢田部良吉、星亨らが出ています。慶応2年2月神奈川奉行の官舎に移転し、同年10月20日大火に類焼しいつたん廃校され、まもなく再興したが、明治元年廃校となりました。幕府はほかに慶応2年修文館を設け漢学を教授しました。慶応2年ごろベーリー(Bally)、バラ(Ballah)トムソン(Thomson)、ヘボン(Hepburn)が教師をしています)
クララ・ヘップバーン
1840年にヘボン氏と結婚して、直ちに米国長老教会のシャムへの宣教師派遣計画に応募、翌41年3月ボストン港を出帆しました。
夫妻は1841年7月シンガポールに到着、夫妻は航海中に夫人クララの流産という悲しみを経験しています。
シンガポールで宣教地を当初のシャムから中国のアモイに変更、アヘン戦争のため直ちに渡航できず、アモイ到着は2年後の43年11月まで待たねばなりませんでした。この間ヘボン夫妻は一児を生後わずか数時間で失うという不幸にも遭遇しています。
風光明媚な反面、アモイは水が悪く、マラリアが猛威を振るっていました。
クララはこの地で男子を出産し、サムエル・デビットと命名しました。夫妻の子供で成人したのはこのサムエルだけでした。
クララは産後の肥立ちも悪く、加えて夫妻ともにマラリアに罹り、伝道を断念せざるをえませんでした、家族3人は45年11月30日マカオを出発、翌46年3月15日ニューヨーク港に到着しました。
当時のニューヨークは衛生状態は最悪でした、ヘボンはコレラに罹った患者に対する適切な治療により医師としての評判を得て、卒業したペンシルバニア大学伝統の眼科にも精通していて、病院は繁盛しました。
繁忙のため帰国後に生まれた子供三人(2歳、3歳、5歳)を病気(猩紅熱と赤痢)で相次いで失うという悲運に見舞われています。 
米国長老教会海外伝道局の承認に拠って、賑わった病院を閉じ夫妻は唯一の息子サムエル(14歳)を知人に託し、4月24日ニューヨーク港を出帆、喜望峰を経由して、香港に寄港した後8月29日上海に到着、10月1日上海を出港、安政6年1859年10月17夜半神奈川沖に到着しました。
大鳥圭介
大鳥圭介は伝習隊で有名で、函館戦争後に政府に出仕しました。
播州赤穂細念村小字石戸(現在の赤穂郡上郡町岩木丙石戸)に生まれました。
祖父の順平、父の直輔と代々医者でした。
戸籍では、天保4年2月25日とあり、後に同年2月28日と変えました。

嘉永4年1852年20歳のとき、緒方洪庵の敵塾に入塾。
蘭学、西洋医学を学び、大村益次郎、高松凌雲らと知り合いますが、福沢諭吉とは入れ違いでした。
詳しい経歴は割愛しますが、横浜で英語、数学の勉強は文献によっては翌年の元治元年としているものもあります、Hepburn塾ではなく英学所での勉強と歴史は教えています。
この当時はもう印刷用の活字や翻訳など一流の洋学者として有名でした、Hepburn博士や、S.R.ブラウン(ブラオン・文久3年コロキュアル・ジャパニーズ日英会話編Colloquial Japaneseの発行で有名)から発音の正確さなどの手直しを受けています。
慶応4年幕府瓦解当時は歩兵奉行でした。
クララの明治日記にも、大鳥家についての記述が随所にありましたね。

横浜における主な教派別の明治時代初期の学校創立

フェリス女学院 

フェリス女学院中学校・高等学校は、アメリカ改革派教会が日本に派遣した最初の婦人宣教師メアリー・エディー・キダーによって、1870(明治3年)年に設立されました。

1869年(明治2年) メアリー・エディー・キダー来日。

1870年(明治3年) 9月21日 メアリー・エディー・キダー、居留地39番のヘボン施療所で女子教育を開始(フェリス女学院の創立)。

一時期、神奈川県令大江卓の援助を受けて、校舎を横浜・野毛山に移しました。

1875年 (明治8年)6月1日 現在地(山手町178番地)に校舎落成。

校名をアイザック・フェリス・セミナリー(日本名:フェリス和英女学校)とする。

最初の生徒数は14名でした。

アイザック・フェリスとは、本校の創設と維持に終始援助を惜しまなかったアメリカ改革派教会外国伝道局総主事の名です。

1881年 (明治14年) E.S.ブース、校長に就任。

明治学院
英語を学ぶヘボン塾と、キリスト教神学を学ぶブラウン塾の2つの流れがありました。米国長老派教会の医療伝道宣教師ヘボンの流れと、米国オランダ改革派教会のブラウンの流れです。
両派は、日本にキリスト教を根付かせたいとの思いで、教派を越えて協力し、1877年(明治10年)年 9月アメリカ長老教会、アメリカ・オランダ改革教会及びスコットランド一致長老教会の3教会合同による東京一致神学校が築地居留地に設立された。
1880年(明治13年) 4月ヘボン塾が築地居留地に移転して築地大学校と改称し、J.C.バラが校長となった。
1886(明治19)年 6月 東京一致神学校、東京一致英和学校及び英和予備校を合併して、名称を「明治学院」となりました。
1887(明治20)年 1月 東京府から私立明治学院の設置が認可され、現在の白金の地にキャンパスが開かれた、初代総理にヘボン、理事長にフルベッキが就任しました。

捜真女学校 

1886年(明治19年) 横浜山手67番に米国バプテスト派宣教師ブラウン夫人に

よって創立、名称は英和女学校

1890年(明治23年) クララ・A・カンヴァース 第2代校長に就任

1891年(明治24年) 山手34番に移転

1892年(明治25年) 捜真女学校と改称

横浜雙葉学園

1872年(明治4年)6月 マザー・マチルド他4名の「幼きイエス会」修道女、横浜に上陸。初めての来日修道女となる。山手58番地に外国人子女教育および貧困孤児養育事業を開始(仁慈堂)

1900年 一般の子女を対象とした横浜紅蘭女学校開校

1958年 校名を横浜雙葉中学校・高等学校に変更。生徒会発足。

横浜共立学園

1871年(明治4年)年米国婦人一致外国伝道協会から日本に派遣された3人の婦人宣教師,プライン,クロスビー,ピアソンによって山手48番地に設立された亜米利加婦人教授所(アメリカン・ミッション・ホーム)に起源をもつ,日本で最も古いプロテスタントキリスト教による女子教育機関のひとつです。

学園の英語名 DOREMUS SCHOOL(ドリーマススクール)は、創立者である3人の婦人宣教師を派遣した、米国婦人一致外国伝道協会
(The Woman's Union Missionary Society of America for Heathen Lands)

の初代会長、S.P.Doremusの名にちなんでつけられました。

1872年現在地山手212番地に移転し日本婦女英学校となりました。

1875年共立女学校となり、戦後、横浜共立学園中学校・高等学校となり現在に至っています。

横浜英和学院 

1880年(明治13年)アメリカのメソジストプロテスタントの教会から派遣されたH.G.ブリテン先生によって、横浜山手に4名の生徒からなる小さな学校を始めました。

1886年(明治19年)には、横浜英和女学校と改めました。

1916年(大正5年)人数が多くなり山手の西洋建築では生徒を受け入れられなくなったので、丘一つ向こうの「蒔田の丘」に移転しました。

1939年(昭和14年)戦時中の諸事情によりやむを得ず成美学園と改名しました。
卒業生の強い要望もあって1996年(平成8年)年横浜英和学院になり現在に至っています。

文久3年10月10日―1863年11月21日 

 元町―フランス山


文久3年10月10日―1863年11月21日
元町―フランス山

文久三年(一八六三)五月九日老中は暫く横浜、長崎、箱館の三港を閉鎖して居留外国人の退去を要求するとした。そして九月十四日各国外交代表に提案したが断られてしまった。そのため十月一日には撤回して更(あらた)めて横浜一港のみを閉鎖して貿易は長崎と箱館で行うとして条約締盟各国へ使節を派遣することになった。
 文久三年(一八六三)十二月二十九日、幕府使節池田長発(ながおき)、河津祐邦(すけくに)など三〇名は神奈川沖よりフランス国軍艦ル・モンジュ号に乗りフランスへ向かった。そして現地で交渉に当たったが悉く失敗に終わり、使節一行は帰国してから閉門の身となってしまいました。

1863年6月(文久3年5月)フランス軍は、駐屯が決まるや否や、海軍(海軍陸戦隊・海軍歩兵隊)が上海とサイゴン(現・ホーチミン)から、陸軍(アフリカ軽歩兵第三大隊分遣隊)が上海から来浜し、幕府から海軍物置所として貸与されていた山手居留地185番に駐屯を開始しました、7月から8月にかけて駐屯軍兵舎が186番に3棟建設されました.フランス山と呼ばれるようになったのはこれからです。
フランス山は現在の公園のイメージからは想像もつかない軍事基地として出発しました。

一方、イギリス軍翌1864年1月(文久3年12月)に、香港から第二〇連隊第二大隊分遣隊が来浜し、山手居留地115番(現・港の見える丘公園)116番(現・岩崎博物館から横浜山手聖公会教会にかけての一帯)に陣営を張りました、この地域は第二〇連隊の英語音(トゥエンティー)にちなんで、「トワンテ山」と呼ばれた。
その後、英仏駐屯軍は部隊の交替を繰り返し、1875年(明治8年)3月に同時撤退するまでの約12年間、フランス山とトワンテ山に兵舎などを建設し、陣営を構えました。その間のおもな軍事行動に、両海軍部隊が加わった1864年(元治元年)の英・米・仏・蘭の4カ国連合艦隊による下関遠征と、明治維新の混乱時におこなった横浜市中警備があります。
下関遠征の頃、英仏駐屯兵数はピークをむかえ、3,000人以上がいたという記録がのこっていますが、対して当時の居留欧米人総数はわずか300人ほどに過ぎませんでした。

フランス山―2
1875年3月、英仏軍の同時撤退によってフランス山から軍隊がいなくなり、兵舎が不要になった海兵隊当局は、同年9月頃、所有するフランス山の永代借地権を駐日外交代表部に譲渡した。
横浜領事館は領事館として使用していた建物を明治政府に返還しており、借家での仮住まいを余儀なくされていた。
領事はさっそく本省へフランス山に自前の領事館建設を提案、設計案作成がフランス人建築家、レスカスに委託され、1876年3月には設計図が提出されたが、けっきょく予算のめどが立たず、実現しなかった。 
1894年(明治27年)にフランス人建築家のサルダによる設計・施工で領事館・領事公邸新築工事が開始され、2年後の1896年(明治29年)3月、フランス山下方(山手居留地185番)に領事館が、12月、上方(同186番)に領事公邸が完成した。
領事官邸には、風車の付いた井戸が掘られました。
1923年(大正12年)、関東大震災により、領事館・領事官邸ともに倒壊します.震災後領事館は仮設の建物を使用していましたが、官邸は、1930年(昭和5年)、ヒンデルの設計で山手186番に再建されましたが1947年(昭和22年)には火災で焼失してしまいました、今は遺構のみが残るだけです。


造船所
横浜開港当時、蒸気船はすでに実用の段階に入っていたが、商船の大半はなおも木造帆船が主力でありました。
造船の中心は木工作業であった。外洋船にはたいてい船大工が乗り組んでいて、小修繕を行っていた。
初期の外国人居留地では、船大工が木工技術を生かして家屋の建築にも従事しました。
1859年(安政六年)12月に、元船員のオランダ人フライと、ヘンリー・エリス号乗り組みの船大工だったイギリス人ヘンリー・クックが共同経営の契約を結び、翌年の2月頃、造船所を開設しました。
日本人はフライのことを「オランダ船大工」、クックのことを「英国人船大工」と呼んでいたそうです。
ボートやヨットの建造はクックが担当し、フライは家屋の建築を受け持っていた。
「オランダ九番フライ商館」がフライの仕事場、下の「オランダ舟大工師」がクックの仕事場だそうです、このためクックまでがオランダ人と間違えられることも有ったようです。
絵図には引き揚げドックで堀川に通じていた様子が描かれています、間は塀で仕切られており、共同経営といっても緩やかなものでしたが。両者で合わせて30〜35人の日本人職工を雇い、フライのもとには大工頭幸兵衛が統率していました、施工が期日に間に合わないほどの注文があったといわれています。
フライとクックはやがて不和を生じて共同経営を解消し、フライは船や家屋のみならず、馬車や家具・柩の製作から葬祭業まで手広く営業しました。
横浜で最初に霊柩馬車を走らせたのもフライでしたといわれています。
1868年(明治元年)4月には開港直後の神戸に移住し、神戸でもこの分野の草分けとなります。
1870年(明治三年)5月14日号の神戸『ヒョーゴ・ニュース』の記事では、かつては多くの製品を世に送り出したフライの造船所だが、社主の病気のため開店休業状態にあると報ぜられています。
そして、同紙の1872年(明治五年)2月3日号は、前日の夕方に起きた悲劇を報じている。事業の前途に絶望したフライが、不幸にもピストル自殺を遂げたのである。遺体は神戸市立外国人墓地に葬られている。
クックのほうは、半世紀に及ぶ波乱の人生を横浜で送り、1906年(明治三九年)に死去、夫人や娘とともに山手の外国人墓地に永眠していいます。

文久3年10月28日―1863年12月9日

 元町 − パーティ


文久3年10月28日―1863年12月9日 
元町 − パーティ



ジョセフ彦が編集、元治元年(1864)から慶応2年(1866)10月にわたり手書き時代から木版印刷に移り発行された全26号の海外新聞は、二つ折りの半紙4・5枚をこよりで仮つづりしたもので、貿易の状況と相場といった各国の二ユース・アメリカ史略といった読み物、在日外人の広告などが載っていました。
発行部数100部と言われています。
岸田吟香と、本間清雄が協力して、子供でも読める易しい表現を心がけています。
海外新聞は慶応2年(1866年)12月に彦が長崎に移るまで出されました。
彦はアメリカ国籍を取得した替わりに居留地の外に住居を定める事が出来ませんでした。
86歳で亡くなり、東京田端の大竜寺に葬られていたが、昭和31年(1968年)5月に青山外人墓地のヒコの墓(浄世夫彦之墓)に改装されました。

ハード商会の代理人としてジョセフ彦とヴァンリードが働いていましたが、1860年に6番(海岸通り1.064坪)と27番(水町通り・554坪)に商社が開かれます1863年から66年にはヴァンリードが中心となってハード商会を経営し、薩摩藩や越前藩に船などの売り込みを行いました。
岸田吟香一八三二〜一九〇五、元治元年ヘボン博士から眼病治療を受けに横浜に来る。
同年6月彦の横浜新報を協力の傍らヘボン博士の和英語林集成を手伝う。
横浜居留地九三番で米人ヴァン・リードが主宰する新聞「横浜新報もしほ草」の創刊から編集に従事する。 
ウィリアム・カーチス
日本に初めてハム作りを伝えたといわれる、英国人ウィリアム・カーチスは、文久3年(1863年)22才で横浜に上陸しました。
英国船のコックをしていたといわれています、翌年には横浜山手に大規模な農園を作り、居留地に住む外国人向けに、キャベツ、カリフラワー、トマトなどの西洋野菜の栽培に成功しました。
明治7年(1874年)、鎌倉郡川上村柏尾に自ら開いた観光ホテルの裏に牧場を作り、ハム、ベーコン、牛乳、バターの製造を始めました。
日本における鎌倉ハムの歴史がここに幕を開けました。

文久3年(1863年)英国人ミセス・ピアソンが横浜居留地97番にドレス・メーカーを開店したのが横浜の洋裁業の始まりです。
その頃から在留西洋婦人は自家裁縫のため日本人足袋職人、和服仕立職人を人仕事として雇いいれ、ここより多くの婦人洋服仕立職人が育ちました。

文久3年10月29日―1863年12月10日 

 
元町 ― 山手

文久3年10月29日―1863年12月10日 
元町 ― 山手

安政6年(1859年)、開国直後の横浜に、イギリスの初代総領事として着任したオルコックは、すでに近郊でニンジン、芽キャベツ、パセリ、ハナキャベツ、トマトなど西洋野菜が栽培されていたことを記録している(『大君の都』)。
山手公園
1969年(明治2年)に公園開設資金に403dollarが必要と決まり居留民の大会でもめましたが、道路も大事だが人が集まって楽しめるスポーツも、いろんな集いもできる公園のほうを優先すべきとW・H・スミスという人が意見を纏めました。
スミスは、居留民の中では、尊敬されていていました。
「公共精神旺盛なスミス(パブリック・スピリテッド・スミス)」とか、「世話好きのスミス」とか言われていました。
スミスが頑張って、公園を造成する費用に、一人20ドルの寄付を集めることになり、
山手公園は1870年に開園して、フラワーショーやドッグショーをやったり、アーチェリーのコースも作られました。
注 明治3年5月6日(1870年6月4日) ファー・イーストとジャパン・ウィクリー・メールの新聞記事による。
幻灯会や花見の会、ダンスパーティもやって人を集める工夫が窺えます。
スミスが横浜に来たのは、1862年でした、生麦事件のあと、居留民の警備のために、中国にいた近衛兵隊を横浜に連れて来ましたが、その中尉として来日したそうです。
2年ほどで除隊して、居留地でいろんな仕事をします。
園芸に関心があって、西洋野菜を栽培したり、何事にも非常に熱心な人だったといわれています。     
資金が不足して、403dollarの年間地代が払えなくなり、ここでもスミスが頑張って、維持のためのいろんな催しを企画しますが、100dollarぐらいずつ赤字になってしまいました。
神奈川県知事から地代を払えと来ても払えなくなり、翌1871年から76年までは、滞納しています。
神奈川県知事は払ってもらうために督促を続けました。
この間明治4年(1871年)8月には27歳という若さで神奈川県知事に、陸奥宗光がなっています。 
アーネスト・サトウが間に入って交渉が続き、山手公園の管理委員会は解散しますが、1876年イギリスからテニスが伝わり、居留民の中に夢中になる人が増えてきました。
このスポーツなら金が取れると考え知恵を絞って、できたばかりのレディーズ・ローンテニス・アンド・クロッケー・クラブ(婦女弄鞠[ろうきゅう]社)に又貸しをするという形で解決しました。
1878年このとき403dollarを150dollarに減免させることに成功し、婦女弄鞠社が管理を引き受けることになりました。
Sir Ernest Satow
天保十四年(一八四三年)スウェーデン人貿易商ハンス・ダビッド・クリストファーの四男としてロンドンに生まれる (デヴォンシャーのオタリー・セント・メアリーにある彼の墓には「H.D.C.サトウの3男として・・」と書かれているそうです)。 
1862年生麦事件のすぐ後、弱冠19歳の通訳見習いとして憧れの日本に赴任、1868年からは書記官となり1882年まで滞在しました。
1870年、日本人と家庭を持ち(正式な結婚ではありませんでした)、二男一女に恵まれています。
夫人である武田兼(かね)との間には二男一女をもうけましたが、娘は幼少の頃に亡くなり、二人の息子はそれぞれ栄太郎、久吉(きゅうきち・ひさきち)と名付けられました。
栄太郎は1926年に結核症で亡くなってしまいました。次男の久吉(1883年・明治16年生まれ)はロンドン大学やキュー・ガーデンズで学び、日本を代表する植物学者として、また高山植物に関するすぐれた業績を残しました。 
明治38年、小島鳥水らと日本山岳会を設立し、植物研究を主な目的として大小の山を訪れる傍ら、日本山岳会の創刊号にて尾瀬をはじめて発表。尾瀬の模様を紀行文として掲載、一躍尾瀬は山岳会に知られることになった。大正11年頃の尾瀬貯水化計画、昭和23年の尾瀬ヶ原巨大ダム計画に反対の声を上げ、調査報告書を提出するほど、尾瀬の自然を生涯愛し続けた理学博士。 
サトウはその後、シャム、ウルグアイ、モロッコと勤務し、1895年に英国公使として再来日をはたし、1900年まで滞在しました。
1900年からは、駐清公使として中国に赴任し、1906年勲一等旭日章を授与されています。
彼の外交官生活は45年続きました、25年に及ぶ日本滞在中、激動の日本を見聞し、又日本学(Japanology)への造詣を深めました。

文久3年10月30日―1863年12月11日 
 
元町 − ヤンチー

文久3年10月30日―1863年12月11日 
元町 − ヤンチー
ジョージ・エリオット(George Eliot、1819年11月22日―1880年12月22日)は、イギリスの女流作家。
ウォリックシア出身で本名はメアリー・アン・エバンス(Mary Ann Evans)。
『帳の彼方』(1859) 『フロス河畔の水車場』(1860)  
『サイラス・マーナー』(1861)  『ロモラ』(1862)  
『フィーリックス・ホールト』(1866) 『ミドルマーチ』(1871)
親友に裏切られて婚約者を奪われ、神も人も信じられなくなり、故郷を捨てて遠く離れた村ラヴィロウに移り住んだ織工の青年、サイラス・マーナー。世捨て人のようになって機を織りつづける彼が慰めを見出したものは、金だった。だが苦労してためた金さえ盗まれ、彼は全てに絶望する。だがある日、失意の日々を送る彼の元に、幼い女の子が迷い込んでくる……。1861年発行。 
御用炭
愛川町、半原あたりで盛んで、戦国時代から、煤ケ谷の炭ということで、「すすがき炭」
伝馬役(でんまやく)などを免除され、年貢も通常より少し低めだった。地域の特徴を生かした物資の搬出や利用が古くから行われていました。
Yantzu   
幕府は11月12日イギリス蒸気船ヤンツー号(楊子ヤンチーYantzu)購入を建議した軍艦奉行並勝義邦を神奈川に派遣し、これを買入れさせた、御座船として有名な翔鶴丸です。
350馬力350トン木造外輪、長さ33間(約60m)幅4間(約7.3m)
1863年11月26日145,000ドルにて買い入れ、1857年アメリカ、ニューヨークで作られたものです。
クラブハウス
よく出てくる間違いですが、文久3年にホテル開業は間違い、同年居留地五番に開設というのも間違いです。
5番に開設されたのは、明治2年です、デント商会の跡地です、明治元年の横浜居留地覚書第9条というものによって、海岸通5番に設立された横浜ユナイテッド・クラブのなかに作られました。
ホテルとしての機能が十分ありました。

1864年(元冶元年)1月29日横浜東波止場(フランス波止場)開設。
当時はフランス商館が波止場の前にありその名で呼ばれました。

Belle Vue Hotel 長崎南山手11番地現全日空ホテル付近、グラバー邸のある丘の下になるところです。

文久3年11月24日―1863年1月3日 
元町 − カリフラワー

文久3年11月24日―1864年1月3日 
元町 − カリフラワー
文久3年イギリス人カーチスの手で山手方面の沃地にはじめて西洋蔬菜(甘藍・花椰菜・馬鈴薯・西洋胡蘿葡・玉葱・石力柏・蕃茄・二十日大根・和蘭苺)が栽培されました。 
キャベツ・カリフラワー・ジャガイモ・西洋ニンジン・タマネギ・??・トマト・ラディッシュ・オランダイチゴでした。
オランダイチゴはただのストロベリーです、オランダ人が作った品種なのでオランダイチゴといわれていただけですね。
ブロッコリーは木立花椰菜です、石力柏はどうしてもわかりませんがアスパラガスかとも思いましたがどうなんだろう。


紀元前540年頃、野生キャベツの頂部についた開花前の蕾を食用にしたという記録が残っていると資料にありました。
ブロッコリー・カリフラワーの先祖と考えると、そのルーツはかなり古くまで遡ります。現在の形のカリフラワーは、16世紀中頃、南ヨーロッパ、特に、イタリア、フランスで発達したものです。
17〜19世紀にかけて、北ヨーロッパにも広まり、やがてヨーロッパ全域へと普及して行きました。
各国で品種改良がされて現在のものと同種のものが作られるようになりました。
北欧で幼植物や花蕾が低温に弱いため、短い夏の間だけ栽培されたものを、園芸家は「サマーカリフラワー」と呼び、晩生で寒さに強く越冬して、春になってから蕾が出来る物を「ウィンターカリフラワー」とか「ブロッコリー」と呼びました。
ヨーロッパ諸国から、ブロッコリー・カリフラワーがアメリカやアジアに伝えられたのは、19世紀に入ってからです。インドやインドシナ半島、中国南部など東南アジアへ伝播したカリフラワー・ブロッコリーは、インドではカリフラワーの品種分化が、東南アジアではカイラン(芥藍)の品種分化が成立しました。

文久3年12月27日―1863年2月4日

元町 ― 連合艦隊



文久3年12月27日―1863年2月4日
元町 ― 連合艦隊
本文にもありますがもう少し詳しく乗せておきます。


翔鶴丸(蒸気) 将軍家茂公の座乗船 艦長 肥田浜五郎。
幕府艦隊  司令長官勝麟太郎
(ヤンチー楊子・350馬力350トン・1864年11月145,000ドル)
朝陽丸(蒸気) 艦長 伴鉄太郎。 咸臨丸の姉妹艦
(エド・100馬力・1858年100.000ドル)
蟠竜丸(蒸気) 頭取 浜口 卓右衛門
(エンピロル・60馬力・1858年7月・ビクトリア女王よりの贈呈) 
第一長崎丸(蒸気) 長崎奉行 定役 鈴木 卓太郎
(ビクトリアVictoria・60馬力94トン・1863年2月66,000ドル
各藩艦隊
黒竜丸(蒸気) 越前
(コムシング金星・100馬力・1863年)(注幕府が1864年に125.000ドルにて買い上げ)
安行丸(蒸気) 薩摩 船将大山彦介
(サーラ・45馬力160トン・1863年75.000ドル)(1865年11月長崎で売却・1866年6月大洲藩が四万二千五百両にて買い受ける)
観光丸(蒸気) 佐賀 幕府貸与、日本最初の蒸気船
(スームビングSoembingスンビン・150馬力・オランダ国王ウィレム三世より贈呈)
             番頭並 浜野 源六  
錫懐丸(蒸気) 加賀 発機丸(発起丸)と改名
(注資料に拠って発機丸が最初として有りました)。  軍艦奉行 岡田 雄次郎
(  ・250トン・1862年購入)
大鵬丸(蒸気) 筑前   松本 主殿 
第一八雲丸(蒸気)  松江 奉行 杉原 杢 
帆船
千秋丸(バルク)    荒井 藤太郎 
(デニールエブストル・263トン・1861年7月16,000ドル)
広運丸(バルク)盛岡

文久3年12月29日―1864年2月6日
元町 − ホテル

文久3年12月29日―1864年2月6日
元町 − ホテル
文久4年(1864年
ロイヤル・ブリティッシュ・ホテルがW・カーチスの経営となり「コマーシャル・ホテル」居留地八六番と改称します。 
(カーティスは、1868年、その経営をトンプソンに譲りました。明治27年に開業したロイヤルホテル Royal Hotel との関連は不明です。)
カーチスは翌年の慶応元年(1865年)には居留地18番に「ウィンザー・ハウス」というホテルを開業し、明治元年(1868年)には「インターナショナル・ホテル」と改名します。
(澤護氏の横浜外国人居留地ホテル史によるとウィンザーハウスはこの時期には存在せずインターナショナルホテルが1868年に新築開業したとかかれています。ウィンザーハウスは1881年開業だそうです。)
ホテルからは港の眺めが良く、明治2年(1869年)には広重が描く浮世絵にも登場しています。
明治2年には横浜居留地37番に長崎から移転してきたグリーン夫人が、名高かった「ヨコハマ・ホテル」の名で開業します。が、数年で廃業しています。
 そして彼女は、ベアトと共に明治3年(1870年)、居留地20番に「グランド・ホテル」を開業しましたが、これも不振になりました。
そこで明治6年(1873年)に複数の外国人資本により大改装をして再開します。
設計は「築地ホテル」や新橋駅、横浜駅の設計で知られるブリッジェンスやサルダが担当したと言われ、当時としては大規模なものでした。
旅行家のバート女史やフランスの実業家ギメなど多くの著名人も訪れ、このホテルのすばらしさを書き残しています。
開店広告は、大衆化をうたっていました外人専用でなく日本人にも泊まってもらうための工夫もしています。
明治22年(1889年)には香港籍のグランドホテル株式会社となり、増資して新館を造り客室数は100にも達します。
居留地18番19番のウインザーハウス(インターナショナル・ホテル)の跡地に新館を増設し、さらに水町通に面した裏手にも、増築を図り客室360を数える大ホテルとなっていったのです 
同年に開業した東京の「帝国ホテル」に対抗する意識がうかがえます。
日本を代表するモダンなホテルとして1、2を競うホテルとなりましたが、大正12年(1923)の関東大震災で焼失してしまいました。
横浜の復興と繁栄に日本を代表するホテルが必要と、震災の復興事業として中区山下町10番地にホテルを建設することになり、大正15年(1926年)に着工し昭和2年(1927年)に、民間の「ホテル・ニューグランド」が開業します。
ロココ調の重厚な5階建てで、料理も従業員のマナーも最高と言われました。
日本のホテル料理には、帝国ホテル系とホテル・ニューグランド系の2つの系統があるとも言われるくらいです。

肉料理とカレー
幕府は1865(慶応元)年に横浜居留地の食肉業者のために公設屠牛場を設けました。
日本人が牛、豚の肉を調理しだしたのは、1892年(文久2年)頃に居留地の外国人を真似て牛肉を食べさせる店屋が横浜に出来てからといわれています、其れまでは味噌漬けにした肉を焼くくらいでした、クスリ喰いと言って滋養のために食べるくらいです。
はじめは牛肉を串に刺し焼いて食べるだけでしたがフライパンで焼いて醤油で味をつけて食べることもすぐに覚えました。
横浜カレー博物館より 
インドでは「カレー」 という名の料理はなく、必要なスパイスを組み合わせて使います。インド料理の中の「スパイシィでとろりとした煮汁のある料理」を西洋料理ではカレーと呼ぶと、インド料理の本では定義付けているようです。
カレーという言葉の由来は、タミール語説、ヒンズー語説等、諸説があります。 
タミール語で「ご飯にかけるタレ状のもの」を意味する「カリ」という説。
インド人やスリランカ人の人々が常食にする「スパイシィなかけご飯」の総称である「カリ」という説。
ヒンズー語の神に供える「野菜ご飯」=「カリ・アムドウ」という言葉の「ご飯にのせる具」を意味する「カリ」という説。
ヒンズー語で「香り良いもの」・「おいしいもの」を意味する「ターカリー」に由来するという説。
お釈迦様が不老不死の薬としてスパイスを市民に与えた時に、民衆が「おいしい」という意味で叫んだ「クーリー」に由来する説。
インド北都の古い料理名「カディ」に由来する説。
1595年「東方案内記」 リンスホーテン(オランダ)
インド人が「カリール」と呼ばれるスープ状のものをご飯にかけて常食してるという記載。
1681年「セイロン史」 ノックス(イギリス)
スパイスをたっぷり含んだ“汁っぽい料理”を「カリーズ」として記載
とマアいろんな説を載せていて好きにしてくれというしかありませんね。
ローティ・チャパティ・ナンなどはインド風の薄焼きパンです。
ローティ 
精白したインディカ米を使ってフライパンで焼く薄焼き卵のようなパンです。
加える豆の種類(緑豆、ブラック・グラム等)や分量で、いろいろな種類があります。
インド亜大陸では、小麦粉を使ったローティやチャパティ(無発酵パン)が米粉のローティより先行していましたが、原料の安さや製法の簡便さ、日持ちの良さなどから、支持されています。
小麦アレルギー症患者用パンとしても知られています。
チャパティ
チャパティは東南アジアやアフリカ諸国で食べられている、小麦粉などを薄く延ばして焼いたものです。
ナン・ナーン
インドのナーンは、精白した小麦粉(通称マイダmaida)に砂糖、塩、卵、牛乳、水、ヨーグルト、オイルなどを加え、よく練ったものを生地にします。
現在では、生地を配合する際、焼き上げ時に適度にふくらませるための膨張剤としてベーキングパウダーと重曹を使います。
西洋のパンのようにイーストや天然酵母を使うことはふつうしません。
インドのカレーと、現在私たちが食べているカレーはかなり違ったものです。
インドは19世紀前後にはイギリスの植民地でした。
当時インドの食文化であるカレーをイギリスに持ち帰り、欧風シチューのようにアレンジし物がいまの日本のカレーの元になったものです。
明治から大正にかけて日本のカレーを席捲していたのは、イギリスのクロス&ブラックウェル社のカレー粉でした。
(通称C&Bカレー粉、現在はネッスル社の傘下に入っています)。 
大正年間にはカレー粉が日本でも製造発売されています、コタロウ君も現代のカレーに近いものを食べていたかもしれませんね。
余談ですがカレーうどんは明治の末年には食べられていました。
 
 第五部完  第一巻完



幕末風雲録・酔芙蓉
  
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 第十部-1 弁天 7    第二巻完      

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