幻想明治 | ||
其の八 | 明治19年 − 壱 | 阿井一矢 |
野毛山不動尊 |
根岸寅吉 (根岸虎太郎) 1911年 明治44年4月18日生まれ(天保14年1843年) 横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。 根岸 容 弘化5年1月5日(1848年2月9日)生まれ 江戸深川冬木町に生まれる。 根岸明子 明治元年12月10日生まれ(1869年1月22日) 久良岐郡野毛町三丁目に生まれる。 佐伯 琴 (根岸 幸) 1920年 大正9年9月9日生まれ(嘉永5年1852年) 横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。 根岸了介 1877年 明治10年11月7日生まれと届出 神奈川県久良岐郡横浜町末吉町5丁目54番地に生まれると届出。 (神奈川県第1大区4小区) (明治10年5月5日山手220番生まれ) 根岸光子 1885年 明治18年5月31日生まれ |
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明治19年(1886年)01月02日土曜日 丙戌(ひのえいぬ)
その元日にブラウン先生が山手37番の自宅で没した事が町に知れ渡った、姿見町一丁目姿見煎餅の鈴木新吉は店に休業の紙を張り弔意を表していた。 養家の元境町の店を此処へ移し二度までも火災に会いながら其のたびに再建して来た不屈の男だ。 受洗したのは明治12年、其の前より日曜は休業として餡入りの菓子を止めて煎餅一筋としていた。 此処のまき煎餅は中に格言を入れていて辻占煎餅と同じだ。 寅吉は小麦で作られた煎餅よりも米のほうが好きだが横浜には少なく手に入れるのに苦労した事もあったが境町のケンゾー達がいた家の並びの亀楽煎餅(喜楽煎餅とも、明治20年伊勢佐木町に支店開設。長谷川亀楽)は家に切らさず置いてあった。 昨年年末22日に内閣が発足していた。 第一條 内閣總理大臣ハ各大臣ノ首班トシテ機務ヲ奏宣シ旨ヲ承テ大政ノ方向ヲ指示シ行政各部ヲ総督ス太政官達第69号により太政官制から内閣制へ移行、内閣総理大臣の権限等を定めるために伊藤内閣が内閣職権を制定した。 内閣総理大臣伊藤博文(長州)、外務井上馨(長州)、大蔵松方正義(薩摩)、陸軍大山巌(薩摩)、海軍西郷従道(薩摩)、司法山田顕義(長州)、農商務谷千城(土佐)、文部森有礼(薩摩)、逓信榎本武揚(旧幕府)、内閣書記官田中光顕(土佐)、法制局長官山尾庸三(長州)とバランスよく振り分けたようだが肝心の内務大臣が山縣有朋(長州)に押さえられてしまった事は日本の命運を政治主導から軍部主導へ向かわせる下地が出来てしまった。 しかし西郷も大山も武士(もののふ)即ち軍人であるという意見は変わらず軍が国を統率するという意見を変える事はなかった。 大隈が伊藤内閣に入るのは明治21年(1888年)2月1日外務大臣としてだ。 「新しい憲法には内閣が国を指導することを明記するよ軍部独裁にはならんよ」 朝八時伝次郎が家族と新年の挨拶に富士見町の家にやってきた。 十三代と子供たちを容は洋館に誘った、了介は跡取りとして次々に訪れる氷川商会、横浜物産、虎屋他の幹部たちの挨拶を一緒に受けさせられていた。 「どうでぇ、旦那と坊ちゃん俺たちのようにゴーンの旦那の娘がぼてれんで薩摩から帰って産んだと知っていてもあれだけ旦那とそっくりに成長なさってよ」 「そうだぜ、氏より育ちとはいうが養子と知っていても旦那の子と勘違いするのは当たり前かも知れねえよ」 辰さんや勝治のような幹部でさえ勘違いしてしまいそうだ。 「其れによソフィアさんに似て旦那よりいっそう外人ぽいぜ」 「そりゃ当たり前だ、父親は誰かしらねえがさつまっぽといゃ異国とかわらねえとおくの男だ」 「よせよ辰さんは、鹿児島なんぞ正太郎が居るフランスと比べりゃ百分の一くらいなみじかなとこだ」 「其れもそうだ、しょう坊がアチャラの美人の神さんを連れてきたときや驚いたの何のその影響で清次郎まで亜米利加へ行ったきりだ」 「おうよ今はニューヨークで活躍しているし、お嬢様の近くへ移ったのでお容様も安心だ」 横浜物産の社長代理の佳史もこの人たちといると若い時の口調に戻るようだ、今年4月に伝次郎が会長、佳史が社長となる人事も寅吉の了承が出て役員会での承認も出たし佳史の長男と年の同じ伝次郎の三女スマの婚約も親たちの間だけだが了承済みでこれからはたびたび二人を合わせて其の話しが本決まりになるようにしなと寅吉や容も喜んでくれた。 地蔵坂の植木場の賑わいを横目に坂を降りると昨年店を開いた松月堂と同じく昨年二階建てになった鶴屋の間の下駄屋の前で歩いてくるお怜と出合って道端で新年の挨拶が始まった。 一同が立ち話をしているところへ人力車から声が掛かった、乗っていたのは高嶋だ「どうしたいお歴々、コタさんが留守なのかな」そういいながら降りてきた。 「まさか、私はこれから年賀ですが皆さんは今上から降りてきたところですよ」 「では相乗りして行きなさい。おい仙吉前引きに二人雇えよ」 「ハイ旦那」 「さぁさぁ、乗ったり乗ったり」 仙吉という車夫は坂下に居た車夫たちの中から二人選んで前綱をかけてひかせて坂を登った。 220番に着くと伝次郎一家が3台の人力を連ねて出て行くところだ、其処でも簡単に挨拶するのももどかしそうに怜を従えて母屋へ向かった。 新年の挨拶が済み嘉右衛門は「客がわずらわしくて逃げ出してきた。家には弟に息子を残して来たよ」と笑いながら話し大事そうに抱えていた重箱をお容に渡した。 「尾上町へ回ってきた」 「住田楼ですか」 嘉右衛門この店が大贔屓で一くさり江戸と横浜の味について語りついでに話しがとんだ。 「去年湯島に産婦人科の開業の援助をした話だが」 「そういえば京都の妹からも聞きましたし新聞も派手に書いていました。わが国最初の公許の女医だとか」 「そうだ其の女性を推挙して試験を受けさせる時に婦女子に医師免許を与えた前例がないなどとごねた奴を説得したのが儂や今の内務省衛生局次長石黒忠悳だ、当時は東大医学部綜理だったかな。其の当時も局長だった長與專齋が中々ウンといわないので伊藤さんやら彼方此方手を廻して親玉の山縣を口説いたのさ。コタさんは嫌うが人物は中々だぜ、令義解(りょうのぎげ)を知ってるかな。日本の奈良の都があった頃に政府のしくみを規定した律令という基本法典の一つに養老令という法律があってな、その官撰の注釈書が令義解その中にある医疾令には、お産やケガなどの治療にあたる女医の制度がはっきりと規定されてると言うのが根拠だというとすぐ取り入れてくれた」 「其れは先生が探し出したのですか」 「うむ、だが昔の事ではないよ。保己一が編纂した群書類従に出ていたのを覚えていたのさ」 さすが易を極めた男は違う物でよく記憶している物だと聞いている寅吉や容もお怜も驚きを隠せなかった。 「医者になって最初の月は一人の患者しか来なかったが、最も五月の末に看板を掲げたせいだがね其の最初の患者はお産だった。町の産婆がつれてきたそうだ、生まれた子はひかると名付けられたそうだ」 「ひかるですか」 「そうだそういえば了介はコタさんの行方がわからない父親と同じ名だし、母親が光子(ミツコ)というそうだな、字が光だそうだから縁がありそうだ」 寅吉が未来から来たことを知らないはずだが何か勘に響く物でもあってその事を話に来たのだろうか。 「母親はミツコではなくヒカリコと呼ばれていましたよ。たしかヒカルではなくヒカリではないのでしょうかそんなこともどうも地震の時に曖昧になりまして子という字をあの当時使うのは珍しいと勝先生も気にかけてはくださいましたが」 「ホウそうなのか。その後だが医者は今じゃ大繁盛でお産に風邪や夫人病と大忙しの有様で女医や産婆の心得のある人を探して手伝わさせないと間に合わないそうじゃ。其れともう手狭で大きな家を借りる相談が来たよ」 東京女子師範学校を卒業した明治12年当時相談に乗った時に石黒忠悳(ただのり)は綜理心得で総理は池田謙斎だった。 高嶋は「コタさんはパンに玄米、麦が一番だといつも言うが内務省、陸軍、東大医学部とドイツの細菌説を支持してるぞ。なんせ陸軍はドイツ一辺倒に傾きだしてるからな、海軍のイギリス寄りなど真っ向から否定さ」と寅吉を煽るように話題を変えた。 石黒は昨年海軍の高木の脚気食物説を真っ向から否定し山縣も其れを支持していた、脚気は昔江戸わずらいというほど都会病だったが全国に広がりをみせ特に軍隊では其の蔓延に手を焼いていた。 其の話しをしながら寅吉は風月堂の松蔵とおかみさんの事を思い出していた。 オイオイと言う言葉で我に返ってみればお怜さんにお容はともかく嘉右衛門が「何時もの千里眼でなにを見た」と言っている。 「いえそうじゃなくてこの餅菓子で馬車道にあった和洋菓子処の風月堂は店じまいしてどうしたのだろうと思い出していました」 「松蔵か、かみさんが亡くなった後横浜から東京へ出て今は神戸だよ」 「ほんとですか、それなら太四郎が何か言って来そうなものだが」 「そいつは無理だぜ、名前も変えたし今じゃたいそう太ってあの頃の面影などトンと梨じゃ」 |
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明治19年(1886年)02月04日木曜日 立春 旧正月 いまだに旧正月を祝う人もいるがシナ街へいくと其れが普通でちらつく小雪の中正月気分を味わうため関帝廟付近は人で溢れている。 今年は珍しく立春と旧正月が重なり人出も多いようだ、横浜には二千人ほどの華僑・買弁(ばいべん)が家族を含めると居るそうだ、140番の一角に明治6年に小さなお堂が建立され今廟域を広げる案が浮上しているので珠街閣はどうやらマルクスカンパニーの145番に移動するようだ。
シナ街を南京街と呼ぶ人も出てきたが唐人町などとこの付近をさして言う人がいたりするのも驚きだが当人たちは気にもしていないようだ、其れほど南京料理の食べ物屋を開いている人が多いわけでもなく135番會芳楼が閉店してからは全てで十軒ほどが点在するだけだ。 上海料理の140番珠街閣はあい変らず寅吉たちが好きな海鮮料理店のひとつでシナ料理といえば此処を利用する事が多い、飲茶の149番聘珍樓は一昨年開店して広東料理の店としてはまずまずの味であった。 寅吉の少年時代このあたりに食べ物屋は少なく五軒ほどしか見た覚えがなく爺や父と出かけたが元居留地で入ったのはグランドに聘珍樓そして比較的新しい145番安楽園くらいだ。 カフェや酒場は多くあった記憶もあるし雑居が始まって日本人が営業しているレストラン、南京料理、雑貨屋を数多く見た覚えも有り父も「此処は南京というがやっているのは日本人だ」と馬車道あたりの店を指してよく笑った。 日清戦争後に日本人は朝鮮半島、大陸の人を馬鹿にするが其れは大きな間違いだと爺や父は寅吉に教えた。 「戦と言うのはいつも勝てるというものではない、どのようの勝負でも勝つこともあれば負けもあるのだ。野球に譬えれば命のやり取りをしないだけで今日の勝ちは明日の負けという譬えもある。国と国との戦いは其れが五十年、百年という単位で動くから人には其の動きが見えないだけだ。欧州を見てごらん戦いの勝ち負けで相手国を馬鹿になどしていないのがよく判る」 二人は日本が天皇を現人神に祭り上げていく過程を批判的に見ていた「天皇は飾り物にされていく。其れを利用する者たちが天皇は神聖で犯さざる物であるという理屈で自分たちの欲望を天皇の名で行おうとしている」と寅吉に教えた。 賑やかな音楽に昔風の仮装した人たちが参詣をする様子を眺め人の流れは其処から谷戸橋方向へ流れバンドのグランドホテルを回って居留地5番のユナイテッドクラブや5番bの明治17年(1884年)創業のクラブホテルを眺め先へ進んでイギリス領事館、完成したばかりの税関のドームを見上げて感心しては其の辺りから本町通り弁天通りの方向へ散っていくのだ。 税関の新庁舎開館式は2月6日に行われる事が決まっている。 容は午後元街学校から戻ってきた了介にお昼を食べさせると連れだってお松津さんと三人で馬車に乗り込み野毛に向かった。 「何処へ行くのですか」 「野毛山のお不動様さ。明子が出かけて向こうで怪我や病気にならないように去年も節分の次の日に御祈祷の護摩焚きをしたのさ、それで今日は了介も一緒にと旦那様がお許しくださったのさ」 去年2月2日の節分は家で豆まきをして翌日立春は朝早く千代とお鳥につれられて武郎と一緒に東京へ出かけていたのだ。 寅吉が連れて行ってくれと頼んでいたのが其の日に行く事になったのだ。 安部川町の軍鶏屋「てっせん」が代替わりしたがあい変らず盛況で牛鍋屋が多くなる中あい変らず昔の味を守っているそうで「お前の親父さんに挨拶させるから其の後食べに連れて行ってくれ。其れと鮒佐も店を教えておいてくれ」と武郎が試験に受かったお祝いを代理で述べさせることにしたのだ。 道が広がり店を下げて出来た横浜物産の空き地に馬車を置くと官舎脇の道をガス局へ向かい宮崎町へ入ると石段を成田山新勝寺教会出張所へ登った。 ちらついていた雪はやんで風は冷たいが街は見通しが良くなった、山手の大きなフェリスの校舎と共立の校舎が際立って見える。 目を下にやれば鉄の橋の大屯所(おおたむろ)が目立っている、大屯所は一昨年此処へ移ってきた横浜警察署だ。 成田山新勝寺教会出張所は通称野毛山不動尊、明治9年(1876年)8月高嶋嘉右衛門が土地を寄進、新栄講など信者講中が本堂を寄進し普門院境内に勧請してあった遙拝所を移した。 今さらに新しく客殿を立てる計画が進んでいるがまだ時間がかかりそうだ。 容はボストンの明子の無事を祈願する護摩供養を頼んで不動を拝んだ。 此処の縁日には人出が多く月三回一日、一二日、二八日は境内から溢れんばかりだし昨日は節分で初午此処の稲荷も盛況だった。 「お容さんや昨日おい出にならなかったようで、高嶋様など豆まきに参加して盛大でしたぞ」 「ご住職昨日は込み合うと思って何処にも出ませんでしたわ。鳩も食べきれない豆がまだ境内に残っておりましたわ」 本来の住職は本山の原口住職だが町の者は主任の富川興恩を住職と呼び習わしていた、その富川は祈祷の後容に茶を勧めながら町の事などの話しをせがんだ。 その後寺院の脇から大神宮へ参拝して野毛の切り通しへ降りると野毛の二丁目と三丁目を分ける新しく通された日ノ出通りへ出て置いてある馬車で黄金町へ出て末吉橋を渡り末吉町へ入った。 氷川商会を通り過ぎて明子に了介の産土神でもあるおさんの宮へむかった。 三人は大きな狛犬を立ち止まって見上げた「何時見ても恐ろしい顔をしてるわね」お松津さんの言葉にうなずく了介だ。 鳥居をくぐりかやぶき屋根の本殿に詣でて隣へは外から回り稲荷にも明子の無事を祈願した。 1869年1月22日が明子の誕生日で明治元年12月10日生まれと言うのが正式だそうだ。 最近了介も日付が切り替わる前は日本の暦は今日のように旧正月が昔の正月だとわかってきたようで明子の誕生日も二通りの覚え方に慣れてきた。
神奈川県警部長の田健次郎四等警視は内閣発足後三等警視即ち奏任官七等に抜擢され埼玉の県警部長へ移動が決まった。 しかしこの人は高嶋によれば新しい警視総監の三島通庸(みちつね)が大嫌いだそうで其のせいか三島に嫌われて位を上げて埼玉へ飛ばすのだと言うのだ。 「しかし埼玉なら飛ばすというほどの事もないでしょう」 「県令は薩摩の吉田清英、三島の棒組みさ」 「それで神奈川は薩摩の人でも入れるのでしょうか」 「まだ後任人事が決まらないのさ。県の警察長は建前だけだが県の人事権が優先だからな」 陸奥以来土佐の牙城の県令も長州野村靖、鳥取沖守固と続き幾ら警視総監といえ簡単に三島の手の者を送り込めないのだ。 同じ薩摩でも大山、西郷とは肌合いが違い批判に対しては弾圧一辺倒で此処まで来ている危険人物であった。 特に自由党には過酷なまでの弾圧を行い、福島県令時代の明治15年に福島事件(喜多方事件)栃木県令時代の一昨年明治17年には三島の暗殺を謀る加波山事件(かばさん)まで起きていた。 弾圧をしてまでおこなった道路工事は悪い事だけではなく山形県令時代には産業育成効果を上げたが福島県令時代には同じ事がすでに通用しない時代になっていたが三島には其れが飲み込めていなかった。
其の三島の後を追うように黒田清隆門下の折田平内が就任する事が多くこの人は温厚な人という評価しかなく可も不可もなく淡々と仕事をこなしていくという人であった。 「詰まらん役回りさ、同じ薩摩の樺山資雄と共に尻拭い役で評価される事もなく人心をまとめると言う苦心を認めないと言うのは上に立つものが認めなきゃいかんよ」 「先生が伊藤さんに話されたら如何ですか」 「わしは大久保彦左のようなご意見番じゃないよコタさん、それとコタさんにまで先生といわれるとこそばったいぜ。聞かれたことを易に問うという気持ちを持たねばいかん、聞かれもしない事まで易の表に出てるからこうしろああしろとは言う事はできんよ」 嘉右衛門はそう言って昨日豊島村から松兵衛とツルが息子の松之助とやってきたと話し始めた。 松兵衛からの手紙で約束をして有ったので田中屋で共に昼餉を取り息子の健康について相談に乗ったがあの子は長生きできそうにないと寅吉に話した。 ツルは元の名がりょうで明治7年松之助が生まれて養子縁組をして引き取った時に西村の籍に入ってツルと名を改めた。 「此処へも来たのかな」 「ええ蒸気船で横須賀へ戻る前に一晩泊まっていくと寄っていきました。今横須賀は景気がよくて生活は楽なようです。横浜か東京で寄宿制の学校へやりたいと話していましたが、今年高等小学校を卒業したらどこか入れそうな学校はないかという相談でした」 「中学か、一緒に俺に相談すればいいのに変わった夫婦だ」 「ええ本当に其の通りなのですが、羽鳥村の耕余塾を推薦しておきました」 「このあたりなら其れが妥当だな。東京なら幾らでも有るが」 「ええ、あそこなら横浜に出なくとも鎌倉から回れば半日程度で歩けますから」 龍馬死後流転の生活も今は落ち着きを見せ官員として出世の道を歩む人たちから見れば市井の生活はみすぼらしくうつるのだろうが高嶋や寅吉は落ち着いた生活をしていると安心が出来たのであった。 嘉右衛門が帰ったあと話しをした中学から連想したのか三中に入った頃が思い出された。 校長の藤村興六先生は挨拶で「わしは男子校は始めての校長じゃ」といきなり言い始めた。 「此処へ来る前は香川県女子師範学校で校長を八ヶ月しておったところここへ来いと呼ばれたんじゃ、さらにその前は熊本県女子師範学校校長を一年半さすがのわしも考えた横浜には易で高名な高嶋先生がおられた。校長としていくは良いが此処に骨を埋めるつもりでいくが其れでもよいかというと安河内知事からそれでよいから出て来いと手紙をもらった。神奈川縣立第三横濱中学校は諸君らが最初の生徒であり校長のわしも中学の男子諸君を導くのが始めてである、しかしここに相沢平吉先生という教頭として最高の人を得る事が出来たのはわしも諸君も誠に喜ぶべき事である」 寅吉は其の長い演説を思い出していた「急になんだってこんな事を思い出してしまったのかな」と首を傾げるばかりだ。 三徳(知・仁・勇)一誠の校訓も思い出した芳斉先生が提唱し恒寿が生徒会を代表して講堂に額を掲げたのだ。 書き上げたのは横浜市長の渡辺勝三郎、渡辺は各地の県知事を経験した後横浜市の市長に就任した、それを見れば地方の県知事より重要視されているのがわかると爺がよく言っていたのだ。
神戸から陸奥が横浜へ向かうとの電信が来た、一日に神戸についていたそうだ。 7日早朝居留地で火事の合図の鐘が響いた、寅吉が目覚めて時計を見たのが4時、容も目が覚めて寅吉は火事装束に着替えると汐汲坂上まで自転車で急ぎ乗り捨てると元町まで駆け下った。 谷戸橋付近に着いた時燃えていた18番のウインザーハウス(インターナショナルホテル)はすでに燃え落ちていた。 後で聞くと火が出たのは17番ファサリ商会、グランドは19番が空き地のままであり火は回らなかった。 「マックのところには飛び火も無かったのか」 「俺のところは気が付いたときにはもうホテルが焼け落ちるところで火はそこで止まっていたよ」 寅吉たちが資本を出した事があるホテルでカーチスが手を引いたホテルの二軒とも火事で燃えてしまった。 |
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明治19年(1886年)03月21日日曜日 春季皇霊祭 日曜日と春季皇霊祭が重なった、了介は寅吉と連れ立って元町のとらやとピカルディへ向かった。 難しい話しがあるわけでもないようで隣の虎屋の元の寅吉の事務所が燃えた後通りに面した庭を潰して店にしたのを貸していた相手が三丁目へ店を持つので其処が空くので高嶋から薦められていた骨董店を開く相談だった。 誰にやらせるかと言うほんの打ち合わせだけのようだ。 寅吉はキュリオシティ・ショップ(Curiosity Shop)といったがお怜さんと虎屋から来た勝治が異口同音に「源太郎が良いと思います」と答えた。 辰さんの義理の弟で千寿の二つ下三十五才の壮年だ。 「虎屋ではうまく使えないのか」 寅吉は首をかしげた。 「いえそうではなく若い頃から煙管や印籠に根付け等に凝っていまして本町通りや弁天通りの骨董店へよく出入りして外人に口を聞いてやったりして居りますので」 「好きなのと商売が上手く出来るのとは違うと思うが。その辺はどうなのだ」 「其れよりも独立させてやりたいのです。子供が三人居りますが連れ合いの父親が縁日で骨董らしき古物を扱って居ります。それで知り合って娘と一緒になりましたので仕入れなどの目利きは其の親父がするでしょう。此処なら十人は暮らせますし」 「ちょっと待てよ。去年の正月に生まれたばかりの子供と一緒に初参りだというのに羽衣町の弁天の前で出会ったぜ。初めての子だといってたぜ確か男の子だった」 「其れなんですが今朝早くに双子の女の子が生まれまして、まだ社長にも報告が出来ておりません。ご存知なのはこのお怜だけで」 随分と年が離れているが二人は夫婦になったばかりだ、二人とも連れ合いをなくしたもの同士で勝治のほうには三才の男の子がいる。 「なんとそりゃ大変だ。よし本人が了承したら何時もの決まりのように独立するか資本を此方持ちで店主になるか本人に確認してくれ。細かい事は二人に任せるぜ」 あっさりと二人に任せて了介を伴い前田橋からシナ街へ入ると雑貨屋と漢方薬の店に挟まれた187番にある遠芳楼というシナ蕎麦屋へ入った。 遠芳楼の入り口は狭く入ると勘定をするかみさんが愛想良く出迎える、右手の廊下は奥に厨房があり左手は二階の客席への階段だ。 長い辮髪をたらした太った親父が席に付いた寅吉に「珍しいね」と声を掛けた。 「ああ、此処のところ人と昼飯を付き合う事が多くてな。此処へつれてきてもいいが煩いことを言う奴ばかりだ」 「ナニタベル」 「ラウメン二つ」 階段に向かってリャンコラウメンと大きな声で怒鳴ってから脇の台から蓋付きの茶碗をとり大薬缶をストーブから降ろして熱水を注いだ。 茶碗には茶の葉が入っていて其れが湯に泳いでよい香りがしたが親父はすぐに蓋をした。 「このコは」 「俺の子さ。ほら娘の明子を小さい頃何度か連れてきただろ其の弟だよ」 「アア、亜米利加へいった子だね」 下からハーカー(蝦餃子)と饅頭に焼売等の入った蒸篭を持ってきた女の子が了介に「ナニタベル」と聞いた。 「好きなものをとって良いよ」と寅吉が了介に言うと女の子は蒸篭の蓋を開けると中を了介に見せた。 蝦餃子に中身の無い饅頭と肉饅頭さらに春捲と焼売「ではハーカーとマントーをイーコ」了介も蝦餃(ハーカオ)くらいは向こうへ通じる言葉で言える。 「俺にはハーカーをリャンコだ」 女の子は蒸篭の中に入れて有る小さな皿に注文のものを乗せてテーブルに置くとまたにっこりと笑って下へ降りていった。 了介が店の奥を見るとふたつの板に酒債尋常行処有と人生七十古来稀と書いてあった了介は杜甫を知る由も無いが、酒を飲んで借金が多いのは当たり前、人は七十まで生きるのが稀だと書いてあると思うのだった。 ラウメンが来る頃には四組の客が来て席は全てうまった。 客が注文を出すと飲茶の蒸篭をもった先ほどの女の子が現れにっこり笑って日本人には「ナニタベル」と聞いて辮髪や洋髪に係わらず清国人と見るや「ニチシェヌモ」と早口で聞いて注文のものを蒸篭から取り出して渡していた。 了介も寅吉の真似をして蓋をずらして茶を吸うように飲んだ、豚肉の細切りが炒めて入り白髪葱と筍の細切りが乗せられているラウメンは熱々でスープが美味しいと了介が言うと太った親父は嬉しそうに肯くと薬缶の熱水を二人の茶碗に足して他の席へも注して回った。 「不思議だな」 「なにがだい」 「だって父さんはそう思いませんか。どの人が注文してもあの蒸篭から注文のものが数をそろえて出てきますよ。足りないことも其れはありませんと言うことも有りませんよ」 寅吉は可笑しかったが不思議がる了介に其れが客商売だとは教えなかった、顔を見れば特別の事がない限りいつも頼む物を心得てもってくるのだ。 双冬肉包(ソントンローポー)芝麻球(チーマーチュー)春捲(ハルマキ)などが次々に出されるのでは不思議がるのももっともだ。 蓋をずらして茶をすすると口中の油がスッと解けてゆき良い香りが鼻へぬけた、席を立つと親父が「シースーセェン」と声を階段したへ掛けた、ラウメンひとつ四銭、茶代が一人一銭、飲茶は一つ一銭、二人で十四銭だ。 茶代は取るがチップは置かないのがシナ流かなと了介は思っていた。 寅吉は十銭銀貨を二枚出して釣りをもらうとお盆を持って汚れ物を下げに二階に行く女の子に二銭渡して店を出た「マイドアリガト」大きな声がドアの外まで聞こえた。 了介は普段父親と高級店で高いお金を払って食事をするのに慣れていたがこのような店にも姉を連れてきていて自分が学校へ行きだしてから連れてきたことに感謝していた。 友達にはお金持ちも居れば貧乏な子も居て話題に困る事もあり珠街閣にグランドの話しをしない心がけはわきまえていたが此処の不思議な蒸篭の話なら友達も喜ぶだろうと思った。 本村通り(前田橋通り)を天主堂の裏で曲がり175番のファヴルブラント商会へ寄ると庭で主が次男のフランソワと話しをしていた。 「フランソワをスイスへ学びに行かせることにした。時代に取り残されないためには最新の技術を学び取らせるのが一番だ」 16才のフランソワは父の母国をこの目で確りと見てきたいと大人びた受け答えを寅吉と交わした。 ここでも骨董店を始めさせるのでと話しをして西洋人が喜びそうなものを時計商仲間から集めてもらう話しをした、快く全国に散らばる仲間に連絡すると約束してくれた。 また来るぜと家を後にして36番のマックの店へ向かった、天主堂の正面へ回り本町通りから阿波町通りへ入り水町通りの角の西向きの店の脇の門を入ると庭の草花を明るい春の陽射しが照らしていた。 牧場から戻ったばかりだというマックと寅吉が商売の話より馬の事で盛り上がる傍で了介は庭のブランコで遊んだ、普段はお茶場の女性や陳さんたちが忙しく働く工場も休みで静かな午後だ。 「太田の牛やの牛鍋が久しぶりに食いたいな。昨日港橋のインゴ屋へ行ったら暖簾が出ていなかった」 「ちょん髷親父めまた飲みすぎたんだろうぜ」 「飲みすぎといえば死んだ牛やの音吉も凄かったな」 「一度岩蔵と飲み比べたそうだが一日中呑んでもけりが付かなかったそうで最後は二人とも高いびきで寝ていたそうだ」 太田の牛やは縄のれんが名前の代名詞ですこし前まで道を直すので赤門前に仮店で営業していたので太田と牛やの前につけて呼ばれていたが10日ほど前に店を綺麗に直して開店した、場所は末吉町の二丁目十九富士見川のドンずまりと黄金橋の間だ。 先代が不精してぶつ切りの肉を出していたのがそのまま受け継がれていて噛み応えがあるので割合と居留地のイギリス人には人気がある。 現当主は京次郎で嫁のコトと共に父親の味を保っていると評判だ。 肉はブツ切り、味噌で煮て鍋が焦げてくると土鍋に入れたワリシタを加えるだけの簡単なものだが他の牛屋とは一味違うとマックの言い草だ。 昨日は伊勢佐木町の荒井屋へ仕方なく入ったというマックがこれから末吉町へ行こうと言うのが耳に入った了介は昨日に続いて今日も牛を食べるなんてさすがイギリス人は違うものだと感心したがなにマックは日本の醤油味に味噌味が好きなだけだ。
「まず先にインゴ屋の店を覗いてみようぜ。どうせ通り道だ」 三人が通りへ出ると陳さんが戻ってきたので飯を誘うと着替えてきますと店の三階で神さんに仕事だと言い訳をして出てきた。 「随分大きな声だな」 「ああいえばうちの旦那にも言い訳の意味が通じます」 グランドの南門で人力を三台に分乗して阿波町通りを前田橋へ出て堀川町通りを西の橋で大岡川沿いに曲がるとパブリックガーデンの先の港橋を渡った。 港橋、港町は昔の地図では湊橋、湊町と書かれる事もあり町のものも両方を使っている。 家の食事より旦那たちのおごりで肉屋で麦酒というほうが食費も助かるから神さんも喜ぶねと了介と同乗した人力で笑いながら教えてくれた。 因業屋、インゴ屋、ちょん髷親父の浪速亭などと様々に言われる店は橋を渡ってすぐ右側不老町一丁目22番に油障子を締め切ってあったが寅吉はのれんも出ていない店に入って行ったかと思うとすぐ出てきて車夫に一人二十銭を渡して帰した。 「やっているのかい」 「アア大丈夫だ。親父め素面だぜ。何でもいやな客なら断りを言うのも面倒になって昨日も暖簾を出さなかったそうだ」 初めて通る人は縄暖簾ならともかく此処は手を拭くに丁度良い麻の生地の暖簾で食い物屋とは思いも付かない。 中に入ると生成りの洗いざらしの暖簾が壁にかかっていた、案外と綺麗な店に了介は驚いたが老婆と若い娘がすぐに注文を聞いてちょん髷に着物を片肌脱ぎに勇ましい親父に伝えた。 和風と思っていたが寅吉とマックが伝えたのは鳥のオムレットにビーフシチューだ。 「ステーキを食うかい」 「4人分あるのかい」 「子供はいいだろ。3人分だ」 「其れで良いだろう。子供は俺たちのから分けるからフォークだけ出してくれ。ビールの追加だ」 「めんどうだなぁ」 其の言葉が終わらぬうちから若い娘が二本出してきた、一本出ないところが凄いと了介は思ったが親父が言う言葉はただの口癖のようだ。 寅吉は皆と話しをしながら其の娘が出入りするのを見て「そうかあの頃一度か二度は来た事がある開花亭が此処だった。擦ればあの其の頃の店主のばあさんはあの娘か」と思うと懐かしさを覚えた。
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明治19年(1886年)04月17日土曜日 勝が氷川商会へ人力で乗りつけ寅吉となにやら大きな声で笑いながら三階へ上がっていった。 「大先生随分ご機嫌のご様子で」 「本当に珍しい事でござんすよ」 店に顔を出していた容と千代が二人の声が階段から聞こえてくるのを聞きながら茶を飲んでいた。 「コタよお前がそろそろだといっていたのが一昨日ばれて家中大騒ぎだぜ、小鹿はあいにく横須賀に出たままでな、民や夢も呆れるやら怒るやら上を下への大騒ぎだ。俺も昨年子供を作ってしまった手前民に頭があがらねえのさ。おまけに昨日は孝に逸まで呼び寄せてしまいやがる」 勝は昨年とよに五女となる妙子を産ませていた手前もあって梅太郎に煩い事はいえないのだ。 クララはしれっとした態度で「梅太郎と一緒になります」とこともなげに民と夢に伝えたそうだ。 「来月結婚式を挙げることにしたぜ」 勝は其れで報告は仕舞いだといってテレホンで容にコーヒーを入れてもってきてくれと頼んだ。 「ところでコタよ。このテレホンだが電話機と名前が決まったのを知ってるか」 「知ってるもなにも前々から伝話機ですぜ」 「おいおい、字が違うんだよ。前は伝えるの伝だが今度は電信の電だ」 「つまらねえ事を考えますね」 「そうばかにしたものでもないぜ、電信線を使えば言葉で伝わるからと電を使うことにしたそうだからな」 「今は警察と役所の連絡だけですが何時になったら民間へも使わせることになるのですかね。アメ一ではうちに扱わせろと申請したそうですが」 「先ず民間にはやらせないだろうぜ。鉄道が意外と儲けにつながったろあれに味を占めて国でやれば儲けを独占できるからな。アメリカのベルの会社が儲かってるのを井上さんや榎本に誰か吹き込んだんだろう」 「そうなると高いものに付きそうですね」 「お前のような物好きは横浜には多いだろうが全国となるとどうだかな」 「それでも電信よりは意思が伝えやすいですからね。亜米利加では直にニューヨークとサンフランシスコで話しが出来るようになりますぜ」 「其の電話のセットは高いのだろ」 寅吉は1882年発売のスリーボックスウエスタンエレクトリック(Western Electric 3-Box)に替えていた。 「こいつは10組み入れたら1600ドル取られました。電線も30キロメートル分来ましたがね。此処と山手をつないでもいいのですが今居る連絡員の仕事がなくなってしまいますのでまだ先の事にしています」 「其れとコタが半分出した病院の金だが当分もどらねえようだ。昨年は有志共立東京病院に看護婦教育所を付設したし当分金が出る話ばかりだそうだ」 「それでも大山夫人のお力添えで有栖川宮妃董子殿下や皇后様が随分と肩入れをしてくださるそうで」 勝は脚気食物説を否定する人たちの事を話題に乗せた。 「高木は海軍の成功例を幾ら示しても陸軍じゃ頑固に脚気は細菌だと言いやがる。順先生の弟子の橋本も頑固だからな、リンハルトやゲルハルトに教わった事を金科玉条のごとく守っているそうだ、東京大学医学部はドイツ派の牙城さ今となっては打つ手がねえよ。大山さんも病気の事は医師に任せると重大事だとはおもわねえようでな」 容がコーヒーを二人に注ぎながら「脚気もうちの人や琴さんの言うように食べ物のせいだというほうが本当だと思いますけどねぇ」と自分たちの会社で脚気になったものが出ない事で細菌という病原菌が原因とは思えないと話しに加わった。 「しかし先生どう考えてもわからねえ事があるんですよ」 容がコーヒーをついで「30分したら追加を持ってまいります、何か欲しい物があればテレホンでお願いします」と降りて行ったあとで寅吉が口を開いた。 「何のことだ」 「父親や爺の話しだと清国やロシアとの戦争で戦死者より脚気の死亡者の方が多かったという事なんですがね。普段でてもいいはずの患者がなぜ戦時に其れほど大量に出たのでしょう。幾ら食事が偏る戦場(いくさば)と言っても極端すぎますぜ」 「其れだな」 「それとは」 「清国との戦でいきなり病気が蔓延したのでさらに医者たちが食事ではなく細菌感染と判断した材料さ」 「戦場で細菌に感染したと判断してしまったと言うことですか」 「そういう間違いがおきやすい環境が出来てしまったんだろう。コタが教えてくれた糠が大事だと言うことが証明できるのはまだ先のことなのだろ」 「ええ、私が10才の頃でしたからまだ35年は先の話です。せめて携行食料として乾パンを配給してくれればそれだけで大分減るはずなんですが」 「そういう簡単な事でもドイツ一辺倒のあいつらには通じねえようだ。なんせプロシャは戦上手だと思い込んでいるからな」
勝は明治維新により得る事が出来た天皇の大権は絶対に揺るがないと語った。 伊藤が提唱する官僚制に支えられた政府では議会は民権派が大勢を占めるかも知れないが、政府の提出する予算や法案を審議する機関として機能するだろうが危険もある其れはこれから制定される憲法と選挙の仕組み次第だと寅吉と話し合った。 「先ず伊藤さん次第さ、大山と西郷では緻密さが無いよ。黒田もあれで反対者が多いし松方も三菱に取り込まれそうだ。どうも日本銀行に目をつけたらしい富田が警戒してるよ」 「やはり其方へ目先がむきましたか。郵船といい三菱は策士が多いですから」 「後藤さんはあれで仕方ねえが川田に荘田が上手く動かしているようだ」 勝は寅吉とたまには鰻でも食いに行くと容に言って二人でぶらぶらと馬車道まで歩いて向かった。 住吉町五丁目の若菜に上がり蒲焼きと麦酒にうまきを頼んだ。 「黒田さんが欧州巡遊に行きたいと運動を始めたぜ」 「やはり誰が言っても薩摩の代表を自認されていますから総理を目指すなら憲法についても勉強していただきませんと」 「教育者としてはまずまずだが呑むと酒乱じゃ困りものだ」 二人は其の酒癖が治らないだろうと危惧は治まらぬ様子で飯が済むと大江橋から駅へ入り勝を見送ると寅吉は人力で店に戻った。
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明治19年(1886年)05月16日日曜日 午後2時45分の列車で寅吉と容は了介を伴い神田へ向かった。 おつねさんの容態が大分悪いと幸恵から電信が来たのだ。 上等で一円の料金、三人で4人掛けの席で川崎駅の先六郷を渡ると「父さん大森の介墟が列車から見られると吉岡先生が話しておられました」了介は学校でモース博士の発掘の話しを聞いてきたらしい。 「そうだね大森介墟古物篇でモース博士は有名人だからね、でもあのあたりで最初に貝墟の発掘を行ったのはシーボルトさんだよ。オーストリア=ハンガリー帝国公使館代理公使という厳しい肩書きの優しい小父さんさ」 「ええその人は知っていますが先生はモールス博士の事しか教えてくださいませんでした。モースというほうが正しいのですか」 「其れはどちらでも通じればいい事さ、モース博士が東大に招かれたえらい博士でシーボルトさんは学校とは縁の無い人だからさ。それにあの頃趣味で貝墟の発掘をしただけだから公な立場で発表していないのさ」 大森駅を発車した列車が其の貝墟の断層を見せる場所で三人は左車窓に顔を寄せてみていたがあっという間に通り過ぎてしまった。
「なんだ元気じゃねえか」 「当たり前だ。風邪を引いたらしくて鼻水がとまらねえだけだ。熱があるわけでもない軽い症状だ。幸恵が来た時に丁度具合が悪く鼻水たらして医者が帰るのを揺り椅子で見送りにも立たずにいて勘違いしたのさ」 「何はともあれ軽くてよかったですわ」 「横浜からの土産だ」 そう言って寅吉が差し出した風呂敷を解くと中身は分厚い本だ。 「なんだ菓子かと思った」 「そういうと思って懐中汁粉を買い入れてきた。湯で溶けば呑めると言う奴だ」 「そいつは手軽で好いや早速頂こう」 容が女中のツキと一緒に用意した熱々をふぅふぅいいつつ呑みながら了介が開くページを覗き込んだ。 持ち込んだのは日本絵入商人録と言う横浜や神戸の商館の図が載せられた本だ。 「写真じゃねえね」 「手がかかってるだろ、商館の絵をわざわざ描いて載せているんだ。其れと学校も沢山載っているよ。其のページは昔うちで持ってた牧場だ、例のプリュインさんの弟に譲ったが国に帰ると言うのでまたうちで預かっているんだ」 根岸競馬場際のチー・ヘルム、Clife House Diaryクリフ・ハウス・ダイアリーとされているページだ。 「其処が俺の家の隣の共立という学校だ」 「随分大きな建物だ」 「そうだろ、外国の教会はこういう施設を立てる金を寄付で集めて日本の為に送ってくれるそうだ」 「日本の坊主や神主に聞かせてあげたい話だ。あいつらときたら自分の身を飾る事ばかりだ」 「其の右のページがジラールのやっていた水の供給所さ。今は支配人が責任者で営業してるよ。其の次のページもジラールが作った瓦や煉瓦の工場さ。次は明子が卒業した学校だ。今は男子だけで女子は84番へ引っ越したぜ」 「なんだ聞いた名と違うな美美新教会とは何だよ」 「どうやら聞き間違いか取材した人間の勘違いさ美普教会(みふきょうかい)と言うのが正しいのさ、メソジストが美(み)でプロテスト普(ふ)だ。明子の先生のクライン宣教師は今尾上町に教会を造ろうと寄付を集めてるそうだ」
「おやそれなら私にも寄付をさせておくれな。十円でいいかい」 「充分さ。容が五十円明子の名で寄付をしたよ」 港湾の税金に為替の料金などのページはツネが次と言って飛ばし最後に近いページまで了介がめくり其処には尾上町四丁目六十六佐々木茂市5月11日版権免許6月発売定価金貳圓(二円)と記されてあった。 「なんだもう出たのかい。今日はまだ16日だよ」 「許可が出る前にすり始めたのさ其のページだけ後から印刷してすぐに製本したそうだ」 了介が水道の鉄管を道沿いに埋め込まれる様子を身振り手振りでツネに話すと鼻水も止まった様子のツネは楽しそうにそれから、それでと話しを続けさせた。 「山手のファブルブラントさんの家の近くで居留地の人たちの競争があるんですが20日は木曜日なので見にいけないのですが前に姉さんと見にいった時はお年寄りまで参加してかけっこに高く飛ぶ競争や弓を射る競技に玉を遠くまで投げるなどいろいろなことをして遊んでいました。次の日の21日草木花華品評会が我彼公園でひらかれるので植木鉢や季節外れの花を咲かせるのに二月も前から大騒ぎしています」 「東京でもそういう物好きは多いよ。菊の時期になるとやっぱりそういう騒ぎは毎年の事さ」 了介が来て風邪は何処かへ飛んで行ってしまった様だ。 三人は連雀町に出て容態は快復しているようだと幸恵に話し萬世橋の電信所から伝次郎宛に安心するように、山手の家には今夜中に帰ると電信をうちどこかで夕食をとって帰る事にした。 「さて東京らしい食い物で横浜ではちょいとなさそうな物とはなんだろう」 「どぜうくらいかしら。本膳もいい板前は多いですし、寿司もネタはかわりゃしませんから」 「夏も真近でいいかも知れねえな」 電信を打ち終わり「駒形(こまかた)までやってくれ」というと「旦那どぜうですかい」と車夫の元助が心安げに寅吉に話しかけた。 そうだと簡単に言うと萬世橋を渡り広小路の線路沿いを上野に向かい上野停車場で田原町へ軸先を向けた。 一度線路から別れまっつぐと進むと元雷門前を回ってきた線路とぶつかり其れを右に折れると名代の駒形のどぜうだ。 二年前に二代目助七が死去(78歳)したが三代目の当主が明治四年になくなった後を当時十四才だった孫の後見をして育て上げての大往生だ。 席が近いと落ちつかねえだろうと同じ入れ込みでも右と左に別れて座り「勝手に好きなものをたのんでくれ」と心安い元助なら遠慮する事もないと座り込んで「丸を二人前と柳川に清酒を二合に飯と汁を付けてくれ。後なにかたのむかい」と容に聞いた。 「そうですね。玉子焼きとごぼうのから揚げをおたの申します」 「御膳と汁はすぐお出ししますか、お酒は冷やと燗といかがなさいます」と注文を確認して入れ込みを降りるとよく通る声で「三番さん、丸ふたつ、柳と焼きに揚げごんぼがお一人前(おひとりまえ)。御膳(ごぜん)と汁が三人さん。清酒は冷やで二合」そう板場へ通じるのれんの前で綺麗な声で歌うように伝えた。 元助達も丸と割きに玉子焼きと此方は麦酒が1本だけだ、元助はめったに飲まないようで前に新橋で自分の人力を引いてもらうはめになって以来二度ほどしか呑んでいないらしいし仲間も無理強いはしないようだ。 五人の勘定を容が支払うと三円で釣りが五十五銭来た。 容は二人の小女に20銭銀貨をそれぞれに手渡し下足の親父にも十銭銀貨を二枚渡して店を出た。 下足番が二人いたのを見てのやり口は了介にも勉強になったようだ。 「かあ様、今のはこういうことですか」 そういう了介の言葉に膝を叩いて「そうよ貴方もいつも回りに気を配れる人になってね」と易しく言うと了介は「ハイかあ様」と答えてにっこりと微笑んだ。 鉄道馬車にそって降り瓦町で佃煮を買い求め浅草橋を渡ると大伝馬町を通り十軒店(じっけんたな)で左に曲がる線路に沿って日本橋を渡った。 夕闇の迫る銀座三丁目京屋時計店の脇に屋台を見つけ「旦那この屋台のてんぷらは中々いけますぜ。例のロシアのご夫人も気に入ったらしくて何度かお供いたしやしたぜ」と元助が寅吉に伝えた。 「こいつは驚きだ元がロシアやフランスの言葉が通じるとわな」 「エヘッ、身振り手振りとテンプラ屋台で通じやすから」 横浜のやり方より簡単な言葉でオーリガも元助に案内させて東京を回っているようだ。 新橋を渡り駅が見えたとき時計を見ると7時丁度元助達に一人二十銭の心づけを渡し勘定は何時ものように店での月末精算として駅に入った。 おりよく一等が取れると言うので八時発に乗る事にした。 乗車すると後から駅に入って来た軍人が呼び止めた、振り返ると山川大佐だ。 「どうしました声が可笑しいですぜ。お見送りですか」 「うむ見送りだが横浜まで朝に出かけるのも面倒で今から行く事にしてある、話しがあるが一等かい。わしは朝から話どうしで声が枯れたようだ」 容と了介を背中合わせの席で他の者に声が漏れぬように座らせた。 「それでいい。中々心得があるな。昨年の事を覚えているか、丁度今頃だったな同じように見送りに横浜へ出る途中だった」 「ええ覚えていますとも」 其の時の人は写真で見た事がある三浦中将だ、確か東京鎮台司令官に任命されると噂が出ていて大山の欧州視察に桂大佐達と同行して仲が壊れていた大山との間が修復されたと噂が流れている。 もう一人は覚えの無い顔だが山川が「5月21日付で仙台鎮台司令官を拝命する曾我祐準中将だ。其方のかたが高名な三浦梧楼中将で同じく同日付で東京鎮台司令官を拝命する見知り置いてくれ。この男が横浜で呼び出そうと話していた氷川商会の寅吉です」と簡潔に紹介を済ませた。 二人の軍人は簡単に握手の手を差し出して居住まいを正した。 「コタさんは三浦中将の事を聞いた事があるな」 「ハイ長州の奇兵隊の事、山縣様に大山様とも対立されていたが今回の欧州視察で桂大佐や大山様と仲が修復されたと評判がもれて居ります」 「其れが桂は山縣との縁でまた関係が怪しいのだ。大山さんはあい変らず山縣には逆らわないように控えめだ。二人には内輪話もこの男となら大丈夫とわしが保障した。昔奇兵隊の残党や山城屋で手を焼いた事があると言うことも話は通じておる。どこかで一晩話せるかな。尾上町はどうだ」 富貴楼といわず町の名をいうところは何か含みがありそうだ。 「いっそ私の家はどうです。洋館の長いすでごろ寝も出来ますし。畳がよければ離れもありますよ。酒に食い物はありますがどうせ女を呼ばぬなら夜中でも上手い物を作らすことも可能ですよ」 山手の家も末吉町も知り尽くしている山川は「洋館でつまみと酒をあてがってくれればこの二人は大丈夫さ」と横浜までの残り四十分は町のうわさに居留地の商人たちの事をあえて声を張って話し合った。 中でも日本の美術品を買いあさるお雇い外国人などを話題に乗せると二人は憤慨して「あやつら高給を取ってわが国に新しい知識を教えると言いながら古い物を買い集めるには魂胆が有るのかもしれん」と言い出した。 月曜日正午発の神戸から来る郵船の薩摩丸は火曜日午後2時仙台荻ノ濱到着で、赴任する曾我中将の見送りだ。 参謀長は中佐の大島義昌を参謀長心得と言う前例も無い形で監視役としかいい様の無い発令をしていた。 其の二人のうち曾我中将は3月16日付で司令官を解任、参謀本部次長となっていたが陸軍省と対立して職務を辞任する可能性が出てきていた。 三浦中将のほうも危なくなってきたと山川は打ち明けた「わしももう直に予備役送りさ」と自嘲するように話した。 今年3月には総務局制規課長の閑職だ、心配した文部省の森に乞われて東京高等師範学校長にも就いている。 其の後は横浜に着くまで高等師範や東京大学が帝国大学となり工部大学校が東京大学工芸学部と合併、帝国大学工科大学となって之は帝国大学令により「帝國大學」と改称の上で法・医・工・文・理の五分科大学および大学院を設置されたことや小学校令の良い所と改正すべき点を話題としているうちに駅についてもまだ話したりなさそうだったが約束があると言う山川と駅前で別れた。
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話は正太郎のパリから大分ときも過ぎました。 横浜幻想のアンテロープ編の1872年(明治5年)からだと12年後(第1回時点)の横浜です。 今回の話の中心は了介と明子になります。
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2010年03月01日 了 |
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幻想と現代社会へ続く歴史の真実との狭間を探してくださいね。 教授からの原稿を小出しながら更新中 アイ |
幻想明治 | 第一部 | ||
其の一 | 洋館 | ||
其の二 | 板新道 | ||
其の三 | 清住 | ||
其の四 | 汐汲坂 | ||
其の五 | 子之神社 | ||
其の六 | 日枝大神 | ||
其の七 | 酉の市 | ||
其の八 | 野毛山不動尊 | ||
其の九 | 元町薬師 | ||
其の十 | 横浜辯天 | ||
其の十一 | |||
其の十二 | Mont Cenis | ||
其の十三 | San Michele | ||
其の十四 | Pyramid |
酔芙蓉−ジオラマ・地図 | |||||
神奈川宿 | 酔芙蓉-関内 | 長崎居留地 | |||
横浜地図 | 横浜 万延元年1860年 |
御開港横濱之全圖 慶応2年1866年 |
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横浜明細全図再版 慶応4年1868年 |
新鐫横浜全図 明治3年1870年 |
横浜弌覧之真景 明治4年1871年 |
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改正新刻横浜案内 明治5年1872年 |
最新横浜市全図 大正2年1913年 |
横浜真景一覧図絵 明治24年7月1891年 |