幻想明治 | ||
其の六 | 明治18年 − 肆 | 阿井一矢 |
日枝大神 |
根岸寅吉 (根岸虎太郎) 1911年 明治44年4月18日生まれ(天保14年1843年) 横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。 根岸 容 弘化5年1月5日(1848年2月9日)生まれ 江戸深川冬木町に生まれる。 根岸明子 明治元年12月10日生まれ(1869年1月22日) 久良岐郡野毛町三丁目に生まれる。 佐伯 琴 (根岸 幸) 1920年 大正9年9月9日生まれ(嘉永5年1852年) 横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。 根岸了介 1877年 明治10年11月7日生まれと届出 神奈川県久良岐郡横浜町末吉町5丁目54番地に生まれると届出。 (神奈川県第1大区4小区) (明治10年5月5日山手220番生まれ) 根岸光子 1885年 明治18年5月31日生まれ |
||||||
昨日の横浜は雨、今日はからりと秋晴れ、おさんの宮はお祭りで午後になって神輿が出て末吉町界隈も賑やかだ。 日枝大神と10年ほど前に名前が変わったがお山王様という老人がまだ多く残っている。 今日は伊勢佐木町、賑町、長島町と末吉町からおさんの宮へ人の流れが出来ていた。 寅吉の小学校へ通っていた頃は運河の新富士見川に掛かる万治橋、南吉田橋の向こうにも町並みが続き末吉町、長島町の七町目で其の先が南吉田町となり人家が多かったが北七つ目といわれる今はやっと埋め立てが終わりまだまばらに家があるだけで氷川商会から日枝大神までが見通せた。 運河の新富士見川も万治橋に南吉田橋もまだない、新富士見川が出来たのは明治29年、其の当時八万円工事に掛かった。 「旦那おさん様の話は本当だったんでやすね」 「何のことだ甚兵衛」 「蔦座に掛かってる芝居でさぁ」 「よくわからねえが芝居がどうしたよ」 大雨のために堤防が壊れ吉田家の女中のおさんが自分が人柱に立って海の神を鎮めた伝説があった。 おさんの父は昔駿河某藩の武士だ、浪人して江戸に出たが大火で両親が死んでおさんには関谷陽之進という許婚がいたので尋ねて行くと、関谷は種田五郎三郎という男に殺されていたため、仇をうちたいと種田を探して身延山に行く。 勘兵衛は工事の完成を祈願し身延山に七年の間お参りに行っていた、そこでおさんと出会い、それなら江戸に来なさいと連れ帰った。 おさんは種田五郎三郎を探し出して仇を討った、勘兵衛に恩を感じていたおさんが人柱にたったと言う伝説を芝居に仕立てたようだ。 芝居の話しを真に受ける甚兵衛にそんな事はねえと言うのは簡単だが寅吉は話しを聞くだけで自分の意見は言わなかった。 後でお容と了介にはおさん様伝説という話はあるが日枝大神が昔の名の山王様をお山王様と丁寧に呼び其れがちぢまっておさん様と言われたんだと話しておいた。
神輿がやってきた大きな三基に続いて小ぶりの神輿が三基、大きな榊を台に括りつけた神輿が五基連なり氷川商会の前をワッショイ、ワッショイと声をそろえて通り抜けた。 了介は榊神輿に取り付き傍を容にお松津さんが楽しげに通り過ぎてゆくのを寅吉は店の前で声をかけて見送った。 「そうだあの日俺が同じように榊神輿に取り付いていたのを爺と父さんが此処で見送っていたんだ、母さんは容と同じように神輿の後を歩いてきたんだ万治橋が揺れていたと後で教えてくれたんだ」 寅吉はあの時も今日と同じように秋晴れで小学校は午前中で仕舞いになった事も思い出した。 榊みこしを見て思い出したのは根岸のお祭りだ、子供が担ぐ山王と違い屈強な男たちが派手な長襦袢を競い、白塗りの顔で威勢良く練り歩いて夕刻海上渡御となり海中で榊の枝を引き抜いて流し、大漁と海上安全を祈願ののち八幡神社の前浜から上がるのだ、徳さんという連れて行ってくれた番頭は若い頃参加したがとてもじゃないが海から出た後は重くてしんどかったと話してくれた。 「さぁいくか」 甚兵衛と安吉に声をかけて駿河町のお旅所へ向かった、昔のように神輿に取り付くこともなくなり今はお旅所周りをして不足がちの品物を聞いて補充の手配をしたりする事が多くなっていた。 手ぬぐい、酒に麦酒、子供たちへのラムネにレモネード、梨や早生の柿に菓子などが切れないようにして、歩く大人に子供たちにも振舞うように潤沢にするのが役目だ。 「旦那が神輿を担がなくなってもう三年も経ちましたかね」 「そうだな、もう俺や甚兵衛の出番じゃねえと言うことさ」 「寂しいことを言いなさる、あっしより一回りも若い旦那だ神輿を見れば血も騒ぎやしょう」 「そういうこともあるが若い者に張り合っていてもしかたねえ事だよ」 丸高のはっぴを着た喜重郎がやってくるのが見えた。 「どうしたい」 「ふん、コタさんのふんどし姿を見に来たが今年も担ぐ気がねえのか」 「お互いさまだ。駿河町のお旅所に行くがついてこいや」 「麦酒でもごちになるか、秋だというのにやけに暑いじゃねえか」 「おうよ、朝方涼しかったがこう暑くちゃ麦酒の冷えたのが欲しいところだ」 雲井橋まで出ると橋たもとのお旅所で当番に不足の物を聞いて甚兵衛に吉岡町の野毛結城屋吉岡支店へ麦酒の追加を頼みに行かせた。 名前が長く呼び辛いので八木の十一といえばこの店の事で通じた、八木は主の苗字、山に十一の印が店の看板だ。 「なんだコタさんは虎屋へ注文をださねえのか」 「当たり前だ、そういう役得ずくで役員なぞできるか」 「まぁ、誰が納めても麦酒はビールだ、しかし横浜のビールがないのは寂しいぜ。コープランドめ東京へ機械なんぞ売りやがってべらぼうめ、あんな田舎でいいものが出来るもんか」 「江戸っ子の癖にそう悪口を言うなよ」 笑いながら麦酒を勧め、道ゆく人にも声をかけて暑いからレモネードにラムネなぞ呑んで行きなさいよ酒がよければ上酒に麦酒も有りますぜと誘った。 吉田川沿いを「ワッショイ、ワッショイ」と子供たちの声が聞こえ榊の上の御幣がゆれるのが見えた、弁天から此方へは先ほどと順序が逆に回るのだ。 明日は太田村から野毛長者橋から車橋と大回りをするし明後日大神輿は神社で飾られそのほかの神輿が分散して各町内路地の全てを回る予定だ。 子供たちの榊みこしに続いて中神輿が十基に為って戻ってきた。 芸者の手古舞が現れお旅所で歌を披露して先へ進むと大神輿が三基、橋を揺らして渡ってきた。 お旅所で威勢付けして肩を換えて先へ進んでいった「そういえば俺は担ぐ事が出来なかったが高村光雲という人が彫った神輿があったがあれはいつ出来たのだ」そんな事が騒ぐ気をさらに高ぶらせた。
|
||||||
長屋の集会所では玉之助の独演会、おかみさんたちで満杯になり男たちは氷川商会で容とお松津さんが仕切る宴席へ呼ばれて集まっていた。 今日から三日の間氷川商会は休み、店も片付けて台には料理を並べ隣接の倉庫も同じようにして何時来ても何かしらの用意はしてあるのだ、宴席のしたくはお怜さんにお鳥さんが三日間手伝いに来てくれた。 「お鳥さんよ、安部川にいなくてもいいのかい」 「大丈夫ですよ丸高の旦那、あちしが居なくても寂しがるお客なぞ居りません、居ないほうが気が楽だ何ぞ言われちまいますよ」 そういうこともないぜお前さんがいないと座敷に花がないと言われて「こんなおばあちゃんをからかっちゃ困りますよ」と照れるお鳥だ。 武郎が学校へ通うため東京の祖父の元へ出てから張り合いがないというお鳥に「そうでもなさそうだ千代と二人で睦まじく歩くさまを税関の建築現場で見かけた奴が居るぜ」と喜重郎が言うと「あっしはお二人が弁天通りで買い物をされているのをつい最近見やしたぜ」と甚兵衛が傍から口を出した。 「あらいやだ其れ同じ日でござんすよ。県庁に顔を出して岡山様にお祝いを申し上げてその後三菱の前で近藤さんと立ち話をして馬車道から弁天通りで野沢屋へ寄りましたのさ」 近藤廉平は明治十一年に豊川従子と結婚、同年より鉱山から汽船に移動して十六年には横浜支店支配人となり共同との争いの指揮を執っていた。 今年三十八才日本郵船会社横浜支店支配人に任命される事が決まっている。 マックとお玉さんに娘婿の杉崎鉱太郎と赤ん坊を抱いた真理がやってきた。 真理は五月に女の子を産んだ、寅吉はもしかして母さんかと思ったが名前が奈美恵だと聞いて半分ガッカリした。 「こりゃ家族おそろいで」 お容が目敏く見つけて赤ん坊を受け取った、お玉さんは後ろについてきた小女と手に提げた重箱をお鳥さんと共に台に並べた。 蒲焼きのいい香りが店に広がった。 「まぁこんなにたくさん。それに熱い位ですね」 「ええ、下の箱に炭が入れて有りますのさ」 五十人前はありそうな蒲焼きを男たちに声をかけてお玉さんやお鳥が配りだした。 「こりゃたいそうなご馳走だ、山海の珍味とはこういうことだ。うちのかかぁたちは気の毒だ」 「おやどうしてでござんす。そういえばお文さんやお元さんがいないわね」 「かかぁは玉之助ちゃんのほうへ行っておりやすよ」 お元の連れ合いの安吉はお玉にそう言ってこっちは口果報で向こうは耳果報だと可笑しな言い方をして皆を笑わせた。 「安さんお元のおなかの事が心配かえ」 おなかがせり出したお元にご馳走の心配をかけてお松津さんが声をかけた、お元は三人目がお腹に居て来月が産み月だ。 「心配しなくても向こうにはうちでこさえたお弁当が豪勢に配られてるよ。板前が昨日から下ごしらえを入念に拵えた一人当たり一円はする幕の内さ」 お鳥が鰻の重箱をさげてきながら安吉の肩を叩いてそう告げた。 お玉はマックに声をかけて小女と人力で店に戻っていった。 10月には富竹亭が義太夫専門館になると決まり横浜の義太夫人気は高まる一方だ、其の一端を氷川商会の長屋のおかみさんたちが担っているのかもしれない。 八十松が調理場から顔を出して「お薗ちゃんのほうへ行きたい男衆も大勢居りますが三日間はおかみさんたちの独占だそうですよ」と告げてまた引っ込んだ。 芙蓉が後見で三味線は鶴勝、玉之助は一人で三時間の舞台を三日間努めるのだ。 玉之助は石山薗、明治八年六月十日生まれの数え11才、今年綾瀬太夫が京枝の許しを得て膝代わりに舞台を踏ませてくれた。 13才で尋常小学校を出たら晴れて東京デビューだ、お倉は寅吉に薗と鶴勝を預けて安心したのか顔も出さないようだ。 鉱太郎と赤ん坊を抱いた真理は八十松と容が案内して二階のテーブルで席に付いた。 「もう直に暗くなれば別所の富士塚から花火が打ち上げられるので此処とこの上が一番の特等席ですよ、上は旦那とマックさんに喜重郎さんが座ればほかは二人が立ったままで精一杯ですが此処なら十人は席について見られますから」 三階は野毛方向が大きく開いているが根岸のほうは幅がないのだ、別所の富士塚は昔此処に富士浅間を祭ったことで小高い丘が築かれている、掘割川に入ってすぐの港にしつらえた船着きの左側だ。 寅吉と喜重郎はマックを誘って小机を持ち出し其の三階のベランダに出ていた。 樽の麦酒と焼き豚にくらげの酢の物、きゅうり揉みにビーフジャーキーで競馬馬や喜重郎が回ったエジプトにイタリア、ウィーンやパリの話と正太郎のことなどをとりとめもなく話した。 ドーンと音が響いて来ると同時のように空に花が開いた、続いてパッと云う音が聞こえて来た。 「花火も綺麗になったな、俺たちが横浜に来た時は輸入の花火にも色はオレンジ色しか無かった」 「そうだな十年程前に鍵屋と卯三郎さんが研究してイギリスの最新の本などを読んで丸く色つきにしだしたんだが今は輸入花火も同じような物が来るようになったぜ」 部屋で世話を焼いている甚兵衛ややってきた千代にも表に出てきなよと誘うと二人は樽から蓋付きのカップに麦酒を注いで出て来た。 今日は三十発ほどだが明日は五十発の花火が予定されていて伊勢佐木町や野毛の商店が多くの寄付をしていた。 八時過ぎにふらふらとケンゾーがやってきた、下からテレホンで伝えてきたので三階へ来るように伝えると安吉が案内してきた。 家で客の相手をしていたが花火の音がして客を追い出すようにして此処へ顔を出す事に決めたと話した。 「旦那、岩崎は久弥名義で四分の一以上株を押さえていましたぜ」 今日の客はその事をケンゾーに知らせてきたようだ、其れを聞いて一同は部屋へ戻った。 「三菱の大株主だ半分は自分たちで持っていただろうよ」 「其れが17日に発表されるそうで跡継ぎの久弥が六万九百十七株、こいつは大蔵省の五万二千株より随分と多いです」 懐の財布から抜き出した紙を台に置いて話しをはじめた。 「ついで彌之助が二万株、之は予想より少ないのですが川田が二千株有りました」 「三人だけで八万三千株近くか他にも端数を入れれば総数二十二万株の四割は抑えられたかな、結局三菱を太らせたようなもんだな」 「其れでですが議決権は上限の100票が久弥、大蔵、彌之助で2.3パーセントずつです」 「偏ることのねえようにとしたんだろうが、大蔵も議決権がないと同じ事だ迂路をたどったようで本筋は三菱か」 共同の株は十二万株で其のうち官有が五万二千株、民間が六万八千株、一株50円だがすぐに値が上がると予想されていた。 三菱側が十万株三菱以外に出たのは一万五千株もないようだ。 寅吉とケンゾーは大阪の内藤達と二万二千株は押さえていたが三菱の分は外に出た半分は抑えていた。 「今日の計算で名義人は其のままでという約束のものを含めて一万千二百株、投資金額が五十七万千百四十五円、共同歩調で一万八百株其のうち貸付で買い入れが半分ほどの五千株で三十万二百十円になります」 「だいぶ安く買えたな」 「見込みが薄いと安く手放した者が多いですからね」 「其れだがどうも政府の雲行きも怪しいし、郵船の路線拡大を伊藤さんは目論んでいるらしいので大型船を注文しそうだ黒字転換は10年先になるかもしれなくなった」 「それでは早めに手放しますか、年八分の政府保証の利子補給が15年付くそうですが」 「65円を目安に全てを一時手放しても良いだろう、三年以内に可能だろう」 「其れで時間を置いてまた買い入れますか」 そういうことだなとマックも口を挟んで笑い出した。 「コタさんの予想が外れそうなのは珍しいが損が出なきゃ充分さ」 マックが真理と玉の親子のための投資に寅吉たちに1万ポンド預けた金も入って居るのだ。 |
||||||
明治18年(1885年)9月23日水曜日 今日は旧暦葉月十五日、十五夜そして秋季皇霊祭(秋分の日)だ。 五時四十分には陽がかげり東の空に月が昇った。 山手220番の洋館にはベアトリスと夫のシルヴィアン・カルノーも来て月見の宴を楽しんでいた。 夫妻の長男は五才長女が三才で可愛い盛りだ。 「七五三のお祝いをはずまないといけないわね」 容は寅吉にそう言ってベアトリスに日本式のお祝いの風習と自分たちが其の衣装などを支度すると伝えた。 ヤールとハンナのヘクト夫妻もキャシーとエリカを伴ってきていて明子がいなくて寂しいという話とボストンでも花見やお月見をしてるのだろうかという話しを了介を囲んでするのだった。 キャシーは今月14日に誕生日が来て11才になりエリカは5月に6才になった。 了介に浩吉はフランス語にイギリス語日本語も交えた身振り手振り子供同士で満月の輝きとガス灯の明かりのある東屋の周りで遊びまわっていた。 近所の人も含めると寅吉のところに50人近くが集まり子供たちも16人ほど遊びに来ていたので賛美歌や日本の流行り歌アメリカの歌イギリスの歌などに混ざりドイツ語の歌まで入り賑やかだ。 スイフト夫妻にガリバー夫妻も参加しての月見の宴は雲が月を隠すと其れを囃す声で大騒ぎだ。 市内に天然痘が流行し、ここ半年ほどの間に患者が二百名以上もでた、ブラウン先生の具合が悪いなど心配そうに小声で話す人もいたがそういう固まりにはすぐ容がシャンペンやコーヒーは如何と声をかけて回り子供たちを誘ってにぎやかに歌わせた。 夕暮れが近づくボストンの丘の家には6人の留学生が集まり日本風の月見の宴を開いていた。 ジーンにミーナも呼ばれジョリーが二匹の子犬と庭の台に飾られた花と小麦粉で作られた飾りのお団子の前で寝そべっているのを見て笑いながら玄関にやってきた。 「本当に大きくなるのが早いわ。キッドとジャックだったわよね」 5月25日に生まれて3ヶ月あまりだ。 「そうよ白い顔のほうがジャックよ」 出迎えたジェニーは二人にそう教えてから「アキコ、ミーナとジーンが着いたわよ。パーティの始まりよ」と大きな声で台所にいるアキコを呼んだ。
|
||||||
明治18年(1885年)10月1日木曜日 吉田橋畔の富竹が三階建てとなり義太夫専門の寄席として開場した。 此処は元蓮杖の馬車屋成駒屋が有った場所で新しく階下には葉茶店奈良屋、骨董店森川、漬物店の久能屋が入り旅館海老屋は建物後部を使用する事にした。 亭主の竹内竹次郎は娘婿の政吉に伊勢佐木町一丁目角地に廃業した高島町岩井座の材木で朱塗り二階建て高楼を建てていたが此処も義太夫専門席とした。 寅吉と喜重郎にはすこし寂しい限りだ、二人とも講談に祭文語りに落語が贔屓だ。 色物寄席を幾人かで金を出し合い野毛三丁目に出す事にした、野毛の切り通し下で昔の釣鐘煎餅の店があった前向かいだ。 「当分義太夫人気にはかなわねえな」 喜重郎はそう言って寅吉と同じく五百円という金を出して木戸御免にしてもらった。 色川亭と言う名での五十人も入れば一杯の寄席だ、野天の奇術師、祭文語りにも声をかけて東京から呼ぶ噺家も若手中心で木戸銭は二銭という安さで菰がけの講釈小屋並みだが雨天でも人が呼べると言うのがとりえだ。 かけそばが一銭五厘、銭湯は一銭二厘が普通で寄席を成り立たせるのは中で売る煎餅や甘いものが頼りで人を雇うのだ。 其れとこの場所に目をつけたのは藤太郎で寄席は九時からだが朝は陽が出る頃から忙しくなる、藤太郎が春先から始めた花売りの娘たちが此処へ集まって板の間にひいた薄縁でそれぞれが持ち寄った季節の野菜に花や榊を分け合うと差配からつり銭用の小銭を渡されて出て行くのだ。 帰りは売り切ったものからその末吉町五丁目の長屋の集会所に集まり遅くも三時まで雨の日は昼に全員が戻る事にされていて配達が終わった藤太郎や雇われた卵や鳥肉の配達人の荷馬車で家に送られるのだ。 近在の農家を藤太郎が回り年頃の娘を雇い入れて売り上げのよいものには割り増しも出すという気前のよさも幸いして自分の受け持ち地区のおかみさん小商いの店の主に可愛がられる努力が実り嫁の貰い手に望まれる事も多いのだ。 前日注文をきいて差配に申し出れば翌朝間に合うものを支度するし、持ち寄る野菜、花も安い値段で集まり十六人の娘に着せる衣装も工夫したので最近は真似る者も出て余計に人気が出てそれらもまとめて街の者たちがお花やさんとよびだしてきた。 横浜はしょいびくと呼ばれる小魚を売る本牧や根岸から来る漁師のかみさん達も街を回っているしあい変らず水屋に頼るのは昔からだ。 先月29日に創立された日本郵船会社が営業を開始した、横浜支店は海岸通り三丁目十四番地、税関の並びだ。 新会社には郵便汽船三菱会社の従業員から五百十五人が移籍してきた。 初代社長には共同運輸会社の森岡昌純が予定通り就任し資本金千百万円保有汽船五十八隻(六万四千六百十総トン)帆船十一隻(四千七百二十五総トン)、沿岸航路十一線、近海航路三(横浜〜上海、長崎〜ウラジオストク、長崎〜仁川)線で営業を開始した。 同社理事は三菱から荘田平五郎、岡本健三郎、共同運輸側から小室信夫、堀基が就任した。 横浜支店支配人は近藤廉平で神戸から大阪支店へ移っての支配人が吉川泰次郎、函館支店支配人は旧共同運輸の園田実徳、副支配人が旧三菱の榊茂夫だ。
富貴楼には元の三菱の関係者が戻ってきた、横浜から元共同の社員は東京支店及び本社へ多くが栄転して行くようだ。 その富貴楼で寅吉は倉田屋と貸し本屋の大野を南伝馬町一丁目にある春陽堂書店の主和田篤太郎こと髭親父に紹介した。 共に本好きの仲間で後から喜重郎の所に来ている魯文に芳幾さらに広重も来る予定、芳幾は東京絵入新聞であい変らず活躍していて忙しいようだ。 「魯文さんと共同にするつもりなのさ。それでこっちに来てコタさんに相談だ。後でケンゾーさんとも会うつもりさ」 いろは新聞を出している魯文を東京絵入新聞に誘うようだ、昔のように絵が芳幾記事を魯文でと考えているようだ。 「俺はもう戯作者とは言えんよ。逍遥のような男が出てきてはもう駄目さ」 小説神髄はよく売れるそうだ、貸し本屋でも一番の人気だそうで読み本でもないあんな難しいものがこんなに人気があるなど驚きだと髭親父が云うのに皆が賛成した。 緒言 盛んなるかな我が国に物語類の行はるゝや。遠くしては『源氏』、『狭衣』、『浜松』、『住吉』あり、降りては一条禪閤の戯作類を初めとして、小野の阿通の『浄瑠璃十二段』等あり。 などと始まる文章を一般の書店で売れるほうが驚きだと寅吉も思った。 この年森鴎外は副医官(中尉)でプロシャ留学中だ、舞姫を発表するのは五年後明治23年になってからだ。 「仮宅も寂しいし新しく移る永楽もぼちぼちだし何時になったら港崎や高島町と同じになるんだい」 「全て引き移るにはまだ三年は掛かるという話ですよ。あそこあたりは水田跡で地盤が悪いから水が出ると困る事になりますからね」 吉田新田に明治五年から七年にかけて出来た千歳町山田町富士見町山吹町のうちから明治十五年一月に永楽町へ改廃が行われていた。 千歳町三丁目西側が永楽町一丁目、山田町三丁目を永楽町一丁目、同五丁目を真金町一丁目、富士見町三丁目を永楽町二丁目、同五丁目を真金町二丁目、山吹町三丁目を永楽町二丁目、同二丁目四丁目五丁目を真金町二丁目。 永楽町と真金町の間には富士見川があり幅十五間其処に眞金橋が架かっている。 金刀比羅神社は高島町から移り三年過ぎて社が完成してこの夏に漸く伊勢山から鷲神社も降りて建ち上がり大鳥神社もしくは大鷲神社と書くようだ。 「なあコタさん」 喜重郎たちも富貴楼に集まり賑やかに芸者が遊ぶ中でとなりの寅吉に声をかけた。 「なんだい」 「政府のお達しで神社になり港崎から吉原へさらに高島町に移転した時に金毘羅が金刀比羅と名が変わったのは寺から神社に替わった讃岐のこともあるんで判るんだが鷲神社が何で大をつける必要があるんだ」 「いまさらなんだよ」 「金岡楼におととい上がった時に女に聞かれたが俺には判らんというたと思いなよ」 「それで」 「そうしたらだんはんはフランスやアメリカまでも行ったお方なのにどうしてみじかのことをしりんせんときた。其れで俺の生まれた浅草は鷲神社とかいておおとりだと答えたがつい気にかかってな」 「花又村の大鷲神社と浅草の鷲神社のどちらを勧請したか今となっては善二郎さんに聞いておかなかったのでわからねえが花又の名前が大鷲になったのを機会に変えることにしたそうだ」 「どちらも俺が浅草に居た頃は鷲と書いてオオトリ大明神だったはずだぜ」 「そうだ、其れが鷲神社となってさらに花又は大の字をつけたのさ。最も花又は昔ワシ大明神といわれていたらしい」 「鷲と書いても大鳥だったのに余分なこったぜ」 「よく言うぜ誰だよ明治の世になって俺の名も紀重郎から喜びが重なると喜重郎と字を替えるとやったのわよ」 「其れを言うなよ。いまさら恥かしいじゃねえか。祭神の事だが天日鷲命だとか鷲を祭ったと聞いた事があるんだが長國寺のは鷲妙見大菩薩様だったぜ」 「そのとおりだが浅草は元々寺地だからな、明治になって神社にしろといわれて誰か頭のいい奴が和泉の堺の大鳥神社に祭られている日本武尊を祭神に加えて神社にすれば政府もうるさくいわないだろうと考えたのさ。それにお鳥様じたい日本武尊にあやかっておこなわれたという話もあるしな、ところがどっこい」 「どっこいどっこいは漁師の神輿だ」 「合いの手はいらんぜ。肝心の和泉の大鳥神社は政府が大鳥連祖神(天児屋命)を祭神にしろというので日本武尊(倭建命)を降ろさざるを得なくなったのさ」 「なんだそりゃわけのわからん話だな。しかしよくそんなことまで知ってるな。さすが情報屋だ」 「なに、幸吉がそういう事が好きでな、よく手紙の端々に書いてくるのさ。吉原田んぼの長國寺の鷲妙見大菩薩が鷲大明神で其のまま神社でございとはいい辛いからな」 「其れでこっちも伊勢山から遷座するに付いて天之鳥船命を祭神にしようと言うのか」 「そういうことだ。御酉様で通じるんだ鷲だろうと大鳥だろうと大鷲だろうと同でもいい事さ」 傍で芸者と遊んでいる面々は徳利の袴を使いコンピラフネフネと遊びだした。 金毘羅船々 追風に帆かけて 芳幾は強く馴れた芸者が根負けをしてしまった。 2人で膳を挟み向き合って座り膳の上に徳利の袴を置くと脇の芸者が賑やかに三味をひき金比羅船々に合わせ交互に徳利の袴の上に手を載せるのだ。 台の上に徳利の袴が有るときは手を開き、無いときは握らなければならない、間違えた方が負けとなる単純なお座敷遊びだ。
|
||||||
明治18年(1885年)10月20日火曜日 十三夜だ、容は淀屋の隠居所を松代と尋ねていた。 松代はまつ吉と芸者屋を開いた時に松やの代々名を継いだが元の芸者名はたか吉だ。 木挽町から福井町まで二人引きの相乗り人力で向かいながらまつ吉にからかわれていた。 「今日は栗名月ね、淀屋のご隠居に月見に誘われるなんで何年振りかしら」 「私は忘れないわよ。あれは慶応元年さ」 「そうそう横浜へ皆で招待されてきたんだったわ」 「コタさんが水兵を投げ飛ばしたのを覚えてる」 「そりゃあんときあの人に」 「あの人に何さ」 「ばか」 「栗名月は他の名前を知ってるのかい」 「十三夜よ」 「タンとお惚けよ。豆名月じゃないか。ついでに豆を食べてもらったくせに」 「バカ」 子供の頃からの付き合いの気安さに口も軽く晩秋とは言いながら小春日和の穏やかな日だ。 松代は子供が二人、まだ十才と八才の女の子だ、年をとってからの子供で松代は淀屋さんが外で生ませた娘が母親でご一新後は春と名乗り父親が日本橋は通り一丁目の袋物問屋の佐倉屋長兵衛事高坂長兵衛で隠居して夫婦で松代の子供に会うのが生きがいだ。 28日の水曜日の横浜は根岸競馬の初日。 朝9時から始まるレースに陛下の行幸があるので名だたる紳士淑女は競馬に興味がなくとも根岸を目指していた。 岩川が全勝できるかに興味を持つ者は多かった。 初日第4レース海軍賞盃賞金100ドル回避する者は多く3頭立てで1着。 23日25日26日と不忍池競馬場で圧倒的な強さを誇った岩川に陛下も拍手を惜しまなかった。 しかし第7レース横浜賞盃賞金100ドルにおいてウォーカーのサムライがただ一頭果敢に岩川に挑み僅差で勝利を収めた。 墨染は岡治善騎乗で第9レース観客賞盃4頭立において1着となり陛下の傍で観戦していた西郷を喜ばせた。 このレースを見た陛下は馬車を連ねて横浜駅へ向かい5時の汽車で還幸された。 この日根岸牧場は第一レースハナタチバナ、第五レースリューオーが1着となりマックは鼻高々にトムに「明日からは君たちに勝ちを譲るぜ」と言い出す始末だ。 何今日に賭けて集中的に走らせただけで明日からは自信のある馬が居ないのだ。 翌29日の木曜日第7レースマイル戦はまたも墨染が勝利した。 30日は土砂降りで一日延期の土曜日第7レースに出た墨染は圧倒的な強さで勝鞍を収めた。 |
||||||
話は正太郎のパリから大分ときも過ぎました。 横浜幻想のアンテロープ編の1872年(明治5年)からだと12年後(第1回時点)の横浜です。 今回の話の中心は了介と明子になります。
|
||||||
2010年02月01日 了 |
||||||
幻想と現代社会へ続く歴史の真実との狭間を探してくださいね。 教授からの原稿を小出しながら更新中 アイ |
幻想明治 | 第一部 | ||
其の一 | 洋館 | ||
其の二 | 板新道 | ||
其の三 | 清住 | ||
其の四 | 汐汲坂 | ||
其の五 | 子之神社 | ||
其の六 | 日枝大神 | ||
其の七 | 酉の市 | ||
其の八 | 野毛山不動尊 | ||
其の九 | 元町薬師 | ||
其の十 | 横浜辯天 | ||
其の十一 | |||
其の十二 | Mont Cenis | ||
其の十三 | San Michele | ||
其の十四 | Pyramid |
酔芙蓉−ジオラマ・地図 | |||||
神奈川宿 | 酔芙蓉-関内 | 長崎居留地 | |||
横浜地図 | 横浜 万延元年1860年 |
御開港横濱之全圖 慶応2年1866年 |
|||
横浜明細全図再版 慶応4年1868年 |
新鐫横浜全図 明治3年1870年 |
横浜弌覧之真景 明治4年1871年 |
|||
改正新刻横浜案内 明治5年1872年 |
最新横浜市全図 大正2年1913年 |
横浜真景一覧図絵 明治24年7月1891年 |