横浜幻想
 其の十八 Ca chante a Paname 阿井一矢
サ・シャントゥ・ア・パナム


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Paris1873年3月13日 Thursday

パリは久しぶりの雲ひとつ無い朝だ、6時半には陽が昇らない内から街は明るかった。

セーヌも氷が緩み少しずつだが流れ出し、もう人は降りることが出来ず、蒸気船は動く事が出来るようになった。

川路と村田はメゾン・デ・ラ・コメットに移ってきて朝は一緒にオムニバスを乗り継いでルーヴルまで出て、川路はオルフェヴル河岸へ、村田は図書館があくまで付近を散策し街の様子を観察したり、川路に紹介された所内の保安部の案内で留置所の設備を調べていた。

月初め音楽好きの村田はMlle.アルベルティーニに誘われ、ジョルジュ・ビゼーのピアノ連弾組曲の中から選ばれた子供の遊びと名づけられたコロンヌの指揮による演奏を聞きに出かけてもいた。

3月2日にパリのオデオン座で行われた第1回ナショナル演奏会という催しは僅か12分の演奏を聴く人で溢れていた。
ビゼーは12曲の中から第6曲ラッパと太鼓、第3曲お人形、第2曲こま、第11曲小さい旦那様、小さい奥様、第12曲舞踏会の5曲を選曲した。

其の後でアルルの女が上演されたがサラを欠いたオデオン座には楽曲を楽しめても観客に劇を楽しませる高まりは訪れなかった。

鮫島は6日にベルリンへ向かって今頃は使節団と合流して動いているはずだ。
長田は正太郎にこの間の事件は公使館へ身元問い合わせが来て本国へ連絡すると返事をして公使の指示で電信での報告とした事を教えられた。

長田に金沢出身という清水誠という人を紹介された、エコール・サントラル・パリへの入学を目指し文部省留学生に認定されての公使館訪問だったようだ。
理工科系科目の選択という難しい学部への入学はパリ遊学4年目の今身命を賭しての念願だと力強く話していた。

「少し根を詰めすぎているようだ、少し新納君と共に遊びに連れ出してくれ」

鮫島がベルリンへたった日に長田に言われていて、今日から2週間の休みに入ったと連絡が来て、西園寺のアパルトマンへ10時に行くから午後にでもと言うので訪ねる事にしたのだ。

エメが怒るだろうなと思いながらの訪問だ、セディを連絡に出して今日は行かれないと伝えたのだ。
連絡が来たのが12時で既に1時半、急ぐのでセディを下で降ろしてそのまま西園寺の家に向かう馬車の中で正太郎はエメと夜をすごすのと長田に頼まれたといえ、井上や沼間と同じ年くらいの気難しい人と遊ぶのは気が重かった。

「ま、新納さんがいれば何とか為るだろうし、西園寺様を連れ出せれば少しはましか」
そう思いながら溶け切らずに埃にまみれ、積み上げられている雪の広場を見ながらモンパルナス大街をゴブラン大街へ向かった。

ゴブラン大街で左へ曲がると馬車トラムの線路工事の脇をすり抜けてムフタール街からアルバレート街へ入るところで馬車を降りた。

西園寺の部屋は来客で溢れていた、リヨンからパリへ着たばかりだという中江篤介という土佐の人、この人は司法省派遣のため法学研修が主な仕事、噂は寅吉やソフィア(Sophia)から聞かされたが今も其のままの人だ。

「横浜でフランス人の子供にフランス語を教えている土佐の変わり者」と言うのがこの人につけられたあだ名だ。

本人はリヨンでコレージュにも入れずエコール・エレメンテールへ入れられた事が不満でパリへ逃げ出してきたと笑うが、横浜でフランス語通訳として立派に通用した人が子供に混じっての通学は可笑しいと正太郎が言うと「なぁ、君もそう思うだろ。だからこっちでリセへ入ろうと決めたのさ」と笑った。

中江と清水は話が合うようで盛んに学校での出来事や街の様子を面白おかしく話し、気がつけば陽が西へ周り、時刻は4時半をすぎていた。

堀江(大久保)が帰ってきて西園寺から「今日は清水君をショウが招待して面白いところへ連れて行ってくれるそうだ。君も付き合うかい」と誘った。

正太郎は「まだ時間が早いので新納さんと野村さんのところへジュレ・ロイヤルを届けてきます」と告げて新納と立とうとした、4本めのジュレ・ロイヤルだ。

「僕も行こう、少し君たちは此処で茶でも飲んでいてくれたまえ」
西園寺はそう告げて3人でロワイエ・コラール小路まで歩いた。

「どうしました。あの人たちを放って置いていいのですか」

「堀江さんに任せておけば良いさ。朝から議論のしつづけでいささか疲れたよ」

「ショウはまだ良く知らないようだけど、中江さんはもう6時間もあの調子で喋っていますよ。今晩付き合えばまだまだ平気で喋りそうですよ」

「でもあの取り合わせで何処へ連れて行きますか、僕は今日それほど持っていませんよ」

「エメに借りられないかい」

「今日夜一緒に食事をする約束を破ったので、少しお冠かもしれませんので連れて行かないと危ないかも」

「なら連れ出せばいだろ、フォリー・ベルジェールならどうせ君の傍には女性がいないんだから」

「そんな殺生な、ひどいもんだ」

新納も傍で「金を借りて野村さんも連れ出せば面白いですよ」と煽り立てた。

「なら他にしましょうよ。エメも行った事が無い店のほうが喜ぶし」

「どこか心当たりがあるのか」

「最近、モンパルナスでボビノというマジシャンが有名だそうですよ。確かシャ・ブランといいましたように」

「白猫ね。どの通りだい」

「ゲテ街と言う細い路地ですよ。酒場の多い通りだそうです」

「良いだろう、ショウは金の工面をして7時までに来てくれたまえ」
正太郎は辻馬車を探しに鉱業学校の通りへ出て捕まえるとノートルダム・デ・シャン街へ向かった。

エメに其の話をすると少し機嫌が直り、金貨の袋を出して正太郎のサックに入れ、馬車で西園寺のアパルトマンまで戻り3階へ上がるとエメに男たちの目が集まった。
それぞれがかわり番子に挨拶してくれ、エメもご機嫌で挨拶を返した。

「後2人来るから少し待ってくれたまえ」
西園寺が言うと野村が「すごい美人が2人来ますよ」と思わせぶりに告げた。

ドアが開いて現れたのはアリサとカテリーナだ、驚く正太郎に「先ほど出先から戻る途中でM.サイオンジにお会いして誘っていただいたの」とエメと抱き合って久しぶりの再開の挨拶をした。

西園寺が男たちに2人を紹介して「では行こうか」と腰を上げたのは7時半いい時間だなと正太郎は思った。
満月は東の空へ昇り金星は西の空に輝いていた「星が満月の光で消えそうだ」西園寺はそういって雲ひとつ見えない空を見上げてアリサに腕を差し出した。
新納はエメに腕を差し出して嬉しそうに先頭を歩いた。

正太郎が待たせた馬車に女たちを乗せ野村を其の空いた席へ座らせ先に行かせた。すぐ馬車が掴まり西園寺と中江、堀江、清水を乗せて新納と正太郎は歩いて後から向かった。

シャ・ブランは学生風の人たちで込み合っていたが幸い席は離れずに済んでカクテルを出してもらう間に検討して簡単な食べ物も出してもらう事にした「後で食事は別の場所へ出向いてもいいさ」と西園寺が言って「ショーは何時から」とセルヴァーズに聞いた。

「後5分くらいで始まります」

其の言葉どおりカクテルを呑み終わらないうちにボビノという若いマジシャンが登場した。

30分ほどのマジックは息もつかせぬ面白い物だった、其のボビノに替わり女性のボードビルが始まると西園寺はエメに「どこか食事が美味しくて面白いところは」と聞いたがフォリー・ベルジェールへでも行こうと考えているようだ。

「それなら10時から知り合いの子達のショーがあるヴァレンティノは如何ですか」

「前にサラといったところですね」

「ええそう、サン・トノーレ街ですわ」

はぐらかされて少しガッカリしたようだが、アリサに話すと付き合うと言われた西園寺は「では其処へ行きましょう、ショウ馬車を3台頼んでくれるかい」と言って自分は財布を出して「ここは僕が出すからね」と言って勘定書きを持ってこさせた。

結局西園寺の考えたスケジュールと違いサン・トノーレ街のヴァレンティノへ全員が行く事になった。

今度は女性たちが3台に別れて乗り、正太郎のところにカテリーナが新納と乗り込んで3人で先行した。

Mlle.エーリンはソルボンヌだそうですね」

「いえ今年の入学を目指していますのよ、Mlle.ビリュコフは2年目ですわよ」

「失礼しました」

「いえ、いいのですわ私は昨年パリへ来てバカロレア試験を取るための勉強中ですのよ」

「1年で資格を取るのですか」

「取りたいと思っているだけですわよ。Mlle.ビリュコフが従姉妹なので個人授業を引き受けて下さるので大分リセの授業にも役立っていますのよ」

正太郎はこの人も頭の出来がいいのだなといまさらのように思うのだ、いきなりリセへ入学できると言うことだけでも脅威なのに1年でバカロレア資格を取ろうと言うことがだ。

馬車はエコール・ミリテール跡の錬兵場へでてコンコルド橋へ向かいロワイヤル街からサン・トノーレ街へ入ってヴァレンティノの前で停まった。

10人分の料金を払っていると次々馬車が停まりふたつの席に別れて座った。
ショーが始まり料理に酒で浮かれて騒いだ後西園寺がまたエメにフォリー・ベルジェールを持ち出した。

M.サイオンジは今晩どうしてもフォリー・ベルジェールへ行きたいようですわね。私は帰りますがあそこはまだ開いて居りますからショウに案内させますわ」と妥協した。

女性陣は帰宅する事になり馬車を呼んで正太郎が見送った。

「今晩のサイオンジはどうかしているわね。なぜあんなに行きたがるのかしら」

アリサとカテリーナはエメが呆れるほど強烈なキスをして馬車に乗り込んだのでエメも負けて堪るかと正太郎にキスをしてやっと馬車が出て行った。

「やぁ、強烈な人たちだね」
後ろに笑いながら西園寺がいて正太郎をどぎまぎさせた。

「此処も僕が持ったよ。気にしないでいいから次は君が持つんだよ」
西園寺は最初から自分で持つつもりだったようだ。

2台の馬車はドゥ・ラ・ペ街からインターコンチネンタル・ルグランの先へ出てグラン・ブルヴァールを横切りプロヴァンス街で右へ曲がり、リシェル街のフォリー・ベルジェールに10分ほどで着いた。

14フランを払い中へ入るとセルヴィスに席へ案内された。
今日は3つのテーブルのあるクロワールだった。

前の席は1段低くなっていて此処は舞台を見下ろす位置だ、すぐに顔見知りの女給たちが八人も寄ってきた。

正太郎は仕方なく何時ものように5フランずつをチップに上げて好きな物を注文させ西園寺に「おなかはどうですか」と聞いてシャンペンとオルドゥーヴルにクルバットのカクテル(cocktail de la crevetteシュリンプカクテル)さらにソーセージとジャガイモのフライを頼んだ。

「カクテルを頼んだのかい」堀江が聞いた。

清水に中江も「クルバットのカクテルとはなんだね」と言うので「小エビのカクテルというものですよ」と答えた。
誰も知らないのか海老のカクテルだとよとざわざわしだした。

シャンパンと女たちのカクテルが出たので「其れが海老のカクテルか」と聞くので正太郎は可笑しかったが女たちも可笑しそうに笑い出した。

「飲んでみます」と新納と野村は女たちに勧められて試して「普通の酒です」と報告した。

西園寺はさすがに知っていたらしく「これから出てくるから待っていなさい」と新納に言ってシャンペンの追加をセルヴァーズに頼んだ。

シュリンプカクテルが4つ運ばれてきて「なぁんだ、海老のサラダですよ」と野村は安心したようだ。
「今朝ルアーヴルの港から送られてきた物だそうよ。新鮮で今が一番美味しいのよ」

女たちはラ・キュイジンヌのこともよく心得ていた、それらを把握してお客の問いに答えるのも街の話題を話す事をもが求められていた。

清水の隣の娘は金色の髪を結い上げリュバンでまとめていた「君はパリの生まれ」そう聞かれ、リヨンと答えるのを聞いた中江が話しに加わって3人でリヨンの街の話を始めた。

堀江は両隣の娘にホーブルポワソンニーエルにおける軍施設の中で話される街の話題と服装を話しだした。

そういえば伊達男に見える堀江は髪の手入れがよく口ひげは細めに揃えてあった。
ショーが始まると一度女たちは席を立ち、戻ってくると場所を換えて座った。

5時ごろまで遊んで西園寺の馬車には新納と野村に堀江が乗って帰り、正太郎は他の2人を送った後エメのアパルトマンへ行く事にしたが、肝心の清水より中江が一番楽しんだようで、ホテルへ送る時もまだご機嫌でよく判らない歌を歌い続けていた。

中江は西園寺の先のパスカル街のオテル・エスペランス、清水はソー公園近くのデ・ゼコール街5番地の農家の庭にある小さな家を借りていた。

ビュット・カイユの東側を抜けて朝日が昇る中を其の家に送り届けると正太郎は「ノートルダム・デ・シャン街へ」と馭者に告げた。

「ダンフェール・ロシュロー通りで行きますか」

「そうしてください」
その道へ出ればモンパルナス墓地まで一直線、上り下りも少なく乗っているのも楽なので昇ってきた陽の光が窓から差し込む中、うとうとしていたが30分ほどでルノワールのアパルトマンの近くで眼が覚めた。

エメはもう起きていて正太郎にテを入れてブランデーを濃い目に砂糖も多くして飲ませてル・リで寝かせた。
正太郎が目覚めたのは12時をすぎていた、ル・リの脇の椅子でエメはかがり物をしていた。

「ボンジュール・モン・ショウ」

「ボンジュール・ペルソンヌ・ビヤン・エィミ」

「あら、ショウは何処でそんな言葉覚えたの」

「この間読んだ、本の中に出ていたよ。エメ、愛しているよ」
起き上がったショウに優しくビズ(キス)をして「食事にする」と聞いた。

「いや髭を剃ったらこの間話していたリモージュを買いに行こうよ。アラシベッテでタバチュールを見つけたんだ。君へのささやかな誕生日の贈り物にしたいのさ」

「嬉しいわ、シベッテのお料理にパンなんて」

「パンにネギなんかジョネマール(もうたくさんだよ)、スナッフ・ボトルさ冗談は置いといてお昼は何にする」

Loodにたまには顔を出したいわ」

「では其処でお昼にしよう」

「では先にLoodでお昼にして其処から歩いて帰りましょうよ。今日は暖かくて散歩には良いわよ」
正太郎は髭を剃ってエメが用意した服に着替え2人は馬車屋へ向かった。

Loodでオムレツを2人でわけ、ラグー・ド・ブフを食べてママンと街の話題を話して店を後にした。
リシュリュー街をコメディ・フランセーズまで出て、来月の舞台の配役を確かめて道路の向かいのアラシベッテへ入った。

様々なタバチュールの中から卵形の二つを選んでエメの意見を聞いた。
ひとつはたて形でもうひとつは横型のものどちらも4cm×6cmの卵型リモージュボックスだ。

「この二つでいいかな」

「二つもいただけるの嬉しいわ」

エメと正太郎は煙草も嗅ぎ煙草も嗜まないが置物として可愛いと思ったのだ。
二つで26フランと手ごろな値段だ、丁寧に包まれた其れをパニエに入れて手に提げた。

「あら新しいロトリー・ピュブリック(loterie publique宝くじ)が売り出されたのね」
一度禁止されていたくじも慈善事業の寄付、公共施設の建築のために再開されていた。

「コミューンの犠牲者を追悼する寺院の建設が決まったんですよマドモアゼル。ギベール枢機卿(パリ大司教)が昨年から運動されていましたが、寄付を集めるほかに孤児院への寄付と建設費用を市が負担できない分、売り上げから出すと言うことで今日から1枚2フランで売り出されました。40万枚売り出されて孤児院と寺院への寄付が7万5千フランずつで費用を抜いた後の金額を賞金にするのですよ。1等が5万フラン付くんです。2等でも5千フラン出るんですよ」

「孤児院と犠牲者の追悼のためなら買おうよエメ」

「何枚買うの」

「僕のために10枚と君のために10枚」
正太郎が20フラン金貨を2枚出して20枚のビエを受け取った。

「マドモアゼル、ムッシュー、ラ・ボンヌ・チャンス・ヴィヤン(La bonne chance vientおふたりに幸運が訪れますように)」

「メルシー、オ・ルヴォワール」
2人は当たることよりも孤児院へのためにも、くじが全て売れるようにと祈りながら店を後にした。

「あらそういえば何処に追悼寺院を建てるか聞かなかったわ」

「そうか、でも直にリディが情報を教えてくれるよ。ニコラが知っているかもしれないし」

「そうねあの2人ならそういう情報が好きだし、くじはめったに売り出されないけどいつも買っているわ。其れより昨日の人たちペルノンヌ・プロスティチュエに用があったんじゃないの」

「そんな用事なら僕に頼んでも無駄さ。だって行った事が無いんだから妖しげな店はルノワールさんにでも聞かないと知らないよ」

「ほらオ・ラ・クワイ・アドールの側のスルタンなどなら簡単にホテルへついていくそうよ」

「ジュリアンがそう言っていたけどね。行きたければ店を紹介すれば済むさ」

エメは正太郎の尻尾を捕まえようとしているのだろうか、ビガール街の妖しげな店の話をしては顔色を伺った。
2人はルーヴルに入り展示されているセーブルのボンボニエールと嗅ぎ煙草入れに見とれていた。

「綺麗ね、こういうのを作らせるのにいったいいくらお金を掛けたのかしら」

「あの人たちは僕らが10フラン払うようなところを10万フラン払っても平気だったような気がするよ」

「またぁ。ショウはいつも大げさなんだから。でも1000フランは平気かもって、私って貧乏くさい感覚かな」

「今でもブルジョワ階級は贅沢も当たり前という生活だからね、銀行家の中には年収が100万フランを超えている人はざらにいるそうだから」

「そうそうあのイタリアの銀行家とテオドール・デュレが帰国したそうよ」

「どの銀行」

「預金した事無いので知らないの。横浜へ行ったことがあるそうよ」

「パリの銀行家と言うのは聞いたこと無いな」

「大きな銅像を買った人のこと聞かなかった」

「あぁ、あの人かもしれない。ウィーンの博覧会に展示するのにホトケの銅像を買ったと聞いたことがある」

「その人じゃないかな。あんまり買いすぎて家に入りきれないので新しい家をモンソー公園の東側に建てるそうよ」

「普通じゃないね。どうしてそんなにお金が儲かるか知りたいもんだ」

「でも、ショウだって人から見れば相当儲けてるように見えるわよ」

「でも僕のは自分のお金を増やしているわけじゃなくて人が投資してくれたお金をどうにか動かしているだけさ。3万フランが元金だけのほうはやりくりが一杯だし、まだ儲けにつながっていないよ」

「其の気持ちを持っている間ショウはいい商売が出来るわよ。危ない儲け話にのめり込まない様にしてね」

「エメが付いていれば大丈夫さ、ジュリアンも気を配ってくれるしね」
美術品を見ながら合間には絵画以外の話をして夕方まで絵画の部屋を出たり入ったりした。

660センチに990センチもあるカナの婚礼の前ではエメがフランスの英雄のナポレオンがイタリアからの戦利品として持ち出した時に半分に切断して持ち帰ったと教えてくれた。
ヴェロネーゼの事を話してくれるエメはナポレオンを認めていないようだ。

ダビンチのモナリザは80センチも無い小さな絵だが見ていると安らぎを感じさせてくれた。
ルーヴルを出たのは6時まだ陽はトロカデロの上に残りオレンジ温室の屋根に反射していた。

ナショナル橋とも呼ばれていたポン・ロワイヤルを渡ってサンジエルマンの市場へ出た。
市場をめぐって歩いて食事は早いので一度出直すことにした。

「あの店がいいか」

「あの店って何処」

「炎の上がるステーキの店さ」

「いやだショウはお店の名前を覚えていないのね。ビストロ・ラルテミスと言うのよ」

「名前があったんだ。何処に書いてあるか気がつかなかったよ」
エメは店の前まで戻り小さなプレートを指して「これがそうよ」と教えた。



Paris1873年3月20日 Thursday

14日のエメの誕生日以来正太郎は忙しくて手紙を出すのとセディに連絡に行かすほかなく久しぶりに午後にノートルダム・デ・シャン街へ出向いた。

「ドンヌ・モワトン・モントー(Donne moi ton manteau.)」
エメは外套を着たままの正太郎に脱ぐように言った。

「すぐ出かける気は無いの」

「まだ時間が早くてお腹もすいていないし。それならオン・ヴァオ・テアトル(On va au theatre?劇場へ行く?)」

「どこかいい芝居でも掛かっているの」

「お芝居でなくて歌手の人たちの会があるの。サラ・ボードゥワンが10人ほどの若い人たちの会で歌うのよ」

「会場は何処なの」

「サン・マルタン門のルネッサンス座よ。5時から3時間行われるの」

「5時ならもう出かけてビエを手に入れてからカフェでガトーでもいかかがですかマドモアゼル」

「メルスィ・ボク、では出掛けましょうか」

エメは正太郎にハリスツイードのモントーを着る様に言って自分の仕度を始め、自分は其れにあわせて買ったモントーにした。

ビエは良い席が買えて2人はストレーへ向かった。

表の席に座りカフェ・クレームでアリババを食べているとサラが親子連れでやってきた。

「あら、こんなところでお茶なの」

「ご一緒にいかが」

正太郎が聞くと同じ物をとセルヴィスに頼んでモーリスを座らせた.
正太郎が引いた椅子へ腰を下ろすと「今日はこれで帰るの。用事がなければ家に来る。アリスが今お買い物に廻っているのよ」

「残念ですわ。私達これからサラ・ボードゥワンの若手歌手の為の会へ行くのでお伺いできませんの」

「ああ、あの方。そう何処でやられるのマキシムのお店」

「いいえこの近くのルネッサンス座です5時開演なのです」

「あらあそこはそういうことも出来るのね」

「1回きり3時間だけの会なので借りられたそうですわ」

サラが来ていると言うので周りに人が多く集まって、中には挨拶をする人に混ざって5歳くらいの小さな子が母親に手を取られて挨拶をしにきた。

「この子は貴方の事が大好きなの。手を取っていただけません」

「よろしいですわ此方へいらっしゃいな」

サラは其の子をひざ近くに呼び寄せて頬にキスをして「私のお芝居を見に来てくださいね。お名前はなんておっしゃるの」

其の子ははにかみながら「僕、エドモン・ウジェーヌ・アレクシス.・ロスタン(Edmond Eugene Alexis Rostand)サラにいい話を書くから其れに出て欲しいんだけど、良いですか」

「良いわ、私にいい役をあてがってね」

「勿論貴方が主役ですとも、約束します」

「嬉しいわ、私にキスしてね」

かがんだサラに少年は嬉しそうに頬にキスをして母親と一緒に隣の席に付いた。

「サラの信者が1人増えましたね。将来台本を書いてくれる約束をするなんてませたいい子だな」

「ショウ、其の言い方可笑しいわよ。其れを言うなら普通にいい子だでいいのよ」

サラはそういって最近は何を読んでるの言い回しが古風すぎるわよと注意した。

「サヴィニヤン・ド・シラノ・ド・ベルジュラックという人が200年位前に書いた月世界の帝国(Histoire comique des etats et empires de la lune)という本です」

「それでは古い言い方が身に付くはずだわ。新しい物を読みなさいね。でも其の本のあらすじを教えてね」

月の諸帝国の巻では主人公ディルコナがガラス瓶を体に巻き付けフランスからカナダへ飛んだかと思うと,バネ仕掛けで空飛ぶ火の竜に見える機械を作り、それでもう一度月を目指し辿り着いたところで、魔神に出会った後、四足の人獣たちに捕らえられてしまい人獣たちはディルコナを王宮へ連れて行き、猿だと思って王妃の鳥籠に入れてしまう。  

太陽の諸帝国の巻では月から帰還したディルコナは、パリヘの帰り道に友人を訪ねて滞在したが言動が異端の魔法使いと怪しまれ、捕らえられて火刑に処せられそうになる。

友人が助けようと尽力しているが新たな機械を作って飛び立ち、太陽へ着くと王様と出会う。鳥の国では裁判にかけられ、ドドンナの樫の木の子孫からは、恋人たちとその木の実の話を聞くのだ。

エドモンとモーリスは眼を輝かして正太郎の話すことを聞いた。

「ねえショウ、ほんとうに月へいけるの」

「難しいだろうけどいつかはいけるさ。ジャポンでは月にはかぐや姫様という綺麗なプリンセスがいるという話が伝わっているんだよ」

「では僕が其のプリンセスに会いに行こう」

「僕も行きたいな」

2人の子供は楽しく話をして別れた。

アリスが買い物から戻り、馬車のところまで正太郎が荷物を半分持って付いていった。

「また遊びに来てねショウ」

「来月になったらかならず行くよ。モーリス君に贈り物がジャポンから付く予定なんだ」

「本当なの嬉しいな、何が来るんだろ」

「楽しみに待っていてね」

「うん、待ってる」

正太郎とエメは馬車を見送ると開演時間が迫った劇場へ向かった。

Allons enfants de la Patrie, 

アロン ザンファン ドゥ パトリーユ 

Le jour de gloire est arrive!

ジュール ドゥ グロワー() タリヴェ

Contre nous de la tyrannie, 

コントル ヌー ドゥ ティラニー

L'etendard sanglant est leve, L'etendard sanglant est leve,

レタンダール サングラン ルヴェ レタンダール サングラン ルヴェ

Entendez-vous dans les campagnes 

アンタンデ ヴー ダン カンパーニュ

Mugir ces feroces soldats?

ミュジール フェロース ソルダ

Ils viennent jusque dans nos bras

イル ヴィエンヌ ジュスク ダン ブラ

Egorger nos fils, nos compagnes.

エゴルジェ フィス コンパーニュ

Aux armes, citoyens!   Formez vos bataillons!

ザルム シトワイヤン フォルメ ヴォ バタイヨン

Marchons! Marchons!   Qu'un sang impur

マルション マルション カン サン カンピュール

Abreuve nos sillons!

アブルーヴ シヨン

さあ、祖国の子供たちよ、栄光の日がやってきた、ラ・マルセイエーズで始まった歌の会は、シャンソンに古い民謡などを色々な歌手が歌い、パリ・ミュゼットの時代から続く名曲が歌われた。


腰まである黒髪にベレーを被ったスタイル抜群の歌手が出て来てAve Mariaをシューベルトの調べに乗せラテン語とフランス語で歌った。


Ave Maria, gratia plena
Maria gratia plena
Maria gratia plena
Ave Ave Dominus
Dominus tecum
In mulieribus
Et benedictus
Et benedictus fructus ventris
Ventris tui
Jesus
Ave
Maria.

Je vous salue, Marie pleine de grace ;
le Seigneur est avec vous.
Vous etes benie entre toutes les femmes
Et Jesus, le fruit de vos entrailles, est beni.
Sainte Marie, Mere de Dieu,
priez pour nous pauvres pecheurs, maintenant et a l'heure de notre mort


プレジール・ダムールをサラ・ボードゥワンが歌い観衆の喝采を浴びた。
   

Plaisir d'amour ne dure qu'un moment,  Chagrin d'amour dure toute la vie.

J'ai tout quitte pour l'ingrate Sylvie.  Elle me quitte et prend un autre amant.

Plaisir d'amour ne dure qu'un moment,  Chagrin d'amour dure toute la vie.

最後はサクランボの歌で会場も巻き込んでの大合唱となった。

  
Quand nous chanterons le temps des cerises
Et gai rossignoles et merles moqueur
Seront tous en fete
Les belles auront la folie en tete
Et les amoureux du soleil au coeur
Quand nous chanterons le temps des cerises
Sifflera bien mieux le merle moqueur

予定通りに8時に終わりエメと正太郎はサラ・ボードゥワンの楽屋へ訪れた。

「良かったわサラ」

「メルシー・エメ」

正太郎も今日の歌手の中で気に入った2人を話題に乗せた。
あのアヴェ・マリアを歌った黒髪の人が良かったとサラに伝えた。

「そう綺麗な声ね。もう少し哀愁が出れば良い歌い手になるわ。まだ17よ」

「えっ、17なんですかとてもそうは見えませんでした」

楽屋を覗く顔が見えて「サラお邪魔してもいい」と聞いてきた。

「良いわよ後30分は大丈夫よ」

「ボンソワ・ショウ、ボンソワ・エメ」

ベレーに黒い短髪のロレーヌ・アフレが顔を出した。

「あらロレーヌ、ボンソワー。今日はお休みなの」

「アッ。やっぱり気が付いてくれなかったんだ。舞台の上から見えたのに、この間ヴァレンティノに来たときも呼んで下されないし」

「ごめんね、この間は何時もと違う人を接待していたの。次のお店に行くのであわただしくて呼べなかったのよ。でも」

「エメ、あの黒髪の」

「あら貴方この間と違う長い髪の鬘も作られたの」

これでしょとパニエのフラールの下から黒髪の鬘を取り出した。

「もう、何で自分の髪で歌わないの」

「だってこの方が雰囲気に合うと思ったのよ、ねえ其れより今晩お店を休む事にしてあるの、どこかに連れて行ってくださらない。おなかがすいたの」

「もうこの子は、子供みたいな事を言って」

「だってMereはお仕事でしょ」

「え、サラのお嬢さんなの」

「そうよ」

「だって貴方17でしょ」

「そうメールが私の年の時には子供持ちだったのよ」

2人は驚いたが自分たちのことを考えればいつ子供ができても不思議で無いのだ。

「何処がいいのサラは今日もマキシムのお店でしょ」

「そうこの子が居ると落ち着かないから、他のお店に連れて行ってくださる」

2人は承知して、他に一緒に行く人はいるのか聞いた。

「ううん、居ないわ、お邪魔でしょうがお願い」

エメもこの子には弱いようだ、自分と同じ年と言っていい子だが妹のように思えるらしい。

「小さなビストロがいい。それとも高級なレストラン」

「レストランより街のビストロが良いわ」

「ショウどこかいいところがあるの」

「そうオ・ラ・クワイ・アドールから余り離れていないところでシャ・キ・ペッシュという面白いお店があるんだ。何時行っても陽気な人たちがアコーディオンやギターで歌っているんだよ。勿論お客だけどね」

「わぁ、あたしそういうお店行ったことが無いの。お食事も美味しいかしら」

「ステーキとジャガイモににんじんの温野菜が僕はお薦め。肉は硬い物でも柔らかい物でも」

「素敵ね、私歯ごたえのある肩肉のステーキが好きなの」

話が決まりサラも同じ馬車で仕事に送り、サン・ミシェル河岸のシャ・キ・ペッシュへ連れて行った。

相変わらず立派な髭とお腹は、連れてこられたエメとロレーヌには頼もしく思えたようだ。
ヴァン・ショーを頼んで正太郎が好きなソーセージとジャガイモのフライを頼み「今日のお薦めは」

「今日はノルマンディからいいステーキ肉が入りましたよ。硬い肩肉でも柔らかいひれ肉でもお好みのままに」

「では肩肉のステーキ僕はよく焼いてください」

「私はあまり焼かないで」

「私も」

「後は何をご希望ですかな、ヴェルミセルにマカロニ、グラタンに、パエリア、鳥のラグーなどとじゃがいものスフレ−(Souffles de pommes de terre)が今晩のお薦めです」

「鳥のラグーはクレーム煮なの」

「そうですマドモアゼル」

「ではそれとヴェルミセルにするわ」

エメもヴェルミセルを頼み正太郎とオムレットを分けて食べる事にした。

「今日は静かだね」

「そう今日は皆さんお出かけでね。もう直帰ってきますよ。すぐ賑やかになりますよ」

注文した最初のソーセージとジャガイモが出ると同時のように外からアコーディオンの音と一緒に歌声が聞こえ何時もの陽気な連中が帰ってきた。

「大分遅かったね。時間が延びたのかい」

「いや途中で一杯引っ掛けてきたのさ」

それで席に座ると酒につまみにとサラダが出されている様子は何時もと同じ風景だ。

いっぺんに店は陽気になりエメもロレーヌも楽しそうだった。

ワインを頼んでいいかしらとロレーヌが正太郎に聞いてきたので「ブラン、ロゼ、ルージュ」

「ルージュ」

と言うのでステーキに合わせて出してもらうことにした。

「家には高級品は無いよマドモアゼル」

「そんな口は奢って居ませんのムッシュー」

「ではシャトー・アニーというのが有りますから其れでいですか」

正太郎が其れをお願いしますというと65年のアニーが出てきた。

思わず顔がほころぶと親父は「おやムッシューはご存知のようだね」と見破った。

「ええ、ボルドーへ出かけたときに飲ませていただきました」

「そうかねムッシューはどう思うね」

話をしながら栓を抜いてグラスに注いだ。
香りを確かめて「ああ、あの日に飲んだのと同じ香りです。保存が良いですね、飲み頃の温度でまだ開けたばかりなのに塩気と樽の香りが残っています。花の香りがしてきました」

一口飲んで味を確かめてゆっくりとまた一口「活気に満ちた果物の香りで 木苺に黒スグリのような香りが混ざっています。とても美味しいです」とつい評価をしてしまった。

「ムッシューは酒屋さんかね。それともワインの醸造でも」

「僕はジャポンへワインを輸出する仕事をしています」

「ほう、そうかねそれでな。こいつはいいワインのようだね。5フランで出すのは惜しいかな」

正太郎は驚いたが黙っていた、セカンドでも正太郎の買値は100本600フランだったのだ。

「いいのではないでしょうかお客も喜びますよ。沢山有るのですか」

「いやこいつは50本だけだ」

「ずいぶん買ったんですね」

「ああ、売り込まれてな、こいつを含めて250本を800フランで買い取った。持ち主がシーヌでな、全部であと3000本あるから買わないかといわれたがそんなに余裕が無いのだ」

「その人まだ持っているようですか」

「そうさ、仲間が死んじまって急いで売りたいらしいが本人はワインの事がわからないそうだ」

「それ親父さんが話しに乗るなら僕も相談に乗りますよ。何があるか調べてくれませんか」

「良いとも、その代わりうちのワインの値段も正当かどうか見てくれるかい」

「僕の師匠の酒屋を連れてきて良いですか。明日にでも昼間来ても良いですが」

「よし決まりだでは今日のワインはおごりだもう一本出してあげるよ」

ステーキのソースにヴェルミセルを入れて良いかしらとロレーヌが聞くと嬉しそうに「ああ、良いですともマドモアゼル。私のソース気にいってくれた様だね」

「とても美味しいですわ」

親父はにこやかに笑ってワインを1本出してきた、冗談ではないラネッサンだ。

「2人は此処でお酒を飲んでいて」

正太郎は親父に「ワインは買った分はもう出さないで。僕が帰ってくるまでお店を開けて置いてください」と頼んで店を飛び出した。
馬車が客を待っていたのを見つけ「ルピック街」と言うと10フランを渡してこれで急いでくださいと頼んだ。

店ではあっけに取られた親父とロレーヌだがエメは「すぐ戻りますわ、お友達を此処へ呼ぶつもりですわ」と落ち着いてみせワインとオムレットを楽しんで「ショウの分貴方食べてくださる」と聞いた。

「良かったそれも頼もうかと思っていたの。じゃがいものスフレ−も頼んでいいかしら」

「勿論良いわよ。貴方健啖家ね」

「そうなの、それでお客さんに誘われてもつい遠慮しちゃうでしょ。それなら自分で頼めるお店に行くほうがましなの」

「それならまだ食べられるなら頼んで良いわよ。でもワインはこれで終わりよ」

「良いわお姉様、ガトーはあるかしら」

ロレーヌはしっかりエメを姉にしてしまった。

「マカロンならありますよ」

「5つ欲しいわ、お姉様は」

「2つで良いわ」

「7つでよろしいですか。すぐ出しますね」

セルヴァーズはすぐ出してくれた。

「美味しいワインね」

「本当ねおごりだなんて気前が良いわ」

鳥のクレーム・デ・ラ・ラグーはとても美味しいとワインを飲みながらロレーヌはご機嫌だ、食べるほうもそうだが飲むほうも強そうだ。

東洋人の2人連れが店に入って来て親父さんと話を始めた。

「買うのはいいが、知り合いを紹介して其の人たちが金を出すがそれでもいいかな」

「後2500本あるから8000フランで買ってくれないか」

「そりゃ高いよ」

「酒屋で買えば倍は取られるはずだよ」

往復10キロ以上の道を正太郎はジュリアンとマルクを連れ出して1時間で帰ってきた。

「親父さんこの人が僕の先生」

正太郎がそういうと奥から出てきた二人が広東語で聞いてきた。

「お前国の者か」

「上海ですが広東語も寧波もわかります」

「そうか俺たちはマカオから来た、今親父が間に入ると言っていたがお前の事か」

「そうです。此方は僕の相棒」

ジュリアンに2人はマカオから来ているそうですと話して「まだ大分あるのですか。彼はキャバレーに酒を卸すので安ければ買って良いといっています」

「何処が取引先だ」

「オ・ラ・クワイ・アドールという新しい店です」

「ああ、あそこか、なら良いだろう。危ないところじゃ此方もやばいのでな。打ち明けると高い酒らしいが俺たちにはルートが無い。その道をつける奴が誰かにスナッフされちまった。俺たちもこいつを処分してパリをずらかるのさ」

ジュリアンに言うと肯いたので明日昼現金を用意するが品物を見て値段にあう買い物なら金貨で引き取るというと「どこか安全な場所で」と言うことに為った。

「今日見本をもっているか」と聞くと250本持っているというのでジュリアンに聞くと其の分なら持って来たと言うのが聞こえたようで見てくれと表に誘った。
馬車の荷台にカンテラをかざして見るとジュリアンも肝をつぶしたようだが其処は顔に出さずに「一度店に戻ろう」と店に入った。

「どうだいいい酒だろ」

「ああ250本800フランは今日払って引き取るよ。それで明日は何処へ行けばいいかな」

「モンマルトルのサンバンサン墓地のブドウ畑のキャバレーがあるだろう。あそこいらで落ち合おう」

「良いだろう判りやすい場所だ。で、何時にする」

「出来るだけ早いほうがいい」

「では銀行から降ろす時間が必要だから11時だ」

「良いだろう」

「では明日2250本確認したら7200フランを金貨で払うよ本数が足りなければ其の分4フランずつ差っぴくがいいか」

「仕方ないな、其れで良いよ」

ジュリアンは金を渡して5人で待たせた馬車に積み込んだ。
2人の荷馬車が去るとマルクに馬車で見張っているように伝え、あっけに取られている親父に買い入れたワインを評価させてくれと地下室へ正太郎もつれて入った。

上ではそれも知らぬげに陽気にアコーディオンの音が響きエメとロレーヌも巻き込まれて歌いだしていた。

「親父さんざっと見たところ倍の値打ちはあるぜ。特別に高い物だけ選り分けようか」

「ほんとかい、頼むよ」

2人で手分けしてラネッサンを20本見つけた。
後はシャトー・レオヴィル・バルトンが12本、マルゴーまでが36本もあるには驚いた。

ラフィット・ロートシルト12本、オー・ブリオンが12本出てきたには開いた口がふさがらないジュリアンに変わって「親父さんこのワイン聞いたことが無いかい」といった。

「いや知らんな。家じゃボルドーかブルゴーニュという名前でしか仕入れていないし3月に一度くらいしか酒屋も此処に入らないしな。普段は5本か10本の酒を買うくらいな物さ」

「親父さんよ、あいつらのねぐらを知っているのかよ」

「いやしらん、あいつらを連れてきたのは飲んだくれの爺さんで3日前に天に召されちまった。72じゃ長生きしたくらいなもんだ」

「こいつはお宝だぜ。この90本で2000フランじゃきかないぜ」

「止せよ脅かすなよ。怖くなるじゃねえか。其れが本当ならお前さんにやすく出すから其れに見合った安酒を入れてくれないか」

「良いとも、取りあえず明日の夕刻に持ってくるが其れまで大事にしなさいよ」
親父も大分落ち着いてきたか「それじゃ大分儲けたか、ロトリー・ピュブリックにでも当たった気分だ」とご機嫌になった。

「ショウ明日俺のほうで現金を持っていくから時間にあの角へ出てこいよ」

「判った、此方は手ぶらで行くよ」
明日の打ち合わせを馬車の脇でして正太郎は馭者に此処の店にいるから迎えに来てくれるように頼み、ジュリアンは助手席に乗って帰っていった。

1時に馬車が戻って来て正太郎はロレーヌを送り届け、その晩はエメのアパルトマンへ泊まった。
エメは正太郎に「話が収まったらどういうことか教えてね」というのみだった。



Paris1873年3月21日 Friday 

朝正太郎は日の出前に起き出し、馬車屋で支度を頼むとメゾン・デ・ラ・コメットへ向かった。

川路は起きていて正太郎の話し聞くと「此方から手配をしておくからそちらは金を出して引き取るだけでいい。悪くとも金が取り返せるだけの手配はしてもらうよ、後は任せるように」とオルフェヴル河岸へ出かけていった。

村田が護衛についていこうかと聞いたが向こうに警戒させれもいけないので大丈夫ですと答えたが「ジュリアンにも相談するのだろ、俺も付いていくよ」と言ってくれた、パリは平和すぎて退屈しているらしい。

待たせておいた馭者へ「ルピック街12番地、クリシーから入ってすぐの酒屋」と告げてジュリアンと相談に向かった。
7時に曇り空から顔を出した太陽は春を告げる暖かい日差しをクリシーの通りへ投げかけた。

「ショウもそう思ったか。俺のほうもヤマシローの品物だと危ないので手配はしてもらった。とりあえず買い取って相手は向こうで後をつけるそうだ。あそこの店のことは俺のほうで引き取ると言って置いたから其のつもりでな。此方に引き取れば其れで損をしても其の時はオルフェヴル河岸に提出すれば済む」
ジュリアンはあそこへ累が及ばないために損を覚悟で交換するつもりのようだ。

ジュリアンが銀行へ金をおろしに出かけ、マルクが三台の荷馬車にロバを借り出し、軛に繋げると村田を真ん中にルピック街を登った。
ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットの前をル・コンスラまで登るとア・ラ・ボンヌ・フランケットの脇を下ってブドウ畑の脇へ荷馬車を止めた。

村田はフードを被り先頭の馬車で目立たないようにした。

10時45分に同じように坂を下ってきた馬車が3台の荷馬車に並ぶように止まった。
ジュリアンが金貨の袋を覗かせた後5人がかりで荷を積みかえた。

「数はあっているが、金を数えてくれ。全て50フラン金貨だ。それと盗品じゃ無いと証明出来る書類はあるか」

2人のマカオから来た男は相談していたが書類入れをジュリアンに渡して「これがネゴシアンの領収書だ」と渡し荷台で金貨を積み上げて確認するとふたつの袋に分けてそれぞれが持つと「じゃ元気でな」と言って角で馬を廻すと去っていった。

「何処で見張っているのか気配が感じられんな」

M.ムラタ、そいつは遠回りに見張っているからでしょう。要所要所に見張りを立てて騎馬警官がどこかで指揮を執っているはずですよ」

メゾンデマダムDDのほうから川路が上がってきて「今連絡を貰った俺のほうには来なかったので、これから次のつなぎ場所へ向かう」というと足早に坂を登っていった。

「では俺たちも店へ戻ろうか。親父の店へ渡すワインと積み替えようぜM.ムラタも、もう少し付き合ってください」

「良いとも今日は1日付きあわせて貰うよ」

店に戻り酒の積み替えを終わると川路とM.デュクロがやってきた。

「ヨォ、ジュール元気だったか」

「警部もお元気なようで。今日はご苦労様です」

「あいつらの後はつけて家は見つけてある。だが例の殺人事件の犯人では無いよ。前に調べた時此処半年はルアーヴルにいて事件の翌日に向こうから酒を運んでパリに入った事が報告書に書かれていたよ。シーヌと言うので調べたらしい」

「そうですか、これがネゴシアンの売り渡し証明です、ほかにも何か入っていますが確認していません。ただ例のヤマシローの品物だとジャポンの政府に引き渡す事になるかもしれませんので、例の分も引き取っておきます」

「良いだろうこれは預かっていいかな。これからJapon Legationへ荷をどうするか聞きあわせに行ってくるが、売り渡し証明があるからそのまま君のものになるだろう。あの2人も荷を搾取した物でなければそれで打ち切りだ。いい判断だったよ」

2人は表で待つ騎馬警官と馬でラ・レーヌ・オルタンス街へ向かって去った。

村田と正太郎は朝を食べていないのでエメが支度した朝昼兼用の食事をして、3人で荷馬車へ50ケースずつを積み込んでシャ・キ・ペッシュへ向かった。
親父にとりあえず多めに持ってきたと箱を下ろし、地下から4人で荷を揚げて正太郎とジュリアンで其の価値を計算した。

ジュリアンは其の中からシャトー・アニーを30本別にした。

「親父さんこいつは7フランで客に出したほうがいいから別にしておくよ。飲んだ奴の幸せというもんだ。それから高級品を少しは置いておくかい」

「そいつらいくらぐらいで出せばいい」

おおよその酒場での値段を言うと「ブルル、そいつはごめんだ10フラン以上出すやつなんぞ俺の店にきて欲しくないよ」と断った。

「親父さん、こいつは正規のネゴシアンの売値は4500フラン位にはなるな」

「俺はそんなに要らんよ、其の半分に相当する安ワインを呉れれば良いよ。後はそっちの儲けにしなよ」

平均が21フラン22サンチーム212本のワインに対して20種1476本のワインを出してそれぞれの卸値段と合計金額を計算して見せると「2686フランと32サンチームか、それで充分だよ。本数も7倍に増えたかえらく儲かった気がするよ」と安心したようだ。

平均が1フラン82サンチーム余り、高い物でも3フラン7サンチームだ。
シャ・キ・ペッシュが買い取ってからまだ8本しか減っていなかった。

「ジュリアンこれがこのまま下げ渡されればえらく儲かるね」

「そう行けばな。後はM.サメジマの判断まちだよ」

店に戻りロバを軛からはずして、マルクが貸し馬屋へ返しに行った。

全てで2712本引き換え分を入れれば1万686フランは相当な儲けが見込まれた。
ジュリアンの見込みでは最低でも3万2千フラン程度、差額が2万1300フラン以上1年寝かしてもすごい値打ちだと村田に説明した。

「これが全て俺のものになったらショウにはボーナスを弾まなけりゃな」

「そんな気を使わなくても良いよ」

「いやいやそういうもんでも無いぞ、ショウが金を貰えば俺たちに飯と酒をおごる金に不自由せんぞ。貰いなさい」

「な、M.ムラタもそういうんだ。サメジマからの連絡が楽しみだ」

倉庫に積み上げてほっとしたところに川路が1人でやってきた。

M.ドゥダルターニュ、君の勝だよ。公使館はあの書類を調べた結果、山城屋があの2人に売り渡しをした事が書かれた書類を見つけた。山城屋が金を受け取ったかどうかは闇のなかだ、其れを警部が裏書して公使に渡して受け取りを貰った。だから君には何のお咎めも無しだ。警視庁を信頼してくれてありがとうと総監からも言付けを頼まれた」

ヤッターと正太郎は心の中で叫んだがジュリアンは「ブラボー、今日は宴会だ」と飛び跳ねてエメに報告に階段を飛び上がるように駆け上がった。

「やぁ、フランス人と言うのは派手だな」

「本当だ。びくびく物で手を出したようだが。大当たりだな。馬の不人気が一番になるよりすごそうだ」

そういえば競馬の話をあれ以来ジュリアンがしないのはエメのせいかなと正太郎は思ったが馬に興味は無いのですぐに忘れた。

「どうだね今晩は何処で宴会をするかね」

「奥さんはどうする」

「うちのは実家に行く時に使いたいからレイエキャンバスを大小二つで良いとさ。安いもんだ」

「ジュリアンまだ売れても居ないうちからはしゃぎすぎだよ」

「ショウお前にも2000フラン出してやるよ。明日にも500フラン、ある程度売れたら其の時々で500フランずつだぜ」

「しめた。其のほうが良いぞ。それで4回はショウに集れる」
川路も、村田も期待に満ちた眼をされては正太郎も金を断る理由がなかった。

「ではシャ・キ・ペッシュにも顔を沢山出して親父さんと話しに行くかな」

「どうせ夜に飯を食いに行くならあそこが良いだろうぜ。なんせ安いしな、それにワインは当分アニーが安く飲めるぜ」

「本当だ、でもなぜかな、自分の酒なら元値なのに、あそこで飲むほうが美味くて安い気がするよ。でもラネッサンを飲まずに飛び出したのは惜しかったね」

正太郎の顔を見て村田がこれから幾らでもジュリアンが飲ませてくれるさと3人で大笑いだ。

「はは、お前外で飲む酒が美味いのは其れが男というもんだ。女には判らない事さ、しかしあの黒い髪の娘は可愛いな何処で見つけた」

「ジュリアンはヴァレンティノへ行ったことは」

「サラが言い出して付いていった事があるだろ」

「あの時席へサラが呼んだ娘だよ。サラ・ボードゥワンの娘さんさ」

「オイオイ、あの娘どう見ても20歳にはなっているだろ」

「まだ17だそうだよ」

「ませた娘だな、其れにしたって勘定が合わんぞ」

「ジュリアンはサラ・ボードゥワンがいくつに見えたの」

「どう見ても30そこそこだぜ」

「17の時の娘らしいよ」

「それでも、あれ、あの時ヴァレンティノで呼んだ娘は金髪だったぜ」

「ベレーの下は鬘で自分の髪はその下に巻き上げてあるそうだよ。昨日は歌の会があって化粧も少し大人っぽくみせているのさ」

「そうか、お前のマリーもフォリー・ベルジェールで会ったときは大人っぽかったものな」

ジュリアンはどうやら納得して「では着替えてこいよ。ニコラたちを誘ってもいいぜ。8時までにこいよ」と鷹揚に告げた。
3人はオムニバスで事務所まで行くと「7時半に迎えに行きます」と2人に告げて事務所に上がった。

M.アンドレと連絡事項を話し合ってメゾンデマダムDDへ着替えに戻った。
着替えをしてMomoに「今晩も帰らないかも知れないよ、もしかすれば他の3人は12時までに帰らせるよ」と告げて帰ってきた3人組を誘ってメゾン・デ・ラ・コメットへ向かった。

2台の馬車でジュリアンの家へ向かい7人で何処へ行くか話し合った。

「まずタヴェルヌ・アンリ・キャトルという名前のワインバーとか言う店で偵察がてらの一杯をやってフォリー・ベルジェールと言うのはどうだ」明日の仕事に差し支えないように今晩は軽く行こう」

財布はジュリアン持ちなので誰も反対意見はなかった。

ポンヌフにある居酒屋タヴェルヌ・アンリ・キャトル(Taverne Henri W)は最近開店したワインと簡単な料理だけのシンプルな店だとジュリアンが話して、いいところと悪い所を教えてくれと頼んだ。

「ショウ、仲間のバスチァンとジャンから安い酒を沢山買い入れてやら無いと倉庫に安物が少なくなった。それと良いのを安く10ケースくらいはまわしてやろうと思うんだが、どうかな」

「良いと思うよ、あの2人からまた1万フラン位僕のほうもそろえてもらおうと思うのでそれも仕入れるように頼んで置いてくれるかな。セディが連絡に回れない分中々情報がつかめないんだ」

「良いとも少しM.イワクラのおかげで忙しかったようだしな」

川路が思い出したように正太郎と村田に話をした。

「実は本国から木戸先生と大久保先生に至急帰国せよとお召しがあったそうだ。月末にな大久保先生がパリへ来てマルセイユから帰国されて、木戸先生は一月ほど廻うとこいがあっとで遅くないそうだと鮫島さぁがやっていた」

「東京で何があったか判らんのか」

「そいつは鮫島さぁも良く判らんとゆていたが、朝鮮の問題がこじれたかもしれんともゆていた」

東京では西郷が朝鮮への使節に自分が出ると言って軍部の暴発を抑えていたのだが、人によっては西郷が朝鮮征伐の首謀者であると見られても居たのだ。

三条太政大臣は中立で談判使節に西郷が出ると言うのを岩倉使節団が戻るまで待てと抑えていたのだ。
世の中には西郷が征韓論を引っさげ、武士の徴兵を持って軍を組織するとの憶測で、その時には志願すると今にも戦が起きる事を期待する者が多くなっていたのだ。

ジュリアンには「M.キドとM.オオクボが先にジャポンに帰ることに決まった」とだけ話しておいた。
村田に川路は其の程度の会話は充分判るので「今月末か来月はじめには大久保先生がパリへ戻ってくる」とジュリアンと其の時は歓送会を開こうと話し合った。

馬車で20分ほどのタヴェルヌ・アンリ・キャトルに着いたのは半月がトロカデロの上に見える7時半をすぎていた。
其の上にカペラが王冠となり金星は月の下に輝き火星の姿は見えなかった。

店は静かにワインを楽しみ簡単な食事を提供する上品な店だった。
フォリー・ベルジェールで飲み直しをする一同には少し物足りなかったようだ。

「やはり音楽が無いと詰まらんな」
村田はニコラにパリの音楽家の集まる店などを教わりながらブランデーを飲み、ダンは今の店についてジュリアンと意見を戦わせていた。

其の晩は明日のこともあり早々と引き上げ次回は朝まで飲もうと家路に着いた。



Paris1873年4月2日 Wednesday

大山と大久保がベルリンからパリへ入ったのはこの日の朝だった。

インターコンチネンタル・ルグランへ宿を取り7日パリを発って途中リヨンで見学をしてマルセイユへ向かい13日の横浜行きの便船で発つ事になった。

大山は5日にはまたジュネーブへ戻ると言うので「大山さんがパリにいる間に薩摩からの留学生諸君と写真を撮ろう」と大久保からの提案でキャプシーヌ街のナダールの写真館へ前田に新納が通訳として付いて4日に集まった。

この日鮫島も公務の間を縫って出てきて撮られた写真は良く撮れていた、カメラ側から見ると下のように写された。
大山巌、後列右から2番目。川路利良、後列右から3番目。村田新八、後列右から4番目。

大久保利通は、中列右から4番目、其の右は新納で一人おいて右端に鮫島がおさまった。

前田正名は前列右から2番目などに並び大久保がマルセイユへ発つ前に前田が受け取って配って歩くことに為った。


其の4日の夜8時から大久保の歓送会がイタリアン大街のレストラン、カフェ・アングレで開かれた。

主催は薩摩を代表して鮫島が30人ほどを招待して行われた、正太郎とエメにジュリアン夫妻にも招待状が送られ賑やかに晩餐会が開かれた。
マーシャル夫妻も出てきて大久保との別れを惜しんだ。

11時に会が終わりカフェ・アングレを出る大久保たちと入れ替わるようにオペラや劇場帰りの人たちが入って来て店の前は混雑していた。
正太郎は村田に川路が同じ馬車でエメを送ろうと先にノートルダム・デ・シャン街へ向かった。

馬車はコンコルド広場からコンコルド橋を渡って左岸へ入りサン・ジェルマンの大通りを登ってノートルダム・デ・シャン街へ向かった。

アパルトマンの前でお休みのキスをして2人で夜空を見上げると月はまだ出ていないが中天にはカペラが光っていた。
エメがエリクトニオスの神話を話してくれたときから2人はこの星に心が引かれて冬の夜空を見上げると一番に探すようになっていた。

正太郎が先に下りてMomoが開けてくれたドアから入ると歯を磨いたがすぐにル・リに入らずに今日聞いた話を考えていた。

鶴屋さんが正太郎にパリでの販売用に送り出した団扇と扇子に内掛けなどの衣装をウィーンへ送らないかという話だ。

鮫島の話を聞いてみると他の物が出展しているが品物が少ないという話なのだ。
東京の若井兼三郎が既にウィーンに入り漆器等を自費で購入しウィーンで販売しようとパビリオンへの出店の準備に入っているので其処へ追加の品を送れないかというものだ。

ウィーン万博には陶器も多く飛騨高山からは渋草焼きも送られ有田焼は陶芸研究員として納富介次郎や川原忠次郎がウィーン入りをしていた。

アレクサンダー・フォン・シーボルト、ハインリッヒ(ヘンリー)・フォン・シーボルト兄弟も佐野常民を助けてウィーンでの準備に忙しいとも聞いた。

ヘンリーはオーストリア・ハンガリー帝国の日本公使館に勤務していてこの博覧会のためにウィーンに来ているそうだ。

7日の日のマルセイユへ発つ大久保の見送りには大勢の人が集まりリヨン駅は賑わっていた。
見送りに来ていた鮫島に正太郎は昨晩の話を了承して扇子と団扇、薩摩焼12代沈寿官の白薩摩錦手大花瓶一対を送り出すことに同意したことを伝え送り先の連絡をしてもらう事にした。 

「はは、薩摩焼きはもう出ているがそれも良いだろう。売り上げはわしの方で必ず徴収してやるよ」

鮫島は日本国としての保障という形を取ると約束をして長田に其の取り扱いを命じてくれた。

13日のパック(復活祭)に向けて教会ではミサが行われていて、正太郎はエメと見送りの帰り道、連れ立ってサン・シュルピス教会を訪れる事にした。

その道を2人で歩きながら正太郎とエメはウィーンの話をした。

「其のエキと言うのは予言なの」

「予測というほうがいいかもしれないよ。予言に近いけど霊能による神託とは違うのだよ。昔のシーヌの人が作った範例を基にして心を統一して占うんだよ」

「ならやっぱり予言じゃないの」

「星占いと近いかもしれない」

「まぁ其れはいいけど、ヴィエンヌ(ウィーン)に疫病が流行るとか銀行不安とか言うのにショウは品物を送り出しても大丈夫なの」

「疫病は何処に居ても起こりうることで其れが元で博覧会が駄目になることは無いよ。銀行もそれで破産する人ばかりとも限らないしね。破産する陰で誰かが大儲けをしているはずだよ。と言うことは一般の人には大きな痛手にはならないと言うことさ」

「まぁ、気楽なことを言って、ツルヤサンへの支払いはどうするの」

「売り上げ金額がわかった時点でトラヤへの商品の売り渡し金から相殺してもらえば良いさ。扇子と団扇は浮世絵より安いから良く売れるだろうからまた入れるよ」

「ウキヨエとヨコハマエはお金を払っていないじゃないの」

「ルノワールさんから絵を買い入れたからそれが元値のようなものだよ。650フランに後マイクの絵に195フラン、ラモンに200フランだから1045フラン。まだ送っていない分は2000フランくらいの絵が眠っているよ」

「1045フランの絵で5000フランのホクサイにウタマロのウキヨエ・アンプリメなの」

「トラヤの会長がこれで小遣いにしなとくれた物だからタンギーさんに値段をつけてもらったらそうなったのさ。だから差額のうち半分でまた絵を買い入れたんだよ」

「ならお小遣いに当分不自由していないのね」

「そうさ、それとこの間のワインの儲けからジュリアンもお小遣いを呉れるしね」

「知っているわよロレーヌに指輪をあげたでしょ」

「もうばれたんだ。あの娘も口が軽いな」

エメは正太郎のお腹の後ろをつねって「私に黙っているなんて妖しいぞ」とおどけて言った。

「黙っているというより話す機会が無いからさ。君に相談したくてもあの時は偶然サン・トノーレ街で出合ってしまって勢いでモレル=ニトの店で買ってあげてしまったんだ」

また同じところをつねられてしまった。

「ウチワはヨコハマでは幾らぐらいで作れるの」

「パリへ送ってもらうのは特別に作らせるから1000枚で310フランだよ」

「また嘘ばかり言って、31サンチームの物を1フランで卸すの」

「だって送り代に他の物も一緒で5000フラン掛かるんだよ、センスが3000本にウチワが3000本だよ、半分の2500フランは上乗せしないとね」

暗算をしていたエメは「ウチワが930フランで船賃を1250フランに計算すると2180フラン、73サンチームくらいね。それなら驚くほどの儲けでもないようね。其れでウィーンにはどのくらい送るの」

「2000本送ればいいかな。今朝電報を打ったから5月の末には5000本ずつ入ってくるよ」

「センスは儲かるの」

「1等2等3等と有って安いのは1000本1000フラン、2等が2800フラン1等は5000フランの合計8800フランと1250フランで1万50フラン」

「両方で12230フランあればいいのね」

「そうなるね、サツマと言うのはお金については何も言ってきて居ないから贈り物かな。前にヨコハマで先生が買い入れたときに3つで200両であると言っていたから対で来るから900フランに送料が掛かる計算かな」

「後は何が来るの」

「日本の服が10人分にこの間サラが買ってくれた人形にモーリスにあげる品物だよ。それとセントル(ハンガー)などの小物も色々」

「バーツにはあげないの」

「バーツはこの間の人形を貰ったつもりのようだもの。彼女欲しいといえば貰える物と思ってるようだよだから今回は無しさ、それに男の子用の飾り物だからさ」

正太郎は端午の節句用に兜と旗指物の精巧なもの一組60両で3組を横浜物産会社へ発注したのだ。
新しい物でなく古い鎧兜を修復した物は本町通のお土産屋では30両から200両で売っていたし、太刀でも拵えが豪華な物はなまくらでも50両以上していた。

「其の値段を聞いてもいい」

「サラとバーツに渡した人形と同じ値段だよ。2人分のだけどね」

「そんなにいい物をあげるの」

「サラにはずいぶん儲けさせてもらったし。エメとこうしていられるのもサラのおかげだもの」

其れを聞いてエメの機嫌はずいぶんと良くなった様でサン・シュルピス教会につく頃にはすっかり陽気になっていた。

ミサの前にオルガン・コンサートが開かれていた。
ミサが終わり表に出ると夕方の日差しは教会の入り口にあるペテロの像を照らしていた。

其の写真を撮っていた写真家に聞くと先払いで10フランスタジオに取りに来るか2フランでパリ市内は配達すると言うので10フランを出して撮ってもらうことにした。

撮影料10フラン1枚のみで追加2フラン20サンチームと教えてくれた。

エティエンヌ・カルジャ写真館はノートルダム・デ・ロレット街だそうだ、サン・ジョルジュ広場のビガール寄りと言うので正太郎が近いうちに受け取りに行く事にした。
写りがよければ5枚の追加をしたいと申し出るとでは写り具合を見て注文をと言うことに為った。

「ショウ、そういえばあの写真は何時戻るの」

「今度の荷には入っているはずだよね。もう半年以上経ったから」

「どうなっているかが楽しみだわ」

エメは出来が良ければ今度のも、そうしてもらおうと楽しそうに正太郎に言って夜の予定を聞いた。

「エルドラドはどう」

「サン・マルタン門の傍の」

「そう、シャンソン歌手のローザ・ボルダスにアミアティ、アンナ・ジュデックの3人の会があるよ」

「まぁ豪華ね。何時からなの」

「7時開演で9時半まで」
「其の後シャ・キ・ペッシュに行くならこの間と同じコースね」

急いで仕度をして馬車に乗ってサン・マルタン門まで出向くとビエを手に入れてストレーでお茶にした。

4月のパリは陽が延びて7時が近くなってもまだ明るい街を歩いて開演10分前に着いた。
この間サラ・ボードゥワンの会と違い最初はアミアティのマ・ノルマンディがしっとりと歌われた。

Ma Normandie
Quand tout renait a l'esperance
 Et que l'hiver fuit loin de nous
Sous le beau ciel de notre France
 Quand le soleil revient plus doux
Quand la nature est reverdie
 Quand l'hirondelle est de retour
J'aime a revoir ma Normandie
 C'est le pays qui m'a donne le jour.

アンナ・ジュデックはノートルダムダスムールを歌い上げた。

Notre-Dame des Amours
La voix du vieux clocher
 Du haut des pierres grises
Disait: venez, venez
 Vous qui passez ici
Alors je suis entre
 Dans la petite eglise
Et trouvant du passe, l'oubli.

ローザ・ボルダスは愛の小枝という歌を歌った。

Brin d'Amour

Elle a seize ans, des yeux troublants C'est un bouquet de jeunesse

Tous les passants en la r'gardant Croient voir trotter le printemps.

それぞれが3曲ずつ歌った後、暫く3人が観客と街の話題などを話した。
レオンハルト・ウィッドマーのスイスの賛美歌が3人によって歌われた。

Cantique suisse 
Sur nos monts quand le soleil
 Annonce un brillant reveil
Et predit d'un plus beau jour le retour
 Les beautes de la patrie
Parlent a l'ame attendrie
 Au ciel montent plus joyeux (bis)
Les accents d'un coeur pieux
 Les accents emus d'un coeur pieux.

暫くは休みがありその間にアコーディオンの伴奏で若い娘たちがミニヨンを歌った。

Kennst du das Land, wo die Zitronen bluhn 

Kennst du das Land, wo die Zitronen bluhn.
知っていますか、シトロンの花咲く国を。

Im dunkeln Laub die Goldorangen gluhn,
 
緑の葉陰で赤々とした金色の果実が実り、

Ein sanfter Wind vom blauen Himmel weht,

 柔らかい風は青空から吹き渡り、

Die Myrte still und hoch der Lorbeer steht,
 
ミルテが静かにたたずみ月桂樹は聳える、

Kennst du es wohl?
  Dahin! Dahin 
知っていますか、その国を。
そこへ。そこへ

Mocht ich mit dir, o mein Geliebter, ziehn!
 
あなたと行きたいの、わたしの愛する人

3人が舞台に現れ1曲ずつ披露して最後は観客と共にLe temps des cerisesが歌われて幕が引かれた

アンコールにこたえて短い歌をそれぞれが歌い其の夜の舞台は終わりを迎えた。
エメと正太郎はシャ・キ・ペッシュで食事をするために馬車を拾った。

サン・ミシェル河岸で見る十夜の月はマドレーヌ寺院の上に輝いてカペラは月の陰に隠れ金星は月を招くように西の空に落ちていった。
店は何時もと同じ賑やかな人たちがいて二人を温かく迎えてくれた。

2人はラグー・ド・ブフとヴェルミセルを取り何時ものようにオムレツを二人で分けた。

ワインはアニーが出てきてお腹一杯食べても11フランだった。

「親父さん安すぎないかい」

「ワインは5フランにしたからさ。お客が指定した時は出すが後はショウかニコラの時だけ出す事にしたから安くても良いさ」

正太郎はその晩エメのアパルトマンに泊まった。


Paris1873年4月8日 Tuesday

プチデジュをエメと一緒に食べて正太郎はメゾンデマダムDDへ戻った。

Momoに手伝ってもらい部屋の模様替えをした。
新しいプラカーが着いていて其れに吊るす服の入れ替えもありエメのほうから幾つか持ち帰った夏用の服も入れた。

横浜から買い入れたセントル(cintreハンガー)に吊るしながらMomoが全てのポシェを裏返して埃をブロスで丁寧に掃除をしてくれた。

正太郎は久しぶりに上下ジーンズで事務所へ向かった。
横浜からのセントルはメゾン・リリアーヌとブティック・クストゥの2軒で月に200本売れていて今度の荷でも1000本が入荷するはずだ。

なんと言っても手間代が安い横浜製はパリへ輸出するウチワより安く出来、1000本でも280フランだというので1フランと値を付けたら其れで売れるのに驚く正太郎だった、団扇は安物なら3銭も出せば買えるがそれに絵を描いてもらうのに金が掛かるのだ、刷り物にしても何色も色を重ねるので安くは出来ないと小左衛門さんから言ってきたのだ。

サン・トノーレ街には日本の物産を扱う店も増えてきたがタンギーさんの店でもまだまだウキヨエ・アンプリメは売れ筋の商品だ。

パリの人たちは貞秀と3代目の絵がお気に入りのようだ、川蒸気しか見たことの無い人には大船が浮かぶ港の絵や様々な国の人物画を見て喜んでいた。

「どうしてこれがフランス人なのだ」
ラモンが正太郎にそういうが10年以上前はジャポンにはこの様な服装のフランス人が居たらしいとしか言えないのだ。
芳員の描く子供の遊びは余り変わりがなく違和感は無いようだ。

絵本小町引という歌麿の春画を見て「ジャポンの男はこんなに凄いのか」と驚きを隠せないのには可笑しくて笑い出してしまう正太郎で「だから笑い絵というんだな」と変に納得してしまった。

「ラモン幾らなんでもこれが全てのジャポンじゃないよ、実物大では絵の中で釣り合いが取れないから強調してあるのさ」
北斎の東にしきも入っていて其の色彩の豊かさにどうやって印刷したのかと悩むラモンだった。

M.アンドレが最近の売り上げと仕入れの帳簿を見せてバイシクレッテが投資金額の回収が出来たと言うことを報告してくれた。

「後は横浜への輸出分の回収が出来れば全体が黒字になります」

「ま其れは当分無理さ。横浜関係は全部の輸出入で赤字にならなければ良いさ」

「其れからル・アーヴルにジャポンからの荷が着いたそうです。明日にはリシュリュー街の倉庫へ品物がつくそうです」

「品物がついたらウチワとセンスにサツマをヴィエンヌに送る約束をしたのでより分けないといけないんだ。ウチワは2000本、センスは700本ずつで良いだろう。ウチカケとキモノも半分は送るつもりさ」

「判りました。それで品物の引き取りは誰に行かせますか」

「僕が廻るよ。サツマはそのままフランス郵船にヴィエンヌまで鉄道で送らせるから荷解きをしないほうが良いだろう」

「一度中を確認しないと、また保険が別になりますので」

「そうか、此処までとまた別か」

10時まで事務所に居て正太郎はバイシクレッテでラ・レーヌ・オルタンス街へ向かった。
公館で長田にル・アーヴルへ荷が着いたから送り先を教えてくれればすぐに発送すると伝えた。

「まだ向こうから言ってきていないが手紙が着き次第君の事務所へ届けるよ」

「そうしていただけますか。ではこれが送る予定の一覧です。団扇と扇子は6月までにまた同じくらいは入りますので追加要請には応じられると存じます」

団扇2000本、扇子2100本、振り袖五かさね、打ち掛け五かさね、薩摩焼1対。

「ご苦労様、これは預からせてもらうよ。いまミニスター・レジデントは外出しているので伝えて置きます」

「メルシー。ではよろしくお願いいたします」

正太郎はバイシクレッテを引いてパルク・モンソーへ向かった。

春の日差しは暖かく木立から漏れる陽に公園は散歩をする人が目立った。
池の周りにはギリシャ風の円柱が立ち市内には珍しいイギリス庭園は小鳥が愛の囀りを響かせていた。

バイシクレッテを脇へ置いてベンチで休んだ。

ピョッピョッピィッとウッドペッカーが鳴いていた「キツツキだな。何処で鳴いているのかな」正太郎は立ち上がってベンチの後ろに廻って木立の上を覗き込んだ。
椎の木の葉の間に赤い頭が覗いて見えた。

「なに見ているの」

後ろから目隠しをされて正太郎は少しまごついた、誰だろうと考えたが「だれなの」と言って目の前の手を触った。
覚えの無い感触の手だ、声も作っているのか大人っぽい「そうかマドモアゼル・ロレーヌだね」と思い当たった。

「どうして判ったの」

手を離して子供っぽい仕種で肩へ手を回して尋ねてきた、

「無理に声を作るような知り合いは君だけさ」

「なぁんだつまらないの」

「ショウは遊び人にだからいろんな人を知っていると思ったのに」

「お店で会う人は多いけど表で会う人はほとんど居ないからだよ。其れより誰ときたの」

「一人よ、ショウも一人なの、誰かと待ち合わせ」

「いや、ミニスター・レジデントの公館に用事が会ってきた帰りさ。お昼を食べるにはまだお腹がすいていないから此処で時間つぶしさ」

「わァ良かった。あたしもまだなの。何処かで奢ってくださる」

「其れはいいけど。このあたり知ってるお店が無いんだよ。どこか知ってるかい」

「リセ・フォンターヌの隣にあるパサージュ・デュ・アーブルに良いお店が有るわ」

「ガール・サン・ラザールの近くの」

「そう」

ロレーヌ・アフレが正太郎の腕を取って「さぁ行きましょ」と引っ張った。

「腕を放してくれないとバイシクレッテを引いていかれないよ」

仕方なさそうにバイシクレッテの脇を歩くロレーヌと2人でサン・オーガスタン教会へ向かった。

後ろからは2人をからかうようにピョッピョッピィッとウッドペッカーが鳴いた。

「さっきね」

「なぁに」

「あのウッドペッカーが何処で鳴いているのか探していたのさ」

「あ、あの頭に赤い羽根がある鳥ね。ピック・ヴェールと言うのよ」

「パリではそう言うんだ」

「そうよ。木をこつこつ叩いて穴を開けるのはル・ピック(L’Pic)と言うのよ」

教会から左に見えた公園を抜けてガール・サン・ラザールの脇へ出てパサージュ・デュ・アーブルにあるル・サンタ・ムールに入った。
ロレーヌは顔馴染みらしく親しそうに話し勝手に注文をしだした。

「後何か食べます」

「僕はもう良いよ。ロレーヌがまだ食べられるなら好きな物頼んで良いよ」

「ワインは飲みます」

「このお店と同じ名前のワインが有れば飲みたいな」

「わぁ、やっぱりワインの商売してるだけのことあるのね。尊敬しちゃうわ」

「ロレーヌは其の手でこの間も上手く指輪を手に入れたろ今日はそうは行かないよ」

「お姉様に報告した事、怒っていらっしゃるの」

「そうじゃないよ、エメに内緒にする事など無いよ」

「ふぅん、そうなんだ。てっきり怒られるかと思ったけど私のことその程度にしか思ってくれていないんだ」

「其れよりワインを頼んで追加があったら頼んでおく事だよ」

「あっ、ごまかしたな」
正太郎は振り回されっぱなしだ。

サンタ・ムール村のセリエ・デ・クロが出されて2人は陽気になり先ほど見た鳥の話やサラ・ボードゥワンと共に孤児院へ慰問に行くという話を聞いた。

「今度行く日が決まったら僕に出来るプレゼントが何かあるか考えてみるよ」

「嬉しいわ、お金も必要だし、お菓子に衣類が不足しているの。パリにあるうちから3ヶ所を順番に月1度しか回れないけどそれで精一杯なのよ。3ヶ月に一度でも子供たちが喜んでくれるのでMereも私も嬉しいの。たいてい月中のランディにいくことが多いの、今月はパックの前の日のサムディにするのよ。ご都合つきますかしら」

「良いとも必ず都合をつけるよ、いけなくともイースターのお菓子は用意するよ」

「イースターて何のこと」

「アメリカ人はパックの事をそういっていたよ。この間パテスリーでウフ・ド・パックの中にチョコを入れると聞いたけど其れをどうかな」

「わぁ、凄いチョコなんて子供たちのお口に入らないのよ。いくつくらいお願いできるかしら。3ヶ所で68人居るの。ゆで卵だけではかわいそうだもの」

「そのくらいならお安い御用だよ。20個予約したら40フランだったから、シスターたちの分も頼んであげるよ」

「間に合うかしら、間は3日しかないのよ」

「食べ終わったらお店に行ってみようよ。時間はあるんだろ」

「6時までに家に戻れば大丈夫よ」

ロレーヌは一生懸命食べて「満足したわ」と口の周りをフラールで拭った。

サン・トノーレ街のシブーストへ歩いて向かい20個のウフ・ド・パックを受け取り「土曜日の朝までに100個の追加が出来るでしょうか」

店員は「20か30なら間に合いますけど、100個の卵の殻が揃うかどうか」とすまなそうに言った。

「お願い、孤児院の子供たちにムッシューがプレゼントしてくださるの。何とか間に合わせていただけ無いでしょうか」

店の脇にいた紳士が「M.ジュリアンに頼んであげてくれませんかな。私からも口ぞえさせて貰いたいものだが。そちらの東洋の紳士の申し出を聞いていただけ無いだろうか」と援け舟を出してくれた。

店の奥からパテシェのジュリアンが出てきて紳士に挨拶をした。

M.グッフェお久しぶりです。店へおいでならお声をかけてくださればよろしいのに」

「いやいや、仕事の邪魔をしてはいかんと思ってな。其れよりどうだろうかこの若い2人に協力してやれんだろうか」

「お任せください。ムッシュー幾つだったかね」

50くらいのパテシェは2人に微笑みを浮かべて話してくれた。

「100個は必要なのです。3ヶ所の孤児院とシスターのために」

「良いですよサムディの朝10時までに間に合わせましょう」

「メルスィ・ボク。ムッシュー・ジュリアン。M.グッフェお口添え感謝します」

「いやいや、お若い方そんなに感謝しなくても良いですよ」

「もしかしてLivre de Patisserie(製菓教本)とLivre des Conserves(保存食教本)をお出しになられたピエール・ルイ・グッフェさんでしょうか」

「あの本を読まれましたか光栄ですな」

「ジャポンの知り合いに送るために貴方の出された本を買い入れて読ませていただいたと言うのはおこがましいのですが」

「いやいや、手に取っていただいただけでも光栄ですな。ジャポンに送られたと言うことは私の食の考えが東洋に広まることになり嬉しいですぞ」

正太郎の手を取って「それではお元気でな」と去っていった。

「オ・ルヴォワール・ムッシュー・グッフェ」

「オ・ルヴォワール・ジュンヌ・ペルソンヌ」

頬髯のこい茶色が目立つ60過ぎの紳士は店の前で馬車に乗って去って行った。

「数が多いので先払いしておきたいのですが。私がこられない時は受け取りを持った使いの者をよこします。受け取りはShiyoo Maedaでお願いします」

「判りました。200フラン頂きます」

正太郎は50フランの金貨を4枚出して受け取りを貰った。

この間も200フランの指輪、今日もウフ・ド・パックで200フラン、正太郎はこの娘と居るとお金が出る運命のようだ。
ロレーヌにショコラの詰め合わせを買ってあげ、袋入りのかけらを5つ買って一つはロレーヌに上げた。

「オ・ルヴォワール・ムッシュー・ジュリアン」

「オ・ルヴォワール・ムッシュー、オ・ルヴォワール・マドモアゼル」

店を出るとビエ売り場の前で「ロトリー・ピュブリックは今日でおしまいだよ。1等は5万フランだよ。後20枚で終わりだよ。抽選は来週の15日のマルディだよ」と売り子が最後の札を持って客を呼んでいた。

正太郎は「其れを全部買うよ」と声をかけた。

正太郎は20フラン金貨を2枚出して売り子に渡して20枚のビエを受け取った。

「マドモアゼル、ムッシュー、ラ・ボンヌ・チャンス・ヴィヤン」

「メルシー、オ・ルヴォワール」 
店の前でロレーヌに「君に預けるよ、当たったら山分けだよ。サムディは何処で待ち合わせる」と聞いた。

「10時に此処でと言うのはいかが。Mereも一緒に来てもらうわ」

「ダコー、オ・ルヴォワール・シトワイエンヌ」

「オ・ルヴォワール・シトワイヤン」

正太郎はバイシクレッテで雲が広がりだした道を登ってリセ・フォンターヌの脇を抜けてモンマルトル墓地へ向かった。
正太郎を追いかけるように黒い雲が広がり出して夜まで天気が持たないようだ。

メゾンデマダムDDに戻ったのは7時、雨雲はモンマルトルの丘を包むように広がり正太郎はロレーヌを雨に会わずに帰れたかなと心配になった。

 


Paris1873年4月12日 Saturday

サムディ・サン(Samedi Saint聖土曜日)の朝正太郎はエメを迎えに行き其のままサン・トノーレ街のシブーストへ向かった。

5分前に店に着くと中でサラ・ボードゥワンとロレーヌがお茶をしていた。

パテシェのM.ジュリアンが正太郎たちの到着を聞いて出てきてウフ・ド・パックの入った箱を持って来た。
百個にしては大きな箱だ。

「ムッシューの希望通り100個のウフ・ド・パックです。それとマカロンを50個入りを3箱これはお店からのプレゼントです、恵まれない子達へのささやかな贈り物ですのでお受け取りください。あなた方がノエル(NoelX'mas)にもプレゼントを考えておられるなら私たちにもお手伝いをさせてください」

「メルシー・ジュリアン。感謝いたします」

正太郎に続いて3人の淑女がパテシェと店に感謝の言葉を伝えて品物を受け取った。

マダム・デシャンに言われていたので一度メゾンデマダムDDに戻りロレーヌが書いてきた3ヶ所の孤児院の地図と其処にいる人の数に合わせて贈り物の箱を整理した。

最初はフランシス・デ・プレセンセ街にある教会付属の孤児院、此処は小さく12人の子供と4人の人が住んでいるので16個のウフ・ド・パックと32個のマカロンにクストーさんからの料理が入れられてエメとサラ・ボードゥワンが馬車で届けに向かった。

次はエコール・ミリテールの先にあるサン・ルイ街の難病と戦う孤児院、28名が収容されて20名が昼夜面倒を見ているので、ウフ・ド・パックを48個とマカロンを96個箱詰めして同じように料理を入れてロレーヌとラモンが向かった。

今日の訪問予定だったクリシー孤児院には足りないマカロンをダンが急遽買い入れに向かった。

28名の子供と8名のシスターがいたが手不足で悩んでいて収容人員を減らすか人手を増やしたいと考えているとロレーヌが話してくれた。

サラ・ボードゥワンは此処へリセ進学のためのコレージュを申請の準備資金の寄付を始めようとしていたが現在のエコール・エレメンタールを出た後社会に出るか他のコレージュに通わせるかをしていたがここへ学校を開きたいと努力していた。

出かけていたダンが戻り36個のウフ・ド・パックに72個のマカロンを入れ、セディにベティ、ダンと正太郎の4人はクストーさんの料理と共にクリシー孤児院へ向かった。

配達に出た4人も此処ランディ街5番地で合流する予定だ。

ラ・メゾン・デロルフェリン・クリシーに着いたのは2時20分、サムディ・サンのために訪問者が有ることをサラ・ボードゥワンから知らされていたスゥル・マリ・シモン・ピエェルとメール・マリィ・エマニュエルが出迎えてくれた。

「ラ・ヴェイエ・パスカル(la veillee pascale復活祭前夜)にも出てくださいね」

「メルシー、メール」

6人で荷物を台所へ運びいれ4人の到着を待って子供たちの集まる部屋へ向かった。

サラとロレーヌは人気者で此処へ来てくれる日を心待ちにしていたと歓迎のダンスを庭で子供たちが披露した。

ラ・ポント・ダビニョン(Le pont d'Avignonアヴィニョンの橋)だ。
其のかわいらしい仕種には微笑まずに入られなかった。

Sur le pont d'Avignon,
スュ ル ポン ダヴィニョン

On y danse, on y danse
 
オ・ニ ドンス、オ・ニ ドンス

Sur le pont d'Avignon,
スュ ル ポン ダヴィニョン

On y danse, tout en rond.

オ・ニ ドンス、トゥー・トン ロン

Ainsi font, font, fontを全員で歌いながら庭を廻った.

   
Ainsi font, font, font  Les petites marionnettes
Ainsi font font font
 Trois petits tours

Ainsi font, font, font
 Les petites marionnettes
Ainsi font font font
 Trois petits tours
Et puis s'en vont
 Elle reviendront
Les petites marionnettes
 Elles reviendront Quand les autres partiront.

Frere Jacquesも全員で歌いセディにベティが先頭に楽しく笑って踊った。

    

Frere Jacques. Frere Jacques. フレール ジャック フレール ジャック
Dormez-vous? Dormez-vous?
 ドルメ ヴー、ドルメ ヴー

Sonnez les matines. Sonnez les matines.
  ソネ マチンヌ ソネ マチンヌ

Ding, daing, dong Ding, dang, dong
 ディンデァンドン ディンデァンドン 
ジャック修道士 ジャック修道士
寝ているの? 寝ているの?
朝の鐘を 鳴らしてね!朝の鐘を 鳴らしてね!
ディンデァンドン ディンデァンドン

昨日の金曜日からあすの日曜日まで教会の鐘がならないので特にこの歌は何度も歌ってとせがまれメールも一緒になって歌った。

部屋へ戻ると全員に暖かいショコラ・ショー(Chocolat Chaud・ホットチョコレート)とマカロンが二つ配られた。

ラ・ヴァルス・ブリューヌ(La valse brune 褐色のワルツ)をロレーヌが歌い子供たちもスゥルも大喜びだ。

 

 La, la la la la la  
Ils ne sont pas des gens a valse lente
Les bons rodeurs qui glissent dans la nuit
Ils lui preferent la valse entrainante
Souple, rapide, ou l'on tourne sans bruit
Silencieux, ils enlacent leurs belles
Melant la cotte avec le cotillon
Legers, legers, ils partent avec elles
Dans un gai tourbillon.


オルガンでAh,vous dirai-je, mamanが演奏されて皆で歌った。

Ah! Vous dirai-je Maman  Ce qui cause mon tourment ?
Papa veut que je raisonne
 Comme une grande personne
Moi je dis que les bonbons
 Valent mieux que la raison.

メールは「ウフ・ド・パックは今晩寝る前にシャソズー(卵探し)のために隠して明日食べさせますわ。みんな名前の書かれたウフ・ド・パックに喜びますわ。ゆで卵とショコラの入った卵にはきっと喜びますわよ」と楽しそうに何度もサラに話をした。

スゥル達も子供の名前を書いて自分のウフ・ド・パックを探させて遊ぶようだ。
夕食はクストーさんが調理した魚料理とターキーが配られ子供たちは大喜びで食卓へ向かった。

其の晩のミサは厳かに行われ、サラ・ボードゥワンとロレーヌの親子を残して満月が輝くパリの街を正太郎はエメとサン・シュルピス教会へ向かい、セディにベティ、ダンとラモンはメゾンデマダムDDへ戻った。

サン・シュルピス教会ではラ・ヴェイエ・パスカルが夜通し執り行われジェジュクリ(Jesus-Christキリスト)のレズュレクシオン(resurrection 復活)を祝った。
ディマンシュの朝6時に朝日が差してパリの街は明るくなった「ジュワイユーズ パーク(Joyeuses Paques復活祭おめでとう)」の声を交わしながらアパルトマンへ戻りジュディッタとリュカに迎えられて朝食の仕度をした。

リディが羊肉をシシカバブにした串をたくさん持って上がってきて朝から宴会騒ぎとなった。
食事が終わりようやく寝られる事になった正太郎だが、エメは簡単には寝かせてくれず何度も愛の交歓を求めてきた。

正太郎が目覚めたのは2時を過ぎていたがエメは姿が見えず着替えは椅子に用意されていた。
髭を当たり着替えをしてぼんやりと郊外に買い取るように言われている家のことを考えていた。
もう二月も考えているが買っても今使い道がなくどう返事をすればいいか考えが着かないのだ。

「どうしたの真剣な顔して。何か悩みでもあるの」

「う、この間から買わないかといわれている家さ」

「ああ、あれねまだ決まらないの」

「そう横浜から返事が来ないから決まらないのだけど売主は早く決めてくれというのさ。片方は8500フランでもうひとつは15000フランさ」

「モンルージュ(Montrouge)のほうは幾らなの」

「8500フランだよ。2階建ての7部屋あるんだけど」

「いい条件じゃないの」

「そうなんだけど、近くに通えるような学校が無いのさ」

「ああ、ミチと言う娘ね」

「そういきなりリセに入れるかどうか判らないしね」

「そうしたら別に住まいを探してあげても良いじゃないの。とりあえず買い入れましょうよ。お金は私が出してもいいし」

「其れは大丈夫なんだけど買い入れても誰も住まないと痛むしね。誰か留守番を入れないといけないかもしれないし」

「なぁんだそっちを気にしていたんだ。良いわよそっちは私が見つけてあげる。いい機会だから明日にでも弁護士と不動産屋へ連絡して見に行きましょうよ」

フェネロン街27番地( 27, Rue Fenelon Montrouge )の家を結局は明日も学校が休みだからと言うので見てその場で気に入ったら買うことにし、弁護士の自宅へ帰りがけに寄ると約束をした。


Paris1873年4月15日 Tuesday

パリの朝は暖かかった、桜も咲きプラムの花も咲きと庭も公園も賑やかな鳥のさえずりで溢れていた。
事務所へ出た正太郎を待つて居たのは税金の請求書だ。

Paris TorayaShiyoo Maedaで合計が26000フランかい。たいしたもんだ、そんなに儲かっているのかね」

「そういう計算ですね、それを払っても20000フランはグループで儲けが残りますよ」

「では今日のうちに支払いをしてしまおうよ。僕個人で11000フランだなんて何処からそんなに儲けていると思う」

「輸出入の額からの推定でしょうね。異議申請しても1000フラン変わるかどうか中々経費を見てくれませんからね」

「無理をして税務署員の検査を年中受けるより素直に支払うほうが楽さ。不動産を買い入れたのはエメになっていて、家賃は僕のほうに入るからね。其の分此方が儲けすぎているように見えるのは仕方ないからね」

Mlle.ボナールが上がってきて「ショウ、税金が大変じゃないの」とタブレーに座って切り出した。

「ほんとにそうだよ。ロトリー・ピュブリックでも当たらないと忙しいよ」

「ショウも買ったの、私は3枚買ったわ、確か今日抽選よ。私のほうも支払いが済んで大分儲けが残ったからショウに借りた分の500フランを支払うわ。マシーヌ・ア・クードゥルはまだ買えないのよ」

「そいつは景気がいいね。マシーヌは買わなくても良いよ、貸し出しておいたほうが税金を取られないからね」

「ショウには負けるわよ。其れより孤児院で大分お金を使ったんでしょ」

「お菓子だけだし、シブーストもマカロンを呉れたから200フランだけさ。今度子供たちに服やスリップを寄付しようと思っているんだ」

「ほんとなの、メゾン・リリアーヌへ注文してね。そうすれば2人とも潤うから」

「良いとも、サラ・ボードゥワンを連れてくるから安くしてくれるようにマリー・アリーヌに頼んでね」

「良いわよ儲けはちょっぴりにしておくわ。でもまだショウがパリへ来て1年たたないなんて信じられないわ。今度の家はジャポンから戻られる人が住むの」

「其の予定だよ。何処にするか悩んでいたらエメに尻を叩かれて買うことになってしまったよ」

「でもバイシクレッテは儲かるんでしょ」

「そうだね、今でも1月30台以上売れているからね。ジャポンへも、もう100台は送ったし、今度アンベルス(Anversアントワープ)にジュリアンと共同で送り込むのでそちらも期待できそうだね」

「ショウはもうこうなったらジャポンには帰らないでパリに住む事にしたほうがいいんじゃないの」

「一応期限無しのParis Torayaの社長と言うことに為ったからそれでも良いかもね」

正太郎も最近はこのままパリに居てもいいかなと思う気持ちが強くなってきていたようだ。

M.ギャバンが馬車で来たと正太郎を迎えに来てモンルージュのフェネロン街27番地へ向かった。
玄関を入ると正面の扉の向こうにクロワールが10人ほど寛げる広さであり、玄関の左手に行くと2階への階段にトワレットゥと風呂場、右は台所と10人以上は入れる食堂に使用人用の2人部屋の寝室。

クロワールの奥には大きな寝室と先ほどのトワレットゥに続く廊下、7部屋と聞いたが下は3部屋と勘定していたようだ。

昨日エメと弁護士に不動産屋も来て「これはお買い得だ」と地主に聞こえないように相談して即決したくらいいい建物だ。
2階はトワレットゥに風呂場があり4部屋が鍵の手に配置されていた。
玄関は南西を向いていて、南は庭があり北は大きな家があるので風はあたりにくいつくりで住み易そうだ。

「安い買い物でしたねM.ショウ」

M.ギャバン僕もそう思うよ。それでよく調べて手直しするとこがあればどんどんやってください」

「いいんですかい、全て任せると言うことで」

「勿論、ただ新しく作るほうが安いと言うのは勘弁してよ」

M.ギャバンは連れてきた職人と「何時もながらムッシューの冗談はたまりませんや」と笑いながら職人の眼で各部屋を見回った。

エメが昨日話していた夫婦を連れてやってきた。

「良かったまだ居てくれたのね、役場で手間取ってしまったの。此方がカントルーブ夫妻よ。この人が話をしたムッシュー・ショウ」

「はじめまして私がシリルでこれが連れ合いのアデールです」

「やぁ、僕がShiyoo Maedaです」

M.ショウでよろしいですかM.マエダでしょうか」

M.ショウと普通は呼ばれますが、単にショウと呼んでくださればよろしいですよ。此処が気に入ったらぜひ働いてください。お給金はエメが話をしてあるとおり、夫婦で住み込み180フランです。勿論食事に衣服、住居込みですので余分にお金が出る事は有りません」

「此処で働かせていただけるのでしょうか。2人とも食堂の下働きでしたが簡単な料理は出来ますが、レストランなどのような高級料理は無理なのですが」

「其れはエメが見込んで連れてきたあなた方を信用しますよ。ジャポンで生活が長い人が向こうからの留学生と来ますので、相談して食べる物を徐々にパリ風にしてくださるならそれで結構です。マドモアゼル・ルモワーヌが此処の責任者になりますが、お金や食料品などの買い物は僕の事務所が貴方に支払うようになります。僕はショウと呼んでください」

「では私たちも名前で呼んでいただけますか。それで其の方々言葉は通じるのでしょうか」

「お1人はReimsのお生まれですから大丈夫ですよ。留学生の人たちも言葉が通じます」

「其れで安心しました。それで家を見て廻ってよろしいでしょうか」

「エメと廻ってください。食堂の向こうに寝室がありますが荷物が多いようなら離れを作ってもよろしいですからまず一回り見てください。エメ頼んだよ」

エメと夫妻はまず食堂から見て廻った、2階でM.ギャバンと出合ったようで屋根裏部屋をどうするか正太郎を呼ぶ声が聞こえた。

「屋根裏は荷物置き場にするから掃除だけで良いよ。ガラクタでもあるかい」

「箱と絵の道具くらいですね。何枚か風景を描いた絵がありますがね」

「それもほこりを払っておいてよ。絵はM.アンドレに持っていって綺麗にさせるよ」

「では絵だけは降ろしておきますか」

「そうしてください。カントルーブ夫妻がここへ住めるように先にそちらから仕事をしてください。出来れば台所の先にも風呂場とトワレットゥを作りたいのですが」

カントルーブ夫妻は明日にでも荷物を運び、M.ギャバンがル・リを据え付けてくれると受けあったので夫婦も明日から住み込んで片付けもはじめると言うので夫婦に支度金に5フラン銀貨で200フランを支払った。

「明日からの食料品に必要な掃除道具などの経費は受け取りを貰うか、無いものでもご自分で書付を出せば週一度清算しますからこれが準備金です」

正太郎はそういって別に100フランを渡し、エメには「この人たちに仕事をしやすい服と台所用の服お客が来た時の服それぞれ2着を買ってあげてくれるように頼むよ」と100フランを渡した。

正太郎はいいところへマリー・アリーヌが500フランを支払ってくれたと思い「ありゃサラ・リリアーヌもルモワーヌだった」と思い出し「今でもミス・ノエルと言っているのかな、パリではどう呼ぶのがいいかな」と胸の内で考え出した。

エメが2人と戻った後、明日から仕事に掛かるというM.ギャバンが降ろした絵を持って事務所まで戻り、手付けに500フランをM.ギャバンに支払ってもらった。

最近50フラン金貨で2000フラン程度はMlle.ベルモンドが常時持っていることになりこういう時の支払いに銀行へ行かなくて済むようになった。

「陽が伸びましたから仕事のはかも行きますから10日もあれば見られようになりますぜ」

「では25日に見に行きますよ。そのとき追加工事が有れば話し合いましょう」

「任せてください。では明日から仕事に入ります」

「水廻りも良く調べてくださいね」

全て承知とギャバンは馬車で帰っていった。

マリー・アリーヌとサラ・リリアーヌが珍しくお茶菓子持参で上がってきた、これからお昼にするようだ。
カフェ・クレームを入れて早めのおやつの時間と為った、マリー・アリーヌは家に戻るとつい食べ過ぎるとお昼は軽い物にして、相変わらず事務所で済ませていた。

「ショウはロトリー・ピュブリックを何枚買ったの」

「エメと2人で20枚、ロレーヌと2人で20枚」

「まぁ、3等くらいで良いから当たらないかしら。私は5枚でマリー・アリーヌは3枚よ」

Mlle.ルモワーヌは当たったら買いたいものを列挙しだした。

さすがはブティックの経営者、最新流行の服に帽子に身の周りの物に詳しく、休み時間に入った2人の事務員を巻き込んで其の話に花が咲き出したので正太郎はメゾンデマダムDDに逃げ出した。

昼の配達で電信と手紙が横浜から着いた。
電信は3通、発信は14日、1通はMlle.ドゥダルターニュから、本日結婚式をあげたことと贈り物へのお礼だ。

2通目はMlle.ルモワーヌから16日のフランス郵船のヴォルガ号でマルセイユへ向けて発つと記されてあり、到着は6月7日の予定だそうだ、同行者は先の手紙の通り3名としてあった。

3通目は虎屋からでバイシクレッテの追加を催促してきた、ワインの価格と其のほかの商品の引き取り価格の報告だ、先週申し送った鶴屋さんの荷もヴォルガに間に合う物は乗せるとしてあった。

手紙も3通、先にMlle.ルモワーヌのほうから開けた。

正太郎からの申し出について家を好意に甘えて探しておいて欲しいというもの、買うのは難しいので借り受けたい事、同行者は野沢美智にソフィア・バッフ・ゴーン、こうを改めてたかこと読ませて坂崎孝子がパリで学ぶ事にしたとされてあった。
「孝はいくつだったかな。今年で8歳くらいかな良く静先生が手放したもんだな」正太郎はアメリカへ渡った女の子たちの事を思いそれで坂崎先生も思い切ったようだと考えて次の手紙をあけることにした。

其れはミチからで正太郎の彼女の写真を蓮杖が色付けして持ってきてくれたこと、ソフィア共々正太郎にはもったいないと思ったことや学校で学ぶのは3人とも音楽と工芸を中心に為るだろうと言うことが記されてあった。
孝はミセス・ノールトフーク・ヘクトことハンナ夫人もピアノの腕を絶賛しているとしてあり、自分とソフィアは工芸の中から刺繍にデッサンを学び音楽は其の余暇に教養程度のレッスンを受けたいとしてあった。
「おいおい、欲が深いよ」と正太郎はつい声に出してしまった。

最後の手紙は虎屋からで連絡事項取引状態の報告、此方からの申し出についての返事などがびっしりと書かれてあり、最後に横浜の近況がかかれてあった。

エメの決断はいい時期だったなと正太郎は思った、ソフィアとミチはどの程度の期間此方で学ぶのか、孝はちょうどエコール・エレメンタールに入れるには良いからリセまでパリで学ぶのだろうかと思うのだった。
正太郎は2時過ぎに馬車でパリジェンヌ商会まで出かけた。

Momoには7時までに戻るから食事は食べると伝え、途中クレディ・リヨネ銀行で7200フランの小切手を引き出し、フランス郵船で打ち合わせもした。

アイムと倉庫に入り在庫の確認をして、今月ジャポンへ送り出すのを10台追加する事にした。

「30台でいいのか」

「そう其の分の銀行小切手も用意してきたよ」

「何時もながらすまねえな」

「いいさ、アンベルスへ送るときは無理をさせるかもしれないから、其の時50台は用意したいのでね」

「判ったショウが入れてくれた50台分の金があるんだ。その分は何時でも間に合うようにしておくよ。其れより今晩キャバレ・デ・ザササンへ行くが来ないか。たまには2人で飲もうぜ」

「判った何時ごろ行けば良いかな。2人だなんて誰か紹介でもしたいのかな」

「そうじゃねえよ。今日は俺も歌いたいし、おれの師匠格のM.ジルベールが出る日なのさ」

「判った誰かに捕まったら連れて行っても平気だね」

「まぁ良いだろうさ。俺の歌を聴いても卒倒しない奴ならな」

アイムはそういうがジュリアンよりも上手く、誰が聞いても納得できる歌い手なのだ。

「で何時にする」

「8時で良いだろう」

「判った其の時間までに行くよ」

「勘定は俺もちだからな」

「そいつは嬉しいね。今日税金を支払って大分懐が寂しいのさ」

「ジャポンの者にでも税金は来るのかい」

「パリで商売していると見逃しちゃ呉れないよ。彼方此方店を持っているからね。エメに家賃を入れているようにしておけば良かったのにといわれたけど、弁護士も其処まで気が付かなかったようだよ」

「そうか儲かっているのは銀行家ばかりかな」

2人は世間話を暫くしてそれぞれの仕度をして8時の約束を確認して別れた。

8時に店に行くともうアイムは来ていてビールを飲んでいた。

師匠というM.ジルベールが既に何曲か歌っていると言うので正太郎はビールを頼んで歌を聴くことにした、貴方の写真と言う軽い歌だ。

タ・フォトTa photo

Tu te rappelles, ma toute belle
Quand je partis vers d'autres cieux
Tu m'as dit, fiere et sans maniere,
Voici ma photo si tu veux
Sur ma poitrine, gage sublime
Tu seras toujours la mon amour
Comme un mirage ta douce image
Me rappellera nos beaux jours.

 

続けてラ・サン・ジャン・バティストが歌われた。

La St-Jean-Baptiste

Figurez-vous qu'a tous les ans (bis)
J'dis a ma vieille: Y faut pourtant (bis)
Qu'on aille pendant qu'on existe
Voir passer la St-Jean-Baptiste
A force d'la tourmenter
J'ai fini par la decider.

アイムも呼ばれて月の光を愛してると約せば良いのかラムール・オウ・クレール・デュ・リューナを歌った。

Au clair de la luneA Quebec au clair de luneとは違う歌だった。

L'amour au clair de lune

L'amour ne serait qu'une heresie
Sans les doux moments de poesie
Ou l'astre des nuits baigne la terre
De ses bleus rayons pleins de mystere.

Refrain
C'est le soir au clair de lune
Que vient l'amour
C'est le soir au clair de lune
Qu'il voit le jour
A Venise, a Pampelune
Partout, toujours
Il n'est pas sans clair de lune
De grand amour.

暫くシューベルトのラ・トリュイト(La truite鱒)という曲が演奏されてアイムが席へ戻り、街の話題などを話し合った。

「そういえば今日ロトリー・ピュブリックの抽選が有ったよ」

「そうだってね、僕もエメや他の人とも共同で買ったよ。アイムも買ったの」

「兄弟で金を出し合って30枚買ったが当たったかどうか」

「皆当たれば良いと思っているからね。思わぬ人が当たるのがロトリー・ピュブリックの常さ」

「その、思わぬ人に入りたいもんだな」

女性歌手に客が何人か歌った後、アイムと正太郎はビールに飽きてシャンパンを出してもらった。
10時半を過ぎて大分人も入れ替わりそろそろ帰るかというときにサラ・ボードゥワンとロレーヌが飛び込んできた。

正太郎の傍に居るアイムに遠慮しながら「ショウ大変よ。ロトリー・ピュブリックが当たったわよ」と囁いた。

「1等が当たったの」正太郎は冷静だ。

「ううん、2等よでも5000フランなのよ。大金だわ」

「そう、約束だから半分は君の物だよ」

サラ・ボードゥワンが「ショウ、其れは貰う分けには行きませんわよ。貴方がお金を出したんでしょ」

「でも約束だから、いらないなら其のお金を孤児のための寄付の金にしたらいかがですかね」

「そうねメール、ショウがそういうのだから使わせていただきましょうよ」

正太郎が焦らないで対応するので二人も落ち着いて来たか、出されたカクテルを飲んで、ラ・ヴァルス・デュ・スブニール(思い出のワルツ)という歌をM.ジルベールが歌いだすと正太郎とアイムを誘ってフロアーで踊った。

La valse du Souvenir

Notre bonheur a su mourir
Dans la douceur d'une romance d'amour
Et nos deux coeurs pleins de tristesse
De ces moments de tendresse et d'aveux
Conservent le souvenir.

L'etoile d'or que nous aimions
A l'horizon brille encore
Rappelle-toi les jours heureux
Le tendre emoi des reves d'autrefois...

 

アイムが薔薇の樹と言うのだろうかローズ・デ・ボアを歌いロレーヌとサラ・ボードゥワンが台の上に呼ばれて一緒に歌った。

Rose des bois

J'ai de beaux souvenirs de toi Rose des bois
Lorsque nous etions enfants tous deux nous nous amusions
Des le soleil leve tous deux nous bavardions
Assis a tes cotes par les belles journees
Le soir bien gentiment la maison tu regagnais
Un baiser puis bonsoir ce n'etait qu'un au revoir.

サラ・ボードゥワンを知っている人はもっと歌ってほしいと声をかけたがアイムが「此方の2人はまだ仕事が残っているので失礼させていただきます」と丁寧に断りを言って2人を送ってくれた。

正太郎は店の前で別れメゾンデマダムDDに戻るとMomoやマダム・デシャンが期待に満ちた顔で待つていて、何が起きたのか説明をさせられてやっと部屋へたどり着いた。



Paris1873年4月16日 Wednesday

正太郎がまだメゾンデマダムDDに居るうちにエメが馬車でやってきた。

「どうしたの。学校は行かなかったの。どこか具合でも悪いの」

エメは興奮で顔が真っ赤だ、心配する正太郎の周りでMomoDDも心配そうだ。
エメはサックからロトリー・ピュブリックを取り出して、今朝の新聞を差し出した。

「今朝、リディとジュディッタが私たちのロトリー・ピュブリックも調べてくれたら当たっていたの」

「そりゃ凄いな、昨日遅くにサラ・ボードゥワンとロレーヌが来て、2等に当たったと言ってたよ。これは何が当たったの」

MomoDDが新聞の当たり番号と照らしていたが「5等の20フランには無いわよ。4等の100フランにも無いし3等の1000フランにも当たっていないわ」

2等にも無いと言って1等の番号を見て、此処で取っている別の新聞を持ってきた。

「3つの新聞の番号は同じで1等に当たっているわ」

「また。みんなで僕を担いでいるんじゃないの」

「それなら自分で見なさいよ」

正太郎が確認すると本当に当たっていた「ありゃ、本当だ」暫くは別の新聞とも見比べたが3つとも同じで印刷ミスではないようだ。

「こりゃ驚いた」

正太郎も3人の一緒に見ていた者も暫く口が聞けなかった。

「どうしょう」

エメがそう切り出した。

「半分は君の物さ。好きに使って良いよ」

正太郎はエメにそういってこれで税金はだいぶ帰ってきたなとパリに感謝した。

「それならセーヌ県ヴァルダン通り3番地の家も買わないこと」

「大分遠いよ」

エメはMomoに地図があるか聞いて持ってきてもらった。

「ほらここからだと大分遠いけどフェネロン街からだと歩いても1時間くらいよ。あれば何かと便利よ」

「庭も広いし管理人をおく必要があると聞いたよ」

「そう、200メートルに300メートルくらい有るんでしょ。ほぼ6万1千平方メートル」

「そういっていたね。家は50年位前のだそうだけどね。元は伯爵の別荘だったそうだよ。買いたいのかい」

「ショウが賛成して呉れたらね」

MomoDDもお金があるうちに買っておいたほうが良いと勧めてくれ「それならロトリー・ピュブリックのお金を待たずに今日買いに行こうか。そうすればフェネロン街の仕事が終わり次第M.ギャバンにお願いできるから」

「ほんとにいいのね。では私の銀行でお金をおろして出かけましょ。先にM.カゾーランとM.ダヴィドのところへ寄って都合を聞きましょうかしら」

不動産屋に弁護士を連れ出してエメも自分の口座を開いたモンマルトル・オランジェ銀行サンタンヌ支店でエメが100フラン金貨で150枚をおろし、手数料のために20フラン金貨を100枚おろして正太郎は50フラン金貨で200枚を引き出し手持ちの5フラン銀貨も補充してセーヌ県ヴァルダン通りへ出かけた。

代理人の家に顔を出すと「もう駄目かと思いましたよ。お買いになられますか」と嬉しそうな顔を見せた。
鉄道がひけてからこの辺りはパリに近すぎて余り人気が無いのだそうで広い敷地が邪魔をしているようだ。

今パリはモンマルトルへ人口が増えだしサンドニから先と東駅周辺に人が移り住みだしているので此処はお買い得だと代理人は盛んに正太郎だけでなくエメが喜びそうな事を言って気をひいた「この北側は13区に入れられましたが此処は残りましたので税金もお安くてお徳ですよ」などと買い得だと何度もエメに話をした。

不動産屋が隅々まで見て庭の図面などと様子を見て「この庭の先があの果樹園までかね。少し狭いようだが」

あすこまで行ってみますかと誘われて5人で歩いた。其の間も不動産屋は歩幅を数えているようだ。
土地は南に向かうほうが広く5角形をしていた。
右手はなだらかな斜面で栗林と芝桜が咲いていた。

「この斜面の向こうに土地がありますが、其処は今回分割して別に売り出す予定です」

丘の上に登ると倍くらいの広さがあった。

「なぜ分割したんだね。此方は日当たりのいい場所で高く売るつもりなのかな」

「いえ反対です。このままでは広いので整備が出来ないので農園にしか使えないので7000フランで手放してよいという話ですが買い手が見つかりません。最初22000フランで全てと言う話でしたがまとまりませんでした」

代理人はそのため家と果樹園に整理された芝地に池がある西側だけを売って後は少しずつ切り売りに出そうと考えていると話した。
正太郎はエメを脇に呼んで「2万フランなら今日支払うから全部どうかとM.ダヴィドとM.カゾーランに話して買い取ったらどうかな」と囁いた。

正太郎は代理人に少しこの下を案内して欲しいと3人から離れて丘を南側へ下った。

丘の下は10軒ほどの農家が固まってあり、元は伯爵の小作人だったが畑を分けてもらい独立したが裕福では無いので土地の管理をさせていると話した。
エメたちが追いついてきてさっきの話をM.カゾーランが切り出した。

「今日明日にでもお支払いが出来るなら手を打ちますがご用意できますか」

狡猾そうに言う顔はこれ以上引いたら儲けは無いという顔だが不動産屋はまだ安く出来そうだと正太郎に値切ったらどうかと勧めた。

「いや、良いですよ其の値で買いましょうよ。エメ良いだろ」

「ええ、ショウがそういうなら余りいじめてはかわいそうよ。それより庭の管理をしてくださる人を紹介してくださる。其の人たちの話を聞いて決めましょうよ」

目の前の家に声をかけると人のよさそうな老人が現れ「あなた方が引き続き雇ってくださるなら野菜と果物には不自由しないだけのものを作りますだよ」と言ってくれた。

「それで、何人で働いてくださるの。月に幾らでいいの」

「いまはわし1人ですだが、忙しい時は小僧っ子どもに雑草取りや収穫の手伝いをさせますだで、其の分を見てくだせえ。わしは月に30フランと収穫の3割を頂いておりますだ」

「ショウ、どう思う」

「そうだな、爺さんと別に月50フランくらいで此処の管理をする人を探せば向こう側も含めて綺麗に出来るかい。勿論忙しい時は相場で子供たちを雇って良いよ」

「それなら幾らでもいますだよ。此処だけでなく自分の畑仕事の合間でいいのでしょうね」

「勿論さ。手を抜かないやり方さえ出来ればあいた時間は何処で働こうと自由さ。収穫が増えれば爺さんの取り分も増えるだろうからね」

ドナルド爺さんという小柄な人は嬉しそうだった。

「そいつはおいらにも嬉しい話だね。考えても見なかったがこの斜面は水はけもいいし下に貯水用の池さえ作れば向こうも含めていい場所ですだよ」

そういうことならもう1人は爺さんが探してくれという話がついて今月分の前渡しだと正太郎が80フランを支払って「5月の末には僕の事務所から5月分を支払うからこれは4月分、それと仕事着を買うのと肥料代と種や必要な農具代を100フランを預けるよ。それで爺さん読み書きは出来るなら何をいくら買ったか書いておくか領収書を取って置いてください」と言って預からせた。

「気前がいいね旦那。奥さんもいい庭にしますから遊びに来てください」

エメは奥さんといわれて嬉しそうに「時々は顔を出しますからお願いしますね」と言ってM.カゾーランにこの人たちの身分を証明するのにShiyoo Maedaの社員だと契約書を出してあげてくださいと頼んで「いま書いていただく書類はあなた方が私たちの事務所の雇い人だと証明して毎月給与が出るというものなのよ。M. デュヴァリエに読んで頂いて納得できたらサインをしてね」と頼んだ。

爺さんを伴って買い入れる家に戻り代理人の立会で書類はフェルディナンド・フロコン街4番地Shiyoo Maeda雇い人契約とされた。

庭と農園の手入れをドナルド・フラゴナールに一任し作物の収穫の30パーセントを現物で受け取る。
給与は月30フラン、手伝いは50フランで1人、臨時雇いは随時実費を請求出来る。
年2度の被服費用の支給と農耕、庭の整備に必要な経費は実費支給または実物支給する。
後の項目は両者話し合いで決める。

この契約は1875年4月まで有効でその後は改めて協議するとされた。
M.
カゾーランも何度も正太郎の契約のやり方を見てそれに沿った契約書にしてくれた。

代理人のM.エマニュエルが差し出した書類を確認して見取り図を爺さんも見た上で間違いないと言うことでM.カゾーランにM.ダヴィドが書類にサインをしてエメが100フラン金貨150枚、正太郎が50フラン金貨を100枚出して契約が成立した。

駅の近くの郡の役場に向かい手続きが完了すると回り道をしてフェネロン街27番地へ出てM.カゾーランにカントルーブ夫妻の雇い人証明を作成してもらいサインをしてもらった。

M.ギャバンに話をすると此処は任せて見に行きましょうというので、M.カゾーランに300フランとM.ダヴィドに600フランの手数料の支払いをして馬車で帰ってもらった。

「不動産屋が600フランと弁護士は半日で300フランですか、いい商売だな。必要なのは紙とペンで済みますか」

M.ギャバンはそう言って矢張り商売は選ばないと駄目だなと笑い出した。

「アルセーヌはそう言うけど、あの人たちは毎日取引が有るわけじゃ無いしね」

「ですがショウ。不動産屋が居るのに弁護士も必要ですか金が掛かるでしょう」

「其れがね2人揃えれば後でもめるような事が起きないとイギリスの人から教わったんだよ」

爺さんが家の前の雑草を抜いているのを見つけて「ドナルド爺さんもう仕事かい」と声をかけた。

「ありゃ旦那方お忘れ物ですかい」

「この人が家の手入れをしてくれる大工の親方のM.ギャバンだよ。来週当たりから仕事に入れるだろうから其の時のために顔を覚えて置いてくださいよ」

二人を引き合わせ爺さんも誘って家を見て廻った。
1階の入り口を入ると2階への階段とクロワールに続いて食堂があり其処は30人くらいは入れそうだ。
其の奥に調理場と倉庫が縦に続いていた。

クロワールの左翼には道路側に書斎続いて喫茶室にトワレットゥ。
右翼は応接間とトワレットゥに鍵の手にふたつの部屋があった。

「此処は使用人に使わせたほうがいいようですね」

「そうだね台所のほうに部屋が無いから其のドアから台所のドアまで屋根だけでもつなげて」

「旦那其のドアの向こうは2階の渡り廊下がありますだよ」

確かにドアを開けると2階の廊下が上に屋根になっていた。

「では前も此処が料理人の部屋だったのかな」

「そうですよ。それで誰か此処へ来る人はお決まりですか」

「そうだ、エメは心当たりでもあるの」

「まだ聞いていないから判らないの」

「其れでしたらわしの姪っ子と其の亭主を雇いませんか、亭主は先の戦争で足をやられてビッコを引いているだでまともな所に勤められねえんですよ。軍隊では炊事班に居ましたからどうにかお役には立てると思うですだ」

「いいんじゃないショウその人に一度会ってみましょうよ。今会えるなら呼んで来て下さる」

「すぐ呼んできますだ」

ドナルド爺さんは早速呼びに出かけた。

2階は階段がクロワールからのしかなく階段の上に大きな1部屋、左翼に2部屋とトワレットゥに風呂場、右翼に2部屋とトワレットゥに風呂場。

「アルセーヌ、1階に風呂場が必要だね」

「そうですね、住み込みのものも2階を使っていたんですかね。幾ら浄水場が近くて水に不便しないところでも2階だけでは不思議ですなそれと2階は火事を考えて非常の時の避難路を確保しますか爺さんが渡り廊下だと思っていた場所は風呂場で行き止まりですから」

「それと階段上の大きな部屋に風呂場とトワレットゥを中庭に張り出してくれるかな」

「そうしますかそれなら下のトワレットゥの脇に廊下をつけて風呂場を作ればそのうえに持ってこられますね、あの部屋は其の部分が壁なので作り変えても余り建物に痛みが来ないでしょうし明かり取りに変更が無い分良いでしょう。風呂場の脱衣場から張り出した風呂場へ下りれるようにドアをつけましょう。でも3000フランくらい全部で掛かりますぜ」

「いいところだよ。家具を入れて2万5千フランが予定金額さ。余り贅沢な飾りの付いた家具は入れない予定でいいだろエメ」

「贅沢は慣れるとエスカレートするからいらないわ。これで何時リリーが来ても泊まるところに困らないわ」

「アッそうかリリーの為だったんだ。では応接セットに寝室はいい物を入れようよ」

「あらやだ、気が付かなかったの。それなのに大きな部屋にトワレットゥだの風呂場だのと言うのは如何して気が廻ったの」

エメは考えすぎのようだが正太郎がどぎまぎしているのを見てM.ギャバンが「其れは自分が泊まった時のためでしょうぜ。ショウは尿瓶やおまるは好きで無いそうですぜ」と助けてくれた。

ドナルド爺さんが中年の夫婦を連れてきた。
「こいつらでさぁ。家庭料理と言ってもパリの人たちの口に会うか心配だと言うのですがね」

「其れはどこかで習えるように手配するよ。夫婦で衣食住を此方もち、給与は2人で180フラン普段は家の手入れと周りの掃除くらいですよ」

「食事はどのくらいまで使っていいのですか」

「1日2フランまでは自由にして良いです。月によって給与の日に清算しますから残ったお金は貯めておいて臨時に必要が出来たら其処から使う事になりますが、使い切っても補充はしません。お客などがあるときは別に清算します」

「其れで何時から来れば良いですか」

M.ギャバン其処の部屋と2階の風呂場が使えるか見てくれる。そうすれば明日にでも通いで掃除にきてもらって住めるようになれば其のまま引っ越しをしてきてもらうよ」

M.ギャバンと爺さんが見て廻って今日からでも住めると言うので「明日から出てきてください。契約書は近いうちに作ります。これが爺さんと交わした物、これが他のところの夫婦と交わしたものです。これと同じ内容になりますが良いですか」

其れを読んでいる夫婦に「近いうちに正式契約にします。まず2人の服を他の働いている人と同じように支給しますが今日は付き合えますか」と尋ねた。

「はい、2人住まいなのでこのまま何時でも大丈夫です」

「エメ悪いけどこの2人にもカントルーブ夫妻のように服をそろえてくれるかな」

「良いわよ。ショウはどうするの」

「帰ってくるまでこの辺を散歩しているよ」

M.ギャバンがエメの言う使用人用の衣服を売る店へ連れて出かけている間爺さんの案内で村を廻って庭との境や水の道などの検討をした。
3人は辻馬車で帰ってきて馬車を待たせて正太郎が支度金に5フラン銀貨で200フランを支払った。

「明日からの食料品に必要な掃除道具などの経費は受け取りを貰うか、無いものでもご自分で書付を出せば週一度清算しますからこれが準備金です」

100フランを前渡しして後は人を廻らせると約束した。
帰りの馬車で「また一人雇うようだね此処かフェネロン街のほうかに1人住み込ませて事務所との連絡に廻らせるようだな。そうして馬車を置けばMlle.ルモワーヌの連れてくる人の学校の送り迎えも出来るしね」

「馬車に馬2頭、馭者でしょ。5000フランは掛かるわよ。月400フランは見ないと無理よ。其れより朝夕の送り迎えと一回りするだけなら契約で雇えば3000フランで済むと思うわ、聞いてみましょうか」

「そうだね。4000を越すようなら雇えばいいしそれ以下なら午前の3時間、午後の2時間を契約すればいいか」

「1日5時間ねそれで聞いてみるわ。帰りによって話しておけば2日くらいで計算するでしょうね。日曜は休みでいいでしょ」
「其の日に必要が出来れば其のつど雇えば良いさ。Mlle.ルモワーヌの船が着くまでは用も余り無いしね」

「なら其れまでは午前の3時間だけにしましょうよ。事務所からルピック街とヴァルダン通りにフェネロン街を一回りすればいいんでしょ」

「そういうことだね。午後は今までどおりオムニバスで廻れば済むしね」

「決まりね。馬車屋のエミールに話しに行きましょ」

ノートルダム・デ・シャン街でエメは6フランと50サンチームのチップを渡して馬車を降りた。
リディに馬車屋に行くと話をして道を廻ってレンヌ街の馬車屋に入った。

「エミールは居ます」

「今出かけているのよ。急用」

「ううん、今度ショウの仕事が増えて朝3時間ほど常雇いの人がほしいの3時間くらいでフェルディナンド・フロコン街からルピック街を経由してセーヌ県のヴァルダン通り其処からモンルージュのフェネロン街へ出てまたルピック街経由でフェルディナンド・フロコン街へ毎日廻りたいの」

地図に点を打ち住所を紙に書いてかみさんに渡してどのくらいでランディからサムディまで働いてくれるか試算を出してくれるように頼んだ。

エメの部屋で寛いでいるとエミールがやってきて1日7フラン、チップ1フランで8フランなら受けると言うので週48フランで契約をした。
エメが年間だと2500フランくらいでしょというので310日の計算にすると2480フランだった。
これなら倍にしても常雇いと同じくらいなので聞くと5000フランなら午前と午後で6時間の年間契約で馬車を貸して人間を派遣してよいと請け合ってくれた。

「ショウ少年でも事務員を1人増やして馬車と廻らせれば用は済むでしょ。馬小屋に馭者の住まいになどを考えれば其のほうが楽よ」

「そうだな、ブティックとバイシクレッテのほうで事務を取る間にヴァルダン通りへ一度顔を出させれば廻る順を替えるだけで済みそうだな」

「そうよね朝学校へ送るのを先にすれば時間の割合も良いと思うわ」

正太郎はまだ先のことなので今すぐでは無いがどのくらい前に連絡すればいいか聞いた。

「3日前に判れば手当てをしますよ。順番と時間は前日に教えてくれれば最初に行くところへ約束の時間に迎えに行きます」

約束が成立して連絡をする事にしエミールが帰ると2人はようやくロトリー・ピュブリックの話しになった。

「今日は7万フランも持って走り回っていたのよ。もう驚いたわ。ショウロトリー・ピュブリックの交換は今度のランディからよ。其れまでどうしよう」

「銀行へ預けようか、まだモンマルトル・オランジェ銀行なら開いてるよ」

「フェルディナンド・フロコン街、それともサンタンヌ支店」

「そのサンタンヌ支店さ。ついでにどこかで食事にしない。お金がさびしくなったらお腹もさびしくなったよ」
エメはキスをして「少しは足しになった」と言ってもう一度キスをして仕度を始めた。

サンタンヌ支店は7時まで貸し金庫に受け付けてくれるので其処へ20枚のロトリー・ピュブリックを預けて食事に出かけた。



Paris1873年4月25日 Friday

15日から正太郎は休みなしに飛び回っていた。

21日のランディ(月曜日)には小雨が降った、フランス銀行でロトリー・ピュブリックを換金してエメは此処へ25000フランの預金を増やし、口座の無い正太郎は27500フランの新規口座を作った。

ロレーヌとサラは2500フランを現金で持ち帰り、其のうち500フランをメゾン・リリアーヌへ子供用のスリップ・デ・マリーと靴下の注文を出した。

タイユを10種類に100人分を作り、まず其れを支給して体に合った数を1人2着の追加注文を出すと言うことでサラが相談をした。

「どうしても成長が早いから傷みも早そうね。うちの店員を連れて行って体に合わせてリストを作りましょうよ。それで追加は1着にしてサイズ別に予備を預けるのが良いわね。値段は卸値段で引き受けるから大分安くなりますわよ」

サラ・リリアーヌもマリー・アリーヌも協力を惜しまないと引き受けてくれた。

「他の孤児院にも広めたいけどまだ100人以上は此処だけでは無理もあるし少しずつでも協力してくださる人を増やしましょうね」

パリにはまだまだ浮浪児同然の子やスリの手伝いで生活している子が多く花売りや店員、工場で雇われるのはましなほうなのだ。

しかし子供では2フランがいい所、スリで5フラン、10フランを稼いだという話を聞けば、楽をして儲けたいという子供たちを無くすのは難しいとニコラも話していた。

子供の花売りでも女たちにかわいがられている子は「ねえ花束を買って」と男にねだって4スー(20サンチーム)のスミレや季節の花を買わせて呉れるが、贔屓にしてくれるものが居ない売り子は、30束の入った籠を空に出来ず親方にぶたれる子も多いのだ。

M.アンドレが探してきた少年はコレージュを出た後、商社のポルトゥール(赤帽)をしていたが会社が潰れたのを聞いて拾い出してきたのだ。

少年と言っているが正太郎と同じ18才なのだそうだが若く見えた。

M.アンドレの同じ街でメールと2才年下のスゥルが居てその妹は職業リセを今年卒業すると言う話だ。

マルディから始まった馬車回りに連れて廻り、今日からはそのアラン・デュ・ボアが連絡に廻りだした、マガザン・デ・ラ・バイシクレッテでMlle.ベルモンドかMlle.シャレットが降りるとヴァルダン通りとフェネロン街へ廻って帰りにまたマガザン・デ・ラ・バイシクレッテに寄って帰るのだ。

ようやく落ち着いた正太郎が公使館へ歩いて出向くとヴィエンヌから荷が着いたと連絡の電信が来たと長田が正太郎に教えた。

アメリカから森有礼が3月30日ニューヨークを発って昨24日にパリに着いて、公使館から7分位で行けるロード・バイロン街のオテル・デジョン・ノール・プィィへ宿を取り、昨日はミニスター・レジデントと成島も交えて歓迎の食事会を開いたと話した。

成島柳北は欧州遍歴の旅を終えて一度パリへ戻ってきたところ、森はニューヨーク副領事に富田鉄之助を任命しての帰国の旅だ。

正太郎は公使館を出ると暖かい日差しのさすモンソー公園へ向かった。

此処が近くて落ち着くと一番のお気に入りで、今日もピック・ヴェールが樹を叩きながら鳴いているのを眺めた。

池の周りには雀に混ざりメザンジュがツツビー、ツツビー、ツツビーと尾を振りながら白い頬を膨らませて雌の周りを跳ねているのが可笑しかった。

「四十雀かぁ、山雀は見かけないけどパリには居るのだろうか」

横浜でおみくじを引かせて麻の実を器用に足で抑えて殻を割る姿に見とれた日を思い出した。

ヒン・カラカララララ、ヒ・カララララ「あ、ルゥジュゴルジュだ。駒鳥がパリに居るんだ」と木々の間を見たが、姿は見えずメザンジュのいた池のほとりにはカワラヒワの姿が見えた。

「カワラヒワはなんだったっけな」

名前が浮かばない正太郎が其の愛くるしい姿を見ていると、誰かが後ろから忍び寄ってくる気配がしてぱっと前に飛び出すと「アッ」という声と共に振り向いた正太郎の胸にロレーヌがたたらを踏んで飛び込んできた。

「なんだ、気が付いていたんだ」

其のまま正太郎に抱きついてロレーヌは聞いてきた。

「いや誰かが後ろに近づいてきたのでとっさに前に出たけど、これ以上前に行くと池に落ちるのでやめたのさ。僕がこうしなけりゃ君が替わりに池に落ちるとこだぜ」

「じゃ、お礼にビズをしてあげるわ」

そういうと何度も小鳥のように正太郎の口にビズをした。

「そんなに押すと2人とも池に落ちるから少し離れてくれないか」

「薄情者」

そう言って邪険に胸を押して後ろに下がるロレーヌの力は案外強く、正太郎は危うく池に落ちそうになって足をかけていた池の縁をおして前に跳んだがまたそこでロレーヌにぶつかってしまった。

「もう知らない」

そういいながらビズをするロレーヌに正太郎もたじたじだ。

「今日は何の鳥を観察していたの」

ようやく離れて正太郎に聞いてきたので「ほら其の水辺に何羽もいるキリキリキリ、ピュピッピッ、コロコロロと鳴いている鳥だよ。羽の脇に黄色が目立つのがマール(オス)でファム(メス)は少し色がくすんだほうだよ。

そうですぜお2人さんというようにまたピッピツピと鳴いて体を振るわせた。

「ああ、ヴェルジュ・デゥロプと言うのよ、ジャポンではなんていうの」

「カワラヒワというんだよ」

「フゥン、まるで鳴き声みたいな名前ね」

ロレーヌには正太郎がカワラヒワとヒワの名前が歌のように響いたのだろうか、フランス語風のカワラヒワと訛ったかなとおもったが駒鳥の高い声がまた木の上でした。

正太郎がベンチに腰を下ろすとロレーヌは背中に日差しを浴びて肩を寄せてベンチに座った。

「今日はね、ほんとを言うとショウが此処にいるような気がしたの」

「またお昼でもねだりに来たの」

どうもこの子に色気を感じて居ないようだ、ロレーヌは正太郎のひざを思い切り叩いて立ち上がると「いーっだ」とあかんべえをしてみせたが思い直してまた隣へ座った。

「ショウはエメの事があるから私のこと子供だと思っているんでしょ。良いわよ、それならそれでうんと甘えてやるから」

仕方ないなぁと思いながら憎めないロレーヌだった。

池の周りの鳥は入れ替わりしていたが駒鳥は一度も降りてこなかった。

カナリの声が聞こえた、籠に入れたカナリを持った老人が歩いてきて池の傍の樹に吊るしたのだ。
カワラヒワに似た其の鳥は小さく通る声でさえずった。

ピュルルルルと何度も繰り返し高い声でピィピュルルと喉を震わせ暫く続けるとビュヴルブヴと鳴いた後また元に戻って繰り返した。

「黄色やオレンジのカナリとは違うようだね」

「カナリドロールと言うのよ。プロシャから来ることが多いのよ。日曜のシテ島の小鳥市で売っているわよ」

「ノートルダム橋のところかい」

「そうよ。行ってみる」

「いや今のところ小鳥にまで手が廻らないから」

「見るだけならいいでしょ、ねえ明後日の市に行きましょうよ」

正太郎の肩を揺すって強請るロレーヌに公園の鳥の名前も良く知っているなら珍しい鳥の名前も知っているだろうと思った。

「お昼頃でいいかい」

「わぁ、それで良いわ。何処で待ち合わせる」

「カルゼール凱旋門、11時」

「まぁつまらない場所ね。エメともそういうところで待ち合わせたりするの」

「あそこの河岸にアイスクレームの屋台が出だしたのさ」

「もう出たの、ならドゥ・ペルソンヌでダブルのアイスクレームね」

「ああ、構わないよ」

やはり食い気が先にたつロレーヌだ。

「これから何処へ行くの」

「シャンゼリゼ」

「何か買い物」

「そう、デュポンが去年の火事の後で職人を集めて、サックやセルヴィエットを作って売る店を開いたのさ。そこでサックとセルヴィエットを買うつもりさ」

「その人のお店の職人は腕はいいの。附いて行ってもいい」

「構わないよ。マダム・デシャンは何でも金持ちに人気のある店だと言っていたから、新しい子も入ったし会社も利益が出たので全員に持たせるのさ」

「ふぅん、ショウの会社は景気がいいんだ」

「そうらしいよ」

「そうらしいって判らないの」

「僕にお金が入って来ているならともかく投資のほうが多いのに税金が沢山請求されたからね。徴税院は儲かったと判断したから税金をかけてきたんだ」

「其れで幾ら払ったの」

「全部で26000フラン請求が来たけど、M.アンドレは後13000フラン市から請求が来るはずだと言っていたよ」

「それってひと財産消えてしまうのね。ごまかせばいいのに」

「駄目だよそんなこと、最初から税金の事を考えて儲けを出していないけど、払うものは払わないとパリの街の道も綺麗に出来ないし、公園もほったらかしになっちゃうよ」

「ふぅん、ショウってそういう考え方をする人なんだ。私の周りってどうやって税金をごまかすかを考えいてる人ばかりよ」

「そうは言っても君たちは孤児院の事も熱心じゃないか」

「其れはメールと私だけの事よ。周りの人は違うわ」

2人は腰を上げ公園の南出口から出てクールセル街へ向かって歩いた。

オスマン大通りを横切りフォーブル・サン・トノーレ街へ出た。

「どこかで軽く食べるかい」

「お腹はすいていないわ」

「そう、ラディユレでお茶にしようと思ったけどやめるか」

「ショウはお昼を食べていなかったの」

「今日は食べている暇がなかったのさ」

「可笑しな人ね、なら公園でぼんやりしているよりレストランに行けばいいのに」

「君が来るかと思ってさ」

「まぁ、上手い事いって。でも手遅れよ、それ私がさっき使ったわ」

「やっぱりばれた」

「当たり前でしょ。でもショウのために付き合ってあげるわ。私はタルト・オ・フレーズ・ア・ラ・ギモーブ・フレッシュがいいわ」

「もうイチゴが出ているのかな」

「マルセイユから果物屋には来ていたし昨日はヴァレンティノでも使っていたから大丈夫よ」

二人はロワイヤル通りの角まで道をくだり店の前の椅子でカフェ・クレームとロレーヌにタルト、正太郎はショッソン・オ・ポムを頼んだ。

コンコルド広場へ出るとオベリスクの周りには観光客が大勢説明を聞きながら上を見上げていた。

「オベリスクは、もとはエジプトのルクソール神殿は第1の塔門にあったもので、作ったのはラムセス2世、台座が4メートル其の上の部分の高さを含めると全体で28メートルあります。エジプトの総督モハメド・アリから、1833年にフランス国王シャルル10世に贈られたものです。お礼は時計だったそうです」

案内人は良く通る声で説明をしていた。

「解体されたオベリスクがパリに着いたときには、送られたシャルル10世は1830年の七月革命で、すでに退位、国王はルイ・フィリップに替わっていました」

中々心得た上手い説明で観光客の心を掴んでいた。

「さぁ、周りをみて廻りましょう。其処にはこのオベリスクが最初に建てられた様子が描かれています。ヒエログリフの文字が読めないでしょうが絵の様子でごらんください」

ロレーヌは観光客の中に溶け込んで付いて廻りだした「しょうがないなぁ」正太郎は諦めて一回りしてくるのを待った。

「これと対のオベリスクはエジプトのルクソール神殿に残っています。見に行きたい方はご連絡ください、私も行きたいのですが旅費がありませんのでガイドに雇ってくださればエジプトの言葉は判りませんがお供いたします」

観光客は一斉に笑い出した。

「一番上は昔ピラミディオンという四角錘の覆いがあったそうですが2500年前に盗難にあいました。金箔が張られていて遠くからも良く見えたそうです。わが国に金が溢れるくらいあれば上に乗せましょう」

「泥棒の心配で番人は寝る間もないぞ」

「心配要りませんよパリは寝るまもなく夜中でも人が大勢街に居ますから」

既にこの観光客と意気投合したかのようなやり取りは続いていたがようやくロレーヌが離れてこちらに来た、シャンゼリゼのアベニューのゆるい上り坂を歩いてロン・ポワンの左側にあるTS・デュポンの店へ入った。
自分用と女性用が二つ、男性用がふたつの手提げのセルヴィエットと肩から掛けるサックを同じ数にロレーヌとエメのために二つ買い入れた。

「馬車で家まで送ろうか。事務所へ戻るんだけど」

「ジャダン街だと遠回りでしょ」

「たいした事無いけど、他に用がなければ乗っていきなさい」

「はい、お兄様」

ロレーヌはふざけてそう言って、辻馬車まで荷物を運んでくれた店員に1フランのチップを渡して乗り込んだ。
馬車は行き先を告げるとエトワール凱旋門に向かい、ワーグマン大街をプレイス・テルヌからクルセル大街へ入りモンソー公園の手前を左へ入った。

ジャダン街へ入るとすぐだと言うので家の前まで行かずに止めたほうが馬車を廻さずに済むとロレーヌが降り「ディマンシュの約束を忘れないでね」と手を振った。

「モンマルトル墓地の先のマルカデ街の中ほどのフェルディナンド・フロコン街です」
馭者は心得て「銀行の角ですね」と墓地の先をコーランクールでモンスニまで出て左へ曲がり、マルカデ街を右に曲がって馬車を止めた。

事務所でそれぞれにサックとセルヴィエットを渡し、ふたつの料収書を見せてひとつを事務所の経費から出してもらった。

「これはロレーヌとエメの分だから僕のほうから出すよ」

そう言ってひとつは別にして事情を話した。

「セルヴィエットがひとつ108フランで540フラン、サックがひとつ88フランで440フランの980フランですね。高い物ですね」

「これでも安い奴を選んだんだよ。この4倍の物まで店に有って、そのうえは注文でお作りしますとさ。ロレーヌが聞いたら660フランでお渡しする物だと言うのを見せてくれたが何処が違うか僕には判らないよ」

アランは自分の一月の給与以上の支給品に驚いたようだ。

「でも660フランのサックを使う人は何を入れるのでしょうね」

Mlle.シャレットなど入れる物を心配していた。

「でもこの間ジュリアンがエメに買ったスクリーブ街のルイヴビトンレイエキャンバスは大小ふたつで780フランだったよ。あそこでも特注品は600フランくらい取るよ」

「ああぁ、私にもそういうプレゼントをくれる人が現れないかしら」

「自分で稼ぐ気があるなら仕事を紹介するよ」

M.アンドレそんな話があるの」

「月380フランは出してもらえるよ」

「なんだリヨン行きの話じゃないの」

「そう、僕は此処を離れられないからね。売り上げしだいで歩合も入るとショウもいうし、ブティックとマガザン・デ・ラ・バイシクレッテの代理店ならお手のものでしょに」

「う〜ん、お給料が倍以上は魅力的だけどパリに居たほうが知り合いも居るし」

「バスティアン・バルバトールは行く気だよ。彼、君の事好きみたいだし」

「ふぅん、この間お食事したけどそんなそぶり見せなかったわよ」

「彼、自分の前の奥さんを亡くしたせいで気後れしていると、イヴォンヌが言っていたよ。君バスティアンがリヨンに行ってもいいのかい」

Mlle.シャレットは考えていたが「其の話はまだ先でしょ。それとボルドーはどうなったの」

「向こうは例の酒屋の方でバイシクレッテの店を開きたいと打診が有ったよ。それでショウが仕入先を紹介したそうだから自分でやると思うよ」

「其の話し聞くの始めてよ」

「そうさ僕だって昨日の夜に聞いたばかりだものまだ確定して無い話だからね」

正太郎は後を任せてメゾンデマダムDDへ戻ると中からピアノにのせて歌う声が聞こえた。

クロワールにはポンティヨン一家と髭の大男が来ていてセディやベティも含めてマダム・デシャンの指揮でシューベルトの作曲したAh,vous dirai-je, mamanを歌っていた。

「シューベルトだね」

「そうよショウも知っていたの」

「横浜に居た時に教わったよ」

Ah! Vous dirai-je maman

Ah ! vous dirai-jemaman Ce qui cause mon tourment
Papa veut que je raisonne
 Comme une grande personne
Moi je dis que les bonbons
 Valent mieux que la raison

其の後フランス語に訳されたシューベルトの子守唄が歌われた。

Berceuse de Schubert

Dormez, dormez, petit ange rose Dormez, berce par ma douce main
Oui c'est l'heure ou tout repose
 Dormez, dormez et jusqu'a demain

マダム・デシャンはモーツアルトの子守唄をドイツ語で歌った。

Wolfgang Amadeus Mozart

Schlafe, mein Prinzchen, schlaf ein,

 es ruhn Schafchen und Vogelein,

 Garten und Wiese verstummt,

 auch nicht ein Bienchen mehr summt,

 der Mond mit silbernem Schein

 gucket zum Fenster herein,

 schlafe bei silbernem Schein,

 schlafe, mein Prinzchen, schlaf ein!

Schlaf ein, schlaf ein!

続いてM.ポンティヨンがドイツの軍人だと紹介したブライテンライトナー大尉が同じ歌を歌ったが声量豊かな声は子守唄とは子供たちには聞こえなかった。

ブランシュはMomoに抱かれて驚いた顔をしたしジャンヌは正太郎の膝にしがみ付いて聞いていた。

そしてフランス語に訳された子守唄をポンティヨン中佐が歌い子供たちに喜ばれた。

Berceuse
Mon bel ange va dormir
 Dans son nid l'oiseau va se blottir
Et la rose et le souci
  La-bas dormiront aussi
La lune qui brille aux cieux
 Voit si tu fermes les yeux
La brise chante au dehors
 Dors, mon petit prince, dors
Ah! dors! dors!

次はルイ13世が作った詩に若きアンリ・ギスが最近つけた曲が披露された 

Tu crois, o beau soleil Amaryllis

Tu crois, o beau soleil,     なんと素晴らしい太陽よ
Qu'a ton eclat rien n'est pareil
  貴女の輝きに比べられるものは無い

En cet aimable temps
     この芳しい雰囲気の中で

Que tu fais le printemps.
    貴女が春をもたらしている

Mais quoi ! tu palis
      なぜに君がしぼんでしまうのか

Aupres d'Amaryllis
      アマリリスの許では


Oh ! que le ciel est gai
     この明るい空よ

Durant ce gentil mois de mai !
  この麗しく5月には

Les roses vont fleurir,
     バラは咲き

Les lys s'epanouir.
       ユリの花もほころび

Mais que sont les lys      そのユリの花も顔無しさ
Aupres d'Amaryllis ?
      アマリリスの許では


De ses nouvelles pleurs
     日ごとに露を得て

L'aube va ranimer les fleurs.
   花々は、夜明けと共に生き返る

Mais que fait leur beaute
    でもそれのうつくしさも

A mon coeur attriste
      僕の心の悲しみを癒さない

Quand des pleurs je lis
     憂いを見たときは

Aux yeux d'Amaryllis ?
     アマリリスの目の中を 

月の光に照らされてというフランスの古い歌をエドマ夫人が歌ってくれた。

Au clair de la lune

Au clair de la lune Mon ami Pierrot
Prete-moi ta plume
 Pour ecrire un mot
Ma chandelle est morte
 Je n'ai plus de feu
Ouvre-moi ta porte
 Pour l'amour de Dieu.

 月の光に照らされて
わたしの可愛いピエロさん
ペンを貸してちょうだいな
文字をちょっと書きたいの


其の後子供たちの喜ぶ歌が
DDの指揮で歌われてクストーさんが食事の仕度が出来ましたと呼びに来るまで続けられた。

クリスマスですよと言う歌は子供たちも大よろびでDDに指揮をされて食堂へ入るまで歌い続けた。

C'est Noel
C'est Noel la nuit la plus belle Nuit d'espoir et de lumiere
Dans le coeur des hommes
 C'est Noel chantons la nouvelle
Que la paix regne sur terre
 Pour l'eternite.

今回のシャンソン・楽曲は此方へリンクさせて頂きました。 アイ

其のほかお世話になった方、公開されているホームページを紹介してくださった方に感謝いたして居ります。 アイ

 2008−06−22 了
 阿井一矢


横浜幻想  其の一   奇兵隊異聞 
 其の二   水屋始末  
 其の三   Pickpocket
 其の四   遷座祭
 其の五   鉄道掛
 其の六   三奇人
 其の七   弗屋
 其の八   高島町
 其の九   安愚楽鍋
 其の十   Antelope
 其の十一 La maison de la cave du vin
 其の十二 Moulin de la Galette
 其の十三 Special Express Bordeaux
 其の十四  La Reine Hortense
 其の十五  Vincennes
 其の十六 Je suis absorbe dans le luxe
 其の十七 Le Petit Trianon
 其の十八 Ca chante a Paname
 其の十九 Aldebaran

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カズパパの測定日記