酔芙蓉 第二巻 野毛

 
  酔芙蓉−第九部目次 弁天 2  根岸和津矢(阿井一矢)

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 第二部目次
 第三部目次
 第四部目次
 第五部目次
 目次のための目次-1
  第六部目次
 第七部目次
 第八部目次
 第九部目次
 第十部目次
 目次のための目次-2
 第十一部目次
 第十二部目次
       目次のための目次-3

慶応2年12月1日―1867年1月6日 日曜日

弁天 − 仲通り
慶応2年12月1日―1867年1月6日 日曜日
弁天 − 仲通り

添付は彼我公園

仲通りは弁天通りと本町通りに挟まれているのが南中通りで、元濱町と本町通りの間が北中通りです。
日本大通り
「横浜居留地改造及び、競馬場、墓地等約書」(第3回地所規則)が同年の11月23日に締結されました。
居留地と日本人街の区画整理を取り決めて中央に延焼を防ぐため120フィート(36メートル)の街路を海岸から公園(現在の横浜公園)まで計画しますが実行出来ずに明治政府に引き継がれました。 
明治4年(1872年)英国人ブラントンの設計で工事が始められて、車道60フィート、歩道及び植樹地帯が左右それぞれに30フィートからなる近代的な道路として誕生しました。
横浜公園 「彼我(ひが)公園」 
港崎遊郭の跡地にブラントンの設計により、明治9年(1876年)に造られた面積6万平方メートルの洋式公園で、現在は横浜スタジアムがその大半を占めています。


慶応2年12月4日―1867年1月9日 水曜日

弁天 − 谷戸坂
慶応2年12月4日―1867年1月9日 水曜日
弁天 − 谷戸坂

騎兵体歩兵体散兵大調練之図慶応3年8月

フランスからの軍事教官は1867年1月14日に大田陣屋で教え始めたそうです。
各教官にはラシャメンと呼ばれた現地妻がつけられていました。
将軍お倉はシャノワンの御用妾として選ばれ、ロッシュ公使のお富、横須賀製鉄所所長のヴェルニのお浅、将軍慶喜の軍事顧問プレアン少佐のお政などが有名です。
この頃には遊歩道も完備され茶屋も数多く作られていますし、異人たち以外の日本人も数多く散策に訪れていました。
本牧の十二天は人気が高く訪れる人は切れることが有りませんでした。
アメリカ彦蔵・ジョセフ彦こと浜田彦蔵はこの月の25日頃に長崎に旅立ちました。
長崎では龍馬や五代才助とも親交を結んだといわれています。

慶応2年12月6日―1867年1月11日 金曜日

弁天 − 辻占煎餅

慶応2年12月6日―1867年1月11日 金曜日
弁天 − 辻占煎餅

草加煎餅は三百年ほどの歴史があります。
昔、日光街道の草加松原の茶店におせんさんという女性が団子を売っていました。
日によっては売れ残ることもあり、この売れ残った団子を捨てていましたが、旅の侍から教えられて、「団子をつぶして乾かし、焼いて、焼餅とする」事を始めました。
そして、この焼餅は美味しいと評判になり、草加の宿の名物となりました。
と言う風に草加煎餅の各サイトには出ています、でも大元は保存食の乾餅(堅餅)から始まったと思われます。
この時代うるち米の煎餅より小麦粉からのせんべいが主力でした。
江戸では池波正太郎が書いている中から、市ヶ谷・左門坂上の菓子舗桔梗屋の喜楽煎餅これは糯米(もちごめ)を薄く軽く、亀の子の形に焼きあげ、上質の白砂糖を刷いたものと、記されているように各地に亀の子の形の煎餅が名物としてありました。
神田川に架かる昌平橋の北詰・湯島横町の菓子舗〔近江や〕の薄焼砂糖煎餅の「羽衣煎餅」。
喰違門外四谷仲町の菓子舗栄風堂和泉屋の初霜煎餅が紹介されています、これは小麦粉と糯米(もちごめ)粉と鶏卵を合せて焼きあげた軽焼煎餅だそうです。
朝顔煎餅
元禄(1688〜1704)ころの江戸名物で、京橋北八丁堀の藤屋清左衛門の創製とされる朝顔の花の形をした煎餅、これも軽焼き煎餅ではないかといわれています。
歌舞伎の中の一こまが大日本国語辞典の朝顔煎餅の項目と並んで、朝顔仙平(せんぺい)の隈(くま)の項目があります。
隈取りの一つ。歌舞伎十八番「助六」に出てくる髭の意休の子分で、半道敵役の朝顔仙平が用いるもので、白塗りの顔に紅と青黛(せいたい)で朝顔に隈取り、眉毛は蕾(つぼみ)、髭は葉に描くとあって絵も載っています。
仙平は朝顔煎餅からの名で、そのせりふの中に「事も愚かや、この糸鬢(いとびん)は砂糖煎餅が孫、薄雪煎餅はおれが姉、木の葉煎餅とは行逢(ゆきあい)兄弟、塩煎餅が親分に、朝顔千(仙)平という色奴(いろやっこ)だぞ」と煎餅尽しがあります。
今は谷根千、浅草に堅焼きの手焼きのお店があり人気になっていますね。
横浜の喜樂煎餅、花見煎餅はもう少し後の時代です。
街中では辻占煎餅が売られていました、これは売り子が「淡路島〜通う千鳥の恋の辻占〜」などと売り声を上げ町の子達や色町での首尾を占う男たちを対象に売り歩いたものといわれています。
アメリカでもその頃にはフォーチュン・クッキー(Cookie's Fortune.)などが売られていました。

慶応2年12月25日―1867年1月30日 金曜日

弁天 − 師走
ジャパンブルワリーは後の麒麟麦酒です。
最初の山手46番にあったジャパンブルワリーは画像資料が見つかりませんでした。
( コープランドとビール関係は維新ーヘキ坂で改めて編集しました。 )

慶応2年12月25日―1867年1月30日 金曜日
弁天 − 師走
 
天沼のビアザケ
ドイツ人の醸造技師E・ヴィーガントは山手46番のL・マイヤー醸造所に(ジャパン・ブルワリー)の支配人兼醸造技師として1869年(明治2年)来日しますが、G・ローゼンマイヤーと意見が合わず退職しました。
ジャパンブルワリーは1874年(明治7年)には廃業しています。
山手68番のJ・ヘクト経営のヘクトブルワリーに再就職をするも解雇されますが、2年後に賃借りをして自分で醸造所を経営します。
ババリア・ブルワリーと云われていたという話もあります。
同時期、1869年(明治2年)山手123番地を含む地域を手に入れたW・コープランドは翌年自身で醸造を開始してスプリングバレーブルワリーを経営します。
ドイツ人の親方の下で五年間ビールの醸造を学んだ醸造技師だったと言われています
ここではババリアンビール(ドイツ風ミュンヒェナー)と英国系のものが主力でした。
二人は競合する形になりましたが、1876年(明治九年)6月15日コープランド・アンド・ヴィーガント商会として山手123番スプリングバレーブルワリーとして発足しました。
68番地は麦芽の発酵所として残されました。
コープランドが支配人、ヴィーガントが醸造担当でした。
売り出されたビールは6種類で英国系はぺリエール・ポーター・ジンジャエール、ドイツ系はラガービール・ババリアンビール・ボックビールでした。
ヴィーガントはまたも折り合いが悪くなり、1880年1月事業は解散されました。
公売された醸造所はコープランドが落札しましたが借入金と経営不振から1884年(明治17年)に公売され手放すことになりました。
キリン前史
コープランドから買収したのはジャパンガゼットのオーナー、タルボット(W・H・Talbot)証券・金銀塊ブローカーのアボット(E・Abbott)の二人のイギリス人です。
1885年(明治18年)香港籍の英国法人のJBCを設立します。
取締役会議長(後に会長)は横浜の英国人ドッズ(James・Dobbs)です。
トーマス・グラバーと岩崎弥之助も役員に名を連ねました。
1886年(明治19年)資本金を7万5千ドルに増資するときには、荘田平五郎・益田孝・渋沢栄一・大倉喜八郎らのそうそうたる明治の財界人を含む9人が新たに株主となりました。
(同法人はthe Japan brewery companyとして日本法人となり麒麟麦酒と成ります。)
ドイツ人のカール・ロデが原材料などの調達をし、ドイツから醸造技師としてヘルマン・ヘルケットを招いて1888年(明治21年)2月に第一回の仕込みを行いました。
同年5月には総代理店として明治屋が指定されています。

  
松坂屋の創始者といわれる茂木惣兵衛は上野国群馬郡高崎一の宮(現在の群馬県高崎市)で生まれ33才で横浜に出て、弁天通り二丁目にあった野澤屋に勤めました。
茂木惣兵衛は生糸の仕入・売込みに力を注ぎ、業績をあげていきました。
野澤屋は横浜でも屈指の店となったが、文久元年(1861年)店主野澤庄三郎は急逝してしまいました。 
茂木惣兵衛は独立して弁天通四丁目に小店舗を構え、屋号も同じ野澤屋呉服店と定め看板をかかげました、野澤屋のちの横浜松坂屋創業の年と定めるゆえんであると松坂屋のホームページに出ています。
三渓園で有名な原善三郎は神川町(旧渡瀬村)の出で(武蔵国(埼玉県)児玉郡若泉村とも)、文久元年横浜弁天通り三丁目の明林堂の裏手に仮住まいをしていました。
それ以前から秩父提糸を吉村屋と野沢屋に出荷しておりましたが、翌2年末には近くの中村屋という蕎麦屋兼小料理屋を買取り、亀屋善三郎の屋号で居留外国商人への生糸売込業を開業しています。
三渓は婿養子となった原富太郎の号です。
吉田幸兵衛(吉村屋幸兵衛) この人は藤屋善三郎(小野善三郎のことだろうか)と同じ上州大間々町の出身で原善三郎、茂木惣兵衛、島田豊寛と共同で横浜毎日新聞(東京毎日新聞・現在の毎日新聞)の創設に貢献いたしました。

慶応3年1月2日―1867年2月6日 水曜日 

弁天 − 新聞

慶応3年1月2日―1867年2月6日 水曜日 
弁天 − 新聞

168番のイギリス人宣教師バック・ウォース・エム・ベーリー( Buckworth M. Baily)さんが万国新聞紙を1月中旬に発行しました。
ペリーPerryさんと書かれた資料もあります。
浜田彦蔵についで発行された邦字新聞でした。
不定期発行ながら、1869年の17集まで発行されています。

慶応3年1月11日―1867年2月15日 金曜日 

弁天 − 磨墨


慶応3年1月11日―1867年2月15日 金曜日 
弁天 − 磨墨

頼朝の死後、景時は鎌倉から追放され京に逃れる折、その息子の景季、景高等の肉親に郎党ことごとく悲惨な最期を遂げました。
この時景高の一子豊丸は幼少で羽黒にゆかりのある乳母お隅の方の手で守られ、羽黒に、豊丸を守り総勢十余人で磨墨を伴ってこの地に落ち延びました。
豊丸は羽黒の地で成人して、梶原景親を名乗り羽黒城を築城したといわれています。
その後、お隅の方は亡くなり、磨墨も時を同じくして死んだそうです。
だけど磨墨ってこのとき何歳になる計算かな、当時の馬の寿命はどのくらいだったんだろう、伝説だろうね。
宇治川の先陣争いに梶原源太景季が乗った名馬「磨墨」は、明宝気良の産と語り伝えられています。
宇治川の先陣争いのときが1184年(寿永3年)で1200年(正治2年)に梶原氏滅亡といわれています。
磨墨を葬った場所と称する所は日本各地にあり、東京都大田区南馬込3−18−21 にも磨墨塚と称す塚があるそうです。
画像は明宝道の駅のものです。
競馬場は前にも出ましたが下記に画像があります。

http://www5f.biglobe.ne.jp/~kazuya22ai/ai/img/725.jpg
http://www.water.sannet.ne.jp/kazuya-ai/15/yokohama-5.html

慶応3年1月20日―1867年2月24日 日曜日 

弁天 − だんぶくろ
明治天皇の少年時代といわれる写真

慶応3年1月20日―1867年2月24日 日曜日 
弁天 − だんぶくろ

幕府陸軍は慶応2年11月,そぎ袖羽織,細袴[だんぶくろ]を戎服と定めた。
大鳥圭介は髷があると帽子をかぶるのに不便と考え散切り頭にしたといわれています。 

平専
山岡鉄舟は無刀流のヒントは次の平沼専蔵の話から得たといわれています。
「世の中は妙なものです。自分ながら不思議です。
私はもともと赤貧の家に生まれましたが、はからずも巨万の富を得ました。
青年の頃、500円ほどの金ができたときに商品を仕入れましたが、物価が下落気味だという世評に早く売りたいと思ったら、同僚が弱みにつけこんで踏み倒そうとするのです。私の心はドキドキして、胸が騒がしくなり、かえって迷ってしまいました。
そこでもう構わず放任しておいたところ、数日すると商人どもが私のもとに来て、元値より一割高く買うと言うのです。そこで今度は一割じゃ売れないと答えると、すると五分あげてきたのです。
そこで売っておけばよかったのに、欲に目がくらんで高く売ろうと思ううち結局2割以上の損をしました。その時商法の気合を悟りました。
大きな商いをしようと思えば、すべて勝敗損得にびくびくしては商法はできないとわかったのです。何事を企てるときも、まず自分の心の明らかな時にしかと思い決めて、それから仕事に着手すれば決して是非に執着しないでズンズンやることにしたのです。
その後はおおよそ損得にかかわらず、本当の商人になることができました。

明治天皇 祐宮睦仁(さちのみやむつひと)
慶応3年(1867年)1月9日践祚。即位は慶応4年8月27日。
嘉永5年(1852年)9月22日、孝明天皇を父とし、公家中山忠能(ただやす)の娘中山慶子(よしこ)を母として生まれました。 
慶応2年(1866年)12月の5日に水戸徳川家出身の一橋慶喜が15代将軍に宣下したあと、孝明天皇が慶応2年(1866年)12月25日35歳で急死(死因は、流行性出血性痘瘡と推定されているが、岩倉具視を主犯とする毒殺の噂がありさまざまな憶測が生まれました。
公武合体から急遽、討幕に拍車がかかり幕府の命脈は一年余りとなりました。

慶応3年2月1日―1867年3月6日 水曜日
 
弁天 − ティン・リジー
フォード・モデルTランナバウト

慶応3年2月1日―1867年3月6日 水曜日 
弁天 − ティン・リジー 

フォード・モデルT(Ford Model T)は、アメリカ合衆国のフォード・モーター社が開発・製造した自動車です。
アメリカ本国では「ティン・リジー(ブリキのリズちゃん)」などの通称があり、日本では「T型フォード」の通称で知られています。
1908年に発売され、以後1927年まで基本的なモデルチェンジせず、1500万7033台が生産されました。
(乗用車仕様のモデルTとトラックシャーシのモデルTTの合計数)

おでんは、「田楽(でんがく)」の「でん」に、接頭語「お」を付けた女房詞です。
田楽はは室町時代に生まれ、元は味噌を塗って焼く「豆腐田楽」をさしていた。
近世に入ると、こんにゃく、野菜、魚焼きの田楽「魚田(ぎょでん)」も生まれたが、この当時も味噌を塗って焼く、焼き田楽が主力でした。
煮込みおでんは、江戸で生まれ(明治に入ってからとも言われています)串刺しのこんにゃくを煮込んだものに始まり、大根やはんぺんなどが入れられるようになったものです。
おでんは関東炊きとも呼ばれるが、関西でのおでんは焼き田楽をいうので、付けられた呼び名であり俗説に広東(かんとん)がなまって、かんと炊きとなったとも言われています。

慶応3年2月15日―1867年3月20日 水曜日

弁天ー − ヨシノ

慶応3年2月15日―1867年3月20日 水曜日
弁天ー − ヨシノ

ソメイヨシノは起源にいろいろと説がありますがエドヒガンとオオシマザクラの交配により江戸は染井村にて誕生したと伝へられています。
最初はヨシノとして各地に植えられましたが、明治33年になって正式に染井吉野という名前になりました。
花弁は五枚です、咲きはじめは淡紅で、満開になると白に近づきます。
葉が出る前に花が開き、関東地方では3月末から4月上旬ごろが見ごろとなります。

慶応3年2月17日―1867年3月22日 金曜日

弁天ー − 日時計

慶応3年2月17日―1867年3月22日 金曜日
弁天ー − 日時計

旧暦(陰暦)明治5年12月3日を新暦(陽暦)明治6年1月1日と改めました。
同時に不定時法から定時法(1日24時間)に切り替えられることになりました。
明治五年太政官布告三百三十七号(改歴ノ布告)
明治5年11月9日
太政官布告第337号
今般改歴ノ儀別紙 詔書ノ通被 仰出候条此旨相達候事
(別 紙)
朕惟フニ我邦通行ノ暦タル太陰ノ朔望ヲ以テ月ヲ立テ太陽ノ躔度ニ合ス故ニ二三年間必ス閏月ヲ置カサルヲ得ス置閏ノ前後時ニ季侯ノ早晩アリ終ニ推歩ノ差ヲ生スルニ至ル殊ニ中下段ニ掲ル所ノ如キハ率子妄誕無稽ニ属シ人知ノ開達ヲ妨ルモノ少シトセス蓋シ太陽暦は太陽の躔度ニ従テ月ヲ立ツ日子多少ノ異アルト雖モ季侯早晩ノ変ナク四歳毎ニ一日ノ閏ヲ置キ七千年ノ後僅ニ一日ノ差ヲ生スルニ過キス之ヲ太陰暦ニ比スルハ最モ精密ニシテ其便不便モ固リ論ヲ俟タサルナリ依テ自今旧暦ヲ廃シ太陽暦ヲ用ヒ天下永世之ヲ遵行セシメン百官有司其レ斯旨ヲ体セヨ
明治五年壬申十一月九日
一 今般太陰暦ヲ廃シ太陽暦御頒行相成候ニ付来ル十二月三日
  ヲ以テ明治六年一月一日ト被定候事
    但新暦鏤板出来次第頒布候事
一 一ケ年三百六十五日十二ケ月ニ分テ四年毎ニ一日ノ閏ヲ置
  候事
一 時刻ノ儀是迄昼夜長短ニ随ヒ十二時ニ相分テ候処今後改テ
  時辰儀時刻昼夜平分二十四時ニ定メ子刻ヨリ午刻迄ヲ十二
  時ニ分テ午前幾時ト称シ午刻ヨリ子刻迄ヲ十二時ニ分テ午
  後幾時ト称候事
一 時鐘ノ儀来ル一月一日ヨリ右時刻ニ可改事
   但是迄時辰義時刻ヲ何字ト唱来候処以後何時ト可称事
一 諸祭典等旧暦月日ヲ新暦月日ニ相当シ施行可致事
 
14世紀初期のイタリアの都市で初めて採用された定時法はやがてドイツ、フランスへと広がって行きました。
1884年(明治17年)にアメリカ・ワシントンで国際子午線会議が開かれます。
25ヶ国が出席して、イギリス・ロンドンのグリニッジ天文台を通る子午線を経度の基本(東経・西経0度)とすることが決まりました。
グリニッジはロンドン近郊にあり,テムズ河の河畔に位置します。
グリニッジ天文台からの時報は1924年2月5日に初めて開始されました。
この会議で日付変更線(東経・西経180度)も決められましたが国際条約としての拘束力がないため変更線付近の島国は自分たちのしまの近くの変更線を変更できるということで混乱(ジグザグにラインが地図にあるのもそのためです)も起こって居ります。
日本は東経135度の明石が標準時ですが,135÷15 = 9時間の時差があります.
(360度÷24時間=15)東経はマイナス時間、西経はプラス時間で表示。
緯度は南北とも赤道を0度、南極あるいは北極が90度です。
日本標準時は、1886年(明治19年)7月12日勅令第51号「本初子午線經度計算方及標準時ノ件」に、1887年(明治20年)月1日から東経135度の時刻を日本の標準時(「本邦一般ノ標準時」)とすることが定められたものです。

慶応3年2月20日―1867年3月25日 月曜日

弁天 − 境木

慶応3年2月20日―1867年3月25日 月曜日
弁天 − 境木

ここ境木立場は権太坂と焼餅坂の間で茶店が軒を連ねていました。
立場(たてば)とは、街道筋で馬や旅人が小休止するための 休憩所のことです。
牡丹餅という焼餅を売る茶店があり賑わっていました、本文では団子も売っていたとしました。 
本文でもちょっと書きましたが、軽尻は、宿場におかれた駄馬の荷量による呼び名の一つで、本馬・乗懸の対語で、荷なしの馬に人を乗せるものをいうが、その場合でも五貫目迄の荷物を付けることが認められていました。
人が乗らない場合、二十貫目迄は軽尻の扱とされたそうです。
本馬は本荷の義で、正規の駄量を万治三年に四十貫目一駄と定められていました。
三十六貫目に減量されたこともあるそうです。
乗懸は駄馬の両側に明荷と葛籠の二つを付けて、その上に布団を敷いて人を乗せる仕掛けをしていました、古い時代には乗尻と呼んでいたようです。駄賃は本馬と同額であったと資料にあります。
品川では100年以上前でも本馬壱疋は江戸まで94文川崎まで114文でしたからあまり値段が高くなったようには見えず、人足仕事は割りに儲からなかった様子が伺えます。
年代により変化はありますが、
川崎・神奈川間は二里半、本荷114文・軽尻72文・人足56文でした。
神奈川・保土ヶ谷間一里九丁、本荷45文・軽尻30文・人足22文だったそうです。
慶応2年当時に取り決まられたものは、横浜町から神奈川宿まで(約壱里)の賃銭が次のように定められていました。
荷物一駄につき124文、乗懸荷は人と共で124文、軽尻馬1疋が人足1人で60文と定められました。

慶応3年2月28日―1867年4月2日 火曜日

弁天 − 十二天
虎太郎君の少年時代、大正のころの桜道

慶応3年2月28日―1867年4月2日 火曜日
弁天 − 十二天

市川荒二郎
明治後期の賑座(にぎわいざ)の女性をターゲットにした通称「ハンケチ芝居」のスターでした。
横浜の芝居好きは、この荒二郎の型破りな演出と見栄を愛したそうです。
大正・昭和期の喜楽座・横浜歌舞伎座の座頭として人気を誇りましたが、昭和10年(1935年)10月10日66才で逝去しました。

慶応元年にイギリスの医師ジョージ・ブルース・ニュートンがイギリス公使と連れだって、幕府に検黴所設立の意見を述べた。
慶応三年(1867年)9月、ニュートンがはじめて梅毒病院を開いたのは吉原町八、現在の中区長者町、その町会所を仮病院として検診が開始されました。
翌年の6月18日に同じ吉原町に病院が新築されました。
明治6年(1873年)になって、遊郭が吉原町から高島町に移転するのにともなって、病院も高島町9丁目(現在の西区高島町)に移転しました。
鉄五郎のその後
火事の後所払いとなって武蔵・相模の国から追い払われていたという説と、長谷川伸の『よこはま白話』に、鉄五郎は三代目石川一夢という講釈師でもあったそうで、多くの焼死者を出した大火の罪から逃れるため江戸へ逃げたところ、二年後には明治政府が樹立しましたので、諸事一新の時代となり失火の罪は帳消しとなって、寄席に再勤したという話が書かれています。

慶応3年3月10日―1867年4月14日 日曜日

弁天 − 金川 

芳虎の描く万延元年の神奈川(金川)より横浜を望む。
 
慶応3年3月10日―1867年4月14日 土曜日
弁天 − 金川 

1)日本武尊が東へ船出する用意に上無川付近で船に乗る時、倭姫に貰った宝剣が水面に映り、金色に輝きこの地を金川(かながわ)と名付けたと言われています。
2)帷子川(かたびらがわ)へ関東ロ−ム層のなかの酸化した鉄分が流れだし、川があかがね色に染まる事から金川と書かれたとも言われてもいます。
3)神奈川宿の西の町と仲の町の間に小川がありました。
水源が見当たらず、上がない川、上無川と呼ばれていました。
誰ともなく「かな川」と呼ぶようになったそうです。

源頼朝がこの地を訪れた時、金川の風光を賞し、「金は西の方角を司ると言う。西は上にあたり、皇城の方角でもあり、ここは神が大いに示す地である」と言われて、大いに示すを「奈」の字とし、金川から神奈川となったといわれています。
明治元年(1868年)九月、明治政府は神奈川宿を中心に方一〇里の土地を管轄していた神奈川府を神奈川県と改称しました。
これが県名神奈川のはじまりで、管下の土地は旧幕領であり分散していました。
明治五年二月、神奈川県は西を相模川、東を多摩川、北を多摩郡の地域を管下におさめました。
明治九年五月伊豆国をのぞく足柄県を合併してから、同二十六年四月の三多摩分離までは最大の県域でありました。

慶応3年3月25日―1867年4月29日 月曜日

弁天 − 袖ヶ浦
御開港横浜之全図 増補再刻 玉蘭斎橋本謙 宝善堂丸屋徳蔵版1866年 部分 元版は 60×152cm 

慶応3年3月25日―1867年4月29日 日曜日
弁天 − 袖ヶ浦


いまの横浜駅付近は袖ヶ浦と呼ばれていました、鉄道が新橋・桜木町間(当時は横浜駅といわれていました)明治5年以降埋め立てが進み、高島町から神奈川宿の沖合いにかけて順次埋め立てられて行きました。
いまのみなとみらいも、高島貨物駅後を横浜博のころに埋め立て拡大したもので江戸のこの時代とは完全に違う様相を呈しています。
いま東京湾で袖ヶ浦といえば千葉県の袖ヶ浦市付近の海を言いますが、この当時は神奈川から横浜間の海もそういわれていました。
袖ヶ浦伝説は大和武尊と弟橘媛にまでさかのぼる話です
各地に残る袖ヶ浦伝説は数多く残っています。
この付近だけでも二宮町にも袖が流れ着いたという話が残っています。
尊が東国征伐のおり、横須賀市の走水近くから上総の国へ舟で渡ろうとしたとき、にわかに風浪が立ち騒ぎ舟を進める事ができませんでした。
このとき媛は身を投げ海神の心をやわらげ、波を静めたとのことです。
浦賀水道は、馳(はしる)水とよばれ、近くの舟出した場所は走水と呼ばれており、日本武尊と弟橘媛をまつる走水神社もあります。
対岸の富津はむかし布流津(ふるつ)と呼ばれ、これは弟橘媛がまとっていた布が流れ着いたことによると言われています。
木更津の吾妻神社に同じ伝説が残り祭られているそうです。
木更津に上陸した日本武尊は、太田山に登り、愛する媛の面影を偲んで何日も立ち去らなかったといいます。
これが、君不去=きみさらづ=木更津のおこりだといいます。
君去らず 袖しが浦に立つ波の その面影を見るぞ悲しき 
吾妻神社  千葉県木更津市吾妻      祭神 弟橘媛 
橘神社   千葉県茂原市本納       祭神 弟橘媛
走水神社  横須賀市走水         祭神 日本武尊 弟橘媛の二神
橘樹神社  川崎市高津区母日(元 橘樹郡)祭神 日本武尊 弟橘媛の二神
吾妻神社  神奈川県中郡二宮町(吾妻山) 祭神 弟橘樹媛命 配祀 日本武尊
橘樹も、たちばなと読むそうです。

初代松林伯円は伊藤燕凌・石川一夢とともに三名誉と称された講談の名人で安政2年(1855年)10月の大地震で伯円は亡くなりました。
二代目伯円は初代伯円の芸養子となって鼠小僧、天保六花撰、高橋お伝など70余の講談を創作しています。明治38年(1905年)2月に没しました。

慶応3年4月15日―1867年5月18日 土曜日

弁天 − 美国平文

慶応3年4月15日―1867年5月18日 金曜日
弁天 − 美国平文

美国平文(米国のヘプバーン)編集による『和英語林集成』は、上海の美華書院(当時は小東十六舗フランス租界警察署の北、小東門派出所付近にありました)(American Presbyterian Press)に原稿を運び印刷しました。
片仮名と平仮名の活字は同行した岸田吟香の書によりました。
印刷費は約壱万ドルラル、紙は英国製で二千dollarかかったたため、2000部の印刷で販売価格は十八両と言われています。
日本語を初めて横組みした出版物で初版は巻末に英和の索引があり、和英二万七百七十二語、英和一万三十語が収められました。
明治になっても版が重ねられ、新聞広告には「和英英和語林集成 第4版」郵便報知新聞の明治21年4月19日付広告には、5月30日まで予約売価5円50銭、6月1日より正価7円50銭として有ります。
ヘボン式ローマ字は、現在の丸善に版権が移ってから刊行された第3版(明治19年刊)より使われました。
   
   第九部完  



幕末風雲録・酔芙蓉
  
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