横浜幻想
 其の十九 Aldebaran 阿井一矢
アルデバラン


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Paris1873年5月2日 Friday 

正太郎はモーリスと約束していた贈り物をアランや村田と共にドゥ・クリメ街まで届けに出かけた。

「5月5日に飾る人形と旗です。去年までジャポンで使われていた暦では今年の5月30日があちらでは5月5日にあたりますが、今年からジャポンでもグレゴリオ暦が採用されたので5日の日に向けて飾りましょう」

源平の旗指物にミニチュアの鎧兜、其れを入れる鎧櫃、大小は拵えもよく見た目も良いが子供用のもの。

村田に「これは全て飾り用で小さく拵えてありますが刃を調べたら切れますので、このように抜けないように紙縒りで結わえてあります。ショウにいえば1年に一度飾る前に手入れをしますから普段抜いたりしないように気をつけてください」と説明してもらった。

応接間の一角に両脇には植木を配置し、後ろに屏風を引き回し、旗指物を6本並べ大きな風呂敷きを広げ、其の上に鎧櫃と鎧兜を飾った。

其の脇に関羽と鍾馗の人形を台に乗せて配置した。

関羽の話を村田と交互に話し、力が強く情けがありシーヌの昔の武将とわかってもらえたようだ。

鍾馗は同じシーヌでも、もう少し近い時代に皇帝が重い病になった時に夢に鍾馗と名乗って現れ病魔を追い祓った人と説明した。

男の子はジャポンでは主に忠実で情け深くて、身体が丈夫な子に育つように願ってこの飾りを5月5日の日に飾ると説明もした。

正太郎は本屋で手に入れたDrawings for sketches of Japanese manners and customs(日本の礼儀と習慣のスケッチ)というロンドンで出された本のうちから、前にサラに渡した人形や今度の武者人形のデッサン画を見せた。
モーリスは村田に兜を被せて貰いうれしそうだった。

「何か御礼をしないといけないわね」

「気にしないでくださいよ。これはモーリスへの贈り物だから。それとこれは日本で薬などを入れていたインロウというものでベルトに下げるようになっています」

「綺麗な絵だねショウ」

「いいだろ、実用品として使われたんだけど飾っておくだけでもいいだろ」

「何処へ置こうか」

「其の木の枝に提げるかい」

「それじゃ可笑しいよ。向こうの時計の隣でいいかな」

サラに聞いてどうするか決めるようだ。

「良いわよ。其のジャポンのお皿の横にしましょうね」

親子で場所と置き方を何度も話してようやく決まったようだ。

「それで、ショウは何時リヨンとボルドーへ行くの」

「5日の日にリヨンへ出て中2日間は向こうで家探し、戻るのが8日の日で11日からボルドーへジュリアンと行く予定ですよ」

「リヨンは1人」

「いえ、バスティアン・バルバトールというバイシクレッテの店の弟のほうに事務員のサラ・ジャネットの3人です」

「今月は15日まで休みなので同行していい」

「歓迎しますよ。ただ宿はそれほど期待しないでくださいね。モーリスとアリスも行きますか」

「モーリスは学校があるから駄目なのよ、そうねアリスは連れて行きましょうね。ここは留守番も居るし」

サラの妹、料理人夫婦にアリスのほかにもメイドが2人同居しているのだ「ヴィクトル・ユゴー先生がリヨンで静養しているのでお見舞い、アデールが付いて次回の作品の構想を練っているのよ。お土産はアリババがいいかな」とモーリスと相談した。

ノートルダム・ド・パリが1831年、1838年にはリュイ・ブラース、1862年のレ・ミゼラブル、70を過ぎた今でもまだまだ元気だ。

其の話をエメにすると「わぁ、私も行こうかな。でも試験があるしもう残念だわ」と正太郎に八つ当たりした。

「僕に文句を行っても駄目だよ。夏になったらディジョンに一緒に行こうか」

「本当、約束よ。ランズのメールにも手紙を書いておくわね、7月の10日からお休みよ。早めに日程をたててね」

「約束するよ」

其の5日のランディの朝7時、事務所で打ち合わせをしてMlle.シャレットと馬車でバスティアン・バルバトールを迎えに行きガール・ド・リヨンへ向かった。

ガール・ド・リヨン9時15分発、ガール・デ・リヨン・ペラーシュ16時15分到着のマルセイユ行きの特急だ。 
6人掛けの1等個室は広々としていた、緊張気味のサラ・ジャネットにバスティアンも気さくなサラに打ち解けた。

「貴方もサラだったのね。ショウじゃないけどフランス人の名前は同じのが多いけどこういう偶然は楽しいわね」

ガール・デ・リヨンを出るとすぐにマルヌ川を渡った。

シャトー・レヴェイヨンの中を抜けて暫く行くと線路はセーヌの流れを横切って進んだ。

通過駅のムーランまで45分、さらに10分も掛からずに最初の停車駅フォンテーヌブロー・アヴォンで停車したのが10時05分。
セーヌとも分かれ支流のヨンヌ川となり、モレ・ヴヌー・レ・サブロンは止まらず、10分ほどのモンティニー・シュル・ロワン辺りから湖水が増えてきた。

途中ブリアール運河を横切りLac de cepoyと言う水郷地帯を過ぎると二つ目の停車駅ガール・モンタルジー、11時15分に着いたが其処はすぐに出発した。

モンバールでまたバーガンディの運河(ブルゴーニュ運河)が線路近くに現れた。

3番目の停車駅ディジョンに12時55分にようやく到着し、機関車の入れ替えに30分の停車、あと3時間でリヨンだと鉄道案内には書かれていた。

駅のトワレットゥは綺麗に掃除されていたが乗客で込み合っていた。

前日に予約をしておき、サラが受け取ってきたユゴー先生へのお土産のほかに買い入れてきたお菓子とシードルで楽しく話も弾み、此処では壜入りの水も買い入れた。

シャロン・スル・ソーヌを14時20分に通過、駅を過ぎるとソーヌ川の大きな流れが眼に入ってきた。

トゥルニュを通過したのが14時40分、サラは正太郎が話しの間にこまめに駅や周りの事などメモをするのを興味深げに見守った、

マコンと言う街に入ったのは15時20分、線路沿いに続く街は長く由緒ありげな教会の尖塔も日差しに輝いて其の先にはソーヌ川が見えた。

16時15分定刻にガール・デ・リヨン・ペラーシュへ着いた、此処まで7時間ディジョンからは直行だ、通過駅でも速度を落とし荷のやり取りを出来る程度の僅かの間止まってはいた。

駅前には客を引くオテルの馬車にポルトゥールが声を張り上げていた。

其の中にM.ショウ、M.ショウと声を上げている小さな子が居てどうやら予約したル・フェニックス・ホテルの者らしい。

「僕がショウだけど君は」

「ル・フェニックス・ホテルからお迎えに来ました。私はポルトゥールのアルバンといいます」

「ではアルバン君5人乗れる馬車かね」

「そうです。ご案内いたします」

仲間なのか二人の子が来てアルバンの指示で荷物を馬車まで運んでくれた。

ショウがそれぞれに50サンチームのチップを渡すと二人の子は「メフスィ」と言うとまた駅へ駆け戻っていった。

アルバンが馭者台に上がると馬車は動き出してローヌ川とソーヌ川に突き出た半島にある駅からソーヌ川を渡り河岸に沿って川上へ向かった。

12分くらいでホテルへ付いた、レセプシオンでサラは馬車を1時間後に予約した後それぞれの部屋へ案内され、正太郎は着替えをしてサラのために取ったサロンつきの続き部屋でお茶にした。

「夕食は9時よ。ラ・トゥール・ローズに予約をしてあるから直接来てね、アリスも連れてきてね」

バスティアンにサラが頼んでホテルから2人で馬車に乗り、ユゴー先生の借りたトリオン広場の下の家まで15分くらいだった。

先生は歓迎してくれサラの持って来たアリババに顔をほころばせた。

正太郎のことも詳しく紹介してくれ、ヨコハマに居た時にノートルダム・ド・パリ、リュイ・ブラース、レ・ミゼラブルを読んで感動した事も伝え、パリの下水道についての話も興味深く読ませていただいたと話すと嬉しそうに昔のパリの街について話をして呉れた。

「早速頂こう、明日になって味が落ちては詰まらん」

次女のアデールにカフェ・クレームを入れさせて早速食べながら最近のパリの様子を尋ねた。

「何処かで食事でも」

「今晩は駄目ですの。約束も有って8時半にはお暇しませんといけませんの」

「では明日だ。今日は何処で食べるのだね」

「パリからブッフ街のラ・トゥール・ローズに今晩9時の予約を入れました。5人分の席を取ってあるとホテルにこと付けがありましたの」

「其れで宿は何処だね」

「ル・フェニックス・ホテル、ボンディ河岸ですわ」

「そうかい、そうかい明日は付き合うんだよ。夕方までにホテルに連絡を入れるよ。5人でいいんだね。わしの招待だからね」

「メルシープロフェッサー、皆さん喜ばれますわ」

8時半になりホテルで書いてくれた地図をアデールに見せると、15分も掛からないと言うので二人は下に見える新市街に明かりが灯りだす中、ゆっくりと東から上がってきた半月を背に受けて歩いた。

サラは正太郎に腕を絡ませ「最近夜空を見上げて男の人と歩く機会も無いわ」と楽しげに星の事を話した。

「ショウはどれか気にいつた星があるの」

正太郎が西の丘の上に輝くカペラをさしてあの星だと告げると「星座は何」と立ち止まった。

「あれはオウリガ(Auriga・ぎょしゃ座)のカペラですぐ上がメリカノン、ふたつの星の斜め左下がおうし座と共有しているエルナルト」

「ショウはそんなことも知っているのね」

サラは伸びをして正太郎にビズをして「暫くこうしていてね」と肩に額を寄せて力を抜いた。

正太郎はそのままサラを支えていて暫くするともう一度ビズをしてきたサラを思わず抱きしめた。

「さぁ行きましょうか」

あっさりとサラは正太郎の腕を引くように歩き出した。

まるでヘラーのようだなと振り返って天空を見るとオリオンの右肩のベテルギウスが赤く輝いていた「あの星にでも惑わされたかな」と正太郎は案外冷静な自分に驚いた。

正太郎が街の灯りと空の境目を見下ろすとアルデバランが西の空に顔を見せていたが先に登るプレヤデス星団は既に陰に入っていた。

前菜にセルヴェル・ド・カニュの皿にブリック・デ・ブリックの皿、タブリエ・ド・サプールと言うパン粉をまぶし牛の胃を焼いた皿が出た。

鱸の香草焼きに子牛のソテーと続いた。
ワインに酔い話も弾みチーズのサン・マルスラン・アフィネで一息つくとフルーツのコンポートにアイスクレームが付いた一皿が出た。

2時間かけた食事も終わり15分くらいでホテルに着くと言うのでガス灯が夜霧にかすむ河岸沿いの道をホテルへ戻った。

「オ・ルヴォワール・ショウ」

「オ・ルヴォワール・バスティアン、オ・ルヴォワール・ジャネット」

正太郎がお休みの挨拶を階段で交わしていると、サラがこの間見せたカルトゥの手品を教えてくれと部屋へ誘った。

自分の部屋から使い慣れたカルトゥに新しい物を持って部屋へ行くとアリスとテーブルにシャンペンを用意して待ち受けていた。
古いカルトゥでアクテュール、アクトリス、シアンヌ、シアンと並べてみせてサラが切り混ぜた後で受け取り、其れをカルトゥの上から順に出す手品から次々に技を披露した。

モーリスはいつも正太郎が行くとこれをねだるのだ「親子だなぁ」と思いつつも眠気をこらえて付き合った。
アリスが眠そうになると「先に休んで良いわよ」と優しく言って部屋へ下がらせた。



Lyon1873年5月6日 Tuesday

リヨンの朝5時には窓の外で雀が鳴いていた、夢うつつに其れを聞いていた正太郎は6時に起きたがまだ眠気が取れず、髭をあたるのにも手間取っていた。

下の食堂に行くと「ショウ大分眠そうよ。大丈夫なの」とジャネットが心配そうに聞いた。

「大丈夫だよ、3時間くらいは寝たから」

アリスが降りてきたが一人だ。

「サラはどうしたの」

「いま起きて朝のお仕度をしていますから、皆様お先にお食べくださいとのことです」
やはり遅くまで起きていたサラも寝不足のようだ。

M.カゾーランに紹介されたパール・デューのヴァンドーム街111番地へ5人連れ立って向かうことになった。

まず住まいを決めて店は買い入れるか借りるを今日決めなくても良い様にするためだ。

サラ・ジャネットもバスティアンもまだ結婚までは踏み切れず、当分は協力しての店を始めることにしたのだ。
洋品店とバイシクレッテの店と言うのでひとつ建物を別けるか、別の店になるかもまだ判らないのだ。

M.カゾーランは仕事柄リヨンに顧客も有り、公証人とも知り合いがあるので新しいパンシオンが建てられると言う情報を正太郎に教えてくれたのだ。

マダムの夫は料理人でサラマンジュを開いていて家族で下宿屋を開業する事にしたのだ。

ポン・デ・ラ・フェイェでソーヌ川をわたり、プレスキルにはいった。

テロー広場のバルトルディの泉とリヨン美術館の間を抜け、オテル・ド・ビルの脇道からオペラ座に出て右へ曲がりまたその先を左へ曲がりポン・モラン・クロワルースでローヌ川を渡った。

パール・デューのサン・ポータン教会まで進んで左側を見ると目指す下宿屋だ。

M.カゾーランに紹介されたと建物に付属するサラマンジュで働いていた少女に声をかけた。

「お待ちしておりました。いまメールを呼んで参りますからお待ちくださいね」

すぐに裏から40くらいの元気なお上さんが出てきた。

「いらっしゃいませ。M.カゾーランからの手紙で今日にでも御出でとお待ちしておりました。それでどなたが此処へお入りになる方ですか」

「こちらのM.バルバトールとMlle.シャレットを私の会社から派遣いたします。2人はいま婚約中ですが部屋は別でお借りしたいのです」

2人はまだ婚約中ではないが正太郎はその様に紹介した。

「判りました。私どもは独身者用ですので、女性の方は3階になります。下はサラマンジュとカフェ、2階は私たちの住まいで4階と5階を男性用に考えて居ります」

「部屋を見せていただけますか。それと料金表があれば見せていただけるでしょうか」

「良いですとも、これが各部屋の料金と食事代金です。食事は契約にしますと安くなりますが、部屋代だけの方は別料金で食べていただくようになります」

部屋代が1日、1フラン50サンチーム、朝食が36サンチーム、昼食と夕食はそれぞれ1フラン、朝夕の食事付きで契約すると1日2フラン52サンチームだった。

ル・フェニックス・ホテルの一人部屋の料金5フラン朝食つきと比べると、ほぼ半分の料金で夕食も食べられる。
月30日で計算すると75フラン60サンチームに、掃除代、シーツの取替、女中への心づけなどで15フラン、月に90フラン60サンチームと別に冬は石炭代が3フラン。

「これなら全て会社持ちでもいいかな」

「ほんと、ショウ其れだといまみたいに下宿代の分の出費も無いから凄い手取りになるわ。ねぇ、バスティアン」

「本当だね、いいんですかショウ」

「勿論良いとも。其れより部屋を見て御出でよ僕は此処でカフェを頂いているよ。サラはどうします」

「アリスは此処でショウとお茶にしなさいな。私は見に行くわ」

少女が先導して上まで見に行って30分くらいで戻ってきた、正太郎は少女に50サンチームを渡すと「メルスィ・ムッシュー」と嬉しそうに微笑んだ。

「あと10日もすればシャワーもつかえるそうよ」

「そりゃいいね。そのくらいまでに引っ越しだな。マダム先払いはどのくらい必要」

「週払いか10日分ずつ位は頂けるとありがたいね」

「では今月の20日から31日までの分の12日を先払いします。来月からは週払いにさせていただきます」

2人分60フラン48サンチームとメイドのチップに10フランをマダムに支払い、領収書を貰い20日に入居すると言うことで店を後にした。

馬車は帰したので歩いて街を廻りプレイス・マレシャル・リオテーの噴水を通り抜けてプレスキルへの橋を渡った。
橋から見るとヴュー・リヨンの街の上に新しい教会の石組みと足場が組まれて働く人たちの姿が見えた。

「新しい教会のようね」

「昨日ユゴー先生がノートルダムを祭る聖堂だと話していたよ」

バシリカ式の聖堂だそうだ。

「あら、リヨンにはまだノートルダム聖堂が無かったのかしら」

サラ・ジャネットが不思議そうに聞いた。 

「どこかで道を聞いてみてあの丘まで登ろうか」 

「馬車でいかないと大変そうね」

サラ・ベルナールもローマ時代の円形劇場にも行きたいけどまず探しものが先でしょと正太郎をたしなめた。
M.カゾーランに紹介された不動産取引業の有るサン・ポリカルプ街12番地は細い道で馬車は入れそうも無かったが、事務所は5人が入っても余裕がある広さで椅子も多めに置いてあった。

M.ビュランの店には名前が無いそうだが多くの顧客を抱えているそうだ。

M.カゾーランの手紙は受け取っています。それでご希望にそう建物を幾つか当たりましたが、ヴュー・リヨンとプレスキルもこの付近にも見つかりませんな」

「いやプレスキルの駅付近かパール・デューのほうがありがたいのだが」

「ほう、そうですかな。この付近ならともかく駅の近くや、向こうは新しい物が多いですが人が余り居りませんよ」 

「其のほうが狙い眼さ、買うにしても借りるにしてもこのあたりよりは割安と聞いたよ」

「そうですね、20パーセントくらいは違いますな」

商工会議所の脇へ出てクレディ・リヨネ銀行本店の前をぬけるとポン・ラファイエットでローヌ川を渡りパール・デュー側の河岸沿いに下った。
船着き場が有るクロード・ベルナール河岸に程近く、パンシオンからも歩いてこられる場所のようだ。

「あの橋はポン・ユニヴェルシテと言って付近にはユニヴェルシテがあって学生が多いところですがこの付近でも大丈夫ですか。バイシクレッテやブティックの店で商売になりますかな」

「良いと思うよ。後は店の周り次第だね」

パストゥール街56番地はローヌ川から200メートルくらい東へ寄った通りだ。

パストゥール街48番地は間にサラモン・レナック通りが走り店も近く此方は2階建ての一軒家で店は6メートルの8メートル同じ間口の事務室と台所、裏にトワレットゥに小さな庭があるがお針子を置くとすれば何人もが住むには狭すぎた。

2階は台所からの階段に店と同じ間取りの部屋にトワレットゥに風呂場に大きなクローゼット、パリから1人仕事に慣れたお針子が来るので其の娘を住み込ませるくらいは出来そうで、隣が地主だそうだがヴァンドルディまで留守にしていると言う話だ。

「女性の1人住まいでもお隣は隣接していますし治安は良いので安心ですよ」

M.ビュランはこの家はお薦めだと力説した。

「どうかなジャネット、何人もで住むには狭いけど2階に倉庫とお針子の仕事場を置くにはいいんじゃないかな」

「そうね、店員を2人とお針子2人ならこのくらいが良いとこね。オドレイには此処へ住んでもらってもいいし」

オドレイ・ベルティエはブティック・クストゥから此処へ来てくれるのだ、まだ19だがお針子としては優秀だ、いまはMlle.ボナールのほうから人を送ってもらう余裕が無いのでスリップ・デ・マリーのほうの手直しも出来るように特訓中だ。

バスティアンもそうだジャネットの住まいはパンシオンがあるから良いだろうよと行って自分が仕事場にする貸し家を見に行くことにした。
M.ビュランがどうしますかと言うので「まず両方を見てから」と正太郎が言って其の店舗に向かった。

間口はブティックと同じ6メートルだが奥行きが倍の12メートルあり奥には同じくらいの空き地が付いていてドアを開けるとトワレットゥがあった。
3階建て、角地は大きな薬局、此方の通りは3分割されていて左隣はカフェ、其の先に文具などを置く雑貨屋、最上階は大家が住んでいて話をしに降りてきてくれた。

「バイシクレッテというやつかね。余り見かけんがあんな乗り物で商売になるかね」

「まだこの辺りには余り売っていないのでこれから売り込むには良いと思うのですがね。店はいいのですがこの上はどうなっていますか」

「2階は老人夫婦が住んでいるよ。耳が少し遠いがいい人たちだよ。他の住人も気のいい奴ばかりだ。薬局はわしの息子夫婦さ。此処は今年通りの名前がパストゥール街に変わったばかりで元の大学通りのほうがとおりが良いよ」

「どうバスティアン」

「良いですね後は金額と倉庫ですね」

「月80フランだよ、勿論庭も使って良いよ」

「其れはありがたいですね。僕はShiyoo Maedaといいます。彼はバスティアン・バルバトールです」

「わしはキャステン、アラン・キヤステンだ。此処は以前雑貨屋が入っていたがヴァンドームのほうに土地を見つけて移ったんだよ。それで文具屋が雑貨屋もかねてるんだよ」

M.キヤステン、よろしくお願いします。私はパリでバスティアンの兄たちとバイシクレッテとブティックを共同で商売をしています。バスティアンが此処の責任者です」

2人は握手して「住まいはどうするね」と聞かれ「ヴァンドーム通り111番地にパンシオンを借りました」それなら歩いても30分くらいだと話が弾み倉庫もあるとM.ビュランと7人でぞろぞろと歩いてブティック用の店の先の空き地にある倉庫へ案内した。

「此処はわしの土地で倉庫に貸してあるが一番手前があいているよ。2階から上は学生用のアパルトマンだ。間口12メートル奥行きは8メートル」

其処は通りから入る道は4メートルほどだが中は50メートル四方ほどもありアパルトマンのほかは空き地になっていた。
其処は月40フランだというのですぐ10パーセントの手数料を支払って契約を交わした。

借主はShiyoo Maedaにして毎月1日に支払うとなっだ。
ブティックは家主とは会えなかったが88フランだというので少し考えたが2階もあるので契約をする事にした。
3ヶ所で1月208フラン、M.ビュランの手数料は20フラン80サンチーム。

給与はジャネットがマガザン・デ・ラ・バイシクレッテの経理も担当するのでバスティアンと共に360フランの720フラン、バイシクレッテの店員2人で280フラン、お針子と売り子で4人分460フランを計上していてパンシオンも入れれば1840フラン余りになるようだ。

2人には半年毎の計算で儲けの50パーセントが積み立て、残りを5分5分で正太郎と折半になると話してあった。

20日入居予定だが早まるかもしれないと半月分60フランをM. キヤステンにブティックの分はM.ビュランが預かることで契約が成立し其処で不動産屋とも分かれて5人でどこかでお茶にする事にした。

正太郎が持って来た旅行案内にはヴォワザンとグランド・カフェ・ダス・ネゴシアンがお薦めのパティスリーとされてあった。
道順はどうなのとサラ・ベルナールが覗き込んでホテルに近いほうのカフェにしましょと本を頼りに歩き出した。
ネゴシアンと言う店は豪華な店内に驚くばかりだ、軽い食事も出来、夜の予算1人20フランは必要だと本には記されてあった。

「まぁ、パリの一流店以上だわね」

サラ・ベルナールも呆れる値段だがワインも入ってだろうと正太郎は思った、昼は3フランも出せば充分のようだ。
ラズベリーのソルべと桃のソルべをそれぞれが頼み、タルトを好みに合わせて頼んだ。

「ユゴー先生はお年寄りだけど宵っ張りだからホテルで少しお昼寝して体力をつけましょ」

サラがそういうとどんどんと歩いてポン・マレシャル・ジュアンでソーヌ川を渡り、ル・フェニックス・ホテルへ戻った。
ユゴー先生からレオン・ド・リヨンという店で9時集合と言う招待状が来ていた。

レセプシオンで聞くと歩いて10分くらいと言うので8時半にクロワールまで降りてくるように打ち合わせた。

ポン・デ・ラ・フェイェをわたる時間には膨らみだした月が街を照らし、ガス灯が河霧にかすんでいた。

サラが昨日のメニューを手紙で教えてきたから被らないように選んだと先生がその日のメニューを選んで注文を出してあった。

前菜のサラダ・リヨネーズからはじまった会食はワインがコート・ドゥ・ローヌのブラン、コンドリュー・レ・カシーヌ。
リヨン名物クネル(川鱒のすり身)に豚の腸詰めアンデュイエット、マッシュポテト添え。

此処でワインはルージュのエルミタージュ・ラ・シャペルが開けられた。
牛ヒレステーキのフォアグラソースにリエット(レバーペースト)。
チーズ料理はフロマージュ・ブランを使った熱々のセルヴェル・ド・カニュ。

最初セルヴェル・ド・カニュと聞いた時は良く判らなかったが白いチーズからの絹織物を連想したのだと思いついた。
デセールはショコラタルトとショコラアイスクレーム。
2時間半かけての食事はユゴー先生の話し振りが可笑しく、しかも為に成り正太郎にとっても有意義だった。

サラとアリスが先生親子とともに馬車で先生の家に向かい、3人は今日の契約とこれからの日程を軽く打ち合わせをしながら歩いてホテルへ戻った。

「ショウ、僕とジャネットで明日はパール・デュー地区を中心に廻りますからサラ・ベルナールさんの案内をしてあげてくれませんか。これから僕たちで商売をする街に少しでもなじみたいので」

「判った、其れは君たちの意見に任すよ。僕があれこれ言うより其のほうが良いだろう。明日は夜の食事も好きなところでやりたまえ。これは今月の交際費として好きに2人で使ってくれたまえ」

正太郎は立ち止まって20フランの金貨を10枚バスティアンに渡した。

「ショウ、こんなに預かっていいのですか」

「1人100フランだが使い道は2人に任せるよ。それから経費はつけなくて良いよ。M.アンドレに報告しなくていいからね」

2人はすまなそうな顔で受け取ったが5枚ずつ分け合ったポシェの重みに次第に気分が高揚してきたかジャネットは「ショウが気前がいいのはわかるけど、リヨンはそんなに商売になりそうなの。ボルドーのほうがいいような気がするんだけど」といまさらのように聞いて来た。

「向こうはイギリスに近すぎるのさ。此処ならパリ経由じゃないと簡単にバイシクレッテも売り込めないからね。ブティックは此処のほうが織物の産地だからもし絹の良い製品が扱えるなら此処からパリへ送ってもいいかなと思うのさ。ジャネットも其のつもりで少し大きめの物件でも買えそうなら眼を光らせておいて欲しいんだ」

「良いわよ、其処まで信頼してくれるショウのためにもバスティアンと一緒に気を配って商売するわ」

2人が正太郎にその様に話しているうちにホテルについて其の晩は早めに寝る事にした。



Lyon1873年5月7日 Wednesday

朝の食事を済ませるとジャネットにバスティアンは連れ立って出かけていった。

「それでショウはどうするの」

「2人に任せたから僕は適当に散歩でもするしか無いですね。丘の天辺まで行ってだらだらと降りてこようと思います」

「そうそれなら付き合うわよ。先生には夜にまた会いに行けば良いから昼間は暇よ。欲しい買い物も無いし」

「では一番上まで馬車で上がって見物しながら降りてきますか」

「そうしましょ。アリスは好きにして良いけどどうする」

「私は街でお菓子でも食べ歩きをします」

「そうそれなら一番美味しいと思うお店の場所と名前を控えておいてね、明日モーリスのお土産に買いましょ」
サラは2フランの銀貨を5枚渡して「全部使っても良いけど無駄遣いは駄目よ」と念を押した。

サラがレセプシオンで馬車を頼んでいる間に正太郎がアリスに5フランを上げると嬉しそうに手提げに入れ、目一杯のお洒落なドレスときれいな帽子で颯爽と町へ出て行った、パリのお嬢さんと言って充分通る見た目だ。

サラも其の後ろ姿を見て「あの娘ももう19だしそろそろいい人が出来ても可笑しく無い年ね」と満足そうだ。
馬車で丘の上まであがると足場を組んだバシリカ式の聖堂の様子が伺えた。

サラが責任者らしき紳士に声をかけると「25年くらいは完成まで時間がかかるでしょう」と説明し中の様子を見せてくれ親切にも其処から見える街の名所の説明をしてくれた。

「此方をごらんください」
自分の首に下げた双眼鏡を差し出して目の下に見えるサン・ジャン首座司教教会にラ・トゥール・ローズの説明をしてくれた。

「あら、トゥール・ローズって一昨日の晩食事をいたしましたがレストランの名前じゃなかったのですの」

「いやいや、レストランがあの建物の名を使ったのですよ。あそこもそうですがリヨン名物のトラブールが庭を抜け家の地下を抜けと続いて居りますからぜひ歩いてください」

その様に街のあちらこちらをサラに詳しく説明してくれた。

「これからどちらへ、出来ればお供してご案内をいたしたいのですが」

「どうするショウ」

「お願いいたしましょうよ。僕の案内はこの本が頼りですから。せめてこの下の川のこちらまででもお願いできると嬉しいですね」
正太郎少しサラに距離をおきたいようだ。

「ではあのローマ劇場へ降りますのでその後のトゥール・ローズまでご案内いただけるでしょうか」

「勿論ですとも、其の後お食事とまでは少し無遠慮でしょうかな」

「私高級なレストランよりも街のサラマンジュに興味がありますの、其処でよければお付き合いさせていただきますわ。私パリからこの人たちの一行と観光にまいりましたサラ・ロジーヌと申しますの。此方は友人のヂアン・ショウ。皆さんショウと呼んでおられますのよ」

サラも正太郎が少し距離を置いたことを敏感に感じ取った。

「マダム・ロジーヌでよろしいですか、ムッシュー・ショウよろしくお付き合いを。申し遅れましたが、私アラン・ド・サン=テグジュペリと申してここの監督をして居ります。私をアランと呼んでくださることをお願いいたします。ではしばしお待ちを」

彼はそういうと足場の下にいた若い男に「1時までには戻るから暫く頼む」と声をかけて二人の傍に戻ってきた。

サラに手を出して颯爽と坂道を下って円形劇場へ降りた。

「此処はほぼ1900年前カエサルの時代のローマ人が作ったと言われて居ります。1万人は収容できると言う話です。ルグドゥヌム(Lugdunum)という名を聞いた事がありますか」

「いえ初耳ですわ」

「シーザーの副将軍プランクスはリヨンのフルヴィエールの丘にルグドゥヌムという名の都市を建設したのです。クラウディウス皇帝とカラカラ皇帝は此処リヨンで生まれています」

「あらそうだったんですか。驚きましたわ」
ほんとうかなと正太郎は思った、サラが其の程度の事を知らないと思えないがそれには触れなかった。

「フランスに統合されたのは僅か500年前です」

「其れは習いましたわ」

「此処に都市が築かれたのはカラスの導きだとの説もあります」

「アラそれ聞いたことありませんわよ」

「カラスの導きで此処に都市を築いたのはカラスの鳴き声にも其の一因があるそうです。カラスは希望の象徴でもあるというローマの言い伝えがあるからです。カラスはいつもクラ、クラと鳴き声を上げるとローマ人には聞こえたそうです」

「ああ、ラテン語の明日(Cras)のことね」

「そうです、そうです。よくお解りですね」

サラは石の舞台に上がると取り付かれたようにオクタブ・フォイエの書いたダリラのプリンセスフォリアスの一節を語りだした。

この間の舞台が不満だと列車で話していた話だ「この話と曲想が良くないのよ。いつか良い歌曲に仕上がったら今度はダリラをぜひやってみたいの」と未来に期待していた。

「おお、すばらしい。さぞかしどこかで芝居の勉強でも」

サラは化粧も薄く20を越えているようには見えないので、あのサラとは気が付かないようだ、パリで有名な女優といえど白黒の写真か新聞でしか知らないので気が付かないようだ。

「メルシー・アラン」

手を取って舞台からおろしてもらうと隣の小さな劇場へ歩きまた其処の舞台へあがった。

サラは此処でドナ・マリア・ヌブールの中から短い歌を歌った、其の頭上に宝冠が輝くように陽の光は赤みがかった栗色の髪を輝かせた。

たった2人の観客とはいえ拍手とブラボーの声に気を良くしたサラはアベ・マリアを歌ってくれた、既にアランはサラに夢中だ。

円形劇場を後にしてラ・トゥール・ローズへの道の一段上の道をたどるとトゥール・ローズの建物のある上の道へ出た。

其処から地下の道をたどりラ・トゥール・ローズの脇へ出るとまた同じような建物下の迷路を抜けて裁判所のパレ・ドゥ・ジュスティスへ出た。

「この建物もローマ式だがそんなに古くはありません」

アランは前に廻ってそのように言ってサラを微笑ませた。
隣のサンジャン大聖堂では中も案内してくれた。

「ここはかのリシュリューが枢機卿帽を受け取った記念すべき場で、サン・ジャン首座司教教会です。この大聖堂は700年前に建てられ、アンリ4世とメディチ家から輿入れしたマリー・ド・メディシスの結婚式も行われました」

「まぁ、大変由緒ある建物ですのね」

「其の枢機卿ですが当時はカルディナル(Cardinal・枢機卿)という呼び方はなかったそうです」

「では彼はなんと呼ばれていましたの」

「枢機卿は次代のマザラン枢機卿からで、司教になってからはリュソン(男爵)と呼ばれていたそうですし、我らに忠告を与える評定官にて国家の主要大臣という長い名前だったそうです」

其の後リシュリューの兄にまつわる話やこの地に伝わる面白い話をしながらポン・ボナパルトを渡ってプレスキルへ入り、ベルクール広場のルイ14世像の前を抜けて路地へ入った。

「ここは私の家族が行きつけの店です」
シェ・ママンという店はサラマンジュというよりブラッスリーという構えの店に誘った、サラも何も言わず誘われるままに店に入った。

「何が良いですかな」

「クネルは昨晩頂きましたので別の物を」

「ではタブリエ・ド・サプールなどは如何で、牛の胃袋にパン粉をつけてソテしたリヨン料理です。形がエプロンに似ているところから、この名前がつきました」

「工兵のエプロンとは面白いですわね。其れを頂きますわ」

アランはテーブルワインとセルヴラのブリオッシュも追加してリヨン風のサラダは大皿で出してもらったのでそれぞれが取り別けて食べた。

「そういえば写真で見たことがあるのですが、サラ・ベルナールといわれる女優が最近人気だそうですが貴方でしょうか」

「ええ、私ですわ。人気があるかどうか」

「オオ、人気があるかなぞ何を言われます。此処リョンヘ来て頂けただけでも名誉なことですぞ。して何処かへご出演の予定でもあるのですか」

「いえユゴー先生が静養と次回作の構想をお立てになられるので此方へこられておられますのでお見舞いに。此方のショウの商売のお仲間とご一緒に連れてきていただきました」

「其れで何時まで此方へご滞在ですか」

「明日にはパリへ戻りますの」

「では今晩食事でも」

「残念ですが夜は先生の所へお別れのご挨拶や他の人とも約束がありますので残念ですわ」

サラはいかにも残念ですわと言う風情で店の外で仕事に戻るアランと別れた。

「積極的ですねアランは」

「そうね、ショウがいなければ一日中後を追いかけてきそうな勢いだったわ」

笑いながらサラは「少し食後の散歩をしてどこかでお茶にしましょうよ」とアントニンポンセの鐘楼と案内書に書かれている病院脇から河岸沿いを駅のほうへ向かった。

カルノ広場には市がたっていて小鳥に犬が売られていた。
サラはオウムの店を覗き其の中でも青い背中と黄金色の腹毛に飾られたアララスと言うペルーから来た鳥を眺めていた。
一角にあるアイスクレームを売る屋台に向かいサラが二つ買い入れて正太郎に渡した。

「マダム、どこか訪れて見るべき公園などあります。ヴュー・リヨンとプレスキルは見て廻ったけど」

「それならテット・ドール公園が良いわね。今の時期は池には水鳥が沢山来ているわよ。歩くと遠いけど馬車なら30分と掛からないわよ」

「メルシー・マダム」

2人は駅前で馬車を拾って公園まで3フランの約束で出かけた。

ポン・ユニヴェルシテで左へ曲がり、パール・デューの町並みをローヌ川越に見ながら川筋をさかのぼって馬車は走った。

ポン・モランを渡り川に沿って進むと公園が見えた。

「一回りしてから入られますか」

馭者が聞いてきてサラがお願いと返事をすると河岸沿いを公園に沿って進み一回り3キロほどの公園を廻って中にある動物園の傍で止まった。

正太郎が5フラン銀貨を出して「チップ込みだよ。2時間したら迎えに来てくれるか誰か此処まで来てもらってくれますか」と頼んだ。

「承知しました。お名前は」

「ショウ」

「では、ムッシュー・ショウ。いま2時ですので3時半には此処へまいって居ります」

「メルシー、ではよろしく頼む」

2人は動物園に入らず親子づれがならんでいるほうへ行くとポニーに引かせた馬車の順番を待つているので其処を抜けて池のベンチに座った。

芝生には気持ちよさそうに鹿の群れが寝そべっていてのどかな午後のひと時が流れた。

池には様々な鳥が入れ替わり立ち代わり現れて2人の目を楽しませた。

其の中でも正太郎の目を引いたのは首の回りに派手な赤茶色の飾り羽が豊かに取り巻いている水鳥、マールが首を左右に振りまわして大分に興奮していたがファムは冠毛が寝ていて落ち着いてマールの顔を見ていた。

サラも可笑しげに見ていたが「ご夫婦ではなくて求愛中かしら」とついにマールがいらだって飛んでいくと笑い出した。

其の後をファムが追いかけるのを見ると「アラアラ、しつこいと知らん振りしていたのに逃げ出すと追いかけるのは人間と同じね」とさらに笑い転げた。

整備されたバラ園を散策していると植木の管理をする人が新しく区切られた地区で何人も働いているのが見え、アルゥエッテが空高く声を響かせていた

「アラ、アルゥエッテだわ」
サラが子供たちのほうへ歩きだしたので正太郎は不思議そうな顔で後を歩いていった。
此方ではシャンソンのアルゥエッテを歌っていたのだ。

「よく聞こえましたね」

「あら聞こえなかったの。空のアルゥエッテと此方のアルゥエッテと面白い取り合わせだったわ」

両方のひばりの声が聞こえていたようだ、子供たちへのギニョルが行われていて人形の動きに合わせて歌が歌われていたのだ。
20人ほどの子供たちの後ろで楽しそうに見ていたサラはお金を集めに来た長い髭の老人に2フランの銀貨を2人と言って帽子に入れるとハミングをしながらスキップをふむ様に立ち去り、さっき座っていた池の右手に見えた休憩所に行くとレモネードを頼んで椅子に座った。

大きなリスがサラの足元からターブルに上がってきた。

サラの顔を暫く覗き込んでいたが地面に向けてジャンプをして一散に樹に駆け上って行った。

一度ホテルへ戻ってアリスやジャネット達が戻っていなければまた改めて町へ出ようというので3時半に腰を上げて待ち合わせた馬車でホテルへ戻った。

まだ誰も戻っていないと言うので一度部屋へ戻って何処へ行くかを話し合った。

「あの川向こうの高台は何か書いてある」

「クロワ・ルースと言う絹織物の職人の街で例のトラブールという職人たちが製品をぬらさないように運んだ道が有名だと書いてある位です」

「そう、行けば何かあるかもしれないから馬車で一回りしてみましょうか」

「そうですね、どこかいい店でもあるようでしたら生地だけでも買い入れて帰りましょうか」

「エメにお土産なの」

「それもありますけど、貴方にもバーツにもお土産にしてアルフォンスにでも仕立てさせたら如何ですか」

「アルフォンスは良いけど最近バーツに会えないのよ。忙しいのかしら」

レセプシオンで「もう一度出かけ直接先生の家に行くから夕食は3人で食べるように」と伝言を残し、馬車でプレスキルへ入り丘を登ってクロワ・ルースへ入ることにした。

クレディ・リヨネ銀行へ寄って持って来た同銀行の手形から7000フランを100フランの金貨に交換し別の1000フランを20フラン金貨にした。

馭者に聞いた織物の卸し店に入りサラに品物を選んでもらい2軒のブティックを共同経営してることを話してジャカール織りの製品で150人分は大丈夫と言う絹織物を買い入れた。

正太郎のほうで受け取る事にしてフェルディナンド・フロコン街4番地Shiyoo Maedaあての受け取りを貰って100フラン金貨で3700フランを支払った。

「ずいぶん買い入れたわね。そんなにプレゼントする相手がいるの」

可笑しげにサラは正太郎をからかうように聞いた。

「まさか、プレゼントは7人分ですよ。マダム・デシャンにMomoとベティにサラとエメにジュリアンのエメ。バーツはアルフォンスに生地を預けて置けば良いでしょう。後はメゾン・リリアーヌとブティック・クストゥにね」

「そう、ショウのことだから全部プレゼントにするかと思ったわ」

「そりゃ生地だけで済むならあげても良いですがね。仕立て賃まで負担するのは其の7人以外にはつらいですよ」

「あら、私とバーツの分も仕立て賃を出してくれるのね」

「あれそんなこといいましたっけ」

「ダメダメ、とぼけるんじゃないの。いま7人以外はつらいと言ったでしょ」
正太郎はつい口が滑ったといったが後の祭りだ。

「ついでだから働いている娘たちすべてに上げたらいいのに」

「もうサラは気が大きすぎますよ。その気になってしまいそうですよ」

「そういうところがショウの良いとこね」

サラは正太郎の顔を見つめて言うので正太郎は見る見る顔が赤くなっていくのを感じた。

「やっぱりまだ子供よショウは、何でも本気になるんだもの。でもそういうとこが好きよ」

サラは軽くビズをして次は何処に行くと聞いて正太郎の手から観光案内を取り上げた。

東西に続く大通りには夕方の買い物に来る人を目当ての市場が立ち、大勢の人が行き来していた。

「いまはジャカールの機械のおかげで小さな職人の手織り工場もなくなりつつありますからね。でもジャカールでも動力で動かすのは人気がなくてねやはり人の手で織っていますよ」
動力はまだ絹布には普及しておらずリネンを使う工場に普及していた。
さらに其の器械はリヨンよりもエヴルーの町のリネンの工場とドラ(羅紗)レヌ(ウール)の機織工場で普及していたのだ、正太郎は伊藤と共に其れを見て日本への導入には金が掛かりすぎるのでまだ無理であろうという結論に達していた。

「そうね全て手織りでは模様を出すのに追いつかない時代なのよね。本物のカニュはどのくらい残っているのかしら」

本にも書いていなかったので市場の人に聞くとリヨン市内には300軒以上の絹織物業者が登録、手織りにこだわる人も大勢いるそうだ。

「でも手織りは高いから、ジャカールの機械織りの倍はしますよ。模様を出せる技術者も少なくなりましたしね」

話が聞こえたか観光客と見てパンを売っていたおばさんが親切に声をかけてくれ、其の人は親切に何軒かの卸売り店を紹介してくれた。

「何か買います」

「買ってくれるならね」

「またこれだ、サラはおねだりすれば幾らでも買ってくれる人がいるでしょ」

「だからいまおねだりしてるじゃないの」

「もう仕方ないな。エメとおそろいで良いですか」

「其れで充分よ」

「上に行く、それとも下にする」

住所と観光案内をみせて丸をしてもらうと「市場から右手に降りると円形劇場がありますよ其の先にほらここの店は品物が多いので有名よ」

「この近くでバラを別けてくれる人はいませんかね」

「切り花なら近くにムッシュー・ランボーの店が出ているよ」
その人の場所に案内してくれた。

サラがユゴー先生の娘のアデールのために20本を選んでいる間にジャポンで匂いが落ちる事を話すと「土と水、それと肥料が大切だよ。でも色が強くなると言うのは魅力だな」と親切に話を聞いてくれできれば自分の農園に寄るように勧めてくれた。

「私たちのブティックとバイシクレッテの店を大学の近くに20日に開きますので開店時にはまた来ます。でぜひ寄らせて下さい」とお願いして手帳に住所と簡単な地図を書いてもらった。

ムッシュー・J・B・ギヨーの農園も尋ねる事を勧められ大学近くの地図も書いてくれた。

自分だけの事でなくバラを好きな人のためには協力するという姿勢に感激する正太郎だった。

「もしジャポンへの輸出用に苗を別けてくださるとしたら何時の時期が良いでしょうか」

「そうだな、秋の花が咲く前の9月が良いだろう。どのくらいでジャポンに付くかね」

「マルセイユから2ヶ月以内ですが、早い船と日程が合えば45日くらいです」

「それで君が送りたい街では雪が降るかね」

「12月までは降りません。12月の半ばからたまに降る日が続きますが長くは続きません」
暦が変わったので降るとしたら正月以降が多いだろうと思ってそういった。

「もしかすると寒さがバラの香りに影響したのかもしれんね。一度暖かいバルセロナあたりの人に聞いてみてごらん」

サラが選んだバラの代金に18フランを支払い必ずお尋ねしますと約束して坂を下って円形劇場へ向かった。

「でも此処に3ヶ所も劇場を作るなんてローマの人たちは演劇好きだったんですね。剣闘士たちの話はきいた事がありますがその様な建物は此処には無いみたいですがなぜでしょうかね」

「そういうことはユゴー先生が調べているはずよ。聞いてごらんなさいな」

サラは知りたがりの正太郎に「其れより買い物した後どこかで夕食を食べてから出かけましょうよ」と本を取り上げた。

白いバラの蕾が道に落ちているのをサラが見つけた「どうしたのかしらむしったようだわ。あらあそこにも」

トラブールの入り口付近に最初の蕾が落ちていて其の奥に続く階段にもあった。
「待っていてくださいね。これを預かってください」

正太郎はサラにセルヴィエットを預けて後ろ側のトラブールや周りを見て何も無いのを確認して最初に見つけた蕾の周りを見た。
そして早足になると蕾が見える階段の下まで降りていった。

かすかに言い争う声がして其の方向へ慎重に進むと階段が急になり、いきなり明るい斜面に出た。
声は更に先から聞こえてきていて、見ると何人かの男に若い女性と小さな子が引きづられるようにローマ遺跡へ降りていった。
其処は劇場というより競技場に見えたが男たちは乱暴に其の2人を其処へ引き倒すと何かを問い詰めていた。

「知らないと言っているでしょ」

「そんなことがあるか、お前の親に貸した金を払え」

「あんなの親でもなんでもないわ」

「そいつはどうかな。理屈はどうでもお前の母親が再婚した相手だ。貸した金を払わずに行方不明になったんだお前が払うのは当たり前だ」

「だからそんなこと知らないわよ。私の産みの母でも無いのに親だなんていって欲しく無いわよ」

「だがお前の親父と一度は一緒に住んでいた女だぞ。母親じゃなきゃお前たちの面倒を見ていたのはなぜだ」

「よしてよ私たちの父の金を盗んで男と逃げた女に義理も恩も無いわ」

言い争いは男たちに分が無いようだが、何時男達が乱暴をするか判らないので正太郎は身を潜めて様子を伺った。

「大丈夫そうね」
自然のバラの香りに何時ものバラ香水が混ざり花束と正太郎のセルヴィエットを抱えたサラが正太郎の隣にしゃがみこんだ。

「何か借金の事でもめているようですが、男たちのほうの分がわるそうですね」

しかしそれもつかの間娘から強引に手提げ籠を奪うと中身を其処にぶちまけた。
下着や薔薇の苗木に切り花と混ざる財布を掴むと中身を確認している様子に正太郎は階段を駆け下りていた。
娘を捕まえていた男の手をねじり二人の子を後ろに隠すと「其の財布を返しなさい。今聞けばこの人たちにあなた方への借りを払う必要は無いはずですよ」

「余計な口を出すな。マルセイユへ逃げた二人の替わりにこいつらから取り立てて何処が悪い。見りゃ異国のもののようだが余計な事に口を挟むと痛い目を見るぞ」

「其れはどうかな。周りを見なさい大勢の人が見ていますよ。あなた方あの人達を恐れることは無いといえるのですか」
周りから20人ほどの人がいつの間にか現れてサラと共に階段を降りてきていた。

「仕方ねえ。こいつは返しておこう。俺たちは取り立てはやるが強盗じゃねえんだ。話はまた後できっちりとつけさせてもらうぜ」
兄貴分風の男は正太郎にあっさりと財布を渡すと周りを威嚇するように見回しながら立ち去った。

「大丈夫かい」
声をかけて財布を渡すと籠に散らばった中身を集めて渡した。

「メルシー・ムッシュー」
今になって怖さが襲い掛かったかブルブルと足が萎えたか震えて正太郎に寄りかかった。

「メルシー・ムッシュー。僕エドモン。エドモン・プランティエといいます」

男の子も散らばった下着などを集めながら名前を教えた、其の頃にはサラや街の人が大勢降りてきてくれて口々に二人のことを心配して何くれとなく世話を焼いてくれだしていた。

「ムッシューお名前は。私この子の姉でマルティーヌといいます」

「僕はショウ此方のマダムはサラ・ロジーヌ、僕たちパリから来ているのでこれからの君たちを守れないんだけど誰かこの人たちの力になれる人は居られませんか」

廻りの人たちは口々に相手が悪いと言うだけで、心配はしてもそれ以上力には成れそうも無いようだった。

「家は近いの。送るだけしか出来ないけど」

「その子たちもう帰る家が無いんだよ。今日死んだ父親の借金に農園も家も取られたんだ」

太ったお上さんがそう言ってサラに「この子達の継母も借金をこさえてにげ廻った挙句にもう死んじまったけどたった700フランが払えなかったのさ」と告げた。

「お父さんの家は幾らのかたで取られたの、取り返せるのかい」

正太郎が聞いても娘は首を振るばかりだ。

「駄目だよ、競売にもうかけられたから買い手がわかってもとても無理さ」

「ショウ、貴方まだ買い物用のお金が残っているでしょ」

「ありますよ」

「それ私に貸して、例のものは諦めるわ。この子達に後で災難が掛からないように払いたく無いけど借金はきれいにして其の後この子たちが立ち行くようにしてあげなさいな」

エドモンは目を輝かしてショウに訴えた。
「ムッシュー助けてくださるなら僕なんでもします。薔薇の栽培も習ったし庭仕事も出来ます」

正太郎は周りの人にこの娘達の借金の取り立てをしているのは何処の人たちか知っているかを聞くと先ほどの太ったお上さんが案内すると言って先にたった。

10分ほどの其の家まで行くと大勢がぞろぞろ付いてきたので表で煙草をふかしていた男が店の中へ飛び込んでいくと紳士然とした男を筆頭に6人ほどが出てきた。

「先ほどはご大層な口を利いてくださったそうですが、何かまだ御用ですかな」

サラは先頭に出ると「この人たちの義理の母親の借金があると聞きましたがそれに間違いは御座いませんの」と何時もの品の有る舞台の声で聞いた。

お上さんたちも先ほどまでと違う様子に驚いていたが「そうだよ、この人が支払ってくださるというんだ。嘘偽りが無い借金なら証書を見せてごらん」と詰め寄った。

懐に入れていた大きな財布から1枚の紙を出してサラに「読んでくれ」と差し出した。

「コンたびアリサ・コンビュニュは息子と娘を証人としてムッシュー・ガブリエルから700フランを借り受けました。8月10日。年度が無いわね」

「一昨年だよ。もうじき2年だ。年利が30パーセントだから元利で1183フランだ」

「まだ8月はこないわ。この証書では裁判に持ち込めば払う必要が無いと判決が出るわよ。証人と言ってもアリサという人のしかないじゃないの」

「仕方ねえな。払ってくれるなら1000フランで良いよ」

「ショウ出してあげて」

「払ってくれるなら金貨で頼む」

とたんに相好を崩してにたにた笑いをして言い出した、正太郎は100フランの金貨を10枚出して「この証書に貴方のサインと全額受け取ったと書いてください」と紙をサラから受け取って金貨を見せながら促した。

証書を受け取ると正太郎は二人に渡して財布へ仕舞いなさいと促した。

「教えて欲しいのだけど、この娘達の義理の母親は死んだと言うのは本当なのですかね」

「ああマルセイユで2ヶ月前に死んだそうだ。もう街のものも知っているのかい」

「それで男はどうしました」

「アメリカへ逃げたよ。何処で船賃を工面したかわからないが先月の船でマルセイユから出たそうだ」

「ずいぶん手抜かりなことしたものだね」

「ふん、700フランぼっちで其処まで出来るか」

「ではこの娘達の借金はもう無いね。ほかのところの借金がでてくることは無いだろうね」

「俺のところから貸したものは無いよ。他に取り立て屋があるかはしらねえ」

サラもそれを聞くと悪態をつかずにきびすを返して立ち去ることにしたようだ。

「おい若いの。お前さん気に入ったよ何か困った事があったら俺のところに来てくれ、俺たち役に立つぜ」

「メフシーボクゥ、僕はヂアン・ショウさ」

「俺はデフロット・ガヴォティだ通称ガブリエルデアンジュと呼ばれいてるよ。本名を言っても知らん奴のほうが多いぜ」

「ガブリエルデアンジュだね。僕はパリ住まいだけどたまには此処に来るからよろしくね」

正太郎はサラたちの後を追ってプトー街からオペラ座のほうへ向かった。

太ったお上さんも「私はこれで帰るがこの子たちを頼みます」と坂を登っていった。

サラはどんどん歩いてオペラ座の先でカフェを見つけると中へ入って腰を下ろすと「ああ、肝が潰れたわ。どうなるかと思った。とんだ天使だったわ」

とガブリエルに対峙した時とは違い安堵の溜め息をついた。

「申し訳ありませんでしたマダム」

「いいのよどうせこの人に借りただけだけど、あなた方は返す必要なぞ無いのよ」

「エッそんなわけには行きませんわ。必ず働いてお返しさせていただきます」

「いいのよそんなこと。其れより困ったわねあなた方今晩どうなさるの。泊まるところはあるの」

2人は途方に呉れた顔をして見合わせた。

「ショウ困ったわね、ここではどうにもなら無いわ。パリへ来る気があるなら働き口はあるんだけど」

「パリですか」マルティーヌの顔が輝いたが「でも旅費も無いし」とうなだれた。

「ショウ貴方とエメの買った家に住めないかしら」

「ヴァルダン通りのほうですか。エメに言えば大丈夫ですが、君たち学校は」

「僕はエコール・エレメンタールの5年、姉さんは今年コレージュを卒業です」

カフェ・クレームにパイを頼んで4人で食べながら相談をした。

「とりあえず今晩どこかホテルへ泊めないと、僕たちのホテルへ連れて行くしか無いでしょうね。パリへ連れて行くならまず着替えをさせないと」

「そうね買い物なら私がやるからこの辺で服を売るお店に案内してね」

イヤもオウもなく2人を連れて出ると近くの店で2人を旅行服に着替えさせた。
「そのカゴは持っていても良いでしょ近くで買い物したように見えるわ。古いほうは其処へ入れておきましょうね」

馬車でホテルへ戻り馭者に30分ほど待つように頼んだ。
部屋を聞くと1部屋でよければご用意できますと用意をしてくれた。

「いけない夕食を食べてなかったわ。私たちの連れは帰ってきました」

「戻られましてご3人でレストランへ出かけられました」

「じゃ私たちはユゴー先生にお別れの挨拶を先に済ませて食べに行きましょ」
4人でユゴー先生とアデールの家に向かった。

「今日は大変だったんだね。それでこの娘達の学校はどうするね」

「いまは其れより住まいを決めて、それから9月までに学力に合わせたところを見つけようと思います」

「そうかい、よく面倒を見てあげてくださいよ。君たちはサラとショウの言う事を良く聞いて立派な大人になってくださいね」

「判りました。よろしくお願いします」
2人の姉弟はサラと正太郎に改めてお礼を言うのだった。

「お任せください。ショウに言って必ずよい道を見つけさせますわ」
サラはもう正太郎にすっかり任せてしまう気の様だ。

先生にどこかこれから4人で行くにいい店を聞くと、馬車なら30分くらいでいけるいい店があると紹介してくれ、ポール・ボキューズという店で代々ポールを名乗る人が受け継いでいる事も教えてくれた。

待たせていた馭者にアデールが行き先を告げると「丘越えでトリオン広場から行きましょう」と夕暮れの道をたどってソーヌ川が夕日できらきらする中を店へ向かった。
10フランに2フランのチップを添えて「10時に迎えに来てください」と頼んで中へ入った。

鶏の肝臓の暖かいパテのトマトソース添え
黒トリュフのスープ
子牛肉のロースト
バナナとチョコレートのムース

今晩はこの程度にしましょうとサラがメニューを決めてワインは店のオーナに任せた。
デセールを食べる時になってサラは2人の身元などを聞く気になったようだ。

「そうなの、それでおじいさんは薔薇作りの名人だったのね」

「ええ私たちはお爺様のお弟子さんたちから大事にされて、其の事を聞かされましたがお爺様がなくなった後になって母が亡くなり、ペールが新しい母親だと連れてきた人とそりが合わずに誰も来なくなってしまいました。私たちが一番頼りにしている人が今ヴィエンヌの万博に出かけていて相談も出来ないのです」

「その人と連絡は出来ないの」

「父が亡くなったことだけは手紙を出しました。お悔やみの電信は来ましたが万博が終わるまで戻る事が出来ないそうです」

「そうよねお仕事を放りだして戻るようでは仕事も出来ない人の烙印を押されてしまいます物ね」

「祖父の友人だったM.ランボーを尋ねる途中で今日はご迷惑をおかけしてしまいました。申し訳ありませんでした」

「あらあの市場にお店を出していた人ね。先ほどアデールへのお土産にした薔薇の人のことね」

「はいそうです。それでついM.ランボーの事を口に出せませんでした」

「花を見て誰が作ったかわかったのね」
なぜか真っ赤になったマルティーヌは可愛かった。

「あらランボーさんに恋しているようには見えないわね。年が違いすぎますもの」

「ええ、M.ランボーのお弟子のM.デュブルーユが祖父の所からM.ランボーに引き取られましたのは私が10歳の時でした。今は祖父のお弟子さんだったM. ラシャルムと共にヴィエンヌへリヨンから選ばれて出かけて居ります」

「そうその人のことが好きだったのね」
マルティーヌ・プランティエは恥ずかしそうに肯いた。

「では明日パリへ発つ前にランボーさんのところへ落ち着き先を連絡しましょうね。デュブルーユさんがお帰りになられた時に連絡が取れるようにして置きましょうね」
サラは先のことも考えて姉弟がリヨンに戻る日のこともあるだろうと話をした。


Lyon1873年5月8日 Thursday

ジュディの朝、リヨンの日差しはまぶしいくらいだ、5時を過ぎたばかりなのに正太郎の部屋は陽の光で満たされていた。

ル・リから起きると日課にしているカレンダーに今日の予定を書き込んだ。

11時45分のマルセイユ発パリ行きのビエは5枚、ドゥ・ペルソンヌの追加はホテルが買いに人をやってとってくれたから合計7枚。

数を確認し、2人の事をM.ランボーに連絡先を伝える事、お土産用の高級手織り絹地を2人分80メートル買い入れること、DDとエメにジュリアンのお土産にお菓子を買うこと、後は時間までどうすごすか。

「そうかエメには簡単に2人お客を連れて帰ると連絡しておくか」

到着時間の予定は18時35分、2人の若い姉弟を連れて帰ると電文を作りレセプシオンで打って貰う手続きをした。
まだ5時半サラたちも起きないだろうとぶらぶらとポン・デ・ラ・フェイェを渡って散歩に出た。

河岸沿いをポン・ボナパルトまで歩いて朝日に輝くサンジャン大聖堂を見ながら其処で暫くソーヌの流れを見ていた。

橋を渡りサンジャン大聖堂の前を通りポン・マレシャル・ジュアンの脇で魚の箱を上げる船と人の雑踏を抜け、ゆっくりと歩いたつもりだったが30分ほどで一回りしてホテルに着いた。
部屋へ戻り荷造りを確認しているとノックの音がした。

「入って良いよ」
サラが入って来て鍵をかけると朝の挨拶代わりのビズをしてル・リに座った。

「もう髭もすりおわったようね」

「今散歩をしてきたところだよ。まだ着替えないの其のまま出かけていいの」

「何処へ出かけるの」

「あの娘達のことを伝えにM.ランボーの家と絹地の買い付けだよ。早くしないと後で忙しいよ」

「11時半までに駅へ行けばいいんでしょ」

「そうだけど、M.ランボーのところから」

「パリへ帰ればもうこうしてショウと簡単に会うことも無いのよ」
サラは立ち上がると正太郎に倒れ掛かるように抱きしめた。

「パルトネール・デ・リ(partenaire de lit)だけでいいの、追いかけたりしないわ。8時30分に仕度をして下へ行くわよ朝は抜くからと伝えて、ここの所食べすぎだから」
サラは部屋を出る時にそう言って髪の乱れが無いか鏡で確認して出て行った。

まだ7時半に間があるが正太郎は顔をもう一度洗うと下へ降りた。

バスティアンがクロワールで新聞を読んでいた。

「ボンジュール・バスティアン」

「ボンジュール・ショウ。今日は時間までどうしますか」

正太郎は手帳を出して昨日の経緯とパリへ2人連れて帰ることになった事を話した。

「そりや大変でしたね。それで僕たちも付いていきましょうか」

「イヤこっちはサラがきてくれれば其の姉弟と4人でまわるよ。君はアリスやジャネットと時間までに荷物と共に駅へ来てくれれば良いよ。荷物を先に預けてお土産を買ってくれるのが良いかな」

DDの分ですか」

「そう、お菓子を買い忘れたりするとガッカリするだろうしね」

2人で可笑しげに笑っているとジャネットがマルティーヌとエドモンを連れて降りてきた。

「朝2人をサラが私の部屋へ連れてきて紹介してくれたわ、バスティアンはショウから聞いた」

「今聞いたところだよ、DDへのお土産のお菓子を買い忘れないようにと話していたところさ」
ショウが改めてバスティアンに二人を紹介して2人も自分の名前を告げてよろしくお願いしますと挨拶をした。

「サラは8時半に降りてくるそうよ。朝は抜くから先に食べてと言っていたわよ」
正太郎がバスティアンに話したことをもう一度ジャネットに話し、お土産のお菓子代金を3軒分で20フラン渡した。

「これじゃ駄目よ」

「何でだい」

「事務所の分が無いわ。無いとマリー・アリーヌもサラ・リリアーヌもお冠よ」
仕方ないなと後10フランを出して渡した。

「其れで何を買って置けばいいの」

「昨日アリスが捜してあるだろうけど。ポワール(洋梨)のリキュール入りのボンボンとクサン・ド・リヨンははずせないよ」

「あら、ショウは何時の間に食べたの」

正太郎はセルヴィエットから本を出してここに書いてあったよと其のページをみせてからジャネットに渡した。

「やはり日持ちのことを考えるとショコラがいいようね。ここに書いてあるのはそんなに持ちそうも無いのばっかりだわ」

「リヨンではショコラのクッサンだけでなくガナッシュのものもありますわ。夏でも3日以上味が落ちませんよ」

「それ何処で売っているか判る」
地図にペンで丸を書いてもらいジャネットに渡した。

食堂で朝の食事を済ませた頃にサラがアリスと降りてきて食事をさせて自分はカフェを飲んで正太郎を促して4人で頼んであった馬車でロージー街のバラ園に向かった。

昨日からの噂はM.ランボーの耳に届いていて再会に喜んでくれ、サラに「くれぐれも頼みます」と言うのだった。

連絡先に正太郎の事務所を指定し、落ち着いたらまた改めて連絡もさせるし20日前後にはまたリヨンに自分も来るからと伝えて地図から写し取った生地屋へ向かった。

余りにもすばらしい絹布を見てサラも正太郎も選ぶのに苦労した挙句光り輝くブルー・アジュールとジョーヌ・ミモザの生地を120メートルずつ合計450フランで買い入れた、余分に出る余りを入れて1人分が75フランだ。

「これで6人分のドレスは充分取れますわ」
店のマダムはそう言ってサラにルージュ・アルダンとブランの絹布を持ち出して体にあててみるように薦めた。

「40年前の絹布織工の暴動以来絹布の値段は上がっています。此方は既にドレス用に裾に模様が織り込まれた高級品です。見るだけでも結構ですから体に当ててみてください」

マダムはサラの薄化粧に気品を感じ取ったのかその様に勧め、大きな鏡の前でまとわせた。

「マダム其れは幾らするのですか」

「ブランは40メートル100フラン。ルージュ・アルダンは一人用に余分の生地を見て40メートルで280フランです。ドレスでなく簡略服なら2人分取れますわ。今お持ちしたのは120メートルずつ残っています。ブランは幾らでもあるのですけどね」

ホッという溜め息が子供たちも含めて同時に漏れた「アルフォンスにそれを仕立てる腕があるだろうか」と正太郎がつぶやいた。

「彼ならできるわよ。今風でも昔風でも無いけど私たちが50歳になった時にでも立派に着こなせるオリジナルよ」
サラは正太郎にそう言って何時ものとろけるような目で見つめた。

「奥様の今お召しの服を仕立てた方ならこの裾模様と腰に当たる位置にこの織りのすばらしさを表現できますわ」

其の姿に見とれるようにしていると何人もの織り娘達が現れてその優雅なドレスを着こなせる人はどのような人かを見に現れた。

「ショウ私とエメはほぼ同じかしら」

「そうですねサラのほうが肩の位置が少し開いているようですね。レッスンのせいですかね」

「そうね長い間の練習で胸を開くようになっているからかしら」

「マダム同じ物はありますか」

「同じ物は無いのですが色の似ている物はありますわ」

赤でも少しクラモアジー(Cramoisi)に近いものと淡い色合いのローズ・ペーシュ(Rose Peche)の絹布を持って来た。


「白は織り柄が違えば同じような物は幾らでも出来るのですがこの赤を出せる人がもういないのです。新しい薬品での色出しなら同じ物を幾らでも作れますがこの3本はもうありませんの」

正太郎は時間もあるのでその4本を120メートルずつ買い入れて送ってもらう事にした。

ブティックを今度パストゥール街48番地もとのユニヴェルシテ通りに開く事になったと話すと全ての生地のほかに端布ですがと大量におまけをしてくれた。
全て正太郎の事務所へ送ってもらう事にして送料はおまけをしてもらったが、
昨日おろした金貨にパリで用意した金貨を足して3270フランを支払った。

「何時からお店を開きますの」

「20日には開店準備に掛かります。来月2日までには開きますのでパリから手伝いに出てきますのでまた寄らせていただきます」
正太郎がパリでの名刺を渡すと、マダムと織り娘達が生地の見本を持ってきて正太郎に持ち帰るように勧めた。

「これからもよろしくオ・ルヴォワール」と送り出されたのは10時半を過ぎていて急いで駅に着くと11時10分だった。

「間に合ったわね」

「もうあのマダムには負けるね。サラに上手く似合いそうな奴を持ってくるんだ物、つい余分に買ってしまったよ。話が広まればいろんな人に強請られそうで困るよ」

「ふぅん、ショウは何時の間にそんなに大勢と知り合いになったの」
正太郎はすぐにとぼけて「其れよりアリスたちはお土産を買えたのかな列車の中で食べるお菓子も必要だしね」と逃げた。

「またごまかしたわね」

そんな2人のやり取りを嬉しそうに姉弟は見ていた。

正太郎たちが駅に着いて5分もしないうちに3人は両手一杯に荷物を抱えて戻ってきた。

「そんなにお土産を買ったのかい」

「そうよアリスのはサラの物、私のは列車の中で食べるお菓子と食事。バスティアンのはショウの分のお土産と自分の分よ」

早速駅構内に入りポルトゥールに荷物を指定位置まで運ばせた。

定刻どおり11時35分に列車が入ってきた、此処で10分の停車時間があり食堂車も此処から営業が始まるので忙しく立ち働く姿が見えた。

正太郎はサラたちに姉弟を預けて3人で店の打ち合わせやいつこちらへきて荷物の受け渡しなどの細かいことを打ち合わせてジャネットにノートに書き取らせた。

「それでショウがボルドーから帰り次第また此方へ」

「そう急がなくても良いだろう。遅くも18日に帰ってくるけど君たちは先にこちらへ出てこられるようにしてくれたまえ。僕は20日に出てくるよ」

「では私たちで店の造作や品物の整理をするの」

「人も集める算段もしてくれないとね。オドレイは連れてきてあのパンシオンに暫く泊める事にしてもいいし。君たちの腕の見せどころさ」

「もう、ショウはいつも人を乗せるのが上手いんだから」

「そのために給与も配当金も弾むんだぜ。赤字になって困るのは僕だけだけど儲かれば3人とも潤うんだぜ。こんな上手い話そうは無いと思うよ」

「ああ、ショウと働き出してからお金はたまるわ、仕事は増えるわ。急がしいったら無いわ」

楽しそうにそういうジャネットをバスティアンは頼もしそうに見て「それでバイシクレッテはどれを主力で売りますか。やはりパリジェンヌ商会のYokohamaにしますか」

「イヤ、此処はペニーファージングにするつもりだ。いま80台まで在庫を増やしたのも此処へ50台持ってくるつもりさ。ミショーを30台にパリジェンヌ商会のものは子供用が20台にYokohamaが20台、正規品が10台。数はペニーファージングと同じでも其れが売れると思うんだ。後は倉庫におけるだけの物を計算して送り込むよ。エドモンと相談して後の送り込む台数や中古の扱いも決めるんだよ」

「判りました最初に130台ですか。そりゃ凄い数ですね。仕入れ金額も馬鹿に出来ないですね。ざっと月に50台売らないと採算が取れない計算ですね」

「いや。最初の月が100台、其の後は30台のペースで良いよ。1台50フランの儲けとしても1500フラン、それで充分経費が出るはずだよ。僕の給与は君に全て掛かっているんだぜ。ジャネットの給与も此方の儲けしだいなんだよ。だから両方でShiyoo Maedaのリヨン支店にしたんだ」

「ブティックはパリほどの売り上げを見込めませんか」

「此処は簡単にはいかないよ。マネをされても裁判に持ち込んでいるうちに逃げられるのが落ちか、マルセイユあたりかスペインで作って送り込んでくるさ。下着での勝負ではなくてリヨンのジャカール織りや手織り製品を買い付ける仲間にもぐりこむ事さ。1年を目途にそちらにも伝を探して欲しいのさ。まずは昨日の店と今日行った店に渡りは付いているから後はジャネットの腕次第さ」

「あらら、ショウはもう私の仕事を増やしているのね」

「そうじゃないよ今の僕のやっている事のうちからお金は任せてくれれば良いから、人を動かすほうをまねして欲しいのさ」

「ああ、そういうこと。ブティックもオドレイが仕切れるように育てるのね。それと会計の出来る人も見つける」

「そうだよそうすれば君とバスティアンが一緒にいる時間も増えるという物さ」

ジャネットは顔を赤くして「いやだショウったらいけ好かない」とうつむいた。

「ところであの娘達は何処へ住まわせますか」

「サラはこの間買った家でどうかというけど、僕は出来るだけ早くリヨンに戻してあげたいのさ。今日M.ランボーの話しだとあの兄弟薔薇を作るのが上手な人たちの仲間だそうだよ。パリよりは此方が良いと思うのさ」

「まぁ其れはエメとも相談して決められたら如何です」

そうだねと正太郎も話を商売の駆け引きと資金の投入額の相談を煮詰めた。
ディジョンを出るとサラがやってきてあの娘達を今晩は何処へ泊めるかを相談に来た。

「ジャネットのいるメゾン・デ・ラ・コメットに部屋がありますから其処へ、エメに話をしたらヴァルダン通りのほうに連れて行きます」

「そうジャネットお願いね。向こうはおやつにしたけど此方は」

「今用意しますね」

ジャネットが買っておいたタルトを色々並べディジョンで買ったレモネードの栓を開けた。

「まぁ冷えていておいしいわね」
嬉しそうに口をすぼめて壜から飲む姿を見てジャネットもバスティアンも楽しそうだ。

ガール・デ・リヨンに5分遅れの18時40分に着くとエメとジュリアンが迎えに来ていた。
サラとアリスは其処で別れジュリアンの馬車でバスティアンを送ってもらうと残る5人は詰めあってメゾン・デ・ラ・コメットに向かった。

ダヴが姉弟のためにすぐ部屋を用意させて3人の食事を用意してくれた。
エメと正太郎はメゾンデマダムDDに向かいそこでお土産を渡すと2人で食事に出かけてリヨンでの経緯を話した。

「かわいそうな娘達ね。それでサラはヴァルダン通りがいいかと言うのね」

「そうなんだ、僕は早い機会にリヨンへ戻れるようにしてあげたいけどね。とりあえずは学校さ。エドモンはエコール・エレメンタールの5年だというから少し家庭教師に付けば6年からコレージュに入れられるだろうし、マルティーヌはコレージュを卒業出来るというからリセへ入れるかもしれない」

翌朝、正太郎はメゾンデマダムDDへ戻るとボルドー行きの仕度を済ませてから事務所へ出た。
M.アンドレに買い入れた布地の領収書を渡して此処からプレゼントに廻すので会計には入れないで置いてくれと頼んで、着いた荷との確認だけしてくれるように話した。

打ち合わせが済むとジャネットの替わりの娘の面接はM.アンドレに任せてクストゥ街へアランにモニクと共に出向いてジュリアンの店で打ち合わせをして、イヴォンヌとブティック・シャレットの店のことでの話をした。

「ショウ、此処と違い店の名前はブティックをつけるよりマダム・シャレットにしたほうが良いですよ」

モニクも其れを勧めるが「でもジャネットは売るほうは出来てもデッサンもクードゥルも無理だよ。自分で縫製が出来ないのに良いのかなぁ」と聞いた。

「勿論其れでいいはずよ。彼女は今回経営者として派遣されるのでしょ。それなら一人前としてマダムをつけるべきよ」

正太郎も納得してモニクに事務所でM.アンドレとジャネットにショウが承認したからと伝えるように頼んだ。

「それで新しいお針子の目途はついたの」

「いい娘が2人と少し年を取っているけど腕のいい人がいるのよ、3人とも捨てがたいし困ったわ」

「何時までに決めるの」

「出来れば今日中に連絡しようと思っているのよ」

3人に試験させた布を持ってきて正太郎にみせた。
どれをとってもマシーヌ・ア・クードゥルとクズュ・アラマ(手縫い)との違いは表側では判らなかった。

「凄い細かいね」

「そうでしょ。今いる娘達に比べても遜色が無いわ。一人は高級品のティスュ・ド・ソエ(絹布)のドレスも扱っていたそうよ」

「その人雇おうよ」

「あった事も無いのにいいの」

正太郎はリヨンへ行く気があれば住まいも此方持ちにするけどどうかと打診してくれるように話、残りの2人もフェルディナンド・フロコン街の勤務でよければ雇うように勧めた。

「それなら大丈夫よ最初から向こうが勤務地だと話してあるから」

「あっ、そうなんだそれならリヨンへ行ってくれるかどうかだけだね。こっちで働くにしてもドレスのクードゥルが出来る腕があるのはいい事だよ。実は大分向こうでいい絹布を買い入れたから此処で高級品の誂えを受けてもいいし」

「此処は無理よ、もう手一杯です物。やるなら誰か責任者をつけて別の店ね。断っておきますけど私にやれと言うのは無理ですからね」

そいつは考えておくよと返事をして戻ってきた馬車で事務所に戻った。

アランは「向こうではニコールとルネが何時でもこられるように二部屋を整備してシーツの手当てもしてあるという話です」と報告をした。

「メルシー、では2人と家を明日見に行ってくれたまえ。引っ越しはまだ先の予定さ。僕がボルドーから帰るまでは今のままで頼むよ」

「判りました。でも希望すれば馬車で毎日通わせても良いですか」

「そうだな。君も話し相手がいれば退屈しないだろうしね。ドナルド爺さんにも紹介しておいてくれたまえ」

アラン・デュ・ボアとデルモット夫妻は気が合うようでこの毎日の巡回を楽しみにしているようだ。

事務所からメゾン・デ・ラ・コメットへ向かった正太郎は庭の掃除をしている2人を呼んでとりあえずの日課として馬車でセーヌ県へ毎日回ってもらうことになったと伝え、ルモワーヌ夫妻に立ち会ってもらって話をした。

「まだ其処へ住んで働いてもらうかは正式に決めていないが僕がボルドーから戻ったら改めて話し合おうね。其れまではルモワーヌさんに話しておくから此処の庭の手入れを仕事にしてください。僕たちのところでは仕事をしてくれるセディというエコール・エレメンタールに通う子がいるので其の子と同じ待遇にします。衣類、住まい、食事は持ちますが賃金は1日1フラン50サンチームです」

「そんな、お世話になっているのに賃金まで支払うなんていけませんわ。マダム・ロジーヌへの借りも返していませんのに」

「あれは心配しなくても良いですよ。君たちサラ・ベルナールという人の事聞いたことありませんか」

「その人あの女優のサラ・ベルナールさんでしょうか」

「そう其のサラがあの人ですよ。ロジーヌはお母さんの苗字でベルナールはお父さんの苗字です」

「まぁ、綺麗で優雅な方と思っていましたがお目にかかったことが無いので失礼してしまいました。誰も教えてくれないのですもの」

少し悲しそうな顔をしたがすぐに立ち直って「でもそれと言ってお給金まで頂くわけには行きません」と2人で正太郎に訴えた。

「決まりですから受け取らないと他の人にも迷惑が掛かります。それともし返したいという希望があるならなおさらですよ。受け取って自分たちで貯めてからお返しするようにしてくださいね」

ルモワーヌ夫妻も同じように「ショウはあなた方をさらに上の学校へ行きなさいと勧めるでしょう。其の時も断るよりも話を受けて勉強に励む事がショウとサラ・ベルナールさんへの恩返しですよ」と話してくれた。

正太郎はその後ラ・レーヌ・オルタンス街へ出かけた。
公館では鮫島もいて「正太郎、さっき電信がきて扇子と団扇を追加しないと大変だといってきたよいくらかでも送れないかな」

「500くらいずつなら残っていますが」

「其れで良いから送ってくれないか。1日100本近く売れているそうだ。正太郎がいっていた赤痢が流行っているようだよ高島さんの易が当たったようだ。使節団にも水と食事に気を配るようには言ってあるが何もなければいいが」

「ではこれから急遽品物をそろえて発送しますが後何か必要な物はありますか」

「今は其れしか言って来ていないよ」
フェルディナンド・フロコン街へ馬車で戻り馬車を待たせておいて全員で数を当たって荷造りをした。

「センスは120本ずつで360本にウチワが600本、残り全部を送らなくてもいいのですか」

「後半月は此方も持ちこたえないとね。それとリヨンにセンスを100本程度はもって行くほうが良いだろ」

「では荷の中へ先に入れておきますか」

「そうしようよ。これ以上ヴィエンヌにとられるものも無いけど店のほうのことも考えないと」
馬車に積み込んでフランス郵船で送り出してもらった。

久しぶりにLoodでお昼にした。

「忙しそうだね」

「うん、昨日リヨンから帰ってきたけど、11日にはジュリアンとボルドーさ。向こうはブドウの花がそろそろ咲く頃だよ」
イレーヌはもう1人、入った娘と忙しげに働きママンは大分楽になったようだ。



Lyon1873年5月18日 Sunday

朝一番でガール・ドステルリッツに着いた二人は同じ馬車に乗り込みジュリアンの店で別れた。

「じゃあさってはまたリヨンか。何時戻る」

「向こうへ3日はいる事になるだろうから24日の日だね。オ・ルヴォワール」

「オ・ルヴォワール・ボンヴォワイヤージュ」

ジュリアンと分かれてメゾンデマダムDDに着くと9時になったばかりだった。

食堂であさの食事を出してもらい四方山話をしてベティが用意してくれた風呂で汗を流してジーンズに着替えた。

「今日はどうするの」

「エメのところでリヨンから来た娘達のことを相談してきます」

「あのリヨンから来た生地はどうするの。誰かへのプレゼントなんでしょ」

「サラ・ベルナールにエメと」

「エメと」

「マダム・デシャンにMomo

「それだけ」

「後誰だったけかな。確かあの時7人分だと思ったけど」

「バーツには」

「ああそうだそれとジュリアン夫人」

「まだ一人足りないわ」

「そうだベティだ」

そう言ってベティをMomoと並ばせてアルフォンスに頼んでドレスを作ってあげるからDDと生地を選ぶように勧めた。

「ふたつのうちBBという店のほうだよ。MH・アンジェルはサラとエメの分だからね」

BBはベキュ&ブランディーヌ(BecuBlandine)、MHはマダム・アッシュ・アンジェル(MadamHAngele)でH(アッシュ)は何の略か聞かなかった。 

「ふぅん、そうなんだあたしたちは無いの」

「サラ・リリアーヌの分とマリー・アリーヌは生地だけ40メートルあげるよ」

仕立て代は無いのといわれて「其処までは勘弁してよ40メートルで1ポンドもするんだぜ」と泣き言を言ってみた。

「仕方ないわね」

「其れで勘弁してよ。モニクにも上げないといけないだろうし後誰に強請られるか不安だよ」

ニコラが「Mlle.ビリュコフとMlle.エーリンには良いのかい」と言い出した。

「黙っていて欲しいな。そうしないときりが無いよ」

「モニクに上げるならジャネットは」

「ジャネットとオドレイには向こうで作ってあげる事にするよ。其のほうが顔も売れるしね。今頃彼方此方廻って顔を売り込んでいるだろうけどね」

金曜日に向こうへバスティアンが付いてル・フェニックス・ホテルを拠点に仕事をしているはずだ。

DDが「生地は何処に来ているの」とマリー・アリーヌに聞いた。

「私の仕事場よ。MH・アンジェルのはとても欲しいといえないいい生地だし色もすばらしいわよ」

「ショウ、見るだけなら構わないわよね」

「良いですよ。つい買い入れたけど40メートルで280フランも取られましたよ。ブランでさえ100フランだそうです。僕には何処が違うかわかりませんでしたがサラが見て値段に納得したようでしたから本物のリヨンの手織り、手染めなのでしょうね」

「其の値段だときっと名のある人が織ったのよ。私もそんな値段の絹布を見たことが無いわ」

「そうですよショウ。向こうさんもサラ・ベルナールとは気が付かなくてもあの人の様子で店一番の品物を出したのよ」

「そうだ今度雇われたマダム・デュポンに見せれば値打ちが判るかもよ。あの人ウジェニー皇后のドレスを何度か縫った事があるそうよ。結婚してお針子を辞めていたそうだけど、ご主人がなくなって遊んでいるわけに行かなくなったそうなの。元の店に戻る気は無いそうよ」

「ほう皇后のドレスですか。ではいい店で働いていたんですね」

ワース・エ・ホベルクのチャールズ・フレデリック・ワース氏の夫人マリ・ヴェルネに雇われていたと話していたそうだ。

1着1500フランなどというばかげた値段のオートクチュールのドレスが安物だというのにはもういやになりましたとイヴォンヌに話したそうだ。

そうは言うが今の服飾業界はチャールズ・フレデリック・ワースが率いていると言っても過言ではないのだ。

彼が人形からマヌカンに衣装を着せて個室での顧客へのサービス、コレクション・ショーに発展させ、店は今でもブルジョワ階級の憧れの場なのだ。

フランス読みだとシャルル・フレデリック・ウォルトになるとDDが正太郎に教えてくれた。

「イギリスからあの店にきて400ポンドも1回の支払いに使う人がいるそうよ。9000フランくらいかしら」
何処の国の話だと疑うような話だ。

そういえばリリーはそのくらいの贅沢が出来るのにしないと言うのは根がしっかりとしていると言うことなのだろうか。

「この間聞いた話だと夜会服を誂えたオーストリアの大使夫人が3000フランの請求に大使が怒って大変だったそうよ」

DDを筆頭に女たちはフェルディナンド・フロコン街の仕事場へ勇んで出て行った。

「やれやれ、ショウお前も因果なもんだ。女どもにドレスの話しなぞするもんだから後が大変だぞ」

「僕もいまさらのようにまいっていますよ。サラとエメにドレスを作って早く此処から抜け出したいもんですよ」

「其れより大統領が替わるのを聞いたか」

「ええ、ボルドーでも大騒ぎでしたよ。王党派といわれているマクマオン将軍に決まりそうだという話でしょ」

「そうだ国民議会の議決で大統領辞任に追い込まれたぞ」

「ティエールさんも年だからでしょうかね。76歳くらいでしょ」

「将軍だって65を過ぎたはずだぜ。政体を王制にするか共和制にするかでまだまだもめるぞ何年持つか見ものだぜ」

正太郎はセディを連れてメゾン・デ・ラ・コメットへ向かいプランティエ姉弟を連れてエメのアパルトマンへ向かった。

3人の学力と知性を試すようにエメは色々な話題を口にして気をそらさなかったがどこかでお昼を食べてヴァルダン通りへいこうと言い出した。

「今日行くの」

「明日引っ越すにしても私が一度デルモット夫妻とも話し置いたほうが良いと思うの」

「ではそうするか」

5人でサン・ジェルマンの市場に有るビストロ・ラルテミスへ出かけた。

何時ものようにタルタルステーキの炎に歓声が上がる様子を楽しみながらヴェルミセルにベーコンと野菜が入ったものを出してもらった。

「私とショウは食が細いから少ししか食べないけどあなた方は遠慮しちゃ駄目よ。ショウは遠慮する子が一番嫌いなの」

其の心配もなくセディに2人の姉弟もたっぷりのヴェルミセルにパンでお腹が一杯になったようだ。

馬車屋まで歩きヴァルダン通りまで往復してもらうように頼んで出かけた。

「まぁエメもご一緒で。ようこそいらっしゃいました。マルティーヌとエドモンは何時からきてくださるのかしら。私たちもドナルドも何時来てくれるか心待ちにして居りますの」

どうやら2人は此処で歓迎されているようだ。

ドナルド爺さんのいる場所までニコールが案内してくれてそこで明日にでも晴れていたら引っ越してくる事、エドモンには学校へ行かせる用意があるのでその用意をしてもらうこと、マルティーヌにはリセへの入学準備をしてもらうこと、そのためにもフェネロン街へマルティーヌが移る可能性があることなどを話した。

「あなた方は仕事よりもまず学ぶことが先です。遊ぶ暇は中々与えて上げられませんがショウからお給料が出ますが学校で必要なお金は全て出す代わりに自分の力は全て出す努力をしてくださいね。決して無理な勉強などを強いる事はありませんが怠惰な事は許しません」

「判りました。私もエドモンもご期待を裏切りません」

エメはにっこりとして「ドナルド爺さんこの娘達の薔薇はどう」

「いい苗だね。あれは一年を通じて咲くという話だから増やしてお屋敷の道路際に植えれば良いね」

「あの芍薬の道」
「そうだよ。百合も来るから賑やかになるね」

「そうですじゃ芍薬は薔薇と香りも似ていますしいい取り合わせですじゃ。エドモンやムッシュー・ショウにたのんで赤い薔薇の苗も買い入れて2人でバラ園を充実させような。百合が増えれば散歩も楽しめる。いいことづくめになるぞ」

「はいおじいさんお願いします」

「其れはいいけど僕は薔薇を余り知らないよ。M.ランボーにでも頼むしかないかな」

M.ショウ。ヴィエンヌからM.デュブルーユとM. ラシャルムが戻れば力を貸してくれますよM.ランボーもいま僕の苗木と同じものから新しい花を咲かせる努力をしていますし。協力してくださるはずです。パリにはヴィクトル・ヴェルディエさんと言う祖父の友人がいまブルボンの真紅の薔薇を作られているはずです。僕たちのはアルバという仲間です」

「アルバとブルボンだね」

「そうですアルバは白から淡いピンクが多く。甘い香りがします。そしてブルボンは大輪が多く、芳香はやはり甘く香ります」

覚えておくよと正太郎は約束して「ドナルド爺さん。この庭は芍薬と薔薇を中心に配置を考えてください。池の近くと丘の向こうはチューリップはどうだろう」

「良いですね。池は睡蓮がありますがどうします」

「其れは増えすぎないように管理するだけで良いよ」

「そうしますかな。作物を市場に出して其の売り上げで苗を買い入れて良いですか」

「そっちは任せるよ。お金の出入りのノートをつけてくれれば後は好きにして良いよ。此処やフェネロン街で欲しいものはアランが持っていくから作付けの計画をアランに話してくれれば良いさ。それで良いだろエメ」

「勿論よ。ショウの言うように皆さんこの家にお客が来た時に散歩をして楽しめるように丹精をお願いいたしますね」

馬車でフェネロン街へ廻りカントルーブ夫妻に二人を紹介して「このマドモアゼル・マルティーヌ・プランティエはMlle.ルモワーヌが戻られた後こちらへご一緒するかもしれませんの。当分はヴァルダン通りへ住む予定ですわ」

「承知しました」

庭も家も何時Mlle.ルモワーヌが帰国しても住めるように気が配られていた。

毎日アラン達が来るのが今は楽しみだと話して早くこの家が賑やかになる日が待ち遠しいとエメに言って「此処に紹介してくださって感謝しています」と話した。

ノートルダム・デ・シャン街へ戻るとセディも一緒に5人でサン・ジェルマンの市場へ歩いて明日からの2人のための買い物と着替えを幾つかボン・マルシェで買い与えた。

荷物を抱えて馬車の溜まり場で捕まえるとル・マガザン・デュ・リスのあるパサージュ・ジュフロワまで出かけた。

ディマンシュでもアルフォンスがデッサンのために店にいるはずだ。

「あら。エメじゃないの最近お見限りね」

「忙しいのよ。其れより生地が着いたわ」

「まぁうれしぃ。それで何時此方へ」

「明日持ってきますよ。少なくとも20着はお願いするようになりますね」

「ほんと、嬉しいわ。全部ティスュ・ド・ソエだそうね」

「そうなんですよ。大分散財しましたがいい物をアルフォンスが製作してくれると皆さん期待していますよ。サラにエメとバーツに3着後はこのリストの人が来ますからよろしく」とエメと相談して名前を書いて渡した。

「あら、サラは7名分だといったけど大分増えたのね」

正太郎は200フランを預けて足りないときはまた後で支払いますと店を後にした。

待たせておいた馬車でメゾン・デ・ラ・コメットに戻りルモワーヌ夫妻に明日引っ越しだと告げるとマーテは涙を流して元気でやるのよと買い入れた荷物と持っていくものの整理に3階へ上がっていった。

ランディは正太郎も忙しかった朝ヴァルダン通りまで付いていくのと戻ってからアルフォンスにティスュ・ド・ソエを届けるのに行ったり来たりで忙しかった。
午後に戻るとリヨンへ出てくれるというシルヴィ・デュポンと身分と給与の事などを正式契約した。

オドレイ・ベルティエと同じ待遇で日立て6フラン、衣食住は会社持ちで本人も納得した。

「こんなに良くして頂くとは思ってもおりませんでした。有難う御座います」

「パリから離れていくのはそのくらいださなければあなたに失礼だと思いました。今日は仕度も有るでしょうからこれでお帰りください。朝は普段どおりに出てきてください。それで食事ですがジャネットと経費については相談しますね」

「判りました。それで向こうでの生活が始まれば此方の荷物は送り出していただけますか」

「アラン、どうなってるの」

「手配は済んでいます、M.アンドレが今月分の部屋代を支払いましたので月末までに荷を発送すれば大丈夫です」

「判った。今頃はお針子のための住まいもジャネットが手配してくれているだろうからホテル住まいも2日くらいで済むだろう」

大分最初の予定とは違ったがいい人材が集まってきていた。


Lyon1873年5月20日 Tuesday

この間と同じく定刻16時15分にガール・デ・リヨン・ペラーシュへ着いた。

シルヴィ・デュポンと馬車でホテルへ投宿して改めてパストゥール街もとの大学通りへ出かけた。
ジャネットは開店準備で忙しく立ち働き店も作業場も綺麗になっていた。

「ショウ、朗報よ。お隣の大家さんが3階に二部屋安く貸していいと言うので月48フランで決めたわ、ル・リは有るけど食事は付かないのよ。オドレイとシルヴィに其処へ入っていただくわ、もうオドレイが綺麗にして其処へホテルから荷物も運んだわ。後のお針子も2人決まったわ。一人は通い1人は住み込めないかと言うのでこの上の作業場に仕切りをつけてル・リを置くだけで良いからと言うのでそうしたわ」

「それは良かった。シルヴィも明日にでもホテルを引き払えるね。此処はもういいのかい」

「大丈夫だけどお夕飯でもご馳走してくれるの。バスティアンは忙しいから今日明日は外に出る余裕も無いのよ」

「では一度店の様子を見てくるから君とオドレイは仕度をして出るかい」

「そうね一度パンシオンに戻って着替えるわ、オドレイ着替えていらっしゃいな、私は馬車を呼んでくるわね」

正太郎はクロワの向こう側のマガザン・デ・ラ・バイシクレッテへ出向いて今日はマダム・シャレットのほうの人と食事に行くと伝えた。

開店を待てない人がもうペニーファージングやミショーにYokohamaを買いに来ているのだ。

「ショウ、これでは働く人間をパリから連れてくれば良かったくらいですよ」

バスティアンはそう言って「この2人はバイシクレッテが好きで給与の額よりレースに出させてくれるなら一生懸命働くというのでね。働きが良いので5フラン出すことにしました。昨日と今日で10台はけました」

そりゃいい給与だがだからと言って余り働きなさんなよといって笑いながら店を後にした。

ブティックに戻ると馬車も着ていて3人が待っていた。

乗り込んでパンシオンへ向かいジャネットが部屋で着替えて降りてくるまでオドレイからリヨンの感想を聞いた。

「いい街よ。パリみたいな華やかさは無いけど人も優しいし此処へ落ち着いても良いかもしれないわ」

「そりゃ良かった。シルヴィと一緒にがんばってくださいね。お針の仕事だけでなくデッサンも勉強していいドレスを作ってください」

2人も顔を見合わせて「やっぱり、ショウはどんどん仕事を増やしてくれるから覚悟しなさいねとさっきジャネットが言ったとおりだわ」と笑った。

「楽しそうね。それで何処へ行くの」

「クロワ・ルースでBecu&BlandineMadamHAngeleの店に挨拶して其の後ポール・ボキューズで食事にしようね。ホテルから5人分の予約を9時にしたけど一人少ないのは仕方ないさ」

馭者にクロワ・ルースまでと伝えて上に有るベキュ&ブランディーヌの店へ向かわせた、5フランとチップに2フランを渡してMH・アンジェルへ8時半に迎えに来てポール・ボキューズまで送って欲しいと頼んだ。

「今日は店の人を紹介に来ました。こちらがマダム・シャレットのマダム・サラ・ジャネット・シャレット。それとパリから来てくれたマドモアゼル・オドレイ・ベルティエ。マダム・シルヴィ・デュポンです」

店では歓迎してくれてこれからも店にきてくださいとマダムが椅子を進めてパリの話をしてくれとせがんだ。

正太郎は120メートルずつ5色選ばせてマダム・シャレットまで届けるように頼んで370フランを支払った。

「これは君たちのドレスを作る生地にして良いよ。自分たちで作ってもいいしどこかいい人がいたら頼んでも良いよ費用は僕に付けてくれ給え」

「まぁ、ショウは気前がいいのね。マダムどこかいい人を知りません私たちドレスまではデッサンできませんの」

「なら私のほうでいい人を紹介しますよ。明日お届けする時に一緒に行かせますわ。まだ学生ですけどいいデッサンをしますよ」

マダムが約束をしてくれて坂を下ってマダム・H・アンジェルの店に向かった。

ここでも顔つなぎをし「3日ほど此方に居ます」と話をしていると迎えの馬車がきたので「パリへ戻る前にもう一度顔を出します」と伝えて店を後にした。

翌日シルヴィ・デュポンを送って正太郎はバスティアンに会いに行った。

「ねえバスティアン昨日は忙しそうだったけど今日は早仕舞いしてどこかで一杯やりながら何か食べようよ。あの2人も誘って新市街にでも出ないかい」

「良いですね。何時ごろが良いですか」

「陽が暮れる前の8時にパンシオンに迎えに行くよ。あそこで待ち合わせようよ」

「判りました。ショウは今日どこか廻るのですか」

「バラ園を幾つか廻ろうと思うんだ。この付近にジョセフ・シュワルツという人の農園があるはずなんだ」

「それなら、ユベールがこの近くの者ですから聞いてみましょう」

ユベールはガンベッタ大通りにギヨー農園を受け継いだM.シュワルツのバラ園と、息子のアンドレ・ギヨーがモンプレジールにバラ園を開いていると教えてくれた。

ゆっくり歩いても10分も掛からない場所にある農園は色とりどりの薔薇や百合の花が咲いていた。

「へぇ〜、もう百合も咲くんだ」

正太郎は日本の百合と違い派手な花に見とれていた。

「百合が好きですかな」

恰幅の良い老人が来て正太郎に話しかけた。

「私の国のものとは違うようでしたがもう咲き出したかと見ておりました」

「そう何処から」

「ジャポンのYokohamaです」

「そう君の国にはKiyooという街があるかね」

「はい少し前まで私の国の首都でした。今はTokyoに移りました」

「其のKiyooというところから3人ほど来た人たちがいて昨日この花を見ていたよ。言葉が良く判らんが薔薇にも興味があるらしく絵に写していたよ。何でもジャカールの機械の勉強に来たらしい」

「そうでしたか私はShiyoo Maedaといいます。Yokohamaでシーヌの先生がヂアン・ショウと呼ばれたのでそちらのほうが通用する事もあります」

「ほう、面白いねそれでどう呼べばいいのかな」

「単にショウと呼んで頂ければ結構です」

「ではM.ショウ、君は百合の事に詳しいかね」

「私の育った場所では野生のものが多く体に良いというのでひ弱な人が食べるのと観賞用に育てる人も大勢居りました。覚えているのは白い百合とオレンジ色の百合、それと白い花弁に赤茶けた斑が浮かんでいるものです」

「其の最後のもの輸入できる人を知らないかね。まぁ、混ざっても構わんが出来れば同じものが欲しいのだが」

「マルセイユに私の勤めていた会社と取引している店が2軒ありますから紹介いたしますよ」

「間に何軒か入ると高いものに付くのでYokohamaと直接は無理かな」

「どのくらい必要ですか」

「出来れば5000個の球根が欲しいが、ロンドンとパリではひとつ50フランだと聞かされたが後は当分入らないそうだ」

「3年物の球根でもよろしいですか。日陰を好むといわれていて余り日差しの強い場所に向かないそうですが」

「其れで良いよ、で、入るのかね」

「今度の船で5000個の球根が来ますので3000個まででよければお分けしますが、まだ値段がわからないので500個の球根のオークションを開いて値段が決まりましたら」

「そういわないでわしに別けてくれんか」

「しかし、まだ現物を見ていないので良い品物かどうか判らないのです。パリで買い入れた土地に植えて其処で生育させる予定なのです」

「もし別けてもらえるならわしの婿と息子の薔薇の苗木を安く出してあげるよ」

「其れは魅力的ですが」
寅吉からの電報では孝の留学費用にと山百合等の百合根3000個を売って費用に換えると電信がきていてMlle.ルモワーヌと共にマルセイユへ来るのだ。

5000個のうち3000個を1個5フランで売れれば5年は費用の心配が要らないだろうと正太郎は考えたがそんなに高い値で売れるものなのかは調べても判らなかったのだ。

正太郎が横浜に居た当時は1銭も出せば買えたのだ、精々2フラン程度と思っていたのに其の25倍の話は魅力的過ぎた。

「ムッシュー、其のオークションの価格の話し本当なのですか。そんなにするなぞ信じられないのですが」

「わしも又聞きだが、10か20での話かもしれないな。5000球も来れば価格は下がるだろうが君がほかに出さないなら抑えたいのだ」

「でもまだ信じられないのですよ。それに其の値段で取引がされたとわかればすぐに大量に送られてきて値は下がりますよ。ですから500個の百合根をパリで売り払った値段を見てからのほうがよろしいですよ」

「君は欲が無いのかね。君さえ言わなければYokohamaに価格がもれないうちに君自身が入れられるだろう」

「残念ですが私は私の勤める店を裏切る事は出来ません。商売で儲けることと信義を尽くす事は一緒でなければいけないと考えています。では失礼いたします」

「まぁ待ちたまえ。昨日の人といいジャポンの人は話を急ぎすぎる、価格は君の思うようにして構わんよ、しかし価格いかんにかかわらずわしに3000球の百合根を譲ってくれ給え。勿論君がオークションで手にした金額で構わんよ」

「判りました。ムッシューがそういうお気持ちでしたら百合根が届いて虫や病気が無いことを確認していただけるでしょうか」

「良いだろうそれで5000球全ての検査かね」

「其れを受けていただけるなら其処から3000の百合根を選んでいただいて結構です。そして残りをあなたの名で市場に出す事を許可していただけるなら此処の引き取り価格は10フラン50サンチーム。残りは500が私個人のものにしますので500をオークション価格のうち10フラン50サンチーム以上は折半。其の残り1000個をやはり卸売りとして10フラン50サンチーム以上を折半で如何でしょう」

「君、其れは本当かね。此処には病理に詳しいものも多いし大学で調べさせる事もできる。気にいった、婿と娘を紹介するから来てくれ。わしゃジャン・バティスト・ギヨーじゃ。息子も近くでバラ園を開いているので後で紹介しょう」

老人は確りした足取りで建物に向かい机に座っていた女性にジョセフを呼んでくれと言った。

「ジョセフですか」

「そうだお前も一緒に話を聞いてくれ」

婿と娘がそろうとテを入れて今の話を正太郎に繰り返させた。

「あの百合ですか」

そういうと本棚から色刷りの本を出してきた絵は鉄砲百合だ。

「これは日本ではテッポウユリといいます。これが来ているかは判りませんが、此処にマロン・アカジュの斑紋が入ったものが主にきたのだと思います。其の絵はNagasakiのほうのユリです」

「其れでいいのだよ。一度パリで見たことがあるがブランは清楚でよいと思うが其処では病気に弱いと言っていた。君が言う品種はイギリスでもオランダでも生き残っているそうだ。どうだ検査を全て行っても採算が取れるかな」

「10フラン50サンチームと言うのであればこちらで検査をしても大丈夫でしょうが合格品が3000に満たない時はどうします」

「其の時は検査費用を僕が持つ代わりに価格に上乗せでどうでしょうか。僕も500だけ引き取れればオークションは諦めます」

「では何時ごろ船が着くんだね」

「マルセイユへ6月の7日の到着予定です。そこで引き取るにしても荷は3日くらい受け取りに掛かるかもしれませんね」

「いや、先に届けを出せば翌日には受け取れるよ。植物検疫は今義務化されていないから大丈夫だ、リヨン大学で行うという書類も出してあげるし、君さえ良ければわしの方で手続きもしてあげるよ。船の名と送り主がわかるかね」

正太郎は手帳を見て6月7日到着フランス郵船のコロンボ号で受け取りはパリ支店Shiyoo Maedaで送り主はTorayaYokohamaであると告げた。

「君の委任状があればフランス郵船に此方から連絡して翌日マルセイユで受け取れるようにしよう」

正太郎はその場で書付を渡し彼らに任せる事にして、パリへ戻ったらM.ブリュツクに連絡をする事と手帳に記して置いた。

「さて薔薇の話だがなにか買う気はあるかね」

「今パリに大きな屋敷を手に入れましたので其処へ芍薬と薔薇を増やそうと思いますが100本ほどの苗木を別けていただけますか」

「なるほど、苗木かそれで面倒は君が見るのかね」

「いえ前から其の屋敷の庭と農園を管理していたお年寄りとリヨンから若い姉弟が来ましたので3人で見てくれる事になります」

「其の人たちは薔薇つくりの経験があるのかね」

「姉弟は小さい時から薔薇農園で育ったそうです。マダムプランティエの苗木を3本持っていました。M.ランボーの知り合いだそうでしたのでM.ランボーからも買い入れようと思っています」

「マダムプランティエか、ブランが好きかね」

Yokohamaでは色々な色の薔薇を区画を作って植えていましたが、僕は道沿いに色変わりで続くように育てさせたいと考えています。道の傍には四季咲きの物、奥まった場所は大きめの花を咲かせるものをと考えています」

「そうかねわしのものもブランからピンクの物が多いが婿の花はわしよりは華やかじゃよ。息子は赤い薔薇を丹精しとるがね」

アルバ・ロセアという苗木を500フランで100本、セーヌ県のヴァルダン通りへ送ってもらう事にして息子と言う人の農園まで馬車で送ってくれた。

ラ・フランスと名づけられた黄色の薔薇は正太郎の心を捉えた。

「やっと今年から新しい品種と認められたんだよ」
マダム・ファルコット(Madame Falcot)がこの樹の元親だとも話して呉れ、サフラノとかパークスイエローという元に連なる花も教えてもらえた。

マダム・ファルコットが同じ親樹のマリー・ヴァン・ウットという花も栽培されていたが見本だという数しかなくジャン・クロード・ドゥシェという人を紹介された。

親子はこれから改良してブルボンの持つルージュに近い色合いを作り出すつもりだと力説し正太郎はここでも500フランで100本の苗木を送ってもらう事にした。

老人はこの際だからとそのM.ドゥシェの農園まで案内してくれた。
Madame De Tartas に Madame Falcotという樹が親樹だと親切に教えてくれた。

ラ・フランスよりも黄色みは少なくマダム・ブラヴィと同じような淡い色が可憐に見えた。
ここでも同じように100本の苗木を500フランで買い入れパリへ送り出す手続きをしてもらった。

「何処へ送ろうかね」

「新しく共同でブティックを出す準備を元の大学通りに準備中ですので其処へお願いします」
アントワネットの丘を下り20分ほどでブティックに付いた。

「此処は女物だけかね」

「下着は男物も女物も共に扱っています。ゆくゆくはコンフェクションの服を中心の店にする予定です。まだ店が小さいので置ききれません」

「開店は何日だね」

「もう準備は出来て居りますので明日にでもと考えています」

2人で店に入りジャネットに様子を聞くと「明日開店します。先ほど広め屋にも頼みましたし新聞の広告も頼みました」

「明日のに間に合うの」

「其処は抜かりありませんよ」

ジャネットは何か上手い手を使ったようだ。

「今日は有難う御座いました。マルセイユへ人を迎えに行く時にはまた寄らせていただきます」

「そうだその事があったな。7日の船だといったね」

「はいそうです。4日にリヨンに出てきて5日にマルセイユへ向かいます。女性だけの長旅ですのでマルセイユへ2泊して9日にリヨンへ一泊してからパリへ向かいます」

「それなら此処へ2泊させなさい、わしたちの農園に招待したい」

「有難う御座います。それではご好意に甘えさせていただきホテルは2泊させます。ランスでお育ちになられたマダムとジャポンからの留学生が3人同行しています」

「4人だね。迎えに行く時は顔を出しなさいよ。荷の打ち合わせもしたいからね。うちのところから受け取りのものを派遣するからその打ち合わせもしたいから」

「判りました。本日は有難う御座いました」

表でギヨー老人を見送って店に戻った。

「今晩はバスティアンたちを招待して新市街で遊ぶ事にしたよ」

「まぁお楽しみね」

「君たちだけにプレゼントしたままでは片手落ちだからね」

「それもそうね高い生地を頂いた上に。そうそう例のデッサンをする人ね明日からうちで寸法を測って生地の裁断もしてくれることになったわ。此処へ通って全員のドレスを仕上げる事になって、オドレイとシルヴィがお針を担当する事にしたわ」

「其のデッサンの娘、上手く手なずけて置いてくださいね。此処を大きくする時には役立つかもしれないし」

「勿論よ。まだ学生だから時間に余裕は無いけど毎日顔を出してくれる事になったわ」

正太郎は一度ホテルへ戻り7時に起こしてくれるように頼んで昼寝をした。


Lyon1873年5月22日 Thursday

夜遅くまで付き合った正太郎だが目が覚めたとき時間はまだ5時だった。

夜中から降り出した雨は中々やまずブティックの開店に影響が出ないか心配だった。

髭を剃ってジーンズに着替えると傘を借りだし、明るくはなっている町へ出た。

サンジャン大聖堂まで降ると早朝に係わらず船から魚を降ろす人で混雑していた。

よくみると氷を砕く器械が動いていて、魚の上に砕いた氷を撒いている人が忙しく立ち働く様子も興味深く見えた。

「あれだけ氷を使えるのは器械製氷が出来ると言うことか」

独り言をつぶやきながらポン・ボナパルトを渡った。

プレイス・ベルクールには雨の中早朝から散歩をする人の姿が何人も見えた。

昨晩バスティアン達と入った店はまだ灯りが付いていて客が残っているか掃除でもしているのだろうと思えた。

ポン・デ・ラ・ギヨティエールまで進みローヌ川の河岸沿いの行き交う人たちの間を縫うように進むとギョー社のバラ園の前に出た。

表から覗くと雨に打たれた百合が可憐な花を正太郎のほうへ向けて咲かせていた。

其の先には公園らしき林が広がり其処でも散歩をする人影が見えた。

緩やかな坂を登ると其処はラ・フランスを別けてもらったアンドレ・ギョーのバラ園だった。

此処までで時刻は6時30分になり道を戻りだす正太郎だった。

ジャネットのパンシオンの近くにあるサン・ポータン教会の前に出るはずが大分早めに曲がったらしく教会の大時計は大分先に見え小ぶりになった雨にけぶっていた。

まぁいいかと其のまま道を進むと早朝から機織り(はたおり)の音がゆったりとバッタン、バッタンと聞こえた。

ジャカールと言ってもまだ手で機械を動かしているようだなと音のするほうへ歩くと魚を焼く匂いが漂ってきた。

「あれ、川魚でも調理しているようだが、ただの塩焼きのようだな。このあたりはそんな調理方法もあるのかな」

匂いに惹かれるように進むとクロワ・モランの通りへ出た。

確か大江さんはこのあたりへ下宿したと聞いたように思いながら進むと前方の庭先で何か怒鳴る声がした、日本の言葉のようだが横浜とは少し違う言葉のようだ。

「飯は炊けたが魚はまだ焼けひんのか」

「後少し待っておくれやす、炭と違って上手く火が廻りきぃひんのどすがな。常七さんに仕度が出来たと言っておくれやす。朝早くからバッタンを動かしていても、もう糸もおまへんのにやんぺきぃひんのや」

「ほんまおすか伊兵衛さん。金もなくなったのおすか」

「忠七よ。金はまだあるが、糸を買えば俺たちの飯代も無くらるえ。織った生地が金になればええが今のままでは売れやしぃひんぜ。何処かの工場で働くならともかく常七さんは面倒だと人を雇うなどするものさかいに来年まで食いつなぐ事も出来あらへんよ」

声が途絶えたのは魚も焼きあがったからだろうか、バッタンバッタンと響いていた音もやんで街は静かになった。

正太郎は今声をかけないようにしようとその場を離れてホテルへ戻ると食堂で朝食をとった。

レセプシオンで預けておいたセルヴィエットを受け取り馬車でクレディ・リヨネ銀行まで行くと手形3000フランを20フラン金貨、2000フランを100フラン金貨に交換した。

「札で支払えれば軽くて良いがパリと違って金貨が喜ばれるのは土地柄かな」

其処からは河岸沿いを歩いてポン・デ・ラ・ギヨティエールでローヌ川をパール・デューに渡った。

店は開店を1時間後に控えて準備の掃除に余念がなかった。

買わなくとも先着の50人にウチワを配り、買ってくれた人にはセンスを100本まで出すと言うことにしてあるのでお針子の二人がウチワ配りの役目だそうだ。
陽が出てきてようやく雨も上がり石畳も乾きだしていた。

「此処で良かったわ。パンシオンの周りはまだ道が悪くて歩くのにも苦労するわよ。おつり銭用の細かい物も用意したし5フラン金貨で100枚10フラン金貨を30枚札と違って重くてまいるわね」

「パリと違って札より金貨だからね、それでコンフェクションはどのくらい用意できたの」

「飾ってあるのは50着、後100着は上に箱に入っているわ。明日にも200着がパリから届くわ。ただ紳士ものは30着しか用意していないのよ」

「其れはしょうがないさ。狙いはご婦人方だからね。新しいセンスとウチワが着たらまた配ってもいいな」

「でもキャミソール・デ・マリーならともかくスリップ・ド・クストゥにスリップ・デ・マリーではセンスを配っていたら儲けにならないわよ」

「二月は赤字で構わないよ。其の分はバスティアンのほうで埋めるつもりだからね。まずは顔つなぎさ」

「それなら良いけど」

「いまさら何をいい出すんだよ。儲けが出るのはどこか買えるか此処で拡張できてからの事さ」

「そんなに儲かると思うの」

「だって男物のスリップ・ド・クストゥだって同じような物さえはいている人は少ないんだぜ、口コミが広がればよそでまねされるまでは独占できるさ。ボルドーはコミッションで解決したけど、此処は幾らでも高級品を作って他の国へ出されてしまえばそれ以上は無理だよ。昔からの組合は口が堅いよ誰かが良くない事をしているとわかっても其れを密告したりしないさ。僕は其れよりも新しいデッサンを作り新しい柄を織り出してもらうほうが得だと思うのさ。それも君の役目さ、今までと違ってブランばかりじゃ飽きられるよ。其のためには店を任せられる人を養成してくださいね」

「もうショウは次々に未来の事を話すのね。夢に見そうだわ」

「そう其れさ。夢にまで見られるようになれば後は実現させるだけで良いのだからね」

「簡単に言うわね。儲けを全部つぎ込んで次のことをしても割に合うのかしら」

「此処は赤字にさえならなければ充分だけど、それでは君たちの手取りが増えないからね。投資金は僕がつぎ込むから心配しないで少し大げさかというくらいにしてかまわないよ。年内で5万フランくらいはつぎ込む用意が出来ているから其れは会計とは別にShiyoo Maedaからの投下資金さ」

「ああ、それであんなに高価なドレスまで作らせて宣伝効果を狙っているのね」

「そう僕たちの狙い目はブルジョワ、貴族階級ではなく街の庶民から抜け出てきた人たちさ。働けば余裕が出てきたと気持ちの余裕がある人が狙い目。だから本物とは違うがあのような金持ちとは違う自分たちのファッションが作られていると覚えてもらう事さ。其のうちアルフォンスのお針子でも引き抜こうと思っていたがナタリーが其の穴を埋めてくれそうだね」

2人は其の事も話し合った、それもナタリーが昨日書いたドレスなどのデッサンの下書きを見て絹布も20メートルでも余ると計算を出して有ったからだ。

「これだとアルフォンスと変わらないかもしれないね」

「そうこの娘の方がかわいさも優雅さも引き出せるようね。アルフォンスは実用的過ぎるのかも、サラ・ベルナールのように何を着せても引き立つ人ならともかく、私たちでは服に助けてもらう必要があるわ。ここに置いてあるものでもアルフォンスのものは胴がゆるいと思うのリボンで締めるというけどコルセットを必要とする人は居なくならないわ」

「其れは君たちに任せるよ。男の趣味を押し付けても仕方ないし此処は女性だけで運営させる心算(こころづもり)だからね」

正太郎は今朝、垣根越しに漏れ聞いた人たちの話をジャネットに話して良い織柄なら引き取っても良いだろうと話した。

「ジャポンの模様を織り込んであれば壁掛けでも売れるわよ。どの程度の物か見てみたいわね」

「明日まで僕は居るから何とか話をして見るよ。ソース・デュ・ソジャの壜は残っているかな」

「手付かずで3本あるわよ」

「では2本おくれよ。そいつをお土産にして訪ねて見るから」

店を開く前から噂を聞いた人が並んでいてオドレイはお針子の2人にウチワを持たせてから店を開けた。

「ボンジュール・マドモアゼル」

挨拶と共に入ってきた人に渡すと嬉しそうにくるくると廻しながら店の品物を見て廻った。

間口は6メートルだがドアを全開にしても3メートル余り、奥行きは8メートルだが事務室などの入り口が入って右にあるので其処までは陳列できないので表にいた6人が入ると正太郎の居る場所は事務室の中しかなかった。

花束を抱えたギヨー老人が現れ「私からお店へのプレゼントです」と急がしそうな様子を見てジャネットに渡すとすぐに店を後にした、正太郎が礼を言う間もないうちだ。

ジャネットは事務室にある花瓶にさっと投げ込むと飾り窓にあるマネキンの横に置いた。

最初に子供連れのマダムが親子おそろいの旅行服を買ってくれ「その下着は動きやすそうね」とジャネットに聞いた。

「二階がありますから試着してみませんか」

そう勧めて幾つかをもって上がるとカーテンを引いて親子を中へ誘いマネキンに着せてかけると「どうぞ直に肌に当てて下さって構いませんよ。試着したものは後で洗濯して孤児院等への寄付に当てますので販売に廻しませんから安心してください」と告げた。

「そんなことして商売になりますの」

子供に着せながらマダムが中から聞いた。

「ご心配にはあたりません。着てみて気に入られましたら其のままお買い上げいただきますので、パリでも店から選ばれたお方にはそうして居りますから。全ての方に肌に直接当てる事を許すわけでは御座いませんわ」

親子はカーテンを開けてどうかしらと下着姿をジャネットにみせてコルセットよりは楽だわと鏡に映る姿にも満足そうだ。

「奥様のお体はお子様が居られると思えないくらいすばらしい体形ですわ。あまりきついコルセットをなさらないほうが旦那様もお喜びになられますわ」

「そうなの、コルセットでしめた体はいやだと言うのよ。でもドレスをつけるときにどうしても必要なの。いいドレスに心当たりは無いかしら」

「まだ其処まで人が揃いませんが、すぐに奥様のご希望をかなえられるデッサンが出来る人をそろえますわ」

「其の時は真っ先にお願いするわ」

買い入れたばかりの旅行服を子供に着させるようにジャネットが勧めた。

「お母様これすごく動きやすいわ。このまま旅行へ行きたいくらいだわ」

「ではお家まで其れを着て帰りましょうか。私も着ていいかしら」

「どうぞお願いいたします。其れを着てお帰りになられれば下で考えておられる方への宣伝にもなりますわ」

着せてみると手直しが要らないほどぴったりだ。

「まぁ。奥様はパリのマダムと同じ体形ですわ。勿論向こうでもコルセットで締めないと此処までぴったりといたしませんよ」

ジャネットは商売も上手だ。

服と替えの下着なども買い入れて最初のお客は26フランを支払ってくれた。

親子はふたつのウチワを着替えた服と共に袋に入れ、貰ったばかりのセンスを広げながらジャネットに見送られて店を後にした。

「あのセンスは幾らなの」

「お客様、あれは今日から先着順にお買い物をしてくださればお土産に差し上げて居ります」

「いくら買えばいいの」

「品物がある間は1日お一人様が1品幾らのものでも差し上げて居ります」

「何度来てもいいの」

「其ればかりはご勘弁くださいませ。でも私たちのほうで気が付かなければ何度でも」

其れを聞いていた人たちは可笑しそうに笑いながらも品物を買い入れてくれ、もらったセンスを広げては喜んで店を後にした。

午前中にウチワがなくなりセンスも25本が出て行った。

「来た人の半分が買い物をしてくれたわ」

50人が来店してうちわがなくなったのだ。

「白地のフラールを出そう」

「いいのあれは高価よ。小さな物でも2フランよ。センスと変わらないわ」

「いいのさ。小さいほうを全部配る心算で出してください。確か1000枚はあるはずだよね」

「小さなほうは1100枚持ってきているわ」

「では其れを其のままむき出しでいいから配ろうよ。ほらお針子の2人が心配そうに見ているよ。表に入りきれない人が居るみたいだ」

すぐに100枚のフラールを出して二人に手渡すと表の人に「今中が混雑していますので少しお待ちくださいね。それとウチワのサービスは終わりましたが。これからはフラールをお配りしますのでお許しください」

「あら期待していたのにもう無いの」

「その代わりお買い物に付けるセンスはまだありますのでどうぞ中でお買い物をしてくださればまだお配りできますわよ」

やはり国は違ってもサービスという言葉には弱いのが奥様のようだ。

ナタリーが店にやってきて配り物をしていたアンヌ・マリーと替わって呉れた。

「良かったわ替わってくれて」事務室に来て冷たいレモネードを正太郎に貰うと言われないうちに「あの娘私と又従姉妹くらいかな。少しは親戚になるようなのよ」

「ほう、そうだったんだ」

正太郎は張られていた勤務表の名前を見るとアンヌ・マリー・リガールとしてあった。 

「あのこの名前は一度で覚えるのは大変よ。ソフィー・ナタリー・イルマシェ・リガールというの。普段はナタリーだけどイルマシェは母方のほうからのでどうしてもと全部つけちゃったの」

「そりゃ大変だ。君の名前はこれだけでいいの」

「そう、私のうちは親が面倒だからとそれだけで済ませたの。ジャポンではどうなの」

「長い人も居るけど普通は僕と同じような人ばかりだよ」

「ムッシュー・ショウはショウが家の名前なの」

「いやShiyoo Maedaのマエダのほうだよ。横浜ではヂアン・ショウとシーヌの人が言うのでいつの間にかショウだけのほうがとおりが良くなってそうなったのさ。其れだと何処の国の人でも呼びやすいそうだよ」

アンヌ・マリーは壜が空になると入り口のアン・マティルドと入れ替わった。
アン・マティルドも同じように冷えたレモネードをおいしそうに飲むとナタリーと替わるために入り口に向かって入ってくるお客を迎えた。

「ボンジュール・ムスィウ」

「ボンジュール・ナタリー。はじめましてだね」

立ち上がって氷で冷やされたレモネードを出して上げると驚いたように言い出した。

「ムッシューのお国はジャポンですよね」

「そうだよ。ジャポンのYokohamaだよ。名前はヂアン・ショウというシーヌ風のものとShiyoo Maedaという自分の物が有るけどね。だからショウだけで何処でも通じるんだよ」

「私のペールのところへ来たジャポンの人はずいぶん小さい人たちだったわ。ムッシューと違って肩幅も無いし。ムッシューはずいぶん背が高いですのね」

「そうかもね、Yokohamaに居た時からそういわれたよ。君のペールは何をする人なの」

「小さいけれどジャカールの機械で反物を織っているわ。主にドラ・デ・リ(drap de litシーツ)やリドー(Rideauカーテン)の生地が多いけど後はリンネルのクロスの注文がくるわ」

「そうなんだ。それで其の人たちは今でも君の家で働いているの」

「いいえ彼らはドレスの生地を織りたいそうよ。其れも高級なソエが希望なので自分たちで家を借りて勉強しているわ」

「今朝散歩をしたときにクロワ・モラン街のグルマンというパティスリーの近くでジャポンの言葉が聞こえたけど其の人たちかな」

「そう、其の人たちに間違いが無いわ。古いティサージュをバッタンと名づけて大事に扱っているわ」

「今日は店も忙しいからタイユの測定などしていられそうも無さそうだから其の人たちを紹介してくれるかな。自分たちで家も借りて勉強しているのでお金も大変なようなことを言っていたので一度会って、出来上がったものを売る気があるか聞いてみたいんだ」

「良いわ。食べる物やお金が大変だと聞いたけど糸を買って色つけも自分たちで勉強しているみたいなの。Tiyuusichiという人はジャカールの使い方を覚えるのと型抜きを覚えるので午後は私の家に来るはずよ」

「では君の家に先に連れて行ってくれるかな、エベルーで蒸気式と水力式の器械は見たけど君の家はどっちなの」

「家は蒸気式よ。今15台稼動しているわ」

「そりゃ凄いね。後小さな手織りのところも機会があったら教えてくれるかな」

「良いわ。コミッション無しで連れて行くわ。家にもまだ古い手織りの織機(おりき)が沢山残っているわよ。動かす気も無いようだけど」

「そういわずにコミッションはドレスの絹布生地でどうかな、どんどんデッサンしてうちのオドレイにシルヴィの2人が縫い上げるのはどう。其処から気に入った生地を使って自分用も作って良いよ。勿論お針子代も此方で持つしデッサン代は別に弾むよ」

そばで聞いていたマダム・デュポンが「いい話じゃないの、頂ける物は頂きなさいよ」と口を添えてくれた。

「あなたのデッサンとても素敵よ。私とオドレイであなたが気に入るように縫い上げるわ」

「そうね私も自分のデッサンの服が出来上がるのを見たいし、お金になるならお願いしますわ」

「其れで決まりだな。じゃ僕たちはどこかで何か食べて君の家に行こうか。此処はどうするの」

「私たちは、出前が来るわ。ショウが居るから増やそうかと考えていたのよ」

ジャネットがドアに寄りかかりながらそう言って二人を追い出した。

「何がいいかな」

「さっき話が出たグルマンのオレンジピールで作ったオランジェットでカフェ・クレームなどいかが」

女の子だなと思ったが「それに何かつかなくて大丈夫なの」と聞いて上げた。

「それならクサン・ド・リヨンも頂きたいわ」

「そうそう、遠慮しても損するだけだよ。僕のパリにいる彼女も友達にいつもどうしてそれだけでいいのなんていわれているけど、付き合う人も同じにする必要は無いといつも言うのさ。僕も昔より食べられるようになったけれど、どうしても人並みには入らないのさ」

「まぁ可笑しいわ、うちに来ていた人たちは小さいのに沢山食べるわよ。時々遊びに来るとメールが驚くくらい3人とも食べるのでジャポンの人は皆そうかと思っていたわ」

確りした足取りで歩くナタリーに合わせて歩くと30分もしないでグルマンについた。

1時間ほど話をして時間を見ると12時半「家ももう食事が終わった頃だわ。きっとTiyuusichiも来て食べているわよ」

店から50メートルほど西へ歩くとナタリーが言うには其処からが敷地だそうで、建物脇には日なたで談笑する男女の姿が見えた。

路地を挟んで手前が事務所と倉庫に家族の住まい、其の先が工場だった。

「今16人働いているわ。器械を動かす人以外はお給金が安いの、それでも今は売値がどんどん値が下がるとペールはこぼしているわ。売り渡し先を替えるのも上手く行かないようなのよ」

「確か15台あると聞いたけどそれでも経営は厳しいの」

「50台くらい動かして自分で売り渡し先まで持てるところは価格でいじめられないけど家くらいの規模が一番難しいそうよ。手織りでも高く売れる技術があればともかく今は美的感覚など無い人でも器械に従っていれば出来上がるのですもの」

「輸出組合はあまり上手く機能していないの」

「組合も今は買い手に良い様に操られているわ。余分に織って其の分でも買い手があればいいのですけどね」

「買い手さえあれば良い模様の生地が織れるかな」

「其れは大丈夫よメールはファブリケーション・デ・カルトの名人よ。どんな模様もcarte perforeeに打ち抜けるわ」

「そりゃいいな。実はフラールの模様に花柄を入れたいんだがどうかな。ジャポンに輸出したいけど1000枚は欲しいけど幾らぐらい掛かるかな」

「兄に頼んで計算を出してみるわ。今日いただいたものくらいでいいの」

「いやもっと大き目のものが欲しいのさ。絹布で1メートル角位がいいな」

「それで花柄の位置はどうするの」

「三角に折ったときに隠れないように隅に二ヶ所」

「デッサンをして計算をして見るわ」

「頼むよ」

2人は工場へ入り父親のジャン・ジャック・リガールと母親のリリ・マリレーヌに紹介された。

「丁度良いTiyuusichiが来ているが中々通じない事があるんだ。聞いてあげてくれないか」

呼ばれてきた男は三十過ぎの理知的な人だった。

「僕はYokohamaから来た前田正太郎といいます。横浜では清国の人が呼び名をヂアン・ショウと付けてくれたのでパリではショウと皆が呼んでくれています」

「あては忠七おす。京の都から此方へ派遣されどしたが、言葉が思うように通じきぃひん。機械について教えてくださると助かるおす」

「器械は良く判りませんが、忠七さんが知りたい事を書き出してくだされば、僕が聞いて判りやすくお話いたします。今日はとりあえず疑問に思うことを聞いてみてください」

「あては器械の組み立てと取り扱い其れと修理が課題おすが、此処にある蒸気式では常七さんは京の西陣では扱えあらへんから、昔の手織り機を覚えろと言うのおす。しかしこれからのことを考えると蒸気式の器械も知りたいのおす」

仲間内で日本を発つ時と意見の相違がでて悩んでいるようだ。

「判りましたではまず昔の手織り機の取り扱いは出来るのですね」

「其れは常七さんがバッタンで織り込むことは何とかでけるようになるどすが、紋彫機が操作できずに困っているどす」

「其れは機械に入れるカルトのことですか」

「かるとおすか」

正太郎はジャカードのそばへ行き「此処へ入れる厚紙もしくは木版です」と教えた。

carte perforeeよ」

「カルト・ペルフォレーでいいかなイギリスだとパンチカードというんだけど」

「其れで通じるわパンチカードでも判るはずよ。ねペール」

「ああ、そうだ」

どうやら納得したようで「カルトで大丈夫どすかえ」と聞いた。

「其れで通じるよ。この機械の扱い方が判らなかったのかな」

正太郎がゆっくりと同じ事を発音してから日本語に直して聞くとそうだというので穴の開け方と其の模様が何を表すかを箇条書きにして渡した。

「後は自分で開けた穴が模様を出すかどうかを勉強するしかないよ」

M.リガールが言う事を判らない事を聞きながら器械の周りを廻った、休み時間が終わり器械の騒音が激しくなり「また明日の朝に来るから其の時に」と言ってナタリーと3人で外に出て今朝通りすがりに此処へ来た話をすると恥ずかしそうに小さな声で話し出した。

器械を買って帰る為には1万フランは残しておきたいがそれでも足りなくなりそうな上に糸代が嵩んでいると言うことのようだ。

「ナタリー君のところで遊んでいるという昔の手織り機を安くこの人たちに別ける事はできる」

「出来ると思うわ。確かティサージュが30台はあるはずだから半分売っても困る事は無いはずよ。扱える職人を雇うのは大変だもの」

「では必要なのは穴あけの器械とジャカールの読み取り機だな。其れの値段を調べてくれるかな。この人たちが持っているのはどのくらいで買い入れたのかな」

忠七に聞くと全ての器具一式を月200フランで借りているという話だ、住居と工場で200フラン、食費に100フランで合計500フランが出てゆくほかに染料と撚糸に金が掛かるという話だった。

「自分たちの給与として計算された金を足してもこれ以上は無理が出てきたのです。今朝の魚も朝早く市場で安く手に入れましたが塩しか無い上に米もありません」

「米は日本と違いぱさぱさだけど炒めれば食べられるし、おかゆにすれば大丈夫ですよ。其れでお土産の醤油を持参しましたので置いていきますよ」

日本から波佐見の磁器に入れられた溜まり醤油を二つ忠七に渡すと大喜びで家に入り土間で仕事をして居る2人に「日本の人からの土産の醤油だ」と嬉しそうに醤油の入れられた壷を振って見せた。
ちゃぽ、ちゃぽという音は3人に喜びの音に聞こえたようだ。

練習中だという織られた布を見せてもらい糸の数を中々増やせないという話から正太郎が買い入れても良いからカルトを借りて生産して見ないかと持ちかけた。

「売り物になるでしょうか」

「今此処で日本式の柄を織るよりもリヨンで扱う柄で織ればパリやアンベルスの街で売れるはずですよ。ただね」
3人のごくっと言う喉鳴りが聞こえたと正太郎は思った。

「値段が安いのは我慢してもらわないといけませんが、僕の店で織られた物は全て買い入れますよ」

「本当ですか。京のほうへ此処で練習したと送らないといけないのですが」

「其れは月に一度くらいで済むのでしょ」

「そうです120メートルほどは来月にも送っておかないと既に半年たちますので」

「待ってくださいよ。もう半年も此処にいるのですか」

「いや国を出たのは明治5年の10月でした。グレゴリオ暦の12月1日に神戸を出ましたが今は5月だそうで、マルセイユについたときは1月の28日でした」

「日本でもグレゴリオ暦に変わったことは聞かれませんでしたか。明治5年の12月3日を6年の1月1日になったのですよ。ですから今は日本も暦が同じです」

そうかそれで手紙の日付が可笑しいのかと納得したようだ。

発音があやふやでも出来るだけフランス語で話をして通じない時はイギリスの言葉、日本の言葉を交えてでも話すことですというと正太郎の倍の年の3人はうむうむと肯いてナタリーにこれからもよろしくと頼み込んだ。

器械の絵をナタリーが描きこむ傍で正太郎がカナで名前を書き込んでおいた。
ファブリケーション・デ・カルトが穴を開ける操作でカルト・ペルフォレーもしくはパンチカードがジャカールへ差し込む厚紙である事。
バッタンと言っているのはティサージュだと言うことなどを書き加えた。

問題は糸の色だが其れは見本をペールに聞いて紙に張っておくと言ってくれた。

「今日はM.ジルベールは来ないの」

「払う金が無いので先日断った」

「それでは糸の取り付けにも困るでしょ」

ナタリーが言っていると「ボンジュール・マドモアゼル」と後ろから声が掛かり60近いかと思われる老人が入ってきた。

「この人たちも困るだろうから様子を見に来たんだがそんなに困っているならわしの給金は半分でも良いよ」

「まぁ、何を言うの、ジャンそれではあなたが困るでしょ」

「なにわしは食べられればそれでいいのでな」

話を聞くと週5日、1日3時間で15フランだそうだ、1時間1フランはいい値段だが食べてゆくには老人といえど週15フランでは大変だろう。

「同でしょう私が先生の給与を25週間分出すと言うことにして品物の先払いに当てませんか。お金の管理を誰かしていただけるならすぐにでも支払えますが」

老人も全て先払いだと無駄に使うというのでナタリーが預かると助かると3人が頼んで375フランを預かってもらった。

「皆さんのお金はクレディ・リヨネ銀行ですか」

「そうです神戸からクレディ・リヨネ銀行の本店に3万フラン振り込んでもらいましたが掛かりが多い上に帰りに器械と3人の船代に12000フランは無いと困ります」

「そうですね1等の船代が2300フラン、3等でも1700フランは掛かりますから3人が3等で帰国するにしても5100フランは掛かりますね。荷が多ければ保険代も含めると4000フランは見ないと送れないでしょう」

残りが2万5千フランをきってしまったと言うことはあと半年の滞在に3000フランと見て器械の買い受けに11000フランがやっとと言うことになるようだ。

それでは糸を買うにも苦労すると言うのは本当の様だと計算をした正太郎は糸代金も先払いすることにした。

M.ジルベールこの人たちにソエでフラールを織る練習もさせたいのですが、良い柄のカルト・ペルフォレー(carte perforee)を借り入れるのに幾ら月に払うようでしょうか」

「キャトルサン・トラントドウにシスサン・キャラントユィットにするかね、そうさなわしの顔で1枚1月50フランなら。でも新しい柄は高いぞ」

3人はお手上げだという顔をした。

「いつもこの話で判らなくなります」

正太郎はナタリーに確かめて図面を描くとジャカードに付けられたカルトを指差して「この全てに穴があくと言うことはありませんが此処は穴を開けられる場所と言う事だそうです

2725484322725412648の計算だそうだ。
3人も数の数え方で苦労したようだが洋数字に書き表せば簡単に通じるのだ。

正太郎は老人に図柄と口数に色は任せようと思った。

「いえ昔の柄のほうがいいのです3種類を2ヶ月借り出してくれますか」

「なら勉強にもなるし少し難しいものを借り出してあげるよ。糸はどうするね」

「其れも色別に手配できますか。染色も此処で学べるかどこか紹介してあげてください」

「良いとも、わしの友人を色染めが必要な時は連れてくる。ナタリーが付いて来れば糸屋も値段で無茶を言わないだろう。なんせこの娘の爺さんだからな」

金額はどの位必要か聞くと「1500フラン出せば十分じゃ。追加を買うにもそれだけ使い切るには2ヶ月は掛かるわい」と答えが返ってきた。

「それでどのくらいのものが織れるのですか。幅を80センチ以上欲しいのですが、タフタクロスにファイユが希望です。フラールにしたいのでね」

絹布とリンネルでそれぞれ3000メートルと返事が返ってきた。

「では其処からジャポンへもいいものが出来れば120メートルずつは送れますね。それでこの器械ですが一式買い入れるのに幾らくらいでしょうか」

「ティサージュは幾らでも木製の中古が街にあるから100フランもいらないだろう。ジャカールルームは手放さんだろうから買い入れるに400フランから600フラン、カルト・ペルフォレーの打ち出しなどの器械に200フラン。ざっと700から900フランかな」

「ではいま借りている機械を買い上げましょう。帰国までの借り代で買い取れるでしょう」

「其れは良いことだそうすればこいつを持ち帰られるというものだ」

三人と相談するとcarte perforeeは3台分、Tissageを全て中古にして20台にしてJacquard loomが20台、それでも10600フランは必要になると言うのは計算が上手く行き過ぎていっぱいいっぱいで余裕が無さ過ぎるという話になった。

「仕方無いさかい六四八というほうは諦めまひょ、ちっこい四三二のほうにするしか無いだっしやろ」

「其れでは後でおぅじょうするどす、半分ずつはともかく5台は買い入れまひょ」

まぁ其れはおいおい相談と3人は決めた。

正太郎はまず電信で追加資金の話を打診して手紙で計算書と何を買い入れるか報告されたら如何ですかと相談するように話した。

「電信では簡略に追加資金を出していただきたいと言うことと計算書を送ることと試作品を自分たちで織り上げそれも送ることを書いて打てば手紙が着く二月後には向こうでもどうするか決まっていて製品しだいで追加資金が出るでしょう」

「そうか府庁の勧業資金も豊かでひんので無理かもしれあらへんがでけることはしておこうかいな。ほんで蒸気式と水力式の価格は調べてあるのかいや」

「はい常七さん調べておます」

「その計算書を報告書と共に送るから清書して置いておくれやすよ」

ファイユ(faille)はたての糸を密にして丈夫にした横うねのある絹織物で、タフタ(Taffeta)が絹や他の繊維で編んだ薄い平織物に綾織の薄地絹織物のことと3人にナタリーの助けを借りて説明した。

タフタクロスにファイユに必要な糸を早速5人連れ立って買い入れに出向いた。

家を出ると自宅へ入りナタリーは母親に祖父のところで買い物があるが伝言はあるかと聞いた。

「何も無いよ皆元気だと伝えてよ。馬で行くかい」

「荷馬車をジャンに引かせてジャポンの3人を乗せていくわ。私はジュディにするわね」

ナタリーが荷馬車を引き出して2頭の馬をつけ、正太郎に馬に乗れますかと聞いてきた。

「乗れるけど荷馬車は上手く扱えないよ。ロバに引かせたことは有るけど」

「大丈夫よ荷馬車はジャンが扱うわ。じゃあなたはこの馬に乗ってね。私はこっちにするから」
ジャンは先に3人を乗せて出るというのでセルヴィエットを忠七に持ってもらった。

マダム・アッシュ・アンジェルのテルメ街23番地の先に其の店があった。
糸屋のソエ・イルマシェといわれている店だ。

ナタリーとジャンがM.イルマシェと話し合って様々な糸に染料を買い入れた。
計算書は1036フランだった。

「もう少し買い入れておいたほうが良いよ。僕はいつもリヨンに居る訳じゃないからね」

ではとばかりにリンネルの糸に太い糸を選んでこれもいいかなと正太郎に聞いた。

「僕は糸がわからないけど常七さんと伊兵衛さんが試してみたい物は買い入れて良いですよ」

3人は相談していたが目串を付けていたらしい糸の束を出してもらった。
それらは620フランだというのであわせて1656フランを金貨で支払った。

計算書は3人に渡して先払い金の額を2031フランと言うことを確認してもらうと金貨で80フランを「これは当座の食費に当ててくださいね」と渡しカルトの買い取り代金の1000フランも渡した、合計3111フランの先払い金の書類を2通書いてサインしてもらい双方が持つ事にした。

「明日の朝僕達の店で今までのもので売り払っても良いという品物に値段をつけて持参してください、その際双方が持つノートを用意してこの金額に達するまで織った品物を引き取らせていただきます」

ジャン老人は「メートル当たり平均40サンチームくらいでできるかな」とつぶやいた。

「そうですねベキュ&ブランディーヌは6000メートルで3700フランでしたからいいところでしょう」

ノートを見て「一昨日もティスュ・ド・ソエは600メートルで370フランですね。62サンチームくらいですかね」と老人に話した。
糸屋にナタリーとジャンが話あっていたがリンネルは40サンチーム、ソエは55サンチームでどうかと3人の日本人に申し出てくれた。

「そあらへんにいただけるのおすか、あてたちのはまだ試作品でそれほどええ物ではおまへんよ」

正太郎に口々にいう3人は信義に厚そうに思えた。

「まぁまぁ、これではまずいと思うならいい品物を織り上げる努力をしてください。忠七さんはM.リガールの工場で器械の分解と組み立てを今から確りと覚えてください日本に送るにしてもそのままではかさ張って運送費が高くなりますからね。何がいくつあるかを確認しながら書面を作れば日本に戻って誰でもが組み立てに困りませんからね。2台くらいはかさ張っても其のままつめば船の中で組み立て分解の練習が出来ますよ。そのためにも1等船室で帰れるようにおかねの算段をしてくださいね」

3人を馬車で先に帰らせると正太郎は背中にセルヴィエットをくくりつけてナタリーとマダム・シャレットの店へ向かった。

店ではようやく6時半を過ぎて人の足が途絶えたとそろそろ計算をして店を閉めることにすると在庫確認をしていた。
センスは63本がでてウチワが50本にフラールが136枚、来客が186名で買い物をした人が63人であった。

「凄いね新聞に載ったと言ってもこんなに小さい記事でよく人が来たね」

「そう此処にジャポンのお土産をマダム・シャレットからプレゼントしますと書かれているだけですものね」

「それだけでも25フランも取るのよ。呆れたわね。明日もセンスを配っていいんでしょ」

「勿論さなくなるまで配って良いよ。其れでお針子の娘達にはあげてあるの」

「そうよパリから一番いい物を10本持ってきたでしょあれを新聞社に3本とナタリーたちに3本後4本あるわよ」
オドレイとシルヴィが計算を集計して在庫表とつき合わせてジャネットに出した。

「お金と有っていました」

「あら凄いわね、あれだけ小物を売ったのに盗まれた品物も無いなんて此処の街の人は正直ね。パリだとこうは行かないわ」

3人で笑い出したのを見てナタリーは自慢そうに「リヨンは街自体が素朴なのですわ」と誘われるように笑い出した。
初日の売り上げは416フラン80サンチーム、ジャネットの予測を100フラン以上も上回っていた。

小さな店でこれだけ売れるとは正太郎も予測していなかったがアルフォンスの服にパリで仕入れた服は若い婦人には魅力なのだろうと思った。

「これだとブティック・クストゥの時よりいいみたいだね」

「リヨンではそうは行かないかもね。向こうと違って後がどの程度になるか予測もつかないわ。ショウは明日パリへ戻ると今度は何時来るの。4日とは聞いたけど其の前に来る予定は無いの。エメを連れてくればいいのに」

「学校しだいだよ。マルセイユまで行く日程が取れればいいけど」
正太郎もエメとマルセイユまで出迎えに行こうかと考え始めていた。

馬をリガールの工場で返してナタリーと別れ、歩いてポン・モランを渡った。
まだ陽がクロワ・ルースの丘の上で踏ん張りローヌの流れにはムエットが漂っていた。

「ムエットか、あれは都鳥という奴かな」

此処リヨンへ来て何度も見たはずなのに正太郎は其処に立ち止まって川を上ってくる蒸気船を眺めながら頬杖を欄干についていた。
オペラ座ではミニヨンの開演を待つ人が並んでいたし、バルトルディの泉には若い恋人たちが何組も見られた。

「ホテルへ戻るかどこかで飯にしようか」
1人でリヨンの街をうろつくのは朝だけにしないと寂しいもんだなと思いながらカフェを見つけて中へ入った。


Lyon1873年5月23日 Friday

朝何時ものように散歩にでた正太郎はポン・ボナパルトを一度渡ったが、フルヴィエールの丘を振り返ると朝日の当たる聖堂を見て気が変わって後戻りをした。

今朝も昨日と同じようにムエットが集まっていた。

大きなほうのローマ劇場まで上がるとソーヌ川とローヌ川にはさまれたプレスキルの町並みを忙しげに馬車や荷を満載にした荷車が行き来する様子が見えた。

パール・デューとその先に発展を続けるヴィユルバンヌには大きな工場がもう蒸気機関を動かしだしたのか煙突から煙を吐き出していた。

目を動かすと川の合流点には蒸気船が10隻ほど川下に向け連なるように下って行く様子が見えた。

「ボンジュール・ムスィウ」

上から声がして見上げると馬に乗ったアラン・ド・サン=テグジュペリの若々しい顔があった。

「ボンジュール・アラン。ずいぶん早いですね、もう仕事ですか」

「ムッシューこそ」

「僕は朝の散歩ですよ」

「僕はあそこが住まいのような物だよ、毎日あそこへ行くのが楽しみでル・リに縛り付けられいてるのは我慢できないのさ。それでこの間のマダム・ロジーヌはご一緒じゃないのかい」

「彼女は次の舞台の稽古で忙しい頃ですよ。僕は共同で開いた店のためにまた出てきたんですよ」

「何の店だい」

バイシクレッテの店とブティックだと答えてアランと共に一番上の建設現場へ向かった。

「ムッシューは此処で商売をするためにこの間も来ていたのかい」

「そうです。この間は家を借りるために働く人たちと来ていました。此処から見ると街はまだまだ川の向こうに発展しそうですね」

「其れもそうだが、今はマルセイユに追い抜かれそうになっているよ。織物だけではこれ以上の発展は期待できないよ。何か街が豊かになる仕事でもあればいいがね」

アランはこの街を愛していると言ってせめてヴュー・リヨンだけでも変わらないで欲しいが発展してほしいと言うのも本心だと正太郎に言った。

「バラ園を幾つか廻りましたがパリに負けないいい園芸場が多いですね」

そうだろう此処には織物も園芸もパリに負けない芸術性を秘めた人たちが大勢居るんだと自慢した。

仕事に付く人が集まりだしたので正太郎は来月に入ったらまた出てきますよと告げて丘を降ってホテルへ戻った。

レセプシオンで会計を済ませて7月4日と5日の予約をし、荷物をポルトゥールに馬車に運ばせるとマダム・シャレットの店へ向かった。

荷物を其処へ置くと待たせた馬車でクールモランへ出て留学生の家を訪れた。

忠七とリガールの工場へ向かいJacquard loom machine du tissagecarte perforee等のマシーヌの説明を改めてしてもらった。

「アッそうだったんおすか、やはり基本を覚えておかあらへんとあかへんねんな」

午前中は其の説明についやし、11時にジャン老人が出てくると常七と伊兵衛が選び出した反物をリガールの工場から荷馬車を借りてマダム・シャレットまで運び込んだ。

「お任せいたしますので明日まいりますから値踏みをお願いいたします」と4人は自分たちの仕事に戻った。

リンネルの生地は白地のものが40メートル、青色の地に赤い花が浮かびだしている物、白い地に赤い花と黄色の花、青の花とが交互に散らされたものなどがそれぞれ40メートルあった。

「織りむらは有るけどまずまずね。チェックが織れるならこの程度ならカバーとして仕えるわね」

「ではメートルあたりリンネルは40サンチームで計算してください。このノートに受け取った生地の計算を書き入れて置いてください。もうひとつは向こうに渡して同じ物を書き写させてください。其の後交互に日付とサインをするようにね」

「では何時ものように紙に書いたものをはさんでおいて後で双方が立会で書き入れますか」

「そうしてくださいね。僕は夜の21時発のパリ行きに乗るけど荷物は夜の7時に取りに来るよ」

「どこか出かけますの」

「バスティアンの店によってそれからM.ランボーのバラ園に顔を出してくるのさ」

正太郎はサックを肩から下げると店を後にしてバスティアンの店へ向かった。

「僕が出る必要がある話は無いようだね。次は来月の4日に来るよ」

エメも連れてくるかも知れないよと言い残して馬車を捕まえてバラ園に向かった。

M.ランボーがクロワ・ルースの大通りにいるかと顔を出すとやはり其処にいて一緒にバラ園まで行くと言うので馬車を返し、其処からM.ランボーの荷馬車で高台に上ってロージー街へ向かった。

ヴァルダン通りの二人のことを話し、薔薇の手入れをドナルド爺さんという人としてくれることエコール・エレメンタールのことなどを伝えた。

「そうですか。学校へやってくれますか、ねぇ、ムッシューわっしはしがない園芸農家だが力になれることは遠慮しないで言ってくださいよ」

「其れに甘えるようですが今日はあなたの薔薇を100本苗木で譲っていただくつもりで来ました」

「そのくらい金なぞ要りませんよ、どうぞ好きな物を持っていってください」

「いやそういうわけには行かないけど。甘えると言うのは別の話さ」

「なんです」

「僕の国、ジャポンのYokohamaへ苗木を送りたいのであなたに集めて欲しいのだけど他の園芸家の苗木も集められますか」

「出来ない事はありませんよ」

「実はM.ギヨーの農園とも取引があるんだけど、其れと別にあなたに10種の苗木200本ずつ合計2000本を送り出して欲しいんだ。買えないところは個別に手を廻してもいいけど」

「今回限りですか、それとも何回か継続できますか」

「3ヶ月に1度これから2年間で8回の輸出をしたいと考えているんだがどうだろうか」

「何度か継続できるならいやという奴なぞ居ませんよ。あなたの名を出して集めても構わないんですか」

「勿論僕の代理と言うことで集めてくれて良いです。昨日僕個人用に買い入れた価格はアルバ・ロセアにラ・フランスとマリー・ヴァン・ウットをそれぞれ100本500フランでした」

「まぁ妥当だな、多く買い入れたというので少し値引きしたようだが、特別安いと言うことでは無いね。其の値段でわしが君に請求して構わんのかね」

「勿論其れで良いですとも。僕としても彼方此方買い集めて保管するよりも助かりますので」

「其れで支払いはどうするね」

「あなたと輸出契約を結べば最初の分と2回目の半金を今日お支払いいたします。それから最初の分が送り出されたら保険代と船代に次の半金と其の次の分の半金を予約金として入れて後は同じように順送りしていきます。8回目以降も行う時は同じようなやり方で行い苗木の値段の上下は其のつど清算いたします」

「ほう値上げ分が請求出来ると言うことかな」

「ただし8回が終わる前にそういうことがあれば解約もできると言うことを明記させてくださればですが」

「良いだろう公証人に行って書類を作らせよう。8回までは同じ値段でわしが保障しよう」

「其れは嬉しいですね。ではクレディ・リヨネ銀行で現金にしますが、銀行の手形でよければ今此処でお渡しできます」

「何かね15000フランも持って歩いていたのかね」

正太郎は笑って「其れより今日の分500フランをお渡ししますのでエドモンのところへ発送してください」と100フラン金貨5枚を差し出した。

其れを受け取り「苗木は明日にでも送ろう。それで公証人のところへ今日行くかね」と荷馬車のほうへ歩き出した。

「良いですよ」

「では行くか」

クロワ・ルースの自分の出店の向かいに有る公証人の事務所で書類を作成し、サインを済ませるとクレディ・リヨネ銀行の手形1万フランと5千フランのものを出して渡した。

「こんなにもって歩いているなんて何か用でも他に有ったのかね」

「今度店を出しましたが其の店を広げる時のために何時でも土地を買えるように用意して来ただけでたまたまですよ」
正太郎はいつも持ち歩いているわけでは無いと説明した。

M.ランボーは店番の者に早く片付けて良いと告げると正太郎とクレディ・リヨネ銀行へ辻馬車で向かい自分の口座に振り込んだ。

戻っていくM.ランボーと別れ正太郎はマダム・シャレットまで馬車で戻ると荷物を整理して駅で預けてから町へ出た。
列車の到着まで後1時間ほど何処かで軽い食事にするかと駅の前を見回すと急にお腹がすいてきた。

「そうか食事を忘れていたんだ、昼抜きだったものな」

広場の手前にあるブラッスリー・ジョルジュという店でビールと揚げジャガイモに揚げソーセージを頼んだ。
陽が落ちて街にガス灯が輝きを増す頃には大勢の人が入って来て手回しのオルガンの演奏で活気付いていた。

列車で食べようとタルトをふた切れにエビアンの壜それを含めて2フラン80サンチーム、このところ金がずいぶん出たからこの位が手ごろだと手帳に書きながら笑い出した。
到着予定の5分前にポルトゥールに荷を運ばせて50サンチーム、パリ到着は朝の4時15分。

「パリではすぐに陽が登るな、メゾンデマダムDDではクストーさんが起きる頃に着くようだな」

手帳を見て最後の50サンチーム、ポルトゥールと書き入れていると列車が入ってきた。


Lyon1873年6月4日 Wednesday

エメは2週間の休みを取る事に成り正太郎と共にリヨンの街に降り立った。

最も其のうちの5日は学校のほうが休校になるので実際は5日間だけ休めば良かったので大きな影響は無いと判断したようだ。

ホテルに荷を置くとマダム・シャレットまで馬車で出た。

ナタリーがその日も授業の帰りに来ていてドレスのデッサンと仮縫いを手伝い、既に3人の服は出来上がったも同然だった。

ジャネットは新しく入った2人にも店からプレゼントという名目で作ってあげる事にしたと気前の良いところをみせ、彼女たちから信頼される店主としての威厳を見せだしていた。

バスティアンには明日もう一度来るとだけ伝えるとギヨーの薔薇園へ向かった。

百合は相変わらず道行く人に良い匂いを漂わせていてエメは馬車を降りたときから「この農園好きになれそうだわ」といって迎えに出た老人を喜ばせた。

「明日の特急を予約しましたので其れでマルセイユへ向かいます。向こうではグランドホテル・マルセイユに予約を入れてありますので4泊してリヨンに戻ります」

「其れでリヨンでのホテルの予約はしたのかね」

「いえまだです。ホテルをたつ前に予約をしようと思います」

「それならわしに任せなさいリヨンのグランド・ホテルを予約してあげるよ。女性たちは其処にしなさい。君は定宿があるなら其処にして女性たちは楽にしてあげるほうが良いよ。観光案内はわしが引き受ける。夜の食事だけ連絡をつけて一緒にしようじゃないか」

「有難う御座います。エメどうする」

「お受けしましょうよ。ムッシューよろしくお願いいたします」

「うむ、話が早くていい娘じゃな。7人で予約をしておこう。わしのほうからマルセイユへ6日の朝の一番で人をやるが到着は9時ころだろう。船の時間は何時だといっていたかな」

「7日の午後1時接岸になるとパリのフランス郵船の事務所で聞きました」

「ではフランス郵船の事務所には君のほうからも連絡してくれたのかね」

「はい荷を渡す時に立ち会えば構わないといわれました」

「で客人はマルセイユの何処に泊まるのだったかな」

「私たちも含めてグランドホテル・マルセイユに予約が入れてあります」

「おお、そうだったいいホテルだね。では其処へ6日のうちに連絡を入れるよ。マルセイユは4泊の予定でリヨンへは9日のうちに到着かな」

「9日の午後3時発に乗りますので午後の8時50分到着です」

そうかではホテルに着いたら夕食はわしが招待するからお腹がすいても我慢してくれと笑いながら送り出してくれた、ギヨー老人に礼を言って二人はクロワ・ルースまでいくと其処で馬車を返した。

ベキュ&ブランディーヌは店を見ただけでM.ランボーがいるか市場を歩いた。
今日は店を出していないか早々と店を仕舞ったようだ。

2人でトラブールを抜けて下へ降りてソエ・イルマシェの有る通りへでた。

「まぁ綺麗ね。これが織る前の糸なのね」

挨拶をして店へ入ると染色された生糸が様々な輝きを見せていた。

礼を言って店を出るとマダム・アッシュ・アンジェルの店へ入った。

「ムッシュー如何ですかこの間の生地はドレスに仕立てられましたか」

「今何人かのデッサンとタイユを計っていますから今月中には良い物が出来る予定です。この間一緒に来たマダム・ロジーヌはデッサンも気にいられて出来上がる日を心待ちにしています。此方はマドモアゼル・ブリュンティエールで僕のラマンです。新しい色を幾つか買いたくて連れてきました」

オランジュ・ルーシー orange roussi)、シクラメン( cyclamen)、ニゼル( nigelle)の3色を選んでそれぞれを80メートルずつ買い入れた。

「この前と同じパリの住所へ送ってください」

「判りました。明日一番に発送いたしますね」

マダムはエメのために端切れを袋に入れてこれも一緒に送りますから気に入った色がありましたらご連絡してくださいねと頼んだ。
店を後にしてバルトルディの泉へ出て「どこかで食事にする、それとも一度ホテルへ戻るかい」

「まだ早いからホテルで時間をつぶしてから出直しましょうよ。レストランよりブラッスリーが良いわ。ホテルは近いのかしら」

「歩いて10分も掛からないよ」

手をつないでポン・デ・ラ・フェイェを渡ってボンディ河岸のル・フェニックス・ホテルへ戻ったのは陽が丘の向こうへ落ちて行く8時過ぎだった。

9時過ぎにホテルを出てグランド・ホテルの近くに有るグランド・カフェ・ダス・ネゴシアンへエメを連れて行った。
名前と違い小さな店でタルティーヌとリヨンサラダにポタージュ・ボンヌ・ファムを頼んだ。

翌朝もリヨンは晴れ、馬車を頼んでギヨーのバラ園へ向かった。
昨日と違って老人は少し困った顔つきで苦虫を噛み潰したような雰囲気があったが其れでも2人に事務室でカフェを入れてくれた。

「今日はご相談があってきました」

「なんだね」

「実は百合の整理が済んでからと思いましたがジャポン向けに薔薇の苗を輸出される気はありませんか。もしどこかを経由して出されているなら諦めますが」

「いや今のところ特にその様な契約は無いよ。しかし君M.ランボーと輸出契約を結んだそうじゃないか」

「はいそうです」

「其れなのに同じリヨンのわしと契約したいというのはなぜだね」

M.ランボーは私と此方のマドモアゼル・ブリュンティエールのところでお預かりしたエドモンとマルティーヌというプランティエ家の2人の子供のためです。あの人と関係の深い2人のヴィエンヌへ行っている園芸家が戻られた時にお付き合いをしていただくためにも必要でした」

老人の顔が普段のにこやかな顔に戻り、入ってきた娘のシュワルツ夫人と何かを打ち合わせていたが「すぐ戻るよカフェのをお替りをどうかね」と言って温室の有るほうへ歩いていった。

M.シュワルツと談笑しながら戻り「何を輸出すれば良いのかね」と楽しげに聞いてきた。

「あなた方が選ばれた品種であればどれでも構いませんが、色をブランからルージュまで10種類ほど選んでいただきたいのです。1回に合計で2000本の苗木、年2回3年間の契約をしたいと考えて居ます」

2人はシュワルツ夫人を誘って相談していたが「ショウ、アンドレのものを入れて10種類にしていいのかな」

「勿論です、ラ・フランスという黄色い花は色変わりが楽しめそうでジャポンで人気が出ると思います」

「なんだと、ショウ其れをどこで聞いた」

「え、違うのですか。横浜を出る時に僕の会社の会長と、植木場の責任者の方がリヨンで黄色い薔薇を見つけたら必ず送るようにいいつかりましたし。色変わりの赤い物があればそれも探すようにいいつかりました」

「まさか。まだエドモンも知らん事だぞ。わしとジョセフが今年初めてあの品種から赤い花を咲かせることに成功したばかりだ。其れも昨日まで薄いピンクだった、今温室で赤くなったのを確認したばかりだ」

ルージュの花はラ・フランスにはまだ無かった様だ。

正太郎はやはり旦那は千里眼なのだ、今の僕が何をしているかもきっと承知しているんだと改めてだんなの凄さを感じていた。
ギヨーバラ園との契約も済み1万フランの前渡し金としてクレディ・リヨネ銀行の手形を渡して出荷時期はギョー老人に任せることにした。

バラ園を後にしてマダム・シャレットの店とバスティアンの店に顔を出してからホテルに戻ると仕度を済ませ勘定をして8日の日に夜中の1時過ぎになるが良いだろうかと確認して正太郎の分の部屋を確保した。
前渡し金を渡そうとするといつもごひいきいただいて居りますので其れは結構ですと支配人に言われ「メルシー、ではマルセイユへ出かけてきます」と馬車で駅まで行くと荷を預けた。

「16時15分の到着だからまだ2時間半あるよ。ゆっくりと食事が出来るけどどうする」

「食事は簡単な物で良いわ、其れよりお菓子を買いましょうよ。マルセイユは真夜中でしょ」

「そうだね。向こうに着くのが夜の10時過ぎじゃホテルに着いてそれから食べる処を探すのは忙しすぎるかもね」

ベルクール広場まで出て広場の先にあるヴォワザン・パティスリーでクロワッサン・オ・ザマンドにサブレを幾つか買い入れ、ブラッスリー・ジョルジュまで戻ってビールとスパゲッティ・アラ・ナポリターナ、ソーセージのフライとリヨンサラダを2人で分け合って食べた。

マルセイユへは夜の10時05分に到着した、駅舎を出て大階段から見るとマルセイユの街は明るく輝き街の喧騒が此処まで聞こえてきた。

「ムッシュー・ショウ、ムッシュー・ショウ」
大きな声で呼びかける声が聞こえた。

「ボンソワー、レゼルヴァシオン・オー・パリ、ジュマペール・ショウ」

「ボンソワ・ムスィウ、ホテルからお迎えにきましたポルトゥールのゴメールです。荷物をお持ちいたします」

「メルスィ・ボク。此方がマドモアゼル・ブリュンティエールだよ」

「ボンソワ・マドモアゼル・ブリュンティエールお荷物をお持ちいたします」

「メルシー・ムッシューゴメール」

大階段を下まで降りると馬車が待っていた。

「どうぞお乗りくださいませマドモアゼル、ムッシュー」

2人が乗ると荷物を座席に置かせていただきますと中へ入れて自分は馭者台の脇へ上がった。

下り坂を5分も走ったかどうかでホテルに着くと正太郎は2フラン銀貨を二つ出して馭者とポルトゥールに渡した。
2人は驚いた顔を見せたが顔を綻ばせて「メルシー・マドモアゼル、ムッシュー」と荷物を持って先にたってホテルへ入った。

レセプシオンでポルトゥールが「パリからおいでのムッシュー・ショウとマドモアゼル・ブリュンティエールです」

「お待ちしておりましたお疲れで御座いましょうが手続きをよろしくお願いいたします。それからコロンボは予定通りナポリを出て居りますので7日の午後1時到着予定です」
正太郎は全ての予約をフランス郵船経由で行ったせいか応対も丁寧だった。

「お2人のお部屋は508と509の続き部屋ですがトワレットゥにドウシュは共有です」

先払い金として50フランを渡して部屋の鍵を受け取るとエレベーターで5階まで上がった。
其処は最上階らしく続き部屋で間にトワレットゥなどの設備があるというわりに部屋自体は二部屋分もあるという大きな物だった。

正太郎はエメと相談して此処まで荷を運んできたポルトゥールの少年二人に2フラン銀貨をそれぞれに渡して「船が着いたら賑やかになるからよろしくね」と頼んだ。
2人は有頂天になって何度も礼を言って「新しいお客様は歓迎です。ムッシューは東洋のお方ですか」と聞いた。

「そうだよジャポンが僕の国さ。フランスからジャポンに出かけた人とジャポンの人が一緒に来るお迎えだよ。もうじき6日だが7日には船が着くから頼んだよ」

エメが間のドアを開けて此方へやってきた。



Marseilles1873年6月6日 Friday

2人は朝6時に目覚めて昨日は気が付かなかったバルコニーへ出てみた。
正太郎の部屋は朝日が差し込みエメの部屋は南に向いていてバルコニーは仕切りがあるつくりだった。

「不思議ね此処が角になっているのに部屋は其れが感じられないわ」
2人で両方の部屋を見て廻るとドウシュと壁の間が配水管でもあるように三角の部分があった。

「此処のせいで部屋は影響なく見えるんだわ」

やっと納得してエメは「今日は何処へ行く予定」と聞いた。

「観光はなしだよ。横浜に居るバッフ・ゴーン商会のゴーンさんの妹さんの石鹸工場へ行くのさ。姪に当たるマドモアゼル・ソフィア・バッフ・ゴーンが来るから僕のほうへお預かりする事を改めて挨拶するのさ。彼女がジャポンに着いたのはもう10年位前だそうなので会いたがっているだろうね」

「その人にもフランス語を教わったの」

「それだけじゃなくてイギリスの言葉もマナーも教えてくれたよ。ミチと僕にとっては恩人の1人さ」

「確かショウ同い年じゃ無かった」

「ソフィアは僕より2ヶ月くらいあとかな」

「よっぽどショウに比べて勉強家だったようね」

「ソフィアが横浜に来たのは7才だったらしいよ。10年向こうにいたんだね」

「あら17才でしょ。だったらショウも17だったの18だといわなかった」

「ジャポンでは生まれた年も数えるからさ、グレゴリオ暦だと1856年1月8日が誕生日だよ」

ショウといるとあなたが私より年下だなんて信じられないわとエメは言い出した。

レセプシオンで住所を見せると歩くと1時間くらいと言うので「2時半までには戻るよ」と馬車でマークル石鹸の工場へ向かった。
ゴーンさんの妹夫婦に家族が総出で歓迎してくれてジラールさんのことも色々と聞かれた。

「みんな横浜で成功してるんだね良かった良かった。それでソフィアの乗った船は予定通り着くのかな」

「はいホテルのはなしではナポリを予定どおり出たそうですから明日午後1時に接岸予定だそうです」

何人か代表で迎えに出ると話してくれ、正太郎にパリでの勉強のことをよろしく頼むと手を握ったのは近くから呼ばれてきたソフィアの祖父だった。

その日正太郎はフランス郵船の事務所に出向きパリからの連絡が入っていることを確認してベルジュ河岸近くの食堂でブイヤベースと海老のフライを食べた。

「ジュリアンは絶対に連れてこられないな」

「ほんとターブルをひっくり返して店を飛び出すのは間違いないわね」
魚嫌いは改善されてきたが海老が出たら怒り出すのは目に見えていた。

「ラディシオン、スィル・ヴ・プレ」

「料理は如何でしたか」

「セ・ヴォン」

エメも同じ様に美味しかったわと答へ「船で到着する人をむかえにきましたのよ。其の人たちを連れてきますわ」と店主をよろこばせた。

2時頃ホテルへ戻るとM.シュワルツが若い髭の目立つ男性と待っていた。
打ち合わせをしてまたフランス郵船の事務所へ出かけM.シュワルツの持参した書類を確認してもらい正太郎が改めて上書きをして時間の都合で立会が出来ない時でも百合根だけは受け取れるように手続きをした。

夕方さっと降った雨は陽が落ちる時間前にやんで遠くペゼナスの山を赤く染めているのがホテルの部屋から眺められた。


Marseilles1873年6月7日 Saturday 

7日の朝からコロンボの乗客は下船準備に忙しかった。

横浜からの乗客は50人も居て長い航海の間に家族同様に付き合いも生まれていた。

ノエル・ルモワーヌもこの航海で日常会話に困らなくなった孝子を連れて挨拶回りに忙しかった。

船はナポリから地中海を2日かけて今朝早くにトゥーロンの軍港沖を通過して船員も乗客と同じように浮き立つ気分を隠しきれなかった。

「タカコ、あそこがラ・コンテ・ド・モンテ・クリストで有名なシャトー・ディフよ。あそこを通れば其の先に見える街がマルセイユの港なのよ。ついに帰ってきたわ」

孝子に説明していたのがいつの間にか自分自身に向けた言葉に代わっていた。

傍に美智とソフィアも来て近づく街と高台に聳えるノートルダム・ド・ラ・ガルトがことさら輝くのを見つめていた。

「正太郎は来ているかしら」

「来ている気がするわ。きっと彼女も一緒よ」

「どんな人かしらね。正太郎は横浜に居たときは利発な子だとは思ったけどパリへいったとたんに彼女が出来ましただなんて驚きだわ」

「ソフィアの言うとおりだわね」

イフ島と隣のラトノー、ポメーグ、ティブランの島々が近づき船の左舷から近づく島を見る人たちは島を過ぎるとマルセイユの街を見ようと両舷に分かれて街を見つめた。

左舷からサン・ジャン要塞右舷にはサン・ニコラ要塞が近づき港の先にはなだらかな丘が見えた。

要塞を通り抜けると左舷から見える桟橋には大勢の出迎えの人々が見えた。

12時55分船からロープが投げ下ろされコロンボはマルセイユに接岸した。

既に降りる準備が整った人は順番を待って我先に船を下りていった。

「ド・ゴール船長色々ありがとう御座いました」

「メルシー・マダム・ルモワーヌ。パリへ着きましたらぜひお手紙をくださいませ」

「勿論ですわ。でもすぐにまたお出かけでしょ」

「この船は明日出航予定のフグーリが居りますので、次は7月の出航に向けて整備がありますので3週間はマルセイユに居ります」

「では会社宛で出しておきますわ。お世話になりました」

「オ・ルヴォワール・ボンヴォワイヤージュ」

「オ・ルヴォワール・ド・ゴール」

子供たちもそれぞれが船長と別れを惜しみ船のタラップを降りて行った。

「正太郎がいるわ」

孝子が真っ先に帽子を振る正太郎を見つけた。

ソフィアも美智もノエルに荷物を預けるように置くと駆け寄っていった。

正太郎の手を取ってかわるがわるまた背が高くなった、肩幅が広くなって中々判らなかったといって手を引くようにノエルの元へ連れて行った。

久しぶりの再会の挨拶を交わす正太郎に抱きついて喜ぶノエルは涙さえ浮かべていた。孝子を抱き上げて正太郎はフランス語で「コウは大きくなったな。言葉を覚えたかい」といった。

「ボンジュール・ショウ。此方では正太郎ではなくてムッシュー・ショウというそうですね」

「そうだよ。今から僕のことはショウと呼ぶんだよ」

「ウイ・ムッシュー。あら今のフランスではウイ・シトワイヤンと言うのがいいのかしら」

「どちらでも良いよ。この人が僕の大事な人。マドモアゼル・ブリュンティエールです」

「はじめましてマリー・エミリエンヌと申します」

「ボンジュール・マドモアゼル」

それぞれと挨拶を交わすうちに波止場の喧騒も静まり一行の周りは人も少なくなっていた。

ソフィアは祖父に祖母と叔母が出迎えに来ていて抱き合って再会を喜んでいた。

正太郎はその人たちも交えて頼んでいた馬車でホテルまで向かった。

馬車から見えるベルジュ河岸に今の船から降りた人と話し合っている木戸先生が見えたが一瞬のうちに人ごみに消えていった。

「どうしたのショウ」

「うん、今キド先生が見えたんだ。明日の船でジャポンへ帰ると聞いたけど何処に泊まっているのかな、ホテル・デ・コロニーあたりかなぁ」

「挨拶に行くの」

「いや良いだろうよ。それに僕も荷物の受け渡しもあるし」

「ショウ、私たちも明日にはフランス郵船で受け取る荷があるのよ」

「ミチは何か余分に持ってきたの、パリでなくて此処で受け取るの」

「そっか、パリでも良かったんだ。それなら其の手続きをすればもって歩く心配も無いわね」

「なにか買い入れてきたのかい。孝子君の百合根は売り先が見つかったけど」

話がすまないうちにホテルについてノエルたちに割り当てられた部屋へ向かった。

正太郎は5人のポルトゥールに2フランずつ渡して部屋へ入った。

「大きな部屋ね、でも此処で4人だと一杯ね」

「残念ながら此処はマドモアゼル・ノエルと孝子君の部屋さ。君とソフィアは別だよ」

「ムッシュー、家へソフィアを連れて行きたいのですが」

「其れは明日お宅へうかがわせますので今晩は此処へ泊まらせてください。ソフィアも其れでいいだろ、明日そちらへ朝9時にうかがわせますので夜9時までに此処へお返しください」

ノエルにも「今日は長の船旅で疲れていますのでお願いいたします」と言われて3人は困った様子でノエルに訴えた。

「でも今晩親戚中が集まってソフィアの到着を心待ちにして居ります」

正太郎はそれでは暫くお待ちくださいとノエルとソフィアをバルコニーへ誘うと「疲れているだろうがソフィアは今晩親戚の期待を裏切らないように、着替えをしたらお付き合いに出てくれるだろうか」

「勿論よ、疲れているけど私も会いたい人もいるし。でも向こうへ泊まるのもね」

「では遅くとも此処へ戻るように頼んで、それでよければと言うことにしようね」

「其れが一番ですよ、正太郎はもう立派な大人ね」

ノエルに褒められて照れる正太郎だった。

話はノエルが代表して「ではソフィアを着替えさせる間此処でお待ちくださいあなた方とご一緒させますわ。でもご両親から私が預かった大事な娘です今晩の内に此処へ戻らせていただきます。明日改めて昼間訪問させますので10時に馬車を迎えに出しますので其れに乗せていただけるでしょうか」と告げた。

「泊めるのは無理でしょうか」

「今晩と明日のお約束をいたしました。其れをご承知していただけなければ監督者として訪問を許す事が出来ません」

多くの人と交渉ごとをしてきたマドモアゼルには威厳も有り、親戚の特権を振り回すことも出来ない3人だったが祖父のマシュー老人が「良いでしょうあなたが言う事は正しい。身内というだけで私たちのわがままをこれ以上ソフィアに言って困らせることは出来ません。喜んであなたの言う事に従います」といってくれた。

ソフィアを送り出して5人はほっと一息ついてお茶にした。

「ねぇ、マドモアゼルこれからの日程はどうするか考えてありますか」

「正太郎はどうして欲しいのパリへ着くまでは任せるわ」

「実はね、このマルセイユへ2泊する事は最初にお知らせしましたがリヨンでお世話になっている方がご自分のバラ園に招待したいのでぜひガール・デ・リヨン・ペラーシュで降りて2泊してくれるようにとホテルを予約してくださったのです」

「良いわよ船旅の後で一晩中列車でゆられるのでは体が持ちませんものね。それで良いわよ」

「メルシー・マドモアゼル」

「正太郎はもう大人だし身内同然なのですからこれからはノエルだけにしなさいね、船でもこの人たちと話し合ってそう呼ばせることにしてあるの。マドモアゼル・ブリュンティエールもそうしてくださいね」

「では私もお願いですからショウも友人も使うエメという呼び方に慣れてください。ショウもパリやリヨンではショウと皆に呼ばれています」

「其れは大丈夫よ彼は横浜でもシーヌの人にはヂアン・ショウと呼ばれていたからショウと呼ぶのにもすぐなれますわよ」

「それで、ノエル、相談ですがパリへついたら何時ランスへ行かれますか。僕も行ったほうがよければ日程の調整をします」

「そうねあまり日にちがあくのも大変だから2日ほどお休みしたら出かけましょうね。ショウはこなくて大丈夫よ。3人の子供たちが一緒に行ってくれますから」

「では電報を打つか此処から手紙を出せば5日後には向こうへ着くでしょう」

「そうするわ、マルセイユへ着いたら連絡すると言ってあるから。ショウに電信を出してもらっている間に手紙を書いておくわ。美智に孝子は2人と街を散歩でもしてきなさいな」

正太郎はノエルと電文の打ち合わせをして電信所へ4人で出かけた。

其の後ホテルの傍のキャプサン市場からベルジュ河岸まで降りて夕河岸の喧騒を抜けて建築中のマジョール教会と昔からの教会を見た。

「そうだミチは時計を持っているのかい」

「いえ持っていないわ高いですもの買えるわけ無いわ」

「それじゃパリで3人にプレゼントするよ。今僕はお金持ちだからコウも遠慮しちゃ駄目だよ。あっタカコと言わなければいけなかったんだね」

「私もすぐ間違えるのよ其のうち慣れると思うけどもう二月たつけどなれないの」

「私もタカコといわれると自分らしく無いわ」

エメと手をつないではぐれないように懸命に歩くコウも正太郎にそう言っていっそタカといえばなれるかもしれないと言い出した。

「どうだいエメどちらが発音しやすいのかな」

タカコ、タカと何度も繰り返していたがコが無いほうが言いやすいし覚えやすそうだと言い出した。

「ではノエル先生に行ってそう呼ばせてもらおうよ。僕も名前はショウで通用してるんだから書類はタカコでも呼び名まで其れに従う事は無いさ。フランスの人だって名前を全部呼ぶわけじゃないしね」

「其れはそうね私やサラのことを全部並べて呼んでいたら誰の事かわからないですものね」

マリー・エミリエンヌ・ブリュンティエールが私の正式の名前でお友達の女優の名前がサラ・マリー・ロジーヌ・ベルナールもしくはサラ・アンリエット・ロジーヌ・ベルナールだと話して2人を微笑ませた。

「どう、船の中で歩く機会が少なくて疲れたならどこかで美味しいお菓子を食べようか」

「疲れてはいないけど美味しいガトーにカフェ・クレームが欲しいわね」

ミチがそう言ってタカコを振り向くと肯いてにっこりとした。

港の向こう側にいい店があるよと教会の前で果物を売るマダムに教えられてまたベルジュ河岸を抜けて先へ行くとブルトゥイユ街という通りに赤と緑のパラソルを並べたパティスリーがあった。

Joseph Mandonatoの看板に「ジョセフ・モンドンノとあのマダムは言っていたからこの店のようだね」と入って注文を出すと表のパラソルの下へ座った。

エクレール・オ・ショコラの色々な物を頼んでみなで食べ比べた。

暑い日差しもようやく和らぎ、凪だった港に陸風がそよぎだした。

「もう7時になったのショウ」

「いやもう8時になる頃だよノエルが心配するだろうからホテルへ戻って食事にしようね」

「どうしてなのまだ太陽が出ているわよ」

「マルセイユでは今日は後20分くらいで日没だよ」

正太郎は手帳を出して「パリだと今日は8時51分が日没だよ。来月夏至になる頃は9時頃が日没のはずだよ」と教えた。

「まぁ、なんてことなの。スエズを抜けた時地中海に入った時が日没の時間だったの其の時は6時40分だったのよ」

「緯度が高くなるフランスのほうが夏の日の出てる時間は長くなるのさ。その代わり冬は横浜より2時間は短いよ」

雑貨屋にブティック、帽子屋が並ぶサン・フェレオユ街を登るとキャプサン市場に出た。

左に下るとノアイユ街へ出る、大きな店が続きホテルの周りは賑やかな人通りで溢れていた。

5階へ上がりノエルの部屋を訪れて「食事はどうします、ホテルで済ませますか、町に出てマルセイユ風のものを探しますか」

「町に出ましょうか。気取りの無いブラッスリーが良いわ」

「ではブイヤベースでも」

「そうねマルセイユにいる間は街の名物を下町のお店でね」

デュ・ポール河岸にあるというミラマーという店を訪れた。

店のママンが言うには今日はコングレ(congerアナゴ)、ラスカス(rascasseフサカサゴ)、カペラ(Capelanタラ)など5種類の魚類が入ると言うスープはタカコにも喜ばれた。

皿にスープを取り、チーズを入れてもおいしいとママンが勧め、バケットにルイユをぬり、スープに浮かしいただくのはノエルにとっても初めての味だ。

そして茹でたじゃがいもと魚を皿に取り、少しスープをかけルイユをつけて食べるのもお気に入りのようだ。

旅行者に説明慣れしているママンが説明してくれた。

漁師が大鍋に小魚を放り込んで煮込んだものが始まりで今はホテルで高級料理の仲間入りをしているがブイヤベースとは大違いの物まで有ると言った。

貝や海老などなどを入れたものをブイヤベースと称して出すものでは無いのだ力説した。
其の後で出てきたイチゴのタルトは美味しかったとホテルへ戻ってからもノエルは正太郎に話した。

ホテルでの話題はベアトリスとシルヴァン・カルノーの結婚式の話題だ。

其の時の写真を出してみせて「蓮杖が色をつけたら正太郎に送ると言っていたわよ」と優しい眼をした。

翌ディマンシュの朝、正太郎とミチは食事も取らないうちに出かけたエメたちとソフィアに合わせるようにホテルを出た。
フランス郵船の事務所は昨日のうちに降ろした荷を受け渡してくれるために早朝から事務所を開けて待っていた。

M.シュワルツとアドリアンと言葉少なく名乗った青年は正太郎とミチにいい百合根だと請け合ってそのまま船に積み込んでリヨンへ旅立った。

M.ショウ。マドモアゼル・ミチ、リヨンでお待ちいたします。と言っても蒸気船は明日の夕刻到着ですからお会いできるのは其の翌日になります。義父はあなた方をお待ちしていますよ」

「百合根だけで蒸気船を雇うのでは採算が合わないのではないのですの」

「マドモアゼルそれわね、これだけでなくて色々買い込んで帰るから船の中は荷で満載ですよ。あれでペールも確りした商売人ですからね」

パリへ送ってもらう荷からセンスとウチワをそれぞれ100本出すと後はまた荷をくくりなおしてもらいパリ支店へ出してもらう事にした。

「ミチの荷はどうする」

「正太郎が見てリヨンで売れそうなものは出して持っていくわ」
荷の中身は千代紙に金箔の束だった。

「千代紙はともかくこの金箔はどうしたの」

「吉田様がきっと喜ばれると餞別に5束下さったのよ。別に見本が50枚」

「こいつは気が付かなかったけどものすごい値打ちだよ。パリへ送り出すより重くても持っていこうよ」

「重く無いわよ、一束100匁位だもの、正太郎はパリでいい生活して力がなくなったの」

「そんなこと無いけど100匁で何枚あるのだろう15センチ四方位かな」

金純度94パーセントに銀などが入っているそうで一束は5つに分かれていて其の一つ一つが100枚になっているそうだ。

「1匁で50枚に伸ばせるそうよ、5寸四方あると聞いたわよ。ほぼ15センチで間違いないわね、一つは金が2匁で紙のほうが重いのよ。だから一束500枚でも金は10匁で紙が90匁よ」

「5束で2500枚か先生はどのくらいで売れると言っていたの」

「100枚100フランで2500フラン以上にはなるだろうといったわ」

フランス郵船の職員が「それほど貴重なら保険をかけても私たちに任せたほうが良いですよ」と声をかけた。
2人は自然にフランス語で相談していたようだ。

「他の荷物はどうなっているの」
「ソフィアの荷は特に無いわよ、全てノエルの物と一緒よ、私の分はこれだけだから此処で受け取ってもいいかなと思ってついてきただけ」

「其れでしたら追加保険を50フランでお受けしますから貴重品扱いでパリ支店まで出されたほうが安全ですよ。もしもの時は2500フランの保険金をお支払いできますから」

「そうしたほうが良いよ。50フランなら上乗せして売れるように僕がするからね」

「でも現金をそんなにもっていないわ」

「僕が立て替えるよ。其の千代紙のうちから100枚くらい持っていってリヨンで何か折ってあげれば喜ばれるよ」

「あ、それいい考えね。見本だけ正太郎が預かってね。其処からムッシューに3枚差し上げてくれる」

「マドモアゼル気を使ってくださって有難う御座います。とても綺麗で美しいですね。此処まで金が薄く延びるとは知りませんでした。これはどう使うのですか」

額縁の枠に張ったり人形の指先や磁器の飾りに張ったりするとミチが説明して千代紙で鶴を2つ折ると差し出した。
嬉しそうに其の鶴をデスクに飾り大事そうにノートの間に和紙に挟まれた金箔を仕舞った。

フランス郵船では改めて荷を包みなおして保険金の領収書をくれた。

ホテルまで戻り2人がサロン・ド・テで休んでいると見物に出ていたノエルたちが戻ってきた。
エメたちはベルジュ河岸で朝の食事にブイヤベースを食べたと報告した。
正太郎は表に出るのをやめて一堂揃ってお昼代わりにパルミエとシュー・ア・ラ・クレームを頼んだ。

「午後は何処に行きますか」

「ノートル・ダム・ド・ラ・ガルドに行こうと思うのよ」

「ではみんなで行きますか」

揃って馬車に乗って丘の上まで登った、僅か3キロほどの距離だが道はくねっていて徐々に近づく聖堂は大きく見えた。

「今リヨンでも聖堂を建設中ですよ」

「ぜひ訪れてみたいわ。本当はシャルトルや奇跡の聖女の居られるルルドへも廻りたいけど鉄道はパリからじゃないとつながっていないのでしょ」

「ランスから戻れば案内しますよ。ボルドーには時々仕事で行きますしね」

「ボルドーからどう行くかショウは知っているの」

エメは心配に為ってそう聞いた、余りにも簡単に言うからだ。

「ボルドーへ行く時にジュリアンから聞いたよ。ヴァイヨンヌからトゥルーズまでの路線は随分前に開通したそうだよ。丁度其の間がルルドだよ。ボルドー特急のいつもの夜行はトゥルーズに止まるから其れで行くかボルドーで1日つぶして行ってもいいしね」

「そうなの随分フランスも便利になったのね私がここから東洋へ旅立った時はまだ線路もあまりひかれて居ない様に思ったわ」

「そうらしいですね、ジュリアンの話でも此処5年で随分変わったと言っていましたよ」

エメは時間があれば自分とリリーたちがボルドーへ出たように運河のたびも面白いけど時間がかかりすぎて大変だったと大げさに話しながら、馬車から降りて階段を上がるタカコの手を引いた。

ホテルに戻ったのは4時、ソフィアが祖父に連れられて戻っていた。

「明日の見送りに駅へまいります。孫をよろしく頼みます」

丁寧に挨拶されてノエルも必ず良い教育を受けさせてladyとして恥ずかしくない女性にさせてご覧に入れますと約束した。

「フランスにとどまるのか両親の居られるYokohamaに戻るかはまだ決まっておりませんが其の時が来れば必ずご連絡いたします」

祖父が戻った後ノエルの部屋で談笑して今晩どのように過ごすかを話し合った。

「そうだ、ショウあなたのところにはグランドホテルの事を連絡してきたかしら」

Yokohamaのかい」

「そう」

「取り壊した事と建設が始まった事、最初は5月だったけど遅れていることは連絡事項に書いてあったよ」

「遅れたのはボナのほうで料理人を出せないと言うのと部屋数を倍にすると決まったからよ。メールがボナの株を手放してしまおうかとコタさんに相談したら反対に売り手があれば買い増ししたほうがいいなんていうので面食らってたわよ」

「そりゃ旦那らしい意見だね」

「そうでしょ。香港のアーサーのお金でクラークさんが代理人でYokohamaのあちらこちらの会社の株を抑えている事は聞いた」

「マックさんのところで運用している金かい」

「そうあのお金の儲けの分をYokohamaに投資してくださいとアーサーから連絡があったそうよ自分の生活費は稼いだ分でも余りますからと連絡が来たそうよ」

「それでホテルは料理人をどうしたの、マネージャーは着いたの」

「ミスター・リオンズという人が若いバーテンダーと2人で私たちがYokohamaを出る10日前に着いたわ。コタさんたちは大満足だったわ、ベアトさんがどのくらいカクテルを作れるかと試験したらその場で35のグラスを提供して皆様開いた口がふさがらない様子だとペールが話してくれたわよ。シェフはMr.ケンが築地のオテル・デ・コロニーからムッシュー・ペギューを引き抜いてきたわ」
そりゃ凄いと正太郎は感心した。

「でもそうするとルールさんは困っているだろうな」

「困っているんじゃなくてホテルをやめると聞いて引き抜いてきたのよ」

横浜も築地も栄枯盛衰はめまぐるしいようだ、グリーン夫人のHIOGO HOTELは繁盛しているという話しだったので人には合う土地柄があるのかと思った。

「でもホテルはWH・スミスさんが総支配人だけどベアトさんがどういうわけか海外投資という話に乗って何処かへお金を出したといううわさが有るのよ、心配だわ。八月にはホテルも開業だというのに気が多すぎるわよ」

ソフィアは家も近いせいか子供の居ないベアトに可愛がられていて身内同然のベアトを心配していた。

「それでさ、ソフィアは今晩何が食べたいの」

「昨日も今日もブイヤベースばかりなの他の物にして欲しいわ」

それには一同も大爆笑で3日続いたエメも「私も今晩ショウがブイヤベースといったら泣き出してしまうところだったわよ」と言い出したので「ステーキにソーセージのフライにオムレットでどうだい」と正太郎は薦めた。

「ナポリで肉料理を食べられると思ったら当てが外れたのよ。そうして頂戴」

ノエルまでが言い出したのでホテルのレストランへ正太郎が予約をしに出かけた。
「ヴードレ・レゼルヴェ・ユヌ・タブル。僕は508号室の
Shiyoo Maedaです」
支配人に席の予約をしたいと申し入れた。

「かしこまりました。ムッシュー何人様でしょうか」

「6人です。女性の方が5人で1人は8才の子供が居ます」

小さい子は困るといえば他を探すつもりで申し入れると嬉しそうに肯いた。

「ムッシュー、私どもは小さいお子様も歓迎いたします。あの東洋からコロンボで到着された方々ですね」

「そうです。よろしく頼みます」

「かしこまりました。メニューを部屋にお届けいたしますのであらかじめごらんになられますか」

「メルシー、そうさせていただきます。実は昨晩に続いて今日のお昼もブイヤベースの人が居て今晩はステーキが食べたいと言うのですが」

「かしこまりました、其の分メニューを充実させてお持ちいたします。508でよろしいですか」

「501にサロンがあるのでそちらへお願いします」

「かしこまりました。7時までにメニューを持参いたします」
正太郎は501でノエルに告げると自分の部屋で手帳の整理をして金箔の売り込み先を考えた。



Lyon
1873年6月9日 Monday
 

9日の午後3時マルセイユ・サン・シャルル駅発の特急に乗った一行を大勢のソフィアの親戚が見送りに来てくれた。

車中ミチはエメに折り紙教室を開いて鶴に奴さん、騙し船などの折りかたを教えて遊んだ。

夜8時50分リヨン・ペラーシュ駅に到着するとギヨー老人が息子のアンドレと出迎えてくれた。

馬車で行きましょうと2台に分かれて10分も掛からずにプレイス・ベルクールのオテル・グランドに着いて、馬車を待たせるとレセプシオンで手続きを済ませた。

「少し休まれてから食事にしますか。実は10時と約束したので9時半までに出たいのですが」

「すぐ着替えて降りてまいりますので30分ほどお待ちくださいませ」

ノエルは気を配るようにギヨー親子に伝えると割り当てられた部屋へ向かった。

「あらショウの部屋は無いの」

「僕のはいつも泊まるホテルがあるので其処に予約が入っています」

「まぁ、エメと別のホテルでもいいの」

ノエルはからかうように2人を見たが孝子と2人で部屋へ向かった。

「何処へ行かれるのですか」

正太郎は5人を見送るとアンドレと相談した。

「ポール・ボキューズに予約を取りましたよ」

「其れでしたら僕は先にホテルに荷物を預けますので先に出かけます。あちらでお会いいたすと言うことでよろしいでしょうか」

「ホテルは何処ですか」

「ボンディ河岸のル・フェニックス・ホテルですので」

アンドレには其処まで話していなかったようだ、話がついて馬車を1台呼んでもらいル・フェニックス・ホテルで荷を降ろしたらポール・ボキューズまでと約束して乗り込んだ。

ギヨー親子はお約束とも言えるリヨン料理を注文していた。
リヨン風サラダ、タブリエ・ド・サプール、オニオングランタンスープ、クネル、セルヴェル・ド・カニュと続いて出された。

正太郎が気を付けてみると、この前訪れた時より料理は少なめに盛られていて色々な食材を楽しめるようにされていた。

「ムッシュー・ギヨー。気を配っていただいて有難う御座います。これなら幾皿食べても大丈夫です。少食の僕やエメでも余さず食べられました」

「気が付いていただきましたか。何わしの胃袋に合わせただけですよ」

謙遜して言うが其れを店に申し入れてくれる気遣いはノエルたちにもわかったようだ。

アントルメのクレープ・シュゼットを楽しみながら話は横浜の事に及び生糸の事や花のことなどを楽しく話した。

其の晩、正太郎を途中で降ろした一行は「明日は10時にお迎えに参ります」という老人にお休みの挨拶を交わして部屋への階段を上がった。

翌日のリヨンは暑かった、正太郎は例によって散歩に出てポン・デ・ラ・フェイェを渡ってプレスキルに入った。
新市街といってもプレスキルからクロア・ルースの丘を越えて発展しだしたのは300年以上も前のことで、今新しい街はパール・デューの先、アントワネットの丘の向こうへと広がっている。

クロワ・ルースへ上がりローヌ川の川岸まで歩いて河岸に沿って川下へ歩き、クレディ・リヨネ銀行から街を抜けてポン・マレシャル・ジュアンでソーヌ川を渡った。
今日もムエットが数多く群れていて其の間にはキャナルの姿も見えた。

夏でも鴨はいるんだと見ていたが6時半になりホテルへ戻ると食堂で朝食を食べ、見本の金箔とセンスにウチワを入れたセルヴィエットをもって馬車でマダム・シャレットへ向かった。

「はいこれが追加のセンスとウチワだよ」

「随分持ってきたのねこれ全部いいの」

「送り状にはウチワが1000本、センスが600本ずつ3種類としてあったから一番いいのを持ってきたよ。何か売り出したときにこの間のように配ってくれるかな」

「今度は買い物した人にしましょうよ。金額で5フラン以下と以上に別けて出しましょうよ」

「そう君が思うならそうして良いよ。これは宣伝費だからこちらの費用につけなくていいからねShiyoo Maedaのほうでの出費にしておくよ」

「判りました。では来週秋物のコンフェクション(プレタポルテ)が入るからそれにあわせましょうね」

「イヴォンヌはどのくらい送り込んでくるの」

「ショウが示した予算はまだ大分余っているそうよ。それで100着の若い人向けのものとお年寄り用に子供用が50着ずつね」

「30代のマダム用は無いのかい」

「其れはメゾン・リリアーヌが50着送り込んでくれるそうよ、向こうでつけた値段の30パーセントがうちの取り分、1ヶ月で売れ残った分は入れ替え用が来たら送り返すの」

「へぇ〜、彼女も商売が上手くなったね。此処で残る奴は向こうでソルドにでも廻すつもりかね」

「そうなのよ。此方では彼女の物はソルドにかけないで欲しいと言うのヴァントプリヴェでも駄目だそうなのよ」

ソルドはイギリスで言うセールだが安売りという感じがするし、ヴァントプリヴェは特別な顧客用のセールだと此の頃の正太郎にも理解出来ていた。

「そりゃ自信がついてきた証拠だね、下着だけでなく普段着の服、お出かけ用の服としてのデッサンも結婚した人向けにいい物を作り出せるようになったんだね」

「マリー・アリーヌとサラ・リリアーヌはいいコンビネゾンよ。クチュリェールとして2人はもっと活躍できる場が増えていいはずよ」

「そうだね、でもあの2人上流階級の人たちには混ざりたくないと頑なだからね、何とかいい機会でも有ればもっといいお客を集められるんだけどね」

ギヨー老人がノエルたちを時間通りにオテル・グランドへ迎えに来た。

自分たちのバラ園への招待だ、園芸場を訪れた人たちも老人の後から説明を聞いて回り、ミチと孝子が横浜から来たと聞くと二人を立ち止まらせてジャポンの話を聞いたり薔薇の事を老人に聞いたりと後を付いて廻った。

やっと事務所に落ち着いて「済みませんでしたな。まさかあのように好奇心の強い人が大勢来ているとは思ってもいませんでした」と謝ってくれた。

「よろしいのですよ、リヨンにはまだジャポンの人が少ないのでしょう」

「そうですな、男の人が10人くらいはいると聞いたことがありますが、女性はいませんな。ショウはここに住んでいるわけでも無いですし。わしの知っているのは3人だけですな」
ミチは取り出した折り紙で鶴に二艘舟を折りプレゼントした。

「まぁ素敵ですわ事務所の何処に飾りましょうかしら」
嬉しそうに飾り棚を片付けて「どうですか父さん。此処で良いですかね」
「良いだろうよ。お嬢さん帰る前にあと幾つかおってくださらんかな」
「はい、まだこの紙は100枚ほどありますので色を変えて折っておきますわ」

老人が今日はこれから公園のバラ園と息子の園芸場を案内しますと馬車でパルク・テット・ドールへ向かった。
馬車を降りるとノエルは一同と屋台から買い入れたアイスクレームを木陰で食べた。

「やはりフランスのものは味が違う気がするわ」

そう言って子供のように立ち上がるとくるくると踊った。

老人が手を取ってステップを踏んで暫く踊るとソフィアたちも手を叩いて踊りに加わり楽しそうに全員で笑いながら踊った。

老人がバラ園を案内してそれぞれの花にまつわる話をしてくれ、公園の鹿と戯れて遊び「昼は息子の家で用意が出来ていますから」と時間を気にして馬車へ誘った。

モンペシエの丘の中ほどにある園芸場も訪れる人は多く、園内の木造の二階に張り出されたブラッスリーも休む人で賑やかだった。
日陰の席に案内され冷たいコンソメとバゲットが出され体のほてりは収まった。

オムレットはふんわりと美味しく、子牛のソテーにはたっぷりの玉葱が添えられてあった。

3時を過ぎて気温はさらに上がり園芸場は水をまく人たちが忙しく働く様子が見えた。

「此処は特等席ですね。其れと随分広い園芸場ですね、赤い薔薇に黄色の薔薇、白い薔薇と賑やかですこと」

「そうですな。あの赤はブルボンという品種から派生した物で、ブランは私が作り上げたシーヌからの品種、黄色は息子が丹精しているラ・フランスと言うこれから売り出される期待の品種ですのじゃ」

「ジャポンには送り出さないのですか」

「ショウがこのラ・フランスなどを私や息子の所からでも6000本年間契約で送り出しますのじゃ。彼は若いのにやり手ですな。パリの家にも500本の苗木を送りましたから来年は賑やかになるでしょう。わしに百合根を3000個譲ってくれるというので大切な取引相手です」

「まぁあの百合根ですか、それはありがとうございます。値段は知りませんがこのタカコの留学費用にするために横浜の人たちが集めてくださいましたのよ」

「おお、さようでしたか、ショウは其れをいいませんでしたが安い値段で別けてくれるというので私たちも感謝して居ります。マドモアゼルはタカコと言われるのですな。あなたの名を付けさせていただいてもよろしいですか」

「其れは光栄ですわ。孝子さんお礼を」

「メルスィ・ボク。ムッシュー私の名前を百合に付けていただいて嬉しいです」

「おう、まだ小さいのによくフランスの言葉を上手に話されます。それなら学校で困ることはありませんな」
孝子は言葉を褒められて嬉しかった、心配していたことのひとつが消えてゆくのが感じられたのだ。

ノエルたちは昨日頼んであったバシリカ・ノートルダム・ドゥ・フルヴィエールの建築中の建物が西へ廻った陽に輝くのを見ながらローヌ川、ソーヌ川を渡り丘へ馬車で登った。

現場には今日もアラン・ド・サン=テグジュペリがいた。
ギヨー老人は顔見知りらしくにこやかに話しかけて案内を頼んだ。

内部はまだがらんとしていたが周りを見て歩き、市内を見下ろせる場所で自分の双眼鏡を渡して覗かせた。
老人が誇らしげに孝子をジャポンから来た娘さんで、わしが買い入れる百合に名前を付けさせてもらったと紹介した。

「ジャポンといえばショウという青年を知っていますよ」

「おや、わしも其の青年をしっとるぞ。パリから来てブティックにバイシクレッテの店を共同で開いたというとった。わしとも薔薇の輸出と百合根を売ってもらうので取引がある」
アランは其処までは知らなかったがサラと正太郎がここへ来た話をした。

「パリから、サラ・ベルナールという女優とユゴー先生を訪ねてきた時に私が街を案内しましたよ」

「なに、サラ・ベルナールですとな。あんな大女優がリヨンに来ていたのかなぜわしに紹介せんのじゃ」

「そんな事いってもあなたが女優の事をご存知とは知りませんでしたよ」

「其れもそうか残念だな。そうじゃ、此方のマドモアゼルがショウのメトレスのマドモアゼル・ブリュンティエールですじゃ」

「おお、ショウは果報者ですな。あんなすばらしい女優と知り合いの上こんなすばらしいマドモアゼルと恋仲だなんて羨ましい」

「君だっていい子がいるじゃないか」

そんな仲ではありませんよと手を振る様子はまだ若いのだろうかとミチやソフィアには思えた。

「アランと覚えてください。またリヨンに来たら此処へ御出でください。まだ25年は完成まで掛かるでしょう」
馬車は大回りをしてサンジャン大聖堂まで降り、老人の案内で中に入り、ノエルに従って一同は祈りをささげた。

パストゥール街のマダム・シャレットでは一同を歓迎してくれ、正太郎から言われていたので2階を飾り付けてあり、そこでお茶をすることになった。

「では今晩もわしのおごりで食事をお忘れなく、オテル・グランドで9時ですぞ」

「ありがとう御座います。お待ち申して居ります」

老人が1台は此処でご婦人方をホテルまで送るようにと残して戻っていった。

「ショウは今ジャポンから来ている織物職人に器械の説明に出ていますので7時に帰ってくると言っていました」
ジャネットがノエルに言って2階のトワレットゥや水場を教え冷たいレモネードを出すと下へ降りていった。

楽しくおしゃべりをしながらミチが取り出した折り紙で鶴に二艘舟を折り出した。

鶴はノエルもソフィアにも折れるのでエメも加わり30羽ほどの鶴が折りあがった。

孝子はかぶとを一生懸命に折り3つの兜を完成させた。
それらを窓際に並べると満足そうに見つめてこれから行くパリの話をエメにするようにソフィアがせがんだ。

シルヴィとオドレイにジャネットまでが上がってきて下着や様々な服を見せまずはミチからと下へ連れて行くといくつかの服を持たせてあがると着せてみた。
次に孝子そしてソフィアと普段着をジャネットがプレゼントだとパリへ持っていかせることになった。

風が吹き出して街が涼しく為り出す頃、正太郎がマダム・シャレットに帰ってきた。
ノエルたちはホテルだと聞いた正太郎は自分のホテルに戻りドウシュで汗を流し着替えをしてオテル・グランドへ向かった。

マルセイユからのパリ行き特急がガール・デ・リヨン・ペラーシュ11時35分着で10分の停車時間の後45分発で、パリのガール・デ・リヨン18時35分着と言うことをノエルたちに話し駅から新しい家に直行して夕食だと伝えた。

正太郎はあらかじめ食事を軽くして消化の良い物にするようにカントルーブ夫妻に頼んであり、マルセイユから到着日を電信で事務所へ知らせてあった。

「明日は8時半にホテルを引き上げて駅へ荷物を預けて買い物があるなら其の間に出来ますし、見たいところがあれば近くなら回れます」

「それほど廻りたいというところも無いけどランスまで持っていけるものでここでしか買えない物ってあるかしら」

「そうですね、今はパリで何でも手に入りますしね」

「それならもう一度聖堂の有る丘から街を眺めたいわ」

「そうしますか、では僕はこれから約束があるので出かけますが明日の8時にお迎えに参ります」

「あら、ギヨーさんのお誘いに出なくていいの」

「先ほどマダム・シャレットの店に戻る途中で百合根のこともあるのでお寄りしてお話をしてきました」

「そうそれなら良いわ。でもショウは忙しいのね」

「ジャポンからきている織物の勉強をしている人に食事を誘われているので彼らの食べられそうな食堂へ行きます」

「彼らというと男の人たちなの」

「男だけでは無いのですがね。ジャポンの男性3人と彼らに織機の取り扱いを教えてくれている老人に若い女性が1人ついてくるそうです」

正太郎はクロワ・モランへ向かい馬車を返すと忠七たちと共に、近くにあるブラッスリー・パピヨンへ向かった。
ジャポンからの3人のために川魚の塩焼きを作ってくれると言うので正太郎がパリから忠七たちに送ったソース・デュ・ソジャを此処へ預けてあるそうだ。

正太郎はミチや孝子をLoodへはパリに充分慣れてから連れて行こうと考えていたのでこの店のことも言わなかったのだ。
ナタリーもお薦めのパエリアと焼き魚にシシカバブという何処の国の料理か判らない取り合わせだが食事は楽しく進み正太郎も浮かれていた。

11日の朝5時、リヨンは日差しが強く街を照らして今日も暑くなりそうだと正太郎には思えた。

朝の散歩でかいた汗をドウシュですっきりさせ、着替えをすると朝食をとり会計を済ませて荷物を駅まで運ばせた。
オテル・グランドへ歩いて向かいノエルたちの降りてくるのを待った。

馬車を2台頼んで有り其れに乗ると駅に荷物を預けフルヴィエールの丘の円形劇場に向かった。

馭者には先に聖堂で待つように伝え後から歩いて聖堂に向かった。

アランが今日も機嫌よく迎えてくれてこの間説明し切れなかった真下のラ・トゥール・ローズから徐々に郊外に広がる煙突のある工場の話などをしてくれた。

昨日訪れたパルク・テット・ドールのバラ園が作られた経緯や街のあちらこちらに伝わる話もだ。

「ショウ、今度は何時来るんだ」

「10日後くらいかな、其の時はどこかで酒でも飲みませんか」

「良いだろうきたら朝此処へ来てくれたまえ」

「ダコー、オ・ルヴォワール・アラン」

「オ・ルヴォワール・ショウ。オヴォワール・ボンヴォワイヤージュ」

「オ・ルヴォワール、アラン」
陽気なアランと別れて馬車はトリオン広場の泉水盤を見てプレスキルへ下った。

パティスリーを見つけ列車で食べるクッサン・ド・リヨンにボンボンショコラやキッシュにエビアン水の壜を買った。

エメが珍しく「夕食まで時間があるからソンドウィッチを買い入れましょうよ」と言うので野菜とチーズの入ったものも買い入れた。

11時45分発のパリ行きは定刻どおり発車してディジョンでは機関車が付け替えられた。

ディジョンから此処の近くが自分の実家がある街で来月には学校が休みに為るので正太郎と来るのだと嬉しそうに話した。

ガール・デ・リヨンに10分遅れの18時45分に着き、ポルトゥールが5人ついて3台の馬車に分かれて荷物も積み込み正太郎はそれぞれに1フランの銀貨をチップとした。

エメも付いてフェネロン街へ向かった。
クロワールに一度荷物を置くとカントルーブ夫妻が挨拶をしてそれぞれを紹介した。
クロワールの奥の部屋をノエルの部屋として2階の内からくじ引きで一番の者から好きな部屋を選んだ。

ソフィアが一番で階段から一番遠い鍵の手に曲がった奥の部屋、その手前の角の部屋を孝子が選び其の手前にミチが入る事にした。

「これでいいの、後1人来るのに私たちだけで決めてしまって」

「いいんだよ。マルティーヌは君たちが選んだ後の残った部屋といってあるんだからね。それからこれからは特別なお金にお小遣い以外は僕とエメがお金の係りだから、ノエルや君たちが心配する必要は無いよ。ソフィアはどのようにゴーンさんやメアリーさんから言われてきたの」

「私はフランス郵船宛に半年ごとに1000フランが振り込まれるからノエルに渡して学費と食費に必要経費を支払うことと言われたわ」

「それならノエルに渡して其処から自分用のお小遣いを貰ってくださいね。それでミチはあの金箔を売った分が留学費用なの」

「そうじゃないわ。学費と食費などは全てノエルが持つ代わりに家事の手伝いをするように言われているわ。金箔は服やお小遣いにと話をMr.ケンがノエルと決めてくれたの」

「まって、家事は私も手伝うわ、ミチだけがメイドを引き受ける必要は無いのよ」

「私も手伝います」
孝子もけなげにそう言い出した。

エメが話しに加わり「そうねあなた方3人とマルティーヌの4人が分担して掃除を毎日してくださればショウからお小遣いとしていくらかを支払いますわよ」と相談するように話し出した。

さぁ部屋も決まったからあとはノエルも交えて話そうねと正太郎が率先して下へ降りて3人の荷物を運び込んだ。
2階のトワレットゥなどの説明はエメに任せて正太郎はノエルと此処の会計について話し合った。

「ショウ、其れはいけないわよ。全てあなたもちでは後々困りますから私たちの下宿代は取ってくださいね」
エメたちが降りてきて2人の話しに加わり先ほどの話をソフィアがした。

「そうあなた方が揃ってそういう気持ちならそういたしましょうね。全て平等というなら其のほうがいいかもしれないわ」

「ノエル、それで下宿代ですが。此処ではなく、ほかの場所にも僕とエメの持ち家がありますので其処では従業員は朝夕の食事付で50フランを支払っていただいています。此処も同じで良いでしょうか」

「まぁショウ50フランでは成り立たないでしょう。4人の分で200フランではあの夫婦のお給金にも満たないのではありませんか」

「其れは大丈夫です、其れと馬車が必要になれば毎日一度此処へ廻ってきますので其れでパリの町へ出るか僕のほうへ連絡が付きますし、時間を指定すれば迎えに来ます。ミチの学費ですがノエルは横浜で大分お金を使って今は楽では無いのではないのですか。ランスの家でその分を都合しようとされているのではないでしょうね」
正太郎はベアトリスからノエルの母は継母だと聞かされていたのだ。

「確かにショウの言うとおりよ。ジョスリーヌは私のなくなった母の後にペールと一緒になって私はメールの遺産を受け継いで家を離れたわ。だけど後大分取りくずして1万フランくらいのお金の配当金しか入らないのわ確かね。でも実家におねだりしなくてもやりくりは出来ますよ」

「駄目ですよ、これ以上預金を減らさないように考えて行動をしてくださいね。ミチや孝子の品物は僕が高く取引をしますから。それに僕とエメも自分のお金を必要以上に出すわけではないのです。後はエメが話してあげてくれるかな」
正太郎はエメにロトリー・ピュブリックの話をしてもらうことにした。

「ショウは私とロトリー・ピュブリックを買って5万フランが当たったのです。其のお金で此処モンルージュとセーヌ県のヴァルダン通りに家を買って、残りであなた方が安心して生活と勉強ができる資金にすることにしましたのよ」

其の話を良く理解できないのは孝子だけのようだが、ミチもソフィアも呆れた顔を見せていてエメは其の後、正太郎をにらむ様子を見せながら話しを続けた。

「そのほかにショウは私たちの妹同様に可愛がっている娘に最後の売れ残りのロトリー・ピュブリックを買って上げて、其れが5000フランの当たりくじでした、そのお金を2人は2500フランずつ山分けにしたのよ。でも其のお金は孤児院への様々な寄付のほうへ廻す予定ですのよ」

「まぁ、正太郎は横浜でもパリでも仕事で随分儲けているとは聞いたけどそんなロトリー・ピュブリックの運まであるのね」
今度其れはゆっくり話しますわとエメがいい、仕度が出来たとアデルが呼びに来たので話に含みを持たせて打ち切った。

食事はラグー・ド・ブフシチューに鳥とジャガイモのフライ、チーズとパンに温野菜がソースをかけて出された。
ワインとシャンパンが出され孝子に「少しだけよ」とノエルが与えた後はエビアンを与えられた。食後にアデルがアランに買ってきてもらったマカロンが冷やされて出された。

「ノエル、明日僕は来られませんがビエが買えたら届けさせますが、ヴァンドルディにしますかサムディに出かけますか。それとランスではその日のうちに家まで行かれますか、着いたら先に聖堂を訪ねてホテルへ泊まって次の日にしますか」

「パリへ付いたら2日ほど休んで行くと手紙に書いておいたわ。だから其の足で家にいくわ、ベアトリスの家には次の日に訪ねてお話と写真を届けて、其の後はペールの様子しだいでもう一晩泊まるかホテルへ行くか決めることにするわ」

「判りました。13日ヴァンドルディの朝で良いですか。今日は11日のメルクルディですが」

「其れで良いわ。明日1日でも家で静養すれば充分よ。今はランスまでどのくらいで行かれるのかしら」

「今年から1日2回の特急が出るようになりましたのでランスまでガール・ド・レストから1時間20分で着きますよ。午前のは9時40分に発車です」

「まぁ、昔の半分以下の時間ね。馬車のときは2日掛かりの道でしたよ」

正太郎とエメは頼んでおいた迎えの馬車でノートルダム・デ・シャン街へ向かった。

 
 2008−07−13 了
 阿井一矢

横浜幻想  其の一   奇兵隊異聞 
 其の二   水屋始末  
 其の三   Pickpocket
 其の四   遷座祭
 其の五   鉄道掛
 其の六   三奇人
 其の七   弗屋
 其の八   高島町
 其の九   安愚楽鍋
 其の十   Antelope
 其の十一 La maison de la cave du vin
 其の十二 Moulin de la Galette
 其の十三 Special Express Bordeaux
 其の十四  La Reine Hortense
 其の十五  Vincennes
 其の十六 Je suis absorbe dans le luxe
 其の十七 Le Petit Trianon
 其の十八 Ca chante a Paname
 其の十九 Aldebaran
 其の二十 Grotte de Massbielle

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