Lyon1873年5月22日 Thursday
夜遅くまで付き合った正太郎だが目が覚めたとき時間はまだ5時だった。
夜中から降り出した雨は中々やまずブティックの開店に影響が出ないか心配だった。
髭を剃ってジーンズに着替えると傘を借りだし、明るくはなっている町へ出た。
サンジャン大聖堂まで降ると早朝に係わらず船から魚を降ろす人で混雑していた。
よくみると氷を砕く器械が動いていて、魚の上に砕いた氷を撒いている人が忙しく立ち働く様子も興味深く見えた。
「あれだけ氷を使えるのは器械製氷が出来ると言うことか」
独り言をつぶやきながらポン・ボナパルトを渡った。
プレイス・ベルクールには雨の中早朝から散歩をする人の姿が何人も見えた。
昨晩バスティアン達と入った店はまだ灯りが付いていて客が残っているか掃除でもしているのだろうと思えた。
ポン・デ・ラ・ギヨティエールまで進みローヌ川の河岸沿いの行き交う人たちの間を縫うように進むとギョー社のバラ園の前に出た。
表から覗くと雨に打たれた百合が可憐な花を正太郎のほうへ向けて咲かせていた。
其の先には公園らしき林が広がり其処でも散歩をする人影が見えた。
緩やかな坂を登ると其処はラ・フランスを別けてもらったアンドレ・ギョーのバラ園だった。
此処までで時刻は6時30分になり道を戻りだす正太郎だった。
ジャネットのパンシオンの近くにあるサン・ポータン教会の前に出るはずが大分早めに曲がったらしく教会の大時計は大分先に見え小ぶりになった雨にけぶっていた。
まぁいいかと其のまま道を進むと早朝から機織り(はたおり)の音がゆったりとバッタン、バッタンと聞こえた。
ジャカールと言ってもまだ手で機械を動かしているようだなと音のするほうへ歩くと魚を焼く匂いが漂ってきた。
「あれ、川魚でも調理しているようだが、ただの塩焼きのようだな。このあたりはそんな調理方法もあるのかな」
匂いに惹かれるように進むとクロワ・モランの通りへ出た。
確か大江さんはこのあたりへ下宿したと聞いたように思いながら進むと前方の庭先で何か怒鳴る声がした、日本の言葉のようだが横浜とは少し違う言葉のようだ。
「飯は炊けたが魚はまだ焼けひんのか」
「後少し待っておくれやす、炭と違って上手く火が廻りきぃひんのどすがな。常七さんに仕度が出来たと言っておくれやす。朝早くからバッタンを動かしていても、もう糸もおまへんのにやんぺきぃひんのや」
「ほんまおすか伊兵衛さん。金もなくなったのおすか」
「忠七よ。金はまだあるが、糸を買えば俺たちの飯代も無くらるえ。織った生地が金になればええが今のままでは売れやしぃひんぜ。何処かの工場で働くならともかく常七さんは面倒だと人を雇うなどするものさかいに来年まで食いつなぐ事も出来あらへんよ」
声が途絶えたのは魚も焼きあがったからだろうか、バッタンバッタンと響いていた音もやんで街は静かになった。
正太郎は今声をかけないようにしようとその場を離れてホテルへ戻ると食堂で朝食をとった。
レセプシオンで預けておいたセルヴィエットを受け取り馬車でクレディ・リヨネ銀行まで行くと手形3000フランを20フラン金貨、2000フランを100フラン金貨に交換した。
「札で支払えれば軽くて良いがパリと違って金貨が喜ばれるのは土地柄かな」
其処からは河岸沿いを歩いてポン・デ・ラ・ギヨティエールでローヌ川をパール・デューに渡った。
店は開店を1時間後に控えて準備の掃除に余念がなかった。
買わなくとも先着の50人にウチワを配り、買ってくれた人にはセンスを100本まで出すと言うことにしてあるのでお針子の二人がウチワ配りの役目だそうだ。
陽が出てきてようやく雨も上がり石畳も乾きだしていた。
「此処で良かったわ。パンシオンの周りはまだ道が悪くて歩くのにも苦労するわよ。おつり銭用の細かい物も用意したし5フラン金貨で100枚10フラン金貨を30枚札と違って重くてまいるわね」
「パリと違って札より金貨だからね、それでコンフェクションはどのくらい用意できたの」
「飾ってあるのは50着、後100着は上に箱に入っているわ。明日にも200着がパリから届くわ。ただ紳士ものは30着しか用意していないのよ」
「其れはしょうがないさ。狙いはご婦人方だからね。新しいセンスとウチワが着たらまた配ってもいいな」
「でもキャミソール・デ・マリーならともかくスリップ・ド・クストゥにスリップ・デ・マリーではセンスを配っていたら儲けにならないわよ」
「二月は赤字で構わないよ。其の分はバスティアンのほうで埋めるつもりだからね。まずは顔つなぎさ」
「それなら良いけど」
「いまさら何をいい出すんだよ。儲けが出るのはどこか買えるか此処で拡張できてからの事さ」
「そんなに儲かると思うの」
「だって男物のスリップ・ド・クストゥだって同じような物さえはいている人は少ないんだぜ、口コミが広がればよそでまねされるまでは独占できるさ。ボルドーはコミッションで解決したけど、此処は幾らでも高級品を作って他の国へ出されてしまえばそれ以上は無理だよ。昔からの組合は口が堅いよ誰かが良くない事をしているとわかっても其れを密告したりしないさ。僕は其れよりも新しいデッサンを作り新しい柄を織り出してもらうほうが得だと思うのさ。それも君の役目さ、今までと違ってブランばかりじゃ飽きられるよ。其のためには店を任せられる人を養成してくださいね」
「もうショウは次々に未来の事を話すのね。夢に見そうだわ」
「そう其れさ。夢にまで見られるようになれば後は実現させるだけで良いのだからね」
「簡単に言うわね。儲けを全部つぎ込んで次のことをしても割に合うのかしら」
「此処は赤字にさえならなければ充分だけど、それでは君たちの手取りが増えないからね。投資金は僕がつぎ込むから心配しないで少し大げさかというくらいにしてかまわないよ。年内で5万フランくらいはつぎ込む用意が出来ているから其れは会計とは別にShiyoo Maedaからの投下資金さ」
「ああ、それであんなに高価なドレスまで作らせて宣伝効果を狙っているのね」
「そう僕たちの狙い目はブルジョワ、貴族階級ではなく街の庶民から抜け出てきた人たちさ。働けば余裕が出てきたと気持ちの余裕がある人が狙い目。だから本物とは違うがあのような金持ちとは違う自分たちのファッションが作られていると覚えてもらう事さ。其のうちアルフォンスのお針子でも引き抜こうと思っていたがナタリーが其の穴を埋めてくれそうだね」
2人は其の事も話し合った、それもナタリーが昨日書いたドレスなどのデッサンの下書きを見て絹布も20メートルでも余ると計算を出して有ったからだ。
「これだとアルフォンスと変わらないかもしれないね」
「そうこの娘の方がかわいさも優雅さも引き出せるようね。アルフォンスは実用的過ぎるのかも、サラ・ベルナールのように何を着せても引き立つ人ならともかく、私たちでは服に助けてもらう必要があるわ。ここに置いてあるものでもアルフォンスのものは胴がゆるいと思うのリボンで締めるというけどコルセットを必要とする人は居なくならないわ」
「其れは君たちに任せるよ。男の趣味を押し付けても仕方ないし此処は女性だけで運営させる心算(こころづもり)だからね」
正太郎は今朝、垣根越しに漏れ聞いた人たちの話をジャネットに話して良い織柄なら引き取っても良いだろうと話した。
「ジャポンの模様を織り込んであれば壁掛けでも売れるわよ。どの程度の物か見てみたいわね」
「明日まで僕は居るから何とか話をして見るよ。ソース・デュ・ソジャの壜は残っているかな」
「手付かずで3本あるわよ」
「では2本おくれよ。そいつをお土産にして訪ねて見るから」
店を開く前から噂を聞いた人が並んでいてオドレイはお針子の2人にウチワを持たせてから店を開けた。
「ボンジュール・マドモアゼル」
挨拶と共に入ってきた人に渡すと嬉しそうにくるくると廻しながら店の品物を見て廻った。
間口は6メートルだがドアを全開にしても3メートル余り、奥行きは8メートルだが事務室などの入り口が入って右にあるので其処までは陳列できないので表にいた6人が入ると正太郎の居る場所は事務室の中しかなかった。
花束を抱えたギヨー老人が現れ「私からお店へのプレゼントです」と急がしそうな様子を見てジャネットに渡すとすぐに店を後にした、正太郎が礼を言う間もないうちだ。
ジャネットは事務室にある花瓶にさっと投げ込むと飾り窓にあるマネキンの横に置いた。
最初に子供連れのマダムが親子おそろいの旅行服を買ってくれ「その下着は動きやすそうね」とジャネットに聞いた。
「二階がありますから試着してみませんか」
そう勧めて幾つかをもって上がるとカーテンを引いて親子を中へ誘いマネキンに着せてかけると「どうぞ直に肌に当てて下さって構いませんよ。試着したものは後で洗濯して孤児院等への寄付に当てますので販売に廻しませんから安心してください」と告げた。
「そんなことして商売になりますの」
子供に着せながらマダムが中から聞いた。
「ご心配にはあたりません。着てみて気に入られましたら其のままお買い上げいただきますので、パリでも店から選ばれたお方にはそうして居りますから。全ての方に肌に直接当てる事を許すわけでは御座いませんわ」
親子はカーテンを開けてどうかしらと下着姿をジャネットにみせてコルセットよりは楽だわと鏡に映る姿にも満足そうだ。
「奥様のお体はお子様が居られると思えないくらいすばらしい体形ですわ。あまりきついコルセットをなさらないほうが旦那様もお喜びになられますわ」
「そうなの、コルセットでしめた体はいやだと言うのよ。でもドレスをつけるときにどうしても必要なの。いいドレスに心当たりは無いかしら」
「まだ其処まで人が揃いませんが、すぐに奥様のご希望をかなえられるデッサンが出来る人をそろえますわ」
「其の時は真っ先にお願いするわ」
買い入れたばかりの旅行服を子供に着させるようにジャネットが勧めた。
「お母様これすごく動きやすいわ。このまま旅行へ行きたいくらいだわ」
「ではお家まで其れを着て帰りましょうか。私も着ていいかしら」
「どうぞお願いいたします。其れを着てお帰りになられれば下で考えておられる方への宣伝にもなりますわ」
着せてみると手直しが要らないほどぴったりだ。
「まぁ。奥様はパリのマダムと同じ体形ですわ。勿論向こうでもコルセットで締めないと此処までぴったりといたしませんよ」
ジャネットは商売も上手だ。
服と替えの下着なども買い入れて最初のお客は26フランを支払ってくれた。
親子はふたつのウチワを着替えた服と共に袋に入れ、貰ったばかりのセンスを広げながらジャネットに見送られて店を後にした。
「あのセンスは幾らなの」
「お客様、あれは今日から先着順にお買い物をしてくださればお土産に差し上げて居ります」
「いくら買えばいいの」
「品物がある間は1日お一人様が1品幾らのものでも差し上げて居ります」
「何度来てもいいの」
「其ればかりはご勘弁くださいませ。でも私たちのほうで気が付かなければ何度でも」
其れを聞いていた人たちは可笑しそうに笑いながらも品物を買い入れてくれ、もらったセンスを広げては喜んで店を後にした。
午前中にウチワがなくなりセンスも25本が出て行った。
「来た人の半分が買い物をしてくれたわ」
50人が来店してうちわがなくなったのだ。
「白地のフラールを出そう」
「いいのあれは高価よ。小さな物でも2フランよ。センスと変わらないわ」
「いいのさ。小さいほうを全部配る心算で出してください。確か1000枚はあるはずだよね」
「小さなほうは1100枚持ってきているわ」
「では其れを其のままむき出しでいいから配ろうよ。ほらお針子の2人が心配そうに見ているよ。表に入りきれない人が居るみたいだ」
すぐに100枚のフラールを出して二人に手渡すと表の人に「今中が混雑していますので少しお待ちくださいね。それとウチワのサービスは終わりましたが。これからはフラールをお配りしますのでお許しください」
「あら期待していたのにもう無いの」
「その代わりお買い物に付けるセンスはまだありますのでどうぞ中でお買い物をしてくださればまだお配りできますわよ」
やはり国は違ってもサービスという言葉には弱いのが奥様のようだ。
ナタリーが店にやってきて配り物をしていたアンヌ・マリーと替わって呉れた。
「良かったわ替わってくれて」事務室に来て冷たいレモネードを正太郎に貰うと言われないうちに「あの娘私と又従姉妹くらいかな。少しは親戚になるようなのよ」
「ほう、そうだったんだ」
正太郎は張られていた勤務表の名前を見るとアンヌ・マリー・リガールとしてあった。
「あのこの名前は一度で覚えるのは大変よ。ソフィー・ナタリー・イルマシェ・リガールというの。普段はナタリーだけどイルマシェは母方のほうからのでどうしてもと全部つけちゃったの」
「そりゃ大変だ。君の名前はこれだけでいいの」
「そう、私のうちは親が面倒だからとそれだけで済ませたの。ジャポンではどうなの」
「長い人も居るけど普通は僕と同じような人ばかりだよ」
「ムッシュー・ショウはショウが家の名前なの」
「いやShiyoo Maedaのマエダのほうだよ。横浜ではヂアン・ショウとシーヌの人が言うのでいつの間にかショウだけのほうがとおりが良くなってそうなったのさ。其れだと何処の国の人でも呼びやすいそうだよ」
アンヌ・マリーは壜が空になると入り口のアン・マティルドと入れ替わった。
アン・マティルドも同じように冷えたレモネードをおいしそうに飲むとナタリーと替わるために入り口に向かって入ってくるお客を迎えた。
「ボンジュール・ムスィウ」
「ボンジュール・ナタリー。はじめましてだね」
立ち上がって氷で冷やされたレモネードを出して上げると驚いたように言い出した。
「ムッシューのお国はジャポンですよね」
「そうだよ。ジャポンのYokohamaだよ。名前はヂアン・ショウというシーヌ風のものとShiyoo Maedaという自分の物が有るけどね。だからショウだけで何処でも通じるんだよ」
「私のペールのところへ来たジャポンの人はずいぶん小さい人たちだったわ。ムッシューと違って肩幅も無いし。ムッシューはずいぶん背が高いですのね」
「そうかもね、Yokohamaに居た時からそういわれたよ。君のペールは何をする人なの」
「小さいけれどジャカールの機械で反物を織っているわ。主にドラ・デ・リ(drap de litシーツ)やリドー(Rideauカーテン)の生地が多いけど後はリンネルのクロスの注文がくるわ」
「そうなんだ。それで其の人たちは今でも君の家で働いているの」
「いいえ彼らはドレスの生地を織りたいそうよ。其れも高級なソエが希望なので自分たちで家を借りて勉強しているわ」
「今朝散歩をしたときにクロワ・モラン街のグルマンというパティスリーの近くでジャポンの言葉が聞こえたけど其の人たちかな」
「そう、其の人たちに間違いが無いわ。古いティサージュをバッタンと名づけて大事に扱っているわ」
「今日は店も忙しいからタイユの測定などしていられそうも無さそうだから其の人たちを紹介してくれるかな。自分たちで家も借りて勉強しているのでお金も大変なようなことを言っていたので一度会って、出来上がったものを売る気があるか聞いてみたいんだ」
「良いわ。食べる物やお金が大変だと聞いたけど糸を買って色つけも自分たちで勉強しているみたいなの。Tiyuusichiという人はジャカールの使い方を覚えるのと型抜きを覚えるので午後は私の家に来るはずよ」
「では君の家に先に連れて行ってくれるかな、エベルーで蒸気式と水力式の器械は見たけど君の家はどっちなの」
「家は蒸気式よ。今15台稼動しているわ」
「そりゃ凄いね。後小さな手織りのところも機会があったら教えてくれるかな」
「良いわ。コミッション無しで連れて行くわ。家にもまだ古い手織りの織機(おりき)が沢山残っているわよ。動かす気も無いようだけど」
「そういわずにコミッションはドレスの絹布生地でどうかな、どんどんデッサンしてうちのオドレイにシルヴィの2人が縫い上げるのはどう。其処から気に入った生地を使って自分用も作って良いよ。勿論お針子代も此方で持つしデッサン代は別に弾むよ」
そばで聞いていたマダム・デュポンが「いい話じゃないの、頂ける物は頂きなさいよ」と口を添えてくれた。
「あなたのデッサンとても素敵よ。私とオドレイであなたが気に入るように縫い上げるわ」
「そうね私も自分のデッサンの服が出来上がるのを見たいし、お金になるならお願いしますわ」
「其れで決まりだな。じゃ僕たちはどこかで何か食べて君の家に行こうか。此処はどうするの」
「私たちは、出前が来るわ。ショウが居るから増やそうかと考えていたのよ」
ジャネットがドアに寄りかかりながらそう言って二人を追い出した。
「何がいいかな」
「さっき話が出たグルマンのオレンジピールで作ったオランジェットでカフェ・クレームなどいかが」
女の子だなと思ったが「それに何かつかなくて大丈夫なの」と聞いて上げた。
「それならクサン・ド・リヨンも頂きたいわ」
「そうそう、遠慮しても損するだけだよ。僕のパリにいる彼女も友達にいつもどうしてそれだけでいいのなんていわれているけど、付き合う人も同じにする必要は無いといつも言うのさ。僕も昔より食べられるようになったけれど、どうしても人並みには入らないのさ」
「まぁ可笑しいわ、うちに来ていた人たちは小さいのに沢山食べるわよ。時々遊びに来るとメールが驚くくらい3人とも食べるのでジャポンの人は皆そうかと思っていたわ」
確りした足取りで歩くナタリーに合わせて歩くと30分もしないでグルマンについた。
1時間ほど話をして時間を見ると12時半「家ももう食事が終わった頃だわ。きっとTiyuusichiも来て食べているわよ」
店から50メートルほど西へ歩くとナタリーが言うには其処からが敷地だそうで、建物脇には日なたで談笑する男女の姿が見えた。
路地を挟んで手前が事務所と倉庫に家族の住まい、其の先が工場だった。
「今16人働いているわ。器械を動かす人以外はお給金が安いの、それでも今は売値がどんどん値が下がるとペールはこぼしているわ。売り渡し先を替えるのも上手く行かないようなのよ」
「確か15台あると聞いたけどそれでも経営は厳しいの」
「50台くらい動かして自分で売り渡し先まで持てるところは価格でいじめられないけど家くらいの規模が一番難しいそうよ。手織りでも高く売れる技術があればともかく今は美的感覚など無い人でも器械に従っていれば出来上がるのですもの」
「輸出組合はあまり上手く機能していないの」
「組合も今は買い手に良い様に操られているわ。余分に織って其の分でも買い手があればいいのですけどね」
「買い手さえあれば良い模様の生地が織れるかな」
「其れは大丈夫よメールはファブリケーション・デ・カルトの名人よ。どんな模様もcarte perforeeに打ち抜けるわ」
「そりゃいいな。実はフラールの模様に花柄を入れたいんだがどうかな。ジャポンに輸出したいけど1000枚は欲しいけど幾らぐらい掛かるかな」
「兄に頼んで計算を出してみるわ。今日いただいたものくらいでいいの」
「いやもっと大き目のものが欲しいのさ。絹布で1メートル角位がいいな」
「それで花柄の位置はどうするの」
「三角に折ったときに隠れないように隅に二ヶ所」
「デッサンをして計算をして見るわ」
「頼むよ」
2人は工場へ入り父親のジャン・ジャック・リガールと母親のリリ・マリレーヌに紹介された。
「丁度良いTiyuusichiが来ているが中々通じない事があるんだ。聞いてあげてくれないか」
呼ばれてきた男は三十過ぎの理知的な人だった。
「僕はYokohamaから来た前田正太郎といいます。横浜では清国の人が呼び名をヂアン・ショウと付けてくれたのでパリではショウと皆が呼んでくれています」
「あては忠七おす。京の都から此方へ派遣されどしたが、言葉が思うように通じきぃひん。機械について教えてくださると助かるおす」
「器械は良く判りませんが、忠七さんが知りたい事を書き出してくだされば、僕が聞いて判りやすくお話いたします。今日はとりあえず疑問に思うことを聞いてみてください」
「あては器械の組み立てと取り扱い其れと修理が課題おすが、此処にある蒸気式では常七さんは京の西陣では扱えあらへんから、昔の手織り機を覚えろと言うのおす。しかしこれからのことを考えると蒸気式の器械も知りたいのおす」
仲間内で日本を発つ時と意見の相違がでて悩んでいるようだ。
「判りましたではまず昔の手織り機の取り扱いは出来るのですね」
「其れは常七さんがバッタンで織り込むことは何とかでけるようになるどすが、紋彫機が操作できずに困っているどす」
「其れは機械に入れるカルトのことですか」
「かるとおすか」
正太郎はジャカードのそばへ行き「此処へ入れる厚紙もしくは木版です」と教えた。
「carte perforeeよ」
「カルト・ペルフォレーでいいかなイギリスだとパンチカードというんだけど」
「其れで通じるわパンチカードでも判るはずよ。ねペール」
「ああ、そうだ」
どうやら納得したようで「カルトで大丈夫どすかえ」と聞いた。
「其れで通じるよ。この機械の扱い方が判らなかったのかな」
正太郎がゆっくりと同じ事を発音してから日本語に直して聞くとそうだというので穴の開け方と其の模様が何を表すかを箇条書きにして渡した。
「後は自分で開けた穴が模様を出すかどうかを勉強するしかないよ」
M.リガールが言う事を判らない事を聞きながら器械の周りを廻った、休み時間が終わり器械の騒音が激しくなり「また明日の朝に来るから其の時に」と言ってナタリーと3人で外に出て今朝通りすがりに此処へ来た話をすると恥ずかしそうに小さな声で話し出した。
器械を買って帰る為には1万フランは残しておきたいがそれでも足りなくなりそうな上に糸代が嵩んでいると言うことのようだ。
「ナタリー君のところで遊んでいるという昔の手織り機を安くこの人たちに別ける事はできる」
「出来ると思うわ。確かティサージュが30台はあるはずだから半分売っても困る事は無いはずよ。扱える職人を雇うのは大変だもの」
「では必要なのは穴あけの器械とジャカールの読み取り機だな。其れの値段を調べてくれるかな。この人たちが持っているのはどのくらいで買い入れたのかな」
忠七に聞くと全ての器具一式を月200フランで借りているという話だ、住居と工場で200フラン、食費に100フランで合計500フランが出てゆくほかに染料と撚糸に金が掛かるという話だった。
「自分たちの給与として計算された金を足してもこれ以上は無理が出てきたのです。今朝の魚も朝早く市場で安く手に入れましたが塩しか無い上に米もありません」
「米は日本と違いぱさぱさだけど炒めれば食べられるし、おかゆにすれば大丈夫ですよ。其れでお土産の醤油を持参しましたので置いていきますよ」
日本から波佐見の磁器に入れられた溜まり醤油を二つ忠七に渡すと大喜びで家に入り土間で仕事をして居る2人に「日本の人からの土産の醤油だ」と嬉しそうに醤油の入れられた壷を振って見せた。
ちゃぽ、ちゃぽという音は3人に喜びの音に聞こえたようだ。
練習中だという織られた布を見せてもらい糸の数を中々増やせないという話から正太郎が買い入れても良いからカルトを借りて生産して見ないかと持ちかけた。
「売り物になるでしょうか」
「今此処で日本式の柄を織るよりもリヨンで扱う柄で織ればパリやアンベルスの街で売れるはずですよ。ただね」
3人のごくっと言う喉鳴りが聞こえたと正太郎は思った。
「値段が安いのは我慢してもらわないといけませんが、僕の店で織られた物は全て買い入れますよ」
「本当ですか。京のほうへ此処で練習したと送らないといけないのですが」
「其れは月に一度くらいで済むのでしょ」
「そうです120メートルほどは来月にも送っておかないと既に半年たちますので」
「待ってくださいよ。もう半年も此処にいるのですか」
「いや国を出たのは明治5年の10月でした。グレゴリオ暦の12月1日に神戸を出ましたが今は5月だそうで、マルセイユについたときは1月の28日でした」
「日本でもグレゴリオ暦に変わったことは聞かれませんでしたか。明治5年の12月3日を6年の1月1日になったのですよ。ですから今は日本も暦が同じです」
そうかそれで手紙の日付が可笑しいのかと納得したようだ。
発音があやふやでも出来るだけフランス語で話をして通じない時はイギリスの言葉、日本の言葉を交えてでも話すことですというと正太郎の倍の年の3人はうむうむと肯いてナタリーにこれからもよろしくと頼み込んだ。
器械の絵をナタリーが描きこむ傍で正太郎がカナで名前を書き込んでおいた。
ファブリケーション・デ・カルトが穴を開ける操作でカルト・ペルフォレーもしくはパンチカードがジャカールへ差し込む厚紙である事。
バッタンと言っているのはティサージュだと言うことなどを書き加えた。
問題は糸の色だが其れは見本をペールに聞いて紙に張っておくと言ってくれた。
「今日はM.ジルベールは来ないの」
「払う金が無いので先日断った」
「それでは糸の取り付けにも困るでしょ」
ナタリーが言っていると「ボンジュール・マドモアゼル」と後ろから声が掛かり60近いかと思われる老人が入ってきた。
「この人たちも困るだろうから様子を見に来たんだがそんなに困っているならわしの給金は半分でも良いよ」
「まぁ、何を言うの、ジャンそれではあなたが困るでしょ」
「なにわしは食べられればそれでいいのでな」
話を聞くと週5日、1日3時間で15フランだそうだ、1時間1フランはいい値段だが食べてゆくには老人といえど週15フランでは大変だろう。
「同でしょう私が先生の給与を25週間分出すと言うことにして品物の先払いに当てませんか。お金の管理を誰かしていただけるならすぐにでも支払えますが」
老人も全て先払いだと無駄に使うというのでナタリーが預かると助かると3人が頼んで375フランを預かってもらった。
「皆さんのお金はクレディ・リヨネ銀行ですか」
「そうです神戸からクレディ・リヨネ銀行の本店に3万フラン振り込んでもらいましたが掛かりが多い上に帰りに器械と3人の船代に12000フランは無いと困ります」
「そうですね1等の船代が2300フラン、3等でも1700フランは掛かりますから3人が3等で帰国するにしても5100フランは掛かりますね。荷が多ければ保険代も含めると4000フランは見ないと送れないでしょう」
残りが2万5千フランをきってしまったと言うことはあと半年の滞在に3000フランと見て器械の買い受けに11000フランがやっとと言うことになるようだ。
それでは糸を買うにも苦労すると言うのは本当の様だと計算をした正太郎は糸代金も先払いすることにした。
「M.ジルベールこの人たちにソエでフラールを織る練習もさせたいのですが、良い柄のカルト・ペルフォレー(carte perforee)を借り入れるのに幾ら月に払うようでしょうか」
「キャトルサン・トラントドウにシスサン・キャラントユィットにするかね、そうさなわしの顔で1枚1月50フランなら。でも新しい柄は高いぞ」
3人はお手上げだという顔をした。
「いつもこの話で判らなくなります」
正太郎はナタリーに確かめて図面を描くとジャカードに付けられたカルトを指差して「この全てに穴があくと言うことはありませんが此処は穴を開けられる場所と言う事だそうです
27x2=54x8=432と27x2=54x12=648の計算だそうだ。
3人も数の数え方で苦労したようだが洋数字に書き表せば簡単に通じるのだ。
正太郎は老人に図柄と口数に色は任せようと思った。
「いえ昔の柄のほうがいいのです3種類を2ヶ月借り出してくれますか」
「なら勉強にもなるし少し難しいものを借り出してあげるよ。糸はどうするね」
「其れも色別に手配できますか。染色も此処で学べるかどこか紹介してあげてください」
「良いとも、わしの友人を色染めが必要な時は連れてくる。ナタリーが付いて来れば糸屋も値段で無茶を言わないだろう。なんせこの娘の爺さんだからな」
金額はどの位必要か聞くと「1500フラン出せば十分じゃ。追加を買うにもそれだけ使い切るには2ヶ月は掛かるわい」と答えが返ってきた。
「それでどのくらいのものが織れるのですか。幅を80センチ以上欲しいのですが、タフタクロスにファイユが希望です。フラールにしたいのでね」
絹布とリンネルでそれぞれ3000メートルと返事が返ってきた。
「では其処からジャポンへもいいものが出来れば120メートルずつは送れますね。それでこの器械ですが一式買い入れるのに幾らくらいでしょうか」
「ティサージュは幾らでも木製の中古が街にあるから100フランもいらないだろう。ジャカールルームは手放さんだろうから買い入れるに400フランから600フラン、カルト・ペルフォレーの打ち出しなどの器械に200フラン。ざっと700から900フランかな」
「ではいま借りている機械を買い上げましょう。帰国までの借り代で買い取れるでしょう」
「其れは良いことだそうすればこいつを持ち帰られるというものだ」
三人と相談するとcarte
perforeeは3台分、Tissageを全て中古にして20台にしてJacquard loomが20台、それでも10600フランは必要になると言うのは計算が上手く行き過ぎていっぱいいっぱいで余裕が無さ過ぎるという話になった。
「仕方無いさかい六四八というほうは諦めまひょ、ちっこい四三二のほうにするしか無いだっしやろ」
「其れでは後でおぅじょうするどす、半分ずつはともかく5台は買い入れまひょ」
まぁ其れはおいおい相談と3人は決めた。
正太郎はまず電信で追加資金の話を打診して手紙で計算書と何を買い入れるか報告されたら如何ですかと相談するように話した。
「電信では簡略に追加資金を出していただきたいと言うことと計算書を送ることと試作品を自分たちで織り上げそれも送ることを書いて打てば手紙が着く二月後には向こうでもどうするか決まっていて製品しだいで追加資金が出るでしょう」
「そうか府庁の勧業資金も豊かでひんので無理かもしれあらへんがでけることはしておこうかいな。ほんで蒸気式と水力式の価格は調べてあるのかいや」
「はい常七さん調べておます」
「その計算書を報告書と共に送るから清書して置いておくれやすよ」
ファイユ(faille)はたての糸を密にして丈夫にした横うねのある絹織物で、タフタ(Taffeta)が絹や他の繊維で編んだ薄い平織物に綾織の薄地絹織物のことと3人にナタリーの助けを借りて説明した。
タフタクロスにファイユに必要な糸を早速5人連れ立って買い入れに出向いた。
家を出ると自宅へ入りナタリーは母親に祖父のところで買い物があるが伝言はあるかと聞いた。
「何も無いよ皆元気だと伝えてよ。馬で行くかい」
「荷馬車をジャンに引かせてジャポンの3人を乗せていくわ。私はジュディにするわね」
ナタリーが荷馬車を引き出して2頭の馬をつけ、正太郎に馬に乗れますかと聞いてきた。
「乗れるけど荷馬車は上手く扱えないよ。ロバに引かせたことは有るけど」
「大丈夫よ荷馬車はジャンが扱うわ。じゃあなたはこの馬に乗ってね。私はこっちにするから」
ジャンは先に3人を乗せて出るというのでセルヴィエットを忠七に持ってもらった。
マダム・アッシュ・アンジェルのテルメ街23番地の先に其の店があった。
糸屋のソエ・イルマシェといわれている店だ。
ナタリーとジャンがM.イルマシェと話し合って様々な糸に染料を買い入れた。
計算書は1036フランだった。
「もう少し買い入れておいたほうが良いよ。僕はいつもリヨンに居る訳じゃないからね」
ではとばかりにリンネルの糸に太い糸を選んでこれもいいかなと正太郎に聞いた。
「僕は糸がわからないけど常七さんと伊兵衛さんが試してみたい物は買い入れて良いですよ」
3人は相談していたが目串を付けていたらしい糸の束を出してもらった。
それらは620フランだというのであわせて1656フランを金貨で支払った。
計算書は3人に渡して先払い金の額を2031フランと言うことを確認してもらうと金貨で80フランを「これは当座の食費に当ててくださいね」と渡しカルトの買い取り代金の1000フランも渡した、合計3111フランの先払い金の書類を2通書いてサインしてもらい双方が持つ事にした。
「明日の朝僕達の店で今までのもので売り払っても良いという品物に値段をつけて持参してください、その際双方が持つノートを用意してこの金額に達するまで織った品物を引き取らせていただきます」
ジャン老人は「メートル当たり平均40サンチームくらいでできるかな」とつぶやいた。
「そうですねベキュ&ブランディーヌは6000メートルで3700フランでしたからいいところでしょう」
ノートを見て「一昨日もティスュ・ド・ソエは600メートルで370フランですね。62サンチームくらいですかね」と老人に話した。
糸屋にナタリーとジャンが話あっていたがリンネルは40サンチーム、ソエは55サンチームでどうかと3人の日本人に申し出てくれた。
「そあらへんにいただけるのおすか、あてたちのはまだ試作品でそれほどええ物ではおまへんよ」
正太郎に口々にいう3人は信義に厚そうに思えた。
「まぁまぁ、これではまずいと思うならいい品物を織り上げる努力をしてください。忠七さんはM.リガールの工場で器械の分解と組み立てを今から確りと覚えてください日本に送るにしてもそのままではかさ張って運送費が高くなりますからね。何がいくつあるかを確認しながら書面を作れば日本に戻って誰でもが組み立てに困りませんからね。2台くらいはかさ張っても其のままつめば船の中で組み立て分解の練習が出来ますよ。そのためにも1等船室で帰れるようにおかねの算段をしてくださいね」
3人を馬車で先に帰らせると正太郎は背中にセルヴィエットをくくりつけてナタリーとマダム・シャレットの店へ向かった。
店ではようやく6時半を過ぎて人の足が途絶えたとそろそろ計算をして店を閉めることにすると在庫確認をしていた。
センスは63本がでてウチワが50本にフラールが136枚、来客が186名で買い物をした人が63人であった。
「凄いね新聞に載ったと言ってもこんなに小さい記事でよく人が来たね」
「そう此処にジャポンのお土産をマダム・シャレットからプレゼントしますと書かれているだけですものね」
「それだけでも25フランも取るのよ。呆れたわね。明日もセンスを配っていいんでしょ」
「勿論さなくなるまで配って良いよ。其れでお針子の娘達にはあげてあるの」
「そうよパリから一番いい物を10本持ってきたでしょあれを新聞社に3本とナタリーたちに3本後4本あるわよ」
オドレイとシルヴィが計算を集計して在庫表とつき合わせてジャネットに出した。
「お金と有っていました」
「あら凄いわね、あれだけ小物を売ったのに盗まれた品物も無いなんて此処の街の人は正直ね。パリだとこうは行かないわ」
3人で笑い出したのを見てナタリーは自慢そうに「リヨンは街自体が素朴なのですわ」と誘われるように笑い出した。
初日の売り上げは416フラン80サンチーム、ジャネットの予測を100フラン以上も上回っていた。
小さな店でこれだけ売れるとは正太郎も予測していなかったがアルフォンスの服にパリで仕入れた服は若い婦人には魅力なのだろうと思った。
「これだとブティック・クストゥの時よりいいみたいだね」
「リヨンではそうは行かないかもね。向こうと違って後がどの程度になるか予測もつかないわ。ショウは明日パリへ戻ると今度は何時来るの。4日とは聞いたけど其の前に来る予定は無いの。エメを連れてくればいいのに」
「学校しだいだよ。マルセイユまで行く日程が取れればいいけど」
正太郎もエメとマルセイユまで出迎えに行こうかと考え始めていた。
馬をリガールの工場で返してナタリーと別れ、歩いてポン・モランを渡った。
まだ陽がクロワ・ルースの丘の上で踏ん張りローヌの流れにはムエットが漂っていた。
「ムエットか、あれは都鳥という奴かな」
此処リヨンへ来て何度も見たはずなのに正太郎は其処に立ち止まって川を上ってくる蒸気船を眺めながら頬杖を欄干についていた。
オペラ座ではミニヨンの開演を待つ人が並んでいたし、バルトルディの泉には若い恋人たちが何組も見られた。
「ホテルへ戻るかどこかで飯にしようか」
1人でリヨンの街をうろつくのは朝だけにしないと寂しいもんだなと思いながらカフェを見つけて中へ入った。
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