横浜幻想 | ||
其の十二 | Moulin de la Galette | 阿井一矢 |
ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット |
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Paris1872年6月9日 Sunday 正太郎の隠密費を当てにしてのキャバレーだ。 といっても此処デ・ザササンはシャンソニエで、小さな酒場にしか過ぎないのでセルヴァーズ(女給仕)も3人しか居ない小さなものだし、勘定も安いのだそうだ。 「俺は貧乏だからおごりでなきゃ行かない」といっていたラモンだが酔えば盛んに女たちに酒を奢りだしはるかに予算をオーバしてしまった。 おまけにニコラの付けを清算したら58フランも払う羽目になり大弱りの正太郎だった。 女に一番もてるのはニコラだが、ラモンの歌うスペインの歌は多くの客から絶賛され彼が一番の人気者だった。 Dimanche(日曜日)の朝に正太郎がまだ日本に送っていないルノワールの絵を長い間見ていたラモンは正太郎を部屋に誘った。 女性の絵を描いているのを見せてくれて、太った若い女性の絵が多く置いてあり此処にはModelに為る女性を呼び入れたことなど無いので「どこでモデルに為って貰うの」と聞いてみたが自分の頭をさして「ここで想像するのだ」と言った。 「絵が売れるようにならないとモデルが雇えない」と酔うと泣くとニコラが言っていたが其の必要もなさそうだったしなぜニコラはその様なことを知ってるのかと不思議だった。 ルノワールの絵があるうちはそれがモデルになるさとラモンはあっさりとしたものだ。 服装に煩いニコラはこの間正太郎が買ったルパーシカを農民の着る服だとさもいやそうに見ていたが着てみると鏡の前で前後左右を見て「俺は何を着ても似合う」とにやけていた。 昼間からニコラがMoulin de la Galetteに行こうと誘いに正太郎の部屋へ来たのだ。 「昼間から酒ですか」 「いやあそこは昼の食事も出きるし、女たちとダンスをすることが目的だ。もっとも正太郎が飲めというならいくらでも付き合うぜ」 「そういえばダンスを習ったことが無いので流行のステップなど教わりたいです。散歩にでも行きながらどこかで昼を食べようと思っていました」 「そうか、そうか俺がいい教師を紹介してやるよ」 揉み手をしてうれしそうに言うからには此処も付けが溜まっているなと思う正太郎だがこの際彼の借金の清算を全部してもこの間のシャンティでの儲けで何とかなるだろうと考えた。 「仕方ない後でニコラからたっぷり儲けが出る仕事でも引き出せるならいいが、この人にはパトロンのつもりで無いと無理のようだな」 そう思う正太郎だが旦那が友達を大切にすれば自分も誰かに大切にされるといつも言う言葉を思い出して儲けのことは埒外に置くことにした。 二人でモンマルトルの丘を越えてソウル街を真っ直ぐに進んで、人で溢れているル・コンスラ(Le Consulat)の先でルピック街へ入った。 下り坂をジラルドン街との4つ角まで来ると人が大勢入っていく風車の下のMoulin de la Galetteがある。 此処から見ると風車は3ヶ所「ムーランギャレットのところのは本当はMoulin Radet(ムーラン・ラデ)というんだぜ。其の次がMoulin de le Blute-Fin(ムーラン・ドゥ・ラ・ブリュット・ファン)一番向こうがMoulin de la Galette(ムーラン・ドゥ・ラ・ギャレット)だ。あそこに有る展望台は遊びに来るやつでいつも人が上がっているぜ、あそこからパリの半分は見渡せる」 ムーランギャレットの入場料は25サンチームでそれをニコラが払って中へ入った。 日曜の昼間とあって親子連れの姿まであり酒場とはまた違う雰囲気のムーランギャレットだ。 部屋を通り抜けて木陰のテーブルを選んで座ると中年の女が来て注文を取って戻るとすぐに若いブルネットのセルヴァーズがやってきた。 「アラ、ニコラ此方新顔ね。でも貴方この間の賭けのお金を払わないとたたき出されるわよ」 「脅かすなよ。たった20フランじゃないか」 「冗談言わないでよ。あたしの付けに為っているのも30フランを越したのよ。いくらかでも払わないならさっきの注文以上はもう駄目よ」 「すみませんニコラが貴方をからかっているので僕が謝ります。僕が財布を預かって居て少し黙っていろと言われていたんです」 「あらそうなの、それでニコラいくら持ってきたのよ」 正太郎が財布を出して「ここにニコラさんから20フランの金貨を3枚と20フランの札2枚を預かっています。合計100フランです。まず60フランで今日までの勘定を済ませてきてくれますか」 「10フラン近くは残るわね。それで今日は勘定できる予定ね。残りの40フランはどうするの」 「よせよ。少しは残さないと夕飯も食えん」 金貨を持って女が去ると「すまんこの埋め合わせはきっとする」ニコラは照れて頭に櫛を入れながら謝った。 BeerとCrepes de Pomme de Terre(クレープ・ド・ポム・ド・テール・じゃがいものクレープ)を給仕が届けにきてニコラは早速一杯とコップに注ぐと一気に飲み干した。 「ニコラ此れがおつりよ」 9フランと25サンチームを持ってきてニコラに渡してほかのテーブルに注文を取りに行った。 ニコラが正太郎に渡そうとしたので「poche(ポシェ・ポケット)にしまってくださいそれで今日の勘定をお願いします」 ニコラはうれしそうにポケットにしまうとクレープにかぶりついた。 食べ終わると正太郎にダンスを教えようと広場へ連れ出してこういう風に手を組むんだと近くを通りかかった女性の手をとって踊りだした。 さすがに場馴れしていて動きも軽やかでアコーデオンの音を手で合図してアップテンポにして一回りしてきて正太郎を「俺と同じメゾンデマダムDDの住人だ。ステップの踏み方を教えてやってくれ」そう頼んで自分も一緒に正太郎の周りを一人で廻った。 相手を変えて何度も踊るうちに正太郎もだいぶこつを掴んできた。 「な、ダンスは実践が一番さ、いろいろな相手と踊れば癖も付かないから綺麗なステップが付く」 ニコラはそう自慢してまたテーブルに戻ると「冷たいビールを頼む」と通りかかったセルヴァーズに頼んだ。 「なぁショウ、君はフォリー・ベルジェールの常連だって」 「まさかジュリアンのほうがだいぶ通っていますよ。僕は3回しか行っていませんよ」 「それなのにあそこの女たちには人気があるそうじゃないか」 「そんなことありませんよ。この間おかしな行き違いからシャンティへ行くことになってサラとヴァルテスにエメの三人と付き合いが出来ただけです。あそこで働いている人の知り合いといったらエメだけですよ」 「それだけでもすごいぜ。しかしショウは金儲けが上手いそうだがどうやるんだ」 「この間はたまたま馬の新聞を読んで人気が有るはずなのに評価が低いのでレヴィンから買っただけで偶然ですよ。金儲けの種はまだ何も掴んでいませんよ。皆さんに奢れるのもあの金がある間だけで、後は留学費用のほかに余分などありません」 「噂ではフランス郵船が後押しして商売をさせてやるといっているようだぜ」 「それはただの噂でしょう」 「俺には何も隠さなくていいぜ。俺には金は無いがコネだけはあるから商売になる種があるなら俺に話してみな、きっとどこか引っかかりを付けてやるぜ」 「ありがとうニコラ。横浜の店から商売用の金がフランス郵船に送られて来たらワインかシャンペンをまず買い付けてみようとジュリアンとポンティヨンさんが考えてくれています。後は何がジャポンに送って儲かるかを考えている最中です」 「そうか考えがまとまったら力になるからな。俺は事務方だが同期は一線の刑事が大勢いるから力になるぜ」 「エ、ニコラは会計士ではないのですか」 「会計士だが、つまらないことにLa Police Judiciaire(司法警察・現パリ警視庁Prefecture de Police 7, Boulevard Palais・以下本文では警視庁と表記)に勤めてしまったのさ。裏方というのはつまらねえ物だぜいつももっと経費を節約してくれと小言ばかり言わなきゃならん。いくら経費を使ってもいいから犯罪を予防してくれなんて言う訳には行かないのが悩みだ」 「会計とはいつも裏方で大変な割に評価が低いのですね」 「そういうわけで俺はいつも貧乏なのさ。金は目の前にあっても手をだしたり出来ないからな。俺みたいな遊び好き酒好きにはつらい話だがほかに仕事を探すのも面倒だ」 彼はダンとほぼ同じ道をオムニバス馬車にトラム(馬力路面鉄道)を乗り継いでシテ島のオルフェヴル河岸まで毎日通っていたがオフィスは警視庁の中だったのだ。 メゾンデマダムDDに住まいを決めたのは単なる偶然だとしか言わなかった。 ニコラは其の後もしばらくキャバレーにカフェシャンソニエやキャフェ・コンセールの話を続けて「そろそろ帰るか」と勘定をして店を後にした。 つり銭を返さなかったのはうっかりしたのか、わざとうっかりした振りなのか正太郎はそれを考えるとニコラが以前より好きになっている自分に気が付いた。 今日誘ったのは正太郎に借りを払わせる替わりに自分の仕事を教えるためと、ドゥミ・モンドも自分の管轄に入っていることをそれとなく教えるためなのかもしれないと思う正太郎だった。 |
Paris1872年6月10日 Monday 住人のうち男はすべて仕事に学校にと出払った、正太郎もこの日は朝からアントワープへ商売に出掛けていたジュリアンが戻る日なので、待ち合わせ時間の12時までに散歩がてら丘を越えてクリシー大街へ出て夜の喧騒とは違う繁華街を歩いた。 通りの名前を確かめながらオペラガルニエまで出て前にあるインターコンチネンタル・ルグラン(InterContinental Paris Le Grand)の前で時間が10時になった。 「さぁどっちに行こうか、D'Artagnanの話の住まいは本当にあるのか探してみるかな」 2時間の余裕が正太郎を左岸へ向かわせた、Le Pont au Change(シャンジュ橋)からシテ島に入りパリ警視庁の前を通り抜けLe Pont Saint-Michel(サン・ミシェル橋)から6区へ入った。 サンジェルマン大街のトラムの馬車鉄道を横切り200メートルほど先左側ボージラール街へ入った。 大きなリュクサンプール庭園の端から宮殿を眺めて一休みして地図を見直した。 アンリ4世にイタリアのメジチ家から嫁いだ王妃マリが、王の死後、故郷のトスカナ風の宮殿を建てたのが250年前、今は国会としてフランスの運営を任される人が集まる場所だ。 「ダルタニャンが住んでいた街は11.rue des Fossoyeurs(フォッソワイユール街11番地)とrue Servandoni(セルヴァンドーニ街)という風にふたつ書いてあってセルヴァンドーニ街は地図にも有るけどフォッソワイユール街はなかったから名前がかわったようだ、今はなんと言うのだろう」地図を手にリュクサンブール宮殿の先へ歩きだした。 「あったぞ、セルヴァンドーニ街だ。此れがあのダルタニャンの住んでいた街かな。道の先にはplace Saint-Sulpice(サン・スュルピス広場)があるようだ。ということはアトスの家が有るrue Ferou(フェール街)はこの地図のひとつ先の道だ」 Parisへはいって早速買って今でも昔読んだときと同じ興奮が起き胸躍る話だ。 Tous pour un, un pour tousこれは、皆は一人の為に一人は皆の為に、と言うことなんだろうなと正太郎は思っている。 たった一ヶ所出てきたこの言葉がこの本を貸してくれたジラールのお気に入りだった「たった一人で横浜へ来て其の言葉が真実だったことがわかった。俺は本心からこの本を書いたデュマ・ペールに感謝しているんだ」其の本を正太郎のフランス語の勉強のために貸してくれたことを今でも感謝しているし其の感動が忘れられずパリに入ると暇を見つけて本屋で其の3部作を買い入れたのだ。 フォッソワイユール街11番地にボナシュー家がありダルタニャンが間借りしていたと書かれていることを記憶していた正太郎はこのセルヴァンドーニ街11番地がそうかも知れないと5階建ての建物を見ていた。 モンマルトルとは違いこのあたり5階建ての建物が多い。 正太郎はダルタニャンがパリへ出てきたときの話を思い出した こうしてダルタニャンは、小さな包みを小脇にかかえ、徒歩でパリの町に乗り込んだ。そしてほうぼうを駆けずり廻ったあげく、乏しい財布と釣りあいのとれた貸し間をひとつ探しあてた。貸し間といっても納屋みたいなもので、リュクサンブール宮殿に近いフォッソワイユール街にあった。 そのときには番地までは明記されずだいぶ後のほうに出ていたのだ、そのダルタニャンの借りた貸間は控えの間と寝室の二部屋で大家はムッシューJacques-Michel Bonacieux(ジャック・ミッシェル・ボナシュー)でle mercier(小間物屋)を営んでいたが今正太郎が見ている建物はホテルとsalle a manger(サラマンジュ・食堂)があった。 「ショウ、ショウ何をぼんやり見ているの」 振り返るとエメがいつもと違う清楚な薄水色の服装で立っていて、ブリュネット(Brunette栗色)の柔らかい髪を三つ網にして両肩にかかるお下げにしていた。 左手には籠を提げて中には勉強道具か本に筆が覗いていた。 「やぁエメ、今日はとても素敵だよ」 「ばかね、こんな服を着ているときにお世辞を言わなくてもいいのよ」 「いや、そうじゃなくて、其の髪と君の水色の眼が素敵だからさ」 正太郎いつの間にこんなにお世辞が上手くなったんだろうと自分で驚きながら話していた。 「それよりどうしたの、下宿でも探しているの」 「そうなんだよ、ダルタニャンの下宿さ」 「其の人は何番地に住んでいるの、このあたりなの」 「フォッソワイユール街11番地だそうなんだけど」 「そんな通りはこのあたりで聞いたこと無いわよ」 「そうかエメはこの近くなんだったね」 「そうよ。500メートルも離れていないのよ。今学校が休憩で家にお昼を食べに行くの」 「そうかエメも知らないんじゃ名前が変わったのかな」 「その人何時ごろに住んでいたの。学校で聞いてあげる」 「無理だと思う、本の中の話で200年も前のことだから。セルヴァンドーニ街とも書いてあるのがあるから此処がそうかと思ってみていたのさ」 「いやだぁショウったらば、あのダルタニャンのことなのね、本気で探していたの。デュマ・ペールのD'Artagnanと Les Trois Mousquetairesの話は兄さんたちが持っている本で読んだわ。でもどこに住んでいるか考えても見なかった。そういえばこのあたりがすべて出てくる話だったわね。今度一緒に探索しましょうね、約束よ。ところで今日はこのあと何をするの、この間話してくれたように大先生が教えてくれた街歩きなの」 「ジュリアンが12時にアントワープから北駅に到着するまでの時間つぶしさ」 「あら大変もう直に12時よ」 「大丈夫さ、オテルモンマルトルに付く頃に行けばいいんだから」 「それにしても歩いていくには時間が少ないわ」 「marche Saint-Germainで何か食べない」 「良いわね私お昼は何時も軽いからご馳走してくださるにも負担にはならないわよ」 「そんな負担だなんてこの間のシャンティの儲けでまだ懐が暖かいのさ」 「それならこの間の約束のデートはどうして誘ってくれないの」 正太郎すっかりあわてて「忘れてなんかい無いよ。ただ君の休みの日がわからないから何時誘えばいいか判らないのさ」 「では今度のDimancheに朝の9時に迎えに来てね。アッさっき話した三銃士の住まい探しはまた其の次のお休みの日よ。一人で勝手に探しちゃいやよ」 二人はSt-Sulpice(サン・シュルピス教会)が道の先にそびえ建つ其の脇を公園へ出てヴィスコンティ作という噴水の脇を通った。 「この教会150年近くもかけて私がパリへ出てきた年に完成したそうよ。内部にはドラクロアの絵もあるのよ」 エメは公園を出るときになってそんな説明をしたので正太郎は振り返って「この次此処へ時間を作ってゆっくりと来て見よう」エメと三銃士探しの後なら良いだろうと勝手に決めて道を市場に向かったが通りを渡らずにBrasserie サビーナ の店でブリオッシュ・オ・アマンドにコーヒーを頼んで路上に出されたテーブルで食べることにした。 食べ終わるとエメが辻馬車と交渉して北駅のオテルモンマルトルまで1フラン50サンチームでと決め正太郎を送り出した。 「此れはチップ込みです、おつりは良いです」 正太郎はそういって2フランを出して御者に渡した。 ジュリアンは二人の若者と一緒だった。 「こいつらは俺と同じ酒の仲買人だショウが日本へ送る酒の仕入れを一緒にしてくれる、この赤毛の大男はJeanだJean Pierre(ジャン・ピエール)それからこの金髪の色男はBastienと言うんだBastien Roux(バスチァン・ルー)だ」 正太郎は二人と抱擁してこれからの商売の手助けをお願いした。 「それでな、それぞれが5000フランに相当する酒を集めてショウに買ってもらうことにしたがそれで良いか」 「勿論です。ジュリアンがよいというやり方で私に異論はありません。それが日本に着いてどのような評価を受けられるかで次の仕入れをしたいと考えています」 「よしそれで良いだろう、今送り出すことが出来れば10月までに電報で結果を知らせてもらえれば来年出荷の買い付けが出来る」 「では手付金はこの間はなしたように半金、フランス郵船の出荷手続きが済んだら残り半金で契約できますか」 二人の新顔は共に手を出して「気に入ったショウは若いのに気前がよい。いい酒を集めてジャポンに喜ばれる商売をしよう」正太郎と固く握り合った。 「では最高価格20フラン、最低価格2フラン程度でビン入りのワインを今回は産地が証明できるもので集める。ボルドーについては高級品を買い入れる研究を君たちも知っているAdolph Pontillonに餞別してもらうことにしたので俺とショウが近いうちに行く予定だ。君たちは今回ブルゴーニュとロワールを担当してくれないか、勿論手持ちのワインの内ほかの地区が混ざるのはかまわんがね」 「僕がロワールを受け持ちたいな。実は向こうに有力なコネが出来てね将来年間2万本くらいは扱えそうなんだ」 バスチァンはそうジャンに持ちかけた「そいつは好都合だ今俺はブルゴーニュワイン5000本を抱えてるのさ其の中からショウに1500本で5000フランに相当するワインを選べる」 「なんだそれなら早くそういえば俺がいくらかは捌いてやるのに」 ジュリアンがそういうと「切り出しにくかったのさ。商売が上手くいかないと思われたくなかったのもあるが売り先の当てが外れたんだ。シーヌのやつ俺が捌くというので仕入れたら安物には用が無いなどと御託を並べやがって挙句の果てはこんな物しか仕入れられない奴とは取引できないと酷評さ。もっとも俺がシーヌにはこんなもので十分と高級物を集めなかったのもいけなかったがな」 4人は歩いて2区の国立図書館手前に有るフランス郵船の事務所に向かった。 「今晩フォリー・ベルジェールに付き合えよ」 正太郎に向かってジュリアンが言った。 「この二人も今夜はParisどまりだから9時でどうだ」 「いいのですが僕は10時に帰らないとMomoが寝られませんのでそれでも良いですか」 「泊まっても良いじゃないか今晩はオテルモンマルトルに話して部屋を一部屋予約するか俺のところにlitを余分に置かせるよ」 「判りましたでは9時にオテルへ伺います」 フランス郵船で証書を出して3万フランの小切手を受け取るとすぐに銀行に持ち込んで2500フランの小切手6枚と15000フランの預金証書を受け取った。 「決まりでフランス郵船の小切手が現金化されたあとで無いと当行の小切手が無効になるのでご注意ください」銀行員は親切にそういって小切手を渡してくれた。オテルモンマルトルのジュリアンの部屋でそれぞれに小切手を1枚ずつ渡して残りの3枚は正太郎が預かる形で持ち帰ることになった。 あいにく部屋はなくジュリアンのところへlitを持ち込むことになった。馬車で帰ることにして3人と別れて途中モンマルトル・オランジェ銀行によって貸金庫に証書類を預けメゾンデマダムDDへ戻ってモモにそのことを伝えた。 「ショウは遊びにParisに来たの、それとも商売、もしかして勉強」 「それ全部さ」 「呆れた。此処へ来てから遊んでばかりじゃないの」 「そんなこと無いよ。ほら此れだけ商売したのさ」 三人と先ほど交わした契約書を見せた。 「マァ呆れた、品物も見ないうちに7500フランも払ったの。呆れた人ね」 「信頼は金より大事さ。それよりMomoは何時服を買いにいけるのさ」 「明日なら都合がいいのよ。10時から4時までなんだけどショウは大丈夫」 「ではほかに約束しないようにするよ。もし今晩帰るかもしれないからって遅くまで起きていなくて良いよ」 「当たり前でしょ。ジュリアンが遅くまで付き合わせるに決まっているわ。ホントに男どもはしょうがないッたら有りゃしない」 夜馬車にゆられて北駅まで出かけジュリアンたちと連れ立って夕暮れ近い街をフォリー・ベルジェールへ出かけた。 いつものようにフランカにエメそしてマリィにジェシカまでが呼ばないうちにやってきた。 「ジュリアン、貴方たちばかりでなくジョルジュさんたちはどうして来てくれないの。ほかにいい娘でも出来たの」 「そうじゃないさ。夜勤が多くてこられないのさ。今度会ったら言っておくよ」 11時くらいまで飲んで踊って少し腹が減ったとジャン・ピエールが言い出してパンとサラミを出させた。 ルノワールが5人でやってきて向こうの席で騒ぎ始めた其の席にサラ・ベルナールとヴァルテス・ド・ラ・ビーニュがほかの女優たちとやってきて合流したが、此方に気づくとサラが抜け出して来た。 「ショウ、ジュリアンこの間はありがとう。あなた方悪いけどショウとエメを借り受けたいの良いでしょ」 ジャン・ピエールもバスチァン・ルーも女優の出現にポッとなって「どうぞお連れください」と思わず言ってしまった。 ジュリアンが何か言うまもなく風のようにサラはショウとエメの手をとって去っていった。 「ヤァ、ショウ。ジュリアン中尉の所から連れ出されたな」 「ルノワールさん、サラは否応なしですからね。逆らえませんよ」 「エメはもう勤務時間が終わりでしょ。私と馬車で帰りましょ。ヴァルテスたちはまだいいのよね」 「帰られて堪るか此れから良いところだ」 そのほうが本当だ此れから舞台ではいろいろなショーが始まるのだ。 エメが仕度が済んでくるとサラはほろ酔いのショウの手もとって二人をフォリー・ベルジェールから連れ出した。 「どこへ行くんですか。ジュリアンたちのオテルへ泊まる約束なんです」 「今晩はあたしに任せるのよ」 サラは強引とも言う手法で若い二人を自分の家へ連れて行った。 家では8才になったばかりのモーリスがまだ起きていた。 「ハーイ、モーリスまだ起きてたの」 「うん、エメはまだお仕事だったの」 「そうよ、終わってサラに連れられてきたの。この人はジャポンの人でショウというのよ」 「ショウだよ。よろしくねモーリス君」 「良いよ、僕モーリス、仲良くしようね」 サラはメイドにもう寝て良いわよモーリスは今晩私の部屋で寝かせるといってから「そうだ客間は綺麗になっていたかしら」 「はい奥様、離れのほうは今日お掃除したばかりです。Litのシーツも換えてあります」 ありがとうではお休みと下がらせてからワインをそれぞれについでからそれを持たせて客間へ案内した。 「此処よ」とドアを開けて二人を部屋へ通した。 エメはル・リにすわり隣にモーリスが座って話をした。 「例のヤマシローのことは全部書類に叔母がしてくれたから明日ショウに渡すわね今晩は此処に泊まりなさいね」 強引に書類をえさにショウを泊めることに決めるサラに「アラ此処がショウの部屋なら私はどこなの。此処から歩いて帰るには遠いし夜中に一人で帰るのは怖いわ」 「ならこの部屋しか空いていないから此処に泊まるのね」 二人を置いてサラはモーリスを連れて部屋を出て行った。 |
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Paris1872年6月11日 Tuesday エメは正太郎とLes Buttes-Chaumont(レ・ビュット・ショーモン)の東側にあるサラの家から近くの馬車屋に歩いて行き6区へ戻ることになった、このあたりは最近quartier d’Amerique(アメリカ地区)と呼ばれ出した所だ。 19区はパリの郊外といってもよい地区だがエメは此処がお気に入りだ。 「この禿山は新しく出来た公園でアメリカ地区なんて最近呼ばれだしたのはあそこに見えるがけの石切り場の石がお金になるらしいのよ。それでアメリカまで輸出されているのよ」 正太郎はいつもより饒舌になっているエメに手を取られながら其の話を聞いていた、寝不足の二人は幸せな気持ちで馬車にゆられていた。 お金に成るならただの石でなく有益な鉱物でも混ざっているのかと思いそれがアメリカで金になるなら日本で売れるかもしれないと考えていたが、口に出したのは違うことだった。 「エメはあの展望台まで登った事はあるの」 「エエ有るわよ、モーリスたちとピクニックで登ったわ。あそこからだと望遠鏡がなくてもシテ島のノートルダムが見えるのよ」 「モンマルトルのMoulin de la Galetteの展望台もよく見えるそうだから今度の休みはあそこに行こうよ、キャバレーもあるし昼間は家族連れが多くて楽しいよ」 「アラ、ショウは入ったことがあるの」 「展望台は昇ったことが無いけどキャバレーはニコラがお昼を食べながらダンスのステップを教えに連れて行ってくれたのさ」 「ニコラって誰」 「メゾンデマダムDDの仲間だよ。この間来た時に会わなかった」 「あの時はダンともう一人画家の人が居たでしょ、それと女の方が二人あとはMomoにマダム・デシャンと料理人夫妻とそれだけよ」 「じゃあニコラは顔を見せなかったんだ。てっきり居たと思っていたよ。ニコラはディジョンの近くのLanceの町の没落貴族だと自分では言って居るよ」 「アラあたしの家もそのランズよ。もしかしてご近所かもね」 エメは思わせぶりに肩をぶつけて来て笑い出した。 「どうしたの」 「もしかして警視庁のニコラなの、ニコラ・シュネーデル」 「そうだよ。知っているの」 「あの遊び人のニコラなら知っているわよ。ハハン私たちだと知って出てこなかったのね。女と見ればすぐ口説くし、お酒は好きだけどお金は無いから年中ピィーピィーしているわよ。en pleurant parce qu'il n'y a pas d'argent」 「えっen pleurant parce qu'il n'y a pas d'argentって何のこと」 「お金がないって騒いでいるくせに遊びまわっているって事よ。お財布の風通しがよすぎて空だという事かな」 「本当だ、いつもラモン、あ、この間出てきた画家のほうね。あの二人は貧乏だとダンが言っていたよ、でもそれでもメゾンデマダムDDに住めるんだからそれなりの収入はあるんだろうな」 「ニコラは見栄っ張りなのよ。100年前は相当いい家だったそうだけど王党派に加担して今は小さなブドウ畑と農場に貸家の収入が頼りだそうよ。ランズに居ればそれなりの家柄なんだけど、パリではあんまりいい生活は出来ないでしょうね。会計の方は確りとしていると警視庁のお偉方は言うけど刑事の仕事がしたくて仕方ないのよね」 Le Pont au Change(シャンジュ橋)からシテ島に入り、そのパリ警視庁の前を通り抜け通称quai des Orfevres(オルフェヴル河岸)のパリ警視庁刑事部からLe Pont Saint-Michel(サン・ミシェル橋)をわたってから6区へ入り、馬車トラムの線路に沿ってサンジェルマン大街からRue du Fourへ入った。 「そうだショウ、Momoが二つの服で迷っているときにどちらが好いと聞かれても、二つのうち片方が良いと思っても決して言っては駄目よ」 「どうして」 「ショウはまだ女心なんてわからないでしょうけどMomoのような立場の人はショウに遠慮して少し安い服を選ぶからよ。そういう時は其の二つもいいけどMomoにはもっと似合う服があるんじゃないかな。という風に言ってあげるのよ」 「ふぅんそういうもんなんだ。エメもそうだったの」 「馬鹿ねショウったらば、あの時はサラにヴァルテスが居て一番良い服を選んでくれたのよ。私が選んだらあんなに高い服は選んだり出来ないわよ」 「そういうものかな。でもエメにはまた秋の服を買ってあげたいな」 「そういう衣装は今欲しいとは思わないけどショウが買ったと言うルパーシカにつりあいの取れる服を買って欲しいな」 二人は殆ど寝ては居ないようでいろいろな話もした様だ、馬車はトラムと分かれてSevres-Babylone(セーブル・バビロン)の角を曲がったところだ、。 「いいよ、今度あそこのボン・マルシェへ行こうか。あそこでルパーシカを買ったからそれに合わせたエメに似合うのもあるんじゃないかな」 「そうして欲しいわ。秋になったら一緒にそれで散歩しましょ」 エメのアパルトマンのある12 Rue Notre Dame des Champs(ノートルダム・デ・シャン街12番地)に馬車が着き名残惜しそうにキスをしてエメはappartementに入っていった。 「今度はモンマルトルへ向かってください。Rue Caulaincourt(コーランクール)から42 Rue des Saules(ソウル街42番地)へお願いします」 「いいともお若い方、いいねえあんないいお嬢さんに好かれて、何でも其処からまたPassage Jouffroyまで戻るんだろ」 「そうです。其処のメイドと今度は買い物お付き合いです」 「何かね東洋のムッシュー。あんた不思議な人だね普通次の訪問先の女性と馬車で出かけるというとほかのマドモアゼルには内緒にするのによ、すべて先ほどのマドモアゼルが仕切っているのは」 そこで話を切って言葉を考えているようだ。 「そうだ、まさかあんたGigoloじゃなさそうだし」 正太郎は可笑しくなって笑い出しながら「ジゴロなんかじゃありませんよ。先ほどのマドモアゼルはフォリー・ベルジェールで働きながら学校へ通っているUn etudiant actif(苦学生)ですよ。昨晩は遅くなったのでアメリカ地区にある女優のサラ・ベルナールさんの家に泊めていただいて今朝送ってきたのです。此れから行くのは僕の住んでいるアパルトマンで其処のメイドと買い物に出るのですよ」 「いいんだよ。お若いの俺は何も聞いちゃ居ないよ」 馭者は俺にはわかってるよ、お前さんたち出来てるね、若いというのはすばらしいなと言外に匂わせていた。 ソウル街のラメゾンドラカーブデュヴァンではMomoが少しいらつきながら正太郎を待っていた、すでに時間は9時30分になるのにまだ正太郎が戻らないからだMomoはすっかり仕度して「落ち着きなさいMomo。ショウが忘れるわけ無いでしょ、時間までには帰ってくるわよあと30分あるんだから」とマダム・デシャンに言われても落ち着いて座って居られないようだ。 馬車が入ってくる音がして正太郎が脇の入り口から入ってくると、わざと落ち着いた風で「アラ、早かったのね。夕べは寝不足気味のようね、お楽しみですこと」 「Momo」 マダム・デシャンが注意するほど先ほどまでのそわそわした様子とはかけ離れたMomoであった。 「遅くなってごめん、すぐ着替えてくるから待っててねMomo」 正太郎は自分の部屋で寅吉がくれたロジェガレ{eau de cologne(オーデコロン)Jean Marie Farina(ジャン・マリ・ファリナ)}を水にたらし、それにつけたタオルで体や髪を拭ってからMomoが選んでアイロンのかけてある新しい服を着た。 内ポケットの隠しに左に5フラン銀貨、右に50サンチームをいくつか入れて「エメの香水の匂いに気が付かなかったかな」一晩中抱き合っていて移り香が心配だったがそんな心配をしても手遅れだと気にしない事にした。 「さっきとは違う香水ね」 やはりMomoは気が付いていたようだ「昨晩のダンスでいろいろな匂いの人と踊ったからごっちゃになってどんな匂いか自分じゃ判らないよ」 フンという風に正太郎には聞こえたが「馬車が待っているから出かけようか」とMomoの手を引いて馬車に乗せて「パサージュ・ジュフロワまでお願いします」そう馭者に告げた。 Momoはいろいろと聞き出そうと馭者に鎌をかけていたが。 「俺はArmand du vent fort(疾風のアルマン)と呼ばれるストラスブルグ駅(東駅)と北駅付近を縄張りとする馭者でさぁ。今朝ほどこの東洋の旦那に頼まれてモンマルトルの丘の向こうへ行って帰るのを頼まれたのでさぁ」 「フゥン、今パリの辻馬車はいくらで其の距離を請け負うの」 女は怖いな正太郎は思った、そんなやり方で聞き出す料金でどのくらい走り回ったか調べるのかと。 「5フランで請け負いましたぜ、もう頂いたからマドモアゼルが払う心配はないだすぜ」 「あら貴方ボルドーなまりがある。あたしはサンジュリアン村よ」 「おいらはポイヤック村で15まで居て此方へ出て30年になりまさぁ。まだ訛りが出ますかね、すっかりパリジャンのつもりだったがね」 「ほんの少しね。隣村だもの、すぐにわかったわほんの僅かな言葉でも出てくるものなのね」 「マドモアゼルはそれほど気にならねえでがすよ」 「ほらでたわ、油断しちゃ駄目よ」 どうやら気心が通じたと見たかMomoは「オテルモンマルトルの前でお客を待つこともあるの」 「呼ばれれば出かけますがね、北駅に居ないときは仲間に疾風のアルマンを呼んでくれといえばお宅まで迎えに参上しやすぜ」 なかなか尻尾を出さない疾風のアルマンは男の味方だ、料金もエメが道中を詳しく説明した上で12フランとチップを2フランで交渉して「今支払いますからね、あとでこれ以上請求しちゃ駄目よ」と念を押していたのを隠してくれている。 「5フランで丘越え往復には安いわね、チップを弾まないとね」 わざと言っているのか本心か正太郎にはわからない辻馬車の料金だ。 「さいでさぁ、でもね帰りが空馬車よりはましでさぁ。マドモアゼル、チップを弾んでくださればあなた方のお帰りの時間に合わせて場所を指定してくださればお迎えに行きますぜ、あっしが遠出でもするときは仲間をやりまさぁ」 疾風のアルマンは商売上手のようだし、チップ云々は正太郎に向けてのおねだりのようだ。 パサージュ・パノラマとパサージュ・ジュフロワが向かい合うモンマルトル大街で馬車から降りると其処の番地が12.boulevard Montmartreだったのを正太郎は見ていた。 「百合の店のあるパサージュ・ジュフロワはどっちなの」 「こっち側さ疾風のアルマンの親父が気を利かせてこちら側に降り口をつけてくれたのさ」 その馬車から降りるときに正太郎は5フランのほうのpoche(ポシェ)から銀貨を出して握らせて「3時にStohrer 51,rue Montorgueil(モントルグィユ街51番地ストレー)まで迎えをよこして欲しい」と頼んだ。 「市場通りだね良いともあそこの菓子は上手いそうだが、高いらしくてな神さんも子供たちも食べたことが無いそうだ」 「アパルトマンのマダムがお気に入りだそうでお土産にするのさ。近所で昼を食べてあそこで買い物がてらカフェにしようと思うから其の時間まで其のあたりでうろついているよ」 「では3時にお迎えに参ります」 正太郎は横浜の居留地の尊大なフランス人も多く見てきたからパリの人たちがこんなに親しみやすいとは想像もしていなかった。 「ずいぶん丁寧に成ったようね。ショウがチップを沢山やったようね。1フランもやったの」 「ああそうさ、50サンチームではかわいそうに思ったのでね」 「10スーで十分なのにショウは甘すぎるわ」 10スーは50サンチームで10倍も出したと聞いたらMomoは目を回しかねないなと正太郎は思って可笑しかった。 パサージュ・ジュフロワの中は少し暑いくらいで高くに有るガラス天井に風の通り道か隙間が設けられてあった。 とおりの幅は3メートルほどで花屋に小間物屋は店先まで品物があふれ出していてカフェや安食堂の看板は道を歩く人がよけるほどの混雑ぶりだ。 百合の花は落ち着いた雰囲気でガラス戸には百合の花が描かれていて中には幾着かのドレスが人待ち顔で掛けられていた。 正太郎の顔を覚えていた店長が飛びつくように出てきて中へ誘い入れた。 「いらっしゃいませ。この間のドレスはエメさんもだいぶお気に入りでこの間来られたときにはあの生地がたいそう良いものだから秋の服もあの生地で作るのはあるかとお聞きでした」 「それでその予定は有るのですか」 「家の最高のお針子が腕によりを掛けて幾着かの試作品を縫っておりますので何時でもお出でいただければ試着が出来ますので5日あれば体にあわせた品物をお渡しできます」 「実はこの人は私の世話になっている家のお嬢さんでエメもよく知っているんだが秋の外出服と夏物の2着が欲しいのだが」 「喜んで調整させていただきます。マドモアゼル御名前とお年をお聞きしてもよろしい」 男とは思えぬやさしい物言いで口ひげも優しくぴんと跳ねているのが可笑しいと正太郎は思っている。 「私はMomo Jolle Bellecourt(モモ・ジョエル・ベルクール)といいます。年は15才ですの」 「マドモアゼルはお年の割りに落ち着いた雰囲気ですし今の服では幼く見えすぎますよ。私にすべて任せなさいきっと貴方に会う色とdessin(デッサン)の服を選んであげます。ラッフルはお好き」 「はいギャザーの附いたスカートかドレスも良いと思うのですが」 「結構ね、La taille(サイズ)を測りましょね。マドモアゼル1時間ほどお付き合いしてね。ムッシューはしばらくして帰ってきてくださいそれまでに仮縫いと既成の品物をいろいろ試していただくわ。Donc, ca va. Momo tu peux encore grossir 500 grammes(あと 500 グラムなら増えても大丈夫よ、Momo)でもそれ以上重くなったらLa tailleを合わせに来るのよ」 mesure(メジャー)を肩に掛けて、この間はこんなに女っぽい言い方では無いように思えたが正太郎はMomoに自分の意見はしっかり言うんだよといって店をあとにして近くのグランジ‐バトゥリエール街とフォブール‐モンマルトル街にはさまれたPassage Verdeau(パサージュ・ヴェルドー)へ出かけてみた。 店の外を奥へ向かう人が何人かいるのでそちらへ歩くと路地を抜けてグランジ‐バトゥリエール街へ出た其処がヴェルドーの入り口だった。 ジュフロワの三角屋根に比べ此方の丸屋根は落ち着いた雰囲気を見せていて写真屋のスタジオと古本屋に美術品を扱う店などに混ざり時計屋が店を出していた。 正太郎が思わず中へ入ると工芸品とも思える飾り時計の中に小型のペンダント型の薄型のデザインのものが目を引いた、竜頭が付いていたが鍵も傍に置いてあった。 「此れはねじ巻きですか、鍵巻きですか」 「此れは少し時代が前のもので両方に対応するように注文されたがな、相手が決闘で死んでしまって引き取り手がいなくなった曰く付きの物だよ。買うなら155フランで良いよ」 正太郎は驚いた此れなら時計の機能がなくとも十分価値がありそうだ。 「頂きましょう。動かし方を教えてください」 親切に紙に書いてくれて「動かなくなったらこの紙とともに持ってきなさい。最初はただで直してあげるよ。ただね10年もたって動かないといっても困るからね」 「判りました。大切に使えば10年は保障できるということですね」 「オオ、東洋の人と見たがなかなか良く判るね。そう言うことだ。無理に落としたりしなければ丈夫な部品で出来ているんだよ。一日15秒以上狂うときは遠慮なく持ってきなさいそっちは何度来てもただで調節してあげる」 正太郎が20フラン札8枚を出すと5フランの札をお釣りによこした、どうやらこの人が部品を集めて組み立てた時計のようだ、旦那が聞いたら喜びそうな話が沢山聞けそうだと何度か遊びがてらに来ても良いかと聞くと「時々はお出でなさい。珍しい時計や新式の時計が入ったら案内を差し上げても良いがね」 正太郎が42, Rue Saules 18 eme La maison de la cave du vin Shiyoo Maedaと書いて「ジャポンから来ました。向こうで私の勤めている店の主人は時計が大好きでRoskopfやPatek PhilippeにLonginesさらにTissotなどを買い集めておられます。一番の自慢はPatek Philippeの七宝焼きの蓋が付いたものです」 「ほう此れと同じものかな」 そういって金庫から大事そうに取り出したものはまさにお容様の大事な時計と同じもので、小さな薔薇の蕾や咲いたものなどが取り混ぜてあった。 「そうです中の絵はペルシャンブルーの地に紅白の芙蓉の花が描かれていました。百合の花もあるそうですがそちらは見せていただいておりません」 「オオ百合も有ったのか、そいつは俺も見ていないな。というより高くて数を買えんのだよ、もっと大きな時計屋で無いと高級品は無理だ。此処は庶民が相手の町の時計屋だからな」 思わず時間がかかってMomoを迎えに行く時間が来て名残惜しいがまた来ますと時計を入れた袋を提げて店をあとにした。 百合の花ではMomoが上気した顔でお針子二人に囲まれて服の仮縫いをしていた。 「どうショウ、此れは新しい秋の服だそうなの。それと夏のものは二つ気に入ったのがあるけど見てくれる」 「ムッシュー此方はこの金額ね」 紙に書いて出されたのは42フランとしてあった「Momo素敵に見えるよ。そいつはお買い上げだな、あ出来上がる前にもう一度来ないといけない様かな」 「ムッシューそうね明後日来てくれると手直しがなければそのまま持ち帰られるようにします」 「ではマダム・デシャンにそう言ってあげるから取りに来ながら調節してもらうんだよ。僕の時間が取れれば付いてきてあげるけど駄目なときはバネッサについてきてもらうんだよ」 「判ったわショウそうする。とても軽くて着心地がいいの。高いのにいいのね」 雰囲気で相当高いとわかるようだ。 「では夏服ですが此れは既製品ですので一着7フランで良いですよ。どちらにしますサイズはすぐに手直しが可能よ」 「Momoはどうなの」 「二つとも同じようによいと思うのショウが決めてね」 正太郎はエメが言ったのはこのことだと思い出した、Momoはほかに気に入ったのがきっとあるように正太郎も思うのだった。 「Momoどちらも君に合うようだよ」 Momoの眼がふと下を見たような気がした。 「だけどもっとMomoに合った服がありそうだがね」 「ムッシューお眼が高い。このマドモアゼルはもっと素敵な服がお似合いですとも、Alphonse(アルフォンス)もそう思います」 主人の目とMomoの眼がちらと黄色と青で彩られたリボンがかかった白い服を見たように思えた。 其の服はドレッシーというより清楚でチャーミングに正太郎には思えた。 シニョンとシニョンキャップを載せてボザムの付いたジレの上からアンサンブルのホワイトに青の線が斜めに走る上着にチェックのスカートが飾ってあった。 「ネオロマンティシズムよ。私のオリジナル。この服は斬新で今のParisienneの多くが腰高にお尻の後ろで盛り上がる機能的では無い服を好むのに反して私が若い人に着て欲しい服なの。こういったからってこの間エメが買ってくれた服がいけないというのではないのMomoには新しい素材の新しい服がお似合いよ」 やはり其の服に二人の関心が集中していたようだ「Momo貴方の感性は私のデザインを引き立ててくれるわね。此れは40フランと値段を附けたけど貴方にショウが買って下さるなら半額でもいいのよどうします。ムッシュー・ショウ、マドモアゼル・ベルクール」 名前を思わせぶりに伸ばすように発音して気をひいた。 「Momoはあの服が気に入ったのかい」 「着てみても良いかしら」 お針子が仮縫いした服をはずすと其の服を持ってきてMomoに着せて「マァ、ぴったりですよマドモアゼル・ベルクール、貴方の来るのを今まで待っていたようですわ」アルフォンスがシニョンでles cheveux bruns (茶色の髪 )をまとめて白いシニョンキャップをかぶせた。 「とても良いわ、其のシニョンキャップはおまけなの。このジレは素敵でしょ、貴方メイドだと言っていたけど、これを着てエプロンを付けたら殿方はのぼせて卒倒してしまうわ、だからエプロンは禁止よそれでこのリボンをこうしてベルトの換わりに此処に結ぶのそうすれば腰がきゅっと締まって素敵よ」 正太郎が見てもMomoをつれてこの格好で歩けば町の男どもの眼が此方に集まりそうだと感じていた。 「其の服は手直しの必要はありますか」 「無いわね、Momoのためにこしらえたようにぴったりだわ」 「ではそのまま着せて帰りますがよろしいですか」 「良いでしょう、でもこの靴でわねぇ少しさびしいわ。リックの店で新しい靴も買ってくださる。アルフォンスが付いていけば良いものを安く売ってくれるわよ」 それではそうしてくださいと正太郎が二つの服の代金に20フラン札を3枚と10フラン金貨を出すと5フラン銀貨と1フランの銀貨を三枚お釣りにくれた。 「此処にはお針子は何人働いているのですか」 「この子達のほかにあと3人今は上で舞台衣装の手直しに忙しいの」 「私上の部屋も行ってきたけど皆さん若くて素敵な方々ばかりよ」 モモがそう口を添えた。 「そうなの上の部屋は明り取りに近いし朝日も当たるしお針子は仕事がしやすいのよ」 正太郎はポシェから1フランを二枚出して5枚としてお針子に渡して「此れは僕からみんなにね、1枚ずつだけど分けてください、アルフォンスは服で儲けてるからいらないでしょうから」 「アラけちね私だって貰えばうれしいわ」 ではと更に1枚出してこれは靴屋さんへ案内する分と渡すと「いい事ありそうな銀貨ねお守りにするわ」と胸ポケットに差し込んだ。 靴屋のリックは雲突くような大男ながら気の優しい男でMomoの足を褒めて青い靴をアルフォンスと共に選んでフィットさせると満足そうに立ち上がった。 「今日初めてだから少し窮屈でも我慢しなさい。1時間くらいで足と靴がなじんで歩きやすくなります」 4フラン25サンチームの靴は値段よりもとてもよいものに見えた。 古い靴を新聞紙にくるんでもらい、もとの服や時計と共にズックの手提げに入れ、二人に手を振りながら表通りへ出てきて東側へ歩き出した。 マダム・デシャンがStohrer(ストレー)までの地図を書いてくれたのでそれを見るとPassage Jouffroy(パサージュ・ジュフロワ)を出て左へ60メートルでRue Rue Faubourg Montmartre(ファーブル・モンマルトル街)が北側からboulevard Montmartre (モンマルトル大街)を通り過ぎるとRue Montmartre(モンマルトル街と)Faubourgの字が消えるその道をセーヌへ向かって進むと幾つかの道と交差しながらRue Etienne Marcelまで進んで左へ曲がれば50メートルも行かないうちに其処が市場通りStohrer(ストレー)の店がある51,rue Montorgueil (モントルグィユ街51番地)の近くだ。 マダム・デシャンの書いた地図では南北に市場があり北側の道にストレーがあると書いてあった。 八百屋に薬屋、魚屋に果物屋そしてパン屋に製菓材料店や調理器具店などが軒を連ねていた。 其の奥にストレーの店が黄色のテントの日除けを道のUne table(テーブル)と de chaise(椅子)の上に出しているパティスリー・ストレーが有った。 マダム・デシャンの注文のものはすべてありそれらを買い入れた。 ラムレーズンの入ったクレームパティスリーとイチジクのタルトにアリババだ。 アリババというのはアラビアの話を英吉利の本で読んだ覚えがあったが菓子の名前との関連は判らなかった。 それぞれを二つずつ買い入れたあと同じものを二組買い入れた。 「それをどうするの」 「ひとつはマダム・デシャンのもの、あとひとつは疾風のアルマンの家族のためのもの、もうひとつは僕たちと料理人のクストーさんたちで食べるのさ。数は半端だけど分け合えば良いだろ帰宅すれば夕食まで時間が有るからね」 「今晩は夕食の予定は誰もいないからあの人たちも余裕が有るわ」 「それならちょうどいいマダム・デシャンが一緒にといえば彼女の分も分捕れる」 「あらひどい人ね」 「だって此れは僕からのpresent(プレゼント)だと彼女が言うんだぜ、少ないからそのくらい私も分け前をだってさ」 「ごめんね今日は高い買い物をさせてしまって」 「いいんだよ。此れから長い付き合いになるんだ、rabais(リベート)と思えば安いもんさ」 表で疾風のアルマンが探しに来るまで20分を切っていてラムの入ったケーキを食べながらコーヒーを飲んでいた。 「ひどい人ね。あたしを買収する気なのね。良いわ何でも聞いて買収の代償は払うわ」 「ハハハッ。Momoは面白いね買収の代償は高いわよというのは聞いたことが有るけどね」 「あらそうね、ほんとに可笑しいわ」 ラムが効いてきたか二人は陽気になっていた。 「ヒャァ見違えましたぜお嬢さんよう。通り過ぎるところでしたぜ」 疾風のアルマンが現れてMomoにすっかり感心した様だ。 服と靴の入ったズックの袋を持ってくれて馬車の置いてある市場の外れまで自慢そうに先導してくれた。 |
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Paris1872年6月13日 Thursday ジュリアンは大尉のままだと思い込んでいたポンティヨンが少佐から中佐に任官の上、海軍省への勤務が常勤となりParisへ常駐することに成った。 早速其の晩ジュリアンはルノワールと正太郎をつれてお祝いに駆けつけた。 其の祝いのパーティには画家仲間が大勢詰め掛けて盛大に行われた。 正太郎は念願のEdouard Manet(マネ)と会うことができた。 ルノワールやベルト・モリゾたちから話を聞いていたよりは若々しい感じで、このときマネは40才、今ベルト・モリゾをモデルに描いていて其の仕上がリ具合に満足していると話してくれた。 正太郎が見覚えていた競馬の絵の話をすると「あの日本のgeisha(芸者)と一緒に来た面白い男か、僅かの間に言葉を覚えて画商と一緒に俺の絵を分けろといってきたがあの絵を見てすぐに買いたいと言い出した。300フランといったらすぐに承知したが画商に100フラン取られたそうだ」 「あの絵の場所はトロカデロでもシャンティでも無いようですが」 「Hippodrome de Longchamp(ロンシャン競馬場)だ。今もう一度ロンシャンの絵を描いては居るがあれだけの迫力が出ない。あれは俺の傑作のひとつだ」 「ショウ、ベルト・モリゾの肖像画はぜひ見せてもらえ。本人より別嬪だ」 「マァ、ピエールそれは無いでしょう」 「そうか、最近撮ったという写真と比べてみろよ、ずいぶん違うぜ」 「だって写真は10秒間動くなというのですもの。同じ動くなといっても絵のほうがまだましよ」 「あの写真はひどい、今の絵の前に仮面舞踏会のスケッチを元に描いた絵よりひどい。昔ベランダの絵を描いたときのように表情が固い」 「あの絵は評判が良いじゃないか」 「ピエールだけさ、そういってくれるのはな、最もいつも落選組みの俺が久々に入選した絵だけどな。今の俺は出来不出来の差がありすぎる、自分でもいやになる。君のように自然な表情が出せない」 「しかし道化師パプリロスから得たヒントを基にした一連の作はすばらしいじゃないか」 「だからいかんのだ、俺自身が出ていない、しかしベルト・モリゾ嬢の今度の絵は俺の代表作になるだろう」 正太郎はその絵をぜひ見たいというとまだ未完成だがルノワールの都合のよいときに一緒に来ていいと約束してくれた。 「絵の題名はつけたか」 「仮に黒い帽子のベルト・モリゾとでもするさ」 1月からマネの絵画24点を購入した画商のデュラン=リュエルがロンドンにあるフランス芸術家協会の数々の展覧会で14作品を公開していたのも話題のひとつとして話が弾んだし、サロンに展示されているキアサージ号とアラバマ号の戦いについてもポンティヨンが加わって話が弾んだ。 「そうだ忘れていたぞ、来週のVendrediからオランダに行くんだった」 「Vendrediだとそれは何日だ」 「21日の金曜日だ」 「では其の前にショウを連れて行くよ」 「そうしてくれ」 二人で正太郎の都合は聞かずに適当な約束をしているのを聞いて画家というのは大雑把で適当なものだと正太郎は思った。 「ショウ、明日例の二人の荷と俺の荷が全部集まるからフランス郵船の事務所まで行こう」 「ジュリアン何時ごろがいいの」 「そうだな、午後の一時にオテルモンマルトルで落ち合おう。すべて馬車に積んで用意しておく」 「では荷の証明書が発行されたらすぐ残金の小切手を渡す用意をしておきます」 「ショウそれとボルドー行きだが俺は今度のDimancheの夕方にはまたパリヘ来るが夜行のbilletの予約して置いてくれ。ムッシュー・ポンティヨンからの紹介状もそのときに貰うことにして往復3日はかかるだろう。今回は下調べだけだからそのくらいで良いだろう」 「Momoの父親のほうは連絡が付きましたか」 「ムッシュー・ポンティヨンから連絡が行ったはずだがまだ連絡が来ない」 「そうだ、其の手紙はまだ着いたばかりのはずだからまだ来なくて当たり前さ」 ポンティヨンはちゃんと手紙は出してくれたようだ。 「だから16日の日に戻ってくる頃に連絡も来るだろう。そうすれば其の返事しだいでサンジュリアン村も予定に組もう、1日や2日予定が延びても困ることは無いだろう」 「そうです。僕のほうは商売が優先ですから」 「本当か、なかなかそうでもなさそうだ」 此れはルノワールの方が出してきた誘い水だ。 「おやそうなのかい、いろいろ出歩いているとMomoから家内が聞いているが遊びも盛んなようなのかな」 「ジュリアンさんや、ルノワールさんにニコラが連れ出すからですよ。ダンの方は少し探索が必要なこともありますので」 「オイオイ俺だって半分は遊びじゃなくてそっちのお付き合いだぜ」 男が5人でひそひそとテーブルの周りで秘密めいたことを話し出すとしばらくして「貴方お客様がお帰りです」エドマ夫人が声をかけてきたのでポンティヨンは玄関に見送りに出た。 「ショウ、ボルドーの港はいいぜ食い物は上手いしワインはいいし、女はきれいだ。俺は去年港の絵を描きに行ったが飽きることはなかったぜ」 マネは相変わらず飲み続け、ルノワールは酒に飽きたかマカロンを食べ始めた。 「ショウ、こいつは良いぞ少し冷やしてあるようで口当たりがいい」 正太郎はマダム・デシャンにLaduree(シャンゼリゼ)まで買いに行かされて今晩のお祝いの添え物として提供したのだ、其の味は知っていたが勧められるままに口にして「此れは良いですね、お酒のあとにはたまりません」と言った。 「ショウそいつはひどい、お前もピエールと同じで酔うと甘いものがいいほうか」 マネが呆れて正太郎の顔を覗き込んだ。 「マネさんはこういうのは駄目ですか」 「甘いものは甘いもの、酒は酒。それが俺の流儀だ」 「ショウ、何もマネの言うことを聞くことは無いぜジャポンでも俺の流儀が通じるようか」 「はい私の住んでいたYokohamaでも甘い玉子焼きとか、ガトロールやカステラなどとお酒があうと言う人が居ます」 日本の菓子や玉子焼きについて一通り説明をさせられる正太郎だった。 Momoが時間に成ったようでメゾンデマダムDDに預かっていた二人の娘をブランシュは前に風呂敷のようなもので首から下げもう一人ジャンヌの手を引いてやってきた。 エドマ夫人はメイドと共にブランシュを寝室へ連れて行った。 Momoの手を振り解いて正太郎の傍へ駆け寄ったジャンヌは「ネエネエ、ショウ私にマカロンを下さらない」そうねだって服の裾を引いた。 「良いけどひとつ約束できるかな」 跪く様にテーブルの影に頭を入れるようにして囁くと「なぁに」と小首を傾げて聞いてきた。 「寝る前に歯を磨くことそれを約束できればひとつ食べて良いよ。ルノワールさんに全部食べられないうちに」 「いいわ約束するわよ」 正太郎が皿ごとテーブルの下へ差し出すと二つ握り締めて早速一口ずつ食べてしまい「あら二つ取っちゃったけどもう一口ずつ食べたから全部食べてもいい」 「仕方ないなぁ、それだけだよ早くお食べ」 食べ終わったのを見て鶴屋さんの芍薬の刺繍入りのシルクのハンカチで口を拭いてやった。 「マァ綺麗、あたしこういうのが欲しかったの」 ねだられてしまっては仕方ないとジャンヌに「胸にもうひとつ百合のもあるから二つあげるよ。こっちの花はpivoine(ピヴォワンヌ・芍薬・牡丹も同じ)なんだよ、此れはお口を吹いた奴だからあとでSarahに言って洗ってもらうんだよ」 「ありがとうショウ」 二つのハンカチーフをひらひらさせながら二階へスキップを踏むように上がっていった。 翌日の11時に正太郎はモンマルトル・オランジェ銀行の貸し金庫から小切手を取り出し預金から500フランと5000フランを小切手で引き出し、残額は2500フランに減った。 懐に1万3千フランも入れているのにのんびりと丘を越えてGare du Nord近くのオテルモンマルトルへ歩いて向かった。 北駅へ出てストラスブルグ駅(東駅)との間にあるRue La Fayette(ラファイエット街)のオテルピカルディで二頭引きの馬車トラムに乗った二人はLe Grand Hotel Intercontinental Paris (インターコンチネンタル・ルグラン)の前の停留所で降りた。 3人が集めたワインは荷馬車でバスチァン・ルーとジャン・ピエールの二人の 酒仲買人と共にフランス郵船事務所に午後の1時に落ち合うことにしてあるのでそれまでどこかで昼を食おうと言うことにしてあった。 9.Rue du 4 Septembre Parisに有る Paris, Credit Lyonnais(クレディ・リヨネ銀行)でボルドー行きの資金に5000フランを4枚の小切手と現金で1000フランにしてもらった。 「あっという間に2万フランか。俺たちも儲けたいがショウには確りと儲けを出させてYokohamaへ帰るまでに財産と呼べるだけのものを持って帰らせたいものだ」 「ありがとうジュリアン。僕も確りと勉強していい土産話を持って帰るようにしたいし、ジュリアンたちにも儲けてほしいのさ」 「そうだな、お互い大きな会社並とは言わんが、それなりの儲けで懐を暖めたいものさ」 銀行の先に三角に路地に挟まれた建物の裏にLoodと言うsalle a manger(食堂)がある。 ジュリアンが昔からの馴染みだという太った夫婦の店だ。 地中海料理だという看板だが速く言えばごった煮だ、魚の料理が多いと言うがジュリアンは牛ほほ肉の赤ワインソース煮込みプラム風味だと言う奴がお気に入りだ。 「俺の店で魚を食ったことが無い、おかしな奴だ。そっちの若いのは何がいいかな。海老のクリームスープとオイルサーディンのパプリカのブルスケッタしたものが昼はお勧めだ」 「いいですね海老は大好きです、後パンを出してください」 「フン英吉利野郎なぞ食いやがって」 「古いなぁ、ジュリアンお前さんそいつは100年も前の話だ」 「だからって俺は海老が嫌いだ」 仕方ないと言う風に両手を広げた親父は厨房へ入っていった 「ジュリアン、ワインを出す」 「いや、いいよ今日は此れから商売が残っているんだ。大きな金が動くので銀行に入れるまではしらふでいたい」 正太郎は思わず含み笑いをしたがそれを見たmaman(ママン)が「おやどうしたい」と問いかけた。 「昨晩飲みすぎて今日は飲みたくないということですよ」 「よせよ、ショウとピエールAがワインのあとマカロンをガンガンと食いやがって俺はそれを見て悪酔いしたんだ」 「本当、ジュリアン其の前から相当飲んでいたよ」 「マネとポンティヨンが底なしなんだよ、俺は其処まで底抜けじゃないからな」 ママンは呆れたように「家でワインをビールのように3本もあけたくせによく言うわ。それよりそっちの子、あんたマカロンがすきかい」 「Parisへ来るまで知りませんでしたが昨日の昼間と夜に2個ずつ食べてとても気に入りました。特にサン・テミリオンと言う奴がおいしかったです」 「ちょっと待った。ショウそんな味のがあるのか本当のワイン入りか」 「そうです、Ladureeでパリジャンのバタークリームとコンフィチュールにパート・ダマンド、それとサン・テミリオンをそれぞれ10ヶをポンティヨンさんのところへマダム・デシャンの贈り物で届けました」 「オイオイ昨日一回買いに行っただけで其の名前を覚えてきたのか。呆れた喰い道楽だ」 「いえ帰りのオムニバスで読もうと店からUne brochureを貰って読みました」 「そうか驚いたぜ買い物に行っただけで覚えたかと思った」 「ジュリアンそれでもこの子は東洋の人のようだけでフランス語のチラシを読んですぐ覚えるなんてすごいじゃない。家で働くベルギーの子なぞメニューさえ満足に読めやしない」 「そういえばあの娘居ないな。辞めたのか。それにさ親父のメニューを読めるのはママンぐらいさ、俺だって読めやしねえ」 「今日は仕入れに市場へ行かせたのさ。何を買ってくるか楽しみだねえ好きな魚を選んでお出でと言って出したのさ、売り物の地中海料理にあった魚をね」 「よせよ地中海料理なんて言って其の日の出任せ料理じゃねえか」 「駄目だよ、本当の事言っちゃ。此処へ来る様なのは本当のトスカナの料理なぞ知らないし、ギリシャ料理なぞさらに知らないんだからね」 親父が料理を運んできて「仕方ねえなぁ、話し込んでいないで後の分ももってこいよ」と小言を言って厨房へ戻っていった。 女の子も大きな荷物を持って帰ってきた、其の頃から昼休みに入ったらしく徐々に店が忙しくなりだした。 「そろそろ行くか」 ジュリアンが席を立って店を出ると通りの向こうにバスチァン・ルーとジャン・ピエールの二人が荷馬車に荷物を乗せてすでにきていた、正太郎が時計を見ると12時40分でふたりとも時間前に来て待っていてくれたのだ。 二人と握手してそろって事務所に入り受付で「M.Bruckは戻られていますか」「はいお呼びしますか」「お願いします」いつもと同じやり取りのあとセルジュ・ブリュツク氏(Serge Bruck)が現れた。 「ショウ、荷物がそろったのかい」 「そうです彼らが表に馬車で運んできています」 「そうか君達脇の門から入ってくれたまえ。そこで荷物の発送係のものに渡せばジャポンまで安全に届けることを約束するよ。この間はなしたように此方で荷の検査と荷造りもするのが決まりだ」 セルジュ・ブリュツク氏が付いて表から荷物検査と発送係へ引き渡した。 事務所でカフェを飲んでいる間に手続きが完了して伝票が廻ってきた。 Benntenntoori/ Yokohama / Japon/Toraya/watamikozaemon・綿海小左衛門・虎屋 「この最後の字はジャポンの名前かいなんと読むのかい」 発音を教えるとジャポンの名前は字も読みも難しいねショウのように簡単な呼び方は出来ないのかな」 「この人は私たちも愛称で呼んだことが無いのです。Kozaemonとしか呼びようが有りませんので、それとTorayaは会社の名前です」 「それが名前か苗字がWatamiなんだね。それで費用だが船便の費用が3860フラン、申請の保険料が1500フランだがいいのかね。合計で5360フランだよ」 「はいそれでお願いいたします」 「ビンの検査もすべて最良と係りのサインがあるから保険は少ないほうが安く付くのに」 「此れはYokohamaのTorayaの決まりなので保険をかけないと私のほうが怒られてしまうのです」 「確りした会社だね。いいことだ」 正太郎はあらかじめ用意した5000フランと500フランの小切手を差し出した。 会計からお釣りの140フランの小切手が出てきて正太郎が受け取りセルジュ・ブリュツクに礼を言って事務所をあとにした。 「Loodに行こう」 ジュリアンが先にたち荷馬車は先に帰らせた。 Loodは昼休みの喧騒が終わって休憩中の札が出ていたがジュリアンはかまわずドアを開けて入った。 「ジュリアンまた来たね、オヤオヤ今度は人が増えたじゃないか」 「少し金勘定するんでカフェだけだ」 「いいよ別に頼まなくても」 「そういうと思ったが出してくれよ」 「エメ、カフェ4つだよ」 エメと聞いて首を伸ばして厨房を覗いたが先ほどの娘が居るだけだった。 「ショウ、エメと聞いて反応したな。あの娘はエミリエンヌと違って正真正銘のエメさ。エメ・オービニエだ。エメとはどう綴るんだ最初はAだったよな」 「Aimeeよジュリアン。いい加減覚えてよもう3回目よ其のエメと言う娘と比較されるの。さぞかしそっちの娘はかわいいのね」 「いや俺にはお前のほうがかわいく見えるが、このショウと言う奴がお気に入りなのさ。ところでこの間あれからどこへ行ったんだ」 此れは正太郎に聞いてきた。 「サラの家に連れて行かれてヤマシローの関係書類を頂きました。客間に泊めていただいて翌朝エメを送ってから今度はMomoと買い物に行きました」 「両手に花だな」 バスチァン・ルーが羨ましそうに呟いた。 「焼くな焼くな、MomoはメゾンデマダムDDの小間使いさ此れから行くボルドーの関係でだいぶ世話になりそうなのさ」 ジャン・ピエールが「それにしてもフォリー・ベルジェールは楽しいところだ、ショウも最後まで居ればよかったんだ。ジュリアンは随分と馴染みが多いらしい」 ジュリアンは慌てて「俺はそれほど行っていないよ。ショウやピエールと付き合う程度だ」 正太郎はピンと来るものがあった「このAimee Aubigneと言う娘に気が有るようだ。見たところ少し太りそうだがジュリアンは痩せている娘よりこういう娘が好みのようだ、エミリエンヌのような痩せたのは好みじゃないのかな」と話に加わりながらも心の中はそういうことを考えていた。 「そうジュリアンはフォリー・ベルジェールの常連なんだ」 「エメ・オービニエそうじゃないったら。こいつらの言うことなぞ信用するなよ。商売の付き合いや軍隊の仲間の会合で行っただけなんだ」 躍起になって言い募るジュリアンにやっと二人の仲買人も気が付いたか「ジュリアンは本当に固い男だぜ、ああいうところでもセルヴァーズに色目を使われてもデレデレしないからな」と、とりなしだした。 「そうだよな、そうだよな」 正太郎はジュリアンが取り乱したのをはじめて見ていい人なんだな、エメに惚れてこんなに真剣になってとジュリアンがいっそう好きになるのだった。 「エメさん、今度ジュリアンとボルドーまで商売に出かけるけどお土産は何がいい。ジュリアンに言って好きなものを買ってきてあげさせるよ」 「そうだ、来週には向こうへ行くから土産に何がいいんだ」 「Bebe Canele(赤ちゃんカヌレ)」 ママンが口を出してきた。 「なんだママンいきなり、何で赤ん坊のカヌレなんだ」 「小さくて一口La taille(サイズ)だからさ、この間お土産に貰ってこの娘と二人でもう一度食べたいと話しているんだよ」 「エメもそれでいいのかい」 正太郎がいうと「私もそれが好き、あとマカロンもいいわ。ぜひAntoine(アントワーヌ)のものを買ってきて頂戴」 「店はどこに有るか知っているのか」 「ボルドーとしか知らない」 「ヤレヤレ探し回るしかないのか」 ジュリアンは正太郎に「ショウが忘れずに店を探してくれよ。俺はワインのことで頭が一杯になりそうだ」 「いいですよ、マダム・デシャンもそれを買って帰れば喜びそうだ」 心では向こうのエメにもそれをお土産にしようと思う正太郎だった。 「さぁ、金勘定だ」 如何ほど積み上げて金勘定するかとママンは期待してみていたが正太郎があっさりと三枚の小切手を取り出して3人の前に置き、受け取りを貰いワインと一緒に送ったものと同じリストをもう一部貰うだけだったのでガッカリしていた。 「なんだママン、現金を積み上げてやり取りするとでも思ったのか」 「そうさ、小説でよくあるじゃないか、金貨の山を積んでそれを分配でもするかと期待したのにさ、つまらないねえ」 「この金額でもか」そういって自分の分の小切手をママンに見せた。 「deux mille. cinq cents(ドウミルサンクサン)2 500フランかい、驚いたねこんな紙切れ一枚にそんな価値があるとは信じられないよ」 「ママンのように現金だけで商売はもう古いということさ」 「だがね銀行は潰れることも有るからね、今まで何度そういう眼にあった人を見たことか」 「そりゃそうだが、でも此れだけの金を現金で持ち歩くのも危険だ、小切手なら盗難にあっても支払う前に止めることも可能だ」 「ジュリアンそれは建前だけさ。裏の金融屋はそいつを許しちゃくれないよ。盗んだやつから安く買い叩いて脅しをかけるのが奴らの手口さ」 「そうらしいな、盗まれたり落としたりすれば丸損はしなくとも半分は覚悟が必要らしい、弁護士費用をかければ少しはいいだろうがそれでも全部助かることは無いからな」 そろそろ夕方の仕度でエメもママンも忙しくなりそうなので4人は店を出てインターコンチネンタル・ルグランの方向へ向かった。 ホテルの前で正太郎は三人と別れてディマンシュ(Dimanche日曜日)の切符の手配にガール・ドステルリッツ( Gare d'Austerlitzオーステルリッツ駅)へ向かうために辻馬車へ乗った。 乗る前にジュリアンが交渉してくれて2フランとチップ50サンチームと決めて支払いもして俺のおごりだ遠慮するなと手を振って分かれた。 勿論ボルドーへのビエ(billet切符)の代金もホテル代も正太郎が持つのを承知の上でだ。 ルーブル美術館の前を通ってバスティーユ広場でアルスナル運河沿いにセーヌへ出て、Le Pont D’Austerlitz(オーステルリッツ橋)でセーヌを渡って駅前で降りるときに隠しから50サンチームを出して馭者に「此れは僕から別にチップです」と渡すと黄色い歯をむき出して嬉しそうに「メルシー」といってくれた。 オーステルリッツ駅で旅行代理店を見つけて相談するとすぐにボルドー駅前のホテルの予約を入れてくれた。 「朝早くともホテルで荷物は預かりますがまだ前日の客が居ると部屋には入れませんのでご承知ください。電信の返事は3時間かかるので此処が閉まるかもしれません。貴方の家に連絡を入れるなら一フラン明日結果を聞きに来られるなら無料です」 「では42, Rue Saules 18 emeのLa maison de la cave du vinのShiyoo Maedaまで連絡をください」 「判りました、あとは夜行の切符ですね」 「そうです。ボルドーまでです。16日の夜の特急です」 「Gare St Jeanがボルドーの駅になります。先ほどのホテルは駅の近くにあります。切符は往復にしますか」 「帰りはどの列車か決めていないのですが」 「勿論切符代のみで何時でも指定の列車を後で決められます。行きだけを列車指定にすれば大丈夫です。14日間有効ですしお徳ですよ」 パリ・オルレアン鉄道の旅行代理店の女性係員は丁寧で説明にも抜かりがなかった、正太郎は切符を往復とも1等として行きの夜行特急代金と共に二人分620フランと連絡費用の1フランを支払った。 席で坐って待っていると先ほどの係りの女性が「お待ち同様、此方が切符です。あと御用は有りますか」 「いえ大丈夫です。予約が取れたらホテル代はどうしますか」 「それは向こうに着いたらお支払いください」 「ありがとう、また利用させていただきます」 「ありがとうございました。またのご利用をお待ちいたします」 正太郎は駅前から馬車で帰ろうかオムニバスにするか考えながらぼんやりと駅舎を眺めていた。 「旦那旦那、東洋の旦那」 あれ聞いたことが有る声だがと見回すと道路の向こうから疾風のアルマンが馬車の上から「此処ですぜ旦那」と声をかけていた。 近寄って下から見上げて「なんだどこかと思ったら上になんか乗ってどうしたの」 「いやね、さっき荷物を載せたときに穴があるのを見つけちゃってね、塞いで居たんでさぁ。それより旦那どこかにお出かけですかい」 「ディマンシュにボルドーまで行くので切符を買いに来たのさ」 「そりゃ大変だ。幾日行きなさる」 「往復で3日の予定さ、向こうで少し日にちがかかるかもしれないが5日くらいで帰らないといろいろ困るんだよ。M.アルマンは誰か予約でも有るのかい」 「いえあとは帰るだけでさぁ、旦那なら安くお供しますよ」 「ではラメゾンドラカーブデュヴァンまで帰るから頼むよ」 「ようがす。チップ不要の3フランでどうです」 「いいだろう、では頼むよ」 正太郎はフフと笑いながら疾風のアルマンも商売上手だ、安いと言いながら普通に取ると思いながら座席でくつろいだ。 疾風のアルマンは駅前を出るとセーヌに沿って下りPont Saint-Michel(サンミシェル橋)まで行ってから橋を渡った。正太郎はセーヌの流れに浮かぶ川蒸気や運送船に眼をやりながらぼんやりとエメのことを思い出していた。 「サァ大変だ日曜の昼間はエメとデートで夜中の汽車でボルドー行きか、朝早くともホテルで荷物は預かるが部屋は入れないかもといっていたな。ジュリアンが急ぎだと言わなければ昼間の列車の方がよいのかな」 この橋もトラムが渡るようになるのかなと考えていたが案外フランス人はそういうことはしないのかとも思い考え方が日本人とは違いこの橋も何百年も持たせるつもりだろう気の長さと広い心に感銘したりしていた。 「旦那おきていやすかい」 「あ、おきてるよどうしたい」 「この間はごちになりやした。女房と娘が大喜びでね旦那に会ったら最初に言おうと思っていやしたがね。俺はだめだなぁそんなことより客を見つけたと思うほうが先でしたぜ」 「正直だなぁM.アルマン」 「旦那其のムッシューというのはご勘弁ですぜ。疾風のアルマンと呼んでくれないと自分じゃないような気がしますぜ」 「疾風のアルマンそれなら今度はマカロンでもどうだい。ボルドーとは違うかもしれないがラディユレのはおいしいぜ。僕も昨日食べたがもう一度食べたいのさ。シャンジュ橋を渡ったばかりだからシャンゼリゼの近くだろう」 「コンコルド広場の近くに本店がありやすぜ」 「ではそこで買い物をする間、待っていてください」 疾風のアルマンは自分もマカロンが好きでマカロン・ド・サン・テミリオンは最高だと話した。 「テュアヘゾン(きみのゆうとおりさ)僕も昨日ワインを飲んだ後其の白ワイン風味のマカロンに降参するくらい好きに成ったよ」 正太郎と疾風のアルマンは店に着くまで其の話で盛り上がった。 Square de la Tour Saint-Jacquesを突っ切ってRue de Rivoli で左へ曲がると2キロほどでコンコルド広場に着く其処まで二人はサン・テミリオンの白と菓子の相性について背中合わせに話が続いた。 Laduree Royale 16, rue Royaleの本店はRue Saint-honore(サン・トノーレ街)との角に有った。 「旦那この近くには最近有名になったシブーストが考案したサン・トノレというのもありますぜ。今度一度試してみなせぇ」 「そうかい。マダム・デシャンに言って食べたことがあるか聞いてみるよ」 「パートシュクレをビスクの代わりに使った奴で最近人気だそうですぜ」 其の道の先にはマドレーヌ寺院が威容を誇っていた、疾風のアルマンは其処まで行って馬車を店先へつけるからと先へ進んだ、正太郎は其の前でしばらく止めて其の大きさに呆れていた。 「旦那こいつはね外観はコリント式の高さ30mの柱が52本並んでいまサァ。古代ギリシャ・古代ローマの神殿をまねしたんでネオ・クラシック様式なんていわれる代物でね。かのナポレオン一世陛下の時代以前から建設が始まって70年近くかけて作られたんでサァ。出来上がって30年ほどでしょうかあっしがボルドーから来た頃の話でしたぜ、サント・マリー・マドレーヌ(Sainte Marie Madeleine)をお祭りしていますのさ、其のせいか俳優やドミ・モンド(demi monde)関係の女にプロスティチュエ(prostituee娼婦)が多く来まサァ。ワッシも観光客を乗せる手前一応習ったんですがねこいつを見ながらでないと説明が難しいのでサァ。観光の客とわかったときは神さんか娘を乗せて説明させるので余計忘れるほうが早くなっちまいやした」 小冊子を振りながら話す疾風のアルマンが面白い男で友達になれそうだと感じたがお客として儲けさせてあげたほうがこの男にはいいのだとそれ以上の友情を抱かない様にする事にした。 「疾風のアルマン、家族は何人居るの」 「5人、いにゃ7人だ旦那」 「何自分の家族も勘定忘れるのかい」 「いやね娘の婿が最近同じ通りへ引っ越したんでいつも俺のところに居るんでサァ」 「そうなんだこの間のは少し足りなかったね」 「大丈夫ですよ、あのラムのきついのは小さいのには向かないので半分で十分でサァ」 正太郎はパリジャンと言う名前の「バタークリーム」がベースの物、果物などの「コンフィチュール」ジャム、アーモンド風味の「パート・ダマンド」をメゾンデマダムDDの土産に5個ずつそれとサン・テミリオンという名のマカロンを10個買い入れた、疾風のアルマンにはサン・テミリオンも5個の20個にしてそれぞれを綺麗なフラール(foulardスカーフ)で包んでもらった。 「これは今日のチップの分だよ」 そういって渡して座席に座った。 ガレ・サン・ラザール(Gare Saint-Lazareサン・ラザール駅)を左回りに回り、クリシー大街からコーランクール街へ入りモンマルトル墓地の右側を通り抜けるとソウル街はすぐ其処にあり角を曲がればメゾンデマダムDDに到着だ。 3フランを払って礼を言う疾風のアルマンをあとにMomoに迎えられて家に入った。 |
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Paris1872年6月15日 Saturday 前夜メゾンデマダムDDに戻りMomoたちと遅いお茶をしたため、部屋でパンとハムという簡単な食事を済ませた正太郎に相次いでメサジェ(Messagerメッセンジャー)がやってきた。 一つは8時頃ホテルの予約がランディ(Lundi月曜日)からジュディ(Jeudi木曜日)までの3泊取れたことの知らせで正太郎は駄賃に2分の1フラン銀貨を少年に渡した。 あと一つは其の少年と入れ替わりにルノワールからで日曜にボルドーへ出かけるならサムディ(Samedi土曜日)にマネのアトリエに行くから朝9時までに馬車で来てくれと言うものだった。 同じように50サンチーム(2分の1フラン銀貨)を渡して返すと「ショウ、忙しそうね」 「そうなんだ。明日はルノワールさんとマネさんを訪ねるし明後日はエメとお付き合いでムーランギャレットに行くのさ」 「それでボルドー行きは何時のに乗るの、La promesse de la date(デートの約束)なのに時間が忙しいわね」 「そうは言ってもダンスも上手くないし昼間からお酒でも無いしなぁ。ア、列車はオーステルリッツ駅を23時15分発車だよ」 「ではデートを8時までに切り上げて帰ってこないと仕度する時間が無いわよ」 「わかったそれまでには戻るさ、明日オテルモンマルトルにジュリアンへの伝言で夜の10時に迎えに行くと連絡も入れておくよ。そうするとルノワールさんの家に行くのに北駅で馬車を拾う事にするか」 その土曜日が来て朝の食事が済むと早速丘を越えて北駅へ出向いた。 オテルでM.ルグランに列車の予定表とオテルの予約確認の連絡票を預けて口頭でも同じことを伝えた。 「M.ショウ大丈夫です。此れはおっしゃったことと同じことが書かれていますよ。では夜の10時に此処へ迎えに来られるということでいいですね」 「そうですジュリアンの都合で変更があるときは夜の8時までにメゾンデマダムDDまで連絡を入れるように伝えてください」 「承知しました」 北駅へでると其処には疾風のアルマンが仲間とお喋りをしていた。 「ノートルダム・デ・シャン街とサン-ペテルスプール街へ廻ってくれる人は居ますか」 「こいつは俺の婿でHarold(アロルド)といいまさぁ。まだ地理にあまり詳しくはありませんがそのくらいは判るので使ってやってくだせえ」 「いいとも、それから明日の朝9時と夜の9時にメゾンデマダムDDまで迎えに来て欲しいのですが其の予約を誰か受けてくださいますか」 「そいつもこのアロルドにやらせてくだせえ、紙にかいて馬車に張って忘れないようにしまさぁ」 そういって紙にかいて馭者席の目の前の板にピンで貼り付けた、どうやら其処が連絡表をつける場所らしく柔らかい木で出来ているらしい。 「旦那のことだ金額は承知だから吹っかけるたら承知しないぜ」 決まり文句のようで余り期待は出来ないかと思う正太郎だが気が付かない振りをした、戸塚、程谷の雲助とまで言われたものたちと子供の頃からの付き合いでそういう駆け引きは裏の裏まで承知しているのだ。 ストラスブルグ駅(東駅)へ向かいBoulevard de Strasbourg(ストラスブール大街)を南西に向かった。 「いいぞ、アロルドその道だ」 正太郎は地図で覚えたばかりの道筋をたどるアロルドに声援を送りたくなっていた。 「次はシャンジュ橋だ、曲がる必要は無いぞ、サンミシェルを渡ればいいんだ」 正太郎の思いのとおりにアロルドは最短距離を進んだ。 「さぁ次は右かな、直進かな。考えどころだな」 右のダントン街へ入りサンジェルマン大街へぶつかると右へ進路を変えて100メートリ先の。フォー街へ入った、また100メートル先でレンヌ街にぶつかり左の道へ曲がった。 「なかなかいいぞ最高だアロルド」 疾風のアルマンが心配するほどのこともなく此処までくればあと少しだ。 ラスパイユ大街を通り越せば其処がノートルダム・デ・シャン街だ。 アロルドは迷うことなくその道へ入ってはじめて口を利いた。 「だんなノートルダム・デ・シャン街32番地でよろしいのですね」 記憶も確かのようだ「そうだよ。もう少し先の別れ道の右側だ」 「判りやした。そこでお待ちすればよろしいですね」 「そうです。M.ルノワールという画家のお宅で其処からお仲間のM.マネという人のところへ行くのです」 「しまったそれだと大通りを下ってきたほうがよかったですね」 「いやいいんだ、大通り側で待っていてください」 「これからはもう少し前でお聞きすることにします、ご勘弁ください」 アロルドは気が弱いのかなと正太郎は思いそれ以上は言わずに「では、少し待っていてください」と馬車を降りて三階にルノワールを訪ねて階段を登った。 「ルノワールさん居られますか」 正太郎は時計を見て9時2分にノックした。 「遅い遅い、待ちかねたぞ。下へ降りて待とうかと考えていたところだ」 「まさか、まだ2分遅れただけですよ。下には9時についていましたよ」 「なにまだ9時だと。俺の時計を見ろ9時30分だ」 「可笑しいですね僕の時計が狂ったかな」 ルノワールはドンドンと隣の家のドアとたたいて出て来た男に「マイク、君の時計は時間が正確か」 「いま9時3分だがどうした」 「しまった俺の時計が30分も狂っているんだ」 「確りしなよ。この間ワインの中に落としたろう、あのあと時計屋に持って行ったのか」 「いや動いているのにもっていく必要は無いと持って行ってない。すまなかったな用はそれだけだ。行こうショウ。ァ、マイクこいつはショウといって俺のお客だ君の絵もそのうち買いに来るかもしれないから顔を覚えておきなよ」 マイクと正太郎が握手している間に一人で階段を降りて行った。 「M.マイク普段訪れるときは先に連絡が必要ですか」 「約束しても守れないからな来た時しだいで頼む。何時でも歓迎するぜ」 手を振って正太郎はルノワールを追って階段を降りた。 「サァ、出発だ」 勢い良く後ろ側の席に座ると正太郎が坐るまでもなく馭者に声をかけた。 「サン-ペテルスプール街4番地でよろしいですね」 「そうだ、任せたよ」 「コンコルドを渡りますか」 「そうしてください。ダムステルダム街からのほうがよいみたいです」 「では近くで声をおかけします」 馬車はやはり最短距離でコンコルド橋、広場をとおり抜けてエグリス・ドゥ・ラ・マドゥレーヌ、マドレーヌ寺院を右回りで抜けて進みトロンシェ街アーブル街 ダムステルダム街と同じ道で通りの名前が変わるたびに教えてくれた。 「駅の右から廻ってくれ、パサージュ・アーブルの先だ、モスコー街へ入って辻を線路のほうへ折れればすぐだ」 混雑もなくマネのアトリエのある建物に着いた。 6フランとチップに1フランを渡して「M.アロルドは地理が詳しいね」 「いえ親父さん比べればまだまだでサァ」 馬首を上手くめぐらして馬車を引き返していった。 其の日正太郎は3時間以上もマネのアトリエで様々な絵を鑑賞した、画商がまだ引き取らない絵の中に正太郎が欲しい絵が何点かあったがマネはいま売りたくないと言うのみだった。 人が沢山集まってきて賑やかになり盛んに芸術論を吹っかける人が目に付いたし、落ち着いた雰囲気の中に威厳のある態度の人が目に付いたがその人は人の話に耳を傾けるばかりで話に加わらずコーヒーを飲むばかりだった。 「僕は此れからパサージュ・ヴェルドーの時計屋へ行くのですがルノワールさんはどうします」 「アッ、時計屋かこいつを治せるか一緒に行こう」 ほかのものと分かれて駅前で馬車トラムに乗り込んだ。 サン・ラザールからラフィァットの角までトラムで15分其処から100メートル、オペラ・ガルニエのほうへ行くと五差路に分かれた手前左の角がパサージュ・ヴェルドーへの入り口のあるファーブル・モンマルトル街だ。 入って80メートルくらいのところに小さな五差路が有りその先がパサージュ・ヴェルドーの入り口だ。 デボルド・ヴァルモール時計店は其処から入って5軒目前は美術品と画材を扱う店だった。 「この店は前に一度絵具を買いに来たな、いい品物があるが高くてな」 正太郎にそういって時計屋の店を覗き込んだ。 正太郎がドアを開けて中へ入ると「M.Shiyoo Maedaでしたかな、良く来たね。この間の時計は動いているかな」 「はいあれから昨日までで私の時計と3秒ずれましたがどちらが狂っているか判りません」 手を黙って出すので正太郎の時計を渡すと大きな時計と比べてから自分の時計を見てこれは今2秒進んでいる。あの時計は此れより進んだのかね」 「いえ3秒遅れていました。では1秒だけということは見直した時間を入れるとほぼ正確ですね」 「そういうことだな。家の時計でも気まぐれ者は多いがこの大きいのは十日で2秒進みこの懐中時計は30日で2秒遅れるのさ。かわいい奴だ」 どうやって秒まで正確にあわせるのか興味があったが今日はルノワールの時計が先と「此方はM.ルノワールで、時計をワインに落としてから調子が悪いそうです」 正太郎の時計を返してまた黙って手を出すのでルノワールも黙って時計を差し出した。 中をあけてルーペで仔細に見ていたが「此れなら分解して組み立て直せば前以上に正確になるよ2日呉れないかな。費用は2フランと20サンチームでいいがどうするね」 「頼むよ、今朝30分も狂っていて待ち合わせにこのショウが遅れたと思ってやきもきして損をした」 親父はハッ ハッ ハッと区切るように笑って「では明後日の午後以降に取りに来なさい。お名前のつづりはどう書くね」 「Pierre-Auguste Renoirと書くが金は後かい先かい」 「後でもいいよ。時計があるんだ取りに来ないほうが大損さ」 「先に払っておこう、俺は金を使うのが好きだから後払いだと素寒貧で取りにこれないといけない」 「いいさ、では此れが預かり票だ、此処に料金先払いと書いておくよ。領収書は必要かい」 「そいつはいいよ」とポシェから2フラン銀貨と20サンチームを取り出してわたした。 デボルド・ヴァルモール時計店を出るとまだ3時で日は高く夕食まで時間があるものの昼を食べていないことに二人は気づいた。 「ショウどこかで飯にしようぜ」 「そうしますか、メゾンデマダムDDには夕食は良いと言って有りますからゆっくりと食べられます」 「この近くに何か気の利いた店があるか」 「今の時間ですと空いているのは高級な店ばかり、あとはホテルくらいですかね」 「よし、パレ・ロワイヤルに有るLe Grand Vefour(ル・グラン・ヴェフール)に行こう」 「エ、あそこは格式が高いと聞きましたよ。今の格好で入れてくれますか」 「大丈夫前にユゴー先生と行ったときに上着を貸してくれたよ。それにいまは夏だそれほど煩く言わんさ」 「僕は現金が50フランしか持っていませんが大丈夫ですか、近くでおろして置きましょうか」 「俺もそのくらい持っているから大丈夫さ。ショウのおごりなら足りない分だけ出そう。いいんだろ」 「それで手を打ちましょう。ルノワールさんはこの間の競馬の儲けを使い切ったのですか」 「あの儲けは両親に送ったよ。ショウが買った絵の代金も画材に消えた。最近はそのひ暮らしだ」 「冗談ばっかり。ルノワールさんはいつもポシェにぎっしりと金貨を詰めていると評判ですよ」 「だから金が無いのさ。其処にあるだろうと噂が出ちゃ、しみったれたことが出来やしない」 リシュリュー街を歩きながらそんなことを話す内に通りはデ・プチシャン街と行き会って左へ入るとすぐに路地がありパレ・ロワイヤルの裏へ出る、其処を入ればボジョレー街17番地のLe Grand Vefour(ル・グラン・ヴェフール)が見える。 近くにはギャラリー・ヴィヴィエンヌが北側にパレ・ロワイヤルを囲むように西からギャラリー・デ・モンパンシエそしてギャラリー・デュ・パレ=ロワイヤルと続きギャラリー・ボジョレーが北の回廊にさらにコの字型に東の回廊にはギャラリー・ド・ヴァロワと5ヶ所のパサージュがある。 今回パサージュ・ギャラリーは置いといて遅い昼というより早い夕食、イギリス式ならハイティーという時間だ。 二人は開け放たれた扉から中へ入るとヴォワチュリエとセルヴィスが迎へ入れてくれた。 「M.ルノワール、いらっしゃいませ。本日は暑い中ようこそ御出で下さいましてありがとうございます。そちらの紳士は始めてお見掛けいたしますが」 席へと案内をしながらそう聞いて椅子を引いてくれた。 正太郎も横浜でのレストランの作法に慣れていて自然に振舞うのでセルヴィスも安心したようであった。 「そうだよ。ジャポンからこられたM.Shiyoo Maedaだ」 「左様でございましたか、ジャポンからのお客様は3組目でございます」 「M.Samejimaはおいでになられましたか」 「左様でございます。先月わが国の外務省の東洋局長様と御出でくださいました。あとお一方はあまり芳しくないお客様。ア失礼致しました。失言でございました」 シェフドランのM. カンパニョーラが近付くのを感じて下がっていった。 「いらっしゃいませ。M.ルノアール。本日は軽いお食事に致しますかそれともコースでお召し上がりになられますか」 menu(メニュー)を広げて聞いてきた。 「ショウはどうする」 「私はアントレを抜いてプラドゥジュールから選ばせてください」 「そうかショウは何が好きだ」 「今日は野菜と鳥がいいのですが」 「ショウ様、ショウ様でよろしいですか。それではカイユ・(cailleウズラ)かカネトン(Caneton若鴨・仔鴨)のコンフィに付け合せはポム・ベアルネーズなどいかがでしょうか」 「ショウは鶉は食べたことがあるか」 「焼いてソイソースをつけて食べたことはあります。コルヴェール(col-verthaかcolvert真鴨・青首)というのは横浜のボマという料理人など何人かの料理をいただきましたそれで今日はカイユを試してみたいものです」 「では俺もそれにしよう。ワインはそれに合わせるようにソムリエに頼んでくれたまえ。あとは二人にフォアグラのラヴィオリそれとデセールはモモのロティ、アヴァン・デセールは勿論ガトー・サヴォワだ」 「かしこまりました。ソムリエがすぐ参ります」 すぐに背の高い痩せ型のソムリエが現れて「アペリティフ(Aperitif食前酒)にはアレクサンダーがお勧めですがいかがいたしますか」 「それを貰おう。M.ショウは明日からボルドーだから何かよい物を選んでくれたまえ」 「かしこまりました。今朝cave du vin(酒蔵)を見回ったところセカンドながらシャトー・ベイシュヴェルの1868年が眼に留まりました。香りの優雅さとしなやかさを持ちまろやかで柔らかな味わいがカイユに合うと存じます」 「ではそれで行こうじゃないか。よろしく頼むよ」 ソムリエも満足そうに自分の仕事をしに下がってすぐにカクテルを運んできた。 口当たりが良く、良く冷えたグラスと飲み口が昼間の食事にあっていた。 「やはり、ソムリエという仕事は伊達ではありませんね。これほど今日の陽気にぴったり来るカクテルはありません」 「ショウはフランス人と変わらんな」 「私はこの4年間フランスの方の元で勉強しましたし横浜ではフランス式のレストランが多いのです」 グラスが空になってすぐに「エ、ヴォアッラ!あなたたちのプレですよ」とコミが勢い良く料理を運んできた、鶉の皿よりもつけあわせがたっぷりと載る皿は豪華に装っていた。 薄切りにしたジャガイモのココット、ガチョウのラードで焼き上げたもので、パセリのみじん切りをたっぷり乗せてありカイユのソースの色とのコントラストが光っていた。 「この料理が絵で表現できるなら俺は天才なんだがな」 そういいながらソムリエが注いでくれたワインを含んでからナイフとフォークを手に取った。やはり最後のガトー・サヴォワを食べ終わったときにはもう水も入らないというのにルノワールはまだ少し飲めるな、だが今日は此れくらいにしておこうとワインの追加をすることはなかった。 勘定書きのワインの欄は12フランで「ルノワールさん、このワインは値段の割りにおいしいですね」 「そうだな、俺もこのワインのセカンドをはじめて飲んだが料理に合って酒も料理もすばらしかった」 合計が38フランでチップに10フランを支払うことにして20フラン金貨2枚でお釣りの2フランを受け取り、チップに5フラン銀貨2枚を皿へ乗せた。 「ショウ、帰りの馬車代はあるか。歩きはつらいだろう。食べすぎだという顔だぞ」 「あと小銭がいくらか残るだけですがメゾンデマダムDDで借りて支払いますよ」 5フラン金貨を出して「此れで馬車に乗れよ」と渡してくれた。 帰りがけにシェフとソムリエが門口まで見送りに来てくれて嬉しそうに「また御出でください。お待ちしております。M.ショウ、M.ルノワール」と送り出してくれた。 来た時と違いパレ・ロワイヤルのほうの出口から散歩すると言っておいたのでそちらにスタッフが勢ぞろいしていたのだ。 ルーブルの前で馬車を拾いノートルダム・デ・シャン街32番地へさきに周り、そのときにルノワールは馭者に5フランを渡して「ソウル街だモンマルトル墓地の先だよ向こうで後チップ込みの5フランを貰いなよ。それ以上はいかんぜ」 「旦那ありがとうさんです。此方の旦那からおっしゃるとおり以上は頂やせん」 正太郎はルノワールが本当に気前がよいし奢られるのも好きだが、たかり屋ではないと豊かな気持ちになった。 |
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Paris1872年6月16日 Sunday 朝の食事のあとMomoが正太郎のデートの支度を手伝ってサンフランシスコで買ったジーンズの上下を選んだ。 「このルパーシカではまだ暑いわ、ボン・マルシェで季節の先取りだなんていわれて高いものを買わされたのよ、このJeans(ジーンズ)なら汗の吸収もいいしこの洗いざらしの感じはショウにぴったりだわ」 「それならMomoもデートで此れを着てきたら納得なの。僕はこっちの紐育で買ったものの方が好い気がするんだけど」 「そうは言うけど此れは夏前なら色が鮮やかでいいけどこの暑い日には少し派手よ。また秋までしまっておくのね」 パリに住むとなんと季節感とモードが此れほど煩く言われるとは思っていなかった正太郎には良く判らない話だ。 「それで此れは季節感はいいのかい、サンフランシスコでは一年中着ているらしいよ」 「そうでしょうね、此れは働く人たちの制服みたいなものよ。ショウが昨日話してくれたル・グラン・ヴェフールのようなところには横浜から持ってきた服ね。今日のデートはムーランギャレットと展望台でしょ、其のあと正式な晩餐にでも行くなら別だけど」 「今日のコースには入れていないよ。モンマルトルでお昼を食べてルーブルで美術品を見て其のあとカフェかパティスリーでお茶にするのさ」 「マダム・デシャンは朝シブーストのサントノレが良いと言っていたわよ」 「それはお土産を期待しているということだろ。疾風のアルマンの話をするんじゃなかったよ」 「勿論よ、ショウが来てからお菓子に困ることがなくて助かるのよ、此れまでの下宿人はお使いをしたがらない人ばかりですもの。普段から昼間に出歩けるショウはMme.のお気に入りよ」 Saint-honoreはサン・トノーレと言う聖人にちなんだ通りの名前だそうだが、疾風のアルマンもMomoもサントノレという風にお菓子の名前を言うので正太郎には不思議だった。 丸く焼いたブリオッシュに、カラメル掛けした小型のシューを、まわりに並べてアメではりつけ、中央にクレームサントノレ(クレームシブースト)を絞ったものだとマダム・デシャンは今朝から期待に満ちた目で正太郎を見ていた。 「あんなにお菓子を食べてどうして太らないんだろ」 「それわね、普段は私たちと一緒にお庭の掃除をしたり階段まで拭き掃除をするからよ。みんながお部屋の掃除もお願いしたいといえば綺麗好きのMme.は喜んで引き受けるわ。でもそれは有料ですと言う事に決まっているの」 「なんだMomoやヴァネッサさんがやるのじゃないのか」 「私たちもやるけどMme.は自分で遣りたがるわ、楽しいそうですもの。だからといってただで遣ることは決してしませんよ」 rugueux(ラフ)な格好が一番と勧めるMomoの言うことを聞いて其の格好で広間で馬車を待った。 9時にアロルドが迎えに来たのでMomoに手を振ってノートルダム・デ・シャン街へ向かった。 「昨日のノートルダム・デ・シャン街の近くで今日は12番地です」 「それだとあの通りへ入ってすぐですね」 アロルドは走りながらも番地は見ているようで注意力に優れているようだ。 「其のとおりですよ。支度に時間がかかるだろうから1時間くらいどこかで休んでいるといいよ。其のあとムーランギャレットまで行くのさ。Le Blute-Finの展望台に上って此れでパリを眺めるんだ」 アロルドに双眼鏡を手渡した、ニューヨークで買った4倍のものだ。 少し遠くを覗いて吃驚して返してよこした。 「驚いたね向こうの通りの端までが手に取れる近さに見える。此れならパリ中が手の中に入るように見えまさぁ」 4人掛けの馬車の馭者側に乗って気心が通いだしたアロルドと話しをしながら馬車にゆられた。 サン・ラザール駅からコンコルド橋を渡ってラスパイユ大街のセーブル・バビロンの先フリュリュス街を右へ入りノートルダム・デ・シャン街でまた右へ曲がりぴったりと12番地の建物につけた。 此処まで30分もかからず時間は9時26分だ「10時半に此処に来て欲しい」 「いいですとも、どこかで時間をつぶしてきます」 正太郎は花でも持って来れば良かったかなと気にしたが階段を登って5階のエメの部屋に向かった「此処は5階建てでエントランスは無いから最上階が5階よ。其の16号室」そうエメに教わったので階段のところで見ると一番下のところが66号室と札が張ってあった。 「なんだ此れ可笑しな家だ、段毎にそんなに部屋数があるのかな」 そう正太郎は思って1階ごとに注意するとだんだん数が減っていくのに気が付いた。 「不思議な考えの家主が居るんだな」 どう見ても反対だ。 部屋から楽器の音とエメの声とは思えない高い声の歌声が聞こえた。 「エメ、ショウだよ。支度はどう」 ノックしながらそういうとドアが勢いよく開いて「ショウ、ショウ来てくれないかと思った。逢いたかったの」とエメが引いたドアから勢いよく飛び出してキスの雨を降らした。 中に赤いワンピースの背の高い女性が笑いながら「オヤオヤ、私がまだ居るんだけどね。ショウ私はこの娘のマンドリンの家庭教師のGiuditta(ジュディッタ)よ」そういってエメの背中の後ろから正太郎と握手をした。 「はじめまして僕がShiyoo Maedaのショウです」 エメはそれでも正太郎の背中に回した手を固く握って離さなかった。 「駄目ね、此れでは今日の練習は此れまで、あたしゃ退散するよ」 そういって二人の脇をすり抜けて部屋を出て行った。 エメは漸く手を解いたが其の手をショウの顔に差し出して今度は顔を包み込んで優しくキスをした。 ドアを閉めてエメに手を引かれて出窓際の長いすに誘われた、壁には家族の写真に混ざりルノワールのものらしい花の絵もあり、ギターとマンドリンが置いてあった。 「エメはマンドリンとギターを習っているの」 「マンドリンはカンツォーネでギターはシャンソンやカンツォーネにも使えるのよ。マンドリンはショウが教えてくれるんでしょ」 正太郎は一瞬何のことかと思ったがLe mandarin.(中国標準語)だと気が付いた。 「いいとも僕が教師になるよ、上海語(Shangai)に広東語(Guangdong)に寧波語(Ningbo)だけだけどね北京語(Beijing)はまだ良く判らないのさ。意味が時々反対になるそうなんで頭が混乱するのさ」 「いやね、ショウはChine(シナ・中国)の言葉を本気で習うほど暇は無いわ。今は此れを習うのに精一杯よ」 そう言ってエメは正太郎の顔にまた唇を寄せて体を引き寄せた。 二人が満足して時間を気にしたのはアロルドに約束した1時間が近付いた頃だった。 「いけないアロルドに10時半に下へ来てくれと頼んだんだ」 「馬鹿ねショウはすぐに帰るつもりだったの」 「駄目だよ今日は此れからムーランギャレットに遊びに行くんだろ」 「そうだけど、まだ立てないわ」 「下で待っているから仕度をして降りて御出で」 「判ったわ、あと15分で下へ降りるから待っていてね」 エメは正太郎の髪と顔を検分して満足すると先に行かせた。 15分なら女としてすばやい支度なんだろうと正太郎は思った、Momoが「1時間は支度がかかるわよ、絶対に迎えが来るまでに支度をすると俺に気があると思われるから普段着のままで待っているはず」 そう言った半分はあっていたがあとの半分は自分にも原因があるんだと正太郎は浮ついた気持ちを引き締めて階段を降りてアロルドの馬車に向かった。 「待たせたかい」 「まだ時間まで余裕がありまさぁ。待たせてはいけないと早く来ただけでさぁ」 「すまないね、まだ時間がかかっているんだ。普段の服装で降りてくるはずなのに出掛けに色々あるらしい」 「女という奴はいつもそうでさぁ。家の奴も親父さんの家にはそのまま行くくせに、ちょっと市場まででも30分はざらでさぁ」 それだものマダム・デシャンもMomoも僕の支度をあれこれ指図をするのが楽しいのだと思い当たった。 エメは正太郎が下へ降りた15分きっかりに馬車のところへ来た、最初トルコの人かなと間違えたのは黒いベールをかぶっていたせいだ。 「エメそれはトルコ風なの」 「そう、ショウがアメリカやジェノバ風にジーンズで決めてきたから私はオリエンタルな雰囲気がしたくなったの」 「良く似合うよ、でもそれだと暑くないの」 「此れ、割合と涼しいのよ。だって暑いアラビアやエジプトの人も同じ服装なんですもの風通しがよくなければ向こうの人が着る訳無いわ」 それもそうだと思い馬車に手を取って乗せてあげた。 「ルピック街の風車の下で良いですかい」 「そうしてください。ムーランギャレットのキャバレーは其の後で寄るから今度はメゾンデマダムDDに夜に迎えに来てください」 「アラあたしをメゾンデマダムDDに招待してくださるならほかの服にしたほうが良いかしら」 「ゴメンゴメン、まだ言ってなかったけど今晩ジュリアンと商談でボルドーまで夜の特急で行くんだ。今度はメゾンデマダムDDの夕食に招待するけど今日はお昼にムーランギャレットで食べて踊って其のあと5時ごろにイギリス式のハイティーでシブーストのお茶とケーキさ」 「マァそれなら良いでしょ。ショウは自分で其の予定を組んだの」 「此れはYokohama流さ。あちらでは夜の食事が7時頃なのでYokohama以外ではハイティーは無しで夕食にするんだ」 「それじゃぁおなかがすいて夜寝られないでしょ」 「だけどパリと違って一番日が長いときでも朝4時半ごろから7時までの14時間程しか明るくないんだ、パリのように9時過ぎでもランプが要らないという事は無いんだよ」 そういう事情を話しているうちにクリシー大街からルピック街へ馬車が上がっていった。 大きなカーブを曲がりきると聳え立つ3基の風車が見えた。 馬車が止まり「ムッシュー、マドモアゼル着きましたぜ」アロルドが馬車止めを素早く噛ませてドアを開けてくれた、ベルリーヌ馬車とは違い腰の辺りまでの枠があるだけの家族用の観光馬車だが新しく手入れも良い気持ちのいい馬車にエメも此れはチップと1フランの銀貨を渡した。 「約束の6フランと待たせた分の2フランを受け取ってください」 「旦那そんなには要りませんや、マドモアゼルから頂いた1フランで十分でさぁ」 「貰っておきなさいな、またこの次もあることでしょ」 エメが優しい声で言うと「すみません旦那」といって受け取ると二人が風車の見晴台の下まで登る間手を振ってくれた。 アロルドの 横じまの青いシャツと黄色のスカーフが馬車と良くあってモンマルトルの風景の一部のように正太郎には見えた。 「エメあのアロルドと馬車を絵にかけたら素敵な風景になるだろうね」 「そうね、でもそれだと買ってくれる人が居ないわ。もっと上品な貴婦人かお金持ちに変えないとね。画家も大変よね自分の思うとおりの絵を描いていてお金が入ることは無いのですもの。私も趣味と教養のための絵と楽器くらいで終わりそう残念だわ」 口ではそういうが手は確りと正太郎の腕を抱きこんで肩を寄せ合って板の階段を登って一番上の見晴台に上がった。 正太郎のsac de la toileから取り出した双眼鏡でパリの街を見下ろして盛んにあれはなんと言う橋だから見ろ、あれはボルドーへ行くパリ・オルレアン鉄道のオーステルリッツ駅だと換わる換わる見ていた。 品の良い老婦人が小さな子と上がってきて目を眇めてみていたが思い切ってエメに其の telescope(望遠鏡)というのかしらそれは良く見えますのと聞いてきた。 「ご覧になります」 エメが老婦人に差し出すと少女と共にあそこは何、あれは何とエメと話が弾みだした。 少女の母親らしき夫人が下から呼んで二人が降りた後もエメと正太郎は其処で時間をすごしていた。 昼の鐘が街に響いて漸く二人は下へ降りてジラルドンの角のムーランギャレットの入り口へ向かった。 入場料は25サンチーム、正太郎が二人分を支払って中へ入った。ディマンシュのせいか室内は若い恋人たちで一杯だった。 ニコラと坐った木陰の席が空いていたので並んで其処に坐るとセルヴァーズが注文を聞きに来た。 正太郎とエメはメニューを見ながら相談をした。 「カクテルアレクサンダーふたつとエメはお腹は空いているの」 「ジェファン(J'ai faimお腹がすいたわ)」 「それなら鶏肉とマッシュルームとアスパラガスのソテーレモン風味というのはどう」 「ショウがそれで良いなら同じもの、後じゃがいもとベーコンのオムレツが欲しいわ」 「それ量は多いの」 「二人で分けた方が宜しいですわね」 「では一つね、ポテトのココットはどうなの」 「あ、それも良いわね、小さいかしら」 「二つのほうが宜しいですわ」 「そうしょうか、ワインかビールを頼むかい」 「ビールが良いわ。よく冷えたのをお願い」 「かしこまりました、ではカクテルはすぐにお持ちいたします」 セルヴァーズが去ってエメは手を出して正太郎の手を優しく触って「カクテルが来る前に一曲踊りましょ」とバンドネオンにあわせて踊りだした。 席に戻るとすぐにカクテルが来て火照った体をいやしてくれた。 「ねえエメ、この間ニコラと来たときはバンドネオンでなくてもう少し大きなアコーディオンで曲のテンポも速かったよ」 「そうかもしれないわ。室内はAccordeon(Accordion)奏者のワファイラーさんが居たからショウがきた時には表で演奏していたかもしれないわね」 「エメは此処の人たちも知っているの」 「ウウン、でもフォリー・ベルジェールへも仕事でこられるの。バンドネオンの人は知らない人よ」 マンドリンのことを聞くとエメは6弦のミラノ型マンドリンが得意で宝物よと自慢して部屋にはそのほかにギターも置いてあり、ラコトの作だと此れも自慢した。 大事に磨くそうで其の磨き方も話してくれ、絵の基本も習っていると才能の豊かさに驚く正太郎だ。 次々に食事が運ばれて二人は一時食べることに夢中になった。 どうやらオムレツを一つにしたことは正解のようで二人はこれ以上は無理な注文ねと笑いあった。 「私は沢山食べないからレストランでフルコースは食べきれないお店が多いのよ、ショウはパリへ来てどう思った」 「僕もアントレとデセールかアヴァン・デセールのどちらかは抜いたほうが良いくらいだ。勿論お菓子は好きなんだけどね。パリへ来てマカロンがお気に入りに成ったよそれとこの間食べたアリババが良いな。今日はサントノレを君と試したいのさ」 「シブーストね最高、ショウは小さいときからパリで育ったパリジャンみたいに知っているわ」 「君こそパリジェンヌというほうが良いくらいだよ」 手の甲をつねりながら「マァお世辞が上手いこと。それがパリジャンということよ」 「そうなの、そういうのってイタリア人のほうが上手いと聞いたよ」 「そうかもしれないけどショウのは自然に出るみたいね」 「うちの会社の偉い人たちは皆女の人に親切だよ。ジャポンではそういうのは男の恥だなんていう人が多いので普通にしていても親切に見えるらしいのさ。僕も小さいときからそういう人たちに囲まれていたから自然と成ったのかな。それとお手伝いに派遣されていた孤児の家のMlle.ベアトリス・ドゥダルターニュ とMlle.ノエル・ルモワーヌのおかげでフランス式の礼儀を学んだからさ」 もっと知りたいというエメと踊っては席に戻りを繰り返しながらYokohamaの話をした。 正太郎の習ったマンドリンは8弦だったがエメのは違うようだという話から何が引けるのかという話しで曲を口ずさむと、来れいとしのツィターという曲と、正太郎が名前も知っているSanta Luciaはエメの一番のお気に入りだということも知った。 単弦6弦のマンドリンがエメの宝物だというのも伯母からの贈り物ということも聞いた。 「やぁ、エメじゃないか、今日も其の東洋の紳士と一緒かな」 「ジェローム先生今日は。この間は儲かりました」 「いやいやあの日はひどい眼にあったが換わりに描いた肖像画がお気に入りで高く買ってくれたよ。競馬場の貴婦人とでもつければサロンに出しても良かったかな。だがピサロ君はもうサロンは駄目だ自分たちの絵は新しい息吹だといっている」 そういえばこの間マネの家で盛んに議論していた人と静かに聴いていたのは連れの二人だ。 「君たちこの人は幸運の紳士ですぞ。なんせ人気者のサラ・ベルナールのお気に入りだ。おまけにこんなかわいい娘を恋人にして」 「先生。恥かしいじゃ有りませんか、ピサロ先生が目を丸くして居られますよ」 「そうかな、モデルを前にすれば誰でも目を丸くして其の後真剣に見直す物さ」 ピサロとルフェーブルと二人を紹介してくれた。 「この間はお話も出来ませんで失礼した」 ルフェーブルは正太郎に帽子を取って挨拶をし、ピサロは黙って帽子をひょいと持ち上げた、この間と正反対だと愉快な気持ちになって正太郎は二人に「Shiyoo Maedaと申しますジャポンから商売のための勉強に参りました」 「絵も扱うのかね」 「扱うというより好きなものを自分の無理の無い値段で買うというくらいです」 「そうかこの間君がマネ君に申し入れた絵は将来の人は大きな評価かを与えるだろうがいまのサロンでは認めないだろう。このルフェーブル君のは本当の芸術だ裸婦を題材にしてもフランス随一だよ」 ルフェーブルは「君エメといったかな。私のモデルにならないか」 「私先生の描かれる様な肉体でもエロチシズムも持ち合わせておりませんわ」 「いやいや君は裸婦としてのモデルではいかんのは承知だ」 エメは褒められたのか貶されたのか判らないという不思議な顔で見つめた、 「いまの服とベールは君の感性とよく逢っている。そのままでギターを抱えるかすれば宜しい」 「君ルフェーブル君トルコ風に合うのはマンドリンのほうが良いがどうだ」 「オオそうかそういうことだ。ぜひ私のモデルに成りたまえ。きっといまより素敵な君に出会えることを請合うよ」 「いま試験が目の前に迫っていますのでそれが済んでから考えさせていただきます。お返事はジェローム先生に致しますのでいまはご猶予くださいませ」 「いいともいいとも、私は秋の君を描きたいからそれまで時間もあるさ」 エッ今のエメを見て秋の風景に合うと想像するこの人はどのような絵を描いているのだろうと興味がわく正太郎だった。 「二人で今度わしのアトリエに遊びに来たまえ。それまでに構成をどうするか考えておくからね、期待しておるよ」 3人の画家はそれだけ言うと席を立っていった。 「エメいい話じゃないか。お受けしたら。今の君を残すチャンスだよ写真ではなかなかいまの君自身を綺麗に写す事は出来ないよ。Yokohamaでは写真に綺麗に色を付けられるけどパリで流行っていないようだしね」 そんなことが出来るのかと写真の話からまたYokohamaの事になり時間もだいぶたってダンスにも飽きたのか「ショウそろそろシブーストにサントノレを食べに行きましょ」と席を立った。 昨日のルノワールとの食事代に比べるとムーランギャレットは12フランとチップに2フランで済んだ、入場料を入れてもシャトー・ベイシュヴェルの1868年の12フランと比べ格安の気がした正太郎だった。 二人はルピック街を下りすぐにトロゼ街の角を曲がって坂を下ってアベス街から鍵型に曲がるルピック街へもう一度入ってクリシー大街へ入った。 「このあたり最近おかしな店が増えたそうよ。お金を払えば営業時間の内でも女の子を外へ連れ出せるのよ。ヴァルテスにサラなぞも警察から同じプロスティチュエとしての鑑札を受けろと喧しいのよ。恋愛と商売女を同じに見る警察には我慢が出来ないわ」 「それって鑑札を貰うと何か違うのかい」 「そうね、月一度の医者の証明書を発行してもらうことと、あいつはプロスティチュエだと世間から烙印を押されること。プロスティチュエと俳優が同じものだなんて馬鹿にしているわよ。お偉方の通うドゥミ・モンドのほうへそれを言うべきよ」 正太郎はエメを包み込む様に抱いてしばらく街角にたたずんでいたが「さあシブーストへ出発だ」と元気な声でエメの手を引いた。 大通りを渡りルピック街に続くブランシュ街をサントトリニテ教会へ出た。 此処はサン・ラザール街とショゼー・ダンタン街などが交差してブランシュ街はここから始まるのだ。 教会の前の公園で二人は教会を見ながら腰を下ろして肩を抱いて休んだ、まだムーランギャレットを出て30分も経っていないが歩いている間も肩を寄せ合いお互いが一人に為っているように感じていた。 公園から駅へ向かいサン・ラザール駅前のパサージュ・アーブルの角を左に曲がるとマドレーヌ寺院まで500メートルほどだ裏手から右回りに様々な像を見て高い柱を見上げる二人は自分たちはなんと小さな存在だろうと感じて大きな銅製の開けられたドアから中に入った。 「レリーフの題材は最後の審判だわ」 エメは小さな声で正太郎の耳に囁いた、教会の一番奥に祭壇があり2人の天使に守られて聖女マドレーヌが天に向かう様子が彫刻されていた。 「マグダラのマリア」正太郎がつぶやくと「そうよ香りの守護聖人」そう囁き返してきた。 其の奥にキリストを中心に多くの人の立ち姿が描かれた天井を見回すと右側にはバルコニーが張り出していて「あれは説教壇よ。大きな教会はたいていあのような高いところについているの」と教えてきた。 大きな天井まで届くパイプオルガンも見る人を驚かせるに十分だ。 二人はもう一度マリー・マドレーヌに深くお辞儀をして表に出た、中のひんやりした空気が一瞬で熱気に変わるロイヤル街に出た。 その日は雲ひとつ無く青さがどこまでも続きサン・トノーレ街の中も暑かった。 小さな教会の前にあるシブーストの中はそれでも涼しく二人は空いている席へ案内されて落ちかかる夕日の教会を眺めながらレモンソーダを飲みお目当てのサントノレを食べた。 「もう少し何かを頼む」 「そうねミルフイユ・グラッセ、ミルフイユ・オー・フレーズがあれば二人で部屋へ戻って食べましょうよ」 「君が好きなものを選んで、僕はマダム・デシャンにお土産を選ぶから」 二人で別の店員に相談を始め買い物をして歩いてコンコルド橋から6区へ入りボン・マルシェの建物を右に見てエメの部屋へ向かった。 「そうだいま5時になったばかりだけど7時には馬車でメゾンデマダムDDに戻らないと列車に乗る支度が間に合わないよ」 「いや、今日まだお別れしたくないわ」 「でも2時間くらいは時間があるからそれでいいだろ」 「馬鹿ね。ショウは正直なんだから」 エメに肩をぶつけられて正太郎は二人の考えが同じだと気が付いた。 l'esprit des amants ne consacrent pas leur-meme(恋人の魂はほかの身体に住む)というのが今の二人の気持ちなのかもしれない。 エメは家の外に居た子に「Lucas(リュカ)馬車屋に行って来てくれる」 「いいよ今日も仕事なの」 「ウウン、私のいい人が7時に約束があって帰るので其の時間に迎えに来て欲しいの。これがお駄賃」 5サンチームを渡すと「7時だね、どこまで行くの」 ソウル街、Cabaret des Assassins(キャバレ・デ・ザササン)の下よ。丘をモンマルトル墓地の方から回りこんで欲しいというのよ」 「判ったキャバレ・デ・ザササンの下、モンマルトル墓地の方から廻るソウル街だね」 「頼んだわよ。返事はしに来てね」 「上までかい」 「当たり前でしょ其処に住んでいるんだもの」 リュカは仕方なさそうにレンヌ街の馬車屋へ向かった。 二人が上についてすぐにリュカが息を切らせながら階段を上がってきた。 「エメ、ジョルジュが時間になったら下に馬車をまわすから降りてきてくれってさ」 「リュカ、ミルフイユ・グラッセは好き」 「大好きさ」 「一つ食べてゆきなさい」 「いいのかい、彼氏もいるのに」 「生言うんじゃないのよ。其処に座って待ってなさいよ。ワインはお水で薄めたのじゃなきゃ飲ませないわよ。それでもいいなら注いであげる」 「仕方ないや。水でいいよ。薄めたワインなぞ飲みたか無いや」 3人で二つのミルフイユ・グラッセと一つのミルフイユ・オー・フレーズを分け合って食べるとリュカは下へ降りていった。 トワレットゥ(Toilettes)へ代わる代わるたった後、正太郎はマンドリンをはじいて音程を確かめてからSanta Lucia(サンタ・ルチア)を弾いてエメが透き通るような声で歌った。 Sul mare luccica, l'astro d'argento, placida e' l'onda prospero il vento; Con questo zeffiro cosi' soave, oh, comme e' 「エメ、どういう意味かよくわからないよ。どこの言葉ところどころがフランス語に似ているけど全体の意味が良く判らないんだ」 「私も良く判らないのよ。ジュディッタが歌うとおりに歌ってみるだけなの。彼女イタリア人なのよ」 「イタリアの言葉なのか。それで少し判る言葉もあるんだね」 「Un eclats de l'etoile de l'argent sur la mer, et la vague calme donne la gloire pour enrouler海の上に銀の星がきらめいて穏やかな波は風を飾るというのかしらね。でも少し可笑しいわね。もっと判りやすく誰かにしてもらわないと歌にならないわ。サンタ・ルチアの繰り返しだけじゃ仕方ないですものね」 正太郎がもう一度弾き出すとエメは正太郎に寄り添いマンドリンの邪魔にならないように肩を正太郎の後ろに差し入れるようにして今度は甘い声で囁く様に歌った。 歌い終わると二人はキスを交わし互いにいだきあった。 エメは支度が済んだショウに「帰ったら時間を取ってきっと来てね。今月一杯でお店も辞める事にしているし、学校も後は試験だけで午前中だけなのよ。アア貴方を送り出したくないわ」 「僕だってそうさ君といつまでもこうしていたいのさ。でもそう出来ないのが男には辛い事なのさ。だけど仕事を辞めると収入が無いじゃないかどうするのさ」 「大丈夫よ。Universiteに行く位は伯母の遺産が入ったの。あのマンドリンも其の一つなのよ、だからショウも心配しなくていいの」 「そうだ。これはこの間フランス郵船で貰った小切手だけど君の口座に入れておいてくれないか、何か買ってもらう必要が出来たときにおろし易いようにしておいてくれないかな」 「いいわショウがそう言うなら預かる」 140フランの小切手にShiyoo Maedaと裏書をしてエメに渡したショウはキスをせがむエメを抱きしめた。 階段を勢いよくあがる音がしてドアをたたく音がして「エメ、エメ馬車がきたよ」とリュカの告げる声でエメがドアを開けて正太郎と共に部屋を後にした。 リュカが先導して下へ降りると小奇麗なテントが張られた観光馬車が待っていた。 「リュカ一人だといわなかったの」 「言ったよ、この馬車が来るのは知らなかったのさ」 「エメ。リュカのせいじゃないよ。急なお客が出来て小さいのが出払ったのさ。料金は同じだ」 「それじゃ2フランとチップが40サンチーム」 「エメにゃ勝てないよそれでいいさ」 正太郎はリュカに10サンチームを握らせて「thank youリュカ。グッナイ」とわざわざアメリカなまりで言った。 そしてエメには「オ・ルヴォワール」と一言声をかけて馬車に乗った。 「ショウ、ちょっと待って」 エメは乗り込んだ正太郎が顔を出すと自分も顔を差し出すようにして優しくキスをして「オーヴォワー」というと階段を駆け上った。 「アレアレ。エメのほうがお熱だね。ジョルジュ」 「そうだなあんなエメははじめてみたぞ。ムッシューあんた幸運な人だな、あんないい娘めったに居ないぜ」 「僕もそう思いますよ。ジャポンでは決して居ない素敵な人です」 「ジャポンから来たのかね。エメは本当にいい娘だ。此処に来てまだ2年と少しかな近所の皆に好かれいてるよ。リュカ往復で30分くらいだ乗っていくか」 「ちょっと待ってmere(母さん)に聞いてくる」 リュカは窓から中へ何かを言っていたがすぐ馬車に戻りジョルジュの隣へ這い上がった。 窓から若い母親が顔を出して「リュカどこまで行くの」 「Cabaret des Assassins(キャバレ・デ・ザササン)」 リュカは「オゥ」という叫びを後に馬の手綱を揺すって馬車を出した。 ジョルジュもリュカに手綱を任せて道を指示して陽気に歌を歌い出した。 約束の料金を渡して陽気なジョルジュとリュカに別れを告げて脇のドアから入ったのが7時45分だった。 Momoにお土産のサントノレを渡してシャワーが使えるか聞くと、ショウの時間を空けておいたからすぐ使えるとMomoに言われ、最近濃くなりだした髭をそり新しいシャツに着替えて用意しておいた旅行カバンを持って下に降り、マダム・デシャンの金庫に預けておいた小切手と現金を受け取ったのは馬車が来る15分前だった。 「やれやれ、男でも支度にこれだけ掛かるんじゃ女の人は大変だ」 「判りましたかショウ、女の人が1時間以上身支度にかけてもしかっちゃ駄目よ」 マダム・デシャンは落ち着いてお茶を飲みながらもうサントノレを食べていた。 「クレーム・シブーストは美味しいわね。August Jullienはいい腕をしてるわ。パイ生地との相性も最高」 アロルドが迎えに来たのは5分前その馬車でオテルモンマルトルに着いたのが9時25分で約束より30分以上早かったがジュリアンはルグランと話しこんでいた。 「早かったね。これならゆっくりと列車に乗れる」 「どこかでお茶でもする」 「いいよ。夜食にイチゴの瓶詰めとパンにワインをバスケットに詰めておいた。ほかに何かいるか」 「それだけで十分だよ。23時15分発車まで1時間以上有るけど、此処からは道がまっすぐで時間がかからないけどもう行きますか」 「アア、列車は遅れたら元も子もないからな。早く行って乗り込むのが一番だ」 二人はアロルドの馬車でガール・ドステルリッツ( Gare d’Austerlitz)へ向かった。 |
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2008−3−28 了 阿井一矢 |
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今回は正太郎とエメの恋愛が主流で正太郎がワインの取引で持ち金を使って買い集めるところで話が終わっています。 次回はボルドー編として話を進める予定です。 |
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