幻想明治 | ||
其の九 | 明治19年 − 弐 | 阿井一矢 |
元町薬師 |
根岸寅吉 (根岸虎太郎) 1911年 明治44年4月18日生まれ(天保14年1843年) 横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。 根岸 容 弘化5年1月5日(1848年2月9日)生まれ 江戸深川冬木町に生まれる。 根岸明子 明治元年12月10日生まれ(1869年1月22日) 久良岐郡野毛町三丁目に生まれる。 佐伯 琴 (根岸 幸) 1920年 大正9年9月9日生まれ(嘉永5年1852年) 横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。 根岸了介 1877年 明治10年11月7日生まれと届出 神奈川県久良岐郡横浜町末吉町5丁目54番地に生まれると届出。 (神奈川県第1大区4小区) (明治10年5月5日山手220番生まれ) 根岸光子 1885年 明治18年5月31日生まれ |
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元町薬師 明治19年(1886年)07月08日木曜日 佐伯妙用住職と檀家惣代の石川徳右衛門、茂木保平、平沼専蔵、中山沖右衛門、浅田又七は四年前の十六年に四年掛かって完成した本堂で会合をしたのは先月、其処には香具師の師岡も呼ばれていた。 「伊勢佐木に最近人を奪われて外人客は多く来ても日本人が此処には居ないんじゃないかと思うほどだ、それで師岡さんに相談だが十二日の薬師の縁日を盛大にしたい。いい手があるだろうか」 「然様でした相談を受けて調べてきやした。横浜付近で空いているのは八日くらいでござんした。その日を選びなさるなら五十人は転びに小店、三寸それと大じめをも集めてこられますし評判となれば倍くらいは集められますがさて店の軒先を貸してくださるかが心配で御座います。十二日についてでござんすが今以上に香具師仲間を集めるには飴を与えていただきませんと」 普段世話になる人たちの前では師岡も神妙だ、十二日は弥生町地蔵縁日、石川町玉泉寺薬師縁日、天王町稲荷縁日と此処を含めて近在四ヶ所で行われている、天王町は東海道沿いだがあとの三ヶ所は歩いて十五分ほどの距離だ。 伊勢佐木、賑、野毛では普段も昼間から露店が出ているし長者町では日暮れから三十人ほどが毎日店を広げていた。 「どんな飴が必要なんだね」 之は住職の言葉だ、あまり世間の裏表は知らぬようだ。 「八日を弁天堂の縁日、十二日を薬師の縁日と別けるか同じ薬師の縁日で売り込むかで御座いますが其れは皆様にお任せするとして」 などと言葉を濁していたが「先ず街の人に軒先を華やかにすると共に雨の時でも昼と夜の弁当を彼らに出していただければ必ず五十の数を揃えてごらんにいれやす」 「其れは縁日を続ける間ずっとと言うことかい」 「先ず半年お願いできれば後は自然と三寸が集まるでござんしょう」 暫く相談を続けていたが「では半年の間、月二回百人分の昼夜二食の弁当を約束しましょう。五十と言っても人の数ではないのだろ」茂木が一同を代表する形でそう師岡に伝えて弁当は足りないといけないが其れでいいかいと聞いた。 随分と大雑把な話だが其処は駆け引き上手なところもあり師岡にも負担させるつもりだ。 「五十と言った物を百人の弁当を用意するといわれてそれ以上皆様にご負担を願えるはずも御座いません。多くの三寸が参集すれば後はわたくしが負担させていただきます」
その八日の朝から元町では商店の軒先を借りて小店を開く者たちが集まり世話人代表の石川家の番頭と師岡は中村川沿いに多くの的屋を配置することになった。 「どうだいこの人たちは朝八時だというのにもう五十件近い申し込みがあるじゃないか」 「驚きました。飴の効果がこんなに効くとは思いもつきませんでした。私のほうの持ち分の弁当も大分追加しませんといけなくなりそうで」 番頭は可笑しそうに笑い帖付けが図面に希望の場所を書き付けて番号札を渡すのを面白そうに見ていた。 「こんなに簡単なやり方で良いのかい」 「ええ私のところの若いものが二十人に一人の割合で番号の場所に居りますから、それに図面を見て同じ商売の物が居ないところをそれぞれが選びますし。特別に売れ行きがよいと見込んだ人には特別な場所を割り当ててあります。そういう人の場所はほら赤丸が最初からしてあるでしょ。みななれていますから特別に我を張る者が来た時だけ私の出番で、力関係でうちの若いものに因果を含めることも有るのですが可笑しな物で場末に移したはずが其処がその日の一番の場所などと言うことが良く起きるのですよ」 「世の中とはそういうものだね。その二重に丸を打ってあるものはなんだい」 「あれはこの縁日に前々から店を出していた人で優先的に選べるのですよ。私はサクラを使う物やヌケをするものをいれませんので集まる人に信用があるのです」 「サクラは判るがヌケとはなんだい」 「あちらで商売をしてると思うと人の通りが変わると違う場所へ移動してと仲間内であちらこちらと場所をとっておいて抜け駆けをするものの事ですよ」 薬師の階段したの場所はすでに三日も前に名のある有名香具師四名に振り当ててありいい場所を欲しいものたちは谷戸橋際と前田橋際を欲しくて朝早くから集まりだしたのだ。 商店の軒下は余り人気が無く二十軒を予定していた通りはまだ十軒ほどしか決まっていなかった。 「川沿いに人気が集まったのはどうしてだい」 「さて私にも見当がつきませんが、前田橋は百段への道筋で前々から人気はあると踏んでおりましたが谷戸橋とは思いもつきませんでした」 「バンドへ回る人を見込んだのかねえ。協力費と掃除代として前田橋から薬師までの元町通りが一銭、薬師堂に弁天堂の階段下と増徳院階段下のみが五銭、そのほかは五厘だ。五銭の分は師岡さんが手配して呼ばれたそうだが五厘の差で川沿いに店を開きたいとはわからない話だな」 元町通りは易者観相見が一人、缶詰と缶切りを売る店が一軒、夏の風物風鈴屋二軒、金魚屋一軒、おでん屋台一軒、印判屋一軒、靴下売り一軒、シャボテン売り一軒、箱庭売り一軒で前から縁日に店を出し季節によって扱う物を替える常連が早々と来ていた。 特等席は大じめの行者一人と歯磨き歯ブラシ売り一人、横浜写真売り一人、化粧品売り一人を選んで呼んであった。 「化粧品が縁日で売れるのかい」 「ほら今看板を掲げたでしょう。ベルツ水と言うのが一番の売り物ですよ。本来は冬の物ですが女性は水仕事で手が荒れますからね。一番端は普通はずれで嫌がる場所ですが行者は手相人相を見ながら膏薬と伊勢暦を売るのであそこか入り口の前田橋際が最適なんですよ」 薬師の縁日は大分話題なっていたらしく十時にはちらほらと参詣に来た人で商売が成り立ちだした。 その頃には元町通りも全て埋まり最大百三十用意した区割りが足りなくなってもまだ何人かが荷を担いでやってきては若い衆になだめられて百段下の自転車の輪乗り場の先で我慢して店を開いていた。 石川家で始めた貸し自転車と輪乗り場はこの日も人が珍しげに見物していて杏飴は思いのほか売れるようでニコニコと商売をしていた。 学校から戻ると了介は浩吉を連れて縁日に出かけて良いと容が許したので二人で汐汲坂を降りて元町へ入った。 二人は気が付かないようだが千代が容からの連絡で二人の若い連絡員を汐汲坂あたりへ行かせて置いたのだ。 「いいか向こうに見つかっても平気な顔で今日は非番ですと言うか遊びに来ましたが何か御用が有りますかぐらい言うんだぜ」 「判りました」 二人がそう答え千代から五十銭ずつもらって「之で田楽でも食べろよ」といわれて嬉しそうに受け取った。 其の二人は汐汲坂の途中の元街学校あたりで降りてくる了介と浩吉を見つけ「亀さんは先に輪乗り場へ行ってくれ。俺は坊ちゃんたちをやり過ごしてから行くから。顔を出して一緒に行きましょうかと声だけかけておくよ。坊ちゃんは嫌がるだろうから後から行くことになるだろうさ」 「じゃ松さん、頼んだよ前田橋と元町通りの角でぶらぶらしてるよ」 二人は其処で別れ松という若い男は了介に声をかけた。 「了介坊ちゃんに浩吉さんは縁日に行くのですか、お供しましょうか」 「いえ大丈夫です。何かあれば虎屋に声をかけますから。ありがとう松さん」 二人をやりすすごして松はぶらぶらと元町通りへ入った。 了介は学校の三年生や四年生の先輩の顔を見ては「こんにちは。縁日は楽しいですね」と声をかけ「了介はこれからかい、僕たちは一回りして輪乗り場で遊ぶからまたね」とか「行者の脅し文句が面白くて一時間も輪の中にいたよ」などといわれてまだ転びの物売りが少ない場所でも浩吉とひとつずつ眺めて先へ進んだ。 古い本を売る年寄りに「馬琴の八犬伝か一九の膝栗毛はありませんか」通ぶって声をかけた。 「有るけど高いよ」 「幾らですか」 「八犬伝は兎屋の十年の発行で全冊そろいが二十一円二十銭、東海道中膝栗毛は博文館で最近の10冊本で三円」 「本当ですか今あるのならぜひとも欲しいのですが」 「店の方に有るよ、お金はあるのかね。大金だよ」 「此処に十円ありますから、後は本と引き換えでお願いしたいのですが」 小さな声で懐から首から提げた巾着を年寄りに持たせて中を覗くようにいうと「参った、今もってきては居ないけど後でお届けしますよ。家はどちらですか」 年よりは了介をからかったつもりだった、八犬伝は発行当時九十八巻百六冊も有るのだが巾着を覗いて年寄りは急に言葉が丁寧になった。 「末吉町と元町二丁目と何処が近いですか」 傍でやり取りを見ていた師岡の若い衆が「治郎吉のとっつあん本は本当に有るのかい」と声をかけた。 「ええ、店の方にありますよ。芳さんはこの子達をご存知ですかい」 「おお知ってるよ。其れでいつ配達できるんだね」 「今日は勘弁してくださいよ。明日の午後ならどちらでも行きますよ。坊ちゃんわしゃ神奈川から来てるでな、今日というわけにゃいかんのじゃ」 「それなら青木町に知り合いの店がありますから其方へ配達していただけますか。横浜物産会社という店をご存知ですか」 「すぐ近くじゃよ。あそこで誰か知り合いでも働いてるのかい」 「ええそうです。僕の名前とその巾着をみせてお金を受け取ってください。今日中に連絡をして置きます」 巾着を返そうとする年寄りに「前金ですよ。受け取りに二十四円二十銭のうち前受け金十円と書いてくださいますか」と言って無理に巾着を受け取らせた。 「坊ちゃんこの爺さんは正直ですから信用できますよ」 若い衆も二十円以上もする本を見もしないで買う了介に驚きを隠せない様子だ。 離れてみていた松も其の気風のよさに感心しきりだ、了介が其処を離れて風鈴屋を覗いて先へ行くのを見ていると芳という若い衆が「松っあんお供しなくて良いのかい」と声をかけた。 「すこし先に亀さんが出てるよ」 「コタさんの旦那も気風がいいが坊ちゃんもすげえね」 「其れだよ、俺も驚いたがあの本はきっとボストンの明子様へ送られるつもりじゃないかな。全部揃わないとこの前旦那様が言われていたから」 「明子お嬢様にですか。たいしたものだな」 年寄りも其の二人の話と巾着の重みを確かめるようにしていたが松に「ところであの坊ちゃん何者ですかね」と不安げだ。 「気にすることなどないさ。俺たちの旦那の坊ちゃんだよ。青木町の横浜物産会社は其の旦那が始めた店で今は後を受け継いだお方が社長だが仲間内だよ。坊ちゃんが連絡しておくと言うのはこの先に同じ旦那が始めた店があるから其処から連絡が行くのさ」 「では間違いなく明日の昼までにお届けして置きます」 ござの本を手に取る客を気にしつつ松にも愛想をいい芳には「今日はいい商売が出来そうです。遅れてきてこの場所で大当たりだ」と緊張していた顔が崩れた。 その場で手に取っていた本を「幾らだ」と聞かれて「四銭ですよ」と言うのを二銭に値切られたが大様に「良いよ其れで」といわれて客も喜んで半銭(五厘)のご祝儀まで弾んで懐に本をねじ込んだ。 腕のよい大工で一日二十銭が相場の時代おさない子が十円をもっていることも驚きなら二十四円の上もして子供では読むのも大変な八犬伝に膝栗毛を親父の言葉だけで信用して買おうというのに驚かないほうが不思議だ。 虎屋は半分板戸を降ろし其処に風鈴売りの屋台が出ている、陽が入らないため店を煌々と明るくし軒先には色とりどりの旗を下げた店に了介は浩吉と入り顔見知りの店員に「青木町まで連絡をしたいのですが」と頼んだ。 心得顔の店員は了介が話す言葉を書付に書き、受け取った前渡し金の受領書と共に状袋に入れ「四時の定期連絡で青木町に届けます。本は山手でよろしいですね」と書付に書いたことをもう一度念押しした。 「ええそうです。立て替え分は明日にも父のほうから青木町へ届ける手配をしてもらいます」 そう書付に書いてもらったことを改めて伝えた。 二丁目の中ほどの店を出て風鈴売りが客に音をすこし高くできるかといわれて鑢で裾を削る様子を眺めると左となりのとらやのドーナツの売り場に並ぶ子供たちを見て「浩吉はドーナツを食べたいかい」と聞いた。 「僕は氷水のほうがいい」 そういうので一丁目のアイスクリンと氷水の店で腰掛けて甘い黒蜜をかけた四銭の氷水を食べた。 其処の縁台の脇では缶詰売りが声もかけずにひっそりと店を出している。 北海道直送と書かれた鮭の缶詰はひとつ二十二銭、輸入品と銘打った様々な缶詰は二十五銭と三十銭、缶切りはひとつ十銭、山と詰まれた缶詰はものめずらしげに見る人は多いが書かれた値段に誰も声をかけないかと思えば外人たちは五個十個と買い入れていく。 お供の使用人が無造作に肩にかけた袋に落とし入れて口笛を吹いて楽しそうなイギリス人らしき老人と歩み去った、帽子の綺麗な夫人も幾人か連れ立って散歩がてらか通りを歩く様子はみていて飽きないが氷も解けて甘い蜜を飲んだ二人は先ほど聞いた行者が暦を売る増徳院の階段した外人墓地よりの広場へ向かった。 墓地をさえぎるように幔幕を張って様々な手相の画や顔の画が描かれた布が下げられていた。 了介は浩吉を肩車して「見えるかい」と聞いた「ええ良く見えます。今行者が手に本を持って前の人に渡しています」と浩吉は教えた。 「配るよくばるよ」と行者は言いながら本を前列の人に渡した「さてお立会の諸君。この本は通称伊勢暦、神宮暦と明治の御世に合わせて名を換えたが御師が伊勢神宮の命を受けて全国くまなく配る物だ。諸君の家にもあるだろうね。我が輩も其の御師の一人伊勢神宮への幾許かの寄付と共にこの書を配るのが目的じゃ、人相手相は諸君の将来が明るくなる手ほどきじゃ」 そういいながら配るよくばるよと本を人の手に乗せるように一同を見渡して「其処の今手を引っ込めた若い衆何もこの本を売りつけるんじゃない、差し上げるというんだ遠慮せず受け取りなさい。本は売り物じゃないんだ擦ればわしの食い扶持はどうして稼ぐかさてお立会の諸君。伊勢神宮への寄付の幾許をご報謝していただく決まりじゃ其れもわしの懐には入る金ではない」と口上が輪の後ろに居る了介や浩吉のところまで聞こえた。 「さて諸君、わしの脇で机の後ろに座るこの老人只者ではないよ、伊勢の御師に其の名も高いお人だ今は年をとられてその昔健脚に物を言わせて全国を旅した面影はなくなられたが暦と引き換えにお伊勢様へのご報謝を御名と共に伺いおいせさまにその御名をお届けするのがお役目じゃ。暦と引き換えにおいせさまにご報謝を希望される方は其方で御記帳くだされ」 本題にいつ入るのだろうと思ったが浩吉が重く感じられたので肩から下ろして其処をさって増徳院の本堂まで浩吉の手を引いて登り一銭を投じて家内安全を願った、其処を降りると薬師堂の階段を登った二人は半銭を賽銭箱に入れて「明子姉さんが無事に留学から戻りますように」とお願いした。 一度階段したへ降りて弁天堂へ上がり同じように半銭を賽銭箱に入れて同じようにお願いした。 弁天堂から谷戸橋にかけては植木屋と金物屋が道の川沿いに出ていてすれ違うのも大変な有様だ、船着き場からは続々と人が上がってくるし谷戸橋も人で溢れている。 グランドホテルに泊まっている人たちも何事かと見に出てきている。 前田橋へ向かって歩くと景品付きのくじを売る飴屋と餡子巻きの屋台には顔見知りの子達が並んでいた。 その中にはさっき行者の事を教えてくれた四年生の遠藤さんの弟で同級の強司も居たので「強司君、お兄さんに教えてもらった行者は人が多くて声しか聞けませんでした」と話しかけた。 「なんだそうだったのか。それじゃあつまらなかったろう」 「浩吉を肩車して中を覗かせましたが配るよ配るよというばかりで話しが進みせんでした」 「俺が見てたときもそんなことばかりさ。傷薬や膏薬を売るんだと兄貴が言ってたけど売るとこをおいらも見られなかったよ」 子供たちは途中で飽きたようだが行者は老人が諸国を旅して足をくじいた時に浅井万金膏のおかげですぐに元気に旅を続けられたことを話して其れを売りながら五代目大関境川浪右エ門の話しを一くさり聞かせ元祖相撲膏の由来を教えるのだ。 当代(六代)境川は横綱免許を受け横浜でも人気の力士だったのでその名を知る人は多く其処まで聞いていた人は思わず買い入れてしまう話口は天下一品の香具師だと評判の男なのだ、サクラを使わず一日二束から三束(三百)の膏薬を売るのは並大抵ではない。 強司たちと別れて前田橋まで小店や三寸を覗き込んでは歩いていった。 亀の橋まで行くと後ろを振り返りぺこりとお辞儀をして浩吉と坂を登った。 隠れていたつもりの松と亀は「やっぱり坊ちゃんは違うな。俺たちが陰で守っているのが判っていたようだ。俺が家まで付いていくから松さんは遊んできなよ」といった。 「まだ家まで戻られていないから西横町へ入るなら先回りが俺、そのまま上に行くなら松さんが蓮光寺脇から先へ回ってくれ」 「よし心得た」 二人は鶴屋の前で相談して坂を登りだした。 蓮光寺は明治六年地蔵坂中ほどに移って来て植木場の西横町より上を寺域とした。 真宗大谷派で嘉永元年に蓮光庵として横浜村に創建されたが居留地に指定され移動したが明治六年の関内大火で焼失後此処を選び、住職の本田興瑛は地蔵坂を自費を投じて広げて改修し引き移って来た。 子供たちは地蔵坂上へ進んだので亀は横へそれて共立の脇へ上がって子供たちが本通りを来るのを学校脇から富士見町の先へ出て後から来た松と二人で家に入るのを確認すると末吉町に居る千代に報告しに向かった。 「ご苦労さんだったな。今日はこれで帰っていいぜ」 「ヘイ、では後はよろしく」 二人は連れ立ってのげ伝へ向かった、弁天通りの店は吉田町へ移り伊勢佐木町の先に警察が見えるあたりで左側の路地奥に門口の提灯がゆれるのが見える。
文弥とお蝶の夫婦は一人娘のトキと三人で店を磨きこんで何時来ても清潔な店を心がけている、寅吉仕込みのおでんに鳥の串焼きに簡単な酒のつまみが出る店は繁盛していて提灯に灯が入らぬうちから五人ほどの客が入っていた。 「早いね、休みかい」 「いや今日は千代さんから二人とも仕舞いにしてよいといわれて軽く入れるつもりで来たのさ」 二人は了介の事は伏せて元町の薬師の縁日の話題を話した。 「そんなに賑やかでしたか」 「そうなんだ新しい八日の日に決まって香具師に転びも多く集まってきたし、植木屋に金物屋まで繁盛していたぜ。驚いたのは異人の年寄りが缶詰を十個近くも買い入れていたがひとつ二十五銭の上もする奴を安いねなんていいながらお供の男の袋にぽんぽんと放り込んでいたぜ」 「春さんに蝦夷地で作られた鮭の缶詰を頂きましたが酢飯に茹でた枝豆とあわせていただきましたらおいしうござんしたよ」 「そいつは上手そうだ今度試してみよう」 「十二日の縁日には遊びに行っていいかしら」 娘のトキが父親に話しかけたが一人じゃ駄目だと言われていたので若い客が「おいらが連れて行くがいいか」というと「なおさら駄目だ」と顔をしかめ連れが盛大に笑ったので客の若い衆はチェッと親父のまねをして顔をしかめた。 トキは十七小娘とはいえぬ色気も出始めて男が出来たかとやきもきする若い衆も居るようだ。
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明治19年(1886年)10月10日日曜日 十三夜 9月4日付け・オランダ人シュネル(Edward Schnell)の借地料不払(注)にたいし、県では知事の名をもつて、オランダ領事庁裁判局判事宛に訴状をだした。 (注)シュネルは明治6年10月県から借りうけた外国人居留地169番の借地料を期限がすぎても払込まなかつた。(横浜歴史年表) 昨年に続き淀屋さんから十三夜へのお誘いがあり昨日から寅吉一家は東京へ出ていた。 四時ごろから東の空に月の登る様子が伺えた、容は昼から淀屋の隠居所を松代と尋ねていた。 「コタさんと了介はどうなさった」 優しい物言いの淀屋のご隠居は昔と変わらない。 「旦那様と了介は昨晩深川に泊まり今日は浅草で仕事の打ち合わせ、夜には神田で泊まることにしましたのさ」 「其れでは明日横浜へ戻るのかい」 「ええ学校へは遅刻の届けを出して有りますので八時の汽車で横浜へ戻りますのさ。旦那が今日戻るのでは私に月を楽しむ余裕が無いだろうと土曜日の内に学校へ届けを出しましたのさ」 隠居所には年に三度ほど顔を見せるので十三夜は去年に引き続いての欠席だ、やはり容とのあの日の事をからかわれると危ぶんでいるのだろう。 五時を過ぎて秋の陽はかげりを見せ左がすこし欠けた月が輝きを増した、寅吉や了介なら月の左の星座はピスケイス(うお座)だとすぐ言い出すだろう。 淀屋さんの暫くなかった十三夜の宴も昨年から復活して毎年の例にしたいと堀田老人は元気でやってきた、共に80をとっくに過ぎたはずだ。 昨年と同じように仕出しは浜町の岡田、元番頭の堀田老人のほかにも独立して近くに住む元の手代数人も顔を出して初音屋から小ゑいと半玉の玉助も呼ばれ座は賑やかだ。 九時半を過ぎて月が中天に輝きを増した頃宴はお開きとなり、庭先から出て福井町の初音屋でお軽と茶飲み話をしてその間に人力を呼んだ。 容と松代に松代のお供についてきた佳代という小娘は三台の人力車に乗ると浅草橋を渡り右と左に別れた。 その日の朝冬木の八百茂近くの堀多喜で目覚めた寅吉親子は朝の食事を済ませると八百茂に挨拶に出向き呼ばせた人力に寅吉と了介が乗り「では夜には神田へ戻るから」と容と藤吉に挨拶して車を浅草に向かわせた。 吾妻橋は去年七月の大洪水で流されてきた千住大橋がぶつかり耐え切れずに流されてしまっていた。 「いつごろ架かるんだい」 厩橋から上に橋がなく渡船が臨時に出ているが不便この上ないのだ。 「鉄橋をかけると土台から直していますから来年には完成しますとさ」 お春は寅吉を事務所に誘い浅草の情勢について帳簿を見せて説明した。 六区を中心に料理屋、待合、寄席、芝居小屋と予定通り人が集まり置屋も勢いを取り戻しつつあって双葉屋のたか助も小女二人に飯炊きのばあさんを置いて年増芸者と若い通いの芸妓二人に半玉二人と一昨年の不景気顔がふっくらとして色気も充分だと評判だそうだ。 小学校を卒業したかめ子も内箱をつけて座敷へ顔を出させているそうで中学へ進まない代わりと朝は手習い、英語にフランス語、昼は芸事、夕刻は化粧と忙しい毎日は芸者とて文明に後れを取っては話題についていけないとお春が判断してのことだ。 傍目には辛そうに見えるようだが本人は朝起きると今日はなにが起きるだろうと思うそうで毎日が楽しいと言うのだそうだ。 「そういえばお軽さんの方も決まったそうね」 「ああ、今年中には金春に家を借りる手はずだ。買いとってもいいがちと狭いので建て直すには金がかかるからな」 「またコタさんは千円もかかりゃしないのに」 「松代の話しだと買うには土地を含めて六百円もあれば十分だとよ。それなら千五百円は見ないと無理だぜ」 「なぜさ」 「家を建てても空っぽではどうにもならんさ。借りるのなら月二十円だそうだ」 「そりゃ大層な値だが買うより安いと言うことか」 「ああ、しもた屋なら三円がいいところでも置屋が多い金春では二十円は仕方ないらしい」 お春は事務所を若い者に任せて六区の瓢箪池に向かった、お春が出した茶屋は日曜とあって官員風や学生で賑わっていた。 了介と寅吉は豆寒を頼んで冷えた寒天の感触に舌鼓をうった。 「上手いなこいつは、黒蜜が特に豆とあう様だ」 「気に入りましたかい」 「こいつは横浜では味あう事が出来ない味さ」 「そうでしょうとも昔お容さんと浜町でお楽しみの味でござんしょうさ」 お春は了介を見て笑い顔でそうちくった。 「甘泉堂はへっつい河岸だ」 テレもせず寅吉は反論したがお春は其処まで知っているわけでもないようだ。 「六区付近も最近は土地のものはエンコなどと隠語を作って使うようになりました繁盛間違いないでしょう」 「そうかい其れは良かった、寂れるばかりだった浅草を心配しているのは俺たちだけでなく総理の伊藤様もお力添えをしてくれるそうだ」 人の耳も有ると寅吉は伊藤さんと気安く呼ぶのを控えたようだ。 昨明治十八年十二月二十七日レンガ造り洋風の新店舗が仲見世として出現した、二十五日の完成披露には午前八時から渡辺東京府知事が検分したと新聞が書きたてた。 東側に八十二軒、西側に五十七軒の計百三十九軒、雷門跡から宝蔵門まで参道の両側に軒をつらねた様は壮観だ。 此処へ来るのにお春はわざと仲見世を抜けずに来たのだ、馬道から二天門に入り本堂におまいりすると淡島堂から瓢箪池に向かったのだ。 六区に昨年十月に出来た水族館に行くことになり此処へ呼び寄せたかめ子を加えた四人で水族館へ向かった。 橋を渡り六区の萬盛庵の隣が水族館だ、三十個ほどの海魚の養魚箱、大型海魚のいる海水池に十余個の淡水魚養魚箱が置かれ子供たちの目の高さの部分にはガラスがはめ込まれている。 しゃがんでみる親子連れに係員が魚の生態について説明を繰り返している、壁に描かれた大きな鯨を家族で見ながら長八はさすがだと言う言葉も聞こえる。 了介は大平三次が約した五大洲中・海底旅行の上下を最近読んだばかりで目を輝かして見入っている。 この本は明治十七年十月に上巻十八年三月に下巻が出ていて、井上勤訳(明治十七年)と共にヴェルヌ物として人気の刊行物であった。 鈴木梅太郎訳(明治十三年)も有るという話は寅吉も知っているが京都山本版と言うので琴に探してもらったが探し当てられないと返事が来てガッカリした。 フランス語の原文も読んでその違いをベアトリスと論じる事で了介のフランス語は上達し寅吉や容はすでに話しに追いつかない有様でJules Verneをジュールス・ベルンやヂユールス・ペルンと約す大平より発音は確かだ。 海妖出没激浪覆船(かいようしゅっぼつげきろうふねをくつがえし),傑士艱難滄溟為家(けっしかんなんそうめいいえをなす)と題された第一回などまるでシナの読み本さながらですと言う了介は寅吉より最近は読むスピードが早いのだ。 話説す(ときおこす)澳西多羅利國(おうすたらりゃこく)は印度洋の中に位しと始まる本文は原文を読んでいる了介には随分違うと思ったが違う話と思えばそれなりに面白いようだ。 世界の海上に次々と奇怪な遭難事件が発生、調査のためパリ科学博物館アロナックス教授らは太平洋に向かった。 何週間もの航海の後突如謎の怪物が海面に浮き上がると教授らの乗ったアメリカ軍艦と衝突、教授、コンセイユ、ネッドの三人は潜水艦ノーチラス号に救助された、潜水艦の秘密を世間に知られたくないネモ船長は三人を半永久的に幽閉する事にした、海底二万リーグの旅はこうして始まった。
お姉さんぶったかめ子は了介に浅草の事を色々と教え水族館から出てすし屋に蕎麦屋など食べ物屋の多い通りから浅草区の役所通り(伝法院通り)を歩いた。 茶屋で何も食べられなかったかめ子は梅園の粟ぜんざいが食べたいと言うので寅吉たちも付き合うことにして仲見世裏の梅園で休むことにした。 「此処のは本当は粟ではなくて黍なのよ」 通ぶってかめ子は了介に教えながら可愛く口に運んだ。 黍の餅は了介も美味しいとかめ子にいうと嬉しそうに肯くのだった。 お春に寅吉は子供たちに渋みのある餅が上手いと感じるのは無理に大人ぶってるのかと思えるのだが二人は本当に美味しそうに食べていた。 昼を食べなかった代わりに豆寒と粟ぜんざいで充分お腹が膨れた了介は仲見世で売られる東京土産に人形焼、おこし、煎餅などに見向きもしなかったがかめ子は次々に見世によっては売り娘達と話しをして試食に食べろとわたされるものを了介にも別けるのでお腹が膨れた了介にはつらそうで寅吉は可笑しくてしょうがなかった。 広小路停留所で鉄道馬車に乗るのでお春とかめ子も付いてきたが「了介さんはお昼がまだでしょ。ちんやで牛鍋でもいかが」とお春に言われ「僕はもう何も入らないくらいお腹が膨れています」と本当に困った顔でいうので寅吉は可笑しくて大笑いだ。 萬世橋まで二等で四銭と子供は半額の二銭で乗れるので人力車夫は大弱りだが馬車には乗らずに車夫を呼ぶ声はあちらこちらで聞こえた。 萬世橋の停留所は橋を渡って左に折れるとすぐだ、蕎麦のまつやの前を通りおつねさんの隠居所へ向かい、座敷にあがりこんで今日の話しをすると了介がもう食べられないという話しを本人からもう一度話させて喜ぶつねだ。 観音坂下の虎屋で幸恵が二人の来るのを遅しと待っていて夕食はどうするかと聞くので藪かまつやで食べると答えて風呂屋へ行くことにした。 幸恵は八十松の事を気にして了介に聞いていたがどうやら文のやり取りをしている様子だ。 稲川楼で二人は三十分ほどもいたらしく戻った時には夕暮れが近くなっていた、道具と洗い物を辰代に渡して「了介はどちらの蕎麦屋がいい」と聞くと藪のもりが良いですと答えるので嬉しくなる寅吉だ。 二人で伊勢源の看板が見える路地から藪へ向かい門を入ると座敷にランプの明かりが灯っていた。 「了介は何枚食べられる」 「二枚頼んでください」 「せいろ四枚に玉子焼き二つと酒が二合」 若い仲居が帳場に告げると「三番さ〜ん、お二人さ〜んでせいろ〜ぅよんまい、ぎょくおふた〜つ、お銚子にご〜ぅ」と節をつけて板場へ通した。 玉子焼きと銚子に杯が気を利かせたのか二つ出てきた。 寅吉は笑いながらひとつを了介に渡して注いでやった、父親譲りならこの年でも飲めるはずだ寅吉は酒豪とは程遠いが人よりは強いくらいには飲めるので大丈夫だと思ったのだ。 「いいのですか頂いて。お屠蘇くらいしか頂いた事がありませんよ」 「なにをいうんだ、明子とシャンペンを飲んだ事があるだろあれも酒の仲間だぜ」 「そうでした」 そう言って「頂きます」と口をつけて一気に流し込んだ、見る見る真っ赤になったがそれだけで酔った様子は見せなかったが後は勧めなかった、玉子焼きを美味しそうに食べる様子は大人びていた。 蕎麦の食べ方もどうにいっていて七味を浮かべた汁をちょっぴりつけて一気にすするのは小気味よく見えた。 せいろは二銭五厘玉子焼きは三銭、酒が二合徳利で八銭、二人で二十四銭だ。 翌朝横浜駅に定刻の八時五十五分について駅前の人力を二台頼むと弁天橋から太田町通りへ入り本村通りで前田橋を渡った。 学校で了介を降ろすと二台の人力は後押しを頼んで坂を登り富士見町の家に向かった。 三日後十三日昼にお軽から淀屋のご隠居が急死したとの電信が来てあわただしく寅吉と容は東京へ向かった、享年八十三眠るがのごとく微笑みを浮かべての大往生であった。 そして一月後番頭を務め今は寅吉の家作の差配堀田老人事堀田八郎右衛門も主人を看取っての大往生を遂げた享年八十五。 |
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明治19年(1886年)10月26日火曜日 根岸競馬場ニッポン・レース・クラブ秋の開催は10月26、27、28日だ。 今回日本馬の単独レースは4、日本馬と中国馬の混合レースが11となり、新馬戦も中国馬との混合戦となった。 参加頭数の減少はあい変らずで春に秋の不忍池でも単走になるケースが増えてきている。 話題はいい事も悪い事も含めて豊富でトムが千五百円で購入を希望したハナブサ(英)と新馬ながら播磨の事だ。 播磨は南部馬とは言うがリューセーの仔たちの三才時と変わらぬ馬体だ。 墨染の体高4尺8寸5分はリューセーの10才時の5尺5分、ミカンの4尺9寸には届かないが、播磨が4尺9寸有るのは明らかに日本馬ではないはずだとキンドンは見ている。 しかし不忍池で活躍した盛という南部馬は十才時には五尺の体高が有ったのでありえないと言うことではない。 噂では有るが雑種馬であろうとクラブの役員は協議したが雑種馬への登録替えは知事に遠慮してか見送りとなった。 トムが盛の話しを持ち出して見送りに賛成だと言い出したためだ。 英(ハナブサ)も体高は低いが疑われていた、受胎のまま新冠御料牧場から日高の大塚助吉が払い下げを受けた牝馬から生まれた青毛4尺5寸8分、明治十八年凾館でデビュー三戦三勝、今期開催から登録馬主は大西厚となった。 その大西の名義でデビューする日光という雑種馬に寅吉たちは脅威を感じていた。 僅か200円で御料牧場から払い下げられた八頭の籤馬のうち人気のない馬であったがキンドンが手塩に掛けて育て上げた馬だ。 騎乗予定は宮内省御厩課の京田懐徳、系統は定かではないがアラブ馬の荒々しさを見せていて競馬通の人たちの中でも評価は半々に分かれている。 マックと寅吉は西郷達が偽籍問題の解決に向けて御料牧場のアラブ馬、サラブレッド、トロッター、日本馬を払い下げていく事に大賛成だ。
英は明治19年(1886年)4月23、24、25日に行われた不忍池の春季開催初日第2レース新馬戦、5頭立て距離1000m、賞金は300円1着。 二日目英は単走、三日目第8レースチャンピオン戦二頭立ての1着、このレースはマッチレースとなりハンデは、英131ポンド、岩川144ポンドで岩川はハンデに負けたと通の間では話題に上った。 舞台は根岸と替わり10月26日初日第一レースの新馬戦で根岸牧場は2着になった。 このレースは試競賞典Trial
Plate1周1マイル6頭立て1着は話題の播磨だ。 第2レースの中国馬との混合戦Navy
Cup距離3/4マイルは英に岩川と墨染が参加してきた。 第3レースに日光は登場してきた、根岸牧場、銀閣牧場、若松牧場も参加していた。 留さんと飛松は何時もの特等席に陣取る寅吉と観戦していたが「イヤハヤ見損ないましたかな。キンドンに賭けを誘われて乗りましたがコタさんのいうことを聞いていれば良かったですよ。マックさんが言うように自分たちの馬に50ドル、日光に100ドルと言うのを笑ったのがいけませんでした」日光には二倍の配当が付いたのだ。 銀閣の飛松はヒューゴ(Hugo)名義のスターライト(Starlight)と名がつけられた日光と一緒に200円で払い下げられた八頭の籤馬のうちの一頭を預かり調教しているが此方は来春デビューだ。 10月27日墨染は前日の雪辱を果たした。 第2レース 県庁賞典1周(1マイル)県知事から花瓶が授与されるレースで知事は笑顔で岡に花瓶を授与した。 登録も三頭になりいざという時に一頭が取りやめ二頭立てのマッチレースとなり観戦していた佐野はその夜寅吉に参加数の減少を愚痴った。 1着墨染2分14秒、2着は英、首の差であった。 第3レースSimofusa
Stakes 距離3/4マイル7頭立て日光はリューオーの3着に甘んじた。 やはり古馬には勝てないようだと前日負けた人は胸をなでおろした。 第4レースは混合戦の宮内省賞盃1/2マイル6頭立て1着に播磨1分0秒3/4。 この日雑種馬で根岸牧場はリューオーとハナタチバナ、二頭の勝鞍を上げた、岩川はこの日2回出場したが3着と2着に甘んじた。。 10月28日 馬主の子爵分部光謙は自身の牧場を持ち24才という若さながらクラブでも有力者だ、英に2勝1敗という成績に「春の雪辱戦が出来た」と大喜びだ、昨年700円で岩川を購入して根岸でも話題の馬の一頭だ。 しかし分部光謙(わけべみつのり)は裁判中でこの後11月8日には東京始審裁判所で身代限りを申し渡されてしまう。 第5レースHalf-Bred
Handicap距離5ハロン(当時約1020メートル)6頭立て日光はここで実力を発揮して1分14秒3/4で楽勝した。 「やはりまだ距離だろうか」 「その様だ、昨日は負けたがこの距離くらいなら逃げ切れると言うことで次は距離を伸ばしてきそうだ」 キンドンは随分と鼻息を荒げて不忍池までにはマイル戦でも充分勝てるように調教すると周囲に洩らしたそうだ。
第6レース 勇将第一位占勝馬景物は7ハロン6頭立て、墨染はまたも3着、1着にサムライ、昨年2敗した墨染にやっと勝てたと留めさんは大喜びだ、岩川は2着だった。 ロバート・ネールの持ち馬のサムライは若松牧場で面倒を見ている中国馬だ、ウォーカー兄弟の弟で兄のウィルソン・ウォーカーは、グラバーとともにジャパン・ブルワリ・カンパニーの設立に力を尽くした。 根岸牧場は二勝、二着四回という成績だった。 「コタさんにマックよ根岸牧場も調教師を選ぶ時期だな」 佐野は二人にそう言ってアメリカかイギリス、フランスでもいいから招聘することだと煽った。 サトウが夏に休暇で横浜へ来た時もその話しが出た、陸奥も珍しく牧場まで来て同じ事を勧めて帰った。 「パリのウーグ・クラフトが騎手や調教師と知り合いが多いと言う話しをしていたな」 「60番の貸家に入っていた男か」 「そうだ、あの写真を撮りながらあちらこちら回っていた男さ。シャンペン工場を持っているという話で正太郎とは取引はない様だが一度問い合わせてみるか」 「ショウも知り合いに調教師がいるかもしれないか。給与は月100ドルから200ドルなら出せるだろう」 随分大雑把な数字だベルツ博士が月四百円くらいだろうと佐野が教え、前にキンドルに千円も出したがあれは例外だともマックに教えた、伊藤が総理になって八百円の給与それから見てもお雇いはいい給与だがアメリカの物価の半分といわれるフランスでさえ日本の四倍はするので日本に興味がある人物を探す事が出来ればその金額でも来てくれるかもしれない。 1ドル一円二十五銭、1フラン三十五銭が最近の取引相場だ、ドル対フランは1ドルが3フラン57サンチーム前後になるそうで、200ドルで714フランほどになる計算「月200ドルだと年俸8568フランだな」寅吉が暗算するとマックが計算していて「もう少し弾むかボーナスで出すしかないかな。アメリカではそれほどでなくともフランスの給与ならいいはずだ」と応じた。 ポンドはあい変らず強く安定していて1シリング(イギリス)と1マルク(ドイツ)は横浜では三十銭での取引だ。 1ポンドが20マルク、4ドル80セント、17フラン14サンチーム、6円。 1円は3シリング4ペンス(イギリス)、3マルク33ペニヒ(ドイツ)、2フラン86サンチーム(フランス)、80セント(アメリカ)。 イギリスはかたくなに10進法への切り替えを拒んでいて1ポンドは20シリング、1シリングが12ペンスという江戸時代の日本のように複雑だ。 「先ず一度電信を打ってみよう」 佐野も其れが良いよと二人に告げ「例の陸軍の龍騎兵構想本決まりになりそうだ」と教えた。 「しかし君達は賭けに強いな。英の負け負けとかけているからてっきり最初の墨染が負けたときもかと思えばあのレースは英にかけていたそうじゃないか。幾ら儲かった」 二人は三日間で八〇〇ドルずつ懐を暖かくしたが半分は牧童たちに分配したと話した。 「そんなものかもっと大きくかけているかと思った」 「馬の賞金、経費は牧場の分でこいつは仲間内四人で出した金を俺のほうで賭けをして分配した分ですよ」 マックはそう言って内ポケットからメモを出した、一人300ドルを出して12回のメーカーと賭けをして10回勝って2回負けたと話した。 12回のうち2回は英の負けと1回の勝ちに賭けて3勝、日光に2回勝ちと賭けて此方は1勝1敗。 馬券でもまずまずの成果で4300ドルの実入りを4人でわけ元金を引いたひとり800ドルが今回の儲けでレースの賞金は参加費と相殺すると200ドル程度の実入りにしかならないと佐野に教えた。 こともなげに三人が話しているが800ドルは千円になり軍の中尉クラスの年間給与よりも多いのだ。 その頃パリの正太郎の元に牝馬を買わないかと相談が来ていた。 エメの叔父の持ち馬だが20万フラン必要が出来て手放そうと思うがどうだという話だ。 「随分いい値段ですね」 この頃牝馬(ひんば)の優秀な馬で15万フランが相場だ牡馬(ぼぼ)は天井知らずだが50万フランの値が付くのがざらに居るようだ。 「娘がグロッサー・プライス・フォン・バーデンで1着になった。芝の3200mだよ。お買い得さポエテスという名前だよ」 「横浜へ送っても良いですか。向こうの社長の牧場がすこし手直しを必要だという話ですので」 「其れはかまわないはずだ。牧場を手直しするなら元騎手で調教師の人間を紹介しようか」 「其れは耳寄りですね。エメはどう思う」 「私もいい話しだと思いますわ。アキコがボストンでそういう話しをしていましたもの。昔の勢いがなくてコタさんがすこし飽きたのかと心配していましたわ」 「アア、其れはグラバーさんが持ち込んだ二頭のサラブレッドを調教師のガイさんが帰国する時にイギリスへ帰したいと言うことでボーナス代わりに渡したからさ。牝馬のペデローテは社長のお気に入りだったからね」 ムッシューダニエルは「それならぜひアルという男を横浜へ紹介してくれないか、昨年両親に続いてかみさんをコレラで亡くして調教に身が入らず今年は1勝も出来ず馬を預ける人からも見放されそうなんだ」と言って君たちとも少しは縁があるらしいと昔の事を話しだした。 正太郎とエメが親しくなるきっかけのレヴィンが勝ったPrix du Jockey Clubのシャンティイ競馬場の話をしてそのレヴィンに騎乗したアルのことも詳しく教えた。 「一度あって見ましょう。そのポエテス(Poetes)は私が買い取りますが暫くは今のままで面倒を見てくださいますか。勿論経費は今日以降私が負担いたします」 アル・カレット(アルベールAlbert
Carratt)はシャンティイのPrix du Jockey
Clubだけでも1872年のレヴィン(Revigny)に続いて1877年のジャグラー(Jongleur)でも勝っている名騎手だ、そのほか多くのレースで勝って有名人だ最近の1885年にはロンシャンのフォレ賞(Prix de la Foret)も勝利しているが調教師としてはまだ評価が定まっていないようだ。 正太郎の元に電信が来たのはアルと会う約束の日の朝だ。 「ペール、何の話なの」 娘のサラは学校へ出かける前に届いた電信に興味を持ったようだ、普段は会社へ来る電信が家に来たのは初めてだ。 「メールとお馬さんの話しをしただろ、その話しを今日会う人と話し合ってから旦那様に連絡するつもりだったのさ。まだ横浜にしないうちに向こうでも調教師を探してくれないかと言ってきたんだよ」 「まあ、ペールの旦那様と言うのはアキコのペールでしょ。千里眼と言うのは本当なのね」 「ほんとにそうだ、まさかパリの事まで見えるのかな」 まさかという気持ちとやはり寅吉旦那は違うと改めて思う正太郎だ。 10時には朝の仕事が一段落するという話なので9時にエメと馬車でグルネル橋を渡るように指示した。 橋を渡るとオートゥイユ競馬場(Hippodrome
d'Auteuil)の南側を回りブローニュの森に造られた新しいテニスコートの脇を抜けてロンシャン競馬場(Hippodrome de Longchamp)の南側に出た。 セーヌの川沿いに有る厩舎の並ぶ通りに出るとアルの厩舎を訊ねるとまだ先だというので馬車を進めた。 セーヌを忙しげに遡る蒸気船が汽笛を鳴らすのを聞きながらはずれにあるアルの厩舎を訪ねた。 アルはムッシューダニエルから話しを聞いていて条件次第で横浜へ行ってもいいと言ってくれた。 「先ず待遇について希望はありますか。馬を育ててもらうには5年は居ていただかないと」 「俺もそのつもりで考えて見た。先ず家だ、こいつはそう大きな家を希望しているわけじゃないが出来れば牧場に近くないと困る、食事や洗濯に買い物をしてくれる人間を雇ってくれ」 「其れは保障致します」 「うんそれで金は幾ら出せるんだね」 「行きも帰りも一等の船室で費用を出します。契約金に5万フラン、年間給与は6千フラン、食費など生活に必要な費用は全て持ちます」 エメは電信に書かれた条件よりいい条件を提示する正太郎に驚いて袖を引いた。 「いいんだ、契約金は僕が持つよ」 そして日本語で「向こうは1万フランと言ってきたけど4000フランあれば贅沢な生活をしても横浜なら充分さ」と伝えた。 エメはフランス語で「契約金は貴方のコタさんへの恩返しなの」と聞くのでそうだよと答えた。 アルは「キミが契約金を出して向こうが給与と生活費を出すと言うのかい」と聞くので其れにもそうだと答えた。 「給与は月払いになると思う、其れと生活費は食事、被服費など家に掛かる全てをもつはずだ」 「そいつはいいが、月に500フランは安くないか」 「どうだろう、馬の調教をするのだから成功報酬という形でボーナスをもらうと言うのは。ただ横浜は年6日くらいしかレースがないんだ、ほかに東京で10日ほどあるが」 「年6日開催にそれだけ費用をかけて儲けになるのか」 「なりゃしませんよ。こいつは遊びですよ。あと10年もすれば馬の輸送が楽になるので地方への遠征も出来るようになり開催が増えるはずですがね。今のジャポネでは一日に何度もレースに出す人も居るそうですが其れはいい事なのでしょうか」 「そいつはいただけないな。6日間だと60レースがいいところか、牧場の規模にもよるが12頭の馬を参加させるのが精々だな」 「去年の話では8人の人間が22頭の面倒を見ていてほかに乗馬用と繁殖用の牧場では家族4人で6頭の馬を飼っているそうです」 「ほう中々の規模だが俺が行けば大分整理させるようになるぜ」 「其れは貴方を責任者にするオーナーたちが特別の思い入れの有る馬を整理しても引退馬の牧場も何人かで作りましたから其方へ移すか、知り合いの牧場に移すはずです」 正太郎は昔そうしてきたから今もそうなんだろうと思いアルに任せることになると約束した。 寅吉とマックは電信を打つ前畑蔵と話して新しい調教師に従えるか、もし気が合わないなら新しい牧場を作って独立させると説得していた。 「旦那様、今の牧場が成績が向上しないで良馬が手薄なのは私の知識が足りないせいです。フランスから人が来たらそのひとのよい所を学ばせていただきますが、私以外のものがその人についてゆく事が出来ない時はその話しの牧場に配置していただけるでしょうか」 マックが請け合って畑蔵は一同をあつめて今の話しをして気を引き締めさせた。 電信のやり取りが続き双方が納得できる条件で折り合ったのは10日後だ、正太郎が5万フランの契約金を出すと言うのはマックも含めて牧場関係者にアルという男の信用を深めたのだ。 ポエテスは正太郎とエメの持ち馬でアルに委託すると言うことで決着した。 契約金5万フラン、パリからの列車にホテル、マルセイユ発フランス郵船一等船室での横浜への費用として6千フランも正太郎が持ちムッシューダニエルも餞別に1千フランを出してアルは1月5日にパリを発ちマルセイユで10日のイロワヂ号に乗船して日本へ向かうと決まった。 |
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明治19年(1886年)12月22日日曜日 暮れも22日となると一昔前と違いグレゴリオ暦に慣れた街は気ぜわしげだ。 10時パシフィック・メール汽船会社のシティ・オブ・ペキン号がサンフランシスコへ向けて出航していった。 居留地のホテルはクリスマスの飾り付けで飾られ其れを観に行く人も多く見られた。 元町のキュリオシティ・ショップは川崎源太郎が義父の協力を得て順調だ、ガラスで前面を明るくしてあるので通りから中を覗ける事で明るい色彩の品物を並べることを心がけている、幸い西の陽射しは家に阻まれて店には差し込まず日焼けの心配は少なかった。 古物と言いながら陶器・磁器・人形は新物も扱う店で頼まれれば探し出す腕はあるようで顧客が早くも付いたしコッキングも贔屓にしてくれている。 55番薄荷屋敷の主サムエル・コッキング(サミュエルSamuel Cocking)は明治二年に日本にやってきたが当初仕事は中々上手くいかなかった。 卯三郎と寅吉は取引を通じてサミーと親しくなり卯三郎がフランスで東洋の骨董などの美術品が売れるという話から其れをイギリスに送り出し始めて自分でも集めるのが趣味になって行った。 アンリ・チェルヌスキとテオドール・デュレが明治四年に来濱し買い物をするときフェルナンド・メアッザに通訳の仕事を頼まれたのもサミーの骨董熱を上げさせる元になったはずだ。 パリの正太郎の成功を聞いて百合根の輸出を目論み、その球根を集める傍ら東北の薄荷に目をつけて林修已技師に栽培上の指導を得て採集し、明治五年五十五番地のイリス商会の場所を買取っていたコッキング商会は外国商人の間でもハッカヤシキというほうがとおりも良かった。 卯三郎の勧めも有り様々な商品を扱い輸出入植物、医科器具、化学器械、電機器械、測量、気象観測機具、印刷用品、薬品、染料、顔料、板ガラス、鳥銃類、写真器材、度量衡、洋酒等にまで手を広げていて丸で寅吉と同じような商売のやり口だ。 そして妻の宮田リキ名義で明治十五年に江ノ島神社より放置されていた島の最頂部の菜園跡3200坪の土地を買い入れることまでなしている。 彼の成功の最大の出来事は今年明治一九年のコレラの流行に際して消毒剤としてのエタノール石炭酸を防疫に狂奔している県当局に売り込んで儲けた事だ。 明治十六年にコッホがコレラ菌を発見したが其れが病気の蔓延を防ぐ手立てを助成するまでに至らないのだ。 寅吉が昨年高島の紹介で知り合った平沼九兵衛とも交流があり二年前に平沼町二丁目二十六番地に住まいに収集した骨董に美術品の倉庫さらに宮田商会石鹸工場とを建てることにしたのは堤の石鹸工場の成功が大きな引き金となった事は否めないだろう。 建設中の東海道を国府津まで向かう線路を越えて石崎橋を渡って左の埋立地の真ん中で後ろには用水路があり工場まで船で行くことも可能だ。 さらに発電機まで発注したと寅吉と百合根の事で話し合った時に言うので「自分で発電して電気を売るのかい、それとも注文でも受けたのか」聞くと「誰もやるやるというだけではじめないから自分でやることにした」と言うのだ。 エタノール石炭酸を売り込んだ年月について明治10年説、12年説もあるが成功名誉鑑(明治42年)に19年とあり沖知事が感謝状を贈与したとなっていることによる。 沖守固 鳥取藩江戸藩邸生まれ
見世には富田源太郎という横浜商法学校の生徒も出入りしてイギリス語の通訳の手伝いもしてくれることもあった。 同じ源太郎という名で弟のように可愛がっているそうで此処で食事をしていくことも多いようだ。 明子の話しをきいて自分も留学したいものだが友人の高野が今月2日にザ・シティ・オブ・ニューヨークに乗船してサンフランシスコに出立したと話して羨ましそうだった。 2日10時に出航したこの船には茂木商店の役員に石阪公歴という野田の豪農の息子も乗っていた。 香港からのシナ人は75人、日本人は横浜で10人が乗り込んで250ドルの一等はともかく85ドルのEuropean steerage(二等)へは空きさえあればChinese steerage(三等)から5ドルの割り増しで移れるのだ。 源太郎は15年に開校した横浜商法学校本科第一期生徒だ、十七才の昨年7月には丸善から英和商売用会話という雑貨店、洋服屋、本屋、陶磁器店、銀行、商館などでの会話本を出している。 文例を掲げて商品名を付して文例をあげ発音はカタカナで記されていてこの見世でも常備されている重宝な本だ。 明治21年(1888年)11月商売人(成人堂) 騎兵局長の佐野延勝を伴い大山が末吉町へやってきたのはクリスマス三日前のこの日の午後遅く、浮かれた居留民が教会へ行くでもなく酒場で騒ぐ宵のうちだ。 三階の部屋でフランスから来る馬とアルの写真を見せると自然とその話に引き込まれる佐野だ。 共同競馬会社を松方正義、西郷従道と共に立ち上げたのはこの佐野の尽力も大きく、天皇の行幸も増えたが戸山は地の利が悪く不忍池の浚渫を行い池の周りを競馬場として明治十七年十一月に第一回競馬が天皇臨席の元で開催された。 やがて西郷ほどの競馬への興味のない大山が「実は」と切り出して来たのは虎次郎のことだ。 陸軍次官少将の桂を仲人でその仲介が大山という布陣では断れないだろうと踏んで画策したであろう虎次郎が憎かった。 なぜ佐野が付いてきたかといえばこの間から話しが進んでいる陸軍の騎兵隊の話で口火をきろうとクリスマスの支度で忙しい夫人を送り出して遊びがてら横浜のクリスマスを下見に来たそうだ。 東京鎮台参謀で騎兵大尉になった秋山をフランスへ送り出すのは来年夏と決まりその話もあったようだ。 「私は明子の気持ちに任せています、先ず帰国した後明子の話しを聞いてお返事させてください」 「おいは其れでよか。コタさんが山縣君とその系列に入る桂を快く思わないのも承知でやってきたんだ。明子君の気持ちが第一だ。本人達は顔見知りだしお見合いをするまでもないだろうしな」 虎次郎は中尉に任官されて歩兵第六連隊(名古屋)に配属されていて文久二年(1962年)生まれの彼は数えで25才、20年の陸大入試を目指している。 「しかし虎次郎はどこで桂少将と引っ掛かりが出来たのでしょうかね」 「何だ其れも知らないのかコタさんらしくもない」 三人の話は1882年上野に開かれた農商務省博物局付属の動物園の事になった、最近は展示される動物鳥類も豊富で大山夫妻は此処がお気に入りのようだ。 その話の中に狼が展示されていると大山が話した言葉に寅吉ははっとした。 蝦夷地の狼とはちがう種だと言うのが学者の定説らしい。 大山は虎に豹がお気に入りだそうで夫人と子供たちはシフゾウという象とは丸で違う動物が大のお気に入りだそうだ。 寅吉も佐野もその大山の話す「シカのような角をもちながらシカでない。ウシのような蹄をもちながらウシでない。ウマのような顔をもちながらウマでない。ロバのような尾をもちながらロバでない」このように四つの動物に似た特徴をもちそのいずれとも異なるために四不像(スープシャン)と呼ばれるとまるで噺家のように節をつけて語る大山の言葉に聞き入った。 「馬鹿にして行きませんでしたがこいつは一度家族で行きませんと」 「そうだよ。東京へ来たら仕事を忘れて上野の山で一日遊ぶのもいいものだぜ」 「さてシナ料理に、西洋料理、日本の料理とありますが」 「型式ばった店は良いよ。おいの顔も知らん場末の店を知ってるだろ」 「昔の横浜の薄汚れた店の雰囲気が良いですか」 「汚いのはごめんだが有名でなくて充分だ」 「では開いているかどうか気分次第の見世は如何です」 「そいはおもしろか見世じゃ」 三人は人力でインゴ屋へ向かった、事務所で帳簿とにらめっこをしている千代にはインゴ屋が開いていなければ遠芳楼へ行くと伝えた。 奥の厨房から親父が顔を出してしかめっ面で「しかたねえなぁ」と言いながら「ビール3本だ」とばあさんに言って「今日は鱸の塩蒸しとコロッケにビーフ料理だ」 「なんだいコロッケたあ」 「何だしらねえのかよ。クロケットと違いポテトにひき肉と玉葱を混ぜ込んだ揚げ物だ。クリームは入ってないぜ」 「最近はじめたのか」 「フンおいらお前さんが教えたと思っていたぜ」 「すみません旦那、私がここでつくり名前は親父さんがつけました] 新味醤油というのが一番合うようだと温野菜と一緒に出され大山のように西洋料理を食べなれたものにも「こいつはいいな家の料理人に教えたいくらいだ」と危うく地を出しそうになり慌てて口を押さえたが「八十松にはばれているんじゃ仕方ない」と笑い出した。 「ところでアキコさんは日本に好きな男でも居たのか」 「私は聞いていませんよ。縁談でも有るのですか」 「そんなとこだが」 「ボストンで其れらしき話が出れば此方へも誰かから伝わるはずですが」 「コタさんは其れらしき話しを聞かんのか」 「いってきませんね。向こうで知り合ったミーナという娘がエジソンに惚れられたとかジーンという娘は野球選手が好きだとかは書いてきましたが留学生たちにはその様な話は無い様です。同じホームステイ仲間のお雛さんも家にその様な事は書いてきていないと家内が聞いていますから。其れとニューヨークの店には常時三人の日本人の社員が居て連絡を取り合っているのでその様な話しが出れば定時連絡ですぐ判ります」 「その社員と恋愛に発展しそうかい」 「ひとりはご存知の正太郎の弟の清次郎といいますし一人は40過ぎの妻帯者で後は15になったばかりの小僧です」 「清次郎とはサンフランシスコで会ったよ。正太郎に似て背も高いしいい男じゃないか」 「どうですかね子供の頃から知った間柄ですし中々そういう話にならないのじゃないですかそれに」 「それに」 「それに清次郎から見れば妹みたいなもんでしょう」 「其れが一番危ないな」 「危ないと言うこともないでしょうが、来年五月に休暇で横浜に戻らせることになっています」 「それなら時期を遅らせてボデイガードがてら一緒に帰らせれば良いだろう」 「其れも良いですね、六人はイギリス経由で戻る予定ですからパリへも寄らせるので清次郎も兄貴に会えるならそうすれば喜ぶでしょう」 大山はすこしさぶけがすと「五平太をカーフェルにぶち込めよ」と八十松に言いつけた。 「ゴヘイタとはなんですか」 奥から親父が「石炭だ、デレッキで中をかき回してから足せよ」と怒鳴った「すみません、カッフェルがストーブとは知っていましたがゴヘイタとは何処の言葉でしょうか」と大山に訊ねた。 「さて何処の言葉だか、おいたちが昔からそい言っておったが、そうじゃ長崎じゃった、グラバーの高島炭鉱でも使うとった」 どうもこのインゴ屋の親父元は船乗りででもあったのかと思う寅吉だ。 高島炭鉱 たぬき掘り 日本大百科全書(小学館) カーフェル 八十松がプンチュをつくり一同に勧め親父は黙って焼いたステーキを出してきた。 「鱸を食べるかい」 研ぎが過ぎたか大分細くなったナイフを暫く眺めていた大山と佐野はステーキにナイフを入れるとすっと切れるのに感心しフォークで肉を口に運ぶと満足げに肯きあった。 「ところで大倉達の電燈会社はどうなったんだ。設立許可は出たのにアーク燈等以外目立った事はしていないぞ」 「先月には資金調達もすんで頼んでおいた移動式石油発電器が着きましたから大山様から申し入れれば鹿鳴館で明かりを灯すデモンストレーションをして見せるでしょう」 「そいはよか事を聞きもした。早速申し入れさせましょう」 食事も済み一服つけた佐野は「閣下そろそろ着いた頃では」と時計を見せて大山と肯きあった。 「さて寅吉君よ」 いつにないものの良い様に不思議そうに聞く寅吉だ。 「今日の本題の話しがあるんだが。東京から二人の客が嘉以古についているはずだ。コタさんに買って欲しい物があるそうだ」 「何のことでしょうか」 「まあ、嘉以古へ行ってその客の話しを聞いてやってくれ」 何か人に聞かせたくない売買でもあるようだ。 人力車を四台呼ばせ一台は氷川商会へ嘉以古に客と共に行くと連絡をさせた。 嘉以古に着くとすぐ部屋へ案内され其処には二人先客があったひとりは氷解塾の先輩の若様、あとの一人は競馬のクラブの役員だ。 「誰かと思えば若様と御前でしたか」 二人は華族で同じ子爵だ、伯爵陸軍大臣の大山とは雲泥の差の身分だが其れを感じさせない身軽な様子で「ヤァヤァ、待たせたようだね。プンチュが美味くて飯がすすんで長居をしてしまったんだ」と上座を勧める二人の前に気軽に座り込んだ。 「其れで如何でした」 「う、ああ、縁談か、そっちは保留だ。本人が戻って気持ちを聞いてからだそうだ。向こうへもそう伝える事にしたよ」 「いった通りでしょ閣下。大体俺のほうが先口だと陸奥さんがいっていたのですから」 「そっちは約束もしていないただの話だけだがと言ってたじゃないか。そっちよりも肝心のほうだが俺たちは何も話していないよ」 そう念を押して二人に話しをするように促した。 「じつはなコタさんもこの人の話しは聞いているだろうが相手方とあと五千円でかたが付くところまで話しが進んだのだが根岸の牧場を買ってくれないか。勿論今も彼方此方の牧場を所有している事は承知で話しを持ち込んだんだ。手っ取り早く片をつけてもらうにはコタさんが一番と白羽の矢を立てたんだ」 「良いでしょう、その値段は施設と土地の値段と言うことですね」 「馬は勘弁してくれ。目黒の牧場を仲間内で金を出し合って運営する事にしたので引き取らせてもらいたい」 「資美様から持ち込まれたお話そのまま受けさせていただきます。御前様へのお支払いはいつがよろしいですか」 「現金がすぐ用意できるのかね」 「明日銀行が開き次第お渡しできます。大黒札の10円券でよろしいですか」 「良いだろう今日は横浜どまりだから明日の10時で充分だ」 「では朝9時半に正金銀行までお運びいただけるでしょうか」 「そうさせてもらうよ」 話しが済むと芸者が呼ばれ大山は盛んにブランデーを飲みだして陽気になっていった。 |
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話は正太郎のパリから大分ときも過ぎました。 横浜幻想のアンテロープ編の1872年(明治5年)からだと12年後(第1回時点)の横浜です。 今回の話の中心は了介と明子になります。
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2010年03月18日 了 |
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幻想と現代社会へ続く歴史の真実との狭間を探してくださいね。 教授からの原稿を小出しながら更新中 アイ |
幻想明治 | 第一部 | ||
其の一 | 洋館 | ![]() |
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其の二 | 板新道 | ![]() |
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其の三 | 清住 | ![]() |
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其の四 | 汐汲坂 | ![]() |
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其の五 | 子之神社 | ![]() |
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其の六 | 日枝大神 | ![]() |
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其の七 | 酉の市 | ![]() |
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其の八 | 野毛山不動尊 | ![]() |
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其の九 | 元町薬師 | ![]() |
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其の十 | 横浜辯天 | ![]() |
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其の十一 | ![]() |
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其の十二 | Mont Cenis | ![]() |
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其の十三 | San Michele | ![]() |
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其の十四 | Pyramid | ![]() |
酔芙蓉−ジオラマ・地図 | |||||
神奈川宿 | ![]() |
酔芙蓉-関内 | ![]() |
長崎居留地 | ![]() |
横浜地図 | ![]() |
横浜 万延元年1860年 |
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御開港横濱之全圖 慶応2年1866年 |
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横浜明細全図再版 慶応4年1868年 |
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新鐫横浜全図 明治3年1870年 |
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横浜弌覧之真景 明治4年1871年 |
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改正新刻横浜案内 明治5年1872年 |
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最新横浜市全図 大正2年1913年 |
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横浜真景一覧図絵 明治24年7月1891年 |
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