横浜幻想 | ||
其の二 | 水屋始末 | 阿井一矢 |
ケンゾー 1849年( 嘉永2年 )生まれ 22歳 正太郎 1856年( 安政3年 )生まれ 15歳 おかつ 玄三 勝治 千寿 辰次郎 寅吉 容 春太郎 千代松 伝次郎 井関盛艮(知事・もりとめ)安部弘三 佐藤政養(與之助) 佐藤新九郎(立軒) 相生町の伝助 長次 玉吉(伝助の下っ引) 真砂町の重四郎 ( 長十手の旦那)惣治 冨次(重四郎の下っ引) ウィリー( Willy ) William・B・Walter 天下の糸平 ( 田中平八 ) 海坊主の伊兵衛親方( 丸岡の親方 )俊 喜重郎 ( 丸高屋の親方・高木喜重郎 ) 鶴見船番所書き役 清水征四郎 稲荷水組合 元神奈川定番 滝川銑太郎 橘会 大川翠(せん) 浅間浄水会社 綱島仙吉 |
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水屋始末 桃の節句の朝横浜では桜が満開になっていた。 昨日横浜製鉄所の所長が変わって仏蘭西は香港からムッシュー・バリコーを送ってきたので其の歓迎で町は大騒ぎだった、といっても花見なのか歓迎の人出なのか正太郎には区別がつかなかった。 まだ八重桜は蕾が固く10年ほど前染井から流行り出した吉野が其の主流で彼方此方の桜の回りは人であふれていた。 横浜物産会社と虎屋の者達は野毛の寅吉の家で宴会をしていた。 ケンゾーと正太郎も宴席に出ていたし英一からウィリーが特別に招かれていた。 寅吉の付き合いのある居留地の商社からも六人ほどが参加して「新吉原で騒ぐより色気抜きのこちらのほうが気を置かない分楽しい」などと男だけの宴席が珍しいのかはしゃいでいた。 「ヘッ、異人さんでも遊びに気を使うんでやすかね」とか 「女中も使わず男だけで仕度して酒も肴も有り合わせだけと言うのにしては豪勢なものですな」 初めて参加した人足の中にはそんな口をケンゾーに聞くものがいたがケンゾーだって初めての参加だ。 とらやの見世はかき入れ時も有って別の日に花見の予定を組んでいた。 もっとも例年当番に当たった横浜物産会社・虎屋の者たちは店に出ていて特別手当が支給されていたからそれについての不満は使用人に出ていないようだ。 十一字から始まった昼の宴会は暖かい日もあってか飛ぶようにビールの栓が抜かれていた。 冷や酒で足のもつれるのもかまわず浮かれて操り振りでおかしな踊りをするものもでて三字間ほどの予定はあっという間に過ぎ、長崎から出てきていた伝次郎の締めで散会となった。 宴会がはねた後居留地方向へ帰るものは呼ばれた馬車に辰次郎と伝次郎がついて送り、正太郎とケンゾーは入舟町の増岡屋を寅吉と訪ねて佐藤政養さんを紹介された、今朝横浜入りをしたばかりで夕刻尋ねると約束をしていたらしい、元の名を與之助といわれ勝塾の塾頭でもあり、元は神戸海軍塾の塾頭もされていた優れた人だと旦那からは教えられていた。 「この横浜を守る神奈川台場の線引きや建設の責任者だし、開港の場所をこの横浜の地に推挙されたり、此処には縁の深い人なんだぜ」 「コタさんよそんなに持ち上げられると恥ずかしいよ」 寅吉が勝塾へ入ったころは長崎へ先生と共に勉強に出ていたが帰ってきて先生がアメリカへ渡るときは杉先生共々塾生の面倒を良く見てくれたのだ。 履歴に拘わらず腰の低い優しげな人だ、最近東海道の鉄道開設に伴う調査から横浜へ戻ってきたのだ。 「台場は勝先生の設計だし、縄張りだって杵築藩の佐藤恒蔵さんと一緒だったんだぜ、同じ佐藤なので全て此方が行ったと勘違いされているだけだよ」 正太郎はいっぺんでこの人が好きになった、知事閣下より年が上でもう五十歳だというが、若々しい仕事熱心な様子と謙虚さを秘めた其のまなざしがまるで父親と話している気がしたのだ。 名刺をいただき「私の名前はまさやすと読むのだが勝先生はいまだにまさよしだの與之助だのと言ってからかいなさる」 其の閉口した様子には勝先生に対する尊敬があふれ、敬愛される勝先生の様子が伺われた。 「東海道に鉄道をひき延べるのも大事だが今は海運に任せ、中山道の発展のために先に工事を進めるべきだろうな。まず今の東亰、横浜間の工事と京と神戸の間の工事で人材を育てる事が先決問題さ。コタさんも知っている野村弥吉さんが井上勝と名を改めたが造幣や鉱山よりもこの人などを頭に持ってきて鉄道の整備を進めるべきだろうな」 「そんな佐藤先生のほうが適任ですよ」 「コタさんよ、お前さんも知っているように俺の生まれの庄内は賊軍扱いで其処までさせる事は今の政府には無いよ、それよりも私の性分は人の補助的な役割で実務をする事さ。金の心配や人事の心配は私の性分では出来っこないさ」 「またまた、それが佐藤先生のいけないところですよ、勝先生だって佐藤先生の実力は俺以上だといつもお褒めですよ」 「おだててはいかんよ。コタさんと勝先生は人を乗せるのが上手いからな。くわばらくわばら」 ケンゾーも正太郎も寅吉が塾頭としての佐藤先生を慕っていた様子が伺え、さらに二人の勝先生への尊敬の念を強く感じるのだった。 佐藤先生は部屋へ来た若い人を三人へ紹介した。 「この人は昨年から政府で測量方を仰せ付かった福田治軒先生だ。神戸のとき数学を担当された俊逸だよ。俺と同じで鉄道御用を承る予定だからこれから横浜に来る機会が多くなるだろう」 それぞれが名前を名乗りよろしくお願いしますと挨拶を交わした。 正太郎は吉田先生と同年輩なのに昔の海軍塾のときに先生だったなどすごい人なんだなと感じていた。 「佐藤先生俊逸は勘弁してください。若造の癖に教鞭をとっていたあのころの事は恥ばかりでございます」 「なにを言うか、君が事は亡き坂本君も勝先生もその将来は杉先生以上の日本の大事な宝であると申しておる」 話を他へまわして恥ずかしがる福田先生からそらしてしまった。 「私と同じ佐藤姓の人でこの横浜で漢学を教えたいという人がいるのだが塾を開いてやっていけるだろうか」 「勿論大丈夫ですよ。詩文や漢学、経史に詳しい人は大歓迎です。政府も弁天学校を仏蘭西政府に返還させて学校を開くか、太田陣屋に県庁の吏員の子弟に漢学を学ばせる予定だと聞きました。私塾だとしても十分やっていけますよ」 「越後長岡の佐藤一斎先生の三男で新九郎先生、号は立軒と名乗っておられるがこの人が横浜へ出て来たいというのだ」 「よろしいですよ。ぜひ私どもでお世話させていただきましょう」 「よろしく頼むよ。妻女と二人の娘さんがご一緒だ。長女はもう嫁いでいるのだよ」 「さようですか、ではご家族は四人でお住まいになれる家と塾が開けるところ。日にちが決まればなんとでもいたします」 「頼んだよ、できれば飯炊きに下女の世話も頼む」 「お任せください」 話が福田先生の年になりいま二十歳だと聞いて寅吉をはじめ一同は仰天した。 神戸の海軍塾のころはほんの少年だったのだ、佐藤先生が秀逸と言うのもうなずける話だ。 三人は玄関で待っていた信司郎と共に弁天通の横浜物産会社へ向かい其の前で別れてケンゾーと正太郎は家に戻って行った。 「先生、自分はわが国や支那の文学や学問を学ぶ機会がありませんでした。学んだ方が良いのでしょうか。小さいときに往来物などを学んだだけなのです」 「そうか、ぜひ素養として学ぶほうがよいね。佐藤先生の一家が横浜に来られたら入門させていただくように旦那に頼んであげるよ」 「ありがとう御座います。今は何でも学べる事が楽しいのです。それは早く稼いでおっかさんたちを楽にさせてあげたいのと同じくらい学ぶ事に集中しています」 「いいことだよ、稼ぐ事も学ぶ事も人生で大事な事のひとつなんだ」 「先ほど旦那が言われたきょうしと言うのさえ判りません」 「それわね、四書五経と言う言葉を聞いたことがあるだろう」 「はい其の言葉だけは知っています」 「合わせて経ということが多いのだよ、四書は論語、大学、中庸、孟子、五経は易経、書経、詩経、礼記、春秋のことを言うのさ。史とはいろいろな支那の歴史の事だよ、主なものは司馬遷と言う人の表した、史記と言う書物に代表されるのだよ。全てを学ぶのは一度聞いたら忘れないなどと言う特殊な人でない限り出来ない相談だよ。だから普通は簡単な通り一遍な事柄だけを抜き出して学ぶのだよ」 二人はそれに遊ぶ事も大事な事だと着け加えて笑いながら家に入っていった。 家では先に戻っていたウィリーが二人を迎え「伝助親分と途中で出会ってデンジロー共々お茶を飲みにバッカスまで付いて来てギンコウやユウテキに通訳を助けてもらいながら面白い話を聞いたぜ」 伝助の話は最近いろいろな職種の争いごとが多くなって困る、各地の顔役が横浜へ入ろうとあの手この手で嫌がらせを仕掛けているらしいという事だった、埋め立てにも利権がからむのか東亰の要人を動かそうと画していると噂があるらしい。 「特に鉄道を引くのに熱心なオオクマと言う人に運動が盛んに行われるそうだ。せっかくタイクーンの政府を倒したのに今はお公家様がそれに変わって仕事の能率が落ちかかっていると聞いた」 二人はコーヒーを沸かしながらウィリーが話すことを聞き「こりゃ伝助親分と長十手の旦那の話を聞いたほうが良いみたいだな。二人ともたいした事は無いと多寡をくくっていそうだ」 「そんなに大事になりそうですか」 「今すぐと言うことは無いだろうが、魚河岸の話もあるからね。それに遷宮祭の混雑にまぎれて事件が起こったら手の打ち様がなくなるよ」 「そうでしたね。魚河岸が出来れば人の出入りにも影響が出来ますね」 「魚河岸はどこに出来るのだい」 「吉田新田と居留地219番地の二箇所だよ」 「それはどの辺りだ」 ウィリーのために地図を出して新吉原の東側の羽衣町先の埋立地と公園予定地の東側へ丸を書いて「此処になりそうだがもう少し堀川に近い場所にしないと不便かもしれないな」 「そりゃそうだ、市場が街の真ん中では身動きがつかないぜ、運河か海に面していなけりゃだめさ。こんな所へ作れなんておかしな役人だ、この地図で見ると川沿いまでもって行けば両方の市場が使いやすくなる」 「誰でもそう思うよな、でも密輸の心配で番所を通してから市場へ入れるようにしようと言うつまらぬ考えなのさ」 決まったそばから居留地側から異論が出るのは間違いなさそうだった。 「公園の西側にして堀川の河岸へすればよいのにどうして其処にしようとするのでしょうね」 「空いている所が其処だけだったりするんじゃないのかね。面倒くさい事を嫌うのがお役人の常さ」 「ウィリーさんの言うとおり後で面倒が起きそうですね」 彼らは知らなかったが居留地覚書を幕府が交わしたときに魚河岸を居留地に設置すると書かれていたのだ。 そんな話をしているうちに日も暮れて風呂に入った後は食事としてその日は寝てしまうケンゾーたちだった。 |
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朝、夜明けと共に長次が飛んできた。 路地の台所口でおかつに入れてもらい廊下のケンゾーのところに来たときもまだ荒い息をしていた。 寝不足の様子に「寝ていないのかい」 「いえね、一刻ほど前にたたき起こされまして。昨晩は遅くまでドンちゃん騒ぎで寝不足でござんす。それより水舟が三艘沈められましたぜ」 「もう其処まできたのか、それでどこの船だが分かったのか」 「丸清と丸正それと角山の船がやられました」 「まってくれよ、俺は屋号だけでは横浜に戻ったばかりで何処の配下か良くわからないのだが」 「そうでやしたね。吉田の旦那は洋行帰りと御座い」 おどける清次に正太郎が引き取り「先生、鴻上さんの直接の船ではありませんが丸清と丸正は車会の船です。角山は聞いたことがありません」 「車会と言うのは」 「東屋の親方と鴻上さんの水舟仲間の組合です。車橋の上からの水と弘明寺の水を扱っています。後は橘会と浅間浄水会社があります」 正太郎の説明の後を清次が引き受けて「角山は最近出来た稲荷水組合の船でござんすよ。稲荷水組合は元神奈川定番の滝川と言うお方が始めたばかりでさ、それで今朝から人を集めて橘会へ殴りこみをかけるんじゃねえかと家の親分も心配していまさぁ」 「それで家へきたのは何でだね」 「とぼけちゃいけやせんよ。この間のお働きで阿部様や知事閣下の覚えめでたい旦那のお考えを聞かせて貰いてえと、親分と長十手の旦那のご指名でさぁ」 「俺に仲立ちをしろと言うのは無理だよ」 「そうじゃありやせんよ。誰が喧嘩の原因を作っているか考えて貰いてえのでさぁ」 「だが話がまだ良く見えないのだよ。水屋の仕事は忙しいとしても縄張り争いをしてまで売るほどの事は無いのだろ」 「それでさぁ。原因が判らねえのでやすよ。新しい稲荷のほうだって間に合わせるのに精一杯で喧嘩をしてまで買い手を増やす必要はありやせん。それは何処の組合も一緒でさぁ。誰かがなんか目的があって仲たがいさせようとしてるんでさぁ。そうに違いありやせんよ」 「それは俺もそう思うぜ、しかしいくらなんだってそれだけで誰が仕組んだかまでは判らないよ」 「そういわねえでさぁ。ネエ吉田の旦那、家の親分や長十手の旦那に知恵を貸してくださいよ。このままじゃ鴻上の旦那も困るんでやんすぜ」 「そうだよな、春さんの事にも絡んでくることだし話だけでも聞きに行こうか」 正太郎は街の話を集めてきますと木戸から駆け出していった。 ケンゾーも朝飯はお預けとして長次と共に伝助たちが出張っている港町の波止場へ出かけていった。 普段は此処から港町、真砂町、若松町、尾上町など太田町の南側の町へ二十杯近い船から上げた桶を水売りたちが大八や天秤で担って配達していた。 井戸はあっても海水が混ざり煮炊きなどの生活用水には向かないのだ。 太田町通りの北側は細かく水会所で区域が割り振られていた。 道すがら船舶へはジェラールが半分、車会が半分で他は入っていない、今のところ山手では井戸の水が良好で車会が配達する以外は自分の井戸、居留地は区画を区切って各組合へ分配、新地区には今のところ自由競争と言うことを教えてもらった。 車会は今余分に売り込みをかける余裕はなく手一杯で新規は稲荷へ斡旋している位だという事だった。 「そうすると車会と稲荷はいい具合なのか」 「そのようですぜ。東屋の旦那と滝川の旦那は兄弟分の間になっているそうです。鴻上さんは寅吉の旦那の影響かそれほど売り込みには熱心ではありませんしね」 「そんな風で東屋と春さんは上手く言っているのかい」 「其処が不思議とギクシャクしてねえのですよ。東屋の方は担ぎの水屋だけでね、料理屋への水を賄いきれなかったんでやんすよ。鴻上さんが船の手配や人を貸し出して間に合わせたのが切っ掛けでね、車会と言う組合を作って水も人もまわしている状態でやんすから東屋の方は楽をして稼ぎが入っている状態でやすよ」 「そうすると誰が見ても車会と稲荷を橘と浅間が邪魔しているように聞こえるな」 「そうでやしょ。でもねえ」 「なんだよまだ何かあるのかい」 「浅間の水なんですがあれは鴻上さんが寅吉の旦那の許可で綱島の水源を譲渡したものなんでやんすよ。いくらなんでも恩人の鴻上さんを叩くなんてしそうもありやせん。それがあって橘がやったと滝川の旦那が憤っているんでござんす」 「まさかそんな判りやすい妨害をするほど橘会と言うのは馬鹿な連中かい」 「そんなはずがないだろうというのが家の親分と長十手の旦那の意見でござんすよ」 「そいつを俺に解きほぐせというのかよ。お前の親分は俺を買いかぶっているぜ」 「そんな事はありやせんぜ。あの時鬢の油の匂いと着物についた匂いを嗅ぎ分けて担ぎ呉服風情がそんな高価なものを買えないとにらんだとおり、中居屋の手代で懐が暖かかった時代の風習をずばりと見抜きなさったと阿部様も長十手の親分も感心なさっておりやしたぜ」 「それが買いかぶりだというのさ。たまたまあいつらが奇兵隊の脱走だっただけで間違っていたかも知れねえ」 長次の口調に合わせてケンゾーも少しぞんざいな話し方になっていた。 境町から太田町通りへ出て末広町をさかのぼり、水門橋を渡れば其処が港町、吉田橋のほうへ五丁ほど行くと波止場の石垣が積まれ、大岡川へ入ってきた船が荷降ろしをしている喧騒の最中だった。 沈められた船は太いロープへ多くの人足がつかまり最後の船が陸へ引き上げられていた。 ケンゾーが長十手の親分に挨拶して覗いて見ると船底に三寸ほどの穴が穿たれていたが、他には損傷がなかった。 「これなら一刻もかからず修繕できる」 重四郎がケンゾーを見つけて話しかけてきた。 「穴はなにを使ってあけたと思う」 「裂け目がなく奇麗に開けられているから製鉄所で使うような手回しの穴あけ機でも使ったようですね」 「そんな機械を持っているやつなどいるかね、俺も伝助も何かのみでも使ったかと思っていたがこの様子では見込み違いだ。前に製鉄所で見た機械なら二人でやればほんの一瞬で穴など開けてしまえるぜ、三艘ならそれこそあっという間だったろうな。細工して穴は泥団子でも詰めてそのままとんずらすれば見ていたやつがいても船が沈む前に消えていたろうがあいつは大きすぎて持ち出すのが大変そうだ」 「嫌がらせにしては面倒なことを考えたものですね」 伝助が最後に引き上げた船を見てからこっちへやってきた。 「向こうも同じ穴だ。ケンゾーさんご苦労様だね」 伝助はこの間の事件以来仲間としてケンゾーを扱っていた。 「親分もご苦労なことだ」 「本当ですよ。俺の役目は町内の揉め事やこそ泥を追いかけるのが関の山なのに水屋の揉め事など厄介なことだ」 「そういうなよ。俺たちは前々から稲荷が水屋会所の仲間に入るについては、揉めそうだと阿部様に上申してから二人で扱うように言われているんだからよ」 重四郎親分に言われて「旦那の前ですがこりゃ橘や浅間のやつらじゃ有りませんぜ。どう見てもこんな丸い穴を開けられる道具を持っていそうに有りやせんぜ」 伝助はいまだに重四郎を長十手の旦那として扱うのだった。 「そうだろうな。船を沈めて嫌がらせをして争いごとを起こせば四つの組合が全て困ることになるからな」 「そうでやすよ。水が来なくなればそれぞれの組合全てに町役から苦情が出てお叱りどころじゃすまなくなりやすぜ。会所の鑑札を取り上げるなんてことになれば吉田橋からこっちに入れなくなれば共倒れでござんす」 ケンゾーは二人のやり取りを黙って聞いていたが、下っ引が聞き込んできた夕べからおかしな船が行き来していたことに興味を覚えた。 「ヘエあっちが聞いた話では帆を張って流れをさかのぼっていたそうでやすよ、橋のところで帆を倒すのを橋番が見ていたそうですが、吉田橋を短い時間に何回もくぐっていたそうでござんす。ただね船を見たのが昨晩の亥の刻前だそうで少し時間があわねえのでござんすよ」 「玉吉さん、其の船は最後の時どっちへ向かって行ったか分からないかい」 伝助の下っ引の玉吉は首をかしげていたが親分にもう一度聞きに行けよといわれて重四郎の下っ引の惣治と共に吉田橋の橋番の所へ出かけていった。 「鉄の橋に為って金を集める番が四六時中居りやすからね。覚えているといいですが、夜中は見ているでしょうかね」 かねのはしは馬車も馬の数によって一疋なら二百文、二疋で四百文、三疋六百文を馬車から百文を荷車から徴収していたのだ、関門はあっても其処は今番人がいるだけで普通の町木戸と変わらぬ役目をしていた。 昔と違い今は時間制限を設けずに通行できたが値段が高く遠回りして入るしか零細のものの大八には手が無かった。 刀を持ったものだけが馬車での通行のさいに調べられる事ぐらいでうるさい事など昔話だった。 ケンゾーは何か帆を倒していたという船を想像して荷舟の船頭のための訓練でもしていたかのように感じたが、それなら夜になって行うのもおかしな話だと感じたのだ。 惣治と玉吉が戻り最後の時刻は覚えていないが亥の刻の鐘の後大分たっていたと言う事で方向は製鉄所の方向へ流れに逆らって向かっていたという事だ。 「船はよったりほど乗り込んでいたそうでござんす。帆柱の先にランプが下がっていたので良く見えたそうでござんす」 「ケンゾーさん其の行き先が何かこの件に関係有りますか」 「いやまだなんともいえないが、夜になって同じ高瀬舟が何度も橋をくぐって行き来するのはおかしいと感じているのだよ。違う船だとしたらなおさらだ、橋番が不思議だと思うなら、普段は其の時刻にはかねの橋から波止場に入ってくることは無いのだろう」 「そうですね、普段は荷たり舟でも帆を予め倒してわざわざ橋をくぐったからといって帆柱を立てないです」 「もしかして帆柱とあの穴に関係が有ると思うのかい」 長十手の重四郎も其の事に関心が出てきたようだ。 「もしかすると帆柱から穴あけの器械をつるして操作すれば、重い器械でも簡単に隣に着けた船に降ろして作業できるかもしれません」 「何かそのような器械に心当たりでも」 「英吉利で見たのは少し大きなものでしたが、船の舵輪の様な物を回すと地面に穴を開けられるものでした。同じようなものがあれば木にも穴が開けられると思います」 手帳に簡単な絵を描いて「この輪を回すと中の螺旋の錐が降りて穴が開くんですよ」手で輪を回す振りまでつけて説明すると重四郎が下っ引の玉吉と惣治に「二人で手分けしてこのような器械に心当たりがあるか聞いて回れよ。ケンゾーさんすまねえが同じ絵を何枚か描いてくれ」 直ぐに手帳にGrinding hole machineの絵を描いて其のページを破って二人へ渡した。 二人が飛び出していくと長次があっしはどうしますと聞くので「お前はケンゾーさんに暫く附いていて何かケンゾーさんが思いついたら俺たちに連絡に来い」伝助に言われて「お願いいたしやす」と長次に言われ「まぁ暫く預かるか」そうケンゾーが言うとヘヘッといつものように鼻っ柱をこぶしでこすった。 境町に戻ると正太郎も戻ってきてケンゾーはようやく朝飯にありついた。 長次も大分腹がすいていたと見えておかつの支度してくれた食事を美味そうに食べた。 正太郎に波止場での見たことを話しGrinding hole machineの絵を描いて何か情報があったら伝助に知らせるように頼んだ。 寅吉がケンゾーを探していて時間が出来たら入舟町の丸岡まで来いと連絡員を走らせて伝えてきたのは昼過ぎの事だった。 スミス商会で支配人のMr.John Mac HornにExcavatorかGrinding hole machineを輸入している商社を教えてもらいに来ていたのだ。 「なんだそれならお宅の旦那に聞けばよいのに、Mr.Hegtの店で扱っているしこの間横浜物産会社でGrinding hole machineを一台買い上げたぜ」 「横浜には大分入っているということですか」 「せいぜい両方あわせても民間には十台もないだろう」 「そうですかありがとう御座います。伝助親分の方でどこが買ったか調べてもらいます」 「なにそんな大げさにしなくても家の陳君に調べてもらうよ。長次さんといったかい家の陳君とHegtさんのところへ言ってリストを作ってもらいなよ」 案ずるより生むが安しとはこのことで簡単に持ち主がわかりそうだった。 ケンゾーは連絡に来た信司郎と共に入舟町まで馬車を捕まえて急いだ。 「急がせて悪かったな。それほど急ぎの話でもないのだがこの人たちが明日の朝の船で東亰に帰ると言うのでな。そっちの痩せたのは広重さんだ」 ケンゾーが知っていた二代目は昨年なくなったと聞いたので後を継いだ人なのだろうと思った。 「この人はな、ついこの間亡くなった喜斎さんの弟でしで虎太郎さんだ。一時は二代広重と名乗らされていたが喜斎さんがなくなってようやく三代目と正式に名乗ることにしたそうだ。そっちの恰幅のいい方は魯文さんと言う戯作者でケンゾーにロンドンの様子を聞きたいそうだ。もう一人は芳幾と言う広重さんのお仲間で魯文さんの新しい読み本の絵を描かれるそうだ。たびたび横浜へ来られるから時間があったら話を聞かせてあげてくれ」 暫く話をして丸岡の親方も加わり英吉利の新しい情報を話した。 突然、寅吉が「そうだケンゾーお前Grinding hole machineのことを調べているそうだな。横浜物産会社で一台買ったがあれはHegtさんの見世で扱ったぜ」 「はい、丁度お迎えが来たときにスミス商会で其の話を聞いて長次さんが陳君とHegtさんの見世でリストを作ってもらいに出かけました」 「そうか家のほうのは、この丸岡の親方が買ってくれたよ、あれは下の歯を換えるといろいろな穴が開けられるのさ」 「親方の器械は今どこで動かしておられますか」 「家のはまだ裏の倉庫で眠ったままだよ。見てみるかい」 「お願いします」 寅吉も含めて三人で庭を横切って飯場がある脇の倉庫へ向かった。 「ありゃないぞ。昨日の朝は使い方を伴三達に教えて油を呉れて其処にしまったのに。オーイ伴三を呼んでくれ」 カマスを広げていた人足に声をかけて人足頭の伴三を呼びにやらせた。 伴三がすっ飛んで駆けて来ると「オイ昨日の器械はどうした、ねえじゃねえか」 「親方あれは昨日源太の組が持ち出しましたぜ」 「源太とは誰だ」 「いやですぜ、親方が東亰に出かけた後、高島からまいりました源太で御座います、このたびの埋め立てで此方の支配に入りますがGrinding hole machineをもって青木町まで来るように申し付かりましたと器械を船でもって行きましたぜ。なあ吉よ」 傍にいた若い衆に確認した。 「ヘエ何度か高島の組うちで顔をあわせましたぜ」 「本当に高島さんのところの人かも知れねえがそれなら昨日俺にそういうだろう、それに持っていってそれっきりと言うのも変だ。しかし俺と高島さんに喜重郎さんの三人が揃って江戸まで出かけたのを知ってきたのかな」 三人は昨日の午後の馬車で東亰に出て今朝の船で帰ってきたばかり。 寅吉も高島さんの人間とは信じられないという顔で「こりゃやばい事になったな。此処にあの器械があるのと親方連が江戸まで一晩出掛けたのを見澄ましたように器械をさらって、それで悪さをしてじゃあの器械、前の海にでも捨てられたら大損害だ」 「たった三杯の船を沈めるのにしちゃあ大げさすぎるじゃねえか」 「ほかに狙いでもあるのかな。俺たちや水屋も含めてよ。それにしても親方連の動きを承知の上で無いと出来ないぜ」 海坊主の親方は伴三に「お前のせいじゃねえよ。相手がおれたちの上手を行く悪賢いのだ」そういってこれからも気を配って働いてくれと仕事に戻らせた。 伴三は悔しがって「あいつこんだ見つけたら只じゃおかねえ」と気色ばんでいたが親方に慰められてようやく仕事に吉と言う若い衆と戻っていった。 ケンゾーも何か小さなことの積み重ねが大事になりそうで頭をひねって何か見逃していないか考える事にした。 「吉という男、知り合いだと認めるとはおかしいな。伝助親分に調べてもらうか」と一人ごちた。 事務所で客人に今日は少し取り込んでいるのでまたの機会に話をする事にしてイギリスのことや船の事で何か疑問や町筋の人気(じんき)などについては手紙で知らせる事にして別れた。 ケンゾーが行きは軍艦で帰りは商船に乗って来たという事が彼らには読み本の題材になりそうだとの感を抱かせたようだ。 長次が入舟町まで書付を持ってきたのでそれをわかりやすく翻訳して一部を寅吉へ預け、元のものはケンゾーが懐へ仕舞いこんでさらに一部を持った長次に丸岡の吉という男の事も調べてもらうように耳打ちしてから相生町の親分に連絡に出て貰った。 「俺は境町へ戻るから長次さんは特別親分の方で用がなければ一緒に飯にしようぜ。朝が遅い分昼抜きで腹が減ったぜ、支那の料理でも食いに行こう」 「わかりやした、なに親分の方はケンゾーさんのほうで用があるから直ぐ来いと言っているといえばすみやす」 そういいはなつや丸岡を出て駆け足で相生町へ向かった。 寅吉もそれを見送って「なぁケンゾーお前親分に信用されてこれからてえへんだ。海坊主には言わなかったがあの吉は大分怪しいな」 「エエ旦那、私もそう思って伝助親分に調べてくれるように頼んでおきました。私の事はどうも誤解が多いようでこの間のあてづっぽを真に受けて私の感働きのよいせいだと誤解されたようです」 「そりゃ誤解じゃねえさ。ケンゾーの目配りの良さは前々から感じていたが留学でさらに磨きがかかったのさ」 寅吉にまでそのように思われているのでは伝助親分が思い込むのは無理ないかと諦めるのだった。 「そうだ旦那お願いがあります」 「なんだ」 「この間の漢学の先生ですが、横浜に来られたらぜひ正太郎に少しの時間でもよろしいのですが、手ほどきだけでも習わせてあげてください」 「良いだろうあいつももう大人の学問を身につける年頃だ、異人の言葉がしゃべれても日本の事や支那のことが判らないままじゃ片手落ちだものな」 「正太郎が喜びます」 二丁目の角で夕刻が近づき暇になった蓮杖さんに寅吉が捕まったのを機にケンゾーは境町に戻った。 正太郎と長次が先についていた、長次は風呂敷に着替えや下帯まで持たされて来ていた。 「親分のところでお上さんがみっともないから一張羅を出すから支那人に見せておいでといわれて包んでくれやした」 オイオイそんなお見合いでもするんじゃあるまいしとケンゾーが言えばそうでござんすよ飯を食うのに見栄を張って汚すのを心配していたら気になって飯がのどを通りやせんというので正太郎が虎屋のはっぴを出して三人はだん袋の上に羽織って出かけることにした。 長次は小柄で子供にしては大柄な正太郎のだん袋に丁度納まった。 道すがら正太郎が「横浜ではありませんが鶴見と子安で船が盗まれたそうです」 高瀬舟と釣り船だそうだ神奈川の番所ではあまり真剣には探していないらしいと聞き込んで来ていた。 三人は其の船が鉄の橋を何度もくぐった船だろうと話しながら天主堂の脇を通って珠街閣へ行くと小部屋に通され、メイリンが受け持ってその日のお勧めとしてあわびの煮物、寅吉旦那の好きな東坡肉を正太郎に勧めた。 ケンゾーに話すとすべて正太郎君に任せるというのでビールを頼んでから「長次さんはピリッと辛いのは好きですか」そう聞くと「エエあっしは蕎麦や味噌汁にも大辛の薬研を入れるのであきられるほうでござんす」 そういうので海老の炒め物を頼んだ、正太郎が広東語で何かメイリンに話すと嬉しそうに「任せてね」と奥に入って直ぐにビールとジンジャービールに前菜のハムとくらげの酢の物を持ち出してきた。 「ご飯はどうします、万頭にしますそれとも粽なら直ぐ出ますがご飯は時間がかかります」 ケンゾーが「長次さんは中身のない万頭を食べたことがあるかい」とふってきた。 「ありやすよ、味のついたソップに浸したりパンのように物を食べながら食べるんでやしょ」 「そうだ、そいつでいくかい」 「そうしてくださいよ、何時になるか分からない飯よりも腹へ入れられる万頭のほうがいいでやしょ」 メイリンは海老の炒め物と一緒に万頭を運んできた。 「この漬け汁をつけて食べても美味しいそうです」 正太郎が漬け汁の名前を言ったが長次は少し試してみてから「こいつは遠慮しときやす」と脇へどかした。 「ヒェツ、こいつは辛いでござんすね」 それでも長次はうれしそうに取皿に分けて器用に海老の殻をむいて食べだした。 ケンゾーも試したが「こいつはまいった俺にはつらい」といいながらそれでも一匹だけは中に入っている慈姑と共に食べた。 「先生やはり辛すぎますか」 正太郎もやっとの事万頭で辛さをこらえて同じように一匹の海老を食べた。 「少しだけ辛くしてくれといったけど」 「あら、少しだけよ。私たちはもう少し辛いほうが美味しいの」 二人でやり取りしてそれを「長次さん向こうの人たちはもう少し辛くして食べると美味しいというそうですよ」 「なんだって、支那の人たちはそんなに辛い食べ物が好きなのかよ」 あきれたようにいいながら「これだけ辛いものが好きな俺でもやっとなのに驚いたぜ」 其の後出てきた東坡肉でさらに万頭を追加してもらい「これで人心地がつきやした。反対に後で辛いものがでてきたら食べづらくなったでござんしょう」 「メイリンがあわびの前に野菜のスープを呑むか料理人が聞いてくるように言われたそうです」正太郎が日本語で伝えると「頂やしょう」と長次が真っ先に応じた。 スープが出て呑み終わるころを見計らうようにあわびの軟らか煮がでて、小さな茶碗に硬めに炊いた飯が出てきた。 「やはり日本人ですぜ最後はこれがないといけやせんぜ、注文も出さないのによく気がつきなさる」 メイリンがにっこりと微笑んで「ほめてくださると日本語でも分かります」正太郎には舌を出して奥へ入っていった。 「なんだなんだ、日本の言葉が通じるじゃねえか」 「そうなんですよ、でも僕の勉強にと思って広東語でしゃべってくれたのです」 「脅かしやがる。悪口なんぞ言わなくてよかった」 食事の後もケンゾーとビールを追加して飲みながら「正太郎は良いな、ケンゾーさんや寅吉の旦那にこんな美味い店に連れてきてもらってよ」 「恵まれていると僕も思います」 「お前の従兄弟の長吉と俺は五分の兄弟の約束を交わしたんだが、正太郎と言うのも何か上から物を言っているようだし、どうでぃ正ちゃんと砕けて呼んでいいかい」 長吉は洗濯屋の仕事を春太郎から任されるまでになっていたから、長次と五分の兄弟の約束をしたというのは大分前のことなのだが、今でも長吉の方が長次を大切に扱っていた。 「善吉兄さんと五分の兄弟なら僕には大事な兄さんと同じです。勿論そのように呼んでもらってかまいません」 長吉は本名が善吉だが昔から顎が長くあだなの長吉で呼ばれることのほうが多く、その方の通りがよいので見世の名刺にも通り名の長吉の方で作ってしまい 野毛洗濯社 代表 大須賀長吉 としてしまった。 長次はいつの間にか吉田さんからケンゾーさんと呼ぶようになったが誰も気にするものもなかった。 「ねえケンゾーさん、きょうマックさんと話していたスチム何とかと言う器械は何ですかい」 「ああ、Steam Mud machineの事かい、日本の言葉で言うと蒸気泥揚機とでも言うのかな。蒸気で泥をかい出して他へ移す機械だよ、蒸気ポンプと言うほうが分かりやすいかな。寅吉の旦那が欲しがっている消防ポンプと同じようなものさ。埋め立てで土を入れる前に土手を築いたら中の海水や泥水をかい出して早く乾かすための器械さ、これがあれば三百人の人夫より早く仕事が出来るんだよ」 「そいつを輸入するんですか」 「そうだよ。英吉利にいたときにスミス商会に頼んで日本に送ってもらうことにしてきたのさ。こちらに来れば千二百両位で売ろうかと考えているんだよ」 「ヘエ、たいした金額でござんすね。買い手があるのですか」 「丸高屋さんが共同で埋め立てをする人たちと買ってくれそうだ。売れないと俺の方が困るのさ、なんせ保証人がマックさんのお袋さんと妹さんだからな」 「おや妹さんと言うのは前に女だてらに日本を見物して回りたいと駄々をこねたお嬢さんですか。女だてらに気っ風のいい人でござんすね」 「そうそう、その人だよ。俺が買いきれないと聞いて親子で話し合って立替払いで俺に商売をさせてくれるのさ。前に家の旦那たちと共同で買った鉱山の株で儲けた金の内から俺に投資してくれたのさ。売れないとお礼どころか元金まで背負わせたままでは旦那に顔向けも出来ないことになる。他にもなにやかやで元金で五千両ほどの商品が今度の船で着くのさ」 「全部売れれば良いですね先生」 「そうだよ。そうすれば支払いを済ませて何処か家を買ってから、英一への義理で暫く雇われても良いかと考えているのさ」 自分で商売する方が儲かるでしょうと長次に言われて、それもあるがいろいろ英吉利での義理もあるのさと軽く受け流して、勘定をするから先に出て良いといって勘定書きをメイリンに持ってくるように頼んだ。 三人で三ドル五十セントの勘定だったが、長次が気兼ねしないように先に外へ出してよかったとケンゾーは思った、二両二分二朱などと聞いたら目を回しかねない、虎屋が負担してくれている三人ぶんの下宿の食費の一月分よりちょっと安いくらいのものなのだ。 もっとも、おかつさんはこんなにかかりゃしませんよと言うのだが。 いくら横浜の物価が高いといっても日本人街の料亭で芸者でも上げてドンちゃん騒ぎが出来る金額だ。 境町に帰り部屋でくつろいでいるとウィリーが入ってきた。 「きょう聞いたのだが知事が民部省と言うところへ水道施設のための経路を調べてくれるように頼んだという話を聞いたが、町で騒いでいる水屋の争いと関係が有るのかい」 「水屋の事はどこで聞いたのだね」 「おかつさんが夕飯のときに話してくれたよ。この次は俺も支那料理のご相伴に呼んでくれよ」 「良いとも、それがどこまで水屋が争いになっているのか良くわからんのだよ。水道は前から高島嘉右衛門さんや旦那のお仲間で計画しているし、Mr.プラントンがいろいろな計画案を練っているようだぜ」 「先生、プラントンさんの案はついこの間新聞に載りましたが帷子川の上流からの水だそうで、知事閣下の予定は多摩川からだそうです」 正太郎は英語で話したり、所々を長次の為に訳してあげていた。 「そうしやすと、水屋が水道の邪魔をするなら分かりますがね、水屋のいさかいを起こして得するやつなどおりやすか」 「長次さんはいい目の付け所を教えてくれた。そいつを良く考えてみようか」 今度はウィリーへの通訳をする正太郎だった。 「家の支配人も江戸の政府は改変々で役所の名前を覚えるのも骨だとこぼしているよ。民部省の土木司とは鉄道建設の本部じゃないのかい」 「ウィリーさん其の情報ももう変わっていますよ。今民部省は大蔵省と一緒です。昨年の八月に合併したのです」 「オヤオヤそれは大変だ、今の役所の一覧表を作って部屋に張り出さないと覚え切れないぞ」 「本当ですね県庁に心安い方がおいでですから商社のための最近の役所の一覧表を書き出すように頼んでおきます」 「そうしてくれると助かるよ」 「それでですね、知事さんの水道計画は調査が進まないうちに立ち消えになってしまったそうです」 「なぜだい」 「プラントンさんのほうも駄目かも知れません。どちらもお金の出所がないというのが理由になりそうです」 「街の噂ではそんなことまででているのかい」 「居留地で働くお上さんたちは水の便のいい北方や戸部に住む方が多いのです。働くのに都合の良い吉田新田や関内に住みたくとも水代がかかるのでお茶場の稼ぎでは難しいそうです。早く水道が出来ると良いと考えているのはお金持ちだけではありませんから、そういう噂には敏感です」 東亰のような大掛かりな水道を引くのは大変な事業だという話は誰もが感じているのだ。 良水の湧き出る場所と汚染されていない場所から自然流下だけでは限られた地域までしか引いて来られないだろう。 「寅吉の旦那は野毛の山か山手の高台に蒸気ポンプで引き上げてそこから流すのがいいだろうが、それだけの設備は個人では無理だから仲間を募るというので高島様と石川様が音頭取で株仲間を集める事になったそうです」 「デモね正太郎君、金属の管で引くのは並大抵の金では無いよ、と為ると江戸のような木樋でと言うことだろうから修理と点検で膨大な金が必要だよ。そうすると其の水は高い買い物になってしまうかもしれないな」 「そうなんですよ。でも旦那は誰かが始めれば其の後を県庁か国で継続して日本の国の各地で同じ事が行える事になるだろうといっています」 四人で街の噂話から明日の天気まで話してようやく寝る事になった。 |
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朝から雨だ。 阿部様のお使いが来て役所に出る前に寄るから家で待っていてくれと連絡がきた。 ケンゾーも冷たい雨で桜が散るのを見に行くつもりだったが、その元気も出ないので丁度良いと家でコーヒーを沸かしてくつろいでいた。 朝からもう五杯も飲んでいたのにまだ阿部は来なかった。 九字ころになってようやく現れた阿部は一人の男を伴っていた。 「正太郎と長次もいるなら一緒に」 そういうので正太郎はお茶にしますかコーヒーにしますかと聞いた。 「コーヒーを甘くしてくれ」 台所に下がりながら阿部様とお客はまだあまりコーヒーを飲んだことがなさそうだと思い、ミルクは入れない替わりに甘く入れたコーヒーを二つ持って部屋へ戻った。 「甘さが足りずに苦いときは足してください」 そういってシュガーポットのふたをずらして盆に置いたままで勧めた。 「いやこのくらい苦味があるほうが良い」と言う言葉にあんなに甘くしたのにと可笑しかったが顔に出ないように気をつけた。 「遅くなったが出がけに伝助から伝えて来ていた丸岡から盗まれた機械が見つかってな、其の検分に赴いていたのだ。新しく架けられた石崎のめがね橋で船と共に発見されたよ。船は四日ほど前に鶴見で盗まれたものだそうだ。別に船には変わったところもないし丸高屋の器械にも支障がないので引き取らせた」 「さようでしたか、ではまだこれといって船が沈められた訳が判明するというところまでは行かないのですね」 「そのようだ。こちらの人は鶴見の船番所の人で県庁での書類に受け取りを書いてもらう事になって来て頂いたのだよ」 「御船番所改め役の書き役で、清水でござる」 寡黙な方らしくそれをいうだけでまたコーヒーを珍しそうにすすった。 阿部様がケンゾーたちの名前を教えた。 ケンゾーの事は「ついこの間英吉利から帰ってきたのだ、これからの新しい横浜商人の見本のような人ですよ」とおかしな紹介をした。 二人が県庁へ向かった後を待ち受けていたかのように糸平さんが訪れた。 「今そこで山城屋の大川と出遭ったが旦那の山城屋が最近自分の意見を採用されずに生糸相場にのめりこんで困っているとこぼしていたぜ」 「危ない事ですね」 「山城屋は政府陸軍の払い下げ物資で大もうけしているからな。資金はたんとあるのだろうが俺とは反対へばかり張りたがるんだぜ。まるで俺を親の敵とばかり憎んでいるように感じるぜ」 「町の噂で聞きましたが、長州の奇兵隊を裏切ったのは元長州奇兵隊の野村さんこと山城屋さんと山縣さんで官と民で組んで懐を肥やしていると評判です」 正太郎が言うと「それは此処だけの話だぜ、長州は薩摩や土佐と違って金儲けに走りやすいぶん相手を蹴落とすのや、叩き潰すのにも脇から攻める事が多いからな」糸平さんはそういって「佐賀は大隈さんや国へ戻っている江藤さんなどのように学問から政治を考えようとしているがこれも追い落とされる危険が多い」 長次が口を挟んできた。 「糸平の旦那、山城屋は海運にも乗り出すようですぜ。横須賀で作る蒸気船を買い上げて江戸との人の運送に乗り出すようでござんすよ」 「俺も聞いたよ。だが山城屋一人ではどうかな鈴木安兵衛の旦那と共同の弘明商会が買い入れるという話だそうだぜ、今の稲川丸は小さいが一月に参入してきたシティー・オフ・エド号は大きな船だからな競争は激しいぜ」 其の後糸平は「この間お前さんの旦那に頼まれた事だが急に売りに出したいという出物が駒形町に出たのでこれからコタさんの旦那に会いに行くのさ、聞いたら元町にいるというのでな、連絡つけてもらって動かないように待たせているのさ、この間はじっくり構えようとは言ったが祭りの前に片をつけようと思う」糸平はそういうと出されたコーヒーを美味そうに飲んで風のように去っていった。 午後になってケンゾーと正太郎に長次は姿見橋を渡り羽衣町の弁天にお参りしてから魚市場の予定地を見に行った、大岡川沿いの埋め立ては進んでいて入り海だったところはあらかた埋め立てられて池があちらこちらに残り碁盤の筋のように堀の土手が築かれていた。 「この埋め立てた後の水も蒸気ポンプが有れば簡単に掻い出せる」 「ケンゾーさんが入れる器械があれば今より短い時間で埋め立てが進んで横浜はもっと人が増えやすね」 「だがいいことばかりでは無いよ。辰さんに聞いたが現在の消防組は九組六十人足らずの人間で組織されているそうだ、居留地の消防組の協力があっても火事を防ぐのは大変だそうだ」 「防ぐより火を出さない事が一番でござんすね」 「そうなんだよ、しかしこれだけ木造の家が密集する横浜では風が吹くたびにひやひやするよ。早く蒸気ポンプが消防に配備されると少しは気が落ち着くだろうな」 井関知事も町ぐるみでの防火を呼びかけているが中々火事をなくす事が出来ずにいた、町ぶれでは新築の家は瓦葺にせよとされていた。 2月には政府で蒸気ポンプが購入されたが横浜には配置されなかった。 英一を通じてだがケンゾーたちはロンドンにいる間に参千両で新政府に五台買わせることに成功していたのだ。 寅吉たちが共同購入した同じ蒸気ポンプがもう直にケンゾーの荷と同じ英一の船で入ってくる。 寅吉は其のポンプをのどから手が出るくらい待ち望んでいたのだ。 「ボランティア・ファイア・ブリゲードでもはやく買い入れたいとクラークさんが寄付を募っています」 正太郎は其の事も聞き知っていた。 「二台ではロンドンでも二百六十ポンドだから日本に取り寄せるには販売価格が千参百両くらいになるだろうし、それを動かす職員と重いから馬で引かないと遠くまで動かせないし買っても其の後の金はかかる話なので中々買えないのさ」 ケンゾーは帰国前に二台予約してそれが送られてくるのだ、一台六百五十両は買い手を見つけるにはつらい金額だ。 今まであるポンプの倍の能力がうたい文句だが腕木ポンプなら性能が良くても二百両日本の竜吐水なら三十五両でできる、ケンゾーは数を入れて一台五百両をきらなければ難しいと考えていた。 吉原町を通り抜けて左へ折れて新しい町屋を通り抜ければ車橋、橋を渡り左へ折れ石川町から元町へ入った。 虎屋にはまだ糸平さんがいて呼び寄せられた喜重郎さんと金の相談をしていた。 「ケンゾーさんか例の話は決まったぜ、駒形町新地の松心亭だ、お倉のほうは買う気十分だ、金の話も二人が立て替えてくれるというので早速これから話をまとめに行くのだ」 ケンゾーたちにそう話すと駕籠に乗って飛び出していった。 「驚きました、随分忙しい話ですね」 「こっちも驚いたよ。じっくり行こうぜとついこの間言った本人の癖に今が買い時だとさ、投機の機会とばかりに手を打つことを勧めるのだからな。名前もフッキローだとまえから心積もりはあったようだ」 「フッキローとはどういう字を書くのですか」 「富と言う字に貴いの貴だよ富貴楼と書くそうだ」 紙に糸平の雄大な字で書かれたものを見せてくれた。 喜重郎さんがケンゾーを脇へ呼んで「売値が土地の権利ともで七百両だそうだが、コタさんが八百ドルの東洋銀行の小切手を預けた。糸平がそれで手を打たせようとの算段で出かけたのさ」 このころ政府は100ドル二百九十七分での為替レートにしていた、ポンドは相変わらずの二両二分、来年度の円切り替えを政府は目指していたし町でも円という言葉が使われだしていた。。 「ドルは信用が有るからな、東洋銀行の小切手ならポンドでもいいのだがあえてドルにしてもらったんだ」 「では百両程を糸平さんの押しで値切りますか」 「其の予定だ、その辺の駆け引きはお手の物だろう。相手が渋ればなに土地はあるんだじっくり行こうと話は出来ている」 部屋に戻り寅吉に山城屋と奇兵隊の繋がりを教えてもらった。 「そうかあいつか、あれは山縣狂介のお仲間だよ。奇兵隊を二人が解散に追い込んだと噂がある、使うだけ使って高杉さんが亡くなったのを幸いに井上さん、伊藤さんも追い出す形にして後で解散させたというはなしだ。山城屋は元の野村三千三で伊藤さんにも散々煮え湯を飲ませた挙句山縣とつるんで甘い汁を吸っているのさ。横浜の見世も政府の後押しとかで大分あくどいことをしていそうだ」 さらに寅吉はこんな事も話してくれた、大分山縣を嫌っているらしく有朋と言う名を使わず旧名の狂介で話すのだった。 「今は西郷従道さんと山縣狂介は欧州視察に出ているので、大村益次郎亡き後の兵部太夫は同じ長州の前原一誠さんが勤めている。この人と木戸先生が国民皆兵に反対して奇兵隊を解散させたと山縣一派と山城屋が裏からあおっているらしい。それが奇兵隊の木戸先生襲撃と言う話につながったらしい」 「では木戸先生の襲撃は奇兵隊では無いとお考えですか」 「あくまで噂だよ。あわよくば木戸先生を排除してしまえば長州は軍部を掌握するのが山縣一派に傾くだろう」 「前原さんではまとめられないでしょうか」 「あの人は西郷先生と同じで今の武士を救済する第一歩が兵隊に武士を採用する事と考えている。しかし大久保利通先生のグループは農兵の方が叛乱の危険性が少ないと考えて大村益次郎さんの考えを支持していたようだ」 そして肝心の事を思い出したように話をしてくれた。 「山城屋が兵部省の御用商人を追い払われるかもしれないという噂がある。そのために投機的な生糸相場に打って出て資金をかき集めようとしている。叛乱を起こすかもしれないという噂もあるが、俺は叛乱分子を影で操って山縣が帰るまでに其の下地を作ろうとしているのかもしれない。長次さんよお前この話を漏らすと狙われるかもしれないから親分にも内緒にしなよ」 「ヘエ、ありがとうござんす気を配ってもらす事じゃござんせんが、水屋の争いにも係わっているのでござんしょうか」 「其の辺りは、ケンゾーが何か気がついているようだ」 ケンゾーに話を振るように後の話をやめて茶を飲みだした。 「私はこのように思いました。最終目的は鉄道建設に熱心な大隈さんの追い落としでしょう。薩摩の陰謀のように見せかける気かもしれませんし、水屋の争いに乗じて水道工事をしようと高島様や石川様たちが乗り出すという噂を流して、其方もあわよくば葬って一気に埋め立て工事の権利を取り込もうとしているような気がいたします。鉄道工事で埋め立てた野毛の海面先の駅予定地や神奈川までの埋め立てで上がる土地の利権を一気に片倉屋からも奪おうとしているのでは無いでしょうか。そのために旦那や東屋さんを追い込んで其の繋がりで高島様、丸岡、丸高、砂利兼までも引き釣り込むために其の第一歩が水屋の仲間割れでは無いでしょうか」 「オイオイ、片倉屋まで狙っているのかい」 「そうでなければ稲荷を引っ張り込む理由がありません」 片倉屋の娘婿が稲荷の頭取滝川銑太郎と言う事は横浜では誰知らぬものがない事実だ。 「今、山城屋を追い込むのは無理がある。手を引かせる手立てはあるだろうか」 「水屋が動かなければ丸岡と高島に丸高を離反させようとするでしょう」 「なぜだ」 「実際にこの間は丸岡の留守を狙っています、高島の名を出したのもあれは小手調べでしょう」 「何度もいうようだが何かいいては無いのかよ」 「山城屋にとりあえずは山縣が帰るまで鳴りを潜めさせる事でしょう。薩摩の大久保先生を動かすのが一番ですが」 「ではとりあえずビリヤード方式でいくか」 「何ですい、寅吉の旦那」 長次は何のことかいよいよ分からなくなって思わず聞いた。 正太郎も不思議そうに息を詰めていた。 「薩摩の桐野様が小兵衛さんや鮫島さんと昨日から横浜におられる。明日東亰に出るから其方から大山さんや国許の西郷先生を動かして大久保様に山城屋が動けないようにしてもらおう。なに3ヶ月ほど身動きが附かなければ此方も打つ手が見つかるだろう」 「時間稼ぎですか」これは正太郎だ。 「そういうことさ、こちらも御遷宮の大祭が終わるまでことを荒立てたくないしな。儲けにはつながらないと分かれば鳴りを潜めるだろう。其の間に山城屋の本当の目的を穿り出すさ。そいつはケンゾーの英吉利で作った人脈や海援隊の繋がりの土佐藩の方から手を回してもらってくれ」 「分かりました。阿部様や井関知事閣下はどうしますか」 「阿部様や伝助親分には打ち明けないといけないだろうが知事閣下は御遷宮の終わるまで知らん振りで行こうぜ」 千代が常盤町の老松にいるはずの桐野一行に都合を聞きに出かけ其の後を追うように寅吉たちは別れて境町の家に向かった。 家に着くと千代が戻ってきて「何時でもよか、まっちょると小兵衛様がおいでで話は直ぐに通じました」そのように報告したので寅吉とケンゾーの二人が老松まで出かけ喜重郎は家に戻っていった。 二人が戻ってきたのは日が暮れてから暫くたっていた、雨もやんで暖かい宵だった。 「お礼は鹿児島へ戻る前にたっぷりと異国の料理で歓待セエと言うことで話は着いたぜ。後は長十手の旦那と伝助親分に船の盗難や水舟の犯人を見つけさせることだけだ」 「それが一番厄介でござんしょう。ねえ寅吉の旦那」 「いやな、そいつはケンゾーの方で目鼻がついているとさ」 「まさか」長次と正太郎は同時に驚いた。 二人に訳を話して伝助親分に召し取りに向かわせる算段をしてもらいに相生町まで長次がすっ飛んで出て行った。 |
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朝、境町に顔を出した寅吉は阿部を伴っていた。 「昨日のうちに理由は話しておいた。これから平沼村まで出かけよう」 五人で連れ立って県庁の脇から波止場へ出た、波止場では参艘の船に伝助たちが到着を待っていた。 「長次と正太郎は嘉一っあんの船で埋立地の内側で待機していてくれ」 伝助の乗る船に寅吉たちは乗り込んだ。 「待たせたな、それでは出かけようか。重四郎は何か言って来たかい」 安部に聞かれた伝助が「まだ何も連絡が来ませんので相手は動いていないと思います」 嘉一の船にはもう一人船頭が付いて船尾には帆が張られていた、駈使が二人乗り込んで先に出て行った。 伝助と安部、ケンゾーと寅吉に船頭が二人に予備に二人乗るという八人乗りの高瀬舟だ。 「ケンゾーさんよ。話のあった吉の後をつけていろいろ探ったら平沼橋の上流にある一軒家に入った。其処から出た男をつけたら鶴見の船番所でなにやら渡りをつけた。其の後は長十手の旦那が引き継いで見張ってくださっているという寸法さ」 残りの一艘には伝助の下っ引の玉吉と駈使が三名乗り込んで此方も二梃櫓で最後に波止場を離れた。 石崎橋に嘉一の船を残し二艘は平沼橋へ近づいていった。 陸から手を振る人影が見え近づくと下っ引の惣治だった。 「安部の旦那、家の親分は玉の隠れ家を見張っています。先ほど鶴見から例の男が来て都合四人の男が篭もっておりやす」 「そうか家をでたら後をつけるように言ってくれ」 「がってんです」 指図をした後「ケンゾーさん、あんたの予想したとおりだ。この間の書き役が親玉のようだ。まだ狙いがよくわからないがどこまで行くか、後をつけてみれば本星のところまで案内してくれるだろう」と後ろを向いて話しかけた。 其のとき石崎橋を二挺櫓で矢のように潜り抜けてきた猪牙船が鼻っ先を掠めるように通り過ぎた。 陸から重四郎たちがあわてて追いかけてきたのを見て安部が「追いかけろ」と声をからして叫んだ「玉、お前たちの船に重四郎を乗せて追いかけて来い」そういうと舳先に出て前を睨んだ。 荷舟や釣り船の間を掻き抜けるように軽快に逃げていく船との差は風向きもあって帆が使えず差が縮まらなかった。 離れていた嘉一の船が遠回りと見えた方向からすいと逃げる船の舳先を抑えるように出てきた、逃げる船は左に舳先を向け生麦へ向かった。 波止場から出てきた稲川丸が其の先に入ってきたので逃げ場が亡くなると見えたが三十間ほどに近づく此方の船に爆裂弾らしき物が投げられたが届かずに大きな音と波しぶきが上がった。 あわてて稲川丸は右手に逃げ出したが嘉一の船が猪牙船に近づきすぎていた。 猪牙船の櫓をこいでいない二人の手の内に導火線に火がついた爆裂弾が見え嘉一の船のほうへ投げるかに見えた。 安部の船から銃声が続けざまに起きた、猪牙船の二人の手から爆裂弾が落ちたと見えた其のとき船が轟音とともに爆発した。 安部が振り向くと寅吉の手には煙がそよぐコルト拳銃が握られていた。 「阿部様許可もなく発砲して申し訳ありません」寅吉は頭を下げて拳銃を差し出した。 受け取った拳銃を手馴れた手つきでシリンダーから薬莢を全て海へ捨てて「よせよ、コタさん空鉄砲から弾は出ねえよ。だが記念にこいつは貰っていいか」 「お預けいたしやす」 ケンゾーは二人の腹芸を見て唸った、それは伝助が見ていても肝っ玉の据わったお方はさすが違うものだと思う気持ちと、寅吉の旦那の腕は噂通り歩兵銃で百間先の扇子の日の丸を打ち抜くと言うが本当だと思った。 嘉一の船は波にあおられたがひっくり返ることなく波を乗り越えた。 周りの船が集まってきたが猪牙船の四人のうち三人は無残に亡くなっていた。 一人は虫の息だったが船に引き上げられたあと「残念だ。役目が果たせず申し訳ないがこれも天命」との言葉を最後になくなった。 其の右手の親指辺りが銃弾で抉られた様に千切れているのが後で検視されたが安部が「爆裂弾の暴発で自滅した」との報告が見ていた多くの船の報告と合致していたのでそのまま受け入れられた。 拳銃の音は聞こえた者もいたが其の後の大きな爆発音の影響か安部の乗っていた船以外の者には記憶にも残らなかったようだが、重四郎だけは寅吉が構えた所も打ち終わって拳銃を差し出した所も見ていたが胸のうちに収めて話題に出すことがなかった。 高瀬舟の船頭も水屋の仲間内の話題にも話さず、寅吉たちの信頼にこたえたのだった。 重四郎の証言で首魁は鶴見船番所書き役の清水征四郎、他の三人のうち二人は名前しか分からなかったし、其の目的も推測の域を出なかった。 一人は丸岡で人足をしていた通称が吉、一人は高島屋で人足だった源太、あとの一人は誰とも知れなかった。 他の仲間や指図していたものがいたのかも調べがつかなかった。 江戸からどのように山城屋に釘が刺されたかは不明だが、相場に手を出す以外これといった動きは見えなくなった。 横浜は遷宮祭の準備であわただしく過ぎていった。 |
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横浜幻想 其の二 水屋始末 了 2007 02 22 |
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酔芙蓉の番外編としてのお話いかがでしたか、これからも番外編の主役はコタさんからケンゾーと正太郎に移り、横浜の街の事件簿としていく予定です。 阿井一矢 ( 根岸 和津矢) |
幻想明治 | 第一部 | ||
其の一 | 洋館 |
酔芙蓉−ジオラマ・地図 | |||||
神奈川宿 | 酔芙蓉-関内 | 長崎居留地 | |||
横浜地図 | 横浜 万延元年1860年 |
御開港横濱之全圖 慶応2年1866年 |
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横浜明細全図再版 慶応4年1868年 |
新鐫横浜全図 明治3年1870年 |
横浜弌覧之真景 明治4年1871年 |
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改正新刻横浜案内 明治5年1872年 |
最新横浜市全図 大正2年1913年 |
横浜真景一覧図絵 明治24年7月1891年 |