幻想明治
 其の十四 明治20年 −  阿井一矢
Pyramid

   

 根岸寅吉 (根岸虎太郎)

1911年 明治44年4月18日生まれ(天保14年1843年)

横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。

 根岸 容 

弘化5年1月5日(1848年2月9日)生まれ

江戸深川冬木町に生まれる。 

 根岸明子 

明治元年12月10日生まれ(1869年1月22日)

久良岐郡野毛町三丁目に生まれる。

 佐伯 琴 (根岸 幸) 

1920年 大正9年9月9日生まれ(嘉永5年1852年)

横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。

 根岸了介 

1877年 明治10年11月7日生まれと届出

神奈川県久良岐郡横浜町末吉町5丁目54番地に生まれると届出。

(神奈川県第1大区4小区)

(明治10年5月5日山手220番生まれ)

 根岸光子 

1885年 明治18年5月31日生まれ


ピラミッド
Pyramid

明治20年(1887年)12月2日金曜日

ロンバルディがヴェネツィア湾へ出る頃には西へ陽が傾き寒さもまし通路の温度計は40度を指している、ラグーナには霧がたなびきヴェネツィアは其の中に消えていった。
フランス式のセルシウス度(echelle Celsius)での生活から、長年なれたファーレンハイト度(echelle Fahrenheit)の温度計は安心感がある。
日本では明治15年7月よりフランス式を採用していたが、街の中ではファーレンハイト度の方が通りが良い。 

船はリド島の沖合800mほどを南下している、丸い月が海の上に登りだしたのはマラモッコのサンタ・マリア・アッスンタ教会のカンパニーレが薄明かりの中に浮かんでいる5時10分だった。
明子たちの夜の食事は7時00分だと予定表に出ているので5分前にメスルームに集まる事にした。

ブリンディジには明後日4日の朝5時港外に到着、1組の明子たちは6時45分から朝食、8時水先案内が来て入港、夕刻4時の出航なので昼は街で食べる予定だと清次郎が一同に伝えた。
船で食べれば料金に含まれているが正太郎からイタリア南部の名物を食べることだよと勧められたのだそうだ。

「生もの特に船旅の途中は生肉、生魚、生肉に近い料理は肉を問わず厳禁だ、其れと季節だといっても旅の途中では生の牡蠣に生の貝類も止めなさい。水もエジプトまではヴェネツィアで壜詰めを余分に買い入れておくこと、其の先の分はヤンチェへ積み込ませておくから、ホテルといえども水は壜入りを買うように」
之は一同がパリを出る時の注意事項として正太郎とエメがくれぐれも注意してくれと伝えられている。

清次郎は正太郎が誂えた腹下しの時の薬と虫下しを2種類、薬屋を開けるほど渡されていて「残れば京都のお琴様に分析してもらうように、というより一包みは届けてほしい。之が此方での成分表だ」と渡されタカは虫で苦しんだが小さすぎてよく覚えていないかもしれないからお前が責任者だぜと念を押されたのだ。

ブリンディジ(Brindisi)の街はアッピア街道の終着点だ、ローマ、ナポリを回る観光客も此処から乗り込む人も多いのでまだ船はすいている。

翌朝7時前、海が明るくなり、まもなく左舷前方のダルマチアの方向に朝日が昇ってきた、朝の食事の後デッキに上がったアキコとヒナは地図を持って話しをしている。
「航海士の話しだと夜明けごろはサンマリノの近くのリミニという町の沖合だというけど、向こう側のダルマチアは望遠鏡でも海岸線は見えないけどアキコの家にいるダルメシアンと言うのはあのあたりが発祥地なのかしら」
このあたりイタリアとダルマチアは120キロ以上離れていて沿岸を走行する客船からは山波が見えている。

「そうかもしれないわね。家のハットは蓮杖さんから頂いた犬の子供なのよ」

「あの写真屋の」

「そう馬車屋を始めるのに馬の前を走らせるようにとドイツ商館から分けていただいた犬の仔が家へ来たステラというメスで其の仔がハットなの」
ハットはもう10才の老犬で子供たちが三頭石川の牧場にいるのだ。

アキコは石川にある犬達の家で再会できるのはもうじきと思うと共にジョリーの吠え声が聞こえたような気がした。

「今ジョリーの吠え声が聞こえた気がしたわ」
ヒナが船端に背を預けてアキコに言うのだった。

「あら、貴方にも聞こえたのね。私もよ」
二人とも犬の話から気がしただけなのだと可笑しげに笑ったが、また聞こえるのでこの船にニューフィーが乗っているのだと確信して探しに船尾へ向かった。
メイドを従えた50くらいの婦人が其の犬を宥めているが吠え声はやまなかった。

「グッドモーニング」

「あら、おはよう、貴方がたこの犬が怖くないの。皆さん逃げ出すので困っているの」
アキコはジョリーに接したように犬の脇に座り込んだ、其の犬は白と黒の斑でどうやら牝犬らしいが明子の周りを胡散臭そうに嗅いで回り顔を近づけて「ウウ〜」とうなった。

「よしよし、お前なんで吠えていたの」
掌を上にして顔の前に出すとぺろぺろとなめて「ワォ〜ン」と吠えた。

「そう運動がしたいの。でも此処は船の上で走る事が出来ないの。すこし我慢してね」
その意味がわかるのか犬はアキコの前に座り込んで膝に頭を預けてアキコに首筋を撫でて貰うと満足そうにうなった。

「まぁ貴方犬の言葉がわかるの。よだれで服が汚れてしまうわよ」

アキコは首のスカーフを取って口の周りの涎と服についてしまったところを拭いて顎の下に敷いた。

「これで大丈夫ですわ。言葉がわかるという程でもありませんが。ニューフィーは二年ほど面倒を見ましたの」

「そう主人が先にエジプトへ行ってしまって、くる時に連れて来る様に言われたのだけど列車には客室へ連れて入るのは断られるし、ようやくこの船で同じ部屋で連れて行ける事になったけど、わたし達では押さえ切れないので困っていたの」

今朝まで大人しくしていたのはこの犬も夫人を好きなんだと明子には思えたが「それなら船長が許していただけるなら私の部屋で面倒を見てもよろしいですよ。其れが駄目でもマダムのお部屋で時間が許す限り面倒を見させていただきますわ」そう相談すると「助かるわ。私もケリーあら、このランドシーアの名前だけどね。ケリーと別の部屋になるのは困るので私の部屋へ来て頂けるかしら」と犬への愛情を示した。
ヒナも付いて夫人の部屋へ案内されると船の中とは思えないほど大きな部屋で犬用に一部屋使われていた。

「まぁ、こんなに大きな部屋があるのですね」

「此処は特別よ。普段は特別な品物のための倉庫に使われるそうなの。わたし達のために掃除をして犬を入れられるようにしてくださったのよ」
夫人は改めてヴェロニカ・ガードナー(Veronica Gardner)だと教え「この娘はジュリアよ」とメイドの名を教えてくれた。

「私はアキコ・ネギシですわ」

「私はヒナ・ヨシカワです」

「私の事はロニー(Ronnie)と呼んでね。それであなた方はお友達になんて呼ばれるの」

「私はアキコで此方はヒナと呼ばれていますの」

「アキコとヒナね」

「そうです。ボストンではヴェロニカという友人はニッキーと呼ばれていましたわ」

「あなた方お国は。東洋のお方のようですが」

「ジャパンからきています。ボストンへ留学して其の帰りですわ」

「ジャパンのお方でしたの。綺麗な発音ですわ」

「子供の頃通った学校の先生はアメリカの方でしたからイギリスの言葉に親しんで長いのですわ。先生も綺麗な発音でした」

「其れはいい先生でしたわね。それでねヴェロニカは私のロニーや、あなた方の友人のニッキーのほかにもロン、ニカ、ベロニク、ヴェラなど愛称の多い名前の一つなのよ。あなた方の国では愛称で呼ばれる事はないのかしら」

「其れは名前特有の愛称ではありませんが子供の時の名前で呼ばれる方も居りますが、国の法律が出来て最近は子供の名前のままなので、長い名前の時に名前を詰める以外には特にそういう事がなくなりましたわ」

ケリーは七才だそうで50キロ近い身体は立ち上がれば明子の肩に手足が掛かりそうだ、用便の世話を夫人はいやだと思った事がなくこの犬が生まれる前は母犬の世話もしたそうだ。

「ただオランダに居た時は良かったけど、エジプトの夏は暑いのでかわいそうなのよ。でも主人はこの犬が好きで一緒に来てほしいと言うのよ。私に会いたいのかケリーに会いたいのか判らないわ」
夫人はイギリスのロンドン生まれでご主人の仕事の関係でオランダのハーグに20年程住んでいたが子供たちはイギリスで寮のある高校、大学へ入りケリーが子供代わりだと話した。

アキコは夫人の話し相手に残り、ヒナはアキコのいる部屋をタカや清次郎たちに告げに戻っていった。

夫人は話し上手、聞き上手で明子の留学の苦労話、愉快な話、ボストンで知り合った友人達、留学仲間の進学先まで聞きだしていた。

「今のエジプトは一番良い季節だそうだけど本当かしら」

「パリへこられた方のお話ですと12月は65度くらいの日が続くそうですわ」

「まぁ、其れは嬉しい言葉だわ。朝は30度もないハーグからだんだん暖かくなるのでいい気分よ」
夫人がハーグはオランダではデン・ハーハと発音するが地元ではスフラーフェンハーヘと言って領地を意味する伯爵の生け垣のことだと教えてくれた。

アキコはお茶をご馳走になり後でまた顔を出すと約束して自分の部屋へ戻った。

整頓された部屋は船を乗り換えるまで、余分な荷を解かないようにしたので着替えと下着のほかは山に積まれたリンゴや菓子と、分配された壜入りの水が箱に入って置かれている。
昼の食事の後アキコはヒナと会計帳簿の見直しを始めた。

「タカが出してくれた分はどうするの」

「アリエルの分も含めておよその金額を書いて出してくれたことを書いて置くわ。ショウの出してくれた分と同じように報告だけはしないといけないでしょ」

「そうよねお礼の手紙を出していただくにも、その事を憶えているかいないかで随分違うかもしれないわ」
アキコは残りの金貨と銀貨の計算を出して其の数字を帳簿に挟んだ紙に書き込んでおいた。

「随分残ってるのね」

「エジプトとコロンボで必要かもしれないしね」

「何か買うの」

「そうあの金貨の流通があそこあたりで今でも有るそうなの」

「ゼッキーノ (Zecchino)ね」

「そうなの、ダカットとも言うけど、ヴェネツィア最後のドージェだったルドヴィーコ・マニンのゼッキーノがあるかもしれないの、表面にはドージェが聖マルコに跪いていて裏面はキリストが描かれているそうだけどドージェによって少しずつ違うようなのよ。ヴェネツィアでは探し回る時間がなかったけどアレクサンドリアかカイロの市場で見つかれば買うつもりなの。それで金貨があれば値切る事も可能かもしれないし」

「でもあまり持ち歩いてると狙われるわよ」

「そうね20リラと20フランを5枚ずつ位で後は細かいお金だけにするわ」

「それでも多すぎるわ」

「でも父さんだけでなく喜重郎の小父様にもお土産にしないと」

「そうか随分とボストンへ送り届けてくださったものね」

「そうなのよ。出帆前に横浜でお会いできなかった分余分に気を配って頂いたわ」
二人は市場の金細工師の事をパリで色々聞いて駆け引き上手なのをどう此方のペースに引き込むか話して楽しんだ。

「そういえばあの大きなプレゼーピオは随分安く買えたのね」

「ほんと、ミシェルのおかげだわ。話しでは卸値で2000ほしいと言っていたのが1200リラで良いからジャッポネーゼに俺の事を自慢して呉れと言うのですもの嬉しい話よね」

「売り込む予定は何処」

「学校がまた移動したそうだから記念に小さいほうを一つ寄付するつもりなの。新しい学校で二人の帰国祝のパーティを開いても良いわ。其の時にホテル関係者を招待して之と同じものや大きいものがあると宣伝するつもりよ。ヴェネツィアの小売値は3000リラと吹っかけてみようかしら」

「そのくらいならハリエットなら許してくれるわね」
英和学校は120番から前年3月女子部が84番に移転し、横浜英和女学校と名前も変わっている。

「ガードナー夫人の部屋へ行って来るわね」

「後で私も行くわ、リンゴをお土産にもって行きなさいよ」

「そうね五個持っていくわ」
アキコはハンカチに包んで婦人の部屋へ向かうためにドアを開けると、ヨシカがこちらへ歩いてきて「ヒナは部屋にいるの」と聞いてアキコと入れ替わった。

夫人にリンゴを差し出すと嬉しそうにジュリアに皮をむかせてすぐにアキコと食べ、ケリーには皮が付いたまま与えるとジュリアにも「貴方も頂きなさいな」と勧めて食べさせた。

「朝とお昼は一緒の時間に為れなかったけど夕食は何時なの」

「わたし達は1組で7時からです」

「あら残念だわ。私のは2組よ、8時になっているの。ブリンディジの先はまだ時間割が来ないから一緒にさせていただきたいけどいいかしら」

「ええ、わたし達も人数が多いので幾つかのテーブルに別れてしまうのでロニーが入ってくだされば友人も喜びますわ」

「では今晩船長に直談判してみるわね」
ノックの音がしてヒナが顔を覗かせ「もう一人友人が来ていますがよろしいですか」と聞いてどうぞと言うのでヨシカと一緒に部屋へ入った。
ヨシカを紹介して椅子を勧められジュリアがお湯をもらってきて紅茶を頂いた。

「ロニー、朝8時にアンコーナの沖合を通り過ぎたそうですわ。其処からブリンディジまで260海里ほどだそうです」

「其れって何マイルくらいなの」
ヨシカが「300マイルですわ、ミセス・ガードナー」とすぐに暗算で出した。

「貴方も私の事はロニーと呼んでね」

「はいロニー、其れで今3時ですが沖合35海里、41マイルあたりを進んでいるようです」
航海士からアンコーナはギリシャ語で肘の事だとヨシカは教わってきたそうで此処からはイタリアの陸地からすこし離れると言うことも話した。

「あらどうして陸に近いところを進まないの」

「航海士の話ですと夜中に大きな半島を掠めるので、其のあたりまで沖合に出たほうが時間も短縮できるそうです」

ブリンディジで街を散歩して昼をレストランで食べる話しをするとロニーは参加しても良いかと聞いたので清次郎とタカに相談してみてからだが、私達が賛成すれば多分大丈夫だろうとヨシカが請け負った。

「そういえばブリンディジの守護聖人は元のヴェネツィアの守護聖人と同じ聖テオドーロだそうですわ。私は同じような伝説のあるゲオルギウスと区別が付かなくて困りましたの」
ヒナが案内の本に載っているとロニーに話した。

「そうでしょ私もよゲオルギウスが龍退治でテオドロスが蛇退治ですもの」

「あらセオドアは鰐ではないのですか、サン・マルコのテオドーロは鰐を退治したと聞きましたわ」

ヨシカとロニーは自分たちがならった聖テオドロスの退治したのが本当はドラゴンで聖ゲオルギウスと区別するために変えられて、話しが混乱したのだろうかと議論を楽しんでいる。

トルコに残る壁画には馬に乗って蛇(ドラゴン)を退治する聖ゲオルギオス(サン・ジョルジョ、ジョージ)と聖テオドロス(サン・テオドーロ、セオドア)が共に描かれているので混乱は昔からのようだ。

「其れにね聖セオドアはあまりにも多くの人がいて区別が付かないのよ」

「えっ、そうなんですか」

「話しをしていて思い出したの。龍退治の伝説の人といわれているのはね、ハーグで図版を見たのですけどアメッサとストラテラテスの聖セオドアだそうなの。二人は双子みたいに似て描かれているのよ。二人を一緒に描いたフラスコ画もあるのよ」
ヒナとヨシカは其のことから話しがはずんでアレクサンドリアかカイロで調べようと約束している。

其の間アキコはケリーの毛並みをジュリアから借りたブラシで楽しそうに整えている、

其の夜は雨の中での航海で4日の夜明け前は風雨が強くブリンディジ港外についた5時に雨は止んでもまだ波が高く接岸が危ぶまれる状態だ、6時近くの薄明かりの中を港から出てきたのは大きな戦艦と細身の3本マストの小型軍艦二隻だ。

アキコが風の様子を見に揺れるデッキに出ると眼の前を横切る様子は、全長はロンバルディとあまり替わらぬ110mほどだが其の重厚な構造は中央に高いマストがあり前後に煙突が備えてある、船尾には赤地に白十字の旗がはためいている。
荒波を勇壮に乗り切りもくもくと煙をたなびかせてアドリア海を東へ向かう船に見とれていると休み時間の腕章を付けた船員がやってきた。

その船員に「あの船をご存知ですか」と聞くとカイオ・ドゥイリオ(Caio Duilio)で11000トンほどだそうで中央マストの後部の主砲は中心より左舷によっていて、マスト前部の主砲は中心線上に置かれていると教えてくれた。

「其れだと重みが左舷に偏りませんの」

「右舷には魚雷の発射管が備えられているのでつりあいは取れるのですよ。前装45センチ砲で大砲一門の重さが102トンもあるそうですよ。シニョーラは軍艦に興味がありますか」

「ええ船は好きですわ」

「あの船の名前は古代ローマの軍人でカルタゴとの海戦に勝利したガイウス・ドゥイリウス(Gaius Duilius)から頂いたそうですよ。最大速力は15ノットですが、10ノットで3700海里ほど走れるそうです。ジブラルタル海峡をご存知ですか」

「はいスペインとモロッコの間ですね」

「そうです。其処とアレクサンドリアを無寄港で往復できるそうです」
ただの船員ではないのか沖に出て行く軍艦の細部まで知っていて構造についても教えてくれた。

夜明けが始まり波も収まりだし、船の揺れも少なく6時40分に1組の食事の合図の鐘が鳴らされアキコはお礼を言ってメスルームに向かった。

ヨシカとタマの二人は昨晩からの揺れで船酔い気味だとスープとコーヒーだけにした。
7時10分の鐘は2組の食事の合図でドアの前には続々と人が集まりだし、1組の者がメスルームから出だすとすぐにその席へ人が埋まって行く。

「アキコ上陸の前に私のほうへ来てね仕度をして待っているわ」
ロニーは人の波を避けてそう囁くとジュリアが待つ席へ向かって行った。

上陸の支度をしてデッキに出たアキコとヒナは三隻の水先案内の船が来るのを見ていた。

「何時ロニーの部屋へ行く」

「接岸するまで湾に入っても時間があるから其のあたりで良いかも」

「ふぅ〜ん。アキコは船出と接岸の様子が好きね」

「そうね。港にゆっくりと近づいて行く時や出て行くのに興奮するのは確かね」
湾の入り口に小さな島があり其処に灯台があり灯が瞬いている、水先案内の後にロンバルディが続き、其の後一隻の水先案内三隻の帆船が続き、其の後ろにもう一隻の水先案内其の後に蒸気船が最後尾に付いて列を成している。

ヒナに促されてロニーの部屋へ迎えに行くと「待ちかねたわ。忘れられたかと心配してしまったわ」とケリーとジュリアに留守番を頼んで三人でデッキへ上がった。
港には小さな船が行き来しているが隊列を組んだ船は狭くなった場所を抜け、右の入り江の軍港を見ながら「ハ−ド・ア・スタ−ボ−ド」の号令で左舷側に回頭した。

この時代国によって舵を取るのに呼び方に違いがありアメリカのライト、レフトは船首に対して進行方向であるのに、左舷を現すポートが実際には右へ船首を向けるイギリスとは船員の交流が難しかった。
現在、面舵スターボード(英starboard)は右舷方向に曲がる事で、取り舵ポート(英port )が左舷方向に曲がる事に1928年に国際的に統一され1931年6月から実施された。

帆船は右側の桟橋へ誘導されロンバルディはさらに奥の岸壁に進んでいった。
ロンバルディは水先案内の船に押されて左舷を岸壁につけるために旋回している。
後から来た船は其の脇を進んで奥の岸壁に右舷を接してタラップの取り付け作業をしている。

「どうして向こうの船は出港しやすいように旋回しないのかしら」
ヒナは不思議そうに首をかしげた。

「此処が最終寄港地か今日は出港しないかのどちらかじゃないかしら」
ロニーはロープを持つ水夫に尋ねると「あのカターニャは此処とナポリの間を回る巡航船でシシリーの幾つかの港に寄港します。いつも此処で2日は休養と手入れをするのですよ」と教えてくれた。

水夫がロープを岸壁に放りキャプスタンがまかれて接岸が完了してタラップの取り付けが始まった。

「3時までに戻ってください。4時出航に間に合わないと自力で泳いでいくことになるか、沖に出るまでに追いつける船を雇うことに為りますよ。時計を合わせてください、いまは9時15分です」
一等航海士のジョージがメガホンでそう継げてイタリア語で書かれた岸壁の名前の入ったカードを希望者に配った。

清次郎とロニーが代表して1枚ずつ貰い受けた。
清次郎はミスター・アーチボルドから教えられた案内人を探した。

「ブオン・ジョルノ。ムッシュー・マエダですか」

「ブオン・ジョルノ。そうです。君がムッシュー・フォンタナですか」

「そうです。ディーノ・フォンタナといいます。ディーノと呼んでください」

「よろしく頼むね、ディーノ」

清次郎はヴェネツィアで買い求めた地図に印を付けたコロンネ・ロマーナとドォウモにレストランの名前を見せ「この2ヶ所を回ってレストランで昼を食べて戻りたいが5時間で回れるだろうか」と聞いた。

時刻は9時30分になっていて余裕を持って3時に戻るにはもう少し早いほうがよさそうだ。

「充分時間に余裕がありますよ。12時にレストランに入れば2時間は大丈夫ですね。遅くも2時半には戻れますよ。もっともドォウモを一時間くらいで出られるならですが」

「ではそういう事で頼むよ。料金だが基本一人目7リラ、後二人目から2リラで良かったかい」

「そうです。エーと13人ですから2かける12は24リラ。プラス7で31リラですね」

「エッ13人もいないだろ」
清次郎が周りを見るとアキコと話しをしているがっしりした男が居る。

9人と思っていたが4人余分にいるのはどうしてだと思って「アキコ、其の人たちは」と聞くと「案内人は英語がよく判らないので此方に混ぜてくれと頼まれているんだけど」とアメリカの言葉で清次郎に説明した。

「判りましたでは其の人たちから一人2リラの案内料でいいか聞いてください。基本料金はどうせ此方で出すので持ちますから」
其れが聞こえたのか二人の男はすぐに5リラ銀貨をそれぞれが出して「二人分と残りはチップの先払いだと言ってくれ」とそれぞれがアキコに渡した。

清次郎が其れを足して5リラ銀貨9枚、45リラを渡して「チップも先払いで之だけ受け取ってくれたまえ。それからレストランは君の分も持つから先ほどよりいいレストランを知っているなら其処でも良いよ」とディーノがコンミッスィオーネになるならと思いそう伝えた。

「この人数ですから先ほどの地図の店のほうが良いですよ。1時前なら込み合うこともないでしょうが」
どうやら勤め人も昼に二時間掛けて3時まで休みという話は本当らしい。
明子の話では清次郎たちも入ったアノニモ・ヴェネツィアーノで知り合ったカートライト夫妻と其の紹介で知り合ったばかりのゴードン夫妻だと紹介した。

4人はアキコに付きまとうように大人数の一番最後を歩いている。
600ヤードほど海岸線を北へ歩くと先ほどの三艘の帆船が並び其の目の前、道の左側に階段がある。

幅は15メートルくらいで右は城壁の名残らしき壁があり、岸辺から五十段ほどの階段を上がった先にコロンネ・ロマーナ(Colonne Romane)が見える。

下から見ると一本の大きな柱が聳え立っていて「元は20mの柱が二本ともたっていましたが1528年に1本が倒壊しました。此処から観るとあの見張り所の後ろに隠れて台座だけが残っています。倒れた柱はレッチェの町に寄贈されました。此処がアッピア街道の最南端です」と階段を2段ほど先に登ると振り返って説明した。

Appiaの名はこの道路を敷設した元老院議員アッピウス・クラウディウス・カエクス(Appius Claudius Caecus)に由来する、初期はナポリ北部のカプアまでであったが次第に延長されて此処ブリンディジに到達したのは紀元前190年のことだ。

「忘れらていたこの街道がピウス六世の命により修復されさらに1784年に旧道に平行して新しく敷設されてこの街道の重要性が見直されました」

「この海岸通がそうかしら」

「いえ今私達が来た道は途中からですがヴィアーレ・レジーナ・マルガリータで、私の右手方向にある道がヴィア・コロンネと言ってローマまでのヴィア・アッピアにつながっています」
そう行って右手を伸ばして指し示したのをアキコはアメリカの4人に通訳して教えた。

「あの花壇のある道ですか」

「其の手前こちら側です。そういえば説明しませんでしたが道は建物に隠れて間にある路地を抜けるようになってしまったんです。向こうへ抜ければいくらかは広いのですが海から見ると道とは思えないのですよ。街道として忘れられていた間に家が立ちふさがったようです」
之には一同が笑い出して長い階段を登る苦労を忘れた。

21世紀の今はこの階段は広がり、海から隠れていた折れた柱の基部が見えるようになっている。

ヴィア・コロンネへはコロンネ・ロマーナの裏側から降りる道があり其処から坂道を上るとピアッツア・ドゥオモへ出る、道の左手にある小さな空間に大きな円柱が建ちドゥオモ(Cattedrale di Brindisi)のファサードの上には十字架を間に挟み4人の聖人、円柱の右手に小さな入り口があり奥へ通り抜けられるようで上はカンパニーレ、ドォウモの正面には二人の聖人がたちその先に大きな重い木製ドアの出入り口がありさらに二人の聖人が立っているが一人は広場からだと隠れて見えない。

一同は中へ導かれてディーノの勧めで灯火の醵金箱に一人1リラを投じることにしそれぞれが醵金した。

「ドォウモは1143年に献堂式が行われて以来たびたび修復されて来ましたが、このブリンディジは1734年に地震に襲われてこのドォウモも損傷しましたが、無事修復されて現在に至ります」そして「床のモザイクは完成当時のままだそうでして、聖歌隊の席などは300年前に新しくされています」
主祭壇は質素で聖餐式の祭壇には最後の晩餐の画、堂内を廻ると栗毛に白い鬣の馬に乗る兵士姿はアメッサのテオドロスだとディーノが説明して傍へ来た助祭も其の由来とテオドロスの聖遺物の説明を引き受けてくれた。

聖歌隊の壇にもテオドロスが彫刻されていて、もう一面はサン・レウチョ(san Leucio)が彫られている。

「此方はアレクサンドリアのサン・レウチョといわれています」
一同は礼拝を済ませて表に出ると小春日和の温かい陽射しはドォウモ広場を照らしている、ドアを出て左手の建物は大司教館と神学校、此処は地震の前の1720年の完成だが地震による大きな損傷は受けなかったそうだ。

5分ほど西へ歩くと、突き当たりで右へ曲がるとすぐ左へ道をとった、狭い道でも馬車が通る道から出たここには、ヴィア・マドンナ・デッラ・ヌォーヴォと標識が出ている。
次の標識はヴィア・カステッロ、道は左へ続き、気が付くとヴィア・クリストフォロ・コロンボになっている。

「なあアキコ。このまま何処へ連れて行くんだろうな。聞いてくれないか」

「良いわよ。フレッド」
アキコは前に出て「ねえ、ディーノ。この道は何処へ通じているの」と話しかけた。

「駅へ行く道ですよ。でも此処を通るといいものが観られるんですよ」

「フゥン、それじゃ期待して歩きますわ」
後ろから来るフレッド達を待って今の言葉を伝えた。

「駅など見ても詰まらんよ。良いものったってどうせ古い石垣かなんかだろ。ローマで見飽きたぜ早く飯にしようぜ」

「もうフレッドわぁ、エジプトまで行って見る予定のピラミッドだって昔の石積みの遺跡よ。周りは砂漠で、あるのは崩れた遺跡と石の柱だそうよ。ギリシャもそういう場所しかないわ、綺麗なパリから来れば何処もかしこも崩れた競技場に劇場ばかりよ」

「それでもとてつもなくでかいそうじゃないか、其れとスフインクスがあるんだろ」

「ナポレオンが砲兵の練習の標的にしたので顔がめちゃくちゃだそうよ」

「ふん、あいつは英雄だそうだが酷い奴だと言う話じゃないか」
話しているうちに其の崩れた城壁の門が見えてきた。

馬車が潜れる大きな門と人が通れる程度の幅の門の跡だ。

「やっぱりな。駅に金を掛ける前にこいつを修復すりゃ良いじゃないか」
ぶつぶつ言いながら城壁を潜り抜けて周りを見ると新しい建物が其の城壁の周りに犇めいている。

「こいつは良いや。古いものと新しいものが入り組んでいるぜ。なぁチャリー」

「まったくイタリア人と来たひにゃ。呆れたもんだ。こいつを残すなら家を離して公園にでもすれば見物も落ち着いてできるというものだぜ」

此方がそんなことをアキコに話しているとも知らずディーノは得意げに「此処はブリンディジの旧市街への入り口で重要な場所なんですよ。ポルタ・メザーニェ(Porta Mesagne)といいます」と説明している。

大きな馬車から果物や野菜を降ろして小さな手押し車に積んでいる人たちがいる、市場で買い入れてきたものを此処で別けて小売に行くのだろうか、賑やかに話しながら品定めをしている。

アーティチョークを手にかざして見ながらより分けていて、カルチョーフィと言う言葉が聞こえる「あらクレメンテはアーティチョークの事をアルティチョコと言ってけど」と思いディーノに聞いて見た。

「普通はカルチョーフィ(carciofo)ですね」

「ではヴェネツィアの方言かしら、この時期には珍しいでしょと言って笑っていたけど此処からきていたのかしら」

「そうかもしれませんよ。北のほうはともかく10月11月其れと2月から4月頃が食べごろですが12月に1月だってこのあたりはよく出回りますよ。昼にサンドウィッチにトンノと挟んで食べますか」

「トンノって言うとトンのことかしら」

「そうです」
なんの話しだとチャーリーが聞くので「お昼にツナとアーティチョークのサンドウィッチでも食べますかと話してるの」というと舌なめずりして「そいつはいいなパスタにピザはもう飽きたぜ。なぁディ」と夫人を振り返った。

「そうね其れとチーズとハムをたっぷり頂きたいわ」

「そうかそいつをディーノに話して置いてくれ」

ディーノに其れを伝えながら、ロニーと三人で果物の屋台の青年のところへ行って梨とリンゴを買い入れてもらった。

アキコは何時ものザックから布袋を取り出して其れに半分ほどを入れてもらったが4リラだという安さに驚いた、ヴェネツィアの半分の値段だ。

清次郎を呼んで安いけど他の人はほしいかしらと聞くと皆が寄ってきて「どれにしようか」と栗にも興味を持っている、周りの果物屋も大騒ぎで安くするから買いなさいと騒いでいる。

「桃が有るけど今頃食べられとは信じられないわ」

「胡桃も有るけどこのまま食べられるのかしら」

ディーノも其れを聞くのに大忙しだ、入れるものがないからとディーノに言わせると呼ばれて来たのは袋を売る老人で手提げになるように紐が通してあり10枚で5リラだというので「高いわ」とアキコが言うとおばさんたちは半分自分たちが持つからさっきと同じ値段の果物を買えと言い出したのでディーノは袋を持たせて4リラまでの果物を入れてもらう手伝いを始めた。

タロッコというシチリア産のオレンジは美味しいから食べてみろと皮をむいて試食させてくれ其れも幾つか袋に入れてもらった。

一同に後で清算してもらうからと清次郎がおばさんたちに5リラ銀貨を渡して1リラか20ソルドのつり銭を受け取り袋屋には其処から2リラと10ソルドを渡した。

「そうするとわしは一人幾らもらえるんだい」
ディーノが2リラ半は50ソルドだから5ソルドずつか25チェンデジモだと教えた。

老人は勘定を済ませたおばさんたちから金をもらって回った。

1枚袋が余っているので清次郎はレモンとオレンジを袋に一杯買い入れたが6リラで良いというので大喜びだ「ニューヨークじゃオレンジ10個で2ドルは取られますよ」と同じようにオレンジを買い入れたカートライト夫人に話している。

ロニーの袋はディーノが持ちますと言って肩から提げて200mほど南へ行くと大きな十字路に出た、右はスタジオーネ・ディ・ブリンディジ(Stazione di Brindisi)まだ新しいらしくて綺麗だ。
駅舎の向こうに機関車が止まっているらしく白い煙が上がっている。

「此処まで線路がひかれたのは1864年で僕が生まれた年です」
と言うことはディーノが23才だと言うことだ。

「駅舎は線路がひかれたときはまだなくて乗客は木で組まれた台で乗り降りしていたそうです。駅舎が完成したのは僕もよく覚えています。花火が上がって賑やかでした、あれは1870年でした」
駅舎まで行かなくて良いだろうとフレッドが言い出し清次郎もそうだと思ったようでディーノにレストランに行こうと時間を見せた。

12時10分「丁度いい時間ですね」と後ろを振り返りあそこに見えるピアッツァ・カイローリの左ですと告げて歩き出した。
円形の公園の左側逆Y字路の角にリスタランテ・マルコ・アウレリオがある。

ちょっと待っていてください席があるか確かめますと中へ「ブオン・ジョルノ」と声を掛けて入るとすぐに出てきて「どうぞお入りください」と白い前掛けのカメリエーレと一緒に出てきた。
ドアの向こうには二人の可愛いカメリエーラが待ち受けて陽のあたる窓際へ案内してくれた。

「なあ、セイジロウ。此処は俺たちに奢らせてくれ、さっきチャーリーとも話し合って決めたんだ、俺たちの顔を立ててくれ」

「其れでしたら先ほどの果物は僕のプレゼントで良いですよね」

「うん、そう来たか」
二人で肯きあって早口で話すと二人で拳固を突き出してぶつけ合うと「決まったぜ。それでいこう、盛大にと言っても昼のことだ其れほど食えと言うのも無理だろうがビールが有れば頼んでくれないか」と言ってビールに賛成のものを選んで頼ませた。
ビール以外はタカが頼んだプロセッコにすることにして食事が始まった。

サンドウィッチにパルマハムに地元産だというペコリーノ、サラダに掛かるドレッシングはマスタードに酢が入っているようだ。

「こいつはいい味だ。ヴォーノと言う言葉が自然に出るぜ」
と夫人と共に嬉しそうに食べるアメリカ人だ。

イカやタコに海老のフリットは全員が大喜びだ「生肉のサラダはいかが」と聞かれたが清次郎がロニーやフレッドに聞いてから其れはいらないがリゾットを5人分出してくださいと頼んで皆で分け合って食べた。

14人で食べて飲んで12杯の食後のコーヒーを入れても68リラだった、二人のアメリカ人は鷹揚に40リラずつを出して残りはチップだと伝えてくれとディーノに支払いを頼んだ。

明子の耳元で「之だけヴェネツィアで飲んで食べれば120リラじゃきかない筈だぜ」とチャーリーが囁き、フレッドも「俺の田舎でもこんなに安くすまないよ」ともう一方の耳に囁いて二人で笑い出した。

「船まで遠いなら馬車にするかい」
お腹が膨れて歩くのも億劫に為ったようだ。

「700mくらいで降りなので楽ですよ」
アキコが820ヤードほどだと話すと「それなら腹ごなしに歩くか」と夫人たちと話しロニーにも聞いて全員で歩いて戻ることにした。
それぞれ自分の印を付けた袋を受け取ると肩にして公園の真ん中を横切りジョバンニ]]Vという通りを下った。

「チャオ・ベッラ」
其の声のほうを見ると先ほどの果物を売っていた青年が十字路の陰になった場所で店を広げている「チャオ」と手を振って笑いかけると嬉しそうに手を振って寄越した。

十字路で立ち止まりディーノが今どこら辺りにいて何処へ向かうかを説明していると行き止まりに見えた道からロバに引かせた荷車が出てきたので先につながっているのがわかった。

其処からヴィア・マーリエ(Via Maglia)と名が変わり直角に左へ曲がっているとディーノが話しながら其方へ向かわずに十字路を左へ入った。

ポルタ・レッチェという通りへ出ると左には橋が道の上に掛かり其処を馬車がとおるのが見えた、右は城壁でその下を通り抜けるとヴィア・デル・マーレという城壁に続く公園の通りだ。

右手眼下に港が見え岸壁のロンバルディでは荷物の積み込みが忙しく行われている。

船を200mほど通り過ぎると下へ降りる道が現れ、午前中に通ったヴィア・レジーナ・ジョバンニ・ブルガリアへ出て右手の船に向かった。

船の前には朝はなかった物売りの屋台が並んでいる、時間は2時25分余裕をもっての町歩きと昼食だった。

「焼き栗の匂いがするわね」
タマは真っ先に其の屋台で買い入れている。

ディーノに礼を言って一同はお別れの握手をして物売りの屋台の列を抜け、タラップの下で「お帰りなさい」と二等航海士のエバンスがノートと照らし合わせ、デッキでは司厨長ミスター・ポートマンと船長のミスター・グッドマンも出迎えてくれて一同は部屋へ戻った。

明子は部屋でスケッチブックを開き、今日回った場所のラフを画いておいた。


客室係が名簿の点検と食事、シャワーの時間割を配って歩いている、明子は今までと同じ1組でヒナとシャワーは明日の3時から30分と指定されている。
無制限に水もしくはお湯が使える訳もなくほぼバケツ3倍ほどだと係のギルバートという少年が教えてくれた。

「ギル、貴方は何部屋受け持っているの」

「僕は一等船室専門なので5部屋だけです」
一等船室は20部屋あるので4人のボーイがいると言うことだ、客室係と言ってもメスルームのサービスも担当が回ってくるそうだ。
船に乗ってすぐチップに二人とも5リラ銀貨をあげたので待遇も良い様で、ヨシカとツネの部屋でも5リラもらったようだ、ギルバードと名前はイギリス風だがエジプト人で、この船の水夫に火夫はインド人が殆どだ。

「之だとアレクサンドリアへ上陸する前にあと1回しかシャワーが使えないじゃないの」

「しかたありませんよ。毎日使えるだけの水は無いのですからね。アレクサンドリアまで無寄港なんですから」

「5日だけじゃ上陸の時に困るわ、せめて身体を拭くお湯がほしいわ」

「それなら、内緒で7日の朝早くにバケツでお湯を届けますよ。朝食の前の6時に」

「約束よ、バケツ1杯1リラ出してあげるわ」

「それなら二人分で2杯くすねてきますよ。ボイラー室のハイッマンに頼んで綺麗な熱々のお湯をね。彼アキコの事がお気に入りだから融通して呉れますよ」

「私ハイッマンという人知らないわよ」

「お昼が一緒だったんですが彼、好きな船のことを質問されて有頂天でしたよ」

「ああ、あの軍艦の事を教えてくれた人」
ヒナにもらったリンゴをかじりながら5分ほどコックの司厨長ポートマンさんの事やボイラー室の事をだべって出て行った。

「之でお湯の事は大丈夫ね。髪はホテルで洗えばいいし」
ヒナはボイラー室のハイッマンはどういう人か聞きたがり色々と質問するがほんの僅か話しただけで、あまり憶えていないというとつまらなそうに「アキコは男の人に興味が無いから、これからはよく観察しないと駄目よ。日本に帰れば絶対に縁談が目白押しよ」と言い出した。
アキコは其の話は無視して二人でロニーの部屋でケリーに会おうと部屋を後にした。

出航の前の鐘が鳴っているのが聞こえる、全ての乗客の確認が終わったようだ、アキコはロニーに出航の様子を見てまた戻ると断ってデッキへ上がった。

「レッコー」
二等航海士エバンスの号令で岸壁のロープが解かれ、ロープと碇が巻き上げられるキャプスタンのカタンカタンという音が心地よく響いてくる。

馬車が勢いよく露店の店の裏側を入ってくると馭者が何事か叫んでいる。

「どうしたのかしら」
タラップを船から外そうとしている人たちが船の上と何事か話し合っていると事務長のスタンフォードがメガホンで「アレクサンドリアまで無寄港で、二等船室しか空いていないが良いのですか」と聞いて其の女性を迎え入れることにして客室係が三人、揺れるタラップを降りて馬車から荷物を持って上がってくると其の後を若い女性が揺れをものともせず勢いよく上がってきた。

「事務長のスタンフォードです。ようこそロンバルディへ」

「ミス・クレイトンです。よろしくお願いしますわ。ミスター・スタンフォード」
アキコとヒナにもにっこり微笑んで「やっと間に合ったわ。ヴェネツィアで乗れなくて汽車で追いかけてきたのよ」と話しかけた。

「とても劇的な登場でしたわ。観客がもっと多ければ良かったですわね」
そういうアキコに手を振って客室係の後に付いて階段を降りて行った。
それでも50人ほどが船出の人を見送っているがヴェネツィアの時ほどの盛り上がりは無かったのは仕方の無いことだ。

タラップが取り外され機関の音が響き、黒煙が勢いよく上がると汽笛が鳴らされてロンバルディは岸壁を離れて水先案内の船の後に続いて港外へ向かった。

「すばらしいわ私の時計は4時30秒の離岸よ」

「もうアキコは何処が面白いと言うの」

「為れる物なら航海士になって船の針路を決めてみたいわ」
ロニーに新しい乗客の事を告げると「スリル満点の登場ね。メスルームはその人の話題で盛り上がるわよ」と興味津津だ。

今朝と違い夕方のアドリア海は穏やかでまだオスマン帝国の支配から抜け出られないアルバニアの方向へ舳先を向けてイオニア海へ向かって出て行った。
航路は行き交う船で混雑している、と言っても視界に入るのは帆船が多いので追い抜くにもすれ違うにも船の間が1海里は離れている。

ロニーも1組の食事になり7時の夕食時に同じテーブルに着いた。

「朝にはギリシャ沿岸ね」
夜の間にブリンディジから180海里は進むとギルがロニーに説明してくれた。

「其れは陸の上では何マイルになるの」
ロニーの質問にギルは首をかしげている。

「ギル、180海里はほぼ207マイルよ」

「エッそうなんですか。どうも陸の上の事は良くわからないので聞かれても答えるのに航海士のミスター・フィリップスやミスター・エバンスに確かめてから答えているんです」

「イギリスの1海里はマイルに換算するときは1.15を掛けるのよ。大体それで済む計算よ」

「フランス人にはどう説明すればいいかご存知ですか」

1.852を掛けてキロメートルと言うのよ」

「わぁ、そいつは大変だ。ジョージに計算を出してもらうほうが楽そうですね」
其れもそうねとヒナやツネもギルに賛成だヨシカのように暗算ですぐ出せる人はそう多くは無いだろうアキコも「私も大雑把には判るけど細かい計算を出すには紙に書いて計算をする必要が有るわ。ソロバンでも計算が難しいのに旅行で小さいものしかないのでヨシカが頼りだわ」と持ち上げた。

「アメリカとも違うのでしょうかね」
コーヒーを持ってきてそうヨシカに聞いている「ワン・ノーティカルマイル(One Nautical Mile)で2フィート足らずの僅かのものよアメリカのほうが短いの」と答えている。

現在21世紀は1929年に定められた国際海里1852メートルが世界中で使われているがイギリスは1970年まで独自の新旧の英海里を使用していた。

5日の朝も穏やかなイオニア海に陽が上り、朝食の後ケリーを連れたジュリアの後からロニーと一緒にデッキに出た。
ヒナとアキコは望遠鏡で沿岸の街を覗いていたがロニーとジュリアにも渡して覗いてもらった。

「エーゲ海はとても綺麗なところだそうなので一度は出かけて見たいわね」
ケリーと座り込むアキコにロニーは望遠鏡を返しながら「子供の頃読んだギリシャ神話のヘラクレスにあこがれたものだわ」と遠くを見る眼をした。 

部屋に戻ると夕刻にはギリシャ沿岸から離れメデテレニアンシーの真っ只中に船は居るとギルが教えに来た。
地図を取り出したヒナは「クレタ島はいつごろ見えるの」と聞くと「真夜中に西のはずれが近づいてきますよ。夜明け前にガヴドス島のそばを通るはずです」と地図で場所を示した。

「なぁんだ。クレタ島にはあまり近づかないじゃないの」
ヒナはつまらなそうにリンゴをかじるギルに言っている、ラビュリントスに閉じ込められたミノタウルスにテセウスの冒険とアリアドネの話しが好きでイカロスの悲劇の舞台のクレタ島を見られると期待していたようだ。

この時代クレタ島はオスマン帝国の支配下でギリシャとの併合を望む住民との軋轢は高まりつつ有ったしガヴドス島(Gondzo)は最盛期8000人ほどいた住民は500人程度に激減している。

6日夜明け前そのガウドス島の山頂の灯台の灯りが左舷の明子たちの部屋から見えている。
穏やかな海に機関の音が響きロンバルディは僅かに右へ回頭してアレクサンドリアを目指した。
メデテレニアンシー(Mediterranean Sea)地中海は大地の真ん中を意味する言葉だそうだ、ガウドス島とリビアの海岸線は140海里ほどしかない。

午後1時雨が15分ほど強く降ったがその後は西の風に押されるように順調な航海となり、船からは大型の魚が海面すれすれを泳ぐ様子も見えて退屈する事も無く、暖かい午後となった。
通路の温度計は68度で船内では外套を脱ぐ人が多くなっている、明子たちも旅行服の上に羽織っていたモントーを脱いでデッキを歩いている。

「ねえヨシカ、ボストンではファーレンハイト度で別段不便でもなかったけど横浜の街に戻ればパリの様にセルシウス度になるんでしょ。換算率はどうなるの」

「大丈夫よ。街には両方の目盛りの温度計も出ているそうよ。兄が手紙に書いてきていたもの。政府がフランス式を採用したと言っても横浜を出る時の新聞はファーレンハイト度の華氏で乗せていたでしょ」
ヨシカはメモ帳に(摂氏温度×9÷5)+32で華氏温度、(華氏温度−32×5÷9で摂氏温度だと書き出した。

「こりゃ換算するのも難しいわ。其れで今日の温度はフランス式では何度なのヴェネツィアの最後の朝は4度だったわ」
タマは其れを見るなり匙を投げた格好をしてヨシカに教えるように頼んだ。

「68マイナス32は36よ、5倍すると180ね9で割るから20度になるわね。摂氏4度はほぼ39度かな」
そういいながら紙に書き出すと「39.2度ね」と計算式をタマに見せた。

「カイロに着けばもっと暖かくなるのかしら」
ツネが誰に言うとも無くつぶやいたがヨシカが「こんなに暖かいほうがおかしいのよ。エジプトだって12月と1月は冬だから朝は50度くらいのはずよ。昼間の暖かい日で70度までは無いはずだわ。でも砂漠へ出れば日中は冬でも80度を越すそうよ」と話した。

食事時間が違いミス・クレイトンとはすれ違う時の挨拶程度の一同だったが午後のお茶の時間に珍しくミス・クレイトンが現れヨシカに話しかけてヴェネツィアやパリの事を話題に乗せた。

出発はニューヨークでロンドンからパリそしてマルセイユから船でナポリ、トリエステと周遊してウィーンを回ってミラノに出て其処からエジプトへ行くのに、この船が一番早いと言うので急遽ヴェネツィアへ向かったが、今日出たばかりと聞かされ2日掛けてブリンディジまで追いかけてきたと自分の旅行談も話してくれた。

「ニューヨークを出たのは7月の5日よ、まだエジプトから先の行く先は決めていないの、一年掛けてあちらこちらと回る予定だけどロシアは雪に埋もれているそうだから後回しにしたのよ」
旅行計画を立てず行き当たりばったりの世界旅行だとこの若いレディの冒険家はヨシカたちに語った。

「そういえば船に乗る時に見かけた背の高い人はいないわね。貴方たちのお仲間と聞いたのだけど」

「アキコとヒナはきっとロニーの部屋でケリーと遊んでいますわ」

「ケリーってあの大きな犬ね。私も其の犬とお友達になれるかしら」
ヨシカに連れられてロニーの部屋へ行くと案の定アキコとヒナが居たので「此方の方がミス・クララ・クレイトンですわ。ミセス・ガードナー」と二人を引き合わせた。

「お話しはフレッドやエリーから聞かされていますわ。ミセス・ガードナー」
二人は握手して互いに名前を教えあった。

「あらまぁ、お二人とはブリンディジ以来すれ違う時の挨拶くらいですの。狭い船でも時間割が違うせいなのよ。私の事はロニーと呼んでね」

「ええロニー。私もクララと呼ばれるほうが嬉しいですわ。其方がケリーですね」
ケリーも自分の事が話題に上がった事がわかるのかウウとうなって顔を上げた。

明子の隣に座って「貴方がアキコね。そうすると其方がヒナね」と二人とも握手をしてケリーには手を広げてなめさせた。
クララからはほのかに水仙の香りが漂っている。

夕食時に時計を一時間進め、すでにブリンディジを出て615海里を超え、18時間後の明日7日14時にはアレクサンドリアに到着と事務長のハリー・スタンフォードが1組の乗客に説明した。

「残りは220海里ほどになります。今度の航海では876海里69時間と一等航海士のミスター・フィリップスが計算を出して居ります。アレクサンドリアはこの時期たまにスコールがありますが、気温は60度前後の過ごしやすい日が続きます」
このロンバルディは気帆船で巡航速度12ノットだがこの分では12.7ノットで到達できそうだ、一等機関士のハイッマンと機関士12名のたゆまぬ努力の成果とメデテレニアンシーの強い西風の助けが大きいようだ。


7日、朝の食事の時ミスター・スタンフォードはエジプトでの先月の通貨交換レートを書いた紙を張り出した上で読み上げてくれた。

其れによると町での通貨は金貨はほぼ何処の国のものでも通用するそうで、エジプトピアストルは100ピアストル1ポンドで正式レートは19シリングだと教えた。

「高額の手数料を請求するものも多いので市場での換金は要注意です。町へ出てすぐ困る人も居るといけませんのでお一人100ピアストルまでの交換は事務室で朝10時から行いますが100ピアストル1ポンドですのでご承知置きください。其れとホテルの予約が必要な方は船を降りるとわが社の社員が居りますので其方へお申し付けください」

さらに1ポンドは17フラン33サンチームでイタリアリラはそれに準じていると話した。

「大体5円で1ポンドのようね」
フランスフランにイタリアリラは最近ポンドに強くなってきているが、円は何処の国に対しても弱いのでアキコはボストンを出てから円は使わないように気を配っている。

日本で言うアレキザンドリイと言う町の呼び方もアレクサンドリアに慣れてきたし、現地ではアル・イスカンダレーヤだとギルが教えてくれた。
蒸気トラムに乗合馬車が縦横に町を廻っているそうで、不便な町ではないとギルは話し、ヴェネツィアやブリンディジに比べれば便利な街だと自慢した。

朝から荷物を詰め込んで冬の旅行服から春服に着替え、念のためモントーは持って出る事にした。
全ての準備がおわり、残ったリンゴとオレンジはギルと其の仲間で食べなさいと全てあげてしまった。

水の空瓶がほしいと言うので他の人たちの分ももらってあげると、嬉しそうにチップをもらうよりお金になりますと仲間4人と嬉しそうに言うので、二等に三等の客室係や食堂のボーイ全てにわたるようにタカと清次郎はミスター・スタンフォードにリラの残りを集めて其の中から30リラを渡して分配を頼んだ。

「サンキューセイジロー。彼らに必ず平均して渡しますよ」
両替をしに現れた清次郎たちにそう約束して握手し、わざわざ受け取りを書いてくれた。

カイロ時間11時から接岸準備のための早めの昼食がおわり12時にデッキへ出ると陸地が見えてきた、殆どの人がデッキに出ているのは興奮と朝食との間の時間が短いため軽く済ませたようだ。

右舷の船端で双眼鏡を覗くアキコに「あれがエジプトね。アレクサンドリアにはクレオパトラの子孫は今でも居るのかしら」とヒナは言い出した。

「1900年も前の人よ、居るにしても本当かどうか妖しいものよ」
明子の言葉にやはりデッキに出ていたクララは「彼女の子供は何人も居たけど孫の代までははっきりしているのよ。クレオパトラは何人も居るけどカエサルやアントニウスと浮名を流したのはクレオパトラ七世という人なのよ」と言って傍に来たヨシカたちにも聞こえるように椅子から立ち上がって説明してくれた。

シェークスピアの劇でしか知らなかった一堂もアレクサンドリアの歴史の一端を知る事になった。

クレオパトラがアントニウスともうけていた三人の子供たちアレクサンドロス・ヘリオス(二男)クレオパトラ・セレネ(長女)プトレマイオス・フィラデルフォス(三男)は、オクタヴィアヌスの姉にしてアントニウスの前妻であるオクタウィアに預けられて養育され、成人したセレネはヌミディア王ユバの遺児でユバ二世の妃になり、マウレタニアに移り住んだ。
ユバ二世は紀元前25年に王位に就きマウレタニアを統治したといわれていて、夫妻の間にプトレマイオス・トロメウスという王子と、ドルシッラという王女が生まれた。
ユバ二世が亡き後ローマで教育されたプトレマイオス・トロメウスが後を継いだが、40年にカリギュラ帝によって殺害されてしまった。

「シーザーとの子供はどうなったの」

「クレオパトラが亡くなった後オクタビアヌスに捉えられて、殺されてしまったわ」
話しを聞いているうちに緩やかに右へ回頭して港外へ到着、水先案内の船が現れた。

「皆さんの後ろ側に要塞があるでしょ。あの場所に昔は大きな灯台が有って30マイルも先まで光が届いたそうよ、14世紀に大地震が2度も有って完全に崩壊したそうなの。アレクサンドリアには其のほかにも世界一の図書館も有ったそうだけど1500年以上も前に崩壊したそうよ」

「クララ。モウレタニアと言うのはどの当たりに有ったの」

「ヨシカはアフリカの地図を見た事がある」

「あります」

「今の西アルジェリア、北モロッコだと思えば間違いないわね。プトレマイオスがローマで暗殺された後内乱が起こって其れにつけ込まれてクラウディウス帝はこの地を二分して、東部のマウレタニア・カエサレンシス(Mauretania Caesarensis)と西部のマウレタニア・ティンギタナ(Mauretania Tingitana)の二つの属州とされたのよ」

ロニーは部屋へ戻りケリーを連れて船尾に出てきた、最後に一緒に下りてくださるか箱に閉じ込めて吊り下げるかと聴かれ、最後に降りることにしたのだ。

「ケリー之でお別れね」
明子の言葉に「ワォ〜ン」と吠えて答えた、ロニーたちは彼女の夫のミスター・ガードナーがロゼッタで始めたブドウ農園へ馬車で向かうそうで、アレクサンドリアに2泊する明子たちと別れるのだ。

明子たちが乗るヤンチェは此処アレクサンドリアへ12日について、乗船予定のイスマイリアへは14日夕刻到着、15日朝4時出航予定だ。

カイロ時間13時30分、ロンバルディは要塞の沖から右舷側へゆっくりと回頭して狭まっている港の入り口を正面から入港するためにまた左へへさきを切った、ガーマ・アブル・アッバースだと荷物を運んできたギルが指差す方向に高い尖塔と二つのドームが見える。

ロンバルディは魚河岸の手前の桟橋へ左舷を接岸させた、ギルによればこちらは西港で要塞の向こう側が東港だそうだ。

カートライト夫妻とゴードン夫妻はカイロまで行くのでアレクサンドリア駅まで馬車で向かうとタラップを降りてきた明子たちと握手し、最後に降りてきたロニーにもお別れの挨拶を交わして馬車へ向かった。

客室係に水夫も港の荷物運びを監視して無事荷物を乗客の手に渡している。

ロニーの馬車が出て行くのを見送り、清次郎がようやく見つけた今日のホテルの差し向けた4台の馬車に荷物を運びこんだ、港を後に駅と桟橋の中間にあるシディアボゥ(アル)ダーダアの聖カテリーナ寺院近くのホテル・ローマへ向かった。

南北に走るトラムの線路に沿って進み、前後の停留所の中間に三階建てのホテルが有り、正面は円柱が並んだギリシャ風の建物だ、ボーイが明子たちの荷物をホールに運び清次郎がレセプションで手続きをしているとクララがやってきて、同じようにここへ宿泊だと明子たちと談笑している。

「近くに聖カテリーナ寺院があるそうだけど。シナイ半島南部の花崗岩のシナイ山の中にある聖カテリーナの修道院は世界一古い修道院だそうよ」

「シナイ山だと此処から遠いのでしょ」
鉄道の駅から駱駝で片道5日は掛かるという話だそうで、幾ら時間に縛られない旅でも不便すぎると諦めるらしい。

「夕食前に何処かへ行くの?」

昨日、船で進めた時計を見て「後2時間は明るいわよ」と一同を誘った。

ロンドンでもらった地図にはポンペイ・ピラーくらいしか近くに見当たらない。

「其処なら歩いても10分くらいね。大昔の柱が一本残っていると聞いたわよ。ブリンディジではコロンネ・ロマーナを見損なってしまったわ」

クララは出航の時船室に居て見なかったようだ、駅で雇った馬車の馭者に「間に合えば20リラ」といった話しをして「凄かったわよ。あんなに早く奔らせて馬は大丈夫だったのかしら」と船では話さなかった事も教えた。

清次郎に続きクララも手続きをして30分後に案内人を付けてポンペイ・ピラーを見てくることにした。
3時間基本料金10ピアストル、9人で50ピアストルだというのでクララが「私が言い出したので基本の10ピアストルを出しますわ」と清次郎に預けたのでチップ込みだと80ピアストルを案内人のイマードに手渡した。

案内人とアキコが先頭でトラムに沿って歩き、クララとタカの後ろは清次郎が一番最後を歩いている。

「メデテレニアンシーに乗り出す前にコロンネ・ロマーナに出会ってエジプトでポンペイ・ピラーに会うなんて不思議な気がするわね。どちらもローマの支配時代の1600年以上も前のものなのでしょ」

タカはクララに知っていますかと聞くと「ローマ皇帝ディオクレティアヌスが建てた図書館の跡とか、セラピス神殿から1本だけ持ってきたもの。ローマ皇帝の食糧支援に感謝した市民が建てたとも言われて、よく判っていないというのが実際のようですわよ。高さはフランス人が測定した時26.8m有ったと書いてありましたわ。もう一つ本当らしく聞こえる話は其処にセラピス神殿があって時代が下って西暦391年にローマ皇帝の命により破壊され1本だけが残り、後にポンペイウスの寺院だったと言い出す人が居て、其れが通り名となってポンペイ・ピラーと今に伝わると本には出ていましたのよ」
クララはすらすらと聞いた話などの受け売りだがと断りながら古い歴史をタカに説明した。

「それではどの話しが本当かわかりませんね」

「そうね、ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌスは305年までローマ皇帝だった人で、391年に皇帝だったのはウァレンティニアヌス二世とテオドシウス一世でしたわ。どちらが取り壊したにせよ、今に為っては判らないようですわね」

トラムが交差する十字路を抜けてアフマド・アリ・サワリと道が変わり、右手にナツメヤシが並びその上に柱の先端が見え出した、アキコはイスラム暦とグレゴリオ暦の日付を案内人と話しながら歩いている、今日1887年12月7日はイスラム暦1305年3月21日だそうで、ラマダーンとはイスラム暦の9月でこの月は日の出から日没までのあいだ、イスラム教徒の義務の一つの断食を行うと教えてもらった。

左手につながるバーブ・スイドラ通りには沢山の布地屋が続いていて右手の小高い丘に遺跡がある、古い町並みのごみごみした場所から廃墟の丘は完全に浮き上がっている。

「まるでこのままで保存すると決めたみたいね」
ヨシカたちは案内人に従って瓦礫の間を歩き、近づく柱を時々見上げてブリンディジより高いわと言い合った。

「ねえ、タカたちは何処かの旅行社が企画した旅にしたがっているの」

「清次郎はニューヨークでの仕事から休暇で横浜へ戻り、わたしはパリへの留学の帰りで、私を除いた六人がボストンへの留学の帰りなのですが、旅の企画は清次郎のお兄様が立ててトーマス・クックに依頼したものですわ。其れでクララは」

「私は適当に1年で回れる世界旅行なのよ。新しい仕事に就くまで閑になったので飛び出してきたの。本当はウィーンからロシアへ行こうと思ったけど雪が凄いときかされてイタリアからエジプトへ回る事にしたのよ」
まるっきりその日の気分で行く先を替えて旅をしているようだ。

何処かの学生だろうかイタリア語らしき歌声が聞こえる、イャンモ、イャンモ、ンコッパ、イャンモ、イャ、威勢のよい響きの歌はナポリから広まったフニコラーレの歌だ。

クララも口ずさんでいる「ご存知なの」とタカに聞かれ「ナポリで嫌というほど聞かされたわ新式のグラモフォンというフォノグラフを使って登山電車の駅の近くはあの歌だらけよ。トーマスクックのフニコラーレの宣伝の歌よ」とすこし大げさに話した。

「パリでも今年になってよく耳にしましたわ。ナポリ語だそうでサンタ・ルチアと共に有名ですわ」

タカもそう言って遠くへ去ってゆく歌声に合わせて歌いながら、柱のほうへ瓦礫を避けて歩いた。

行こう 行こう 頂上めざして 行こう 行こう 頂上めざして
フニクリ フニクラ フニクリ フニクラ 行こう 上へ 登山電車で!

其の歌は明子たちも耳にしたメロディですぐ口ずさめた。

アイッセロ ナンニネ メ ネ サリィエッテ
トゥ サイェ アッド、トゥ サイェ アッド
アッド スト コレ ングラト キュ ディスピエッテ
ファルメ ノン ポ、ファルメ ノン ポ

 赤い火をふく あの山へ  登ろう 登ろう
 そこは地獄の釜の中  覗こう 覗こう
ナポリ語の長い歌は意味がよく判らないながらに瓦礫の間を歩く一同を元気付けた。

遺跡の北側には果樹園がある「梨の木かしら」とイマードに聞くと「そうです10月ごろが一番美味しい時期です」と答えた。
葉のおちた果樹園は150mに300mはあるようで町の中に之だけの規模の農園を持っていられるのはどうしてだろうと不思議な思いのする一同だ。

日暮れまで時間がありますから駅を回って戻りましょうと東のバーブ・スイドラ通りを歩き、テラート・アル・マーマウデヤの騒がしいスークと蒸気トラムが走る通りの先にあるゴムホレーヤ広場と其の向こうのアレクサンドリア・マスル駅の新しい駅舎を見た。

西陽を受けた三つのアーチの架かった大きな入り口の上部に二本の角のように塔が乗り、其の双方に時計が付いている。
大理石に煉瓦の建物は駅とは思えないつくりで人の出入りも多く、カイロまで直行便で6時間だそうだ。

駅前には乗合馬車と蒸気トラムに乗る人が大勢賑やかに喋っている、トラムは一律1乗車2ピアストルだそうだ、アレクサンドリアの西から東へ10の駅があり此処が真ん中になると教えられた、南北の線はユダヤ人街からポンペイ・ピラーの南で運河に突き当たる場所までの2マイルほどの短い区間だが今ある海岸線近くのビクトリア駅とラムレ駅間の線と接続され、魚市場までの海岸通りに新しい路線が施設延長される予定だそうだ。

「予定は確定ではありませんね」
イマードはそう言って歯を見せて笑った。
道々アキコが聞き出したところによると、魚市場はやはり波止場の桟橋近くにあり、今の時期は鯛に鱸に鯔が取れるそうで、タベルナというギリシャ料理の店が何軒もあるそうだ。

鳥が道端に何羽か下りてきたが、胸が青い色をしているので珍しい鳩かと思ったが鳴き声で烏だと知れた、ねぐらに帰るカラスが上空で喧しく鳴き、蝙蝠も飛んでいる。

其の晩の食事はホテルで摂った、パンはエイシという種の無い薄焼きのもので色々と出される野菜に薄切りのハムや果物を挟んで食べた。

コフタという羊の挽き肉の串焼きとコシャリという混ぜご飯にムサカというナスと挽き肉のトマトソース煮、更にスズキのソテー。

「豪華な食卓とはいえないけど賑やかな色取りね」
ツネはタマと隣有って座り、にこやかに話しながら食事を楽しんでいる。

清次郎たちは明日は要塞と魚市場へ行くと話しているが、明子はお土産を買う必要があるので市場へ行くというとクララが一緒に行くと言いだし、タカと清次郎も案内人と一緒ならと承諾した。


翌8日の朝、日の出前から雨が降り温度計は47度で肌寒い朝だ、アッラーフ・アクバル、アッラーフ・アクバル、で始まるファジュルの礼拝を呼びかけるアザーンの声が聞こえてくる。

食事の後アキコは春の旅行服にモントーでクララと町へ出た。
二人に付いたコンシェルジュ(案内人)はオスマン帝国時代からこの町で五代に渡り生活していて、我こそはイスカンダラーニーだというユーヌスという老人でコプト教徒だそうだ、フランス語にイギリスの言葉も操れるのでコンシェルジュとしては引っ張りだこだと自慢した。

「市場を見て回りたいわ」
明子の言葉に頷き、トラムの線路に沿って北へ進むとユダヤ人の多く住むスークは近い、ブティックに金物、金融屋が多く店を構えている。

このアレクサンドリアはギリシャ正教、コプト教会のキリスト教にユダヤのシナゴーグ、ムスリムのモスクと混在している街だ。
クララとアキコはペドウィンの衣装が飾られているガラス窓で立ち止まった「ほしいけどできるだけ荷物は増やしたくないの」そうクララは言って見るだけにしている。

「アキコは買うの」

「ノー、見てるだけ」
二人はまたユーヌスについて歩き出してトラムが南北に走るラインの終点から始まるユダヤ人の商店を覗いて歩いた。

「ユダヤ人街はローマが支配していた頃は此処ではなくて東側に有ったんじゃよ」
二人は往復して今度はアラブ人の露天商の多い海岸近くの通りへ入り、やはり其処も見て回るだけにし、同じアラブ人でも裕福な商人の多いラテブ・スークへ向かった。

アキコは「ユーヌス、もし此処で私のほしいものがあって値切れそうなら協力してほしいの。貴方のコミッションに私の希望額まで安く買えれば其の半分上げるわ。駄目な時は安く出来た分の五分の一だけよ」

「そいつはありがたい話ですがね。3倍、4倍に吹っかけるという話はばかげた噂にしか過ぎませんよ」

「では倍くらいには旅行客に吹っかけるのね」
アキコは吹っかけるという言葉を使う老人に合わせて使った。

「そのくらいは言うでしょうな。でもわしが居れば其処まで言う奴はあまり居ないでしょうよ」
コンシェルジュもあまり高い買い物をさせれば、あいつは商人とつるんでると噂が出て仕事に差し支えるのだ。

「ところでマドモアゼルはなにが買いたいのです」

「探しているのはヴェネツィアで造られたゼッキーノという金貨ですわ」

「ダカットというやつかね」

「ええ、其の金貨です。ヴェネツィアのドージェがサン・マルコに跪いて居るものです」

「見た事はあるがね。持っているなら金細工師かな」
ユーヌスは派手派手に飾り立てた店に入って髭の老人に話しをした。

「あるとも、ゼッキーノのダカット金貨は最近はイギリス人にアメリカ人がほしいと言うので売れるのでな。アデンやバクダットまで人をやって探させたので大分高いのだよ。金地金に大分潰されて残りは少ないはずだ」
3枚の金貨を出してきて布の上に並べた、大分磨り減っていて角が変形している。

「手に取って良いか聞いてくださる」

「良いともフランス語はわかるからね、マドモアゼル」
店主の老人はそのようにフランス語で言って金貨を差し出した。
明子が手に持つと微妙に重さが違っている「大分使い込まれたようですわね、磨り減っていますわ」と老人に聞いた。

「ユダヤ人めがこいつを持つと使う前に角をほんの僅か削りこむんじゃよ。だからわしらは重さを量る天秤で10枚幾らと計算するんだ」

「ではまだあると言うことね」

「そりゃあるがね。マドモアゼルが買えるかどうか判らんのに全部見せるわけにゃ行かんよ」
クララも珍しげに見ていたが「之はなんと書いてあるか判ります」と老人に聞いた。
クララが綺麗な発音のフランス語を話すのを始めて聞いた明子が「クララはフランス語も話せるのね」と驚いているのを楽しそうに「だってアメリカの言葉が話せる人にわざわざフランス語で話す事もないでしょ」と笑った。

サン・マルコの顔も判然としていないが、ユダヤ人はアラブ商人がこすからく削るといい、アラブ人はユダヤ商人が削ると言い張るのだ、明子は寅吉から昔の江戸や大阪の商人が小判を受け取るとわざわざ金箱に放りこんで、僅かにでる金屑を集めるという話しを思い出し、にっこりとしてモントーのボタンを外して首から提げた小さな守り袋からヴェネツィアで買い入れた内の一枚のダカット金貨を取り出した。

「こいつは凄いとても使い込まれたとは思えないな。パオロ・ラニオーリかわしも3枚ほどしか扱った事がないな」
とぼけたことを言う老人と高をくくっていたが、存外に物知りのようで気を引き締めるのだった。

「ところで其方のマドモアゼルに聞かれたわしのゼッキーノじゃ、全て最後のドージェのルドーヴィーゴ・マニンじゃ」
老人が詳しくはわからんがとクララに説明した処によるとどうやらこのようなことらしい。

Ludovico Manin1789年−1797年) 
ヴェネツィアダカットは1284年より鋳造され始めた。

銘の最後のDVCAT(デュカートDucat公国)から、デュカート(ダカット)とさらに鋳造所ゼッカZeccaの名前からゼッキーノ(Zecchino)と呼ばれた。
表に当代のドージェが聖マルコに跪いてポール(旗印)を受ける様子が描かれている。

裏は星に囲まれた書物を持つキリストの立像。
銘がSIT T XPE DATVS Q TV REGIS ISTE DVCATと為っているが略字が多い、キリストによってこの公国を統治する汝に与えられんことを、と約すようだ。

金貨にはかすれてはいたがLVDOV MANINと浮き彫りされていた、明子は自分の金貨を袋に戻し「それでこの3枚は幾らでしょうか」と聞くと「三枚買うなら600ピアストル、1枚なら230ピアストル」どうだ安いだろうという顔をした。

「一番最後のドージェなのに使い込まれすぎていますわ。それにヴェネツィアで聞いた値段の3倍もしていますわよ」
230ピアストルに含まれる金の重量は17.21gダカット一枚の金は3.48gでほぼ5倍の値段に相当する。

「綺麗なものならそれだけ出してくれるかな」

「1枚100ピアストルが限度ですわ。ヴェネツィアでの相場は私のでソブリン金貨一枚でしたので」
ソブリン金貨、直径22mm、重量7.98805g123.27447グレイン)、金純度91.67%
アキコは駆け引きに出たようだ。

「マドモアゼル、そいつは相場を知らんよ。マドモアゼルが儲けたと言うことで此処では通用せんね。200まで負けてあげるよ」

「そういわずに元の半分の115ピアストルまで出しますわ」
そういいながら左の内ポケットからユーヌスに小さな紙を手渡した、あらかじめホテルで書いておいた内の一枚で150と書いておいたものだ。

「どうだねこのマドモアゼルの希望金額は無理だろうか」

「ユーヌスの顔を立てても無理だよ。もう少しというところで180がやっとだね」

「わしの顔を立てて120でどうかね」

「そいつは無理というものだ三枚買うなら450にしよう。だがそれには条件がある」

「何のことだ」

「ポンド、其れも金貨だ、100ピアストル、ソブリン一枚でどうだ」

「オイオイ19シリングが相場だぜ」

「そいつは1万ピアストルを銀行で替える時の相場だ。ユダヤの金融屋じゃ95にしかならんはずだよ」

「確かにそうかもしれんが。マドモアゼル・アキコはソブリン金貨をお持ちですか」

「ええ、此方でいい買い物が出来ればとソブリンを10枚に5ポンド3枚に2ポンド、半ソブリンも幾枚か持ってきましたのよ」
そう言って肩に掛けたザックから赤い袋を出して其の中から4枚のソブリン金貨にハーフ・ソブリンを出すとダカット金貨の脇へ置いた。 

「マドモアゼルはいいお客だ、では其のダカットは其方のものだ」
アキコは小さなハンカチーフをザックから出して包むと旅行服の右ポケットへ落とし込んで「それで他にもあるなら見せてくださる」と老人に話しかけた。

「いいとも綺麗な奴は高いけどいいかな」

「何時の時代かわかるものなら相場だけ出しますわ」
老人が奥へ入ると「ねえ、アキコ私もお土産にそれならがさばらないからこの後も買えたら分けてくださる」と言うので「良いですわよ、値段を書いて置きますからユーヌスへのコミッションも含めてあとで計算しましょうね」と小声でアメリカの言葉で伝えた。

老人が今度は五枚の綺麗な金貨を持ち出し「この順で造られたはずだ」と並べてくれた「古いものは600年ほど前のドージェだよ」と言って其れを手にとってこいつはすこし欠けているがジョヴァンニ・ダンドロで48代目のドージェさ」

次々に目を通しただけで年次を読み上げるのは只者ではない、アキコは書き取るのにやっとで手にとっても名前がよく判らないのはヴェネツィア特有の略字のせいだ。

Giovanni Dandolo (1280年−1289年) ジョヴァンニ・ダンドロ
Antonio Veniero  (1382年−1400年) アントニオ・ヴェニエル
Carlo Contarini  (1655年−1656年) カルロ・コンタリーニ

Luigi Contarini  (1676年−1684年) アルヴィーゼ・コンタリーニ
Sebastiano Mocenigo1722年−1732年) アルヴィーゼ・モチェニーゴ三世

「なぁマドモアゼル、こいつは一枚400ほしいのだがユーヌスの顔で掛け値なしの半分にするよ。値切っても駄目だよ」

「ねえ、お爺さん。先ほど出す時に5ポンド金貨の話しをしてしまった手前10ポンドのお金は出してもいいけど。其処に飾ってある金の鎖は本物なの」

「そうだよ。ちょっと待ってくれ」
そう言って秤を出して「フランスのグラムで言うと21グラムだ、金が0.75で銀が0.25だよ、そのくらいでないと切れやすいのでね、金の値打ちでも200ピアストルはくだらないよ」と明子の手に持たせた。

アキコは鎖の太さを観て指でさわり間違いなさそうだと「騙されても自分が悪いんだわ」と納得して袋から5ポンド二枚と2ポンド金貨を其処へ置いて「之で分けていただけますか」と聞いて見た。

「ネックレスは2ポンドでは売れないのだが金貨をあれ以上値切らなかった分仕方ないか」
老人はそのように笑いながら言うとポンド金貨を取り上げたのでアキコはダカットと鎖を受け取って胸のハンカチーフを抜いて包むと旅行服の左ポケットに仕舞った。

「この鎖の売値は380ピアストルと言うことを忘れないでくれたまえ」
老人はそう言ってユーヌスにも「いい客を連れてきてくれてありがとうよ。今度飯でも奢らせてくれ、ビスミッラー」と礼を述べた。

「アッフワーン、また寄らせてもらうよ」
そう言ってアキコに「いい買い物が出来たようだね。後何処へ寄るかね」とたずねた。

「一度ホテルで之を預けてどこかでお昼をいかが、クララも其れでいいかしら」

「そうね。そうすれば落ち着いてお昼が食べられるわ」
ホテルまでどのくらいか聞くと5分くらいだというので路地伝いに東へ歩くとすぐトラムの線路に出た、左手に聖カタリーナ寺院が見えたので「なぁんだこんなに近くへ回り込んでいたんだ」とクララと笑いあった。

ホテルの裏庭でコーヒーを飲みながら「クララはどの金貨がいいの」と聞くと「最初に買ったすこし型が崩れたもので良いわ。あれなら三枚同じでしょ。アキコも其のほうがいいでしょ」と遠慮がちに言ってくれた。

「そんなに遠慮しなくてもいいのよ。ユーヌスのコミッションを計算するわね」
アキコは画帳を取り出して690と書いて「私の希望は450、差額が240で其の半分は120ピアストルよ」と先ず100ピアストル金貨と20ピアストルの銀貨を出した。

「それから2000を1000にしてくれたのとネックレスが」
そういいかけるとユーヌスが「なぁマドモアゼル、そんなに出してくれなくていいんだよ。わしゃ精々200ピアストル程度の買いものと思うから値切った分の半分と言う言葉に乗ったんじゃ。100だけもらえんかね、まぁ、ソブリン金貨がもらえれば嬉しいのだが」と自分からそう言ってくれた。

「嬉しいですわユーヌス、では一番新しい女王陛下のゴールデンジュビリーをいかが」
アキコは首にかけた小さな巾着袋から1887年のソブリン2枚を取り出した。

「此方は旧来のデザインで之が新しい記念式典のためのデザインですの。ロンドンへ寄った時に手に入れましたのよ」
Golden Jubileeこの年6月21日で在位50周年記念、表面ジュビリーヘッド、裏面は聖ゲオルギウス(セントジョージ)の竜退治で、昔の裏面はイギリス王家の紋章だったが1871年から聖ゲオルギウスの竜退治が加わった。

ユーヌスは新しい女王陛下の横顔を見て「さすがに年をとられたようですな。記念に之を頂きましょうと胸の隠しに落とし込んだ。

「では私はアキコに幾ら払えばいいのかしら」

「クララは1ポンドか100ピアストルで良いですわ。だってこの3枚分からだけでいい上に20ピアストル負けてくれましたもの」

「ほんとにそれでいいのね」
そう言って2ポンド金貨を出して「其の新しいソブリンはまだあるの」と聞くので先ほどの袋から一枚出して渡すとテーブルに出してあるソブリンは袋に、2ポンドは財布に入れた。

「不思議じゃ。アキコは何処になにをいれてあるか憶えて出し入れしてるのかね」

「ええ、そうなんですわよ。ペールがいつも分散してお金を仕舞うので私も癖になりましたのよ」
レセプションに先ほどの金貨と鎖をザックから出した袋に入れてフラールで縛ると預けて昼食を食べに街へ出た。

「さてなにが食べたいのですかね」

「此処の名物は」

「さて改めてそういわれると、タベルナでギリシャ料理か魚料理くらいですかな」
レッドスナッパー(red snapper)かシーブリーム(sea bream)がこの時期のお薦め、だそうで「レ・フリュイ・ドゥ・メールがこの街のおすすめですかな」いきなりフランス語で海の幸だと言い出すお茶目な爺さんだ。

「そういえばマスカット・オブ・アレキサンドリアは此処から輸出されているそうだけど」

「そうですじゃ。もう時期も終わりに近いのですが、エメラルドの色合いは今が一番じゃないかな」

「他の色もあるのですか」

「あるとも、いく種類もな。エメラルドが一番香りが良いと思うがね」

「お昼を食べたら青物市場へ連れて行ってね」

「良いとも。それで何処へ行こうかね」

「タベルナでムサカにドルマ。イロピタにパツァス。お昼だからそのくらいで良いわ」
クララはそれだけの料理全てを食べるつもりのようだ。

「ほう、マドモアゼルは大分料理も詳しいようですな。ではいい店を紹介しましょう」

「当然よ。だってユーヌスも一緒にたべるのですものね」

「わしにもご馳走してくださるのですか」

「当然だわ。だって其の後も市場を案内してもらうのですもの」

「アレクサンドリアの住人はタベルナといわずにタヴァーンと言いますのじゃ。憶えて置いてくださいよ」
トラムの線路に沿ってアレクサンドリアの駅まで出た、駅の北側の道を進んでサファヤ・ザルールだという通りを北へ向かいセイフヤ・ザルールとよく似た名前の通りへ出た。

アテナというタベルナは昼時とあって人が多く、空いている席はあまり無いが、庭の見える明るい席へ案内された、食事に訪れている人達は身なりもよく人気も高いようだ。

クララがフランス語のメニューを見てどんどん注文を出している「良いわよね之で。あとなにがほしい」そう聞かれたがアキコには食べきれる自信もないので「私はあまり食べられないので十分だと思いますわ」そう答えるとユーヌスに「ワインとビールどちらがいい」と聞いてから「このあたりで作られるワインを」と頼んだ。

「明日はクララもカイロへ行くんでしょ」

「ええそうよ。私はイブラヒム・パシャ通り(Ibrahim Pasha Street)のホテル・シェファード(Shepherd Hotel)を勧められたけど」
アキコはザックからメモ帳を出すと「わたし達もシェファード・ホテルに9日と10日11日と3泊の予定ですわ。其の後12日にイスマイリアへ移って船を待ちますの」と告げた。 

「まぁ、嬉しいわ。他の人に聞いてカイロの観光もご一緒させていただけるかしら。ギザのピラミッドを見た後、ルクソールとカルナックへ行く予定なのよ。貴方たちはどうされるの」
まだ其処まで清次郎から聞いていないので日程と時間が合えば回りたいとは思うがピラミッドとスフィンクス以外はカイロでの交通事情次第だと答えた。

「そうねルクソールまで鉄道が延びて、ホテルも増えたそうだけど、オリエンタル急行並みの寝台車を運営しているワゴン・リ(wagons-lits)でも14時間掛かるそうなの」
カイロ〜ルクソール(419マイル)671キロ
ルクソール、ソフィテルホテル(Winter Palace)1886年開業
 
ユーヌスも「そうですなルクソールの神殿はわしも2回案内に回りました、よいところですがなんせ遠いですな。カイロと往復には3日見ないと見物も落ち着いて出来ませんな。のんびりと船で往復も良いと聞きましたよ」とアキコに教えた。

「14日の夜に船に乗りますのでカイロを1日で切り上げないと無理のようですわね」

「11日の夜行で出かけて12日の夜行で帰るなら13日の朝に戻れますよ」
清次郎に相談してみますとアキコは答えるのみにした。

「此処の会計は私のおごりよ」
クララは明子にそう宣言してユーヌスに会計を頼んだ、三人で80ピアストルだった、クララは小さなメモ帳を出して記入しながら「ワインを頼んだわりに安いわね。ヴェネツィアに着いて一人で食べた夕食より安いわ46リラもとられたのよ」とアキコにメモ帳を開いて見せた。
大分高い店で食事をしたようだ、ミシェルが話していたように観光客目当ての高級店へ入ったのだろうし、いいワインを飲んだようだ。

店を出るとすこし先に同じようなタベルナがある、この街はギリシャ料理の店が多いようだ、ローマ字にアラビア文字の店名が書いてある。

「サンタ・ルチアね、イタリア料理じゃないの」

「うんにゃ。地中海料理と主は言っておりますな。イギリス人の希望でインドのカリーもやるなど幅広くやるので、まぁ言うところの雑多料理ですな」

道は降りで眼の先には海が見えてきた、海岸手前の左手に公園があり港の左手前方にカーイト・ベイの要塞が見えている。
大灯台の事は昔の旅行作家とでも言うべき歴史家や地理学者が書き残している事を話してくれた。

「フィロンの訪れた時はまだ大灯台がなくて世界の七つの景観には入っていませんでしたのじゃ。この港には昔は島があってクレオパトラの宮殿が有ったそうじゃが、何時の頃か海底に沈んだそうですじゃ、大分前にヴェネツィアへ行きましたがイタリアの海と違いナイルの土砂のせいで海の底がよく判りませんのでな、何処にあるかよく見えませんのじゃ。右側の岬の手前に昔は大図書館がありましたんじゃ。かのアルキメデスも此処の研究施設ムーゼイオンで学んだそうですじゃ」

「宮殿の話と大灯台はストラボンの歴史書ね」

「おお、そうですじゃ。だがなフランスの学者どもはローマの遺跡の下や街の家の下にあるのだと言うて街を掘り返せば見つかるなどといいますのじゃ」
アレクサンドリアの図書館は紀元前48年カエサルの進攻時に船の火災が街へ移り、類焼し再建されたようだが、カラカラ帝(在位211年〜217年)はアレクサンドリアでの大虐殺を命じムセイオンへの援助を停止、外国人学者を追放した。

ローマのテオドシウス帝の治世下391年にアレクサンドリア司教のテオフィルスが姉妹図書館のセラペイオンの破壊と略奪を命じた。

ローマとキリスト教徒による破壊の後、今度はムスリムによる破壊が起きて大図書館は歴史から消え去ったと13世紀ごろに言い出されている。

グレゴリオ暦641年アラブの将軍アムルがエジプトに進攻しアレクサンドリアを征服、大図書館の処分は第2代正統カリフのウマルの命令に「もし聖典の教えに反する本があればそれを燃やせ、アッラーへの冒涜であるがゆえに。もし聖典の教えに一致する本があればそれを燃やせ、聖典一冊で事足りるがゆえに」と有り、蔵書は燃やされてしまったという噂が残った。

トラムのラムル駅へ向かうと其の先にそびえる塔はカーイッド・イブラヒーム・モスク(Qaed Ibrahim Mosque)というそうだ。

モスクまで行って其処から戻って左へ入ると聖マルコ教会がある、四角い感じのする教会の建物は中心に大きなアーチの入り口が有る、西へ歩くと大きな通りが幾筋もある、其れをつなぐ路地を抜けるとナビー・ダニエル通りの商店の間に鉄製の門があり、奥にサンマルコ大聖堂(Saint Mark Coptic Orthodox Cathedralが見える、ユーヌスは教会の西の路地を歩きながら「正教会の修道院に保存されていた、今はヴェネツィアに有る聖マルコの遺骸には頭部はなく、此処の教会に今でも保存されているのですが噂では其れは聖マルコのものではなくて、アレクサンダー大王の物だと主張する学者も居るのですじゃ」などと言い出してクララと論争している。

ついでのようにユーヌスはコプト暦の事も教えてくれた「今日はコイアック(4月)12日で年数は1603年、殉教紀元ですじゃよ」と普段は教会の中でしか使わなくなりましたとクララに話した。

「其れって私が教わったアレクサンドリア暦と同じですのね」

「そのように呼ばれているそうですな。まぁ、学者先生の方ではフランス語かイギリス語にしますのでな。ナポレオンの軍隊が発見したという石版もラシードで見つかったのにロゼッタストーンだそうで」
またそれで話しが脱線している、ロニーのご主人のぶどう園のあるのがそのロゼッタことラシードという街だ。

「同じコプト暦でもエチオピアはすこし違うと聞きましたわ」

「エチオピアはイエス様の生まれた年を基準していますがの、グレゴリオ暦と7年ずれているそうですぞ、其れと月の名前も日付もわしらと違いますのじゃ」
三人で教会の周りを一回りして門を入り大聖堂を訪れ礼拝をして表に出た、駅前のゴムホレーヤ広場の喧騒を抜けて更に賑わうスークへ入り、青果を扱う店が並ぶ中でユーヌスが連れて行った店は天幕の下に葡萄が何種類も並び、アーティチョークやリンゴにオランダイチゴまで有った、クララとアキコはパピルスで編んだ篭一杯に葡萄を買い入れた。

七房有った葡萄と篭代を入れて一人38ピアストルだと請求されたが、ユーヌスが睨むと「ユーヌスが連れてきたんじゃ大赤字だ。一人22ピアストルで良いよ」と簡単に値引きしてくれた。

アキコが了介の手紙で、横浜へ神戸から送られて来たマスカット・アレクサンドリアが二房入った箱が二円もすると云うのを思い出した「と言うことは1シリング5ピアストルだから4シリングと5分の2なので一円二十銭」と暗算して一房十八銭にもならない安い買いものだわと納得し「元の値段でもこの計算だと買ってしまうわ」と思った。

「ユーヌスの一睨みで随分と安くしてくれたわ。ブリンディジでは随分高く感じましたわ」

「そりゃいい言葉ですな」
ユーヌスもご機嫌だ。

日本では1886年ガラス温室による栽培に成功、マスカット一箱で米一俵分に相当したらしい、この当時、米一升五銭前後に米価は安定している。
(明治二十年当時一俵(四斗)は押し並べて二円前後。明治10年一升五銭四厘。12年ごろ一時的に十二銭まで値上がりした。27年戦役のせいで八銭七厘)

スークはトラムの通りから1本南で其の先はバーブ・スイドラ通り、昨日と逆に歩いていくと目線の上にはポンペイ・ピラー、突き当たりに線路がある、蒸気トラムが通り過ぎ、右手を見るとホテル・ローマへの道が見える。

「この蒸気トラムも出来たときは馬が引いていましたのじゃよ」

「パリでもまだ全線蒸気にはなっておりませんわ。先月にパリに居た時に5キロ程度の区間だけでしたわ。殆どが馬車鉄道でしたわ」

「ほぉ、さすればこの街はパリより進んでいると言うことかね」
ホテルに戻りクララが「ユーヌス今日はありがとう。またこの街へ来たくなる街歩きでしたわ」と礼を言って20ピアストルをチップですと言って手渡した。

「ショックラーン!」
ユーヌスは遠慮せず頂くとクララに言ってホテルのレセプションで報告を済ませて出て行った。

アスルの礼拝を呼びかけるアザーンの声が聞こえて来た3時過ぎに清次郎達の一行が戻ってきた。


9日の朝まだ夜も明けぬうちから例によってファジュルの礼拝を呼びかけるアザーンの声が聞こえてくる、今日はムスリムの金曜礼拝が有ると昨日覚えた知識をヒナがアキコに教えている。

昨日予約したカイロ行きの急行はアレクサンドリア・マスル駅9時30分発でカイロ・ミスル駅15時25分着、一等席の料金は460ピアストル、クララも同行してホテルへチェックすることにしている。

駅のトーマス・クック旅行社の社員は「マスルとミスルと発音して区別しましたが共に同じ字を書きます、アレクサンドリアの方言でマスルと言われるのです。エジプトもアラビア語ではジュムフーリーヤ・ミスル・アル=アラビーヤと呼ぶそうですが私はアラビア文字までは読めません」と笑いながら教えてくれた。

クララは駅からホテルへの帰り道で清次郎にミスルとは本来は軍営都市を現して居る言葉だと話した、クララはテーベの都の有ったルクソールへ3日泊まり込んで見学して回ることに決め、ホテルの予約も済ませたので一緒に行かないかと聞いた。

清次郎はクララの誘いに「私はあの人たちを無事に横浜へ送り届けなければ為りません。行きたいところ見たいところは私にも彼女達にもたくさんありますが、許される範囲は多くありません。今回は残念ながらルクソールは断念するほかないのです」そう言って残念そうな顔をした。

「そうでしたわね。ではカイロとギザはご一緒させていただいてもかまいませんか」

「其れは此方からもお願いいたしたいところです。アキコがすぐうろつきまわるので貴方が居てくれれば一人で行かせずに監視していただけます」

「アキコは確かに私と似たところがあるわね」
クララは笑いながらカイロとギザではアキコと行動をともすると約束してくれた。

30分前には駅に入り到着していた急行に乗り込んだが一等席と言っても座席は指定されておらず荷物は空いている場所に清次郎が番をする形で積み上げた。

9時30分、汽笛の音を残し列車は駅を離れて北西へ向かった、ポートサイドへの線路と別れ、右へ緩やかに大きなカーブを描いて進むと右手に大きな沼があり其れを避けるようにまた左へ線路は曲がっている。
綿花の畑だとロンドンで手に入れた旅行案内にはでている、南東へ進むと米や野菜の畑が増えてきた、95分ほどでダマンフールの街に入り、駅に3分の停車で11時10分に発車。

アキコは其の綿花の畑を見ながら寅吉が話した言葉を思い出していた。

「アメリカの南北戦争のとき、エジプトの綿花産業が盛んになった背景は大きな資本が動いて戦争を長引かせ、南部の綿花産業を衰退させてエジプトの価値を上げさせた者たちが居たようだ。戦争が終わると今度は其の綿花をインドで盛んにさせてスエズを抜けてイギリスへ持ち込んで加工させることにし、エジプトを破産に追い込んだ資本がある。安い賃金で作らせた綿花をイギリスへ運び加工された製品を高く売りつけられてまたインドの金がイギリスへ運び去られるのだ。インドはどんどん貧しくなってしまうよ。同じ事が今度はエジプトでおきて来るだろうし清国もアヘン戦争以来標的にされている」

アキコが知り合った人たちにはそのような人は居なかったが、大きな流れは其の人たちの金を預金させた銀行や巨大資本が作り、間接的に其の人たちも恩恵を受けていると思うのだ。
アキコはショウとエメのお金を言われた企業へ投資し、さらに自分たちの分も含めてスタンダード・オイルへ投資する相談をして五万ドルを振り分けてある。

「ロックフェラーは信用できなくてもお金は稼いでくれるわ。アキコが考えたようにランプの明かりのための灯油の需要が落ち込んでも、ショウがいつも言うエンジンの燃料に石油が必要のはずよ」
エメは明子の電報にそのように返事を寄越した、其れとアキコは石炭ストーブ薪ストーブが無くなる事はないだろうが、ボストンで噂に上る開発中の持ち運び可能な小さなストーブが灯油の需要を伸ばすだろうと思ったのだ。

横浜で灯油の缶は米国5ガロン(約19リットル)入りで2円20銭、決して安くは無いが先ごろまで倍以上していたのだが新潟での生産が増えるに従い卸し値も下がりだしている。
アメリカからは5ガロンの容器二つが納まる木箱で横浜や神戸に入荷され、
主な輸入業者は英一、亜米一、サムエル・コッキング商会、サムエル・サムエル商会などだ。

サムエル・サムエル商会は10番に一年居ただけで68番に引っ越ししたが商売の手は広がる一方だ、Samuel, Samuel & Coはゼネラル・マーチャント(general merchant万屋)として名を売り出し中だがマーカス・サミュエル(Marcus Samuel)が横浜に来濱した1876年は明治9年、金澤の海岸で浅蜊掘りの時に見つけた貝に魅せられて始めた貝細工の玩具に、箱根細工からヒントを得た貝殻で飾り付けた宝箱の輸出から始まったマーカス・サミュエル商会で成功し、弟のサミュエル・サミュエル(Samuel Samuel)を呼び寄せて始めた通称サムエル・サムエル商会は急速に伸びる灯油の需要に応えるかのように手を伸ばしている。

1877年国内生産1,821キロリットル、輸入10,151キロリットルだった物が1882年には3,693キロリットル、78,291 キロリットル、1887年5,455キロリットル、 79,717キロリットルとまだ電気の普及しない日本では市場が活況を示していた。

南南西に線路がひかれナイルデルタで細くなった流れを渡るためか線路が東へ向かい鉄橋を渡るとすぐに駅があるが停まらずに通過した、旅行案内にはKafr El-Zaiatとされている駅だ。
東南東に線路は続きタンタ(Tantg)の街に入ったのはダマンフール(Damanhour)から80分ほどだ、綿花に米の集積地でナイルの支流を使った古くから発展した街だと書かれている。

「この駅と次のバーナという駅からイスマイリアへの連絡線があるんですよ」
清次郎はクララとエジプトの地図と旅行案内を見ながら話しがはずんでいる、4人掛けの席は車掌に50ピアストル渡して清次郎とクララが通路側に座り両隣全てを荷物が占領しているが他の乗客も同じように鼻薬を利かせて席にまで旅行鞄を積み上げている。

タンタ発12時40分、また線路は南南西に向いて気温が上がってきたせいか窓を開ける人が増えてきた、バーナ(Banha)まで90分ほどだったが停車時間が異常に長く14時20分に発車。
15時35分カイロ・ミスル駅(Misr現ラムセス駅)に到着、アレクサンドリア〜カイロ間129マイル(208キロ)6時間10分だった。

駅にはギザへの列車が停まっていてそれに乗り換える人は忙しげに歩いている、清次郎はポーターを10人呼び寄せて荷物を運ばせた。
駅からホテルまで歩くと15分ほどだそうだが荷物が多いので馬車4台に別れて乗り込んだ、ホテルは駅から南にあるイブラヒム・パシャ通り(現Gomhouria Street)に面して建っている、まだトラムは走っておらず駅前は馬車が忙しく行き来している。

駅前の運河には橋が掛かり其処を渡ると南東へ1000ヤードほどいくと右側に植物園が有り、園の北端に沿って右へ曲がり400ヤードほどで西端の三角形を作る道の向こう側にホテルが有り、行き交う人が大勢居て道沿いには庭先に屋根の付いたコーヒーハウスも営業している。

「エジプトと言うと田舎と思いがちでしたがアレクサンドリアよりもカイロは一層都会なので驚きましたわ」
ヨシカが同乗したクララに話している。

「だってカイロはアレクサンドリアに比べて歴史がないと言っても、近くのギザにピラミッドが出来たのは今から4500年近くも前よ。東ローマ帝国の駐留軍を破ったムスリムの将軍アムル・イブン・アル=アースが、ローマ軍のバビュロンの近くに軍営都市フスタートを築かせたのは643年だといわれているのよ。其れが発展して今のカイロになって云ったのです物、1200年以上もあれば大きな街になるわよ」

ホテルは四階建てながら道から大人の背の丈ほども高く盛り土されているせいか馬車から降りると見上げるほどの高さに聳えている。

「旅行社の人の話しだと出来たときは三階建てで去年四階部分を増築したそうよ」
ポーターが20人ほども飛び出してきて賑やかに荷物を馬車から降ろすと10段ほどの階段を登って清次郎より先にエントランスへ運び込んだ。

タカが馭者それぞれにに40ピアストルとチップに10ピアストルを支払うと、嬉しそうに自分の名刺を渡して「見物には自分を指名してくれ」と売り込むものが居た。
パリで聞いた近場20ピアストル、チップ5ピアストルと云うのを後の事を考えて清次郎と相談しておいて倍の支払いをしたのだ。

階段脇のテントの下では午後のお茶を楽しむ人が大勢いた、明子達に声をかけて来たのはロンバルディで同船だった人たちだ。

「アレクサンドリアはどうだった」

「観るところは少なかったですが、過ごしやすくて食べ物も美味しかったですわ」

「そりゃ良かった。此処は冬とは思えないくらい昼間は暑いよ。夜はコートが必要なほど冷えるし、砂漠へでると干上がるんじゃないかと思うほど乾燥しているよ」
どうやらすでにギザへ行ってきたようだ。

「ミスター・ゴードンたちはサヴォイ・ホテルからメナ・ハウスに昨日引っ越しして後3日ほど居てピラミッドに登ると張り切ってるよ」

「まぁピラミッドに登れるのですか」

「ガイドが付いて上まで30分ほどだそうだが、我々は中へ入ったが何もなかったよ。エジプト考古博物館のほうが面白いよ」

「サンキュー、ミスター・スミス。博物館はぜひ回るようにと相談しますわ」
レセプションで清次郎はチェックをしてそれぞれが自分の名前を記帳した。

クララとタカは二階で清次郎は三階、そのほかの6人は二人部屋で一階の南端に部屋が割り振られた。
レセプションからサロンの奥にある階段を見るとエジプト風の女性像が両脇に有りガラス窓から差す陽は庭の木漏れ日だ。
階段でアキコが振り返って入り口を見るとホールとの間はアラビアの王宮の絵にそっくりだ。

クララに言うと「あらそう見えた。私はファラオがかぶる帽子のように見えたわ」と立ち止まってしげしげと見ている。
サロンには英国夫人だろうかゆったりとティーカップを前に寛いでいる、窓から見下ろすと庭には八角形の池が有り小さな噴水から水が吹き上げていた。
4階建てになった時にエレベータも設置され各部屋にトイレにシャワー室も付いている。
カイロ水道会社、カイロ・ガス会社などが設立されたのは1865年で電気に電話もホテルに完備されている。

レ・ドゥ・ショッセで三人と別れ101,102,103の各部屋に落ち着くとシャワーを浴びて洗濯をしてもらう服の整理を始めた。
ノックの音がしてドアを開けるとタカとクララが連れ立ってやってきた「ランドリーから人が来ましたか」と言うので「はい、太ったマダムが少女をお供にやってきましたわ」とヒナが答えた、カイロの街は夕暮れ時が迫り廊下は肌寒く感じた。

「食事時間まで清次郎の話しだと2時間以上あるそうなので前の植物園へ散歩のお誘いに来ましたのよ。ガス灯に電燈も点いて居て夜でも綺麗なのだそうよ。ヨシカはツネとマダム・コードウェルとお茶を飲んでいると言うのでハルとタマが一緒よ」
二人も植物園に付き合うと答えてコートをはおり帽子を持つと部屋に鍵を掛けた。

「植物園はエズベキーヤガーデンと呼ばれているそうよ。出来てまだ17年だけど最近は充実して色々な国の花も栽培しているそうなのよ」
日暮れ間近の街をマグリブの礼拝を呼びかけるアザーンの声が遠く聞こえる、6人で教えてもらった西門へ向かった、7時閉園だと門のところで教わり一人2ピアストルを支払って中に入ると目の前にハイビスカスの大きな赤い花が咲いている。

細長い池があり茎を水面から伸ばした白と赤のロータスの花が侘しげに咲いている。

「もう花の時期も終わりみたいね」

「睡蓮は横浜でもパリでも7月ごろよ。エジプトは時期が違うようね」
クララが「エジプトではナイルの氾濫する9月ごろから咲くと聞いた覚えがあるわ」と思い出したようにタカに話している。
池を廻ると奥にブーゲンビレアの群生が目立つ植え込みに、赤と黄色の薔薇の小路が続いている。

「ブーゲンビレアはエジプトでグハンナメイヤと呼ばれているそうよ。意味は地獄の花ですって、どうしてそんな呼び名にしてしまったんでしょうね。私の家の庭もこの樹が植えてあって母が大切にしているわ。ブラジルで100年ほど前に見つかったと聞いた事があるわ」
クララの言葉にツネが「ボストンの公園にもたくさんありましたわ」と応じた。

大温室には煌々と明かりが灯されて外から見るとガラスが曇っている、百合が100本ほど咲いていて、サボテンの花も咲いているし、オレンジの木には実がなっている。
フレームツリー(火炎樹ホウオウボク)の大きな樹に花が満開に咲いている「温室で咲かせる意味があるのかしら」クララも不思議そうに見ている。

色々な国の樹が並んだ小道には木の札が付けられていて其れを読みながら一回りして外に出ると、売店脇にそのフレームツリーとジャカランダの樹があるが葉が茂っていても花は見えない。
立て札にはアラビア文字と英文が書かれていてジャカランダは年2回、4〜5月、8〜9月でフレームツリーは5月〜6月に花が咲くとされている。

6時半を過ぎて小さな方の温室は諦めて引き上げることにして門へ向かうと、プルンバーゴの小さな水色の花が北側の植え込みに20mほども並んで咲いていた。

門を出ると行き交う人が昼間より多い「ホテルの食堂はフランス料理だそうよ。今晩はホテルで明日はまだ決めていないそうよ」タマはいつの間に聞いたのかヒナに教えている。

「あらそうなの。久しぶりにパリが味あえるわね」
味わえるというべきなのだろうが日本語の言い回しが咄嗟に出ずにおかしくなってしまった様だがタマは気が付かなかった。

「何を話しているの」
クララが興味を持ったようだ「今晩のホテルはフランス料理だそうですわ」と日本の言葉で話し合っていたと伝えた。

「イギリスのホテルなのにねぇ」
クララも知らなかったようだ。

其の晩食事の後、明日10日はギザまで馬車で出かけ一日をピラミッド周辺で過ごし昼食はメナ・ハウスで取る予約も済んで居るそうだ。
11日はオールドカイロ周辺、12日はまだ未定だそうだ。

「そうだ先ほど君たちが出かけていた時に聞いた話だが、すぐ先にあるオペラハウスにサラ・ベルナールが来るそうだよ」

「まさか、そんな話パリでも聞きませんでしたわ」
清次郎にヒナが驚いた顔で聞きなおした。

「僕もね、まさかと言ったら、なにまだ何時とまでは決まっていないよ、ということだったよ。パリで食事をしたと話したら羨ましがられてね、記念にもらったサインの入ったハンカチーフを見せろと言うので部屋まで取りに行く始末さ」
サラ・ベルナールが東ヨーロッパ、トルコ、エジプトを巡業するのは1889年になってからでメナ・ハウスに泊まった様だ。


10日の夜明け前、ヒナが窓を明けるとファジュルを呼びかけるアザーンが近くから聞こえてきた。
「夕方の声は随分遠くに聞こえたけど」
首をかしげるヒナだがアザーンの声は幾つかが混ざり公園越しに響いてきた。

「此処は1階といっても通りより20フィート(6.096メートル)はあるからじゃないかしら」
ベッドに腰掛けているアキコが言うと「そうかしら」とまだ釈然としないヒナだ。

8時20分に約束の三台の馬車が案内人と共にやってきた、馬車ごとに一人の案内人という清次郎がタカと相談して2日間借り切りにしたものだ。
食堂の温度計は60度だったが「外では52度でしたよ」と支配人見習いのミスター・メイヤーという青年がアキコに教えてくれた。

「ギザに行けば砂漠では80度になるでしょうからコートは持っていっても、服は薄手のほうが良いですね」
そう忠告され薄手の服にコートというスタイルで一同は馬車に乗り込んだ。

イブラヒム・パシャ通りを南へ植物園、サヴォイ・ホテル、オペラハウスと通り過ぎて右へ曲がるとカスル・アル・ニル通りを西へ向かった。
1300ヤードほども進むと突き当たりで、左へ入るとタハリール広場だと案内人が教えた、アキコとヒナにクララが乗った馬車にはサーフィーという名前の25才ほどの小太りの青年が乗り込んでいる。

「僕の名前は実直という意味を持っています」
穏やかそうな顔つきのサーフィーはイギリスの言葉よりもフランス語のほうが得意ですと言いながらもイギリスの言葉でストリートの名前や広場を教えている。

タハリール広場を回りこむと橋の向こうはジャジラ島だと教え「1871年に架けられたカスル・アンニール・ブリッジです。この年にはオペラのアイーダも此処カイロで初めて上演されています」と教えた。

「この話の原案はフランスの学者で考古博物館のマリエット博士でして、オペラ座のオープニングに上演したいとヴェルディに依頼しようとしたのですが間に合わず、1869年6月のオープニングにはリゴレットが上演され、アイーダは1871年12月に上演されました」
アキコはまたジョゼッペが出てきたわとおかしいのを堪えるのに懸命だ。

其の様子をサーフィーは話しを真剣に聞いてくれていると勘違いしたか熱心に橋や島の事を教えてくれた。
ジャジラ島からイングリッシュ・ブリッジでもう一度ナイルを渡りすぐに左へ道をとると1.5マイルほどナイルに沿って上り、右へ道が逸れて5.2マイルで砂漠の中に入る。

徐々に近づくピラミッドの大きさに圧倒される一同だ、馬車はクフ王のピラミッド近く、メナハウスの前にある棕櫚の大きな樹が並んで木陰を作る場所に馬車を停めた、其処にはロバや駱駝を曳いて見物の客を待つ男たちが大勢いた。

馭者には「12時までは自由にして良いよ。午後はまた其の時に連絡する」清次郎は馭者にそう伝えて自由にさせた。
馬車に乗ってきた組わけで3組に別れて回ることになり、11時50分に此処へ戻るように清次郎の時計に針をあわせた。

クララの提案で明子たちは乗り物に駱駝を選んで一回りして午後から歩いて回ることにした、駱駝ひきは「昼までなら80ピアストルだ。午後も雇ってくれるなら120でいい」と言うのをサーフィーが「昼12時までで35にバクシーン5ピアストル」というとあっさりと肯いた、ヒシャームとリダーという案内人も「その辺が妥当ですよ」とタカと清次郎に説明しているが馬車1台を1日借り切りにしても150ピアストルなのだ。

13頭の駱駝に乗り込んで荒れ地に入って台地へ上がるために西へ向かった。

「サーフィー、細かな説明は後でいいから駱駝が歩いている場所にある遺跡の名前を知っていたら大きな声で教えてくださる」

「オッケー、ミス・クレイトン」

「面倒だから、クララで良いわよ。彼女はヒナで其方のフラールの付いた帽子の人がアキコよ」

「オッケー、クララ」
第一ピラミッドを正面に見ながら進み、台地への上がり口で番所の役人に入場料に外国人10ピアストルといわれて清次郎が9人分を支払い、1日何度でも出入りできると言うのでチケットは各自にもたせた。

右の道から台地へ上がると第一ピラミッドの北側には二つの内部への入り口が見える、東へ向かうタカとツネにヨシカの組と別れ、西側へ回ると小さな墳墓が並んでいる「マスタバ」とサーフィーが振り返って怒鳴った、外れにある大きな墳墓を指差して「三つのピラミッドの建造責任者で、クフ王の従兄弟で宰相のヘムオンのマスタバです」とすこし声を抑えて「このくらいで聞こえますか」と3人に尋ねた。

「大丈夫よ」
一番後ろに居た明子が手を上げながら答えた。

「ほんとに暑いわね」
午前中だというのにとっくにコートを脱いで駱駝の鞍に引っ掛けているが汗が出そうな陽気だ、清次郎とタマにハルの組は北側へもどって入り口へ上ると別れ、クララが先頭で南側へ回りこむと其処にもマスタバが並んでいる。

「アキコ〜。ヒナ〜。クララ〜」
上のほうから声がするので見上げると60フィートほど上からパンタロン姿のディとエリーが叫んでいる「今降りていくから其処にいてよ」と言うので駱駝を降りて待っていると5人の案内人に助けられて二人が降りてきた、エリーが案内人にバクシーンを渡すと次の客目指して走り出した。

「上まで登ったの」

「そうなのよ。フレッドとチャーリーが3つとも登ると言うのに黙って見ているのも癪だから、このピラミッドが見晴らしが良いと言うので登ってきたの。上に登るのに役所に一人5ピアストル取られるのよ。案内人が二人だと5人は必要だというので全部で60ピアストルよ。一人30ピアストルね。貴方たちも登ってみれば、カイロまでよく見えるわ。其れとこっちにいくつもあるピラミッドもね」
そう言って胸の双眼鏡を南の方向へ振って見せた、砂埃でかすんでいるが普段は下からも見えるそうだ。

「何分くらい掛かりました」

「天辺まで登るのに25分で、降りるのに30分くらい掛かったわ。フレッド達は此処は18分で登ったそうよ」
第一ピラミッドはアイユーブ朝初代のサラディンが(1176年頃)モカッタム山に城塞を建設するため、ギザのピラミッド群から石材を持っていったため、層は215段から200段に減り137メートルとなった(元は146.59メートル)辺の長さ最大230.46メートル(北面)最小230.25メートル(南面)誤差わずか21センチ。

第二ピラミッドは136.5メートル(元の高さは143.5メートル、)辺の長さ215メートル。 

第三のピラミッドは66.5メートル(元は70メートル)、辺の長さ102.2×104.6メートル、之は元のものにさらに被せるように石を積んだために正4角錐に為らなかったらしいがそれでも誤差は2パーセントほどだ。

「お昼はどうするの。わたし達はメナハウスに泊まっているので一緒にどう。其れと他の人たちは」
返事も待たず二人は次々に質問してくる「他の人たちもこの付近を回っていますわ。お昼はメナハウスに予約して有るそうです」とヒナがやっとの思いで答えた。

「では一緒で、良いわね。ああ、それからスフィンクスの顔だけど、ナポレオンと言うのはイギリス人のでっちあげで随分昔から鼻や顎鬚はなくなっていたそうよ」

「まぁ、そうでしたのナポレオンを嫌いな人がつくり上げた嘘だったのかしら」

「そのようね。話しが何処まで本当か其の時代の人しかわかりませんものね」
11時50分にホテルの近くの棕櫚の林に集まることを教え、駱駝に乗り込んで二人と別れ第二ピラミッドの葬祭殿が有る壁の南側に向かった。

「此処からだとスフィンクスのネメス頭巾の頭しか見えないわね」

「すこし上に登りますか」
サーフィーが提案してスフィンクスが上から見える位置まで登り、背中全体が見える10段目で4人並べるおさまりの良い場所があった。

眼の下に葬祭殿(mortuary temple)跡、其の先の参道はすこし右に逸れて550ヤードほど先が河岸神殿(valley temple・谷神殿)跡で其の左がスフィンクスとスフィンクス神殿跡それらも殆どが砂の下だ。 

「前足がよく見えないわね。大部分砂に埋まっているようだわ」
周りに大きな岩がごろごろしていてスフィンクスは積み上げたというより彫り出したように見えるが随分と風化が進んでいる。

周壁の間を抜けて第二ピラミッドを反時計回りに見て、南の小さなピラミッドの傍で一休みした。

「本当にこんな大きな石をどうやって積み上げたのか不思議だわね。ヘロドトスが間違いとはいえ大ピラミッドは10万人の労働者が20年間働いてつくった、クフという残忍なファラオの墓であると書いても仕方ないわね」
この当時でもピラミッドは農閑期の農民が働く場所だった事が調べだされていたのだ。

「ところで皆さんはピラミッドと言う言葉がギリシャ語だと言う事はご存知ですか」

「歴史でならいましたわ、確か古代エジプトではメルといわれていたのだとね」

「そうです。其処までご存知なら詳しくお話しても良いですか」

「あら、それは嬉しいわ」
クララはサーフィーがどのくらい知識があるかに興味がわいた。

「それでは先ず、第一ピラミッドですがクフ王の正式の名前はフーエフウィー、クヌム神は私を守護するです。でピラミッドにはアケト・クフという名前があります。化粧石や上部がないのは地震のせいもありますがカイロの街やシデタルを作るために剥がされてしまったそうです」

高さに底辺の長さなどを話して「第二ピラミッドはクフ王の息子、カフラー王、ハーエフラー、太陽神ラーは現れるです。ピラミッドはウル・ハーエフラーです」そして同じように高さに底辺長を教えた。
メモも見ないで説明できるのは相当のピラミッド好きなのだろうとアキコには思えるのだ、専門的なことに加えて見物に訪れる欧米人が喜びそうな話も交えているのはたいしたものだ。

「さてこの目の前の小さなほうと言っても高さは66.5メートル、底辺の長さが108.5メートル傾斜角度は51度あります。王名の正しい読み方はメンカーウラー、太陽神ラーのカーは永続するです。ピラミッドの名前はネチェリーメンカーウラーです」
そしてピラミッド名を翻訳して地平線のクフ、カフラーは偉大なり、メンカウラー王は神聖なりだと説明した。

「カーとはスピリットと約すそうです。このピラミッドにはほかと違い石棺に遺体が保存されていましたが、ロンドンへ運ぶ船が遭難して行方不明になりました。」

「まあ、そうなの。初めて聞いた話しよ。其れだとヘロドトスが書いた墓と言うのもあながち間違いとはいえないわね」
周壁にそって第三ピラミッドを回ると南側に王妃の物といわれる小さなピラミッドが三基並んでいる。

「此処から降っていきますか」
王妃のピラミッドから南は緩やかな降りで大回りしてスフィンクスへ行くほうが岩もなく駱駝に乗っていても楽なのだそうだ。

東の下側に見える木々の茂る新しい墓地への順路は砂地で、乗っていても揺れが少なくヒナははしゃいでいる。
スフィンクスは近くで見ると巨大だ「100人が手をつないでも周りを取り囲めないそうです」サーフィーは駱駝を降りて前足のところへ案内した。

「エジプトの古代スフィンクスは男性の顔をして作られましたが、ギリシャでは女性だそうです。古代エジプトも後期になると王妃や王女の顔の物が作られだしました。足の前が昔の神殿跡で私の左手側の小さいほうはアメンヘテプ二世が作らせたハウロン・ホルエムアヘト神殿ですが殆ど砂の中です」
スフィンクスも左足は砂をどかせてあるが右足のほうは砂の中に埋まっている。

「訪れる人が増えればこの砂をどかす費用も出るのですが、かき出すより早く埋もれてしまうのが現状なんです。さてスフィンクスですがアブ・ル・ハウルと呼ばれています。古代エジプトではトトメス4世によりホル・エム・アケトと呼ばれていたとも言われています、意味は地平線のホルスです。実はこの足の間にあるトトメス4世の銘文には余は汝の父、ホル・エム・アケト、へプリ・ラー・アトゥムなりと書かれているそうです。この名前の場合ヘプリ(ケプリ)とは朝日、ラーは日中の太陽、アトゥムは夕日をさすそうで、すべてラーの呼び名だそうです」

葬祭殿に河岸神殿も遺跡の研究の学者が来れば掘り出すがまたすぐ埋もれてしまうそうだ「ギザには財宝などなく1817年にベルツォーニによって発見されたセティ一世の墓のあるビバン・エル・ムルクに財宝もあるのだろうと注目が移っています」とサーフィーは残念そうだ。

「まあ、嬉しい私はカイロの次はルクソールなのよ。ビバン・エル・ムルクはぜひ訪ねてみるわね」
クララはビバン・エル・ムルク(王家の谷)の事も調べてきているようだ。
7年前に盗掘者から奪い返された財宝はカイロに運ばれたことなどもサーフィーが話してくれた。

11時30分になり急いで集合場所へ向かうと他の組も台地を降りてくるのが見えた。

清次郎にディから昼を一緒にという話しをすると、ヒシャームとリダーにサーフィーには20ピアストルずつを渡して「急に予定が変わったので君達は之でどこかで昼にしてくれたまえ1時30分に此処で会おう。馬車には3時30分に戻れば自由にしてよいと伝えてくれたまえ。彼らの昼飯代に」と10ピアストルずつ渡してくれるように頼んだ。

エリーとディに迎えられてホテルのレストランへ入るとフレッドにチャーリーがにこやかに迎えてくれた。

「やぁやぁ、皆さんようこそ。なんとなく懐かしい気がするがまだ5日も経っていないんだよな」

「ほんとですわね。知り合いの顔を見るとほっとしますわね」

「清次郎たちは前に聞いたがイスマイリアへは14日までに行くんだよな」

「ええそうです。明日、明後日とカイロ付近を回る予定です」

「おれ達は明日の船でルクソールまで行くんだよ。4日くらい向こうで見物して17日にカイロに戻るんだ」

「あら私はワゴンリーで12日の夜行でルクソールまで行きますの」
クララとエリーは情報を交換している。

「それなら向こうで会えるかもしれませんわね。ホテルは決まりましたの、わたし達は去年出来たソフィテルですわ」
クララもそこに予約を入れてあると答えて「日程的に向こうでご一緒に回れそうですわね。私は何日いるか決めていませが、ホテルは3日予約を取りましたのよ」と知り合いがルクソールに行くと言うので嬉しそうだ。

楽しく昼食を取ってまたそれぞれの組に分かれて見物に回ることになりゴードン夫妻とカートライト夫妻に別れを告げた。

「よい旅を」

「君達も無事な航海を」
清次郎は4時までに此処へ集合と一同に告げて散開させた。

駱駝ひきに35ピアストルにバクシーン5ピアストルで3時間の約束をしてクララたちはチケット売り場から左の道で台地に上がった。

台地の上は80度をゆうに超える暑さだ、化粧石の残る1段目の上にアル・マムーンが広げさせた穴と本来の切妻の穴が見える。

上がってみようかという話はすぐまとまり、熱を持っていると思った岩がひんやりしているのに驚きながら西側から登り、5段目にある下の入り口を覗いてみるとアキコが楽々と立って歩けるほどだ。
すぐに外に出て上の入り口へ向かった。

アキコたちはサーフィーが話しておいてくれた中は歩きにくい通路ばかりで、何もないという話しを信じて奥まで行く事も無いと決めたのだ。

「この入り口の中にはドイツの学者がプロシャの王のために刻んだ記念碑らしきものがあります。とんでもないことをプロシャの人はしたものです」
カルトゥーシュの上にプロシャの紋章の鷲が描かれていた「幾ら自国の君主を称えるためとはいえ之ではいたずら書きより酷いわね」とクララは憤っている。

下へ降りて東へ回ると葬祭殿の跡に続いて小さな三つのピラミッドが並んでいる「これはクフの王妃たちの物といわれています」とサーフィーが話した。
参道らしき跡は台地の先へ続いて人家のあたりで消えている。

「人家の下に河岸神殿が埋もれているのだろうという説と、地震で崖が崩れたのだろうという人が居ますがあのあたりはナイルが氾濫すると水が押し寄せてきますので」

「まぁ、こんなところまでですか」

「河岸神殿といわれるのはナイルから水路が続いていたそうですよ。カイロに戻ればピラミッド近くまで氾濫した水が来ている写真を買えますよ」

「お土産に買い入れたいわ」
ヒナは興味がわいたようだ。

第二ピラミッドの葬祭殿跡に残る巨石は砂から出ている部分だけでもアキコでも手が届かない大きさだ、ピラミッドも基礎部分は駱駝を降りて参道の上をたどりスフィンクスへ降りると砂に埋もれたスフィンクス神殿と砂を掻き出している河岸神殿の前に回りこんだ。

「不思議よね参道と言っても此処は南へ曲がっているし、右のピラミッドは右側へ、左のピラミッドは正面に延びているわ。わざわざ方向を変えた理由はなんなのかしら」

「其れこそピラミッドの不思議そのものですね。スフィンクスが先にあって其れを避けたと言う説もありますが、それなら此処から見てスフィンクスの右へ伸ばしてもよさそうですし。最近ですが第3ピラミッドの参道がこの河岸神殿へつながっているという人も現れたそうですよ」
砂が取り除かれて二つの入り口がはっきりとわかる「向こう側も砂を除けばピラミッドを其の先に望める参道も出てくるわけね」

「其の通りなんですが、中々進まないのですよ」
3時半になり急いで集合場所に向かうと他の組も台地を下りてくるのが見えた。

「之なら日が暮れる前に市内に入れますね」
サーフィーがそう言って明子の手を引いて馬車に乗せクララとヒナにも手を貸した。

カイロはこの10日前後は4時55分ごろが日の入り時刻だそうで明日から夕陽が徐々に延びてゆくそうだが朝は日が昇るのが其の分遅くなり一月は6時52分が日の出時刻だそうだ、4時前に出発してシェファードに付いた時カイロの街は夕闇に包まれだした。


11日の朝も喧騒のうちに始まった、といっても陽が昇る6時41分にはまだ時間もある空も暗い5時前だ。

ファジュルは日の出1時間半前から日の出10分前までに行う早朝の祈りで「エジプトに入ってから早起きになった」とクララが朝食の席で皆を笑わせた。

この日曜日の朝の横浜は雪にでもなるかというほど冷たい雨が降っていた、親子三人で東京へ7時30分発で出かける支度を済ませると馬車で駅へ向かった。

「運賃も随分と安くなったがもう一段と安くすると噂があるぜ」

「一円から八十銭に下がった上等が幾らくらいになるんです」

「大阪までつながればマイルあたり三銭の計算になるそうだ。新橋から横浜が四十八銭までさがるそうだぜ。横浜から藤沢までは四十五銭だそうだ」

「まあ、いやですよ。チャリネの曲芸でも下等で五十セントも取りますのに」
昨年、来濱して各地を回るチャリネの明治19年7月18日付毎日新聞の広告には下記のように出ていた。 

チャリネ氏大曲馬及び獣苑大展覧
興業は毎夜八時に開場にて九時より始まる。土曜日は午後三時に開場四時より始む
特別上等席椅子六脚付キ十三弗五十銭、上等椅子付キ二弗、中等椅子付キ後部一弗、下等五十銭 十年以下ノ小供は半料ノ事
明治19年1ドルは1円30銭前後の取引だ。

秋葉原での興行時は世界第一チヤリネ大曲馬大獣苑新狂言第四回目大変更広告として9月21日の時事新報に最上等四人桝金八円、上等一人椅子金一円、中等椅子金五十銭、下等金二十銭 十歳以下は半代價、但し最上等を除くと出ている。

そのチャリネの一行も今年明治20年4月末には長崎から天津へ向けて船出している。
九州に入った頃の入場料は二円、一円、五十銭、三十銭となっていて昼夜の興行に五六千人とも言われる大入りが続いて四日間で五千円以上の収入になったそうだ。

「そういえば今頃はシンガポールで興行している時分だな。其のあとセイロン島のコロンボへ向かうそうだ」

「では、明子たちの船がコロンボへつく頃でしょうかしら」

「正太郎からの手紙にはカルカッタの次はマドラスとなっていたから随分はなれているよ。コロンボへ寄港するとは書いてなかったな」

「でも貴方フランス郵船はコロンボへ寄港する事が多いですのに、如何してでしょうね」

了介も交えて新橋に着くまで正太郎からの手紙に書かれていた日程に寄ればこの日あたりにはピラミッド見物だろうと駱駝にスフィンクスの事を話した。
寅吉もヴェネツィアの事はよく知らないようだが、エジプトの事は興味もあり割合と知っているようだ。

品川あたりから雨は小降りとなり8時25分に新橋に着く頃には陽が射してきた、駅から出ると「旦那、旦那、今日はどちらまで御出ででござんすか」と声を掛けてきた車夫が居た。

「おう、お前さんか。丁度いいもう一台探してくれ、赤坂一ツ木まで行くんだ」

「がってんで」
前に西郷の邸宅まで乗りその後何度かこの男のリキシャに乗ったのだ、車夫はすぐひょろっとした若い男を連れてきて「こいつは前にお供した時に前引きや後押しをさせた男ですが自前のリキシャを手に入れましてね、奥様と坊ちゃんを乗せてくださいませんか」と寅吉に相談した、二人ともリキシャは一人乗りでも子供なら連れて乗れる余裕のあるものだ。

此の頃流行りは花街のお姉さんたちを送り迎えする小粋な小さな物が多く、駅でも其の手の人力車が増えてきている、自前の物を持たない車夫は借り入れ賃料五銭を払うか組合に雇われる者が多い。

「良いだろう。行き先は大岡様の豊川別院だ。田町の四丁目で一度停まってくれ」

「承知しやした」
二台のリキシャは愛宕下から葵町の海軍省までまっつぐと進み突き当たりで左へ曲がると鉄道局から田町に入った。

鉄道局は6ヶ月弱の間、太田資政が鉄道頭を勤めたほか工部省時代(明治4年8月)からこの明治20年の内閣直属の鉄道局長官、さらに内務省鉄道局長官時代まで井上勝が指揮を取っている。
海軍省も移動が多いが此処も又近々コンドルの設計がすめば霞ヶ関に新築で移動だ。

徳川の時代の軍艦教授所時代から明治2年の築地海軍操練所を経て築地と縁が多い海軍だが海軍省の建物は随分と移動している。

明治 7(1874)年10月京橋区築地四丁目(築地地内3回?)

明治16(1883)年12月 芝区芝公園地 (公園内2回?) 

明治19(1886)年 7月赤坂区溜池葵町一番地

明治24(1894)年には麹町区霞ヶ関二丁目(千代田区霞ヶ関)に移動した。

明治2年開設の築地海軍操練所は明治3年海軍兵学寮と改称、明治9年には海軍兵学校とさらに名前を替えた。

明治天皇が築地へ行幸した道をみゆきと読んでみゆき通りとされた。

海軍兵学校は明治21年に江田島に移り、築地には海軍大学校が開設された。

話しは飛ぶが秋山真之は明治19年大学予備門を辞めて此処築地の海軍兵学校に入学し、明治23年に17期主席で江田島海軍兵学校を卒業している。
明治29年に横須賀の海軍水雷術練習所に入るも海軍大学校へは入校していないが、明治35年に同校の戦術教官となっている。
余談だが真之には好古のほかに早世した長女種のほかに病弱の長男則久、養子に出た次男の岡正矣(まさなり寛二郎)四男の西原道一(善四郎)という兄がいる

中通りの田町四丁目の角で一度リキシャから降り、様変わりした家々から昔を思い出すように「前にも話したが此処に勝先生の氷解塾があって、俺と琴が先生の留守を預かる奥様と杉先生に助けられ、岩さんの紹介で神田の町へ住むことになったのさ」と昔のぼろ塾の事をなつかしむように話した。

リキシャへ戻り「豊川別院へ行ってくれと頼み中通りを進ませた、大岡家の邸内におまつりしていて妙厳寺が寄進を受けていたもの、今年になって此処へ新しく豊川の別院として建てられたものだ。

了介は寅吉が好んで買い入れる大岡裁きの読み物や講談、寄席の噺から名奉行として名高い人として名前を覚えたのだ。
めったに神田を離れないデコデコの文楽の音羽丹七を明子と色川亭に3日も通って聞いた事が懐かしく思い出すのだ。 

デコデコの文楽(四代目桂文楽)・ウィキペディアなどは天保9年(1838年12月26日)〜明治27(1894)年1月28日)とされているが本朝話人伝、野村無名庵著(昭和19年発行)によれば明治二十七年五月二十八日、五十七で没し、法号を桂真院宜説文楽居士となっている。
だが桂真院宜演文楽居士とウィキペディアと同じ法名が名墓録に載っていた、墓は谷中5丁目の観音寺にある。
大岡政談(音羽丹七)、居残り佐平治、雪の瀬川(松葉屋瀬川の後半)、本郷小町(祐天吉松の一部か?)などを得意とした。

普段は柳原堤で印判屋を開いているが、気が向けば立花の高座に上がる事もあり、色川亭に出たのも義理を果たしに出てきたと横浜の通人たちの間で評判だった。

厚木街道の表一丁目で左へ曲がれば右手に豊川別院の大屋根が見えてくる、此方から見える角に山門があり寅吉は車夫に一時間ほど待つように頼んで三人で石段を上がった。
山門の右手の坂道は九郎九坂(くろぐざか)別名鉄砲坂という下り坂で先は赤坂御用地で陛下が新宮殿の落成を待つ間の仮皇居だ。

本殿は大きな屋根を右手に見せているが石段の正面に小さなお札所が見え、其の右に参道を挟んで二つの大きな石灯籠がある、可愛げな石の狐の像が二匹参道を守護している。
お札所の奥の崖下は弾正坂、下で九郎九坂とぶつかる其の間の三角形の土地が豊川稲荷別院だ。

本殿脇で祈祷を頼み、階を上がると拝殿に控えて祈祷の準備が出来るのを待った。
30分ほどで階を降りると妙厳寺から稲荷を邸内に豊川稲荷社として祀ったという大岡越前の廟があり其処へも三人でおまいりした。

「大岡家の墓所は大名になった時の領地の三河ではなく、相州は藤沢の先小出村という奥まった丘陵に有るそうだ」 
小出村最寄りの茅ヶ崎村に駅ができるのは明治31年6月だ。

廟の右手には奥の院があり新しい境内に係わらず「豊川咤枳真天」と書かれた幟が数多く立っている、勿論何処へでも手をあわせる容に従って此処へも参詣した。
奥の院のさらに奥には三神殿として宇賀神王、太郎稲荷、徳七郎稲荷があり其処へも手を合わせた。

「貴方、たしか宇賀神といえば弁天様」

「そうかもしれんな宇迦御魂命と宇賀神王か、だいたい昔の人は大雑把に名前が似ていれば拝んでしまうから。坊さん達が霊験あらたかだといえば信じてしまうからな」

「太郎稲荷といえば立花様のお稲荷様かしら」

「そうだ上屋敷に下屋敷も稲荷は昔には随分と繁盛したようだが、徳七郎稲荷には思い当たる場所がないな」

「あちきもこのお名前は初でござんす」

山門から出て車夫を呼んで桐畑の岩附屋だと告げて乗りこんだ。
溜池は堀とでも言うほかなく埋め立てが進んで縮んでいる、日枝神社の境内へ入る渡し場の有った田町三丁目先に明治九年に架橋された日吉橋は橋銭が必要だ、桐畑から見ると明治8年から始まった埋め立ては大分進んでこのあたり田町六丁目だそうだ。

昼には早いと思った寅吉だが顔なじみの仲居がすぐ支度をすると言うので2階座敷へ三人で上がり車夫は入れ込みでうな丼をあてがった。

「貴方此処まで来たのに喜斎さんのお墓へも行きませんと」

「そうか寺は廃絶したが墓地はあるからよって見るか」

二代広重、鈴木立祥(森田鎮平)宝誉樹林信士は明治2年9月17日に43歳で亡くなった、グレゴリオ暦だと1869年10月21日だ。
赤坂一ツ木の清巌寺(清石寺)に葬られたが同寺が明治10年廃絶、明治40年区画整理により品川区桐ヶ谷墓地へ移されるが無縁塚に合葬されたらしい

一時間ほど飯が炊き上がるまで時間があるので寅吉は燗をさせた酒を容に断ってから了介に杯に2杯だけ飲ませた。
うな丼を堪能して勘定を済ませると車夫に「一ツ木に戻ってくれ、元清巌寺という寺の墓地だ。寺はなくなって近くの浄土寺が預かっているそうだが墓地はまだあるはずだ」と言って乗りこんだ。

容は自分の車を花など商う店で停まらせて花と線香を買い入れた。
威徳寺の北隣は元大岡越前の屋敷跡、南側の墓地に続くがけ下に柳亭種彦の墓があり、其の先に二代目の広重の小さな墓石がある。
寅吉がマッチを擦って容が置いた懐紙に火を移した、了介が線香を広げて振り、点いた火を小さくした、三人で墓を拝んで墓地を後にした。

新橋から蓬莱橋を渡り木挽町のピカルディ前で寅吉が一人二円さらに容が五十銭を出して与えたので車夫は何度も礼を言って店に入る三人を見送って戻っていった。
店には出たばかりの国民の友の11号が置かれていて容がパンを選んでいる間寅吉はぱらぱらとページをめくっていた。

「コタさんの旦那今日は何処まで御出でですか」

「おお今日はおっかさんに顔を見せて其のあと上野の博物館と動物園を回る予定さ」

「そういえば今朝御出でのお客様がご家族で昨日行ったそうですが。博物館は土曜日なら子供は一銭で入れるが日曜は二銭五厘もとるそうだと話しておりましたわ」

「ほい、そいつは気が付かなかった随分と差があるんだな。子供は半額だというから大人は今日だと五銭取られるのか」

「はい然様でございますよ。動物園も昨日は子供が半銭だったそうですが此方も日曜は一銭掛かるそうです」
エイダはおかしそうに笑いながら相づちを打っている。

寅吉は前に従道から聞いた狼が観たいのさと言いながら、今の了介ほどの子供のとき河馬が来たと言うので観に連れて行ったもらったのを思い出していた。
明治20年はまだ象も駱駝もいない上野動物園だ、花屋敷でさえ最近山本徳冶郎の経営に移ってから様々な陳列所に植物温室を作るようになったので、花屋敷に猛獣はまだ来ていない。

「浅草に造っていた富士山縦覧場は行かれませんの」

「開場したとは聞いたよ。大分人気が高いそうだ、お城はおろか富士に筑波山までが見渡せるそうだ」
先月開業した富士山縦覧場は大人五銭子供三銭で1日5000人から6000人が押しかけたそうだが22年9月11日の暴風雨で破損してしまった。
翌年2月から取り壊しが始まり、跡地に日本パノラマ館が23年5月に開業した。

カイロでは清次郎が今日の予定を話している。

「お昼までは同一行動、昼食の時私の予定に付き合う人と別行動をする人は申し出るようにしてください。ガイドによると新しく丘の上の要塞に作られたモスクは女性でもスカーフをかぶれば入れてくれるそうです」

9時に迎えの馬車が来てモカッタムの丘とモスク、丘を降りて博物館、一時頃一度出て昼食、観残しがあると思えばもう一度入館、其の後は夕方まで教会廻りだと説明した。

「明日からの予定ですが12日は馬車ごとの自由行動。2時30分ホテルに集合、夕刻5時発のクララを見送って6時のイスマイリアへ向かう列車に乗ります。イスマイリアには8時15分到着でホテルでは9時30分からの食事の予約が取れています。13日と14日は予備日ですので付近の散策や休養に当ててください。船は14日夕方到着ですのでホテルで7時に夕食、乗船は夜10時になります」

明子たちはメモを取って見せ合いながら如何するか話しあっている。

東京では連雀町で玄関先へ出てきたおつねさんの顔を見て、パンと横浜の土産をわたし、上野までむかった寅吉たちだが、動物園を出てコンドルの洋風の本館に比べて日本風の博物館の入り口近くで三人の前に現れたのは蓮杖さんだ。

「おい久しぶりだ」

「何だ蓮杖さんですか。つい先月ヘベさんと三人で飯を食ったばかりですぜ」

「なに、お前さんじゃなくてお容さんと了介だよ」

「其れもそうだな。珍しいところでお会いしますね」

「実は其のヘベさんが昨日亡くなってな」

「エッ本当ですかい。そいつは。確かわっちと一つ違いの四十六の筈ですぜ」

「天保十三年の生まれだそうだ」

「それで葬儀は」

「明日だ。今日俺は抜けられない約束があって公園まできたのだが、もう帰るがどこかで飯でも喰うか」

「良いでしょう。博物館は逃げやしませんから。しゃも鍋なぞどうですか」

「寒さが増してきたから良いだろう。玉鐵が蠣殻町に出した支店が評判だ」

「そいつは好都合だ、夜は其処へ行くつもりでしたよ。幸い其処に人力も四台いるからすぐ出かけますかね」
其の話しを聞いていた容がすぐに交渉して一台二十銭で約束した。

華族会館前に出た人力車は上野駅の線路に沿って南へ降りると広小路の馬車鉄道に沿って黒門町、末廣町と過ぎ京屋時計店の前で先頭の容が指図したのか先ごろ決定した荷物停車場予定地の先花房丁角を左へ入った、佐久間町河岸を抜けて佐久間橋を渡ると右へ曲がり和泉橋を渡った。

荷物停車場予定地は鎮火社が在りいつしか秋葉社と呼ばれていたが近々移転だ、火除け地はアキバッパラと呼ばれ、チャリネも此処で興行をうっている。
和泉橋のたもとの田中銀行は天下の糸平こと田中平八が渋沢喜作と立ち上げた銀行で平八がなくなった後も隆盛を誇っている。

岩本町を抜けて材木町先の甚兵衛橋を渡れば小伝馬町そのまま進んで高砂町の郵便局の交差点を右へ折れると玉鐵の店がある。
その前を突っ切れば堺町いわずと知れた芳町界隈で左へ曲がれば蛎殻町、観音堂の次の路地を右に折れると玉鐵支店だ。

鎌倉鉄の井(くろがねのい)は高さ五尺余りの鉄観音(くろがねかんのん)の首を掘り出したことから其の名が付けられた井戸で、扇ヶ谷に有った新清水寺(しんせいすいじ)に伝わる丈六の観音像の頭部が火事のあと行方不明だったもので、江戸時代に掘り出され、お堂が井戸の後方に造られ安置されたのだが、鉄観音堂が廃仏毀釈で取り壊されると明治六年深川御船蔵前に移され、再度蛎殻町へ明治九年に移されてきた。 

容は二十銭の車賃に五銭を別に渡して車をかえした。
逢う魔が時の近づく街は軒のランプもまだぼんやりとしている、玉鐵に入ると大時計は四時半を差している、顔馴染みになった仲居が出迎え一人が先導して二階の座敷へ案内した。

座敷女中二人に十銭ずつ与へ余分に肉が欲しいからと六人分のしゃも鍋を誂えた、暖かい部屋なのでビールを出させて「ご膳はあとでお頼みしますから」と頼んだ。

鳥すきの〆に四人分のご膳に玉子は三個取り寄せるとザクを足し入れ、割り下をたし溶いた玉子で閉じさせると玉子は半煮えくらいで寅吉は蓮杖に勧めた、レンゲですくい飯に掛けると「こいつはいいなまるで深川飯のようで幾らでもいけるぜ。鳥も煮込みすぎと思えない美味さで葱も甘みが増したぜ」と蓮杖さんはご機嫌だ。

「コタさんはいつもこんなことやらせているのかい」

「この店はおっかさんや小唄のお師匠さんのお気に入りでな、この前来た時におっかさんたちと特別に頼んでやったばかりさ。横浜の家では醤油味の時は深川飯も牛鍋の残りもこの玉子で閉じるのが定番さ」

「なんじゃ、浅蜊に蛤其れと牛までも玉子でとじてしまうのか」

「そういうことだよ。砂糖をたして甘くしてもいいもんだぜ」

「江戸前の悪いところは甘すぎるところだが、上方風は物足りねえしな」
部屋に入ってからずっとこの調子で、二十も年が離れている二人の会話とは思えないと了介は不思議な思いで聞いている。

「横浜の三奇人も嘉右衛門さんが残るだけで、浅草の奥山名物五人男も残るは蓮杖さんと椿岳さんの二人だけか、いや椿岳さんは処替えだから蓮杖さん一人か、さて奇人のもう一人の吟香さんは銀座名物男とでも言うのかな」

「コタさん其れはないぜ。それに三奇人も五人男も何で俺が入らないといけないんだ。俺はありきたりの普通人さ」

「折角の写真屋も流行っている盛に横浜から東京に移ると茶店に絵を飾ったり、浅草で開業するまもなくやめて覗きからくりなぞ見せてるかと思えば、人形を造って見せたりと誰が見ても聞いても変わり者に違いあるめえ。厩橋の裸の大人形も最初は蓮杖さんかと思ったぜ」

「違う違う。俺じゃねえよ、何度も言わせるなよ」
どうやらことあるごとに色っぽい人形を造る指図をしたのだろうとからかうようだ。

奥山名物五人男は山本笑月の明治世相百話によれば花屋敷の東側、道を挟んだ向かい側の蓮杖のほかには墨竹仙人(野馬一道)明治16年浅草に現れた当時104歳(102歳とも)、ヘベライこと北庭菟玖波(筑波)、淡島椿岳(淡島堂から明治十七年向島の弘福寺門前梵雲庵に移る)、植木屋六三郎方の羅雪谷(中国広州画人)。

菟玖波は蓮杖の隣住まいでその蓮杖が写真館を閉じた頃にはすでに写真館を開いている、浅草には蓮杖の弟子の江崎礼二も明治六年に奥山六十六佛堂北側(浅草公園五区、現在の浅草病院東端)に店を構えているし写真館は年を経るごとに大流行だ。

蓮杖は明治九年四月ごろ油絵茶屋に蓮杖描く台湾戦争・函館戦争の油絵。他画家の五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)義松親子、司馬江漢、高橋由一、横山松三郎、亀井兄弟、国沢新九郎)を開いて茶代を取って絵を鑑賞させたり(蓮杖の絵は薬屋守田宝丹の手に渡り、明治二十年四月上野不忍池弁天堂で公開されたあと所在不明となるが平成三年秋に靖国神社遊就館で見つかる)、御安見所コーヒー茶館とも言われる。
17年ごろ土細工で観音を拵え、自宅に安置して諸人の縦覧に供しているし、年代は不詳だが桐の大箱へ眼鏡(レンズ)をはめ込み西洋風景のクローム画を入れ万国のぞき眼鏡と称して家の前へ七、八個並べて観せていたそうだ。

淡島寒月は自分の父親の椿岳が万国一覧と称した覗きからくりを明治四年か五年に伝法院において一銭で見せてお茶を出したと書いている。あまりにもはやって忙しいのでやめたとも、其れと蓮杖の絵が靖国神社遊就館にあるともこの時すでに記述してある。

明治四十二年六月『趣味』第四巻第六号諸国の玩具。
明治四十五年四月新小説第17年第4巻寺内の奇人団。
共に青空文庫で読む事が出来る

「俺もいい年だが後寿命はどのくらいある。例の千里眼には見えるのか」

「そうさな嘉右衛門さんと同じくらいか。いや蓮杖さんは65歳か嘉右衛門さんが56歳。二人ともあと30年は少々無理かもな。俺は嘉右衛門さんくらいの年まで行くだろう」
寅吉は普段と違いそんなことまで喋っている、自分と年も同じくらいのヘベライさんが亡くなったと言うことで動揺したかのようだ。

「オイオイ90過ぎまで生きてしまうのかよ」

「元気な爺さんもいいもんだぜ。俺も精々其の気持ちでやるつもりだ」

キリスト教に改宗している蓮杖なので寅吉はあえて豊川別院へ寄った事は言わず、連雀町でおっかさんの顔を見て動物園で狼を見たこと、あの後博物館へ入るつもりだったと話した。

容が勘定を済ませる間に寅吉は自分の洋財布を蓮杖の懐へ滑り込ませて「之でヘべさんの葬儀に華を添えて呉れ」と頼んだ。
「陽も暮れて随分と肌寒いので気をつけて浅草へ戻ってくださいよ」と蓮杖を気遣う容は車を呼ぶ時にケットを余分に持ってくるように頼み、容は二円を車夫に渡し「浅草公園だよ。之は心づけも入っているからね」と蓮杖を送り出した。

其れを見ていたほかの車夫にも「一円で新橋までだよ。別に旦那様から祝儀が出るからゆったりとやっておくれな」と銀貨を渡し三台に分乗して親父橋を渡ってゆくように頼むと店の女将に送られて新葭町へ入った。
親父橋を渡れば安田銀行、すぐ先の荒布橋から魚市場を抜けて日本橋を渡れば後は鉄道馬車に沿って新橋まで道なりだ。
寅吉は駅でそれぞれに五十銭銀貨を渡すと車夫たちの顔がほころんだ、昼間の車夫に出した金額とは雲泥の差だ。

9時15分発に乗れるので11時までに家に戻れると容は了介の学校の事もあるので安心した様子だ、三人で上野の動物たちの事を話しながら容はすこし眠そうな了介を自分のケットの内に引き寄せて待合室に入った。


話は正太郎のパリから大分ときも過ぎました。
横浜幻想のアンテロープ編の1872年(明治5年)からだと12年後(第1回時点)の横浜です。
今回の話の中心は了介と明子になります。

2008年12月05日其の一あとがきより        阿井一矢

2011年02月01日
2011年02月05日
2011年02月13日
2011年02月19日
2011年03月11日
2011年08月03日
2011年11月06日 続く

幻想明治 第一部 
其の一 洋館
其の二 板新道
其の三 清住
其の四 汐汲坂
其の五 子之神社
其の六 日枝大神
其の七 酉の市
其の八 野毛山不動尊
其の九 元町薬師
其の十 横浜辯天
其の十一
其の十二 Mont Cenis
其の十三 San Michele
其の十四 Pyramid

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 横浜地図    横浜
万延元年1860年
   御開港横濱之全圖
慶応2年1866年
 
 横浜明細全図再版
慶応4年1868年
   新鐫横浜全図
明治3年1870年
   横浜弌覧之真景
明治4年1871年
 
 改正新刻横浜案内
明治5年1872年
   最新横浜市全図
大正2年1913年
   横浜真景一覧図絵
明治2471891
 


カズパパの測定日記