幻想明治 | ||
其の十四 | 明治20年 − 伍 | 阿井一矢 |
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根岸寅吉 (根岸虎太郎) 1911年 明治44年4月18日生まれ(天保14年1843年) 横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。 根岸 容 弘化5年1月5日(1848年2月9日)生まれ 江戸深川冬木町に生まれる。 根岸明子 明治元年12月10日生まれ(1869年1月22日) 久良岐郡野毛町三丁目に生まれる。 佐伯 琴 (根岸 幸) 1920年 大正9年9月9日生まれ(嘉永5年1852年) 横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。 根岸了介 1877年 明治10年11月7日生まれと届出 神奈川県久良岐郡横浜町末吉町5丁目54番地に生まれると届出。 (神奈川県第1大区4小区) (明治10年5月5日山手220番生まれ) 根岸光子 1885年 明治18年5月31日生まれ |
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明治20年(1887年)12月2日金曜日 ロンバルディがヴェネツィア湾へ出る頃には西へ陽が傾き寒さもまし通路の温度計は40度を指している、ラグーナには霧がたなびきヴェネツィアは其の中に消えていった。 船はリド島の沖合800mほどを南下している、丸い月が海の上に登りだしたのはマラモッコのサンタ・マリア・アッスンタ教会のカンパニーレが薄明かりの中に浮かんでいる5時10分だった。 ブリンディジには明後日4日の朝5時港外に到着、1組の明子たちは6時45分から朝食、8時水先案内が来て入港、夕刻4時の出航なので昼は街で食べる予定だと清次郎が一同に伝えた。 「生もの特に船旅の途中は生肉、生魚、生肉に近い料理は肉を問わず厳禁だ、其れと季節だといっても旅の途中では生の牡蠣に生の貝類も止めなさい。水もエジプトまではヴェネツィアで壜詰めを余分に買い入れておくこと、其の先の分はヤンチェへ積み込ませておくから、ホテルといえども水は壜入りを買うように」 清次郎は正太郎が誂えた腹下しの時の薬と虫下しを2種類、薬屋を開けるほど渡されていて「残れば京都のお琴様に分析してもらうように、というより一包みは届けてほしい。之が此方での成分表だ」と渡されタカは虫で苦しんだが小さすぎてよく覚えていないかもしれないからお前が責任者だぜと念を押されたのだ。 ブリンディジ(Brindisi)の街はアッピア街道の終着点だ、ローマ、ナポリを回る観光客も此処から乗り込む人も多いのでまだ船はすいている。 翌朝7時前、海が明るくなり、まもなく左舷前方のダルマチアの方向に朝日が昇ってきた、朝の食事の後デッキに上がったアキコとヒナは地図を持って話しをしている。 「そうかもしれないわね。家のハットは蓮杖さんから頂いた犬の子供なのよ」 「あの写真屋の」 「そう馬車屋を始めるのに馬の前を走らせるようにとドイツ商館から分けていただいた犬の仔が家へ来たステラというメスで其の仔がハットなの」 アキコは石川にある犬達の家で再会できるのはもうじきと思うと共にジョリーの吠え声が聞こえたような気がした。 「今ジョリーの吠え声が聞こえた気がしたわ」 「あら、貴方にも聞こえたのね。私もよ」 「グッドモーニング」 「あら、おはよう、貴方がたこの犬が怖くないの。皆さん逃げ出すので困っているの」 「よしよし、お前なんで吠えていたの」 「そう運動がしたいの。でも此処は船の上で走る事が出来ないの。すこし我慢してね」 「まぁ貴方犬の言葉がわかるの。よだれで服が汚れてしまうわよ」 アキコは首のスカーフを取って口の周りの涎と服についてしまったところを拭いて顎の下に敷いた。 「これで大丈夫ですわ。言葉がわかるという程でもありませんが。ニューフィーは二年ほど面倒を見ましたの」 「そう主人が先にエジプトへ行ってしまって、くる時に連れて来る様に言われたのだけど列車には客室へ連れて入るのは断られるし、ようやくこの船で同じ部屋で連れて行ける事になったけど、わたし達では押さえ切れないので困っていたの」 今朝まで大人しくしていたのはこの犬も夫人を好きなんだと明子には思えたが「それなら船長が許していただけるなら私の部屋で面倒を見てもよろしいですよ。其れが駄目でもマダムのお部屋で時間が許す限り面倒を見させていただきますわ」そう相談すると「助かるわ。私もケリーあら、このランドシーアの名前だけどね。ケリーと別の部屋になるのは困るので私の部屋へ来て頂けるかしら」と犬への愛情を示した。 「まぁ、こんなに大きな部屋があるのですね」 「此処は特別よ。普段は特別な品物のための倉庫に使われるそうなの。わたし達のために掃除をして犬を入れられるようにしてくださったのよ」 「私はアキコ・ネギシですわ」 「私はヒナ・ヨシカワです」 「私の事はロニー(Ronnie)と呼んでね。それであなた方はお友達になんて呼ばれるの」 「私はアキコで此方はヒナと呼ばれていますの」 「アキコとヒナね」 「そうです。ボストンではヴェロニカという友人はニッキーと呼ばれていましたわ」 「あなた方お国は。東洋のお方のようですが」 「ジャパンからきています。ボストンへ留学して其の帰りですわ」 「ジャパンのお方でしたの。綺麗な発音ですわ」 「子供の頃通った学校の先生はアメリカの方でしたからイギリスの言葉に親しんで長いのですわ。先生も綺麗な発音でした」 「其れはいい先生でしたわね。それでねヴェロニカは私のロニーや、あなた方の友人のニッキーのほかにもロン、ニカ、ベロニク、ヴェラなど愛称の多い名前の一つなのよ。あなた方の国では愛称で呼ばれる事はないのかしら」 「其れは名前特有の愛称ではありませんが子供の時の名前で呼ばれる方も居りますが、国の法律が出来て最近は子供の名前のままなので、長い名前の時に名前を詰める以外には特にそういう事がなくなりましたわ」 ケリーは七才だそうで50キロ近い身体は立ち上がれば明子の肩に手足が掛かりそうだ、用便の世話を夫人はいやだと思った事がなくこの犬が生まれる前は母犬の世話もしたそうだ。 「ただオランダに居た時は良かったけど、エジプトの夏は暑いのでかわいそうなのよ。でも主人はこの犬が好きで一緒に来てほしいと言うのよ。私に会いたいのかケリーに会いたいのか判らないわ」 アキコは夫人の話し相手に残り、ヒナはアキコのいる部屋をタカや清次郎たちに告げに戻っていった。 夫人は話し上手、聞き上手で明子の留学の苦労話、愉快な話、ボストンで知り合った友人達、留学仲間の進学先まで聞きだしていた。 「今のエジプトは一番良い季節だそうだけど本当かしら」 「パリへこられた方のお話ですと12月は65度くらいの日が続くそうですわ」 「まぁ、其れは嬉しい言葉だわ。朝は30度もないハーグからだんだん暖かくなるのでいい気分よ」 アキコはお茶をご馳走になり後でまた顔を出すと約束して自分の部屋へ戻った。 整頓された部屋は船を乗り換えるまで、余分な荷を解かないようにしたので着替えと下着のほかは山に積まれたリンゴや菓子と、分配された壜入りの水が箱に入って置かれている。 「タカが出してくれた分はどうするの」 「アリエルの分も含めておよその金額を書いて出してくれたことを書いて置くわ。ショウの出してくれた分と同じように報告だけはしないといけないでしょ」 「そうよねお礼の手紙を出していただくにも、その事を憶えているかいないかで随分違うかもしれないわ」 「随分残ってるのね」 「エジプトとコロンボで必要かもしれないしね」 「何か買うの」 「そうあの金貨の流通があそこあたりで今でも有るそうなの」 「ゼッキーノ
(Zecchino)ね」 「そうなの、ダカットとも言うけど、ヴェネツィア最後のドージェだったルドヴィーコ・マニンのゼッキーノがあるかもしれないの、表面にはドージェが聖マルコに跪いていて裏面はキリストが描かれているそうだけどドージェによって少しずつ違うようなのよ。ヴェネツィアでは探し回る時間がなかったけどアレクサンドリアかカイロの市場で見つかれば買うつもりなの。それで金貨があれば値切る事も可能かもしれないし」 「でもあまり持ち歩いてると狙われるわよ」 「そうね20リラと20フランを5枚ずつ位で後は細かいお金だけにするわ」 「それでも多すぎるわ」 「でも父さんだけでなく喜重郎の小父様にもお土産にしないと」 「そうか随分とボストンへ送り届けてくださったものね」 「そうなのよ。出帆前に横浜でお会いできなかった分余分に気を配って頂いたわ」 「そういえばあの大きなプレゼーピオは随分安く買えたのね」 「ほんと、ミシェルのおかげだわ。話しでは卸値で2000ほしいと言っていたのが1200リラで良いからジャッポネーゼに俺の事を自慢して呉れと言うのですもの嬉しい話よね」 「売り込む予定は何処」 「学校がまた移動したそうだから記念に小さいほうを一つ寄付するつもりなの。新しい学校で二人の帰国祝のパーティを開いても良いわ。其の時にホテル関係者を招待して之と同じものや大きいものがあると宣伝するつもりよ。ヴェネツィアの小売値は3000リラと吹っかけてみようかしら」 「そのくらいならハリエットなら許してくれるわね」 「ガードナー夫人の部屋へ行って来るわね」 「後で私も行くわ、リンゴをお土産にもって行きなさいよ」 「そうね五個持っていくわ」 夫人にリンゴを差し出すと嬉しそうにジュリアに皮をむかせてすぐにアキコと食べ、ケリーには皮が付いたまま与えるとジュリアにも「貴方も頂きなさいな」と勧めて食べさせた。 「朝とお昼は一緒の時間に為れなかったけど夕食は何時なの」 「わたし達は1組で7時からです」 「あら残念だわ。私のは2組よ、8時になっているの。ブリンディジの先はまだ時間割が来ないから一緒にさせていただきたいけどいいかしら」 「ええ、わたし達も人数が多いので幾つかのテーブルに別れてしまうのでロニーが入ってくだされば友人も喜びますわ」 「では今晩船長に直談判してみるわね」 「ロニー、朝8時にアンコーナの沖合を通り過ぎたそうですわ。其処からブリンディジまで260海里ほどだそうです」 「其れって何マイルくらいなの」 「貴方も私の事はロニーと呼んでね」 「はいロニー、其れで今3時ですが沖合35海里、41マイルあたりを進んでいるようです」 「あらどうして陸に近いところを進まないの」 「航海士の話ですと夜中に大きな半島を掠めるので、其のあたりまで沖合に出たほうが時間も短縮できるそうです」 ブリンディジで街を散歩して昼をレストランで食べる話しをするとロニーは参加しても良いかと聞いたので清次郎とタカに相談してみてからだが、私達が賛成すれば多分大丈夫だろうとヨシカが請け負った。 「そういえばブリンディジの守護聖人は元のヴェネツィアの守護聖人と同じ聖テオドーロだそうですわ。私は同じような伝説のあるゲオルギウスと区別が付かなくて困りましたの」 「そうでしょ私もよゲオルギウスが龍退治でテオドロスが蛇退治ですもの」 「あらセオドアは鰐ではないのですか、サン・マルコのテオドーロは鰐を退治したと聞きましたわ」 ヨシカとロニーは自分たちがならった聖テオドロスの退治したのが本当はドラゴンで聖ゲオルギウスと区別するために変えられて、話しが混乱したのだろうかと議論を楽しんでいる。 トルコに残る壁画には馬に乗って蛇(ドラゴン)を退治する聖ゲオルギオス(サン・ジョルジョ、ジョージ)と聖テオドロス(サン・テオドーロ、セオドア)が共に描かれているので混乱は昔からのようだ。 「其れにね聖セオドアはあまりにも多くの人がいて区別が付かないのよ」 「えっ、そうなんですか」 「話しをしていて思い出したの。龍退治の伝説の人といわれているのはね、ハーグで図版を見たのですけどアメッサとストラテラテスの聖セオドアだそうなの。二人は双子みたいに似て描かれているのよ。二人を一緒に描いたフラスコ画もあるのよ」 其の間アキコはケリーの毛並みをジュリアから借りたブラシで楽しそうに整えている、 其の夜は雨の中での航海で4日の夜明け前は風雨が強くブリンディジ港外についた5時に雨は止んでもまだ波が高く接岸が危ぶまれる状態だ、6時近くの薄明かりの中を港から出てきたのは大きな戦艦と細身の3本マストの小型軍艦二隻だ。 アキコが風の様子を見に揺れるデッキに出ると眼の前を横切る様子は、全長はロンバルディとあまり替わらぬ110mほどだが其の重厚な構造は中央に高いマストがあり前後に煙突が備えてある、船尾には赤地に白十字の旗がはためいている。 その船員に「あの船をご存知ですか」と聞くとカイオ・ドゥイリオ(Caio Duilio)で11000トンほどだそうで中央マストの後部の主砲は中心より左舷によっていて、マスト前部の主砲は中心線上に置かれていると教えてくれた。 「其れだと重みが左舷に偏りませんの」 「右舷には魚雷の発射管が備えられているのでつりあいは取れるのですよ。前装45センチ砲で大砲一門の重さが102トンもあるそうですよ。シニョーラは軍艦に興味がありますか」 「ええ船は好きですわ」 「あの船の名前は古代ローマの軍人でカルタゴとの海戦に勝利したガイウス・ドゥイリウス(Gaius Duilius)から頂いたそうですよ。最大速力は15ノットですが、10ノットで3700海里ほど走れるそうです。ジブラルタル海峡をご存知ですか」 「はいスペインとモロッコの間ですね」 「そうです。其処とアレクサンドリアを無寄港で往復できるそうです」 夜明けが始まり波も収まりだし、船の揺れも少なく6時40分に1組の食事の合図の鐘が鳴らされアキコはお礼を言ってメスルームに向かった。 ヨシカとタマの二人は昨晩からの揺れで船酔い気味だとスープとコーヒーだけにした。 「アキコ上陸の前に私のほうへ来てね仕度をして待っているわ」 上陸の支度をしてデッキに出たアキコとヒナは三隻の水先案内の船が来るのを見ていた。 「何時ロニーの部屋へ行く」 「接岸するまで湾に入っても時間があるから其のあたりで良いかも」 「ふぅ〜ん。アキコは船出と接岸の様子が好きね」 「そうね。港にゆっくりと近づいて行く時や出て行くのに興奮するのは確かね」 ヒナに促されてロニーの部屋へ迎えに行くと「待ちかねたわ。忘れられたかと心配してしまったわ」とケリーとジュリアに留守番を頼んで三人でデッキへ上がった。 この時代国によって舵を取るのに呼び方に違いがありアメリカのライト、レフトは船首に対して進行方向であるのに、左舷を現すポートが実際には右へ船首を向けるイギリスとは船員の交流が難しかった。 帆船は右側の桟橋へ誘導されロンバルディはさらに奥の岸壁に進んでいった。 「どうして向こうの船は出港しやすいように旋回しないのかしら」 「此処が最終寄港地か今日は出港しないかのどちらかじゃないかしら」 水夫がロープを岸壁に放りキャプスタンがまかれて接岸が完了してタラップの取り付けが始まった。 「3時までに戻ってください。4時出航に間に合わないと自力で泳いでいくことになるか、沖に出るまでに追いつける船を雇うことに為りますよ。時計を合わせてください、いまは9時15分です」 清次郎とロニーが代表して1枚ずつ貰い受けた。 「ブオン・ジョルノ。ムッシュー・マエダですか」 「ブオン・ジョルノ。そうです。君がムッシュー・フォンタナですか」 「そうです。ディーノ・フォンタナといいます。ディーノと呼んでください」 「よろしく頼むね、ディーノ」 清次郎はヴェネツィアで買い求めた地図に印を付けたコロンネ・ロマーナとドォウモにレストランの名前を見せ「この2ヶ所を回ってレストランで昼を食べて戻りたいが5時間で回れるだろうか」と聞いた。 時刻は9時30分になっていて余裕を持って3時に戻るにはもう少し早いほうがよさそうだ。 「充分時間に余裕がありますよ。12時にレストランに入れば2時間は大丈夫ですね。遅くも2時半には戻れますよ。もっともドォウモを一時間くらいで出られるならですが」 「ではそういう事で頼むよ。料金だが基本一人目7リラ、後二人目から2リラで良かったかい」 「そうです。エーと13人ですから2かける12は24リラ。プラス7で31リラですね」 「エッ13人もいないだろ」 9人と思っていたが4人余分にいるのはどうしてだと思って「アキコ、其の人たちは」と聞くと「案内人は英語がよく判らないので此方に混ぜてくれと頼まれているんだけど」とアメリカの言葉で清次郎に説明した。 「判りましたでは其の人たちから一人2リラの案内料でいいか聞いてください。基本料金はどうせ此方で出すので持ちますから」 清次郎が其れを足して5リラ銀貨9枚、45リラを渡して「チップも先払いで之だけ受け取ってくれたまえ。それからレストランは君の分も持つから先ほどよりいいレストランを知っているなら其処でも良いよ」とディーノがコンミッスィオーネになるならと思いそう伝えた。 「この人数ですから先ほどの地図の店のほうが良いですよ。1時前なら込み合うこともないでしょうが」 4人はアキコに付きまとうように大人数の一番最後を歩いている。 幅は15メートルくらいで右は城壁の名残らしき壁があり、岸辺から五十段ほどの階段を上がった先にコロンネ・ロマーナ(Colonne Romane)が見える。 下から見ると一本の大きな柱が聳え立っていて「元は20mの柱が二本ともたっていましたが1528年に1本が倒壊しました。此処から観るとあの見張り所の後ろに隠れて台座だけが残っています。倒れた柱はレッチェの町に寄贈されました。此処がアッピア街道の最南端です」と階段を2段ほど先に登ると振り返って説明した。 Appiaの名はこの道路を敷設した元老院議員アッピウス・クラウディウス・カエクス(Appius Claudius Caecus)に由来する、初期はナポリ北部のカプアまでであったが次第に延長されて此処ブリンディジに到達したのは紀元前190年のことだ。 「忘れらていたこの街道がピウス六世の命により修復されさらに1784年に旧道に平行して新しく敷設されてこの街道の重要性が見直されました」 「この海岸通がそうかしら」 「いえ今私達が来た道は途中からですがヴィアーレ・レジーナ・マルガリータで、私の右手方向にある道がヴィア・コロンネと言ってローマまでのヴィア・アッピアにつながっています」 「あの花壇のある道ですか」 「其の手前こちら側です。そういえば説明しませんでしたが道は建物に隠れて間にある路地を抜けるようになってしまったんです。向こうへ抜ければいくらかは広いのですが海から見ると道とは思えないのですよ。街道として忘れられていた間に家が立ちふさがったようです」 21世紀の今はこの階段は広がり、海から隠れていた折れた柱の基部が見えるようになっている。 ヴィア・コロンネへはコロンネ・ロマーナの裏側から降りる道があり其処から坂道を上るとピアッツア・ドゥオモへ出る、道の左手にある小さな空間に大きな円柱が建ちドゥオモ(Cattedrale di Brindisi)のファサードの上には十字架を間に挟み4人の聖人、円柱の右手に小さな入り口があり奥へ通り抜けられるようで上はカンパニーレ、ドォウモの正面には二人の聖人がたちその先に大きな重い木製ドアの出入り口がありさらに二人の聖人が立っているが一人は広場からだと隠れて見えない。 一同は中へ導かれてディーノの勧めで灯火の醵金箱に一人1リラを投じることにしそれぞれが醵金した。 「ドォウモは1143年に献堂式が行われて以来たびたび修復されて来ましたが、このブリンディジは1734年に地震に襲われてこのドォウモも損傷しましたが、無事修復されて現在に至ります」そして「床のモザイクは完成当時のままだそうでして、聖歌隊の席などは300年前に新しくされています」 聖歌隊の壇にもテオドロスが彫刻されていて、もう一面はサン・レウチョ(san Leucio)が彫られている。 「此方はアレクサンドリアのサン・レウチョといわれています」 5分ほど西へ歩くと、突き当たりで右へ曲がるとすぐ左へ道をとった、狭い道でも馬車が通る道から出たここには、ヴィア・マドンナ・デッラ・ヌォーヴォと標識が出ている。 「なあアキコ。このまま何処へ連れて行くんだろうな。聞いてくれないか」 「良いわよ。フレッド」 「駅へ行く道ですよ。でも此処を通るといいものが観られるんですよ」 「フゥン、それじゃ期待して歩きますわ」 「駅など見ても詰まらんよ。良いものったってどうせ古い石垣かなんかだろ。ローマで見飽きたぜ早く飯にしようぜ」 「もうフレッドわぁ、エジプトまで行って見る予定のピラミッドだって昔の石積みの遺跡よ。周りは砂漠で、あるのは崩れた遺跡と石の柱だそうよ。ギリシャもそういう場所しかないわ、綺麗なパリから来れば何処もかしこも崩れた競技場に劇場ばかりよ」 「それでもとてつもなくでかいそうじゃないか、其れとスフインクスがあるんだろ」 「ナポレオンが砲兵の練習の標的にしたので顔がめちゃくちゃだそうよ」 「ふん、あいつは英雄だそうだが酷い奴だと言う話じゃないか」 馬車が潜れる大きな門と人が通れる程度の幅の門の跡だ。 「やっぱりな。駅に金を掛ける前にこいつを修復すりゃ良いじゃないか」 「こいつは良いや。古いものと新しいものが入り組んでいるぜ。なぁチャリー」 「まったくイタリア人と来たひにゃ。呆れたもんだ。こいつを残すなら家を離して公園にでもすれば見物も落ち着いてできるというものだぜ」 此方がそんなことをアキコに話しているとも知らずディーノは得意げに「此処はブリンディジの旧市街への入り口で重要な場所なんですよ。ポルタ・メザーニェ(Porta Mesagne)といいます」と説明している。 大きな馬車から果物や野菜を降ろして小さな手押し車に積んでいる人たちがいる、市場で買い入れてきたものを此処で別けて小売に行くのだろうか、賑やかに話しながら品定めをしている。 アーティチョークを手にかざして見ながらより分けていて、カルチョーフィと言う言葉が聞こえる「あらクレメンテはアーティチョークの事をアルティチョコと言ってけど」と思いディーノに聞いて見た。 「普通はカルチョーフィ(carciofo)ですね」 「ではヴェネツィアの方言かしら、この時期には珍しいでしょと言って笑っていたけど此処からきていたのかしら」 「そうかもしれませんよ。北のほうはともかく10月11月其れと2月から4月頃が食べごろですが12月に1月だってこのあたりはよく出回りますよ。昼にサンドウィッチにトンノと挟んで食べますか」 「トンノって言うとトンのことかしら」 「そうです」 「そうね其れとチーズとハムをたっぷり頂きたいわ」 「そうかそいつをディーノに話して置いてくれ」 ディーノに其れを伝えながら、ロニーと三人で果物の屋台の青年のところへ行って梨とリンゴを買い入れてもらった。 アキコは何時ものザックから布袋を取り出して其れに半分ほどを入れてもらったが4リラだという安さに驚いた、ヴェネツィアの半分の値段だ。 清次郎を呼んで安いけど他の人はほしいかしらと聞くと皆が寄ってきて「どれにしようか」と栗にも興味を持っている、周りの果物屋も大騒ぎで安くするから買いなさいと騒いでいる。 「桃が有るけど今頃食べられとは信じられないわ」 「胡桃も有るけどこのまま食べられるのかしら」 ディーノも其れを聞くのに大忙しだ、入れるものがないからとディーノに言わせると呼ばれて来たのは袋を売る老人で手提げになるように紐が通してあり10枚で5リラだというので「高いわ」とアキコが言うとおばさんたちは半分自分たちが持つからさっきと同じ値段の果物を買えと言い出したのでディーノは袋を持たせて4リラまでの果物を入れてもらう手伝いを始めた。 タロッコというシチリア産のオレンジは美味しいから食べてみろと皮をむいて試食させてくれ其れも幾つか袋に入れてもらった。 一同に後で清算してもらうからと清次郎がおばさんたちに5リラ銀貨を渡して1リラか20ソルドのつり銭を受け取り袋屋には其処から2リラと10ソルドを渡した。 「そうするとわしは一人幾らもらえるんだい」 老人は勘定を済ませたおばさんたちから金をもらって回った。 1枚袋が余っているので清次郎はレモンとオレンジを袋に一杯買い入れたが6リラで良いというので大喜びだ「ニューヨークじゃオレンジ10個で2ドルは取られますよ」と同じようにオレンジを買い入れたカートライト夫人に話している。 ロニーの袋はディーノが持ちますと言って肩から提げて200mほど南へ行くと大きな十字路に出た、右はスタジオーネ・ディ・ブリンディジ(Stazione di Brindisi)まだ新しいらしくて綺麗だ。 「此処まで線路がひかれたのは1864年で僕が生まれた年です」 「駅舎は線路がひかれたときはまだなくて乗客は木で組まれた台で乗り降りしていたそうです。駅舎が完成したのは僕もよく覚えています。花火が上がって賑やかでした、あれは1870年でした」 12時10分「丁度いい時間ですね」と後ろを振り返りあそこに見えるピアッツァ・カイローリの左ですと告げて歩き出した。 ちょっと待っていてください席があるか確かめますと中へ「ブオン・ジョルノ」と声を掛けて入るとすぐに出てきて「どうぞお入りください」と白い前掛けのカメリエーレと一緒に出てきた。 「なあ、セイジロウ。此処は俺たちに奢らせてくれ、さっきチャーリーとも話し合って決めたんだ、俺たちの顔を立ててくれ」 「其れでしたら先ほどの果物は僕のプレゼントで良いですよね」 「うん、そう来たか」 サンドウィッチにパルマハムに地元産だというペコリーノ、サラダに掛かるドレッシングはマスタードに酢が入っているようだ。 「こいつはいい味だ。ヴォーノと言う言葉が自然に出るぜ」 14人で食べて飲んで12杯の食後のコーヒーを入れても68リラだった、二人のアメリカ人は鷹揚に40リラずつを出して残りはチップだと伝えてくれとディーノに支払いを頼んだ。 明子の耳元で「之だけヴェネツィアで飲んで食べれば120リラじゃきかない筈だぜ」とチャーリーが囁き、フレッドも「俺の田舎でもこんなに安くすまないよ」ともう一方の耳に囁いて二人で笑い出した。 「船まで遠いなら馬車にするかい」 「700mくらいで降りなので楽ですよ」 「チャオ・ベッラ」 十字路で立ち止まりディーノが今どこら辺りにいて何処へ向かうかを説明していると行き止まりに見えた道からロバに引かせた荷車が出てきたので先につながっているのがわかった。 其処からヴィア・マーリエ(Via
Maglia)と名が変わり直角に左へ曲がっているとディーノが話しながら其方へ向かわずに十字路を左へ入った。 ポルタ・レッチェという通りへ出ると左には橋が道の上に掛かり其処を馬車がとおるのが見えた、右は城壁でその下を通り抜けるとヴィア・デル・マーレという城壁に続く公園の通りだ。 右手眼下に港が見え岸壁のロンバルディでは荷物の積み込みが忙しく行われている。 船を200mほど通り過ぎると下へ降りる道が現れ、午前中に通ったヴィア・レジーナ・ジョバンニ・ブルガリアへ出て右手の船に向かった。 船の前には朝はなかった物売りの屋台が並んでいる、時間は2時25分余裕をもっての町歩きと昼食だった。 「焼き栗の匂いがするわね」 ディーノに礼を言って一同はお別れの握手をして物売りの屋台の列を抜け、タラップの下で「お帰りなさい」と二等航海士のエバンスがノートと照らし合わせ、デッキでは司厨長ミスター・ポートマンと船長のミスター・グッドマンも出迎えてくれて一同は部屋へ戻った。 明子は部屋でスケッチブックを開き、今日回った場所のラフを画いておいた。 |
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客室係が名簿の点検と食事、シャワーの時間割を配って歩いている、明子は今までと同じ1組でヒナとシャワーは明日の3時から30分と指定されている。 「ギル、貴方は何部屋受け持っているの」 「僕は一等船室専門なので5部屋だけです」 「之だとアレクサンドリアへ上陸する前にあと1回しかシャワーが使えないじゃないの」 「しかたありませんよ。毎日使えるだけの水は無いのですからね。アレクサンドリアまで無寄港なんですから」 「5日だけじゃ上陸の時に困るわ、せめて身体を拭くお湯がほしいわ」 「それなら、内緒で7日の朝早くにバケツでお湯を届けますよ。朝食の前の6時に」 「約束よ、バケツ1杯1リラ出してあげるわ」 「それなら二人分で2杯くすねてきますよ。ボイラー室のハイッマンに頼んで綺麗な熱々のお湯をね。彼アキコの事がお気に入りだから融通して呉れますよ」 「私ハイッマンという人知らないわよ」 「お昼が一緒だったんですが彼、好きな船のことを質問されて有頂天でしたよ」 「ああ、あの軍艦の事を教えてくれた人」 「之でお湯の事は大丈夫ね。髪はホテルで洗えばいいし」 出航の前の鐘が鳴っているのが聞こえる、全ての乗客の確認が終わったようだ、アキコはロニーに出航の様子を見てまた戻ると断ってデッキへ上がった。 「レッコー」 馬車が勢いよく露店の店の裏側を入ってくると馭者が何事か叫んでいる。 「どうしたのかしら」 「事務長のスタンフォードです。ようこそロンバルディへ」 「ミス・クレイトンです。よろしくお願いしますわ。ミスター・スタンフォード」 「とても劇的な登場でしたわ。観客がもっと多ければ良かったですわね」 タラップが取り外され機関の音が響き、黒煙が勢いよく上がると汽笛が鳴らされてロンバルディは岸壁を離れて水先案内の船の後に続いて港外へ向かった。 「すばらしいわ私の時計は4時30秒の離岸よ」 「もうアキコは何処が面白いと言うの」 「為れる物なら航海士になって船の針路を決めてみたいわ」 今朝と違い夕方のアドリア海は穏やかでまだオスマン帝国の支配から抜け出られないアルバニアの方向へ舳先を向けてイオニア海へ向かって出て行った。 ロニーも1組の食事になり7時の夕食時に同じテーブルに着いた。 「朝にはギリシャ沿岸ね」 「其れは陸の上では何マイルになるの」 「ギル、180海里はほぼ207マイルよ」 「エッそうなんですか。どうも陸の上の事は良くわからないので聞かれても答えるのに航海士のミスター・フィリップスやミスター・エバンスに確かめてから答えているんです」 「イギリスの1海里はマイルに換算するときは1.15を掛けるのよ。大体それで済む計算よ」 「フランス人にはどう説明すればいいかご存知ですか」 「1.852を掛けてキロメートルと言うのよ」 「わぁ、そいつは大変だ。ジョージに計算を出してもらうほうが楽そうですね」 「アメリカとも違うのでしょうかね」 現在21世紀は1929年に定められた国際海里1852メートルが世界中で使われているがイギリスは1970年まで独自の新旧の英海里を使用していた。
5日の朝も穏やかなイオニア海に陽が上り、朝食の後ケリーを連れたジュリアの後からロニーと一緒にデッキに出た。 「エーゲ海はとても綺麗なところだそうなので一度は出かけて見たいわね」 部屋に戻ると夕刻にはギリシャ沿岸から離れメデテレニアンシーの真っ只中に船は居るとギルが教えに来た。 「なぁんだ。クレタ島にはあまり近づかないじゃないの」 この時代クレタ島はオスマン帝国の支配下でギリシャとの併合を望む住民との軋轢は高まりつつ有ったしガヴドス島(Gondzo)は最盛期8000人ほどいた住民は500人程度に激減している。 6日夜明け前そのガウドス島の山頂の灯台の灯りが左舷の明子たちの部屋から見えている。 午後1時雨が15分ほど強く降ったがその後は西の風に押されるように順調な航海となり、船からは大型の魚が海面すれすれを泳ぐ様子も見えて退屈する事も無く、暖かい午後となった。 「ねえヨシカ、ボストンではファーレンハイト度で別段不便でもなかったけど横浜の街に戻ればパリの様にセルシウス度になるんでしょ。換算率はどうなるの」 「大丈夫よ。街には両方の目盛りの温度計も出ているそうよ。兄が手紙に書いてきていたもの。政府がフランス式を採用したと言っても横浜を出る時の新聞はファーレンハイト度の華氏で乗せていたでしょ」 「こりゃ換算するのも難しいわ。其れで今日の温度はフランス式では何度なのヴェネツィアの最後の朝は4度だったわ」 「68マイナス32は36よ、5倍すると180ね9で割るから20度になるわね。摂氏4度はほぼ39度かな」 「カイロに着けばもっと暖かくなるのかしら」 食事時間が違いミス・クレイトンとはすれ違う時の挨拶程度の一同だったが午後のお茶の時間に珍しくミス・クレイトンが現れヨシカに話しかけてヴェネツィアやパリの事を話題に乗せた。 出発はニューヨークでロンドンからパリそしてマルセイユから船でナポリ、トリエステと周遊してウィーンを回ってミラノに出て其処からエジプトへ行くのに、この船が一番早いと言うので急遽ヴェネツィアへ向かったが、今日出たばかりと聞かされ2日掛けてブリンディジまで追いかけてきたと自分の旅行談も話してくれた。 「ニューヨークを出たのは7月の5日よ、まだエジプトから先の行く先は決めていないの、一年掛けてあちらこちらと回る予定だけどロシアは雪に埋もれているそうだから後回しにしたのよ」 「そういえば船に乗る時に見かけた背の高い人はいないわね。貴方たちのお仲間と聞いたのだけど」 「アキコとヒナはきっとロニーの部屋でケリーと遊んでいますわ」 「ケリーってあの大きな犬ね。私も其の犬とお友達になれるかしら」 「お話しはフレッドやエリーから聞かされていますわ。ミセス・ガードナー」 「あらまぁ、お二人とはブリンディジ以来すれ違う時の挨拶くらいですの。狭い船でも時間割が違うせいなのよ。私の事はロニーと呼んでね」 「ええロニー。私もクララと呼ばれるほうが嬉しいですわ。其方がケリーですね」 明子の隣に座って「貴方がアキコね。そうすると其方がヒナね」と二人とも握手をしてケリーには手を広げてなめさせた。 夕食時に時計を一時間進め、すでにブリンディジを出て615海里を超え、18時間後の明日7日14時にはアレクサンドリアに到着と事務長のハリー・スタンフォードが1組の乗客に説明した。 「残りは220海里ほどになります。今度の航海では876海里69時間と一等航海士のミスター・フィリップスが計算を出して居ります。アレクサンドリアはこの時期たまにスコールがありますが、気温は60度前後の過ごしやすい日が続きます」 |
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7日、朝の食事の時ミスター・スタンフォードはエジプトでの先月の通貨交換レートを書いた紙を張り出した上で読み上げてくれた。 其れによると町での通貨は金貨はほぼ何処の国のものでも通用するそうで、エジプトピアストルは100ピアストル1ポンドで正式レートは19シリングだと教えた。 「高額の手数料を請求するものも多いので市場での換金は要注意です。町へ出てすぐ困る人も居るといけませんのでお一人100ピアストルまでの交換は事務室で朝10時から行いますが100ピアストル1ポンドですのでご承知置きください。其れとホテルの予約が必要な方は船を降りるとわが社の社員が居りますので其方へお申し付けください」 さらに1ポンドは17フラン33サンチームでイタリアリラはそれに準じていると話した。 「大体5円で1ポンドのようね」 日本で言うアレキザンドリイと言う町の呼び方もアレクサンドリアに慣れてきたし、現地ではアル・イスカンダレーヤだとギルが教えてくれた。 朝から荷物を詰め込んで冬の旅行服から春服に着替え、念のためモントーは持って出る事にした。 水の空瓶がほしいと言うので他の人たちの分ももらってあげると、嬉しそうにチップをもらうよりお金になりますと仲間4人と嬉しそうに言うので、二等に三等の客室係や食堂のボーイ全てにわたるようにタカと清次郎はミスター・スタンフォードにリラの残りを集めて其の中から30リラを渡して分配を頼んだ。 「サンキューセイジロー。彼らに必ず平均して渡しますよ」 カイロ時間11時から接岸準備のための早めの昼食がおわり12時にデッキへ出ると陸地が見えてきた、殆どの人がデッキに出ているのは興奮と朝食との間の時間が短いため軽く済ませたようだ。 右舷の船端で双眼鏡を覗くアキコに「あれがエジプトね。アレクサンドリアにはクレオパトラの子孫は今でも居るのかしら」とヒナは言い出した。 「1900年も前の人よ、居るにしても本当かどうか妖しいものよ」 シェークスピアの劇でしか知らなかった一堂もアレクサンドリアの歴史の一端を知る事になった。 クレオパトラがアントニウスともうけていた三人の子供たちアレクサンドロス・ヘリオス(二男)クレオパトラ・セレネ(長女)プトレマイオス・フィラデルフォス(三男)は、オクタヴィアヌスの姉にしてアントニウスの前妻であるオクタウィアに預けられて養育され、成人したセレネはヌミディア王ユバの遺児でユバ二世の妃になり、マウレタニアに移り住んだ。 「シーザーとの子供はどうなったの」 「クレオパトラが亡くなった後オクタビアヌスに捉えられて、殺されてしまったわ」 「皆さんの後ろ側に要塞があるでしょ。あの場所に昔は大きな灯台が有って30マイルも先まで光が届いたそうよ、14世紀に大地震が2度も有って完全に崩壊したそうなの。アレクサンドリアには其のほかにも世界一の図書館も有ったそうだけど1500年以上も前に崩壊したそうよ」 「クララ。モウレタニアと言うのはどの当たりに有ったの」 「ヨシカはアフリカの地図を見た事がある」 「あります」 「今の西アルジェリア、北モロッコだと思えば間違いないわね。プトレマイオスがローマで暗殺された後内乱が起こって其れにつけ込まれてクラウディウス帝はこの地を二分して、東部のマウレタニア・カエサレンシス(Mauretania Caesarensis)と西部のマウレタニア・ティンギタナ(Mauretania Tingitana)の二つの属州とされたのよ」 ロニーは部屋へ戻りケリーを連れて船尾に出てきた、最後に一緒に下りてくださるか箱に閉じ込めて吊り下げるかと聴かれ、最後に降りることにしたのだ。 「ケリー之でお別れね」 明子たちが乗るヤンチェは此処アレクサンドリアへ12日について、乗船予定のイスマイリアへは14日夕刻到着、15日朝4時出航予定だ。 カイロ時間13時30分、ロンバルディは要塞の沖から右舷側へゆっくりと回頭して狭まっている港の入り口を正面から入港するためにまた左へへさきを切った、ガーマ・アブル・アッバースだと荷物を運んできたギルが指差す方向に高い尖塔と二つのドームが見える。 ロンバルディは魚河岸の手前の桟橋へ左舷を接岸させた、ギルによればこちらは西港で要塞の向こう側が東港だそうだ。 カートライト夫妻とゴードン夫妻はカイロまで行くのでアレクサンドリア駅まで馬車で向かうとタラップを降りてきた明子たちと握手し、最後に降りてきたロニーにもお別れの挨拶を交わして馬車へ向かった。 客室係に水夫も港の荷物運びを監視して無事荷物を乗客の手に渡している。 ロニーの馬車が出て行くのを見送り、清次郎がようやく見つけた今日のホテルの差し向けた4台の馬車に荷物を運びこんだ、港を後に駅と桟橋の中間にあるシディアボゥ(アル)ダーダアの聖カテリーナ寺院近くのホテル・ローマへ向かった。 南北に走るトラムの線路に沿って進み、前後の停留所の中間に三階建てのホテルが有り、正面は円柱が並んだギリシャ風の建物だ、ボーイが明子たちの荷物をホールに運び清次郎がレセプションで手続きをしているとクララがやってきて、同じようにここへ宿泊だと明子たちと談笑している。 「近くに聖カテリーナ寺院があるそうだけど。シナイ半島南部の花崗岩のシナイ山の中にある聖カテリーナの修道院は世界一古い修道院だそうよ」 「シナイ山だと此処から遠いのでしょ」 「夕食前に何処かへ行くの?」 昨日、船で進めた時計を見て「後2時間は明るいわよ」と一同を誘った。 ロンドンでもらった地図にはポンペイ・ピラーくらいしか近くに見当たらない。 「其処なら歩いても10分くらいね。大昔の柱が一本残っていると聞いたわよ。ブリンディジではコロンネ・ロマーナを見損なってしまったわ」 クララは出航の時船室に居て見なかったようだ、駅で雇った馬車の馭者に「間に合えば20リラ」といった話しをして「凄かったわよ。あんなに早く奔らせて馬は大丈夫だったのかしら」と船では話さなかった事も教えた。 清次郎に続きクララも手続きをして30分後に案内人を付けてポンペイ・ピラーを見てくることにした。 案内人とアキコが先頭でトラムに沿って歩き、クララとタカの後ろは清次郎が一番最後を歩いている。 「メデテレニアンシーに乗り出す前にコロンネ・ロマーナに出会ってエジプトでポンペイ・ピラーに会うなんて不思議な気がするわね。どちらもローマの支配時代の1600年以上も前のものなのでしょ」 タカはクララに知っていますかと聞くと「ローマ皇帝ディオクレティアヌスが建てた図書館の跡とか、セラピス神殿から1本だけ持ってきたもの。ローマ皇帝の食糧支援に感謝した市民が建てたとも言われて、よく判っていないというのが実際のようですわよ。高さはフランス人が測定した時26.8m有ったと書いてありましたわ。もう一つ本当らしく聞こえる話は其処にセラピス神殿があって時代が下って西暦391年にローマ皇帝の命により破壊され1本だけが残り、後にポンペイウスの寺院だったと言い出す人が居て、其れが通り名となってポンペイ・ピラーと今に伝わると本には出ていましたのよ」 「それではどの話しが本当かわかりませんね」 「そうね、ガイウス・アウレリウス・ウァレリウス・ディオクレティアヌスは305年までローマ皇帝だった人で、391年に皇帝だったのはウァレンティニアヌス二世とテオドシウス一世でしたわ。どちらが取り壊したにせよ、今に為っては判らないようですわね」 トラムが交差する十字路を抜けてアフマド・アリ・サワリと道が変わり、右手にナツメヤシが並びその上に柱の先端が見え出した、アキコはイスラム暦とグレゴリオ暦の日付を案内人と話しながら歩いている、今日1887年12月7日はイスラム暦1305年3月21日だそうで、ラマダーンとはイスラム暦の9月でこの月は日の出から日没までのあいだ、イスラム教徒の義務の一つの断食を行うと教えてもらった。 左手につながるバーブ・スイドラ通りには沢山の布地屋が続いていて右手の小高い丘に遺跡がある、古い町並みのごみごみした場所から廃墟の丘は完全に浮き上がっている。 「まるでこのままで保存すると決めたみたいね」 「ねえ、タカたちは何処かの旅行社が企画した旅にしたがっているの」 「清次郎はニューヨークでの仕事から休暇で横浜へ戻り、わたしはパリへの留学の帰りで、私を除いた六人がボストンへの留学の帰りなのですが、旅の企画は清次郎のお兄様が立ててトーマス・クックに依頼したものですわ。其れでクララは」 「私は適当に1年で回れる世界旅行なのよ。新しい仕事に就くまで閑になったので飛び出してきたの。本当はウィーンからロシアへ行こうと思ったけど雪が凄いときかされてイタリアからエジプトへ回る事にしたのよ」 何処かの学生だろうかイタリア語らしき歌声が聞こえる、イャンモ、イャンモ、ンコッパ、イャンモ、イャ、威勢のよい響きの歌はナポリから広まったフニコラーレの歌だ。 クララも口ずさんでいる「ご存知なの」とタカに聞かれ「ナポリで嫌というほど聞かされたわ新式のグラモフォンというフォノグラフを使って登山電車の駅の近くはあの歌だらけよ。トーマスクックのフニコラーレの宣伝の歌よ」とすこし大げさに話した。 「パリでも今年になってよく耳にしましたわ。ナポリ語だそうでサンタ・ルチアと共に有名ですわ」 タカもそう言って遠くへ去ってゆく歌声に合わせて歌いながら、柱のほうへ瓦礫を避けて歩いた。 行こう 行こう 頂上めざして 行こう 行こう 頂上めざして 其の歌は明子たちも耳にしたメロディですぐ口ずさめた。 アイッセロ ナンニネ メ ネ サリィエッテ 赤い火をふく あの山へ 登ろう 登ろう 遺跡の北側には果樹園がある「梨の木かしら」とイマードに聞くと「そうです10月ごろが一番美味しい時期です」と答えた。 日暮れまで時間がありますから駅を回って戻りましょうと東のバーブ・スイドラ通りを歩き、テラート・アル・マーマウデヤの騒がしいスークと蒸気トラムが走る通りの先にあるゴムホレーヤ広場と其の向こうのアレクサンドリア・マスル駅の新しい駅舎を見た。 西陽を受けた三つのアーチの架かった大きな入り口の上部に二本の角のように塔が乗り、其の双方に時計が付いている。 駅前には乗合馬車と蒸気トラムに乗る人が大勢賑やかに喋っている、トラムは一律1乗車2ピアストルだそうだ、アレクサンドリアの西から東へ10の駅があり此処が真ん中になると教えられた、南北の線はユダヤ人街からポンペイ・ピラーの南で運河に突き当たる場所までの2マイルほどの短い区間だが今ある海岸線近くのビクトリア駅とラムレ駅間の線と接続され、魚市場までの海岸通りに新しい路線が施設延長される予定だそうだ。 「予定は確定ではありませんね」 鳥が道端に何羽か下りてきたが、胸が青い色をしているので珍しい鳩かと思ったが鳴き声で烏だと知れた、ねぐらに帰るカラスが上空で喧しく鳴き、蝙蝠も飛んでいる。 其の晩の食事はホテルで摂った、パンはエイシという種の無い薄焼きのもので色々と出される野菜に薄切りのハムや果物を挟んで食べた。 コフタという羊の挽き肉の串焼きとコシャリという混ぜご飯にムサカというナスと挽き肉のトマトソース煮、更にスズキのソテー。 「豪華な食卓とはいえないけど賑やかな色取りね」 清次郎たちは明日は要塞と魚市場へ行くと話しているが、明子はお土産を買う必要があるので市場へ行くというとクララが一緒に行くと言いだし、タカと清次郎も案内人と一緒ならと承諾した。 |
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翌8日の朝、日の出前から雨が降り温度計は47度で肌寒い朝だ、アッラーフ・アクバル、アッラーフ・アクバル、で始まるファジュルの礼拝を呼びかけるアザーンの声が聞こえてくる。
食事の後アキコは春の旅行服にモントーでクララと町へ出た。 「市場を見て回りたいわ」 このアレクサンドリアはギリシャ正教、コプト教会のキリスト教にユダヤのシナゴーグ、ムスリムのモスクと混在している街だ。 「アキコは買うの」 「ノー、見てるだけ」 「ユダヤ人街はローマが支配していた頃は此処ではなくて東側に有ったんじゃよ」 アキコは「ユーヌス、もし此処で私のほしいものがあって値切れそうなら協力してほしいの。貴方のコミッションに私の希望額まで安く買えれば其の半分上げるわ。駄目な時は安く出来た分の五分の一だけよ」 「そいつはありがたい話ですがね。3倍、4倍に吹っかけるという話はばかげた噂にしか過ぎませんよ」 「では倍くらいには旅行客に吹っかけるのね」 「そのくらいは言うでしょうな。でもわしが居れば其処まで言う奴はあまり居ないでしょうよ」 「ところでマドモアゼルはなにが買いたいのです」 「探しているのはヴェネツィアで造られたゼッキーノという金貨ですわ」 「ダカットというやつかね」 「ええ、其の金貨です。ヴェネツィアのドージェがサン・マルコに跪いて居るものです」 「見た事はあるがね。持っているなら金細工師かな」 「あるとも、ゼッキーノのダカット金貨は最近はイギリス人にアメリカ人がほしいと言うので売れるのでな。アデンやバクダットまで人をやって探させたので大分高いのだよ。金地金に大分潰されて残りは少ないはずだ」 「手に取って良いか聞いてくださる」 「良いともフランス語はわかるからね、マドモアゼル」 「ユダヤ人めがこいつを持つと使う前に角をほんの僅か削りこむんじゃよ。だからわしらは重さを量る天秤で10枚幾らと計算するんだ」 「ではまだあると言うことね」 「そりゃあるがね。マドモアゼルが買えるかどうか判らんのに全部見せるわけにゃ行かんよ」 サン・マルコの顔も判然としていないが、ユダヤ人はアラブ商人がこすからく削るといい、アラブ人はユダヤ商人が削ると言い張るのだ、明子は寅吉から昔の江戸や大阪の商人が小判を受け取るとわざわざ金箱に放りこんで、僅かにでる金屑を集めるという話しを思い出し、にっこりとしてモントーのボタンを外して首から提げた小さな守り袋からヴェネツィアで買い入れた内の一枚のダカット金貨を取り出した。 「こいつは凄いとても使い込まれたとは思えないな。パオロ・ラニオーリかわしも3枚ほどしか扱った事がないな」 「ところで其方のマドモアゼルに聞かれたわしのゼッキーノじゃ、全て最後のドージェのルドーヴィーゴ・マニンじゃ」 Ludovico Manin(1789年−1797年) 銘の最後のDVCAT(デュカートDucat公国)から、デュカート(ダカット)とさらに鋳造所ゼッカZeccaの名前からゼッキーノ(Zecchino)と呼ばれた。 裏は星に囲まれた書物を持つキリストの立像。 金貨にはかすれてはいたがLVDOV
MANINと浮き彫りされていた、明子は自分の金貨を袋に戻し「それでこの3枚は幾らでしょうか」と聞くと「三枚買うなら600ピアストル、1枚なら230ピアストル」どうだ安いだろうという顔をした。 「一番最後のドージェなのに使い込まれすぎていますわ。それにヴェネツィアで聞いた値段の3倍もしていますわよ」 「綺麗なものならそれだけ出してくれるかな」 「1枚100ピアストルが限度ですわ。ヴェネツィアでの相場は私のでソブリン金貨一枚でしたので」 「マドモアゼル、そいつは相場を知らんよ。マドモアゼルが儲けたと言うことで此処では通用せんね。200まで負けてあげるよ」 「そういわずに元の半分の115ピアストルまで出しますわ」 「どうだねこのマドモアゼルの希望金額は無理だろうか」 「ユーヌスの顔を立てても無理だよ。もう少しというところで180がやっとだね」 「わしの顔を立てて120でどうかね」 「そいつは無理というものだ三枚買うなら450にしよう。だがそれには条件がある」 「何のことだ」 「ポンド、其れも金貨だ、100ピアストル、ソブリン一枚でどうだ」 「オイオイ19シリングが相場だぜ」 「そいつは1万ピアストルを銀行で替える時の相場だ。ユダヤの金融屋じゃ95にしかならんはずだよ」 「確かにそうかもしれんが。マドモアゼル・アキコはソブリン金貨をお持ちですか」 「ええ、此方でいい買い物が出来ればとソブリンを10枚に5ポンド3枚に2ポンド、半ソブリンも幾枚か持ってきましたのよ」 「マドモアゼルはいいお客だ、では其のダカットは其方のものだ」 「いいとも綺麗な奴は高いけどいいかな」 「何時の時代かわかるものなら相場だけ出しますわ」 老人が今度は五枚の綺麗な金貨を持ち出し「この順で造られたはずだ」と並べてくれた「古いものは600年ほど前のドージェだよ」と言って其れを手にとってこいつはすこし欠けているがジョヴァンニ・ダンドロで48代目のドージェさ」 次々に目を通しただけで年次を読み上げるのは只者ではない、アキコは書き取るのにやっとで手にとっても名前がよく判らないのはヴェネツィア特有の略字のせいだ。 Giovanni Dandolo (1280年−1289年) ジョヴァンニ・ダンドロ 「なぁマドモアゼル、こいつは一枚400ほしいのだがユーヌスの顔で掛け値なしの半分にするよ。値切っても駄目だよ」 「ねえ、お爺さん。先ほど出す時に5ポンド金貨の話しをしてしまった手前10ポンドのお金は出してもいいけど。其処に飾ってある金の鎖は本物なの」 「そうだよ。ちょっと待ってくれ」 アキコは鎖の太さを観て指でさわり間違いなさそうだと「騙されても自分が悪いんだわ」と納得して袋から5ポンド二枚と2ポンド金貨を其処へ置いて「之で分けていただけますか」と聞いて見た。 「ネックレスは2ポンドでは売れないのだが金貨をあれ以上値切らなかった分仕方ないか」 「この鎖の売値は380ピアストルと言うことを忘れないでくれたまえ」 「アッフワーン、また寄らせてもらうよ」 「一度ホテルで之を預けてどこかでお昼をいかが、クララも其れでいいかしら」 「そうね。そうすれば落ち着いてお昼が食べられるわ」 ホテルの裏庭でコーヒーを飲みながら「クララはどの金貨がいいの」と聞くと「最初に買ったすこし型が崩れたもので良いわ。あれなら三枚同じでしょ。アキコも其のほうがいいでしょ」と遠慮がちに言ってくれた。 「そんなに遠慮しなくてもいいのよ。ユーヌスのコミッションを計算するわね」 「それから2000を1000にしてくれたのとネックレスが」 「嬉しいですわユーヌス、では一番新しい女王陛下のゴールデンジュビリーをいかが」 「此方は旧来のデザインで之が新しい記念式典のためのデザインですの。ロンドンへ寄った時に手に入れましたのよ」 ユーヌスは新しい女王陛下の横顔を見て「さすがに年をとられたようですな。記念に之を頂きましょうと胸の隠しに落とし込んだ。 「では私はアキコに幾ら払えばいいのかしら」 「クララは1ポンドか100ピアストルで良いですわ。だってこの3枚分からだけでいい上に20ピアストル負けてくれましたもの」 「ほんとにそれでいいのね」 「不思議じゃ。アキコは何処になにをいれてあるか憶えて出し入れしてるのかね」 「ええ、そうなんですわよ。ペールがいつも分散してお金を仕舞うので私も癖になりましたのよ」 「さてなにが食べたいのですかね」 「此処の名物は」 「さて改めてそういわれると、タベルナでギリシャ料理か魚料理くらいですかな」 「そういえばマスカット・オブ・アレキサンドリアは此処から輸出されているそうだけど」 「そうですじゃ。もう時期も終わりに近いのですが、エメラルドの色合いは今が一番じゃないかな」 「他の色もあるのですか」 「あるとも、いく種類もな。エメラルドが一番香りが良いと思うがね」 「お昼を食べたら青物市場へ連れて行ってね」 「良いとも。それで何処へ行こうかね」 「タベルナでムサカにドルマ。イロピタにパツァス。お昼だからそのくらいで良いわ」 「ほう、マドモアゼルは大分料理も詳しいようですな。ではいい店を紹介しましょう」 「当然よ。だってユーヌスも一緒にたべるのですものね」 「わしにもご馳走してくださるのですか」 「当然だわ。だって其の後も市場を案内してもらうのですもの」 「アレクサンドリアの住人はタベルナといわずにタヴァーンと言いますのじゃ。憶えて置いてくださいよ」 アテナというタベルナは昼時とあって人が多く、空いている席はあまり無いが、庭の見える明るい席へ案内された、食事に訪れている人達は身なりもよく人気も高いようだ。 クララがフランス語のメニューを見てどんどん注文を出している「良いわよね之で。あとなにがほしい」そう聞かれたがアキコには食べきれる自信もないので「私はあまり食べられないので十分だと思いますわ」そう答えるとユーヌスに「ワインとビールどちらがいい」と聞いてから「このあたりで作られるワインを」と頼んだ。 「明日はクララもカイロへ行くんでしょ」 「ええそうよ。私はイブラヒム・パシャ通り(Ibrahim Pasha Street)のホテル・シェファード(Shepherd Hotel)を勧められたけど」 「まぁ、嬉しいわ。他の人に聞いてカイロの観光もご一緒させていただけるかしら。ギザのピラミッドを見た後、ルクソールとカルナックへ行く予定なのよ。貴方たちはどうされるの」 「そうねルクソールまで鉄道が延びて、ホテルも増えたそうだけど、オリエンタル急行並みの寝台車を運営しているワゴン・リ(wagons-lits)でも14時間掛かるそうなの」 「14日の夜に船に乗りますのでカイロを1日で切り上げないと無理のようですわね」 「11日の夜行で出かけて12日の夜行で帰るなら13日の朝に戻れますよ」 「此処の会計は私のおごりよ」 店を出るとすこし先に同じようなタベルナがある、この街はギリシャ料理の店が多いようだ、ローマ字にアラビア文字の店名が書いてある。 「サンタ・ルチアね、イタリア料理じゃないの」 「うんにゃ。地中海料理と主は言っておりますな。イギリス人の希望でインドのカリーもやるなど幅広くやるので、まぁ言うところの雑多料理ですな」 道は降りで眼の先には海が見えてきた、海岸手前の左手に公園があり港の左手前方にカーイト・ベイの要塞が見えている。 「フィロンの訪れた時はまだ大灯台がなくて世界の七つの景観には入っていませんでしたのじゃ。この港には昔は島があってクレオパトラの宮殿が有ったそうじゃが、何時の頃か海底に沈んだそうですじゃ、大分前にヴェネツィアへ行きましたがイタリアの海と違いナイルの土砂のせいで海の底がよく判りませんのでな、何処にあるかよく見えませんのじゃ。右側の岬の手前に昔は大図書館がありましたんじゃ。かのアルキメデスも此処の研究施設ムーゼイオンで学んだそうですじゃ」 「宮殿の話と大灯台はストラボンの歴史書ね」 「おお、そうですじゃ。だがなフランスの学者どもはローマの遺跡の下や街の家の下にあるのだと言うて街を掘り返せば見つかるなどといいますのじゃ」 ローマのテオドシウス帝の治世下391年にアレクサンドリア司教のテオフィルスが姉妹図書館のセラペイオンの破壊と略奪を命じた。 ローマとキリスト教徒による破壊の後、今度はムスリムによる破壊が起きて大図書館は歴史から消え去ったと13世紀ごろに言い出されている。 グレゴリオ暦641年アラブの将軍アムルがエジプトに進攻しアレクサンドリアを征服、大図書館の処分は第2代正統カリフのウマルの命令に「もし聖典の教えに反する本があればそれを燃やせ、アッラーへの冒涜であるがゆえに。もし聖典の教えに一致する本があればそれを燃やせ、聖典一冊で事足りるがゆえに」と有り、蔵書は燃やされてしまったという噂が残った。 トラムのラムル駅へ向かうと其の先にそびえる塔はカーイッド・イブラヒーム・モスク(Qaed Ibrahim Mosque)というそうだ。 モスクまで行って其処から戻って左へ入ると聖マルコ教会がある、四角い感じのする教会の建物は中心に大きなアーチの入り口が有る、西へ歩くと大きな通りが幾筋もある、其れをつなぐ路地を抜けるとナビー・ダニエル通りの商店の間に鉄製の門があり、奥にサンマルコ大聖堂(Saint
Mark Coptic Orthodox Cathedral)が見える、ユーヌスは教会の西の路地を歩きながら「正教会の修道院に保存されていた、今はヴェネツィアに有る聖マルコの遺骸には頭部はなく、此処の教会に今でも保存されているのですが噂では其れは聖マルコのものではなくて、アレクサンダー大王の物だと主張する学者も居るのですじゃ」などと言い出してクララと論争している。 ついでのようにユーヌスはコプト暦の事も教えてくれた「今日はコイアック(4月)12日で年数は1603年、殉教紀元ですじゃよ」と普段は教会の中でしか使わなくなりましたとクララに話した。 「其れって私が教わったアレクサンドリア暦と同じですのね」 「そのように呼ばれているそうですな。まぁ、学者先生の方ではフランス語かイギリス語にしますのでな。ナポレオンの軍隊が発見したという石版もラシードで見つかったのにロゼッタストーンだそうで」 「同じコプト暦でもエチオピアはすこし違うと聞きましたわ」 「エチオピアはイエス様の生まれた年を基準していますがの、グレゴリオ暦と7年ずれているそうですぞ、其れと月の名前も日付もわしらと違いますのじゃ」 七房有った葡萄と篭代を入れて一人38ピアストルだと請求されたが、ユーヌスが睨むと「ユーヌスが連れてきたんじゃ大赤字だ。一人22ピアストルで良いよ」と簡単に値引きしてくれた。 アキコが了介の手紙で、横浜へ神戸から送られて来たマスカット・アレクサンドリアが二房入った箱が二円もすると云うのを思い出した「と言うことは1シリング5ピアストルだから4シリングと5分の2なので一円二十銭」と暗算して一房十八銭にもならない安い買いものだわと納得し「元の値段でもこの計算だと買ってしまうわ」と思った。 「ユーヌスの一睨みで随分と安くしてくれたわ。ブリンディジでは随分高く感じましたわ」 「そりゃいい言葉ですな」 日本では1886年ガラス温室による栽培に成功、マスカット一箱で米一俵分に相当したらしい、この当時、米一升五銭前後に米価は安定している。 スークはトラムの通りから1本南で其の先はバーブ・スイドラ通り、昨日と逆に歩いていくと目線の上にはポンペイ・ピラー、突き当たりに線路がある、蒸気トラムが通り過ぎ、右手を見るとホテル・ローマへの道が見える。 「この蒸気トラムも出来たときは馬が引いていましたのじゃよ」 「パリでもまだ全線蒸気にはなっておりませんわ。先月にパリに居た時に5キロ程度の区間だけでしたわ。殆どが馬車鉄道でしたわ」 「ほぉ、さすればこの街はパリより進んでいると言うことかね」 「ショックラーン!」 アスルの礼拝を呼びかけるアザーンの声が聞こえて来た3時過ぎに清次郎達の一行が戻ってきた。 |
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9日の朝まだ夜も明けぬうちから例によってファジュルの礼拝を呼びかけるアザーンの声が聞こえてくる、今日はムスリムの金曜礼拝が有ると昨日覚えた知識をヒナがアキコに教えている。 昨日予約したカイロ行きの急行はアレクサンドリア・マスル駅9時30分発でカイロ・ミスル駅15時25分着、一等席の料金は460ピアストル、クララも同行してホテルへチェックすることにしている。 駅のトーマス・クック旅行社の社員は「マスルとミスルと発音して区別しましたが共に同じ字を書きます、アレクサンドリアの方言でマスルと言われるのです。エジプトもアラビア語ではジュムフーリーヤ・ミスル・アル=アラビーヤと呼ぶそうですが私はアラビア文字までは読めません」と笑いながら教えてくれた。 クララは駅からホテルへの帰り道で清次郎にミスルとは本来は軍営都市を現して居る言葉だと話した、クララはテーベの都の有ったルクソールへ3日泊まり込んで見学して回ることに決め、ホテルの予約も済ませたので一緒に行かないかと聞いた。 清次郎はクララの誘いに「私はあの人たちを無事に横浜へ送り届けなければ為りません。行きたいところ見たいところは私にも彼女達にもたくさんありますが、許される範囲は多くありません。今回は残念ながらルクソールは断念するほかないのです」そう言って残念そうな顔をした。 「そうでしたわね。ではカイロとギザはご一緒させていただいてもかまいませんか」 「其れは此方からもお願いいたしたいところです。アキコがすぐうろつきまわるので貴方が居てくれれば一人で行かせずに監視していただけます」 「アキコは確かに私と似たところがあるわね」 30分前には駅に入り到着していた急行に乗り込んだが一等席と言っても座席は指定されておらず荷物は空いている場所に清次郎が番をする形で積み上げた。 9時30分、汽笛の音を残し列車は駅を離れて北西へ向かった、ポートサイドへの線路と別れ、右へ緩やかに大きなカーブを描いて進むと右手に大きな沼があり其れを避けるようにまた左へ線路は曲がっている。 アキコは其の綿花の畑を見ながら寅吉が話した言葉を思い出していた。 「アメリカの南北戦争のとき、エジプトの綿花産業が盛んになった背景は大きな資本が動いて戦争を長引かせ、南部の綿花産業を衰退させてエジプトの価値を上げさせた者たちが居たようだ。戦争が終わると今度は其の綿花をインドで盛んにさせてスエズを抜けてイギリスへ持ち込んで加工させることにし、エジプトを破産に追い込んだ資本がある。安い賃金で作らせた綿花をイギリスへ運び加工された製品を高く売りつけられてまたインドの金がイギリスへ運び去られるのだ。インドはどんどん貧しくなってしまうよ。同じ事が今度はエジプトでおきて来るだろうし清国もアヘン戦争以来標的にされている」 アキコが知り合った人たちにはそのような人は居なかったが、大きな流れは其の人たちの金を預金させた銀行や巨大資本が作り、間接的に其の人たちも恩恵を受けていると思うのだ。 「ロックフェラーは信用できなくてもお金は稼いでくれるわ。アキコが考えたようにランプの明かりのための灯油の需要が落ち込んでも、ショウがいつも言うエンジンの燃料に石油が必要のはずよ」 横浜で灯油の缶は米国5ガロン(約19リットル)入りで2円20銭、決して安くは無いが先ごろまで倍以上していたのだが新潟での生産が増えるに従い卸し値も下がりだしている。 サムエル・サムエル商会は10番に一年居ただけで68番に引っ越ししたが商売の手は広がる一方だ、Samuel, Samuel & Coはゼネラル・マーチャント(general merchant万屋)として名を売り出し中だがマーカス・サミュエル(Marcus Samuel)が横浜に来濱した1876年は明治9年、金澤の海岸で浅蜊掘りの時に見つけた貝に魅せられて始めた貝細工の玩具に、箱根細工からヒントを得た貝殻で飾り付けた宝箱の輸出から始まったマーカス・サミュエル商会で成功し、弟のサミュエル・サミュエル(Samuel Samuel)を呼び寄せて始めた通称サムエル・サムエル商会は急速に伸びる灯油の需要に応えるかのように手を伸ばしている。 1877年国内生産1,821キロリットル、輸入10,151キロリットルだった物が1882年には3,693キロリットル、78,291 キロリットル、1887年5,455キロリットル、 79,717キロリットルとまだ電気の普及しない日本では市場が活況を示していた。 南南西に線路がひかれナイルデルタで細くなった流れを渡るためか線路が東へ向かい鉄橋を渡るとすぐに駅があるが停まらずに通過した、旅行案内にはKafr El-Zaiatとされている駅だ。 「この駅と次のバーナという駅からイスマイリアへの連絡線があるんですよ」 タンタ発12時40分、また線路は南南西に向いて気温が上がってきたせいか窓を開ける人が増えてきた、バーナ(Banha)まで90分ほどだったが停車時間が異常に長く14時20分に発車。 駅にはギザへの列車が停まっていてそれに乗り換える人は忙しげに歩いている、清次郎はポーターを10人呼び寄せて荷物を運ばせた。 駅前の運河には橋が掛かり其処を渡ると南東へ1000ヤードほどいくと右側に植物園が有り、園の北端に沿って右へ曲がり400ヤードほどで西端の三角形を作る道の向こう側にホテルが有り、行き交う人が大勢居て道沿いには庭先に屋根の付いたコーヒーハウスも営業している。 「エジプトと言うと田舎と思いがちでしたがアレクサンドリアよりもカイロは一層都会なので驚きましたわ」 「だってカイロはアレクサンドリアに比べて歴史がないと言っても、近くのギザにピラミッドが出来たのは今から4500年近くも前よ。東ローマ帝国の駐留軍を破ったムスリムの将軍アムル・イブン・アル=アースが、ローマ軍のバビュロンの近くに軍営都市フスタートを築かせたのは643年だといわれているのよ。其れが発展して今のカイロになって云ったのです物、1200年以上もあれば大きな街になるわよ」 ホテルは四階建てながら道から大人の背の丈ほども高く盛り土されているせいか馬車から降りると見上げるほどの高さに聳えている。 「旅行社の人の話しだと出来たときは三階建てで去年四階部分を増築したそうよ」 タカが馭者それぞれにに40ピアストルとチップに10ピアストルを支払うと、嬉しそうに自分の名刺を渡して「見物には自分を指名してくれ」と売り込むものが居た。 階段脇のテントの下では午後のお茶を楽しむ人が大勢いた、明子達に声をかけて来たのはロンバルディで同船だった人たちだ。 「アレクサンドリアはどうだった」 「観るところは少なかったですが、過ごしやすくて食べ物も美味しかったですわ」 「そりゃ良かった。此処は冬とは思えないくらい昼間は暑いよ。夜はコートが必要なほど冷えるし、砂漠へでると干上がるんじゃないかと思うほど乾燥しているよ」 「ミスター・ゴードンたちはサヴォイ・ホテルからメナ・ハウスに昨日引っ越しして後3日ほど居てピラミッドに登ると張り切ってるよ」 「まぁピラミッドに登れるのですか」 「ガイドが付いて上まで30分ほどだそうだが、我々は中へ入ったが何もなかったよ。エジプト考古博物館のほうが面白いよ」 「サンキュー、ミスター・スミス。博物館はぜひ回るようにと相談しますわ」 クララとタカは二階で清次郎は三階、そのほかの6人は二人部屋で一階の南端に部屋が割り振られた。 クララに言うと「あらそう見えた。私はファラオがかぶる帽子のように見えたわ」と立ち止まってしげしげと見ている。 レ・ドゥ・ショッセで三人と別れ101,102,103の各部屋に落ち着くとシャワーを浴びて洗濯をしてもらう服の整理を始めた。 「食事時間まで清次郎の話しだと2時間以上あるそうなので前の植物園へ散歩のお誘いに来ましたのよ。ガス灯に電燈も点いて居て夜でも綺麗なのだそうよ。ヨシカはツネとマダム・コードウェルとお茶を飲んでいると言うのでハルとタマが一緒よ」 「植物園はエズベキーヤガーデンと呼ばれているそうよ。出来てまだ17年だけど最近は充実して色々な国の花も栽培しているそうなのよ」 細長い池があり茎を水面から伸ばした白と赤のロータスの花が侘しげに咲いている。 「もう花の時期も終わりみたいね」 「睡蓮は横浜でもパリでも7月ごろよ。エジプトは時期が違うようね」 「ブーゲンビレアはエジプトでグハンナメイヤと呼ばれているそうよ。意味は地獄の花ですって、どうしてそんな呼び名にしてしまったんでしょうね。私の家の庭もこの樹が植えてあって母が大切にしているわ。ブラジルで100年ほど前に見つかったと聞いた事があるわ」 大温室には煌々と明かりが灯されて外から見るとガラスが曇っている、百合が100本ほど咲いていて、サボテンの花も咲いているし、オレンジの木には実がなっている。 色々な国の樹が並んだ小道には木の札が付けられていて其れを読みながら一回りして外に出ると、売店脇にそのフレームツリーとジャカランダの樹があるが葉が茂っていても花は見えない。 6時半を過ぎて小さな方の温室は諦めて引き上げることにして門へ向かうと、プルンバーゴの小さな水色の花が北側の植え込みに20mほども並んで咲いていた。 門を出ると行き交う人が昼間より多い「ホテルの食堂はフランス料理だそうよ。今晩はホテルで明日はまだ決めていないそうよ」タマはいつの間に聞いたのかヒナに教えている。 「何を話しているの」 「イギリスのホテルなのにねぇ」 其の晩食事の後、明日10日はギザまで馬車で出かけ一日をピラミッド周辺で過ごし昼食はメナ・ハウスで取る予約も済んで居るそうだ。 「そうだ先ほど君たちが出かけていた時に聞いた話だが、すぐ先にあるオペラハウスにサラ・ベルナールが来るそうだよ」 「まさか、そんな話パリでも聞きませんでしたわ」 「僕もね、まさかと言ったら、なにまだ何時とまでは決まっていないよ、ということだったよ。パリで食事をしたと話したら羨ましがられてね、記念にもらったサインの入ったハンカチーフを見せろと言うので部屋まで取りに行く始末さ」 |
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10日の夜明け前、ヒナが窓を明けるとファジュルを呼びかけるアザーンが近くから聞こえてきた。 「此処は1階といっても通りより20フィート(6.096メートル)はあるからじゃないかしら」 8時20分に約束の三台の馬車が案内人と共にやってきた、馬車ごとに一人の案内人という清次郎がタカと相談して2日間借り切りにしたものだ。 「ギザに行けば砂漠では80度になるでしょうからコートは持っていっても、服は薄手のほうが良いですね」 イブラヒム・パシャ通りを南へ植物園、サヴォイ・ホテル、オペラハウスと通り過ぎて右へ曲がるとカスル・アル・ニル通りを西へ向かった。 「僕の名前は実直という意味を持っています」 タハリール広場を回りこむと橋の向こうはジャジラ島だと教え「1871年に架けられたカスル・アンニール・ブリッジです。この年にはオペラのアイーダも此処カイロで初めて上演されています」と教えた。 其の様子をサーフィーは話しを真剣に聞いてくれていると勘違いしたか熱心に橋や島の事を教えてくれた。 徐々に近づくピラミッドの大きさに圧倒される一同だ、馬車はクフ王のピラミッド近く、メナハウスの前にある棕櫚の大きな樹が並んで木陰を作る場所に馬車を停めた、其処にはロバや駱駝を曳いて見物の客を待つ男たちが大勢いた。 馭者には「12時までは自由にして良いよ。午後はまた其の時に連絡する」清次郎は馭者にそう伝えて自由にさせた。 クララの提案で明子たちは乗り物に駱駝を選んで一回りして午後から歩いて回ることにした、駱駝ひきは「昼までなら80ピアストルだ。午後も雇ってくれるなら120でいい」と言うのをサーフィーが「昼12時までで35にバクシーン5ピアストル」というとあっさりと肯いた、ヒシャームとリダーという案内人も「その辺が妥当ですよ」とタカと清次郎に説明しているが馬車1台を1日借り切りにしても150ピアストルなのだ。 13頭の駱駝に乗り込んで荒れ地に入って台地へ上がるために西へ向かった。 「サーフィー、細かな説明は後でいいから駱駝が歩いている場所にある遺跡の名前を知っていたら大きな声で教えてくださる」 「オッケー、ミス・クレイトン」 「面倒だから、クララで良いわよ。彼女はヒナで其方のフラールの付いた帽子の人がアキコよ」 「オッケー、クララ」 右の道から台地へ上がると第一ピラミッドの北側には二つの内部への入り口が見える、東へ向かうタカとツネにヨシカの組と別れ、西側へ回ると小さな墳墓が並んでいる「マスタバ」とサーフィーが振り返って怒鳴った、外れにある大きな墳墓を指差して「三つのピラミッドの建造責任者で、クフ王の従兄弟で宰相のヘムオンのマスタバです」とすこし声を抑えて「このくらいで聞こえますか」と3人に尋ねた。 「大丈夫よ」 「ほんとに暑いわね」 「アキコ〜。ヒナ〜。クララ〜」 「上まで登ったの」 「そうなのよ。フレッドとチャーリーが3つとも登ると言うのに黙って見ているのも癪だから、このピラミッドが見晴らしが良いと言うので登ってきたの。上に登るのに役所に一人5ピアストル取られるのよ。案内人が二人だと5人は必要だというので全部で60ピアストルよ。一人30ピアストルね。貴方たちも登ってみれば、カイロまでよく見えるわ。其れとこっちにいくつもあるピラミッドもね」 「何分くらい掛かりました」 「天辺まで登るのに25分で、降りるのに30分くらい掛かったわ。フレッド達は此処は18分で登ったそうよ」 第二ピラミッドは136.5メートル(元の高さは143.5メートル、)辺の長さ215メートル。 第三のピラミッドは66.5メートル(元は70メートル)、辺の長さ102.2×104.6メートル、之は元のものにさらに被せるように石を積んだために正4角錐に為らなかったらしいがそれでも誤差は2パーセントほどだ。 「お昼はどうするの。わたし達はメナハウスに泊まっているので一緒にどう。其れと他の人たちは」 「では一緒で、良いわね。ああ、それからスフィンクスの顔だけど、ナポレオンと言うのはイギリス人のでっちあげで随分昔から鼻や顎鬚はなくなっていたそうよ」 「まぁ、そうでしたのナポレオンを嫌いな人がつくり上げた嘘だったのかしら」 「そのようね。話しが何処まで本当か其の時代の人しかわかりませんものね」 「此処からだとスフィンクスのネメス頭巾の頭しか見えないわね」 「すこし上に登りますか」 眼の下に葬祭殿(mortuary
temple)跡、其の先の参道はすこし右に逸れて550ヤードほど先が河岸神殿(valley temple・谷神殿)跡で其の左がスフィンクスとスフィンクス神殿跡それらも殆どが砂の下だ。 「前足がよく見えないわね。大部分砂に埋まっているようだわ」 周壁の間を抜けて第二ピラミッドを反時計回りに見て、南の小さなピラミッドの傍で一休みした。 「本当にこんな大きな石をどうやって積み上げたのか不思議だわね。ヘロドトスが間違いとはいえ大ピラミッドは10万人の労働者が20年間働いてつくった、クフという残忍なファラオの墓であると書いても仕方ないわね」 「ところで皆さんはピラミッドと言う言葉がギリシャ語だと言う事はご存知ですか」 「歴史でならいましたわ、確か古代エジプトではメルといわれていたのだとね」 「そうです。其処までご存知なら詳しくお話しても良いですか」 「あら、それは嬉しいわ」 「それでは先ず、第一ピラミッドですがクフ王の正式の名前はフーエフウィー、クヌム神は私を守護するです。でピラミッドにはアケト・クフという名前があります。化粧石や上部がないのは地震のせいもありますがカイロの街やシデタルを作るために剥がされてしまったそうです」 高さに底辺の長さなどを話して「第二ピラミッドはクフ王の息子、カフラー王、ハーエフラー、太陽神ラーは現れるです。ピラミッドはウル・ハーエフラーです」そして同じように高さに底辺長を教えた。 「さてこの目の前の小さなほうと言っても高さは66.5メートル、底辺の長さが108.5メートル傾斜角度は51度あります。王名の正しい読み方はメンカーウラー、太陽神ラーのカーは永続するです。ピラミッドの名前はネチェリーメンカーウラーです」 「カーとはスピリットと約すそうです。このピラミッドにはほかと違い石棺に遺体が保存されていましたが、ロンドンへ運ぶ船が遭難して行方不明になりました。」 「まあ、そうなの。初めて聞いた話しよ。其れだとヘロドトスが書いた墓と言うのもあながち間違いとはいえないわね」 「此処から降っていきますか」 東の下側に見える木々の茂る新しい墓地への順路は砂地で、乗っていても揺れが少なくヒナははしゃいでいる。 「エジプトの古代スフィンクスは男性の顔をして作られましたが、ギリシャでは女性だそうです。古代エジプトも後期になると王妃や王女の顔の物が作られだしました。足の前が昔の神殿跡で私の左手側の小さいほうはアメンヘテプ二世が作らせたハウロン・ホルエムアヘト神殿ですが殆ど砂の中です」 「訪れる人が増えればこの砂をどかす費用も出るのですが、かき出すより早く埋もれてしまうのが現状なんです。さてスフィンクスですがアブ・ル・ハウルと呼ばれています。古代エジプトではトトメス4世によりホル・エム・アケトと呼ばれていたとも言われています、意味は地平線のホルスです。実はこの足の間にあるトトメス4世の銘文には余は汝の父、ホル・エム・アケト、へプリ・ラー・アトゥムなりと書かれているそうです。この名前の場合ヘプリ(ケプリ)とは朝日、ラーは日中の太陽、アトゥムは夕日をさすそうで、すべてラーの呼び名だそうです」 葬祭殿に河岸神殿も遺跡の研究の学者が来れば掘り出すがまたすぐ埋もれてしまうそうだ「ギザには財宝などなく1817年にベルツォーニによって発見されたセティ一世の墓のあるビバン・エル・ムルクに財宝もあるのだろうと注目が移っています」とサーフィーは残念そうだ。 「まあ、嬉しい私はカイロの次はルクソールなのよ。ビバン・エル・ムルクはぜひ訪ねてみるわね」 11時30分になり急いで集合場所へ向かうと他の組も台地を降りてくるのが見えた。 清次郎にディから昼を一緒にという話しをすると、ヒシャームとリダーにサーフィーには20ピアストルずつを渡して「急に予定が変わったので君達は之でどこかで昼にしてくれたまえ1時30分に此処で会おう。馬車には3時30分に戻れば自由にしてよいと伝えてくれたまえ。彼らの昼飯代に」と10ピアストルずつ渡してくれるように頼んだ。 エリーとディに迎えられてホテルのレストランへ入るとフレッドにチャーリーがにこやかに迎えてくれた。 「やぁやぁ、皆さんようこそ。なんとなく懐かしい気がするがまだ5日も経っていないんだよな」 「ほんとですわね。知り合いの顔を見るとほっとしますわね」 「清次郎たちは前に聞いたがイスマイリアへは14日までに行くんだよな」 「ええそうです。明日、明後日とカイロ付近を回る予定です」 「おれ達は明日の船でルクソールまで行くんだよ。4日くらい向こうで見物して17日にカイロに戻るんだ」 「あら私はワゴンリーで12日の夜行でルクソールまで行きますの」 「それなら向こうで会えるかもしれませんわね。ホテルは決まりましたの、わたし達は去年出来たソフィテルですわ」 楽しく昼食を取ってまたそれぞれの組に分かれて見物に回ることになりゴードン夫妻とカートライト夫妻に別れを告げた。 「よい旅を」 「君達も無事な航海を」 駱駝ひきに35ピアストルにバクシーン5ピアストルで3時間の約束をしてクララたちはチケット売り場から左の道で台地に上がった。 台地の上は80度をゆうに超える暑さだ、化粧石の残る1段目の上にアル・マムーンが広げさせた穴と本来の切妻の穴が見える。 上がってみようかという話はすぐまとまり、熱を持っていると思った岩がひんやりしているのに驚きながら西側から登り、5段目にある下の入り口を覗いてみるとアキコが楽々と立って歩けるほどだ。 アキコたちはサーフィーが話しておいてくれた中は歩きにくい通路ばかりで、何もないという話しを信じて奥まで行く事も無いと決めたのだ。 「この入り口の中にはドイツの学者がプロシャの王のために刻んだ記念碑らしきものがあります。とんでもないことをプロシャの人はしたものです」 下へ降りて東へ回ると葬祭殿の跡に続いて小さな三つのピラミッドが並んでいる「これはクフの王妃たちの物といわれています」とサーフィーが話した。 「人家の下に河岸神殿が埋もれているのだろうという説と、地震で崖が崩れたのだろうという人が居ますがあのあたりはナイルが氾濫すると水が押し寄せてきますので」 「まぁ、こんなところまでですか」 「河岸神殿といわれるのはナイルから水路が続いていたそうですよ。カイロに戻ればピラミッド近くまで氾濫した水が来ている写真を買えますよ」 「お土産に買い入れたいわ」 第二ピラミッドの葬祭殿跡に残る巨石は砂から出ている部分だけでもアキコでも手が届かない大きさだ、ピラミッドも基礎部分は駱駝を降りて参道の上をたどりスフィンクスへ降りると砂に埋もれたスフィンクス神殿と砂を掻き出している河岸神殿の前に回りこんだ。 「不思議よね参道と言っても此処は南へ曲がっているし、右のピラミッドは右側へ、左のピラミッドは正面に延びているわ。わざわざ方向を変えた理由はなんなのかしら」 「其れこそピラミッドの不思議そのものですね。スフィンクスが先にあって其れを避けたと言う説もありますが、それなら此処から見てスフィンクスの右へ伸ばしてもよさそうですし。最近ですが第3ピラミッドの参道がこの河岸神殿へつながっているという人も現れたそうですよ」 「其の通りなんですが、中々進まないのですよ」 「之なら日が暮れる前に市内に入れますね」 カイロはこの10日前後は4時55分ごろが日の入り時刻だそうで明日から夕陽が徐々に延びてゆくそうだが朝は日が昇るのが其の分遅くなり一月は6時52分が日の出時刻だそうだ、4時前に出発してシェファードに付いた時カイロの街は夕闇に包まれだした。 |
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11日の朝も喧騒のうちに始まった、といっても陽が昇る6時41分にはまだ時間もある空も暗い5時前だ。 ファジュルは日の出1時間半前から日の出10分前までに行う早朝の祈りで「エジプトに入ってから早起きになった」とクララが朝食の席で皆を笑わせた。 この日曜日の朝の横浜は雪にでもなるかというほど冷たい雨が降っていた、親子三人で東京へ7時30分発で出かける支度を済ませると馬車で駅へ向かった。 「運賃も随分と安くなったがもう一段と安くすると噂があるぜ」 「一円から八十銭に下がった上等が幾らくらいになるんです」 「大阪までつながればマイルあたり三銭の計算になるそうだ。新橋から横浜が四十八銭までさがるそうだぜ。横浜から藤沢までは四十五銭だそうだ」 「まあ、いやですよ。チャリネの曲芸でも下等で五十セントも取りますのに」 チャリネ氏大曲馬及び獣苑大展覧 秋葉原での興行時は世界第一チヤリネ大曲馬大獣苑新狂言第四回目大変更広告として9月21日の時事新報に最上等四人桝金八円、上等一人椅子金一円、中等椅子金五十銭、下等金二十銭 十歳以下は半代價、但し最上等を除くと出ている。 そのチャリネの一行も今年明治20年4月末には長崎から天津へ向けて船出している。 「そういえば今頃はシンガポールで興行している時分だな。其のあとセイロン島のコロンボへ向かうそうだ」 「では、明子たちの船がコロンボへつく頃でしょうかしら」 「正太郎からの手紙にはカルカッタの次はマドラスとなっていたから随分はなれているよ。コロンボへ寄港するとは書いてなかったな」 「でも貴方フランス郵船はコロンボへ寄港する事が多いですのに、如何してでしょうね」 了介も交えて新橋に着くまで正太郎からの手紙に書かれていた日程に寄ればこの日あたりにはピラミッド見物だろうと駱駝にスフィンクスの事を話した。 品川あたりから雨は小降りとなり8時25分に新橋に着く頃には陽が射してきた、駅から出ると「旦那、旦那、今日はどちらまで御出ででござんすか」と声を掛けてきた車夫が居た。 「おう、お前さんか。丁度いいもう一台探してくれ、赤坂一ツ木まで行くんだ」 「がってんで」 此の頃流行りは花街のお姉さんたちを送り迎えする小粋な小さな物が多く、駅でも其の手の人力車が増えてきている、自前の物を持たない車夫は借り入れ賃料五銭を払うか組合に雇われる者が多い。 「良いだろう。行き先は大岡様の豊川別院だ。田町の四丁目で一度停まってくれ」 「承知しやした」 鉄道局は6ヶ月弱の間、太田資政が鉄道頭を勤めたほか工部省時代(明治4年8月)からこの明治20年の内閣直属の鉄道局長官、さらに内務省鉄道局長官時代まで井上勝が指揮を取っている。 徳川の時代の軍艦教授所時代から明治2年の築地海軍操練所を経て築地と縁が多い海軍だが海軍省の建物は随分と移動している。 明治 7(1874)年10月京橋区築地四丁目(築地地内3回?) 明治16(1883)年12月 芝区芝公園地 (公園内2回?) 明治19(1886)年 7月赤坂区溜池葵町一番地 明治24(1894)年には麹町区霞ヶ関二丁目(千代田区霞ヶ関)に移動した。 明治2年開設の築地海軍操練所は明治3年海軍兵学寮と改称、明治9年には海軍兵学校とさらに名前を替えた。 明治天皇が築地へ行幸した道をみゆきと読んでみゆき通りとされた。 海軍兵学校は明治21年に江田島に移り、築地には海軍大学校が開設された。 話しは飛ぶが秋山真之は明治19年大学予備門を辞めて此処築地の海軍兵学校に入学し、明治23年に17期主席で江田島海軍兵学校を卒業している。 中通りの田町四丁目の角で一度リキシャから降り、様変わりした家々から昔を思い出すように「前にも話したが此処に勝先生の氷解塾があって、俺と琴が先生の留守を預かる奥様と杉先生に助けられ、岩さんの紹介で神田の町へ住むことになったのさ」と昔のぼろ塾の事をなつかしむように話した。 リキシャへ戻り「豊川別院へ行ってくれと頼み中通りを進ませた、大岡家の邸内におまつりしていて妙厳寺が寄進を受けていたもの、今年になって此処へ新しく豊川の別院として建てられたものだ。 了介は寅吉が好んで買い入れる大岡裁きの読み物や講談、寄席の噺から名奉行として名高い人として名前を覚えたのだ。 デコデコの文楽(四代目桂文楽)・ウィキペディアなどは天保9年(1838年12月26日)〜明治27(1894)年1月28日)とされているが本朝話人伝、野村無名庵著(昭和19年発行)によれば明治二十七年五月二十八日、五十七で没し、法号を桂真院宜説文楽居士となっている。 厚木街道の表一丁目で左へ曲がれば右手に豊川別院の大屋根が見えてくる、此方から見える角に山門があり寅吉は車夫に一時間ほど待つように頼んで三人で石段を上がった。 本殿は大きな屋根を右手に見せているが石段の正面に小さなお札所が見え、其の右に参道を挟んで二つの大きな石灯籠がある、可愛げな石の狐の像が二匹参道を守護している。 本殿脇で祈祷を頼み、階を上がると拝殿に控えて祈祷の準備が出来るのを待った。 「大岡家の墓所は大名になった時の領地の三河ではなく、相州は藤沢の先小出村という奥まった丘陵に有るそうだ」 廟の右手には奥の院があり新しい境内に係わらず「豊川咤枳真天」と書かれた幟が数多く立っている、勿論何処へでも手をあわせる容に従って此処へも参詣した。 「貴方、たしか宇賀神といえば弁天様」 「そうかもしれんな宇迦御魂命と宇賀神王か、だいたい昔の人は大雑把に名前が似ていれば拝んでしまうから。坊さん達が霊験あらたかだといえば信じてしまうからな」 「太郎稲荷といえば立花様のお稲荷様かしら」 「そうだ上屋敷に下屋敷も稲荷は昔には随分と繁盛したようだが、徳七郎稲荷には思い当たる場所がないな」 「あちきもこのお名前は初でござんす」 山門から出て車夫を呼んで桐畑の岩附屋だと告げて乗りこんだ。 昼には早いと思った寅吉だが顔なじみの仲居がすぐ支度をすると言うので2階座敷へ三人で上がり車夫は入れ込みでうな丼をあてがった。 「貴方此処まで来たのに喜斎さんのお墓へも行きませんと」 「そうか寺は廃絶したが墓地はあるからよって見るか」 二代広重、鈴木立祥(森田鎮平)宝誉樹林信士は明治2年9月17日に43歳で亡くなった、グレゴリオ暦だと1869年10月21日だ。 一時間ほど飯が炊き上がるまで時間があるので寅吉は燗をさせた酒を容に断ってから了介に杯に2杯だけ飲ませた。 容は自分の車を花など商う店で停まらせて花と線香を買い入れた。 新橋から蓬莱橋を渡り木挽町のピカルディ前で寅吉が一人二円さらに容が五十銭を出して与えたので車夫は何度も礼を言って店に入る三人を見送って戻っていった。 「コタさんの旦那今日は何処まで御出でですか」 「おお今日はおっかさんに顔を見せて其のあと上野の博物館と動物園を回る予定さ」 「そういえば今朝御出でのお客様がご家族で昨日行ったそうですが。博物館は土曜日なら子供は一銭で入れるが日曜は二銭五厘もとるそうだと話しておりましたわ」 「ほい、そいつは気が付かなかった随分と差があるんだな。子供は半額だというから大人は今日だと五銭取られるのか」 「はい然様でございますよ。動物園も昨日は子供が半銭だったそうですが此方も日曜は一銭掛かるそうです」 寅吉は前に従道から聞いた狼が観たいのさと言いながら、今の了介ほどの子供のとき河馬が来たと言うので観に連れて行ったもらったのを思い出していた。 「浅草に造っていた富士山縦覧場は行かれませんの」 「開場したとは聞いたよ。大分人気が高いそうだ、お城はおろか富士に筑波山までが見渡せるそうだ」 カイロでは清次郎が今日の予定を話している。 「お昼までは同一行動、昼食の時私の予定に付き合う人と別行動をする人は申し出るようにしてください。ガイドによると新しく丘の上の要塞に作られたモスクは女性でもスカーフをかぶれば入れてくれるそうです」 9時に迎えの馬車が来てモカッタムの丘とモスク、丘を降りて博物館、一時頃一度出て昼食、観残しがあると思えばもう一度入館、其の後は夕方まで教会廻りだと説明した。 「明日からの予定ですが12日は馬車ごとの自由行動。2時30分ホテルに集合、夕刻5時発のクララを見送って6時のイスマイリアへ向かう列車に乗ります。イスマイリアには8時15分到着でホテルでは9時30分からの食事の予約が取れています。13日と14日は予備日ですので付近の散策や休養に当ててください。船は14日夕方到着ですのでホテルで7時に夕食、乗船は夜10時になります」 明子たちはメモを取って見せ合いながら如何するか話しあっている。 東京では連雀町で玄関先へ出てきたおつねさんの顔を見て、パンと横浜の土産をわたし、上野までむかった寅吉たちだが、動物園を出てコンドルの洋風の本館に比べて日本風の博物館の入り口近くで三人の前に現れたのは蓮杖さんだ。 「おい久しぶりだ」 「何だ蓮杖さんですか。つい先月ヘベさんと三人で飯を食ったばかりですぜ」 「なに、お前さんじゃなくてお容さんと了介だよ」 「其れもそうだな。珍しいところでお会いしますね」 「実は其のヘベさんが昨日亡くなってな」 「エッ本当ですかい。そいつは。確かわっちと一つ違いの四十六の筈ですぜ」 「天保十三年の生まれだそうだ」 「それで葬儀は」 「明日だ。今日俺は抜けられない約束があって公園まできたのだが、もう帰るがどこかで飯でも喰うか」 「良いでしょう。博物館は逃げやしませんから。しゃも鍋なぞどうですか」 「寒さが増してきたから良いだろう。玉鐵が蠣殻町に出した支店が評判だ」 「そいつは好都合だ、夜は其処へ行くつもりでしたよ。幸い其処に人力も四台いるからすぐ出かけますかね」 華族会館前に出た人力車は上野駅の線路に沿って南へ降りると広小路の馬車鉄道に沿って黒門町、末廣町と過ぎ京屋時計店の前で先頭の容が指図したのか先ごろ決定した荷物停車場予定地の先花房丁角を左へ入った、佐久間町河岸を抜けて佐久間橋を渡ると右へ曲がり和泉橋を渡った。 荷物停車場予定地は鎮火社が在りいつしか秋葉社と呼ばれていたが近々移転だ、火除け地はアキバッパラと呼ばれ、チャリネも此処で興行をうっている。 岩本町を抜けて材木町先の甚兵衛橋を渡れば小伝馬町そのまま進んで高砂町の郵便局の交差点を右へ折れると玉鐵の店がある。 鎌倉鉄の井(くろがねのい)は高さ五尺余りの鉄観音(くろがねかんのん)の首を掘り出したことから其の名が付けられた井戸で、扇ヶ谷に有った新清水寺(しんせいすいじ)に伝わる丈六の観音像の頭部が火事のあと行方不明だったもので、江戸時代に掘り出され、お堂が井戸の後方に造られ安置されたのだが、鉄観音堂が廃仏毀釈で取り壊されると明治六年深川御船蔵前に移され、再度蛎殻町へ明治九年に移されてきた。 容は二十銭の車賃に五銭を別に渡して車をかえした。 座敷女中二人に十銭ずつ与へ余分に肉が欲しいからと六人分のしゃも鍋を誂えた、暖かい部屋なのでビールを出させて「ご膳はあとでお頼みしますから」と頼んだ。 鳥すきの〆に四人分のご膳に玉子は三個取り寄せるとザクを足し入れ、割り下をたし溶いた玉子で閉じさせると玉子は半煮えくらいで寅吉は蓮杖に勧めた、レンゲですくい飯に掛けると「こいつはいいなまるで深川飯のようで幾らでもいけるぜ。鳥も煮込みすぎと思えない美味さで葱も甘みが増したぜ」と蓮杖さんはご機嫌だ。 「コタさんはいつもこんなことやらせているのかい」 「この店はおっかさんや小唄のお師匠さんのお気に入りでな、この前来た時におっかさんたちと特別に頼んでやったばかりさ。横浜の家では醤油味の時は深川飯も牛鍋の残りもこの玉子で閉じるのが定番さ」 「なんじゃ、浅蜊に蛤其れと牛までも玉子でとじてしまうのか」 「そういうことだよ。砂糖をたして甘くしてもいいもんだぜ」 「江戸前の悪いところは甘すぎるところだが、上方風は物足りねえしな」 「横浜の三奇人も嘉右衛門さんが残るだけで、浅草の奥山名物五人男も残るは蓮杖さんと椿岳さんの二人だけか、いや椿岳さんは処替えだから蓮杖さん一人か、さて奇人のもう一人の吟香さんは銀座名物男とでも言うのかな」 「コタさん其れはないぜ。それに三奇人も五人男も何で俺が入らないといけないんだ。俺はありきたりの普通人さ」 「折角の写真屋も流行っている盛に横浜から東京に移ると茶店に絵を飾ったり、浅草で開業するまもなくやめて覗きからくりなぞ見せてるかと思えば、人形を造って見せたりと誰が見ても聞いても変わり者に違いあるめえ。厩橋の裸の大人形も最初は蓮杖さんかと思ったぜ」 「違う違う。俺じゃねえよ、何度も言わせるなよ」 奥山名物五人男は山本笑月の明治世相百話によれば花屋敷の東側、道を挟んだ向かい側の蓮杖のほかには墨竹仙人(野馬一道)明治16年浅草に現れた当時104歳(102歳とも)、ヘベライこと北庭菟玖波(筑波)、淡島椿岳(淡島堂から明治十七年向島の弘福寺門前梵雲庵に移る)、植木屋六三郎方の羅雪谷(中国広州画人)。 菟玖波は蓮杖の隣住まいでその蓮杖が写真館を閉じた頃にはすでに写真館を開いている、浅草には蓮杖の弟子の江崎礼二も明治六年に奥山六十六佛堂北側(浅草公園五区、現在の浅草病院東端)に店を構えているし写真館は年を経るごとに大流行だ。 蓮杖は明治九年四月ごろ油絵茶屋に蓮杖描く台湾戦争・函館戦争の油絵。他画家の五姓田芳柳(ごせだほうりゅう)義松親子、司馬江漢、高橋由一、横山松三郎、亀井兄弟、国沢新九郎)を開いて茶代を取って絵を鑑賞させたり(蓮杖の絵は薬屋守田宝丹の手に渡り、明治二十年四月上野不忍池弁天堂で公開されたあと所在不明となるが平成三年秋に靖国神社遊就館で見つかる)、御安見所コーヒー茶館とも言われる。 淡島寒月は自分の父親の椿岳が万国一覧と称した覗きからくりを明治四年か五年に伝法院において一銭で見せてお茶を出したと書いている。あまりにもはやって忙しいのでやめたとも、其れと蓮杖の絵が靖国神社遊就館にあるともこの時すでに記述してある。 明治四十二年六月『趣味』第四巻第六号諸国の玩具。 「俺もいい年だが後寿命はどのくらいある。例の千里眼には見えるのか」 「そうさな嘉右衛門さんと同じくらいか。いや蓮杖さんは65歳か嘉右衛門さんが56歳。二人ともあと30年は少々無理かもな。俺は嘉右衛門さんくらいの年まで行くだろう」 「オイオイ90過ぎまで生きてしまうのかよ」 「元気な爺さんもいいもんだぜ。俺も精々其の気持ちでやるつもりだ」 キリスト教に改宗している蓮杖なので寅吉はあえて豊川別院へ寄った事は言わず、連雀町でおっかさんの顔を見て動物園で狼を見たこと、あの後博物館へ入るつもりだったと話した。 容が勘定を済ませる間に寅吉は自分の洋財布を蓮杖の懐へ滑り込ませて「之でヘべさんの葬儀に華を添えて呉れ」と頼んだ。 其れを見ていたほかの車夫にも「一円で新橋までだよ。別に旦那様から祝儀が出るからゆったりとやっておくれな」と銀貨を渡し三台に分乗して親父橋を渡ってゆくように頼むと店の女将に送られて新葭町へ入った。 9時15分発に乗れるので11時までに家に戻れると容は了介の学校の事もあるので安心した様子だ、三人で上野の動物たちの事を話しながら容はすこし眠そうな了介を自分のケットの内に引き寄せて待合室に入った。 |
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話は正太郎のパリから大分ときも過ぎました。 横浜幻想のアンテロープ編の1872年(明治5年)からだと12年後(第1回時点)の横浜です。 今回の話の中心は了介と明子になります。
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2011年02月01日 2011年02月05日 2011年02月13日 2011年02月19日 2011年03月11日 2011年08月03日 2011年11月06日 続く |
幻想明治 | 第一部 | ||
其の一 | 洋館 | ||
其の二 | 板新道 | ||
其の三 | 清住 | ||
其の四 | 汐汲坂 | ||
其の五 | 子之神社 | ||
其の六 | 日枝大神 | ||
其の七 | 酉の市 | ||
其の八 | 野毛山不動尊 | ||
其の九 | 元町薬師 | ||
其の十 | 横浜辯天 | ||
其の十一 | |||
其の十二 | Mont Cenis | ||
其の十三 | San Michele | ||
其の十四 | Pyramid |
酔芙蓉−ジオラマ・地図 | |||||
神奈川宿 | 酔芙蓉-関内 | 長崎居留地 | |||
横浜地図 | 横浜 万延元年1860年 |
御開港横濱之全圖 慶応2年1866年 |
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横浜明細全図再版 慶応4年1868年 |
新鐫横浜全図 明治3年1870年 |
横浜弌覧之真景 明治4年1871年 |
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改正新刻横浜案内 明治5年1872年 |
最新横浜市全図 大正2年1913年 |
横浜真景一覧図絵 明治24年7月1891年 |