横浜幻想
 其の二十 Grotte de Massbielle 阿井一矢
グラット・デ・マサビエール


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Bordeaux1873年7月1日 Tuesday

ノエルと約束したルルド行きはやっと実現した。

正太郎は忙しいようだ、ルルドから帰るとすぐ今度はディジョン行きが待っているのだ。

ボルドーまではジュリアンも行き、そこで正太郎が付いてトゥルーズへ出てそこからルルドへ行くことになった。 

マルティーヌも参加させて5人は正太郎が迎えによこした馬車に荷物を運び込んだ。

「オ・ルヴォワール・ボンヴォワイヤージュ」

カントルーブ夫妻が見送る中馬車はガール・ドステルリッツへ向かった。

10時発のバルセロナ行きは8両編制で正太郎とジュリアンはノエルと3人で1部屋、子供たち4人で1部屋を取った。

ジュヴィジー駅で貨車を後ろにつけるために10分ほど止まると勢いよく汽笛を鳴らして本当の特急らしく走り出した。

「ショウ、オルレアンまでどのくらいで着くの。帰りに寄るだけの余裕はあるかしら」

「帰りなら1日オルレアン見物をして泊まれるように時間を調節しますよ。あと2時間でオルレアンですから反対に戻るにも陽が落ちてからでもパリ行きに乗れば急行で2時間半」

旅の本を取り出してみて「オルレアン発夜の7時5分という特急がありますよ。それに乗ればパリへ9時00分到着です」

「あら上手く行けば2日は遊べるかしら」

「そう、上手く時間があればね。帰りにボルドーに寄るならばと」
正太郎は時間表を見てボルドー発の朝の便は7時発の特急しかなく後は急行で11時発のパリ行きオルレアン到着は夕方の5時ですね。各駅停車でよければ9時発がありますがオルレアンには4時45分到着であまりいい物ではありませんよ」

「急行にしましょうね朝7時では忙しいだけよ。それに5時ならホテルへ荷を置いてから少し散歩が出来るわよ」

「ではその様に調整します。あルルドからの便との連絡の奴があるんだった。」

バルセロナ始発パリ行き特急はトゥルーズ発が13時20分。
ボルドー・サンジャン駅到着が14時40分、オルレアン到着19時10分
「これが一番のようですね。帰りがけのボルドーを省略しましょうか、そうすればオルレアンの日程の余裕が取れますね」正太郎はメモをして時間割を変更した。

話をしているうちにオルレアンに着いてスイッチバックで列車が元に戻りだすと隣の部屋から子供たちが急いでドアを開けて「どうしょう。パリのほうへ列車が戻りだしたわ」と騒ぎ出した。

ノエルもどうしたのかしらと心配顔だ。

「ショウ、お前説明してなかったのかよ。大丈夫オルレアンは行き止まりなのでひとつ前の駅まで戻ってからボルドーへ向かうんだよ」

ジュリアンが説明しているうちに機関車は勢いよく汽笛を上げて駅に着くともう一度汽笛を合図に力強く前進した。

2時間と30分でシャテルロ駅に着き給水で15分停車になった。

エビアンの冷えた物にベーコンと野菜の入ったキッシュを買って食べることにした。

アングレーム駅には2分ほど停車していよいよ次はボルドーだからと正太郎は子供たちにも教えておいた。

「到着予定は午後5時10分。パリから7時間10分でボルドー到着だよ、今3時31分だけどみんな自分の時計は合っているかな」

殆ど1分以内で誤差は見られなかった。

サンジャン駅にはジル・ビュトールが出迎えに来てくれていてホテルへ案内してくれた。

トゥルニー広場に抜ける通り、トゥルニー通りのピエールの店の真ん前にあるオテル・サーズだった。

「此処なら前はブラッスリーで俺たちの店にも近いぞ」

ホテルで荷を解くと目の前のピエールの店でカフェを飲んで今晩の街歩きはどうするか話し合った。

「ショウが立てた予定通りで良いわよ。馬車より歩くほうが良いわ、タカは大丈夫」

「私は元気です」

「それなら月の港を歩いて廻ってからお食事をして、明日はワインのシャトーでしょ」

「そうです。ネゴシアンのMアズナヴールと共にシャトー・ボーセジュール・デュフォー・ラガローズというシャトーを訪ねます」

「あら其れ横浜で春さんがショウが取引に成功したワインだと私たちに下さったシャトーね」

「そうです。ジュリアンとボルドーへ来た時に500ケース6000本の契約が結べて其のうちから100ケースを僕の分として横浜へ送りました。来年分の契約と今年の入荷の話をしにいきます。其のあとジュリアンが僕の分も廻ってくれて僕たちはルルドへ行くと言うことになります」

「ジュリアンごめんなさいね、大事な仕事からショウを引き離させてしまって」

「大丈夫ですよ。ショウが行かないとガッカリするシャトーもあるでしょうが事情を話せば判ってもらえますから」

ピエールの店を出てプレイス・デ・ラ・ブルスへ向かった。

「まぁ、此処は近くで見るより港の向こう岸から見たほうが綺麗に見えそうね。あの橋から見ましょうよ」

「良いですね実は僕は歩いて橋を渡ったことがなかったので」

「ま、ショウは無精者ね。馬車ばかり乗っていると体力がなくなりますよ。其れで随分長い橋だけどどのくらいあるかしら」

「ガロンヌ川の幅はこのあたりで500メートルくらいあるそうですよ」

プレイス・ブルゴーニュへ出てくると橋をそぞろ歩きする人たちが大勢集まってきていた。

行き交う馬車を避けて川下側を一同は歩き、港の漁船や蒸気船が忙しげに行き交う中に大きな帆船と、其れに負けない大きさの蒸気貨物船が眺められた。

正太郎はミチやソフィアに川下に20キロほど行くとボルドーの有名なワインのシャトーがあるメドック地区があること、明日行くのはサンテミリオンの村でこの先へ進むのだと言うことなどを話しながら先へ進んだ。

橋の上は風も有り涼しく、ボルドーの街は7時を過ぎて夕日に照らされて幻想的に見えた。

「ジュリアン、何度も来た街だけど此処から見るとまた違った町に見えるね」

「そうだな、今までは商売優先で観光という目で街を見ていなかったからな」

ジュリアンも暮れ行く街に徐々に明かりが灯されプレイス・ブルゴーニュの市門からのぞく町並みを見て溜め息をついた。

プレイス・デ・ラ・ブルスにもガス灯がともされてゆきガスコーニュ湾の彼方へ沈んでいくであろう夕日がいとおしかった。

税関に証券取引所はまるで宮殿のように明かりの中へ徐々に浮かび上がっていった。

一同は橋を渡りきると広場で暮れ行くボルドーの街に浮かび上がる教会の尖塔や行き交う船のランタンが旅情を誘い、舟歌が聞こえる中を橋を戻った。

「タカ疲れていないかい」

「大丈夫よショウ。まだ歩けるわ」

そういう孝子をジュリアンはその広い肩の上に乗せて橋の中ほどを歩いて進んだ、孝子が怖がらないように欄干から遠ざかったのだ。

「まぁ綺麗。此処からだととても遠くが見えるわ。ソフィアとても遠くの船までが見えて綺麗よ」

孝子は怖くないようで、其処から見える景色をソフィアに話しながらジュリアンと共に進んだ。

其の晩の食事はジュリアンが前に何度も来たというレストランが選ばれた、正太郎も1度だけ入った店だ。

サーズ・ベルナールという店はホテルへの道筋にありカンコンス広場が見渡せる2階席は落ち着いた雰囲気を見せていた。

サラダ・ランディッシュ、トロ・ア・ラ・バスク、オムレット・オウ・トリュフにスップ・デ・マイスを頼んだがジュリアンはノエルに断って「海老が苦手なのでプレ・バスケーズというバスク風チキン煮込みにするがほかに変更したい人がいれば」と言ってソフィアにもどうかと進めたが断られてしょぼんとした。

「ジュリアンは海老が苦手でしたの」

「最近結婚して魚は食べられるようになりましたが、牡蠣や海老は手が出せません」

「其れは残念ですね。お肉ばかりでなく野菜も食べることですよ」

「はぁ、かみさんが煩く言うので家では野菜攻めです」

そう言って一同を笑わせてくれた。

ポム・サルラデーズを大皿で頼んでそれぞれの皿へ取り分けて食べた。

「トリュフの香りがするわ、其のお皿には残っていませんこと」

ノエルがジュリアンに頼んでガチョウの油で炒めたジャガイモに隠れているトリュフを別けてもらった。

正太郎にはマツタケに比べて埃くさいと感じていた匂いにも敏感に嗅ぎ別けるノエルが、横浜に居たときとは違う別人のように感じられ、自分の勤めは果たしたからこれからは好きなこともしたいし、人生の幾許かは慈善も行うが、横浜に居たときとは違い、其れが全てでは無いのだと行動に現れるノエルがいっそう尊敬できる正太郎だった。

食後のマカロン・ドゥ・サンテミリオンは冷えていて美味しく思えるとセルヴァーズに「トレボン」とノエルは声をかけた。

ホテルに落ち着いてそれぞれの部屋に分かれたが、正太郎とジュリアンは改めて明日の契約と今年の買い付け予算などを話し合った。

「あの資金を使うか」

「そうですね去年の倍の買い付けをするにはそのくらいはないとね。一応持ってきた手形は2万フラン分ですが」

正太郎はクレディ・リヨネ銀行の手形をジュリアンに渡した。

2000フラン10枚の手形で、ジュリアンも同じだけ手付金に用意してきたはずだ。

「どっちを使う。エメの預金のほうにするかい」

「あれはまだ手が付いていませんから、1万ポンド分使っても良いでしょう。例のヴィエンヌの銀行破たんもフランスには大きな影響も出なかったし」

「まだ油断は出来んぞ。何時個人銀行が破綻してしまうか良く判らんからな。おいしい話で投資を呼びかけるところはこの際危険が大きいと思わなくてわな」

「そうですね。資金繰りが危ないのを隠すには配当を大きく見せて投資家の資金を狙うでしょうね。何処から調べるのか僕の事務所までそういう話が来るらしいですよ」

「お前さんはその筋では有名人だからな」

「その筋ですか」

「そうさ、裏社会ではお前さんが来るとごっそり儲けを持っていくと要注意人物だそうだ」

2人は腹を抱えて笑って、そういえばずいぶん行かないですから伝説にでもなったのかなと正太郎が言い出してまたジュリアンが「笑いが止まらんぜ。冗談はよそうぜ」と言い出す始末だ。

「しかしこの下に見える広場は広いな、パリのコンコルドに負けんほどあるぜ」

「そうですね、でもあの噴水には笑いますね水が馬の鼻から吹き出すなんて作る人は受けを狙いましたかね」

「本当だ、可笑しなものを作らせたもんだが、で明日はM.アズナヴールにも大分儲けさせることになりそうだな」

「まぁ、Mr.アズナヴールのおかげでボルドーからの出荷が容易ですから、持ちつ持たれつですよ」

「明日は、他のシャトーは廻らなくてもいいか」

「あまり精力的に廻るのもどうですかね。其れとノエルとソフィアが少し痩せてきているようで健康が心配なのですよ」

「そういえばタカもなんだか体が軽いぞ」

「例の虫ですかね」

「前にショウが退治してくれた奴か」

「そうです普通は豚肉の生でも口にしなければ掛からないそうですがね。ナポリ辺りで何か口にしたとすればそろそろ」

「それで薬は」

「あれはいつも持っていますよ。僕もルルドで借りた家に入ったら一緒に飲んでおきますが、ジュリアンも試してみますか」

「ピエールにでも頼んで煮出してもらうか」

「そうですね僕たちが出かけたら1日休むといって飲んでください。少しお腹が痛むでしょうが飲み過ぎないように。一応二日分置いていきますから間を3日ほど開けて飲んでください。最初の日に出なければ後はパリに入ってからで大丈夫ですよ」

翌2日メルクルディの朝のボルドーは曇り空。
一行はM.アズナヴールのよこした馬車2台に分乗してサンテミリオンの村へ向かった。

コート地域で町の西の斜面の位置にありサンマルタン教会の隣にあるシャトー・ボーセジュール・デュフォー・ラガローズではクロワ・ド・ボーセジュールの契約も無事済んで来年分の確保が出来た。

ボーセジュール・デュフォー・ラガローズの1868年から順次2000本ずつの契約も出来M.アズナヴールも満足いく取引だった。

男たちとは別にポーリーヌがノエルたちを案内して村廻りをしてお昼の食事をご馳走してくれた。

ジュリアンと正太郎が気を配っていると、ミチの外は食欲があまり無いようだった。

「疲れているようです。今日はこれからルルドまで行きますので」
ノエルがポーリーヌに気を配ってわびた。

「それならなおさら食べて置かないといけませんよ」そう言ってくれるがあまり食欲も無いようだった。

ホテルに戻り仕度をしてすぐにサンジャン駅へ向かい15時50分発の急行、トゥルーズ経由バイヨンヌ行きを待った。

トゥルーズ着17時55分、10分停車で其処からルルドまでほぼ2時間の旅だ。

その日はホテルに泊まり1週間契約で借りた家は明日にでも不動産屋から鍵を受け取ることにしていたが駅にその不動産屋が出迎えに来ていた。

M.ショウですね。お待ちしていました。実は巡礼者が余りにも多く訪ねてきたために私に相談がありましてホテルを明け渡す代わりに今日から家をお貸しできることにしました。申し訳ありませんがそうしていただけるでしょうか」

「其れは構いませんが食料品が買い入れてありませんが、どこかみせが開いているでしょうか」

「今晩と明日の朝の分はホテルが食事を届けてくれます、道すがらサン・ソヴォール・ホテルへ寄って食事の箱をもらって行く約束です。其の分は明日の朝9時に引き取らせますが食事代金はホテルのサービスです」

「では、よろしくお願いいたします」

駅から古い水車小屋がある小川を渡り墓地の脇から古い木の橋を渡り、ホテルが並ぶ中で新しい綺麗に装われた建物に着いた。

支配人が正太郎たちに侘びを言ってくれ「イタリアから来た人たちが困っておりましたのでムッシューのおかげで助かりました」そう言って自分も進んで食事の入った台とスープの鍋を運んでくれた。
ホテルから先ほど渡った木の橋まで戻り駅方向へ戻って先ほどの水車小屋から今度は左手の高台を目指した。

「マダム、ここからしたにみえるのが先ほどのホテルです。其の右手の岩山が泉のわく洞窟です。此処からあの岩山を目指して降りてゆけば木の橋が掛かっていて歩いてわたることが出来ます」
不動産屋はこの街の見取り図をノエルに渡して「おやすみなさい、良い休日に神のご加護を」と挨拶して去った。

その夜食事が済み寝る前に正太郎はノエルと体の変調について相談をした。

「そう気が付いたのね。黙っていてごめんなさいね。楽しみにしていたルルド行きなのでいまさら取りやめたくなかったの」

「それで相談ですが、明日は泉でお祈りして聖水をいただいてくることにします」

「少し疲れが取れてからでは駄目なの。1週間は此処にいるんでしょ」

「其れはさておいてスエズを出てから何か食事で豚肉料理を食べましたか」

「最初の寄港地で生っぽい肉が出て気持ちが悪くなってすぐ止めたわ。其のせいでナポリでは上陸が禁止されたの。仲の良い人の中には豚なんて一生口にしないといきまく人もいたわ」

「其れもしかしてミチは食べませんでした」

「少し遅れたので他の人が気持ち悪いと言うのを聞いて手をつけなかったわ。私たちも一口でやめましたよ。其れが何か」

実はとジュリアンが同じような症状が出た時東京のお琴様から頂いた薬を煎じて飲ませたところ回復しましたが、同じような症状なので明日聖水で薬を煎じて飲ませますと伝えた。

「あの紐のような虫なの」

「そうではないかと思います。回虫でソフィアの顔色があそこまで透き通ることは無いと思いますので」

「それで聖水は何で必要なの。Yokohamaで聞いたところでは聖母マリアの泉の水はベルナデッタ様でさえ病気平癒の顕は無いと言われているのでしょ」

「そう聞いていますがソフィアにミチ、タカとマルティーヌの4人には聖水が効果を高めると伝えるほうが効き目がありますし、虫が降りてきてもマリア様がお守りくださると言うほうが心強くなり辛抱して最後まで我慢できるはずです」

「そうそれで其の薬は持ってきているの」

「はい僕は幸い自覚症状がありませんが、必ず回虫の駆除剤と共に持ってきています。柘榴や他の物を混ぜてあるそうですが蜂蜜を買い入れてそれで栄養補給をしながら、明日の午後に飲んでもらいますので体力をつけるためにも朝の食事は軽くともしてください。そして夕食を抜けば次の朝までにおまるに取った虫の確認をして其処の裏庭で燃やします」

「判りました、正太郎も飲むの」

「体に害は無い薬にお琴様が配合してくださいましたので僕も付き合います。僕が出るようだとエメにもカントルーブ夫妻も感染している可能性がありますからね」
ノエルも納得して朝の食事が済んだら早速泉に出かけあとは体力を温存すると正太郎に誓った。


Lourdes1873年7月3日 Thursday

朝の食事を運んできたポルトゥールに不動産屋の家と大工の家を教えてもらった正太郎は食事が済むと早速出かけた。

駅近くの新しい家が並ぶ中にあるマルキ街にある大工を尋ねた。
箱を40センチ4方で人がまたがって座れるように6つ作ってくれるかと頼んで、前から取り出す中に納まる高さ10センチの入れ物も6つ頼んだ。

「ムッシュー3日ほど待っていただけますか」

「実は今朝方連れのマドモアゼルたちが夢にマリー・ベルナデッタと言う人が現れて洞窟から湧き出る泉の水を飲めば体から悪い虫が排泄物と共に降りるから、其れを必ず焼き捨てるようにと4人のマドモアゼルが同じ夢を見たんだ。昨晩此処へ着いた時にイタリアから巡礼に来た人にホテルの部屋を譲ったお礼だというのだよ。どうしても今晩に間に合わせて欲しい」

「あの方が夢枕ですか。そう聞いて間に合わせないのはルルドの人間じゃないといわれてしまいやすな。ようがしょ必ず夕方までに作りますがあっし一人では無理なので他の大工にも頼むので割り増しを支払っていただけますか」

「いいでしょ僕の考えでは6人分で40フランを用意できます」

「そんなにゃ掛かりませんよ。精々18フランというところですね」

「では中の箱を二つずつにして40フランを受け取ってください」

「ムッシュー、そりゃ気前がよいことで、必ずお届けしますよ。何処にお泊まりですか」

「ムッシュー・アブラームが貸してくれたブルターニュの丘のペンションだよ」

正太郎は5フラン銀貨を4枚と20フラン金貨を出して渡した。
必ず間に合わせますと大工のブリアンは正太郎を見送ると嬉しそうに手の上の金貨銀貨をジャラジャラと鳴らしながら家に入った。

M.アブラームの事務所は閑散としていたが主は機嫌よく出迎えてくれた。
正太郎は一週間分のペンション代金の56フランを支払い先ほど大工でした話をもう一度して裏庭の崖の下で木箱を朝に燃やすことを了解してもらった。

「何ごみを燃やす場所があそこにありますからそこで燃やしてください。本当に夢枕に立たれたのですか」

「そう4人のマドモアゼルが揃って同じ夢を見たと言うのだから間違いないでしょうよ」

其の頃ノエルはそろいの黒の服と白い帽子に金の鎖のついたロザリオを持たせてペンションに置いてあったビンを良く洗うとお湯で煮て、それぞれに持たせ丘からグラットを目指して歩いていた。

子供たちが同じ夢を見て其れが聖少女かどうかの判断は付かないながらもこの時期にその様な夢を見ること自体、ただならないものだという気持ちはノエルにも子供たちにも伝わっていた。

最初に其の話をしたのはタカでノエルと共に寝ていて夜中にうなされていたのは朧に気が付いていた、正太郎と交わした話をタカが知る由も無いのだ。

ガブ川の流れは強く幅2メートルほどの木橋が石台の上に架かっている
其処から見上げる川向こうの高台の砦は威容を誇っていて、急速に人が集まる街を見下ろしていた。

長さは30メートルほどの橋をわたるとホテルのほうから巡礼者が大勢思い思いの入れ物を手に持ち洞窟を目指していた。
ガブ川へ注ぐ水路を越えるとグラットを守るように真新しい聖堂、そこではろうそくが配られていた。

入り口ではバシリカ聖堂を立てる資金を集めていて、ノエルたちはそれぞれが5フランの銀貨を献金した。
リヨンの彫刻家であるジョセフ・ファビッシュが大理石でマリアの御姿をきざみグラットの入り口に安置されていた。

泉から湧き出た水は水槽に集められて、そこから細い口が3つ付いていて尽きること無く多くの人が汲んでも汲んでもあふれ出ていた。

ノエルたちは祈りをささげたあと、壜に水を詰めると後ろの人と交代した。
案内をする人が後に戻らず先へ進めば其処にも案内人がいますとノエルたちに声をかけてきた。

それに従って先へ進むと丘を越える道が整備されていてグラットの裏を回りこむように岩山の森に小道が付けられていて水路の水門へ出た。
昨日は気が付かなかった大きな建物が川沿いに幾棟も並び、遠来の客のためのホテルが急ピッチで建てられていた。

一同はペンションへ戻り正太郎が買い入れてきた蜂蜜をビスケットにつけて3枚ずつ食べ聖水を飲んだ。

正太郎は台所で薬を鍋の水に浸し竈に火を入れた。
1時間ほど煎じたものを夕方大工が台を届けてきた後で蜂蜜をなめさせたあと一同揃って飲み干した。

夜中にそれぞれは便意を催して台の上で虫が降りるのを我慢した、マルティーヌや正太郎とミチは回虫が幾許か出たがやはり3人は長い条虫を排出した。

正太郎はスープを作るようにミチとマルティーヌに頼んでそれぞれの箱を昨日用意した薪の上に並べた。
不動産屋と大工が其れを確認に朝早くから来て居たのには驚いたが、正太郎は黙々と積み上げて火をつける用意をした。

「ムッシュー。そいつがお告げの虫ですか」

「そうこれはテニアという奴です。この口があればもう大丈夫でしょう」

「聖水だけで出るものなのですか」

「念のため虫下しも飲んでもらいました。お告げを信じないわけではありませんが、念には念を入れることにしました。お告げは聖水を飲めというものでしたがまだなにか言いたそうでしたと一同が言うのですが言葉が良く判らなかったそうです。ただあの人がケ・ソイ・エラ・インマクラダ・カウンセプシウと言っていたから信じなさい、と言うことは判ったそうですが、其の言葉も僕が書き留めましたが意味がわかりません。同行のマダムがマリア様のお言葉ではないかと言われるのですが意味は解らないそうです」

「ムッシュー其れは聖ベルナデッタに間違いありませんよ。今は遠くの地にある修道院に居られますがここのことを今でも思っていなさるんですね。古い土地の言葉でQue Soy Era I Mmaculada Councepciouとマリア様はおっしゃったそうです」
ノエルも出てきて箱が燃やされるのを見ていた。

「マダム聞きかれましたか」

「はい、それで其の言葉の意味は」

「私は無原罪のやどり、と聖ベルナデッタが聞かれたそうです。其れをあなた方に伝えたと言うことは、あなた方もマリア様のご加護を受けられることを伝えたのでしょう。そして体から悪虫を抜いて清浄なお体にされたのでしょう」

神のご加護とマリアへの祈りをノエルが唱える中、薪の上の箱は燃え尽きていった。

二人が戻っていったあと体を清めて食堂で感謝の祈りをしてスープを飲んだ一同は元気を取り戻した。

「あとで歩けるようなら、またグラットへ感謝の祈りとお水を頂に行きましょうね。今晩は其れをお風呂に入れて体を清めましょう」
ノエルは一同に告げてお昼までベッドで休むように告げた。

「正太郎あの虫に罹らないようにするのには生肉に手をつけないだけで大丈夫なの」

「其れもありますが手を洗って清潔に保つこと。野菜などでも水洗いをいい加減にしないことが大事ですよ。回虫の駆除を年2回は遣る方が良いですね」

「そうねコタさんがお琴さんから言われたと健康に注意するのをつい船旅に浮かれた私がいけませんでした。土地の名物だからと軽い気持ちで手を出したのがいけませんでした。同じような虫に罹った人がいないか心配ですわね」

「フランス郵船に手紙を出してナポリの前の寄港地で食べた食事が原因らしいと言うことを教えてあげてください。此処からマルセイユまでなら手紙もパリへ戻る前に返事が来るでしょう」

「そうですねではすぐ書きますから出してきて頂戴。あなたの薬はフランスにもあるかしら」

「似た効果の物はあるそうです」

ノエルは手紙を書くとすぐに正太郎に出してきてくれるように頼んで寝室へ向かった。

正太郎は警察の前、教会の隣にある郵便局で手紙を出した、一通はマルセイユのフランス郵船宛、もう一通はパリのエメに宛てた物だった。
出てきた正太郎を警官が呼び止めて中へ招じ入れた。

「実はムッシューの聞いたお告げの事が広まっているのですがね。本当のことですかね」

「私は聞いていないのです。一行のうち私とマダムノエルは夢を見ませんでしたが残る4人は同じ夢を見たそうです」

「それで」

「お告げを解釈するとおなかに虫がわいたとしか考えられませんでした。それで私が持っていた虫下しと聖水を飲んでいただきましたところ今朝方大工のM.ブリアンに不動産屋のM.アブラームが見られたようにテニアという虫が体内から出てきました。急なこととなれない土地なので医者に相談する余裕もありませんでした」

「事情はわかりました。念のため医者に体を見させていただけ無いでしょうか」

「其れはありがたいのですが虫は燃やしてしまいました」

「私の娘も一度あの虫に罹りまして、その際この土地のマダム・ダニエル・アスランという女性医師に助けられました。診察を受けられることをお薦めいたします」

「ありがとう御座います。家を教えていただけるでしょうか」

「なにご案内いたしますよ」
そう言って警部の肩書きの有る机からその人は立ち上がった。

「ムッシュー私は警部のバリエといいます」
そういうと手を出した。

「僕はYokohamaから来て居りますShiyoo Maedaといいます。お世話をおかけいたします」

「なにこれも職務ですよ」

200メートルほど行くとバウス門に出た、一昨日の夜渡ったポン・ヴィューは其処から200メートルもなかった。

橋を渡り左の木立の間にその家があり警部が事情を話すと正太郎の借りたペンションまで同道すると言ってくれた。

「ありがとう御座います。私の使ったものは回虫と条虫に効果があるという薬です」

正太郎は肩に下げたサックから見本として持ち歩いている薬をみせた。

「これは何から出来ているの」

「柘榴の根と実の皮を干したものと回虫を駆除する海草です。私の国では海人草もしくはマクリといわれています」

「海草はDigenea simplexのことね」
そういうと薬だなから柘榴の乾燥したものとマクリを出してきて見せた。

「そうこれですパリでも売っていましたが名前が難しくて覚えられませんでした」

「勝手に名前をつけて高く売るお店が多いのよ。条虫の駆除は難しいけど口を確認した」

「はいいたしましたが。もう一度薬を飲ませる必要があるでしょうか」

「其れは診察してからね。もう出られるから馬車に乗って行きなさい。警部もこられます」

「ええ、署長には断ってきましたから大丈夫です」
警部は座席を正太郎に勧め自分は後ろの台に乗って体をベルトで固定した。

ペンションでは起きて玄関先を掃除をしていたミチが出迎えてくれて台所や窓の掃除をしていた一同を紹介した。

警部と正太郎を表に出すとマダム・アスランの診察が始まった。

「警部はこの町のお生まれですか」

「いやトゥルーズで生まれて育ったんだよ。この街に鉄道が引かれた7年ほど前に赴任してきた。なんせ年に30万人を超す巡礼が来るので其の整理に追われる始末さ、其れも泊まるところを確保しないで来る人が多くてね、教会の施設もホテルもまるっきり足りないのさ。君たちも予約したホテルに泊まれなかったそうだね」

「でも僕たちは翌日から此処へ入る予約をしていましたので其れほど困ることもありませんでしたしね」

正太郎が呼び入れられて裸に為るように言われた。

「ムッシューは随分体を鍛えているようね」

「ああ、これはバイシクレッテを売る商売をしていますので自分で乗ることが多いので自然と足腰が丈夫になって肩幅も広くなりました」

おなかの触診をして「これならムッシューには条虫はいないようね。出なかったんでしょ」

「僕とミチとマルティーヌの3人は回虫だけでした」

「そうそれでどこで感染したかという推察の話しは聞いたわ。あなた方の帰るのは7日後ね」

「そうです」

「其れ3日ほど伸ばせない。日にちを置いてもう一度今度は私の薬を試して欲しいのよ。其のあと2日は静養してからお帰り頂きたいのよ」

「判りました。時間と日にちの調整をいたします」

「良いわね。ムッシューは決断が早いわ。気にいったわ」

医者のマダム・アスランと警部が帰ったあと、今の話をノエルにして一同はグラットまで道を下り橋を渡って人の波に入った。

「ショウ折角たてたオルレアンの訪問でしたが、またの機会にしましょうね」

「いいんですか」

「だってこういう状況であちらこちらをめぐるより学校が始まる9月の前にもう一度機会を作ればこられますもの」

「そうしますか、ミチやマルティーヌはともかくソフィアにタカがあの状況では後のこともありますものね」

「マルティーヌはともかくミチにソフィアはリセへ入れるかしら。そちらも心配なのよ。パリへ戻ったら家庭教師を探すようかしら試験は8月の10日にあるのよ」

「僕がエメに聞いた話では得意分野がそれぞれ違うようですがコレージュ卒業の資格は充分認めてもらえそうですよ」

ノエルは前を行く4人を満足そうに見つめて正太郎に家庭教師のことを改めて頼んだ。

夜は消化の良い食事にして特にマルティーヌが作った野菜スープに入れられたにんじんは夏とは思えぬ美味さだった。
にんじんは好きではないというミチでさえ多めに入れてとマルティーヌに頼んだほどだ。

香りと味付けに使ったベーコンがとろとろに溶けるのにはノエルでさえ良く出来ましたと褒めるほどであった。

10時に表で星を見ているとアンタレスの西には火星が輝きを見せ、半月は其の真上に来ていた。
1時間近く星を見ながらワインのことバイシクレッテの事ブティックの行く末などを考えながら星を見ていると、パリへ戻ってエメとディジョンへ行く時のことも頭をよぎった。


Lourdes1873年7月5日 Saturday

マダム・アスラン医師の勧めも有り正太郎は不動産屋のM.アブラームのところへ3日間の延長を申し入れに出かけた。

「よろしいですよ。15日までは空いて居りますからお帰りの日か前日に清算をしてください。延長されても1日8フランです」

「メルシー、では12日の朝8時の急行での出立予定ですので今清算させて頂きます。それからあの聖水ですが」

「はいなんでしょう」

「パリへ持って帰るのに夏でも大丈夫ですかね」

「それならお持ち帰り用の壜が売られていますよ、駅前のマガザン・リリーという店に行けば壜の口を閉める口金付2フランで売られていますよ」

「ではこれから寄っていきます。メルシー・ムッシュー」

清算を済ませるとM.アブラームは朝7時に馬車で送りますのでその時間までにお仕度をお済ませくださいと親切に申し出てくれた。

雑貨屋の店では様々な大きさの壜が売られていて正太郎はボルドーワインの壜と似た黒っぽい壜を6本買い入れた。

店のマダムは口金の留め方と水を注いだ後すぐに口金で留めて其のあと乾いた布で壜を拭く様にしなさいと教えてくれた。

「決して先に拭いてはいけませんよ。綺麗に見える布地でも水より綺麗なもの等無いのですからね。溢れるほど入れて空気を抜いて栓をする事を忘れないでくださいね」

「メルシー、マダム気をつけて水を汲みます」

「此方へは初めてですか」
お喋り好きのようなマダムは正太郎に何処からきたのかも聞いた。

「ジャポンのYokohamaからです。今はパリに住んでいますがYokohamaにいたときにお世話になったマダムが留学生と共にパリへこられてルルドへ巡礼したいと言うので付いて来ました」

「あの、もしかしてあの方が夢枕に立たれた方々と言うのはあなた方でしょうか」

幾ら小さな町と言っても昨日1日で大分うわさが広がってしまったようだ。

「そうですが、僕と引率のマダム・ルモワーヌは夢に見ていないのです。4人のマドモアゼルが同じ夢を見たそうです」

「それでおなかから虫は本当に出たのですか」

「何でもバリエ警部の話ではこのあたりでも時々掛かる人が出ると言っていました。出たのは3人で出ないのも3人でした。全員が感染していたわけでは無いようです」

「それで其の人たちは今お元気なのですか」

「そうです。早い時期に虫が出ましたから体力が落ちていませんでした。医者のマダム・アスランはもう一度薬を飲んで退治できたか確認しましょうと勧めてくれました」

他の客が見えたのを機会に正太郎は壜を持って駅へ向かいビエの手配を頼んだ。

バルセロナ始発パリ行き特急はトゥルーズ発は13時20分発で其れに乗るにはボルドー行きの朝8時の急行へ乗れば朝を抜いてもトゥルーズで充分食事の時間が取れるようだ。

「ムッシュー此処ではすぐに予約の確認が出来ないのでお返事が明日の朝になりますが宜しいでしょうか」

「何時に聞きに来れば良いですか」

「朝8時に付く列車でビエが来るはずです。1等車なので間違いなく取れるとは思いますが万一と言うこともありますので」

「其れで良いです。もし取れないときはボルドーまで急行で行って其処から先は考えますから」

「もしそうなされるならボルドーで乗り継ぎされる手段も御座いますよ。ただ1等車の部屋が取れるかは保障できませんが」

駅の予約窓口の職員は親切に話を聞いてくれて計算した料金を仮払いという形で受け取りを渡してくれた。
正太郎は街歩きをノエルたちの健康が回復してからと決めその日はペンションに戻った。

駅から砦が見える其の真下の小川には聖ベルナデッタが生まれた家ボリーの粉ひき水車小屋があった。

彼女は2階の部屋で1844年1月7日に生まれたとパンフレットには書かれていた。

「こんな小さな家にふた家族が住んで生活して居たんだ」と正太郎には大変だった生活が浮かび涙も自然と浮かんでいた。

「横浜にもまだまだ苦しい生活の子が多いのだろうな。早く沢山儲けて役に立つ男にならなくちゃ」

ラ・サレットの聖母はアルプス、イゼール県のコール。

不思議のメダイの聖母はパリのバック街、愛徳姉妹修道会。

(Maison des Filles de la Charite de Saint-Vincent-de-Paul)

今世紀はフランスへの聖母出現が多く、教会も認める現象が多かった。

ポンマンでの出現はまだ2年しか経っていないのだ。

「ショウあなたが費用を全てだして頂いているのに心苦しいのですがこの街へ巡礼にこられる病人のために新しいオピタルの建設費用をいくらかでも寄付したのですが予備のお金をお持ちなの」

「はい持ってきて居りますよ。病院と施療院は何処でも必要ですからね。ノエルの分だけでなく全員の名前で寄付しても恥ずかしく無い額は用意できますよ」

「スゥルにお聞きしましたがあの方はサン・ジルダールの修道院でご自分の病と戦われているそうです。決してこの地の泉の水がご自分の命を永らえるものではなく神から与えられた命を全うしたいとお考えのご様子と伺いました」

両親も亡くなり本人も病魔と戦いながら修道女として看護助手を務めていたのだ。

パリへ戻ったらそれぞれが負担できる額を話し合って返却しますからと言うのを抑えて正太郎は「ノエル、パリへ戻るのに困らないだけ残ればいいお金を出すのですがそれほど気にせずにお1人200フランを寄付したとご記憶くだされば結構です。其れと僕への返却はそれぞれの留学と勉強の終了時点でお金に余裕があるときに話し合いましょう。ましてマルティーヌにミチとタカの3人には負担にさせたくありませんので」

「あらショウは私に負担させていいと言うことなの」

「そうだよ。君はご両親がお金持ちだからね、マドモアゼル・ソフィア」

「あら私はノエルと同じあなたの先生として特別枠で負担してもらえると思っていたのに当てが外れたわ」

「げ、先生枠ですか、そんな話ありましたかノエル」

「それわ、ショウが考えることでしょうね。私は関係ないわよ。でもショウがそういうなら私たちがお金持ちになったら払いましょうか」

「そういうことで納めていただくのが一番ですよ。タカの百合根もうまくいけば今回の分だけで3年分は確実に留学費用が出ますから来年はタカの分として僕が輸入して売りさばけば相当いい商売になるはずですよ」

正太郎はノエルに50フラン金貨を24枚渡し「6人分の1200フランです夕方にでも出かけますか」と聞いた。

「マダム・カンプラが来たら出かけましょうね。パンに鶏肉など買い物を頼んであるの、今晩は鶏肉のシチューよ」

其のマダム・カンプラがきたのは教会の鐘が鳴り響く5時、留守を頼んで一同は聖堂へ出かけて祈りをささげたあと新しいオピタルの建設費用の一助にと寄付を申し出て受け取ってもらった。
ノエルは自分と子供たちの分として毎日6フランを教会に献金していたが其れとは別に新しい聖堂の建築資金への再度の献金として50フランを醵金した。

ディマンシュは朝から家の掃除に忙しい一同を何人かの人が訪ねてきたがノエルが応対するだけで子供たちは自分の仕事を果たしていますと断り、特に話をさせることはなかった。

ランディになって町に有る銀行へ出かけた正太郎はフランス銀行の手形1000フランを20フラン金貨50枚に現金化してもらった。

手持ちの現金は札を除けば200フランほどしかなかったからだ。
札を金貨に換えても良かったかなとは思ったがすぐ現金化すると言うので手形の換金にしたのだ。

昼に強い雨が降ったがその後は日差しが出て、ピレネーの山々も明日も上天気だと告げていた。

8日はマルディ、ルルドに入ってから7日目、本来なら明日には出立予定だったがマダム・アスランとの約束は明日薬を飲み12日に出発となったので今日はみなが揃ってご馳走を作ると張り切っていた。

正太郎は書き出された食材探しをマダム・カンプラと頼んでおいた馬車でタルブの町まで探しに行くことになった。
馭者はマダム・カンプラの次男のジルベールが勤めてくれた、正太郎では2頭の馬を上手くあやせないのだ。

「マダム、ルルドへ来る人はどんどん増えてホテルも増えたけどまだまだ商店の数は少ないね」

「そうなんですよ。仕事は増えても買い物する店が増えないとタルブの町が儲かるだけでルルドのものは貧乏なままですよ」

「肉屋と八百屋が少なすぎるかな」

「そうですがね、店を開いてもそれだけの品物が集まりませんよ。どうしてもタルブやポーの町にある市場へ取られてしまいますからね。向こうから売り込みに来るのは値段が高いですからね」

ベルナデッタがお告げを受けなければこの町は鉄道が引かれたかどうかも危うい場所だったのだ、ポーとタルボを直接結べば3分の2の距離で済んだはずだ。

「巡礼の人はまだまだ増えるでしょう。やはりホテルで働くのが一番でしょうかね」

「そうなんでしょうね。あとはペンションなどの長期滞在される方へのお手伝いに雇われる私たちしか仕事は無いかもしれません、ボルドーのような町が近くにあればともかく此処には他に何もありませんから」

「いえマダム。此処には人への優しさというかけがえの無い財産がありますよ。ベルナデッタが此処に生まれたのは偶然だけではありません。遠来の客を温かく迎えるという人情があるからこそ聖母から選ばれたはずです」

「ベルナデッタがあの方を見られたといわれたとき私やマダム・アスランも其処にいましたが私たちには見えませんでしたが、何かが私たちにも与えられたと感じました。其れがなんなのかマダム・アスランと違って無学な私にはわかりません」

「マダム、嘆くことなぞありませんよ。人の一生には必ず一度は自分で出来るかどうかわからない大事なことをすべき時がきっと来ると信じてください。其れがいつかをいうことは誰にも判らない事かも知れませんが、いつか神があなたを必要とされる日が来ますよ」

「ムッシューありがとう。あなたが同じ神を信じておられるなら宜しいのですが」

「残念ながらまだ入信をしておりませんが、僕の生活を支えてくださる方々はクリスチャン特にカソリックの方が多いのです。このフランスで暮らす決心さえ付けばいずれそうなるでしょう。今は敬う気持ちだけですが」

「そうですか。敬う気持ちがあれば其れは神を肯定なされておられるのですから同じで御座いますよ」

「ありがとうマダム」

2人は馬車の上でそういう話をしながらタルブへの行き帰りの時間をすごした。

正太郎は全てのキリスト教徒が慈悲心を持つとは信じてはいないがそれでも自分が育った環境の中では自分たちの信仰する宗教とは明らかに弱者に対する奉仕はキリスト教徒が勝っていた、プロテスタント、カソリックに限らずだ。

今の政府が落ち着いた政策を取る時其れが先生に、大先生、旦那が話す弱者に優しい政府になるのだろうかとついパリの政府と比較してしまうのだ。

「新しい大統領は弱者に優しいのだろうか」

つい声を出していた正太郎に「大統領ですか。こんな産業も無い町にまで目が届くでしょうかねぇ、そりゃ昔は異教徒の侵入、其のあとはスペインの侵入を防ぐ目的で砦を築いたんでしょうがいまさらあのような砦に侵入者を防ぐ力なぞありゃしませんよ」とマダムが答えた。

ペンションへ戻り馬車での往復の礼にノエルは10フランと買い入れた食材の中からマダム・カンプラの家族の人数に合わせた量を持たせて返した。

「マダムこんなに頂いていいのですか。此方様は家の掃除も、食事の世話も皆様率先してやられるので私は楽をさせていただくばかりで申し別けないのですよ」

「いいのよ、マダム・カンプラにはペンションの管理というお仕事の決まりがあるのですから私たちは私たちの務めを行うというわがままをさせていただいているのですから」

「そんなわがままだなんて、もったいないお言葉です」

遠慮するマダムを置いてミチとマルティーヌはさっさと馬車へ食材を運び込んだ。

母親をいたわるようにジルベールが馬車に乗せると親子は振り返り、振り返り見送るミチとマルティーヌにノエルの3人に手を振った。

「さぁ今夜はご馳走よ。皆さん自分の役割を果たしてくださいね」

ノエルの指揮で野菜の皮剥き、風呂場のしたくなどの準備にかかった。
下準備が終わったのは5時、正太郎がその日は留守番に残り、5人はいつもの服装で聖堂に出かけて行った。




Lourdes1873年7月9日 Wednesday

昨日の残り物で朝の食事を済ませあらいものは出てきたマダム・カンプラに任せて一同でグラットへ向かって丘を降りた。

「水を汲む前に町を一回りしましょう」

ノエルの言葉に正太郎も賛成してボリーの粉ひき水車小屋へ向かった。
小川の水は澄んでいて水車が廻り粉をひく様子が外からうかがえた。

一同は小川沿いを上へ向かい小川を渡ると警察署を目指した。
其の手前の電信局と郵便局そして古くからある教会へ出る道だ。

遠くから見える教会には途中までは四角くその上に時計がはめ込まれた8角形の鐘楼が乗っていた。
道を登って教会近くまで行くと其の先の右手に電信局と郵便局、其の教会の裏側に警察署が有る。

其の前の道を右へ進むとベルナデッタが聖母と出会った当時住んでいたカショーの牢獄跡といわれる家が残されていた。

案内の老婆の話だと此処は今でこそ明るいが昔はじめじめしていて裏の庭には奥にあった鶏小屋の糞が積まれていたと話し「其の家にカピューレ(被り物)さえひとつしか有りませんでした」と当時の悲惨な生活をなおさら悲しそうに語った。

ノエルは2フランの銀貨を与えて其の牢獄跡の家を出て溜め息をつきながらバウス門を通り抜けて墓地の脇からポン・ヴィューへ出て橋を渡りマダム・アスランの病院に一同が挨拶に寄った。

「夕方6時に薬を持っていくわね。お昼はビスケットなら3枚くらいまでは良いわよ、あと果物も少しだけ其のあとはハチミツとお水だけでがまんするのよ」

優しくタカの顔を見ながら一同に説明をもう一度繰り返した。

「このあとグラットへ行くのでしょうが家に戻ったらお仕事をしないで歌を歌うなり本を読むなりして家で過ごすのよ。マダム・カンプラには今晩は泊まって私と薬を飲むように言ってありますからね、2人の台は私がもって行くわ。あれは便利ね内側の箱だけ燃やしても外側は消毒しておけば何度でも使えるわね」

ノエルが代表して礼を言って「では6時にお会いいたしましょう」とポン・ヴィューの周りのホテルへの道へ戻った。

まだ水門があり水路も水車小屋もあるが其処は埋め立てられて新しい聖堂が其処からグラットにかけて建てられる予定なのだとマダム・カンプラは話していた。
製材所はすでに作業はしておらず駅の先に移動していた。

今教会はこの地に多くの宗教施設と治療院を建てるために土地を手に入れ、其の施設を建てる計画を50年先、100年先を見据えて計画しているのだ。

水門を超えるとまだ牧草地になっている川岸は護岸工事に使うのか大きな石が集められていた。

何時ものように1人1フランの銀貨を献金してろうそくを受け取りグラットの前に供えた。

壜に水を汲むと木橋を渡って丘の道をたどりペンションへ戻ると普段着に着替えて静かに午後を過ごしたが正太郎だけは駅へ出てビエを受け取った。

「ムッシュー、ご指定の1等車です。荷物は当駅で急行の30分前でしたら無料でパリまで旅行バッグ2個が持ち込み荷物以外に送れますよ。パリのガール・ドステルリッツでポルトゥールが責任を持って部屋へお持ちいたします」

「ほぉ、いいサービスですね。自分たちの部屋へ持ち込む以外に二つですね」

「そうです。お1人通常の旅行サック二つまでですが」

「ありがとう。其れだと部屋が大分楽になるので助かります」

正太郎は礼を言って駅を出るとマガザン・リリーでこの間の壜を12本と其れを入れる旅行用のサックを3つ買い入れた。

ノエルはそんなにも持って帰るのと驚いていたが正太郎がマダム・デシャンたちやサラ・ベルナールにディジョンのエメの両親へのお土産だというと納得してくれた。

5時の鐘がなりノエルは着替えを済ませていた4人とグラットへ出かけて戻ると一同に蜂蜜の溶かしたお湯を飲ませた、マダム・カンプラがライムを絞りいれたので美味しく感じられて空腹は抑えられた。

マダムはこの家のものと長い時間いたので今晩此処に泊まり同じ薬を飲むように医師から言われていたのだ。

6時にマダム・アスラン医師が来宅し、医師も含めた8人で薬を飲んで台所に集まると、正太郎が話すパリの街、ジャポンから戻ったノエルの話しに聞き入った。

医師はマダム・カンプラと部屋を同じくして明日全員の降りるであろういずれかの虫の確認をしてくれることになっていた。

「7日あれば卵があっても孵っていますからこれで出ても出なくとも半年は大丈夫ですよ」

時々話は其処へ戻りまた横浜の街の事へと戻りパリの街での流行り歌、流行の服、流行の食べものにと聞き上手の医師の手で楽しく時間は過ぎていった。
時々入れられるライムと蜂蜜の入った暖かいカップは一同の心を和ませた。

翌10日、ルルドからは朝日を受けるピレネーの連峰が爽やかに聳えていた。

正太郎は自分の箱に何も見えず安心したが医師とマダム・カンプラは呆れた顔で自分の箱を持ってきた。

「驚いたわ健康に気を配っていたのに此処まで虫が降りるとは思わなかったわ。マクリという海草は柘榴と相性がいいようね」

「ムッシュー、私こんなに虫がいたなんて気が付きませんでした。明日にでも家族を説得して先生に薬を調合してもらいますわ」

箱を受け取ると井戸で石鹸を使い手を洗わせ、あとはマダム・アスランに任せて他の者が箱を持って出てくるのを待って同じように手をあらわせた。

幸いテニアは節も確認することもなく回虫が少し出るくらいで心配するほどのこともなく確認に出てきたノエルもほっとした様子だった。

「マダム・アスラン此方の住人の方に健康診断と回虫駆除を実施するのに全ては無理でもせめて子供だけでも出来ないのですか」

「そうですね教会関係の方々と定期的に実施できるように相談してみますがそれだけの予算を集めるのが大変なのですわ。其れとそれだけ大きくやるのはある程度の人数で試して効果があると言うことを証明しないといけませんわね」

「大分お金が掛かりそうですわね。教会の施療院へ寄付する前なら良かったのですが」

「そういえば。1200フランも寄付されたそうで」

医師のもとにはそういう話までが届いているようだ。

「薬は1人分が2フランも掛かりませんがこれが100人200人では済まない話となると半年に1回の実施も難しくなりますからね。回虫だけなら半分以下で出来ますからまず其処から始めることにしましょうかしら」

「先生、僕が5000フラン出しますから町と教会に話してルルド全体で行いませんか此処でやるように虫が出ても出なくとも当日の排便共に燃やせる設備があればいいのですが。誤って畑にまかれたり川に流されては元も子もありませんからね」

「そうね10箇所に別けてやれば可能かもしれないわね。ホテルや旅行者までは無理でも何処かからでも手をつけないことには始まりませんものね」
クロワールへ戻った正太郎はフランス銀行の1000フランの手形5枚を出して医師に渡して其の管理を頼んだ。

「まぁ、フランス銀行の手形をこんなに大変だわすぐ銀行へ預けておかないと夜も眠れないわ、あなた一体何者なのこんなに凄い大金を無造作に渡すなんて」

「ショウはパリでワインの輸出と幾つかの町でバイシクレッテとブティックを経営していますのよ。よほどこの町のことが気に入ったのでしょうね」

正太郎はこの町が聖母から選ばれたことで町の人たちが困らない手助けの一部を担いたいだけですと医師に説明して手形を往診サックに入れさせた。

医師は下着を熱湯で洗って干しているのを見て着易くてよさそうねと感心してみていた。

「ボルドーでは売り出したのですがまだ此処では売る店は無いですか」

「ボルドーなの遠すぎるわね。姪がパリへ勉強に行くというから買い入れてみようかしら」

正太郎はParis Torayaの名刺を渡してこれを持って来れば安く買える便宜を図るように言っておきますよとShiyoo Maedaの名刺と共に渡してルルドにて7月10日Mercrediと書き入れておいた。
寅吉がやっていたように自分がいないときでも便宜を図ってもらう手段だ。

マダム・カンプラが一度家に戻り出直すというのに医師はついていくと言って自分の馬車で送っていった。
医師は正太郎が作らせた箱を全て貰い受けてその場でフェノールを吹きかけ乗ってきた荷馬車に積んだ。

あとで聞くと家族全員にペンションのことを話した上でルルドの役場を納得させるために協力して欲しいと頼み無料で駆虫剤を2回分渡すことで同意してもらったと戻ってきたマダム・カンプラがノエルに伝えた。

午後5時の鐘でノエルたちがグラットまで行くことは町中で知らぬものが無いほど知れ渡って居て、自分たちにも神の憐憫をと願う人たちは憧れの目で一行を見送っていたが中にはタカに向かって私の家族に直に聖水をかけてくれと頼む人がいて、ノエルが許すとタカは自分が汲んできた水を手の悪い人には手に足の悪い人には足にと振り掛けてあげるのだった。

その日初めてそういうことをしたタカであったが翌日パリへ持ち帰る水を汲むために3度にわたってグラットへ降りることしたのをどこで聞いたのかスゥルたちが自分の受け持つ病人にもと次は何時に来てくれるかと聞いて待ち焦がれていた。

実際、前日6人のうちで手が開かなかった子の手が開いたと言うことを聞いて多くの人が待っていたのだ。

なぜ多くの人がタカにそれを望むのかその日グラットへ来てくれたマダム・アスランにも判らないが最初に声をかけて子供の手が開いたと喜ぶ夫人は「あの人を見たときあの壜の水が効果を産むんだと感じられてとっさにお願いしてしまった」と医師に話したそうだ。

やけどの後遺症で神経と筋肉の麻痺が続いていた其れが聖水の効果で解けたと言うことなのだろうか。

パリへの壜と何時もの壜を一同は3回に渡ってペンションへ持ち帰ると5時の鐘を合図に最後のグラットと教会への感謝の祈りをささげに正太郎も付いてマダム・カンプラを残して丘を降っていった。

さっきまで親に背負われていた昨日と午前中にタカから聖水をかけられた娘が自分の手で松葉杖を使って体を支えていた。

タカは其の子の元へ駆け寄ると涙を流して慶びの声を上げた。

「そうよあなたは歩けるのよ。必ず自分の力で歩けるわ」

見た目は12くらいの子だがタカと同じくらいの背しかなかった子は「お名前を」と言って涙を流した。

「私はタカコ。ジャポンから来たのよ、コマン・ヴー・ザプレ・ヴー?

「私はアデレイド。メアリー・アデレイド・ジョスティンです。メルシー・タカコ」

其の娘は杖を手放してタカコに抱きついて涙を流していた。

両親が其の娘に無理をしないようにと自分たちのほうへ抱きかかえると「どうぞあなたの義務を果たしてください」とけなげにも我が子を抱きかかえてタカの周りに集まる人々から下がっていった。

タカは自分で汲み上げた壜の水をスゥルの勧める順番に嫌がる顔一つ見せず何度も何度も水を汲んできては其の小さな手を通して振り掛けて歩いた。

スゥルの1人が20時から祈りの時間おいでくださいとノエルに頼んだので其れを承諾してマダム・カンプラが聖水で沸かしたお湯で体を清めると正太郎を残して夕陽がさす丘を7時半に降りていった。

「マダムはいいのですがタカは大丈夫ですか。まだ夕飯も食べておられないのに」
マダム・カンプラはそういうと手が付いていない食卓を眺めて溜め息をついた。

12日の朝が来て最後のグラット参りへノエルが着いて5時の鐘で降りていった。

これが最後と聞いてタカからの手で聖水を振り掛けてほしいという人が多いので教会からも特別に頼まれたのだ。

昨日と同じだが違うのは列が二手に分かれタカはスゥルが付いて水を汲む順番に係わらず壜が空になるとすぐ汲んでこられるように神父が1人案内していたことだ。

早朝から其処にいた人は20人ほどだが新たに頼む人もいてノエルは正太郎にタカを預けて「あと30分したら戻ってきてくださいね」と任せると先にペンションへ戻った、6時半を過ぎてようやくペンションへ戻ってこられたタカを暖かいスープを飲ませてマダム・カンプラは涙ながらに別れの抱擁をした。
ペンションに最初からあった壜は台所に並べられて其れを見ているだけでマダム・カンプラが泣くのには正太郎も困ってしまった。

ノエルが「これはマドモアゼルたちからであなたへの感謝の言葉と気持ちが込められています。私たちが列車で旅立った後で見てくださいね」と最後の荷物を家から玄関先へ運び出すとマダム・カンプラに渡した

7時には迎えの馬車で駅へ向かい駅前に着くと見送りに30人ほどの人が来てくれていた。

「ボンヴォワイヤージュ」の声で送られた急行は駅を離れ見送りの人たちは急行が発車したあとも列車がカーブを曲がり、其の煙が見えなくなるまで駅で手を振っていた。

トゥルーズに付くとポルトゥールが自分たちの荷物を急行から降ろして駅舎に運び入れるのが見えて「手荷物も少ないし大分楽が出来るわね。いちいちチップを出さなくて済むなんていいサービスだわ」とミチは大喜びだ。

駅を出てブラッスリーを探してカスレ(cassoulet)を頼んでパンとチーズで食事にした。

羊の肩肉とトゥルーズ・ソーセージ其れと白いんげん豆が入った煮込み料理がカスレだ。

「最初の日にホテルがサービスしてくれたのとは少し違うけど美味しいわね。あそこのはガチョウの肉だったようだけど」

「そうだね、ソフィアが言うように町によって使う物が少しずつ替わるようだよ。ボルドーで前に食べた時はカルカソンヌ風だと言って羊のすね肉の塊を入れて有ったのをシェフが切り分けてくれたよ」

ブリック・ド・トゥ−ルーズというアーモンドのキャンディにスミレのキャンディと壜に詰められた水を買い入れて駅へ戻った。

5分停車の特急が駅へ着いて一同は清潔なシーツでくるまれた柔らかな椅子に座って誰ともなくほっと溜め息が漏れ、其れが可笑しかったのかマルティーヌがクスクス笑い出すとタカも笑い出しソフィアに伝染してミチまでが笑い出した。

「色々ありましたけどとてもよい経験でしたわ。最初は田舎で休養するつもりが随分違うことになりましたがね」

ノエルが前に体を寄せるように座る4人を眺めてにこやかな顔で話し出した。
小さな汽笛の音で列車は動き出し、いよいよパリへの旅が始まった。

バルセロナ始発パリ行き特急はトゥルーズ発が13時20分。

ボルドー・サンジャン駅到着が14時40分、発車は14時50分。

間のシャテルロ駅では15分停車、夜の特急とは随分違ってリボンヌ駅、アングレーム駅、ポワティエ駅、サン・ピエール・デ・コ駅には止まらないのだ。 

オルレアン到着19時10分、発車が19時25分。

パリ到着は21時15分到着で7時間55分の旅は楽しかった。

駅にはエメが2台の馬車で出迎えてくれていて、正太郎とエメは1台でノートルダム・デ・シャン街へあとの1台はモンルージュへ向かった。
カントルーブ夫妻が用意してある夜食を食べるとドウシュを浴び、歯を磨くと久しぶりの自分のル・リでぐっすりと眠りに付いた。



Paris1873年7月13日 Sunday

昨晩聞かされていた村田の帰国準備のこともあり早朝から2人でパリ中を馬車を雇って廻る正太郎とエメにはディマンシュどころではなかった。

ジュネーブにいた使節団全員が帰国に着くためリヨンへ16日集合、遅れたものは18日マルセイユへ必着、其れにも間に合わない物は自費留学、自費帰国という申請を出すことと為ったそうだ。

村田はわがままばかりも言えんよと司法修習生の一団と16日のガール・ド・リヨン9時15分発マルセイユ行き特急でジュネーブから来る使節団と合流することとなった。

村田にリヨンに居る3人の西陣織の研究生とあってくれるように頼み送り出す品物と直接持ち帰るものなどの話を忙しい正太郎に替わりM.アンドレが引き受けてくれた。

M.アンドレ自身も忙しいのだが新しい2人の女性事務員をMlle.ベルモンドが教育してくれたので余裕が有りますよと正太郎には安心するように言ってくれた。

正太郎は村田の荷物に10箱のワインとルルドの水を試しに1本加えて日本で腐っていないかの鑑定を寅吉に頼むように頼み込んだ。

村田と話をしながらルルドでの体験談百合の根が好評であり最初のオークションは3種150球の平均が26フランで有り今後値下がりはしても半値までには下がらないだろうとの予測を書いて病原菌検査をして送り出されるようにとも書き入れておいた。

5000球のうち撥ねられたのは210であったが掘り出す時に傷が付いたか洗う水もしくは箱の籾殻のせいかもしれないとも書いておいた。

其れは210球のうち180までが同じ箱であったためだ。

事務所に1本、村田に預ける1本を置くとメゾンデマダムDDへ向かい2本をお土産としておくとジュリアンの店へ向かった。

2本を置くと明日エメは10時に此処まで来て正太郎と3人で銀行へ行く約束と今晩はボルドーでの報告会と資金の話をしにここへ戻ることを約束してサラの家に向かい2本を手渡すと其処へエメを置いてまた馬車で事務所に戻った。

「ショウ。ムラタにカワジの部屋が空いたら誰か入れますか、3階はモニクたち3人が入っていますが、2階は男性にしますかそれとも女性が良いですか」

「お針子で入りたい人がいれば優先して入れてあげるようにしてくださいませんか。リヨンのようにお針子、売り子を指揮して自分の店を持ちたい人を養成するためにも長く勤めて欲しいですからね。先ほどいい忘れたけど」
正太郎は名刺を渡してきたこと向こうで世話になった医者の話などを上がってきて話に加わったマリー・アリーヌとサラ・リリアーヌにもした。

「それじゃ聖マリアのお告げを受け継いだ人からのメッセージを4人が夢で受けたのね。其の聖水ね」
机の上の壜を眺めてそれでも懐疑的な目で眺めていた。

「水に力があるというより僕には其れを信じる力によって起こる奇跡だと思うけどノエルたちはマリア様の慈悲だと信じていましたよ」

「そうよね。そう信じる力が奇跡を呼ぶんでしょうね。私には其の気持ちが足りないのよね」

「そういうけど。あのメダイは今日もつけているじゃないか」

「其れは期待をしてわいるけど信心じゃないから効き目は無いかもしれないわね」
2人は交互にそう言ってお昼を食べると下へ仕事に戻っていった。

正太郎はメゾンデマダムDDへ歩いて向かいマダム・デシャンとMomoやベティにも今の話を繰り返すと残りの1本を持ってドーベントン街へバイシクレッテで向かった。

汗みずくで到着すると二人がタチヤーナと出てくるのとかちあったがアリサはカテリーナとタチヤーナを行かせると正太郎を部屋へ誘った。

2人が汗を拭いて服をつけると其れを待っていたかのようにノックが聞こえた。
カテリーナとタチヤーナが冷たいメロンとハムやサラダの盆とシャンペンを持ってきた。

4人で暫く話をして正太郎は西園寺の家で村田や司法修習生たちの帰国についての話などをしてノートルダム・デ・シャン街へ向かった。

エメも帰宅していたので今晩はジュリアンと約束も有り着替えをして馬車でルピック街へ向かった。

ジャン・ピエールにバスチァン・ルーも来てボルドーでの成果や取引状況を話し合った。

「それで幾らおろしますの」
資金の担当はエメだ。

「今の状況だと来月支払う20万フランが有れば良いだろう」

「では1万ポンドをジュリアンの口座へ移しましょうね。其れで何時ごろ其の分の回収が出来そうなの」

「8月には横浜からの送金分がショウと俺の分で10万フラン、あとは今のところは大口は大分先だな」

「でも其の10万フランを戻して後は大丈夫なの」

「そいつは心配ないだろう。ショウのほうはどうなんだ」

「こっちはワインから現金が入らなくても大丈夫だよ。今日の話だとリヨンのほうへ後追いの資金の必要は無いそうだからね」

「モニクの話だと凄い売れ行きだそうだな。ペニーファージングが1日1台は売れるという話じゃないか」

「そうだってね。パリより売れるとM.アンドレが驚いていたよ」

ショウは当たり前のような顔だなとジャン・ピエールがジュリアンに囁いた。

「そうなんだぜ。リヨンではあいつが売れると今までの倍の注文をM.カーライルに出してからの出店だからな。予想通りなんだろ」

「そうでも無いよ、あそこでバスティアンが雇った人達のおかげさ。其のせいで僕が予想したより売れているのさ。おかげで投下した金額を3ヶ月で回収できそうだよ。アンベルスの倍は売れるとロンドンでも驚いているそうだよ」

「パリでも競争相手が多いからそれほど売り上げも伸びないしいい時期だったよな」

「パリはエドモンが支店を出せるならまた違う展開もあるだろうけど、此処はレースで競う者は少ない店だからねでも協力店のルジャランドル街のカミーユ・ローランはペニーファージングを月に20台売るそうだよ。店を広げようかと考えているが資金を出さないかエドモンに話があったそうだよ」

「俺も聞いたよ。賛成しておいたが本人は消極的なんだよ」

「イヴォンヌに言って何人か共同で資金を出しなよ。10人で2000フラン集めれば充分だろ其れをエドモンが代表してカミーユに提供すればいいじゃないか。ジュリアンが口を利いてあげないか」

「俺で良いのか。マガザン・デ・ラ・バイシクレッテはショウの店だろ」

「儲かりそうな話は出来るだけみんなで儲けようよ。僕とマリー・エミリエンヌで2口、ジュリアンとエメで2口、イヴォンヌとテオドールで2口。そうすりやエドモンが4口出すか後2口他に募集してもすぐ集まるさ。それ以上集まるなら規模もでかくなるだろうからカミーユが楽できるだろ、それで仕入れのほうを少し安くして上げれば其の分を配当に廻す約束に出来るだろうさ」

現在カミーユには1台380フランの卸で500フランでの販売、スミス商会はShiyoo Maedaに360フランだったものを先月から330フランにしてくれていた。

「1台20フラン引いて卸せば今の実績のままでも月400フランが純益に回り店員を増やしたとしても半年一度の決算配当で最低600フラン以上は株配当に出来るだろう。カミーユ60パーセント僕たち40パーセントと計算すれば2000フランに対して240フランが予想できるよ」

「ショウそれには予備費などの保留分が出ていないわ」

「其の分は余分に売ってくれないならお金を出す値打ちなど無いと言うことに為るよ。今の店を資産勘定して3000フラン僕たちで2000フランの株と言うことでジュリアンが口を聞いてあげないかい」

「良いだろうそれで今の店は買い上げるか借り上げるかどうする」

「買うと為ると資金が3万は必要になるからまず様子見でいこうよ。月100台売れる見込みが立たないといま3万はつらいだろうさ」

「そうだなあの男が何処までがんばれるかを試すいい機会かもしれんな」

ジャン・ピエールとバスチァン・ルーが一口ずつ乗ると言うのであとはイヴォンヌとテオドールにエドモンしだいだと3人を呼びにジュリアンが出て行った。

3人はそのくらいの資金なら無理なく出せると喜んで其の話に賛成して明日銀行で金を動かしたあとジュリアンがカミーユの店へ回ることになった。

翌日ジュリアンは正太郎とも相談をしてからルジャランドル街へ向かった。

「ムッシュー本当ですか。現在の店を評価額3000フランで新規投資額が2000フランでこの建物は私から店が借り受けると言うことですか」

「そういう事になるね。だが資金がよそから入ると言うことは帳簿などをしっかりつけないといけないよ。かみさんがいるならその人に帳簿を管理してもらうことだよ」

「家内は前は大きな工場で経理をしていましたので其れは大丈夫です。今呼びますので今の話をもう一度お願いできますか」

ジュリアンはカミーユが呼んで来た若い女性に同じ事を話して「まだ此処からはカミーユに話していませんでしたが。僕とショウが20台分のペニーファージングを1年間無利子で会社に貸し付けます。会社は純益の40パーセントを引当金として残して残りを配当金に廻します。それでよろしいでしょうか」

「とてもよい条件ですわ。それで此処を幾らで貸し付けていいのでしょうか」

「私たちの評価は、月120フランです。あなたの経理としての給与は前の工場では幾ら貰っていました」

「あの時は日に10時間週6日でて20フランでした」

「では1月160フランなら今の仕事に見合う金額でしょうな」

「カミーユは給与をいただけるのでしょうか。歩合なのでしょうか」

「彼は社長にふさわしい月1040フランを経費として入れて良いとショウも賛成しました。そして半年ごとに純益の60パーセントを配当とし、40パーセントは積み立てます。」

「では私たちは月1320フランを経費に計上してよいのですね」

「そうですそのほかに、カミーユは配当の内から60パーセントが受け取れます。ついては店員も優遇してほしいとショウの希望でした」

「今2人雇っていますが3人にしてもいいのでしょうか」

「勿論です」

「そんなに儲かると皆さん感じられたのでしょうか」

「それよりもあなた方の熱意を感じたというほうがよいでしょう。今働く人たちが支店として出るなりここを任せてあなた方が動くなりするだけの働きと売り上げがあればそのときはまたご相談に乗ります」

細かいことなどはショウの事務所が相談に乗りますからとその日はそれでジュリアンは引き上げてきた。

フェルディナンド・フロコン街の事務所で正太郎に説明して後はM.アンドレが話をまとめる事に為った。
休みに入ってアランと廻っていたセディも戻ってきたので正太郎はメゾンデマダムDDへ2人で歩いて戻った、建国記念の日なので事務所は午前中でお休みだ。

「どうだいエドモンとはうまくやれそうかい」

「いい子ですね。頭も良いようだけどエコール・エレメンタールの勉強より農業のコレージュが有ればそちらへ進みたいと言っていましたよ」

「エコール・エレメンタールだけはいかないと農業のコレージュを目指すと言っても入れ無いんだろ」

「そうだそうですね、順番は守らないと駄目のようですよ。ヴァルダン通りから歩いても40分くらいでいい農業コレージュがあるそうです」

「そうなんだそれなら希望のコレージュの試験を受けて良いと僕がいっていたと伝えてくれたまえ。まだ試験日まで間に合うだろ」

ドナルド爺さんのおかげで僅かの間だが5年生の授業に出たのでエドモンは9月から6年制コレージュの1年の資格が出来たのだ。

エコール・エレメンタール5年コレージュ4年でリセへの進学が可能だ、特別な飛び級もあるが殆どの場合其の試験を受けないようだ。

セディは1863年6月30日生まれ、4年を終了。

エドモンは1861年10月18日生まれ、5年を卒業。

べティは1860年9月5日生まれ、コレージュ1年を終了。

マルティーヌは1856年9月28日生まれコレージュ卒業。

ミチは1855年11月10日生まれ。

ソフィアは1856年3月15日生まれ。

正太郎は1856年1月8日生まれ。

エメは1854年4月14日生まれ、グランゼコール準備学級終了。

正太郎は自分が学校へ行くより今はこの人たちが安心して勉強が出来る環境作りに奔走していた。

そうだタカも居たんだと思い出したがまだこれからエコール・エレメンタールの1年で当分ノエル1人で大丈夫なのだ。

「そうだ誰かモンルージュへ家庭教師が必要だと言っていたんだ、昨日Mlle.ビリュコフに相談すれば良かったな。エメと相談して頼みに行くかな」

セディを連れて馬車でノートルダム・デ・シャン街へ行くと3人でMlle.ビリュコフを訪ねた。

「馬鹿ねショウは。昨日お土産を届けて散々うちでお茶をしていったのに其の時思い出さないなんて」
カテリーナと2人で笑ってこれから会いに行って決めましょともう1台馬車を呼んで向かうことになった。

正太郎はセディを案内に残すとエメと2人でモンルージュへ先行した。

「いい人に気が付いたわね。あの2人ならいい教師になるわ。私は飛び級をしたりして途中を学んでいないし科学や数学は得意では無いしね」

「其れが僕には一番の不思議さ。何でそれで絵を学んだりする授業が取れるんだい」

「其れはね私の専門が経営学というあまり女性がいない部門だし大体新しい部門だから広く浅くという方針であれもこれもとやらされるのよ。だから絵画彫刻は偉い先生がリセのときから特別授業に出てくるしね。9月からはグランゼコールも掛け持ちよ」

「例のコレージュ・ド・フランスのほかにどこか授業に出るの」

「そう、話すと正太郎が心配するだろうと決まるまで黙っていたけどパリ第4大学での授業に出ることになったのよ。さっき通知を受け取ったばかり」

エメは手提げから其の封筒を正太郎に渡した。

「本当は許可が出なかったら黙っていようと思ったの」
そういうと正太郎の頬にビズをした。

おめでとうという正太郎の言葉を受けて左の腕を抱え込んで「明日からのディジョン旅行から帰ると忙しくなるわ、少しくらい甘えてもいいでしょ」と甘い声で囁いた。

ノエルにいい家庭教師が見つかったとつげセディが案内してくるからと話をしているうちに其の馬車がついた。
2人の話し方や、Mlle.ビリュコフはソルボンヌ政治学の3年生から2年生に進級したことMlle.エーリンはパリ・ソルボンヌの経済学部への入学を目指してリセの2年から1年に進むことが決まっていたことなどがノエルたちには良い家庭教師となるだろうと見えたようだ。

Mlle.ビリュコフは数学専攻だと思ったけど違うの」

「まぁ、ショウは覚えていないのねそっちは卒業したほうよ」

エメも2学部を卒業するために入りなおしたとまでは知らなかったようで、二人は1850年1月30日生まれ23歳のアリサと1853年7月7日生まれの20歳になったばかりのカテリーナだと改めて自己紹介をしなおした。

「それでどのように授業を進めますか。私たちはフランス史、世界史、古代史などに数学、幾何と担当できますが文学についてはほかに頼まれるようにお勧めします」

「ランディからジュディまでの5日間朝8時から4時間、午後1時から3時間の7時間。8月10日のリセ試験までとその後の授業開始までの間の期間です」

「では私たちの得意で無い部門は私のパンシオンの学生を其のつど授業の講師に連れてくることでよろしいですか。私たちはバイシクレッテでこことの往復に使いますが天候の悪い時の馬車代を出してください」

「1日幾らで良いですか」

「授業1時間2フランでいかがかしら」

「判りましたそれでお願いいたします」

「去年はカテリーナが試験を受けたし、エメも経験者なのだから試験の傾向もわかるし、今月中に満足いくところまでがんばりましょうね。早速だからあなた方の学力を見ましょうね馬車は1台残しておいてね」
エメと正太郎はセディを連れて戻ることにした、朝からディジョンへ出るための仕度も有るからだ



Dijon 1873年7月15日 Tuesday

正太郎とエメはガール・ド・リヨン9時15分発のマルセイユ行きに乗った。

特急とはいえ止まる駅は多いが何度も乗りなれた列車だ。

ディジョンに12時55分到着、駅から出てエメがポルトゥールにチップを払っていると雲つくような大男が近づいて来た。

「は〜ぃ、クリス」

エメが手を振ると男は顔をくずさんばかりの笑顔で近づくと「やぁ君がショウかい。僕はクリスティアンだ」正太郎が名前を言うまもなく力強く手を握ると肩を抱きしめてバンバンとはたいた。

其のままエメが荷を積み込んでいる荷馬車まで引きずるように正太郎を連れてゆくと「聞いていたより若いな」と言い出した。

「ええ、いま18です」

「ホォ、それなら言い直そう。年の割には確りしているとな」

農夫そのままの頑丈な体のクリスティアンはエメの次兄だ。

「エメ、女たちが買い物をして来いと紙をよこしたがお前店を知っているか」

「なにこれムタールからパンまであるじゃないの」

「都会住まいのお前に田舎のパンでは口に合わんと言うのさ」

「そんなこと無いけど。あ、ジャンの言いつけね」

「そうだ、ジャンヌがミュロ・エ・プティ・ジャンで買って来いと言うのさ。ジャンは止めろとメールにも言われただろ、今はシルヴァンの嫁なんだし子供も2人いるんだぞ」

「ふん、あのおてんばが治ったとでも言うの」

軽口を叩きながら荷馬車を指図して広場の門の手前を右に曲がり線路がカーブしてきたところを其れから逃げるように左へ曲がると目指す店があった。

正太郎を荷の番に残すと2人で店に入り多くの買い物をしてきた。

「パンはちょっぴりじゃないの、ジャンが食べたいお菓子の方が多いわ。お金もどうせよこさなかったんでしょ」

「こんなに有ると思わないから俺が出すといったんだ。出させてすまないな」

「いいのよ、もうジャンは昔からそうなんだから。ショウこれだけで20フラン分もあったわよ。クリスが持ってなかったら私に払わせるつもりだったのよ」

「そういうな。いくら義理でも今はお前の姉だからな。次は何処だ」

「マイユ・グラン・プポンでムタールよ」

途中から狭くなった道を出外れたところに有るその店はパリのサン・タンドレ・デ・ザール通りに有る店と同じ名前の本店だと聞かされた店だ。

ここでも2人で大分買い込んできたようだ。

付近の建物の角にはふくろうが掘り込まれていたり、台に止まるふくろうが置かれたりしていた。

幾つか道を曲がると市場があり其処は外からのぞいただけで、通りの向かいにある肉屋ではハムやソーセージを大分買い込んだようだ。

大きな女神像が聳えたつ広場を抜けると其の先に線路を施設していた。

「こいつはブザンソンを通ってストラスブールまで行く線路だ1本だったのを2本に増やしてるのさ」

2人の話を整理するとソーヌ川の支流のドゥー川に沿ってストラスブールでパリからの線路と合流してミュンヘンに直結するそうだ。

ふたつの丘のぶどう園とシャトーを越えると眼下に大きな川が見えたソーヌ川だ、

川を越えるとオーソンヌの古い町に入った。

セーヌ川はディジョンでもこちらと真反対の山から流れ出しているそうだ。

このあたりはジャン・ピエールが受け持ちの場所でなじみのシャトーもあるのだろうが正太郎には良く判らなかった。

其処からはなだらかに上り坂が続き、高台を15キロも進むと右手にドゥー川が見えた。

其処から道を下り川が蛇行しているところの集落に入り橋を渡ると、東斜面なのか午後の陽がかげる道に入った。

其の道沿いの右手に10メートルほどの高さの石組みがあり先へ行くに従い道と同じ高さになったところに門があった。

門を入ると明るい庭には薔薇や百合の花に芍薬が一面に咲いていた。

其の中で花を摘む夫人に「メール。帰ったわよ」とエメが声をかけると転がるように駆けて来て馬車から降りたエメと抱き合った。

「この人が私のショウ」

エメが声をかけるとその人はショウを優しくだきしめて「お待ちしていましたよ。昨年はオウレリアたちから噂しか聞けませんでしたが、写真で見て想像していたよりたくましい人で安心しましたよ」そういうと少し下がって正太郎を見てもう一度抱きしめてくれた。

其の頃には家から何人もの人がでて、かわるがわる正太郎と挨拶をしてようやく家の中へ招き入れられた。

庭先から見た家はそれほど大きさを感じさせ無かったが、中はクロワールがひろびろとして台所とつながっていた。

正太郎がルルドから汲んできた水と聞いて3本のうちの1本が井戸で冷やされ、5時過ぎに買ってきたデセールと共に出されて栓があけられた。

「上手い水だが噂どおりの効果があるのかな」

シルヴァンもクリスティアンも首をかしげながら飲んだ。

「僕もこの水に力があるというより、聖母の授けてくれた水という話に自分の内面から力が湧くのだと思います。ルルドで全ての人の病気が治るという話はスゥルでさえしておりませんでした。ただスゥルの方々も聖母の慈悲の幾許かがあればその人にとって幸いであるとおっしゃっておりました」

「そうなんだろうな。幾ら信仰心があろうと水の力だけで効果があるというわけには行かないのだろう」
壜の水は居合わせたエメと正太郎も含めて全員で分けて飲んだ。

家は傾斜に合わせて建てられたらしく正太郎の部屋に用意された場所は一段下がった部屋だが其処についているバルコニーに出ると下にも部屋があるようだ。

右手を見ると同じような作りに為っていて、1階からは川へ向かって道が伸びていた。

エメが後ろに来て「あの川向こうの島になった場所がクリスの麦畑よ。普段は隣町でコレージュの先生よ。其れとあの川が蛇行している円の周りがいまシルヴァンとジャンが管理しているうちの畑よ。其のまた川向こうにシャトーのとんがり屋根の家が見えるけどあれがニコラの兄さんの家」

「向こうの斜面は牛がいるみたいだね」

「そうシュネーデルの家は牧畜が主体なのよ。昔はワインもやっていたけどそこは手放してしまったの。もともとはオーソンヌの町では羽振りの効いた家柄だったのよ。私たちの家はディジョンがブルゴーニュ公国として栄えていた時からの小麦の農家よ。マイスも作っているわ」

時間はまだ7時で西日が川面をきらきらとさせていた。

この川の上流はさっき線路が有った方向でミュンヘンまで続くと話をして「そうだ、ショウはリヨンでユゴー先生と会ったでしょ。先生の生まれ故郷はブザンソンの町なのよ。この川の上流へ25キロくらいかしら、でも2ヶ月くらいでマルセイユへ引っ越したんだそうよ。だからふるさとと言うのは当たってないのかな」

7時頃から兄弟夫婦に従兄妹も大勢集まり歓迎会を開いてくれ、12時を過ぎてお客の大半が帰ったあとエメの両親は意を決したように正太郎に話をしだした。

「ショウはまだ若いが立派に商売も行っているそうだが、将来エメと結婚をしてくれる気持ちがあるのだろうか」

「勿論です、私はエメが学校を卒業したあとに其の気持ちを伝えるつもりで居ります」

「それで君は宗教が違うが、其れまでにカソリックになってもらえるのだろうか」

「私はまだそこまで気持ちの整理が付いておりません。フランスに永住する気が固まれば其の時は入信することにためらわないと思いますが、ジャポンに帰る気に為る時エメが付いてきてくれるのかも、まだそこまで話し合って居りません。わが国は今年になって政府が布告によりキリシタン禁制の高札を撤去したと言うことで街中においてクリスチャンであると言って取り締まられることはなくなりましたので、ジャポンにエメが来ても肩身の狭い思いをする事は有りませんが、出来うる限りフランスで暮らせるように努力するつもりです」

「其れが率直な君の気持ちなんだね」

「はい、結婚をするとすればエメ以外の人を考えることはありませんし、フランスでエメと結婚するなら其れはカソリックに入信することになったとお考え下さって結構です」

両親は其の正太郎の言葉を信じてくれ、エメのことはよろしく頼むとハグをした。
この年の2月24日に横浜では太政官布告によりキリシタン禁制の高札を撤去していたのだ。

16日のメルクルディは朝から強い日差しが川面をぎらぎらと照りつけた。
クリスが迎えに来て朝飯前に2キロほど離れたエメが通った学校へ案内してくれた、此処で8年間学んでパリのリセに入るために伯母の家に寄宿したんだと聞かされた。

エメの前はクリスが高等師範に学ぶために2年間面倒を見てもらったと話してくれた。

クリスが教師をしているというコレージュはそこから5キロほどだといって「川上の方向さ、俺の生徒は18人6年から9年まででだよ。其れを2人で教えるんだ」とウィンクをした。

「ショウ、この辺りではコレージュとエコール・エレメンタールが同じ先生のところもあるしクリスの学校のように別の先生が教えるところもあるのよ」

「そうさ、パリやディジョンのように学校に生徒が100人、200人といるわけじゃないからな、俺のところでもエコール・エレメンタールを含めても今は41人しか居ないよ。それでも先生が5人居ると言うのは贅沢なんだぜ」

「そうよね私たちのときは巡回の教師がいて数学は其の先生が廻ってきてくれたわね」

「いい先生だったな、あの先生のおかげで俺もお前もリセに簡単に合格できたからな」

「食事を済ませたらアル=ケ=スナンの王立製塩所まで行かないか」

「何かあるの」

「うちの生徒たちと今日出かける約束さ、ショウはロバが扱えるかね」

「大丈夫です」

「では君に1台頼もう」

8時頃には子供たちの乗った荷馬車が10台ほど集まりエメの家の周りは賑やかに為った。

正太郎の荷馬車にはエメと大きな子が4人割り当てられた。
クリスが先生方を紹介してくれ子供たちには東洋のジャポンから来た紳士だと言うと自分の割り当てられた荷馬車から降りて正太郎を見に来る子が多かった。

丘をさらに登り林の道を抜けると其の先は公園かと見間違えるばかりに整地された半月状の建物群が見えた。

其の右側には塩を運び出すための線路もひかれていた。
其の半円の周りを向こう側に廻ると門がありそこから中へ招じ入れられた。

子供たちは先生に引率されもとのbatiment de graduation(鹹水製造所)の場所や様々な施設を見て周り、説明を聞いた後指定された場所でお弁当を広げた。
エメと正太郎の周りには多くの子が集まり、横浜の話パリの話など質問を交えて楽しく語り合った。

そんなに大きな船が沢山あるのかと素朴な質問をする子が多く、この山間部の村では機関車や川蒸気を見た子は居ても蒸気船も外洋航路の大型船は想像も出来ないようだ。
2時、子供たちは元気に荷馬車に乗ってSaline royale d'Arc-et-Senans(王立製塩所)を後にした。

エメの家で2人を降ろすと子供たちは手を振りながら自分たちの村へ向かって帰っていった。
其の晩も多くの人たちがこの家を訪れ賑やかな晩餐は夜中まで続いた。

翌日17日のジュディ、朝から強い雨が降って風が涼しさを運んできた。

エメと正太郎は川に沿って歩きシュネーデル家の牧場を見ながら川下へ向かい、小川に出合って其の流れ沿いに丘の上を目指した。
小さな茂みには木苺が実り野イチゴも小さな実をつけていた。

丘の上の集落ではエメと顔見知りらしい老婆に若い主婦たちが声をかけては何時まで居るんだねと言って明日帰ると聞くと残念そうにまたゆっくりとおいでと名残惜しそうに見送った。

さらに高台に登るとエメの家が小さく見えそこまでなだらかに道が降っていた。

家に戻ると12時、4時間ほどあるいたわりに疲れは無かった。
クリスが来てエメとルルドでの回虫駆除を町全体で行う方向だという話をこの付近でも行うにはどうするかという話を正太郎も交えて話し合った。

マダム・アスラン医師の連絡先を教え向こうでの実施方法を連絡してもらい此方でもまず生徒から広めようという話をした。

「兄さん予算が必要ならショウに相談してね。出来るだけ私も力に為るわよ」

「頼むよ。この付近では、はだしで牛の糞の上を平気で歩く子達が多くて困っているんだよ。医者や村長に各学校とも新学年度が始まる前に話し合いを持つよ」

「マダム・アスランは最高の薬だと2フランくらいと言っていましたから其れが医者の取る値段だと思います。回虫だけなら半分で出来るとも言っていました」

「それなら生徒と先生に実施しても付近5ヶ村で出来るだろう。生徒が9学年全てで170人のはずだ。先生が21人と補助教員が3名だから200人以下だな」

「其れでしたら僕の会社で1200フランを基金に出しますから、それに予算をつけて何年か続けられるようにしていただけませんか」

「ショウその1200フランと言うのは何か意味が有る数字なの」

「フランス銀行の手形が1200フランのを持っているからで特に意味は無いよ」

正太郎はセルヴィエットから財布を出して手形をクリスに渡して「これを預かってください。話が決まったら会計から僕の会社宛に寄付金の領収書を送ってください」とShiyoo Maedaの名刺を渡した。

「それなら予算が付かなくても3年は大丈夫ね。もし予算が付くなら近くの村全体で行っても大丈夫ね」

「其の時はエメも出してくれる気があるかい」

「勿論よ。今付近では何人くらい人が住んでいるのかしら」

「僕の学校の範囲は5ヶ村で1400人前後だよ」

「2800フランねそこから生徒を引けば1200人で2400フラン半分は持つわよでも毎年では無理よ」

「そりゃそうだ。パリでこっちに寄付したからと税金は安くしてくれないだろうが、ショウの会社は経費で落とせるのかい」

「認めて呉れるかどうか判りませんが健康のための寄付という名目は徴税院にいい印象を与えるでしょうね。ルルドのほうからもそのことを領収書に添え書きしてくれるそうですから」

「印象だけかい」

「そうでしょうね。取れる金は取らずに済ませては呉れませんよ」

3人は税金のことを話し合っていたがエメが台所に立った後クリスと正太郎は表へ出た。

「なぁショウ。俺は最初君のことを誤解していたよ。妹の財産を狙って近づく男の一人かと思っていたんだ。あの若さで相当の財産を相続して大丈夫かと思っていたところへ異国の君と恋仲になったと手紙が来た時は本当に肝が冷えたぜ。メールもペールも心配してパリへ行くと言う始末さ。兄貴がようやく止めてエメは子供の時から自立心も強くめったに人に騙される娘じゃ無いからと言うのでニコラに手紙で様子を調べてもらったんだ」

「ニコラですか。偶然同じアパルトマンの住人に居ましたが、親戚とは気が付きませんでした」

「そうらしいな、だからニコラの手紙で安心したのさ。君がエメと付き合いだしたのも偶然、エメとああいう中になったのもサラ・ベルナールが仲立ちのような形で偶然で君はエメが金持ちと言うことを知らなかったのが良く判ったよ」

「サラはエメが裕福だと知っていたのですか」

「いや知らないだろうとニコラはいってきた。今でもエメ自身があちらこちらの株を大量に所持していることは知らないのかもしれんよ。フォリー・ベルジェールの株の20パーセントを持っていることを知っているくらいだろう」

「そういえばなぜフォリー・ベルジェールで働いているかエメは話しませんでした。僕は勝手に学費を稼ぐためだと思っていましたが」

「あれはM.ダニエルの勧めで暫く店の実態調査をしたらしいよ。いくら株主でも如何わしいという噂を自分の目で見たいと思っていたらしい」

「品のいい店としてはまずまずなんでしょうね。ひどいところでは連れ出し料にシャンペン1本で店を出るそうですから」

「行った事あるかい」

「いえ、残念ながらというべきでしょうかね。ニコラがこういう店はやめとけよと教えてくれたところは近づかないようにしていますから」

「其れが良いよ、仕事柄いろいろと行くらしいがエメの泣くようなことはしないで呉れよ」

正太郎はクリスにそういう店には近づきませんと約束したが適当に遊んでいるとまでは言えないことなのだ。

18日のヴァンドルディはリヨンへ出立の日だ、朝の食事が済むとクリスが荷馬車で迎えに来た。

ディジョンの街へ入ったのが10時半、エメはムタールをバスティアンとジャネットへのお土産に買い入れて車中でお昼にしようとパン・デピスを買い入れてエビアンも2本正太郎に持たせた。

クレーム・ド・カシスを買いにマルシェ・ド・ノエルへ向かいクリスに半分を渡して「メールが好きだからこれは持って帰って」と渡した。

ディジョンの駅に12時55分着の列車が入って来て荷物を持ったクリスが2人を席まで送ると列車が出るまで見送ってくれた。

13時25分発で16時15分ガール・デ・リヨン・ペラーシュ着の特急はもう何度も乗った列車だ。

駅で何時ものポルトゥールが2人を見つけてホテルへ送ってくれた。

「昨日までジャポンの人で街は大騒ぎでしたよ」

「そうなんだってね。急に帰国になってパリからでも其の帰国にあわせて帰る人たちが慌てていたよ」

ホテルで手続きを済ませると馬車でマダム・シャレットまで向かいお土産を渡した。

「バスティアンにも届けてくるよ」
ジャネットに断って二人でバイシクレッテの店へ向かった。

そこで四方山話やバイシクレッテの売り上げ台数の見込みなどを話してパリで共同出資の店が始まることを話した。

もう一度ブティックに戻り明日改めて9時に出てくると約束してバラ園に向かった。
ギヨー老人が温かく迎えてくれ明日午後1時に出てくると約束すると「例の百合根の金は現金がいいかね」と聞いてくれた。

「フランス銀行かクレディ・リヨネ銀行の手形が良いですね」

「わかった用意しておくよ。2回目のオークションも前のよりいい値段が付いたよ。次のが最後だと市場には伝えておいた。それで何時ごろあとの荷が来るかね」

「早いほうが良いですか」

「そうだな10月か11月についてくれると一番値が付くだろう」

「ではその様に電報を打っておきます。まだ連絡が来ないと言うことは送り出すか集めるのに手間が掛かっているのかもしれません」

正太郎はこの間の値段を聞いてタカやミチの為にもと6000球を夏以降に送り出すように要請していたが時期のことも11月とすれば9月末以降の船積みが最適のようだと判断した。
ホテルまでの道を2人は百合根のことを相談しながら歩いた。

「ショウ其れだと9月末から10月Yokohamaを出る船で来た後はどうするの」

「夏にあの値段なら5月前ならどうなのか試してみたいから1月の出荷も頼んでみるよ。明日電信を打って手紙も出せばゴダベリー号が28日の出航だから間に合うよ」

「それなら予定を変更して明日マルセイユへ出てイトウサンかムラタサンに手紙を預けたほうが早くないの」

「其れが話を聞くと横浜到着が使節団は直行しない船だそうなのであとのほうが早くなるそうだよ、9月11日Yokohama着だけど。あまり急いで早い船という予約を取ったらしいけどM.アンドレの話だとゴダベリー号と違ってアウア号は寄港地が多いらしいのさ。其れに上海行きだから無駄が多いんだよYokohama到着は少し後になりそうなのさ」

「なぁんだ何時ものショウならすぐにマルセイユへ言って頼みますというだろうと思ったらそんな事情があるんだ」


Lyon1873年7月19日 Saturday

約束どおり午後になってギヨー老人のバラ園へ出かけた。

此処で働く人たちが切りそろえられたひまわりを束ねていた。

「明日の市場に出すために集めてきたんだよ。直接持ち込む人も居るがここではジョセフとハンナが船で週2回エルミタージュまで行って買い付けてくるんだ、季節物だがいい商売になるんだよ」

百合根の計算書を出して確認してくれと正太郎に渡した。

入荷実数5000球、不合格品210球、合格実数4790球。

シュワルツ&ギヨー農園引き取り数3000球31500フラン。

Shiyoo Maeda送付分500球。

第1回オークション3種150球3900フラン(平均26フラン)。

Shiyoo Maeda取り分2737フラン50サンチーム

シュワルツ&ギヨー農園取り分1162フラン50サンチーム

第2回オークション3種200球5360フラン(26フラン80サンチーム)

Shiyoo Maeda取り分3710フラン

シュワルツ&ギヨー農園取り分1630フラン

第3回オークション150球 7月20日開催

残球数790球

「計算にまちがいはありません。ありがとう御座いました」

「ではこれが今までのお金だ。フランス銀行で3つに分けて来てあるよ」

「重ね重ねありがとう御座います」

31500フラン、2737フラン50サンチーム、3710フランと全てで3万7947フランと50サンチームだ。

「それで3回目のオークションが終わったら残りを28フランの卸値をつけて販売しようと思うが其れでいいかね」

「はい結構です。よろしくお願いいたします。それで電報は打ちましたがどれが将来一番良い値がつきそうでしょうか」

「売り出すとすれば長崎と言っていた白い花が咲く Takakoとつけた百合かな。わしはLis or-rayeと名をつけたが君が言う斑入りのものが好きだがな、Lis du tigreと名づけようと思うオレンジの花のものは切り花に向きそうだよ。だから今の価格が維持できるならどれが来ても大丈夫だ。其れと写真に色が付いていたのは売るには好都合だった」

「あれは手が掛かるので大量に作れないので全てに付けられないのが残念ですが20枚ずつ送るようには頼んでおきました」

「それは良いことだ。同じ色の花が咲いてさえ呉れれば信用も倍加するというものだ。しかし間違うとあとで大変だな、参考程度にしかしないほうが無難だろう」

人がより分けるのだから球根が混ざることを心配しているようだ。

「やはり一度花を咲かせてから売るのが間違いないのでしょうね」

「そりゃそうだがそれでは商売人としてうまみが無いのさ。自分の眼力を試したいのが仲買人というものさ。わしやジョセフも自分の目で見た球根が間違いないと見極めたからこそ自信を持って売り出せるのさ。来年3000の球根からすべて花を咲かせて其れを客に見せるのが今から楽しみだよ」

3000球の百合根を売らずに自分で花を咲かせようという老人に正太郎とエメ は深い感銘を覚えた。

「すぐには売らないのですか。それでは持ち出しばかりで大変でしょ」

「なに君だって自分の庭で咲かそうというのだろ。気持ちはわしと同じことさ。違うかい」

そうなのだこの人は商売人の前に園芸師なのだと言うことを正太郎とエメは信じることが出来たのだ。

「次に入る荷も同じ条件で良いのかね」

「入荷の半数は10フラン50サンチーム。僕が500球、残りから1回200球で3回のオークションそれにあわせた値段で残りの販売をお任せいたします。パリで僕が売る値段も其れにあわせます」

「良いだろう。ではオークションが終わったら残りの計算をするから金は送るかね」

「来月はじめにはまた出てきますから其の時で結構です」

「判った、それで今日はどうするんだね」

「これから2人でクロワ・モラン街のジャポンの人を訪ねて夜は其の人たちと食事にします。明日の午後にはパリへ戻りますので次回きました時にはまた薔薇についてお聞かせください」

「良いとも来月を楽しみにしているよ」

2人でジャネット達のパンシオンの前を通ってクロワ・モラン街へ出た。

リガールの工場には忠七が居てここで安く分けてもらったバッタンを解体して1台ごとに丁寧に梱包していた。

村田さんと川路さんに伊藤さんが来て生糸改会所等の通訳と水力蒸気による力織機の実際を案内したこと前に伊藤さんが見たエヴルーの町の様子などを聞かせてもらったが、やはり今の京の西陣ではバッタンの方が合っていること等を確認したと聞かせてくれた。

工場を出てグルマンで菓子を買い入れて3人の家に向かった。
M.ジルベールも来ていて伊兵衛の糸染めを手伝っていた。

見ていると常七の腕も上がって織り出される布地は以前より短時日のうちに長足の進歩を遂げていた。

「いい出来ですね」

一区切り付いた常七に声をかけると「正太郎さんのおかげですよ。生活に不安がなくなるということはいい品物を織る基本で御座いますね。西陣でも織りをするものが生活に困ることが無ければよい品物を供給できるでしょう。私が都を出る時は新しい者に教えるのに粗い布を織らせて勉強させておりましたが、そういうものたちでもこの器械があればすぐに簡単な柄なら習得できます」

「もしかして粗い生地と言うのは5寸ほどの幅に裂いた布地のことですか」

「ありゃ正太郎さんは知って居りますのか。江戸からの注文でけが人の手当てに使うそうですよ」

正太郎はエメに通訳しながら注文主は旦那の妹でお琴様の養繧堂だと思うと話した。

正太郎は交互に話をしながらお琴様にフランス語を教えに通った時の事などを話した。

6人でお茶にして夜はプレスキルのレオン・ド・リヨンで一緒に食事をと誘い、また来月に出てきますが何か必要なことがあればブティックのほうへ連絡してくださいと伝えて歩いてプレスキルへ向かった。

ポン・モランには今日もムエットが沢山騒いでいた、クロワ・ルースの市場へ上がるとM.ランボーは店を出していた。

立ち話をしてから丘を下りポン・デ・ラ・フェイェでソーヌ川を渡ってホテルに戻り食事に出るまでの時間をゆったりとすごした。

8時を過ぎると歩いてプレスキルへ出てレオン・ド・リヨンに向かうと3人はすでに通りの木陰に集まっていたので声をかけて連れ立って店に入った。

イチゴのタルト、ムール貝と人参のスープ。

豚の背肉、フォアグラ、オニオンコンフィのテリーヌ。

トリュフ風味のビネグレットで和えたハーブのサラダ、ゆでた小さなジャガイモとトリュフ添え。

川かますのクネル、バターでソテーしたキノコ添え。

チーズ盛り合わせ。

デセールはイル・フロッタント。

ベージュ色のカスタードクリームソースに静かに浮かんだメレンゲの白い島が目立ち夏の夜にふさわしい食事だったとエメも満足する夜となった。

翌ディマンシュの朝、駅で荷物を預けるとマダム・シャレットへ向かった。
特に正太郎を必要とする連絡もなく商売は順調に進んでいた。

マルセイユからのパリ行き特急がガール・デ・リヨン・ペラーシュ11時35分着で10分の停車時間の後45分発で、パリのガール・デ・リヨン18時35分着で何時ものようにパリへ戻るとエメと正太郎は着替えをして久しぶりにシャ・キ・ペッシュへ出かけた。

陽が落ちても今日は月がまだ出てこず火星が天文台の塔に架かり、さそり座は其の左に姿を見せた。

パリの下町料理とオムレツに満足してぶらぶら歩いてリセ・サン・ルイからオデオン座へ出た。

「ねぇ、ショウ、モンルージュの娘達リセは何処へ行かせる気」

「理数系ならそこのリセ・サン・ルイ、文科系ならデカルト学校辺りかな」

「また其れを使う新学期から元のリセ・ルイ・ル・グランよ」

「そうだった、カテリーナは今度1年に進級か、君と同じように最終学年を飛ばすつもりかな」

「そうねあの娘、頭はいいようだけどそんなに急いで国へ帰ろうという気も無いようね」

「ああ、アリサがあの下宿屋を継いでパリへ住む予定だそうで、其の手伝いでもすればいいくらいの軽い気持ちみたいだ」

「頭がいいのにもったいないわね」

「ロシアでは女性にそこまで職業が解放されていないらしくて、政府で働くにしてもいいところへは中々就職できないらしいよ」

「其れはパリでも同じよ。だから私みたいなクラスを作って社会の中での地位をあげようとしてくれているのよ。フランス中から毎年110人が選ばれてそこから全国へ散らばって行くのよ。私は運良くパリでのリセから其のまま上までいけたけど下位の人はリヨンかマルセイユ、後はトゥルーズにボルドーなどへ振り分けられたわ。飛び級仲間は5人、みな私より数段優れた感性の持ち主よ」

エメは頭がいいのを表に見せないタイプで下級生上級生を問わず人に好かれるようで友達の数も多いようだ。

その日はエメのところに泊まった正太郎は翌日2人でメゾンデマダムDDに出かけディジョン土産のムタールを渡してMomoやベティと話をして過ごしたが、正太郎はジーンズに着替えて事務所に出かけ百合根の話やモンルージュの人たちの学校の話をM.アンドレと相談しておいた。

エメが事務所にやって来たので馬車屋まで歩きモンルージュへ出かけた。
馬車は待たせてノエルに百合根の報告と計算書を見せて銀行への預け先を相談した。

「ショウの手数料も取らないといけませんよ。コタさんは3万フランになれば上出来、それ以上は正太郎に手数料でと言っていましたよ」

「其れは旦那らしくありませんよ。5万フランは見込んでいたはずですよ。上手く売れば10万フランにはなる品物ですからね」

「其れは小売での話でしょ、商売人に出すには余り欲を掻いても売れなくなると言っていましたよ。あなたの判断は正しいですよ。其れにタカの経費は被服費を見ても月に150フランあれば済みますよ」

「其れは安く見積もりすぎですよ。幾らエコール・エレメンタールと言ってもほかの娘たちに比べてみすぼらしい服装はできませんよ。ソフィアに粗末な生活をさせるより全てをソフィアにあわせたほうが気持ちのゆとりも出来ますから」

「それならあの娘に此処の下宿代のほかに月150フランを見ています、其れはあの娘達と相談して3人が同じ生活をするぎりぎりの私の予算なのです」

「ではパンシオン費を含めてつき200フランあればやっていけるのですね」

「そうですよ」

「其のうちマルティーヌはShiyoo Maedaの従業員ですから。月200フランは毎月届けさせます」

「いけませんよ其れは私が」

「駄目ですよ。其れはM.アンドレも承知で此方へお預けしたのですからね。それにソフィアだって最初の基金がいくらか知りませんがあとは半年毎の1000フランでしょ。其れだと200フラン赤字になりますよ」

「ゴーンさんは3000フランを基金に出したわ、ミチやタカの足りない分も補うように頼まれたの」

「では百合根のうち僕が値をつけた10フラン50サンチームをタカの基金として一度入れましょう、そしてお話したようにオークションなどで出た儲けを僕とシュワルツ&ギヨー農園で分けます。その代わり僕が此処の費用で足りない分を出すのを拒まないでください。4790の百合根が合格しましたので5万295フランがタカと皆さんの経費に入ります」

「其れは可笑しいわよショウが受け取ってきたのは3万7947フランと50サンチームだけでしょ。赤字になるわ」

「あとの売り上げ予定から2737フランと1万5207フラン50サンチームが入る予定です。合計55892フランの予定ですから大丈夫ですよ、僕たちの庭に植える500球と5597フランの手数料が入りますよ。それだけあればこの間のリヨンの寄付の大半が戻りますから心配はご無用です」

「ではタカに年間2400フラン掛けても充分やっていけるのですね」

「そうです3万フランを信託で3つくらいに分けて預けるだけで充分タカがやっていけますからね」

「ではタカにはすまないのですが今ショウが言ったようにして残りをタカに200フランそのほかに200フラン使わせていただけるかしら」

「月400フラン使っても年間4800フラン4年間はそれで充分賄えますよ」

「良かったわ。コタさんが言ったとおりに話が運んでいくようでそれでミチの金箔はどうですの」

「今見本は配りましたがどうやら500枚1000フランで話があります。全部一ヶ所で引き取るなら2500枚て4500フランで売ると言ってあるんですが。それがミチの基金に入れば3年は留学しても大丈夫ですよ」

「でもYokohamaに帰って仕事があるかしら。私と此方で仕事があるならパリに住まわせてあげたいの」

「それでも良いでしょうよ。お二人にできることなど幾らでも見つけて差し上げられますよ。タカもいくらかはマシーヌ・ア・クードゥルが使えるように成りましたか」

「あの娘は上手よ私やミチより上手いくらいだったわ、ソフィアにはまだ適いませんけどね」

「それなら此処にマシーヌ・ア・クードゥルを1台置きましょう。自分たちの服や下着を縫えるようになればブティックを開くのもいいしデッサンの勉強をしてプロプリエテ−ルに為ってもいいしね」

ショウの話は余りにも先に進むのでエメが止めに入るほどだ。

「マシーヌ・ア・クードゥルはいいけどブティックは先走りしすぎよ。それにブティックならYokohamaTokyoでも需要が多いはずよ」

「其れもそうだ。まだ何処にはいれるかも決まって無かったんだな」
3人で笑い転げていると午前の授業が終わった6人がクロワールに戻ってきた。

「楽しそうね」

「そうなのよタカ喜んでね、貴方の百合根が50000フラン以上になったのよ」

タカには5万フランという概念がわからないながらも「其れだと私の学費はノエルの負担にはならずに済みますの」と正太郎に尋ねた。

「そうよそれどころかショウは其れを有る程度まで他の人たちの補助に廻す方法も考えてくれたわ。Yokohamaにお礼の手紙を書きましょうね」
正太郎が計算書を示して、先ほどノエルと相談した3万フランを信託預金にして残りで最低4年間の学費と生活費はノエルの負担が少なくなったことを伝えた。

「其れで私の金箔は」

心配するミチに「其れも一束500フラン上乗せの1000フランの値をつけた人が居てね、全て買うなら4500フランでいいがどうするか検討してもらっているよ。焦らず年に一束売ってもいいけど全部売ってしまったほうが面倒が無くていいからね」

「そうねそこから3000フランを基金にすればあとが楽になるわね」

「そういうことさそれからソフィアも送金分で生活して最初の元金の半分は基金にしておくようにすれば後々楽になるからね。其れとマルティーヌは僕のところの社員だからノエルの負担が無いようにしたからね。タカのお金のおかげで皆さんの生活と学費は守られるけど生活はノエルの指示に従って規律有る生活態度を守ってくださいね」

アリサにカテリーナは其れを聞いてクスクス笑い出した。

「ショウ、一番この娘達を甘やかしそうなのは貴方よ。服やお菓子を買いすぎて言葉通り甘やかしちゃ駄目よ」

2人に釘を刺されて「本当だ。僕が余分にお菓子を届けに来たら突っ返してくださいね」と頼んだ。

「いやよ、お菓子を目の前にして返すなんて出来ないわ。返すのはショウだけでお菓子は頂いておくわ」

ミチとソフィアが交互に言うのでノエルは可笑しくて苦しくなるほどだった。

「お昼を食べてからノエルと銀行で手続きしてくるからね。何か買い物が必要なら書き出して置いてくださいね。勉強に必要なものはあるかい」

「大丈夫よ其れはお2人が全て帰りがけに調べて買ってきてくださるのよ」

そいつはいいや、2人は大変でしょうが頼みますと正太郎が頭を下げると2人は「ショウは気が回りすぎるけどここの事はノエルに任せて貴方は商売のほうに頭を使いなさい」と笑いながら言った。

午後3人でフランス銀行へ出かけた。

「ショウ、実はアリサが聞き出してくれたのだけど、マルティーヌは美術学校へ行きたいがわがままは言えませんとけなげなことを言うのよ。弟も農業コレージュに行くというわがままを許してもらい、働かなければいけない私にもリセへの進学を許ししてもらっているのにこれ以上のわがままはいえないと言っていたそうなの」

「エメ、エコール・デ・ボザールはGOGE(グランゼコール準備学級)を通らずにリセのテルミナル(最終学年)からバカロレア資格試験のみで行かれるのかな」

「其れは大丈夫よ。ただエコール・デ・ボザールはまだ女性を受け入れてくれないの、守旧派の先生が多いのよ」

「そうかそこは駄目か、他にいいところが無いかノエルも気をつけてください。どの部門を目指すかで改めて決めましょう。パリにこだわることなくリヨンに良い学校、本人の希望する学校があるなら其れを目指すなり転校するなりさせてよいのですから」

「ショウがそう言ってくれると心強いわ。心を開いて話してみますよ」

「そうしてください。サラ・ベルナールからお預かりした子達です。僕ができることは遠慮なく言うように伝えてくださいね」

ポンデザールを渡りレ・アールの小麦市場で馬車屋を返した。

「馬車を帰して困らないの」

「大丈夫ですよ。買い物をして其のあと拾えば済みますから」

銀行で3万フランを5年間の信託預金としノエルの口座に1万フランを入れたうえでTakako Sakazaki(坂崎孝子)名義で1万295フランの口座を開設しておいた。

ミチの分としてMiti Nozawa(野沢美智)を正太郎が3000フランを出して口座を開き、ノエルの口座から生活費を含めて5000フランを降ろしてからSophia Van Buffet Goone名義で3000フランの口座も開いておいた。

「ノエル面倒でも入ったお金はこうして一度通帳に書き入れてもらってから引き出してください。そうすれば自分たちの会計簿と帳面の数字が合いますからね」

「そうするわ。孤児院の時にハルサンやコウキチが教えてくれたやり方でいいのね」

「そうです。ミチには教えてありますがこれからも出来るだけ数字が狂わないように気をつけてください」

通帳と現金は正太郎のセルヴィエットに入れて買い物に向かった。

「このあたりは銀行から出てきた夫人を狙うスリが多いですから気をつけないとね。普段も1人で来てはだめですよ。アランなり僕なりに必ず護衛につかせることです」

「判ったわ」
正太郎があたりに目を配るとすっと陰に入る若者や少年が眼についた、これだものノエル1人でこのあたりにこさせるのは危ないなと思う正太郎だった。

コメディ・フランセーズは夏休みで次の公演は9月末だと聞いたが劇場の前は大勢の人が屯していた。
夏の観光シーズンで各地からパリへ来た人たちが有名な劇場の正面で写真を撮っているようだ。
ランディのパリは暑い日差しで照りつけられていて正太郎はノエルたちを誘ってスミス商会のパリ支店へ向かった。

バイシクレッテの輸入の事に下着の輸出の事を話して年内の見込みと来年度の新規商売があるかという話をM.カーライルと話してから思いついたことが合って3人でヴィクトール広場からモンマルトル通りへ向かった。

製菓、調理器具店のモラが今日も多くの客で賑わっていた、ノエルが欲しがっていた食器やカントルーブ夫妻のための調理器具などを買い入れてから「ノエル実は今日はこれを買おうと思うのですよ」とアイスクリームメーカーを指差した。

ノエルは嬉しそうに顔を綻ばせて「子供たちも喜びますわ。自分たちで作るアイスクレームは格別ですものね」と其の器械を買い物の中に加えた。

荷物は配達してもらうことにして暫くは店内をうろついていたがレ・アールの市場の東側を抜けてオ・シャ・ノワールまでいくと菓子を色々と買い揃えてから馬車を拾った。


Paris1873年7月30日 Wednesday

正太郎はリヨンへ出るためにパリでの仕事を片付けていた。

メゾン・デ・ラ・コメットは6室がShiyoo Maeda関係者で埋まり、マリー・アリーヌの両親にメイド2人が働いていた。

収入は7部屋分420フランの家賃と支出は420フランでつりあい、食費に11人で660フランが予算に組まれていた。

M.アンドレはあと4人住めれば黒字になるというが建て増しをするか屋根裏も貸すとしても回収は難しいようだ。

屋根裏にあった絵は修復して各部屋に掛けられていたが人物画は誰を描いたかコメット夫人に問い合わせたが自分の祖父の頃のものらしく誰のものか判らないという返事だった。

「夫人はニースが気に入ったようですよ。冬でも水が凍ることも無いしこの夏も快適でパリほど暑く感じ無いと言って来ましたよ」

「そいつはいいね。この蒸し暑さは何とかなら無いのかね。去年よりひどいよ」

シャツにクラバット(ネクタイ)という姿でも汗が出る日が続いていた。

「イャ、ショウ今年は特別ですよ。僕はパリで生まれてこの方こんなことは初めてですよ」

「可笑しな病気でも流行らなければいいんだがね」

「そうコレラに、チブス、ペストなどこういう年は用心しませんとね」

「ヴィエンヌのコレラはまだ治まらないようだね」

「ひどいそうですよ、最初に赤痢で其れはすぐ収まったようですが何処から入ったかよく判らないそうですよ。おまけに危ない銀行の噂も聞こえてきますし、万博の入場者は予測の半分だそうですよ」

「其れなのにウチワとセンスが売り切れだと騒いでいるのは不思議だね、ヴィエンヌの町ではセンスかウチワで溢れそうだね」

「ショウは大げさすぎますが、向こうもパリ並みに暑いのですかね。後も送れと煩いですがどうします」

「もうじき次が来るから送り出して良いよ。ここまで売れるとは予想もしていなかったよ」

「本当ですよ、最初がウチワは2000本、センスは700本ずつで2100本。2回目のウチワが600本、センスは120本ずつで360本。3回目はウチワが500本、センスが300本ずつ3種類で900本。今回はウチワ300本センス100本ずつで300本になりますね」

「何か少しずつ送るから売れるんじゃないかという気もするけど、今度は5000本のウチワと2000本ずつのセンスが来るから半分送ればもう其れで済むだろうよ」

「今回送れば合計がウチワ3400本、センスが3660本ですよ。何時になれば金が来るんですかね」

「本当だよ追加を送れという前に払って欲しいものだよ。幾ら安いものだといっても元値がウチワでも送料別で1054フランかい」

「そうですセンスは10760フラン40サンチームですよ。パリまでのほかにヴィエンヌまでの送料も掛かっていますし、請求のウチワ3400フランは儲け無しですよ」

「其の分センスで埋め合わせするしかないよ。幾ら請求することになるの」

M.アンドレが計算を出して正太郎に示した。

「センスは14640フランですか、合計18040フランか儲けなど無いのにまいる金額だね」

「ショウは公使を信頼しているからといいますが、ヴィエンヌの役人が売り上げを足りない予算に流用しているんじゃないのですかね。今度来る分を上乗せすれば請求金額はウチワ5900本5900フラン、センス6600本26640フランですよ」

「最後に送る分は売れ残るだろうから締めをすれば大分違う金額に為るだろうさ」

「最後の分は向こうの買い取りに出来ないものですかね」

「送る前に請求書を公使館に見せて判断を仰ぐよ。しかしまた長田さんに言いくるめられそうな気がするよ」

「ショウは商売が上手いのにどうしてそういうところの押しが甘いのかよくわかりませんよ」

「今度は元値に送料、此方の手数料の計算を1サンチームまで出して長田さんに見せようよ。そうすれば此方が儲けなど無いことも判ってもらえるさ」

「判ってもらえれば良いですがね、ショウが言うようにYokohamaの安物と此方で入れている上物との区別が付きますかね」

「ヴィエンヌではウチワが2フラン、センスの1等が15フランだそうだよ。3等でさえ4フランで売っているそうだから元手も使わずに大儲けさ。だからそろそろ支払ってくれるさ」

「送料込みで6フランの1等を15フランですかそいつはあくどい売り方ですね。1等だけで10000フラン以上儲けていますよ」

M.アンドレも呆れる高い売値だM.タンギー画材店でさえ1等は12フランなので月20本程度しか売れていないのだ。

3等は1本1フランのを送料込み2フランの卸し、2等が2フラン80サンチームで4フラン、1等は5フランのものを6フランと卸し値段を抑えたのだ。

今日は話をしておいたのでアランがマルティーヌとエドモンを連れてやってきた。

メゾン・デ・ラ・コメットへ連れて行きそこの食堂でコレージュの事について姉弟と相談した。

「エドモンは農業コレージュへ入りたいという話だけど細かい事はドナルド爺さんに任せて有るけどそれでいいんだね」

「はい、わがままを言って申し訳ありません」

「いや其れはいいんだ。だが其れだとリセに入るためには不利だと言うことは知っているんだろうね。今リセの農業、園芸の学校は有るのかな」
2人は其処までは知らないようだ、正太郎は4年の間に其れはまた考えるけどと言ってマルティーヌの事に話をふった。

「マルティーヌは希望の学校についてノエルと話したそうだけど学校に当てはあるのかい」

「リヨン大学には女性用の芸術部門があるのですが。パリでは判りません」

「良いだろうバカロレア試験さえ受かればサラと相談してあげるよ。今はリセに受かることだ」

「はい判りました、皆さんに遅れを取らないようにがんばりますわ」

「今日は特に話は無いんだ。ルモワーヌ夫妻が寂しがるから呼んだようなものさ、此処でお昼を食べたら事務所へきておくれよ」
2人を其処に置いて正太郎は事務所に戻った。

二人がやってくると馬車を頼んでノートルダム・デ・シャン街へ出向いた。

エメも付いてボン・マルシェでエドモンの服を夏服と秋のものを買い入れ、ショスールの売り場でも2足を買い与えた。

「マルティーヌにも買ってあげたいけど今はノエルに全て任せたから、僕たちが余分な事はしない事にしたんだ」

「ショウ、エメ。感謝して居ります。エドモンに良くして頂けただけでも私は幸せです」

エドモンも2人に礼を言って新しい靴と服にうれしそうだ。

其の2人を馬車に乗せてモンルージュまで送りマルティーヌは残りの授業を受けに2階へ上がった。

3人でヴァルダン通りへ向かい手入れの行き届いた畑や庭を3人でまわった。
ドナルド爺さんも雇っている若い衆とやってきて熟れたトマトを幾つかもぎ取ると屋敷へ戻って井戸へ網に入れてつり下げた。

「ショウこいつは30分もこうやると丸かぶりすると美味いですぜ」

エメも「そういえばショウはトマトをこうやって食べたことが無いの」と聞いた。

「そうだねサラダに入っているか湯抜きしたトマトくらいかな」

「もぎたての物を子供の頃はいつもおやつ代わりに食べたわ。昔よりトマトの種類も増えたけど私は少し酸っぱいトマトで青臭いほうが好きよ」
まさにそういうトマトの味だった、ニコールとルネも井戸端で一緒にかぶりついて食べると暑い夏の午後も素敵に感じられる正太郎だった。

此処の井戸は特に冷たく感じるねと正太郎が言ってエメに井戸はみんなこんなものよと笑われてしまった。

「もうじきポワールが収穫できますよ。2本しかありませんが毎年数が安定して実って呉れますよ」

「そいつは楽しみだね」
正太郎は去年食べた梨の味を思い出した。

「ショウ、去年のは美味しかった」

「ああ、最高だったね。色々な種類が味わえて楽しかったよ」

エメの家から送られてきた梨を食べ比べたのだ。

ドナルド爺さんが話す梨の話は名前がある梨と名前が無い梨の話などでエドモンも交えて木陰で楽しい夕暮れを迎えてエメと正太郎は馬車を頼んでパリへ戻った、といっても1キロも進めばそこからがパリの13区で、モンルージュも14区のはずれから1500メートルくらいだ。

今晩は久しぶりにエメの部屋でジュディッタとリュカの家族も加わって食事会だ。

そろそろリディとジュディタが腕を振るって仕度を始める時間だ、30分もしないでノートルダム・デ・シャン街へ到着した、まだ夕陽がトロカデロの丘に落ちかかる8時15分だった。

5階まで上がると開け放たれたドアから楽しそうなジュディッタの歌声が聞こえてきた。

リュカが2人の足音を敏感に聞き取ったかドアから顔を出して「お帰りエメ。お帰りショウ今日はご馳走だよ。もうじき仕度ができるから手を洗ってきて」と2人に声をかけた。

化粧室で顔を洗い食卓に着くとサラダに鳥の丸焼きが置かれていた。

ピッザを持ったジュディッタが台所から出てきて「後はラグー・ド・ブフにステーキに温野菜とマカロニとジャガイモのグラタンよ」と告げた。

「スパゲティは無いの」

「またエメはそんなに食べられないくせに。これを食べ切れるならすぐに茹でてあげるわよ。ショウも食べる」

「僕は遠慮するよ、エメも其れを食べられるなら今度食事に誘った時もう食べられないと言っても信用しない事にするよ」

「ふん良いわよ全部食べてやる」

「エメ本気でジュディッタがスパゲティを鍋に放り込ま無いうちに謝った方が良いわよ」

シチューの鍋を運んできたリディが援け舟を出すように言って皿にラグー・ド・ブフを注いで廻った。

エメがジュディッタと手をパチンと叩いて今のは冗談よと2人で笑ってラグーにパンを漬けて食べだした。
食事が終わって正太郎とエメが皿を洗っているとジュディッタとリュカの歌う声が台所までよく響いてきた、リディがモニクと残りのカップを下げて来た。

「あとは私がやりますからエメとショウは向こうへどうぞ」

「ありがとう、これを拭いたら向こうへ行くわ、モニクもいらっしゃい。此処はショウが手伝ってくれるわよ」
正太郎は笑いながらリディと残りの洗い物を片付けるしかなかった。

翌日はジュディ、朝のうちにM.アンドレと打ち合わせをしてメゾンデマダムDDへ行くとリヨン行きの仕度を整え、ルピック街へ向かった。

ジュリアンと打ち合わせをしてイヴォンヌやエドモンとも打ち合わせをしてからノートルダム・デ・シャン街へ戻った。

アルフォンスの店へ2人で出てドレスを受け取った、最近はお針子も11人を抱える流行の店になって忙しい様子だ。

「足は出なかったかい」

「お金は大丈夫よ。残った生地はどうするの」

「また誰かに作ってあげる時まで預かってくれるかい。場所は大丈夫」

「其れはいいけどどうせなら私に残りは売りなさいよ。この間聞いた値段に上乗せしてドレスに仕立てて売るってのはどう。あれだけの生地は探すのも大変だからそうしてくれるならエメにいい物をサービスするわよ」

「へ〜、随分気前がいい事言うじゃん。でもエメとサラのために3着分ずつ残しておいて欲しいんだ。生地はエメが選ぶよ」

「判ったわ、エメ後で印をして頂戴ね。買うのは勿論此方にも儲けがある話だからよ。でもお金は後払いよ、先にエメに似合う生地が手に入ったから見てごらん。ブルー・ヴィヨレ( blue violet)という色合いで少しまだらに陰影があるのよ。こんな生地はもう手に入らないはずよ」

余りにもアルフォンスが褒めるのでエメも興味が湧いたようだ。

70メートルだけあるという生地はティスュ・ド・ソエで青とも紫とも区別が付かない言葉通りのブルー・ヴィヨレだった。
アルフォンスはエメがあまり好きではないというデッサンだがと画帳を開いてバスルスタイルといわれている絵を見せた。

「これで裾を短目と長めにすれば同じようなデッサンの此方も作れるわよ。仕立て代に2着で50フランくれないかしら生地はいいものよ」
アルフォンスが何度も言うように最近目が肥えてきた正太郎にも判るすばらしい生地だ。

「裾が短いのはクロッケー・パルティ(Croquet Partie)に着られそうね少し腰も軽く出来るかしら」

「そちらはご注文に応じるわよ。でもこっちの手直しは駄目」
アルフォンスは其処のところは男らしくエメのわがままは聞かないと断った。

「50フランなら我が侭はいえないわね。ショウはどう思う」

「いいね、生地も素敵だし色合いも秋にぴったりだよ、枯れ葉が散る庭で行うクロッケーにはよく似合いそうだよ。マネさんやルノワールさんに頼んで絵に描いてほしいくらいだね。今から出来上がりが楽しみな生地とデッサンだよ」

エメは手提げの袋から10フランの金貨を5枚出して「さぁ、これで生地は私のものよ。何時仮縫いに来ればいい」

「タイユは替わっていないようだけど背が少し伸びたかしら。このドレスもう一度着てみてね」

やはりこの1月で3センチほど伸びていた。

「どうしてかしら去年はあまり延びなかったのよ。兄さんみたいに大きくなるのかしら」

「兄さんは大きいの」

「2人とも180以上あるわ」

「エメ前は158で今度は161よ。でももう伸びないでしょけどこのドレスとこの間のも裾を下げる」

「良いわよ。私引きずるより足首が覗く方が好きだから」

話し合いはまとまり新しいドレスは箱に収められて正太郎が持ってLoodへ向かって食事をしようと通りへ出ると、噂をしたばかりのマネさんとルノワールさんがヴァリエテ座からでてきた。

「お久しぶりです。アルジャントゥイユとジュリアンから聞きましたが。もうお戻りですか」

「いや戻ったら引っ越しをするので其の下見のあとモデル探しさ。エメが引き受けるなら9月からどうだい」

「ウフッ、今そこで新しいドレスを受け取って秋用に2着誂えたのでお2人に描いて貰おうかと噂をしていましたのよ」

「どういうドレスだい、そのショウが持っているやつかい」

「デッサン画もあるから店に戻ります」

「付き合うよ」
4人でアルフォンスのところへ戻り3人はエメとショウを放り出して盛んに色具合とぼかしを入れたフリルは3人が賛成し胸に2列のボタンをつけることに決まった。

「よしショウ決まったぞ。君は我々に150フランずつ出すんだぞ」

「えっ随分高いですね」

「こらこら、高いとはなんだ、罰として食事を奢りたまえ」

「ショウこれ以上言うとワインつきだと言い出すわよ。Loodで簡単な食事を提供して其れで済ませましょうよ」

「けしからん。我々を誰だと思う。今年も落選者展にブーローニュの森の朝の乗馬を出品したルノワールと同じく常連のマネ大先生であるぞ。ワインが付かんでどうする。けしからんことを言うとショウを拉致してフォリー・ベルジェールにデ・ザササンとムーラン・ドゥ・ラ・ギャレットを次々と引き回しの刑に処するぞ」

相変わらず彼らの絵はサロンには認めてもらえないのだ。

「まぁ、お2人とも昼間から酔われていますの」

「昼間からではない夜から連続で酔っておるぞ」

こりや駄目だわ早くLoodへ行っておなかに何か入れさせましょうよとエメは二人を連れ出してリシュリュー街を抜けてLoodへ向かった。

街はまだ明るいが店ではこれから遊びに行くものや酒場勤めなのか着飾った女が幾人か食事をしていた。

ルノワールとマネは次々に料理を注文して「ワインはジュリアンが何かいい奴を持ってきていたら出してくれ。今日はエメのおごりだ」

「あら、ショウのおごりじゃなかったの」

「なにを言う。ショウは大事なお客だ、エミリエンヌ・ブリュンティエールはモデル代の替わりに我々に奢るんだ」
可笑しな理屈をつけてはエメの表情が変わるのを楽しんでいるようだ。

パピヨットのターキーは塩味が聞いて美味しかった、包んである紙をぱりぱりとはがす音も4人の食欲を誘ったようだ。
2人の軽口を聞きながらお酒も進みルノワールも満足したらしいのを見て「先生方は馬車で帰られますか」とエメが聞いた。

「ああそうするよ。アルジャントゥイユまで頼んでくれ」

イレーヌが馬車を頼んできたので2人を押し上げると「アルジャントゥイユのかわうそ亭よ。今からあそこまで行くのに10フランでいいかしら」とエメが聞いた。

「充分ですよ、マドモアゼル」

「では10フランに、2フランのチップを渡すからお願いね」

2人の画家を送り出して店で勘定を済ませて2人はブッフ・パリジャン座、イタリア座の脇からスミス商会のあるテレーズ街を抜けてコレット広場へでた。
陽が落ちたからガス灯が灯るポンヌフを渡ろうとエメが誘って遠回りをして橋を渡ることにした。

橋の上からランタンを灯して行き交う船を見ていると中で騒ぐ人たちを乗せた船が賑やかにセーヌをさかのぼって行った。

橋を左岸に渡りドーフィーヌ街へ入ると女連れと見てさすがに声はかけなくとも怪しげな女が色目を使うのに辟易とする正太郎だ、ビシュ街のマルシェまで来るとエメがたまらず笑い出した。

「エメが笑うほどの事は無いだろ、往生したのは僕のほうだよ」

「だってどう見ても40過ぎの人までがショウに流し目をするのですもの、あそこで吹き出すのをこらえるのはつらかったわ」

「あそこは夜になって通る道じゃないね。1人だったら店に連れ込まれてしまうんじゃないのかな」

「ジャポンにはああいう道は無いの」

Yokohamaには無かったようだけど。Tokyoには有るらしいと名前を聞いたことがあるよ」

正太郎は羅生門河岸の話を寄席で噺家が面白おかしく話した様子をエメに説明した。
お直しという噺では最下層の遊女と主人の話から自前ではじめた2人の掛け合いを声色をつけて演じてみせた。

「もし、もし、あなた……。あ、逃げられちゃったよ」
「当たり前だよぅ。いまみたいに袂の先をちょっと掴むんじゃなくって、袂のなかに手を入れちゃうんだよぅ」
「着物が破けるじゃないか」
「いいんだよ、そんなこたぁ。向こうの着物じゃないか」
ジャポンのキモノにある袖に指を絡ませて強引に客を引きずり込む様子を話しながら歩いた。

フォセ・サンジェルマン通りにあるカフェ・プロコープの前を通り抜けて2人は其の話を笑いながら続けていた。

オデオン座の脇へ出てリュクサンブール宮殿に行き当たり右へ曲がった。
ヴォジラール街を歩いていると西の空には沈みかかった半月と其れを追いかけるかのような火星が見えた。

「あれ、ムージンの匂いだ」

「あら、この匂いは薔薇と違うの」
今日のエメは香水の匂いが弱く花の香りが漂うのが判ったのだ。

「確かイギリスでローズ・オブ・シャーロンといったかな、ムージンは清国の言葉でジャポンではムクゲという花だよ」

「それで薔薇と同じような匂いなのね」

「そうだね。ハイビスカスという花もこれと似た感じの花が咲くけど匂いはきつかったよ」
夜風に乗って其の花の香りは二人を包んだ。

暫く其処にいた2人だがようやく歩き出してアパルトマンへ戻ったのは月が沈んでいった11時を過ぎていた。


Lyon1873年8月1日 Friday

何時もの特急、何時もの宿で時間も同じだ。

正太郎は馬車でパストゥール街のバスティアンの店へ向かった、ペニーファージングが売れない日がたまにあるという盛況で3人は忙しく働いていた。

10日には20キロのレースがあり2人は出場すると正太郎に話した。

「130人も申し込みがあったのかい。それで君たちの乗るのはどれだい。練習は進んでいるのかい」

ユベールとポールは自分たちのはミショーで去年は8位と12位だったそうだが其れでは今年は勝負にならないと言うのでバスティアンが車を貸し出してくれる事にしたそうだ、買い取るにはペニーファージングは高すぎるのだ。

「バスティアンがどれでも好きな奴で勝負しろと言ってくれています」

「それなら、僕が君たちに1台ずつプレゼントするから是非いい成績を上げてくれたまえ。ねえバスティアンそれでいいだろ。古い奴は店に売ってレースのための資金にして良いよ」

「そりゃ、ショウがそう言ってくれるなら申し分ありませんよ。本当はそうしたくともペニーファージングは高いから躊躇していたんですよ」

「今月の経費にShiyoo Maedaからの宣伝費という名目で2台をパリへ請求してください。M.アンドレには帰ったら話をしておきます」

2人は自分の自転車がもらえると聞いていい成績を上げるように努力しますと正太郎とバスティアンに誓った。

「それでやっぱりペニーファージングで出たいんだろ」

「そうです。あれが一番疲れずに長い距離を走れるようです。ミショーにパリジェンヌでは近場は良いですが20キロという長い距離では勝てません」

「では今日から朝晩自分の奴を決めてそいつになれるように練習したまえ」

バスティアンも勧めて2人は自分の手に合いそうなものを選んで名前を書き込んだ。

「普段は裏の小屋に入れておきなよ。其れが良いとごねるお客が来ると困るからね」

早速2人は裏庭の物置に仕舞いこんできた。

正太郎はブティックへ歩いて向かい、ジャネットから最近の売り上げと商品の補充などの話を聞いた。

帰りがけにバラ園へ寄るとギヨー老人は上機嫌で迎えてくれた。

「ショウ朗報だぞ、最後の150球は28フラン平均で売れた。残りの売り出し価格を28フランとしてもこれで高いとは誰にもいわせんですむぞ。30フランでもいいくらいだ。明日フランス銀行の手形を用意しておくから昼に来てくれ息子のバラ園で昼を食おう」

「では12時までにまいりますのでよろしく」

「待っているよ」

次の日の朝正太郎はフルヴィエールの丘へ登ってアランが来るのを待った。

「アラン、今晩暇があるかい」

「大丈夫だよ、何か用かい」

「ほらこの間言っていたろ。夜どこかで飲んで騒ごうとさ」

「そいつはいい話だな。何時にする。明日は休みだから一晩中騒げるぜ」

「何処で会おうか、8時では早いかい」

「いや良いだろう、ペラ通り八番地の親戚のアパルトマンにいるんだが其処に来るかい、ベルクール広場の駅側をソーヌ川へ向かうとすぐ右側だ」

「良いよ、では8時にね、アラン」

「待っているぜ、ショウ」

アラン・ド・サンテグジュペリの兄は伯爵でリムーザンの出だとギヨー老人が正太郎に教えてくれ、今のアパルトマンは一族のトリコー伯爵夫人の持ち物だと言うことも老人は承知していた。

「フランスには伯爵は余りにも数が多くてね。今は働いて生活しないと楽で無い家が多いのさ」

日本では元のお大名は生活が苦しく、公家は生活が楽になった替わりに町の者は税の負担が増えて来ていた。

自分のせいではなくとも世間が急変するのについていけない人の生活が苦しくなるのは、政治形態が変わればどこの国でも起こる必要悪なのだろうかと正太郎は疑問に思うのだった。

昼の約束の後、一度ホテルへ戻り5フラン銀貨を20枚と20フラン金貨を20枚にあとは札で500フランを持つと残りの金と手形はセルヴィエットごとホテルへ預けて夕暮れ時の月の白く陽の光を受けて輝く中をアランのアパルトマンへ向かった。

「ショウ、すぐ判ったろ。ところで何処へ行く」

「いいところを知っていますか」

「ガール・パール・デューの向こう側はどうだい」

「向こう側は知らないですね」

「ならリドという名は」

「知りませんね」

「では其処へ行こう」

広場で馬車を拾ってポン・デ・ラ・ギヨティエールからパール・デューへ入った。

ジュネーブから来る線路を越してパール・デューの駅近くのキャバレー・リドへ着くと夕暮れ時で、人が集まりだし近くの酒場からはもう歌声が漏れ出していた。

入り口で2フランを払って2人は中へ入るとすでに舞台では若い踊り子が所狭しとカンカンで場内を盛り上げていた。

注文はアランに任せて席に来た4人の女性に5フランずつのチップを配った。

「ショウ大分景気がいいようだな」

「今日取引で大分儲かりましたのでね、今日だけのことですよ」

これは女に聞かせるせりふで少しくらいたかっても大丈夫だと知らせる合図のようなものだ。

「此処ではあまり食べ物を頼むなよ次の店で何か食おうぜ」

アランがそういうので正太郎は女たちには好きなものを注文させて町の噂を喋らせてはアランと笑い転げた。

金離れが良く陽気な2人に口も軽くなった女たちは新しく出来た市外の工場で300台もの機械がうなりを上げて織物を織り出す様子を身振り手振りで二人に教えた。

舞台の盛り上がりと共に席も盛り上がり2時間はあっという間だった。

正太郎が支払いをして表に出てガール・パール・デューへ向かい、駅の向こう側へ渡った。

先ほどの店より表は派手で様々なポスターが貼られていたが、カドラと言う店のなかは上品な雰囲気が漂っていて顔見知りかアランがセルヴァーズを呼び寄せた。

「伯爵夫人は」

「お呼びしますか」

「頼むよ。友人を紹介したいから」

DDと同じくらいの年だろうか清楚なマダムが現れた。

「アランお友達と一緒なの」

「この人はジャポンから来てパリで商売の勉強をしていますが、大分大きな取引をしているようです。名前はShiyoo Maeda

「お目にかかれて光栄ですわ。私はアランとはご先祖様が同じ没落貴族ですわ」

「はじめまして、ジャポンのYokohamaから来て居りますShiyoo Maedaもしくはヂアン・ショウと名乗って居りますのでショウとお呼びください」

「ショウね。私はマリー・ボワイエ・ド・トリコーですわ。此処ではコンテッセ(Comtesse伯爵夫人)でとおっていますのよ」

「ショウ、夫人は此処の経営者だよ。其れと僕のアパルトマンの大家さんさ」

「あら、アランそれだけなの」

「エッまだなにかありましたか」

「知らないとでも思っているの。この際だからサリーとのこともはっきりさせたら」

「でも、まだ申し込みもしていませんよ。其れに僕は建築現場の監督官でしかありませんからね」

「いまさらなにを言っているの、それなら私の息子になりなさいよ。貴方はお兄様が伯爵なのだし誰に遠慮することも無くそうすれば名前だけでも伯爵になれるわ。ド・フォンコロンブは男爵だから家柄は其れでつりあうわよ。幸い私の家は跡継ぎがいないから親類の貴方があとを継いでも問題は起きないわよ。お兄様はお子様も大勢居られるから賛成してくださるわよ」

「今日は酒が入っていますから其の話しは改めて」

「ダメダメ、貴方はいつもそうやって逃げるから」

「判りましたよ。貴方の息子になってサリーと結婚しますよ」

アランは投げやりにコンテッセに言って「フゥ」と息を吐いて椅子に深く腰をかけた。

「良かったわ、ショウ貴方が証人よ。今夜は私のおごりよ盛大に親子の固めの宴会にしましょうね」

料理に酒も運ばれてきて舞台で行われる演奏に乗ってアランは新しい母親と優雅に踊った。

「まいったなショウ。すまんな飛んだところで遊びそこなったぜ」

「面白かったですよ、でも順番が逆でなくて良かったですね」

「本当だ。此処が最初だと何も遊べずに帰る所だった」

ポン・モランを渡ったのは月も落ちて、ガス灯の灯りをローヌ川が幻想的に映す真夜中の2時を過ぎていた。

まだ夜明けまで間があるからもう一軒寄って行こうとアランが誘いオペラ座から路地をいくつか曲がりラ・サルサという小奇麗な店へ入った。

そこでビールを頼んでジャガイモとソーセージのフライで「ア・ヴォ-トル・サンテ」と2人で宴会のやり直しをした。

何人かの女が寄ってきたが正太郎は5フランを渡してほかでおごってもらいなと追い返していたが「ショウ、お前もう10人は金を配ったぜ。いい加減にやめないときりが無いぜ。見ろよ新しい顔ぶれが入ってきたぜ」

慌てて勘定をして表に出ると二人で可笑しくなって大笑いをしながら明け出した街をふらふらと歩いてサン・ニジエ教会の脇を抜け、ソーヌ川の河岸へ出ると川沿いの道をアランのアパルトマンへ向かった。

5時半を過ぎて朝日は街を照らし川沿いの船の動きも活発になってムエットも騒いでいた。

アパルトマンでアランが中へ入るのを見送って正太郎はポン・ボナパルトへ向かうと橋を渡ってホテルへ戻った。

ドウシュを浴び昼まで寝ていた正太郎は起き出すと身支度を整えて、クロワ・ルースへ歩いて向かった。

M.ランボーの店が出ていたのでマルティーヌとエドモンの話をしてから丘を降ってローヌ川へ向かった。

ポン・デ・ラットル・デ・テサージュには観光用の船が客待ちをしていて空きが有ると言うので正太郎はふらりとそれに乗る気に為った、2時間で飲み物も付いて4フランだそうだ。

船は20人ほどの客を乗せると蒸気機関の音を響かせて川上へ登った。

テッド・ドール公園の周りを遡り鉄橋をくぐると大きな中州があり其の先は右へ大きく曲がっていた、飲み物は白ワインにビール、レモネードが用意されていてセルヴァーズが配って歩いた。

左手に見える運河は其の先に池がありさらにその先でまたローヌ川と合流していると説明があった。

其の合流地点で船は折り返しとなり蒸気機関は使わずにゆったりと流れに任せて船は下りだしまた其処でも飲み物が配られた。

船員が歌う船歌は朝の市場の男たちが歌っていた歌だ。

元の船着き場まで往復2時間ほど4フランの料金は2回の飲み物のサービスを考えると安い物で夏の川遊びにしては上出来だと正太郎は思った。

船着き場から見上げる新市街は随分と急な崖の上に有るように見えた。
夏の暑い日差しを避けてポン・モランからプレイス・マレシャル・リョーテイに入り、噴水傍の屋台でアイスクレームを買って木陰に入った。

「キャッ」という声がして振り向くと少年が女性の手提げ袋をひったくって逃げるのが見えた。

正太郎はその人に「僕が追いかけますから此処にいてください」とあとを見失わないように徐々に早足にして後を追いかけた。

クール・モランに120メートルほど先を懸命に逃げる少年はこのあたりのもので無いのか真っ直ぐに線路に向かって逃げていたが1キロも進まぬうちに先に機関車が見えると右に曲がった、駅を迂回して逃げようとしたのだろうが其処で追いついた正太郎に襟首をつかまれた。

「なにしゃがんだ放せよ」

「そうは行かないよ、レディから取ったものを帰してもらおうか」

「なにを、これはおいらのもんだ、変ないちゃもんをつけると承知しないぜ」

「駄目だよそんなこと言っても中身が何かいえるかい。ほら其処に警官がいるから引き渡そうか」

線路の向こうから不審げにこちらを見る警官の帽子があった。

「勘弁してくれよう。おいらが捕まるとメールが泣くからよう」

「ならそいつを5フランで渡しな」

「なんだおいらの上前を撥ねるのかい。それなら10フランだ」

「仕方ないな。ほら見えるかい」
5フラン銀貨を2枚見せて台の上に置いた。

「そいつをよこすんだよ。そうしたらそいつを取っていいからね。でもかっぱらいはやめにしなきゃ駄目だぜ。困ったことがあったら仕事を世話するからね、元の大学通りのバイシクレッテの店にヂアン・ショウに言われてきたと言って尋ねておいで」

「ふんおいらスリや泥棒の手先になんてなる気は無いぜ」

引ったくりの癖に面白い奴だと思った正太郎は手提げを受け取ると其の子を放した、そうするや否や銀貨を掴み一散に線路沿いに逃げていった。

「ああ、余分な散財だ。アイスクレームが無駄になったな」

ポールが何処からか現れて正太郎に声をかけた。

「どうしましたショウ。ショウが駆けているので急いであとを居ってきましたが足が速いですね。あれはスリか何かですか」

「いいところへきてくれた」

正太郎はプレイス・マレシャル・リョーテイで引ったくりを見かけて追いかけてきた話をして、先に公園まで行ってピンクのボンネットでニゼルという青い色の服の女性に手提げを取り返したと伝えてもらった。
横浜で連絡員の人たちに教わった走法がこんなことで役立つとはと思いながら駆け足で公園に戻った。

「ムッシューありがとう御座います」

「其れより中身が減っていないか確認してください。ああいう手合いは中身を逃げながらも抜いていることがありますから。それでお住まいはどちらですかお送りしますよ」

中身は何も減ってはいないようだ、ポールは練習中ですからと公園を出て行った。

「私オルガ・ポーリーヌと申しますの」

「僕はショウです。其れでどちらまで送りましょうか」

「知り合いがベルクール広場の近くにいますので其処へ行く途中です」

「それなら公園まで送りますよ。僕の友人も近くにいますので」

ポン・モランを渡って川沿いにポン・デ・ラ・ギヨティエールまでくだり、右に曲がれば公園の緑が見えた。

「僕の友人は公園の向こう側のペラ通りですがどうしますか」

「あら私の行く家もそのペラ通りの8番地ですわ。伯母のアパルトマンに妹が先に行って居るはずですの、パール・デューの駅から馬車で来るように言われたのをつい歩いて見物していましたの。お世話をかけて申し訳ありませんでした」

「僕は其のせいで此処まで楽しく歩けました。お礼を言うのは僕のほうですよ。8番地というと僕の友達のアランのアパルトマンと同じですよ」

M.サンテグジュペリのことかしら」

「そうです。ご存知でしたか」

「伯母のアパルトマンですの。M.サンテグジュペリは伯母の親戚ですわ」

話をしているうちにアパルトマンについて正太郎は4階のドアをノックした。

ドアを開けたアランは正太郎と女性がたっているのを見て驚いていたが「ショウはいつも違う女性を連れて現れるな」と余分なことを言い出した。

「まぁ、アランはいつも余分なことを言って」

「おや、オルガじゃありませんか。今日はどうしました。コンテッセは居ませんか、先ほどサリーが来ましたよ」

「まだお尋ねしていないわ。また後ほどねショウ。今日はありがとう御座いました」

アランにも挨拶して階段をオルガは降りて行き正太郎は部屋に入ると先ほどの話をアランにした。

「しかし10フランもやるとは変わっているな。傍に警官が居たなら引き渡せばいいのに」

「いやね、他に仲間が居ての盗みなら容赦しないのだけど、1人で其れもなれない逃げ方なのではじめてだったようだからさ。これに懲りてやめれば良いと思ってね」

「しかしやめるような奴ならいいがね。10フラン無駄にしたぜ。今朝方も女に大分散財したようだしな」

「つい朝方まで男にたかるようなのを見るとかわいそうになるのさ」

2人は今晩もどこかで飯を食おうと話し合っているとドアをノックする音が聞こえた。

アランがあけるとコンテッセが2人のマドモアゼルと其処にいた。

「アラン、ショウを暫くお借りしますよ」

コンテッセはそういうと正太郎の手を取って表に連れ出し、白い服の人を中へ押し込んで階段を降りて表へ出た。

「何処でお茶にしましょ」

コンテッセはそう言って公園を横切るとヴォワザンへ二人を誘った。

「不思議な縁ね。ショウと始めてあってまだ24時間もたたないうちにこういう関係でお会いできるとわね」

オルガも改めてあの時の状況やジュネーブからパリへ戻る前にリヨンへよった経緯などを話してくれた。

「でもアランが私の子供に為ってくれるというし、こんな嬉しい日は無いわね。ショウはパリだといったわね」

「はいそうです」

「それで何の商売の勉強に来たの。あの時はYokohamaのことばかりであまり聞かせてくれなかったわね。リヨンにブティックとバイシクレッテの店を出したとは聞いた気がするわ」

「そうです。パリでも同じようなものですが特に力を入れているのはワインの輸出です。シャンペンも少しですが手がけています」

正太郎はジュリアンとの出会いからYokohamaへ送り出したワインの話やボルドーへ行った時のことを話した。

「それでブルゴーニュのワインは扱っていないの」

「ブルゴーニュはジュリアンの仲間が仕入れてくれていますので任せています」

「自分でやれば儲けが大きいのじゃないの」

「自分で動く時間がもったいないのです。其れよりも自分のやりたい仕事を少しでも多く時間をかけて成し遂げようと考えています。他の人が出来ることやれる事はできるだけ任せようと思います」

「まったく貴方と来たらもう30か40にでもなった人のようなことをいうわ」

「いえこれは私をパリへ送り出してくれた会社の方針で其の会社を作られた人からの受け売りです。少しでも多くの人に仕事を与え、多くの人が働きに応じて儲けを分配する。そして自分の仕事を受け継ぐ人を育て同じように儲けさせることが次の時代へつなぐ使命だと教えられました。決して儲けを1人で独占することが商売人では無いのだと言うこともです」

「面白い会社ね。普通は資本を出した人が一番儲けて当たり前でしょ」

「パリへ来てこの国では其れが当たり前なのだと知りました、でも其れはその人の下で働く人の犠牲によって儲けを出しているに過ぎません。特に其のお金で慈善事業をしている人を僕は信用できません、その人の会社で働く人の生活が苦しいのに慈善事業など可笑しなことです。自分の下で働く人が豊かな生活が出来て初めて慈善を行うことにお金を出すべきだと考えています」

「驚いたわね。では貴方は自分のところのお針子でも給与は良いと自信があるのね」

「パリでは最低のお針子は1日10時間で3フランという人が居るようですが僕のところは8時間で4フランです。それ以上の仕事が有る時は時間外の手当てを出していますし、良い仕事が出来る人には独立して店が持てるように援助するつもりです」

「では貴方のところの下着や洋服は高いのね」

「其れは買われる方の感じ方ひとつでしょうね。一度もとの大学通りにあるマダム・シャレットへ出かけてみてください。まだコンテッセのお気に入る服は出来ないかもしれませんが出来るだけご要望にそうようにいたさせますよ」

今日は店が休みだが誰かいるでしょうからと誘って、元大学通りの店に案内すると2人を連れてポン・ユニヴェルシテを渡ってブティックへ向かった。

マダム・シャレットにはナタリーもいてオドレイとシルヴィにアンが2階で仕事をしていた。

「休みなのに精が出るね」

「ナタリーが新しい秋物のデッサンをしたのよ其れで今日は其の仮縫いをしているのよ。生地はまだ充分あるし」

シルヴィがそう言って裁断した生地をナタリーに着せ掛けた。

「いい出来ね。同じデッサンの服を幾らぐらいで分けてもらえるの」

シルヴィが困った顔で正太郎を見た。

「コンテッセ。これは従業員用でまだ売り出していませんがこの生地なら1着75フラン。上物だと350フランです。シルヴィ端布をお見せして」

2軒の店から貰った端布を見せて風合いと色を見てもらった。

やはり良い生地のほうを選んで「其のデッサンでこの色なら350フラン出しても惜しく無いわ。明日改めてくるからこの生地を用意できるかしら」とコンテッセは鷹揚に言った。

「ナタリーはいま休みなの」

「そうです」

「明日生地を仕入れに付き合ってくれるかい」

「良いですわよ。9時で良いですか」

「家まで迎えに行くかい」

「いえ祖父の店へ行きますからそこで如何ですか」

「では糸屋で9時に。ではコンテッセは午後でよろしいですか」

「仕事に出る予定があるから3時でいいかしら」

それぞれが了解して正太郎は2人をアパルトマンまで送ることにした。
4階でアランに夕食はどうするか聞くと5人でどうかとコンテッセに聞いて8時にシェ・ママンと言うので正太郎はホテルで着替えてくることにした。

馬車を拾い10フランを先に渡してホテルでドウシュを浴びて着替えをする間待たせ道をペラ通りまで戻った。

5人で公園の先にあるシェ・ママンへ入り思い思いの料理を頼んで楽しく食事を始めた。

高級なレストランへ誘わないアランに正太郎は好感を覚えたが、2人のマドモアゼルもこういう店でも清楚な雰囲気を崩さず、コンテッセも行きつけの店での食事ほど楽しいものは無いと上機嫌だった。

「ショウ、オルガとサリーにも同じような生地で作ってあげたいけど3着作るから安くしなさいよ」

「色はどうします」

「幾つか見本を見せてくれれば其処から選ぶわ、オルガは今日見ていたけどどれがいいの」

「私はミモザが良いわそれにシクラメンでもあわせれば言うこと無いわ」

「まぁ、お姉様は、どうしてそんな派手なものを選ぶのかしら」

「サリーがおしとやか過ぎるのよ。それで希望の色はあるの」

「私は秋ならオランジュ・ルーシーかしら」

「いい色ですね。秋の色としては木の葉が散る中を歩くには落ち着きがあります。其れとミモザも少し落ち着いたジョーヌ・ミモザにシクラメンですと秋や春のバラ園に遊びに行けば引き立ちますよ」

「オッ、ショウは中々の商売人だな。うまいたとえだな。それで伯母様は何色にしたのです」

「コンテッセが選んだ色はローズペーシュですよ。黒いベールのついた帽子ならよくお似合いですよ」

「そうね其れと肌寒い日に茶色のコートでも羽織れば良いと思うわ」

もう自分の衣装だなからどれを合わせようかと考え出したようだ。

ランディの朝正太郎が起きたときには降っていた雨も上がり、リヨンの町は爽やかだった。

パリも涼しくなってればいいけどと思いながら正太郎は何時もの散歩に出た。

ポン・デ・ラ・フェイェを渡りソーヌの流れに沿って上流へ向かった。

「そうか何時ものつもりでこちら側に来たが崖下なので陽が差さないのか、どこかで向こうへ渡れたかな」

正太郎はそう思いながら上流へ向かった。

中州の近くまで行ったが橋は無く仕方なく丘の上に上って見渡すとM.ランボーの農園らしきものがすぐ下に見えた。
働く人が見えたので降りていくとM.ランボーが4人の女性とともに切りそろえた薔薇を束ねていた。

「ボンジュール・ムスィウ」

「ボンジュール・ショウ。朝が早いね」

「いつもリヨンに来ると朝の散歩にでるのですが、川沿いに歩いてきたら向こうへ渡る橋が中々無くて丘に上がったら此方が見えたのです」

「そうか此処は街中と違って渡ししか無いからな。後2キロくらい先にさかのぼれば橋があるんだがね」

忙しそうなので話を打ち切ってパリへは明日戻ると告げてベキュ&ブランディーヌの店の前を抜け、ソエ・イルマシェのあるテルメ街へ向かった。

丘を降りてポン・デ・ラ・フェイェを渡ったのは8時、ホテルで急いで着替えて髭をあたりなおしてから下へ降りて、レセプシオンでセルヴィエットを受け取りまた橋を渡ってソエ・イルマシェへ向かった。

ナタリーとの約束の時間に店を訪れるとすでに来ていて伊兵衛が一緒だった。

「ショウいよいよ糸が残り少なくなりました。忠七さんの腕も上がって月中には全て使い切りそうです」

「ではこの間程度の糸を選んでください。僕たちはこの下のマダム・アッシュ・アンジェルで生地を買い入れてきます」

「好きなものを選んでいいのですか」

「良いですよ。ブティックでの評判もいいし好きなだけ買い入れてください。1時間くらいで戻りますが呼びにきてもらっても構いませんよ」

ナタリーとH・アンジェルへ向かい店で昨日のあの後の話をしながら生地を選んだ。

ローズペーシュを120メートル、ジョーヌ・ミモザにシクラメンも120メートルずつにオランジュ・ルーシーも120メートル、エメにアルフォンスが呉れたブルー・ヴィヨレとよく似た色合いだったが少し此方は光沢が有った。

「同じ様な生地と色合いのものをパリで見ましたが此処まで光沢がありませんでしたし、色も少しくすんでいました」

マダム・アンジェルは「其れは自然の木や草から染めたものですよ。まだ出来る人が居たのですね」と話してくれた。

「もう残りは無いと言っていました。70メートルだけ手に入ったと言っていました」

「そうかもしれませんよ。リヨンでも残っているかどうか最近ではそういう染めをした糸が無いですからね」

正太郎は伊兵衛に言えば日本にはあるかもしれないと思った、ナタリーを見ると肯いたので早速伊兵衛に相談しようと思った。

ブルー・ヴィヨレも120メートル買うことにして5種類600メートルで4200フランを50フラン金貨で支払った。

すぐ配達に出ますというので頼んで糸屋へ向かった。

伊兵衛はまだ悩んでいたがナタリーが手伝ってどうやら決まったようだ。
正太郎が金貨で1220フランを支払って「何時ものように店で帳面に記入してください。一緒に行ってくれますか」と頼んだ。

「判りました。最近は糸の心配が無いので後の2人も顔が明るくなりました」

「それならどこかで写真を撮りませんか」

「実はマルセイユで撮ったのですがあまりいい出来ではないので忠七さんなぞふてくさっていますのや」

「それなら店に寄ったら其の足で家に戻って午後にでも撮りに行きましょうよ。今日は日差しも柔らかで写真日和ですよ。確かモンプレジールに写真館がありましたよ。ナタリーは知っているかな」

「知っているわ。正太郎が良くいくギヨー農園の息子さんのほうの近くよ。リュミエールの写真館よ」

ナタリーが店に戻るより写真館に先に行けば時間の節約が出来ると大きめの馬車を雇って糸を積み込みクロワ・モラン街へ向かった。

3人を着替えさせてモンプレジールの写真館へ向かった。
大きなガラス戸がはめ込まれた写真館で3人の写真とナタリーを加えた4人に正太郎とナタリー2人の写真で3種類を撮り焼き増しの分と共で48フランを支払った。

待たせていた馬車でブティックに向かい、そこで糸の値段をノートに記入してもらった。

着いていた生地の内からブルー・ヴィヨレを見せて、パリで見た風合いと色の具合をナタリーが紙に写してくれた。

ようやく似た色合いが出来るとシルヴィが昔見たことがあり何着か縫ったことがあると話してさらにナタリーと絵を描いていたがバスルスタイル風の絵を完成させるとアルフォンスが描いた画と近い出来合いになった。

「柄を織り込まなくて良ければ西陣でもほぼ同じように織り出せます」というので100反分の輸出値段を調べてもらうことにした。

3人は馬車で帰して正太郎とナタリーは着いていた生地を2階で広げてかわるがわる上がってきた人たちと話し合った。

「これが1人分で280フランもするのね」

「そう余分な飾りをつけ無ければ120メートルで5人分は取れるらしいけどね。バスルスタイルだとどうしても生地が必要だからね」

「でもショウは3人分の予約にこんなに買ってどうするの」

「これは店と別勘定でナタリーの分で会計をして売り出してくれるだろうか。売り上げからお針子の手間賃をナタリーに請求する形で帳面をつけてくれるかな」

「あらまたショウは難しくしたわね。仕方ないか店の仕入れにしたら言うまでも無く赤字ですものね。それでナタリーには給与を出すの。ナタリーは幾ら欲しいの」

「私は好きでやらせてもらっていますから良いですわ」

「そうは行きませんよ。では1着売れるごとに30フランのデッサン料でいかがかしら」

「そんなにいただけませんわ。だって生地が高いですのにショウは安く約束してしまいましたもの。1人分が350フランの約束で生地が280フランではお店の儲けがありませんわ」

「いいのよ。これはショウの病気みたいなものだから。あとの生地は1人400フランでなければ受けないようにすればいいのよ。其処にある生地は安いほうだから1人分30フランしないから120フランで受ければいいのよ」

「ショウはそちらを75フランでと約束していましたよ」

「困った人ね。今回の話だけよ後は駄目。判りましたかショウ」

「ダコー。これからはうっかりした約束はしませんよ。でも困ったな」

昨晩コンテッセから3着買うからと値切られてしまったから今回は1000フランの儲け抜きで頼みますと言うのだった。

「判ればいいのよ。ショウは気前が良すぎてどうやって儲けているか判らないところが有るけど、其れが後で儲けにつながるから不思議よね、ねシルヴィ」

生地を調べているマダム・デュポンにジャネットは言った。

「本当ですわマダム、ショウの気前がいいのは男女を問わずですものね」

「そうだジャネット、お針子への請求分はナタリーの帳面に請求するとして其処から出た分をお針子の特別手当に積み立てないか。そうして年2回配当を出せば働く張り合いも出るだろ」

「良いわね。店からの特別配当とすればみなが喜んで働けるわ。ナタリーもいいデッサンを沢山描いてね、其れを此処へ張り出せば上がってきた特別なお客の目を引くわね。そうして貴方だけの服を此処で請け負いますと言うのはいいかもしれないわ」
其のうちナタリー用の特別室でも作って働いてもらおうかしらと何時もの正太郎のお株を奪うジャネットだった。

コンテッセの一行が来ると正太郎は挨拶をしてバイシクレッテの店の方へ顔を出した、昨日あの少年に困ったら店へと言っておいたのを思い出したからだ。

「そうでしたか、まだ顔を見せては居ませんが来たら力に為りますよ。悪さをしなくてもすむようにここで働かせても良いですから」

「頼むよ少しでもそういう道に踏み込まずに済めば僕も嬉しいのさ」
ユベールとポールも話を聞いていてバスティアンの話しに肯いた。

「僕は明日5日にはパリへ戻るけどレース結果はランディにでも事務所へ電信で教えてくれたまえ。期待しているよ」

正太郎よりたくましい2人に握手して店を後にしてギヨー老人のバラ園へ向かった。
お茶をご馳走になり薔薇の話を色々聞いてからバラ園を出て上を見ると東に日の光を浴びて白く輝く月が見えた。

5日の朝はまた雨が降っていたが正太郎が散歩に出る前に上がった。
ソーヌ川沿いに降ると町は早朝から活気に溢れていた。
いつもと違い鉄橋の下をくぐってプレスキルの先端の見える場所まで歩いた。

ローヌ川はソーヌに比べ水の色がエメラルド色に見えたので正太郎は興味を覚えて暫く水の流れを見ていたがまた道を戻ってホテルへもどった。
荷物を整えると駅へ向かい荷物を預けてマダム・シャレットへ向かった。

「次回はまだ予定がわからないので用があれば電信を打ってくださいね」
ジャネットに頼んで11時45分発のパリ行きに乗るために駅へ戻り列車を待って乗り込んだ。


 2008−08−17 了
 阿井一矢


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 其の五   鉄道掛
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 其の七   弗屋
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