酔芙蓉 第一巻 神田川  
 酔芙蓉−第四部目次 江の島詣で  根岸和津矢(阿井一矢)

 第一部目次
 第二部目次
 第三部目次
 第四部目次
 第五部目次
 目次のための目次-1
  第六部目次
 第七部目次
 第八部目次
 第九部目次
 第十部目次
 目次のための目次-2
 第十一部目次
 第十二部目次
       目次のための目次-3

文久三年4月2日―1863年5月19日

・ 江の島詣で 川崎宿


文久三年4月2日―1863年5月19日
・ 江の島詣で 川崎宿
め組の喧嘩 文化 2年(1805年) 2月場所 7日目、懇意の者と一緒に芝神明社境内の相撲場に来た鳶の富士松が、木戸銭を払わずに入ろうとして断られた。
これを恨んだ富士松は、同社境内で行われていた香具師芝居を見物に来ていた九竜山(東二段目 6枚目)を足蹴にし、仲間の辰五郎と共に口論を仕掛けた。
その間に同じく仲間の長治郎が芝浜松町 2丁目の火の見梯子へ昇って半鐘を乱打、め組36か町の人足を集めたため、大勢の鳶人足が鳶口や棒などで九竜山に打ち掛かった。
そのほか四ッ車、藤ノ戸も喧嘩に加わりましたが、町奉行所の与力・同心らによって鎮められ、13名が逮捕された。
同年9月に吟味の結果が出て、
相撲方
四ッ車:構い無し
九竜山:江戸払い
藤ノ戸:構い無し

鳶方
辰五郎:叩きの上、江戸払い
長治郎:江戸払い
め組人足165名:過料50貫文
その他親類縁者:過料、急度(きっと)お叱り
(富士松は傷のため喧嘩の 3日後に牢死)と、火事以外に打つ事を禁じられている半鐘を打った事をきつく咎めたのか、鳶側に厳しい処分となりましたがそれでも仕掛けたほうにそれほどの刑罰が与えられないのは、南町奉行・根岸肥前守鎮衛は芝明神の半鐘がかってに鳴り出したのが喧嘩の原因であると断罪、この半鐘に遠島を申しつけるという粋な計らいをして、関係者に寛大な処分をしました。
 この事件は後に「御摂曽我閏正月(ごひいきそがうるうしょうがつ、1822年市村座で上演)」其のあと明治になって上演された、竹柴其水が劇化した4幕8場の作で、(1890年新富座にて上演)」「神明恵和合取組(かみのめぐみわごうのとりくみ)」などの演題で歌舞伎化されて有名となる。
沢村田之助
五代目沢村宗十郎の次男で、幼名は由次郎。二代目沢村訥升を兄に持つ田之助は、美貌と才能に恵まれた幕末期を代表する人気役者です。
安政六年(1859年)正月、三代目沢村田之助を襲名する。翌年春、弱冠十六歳で立女方の地位を得て、河竹黙阿弥の作品に次々と出演しています。
田之助髷という髪形が婦子の間で流行し、田之助襟や田之助下駄など「田之助」がつく商品が多く売り出されています。
脱疽による病に冒されヘボン博士による手術は有名です。
明治五年(1872年)に江戸で引退興行をするが、舞台への思いを断ち切れず、翌年には沢村座を開場し自ら立女方として立つが失敗。その後、京阪の劇場に出勤するが、江戸に戻り同十一年(1878年)に発狂、三十四歳の若さでこの世を去りました。

文久三年4月2日―1863年5月19日
 ・       
江の島詣で 川崎宿−弐


この時代に東海道を写したベアトのものです。
文中にある夕暮れ時にあわせて浮世絵ではなく此方にしました。
文久三年4月2日―1863年5月19日
江の島詣で 川崎宿−弐
川崎宿は前にも書いたから省略、六郷の渡しは武士と僧侶神官は無料でした。
渡し賃は資料では十六文とされていますが幕末までそうなのか解りませんでした。
渡し賃は川崎宿の費用として下げ渡されましたが、最初はほかに廻されていたものを川崎宿の疲弊をすくうために下げ渡されることになりました。
藤屋は本当に在ったのですが規模や場所はわかりませんが、大きな宿屋ではあったようです。

文久三年4月2日―1863年5月19日

・ 江ノ島詣で 川崎宿−参


文久三年4月2日―1863年5月19日
・ 江ノ島詣で 川崎宿−参
懐中時計は江戸末期に大分数が入ってきていますが其の当時の時間とはあわないので実用には向きませんでした。
寅吉が言うように昼を基準にして一日がわかるという程度で装飾品としての意味合いと60分という時刻を理解できる人のためにはよいものでしょう。
お坊様方は線香でほぼ正確な時刻を計っておられたものだそうです。
左が鎖つきの高級品で三人がそろいで購入したもの、右が董全様が買ったものの拡大図。
トビアスはリバプールで時計製作と輸出入をしていたようで、スイスから大量に輸入もしたようです。

文久三年4月3日―1863年5月20日

 ・ 江の島詣で 神奈川宿


江ノ島詣でも二日目道がはかどりま〜〜す。
志からき茶屋
文久三年4月3日―1863年5月20日
・ 江の島詣で 神奈川宿

切り殺されたイギリス人は、日本人に対して自分たちが征服している土着民くらいにしか認識していない様だと思われます。
この人たちの前にはアメリカ人の一行が通りましたが、馬から降りて行列をやり過ごしていて、単に異人嫌いの久光公が切らせたというのは誤りです。
大名旗本と言えど薩摩の太守の父親であり当時の久光公の行列を騎乗のまま通り抜ければ大事件になるのは日本人なら当たり前、単なる観光に来たとしても礼儀を取らないものを、そのまま打ち捨てれば薩摩のやり方を批判されるのは必定です。
国民がよい悪いにせよ自国民を守るのは欧米諸国では当たり前ですが、昔も今も日本では軽んじられる事が多いのがこの事件の幕府の老中諸侯の対応でもわかると思います。

1860年(万延元年) 内海兵吉がフランス軍のコックから焼き方を教わるがパン種が手に入らず最初の頃のパンは、出来がよいものは少なかった。
1865年,横浜に住むロバート・クラークが「横浜ベーカリー」を開業
1866年(慶応二年)内海兵吉が北仲通で富田屋開業(パン。ビスケットを外国人に販売)

生麦ーベアト
文久三年4月3日―1863年5月20日
 ・ 江の島詣で 神奈川宿-弐

生麦付近は海も近く幕府に魚を献上する御菜八ヶ村の一つとして賑わった名残が今でも魚市場の残ることでも窺える。

信濃坂・品野坂ーベアト
文久三年4月3日―1863年5月20日
 ・ 江の島詣で 神奈川宿-参
牡丹餅が名物の茶店が多く出ますが、今で言うおはぎ・ぼた餅とは違い焼き餅だったようです。
あと焼団子は茶店の定番、香煎はお茶で、米・麦などの穀類を煎ってひいた粉にシソ・陳皮などを加えたもの。
白湯(さゆ) にといて飲む、こがしとも言ったそうです。

文久三年4月3日―1863年5月20日

 ・ 江の島詣で 藤沢宿

文久三年4月3日―1863年5月20日
江の島詣で 藤沢宿
日本橋からだともう少し行程は短くなるようです。

一日目 約19km

柳橋→三十間堀→新橋→芝(浜松町)→高輪→品川宿(約9km)・二里十丁
日本橋を出て最初の一里塚は芝あたりになります。
二番目は北品川宿、八つ山、寅吉たちが出かけた文久3年にはなくなっています。

品川宿→鈴ヶ森→蒲田→六郷→川崎宿(約10km)・二里十八丁
三番目は大森梅屋敷近く池上道分かれ道
四番目は六郷の手前、八幡塚村、六郷神社脇参道
 
 
二日目 約32km

川崎宿→八丁畷→市場村→鶴見→生麦→子安→神奈川宿(約10km)・二里二十丁
五番目は市場村鶴見橋手前5丁
六番目は東子安村
七番目は神奈川宿先台町下大綱金毘羅神社入り口
 
神奈川宿→青木橋→台町→浅間神社→保土ヶ谷宿(約5km)・一里九丁
八番目は保土ヶ谷宿茶屋橋先
保土ヶ谷宿→権太坂→境木地蔵→品濃坂一里塚→戸塚宿(約9km)・二里九丁
九番目は品野坂(信濃坂)
戸塚宿→大坂→原宿一里塚→鉄砲宿→遊行寺→藤沢宿(約8km)・二里
十番目は戸塚吉田大橋手前
十一番目は原宿村
十二番目は遊行寺道場坂上

一日目はそれほど大変ではありませんが二日目は行程としては無理しているようですが、
大名行列は日本橋からだと戸塚に泊まるのが普通でした、それでも一日45kmは大変な強行軍です。

1町[丁]は60間 で約109m。1里は36町で約 3.9km


藤沢宿江戸見附より藤沢宿を見るーベアト

文久三年4月3日―1863年5月20日
・ 江ノ島詣で 藤沢宿−二

権太坂
 坂の名前の由来は、旅人が老人に坂の名前を尋ねたところ、自分の名前を聞かれたと思い「権太」と答えたという説と、藤田権左衛門という開発者の名前から「権左坂」と呼ばれていたものが転じたという説があります。
 権太坂を上りきると境木地蔵尊があります。鎌倉の海岸に流れ着いたお地蔵様が、江戸に運ばれる途中でこの場所が気に入り、動かなくなってしまったため、お堂を建てて安置したと伝えられています。
正月の箱根駅伝でも有名な権太坂、現在の国道1号よりも西側に江戸時代の東海道のルートがあります。
 かつての権太坂は一番坂、二番坂と急勾配が続き、江戸を出発した旅人が最初に迎える難所として知られていました。
 また、この難所を登り切ると武蔵国と相模国の国境にあたる境木にたどり着きます。境木はきわめて眺望が良く、難所を越え一息つける場所として茶屋が軒を連ねていました。その様子は浮世絵にも描かれています。

原宿村一里塚
今もよく保存されていてここで与次郎さんが追いつきました。
遊行寺までは後一里。 

藤沢宿・白旗神社
今回のたびでは尋ねていませんが、宿場のはずれには義経を祭る神社があります。
文治五年六月十三日、鎌倉の西浦「腰越」で梶原景時や和田義盛等によって首実検されたのち、捨てられて片瀬川に漂着、川を逆流して首は藤沢の里人によって手厚く葬られたと伝承され首塚と洗い清めた井戸が史跡として現存しています。

文久三年4月4日―1863年5月21日

・ 江の島詣で 岩屋洞窟


稚児ヶ淵の様子
文久3年4月4日―1863年5月21日
・ 江ノ島詣で 岩屋洞窟
恵比寿屋は今でも島内にあり橋を渡り参道を歩くと左側にあります。
創業350年といわれています。
最初に江の島弁天信仰の象徴ともいえる、鳥居が創建されたのは延享4年(1747)。
文政4年(1821)に再建されたものが現在の青銅の鳥居です。
菊五郎
文久2年3月、「青砥稿花彩紅画(あおとぞうしはなのにしきえ)・(弁天娘女男白浪、べんてんむすめめおのしらなみ)」という外題の河竹黙阿弥(当時は二世河竹新七)が書いたもの、19歳で弁天小僧を演じた五代目菊五郎(当時は十三世羽左衛門)の出世作となりました。
山伏の開祖 役小角(えんのおづぬ)始めて江の島島内に入る。(江島縁起による)
仁寿2年(854年)慈覚大師が中津宮(なかつのみや)を創建。
寿永元年(1182年)4月5日源頼朝 奥州遠征にあたり鎌倉武士47人と共に文覚上人を招いて岩屋に参籠。(吾妻鏡による)
建久元年(1190年)北条時政が江の島に参籠。龍の化身の美女が現れて子孫繁栄を約束。残された3枚の龍のウロコを元に「三鱗」家紋を定める。
元禄3年(1690年)杉山和一(検校)により下之宮(現辺津宮)の社殿再興。
杉山検校
杉山検校は名を和一といい、慶長15年(1610年)伊勢国に生まれました。
幼くして伝染病により失明した和一は家を義弟重之に譲り江戸に出て鍼術を検校山瀬琢一(やませたくいち)に学びますが、物忘れが激しい性格から、破門を言い渡されますが、江の島の弁財天の祠に詣で断食祈願をすること7日の後、山から下る帰り道に福石のそばでつまずいて倒れ、その際体をチクリと刺すものがあり、拾ってみると竹の筒とその中に入った松葉だったという。
これをヒントに考案したのが、管の中に鍼を入れ管の上部に出た鍼の頭を手で叩いて刺入する杉山式管鍼(くだばり)です。
現存している、杉山検校寄進の江の島道標は、藤沢市役所構内に2基、片瀬市民センター構内に2基、遊行通ロータリーに1基、鵠沼神明法照寺境内に1基、片瀬光蔵寺筋向に1基、西行もどり松に1基、片瀬小学校構内に1基、白幡神社境内に1基、そして江の島、福石の江の島道標の全11基です。
形は皆同じで高さは1m、四角の柱の一面の横幅は20cm程の花崗岩製。

その後、京において鍼科の入江豊明(いりえとよあき)に学び斯術の奥義を極めた。豊明の父良明は検校山瀬琢一の師でもあり、良明の父頼明は豊臣氏の医官園田道保及び明人呉林達に鍼術を学んだ人である。
寛文11年(1671年)62歳にして検校となり72歳の時に幕命を受けて鍼術再興のため鍼治講習所(しんじこうしゅうしょ)を開き多くの門人を育てる。
貞享2年(1685年)和一75歳の時、将軍綱吉の治療を行い功を奏し取り立てられました。
和一は、元禄3年(1690年)下之宮(現辺津宮)の社殿再興。
元禄6年(1693年)には下之宮(現辺津宮)の三重塔建立をしました。
元禄5年(1692年)5月関東全域の盲人を束ねる最高位である関東総検校(けんぎょう)に任ぜらます。
参道突き当たりの交番の横を右に裏参道に入り、坂を登ると江の島市民の家があり、その入口に杉山検校の墓を示す石標がありその先、西浦霊園墓地に杉山検校の墓があります。江の島を愛し信仰した杉山検校が眠っておられます。

文久三年4月5日―1863年5月22日
 ・ 江の島詣で 弁財天

文久三年4月5日―1863年5月22日
江の島詣で 弁財天
音羽屋 五代目尾上菊五郎
弘化元年(1844年)6月生〜明治36年(1903年)2月18日没 
 十二代目市村羽左衛門の次男で、三代目尾上菊五郎の孫にあたる。
嘉永二年(1849)正月幼くして市村座の座元を継いで十三代目羽左衛門。
文久三年(1863年)弟に座元を譲って四代目市村家橘。
明治元年(1868年)母方の名跡の五代目尾上菊五郎を襲名。
家橘時代は新しいあたり物が無いようですがこのような錦絵が出ています。
白浪水滸伝の村崎篠団左衛門kazuyaは残念ながらどのような話か知りません。
見立白浪八景、品川沖の帰帆の暁星五郎他には義士物白波物が多いようですね。
 
前回と重なるとこもありますが。
1182年(養和2年)源頼朝が文覚上人を招き戦勝を祈願して社殿を造営の上、弁財天を勧請。
江ノ島明神は神仏混淆で真言宗の金亀山与願寺(「江嶋寺」京都仁和寺の末寺)とも呼ばれ、その別当は鶴岡八幡宮が兼務しましたが、のちに岩本院(岩本坊、中之坊)が岩本本宮、上之坊が上之宮(現中津宮)、下之坊が下之宮(現邊津宮)を管轄して三宮がそれぞれ弁財天を本尊としました。

近世では徳川幕府が本山末寺制度をしいて寺社を統制した為、17世紀ごろ三宮の別当寺の岩本院・上之坊・下之坊の間で本山の地位をめぐり紛争、最終的には岩本院がその地位を確立。
この争いは庶民の江の島参詣が増え観光収入の増大が要因となりました。
明治にはいると神仏分離で宗像三女神を祀る邊津宮・中津宮・奥津宮と岩屋からなる江島神社にあらためられ、以後今日まで観光地として発展してきました。

とこぶし(ミミガイ科)・・・アワビの小型の物と間違えやすいが違う貝です。
アワビの殻は、ごつごつとして、とこぶしの殻は、ツルっとして模様が刻まれています。
あわび(ミミガイ科)・・・腹足綱ミミガイ科の大形巻貝の総称。
殻は楕円形で殻口は広く、長径が15センチメートル以上になるものがある。
殻表は褐色、内面は真珠光沢が強く、雌雄異体、肉は美味しく生食、焼き物、蒸し物、煮貝、ステーキといろんな調理に向いています。
殻は螺鈿(らでん) 工芸、貝ボタンの材料となる。
日本近海にはマダカアワビ・クロアワビ・メガイアワビ・エゾアワビの四種を産する。
ながれめ(ながらみ・キサゴ・ニシキウズガイ科)・・・北海道から九州までの砂地に棲息しています。キサゴとイボキサゴはとても似ているが裏返してヘソの部分の平らなところがキサゴのほうが小さい 
しったか(バテイラ・ニシキウズガイ科)・・・頭のとんがったのがしったか、丸いのはたま、この「しったか」がバテイラ、「たま」はクボガイ。



酔芙蓉ー江ノ島詣でー2

文久三年4月6日―1863年5月23日

 ・ 江の島詣で 2 切り通し 1


文久三年4月6日―1863年5月23日
江の島詣で 2 切り通し 1

御霊神社

関東の平家一族の五家(大庭、梶原、長尾、村岡、鎌倉)の祖先を祭る五霊神社であったが、のち 鎌倉権五郎景政(景正)を祭神にして御霊神社、権五郎さまと呼ぶようになった。

 後三年の役、永保3年(1083年)16歳で戦いに出た権五郎は、敵の矢で右目を射抜かれた。矢をそのままに敵を倒した後、自陣に戻り、力つきて倒れた。

その矢を抜こうと土足で権五郎の顔に乗った味方の三浦為次に、「弓矢に当たって死ぬのは武士の本望だが、顔を土足で踏まれるのは武士の恥辱」と言って切りかかったという。為次は詫びた上、ひざで顔を押さえて、ささっていた矢を抜いたという (奥州後三年記)。

高徳院

東国にも大仏を造ろうとした源頼朝の遺志を受け継ぎ、仕えていた稲多野局が計画したといわれる。

暦仁元年(1238)に着工され、6年後に完成したこのときは木造でした。

建長4年(1252)から青銅の大仏が鋳造された。 

室町時代、大地震による津波で海に流された。以来、ずっと露座のままである。津波で寺も流され、長く廃寺と化していたが、江戸時代の正徳2年(1712)、増上寺の祐天上人が豪商野島新左衛門の協力を得、寺と大仏を復興し、現在に至る。 

正岡子規

 火に焼けず 雨にも朽ちぬ 鎌倉の はだか仏は 常仏かも

与謝野晶子

かまくらや みほとけなれど 釈迦牟尼は 美男におわす 夏木立かな

残念ながら晶子さんは間違えましたがこの歌は其のせいか有名になりました。

 

八幡宮は有名だからちょっとこぼれ話

赤橋と言う名で呼ばれる太鼓橋・・・今ゆわれる赤橋は脇に作られた通行用の橋、元は太鼓橋を紅く塗ってあったそうだ。

旗上弁天社は八幡宮創建800年(昭和55年)に、文政年間の古図をもとに復元されたもので新しく見えるのは其のせいです。 

天園ハイキングコース・・・建長寺裏から明王院奥に続く、東郷平八郎が天国の園に遊ぶようと形容した事に由来する、元は六国見と呼ばれた。

Kazuyaが子供の頃の案内板には天国ハイキングコースとなっていたが誰に言っても天園だよと言われていたが10年ほどまえ、川崎生まれで大和在住のSさんという主婦にこうきかれた「子供達にあそこは天国と言っていたといっても信じてくれない」やはりkazuyaと同じ案内板を見た記憶が有る人がいた、よかったただの記憶違いではないと安心した

杉本寺

 天平六年(734年)光明皇后の寄進により、行基が開いたと伝える。

鎌倉で最も古い寺で源頼朝により建久2年(1191年)再建された。

この観音堂は1687年に再建されたもの。五間四面の中世密教本堂形式というそうだ。
観音堂の裏手の山には昔は杉本城というお城があったそうだ。

三尊同殿の由来。  

永禄三年(一五六〇年)書写の『杉本寺縁起』には、天平六年(734年)行基が自から刻んだ十一面観音を安置して開創したとあります。

慈寛大師(円仁794年〜864年)が同じく十一面観音を内陣の中尊として納め、天台の法流に入りました。

寛和二年(九八六年)恵心僧都は花山法皇の命を受けて十一面観音を納めたと伝えられる。

鎌倉の御家人の屋敷・知行地荘園

一、出仕する際、着替える所、鎌倉中心部。

二、普段の生活の邸、鎌倉府内。

三、知行地、食料を生産供給するための荘園は鎌倉の外に作られ、西は平塚・秦野辺り、北西は相模原辺り、北東は川崎辺りの多摩川以南、南は三浦半島一帯


文久三年4月6日―1863年5月23日
江の島詣で 2 切り通し 2

金沢八景

金沢(かねさわ)といい、六浦(むつら)といわれていました。

瀟湘八景 

瀟湘夜雨 遠寺晩鐘 遠浦帰帆 山市晴嵐 洞庭秋月 平沙落雁

漁村夕照 江天暮雪

中国湖南省の瀟江(水)(しょうこう・しょうすい)と湘江(水)(しょうこう・しょうすい)と呼ばれる川が合流して洞庭湖に注ぐあたりを瀟湘といいます。

その景勝八カ所を北宋の文人画家宋迪(そうてき)が画題として選んことから「八景」は始まったといわれています。

近江八景

 唐崎の夜雨 三井の晩鐘 矢橋の帰帆 粟津の晴嵐 石山の秋月 堅田の落雁

 瀬田の夕照 比良の暮雪

琵琶湖南湖の景勝地室町時代の僧たちが、中国洞庭湖の瀟湘八景にちなんで選んでいたものを、後陽成天皇が決めたといわれています。 

  

金沢八景 広重の「金沢八景」には京極高門の和歌が刻まれています。 

この日寅吉達は六時前に野島に入りました、日没は六時40分くらい、暮れ六つは七時頃。

小泉夜雨  かぢまくらとまもる雨も袖かけて なみたふる江の昔をぞおもふ

 宮川上流から手子神社付近の夜の雨。

称名晩鐘  はるけしな山の名におふかね沢の 霧よりもるゝいりあひのこえ

 北条実時が鋳造し、その子顕時が改鋳した称名寺の鐘は、国の重要文化財となっている。

乙舳帰帆  沖つ舟ほのかにみしもとる梶の をともの浦にかへるゆふなみ

金沢一帯の海岸線が、船の「とも」の形をしていることから「おっとも」といわれた。

洲崎晴嵐  にきはへるすさきの里の朝けふり はるゝあらしにたてる市人

 洲崎から瀬戸神社に通じる鎌倉街道は松並木だった。もとは、「山市の晴嵐といい、朝比奈付近をさしていた。

瀬戸秋月  よるなみの瀬戸の秋風小夜ふけて 千里の沖にすめるつき影

 旅館東屋、後方に墨絵のような平潟湾と野島が望まれる。

平潟落雁  跡とむる真砂にもしの数そへて しほの干潟に落る雁かね

 平潟は、野島のふもとから洲崎にかけての地域をいい、潮干狩りで有名だった。

明治初期まで、塩田で塩を焼き八王子辺りまで売りにいったといわれる。

野島夕照  夕日さす野嶋の浦にほすあみの  めならふ里のあまの家々

 野島はもと陸つづきの島、山頂からは遠く房総の山が見えた。

内川暮雪  木陰なく松にむもれてくるゝとも いざしらゆきのみなと江のそら

 鷹取山から神武寺へ続く雪景色、初めは釜利谷の辺りをさしていたとされています。

金沢八景がいつ頃成立したかと言えば、鎌倉時代、将軍・頼経が六浦(金沢)に遊覧し一泊したことが吾妻鏡に出ている、その頃の金沢八景は、風情ある思い思いの場所に瀟湘八景を当てはめていたらしい。
元禄 七年(1694年)、中国から渡ってきた心越禅師が能見堂からの勝景を、瀟湘八景になぞらえて八首の漢詩に詠んだ。
このとき「平潟落雁」「洲崎晴嵐」などと金沢の地名を冠して、現在の金沢八景が命名されたといわれる。
中国最大の湖・洞庭湖に注ぐ河川のなかに瀟江と湘江がある。
瀟湘八景は、その周辺の風情ある景勝地のことで、多くの山水画に描かれ詩歌に詠まれている一方、杭州の西湖もまた山水の美を誇る中国屈指の名勝地である

文久三年4月7日―1863年5月24日
 ・ 江ノ島詣で びわ島弁天
文久三年4月7日―1863年5月24日
江ノ島詣で びわ島弁天
横浜のパンの歴史(酔芙蓉・はこの話の中のことです)
1859年 横浜港開港して、横浜弁天通りの菓子商池田覚平が西洋菓子およびパンを製造
1860年(万延元年) 内海兵吉がフランス軍のコックから焼き方を教わるがパン種が手に入らず最初の頃のパンは、出来がよいものは少なかった。
同年      横浜本牧で町田兵吾がパン屋創業
 (内海平吉の間違いで場所も間違えているとの考証がありました)

1861年   本格洋風パンや開店される
1862年   ロバート・クラーク来日
1863年 2月 野毛にて虎や、義士焼を売り始める。(酔芙蓉)
1863年 5月 元町にて虎や、義士焼を売り始める。(酔芙蓉)
1863年6月12日Monday 居留地20番(山下町二十番地)にてパン屋(パルメスと契約)PICARDIE BAKERY・ピカルディベーカリーを営業開始。
(酔芙蓉)
1863年7月5日 元町にてパン屋ピカルディ(販売所のみ)を営業開始。
(酔芙蓉)
1865年   ロバート・クラークが「横浜ベーカリー」を開業
(ヨコハマベーカリー パン専門店 イギリス人)
1866年   内海兵吉が北仲通で富田屋開業(パン。ビスケットを外国人に販売) 

レンクロフォード 食料品 雑貨 兼業 アメリカ人(イギリス人・フランスパンとの資料を見た記憶があります) 横濱本街59番
デンティース   下宿屋 兼業 イタリア人
パルメス     不明     イタリア人(フランス人)  
(酔芙蓉では寅吉がアメリカから呼んだフランス、イタリアの混血移民として設定しました、アメリカ公使プリュイン氏・スミス商会との共同経営の形をとる。文久三年6月居留地20番地と7月に元町にて開店。)慶応三年に元町は山手居留地の隣接地となる。

びわ島弁才天・立身弁才天
瀬戸神社の境内社のうち琵琶島神社です。
尼御前とは北条政子のことで現在は参道脇の福石は、参道東側の浅い海の中にあったものですが、昭和41年に国道16号線の拡幅工事をしたとき今の位置に移された。 
瀬戸神社に社伝が残されていて、頼朝公がこの地に伊豆三島明神の分霊を祭ったとき、頼朝公は海辺に降りて海でみそぎの神事をしました。
この石に衣服を脱ぎ掛けたので「服石」とか「呉服石」の名が起こったと伝えていまする。土地の古老の話では、この石の前でモノを拾うと大いに福を得ることから「福石」と呼んだという話が伝わっているが江の島の話と混同したもの。

能「放下僧」の舞台・瀬戸神社の三島明神
祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)、速須佐之男命、菅原道真など11柱といわれていますが、三島大社の本来の三島明神は事代主ですが系統が二つあり何時の時代にか混同され富士の浅間神社との関係からか大山祇命になっていましたが、明治になって神仏分離令以後二つを併記しています。
此方は勧請したままになっているようです。


文久三年4月8日―1863年5月25日

 ・ 江ノ島詣でー2 バンド

そのころ横浜の外国人居留地には、いまでも錦絵で知られるような英一番館(ジャーディン・マゼソン商会)、亜米一(ウォルシュ・ホール商会)などの商館がずらりと並び、文久2年(1862)の時点でも、イギリス39、アメリカ11、フランス9の商館が建っていました。

1862年(文久2年)横浜ホテルでバーを預かっていた黒人のジャマイカ生まれの英国籍、通称マコーリー男爵が居留地八六番でロイヤル・ブリティッシュ・ホテルを創業、ここにはコーヒー・ルームとボウリング場が設けられていた。 

横浜のホテル

万延元年(1860年2月24日にオランダ人のホフナーゲルは居留地70番に横濱ホテルに開業。

2つの広間と8つの客室、食堂にビリヤードとボウリング室、バーもありました、厩舎や従者の部屋も造られていました。 

文久2年(1862年)に横濱・ホテルのバーにいたマッコーリーが、居留地86番に「ロイヤル・ブリティッシュ・ホテル」を開業します。

文久3年(1863年)には横濱・ホテルはイギリス人キャリアーの経営へと替わり、横濱・ホテルの隣の71番に「アングロサクソン・ホテル」がトーマスによって開業します、トーマスは客船の接客主任だったと言われています。

文久4年(1864年には横濱・ホテルの元従業員ミックスターによって「タイクーン・ホテル」が居留地51番に開業しました。

このホテルは一般の外国商人よりも各国の将校らを対象としていて、また日本軍人や役人などにも開放しています。

ミッチェル・ラプレイス商会が「コロニー・ホテル」を開業しました。

ロイヤル・ブリティッシュ・ホテルがW・カーチスの経営となり「コマーシャル・ホテル」と改称します。

慶応元年(1865年)には居留地18番にカーチス「ウィンザー・ハウス」ホテルを開業。

(澤護氏の横浜外国人居留地ホテル史によるとウィンザーハウスはこの時期には存在せずインターナショナルホテルが1868年に新築開業したとかかれています。ウィンザーハウスは1881年開業だそうです。)

慶応2年(1866年)2月に横浜に大火が起こり、これによって居留地内のヨコハマ・ホテルなど多くのホテルが焼失し、残されたホテルはウィンザー・ハウス、コマーシャル・ホテルなどごくわずかになってしまいます

明治元年(1868年)には「ウィンザー・ハウス」は「インターナショナル・ホテル」と改名し、ホテルからは港の眺めが良く明治2年(1869年)には広重が描く浮世絵にも登場しています


文久三年4月8日―1863年5月24日
江ノ島詣でー2 バンド

二つの東波止場と象の鼻

第一期

横浜の港はここ象の鼻地区から始まりました。
安政5年(1858年)に日米修好通商条約が結ばれ、翌年横浜港が開港すると、運上所(当時の税関=現在の神奈川県庁旧館があるあたり)の先の海面に築かれた東西2本の石組みの突堤だけでした。

東側に位置した突堤は、現在の大桟橋の根本部分にあたる場所で(象の鼻)、東波止場(イギリス波止場)の名称で、外国貨物を扱っていました、西側に位置した突堤は、西波止場(又は日本波止場)国内貨物専用でした。

第二期 

ヨーロッパ人がアジアの各地に自分たちの町を造る場合、バンド(Bund・外灘)と呼ばれる海岸通り(あるいは河岸通り)を設けるのでした。

幕府が造った横浜の町には、開港当初バンドが有りませんでした、横浜のバンドは、文久2年(1862年)に造成され、これに合わせて2本の小突堤が増設されました。

翌文久3年から元治元年にかけて造成され1864(元冶01)年01月29日完成、東波止場といわれフランス人居住区の前面に位置するので、フランス波止場とも呼ばれました。

開港当初からの突堤を西波止場(東西2本の波止場全体を西波止場)、イギリス領事館前に位置するのでイギリス波止場(メリケン波止場とも呼ばれる)と言うようになりました。 

1866年(慶応2年)には、居留地12番にあったフランス波止場の隣にボートハウスがつくられました

第三期

フランス波止場は関東大震災のとき大正12年9月1日(1923年)欧州航路「ろんどん丸」が12時のタイムボールを見つめる乗員の目の前で崩れ去りました。

震災の瓦礫で埋め立てられ出来たのが山下公園です、フランス波止場は今氷川丸の停泊するあたりです。 

大桟橋埠頭は、1894年(明治27年)の完成で今日に至って居ります。

象の鼻は今、大桟橋の付け根のところに残っています

 

文久三年4月8日―1863年5月24日

江ノ島詣でー2 バンド

豚屋火事

1866年(慶応2年)に大火災のために遊郭は焼失。

火元が末吉町(現在の太田町)の豚肉料理屋鉄五郎宅で「豚屋火事」と呼ばれました。

11月26日朝8時頃に出火、遊郭を焼き尽くし、風に煽られて海岸へ向けて扇状に燃え広がり、午後10時頃まで燃え続けたのだという。結果、当時の関内地区の日本人街区の3分の2、外国人居留地の4分の1が焼失しました。

港崎遊郭 

美那登能波奈(みなとのはな)横浜奇談では「岩亀楼の家造りは、蜃気楼のごとくにして、あたかも龍界にひとしく、文月の燈籠、葉月の俄踊、もん日もん日の賑わひ、目をおどろかし、素見ぞめきは和人、異人打ちまじりて、昼夜を分かず」

安政六年六月の開港には 工事が間に合わず、遊廓は六年十一月になって開業しました。品川宿の岩槻屋佐吉の岩亀(がんき)楼、神奈川宿の鈴木善二郎の五十鈴(いすず)楼など十五軒の遊廓ができます。 

横浜道

この道は、芝生村から湿地帯だった岡野に平沼の新田を通り、戸部村まで通じる道路を築きました、新田間(あらたま)、平沼、石崎の三つの新しい橋を架け、併せて戸部坂、野毛の切り通しを開き、野毛橋(現都橋)、太田橋(現吉田橋)を架けました。

現在太田橋は別に大岡川に架かっています、京浜急行黄金町駅近くです。

吉田橋と何時ごろから言われたのか調べましたが判りませんが文久3年以前だと思います。
当時の橋幅は3間、工期3ヶ月の突貫工事で、欄干には杉を、杭には松を使用しました。


文久三年4月8日―1863年5月25日

 ・ 江ノ島詣でー2 青木町



文久三年4月8日―1863年5月25日
江ノ島詣でー2 青木町
この当時の横浜土産といえば、絹製品、毛織物などの高級品が主なもの、英吉利、仏蘭西、亜米利加のお菓子といっても今と違いそれほどのものは無かったようです。
パンやビスケットは寅吉が普段から届けているので今回はこうもり傘にしたようです。
南京傘というのは当時清国人が数多く持ってきていて日本人街では手ごろな値段の横浜土産でした。
あまり色の種類は無く主に黒でしたので伊勢勘の親父が「こうもり傘」といって売ったといわれています。
青木町からの渡船は開港当時からありますが寅吉はあまり船での往復が好きでは無いようです、買い付けた荷物と同じ船で居留地から来るのは主に幸助や永吉でした。
輸入のシャボン(石鹸)は日本人街でのお土産としては人気もあるようですが、日本人はマダマダ石鹸で泡立った顔のひげをそって見るまでにはいたりません。
懐中時計は明治になって時刻が欧米風に改まるころから商館時計といって全盛時代を迎えますがこの頃はまだ実用には向いていませんでした。

文久3年4月9日―1863年5月26日

・ 江ノ島詣でー2 オルゲール


オルゴール付き時計、画像はツーちゃんからいただきましたが、作られた時代はよくわからないそうです。
後ろののドアを開けると操作ができるそうです、証明書も付いていたそうですが読めないそうです。

文久3年4月9日―1863年5月26日
・ 江ノ島詣でー2 オルゲール
この当時にはもうオルゴールと時計が合体していたようです。
主にスイスで作られ仏蘭西経由で輸出されていたようです。
ファブルブラントさんは日本に来て多くの時計師を育てました、各地に残る時計塔はこの一連の人たちにより建てられています。 

ファブルブラント商会は元治元年(1864年)に横浜54番で設立されたが、1866年 有名な豚屋火事で類焼し、其の後175番に移転して関東大震災(大正12年)で被災廃業するまで同地で営業していました。
長岡藩のガトリング砲で有名の河合継之助はこの砲をファブルブラント商会から買い入れたといわれています。
ただ一般にはファブルブラント商会と親交のあったスネル兄弟商会と書かれている資料がほとんどであります。
当時の日本には3台しかないガトリング砲を長岡藩は2台持っていました。
一台5千両とも6千両とも言われています、1分間に最大360発普通は180発程度の発射速度だったといわれています。
このほかミニエール銃で全員を装備したといわれています、慶応年間一丁横浜で15両程度で買えたそうです。
なんてことかスカーフの上物より安い。

この文久年間当時は居留地の日本人街は年間の借地料が200坪で5両しないという話です、寅吉があちこち権利を買うのにそれほど苦労していないのがよくわかる話です。
坪当たり銀2匁5分としてある資料も見た事がありますがそれで行くと年間8両2分くらいかな。

前に神田で井戸を掘るのに120両投じたと書きましたが、ここ横浜では参両2分で良水を得られたそうです。
なぜ江戸でそんなに井戸を掘るのに掛かるのかまた資料を当たってみようと思います。
 
 第四部完  



幕末風雲録・酔芙蓉
  
 寅吉妄想・港へ帰る    酔芙蓉 第一巻 神田川
 港に帰るー1      第一部-1 神田川    
 港に帰るー2      第一部-2 元旦    
 港に帰るー3      第一部-3 吉原    
 港に帰るー4          
    妄想幕末風雲録ー酔芙蓉番外編  
 幕末の銃器      横浜幻想    
       幻想明治    
       習志野決戦    
           

 第一部目次
 第二部目次
 第三部目次
 第四部目次
 第五部目次
 目次のための目次-1
  第六部目次
 第七部目次
 第八部目次
 第九部目次
 第十部目次
 目次のための目次-2
 第十一部目次
 第十二部目次
       目次のための目次-3

 酔芙蓉 第三巻 維新
 第十一部-1 維新 1    第十一部-2 維新 2    第十一部-3 維新 3  
 第十二部-1 維新 4    第三巻未完   

     酔芙蓉 第二巻 野毛
 第六部-1 野毛 1    第六部-2 野毛 2    第六部-3 野毛 3  
 第七部-1 野毛 4    第七部-2 野毛 5    第七部-3 野毛 6  
 第八部-1 弁天 1    第八部-2 弁天 2    第八部-3 弁天 3  
 第九部-1 弁天 4    第九部-2 弁天 5    第九部-3 弁天 6  
 第十部-1 弁天 7    第二巻完      

  酔芙蓉 第一巻 神田川
 第一部-1 神田川    第一部-2 元旦    第一部-3 吉原
 第二部-1 深川    第二部-2 川崎大師    第二部-3 お披露目  
 第三部-1 明烏    第三部-2 天下祭り    第三部-3 横浜  
 第四部-1 江の島詣で 1    第四部-2 江の島詣で 2      
 第五部-1 元町 1    第五部-2 元町 2    第五部-3 元町 3  
       第一巻完      

       酔芙蓉−ジオラマ・地図
 神奈川宿    酔芙蓉-関内    長崎居留地  
 横浜地図    横浜
万延元年1860年
   御開港横濱之全圖
慶応2年1866年
 
 横浜明細全図再版
慶応4年1868年
   新鐫横浜全図
明治3年1870年
   横浜弌覧之真景
明治4年1871年
 
 改正新刻横浜案内
明治5年1872年
   最新横浜市全図
大正2年1913年
     

 習志野決戦 − 横浜戦
 習志野決戦 − 下野牧戦 
 習志野決戦 − 新政府
 習志野決戦 − 明治元年

       酔芙蓉−ジオラマ・地図
 神奈川宿    酔芙蓉-関内    長崎居留地  
 横浜地図    横浜
万延元年1860年
   御開港横濱之全圖
慶応2年1866年
 
 横浜明細全図再版
慶応4年1868年
   新鐫横浜全図
明治3年1870年
   横浜弌覧之真景
明治4年1871年
 
 改正新刻横浜案内
明治5年1872年
   最新横浜市全図
大正2年1913年
   横浜真景一覧図絵
明治2471891
 


カズパパの測定日記