幻想明治
 其の一 明治17年 − 壱 阿井一矢
洋館



 根岸寅吉 (根岸虎太郎)

1911年 明治44年4月18日生まれ(天保14年1843年)

横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。

 根岸 容 

弘化5年1月5日(1848年2月9日)生まれ

江戸深川冬木町に生まれる。 

 根岸明子 

明治元年12月10日生まれ(1869年1月22日)

久良岐郡野毛町三丁目に生まれる。

 佐伯 琴 (根岸 幸) 

1920年 大正9年9月9日生まれ(嘉永5年1852年)

横浜市末吉町5丁目54番地に生まれる。

 根岸了介 

1877年 明治10年11月7日生まれと届出

神奈川県久良岐郡横浜町末吉町5丁目54番地に生まれると届出。

(神奈川県第1大区4小区)

(明治10年5月5日山手220番生まれ)

 根岸光子 

1885年 明治18年5月31日生まれ


明治17年(1884年)11月7日 金曜日 立冬

伊勢佐木町の火災は一丁目から火がでてあろうことか昔の遊郭のあとの町並み800戸あまりの家が焼失した、其の騒ぎも3日が過ぎて横浜に落ち着きが戻りだしていた。

山手の寅吉の洋館ではボストンへの留学が決まった明子の送別の集まりが開かれることになり、3時のアフタヌーンティーの時間に大勢の客が来ることに為っていた。
了介の7才の誕生祝いもかねていて東京から勝と西郷従道もこの家を訪れていた。

勝がいつも泊まる離れの客間に続いた洋間には西郷もいて寅吉と容の夫婦に明子と了介の6人が余人を交えず話しをしていた。

明子は今春ブリテン(横浜英和女学校)を卒業し、各ミッションスクールの卒業生から選ばれた五人の同世代の女性と共に総勢六人でアメリカへ2年間の留学が決まった。
服飾、経済、宗教とそれぞれ学ぶ事は違うが富田鐵之助の斡旋で10日の日に横浜を出航するゲーリックで旅立つのだ。
日本においてはこれ以上の高等教育を受ける場が女性には無いためだ。

富田鐵之助は2年前日本銀行が出来ると大蔵省から大蔵少輔の吉原重俊が総裁、富田が副総裁に推薦され共に任命された。
大蔵卿の松方は富田の副総裁に難色を示したが同じ薩摩の吉原重俊が「彼が居ないと日銀の役目が十分果たせません」と松方を説得したのだ、農商務卿の西郷に外務卿で在った井上馨の強い推薦もあり人事が決まった。

残念ながら富田はこれなかったと勝は供に道太郎をつれ西郷と出てきたのだ。
西郷は2人の従僕を連れてきたが彼らは牧場で従道の馬を見ると言って道太郎をつれて出かけていった。

「わしの長男は今ワシントンじゃ、従理と言ってロシアのMr.スツルヴェが駐米公使に為って其れに従ってのワシントンじゃよ。まだ10才だが訪ねてやってほしいな」
従道の子供の男子は従理(じゅうり)のほかに次男の豊彦、三男従徳がいた。

「明子ちゃんが帰ってくる頃には日本の船で新しい桟橋に到着と言うことになっている横浜かも知れねえよ」
勝はイギリス波止場の改修と共同運輸会社が近い将来太平洋航路への就航をめざしている事を明子たちに話した。
共同運輸会社と三菱は競争の真っ最中だ、船賃の値下げ競争は経営を圧迫していて街ではこの先どうなるのかと不安な気持ちの者も多かった。

「まぁ先生ったら、私たちは2年だけの留学ですわよ。桟橋がそんなに早く改修できますの」

「向こうで気に入った勉強が見つかれば延長しても良いさ」

「では桟橋が完成するまでボストンにいる事にしましょうか」
之には勝もまいったと降参して向こうで結婚して帰ってこないなどと言うことになると俺が恨まれると明子に手を合わせた。
1883年2月23日 アーサー米国大統領は不当に受領したとして下関賠償金(78万5千ドル87セント)の日本への返還を決裁していた。

海軍卿を務めたことのある勝と陸軍卿や短い間だが開拓使長官などを歴任し今は大山の留守を受けて参議農商務卿から陸軍卿の代理を務めている西郷も横浜の発展と海運の発達を明子に交互に話した。

座も落ち着くと寅吉と容は改まって明子に留学の心得などを話し、船旅になれている従道からも注意点を話してもらうと勝に促され座を入れ替わると了介の正面に座った。

「了介には母親と父親の写真を渡してあるので私たちの養子だと言う事は承知しているだろ」

「はい父さん」

「父親の名前が小兵衛、母親はソフィアと言うことも承知しているね」

「はい父さん」

「明子にもまだきちんと話していないのでこの際了介の両親について話しておく事にしたのだが、この話はこの場だけの話で了介は私たちの子供だと言うことに変わりはなく今までと同じだ。君にはまだ幼いから話すのは早いと思っていたが良い機会でもあるから勝先生西郷様の薦めでもあり話しておくことにした。この事はこの後一切持ち出す事は許さないと言うことを承知しておきなさい」

「はい父さん」
寅吉は新たに写真の幾枚かと書付を持ち出した。

「之は君を産んでくれたソフィアの小さい時からいままでの写真だ。忘れないようによく見ておきなさい。明日には母さんに返すのだよ。君の父親の写真はあの1枚しか無いから大事にするんだよ」

「はい父さん」
了介は容に言われて持ってきていた2枚の写真と其の写真を自分の前に置いて寅吉の次の話しを待った。

了介から見ると其の写真とよく似た雰囲気のある寅吉とすこし太りだした上に髭は濃いがよく似た従道が見え、二人は共にこの年42才本厄を迎えていた。
街の誰でもが寅吉と了介は親子だと思えるほど似て見えた。
了介がソフィァの子供で養子だと知るものまでが「氏より育ちというがコタさんにだんだん似てくる」とまで言い出していた。

ゴーンさんが病気になり商売をやめた時にメアリーも店を閉め夫婦で寅吉の214番のベアトさん名義の土地に建てた洋館で療養することになった。
ソフィアが鹿児島から戻り妊娠がわかると妊婦に病人と一日中同居させてはよく無いだろうと仲間内で相談し父親のゴーンさんが決断して寅吉の洋館に起居することになり了介は其処で生まれたのだ。

千代でさえ旦那の若いときと瓜二つさぁと仲間内での会合で寅吉の若い頃を持ち出すくらいだ。
街では寅吉がソフィアに産ませた子だと信じている者は多いようだ。

従道が小兵衛という了介の父親について少年時代青年時代を語りだした。

「子供の時の名前は彦吉と呼ばれて居て諱は隆雄(りゅうゆう)と付けられた」
そして自分たちの小さい時は家が貧乏で苦労した話なども伝えた。

「了介の本当の誕生日は明治10年5月5日だそうだ。君を寅吉と容の夫婦に預けた日を誕生日として届けたのでふたつの誕生日があることを覚えておいてくれたまえ」
寅吉がソフィアの写真の中から了介と共に写された写真の裏に書かれた誕生日を教え従道が話しを続けた。

「君の名前については男なら了介、女ならマリと名付けるようにソフィア宛の小兵衛の手紙に書かれていたそうだ。弟は君が生まれる3月前の2月27日に戦でなくなっていたし、表向き君の父親の姓を名乗らせる事が出来ず、フランス領事館への誕生の届けもしていなかったそうなのだ。母親のソフィアが自分の母親のためにフランスに帰国する前に寅吉夫婦が君を養子にすると申し出て引き取る事になったのだよ」

ゴーンさんは孫の顔を見た一月後の6月7日に療養の甲斐なく亡くなり、ソフィアはパリで正太郎の世話でブティックを開く事に決まり、子供は向こうで育てると寅吉に抵抗したがジラールもマックも寅吉に預けたほうがこの子の幸せだとソフィアを説得したのだ。

渋っていたソフィアもメアリーに「この子の幸せのためにも寅吉に預けたほうがよい」と言われ、容の人柄を尊敬していたソフィアの気持ちが動いた上、2月には鹿児島を経由して公使館勤務に再来日していたアーネスト・サトウが「あの兄弟とも会ってきたが寅吉なら信頼できると小兵衛からも子供が産まれたら相談に乗るように頼んでくれといわれた」と言う言葉で決断した。

父親のオーギュスタンが亡くなり、心労から身体を壊していたメアリーの面倒を見ながらの子育ては無理があると仕方なく了介を預ける事にしたのとマルセイユまでの船旅に生後半年の赤ん坊を乗せることに不安になったからだ。

パリから帰国後、鹿児島でフランス語教授をしていたとき昔馴染みの小兵衛と恋に落ちた事、父のゴーン氏の病気が重くなり横浜に戻って看病している時になって妊娠に気が付いたが、九州は2月に起きた西南の役により外国郵便による長崎周りでの手紙以外の通信手段が取れなくなっていた事も了介に話しをした。

容は翌日の12日には了介と明子を連れて京都へ向かった。
船で神戸へでて京都へ店を移した養繧堂の琴の住まいを訪ねると親娘が11月15日に横浜を離れるまで京都にいた。
その年明治10年(1877年)2月5日に開業式が行われた京都・神戸間の鉄道は3時間足らずで大阪経由で神戸から京都へ出られた。

琴は寅吉から了介と名がつけられた子が居ると手紙を受け取って夫婦で商売の契約のついでを装って横浜へ会いに来たが「俺たちの親かもしれないが誕生日は11月7日だったと記憶に有るのでまだ5月生まれの其の子だとは断定出来ない」といわれたが了介を引き取り、実子として7日を誕生日と届けてきたとの容の話で了介が父親だと知ることになった。

ソフィア親子とメアリーにパリの正太郎夫婦から寅吉宛に3人で来ても大丈夫との電信が着いたのは母娘がフランス郵船のヴォルガに乗って出航した後だった。
2人はその電信の事を知らずにいたし、寅吉から電信で正太郎たちに了介を養子とした旨を連絡し、正太郎からの電信の事に触れないように釘を刺してあったのでその電信の存在を知る事はなかった。

正太郎はソフィアたちがパリへ落ち着いたのを見届け、新婚旅行の世界一周に出てロンドン、ニュヨークそして大陸横断鉄道でのアメリカ横断をしてサンフランシスコから横浜へ来たのだ。


幼い了介はそれでも「僕の父は根岸寅吉で母は容です。僕の本当の父親がどういう人であれ、母親がこのソフィア・フォンバッフ・ゴーンという人であれ、いまはお二人が僕の両親であり姉は明子ただひとりです」と懸命に従道に訴えた。

従道は眼をしばたたせていたが「君がそういう気持ちでわしも嬉しいよ。わしが君の父親の兄で、君には母親の違う兄がいるのだが、今日限り其の事は忘れてくれ。今までのように馬の好きな小父さんというその事でのみ覚えておいてくれ。私の家には君と同じくらいの子も居るからコタさんと遊びにくるんだよ。約束だよ」と伝えた。

西郷は寅吉が建てた洋館を見て自分の家も洋館にしようと考え、フランス人のレスカス(Jules Lescasseに設計してもらうと上目黒村に買い入れてあった土地に横浜にある外国人の家に負けぬほどのものを建てたのだ。

寅吉の家と違うのは敷地が一万八千坪あまりと広大で普段の住まいの日本家屋との間には大きな池までがあることだ。
寅吉の家はマック名義で219番が400坪、220番が884坪そのうち甲番を200坪と221坪がガリバーさんとスイフトさんに引き続き貸し出されていた。

ベアト名義になっていたこの付近も米相場に手を出し失敗したのを受けてマック名義にした寅吉だった。
ベアトについてイギリスのスーダン遠征隊に参加が決まったと居留地の噂も出ていて今月29日のP&Oの船で横浜を出帆することになっていたが、千代が調べたところでは米だけでなく銀相場でも大打撃を受けていたようだ。
報告を受けて「今の情勢ではあと三月以内に相場は20銭を越すぜ。やけどに気をつけて張るなら今のうちだぜ」と千代にだけは話す寅吉だ。

「どうしてですか」と聞く千代に「今伊藤さんや西郷さん、井上馨さんの動きを見ると朝鮮の雲行きが可笑しい。其れが遅くも一月後位さ」とは勝や従道から仕入れた話とケンゾーが知らせてきた情報からの推測だ。

「糸平さんが生きておられたら買い捲るでしょう」
千代はそう言って「自分には相場に手を出す気はありませんがこの情報を死ぬほどほしがる人は大勢居ますぜ、西郷様に会って政府の方針を知りたい人は横浜でやきもきしていますぜ」と笑った。

フランスと清国は越南を廻り争いが続いていたが外務卿の井上馨はフランスと組んで清を挟み撃ちにしようと画策したが、西郷従道が猛反対したため参戦を取止めとなっていた、其の西郷に了介は上目黒へ出かけたいと話しをした。

「はい。父さんが連れて行ってくださるなら僕はミカンにも会いたいですし」
了介は姉の手をしっかと握り締めていた、うっかりしていると自分がこの家から追い出されてしまいかねないと思ったようだ。

了介がこの家に来たときの経緯をおぼろげながら記憶にある明子は、自分がアメリカに行った後の了介の事を心配に為ったようで、自分もまた握っていた了介の手に力を込めていた。

寅吉はあの地震の前、父が自分に兄弟はいないと話したのを思い出した「あのときまでに亡くなってしまったのだろうか」と改めて従道が了介に兄がいると言うことを聞いて記憶の一部が戻ってきたが了介の兄について従道に確かめる気には為らなかった。
幸吉という小兵衛の嫡子は大正7年に亡くなっていたので虎太郎に話したときその様に了介は話したのだろう。

従道は横浜レース倶楽部特別会員としてレースへの参加が許され、ミカンには従道が乗って勝鞍を上げたのはもう10年も前の話で了介が知っているのはオレンジ爺さんと愛していた南部馬が今年夏に二十六才で亡くなり、その子供が東京の家にいると従道が教えた事があるからだ。

其のミカンも今年はすでに十八才、仔馬の時についていった弁蔵はそのまま西郷家の馬丁としてミカンたち西郷家の馬の世話をしていた。

従道の家にはビーグルのハリーとヴィッキーの子供が2頭飼われていてウサギを追い出す時に横浜へつれてくることもあるが、ハリーとヴィッキーはエイダがイギリスから連れて来たビーグルの3代目と5代目になるのだ。
石川村の牧場にはビーグルを含めて18頭の犬が飼われていて了介は明子に連れられて週一度会いに行かせてもらえていたのだ。

「そうかミカンな。其れも良いな。君の父親の小兵衛君とはわしも寅吉も若いときから何度も横浜で会ったし、寅吉は一緒に酒も飲んで遊んだ友人だったのだよ」

勝は幼い了介に話し始めた「わしはね。寅吉の先生といわれているが、いまは隠居で暇だから横浜にも来るし、君も東京に来たらわしの家に遊びにいらっしゃい君と同じくらいの孫も何人も同じ屋敷うちにいるから楽しいよ」と誘った。

容が「明子の送別会の始まる時間ですから」と子供たちを促した。
2人の子は西郷と勝にかしこまって挨拶をしたあと「洋館でお待ちして居ります」と告げて出て行った。

勝は「この際だから従道さんにあのことを話すか」と寅吉に相談した。

怪訝そうな従道に勝は寅吉の子供の時の名前の虎太郎と小太郎寅吉の名前の由来、明治は45年続き其の44年に生まれ、江戸へどのようにした経緯で来たのかや、なぜ自分があそこまで吉之助を信頼したかをボツボツと語りだした。

「不思議な話で困惑しました。では寅吉は小兵衛の孫なのか道理で弥助どんやわしたちと体つきが似て居るのか、一番はやはり小兵衛かなあいつは戦役の前にあったときもまだ痩せておったからな。始めて小兵衛がコタさんにであった時に寅吉とは馬が合うと話し居ったが自分の孫だもの当たり前の話だな、安政の時代から明治になってようやく父親にめぐり合ったと言うことですかな。母親とは会えたのかね」
濃い髭に隠れた柔和さと剛毅な従道が其処にいて、勝と寅吉を交互に見ながら訊ねた。

「其れが生まれるのも来年のはずですし、光子という名前しか記憶に無いので。父親の了介も養子であると言うことしか判りませんでしたが、ソフィアが小兵衛さんの指示で名前をつけたと聞いた時この子が私の父親になるのだと理解いたしました」

「其れでは母親がどの人か判るのは何時になるか神のみぞ知るだね」
従道は上背が五尺七寸ほど、寅吉は僅かに従道より上背が有った。

寅吉は二十才を過ぎてからも僅かに背が伸びて今年夏に了介たちと計ったときに五尺七寸五分(174.2センチ)十七貫八百(66.75キロ)あった。
3年前横浜へ高木先生に会いに来た小鹿と生糸検査の横浜同伸会社で秤に乗ったときは5フィート86インチ、146ポンド1オンスと計測され勝はその事と寅吉の体格について口を挟んだ。

「さようでんすよ。薩摩での蜂起もそれとなく事前に危うい事になるとそれとなく注意はしたが吉之助さんは天命に従うのみと言ってきて彼はあえて何もしなかったんだよ。コタは吉之助さんのように太る事はなさそうですな」

「兄貴は特別ですよわたしも最近すこし腹が出てきましたが私より三寸は背が高く十貫目は重いようでしたよ。それでこの事は誰と誰が知っているので」 

「龍馬は知って居ったがいう事を聞かずに暗殺されてしまった。あれほど町屋住まいは危険だといっておいたのに残念だよ。吉之助さんと同じように窮屈な屋敷住まいは性に会わんようだった。あと3人知っているが口は堅いから大丈夫だ。其のうちの一人は今日の夕方に此処にくるよ」

「誰が来ますか、会うのが楽しみですな。それでわが国の行く末はどのように」

「其れが困った事に軍事優先で陸軍の山縣一派が台頭していたそうだが、国難を乗り切るのは従道さんや弥助さんのおかげで乗り切れるそうだ。コタはあまり歴史を勉強していなかったようでこまかい事は知らんのだよ。伊藤君が生きている間は山縣の思い通りには出来なかったそうだが今は内務卿でこのままでは行き過ぎないかと危険でもあると思うのだよ。吉之助さんが見せた温情が仇にならなければ良いのだがな」

3人は小一時間も額を寄せ合って話していたがあまり詳しく歴史を覚えて自分で其れを大きく作り変えようとしても困ると言うことに為った。

「マア、コタが生まれるのは明治44年だそうだからあと27年も先の話だ。いまから気を揉んでも仕方ない」

小庭の向こうから離れの洋室にまでテレホンのベルが響いてきた「容が向こうから早く来いと催促のようだぜ」勝の言葉でようやく3人は明子の送別の宴席が用意されている庭続きの洋館へ向かった。

洋館の寅吉の書斎と此方の台所へバビエル商会がテレホンの線を引いたのは洋館ができた八年前の事だが街での普及はまだ出来ていなかった。
今年6月に亡くなった天下の糸平事、金子糸平が療養中に小田原から熱海の旅館の離れをつないだ事が話題になるくらいで横浜でもまだ東京との長い線や幾つもの回線をつないで引く事までは出来ていなかった。


さすがに県庁と新しく吉田橋に出来た横浜警察など幾つかの線は引かれてはいた。
電気の発電施設も小型の試験程度なので、家庭への普及をケンゾーたちは会社を作ろうとコッキング商会と手を結んで金と人を集める相談をしていたし東京では大倉組が乗り出しを模索していた。

3人は用談中と容が客に断りを言って広間では立食パーティが始まっていて寅吉は詫びを言いながら客の間を回った。
明子の同級生に後輩たちも20人ほどが来ていて広間から階段、食堂といわず華やか雰囲気に包まれていた。

「コタさん立ち入り禁止の部屋を今日は開放するそうだね」

「ああ、もうそんな噂が飛び交っていますか」
ジャパン・ヘラルドのMr.ブルックは自慢の髭をさすりながら寅吉と従道の後から普段は人を入れない書斎と寅吉の勉強部屋へ入った。

三十畳ほどの其の部屋は東南にガラス戸の3坪ほどの張り出しがありテーブルと椅子が置かれ部屋は西へよった陽を受けて明るく照明はまだ要らなかった。
寅吉の記憶にはなかった物だが大黒柱が壁から一間ほどの場所に据えられ、周りはガラスをはめ込んだ8角形の置き棚で囲んだ,其処には今朝早く一の酉で買い入れてきた大きな縁起熊手が飾られていた。

そして正太郎がパリで買い求めて送ってきた磁器の人形に機関車の模型が置かれ、部屋の壁には10枚以上の大小の現代絵画が飾られていた。

「之は正太郎が最初にプレゼントしてくれたものですが」
ルノワールがドラクロワのアルジェの女たちから着想を得て描き上げた物だ。

「正太郎めパリへ入ったばかりでたいそうな買い物をしたと思ったら画家に女の役者と直ぐ友達になって誘われた競馬で大儲けをしたそうで其の金で買い入れて私に送ってくれました。後で聞いたら500フランほどしたそうです」
100号campusという大きな画だ。

「中々官能的な絵ですな。広間には飾れませんな」

「そうなんですよ。そのために洋館を建てたと知るとお客人が入れる部屋用には花の絵や人物にパリの風景の絵を毎年送ってきてくれます」

「正太郎といえばコタさんやミスター・ケン以上に商才があるようで今じゃたいした勢いだと聞きますよ」

「その様ですね。年に30万フラン以上収入があると噂が飛んでいるそうですがね」

「おやそんなものですか、100万フラン以上は儲かっていると聞きましたよ」

「其れは夫人の方も含めてでしょう。ほら其の写真の女性ですよ。受け継いだ資産も莫大なら其れを投資する才能にも恵まれているようです」
6年前正太郎がマリー・エミリエンヌとの新婚旅行をかねて10ヶ月掛かりで地球を一回りした時に横浜で写した写真に色を載せたものだ。

「素敵な夫人ですなフランス人ですかな」

「そうですよ。正太郎より二つほど年上だそうですが2人の子供と幸せな家庭を築いて居りますよ。其の家族写真は其の大きな花瓶の横のガラス戸棚の上に乗っていますよ」
勉強部屋のドアの右側の花瓶の脇、其処にはエメを題材に画かれたルノワールとルフェーブルの絵の複製の間に飾られてあった。

従道も後から入って来たケンゾーも見慣れた絵だが改めて見直していた。

「正太郎が元の絵を日本へ送る事が出来ないので、知り合いの画家に頼んで複製画を描いてもらったそうです。本人たちも画家によって見方が違うようですがそのまま小さくしただけですと言っていましたよ」
寅吉がMr.ブルックに説明している間にも、次々に部屋に入ってくる人たちに聞かれるままに絵や写真の説明をさせられだした。

「綺麗なタッセです事」
シルヴィアン・カルノーと夫人のベアトリスが大黒柱に取り付けたガラス戸棚のタッセ・ア・ラ・レーヌ・スクープとタッセ・ア・テ・スクープを目敏く見つけて感嘆の声を上げた。

「其れはこの春にマダムへの絵皿と一緒に私のところへ送られてきたものですよ。普段用はお使いですか」

「はいお客様がこられた時にお出しすると皆さん驚かれて自慢の器ですわ」
正太郎はセーブルの紅茶カップとコーヒーカップを毎年2セットずつ律儀に寅吉夫婦とケンゾー夫婦カルノー夫婦に送ってくるのでどの家でも最近は大人数の人が来ても十分間に合うようだ。

ベアトリスは明子と了介にとって週4回のフランス語の講座をこの洋館で開いてくれる先生だ。

「そういえばケンゾーのところの茂君は太田学校に行かせるんだったね。了介は元街学校へ行かせるか太田学校にするかどうか悩んでいるんだよ」

「此処からなら汐汲坂の方が便利でしょう」

「さぁ其れだよ、便利というだけで学校を選んで良いものだろうかね。私たちの住所の届出は末吉町五丁目なのだよ」

「明子さんは明衛校舎へ行っていたんですから其れで良いのではないですか、ブリテン女学校が男子部も設けましたし無理に遠くへ通わす事も無いでしょう。また昔の野毛を住まいにするわけでもないのでしょ」

「向こうは春に明け渡したからな、いまさら返せは無いだろうよ。本人が其れでよければ元街小学校にするか」
容が夫人連と部屋へ来たので入れ替わりに出て明子と了介が訪れていた子供たちと勝の話しを聞いている食堂のテーブルへ向かった。

「明子さんがどう思うか聞いてみたら如何ですか」

「あらケンゾーの小父様何のことでしょうか」

「何、来年の事ですよ」

「まあ小父様来年の事を話すと鬼が笑いますわよ」
後を寅吉が引き取って明子たちに話した。

「明子の意見も聞かせておくれ、了介の学校の事だが英町三丁目の太田学校か汐汲坂の元街学校のどちらが良いかという話さ。本人に聞きたいがどちらも知らないだろうしな」

「お父様も無理をいますわね、了介が選べる問題ではないでしょうに。此処から通わせるなら元街学校のほうが宜しいですわよ。本通りをフェリスの脇の汐汲坂で元町へ降りれば直ぐ其処ですもの。クライン先生の所は男子部も出来ましたから其処へ移るときも簡単に手続きが出来ますわ」

明子は目の前の共立女学校や178番のフェリス・セミナリーを通り越し、48番にあったブリテン女学校が120番へ移った後は本通りの端から端へ歩いて通っていたのだ。
千代は必ず誰かを声が届く範囲で送り迎えさせた、寅吉が馬車や人力車での送り迎えをさせないためだ。
野毛の虎屋とは違い末吉町の氷川商会は倉庫に大きく土地を取られていて住まいとしては小さくもっぱら山手を利用しているのだ。
氷川商会と大岡川の間は横浜物産会社に虎屋の社員の長屋に倉庫、家族に小商いをさせるものたちの住居兼店舗が並んでいた。

黄金町一丁目と二丁目の間の道と末吉町三丁目の間の道にもようやく来年には大岡川に橋が掛かり簡単に末吉橋と名前も決まっていた。
五丁目から栄橋を渡れば其処からは英町三丁目の太田学校は直ぐ其処なのだ。

健三は初音町一丁目に英一をやめた時の金で大きな屋敷を建てたので英町の太田学校に通わせるのは不都合が起きず、中学は藤沢で援助している小笠原東陽の耕余塾が変則中学として認められていたので其処の寮へ預けたいと漏らしていた。

耕余塾は藤沢の豪農、三觜八朗右衛門が小笠原東陽を招いて開いた読書院が教育令によって変則中学として認められて明治11年に耕余塾と名前が改められた。
小笠原東陽は明治20年になくなり松岡利紀(東陽の娘婿)が塾長となり
耕余義塾と改められる事になる。
今の耕余塾には30名ほどが入塾していて其の中には陸奥の甥に当たる中島久万吉もいた。
父親は中島信行、作太郎だ、横浜税関長、神奈川県令を経て板垣退助の自由党結成に伴い副総理に着いたが其の自由党も先月10月29日に解散した。

寅吉がイギリス語教育かフランス語教育はと聞くと其れは今も上郎の息子の新二と共に教師をつけて勉強させていますとこともなげに答えた。
新二の母は士子の妹で上郎(こうろう)は道の並びに家を建てたばかりだ。

上郎幸八は後に貴族院議員となり家を東耕地の南太田2133に建て家督を新二に譲り、明治38年に大磯に隠棲した。

「士子に了解をしてもらって正式に跡取りとして財産を受け継がせる遺言状手続きをしておきました、戸籍上は3才の時に養嗣子としてありますのでなんら問題はありません。教育もまずは日本語からきちんと覚えておけばイギリスへ留学させれば私と同じように話せるようになります」
そして橋が掛かれば旦那の会社へ行くのも家から歩いても楽になりますと言ってあそこに橋をかけさせるのに大分遊びましたと笑った。

栄橋と黄金橋の間に新しい末吉橋が架かるという話しだ、寅吉の子供時代には栄橋、末吉橋、そして黄金橋とあり栄橋には市電が通っていた。
関内は太田町と書いてモモタマチと呼ばれていたが太田陣屋の太田村の太田もモモタと間違える地図まで出るので関内もともにオオタであると正式に決まった。
後に太田町と間違えやすいと横浜市に編入された時太田村から南太田と変えられた。

ブリテン女学校は横浜英和女学校と男子部を横浜英和学校として48番から昔イギリス公使館のあった120番に昨年引っ越しをしていた。
其の48番には8月には築地居留地の海岸女学校の教師であったカトリーヌ・W・ヴアンペテン(Caroline WVan Petten)が校長で、海岸女学校で漢文の教師をしていた稲垣寿恵子が教師に招かれてきた。
学校は聖経女学校と名付けられ生徒はまだ6名しか居なかった。

この家のある220番が山手本町通り、219番は富士見町と7月からなっていたし120番も谷戸坂通りだそうだが人々は番地だけのほうがわかりやすいようだ。 

亡くなった佐藤政養先生と鉄道の事をケンゾーが持ち出し、明治16年8月6日に決まった中山道路線は据え置かれて東海道に曳く事になるという話しを明子と討論を始めた。

「でも小父様佐藤先生がなくなられる前に中仙道に鉄道、東海道は海運と決定していたのではないのですか」
明子は同級生の吉川雛達と一緒にケンゾーを追及した。

「私も又聞きなので明らかでは無いがね、井上勝さんが山越しの建設資金が膨大だという試算に恐れをなして横浜から小田原の手前まで引いて御殿場峠を越えさせたほうが工事も楽だと言う話しを持ち出して裁可されそうなのだよ」

「前に横浜駅からお三ノ宮の脇にでて藤沢に抜ける路線という話も立ち消えのままですわよ。之も佐藤先生が小野様と計画された話でしょ」

「そうだよ。今度の話は平沼を埋め立てて程谷へ抜ける線路を曳くそうだよ」

「其れだと今の駅からまた神奈川へ戻って程谷へ行く事になりますわね。お父様はどう思います」
寅吉が聞き耳を立てているのを目敏く見つけて袖を引いた。

「埋め立てたところに新しい駅でも作る事に為るんだろうさ」

「では今の横浜駅はどうなりますの」

「そのままさ。小田原まで線路が出来れば箱根に行きやすくなるから乗る人も多くなるさ」

「新しい駅など作らず無駄をしないで神奈川の駅を大きくして其処から別けるのではいけませんの」

それでは利権が発生しないよと言いたい寅吉だが「そいつは良い考えだね。井上さんにあう事があれば話してみるよ。藤沢にも駅ができれば釜が出てくるにも苦労しなくなるな」と明子の意見に賛成した。
実際の埋め立て事業は見送られ、まずスィッチバックで東海道を開通させる事になり3年後の1887年明治20年7月11日国府津駅開業にこぎつけて22年には全線が開通した。

客から逃げてきた西郷が話しに加わった。

「明子さんがアメリカへ行くとさびしくなるな」

「小父様は鹿鳴館通いで忙しいのではありませんか」

「ダンスはどうも苦手でね。弥助どんと奥様で鹿鳴館を背負って立ってもらおうと思うのだよ」

「あら巌の小父様は今頃イギリスじゃないのかしら。もう半年以上もお出かけでしょ。お子様はお生まれになられましたの」

「よく覚えていたね、女の子だったよ。2月にでて今頃はロンドンからニューヨークへの船旅の頃だよ。明子君と向こうで出会えるかもね。彼は陸軍卿の肩書きでドイツの兵制の勉強が目的の欧米視察さ」
大山には先妻に4人の娘が生まれひとりは夭折したが残る3人の娘を抱えた捨松は夫の視察旅行の間に久子という娘を産んでいた。

鹿鳴館は一年前大山が山川捨松と婚儀を挙げた直後3年がかりでの壮麗な建物が完成して明治16年11月28日に披露された。
煉瓦造二階建て、一階は大食堂に談話室と書籍室、二階は舞踏室で三室に別けられていてつなげると百坪ほどの広間となった。
各国の公使、領事、夫人たちを招待して連夜のごとく開かれる夜会、舞踏会、婦人慈善会は世間の注目の的だ。

鹿鳴館は外務卿だった井上馨の提案、建設は大倉喜八郎が堀川利尚と設立した土木用達組、コンドル(ジョセフ・ジャサイヤ・コンダーJoseph Josiah Conder)の設計だった。
コンドルは明治10年にイギリスから招聘され今年まで工部大学校造家学教師を勤めていた。

巌と捨松の結婚披露宴は身内での婚儀のあと12月12日に鹿鳴館で行われたが招待状はフランス語で書かれていたので寅吉は明子の手を借りてフランス語での出席の返事を出し家族4人で東京へ出た。
華族に政府高官に混ざって各国の公使、領事たちと顔見知りの4人はその夫人たちの通訳として容と了介まで重宝され、祝いに参加したのか通訳に出かけたのか判らぬほどだった。


11月の山手から見える富士の峰も夕暮れが近づいた事がわかり三々五々帰宅する人たちを家族で見送って残るのは15人ほどになった。
明子が見送りから戻り雛の到着した荷物を客のいなくなった広間へ運び込み、雛の二親が残り用意した荷物の確認をし直す事にした。

オクシデンタル・アンド・オリエンタル汽船のゲーリックで着替える服とサンフランシスコに着いてからの服、ボストンでの着替えと3つの旅行鞄に二つの大きな木製トランクに呆れるのだった。

「もう雛さんたらこんなに荷物を持ってゆかれるの。メイドの2人くらい雇わないと始末が付きませんことよ」

「そういう明子様はどのくらい着替えを用意なさるの」

「船での着替えが2着と部屋着にピジャマでしょ。後は下着の洗い替えと船を乗るときと下りる時の衣装は同じだから鞄はひとつにお茶箱にお母様が詰めてくださった着物だけよ」
茶箱にハンナと容が千代紙で綺麗に装った物は明子のお気に入りだ。

「其れではあちらで着る物に困るでしょ」

「困れば自分で縫うか買い入れれば済みますわよ」

「あちらは物が高いですわよ。其れに私には服までは縫えませんことよ」

「あちらでも安物はあるそうよ。パーティや会合には着物で出れば済みますし」

「気楽過ぎますわ」
それでも明子が必要だと調べて書いた紙と照合してようやく荷物の整理が終わり、結局は心配性の雛の母がすべて持たせる事になった。

寅吉が手配して出航日に持つ小さなバックとその日の衣装以外は船に乗せる手配をした。

小田原から出てきていた雛の二親は弁天通り五丁目、馬車道の角にある福井屋へ泊まり、雛は船でも同室なので此処の洋館の2階の客間に明子と泊まる事になっていた。
馬車で雛の二親が弁天通りへ送り出されると2人は2階へ上がり、訪ねてきた松本順を勝は寅吉の書斎へ誘った。

4人で書斎のドアを閉め、其の奥の勉強部屋へ入りドアは開け放って椅子に座り、今日了介に小兵衛が父親である事、西郷に寅吉が了介の子供である事を話したと伝えた。

「そろそろ従道さんには教える時期なんだろうな」
軍医総監というには磊落な順はそう言って「これでコタさんの秘密を知っているのは後2人を加えて6人か、龍馬が死んだのは惜しいが寅吉が知る歴史では日本は外国の侵略を受けずに済んだが、軍隊は其の勢いが強くて押さえが利かなくなるそうだ。従道さんやあんたがた薩摩の人たちが抑えになって山縣の行き過ぎを許さないで欲しい物だ。今弥助さんいや巌さんについて欧州に出かけた桂がどの程度山縣に入れ込むかで変わりそうだ」と声を潜めて話した。

「其れは寅吉の情報ですか先生」
従道は初めて聞く話に軍医総監にきいてみた。

「いや違うよ。ロシアと一戦を交えたそうだが其の時の総理という大臣を務めて日本を指揮したのが桂太郎だと聞いてそう思ったのさ。従道さんが海軍、大山さんが陸軍を指導していたそうだよ」

「先生話しが清国との戦争と混ざっていますよ」
寅吉が順に注意した。

「そうか伊藤さんが総理の時に大山さんと西郷さんが軍部を率いたのか。今でも2人が付託されているからまだこれからも続けて貰うと言うことか」

「そうでしたよ。お二人の影響下の軍部は指導者に恵まれてロシアともどうやら戦う事が出来ましたが、アメリカとイギリスが上手く周旋してくれなければ危うい戦だったそうです。ですが一部の軍人と民衆はそういう裏は見えずに我勝ちに利権を求めて朝鮮、満州を我が物にせよとばかり収奪しようとしていました」

「そいわいかんな、戦に勝ったとの相手国を大事にせんのは武士道いももとう行為ほいなら。わいも気を引き締めて職を全うしごと」
急に薩摩言葉が混ざるのはよほど気に掛かったようだ、清国との戦も大事ならロシアという大国相手に戦を始めるなど正気とは思えなかったようだ。

4人の話は大磯の海水浴場になり来年は大磯の海岸に茶店を開いて静養に訪れる人の利便を図る事になったことなどを話しあった。

「フランス波止場の前での水遊びに比べたら波は荒いが大磯は海が綺麗だぜ。根岸の海も良いが鉄道が引かれれば通うのもらくだ」

「先生、今日其の話しが出てどうやら決まりそうですぜ」

「やはり中山道をやめて先に東海道へひくことになるのか」
順は噂も聞いていたようだが10年ほど前から少しずつながらケンゾーとともに大磯の先、国府本郷に土地を買い入れて小作に管理させていて健三の屋敷はもう直に出来上がるようだ。

横浜からは十二天や金澤の海へ出かける人も多く掘割川を船で抜けて根岸へ遊びに行くのも桜の時期や夏には人気の場所で外人に一番の人気は富岡だそうだ。

「それで大岡川沿いを抜ける線路の話はどうなった」

「立ち消えのままのようですね。ケンゾーが聞いてきた話では平沼を埋め立てて駅も作るそうですぜ」

「神奈川や横浜の駅を使わずにやるには何か思惑でもあるのかな」

「また利権でもあさる連中がいるのではないのでしょうか。昔の内田さんや高島さんのような人はいなくなりました」

「高島といえば線路脇の遊郭が取り払われて何年になる」

「あれは14年4月が移転でしたからもう三年が経ちました。あと三年以内には長者町、不老町から動かさないといけない事になりました」

「やれやれ無駄な事ばかりだ。何処になったか覚えているのか」

「あの時代には永楽町真金町の横浜遊郭が有名でした。場所は此処を降りて車橋の西側です。すでに十軒以上の移転が済んで居ります」

「オイオイ、順先生よ。幾らなんでもコタはその当時12才くらいだぜ」

「それでもそのくらいは知っているさ。勝さんのように修行に明け暮れしていたわけじゃないぜ」

「そうか行くわけじゃなくとも場所くらいは知ったか。末吉町と山手を行き来すればいやでも眼に入るか

「夜はどこかで飯を食うか」

「肉ならこの下へ降りれば川本がありますぜ。それとも富貴楼へ行きますか」

「お倉め小次郎の事では大分世話を焼いたと自慢するからな。新地の頃はおとなしかったが尾上町へ店を移してからは鼻息が荒いぜ。このところ共同運輸会社にえらく肩入れしてるそうだ」

「陸奥さんも大分宮城監獄では身体を痛めた上に家族を置いての洋行ですからね。亮子さんも大変ですよ」

「もう半年か今頃はロンドン辺りかなパリへ入ればショウがいるから腰を落ち着けて遊び歩く事だろうて、2年近くの外遊では1万ドルは必要か。金の出所は此処か」

「私のところはほんの一部ですよ。伊藤さんや高島さんも大分出していますからね、大口は古河市兵衛ですよ全体の四分の一位は出したそうですよ」

「残されて奥さんも大変だ、先妻の子供が三人と自分の娘でな。広吉は16か」

「明子と婚約をせんかといわれた事もありましたがね。そんな約束は出来るわけがありませんよ、広吉君はイギリス人と一緒になったような記憶があります、たしかイソ子といわれたかと。其れと鎌倉に女学校が出来た時に理事長に」
逗子の開成中学と兄妹校でボート事故の事を歌った真白き富士の嶺の歌詞は虎太郎たち中学生で知らぬものはなかった。

「梅太郎の嫁と一緒か、もうじき子供が出来たと結婚する頃だぜ、ところで勝さんはどこが良い」
松本先生は勝に「青い眼の孫を抱く日も近いぜ」と笑いかけた。

勝先生と松本先生にはクララの事を一家が来日した時に話したこともあり、先生は彼らに好意的でご自分でもカソリックもプロテスタントの人たちにロシア正教の神父とも積極的に交際していた。
クララと其の一家が横浜へ着いたのは1875年(明治8年)8月3日其の時のクララは14才だった。
1882年一時帰国していた一家が再来日した時、ホイットニー先生はロンドンで亡くなりアンナも来日半年足らずで亡くなり、先生の屋敷の道の向かい側に3人の住まいは用意されて兄妹3人での東京暮らしが始まった。

三菱と共同運輸会社と郵便汽船三菱会社はこのところ船賃の値下げ合戦に陥って経営は赤字続きだ。
富貴楼は三菱系とまで言われていたがここのところ共同運輸会社の連絡所と化したかのようであって順も勝も乗り気ではないようだ。

「コタは大分株を買い入れたそうだな」

「先生こそ」

「俺のほうは保晃会の金さ。五千円だけさ、其れも半々だ。コタのほうはアーサーと正太郎の分はどのくらいあるのだ」

「正太郎から50万フランで10万円、アーサーが2万ポンドで9万円、私のほうで10万円と容が1万集めましたので30万円を郵便汽船三菱会社へ25万と共同運輸会社へ5万円」

「なんで三菱が多い」
順は不思議そうな顔だ。

「私の頃はシアトル航路で有名な日本郵船会社は三菱系と言われていましたが元は共同と三菱が1100万円の資金で対等合併したと浜では知らぬものはいないくらい有名な話でした」

西郷は共同が政府関係の後押しと言え土佐と長州の争いに立ち入りたくも無いという顔で聞いていて、倉やクララたちの事は知らん顔で寅吉に相談するように言った。

「馬車で出るなら千登勢か嘉以古でどうだろう」
それではと言うことでテレホンを取ると容に馬車を言いつけ、亀の橋から港橋へ抜けて公園脇から芝居小屋の前で相生町へ入り三丁目の嘉以古へ着けた。

寅吉が顔を出すとお欣が直ぐに暖かくされていた2階座敷に通し「シャンペンにしますかビールにしますか、それとも熱燗で」と聞いてきた。
客が居ないからと部屋に火をケチる店ではないのだ。

「最初はシャンペンを出してくれ。芸者呼ばんで良いぜ、其れと今日のお勧めはなんだい」

勝が告げてお欣に1円銀貨を2枚渡した、お欣は女中にシャンペンを言いつけ「本日は平目のお作りに鰤が入って居ります。後はお任せいただければ板前と相談してお出ししますが」と勝好みの魚を告げた。

「任せるよ」
4人は出てきたシャンペンを飲み刺身や鰤の照り焼で飯を食べた。

「どうも勝さんと飯を食うとあっさりし過ぎてるな。もっとこってりした物はあるのかい。豚の角煮位では物足りんよ」

「では肉のフライかアナゴの天ぷらなどいかがですか。外人さんにも評判がよろしいですよ」
両方出せよと順が言いつけてさらにブランデーも言いつけた。

「身体の静養には海水浴なぞと言いながら酒は飲むし、脂っこい物は好きだし大変な軍医総監だ」

「そういうなよ。兵には乾パンや麦を食うように言うのに中々ゆうことを聞かんで困っているんだ。西郷さんからも兵站については脚気の予防に気を配るように食料係に頼んでくれよ。海軍はこの提督のおかげで脚気になる奴は少ないが陸軍は多くてな」

あまり口を挟まずに話しを順にさせていた西郷が「コタさんアーネスト・サトウが休暇で日本へ遊びに来ているそうだがまだいるのを知っているかい」と聞いてきた。

「そうです。シャムのバンコクで総領事に任命されて赴任したのが3月で9月には休暇が取れて長崎から神戸周りで一月前に東京へ入りましたよ。其の後は箱根や日光を遊び歩いているそうです」

「前、海江田君が持っていた家を子供たちの為に兼さん名義で買い入れたそうだ」

「おやそうでしたか。昔の家は手放していたのですかね」

「最近千里眼に情報網はさび付いているのかい」

「アーネストの事にまで眼を光らしてばかりいられませんからね」

「わしが東京を出た3日前には家族は方違えで何処かへ一度移って今日当たり富士見町の新しい家に入ったはずだよ」

「アーネストたちはまだ日光のはずですが」

「ご本尊抜きで引っ越しと聞いたよ。何時ごろシャムに戻るんだい」

「22日の上海経由のヴォルガです」

「其処は知っているんだな」

「横浜から直に出て行く事を聞きましたから新しいクラブホテルに19日から3日間予約しました」

「なんだコタさんの方で予約したのか。グランドかウィンザーじゃないのかい」

「関係の無いほうが良いと思ったもので」
新しいホテルの支配人やグランドもベアトが手を引いた後の経営の事などを寅吉が「グランドはアーサーと正太郎のほうの資本が香港籍の会社名義で入りますから少し派手なホテルになりますよ。そのうち隣も一緒にする予定です」と内輪話を教えた。
其れは楽しみだと3人は新しくなったら招待してくれとせがんだ。

グランドはボナが亡くなりベアトの資本も分散しポワイェへ経営が引き継がれたが、ウィンザーもカーチスが手を引いた後スミス&スィフト名義で元ゴーンさんの19番を手にいれ庭園とし支配人はL・ウルフが引き受けた。
グランドといえばWH・スミスといわれた位のものだが、手を引いたのは明治10年その後は苦労したが子供にも頭文字がWHと付けて喜ぶ無邪気さもあったのだが、今年冬にカナダでの開拓の夢破れて亡くなり、横浜に残った家族はブルックの元へ引き取られた。

4人は芸妓を呼ばぬままに食事を済ませ、其の晩は寅吉の家で三人を泊めて夜遅くまで世界各国の話題を話し陸奥が外交、大山が陸軍、西郷に海軍、伊藤が議会を勉強してくれば政府も少しはましになると眠気が襲うまで布団に包まりながら話し続けた。
勿論の事、勝、川村の後は従道の肩に其の重みがかかることに為ると話した。

「私より実務は若くて有能な物を見つけてやらせるつもりです」

「なんだおれと同じ手を使う気か」

勝の言い草に暫く4人は笑っていたが、話は何時しか小兵衛に戻り4人は往時の事を懐かしがった。

「今の正太郎達の成功は小兵衛君が横浜へ来た時に話した百合根の事がきっかけですよ。そんなに金になるならと奄美や沖縄の農民に採取させて栽培させたのが当たりましたからね。あれも今は此方の手に負えなくなりました」

「それでは寅吉のほうと正太郎は手が出ないのか」

「其の分千葉と掛川、小田原、伊豆と此処横浜や三浦とで栽培させていますので年に40万は3年物の球根を輸出できますから少なくとも10万にはなります」

「円かフランか」

「円ですよ。正太郎は其の倍は手数料で稼いでいるそうでね」
正太郎の弟はシアトルへ氷川商会の支店の責任者として店をもったし妹2人のうち一人は養子を迎へ、正太郎が出した金で家も昔の物より立派に為り、嫁に出たほうも婚家に出した資本で商売が盛んになったと話した。

「シアトルが金になるのか」

「アラスカへ出かける人間目当ての商売と日本向けに海産物などを扱わせています。後は勝先生の引きでの代理事業も引き受けられました」

「シアトルへはあと10年も経たずに航路を開くだろうさ。そうなれば此方から送る荷も増えるよ」

勝は西郷のほうへ向いて「そろそろ共同と三菱を和解させて一本化を図らないと共倒れだよ。共同へつぎ込む政府の金を何とかしないとな」と注意した。
順はそれには構わず寅吉に聞いてきた。

「やはり生糸関係かい」

「其れもありますがね。小麦と大麦の買い付けですよ。輸出より輸入が主に為りそうです。今はアメ一などが行っていますがそちらに食い込むには向こうでの共同買付しかありません」

「やはりパンとビールから離れられないのか」

「腐れ縁ですかね。生糸はケンゾーにやらせますよ。あいつ醤油屋なぞ買い受けてなにを始める気やら」

「コタと同じ何でも屋さ、共同に売りつけた船では大分儲かったそうだぜ。しかし2軒の家を建てて大磯にも別荘で女を囲うでもなしなにが良いのかわからんやつだ」
太田村の家では士子に茂と女中たち10人で朝早くから総出で家を磨きぬいているそうで、茂も掃除を手伝いそれからようやく朝食を忙しく取るとイギリスの言葉を習うための塾へ出かける毎日で茂は了介より1年遅い11年9月生まれだ。

寅吉も明子と了介に日を決めて庭の掃除、雑草抜きをやらせるため雇い人には其の割り当て部分に手を出させないし、洋館も明子が指揮をして掃除させていたのでいなくなると困る事も起きそうだ。


その明子と雛は寅吉達が出かけると母屋へ呼ばれ、容に了介を加えた四人で食事をした。

「小父様が一緒なら若菜か和田安でうなぎかしら」
雛は寅吉にことあるごとにうなぎを食べに行こうかとからかわれるので今日も其れかと思ったようだ。

「いえ今日はお客様ですから割烹でしょうよ。最近は嘉以古がお気に入りですからそちらかもしれませんね。東京から喜八郎さんがおいでになると千登勢からお呼びが掛かりますからそちらではないと思いますよ」

「かいこですか。絹を吐くかいこですかしら」

「まぁ雛さんはよく気が付くこと。そちらからとって字は当て字で嘉以古と書きますのよ」
容が紙に書いてみせていると八十松が戻ってきて「嘉以古へお入りです。今晩は離れの客間で四人様でお泊まりと伝えるように言われました」と容に伝えて下がった。
八十松は西洋料理の店を開くのが夢だと明子や了介に話し、寅吉の家が水曜日は洋食の日で其の日に来るコックの手伝いをするのが楽しみのようだ。

「当たりましたねお母様。私も後二日の間は横浜の有名店で日本の味を雛さんと食べておきたいわ」

「そうね雛さんのご両親もご招待して太田町で桝金の天麩羅か佐野茂で会席でもいかが、伊勢佐木町の萬鉄は燃えてしまったから」

「桝金がよいわよお母様。あさってはお父様が何処かへ連れ出すでしょうから小さなお店のほうが気も楽だわ」

「明日の朝にでも福井屋へ皆で出かけてご都合を伺いましょうね」
雛と明子は今月横浜をサンフランシスコへ向けて出港する船の多さを話した。
横浜港から出るアメリカ行きはシティ・オブ・トウキョウ号が昨日の11月6日、明子たちが乗るゲーリックが10日、サンパウロ号が26日と三隻の貨客船がサンフランシスコへ向けて船出をするのだ。

「お母様ケンゾーの小父様が話してくれましたけどフェリスの最初の卒業生の大川嘉志さまは先生として優れていると評判だそうですわ」
大川嘉志はこの年21才通称として島田嘉志を名乗る事もあるが、養父の大川は昨年亡くなり、行方がわからなかった実父の松川が東京に嘉志の妹の美也と元気でいる事が判り最近はとみに元気であると言うことだそうだ。
嘉志を可愛がっていたミラー夫妻は79年に休暇で帰米、フェリスはミス・ウィンとミス・ウイットベックが暫く管理をまかされていた。
81年に再来日したがミラー夫妻は日本各地での伝道に当たり其の年の12月にはES・ブースが校長に就任した。

「雛さん私が小さい頃フェリスはキダーさんの学校とかミロルさんの学校といわれていたのよ」
キダーは結婚しても相変わらず旧姓のキダーと呼ばれる事が多かったそうだ。

「明子様フェリスはまた校舎を建てるそうですわ。よくそんなに寄付が集まる物ですわ」
僅かだが先に学校に入っていた明子に雛はさまをつけて呼んでいた、身分は同じ士族だ、学校では明子は皆に慕われていて同級生はおろか上級生下級生の区別なく勉強の手伝いまでしていてクライン師は明子に、残って教師への道を薦めたが正太郎や健三の例を持ち出して婉曲に断った。

「どこで聞かれましたの。去年新しい校舎を建てたばかりですのに」

「ミス・フレッチャーがカシドリスクールの人たちと話しているのを聞いたという話しをお玉さんが教えてくれましたのよ。3年計画ですって」
桂木玉は共立女学校の卒業生で留学の仲間、ミス・フレッチャーは共立女学校の先生、同じ船でアメリカへ帰国する関係でどこかで話しが出たのだろう。
カシドリスクールは共立女学校の卒業生やミス・フレッチャーたちが運営している街の子供たちのための勉強の場だ、学制がしかれても実際に全日を学校へ行かれない生徒も多いのだ。

教育令の前、学制の時には尋常小学校は下等4年、上等4年、中学校下等3年、上等3年に分けられていた。
また中学に相当するものとして変則中学、家塾、中学私塾が定められていた。

1879年(明治12年)9月になると学制に代わって教育令が公布された。
小学校を4年まで短縮出来うるとし、4年間について毎年最低4か月授業すればよいとして、義務教育は最低16か月でよいこととなった。

1880年12月の改正教育令では、義務年限は16ヵ月から3ヵ年に引き上げられた。
1881年(明治14年)5月には初等科3年、中等科3年、高等科2年の3課程が定められた。

この後も様々な改変が行われて、寅吉の生まれる僅か前の明治40年にはようやく落ち着いて尋常小学校6年、高等小学校2年となった。

和仏学校・共立の混血児養育施設へ引き取られた子はそれでも幸せな生活を送る事ができるほうなのだ、寅吉やケンゾーたちが道をつけた街の子が学べる場所は学校という場が出来て自然消滅したが人口の増え続けている横浜では網の目からこぼれる子は減る事がなかった。


明治17年(1884年)11月8日土曜日

6時過ぎ横浜の町は明るくなり朝早くからカーチスが戸塚からやってきた。
明治10年8月2日に佐藤政養先生が亡くなり、この年のコレラ騒動で横浜が大騒ぎの中6月のゴーンさん、佐藤先生、そしてカーチスの息子のアーチボルトに妻のリンダが9月に相次いでなくなってからカーチスの生活は不安定だ。

今は川上村柏尾で75年から続けているホワイト・ホース・ターヴァンを営み、土地の娘の加藤カネに産ませた子供たちと落ち着きをみせだし近在の者にもハムやベーコンの作り方を教えていた。
お土産にハムとソーセージにチーズを持参してきたと台所で大きな声で話しているのが勝達の泊まった客間まで響いてきた。

寅吉が出てゆき洋館からは明子も出てきた、カーチスは荷馬車できたのでビーグルが2頭一緒だ。
庭で了介と遊んでいたビーグルは明子の声が聞こえると台所口で遊ぼうよとばかりに吠え立てた。

二頭はヴィッキーの兄弟でカーチスは他に三頭の雌のビーグルを飼っていて産まれる子は高値で買い受けたいと申し出るものが多かった。

これから店に品物を置きに行く間ボブとディックを頼みますよと明子に2頭を預け「1時間で戻るから此処でおとなしくしていろよ」カーチスは子供に話すように2頭のビーグルに言うと馬車で出て行った。

「朝はパンにしますか」

「それに一応飯と目玉焼きに届けてくれたハムを炙って付けてくれ」

「では30分したら食堂へお出でください」
容に言われ客間の3人に伝えに着替えの用意を持ってついて来た明子と入った。

「皆様今日のご予定はどうなっておられますの」

「わしと軍医総監殿は午後の汽車で東京へ戻るよ。10日の見送りにはこれないが之は向こうでのお小遣いだよ」
勝は10ドルの札の束を無造作に信玄袋から取り出して渡してくれた、最近の10ドルは12円20銭程度の取引だ。

「まぁ大変随分厚みがありますわ。お父様頂いてもよろしいのですかしら」

「構わんよ。どうせ先生は現金を持っていても強請られるだけだから」
勝の元には元幕臣達が毎日のように現れては無心を繰り返すので現金がとどまる事が無いのだ。

「向こうでアイスクリーム一つ満足に友達と食べられないのではかわいそうだからな。この肖像の人物を知っているかな」

「ハミルトンですわ先生」

「そうだ、よく知っていたね」

「だって先生、私の学校は先生がアメリカ人ですものお札の人たちは教わりましたわ。決闘で亡くなったと言うことも教わりましたわよ」
餞別にあちらこちらから届いた金は1千円を越していたが勝が無造作によこしたカネは300ドルほどあるようだ。
明子が部屋を出ると寝巻きから着替えをして食堂へ向かった。

「しまった明子が着替えの着物を持ってきたから着替えたが、また自分の着物に着替えないといけないじゃないか」
勝がいまさらのように言い出して4人は今気が付いたとばかりに大きな声で笑い出した。

「皆様揃って朝から面白いことでも御座いましたの」
容に聞かれて勝は1日何度も着替えをするなんてお座敷に呼ばれた芸者じゃあるまいにと言って容を笑わせた。

テーブルにトーストされたパンに紅茶、目玉焼きに温野菜のクリーム掛けとそのまま厚く切られフライパンで焼かれたハムが給仕され「ご飯も炊いてありますから」と明子が給仕した。
食事が終わると四人で洋間に戻り、西郷が打ち明ける朝鮮へ戻った竹添の話になった。

「どうも壮士の連中を抑える力は無いようです。井上さんの越南の紛争に乗じて清国を叩こうというのは押さえましたが裏で誰か糸を引いているようです」

「井上さんは山縣に甘いことを言われているんだろうぜ。硬軟どちらの策をとるにせよ戦をしてまで朝鮮に肩入れすることは無いさ」
順は軍の中で西郷達とは違う意見が多く戦を引き起こそうと画策するグループが居ると話した。

「向こうから仕掛けてきたならともかく今戦をする状況には無いよ」

「しかし朝鮮にどちらが主導権を握るかという話しが先行しすぎていますからね。コタさんが前にも言っていたが軍備が行き過ぎればそれを使いたくなる連中がでてくると言うのは本当だ」

「今の清国は戦をするたびに負け続けだからな。しかしね、あの国は日本とは違うよ。今の皇帝一族は占領者であって統治者じゃないのだよ。日本とは国情が違うのさ、今の皇帝たちが幾ら負けたからと言って其れほど国民が奮起するわけじゃないんだよ」
この当時海軍は扶桑、筑紫、金剛、比叡以外は時代遅れの艦艇が多く戦となっても今すぐでは清国の海軍と互角も危ないのだ、清国海軍にはまもなく定遠と鎮遠がドイツのフルカン・シュテッティンから回航されてくるのだ。

昨年には艤装が終わり中立の立場を取ったドイツは引き渡しを延ばさせていた。
両艦とも基準排水量7220t、主砲30.cm連装砲2基4門、舷側装甲最大厚305mm

金剛は1878年4月26日にイギリスのハルのアールス社から回航され初代艦長は伊藤雋吉、5月22日には同型艦の比叡がペンブロークのミルフォード・ヘヴン造船会社から到着した。
設計はエドワード・ジェームズ・リード。
排水量常備2250t、全長 70.m、全幅12.m、吃水5.m.。

しかし最大13.7ノットはこの時代戦闘艦としては遅すぎたが定遠、鎮遠2艦も14.5ノットであり、之を打ち破るには最大速度18ノットを出せる高速艦による接近攻撃しか太刀打ちできず大型艦船を買い入れても日本は其れを修理できる大型ドックも無いのだ。

扶桑には伊東祐亨大佐が再任されての艦長だが常備排水量3717トン、13ノットで筑紫(つくし)はチリ海軍が発注した砲艦アルツーリ・プラットARTURO PLAT、イギリス、ニューキャッスルのアームストロング社エルジック工場から1883年6月16日に購入1883年9月19日に横浜へ回航されてきた。

1350トンながら速力は16.4ノットだ、この姉妹艦2隻は清国海軍が買い入れており高速艦の不足は否めないのが現状だ。

横須賀造船所はドック竣工式が先日の7月21日の事で中、小型軍艦を自前で作れるところまではこぎ着けていたが大型船を作る力は横須賀も長崎も持っていなかったし西日本での軍港としての港の整備も9月に入って広島県令の千田貞暁が反対を押し切り築港費十八万円の予算をつけて宇品で始まったばかりだ。

16年10月に日朝友好の証として戸山の陸軍学校に14名の青年を受け入れていたが今其のうちの多くが帰国しているという噂だ。
西郷も陸軍の急進派の後押しで朝鮮の帰国組がクーデターを起こしてしまわないかが心配なのだと勝に憂慮の眼差しで話しをした。

「其れと朝鮮から支払われる予定だった賠償金ですが、先日竹添公使から国王に贈呈という形で返還いたしましたが之は井上さんの提案どおりに行われました」
井上は元来信義に厚い男なのだが、人の意見を鵜呑みにしてしまう嫌いがあるので周りが気を配る必要があると勝が西郷に話した。

順に脚気の話を従道がまた持ち出した。
明治15年の暮れから10ヵ月の伊東祐亨(ゆうこう)龍驤艦長の練習航海中に全乗組員378名中169名が脚気におかされ23名が死亡するという事態が起きていたのだ。

従道たちは高木の行っている実験結果をまだ知らなかった。
明治17年2月3日に実施された軍艦筑波の遠洋航海は龍驤と同じ航路による兵食比較実験と決定され高木は綿密な準備をして筑波を出航させ17年11月16日帰国する予定だ。

実験は白米を減じ副食の肉、魚、豆、を増やして行われた。
白米の替わりにパンにビスケットを随時支給し脚気患者数比率は乗組員数龍驤で367名のうち169名であり、筑波では333名中16名だった。

「やはりパンが一番でしょうか」

「パンに麦飯之を週一度のペースで食べさせる事だよ。患者も軽いうちなら直せるが重症となると京都へ移った養繧堂の至宝散が一番だが之とて薬だけでは治らんよ」

「何か特別な事でも」

「京に移ったのは病人用の包帯に傷薬の製造のためだが脚気患者を救うには食事療法しかないというとった。わしが聞き取った秘伝のせんじ薬もほんの気休めじゃ」

順は従道にも其のせんじ薬の一部が一番の妙薬である事は隠し通すつもりのようだ、脚気患者が全員助かってはどのような歴史変化が出るか予測もつかないためだ。

「東京鎮台参謀長の乃木希典が脚気患者ヘ豆、食麦を試験給与したいと伺い書面を9月に出してきました。効果はあるでしょうか」

「勿論だとも、彼は桂が木村屋のパンのおかげで命が救われたと固く信じているよ。幕府海軍の頃に乾パンを必ず週に10枚支給させたのもそのためだよ。大豆と小麦に大麦は玄米を食べたがらない者には必ず食べさせないといけないのだよ。海軍医務局長の高木君が実験結果を報告してくるのを待っているのだ、大昔のような食生活、もしくは完全なる洋風食を進めているんだ。陸軍は君の前だが各地の鎮台ごとに補給が違うのでわしの言う事を聞いてくれんのだよ。君のほうからも重ねて食の改善を達して欲しいのだ。甘い物好きには小豆が良いし煮豆でも構わんが大豆と昆布を煮込んだものがわしの研究では効果があるようだ」

「それで陛下も週一度は麦またはパンを召し上がり、煮豆が小皿で供されるのですか」

「そう其れは山岡君の頃からの習慣さ」
山岡鉄舟は西郷隆盛に請われ帝の侍従として明治5年から15年に致仕するまで10年を西郷との約束を守り勤め上げた。

順は12年から2代目の陸軍軍医総監だった林研海(林紀)が15年に有栖川宮のお供でロシアに向かう途中、パリで客死した後を受けての再任の軍医総監だ。
林研海(紀)其の時39才、将来を嘱望されていただけに悔やまれる若死にであった。
紀の弟は養子の董が居て順の実弟だ、紀の実弟には西紳六郎が居て西周の養子に出ていて、妹は榎本武揚に嫁いだ多津、赤松則良に嫁いだ貞がいる。

4人は昨晩話残したことや内容を突き詰めた話しを昼近くまでして、勝と松本は道太郎を供に東京へ帰って行った。


「西郷様は競馬会まで横浜に居られるのですか」

「そうしたかがやっぱい明日にな帰らんとな、大河内さぁの墨染はミカンの子供ほいならっでな、根岸で走う所も見たいがそうもいかんのさ。母親は南部馬だがミカンに比べても遜色の無い大きさだよ」
2人のうるさ型が居なくなって気持ちの余裕も出たようだ、伊勢佐木町の火事の後始末の調査をするための1日早い横浜入りだった従道だが、馬の話しを始めると尽きない話題は多い2人だ、墨染の体高4尺8寸5分はリューセーの10才時の5尺5分、ミカンの4尺9寸には届かないが、オレンジの4尺8寸より勝っていた。

根岸の前の不忍池競馬場では3日間で4レースに出場して1着を2回取って、農商務省勧農局の作った鹿児島馬の岩川に負けて2着になっていたが宮内省御厩課の産駒の墨染は将来性抜群だった。
ミカンの栗毛、オレンジの黒毛と違い青毛は母親譲りだそうで其の年の御厩課ではミカンを使って6頭への種付けをしていた。

西郷自身はダブリンで去年まで勝ち続けていて父親もダブリンというケンタッキーから新冠御料牧場へ入っての産駒で1881年(明治14年)の第2回内国勧業博覧会で西郷が600円で買い受けたものだ。
昨年から体調不良に陥り軍馬局が手当てをしていたが元に戻る様子が見えず死んでしまったと嘆いた。

「此処まで15勝したのに」
若い時からの連戦につぐ連戦では若い馬には脚への負担が大きく響いていた。

リューセーのように10年間走らせるには年間4レースが良いところだろうと考える寅吉とマックだった。
1865年慶応元年産まれ、1868年秋デビュー29レース中1着24回、2着2回、3着3回、1877年秋の2回のレースのあと引退させていた。

今秋の根岸競馬は3日間11日、12日、13日に行われる30レースだ。
日本産、中国産、混合選抜、雑種馬とレースは組み分けると先日クラブから話しがあり、リューセーの仔は雑種馬もしくは混合選抜の番組しか出せない事になった。
寅吉とマックは8頭の参加を予定していて1頭を最大2レースへの参加に留める事にしていた。

マックの娘は5月に横浜学校の教師の杉崎鉱太郎と結婚し、マックはその分馬にのめりこんでいた。
今年夏にアメリカから2700ドルかけてWar Danceという1859年産の栗毛の牡を買い入れたのもマックだ。
父レキシントンLEXINGTON7戦6勝。
REEL

すでに下総種畜場には明治11年(1878年)にWar Dance berryという1875年生まれのウォーダンスの娘が導入されていたのを聞いて其の父親に狙いを定めたのだ。
その前年の明治10年には繁殖乗馬としてサラブレッド7頭(カリフォルニア州、ケンタッキー州生産の二歳馬で牡馬4頭、牝馬3頭)、トロッター4頭、ペルシュロン2頭などで計16頭輸入していたが、其の栗毛の牝馬は明治13年(1880年)にレキシントン近親のブラドレーに交配されて牝馬の第二ウオールダンスベリー、今年になって牡馬第五ブラドレーを生産していた。
父はWar Dance、母がRevenue Mare1861年栗毛だ。

ウォーダンスの選定と購入には新山荘輔と岩山敬義を従道が根岸の牧場へつれてやってきて寅吉とマックに紹介した事がきっかけだ。
寅吉達は知らない事だが昭和7年(1932年)に創設された目黒競馬場の芝2400mの4才牡馬・牝馬の定量の重賞競走、東京優駿大競走の優勝馬ワカタカが其の第二ウオールダンスベリーの血を受け継いでいた。
このレースは東京競馬場の芝2400mに変更、名称も東京優駿競走、優駿競走を経て昭和25年(1950年)東京優駿になり其の年の副賞日本ダービーがこのレースの名称と誤認されるほど有名となって行った。

「せめて向こうでの買値が1000ドルくらいで無いと幾ら牡でも元が取れませんよ」
そういうのを「いやこれは道楽だから」マックは新山にそう言って有力馬を紹介してもらったのだ。
新山は来年欧米に渡り現地での視察研究をしてくる事になっていた。

真理と名付けられたマックとお玉さんの間に生まれた娘は明子より半年ほど早く生まれたのだが、共立に通いカシドリスクールで知り合った杉崎と恋仲となり、真理の卒業を待って結婚式が挙げられた。

「お昼はいかがいたしますか」
2人にお松津さんが声をかけた。
野毛を春太郎の住まいに明け渡した時、山手にも20畳の大部屋と取引相手が商用で出てきた時に泊める部屋を3部屋別棟で建て、其の取締に野毛から来てもらったのだ、容とは深川からの長い付き合いだ。

風呂場も二箇所と水洗式の厠が二箇所、大きな台所に雇い人と泊まり客が共に食事を取る食堂、女中たち専用の続きの建物もあり、訊ねてきた者は商人宿に泊まるより良い設備で安心できると言って野毛の春や伝次郎の同じような施設と泊まり歩いて横浜を堪能して国へ帰るのだ。
220番に3人、219番に3人、宿泊設備に3人、庭の管理を含めての雇い人が6人の15人が居て家と庭の管理の取り纏めを波奈がやって、お松津さんは其の相方として普段は客人用の建物の管理をしている。

「容たちはどうしたい」

「福井屋さんへお雛様とお嬢様に了介様も一緒にお出かけです。何でも街の案内と夜に桝金でお食事をされるご相談とか」

「波奈はどうしたい」

「お波奈さんは広太郎さんがお迎えに来て、買い物に浩吉さんをつれて出ましたが」

「其れでお松津さんがこっちへ出てきたか」
従道がそういうとこんなおばあちゃんで相すみませんと笑い顔で言いながら「明子様がいなくなりますと華がなくなりますので若い人を探しませんと」と相談するように話し出した。

お松津さんはもう直に還暦、波奈も前厄近いはずだ、広太郎との間の一粒種の浩吉も6才になって了介の良い遊び相手だ。
2人が一緒になって子供を諦めかけたという時にようやく授かった子で、今は本通りをはさんだ二百二十番の真向かい、居留地から出外れた根岸村に家を建て、上総は天羽郡大貫から呼び寄せた広太郎の両親が面倒を見ている。

一年前の11月9日に元町の火事で虎屋にピカルディが燃えた時には元町二丁目に家があったが家族揃って金澤へ遊びに行っていたので家財を焼いただけですんでいた。
お松津さんに聞くと36ですから其の通りですねと答えて「広太郎さんも旦那と同じはずで本厄で御座いますよ。昨年の火事騒ぎで家財を焼いて厄落としが出来たと言っていましたわ」と働く者達のこまかいことまで把握しているのは昔のままだ。

「西郷様、昼はいかがします。供の2人も連れ出して容たちの上手を行って昼は天麩羅でも食べにでますか」

「馬車は出払っているのじゃないのかい」

「何、地蔵坂の上にいる人力を呼べば済みますよ」
お松津さんは従道の供の者を呼びにいきながら八十松に人力を四台呼ばせた。

「何処へ行くのだ伊勢佐木の天金は燃えたのだろ、桝金へいくのか」

「いえ山田町の天吉が燃えておりませんのでそちらへ」
地蔵坂を引き綱で勢いを殺しながら降りた人力は亀の橋を渡って扇町の角で曲がると日の出川の扇橋を渡って山田町へ入った。

元裁判所があった先にある天吉の入れ込みは混んでいたが寅吉の顔を見ると直ぐ2階の特別の部屋へ通してくれた。
大まな板をはさんで主人が2人の客と話していて其の脇へ女中が席を作ってくれた。

端に従道、次に寅吉、2人の客の向こう側に供の2人が座りそちらの鍋前には若い職人が付いて注文を聞いた。
寅吉には黙ってビールが出され主人が注文も聞かずに次々に揚げだした。

「飯はどうします」

「出してもらおうか」
寅吉と主人の会話は其れくらいで黙って出てくる物を食べながら「何か特別に揚げさせますか」と従道に聞いた。

「任せる」
親父もこの髭面の男が代理といえども陸軍卿の西郷従道とは気が付かぬようだし「何誰が来ても驚かぬ親父ですよ」とケンゾーも寅吉にそう言っていた。

「旦那、季節外れですが鶴見のアナゴが良いやつが入っていますぜ」
其の声に隣の二人連れも此方に廻すのが有れば出してくれと頼んだので親父めだまって6人分のアナゴを揚げて出し「其の酢橘でも塩でもお好きなほうで半分ほどはお試しください」と勧めた。
二人の客は江ノ島の帰りだと寅吉に話しかけてきた。

「私は若い頃、もう20年ほども前に一度行きましたがいまは昔の面影も無い有様と聞きましたが」

「然様ですな。島の一番高い場所は外人に買われてしまったと聞いて近くまで行きましたが植物園を作るとかで沢山のレンガを運び込んでいましたよ」
サミュエルだ、居留地ではサムエルで名が知れている55番の薄荷屋敷の主だ。
寅吉達と同じ頃から百合根の輸出を手がけだし、外国の植物の輸入もし、美術品の買いあさり方は異常ともいえた。
鎌倉の大仏を買わないかという話も出たそうだが其処まで日本から引き剥がすのはよい事では無いと話しを持ち込んだものを反対に諭したそうだ。

「お話の様子だと横浜は長いのですかな」

「青木町に店を出して22年が過ぎました。関内でも其のあと直ぐでしたからおおよそ20年でしょう」

「お若そうに見えましたが」

「今年本厄ですよ」

「私は篠原と申しまして神戸から最近移りましたのでまだ知り人も少ないのでよろしくお付き合いくだされたいのですが」

「私この近くの末吉町で雑貨の輸出入をして居ります氷川商会の根岸寅吉と申します。之が名刺ですが店は此処から10分も掛からぬところにあります」

「其れは奇遇ですな、私も此方の渡辺君も供に雑貨の輸出入を手がけて居ります。横浜では石油を扱おうかと今交渉中です。長崎に居た頃に知り合ったガラバさんと大阪の河口ではともに働いた事もあります」

「其れは其れは、トマスとは友達づきあいをして居りますが最近は炭鉱のほうが忙しいのか横浜にはめったに来ませんな。息子のトミーを東京の学習院へ入れたと聞きましたがご存知でしたか」

「ほお然様でしたか存じませんでした。もしかして寅吉さんというとガラバさんが馬とビールの話題で持ち出す虎屋さんの寅吉さんでしょうか」

「然様です、虎屋の実務は譲りまして今は相談役です、其れで暇つぶしに起こした小さな雑貨屋が氷川商会というわけです」
従道は薩摩言葉が出るとまずいと思うのか黙って黙々と食べ続けていた。

「失礼ながらそちらのお方は寡黙のご様子ですが」
従道はイギリスで「食べるほうに忙しくてすまん。口下手でしてな」と話した、其のほうが訛りの出ない分素性がわからないと思ったようだ。
話題は暫くグラバーと炭鉱、ビールの話などで盛り上がり再会を約して篠原は名刺を渡すと勘定をして出て行った。

従道は英語のまま「あいつら長州人だな。いまだにガラバとわな」と言い出した。
2人でビールの追加を言いつけて暫くその名前の呼び方を話してから勘定を言いつけると真新しい手拭いを湯で絞ったものが渡され、従道は丁寧に髭の汚れを拭って店を後にした。

末吉町の店に四人で歩いて寄ると供の2人を3時間ほど自由にさせ、3階に有る寅吉の部屋へ入った2人は先ほど出たグラバーの話とビール工場について話し出した。

「コタさんよ。お前さんなんでコープランドのビール工場を買わなかった」

「あいつ設備などを他の買い手に売る相談をしてまとまらなくなってから話しを持ってきたんですよ。裁判で金をかけすぎて経営が悪化して直ぐ言えばいい物を俺のほうに言うとグラバーと組んで買い叩かれると思ったんではないのですかね。ヘクトにも言わずに自分で処理する気だったようですよ。今はスプリング・バレー・ビヤ・ガーデンで酒場の親父でしかありませんよ」

「助けてやれなかったのかい」

「ヘクトや俺のほうに言えば何とかできたのですがホワイトに金を借りたのも後で知って債権の買い取りを申し入れたのですがね、金額の折り合いが付かなかったんですよ。機械なんかは東京の浅田という男に売却が決まり土地建物はデーヴィスが落札しましたのでグラバーと岩崎が中心で敷地を買って最新式の工場に建て直す話しが出ていますが、横浜でもタルボットにアボットの2人が発起人で資金を集めて始めると言っています」

「コタさんは手を出さんのか」

「正太郎とアーサーの資金が組み込まれる事にはなりますがそれ以上は入れ込まないつもりです。喜八郎さんにでももぐり込ませようか相談してみるつもりです。香港のレーンクロフォード社をアーサーとスミス商会が手に入れましたからそちらから株式参加が5人ほどの名前に振り分けて入れる予定です」

「そうか横浜のビールは暫くお預けか残念だな」

「グラバーが手を回していますから直ぐですよ。岩崎も船のほうが片付けば乗り出す気は十分ですからね。どうせヘクト親子も他人名義で参加する事でしょうし、うるさ型のグラバーに弥太郎さんでは後3年は味についての試行錯誤が続くはずですよ。今度は醸造技師も呼んで完璧なドイツビールになることでしょうね、子供の時の記憶では開拓使のビール工場も大きく発展して味も良いものだったと聴いた記憶があります」 

「船戦は早いとこ手打ちに持っていくしかないか。伊藤君と井上君によく話しておこう」

「そうしてくださいませんか、弥太郎さんは頑固ですが弟の弥之助さんは融通が聞きますし川田さんに話しをもって行くのが良いかもしれません、後藤さんでは話しがまとまらないでしょう。ケンゾーから竹内綱さんへ話しを通して其処から川田さんへ行くか直接井上さんが弥太郎さんに国の為に手締めにしてくれと合併させる事です」

「井上さんも岩崎も双方共に頑固じゃからな」

「やはり玉突き遊びのように彼方此方と突っついていきますか」

「そうするほうが時間はかかるが実現できそうだな」

「井上さんが直接のほうが1日で方がつくんですがねぇ」
従道はそれに乗らずに部屋の中央のビリヤードに話題を振った。

「横浜では最近50点撞いた奴が出たと聞いたが」

「弁天に額を奉納したという話ですね」

「そうだコタさんはどのくらい撞けるんだね。わしや伊藤さんは30も危ないくらいだ」
従道は東京倶楽部の会員でクラブハウスは鹿鳴館で其処にはビリヤードの台も置いてあった。

「家ならキャロムで50は超えますが人前ではやりませんので見物がいるとどうなんですかね。ケンゾーは万花やグランドで40を超えた事があるそうですがね、去年グランドに来た世界名人というアメリカ人のルドルフが曲突きなどを披露しましたが上手いものでしたよ」
2人で交互に突くという変則的なやり方で格好を見ながら見物衆にどうすれば見栄えがよいかと言うことを話しながら遊んでいるとテレホンが鳴って下から千代が時間ですと伝えてきた。

「遊びすぎたようですね。此処へ入って2時間たつと連絡が入るのですよ。そうしないと時間を忘れますからね」
テレホンで連絡してきた千代にコーヒーをお前の分も入れて上がって来いよと伝えてまた玉突き遊びに戻った。

「お前弁天に玉突きの額を奉納した奴の話しを知ってるかい」

「ダイゴという若い奴ですよ。毎日のように万花で遊んでいますそうで、遊び仲間は鐘兼たちです。50点とは豪儀だとえばっていますがね」

「千代もそんくらい撞けうのかい」
西郷は笑いながら千代に尋ねた。

「西郷のだんなの前で自慢するわけじゃありませんがね、元町の店員用の台での遊びなら50位は時々撞きますぜ。旦那にゃ適いませんが店の中では神戸の太四郎さんと良い勝負ですぜ」

「ケンゾーとはどうなんだい」

「勝負となると10回のうち8回は勝ちますぜ。あちらさんは調子のよいときで40くらいですからね」
千代は背が低いがケンゾーと同じくらいなので台にのしかかるか腰掛けてでも撞かないと上手くいかず知り人達以外だと難癖を付けられるのでどうしても点が伸びないのだ。

「ケンゾーの家の門だが随分低い門構えだそうだな」
どこで聞いてきたのか英町の家の事も知っていた。

「そのようでケンゾーさんも随分偉くなったようで、気に入らない客だとわざわざ門の近くまで出迎えるそうで、下男に門を開けさせると客は小腰をかがめてケンゾーさんに挨拶をする形になるそうでね。あっしは幸いあまり頭を下げずに入れますがね、最も裏から勝手に出入りしますので関係ないのでござんすよ」
従道はこの千代の話しを聞くのも横浜に来る楽しみの一つだと話した事がある。

伊勢佐木町の火事の後6日に跡地の視察に横浜に来て夜に安倍川にあがった時に「炎は清正公をなめて直ぐ傍まで火の手が回って肝が冷えたろう」と聞かれ、「毎月35円も保険に取られていますから燃えれば7200円の現金が入るところでした。それだけあれば地所も広げて大きな物に建て替えられましたのに残念で御座いました」とこともなげに答えたのだ。

まだ日本での保険会社は無かったのだが居留地25番のフォンへメルト商会が横浜物産会社関係の保険を一手に引き受けていた。
明治15年には月々支払う金額は青木町から本牧根岸を含めると612円になり前年の元町の支払い金額の査定合計7800円を火事の10日後には支払った。
今年の改定では店も増えたので708円の掛け金となっていた。

「之だけ火事の多い横浜でコタさんのところは防火設備も完全だし此方の要求どおりの保険料は呑んでくれるのだから建物だけでなく商売の損出分も直ぐに査定して補填しますよ」
其れはそうだろうフォンへメルト商会が最近8年で受け取った金額の10パーセント程度の金額でしかないのだ。
それ以前は明治9年6月に起きた弁天通りの火災で21000円の支払いを受けたがそれとてそれ以前に支払った金額以内で済んでいた。

翌10年3月の元町の五丁目の火事は一丁目には被害は起きず明治11年の神奈川大火も青木町には火の粉も掛からなかった。

明治12年1月にはまたも元町五丁目から火が出て二百戸余りが焼失したが三丁目で火の手は食い止められ12月の青木町の火事でも横浜物産会社関係の建物に被害は起きなかった。
この時はフォンへメルト商会も居留地から火の手を見て保険の支払いを覚悟したと後で笑い話が出るほど慌てたらしい。

明治13年5月伊勢佐木町一丁目から出た火は姿見町まで延焼し104戸が焼けだされ12月には吉田町が燃えたが雨に助けられて大きな火事にはならずに済んだ。

明治14年は大きな火災は横浜に起きなかった。

明治15年2月に真砂町から出火し、尾上町、港町合せて137戸を焼失し、尾上町五丁目に移って足掛け10年の富貴楼は三丁目で火の手が止まって無事だった。
富貴楼は駒形町の店を明治6年の火災で住吉町からの飛び火で全焼したあと尾上町へ移っていた、糸平がやはり保険をかけていて其れまで以上の建物が直ぐに建てられたのだ。

この火災は明治6年3月22日、北西の風の強く吹き荒れた夜に入って直ぐ起きたため大きな範囲に広がり火元は相生町三丁目の箱屋某方とされた。

相生町は二丁目三丁目四丁目、末広町一丁目三丁目、高砂町一丁目二丁目三丁目、尾上町一丁目二丁目三丁目、住吉町一丁目二丁目三丁目四丁目、常磐町一丁目二丁目三丁目四丁目、真砂町三丁目、港町一丁目三丁目など二十余町千五百五十七戸が焼失したが火事による死者の報告はただ一人のみであった。

明治15年は12月に神奈川県庁が庁内よりの失火により焼失してしまった。

明治16年が元町の火事でピカルディ近くの一丁目から出た火はパン屋ピカルディ、とらや、虎屋を燃えつくして焼失家屋435戸という大きな火災となった。

そして明治17年11月4日の伊勢佐木町の火災は北風に煽られて清正公長者町、賑町へ達する大火災となり焼失家屋は790戸と今朝の東京横浜毎日新聞に出ていた。
此処は明治4年11月の北一つ目に建てられた吉原遊郭の火災での焼失地域とほぼ同じ範囲だ。

従道がこの部屋の真ん中にこの台があるのは部屋の配置からして邪魔では無いのかと言い出した。
2階に二部屋の和室と事務室、厠にシャワー室と洋間があり階段で上がると寅吉の私物倉庫とこの研究室と名付けた部屋にベランダがついた大きな窓がある。

「このビリヤードは丁度建物の真ん中にすえてあります。この場所も埋立地で地盤がゆるいので三間の松材を24本突き立てて其の上に土台を築きましたが、玉が自然に転がりだせばそちらが沈んだとすぐ判るようにおきました」

「ほお、そうするとこいつが水準器の替わりなのか」

従道は改めて三個の玉を慎重に真ん中へ三角形を作り暫く見つめて「まだ狂っていないようだな」とつぶやいて窓から伊勢佐木町方面を見つめた。
窓から見ると焼け野原の中で片付けに働く人たちが大勢見えていた。

氷川商会は南北に五間、東西二十間の一階建物の上に二階の部屋と物干し場があり其の上に今従道たちがいる三階部分が乗り正確に言えば大きな窓とベランダのある方向は北東を向いて其の方向をたどれば馬車道があり左に野毛坂と横浜駅、右に横浜警察署が見えていた、南は小窓で明かりが入り、西側は倉庫へのドア北は壁になっていた。

いまさらのように窓からベランダへ出て「ここがコタさんの扇の要か」と言いながら千代に聞いて野毛に弁天通り、山手の家の方向を教えてもらっていた。

根岸の競馬場の方向を見ていたが「この高さでは競馬場の観覧席は見えないな」そう言って千代を振り返った。

「野毛の山の上で無いと無理でさぁ、あそこからなら遠眼鏡なしでもわかりやすぜ」

明日の朝9時30分の列車で東京へ戻るという従道に今晩はどうするか聞くと富貴楼で噂を集めようというので7時に2人で芸者4人という約束で部屋をとらせに千代を行かせ山手へいったん戻る事にした。


地蔵坂を登りきり本通りをすこし南へ降ると220番、其処から見る富士の頂にはかすかに雪が見え夕陽が富士の峰の向こうへ沈みかかっていた。
従道の供の二人は別棟へ入り夜は出ないで其処にいますと従道に伝えて別れた、護衛は寅吉が居れば十分と従道も考えたようだ。

「貴方今晩のお食事はいかがいたします。私たちは吉川様たちとご一緒に食事に出ますが」

「2人で富貴楼に行くから支度は良いよ。明日は俺も混ぜてくれよ」

「明日も吉川様がご一緒ですが其れでよろしいですか」

「シナ街で食事は如何か聞いておくれよ。それでなければホテルでフランス料理、日本式がよければお前がどこか手配しておくれな」

「わかりましたわ。うなぎ屋でなくとも良うござんすか。先ほど広太郎さんからうかがいましたら今週は一度も顔を出していないそうですね。多満喜へもマックさんと先月末に行かれた位だとか」

「そういえば広太郎たちはどこか買い物と言っていたが戻ったのかよ」

「ええ吉田町の越前屋でたんと買い込んで来ましたそうで。燃え残りましたので其のお礼の安売りを致しましたそうで大変な混雑だったそうで御座いますよ」

「火元に近いのに良く残ったものだ長者町へ火が向かったのが越前屋には幸いだったようだな。出来たばかりの横浜警察署を燃やされては大変だからな消防も必死だったと聞いたぜ」
横浜警察署は7月に堺町から伊勢佐木町25番地吉田橋際へ移動してきたばかりだ、寅吉や辰さんたちが20年かけて協力してきた消防組織も充実はしてきたが去年の元町、今年の伊勢佐木町と大火事は後を絶たないのだった。

県は消防規則を新たにして消防の長は警察署長が兼任して町の安全を守り、廛六消防も蒸気ポンプが3台常備されYokohama・ファイャ・ブリゲードの統轄も進んで総監督にジェームズ・ウォルターが選ばれ山手にも5台のポンプ車が常備された。

寅吉とヘクトは貸し家敷としても使う山手警察となりの60番に馬車で曳くポンプ車を常備していた。

ゴミ六こと16番石橋六之助は薩摩町山下238番の名物男だ。
16番とは16番館デーヴィスが居留地消防隊の総監督となった時に彼の部下となり其の地番の事だ、238番はファイャ・ブリゲードの本拠だ。

芥六(ゴミロク)の名は居留地の道路清掃を明治元年に請け負った事に由来している。
関内も三菱合資会社、共同運輸会社が新たに組織を作り街の消防組織への協力を図って蒸気式消防ポンプを導入した。

「マア珍しい、コタさんだけでなく西郷様まで、勝先生と松本先生はお倉をお見限りで寄りもせずにお帰りだなんて」

「そう言ってもあちら様も忙しいのさ。土蔵部屋の秘密会議はもう始まっているのかい」

「いやですよコタさん。秘密なぞありゃしませんよ」

「そうかねぇ、昨日は神戸まで3等を1円に何時からするか決めたんじゃないのかい」

「あたしゃそんな事知りませんよ」

従道が口を挟んだ。

「雋吉(しゅうきち)が来ていたら此方へ通してくれないか」

「としよしさんですね」

「其れが横浜での呼び名かい」

「最近はそう呼ばれる事が多いそうで御座いますよ」
伊藤雋吉は海軍少将の身分のままでの共同運輸の社長だ、副社長には同じく海軍出身で東京風帆船会社社長だった遠武秀行、発起人は益田孝、小室信夫、堀基、渋沢喜作、後ろには渋沢栄一、品川弥二郎、井上馨。

芸者も入り賑やかな座敷となった、堀と伊藤がお文の案内でやってきたのは小一時間ほど経ってからだ。

「お倉から閣下がお出でと伺おいもしたでご挨拶に伺おいもした」
お倉は呼んでいるとは言わなかったようだ、寅吉が居ても話しがしやすいと判断したのだろう。

寅吉は膳を持って下座に下がり「寅吉と申します」と言葉すくなに挨拶をした。
芸者たちはお文に連れられて下がっていった。

「まぁ其処では話しが遠いから此方へ入いなさい」

「其れでは失礼させて入らせてもれもす」
座が決まり従道は最近の苦労をねぎらった。

「井上さぁや品川さぁはあくまで三菱を潰すおつもいのごとだが後に大隈さぁを必要になっときも来もすからこんあたいで手打ちに持っていかれませんか」
従道は杯を勧めたあと単刀直入に話しを切り出した。

「そいどんあとすこしで相手も音を上げもそやに、いまさらそれでは渋沢も品川さぁも井上様さえ承知なさらんでしょう」

「さぁ、其処だど。今清国とこんよな時に何時までん争うのは国力を損ねてしまうど。其れとこん男の情報だが共同の株の動きをおはんらは知っておいやしかな」

「おいたちにな金や株の動きまでは捕まえきれません、赤い字の補填は品川さぁが任せろと言うで三菱の動きに対抗すう事がおいどもの仕こっじぁなぁ」

従道も呆れた顔をしていたが寅吉も聞いていて嫌になってしまった、こんな人たちが多くの艦船を抱えている事に不安を感じたのだ。

「それならそれでん良いがわしと井上さあが話して決めたらそれに従って欲しい、特に伊藤君にな海軍へもどってやってほしい事も有いもすし、堀君になまた札幌でん重要な役目も引き受けて欲しいでね。黒田さぁの後を受け継ぐのは君しか居ないよ」
従道はそれとなく今の仕事より重要な役目が待っていると匂わした。

二人が去ると「コタさんよ。近くに来いよ」と傍に呼び寄せ「後は井上さんと直談判だが其の前に川田と弥太郎と会えるようにしたいな」と相談を持ちかけた。

「横浜支店長の近藤康平に会いますか」

「これから会えるか」

「今頃だと今日話しに出た万花に居るでしょう」

「さすがだな」
手を叩いてお文に人力を頼んで北仲通りの万花へ向かった。

店では若い女達に囲まれていた康平を呼んで従道を紹介すると階段を登り2階のビリヤード台が見える席へ3人で座った。

「川田君か弥太郎さんに会いたいが今何処にいるか判るかね」

「お話の中身を伺ってよろしいですか」

「船の事で聞きたい事があるのだが君で川田君と同じ答えが出せるなら話すよ」

「では1時間ほど此処でお待ちいただけますか。幸い横浜へ来ておられますので探してご都合を聞いてまいります」
康平は足取りも軽く階段を降り女達に軽口を叩きながら出て行ったが50分もしないうちに戻ってきた。

「人力を用意しましたのでお乗りください」

3台の人力は馬車道を鍵の手に折れて生糸改め所の前を抜け、大岡川は弁天橋を渡ってガス灯が明るい駅前の三井組の前を抜け、錦橋で桜木川を渡ると野毛へ向かい、日ノ出町と陸軍陣営の間の道から月岡町へ坂を上った。
陣営の前はさすがに灯りがあるが坂に入ると先導の持つカンテラとようやく昇ってきた21日の月があるだけだ。

其の家の門前は門柱のガス灯が燈されていて其処から伸びる母屋までの道もそこかしこに明かりが燈されていた。

玄関先に若い男が待ち受けて車夫を別棟に案内して行った、近藤と共に2人は玄関から入り囲炉裏のある大きな部屋へ通された。

其の部屋には4人の男が居て談笑していたが足音で気づいたか西郷を平伏して出迎えた。

「今晩は。今はこの寅吉の案内で街を見て回る東京からでてきた髭親父と言うことで通らせてもらうよ。頭を上げてもらわんと寅吉が入れないので頼むよ」

其の声でいかつい肩が特徴の弥太郎が「では失礼して座へ案内させていただきます。お髭のお方はそちらへ寅吉さんは其処へ」すでに近藤から聞いていたらしく座も決めてあったかこだわりなく弥太郎が寅吉の正面、弥之助と川田が西郷の正面、近藤は寅吉の横、あと一人の若い男は弥之助の下座に座った。

「先ほどまで富貴楼にいたよ。近藤君たちは最近お見限りだそうだが、何遠慮せずに顔を出してやれよ」

「共同の連中とけんかになるといけませんので」

「さぁ其れだよ。今晩社長のシュンキチと会ってきた。今横浜ではトシヨシさんと呼ばれてやに下がっているそうだが海軍に戻す予定だと話してきた。後堀君は黒田さんの仕事の残りを請けさせると話しておいた」

「と言うことですと共同は解散ですか」

「いや、実務に明るい人材を誰か農商務から送り込む予定だ、せっかくの海運を共倒れも片方が潰れるのも今の緊迫した時勢によい事では無い。清国がフランスと条約が結ばれ定遠、鎮遠という2隻の近代的な巨大軍艦がやってくるのに共同にこれ以上無駄遣いをさせているわけにはいかんのだ。Mr.ケンは其のおかげで大分儲かっているようだが荷主が喜ぶからと言ってダンピングをしての採算割れはいかん事だよ」

「其れは共同が当方を潰そうとしてのケンカで御座います。共同が協定を結んでくれるなら此方も無理な事はしたくありませんよ」

「弥太郎さん、あんた井上さんが二つをひとつにしてくれと頼んできたらうんと言ってくれるかい」

「髭の旦那、貴方がそういうなら私も言わせていただきますが、他の方でなくあのお方がさしで手打ちにしようと申し出てくださるなら細かい事は川田君に任せて対等合併で手を打ちましょう」

政府に対して対等とはこの男らしい言いようだ、それで品川と井上が合意しても渋沢が黙って手を引くかどうか難しいところだ。

どうも女が絡んだ三者三様のいがみあいだと寅吉に幸助から連絡が来ていたが其れが当たっている様でもあった。

「対等は困ったが共同は600万、そちらを400万の出資比率で手を打たんかね」

「細かな資産勘定は半年くらいかかるでしょうが共同が役員を経理に明るいお方にしてくれるなら相談に乗りますがもう少しわがほうの資産を大きく見積もって欲しい物ですな」

「そいつは合意した後で最低6分4分、そちらを最大4分5厘でどうかね」

「どうも寅吉さんの計算のようで其の辺りが妥当でしょうが。ご本尊が渋沢を説得してくださればこちらに依存はありません。大株主には大倉さんも居るようですが、此方の郵便汽船三菱会社の株もお持ちですから反対なさらないでしょう」

他の者は賛成とも反対とも言わなかった。

「久弥はどう思うのだ」

「日本のためとあっては呑まないわけにはいかないでしょう」

弥太郎の長男の久弥だ、このとき若干二十才(19)三菱商業学校の学生で将来性を見込まれていた。

「久弥君と言うのか、広く外国を見てわが国のためにも活躍してくれる事を期待するよ」

どうも従道は知っているような口ぶりと寅吉には見えたが初めて会ったような顔をして世間話をし始めた、それを待っていたかのように囲炉裏に鍋がすえられ弥太郎が椀によそって全員に薦めた。
鶏肉がサトイモや葱と味噌味で煮込まれていて体の芯から温まるし、良い味だった。

一渡り話しが済むと従道は寅吉を従えて屋敷を辞去して山手へ戻った。

西郷の居なくなった席では酒が出され弥太郎になぜ反対しなかったと川田と弥之助が詰め寄っていた。

「近藤から会いたいと言われて相談された時、川田に任せずに同席したのは中村を正金から追いやられた替わりに今度は日本銀行そのものをこちらの手に取り込むことを考え付いたのさ。こまかい事はおいおい話そうじゃないか」
そう言ってあとの事をそれぞれが想像しているのを楽しむように酒を飲みだした。


二人と別に陽が暮れて馬車で出かけた容たち4人は馬車道弁天通り五丁目角の福井屋で待つ雛の両親と連れ立って歩きながら「道の反対側の4丁目の角と太田町の角には昔此処にあった相影楼・全楽堂という写真館はコタさんのお友達の蓮杖さんという人のお店でして馬車屋さんに人力車宿とハイカラな物が大好きなお人でした。今は東京へひきうつりなさいましたのさ」話しながら太田町の通りへ入り桝金の店へ入った。

金兵衛老人は鍋前を息子達に譲り今はなじみの客への挨拶に出るくらいだ。
此処も下は入れ込みの店で2階にお座敷として10人ほどが入れるように作られていて萬吉は此処にいつも常連客を相手に天麩羅を揚げている。
下の店は萬吉の弟の仙造が仕切りを任されて兄弟揃っての店だ。

先客が2人居て容たち6人が入ると若い学生風の男が明子と雛に挨拶をした。

「やぁ、お久しぶり。明子さんとお雛さんじゃ有りませんか。近日留学と聞いて横浜へくる楽しみが減りますよ」

「マア久弥様はお口がお上手です事。此方は雛さんのご両親さま。そして私のメールとプティフレールの了介です」

「お母様ですか。私岩崎久弥と申します。お嬢様とは横浜学校の杉崎君に紹介されて何度かカシドリスクールでお会いいたしました。お雛さんのご両親様にも初めてですがお雛さんとも同じカシドリスクールで3度ほどお会いいたしました」
育ちのよさそうな久弥に雛の両親も娘の知り人と言う話に改めて挨拶をしだした。

久弥と友人らしき学生は直ぐ席をたったので主人が心づくしの天麩羅を楽しい気持ちで食べる事が出来た。
勘定を支払うという雛の両親に「駄目ですわよ此方のお店は私のお付き合いの勘定は後で清算になっていますので」萬吉が「へえ、お容様のお客様はお話が来た時は後で虎屋さんへお容様の分として請求いたしますのでこの場でのお勘定は致して居りやせん」と調子を合わせてくれた。

「うちの旦那様は現金主義でその場で支払うのよね」

「然様で寅吉の旦那はご自分の交際費は無いんだといつも自前でござんす」
萬吉は少年の頃から寅吉夫婦と付き合いがあるのでこの辺の呼吸は心得た物だ。

店を出て福井屋の先、虎屋の前は昔の義士焼きの店、今は和菓子とカフェが売り物の和洋折衷の休みどころとらやだ。
店へ入りお茶に蒸し羊羹が出されて一息つくと「お母様の事いまだにお容様という方がいるのね」と明子が言い出した。

「なぜ奥様といわずにお母様の事をお容様と言うの」

「了介は知らなかったのよね。と言っても私が産まれる前のことらしいのだけどお母様がお父様と結婚の披露宴をあげた頃はご新造様と言われたそうなのよ」

雛の両親も「そうですよ昔は結婚した後はご新造様、大身のお侍は奥様、奥方様でしたね」と口を添えた。

「横浜と東京の神田の家を行き来していた明治になって私が生まれる頃の横浜ではフランスのマダムと言う言葉を奥様と翻訳しておかみさん、ご新造さんまでをもそう呼び出したそうなの。お母様を呼ぶのに奥様では何か他人行儀だととらやの義士焼きのお店の人たちがお店を手伝うお母様を呼ぶ時に使い出したそうなの。此処までは神田のお婆様のお話。春太郎さんが教えてくれたのは其のあと大神宮の遷座祭が行われた前の年にお母様が横浜中でもち米と小豆が不足しますから買い入れと農家へ作付けの増量をと、普通ならお父様が考え付きそうなことを言い出して話しが決まった1年以上も前から其の準備に掛かったそうなの、其の時お米やもち米の値上がりで街のお米屋さんが困った時に虎屋では義士焼きのお店の予備の分まで小売店の人たちに原価で別けたそうなのよ。其れで町の人たちにもお容様と言われだしたそうなの。だけどそれだけじゃない気がするんだけど誰もその事以上は知らないと言うのよ」
容はにこやかに微笑んで聞いているだけで雛の母親と其の大祭の時の話しを始めた。

「私もお容様とは其の頃からのお付き合いですが、あのお祭りはたいした物でしたわ私の家は本町五丁目、今の一丁目の伊勢屋善四郎といいましたけど父は妹を踊り屋台に乗せるために200両近くかけたそうですわ。私は小田原へ嫁いだ後なので大祭の時はこの娘と2人で実家へ戻って見物しましたが、其れは其れは大変な人出でした。あのときからだそうですわね横浜の山車は牛が引くことになったのも」

「その様ですわ、明子はまだ小さくてあの3年後から手古舞に参加したのよ」

「初めて男髷で提灯と錫杖を持たされて蓮杖さんに写真を撮っていただいたときは嬉しかったのに、本当は子供たちは金棒だけで提灯は持たないといわれて悲しかったわ」
容と美津は可笑しげに笑っていたし雛の父の吉川静雄は「そいつは本当に悲しかったろうな」と愉快そうに笑った。

「小勢さんと言う野毛の芸者さんが左手に錫杖、右手に提灯を持って夕暮れの街を歩くと若い男の人は溜め息をついているのが私たちにもよくわかるくらいだったし、昼間は提灯を持たずに扇子を持って木遣りを謡うと女の人まで見ほれていたわ」

「そう小勢さんは粋な人でしたわ。今は工部省の上師の植松様の奥様よ」

「エッ、あの多喜さんがそうなの」

「嫌だ明子さんは知らないでお付き合いしていたの。多喜さんが其れを知ったら嘆きますよ。あんなにあの年はお世話になったのに」

「だってお母様ほんの一月ほどのあいだでしたし、お化粧も今は洋風で髪型も違うしお顔も随分違う記憶がありますわ」

「そうかしら、あの頃の小勢さんは髷がよく似合う人でしたが今のほうが美人に見えますわよ。あの年の秋に植松様と結婚されたのよ」

「そうなのよね結婚したのは覚えていたのよ、でも誰とだったかまでは知らなかったの。お母様のいう通り私の記憶していた小勢さんは丸顔の感じで愛嬌は有るけど小春さんの方が色気があるとお店の人たちが話していたわ」

「まあ、油断できないわねそんな噂話まで覚えているなんて」

容は話しを変えて吉川夫妻に「明日の昼間は馬車で遠出をして根岸から本牧の十二天へ行きますが、今日のように街の中での買い物のほうがよろしければご案内いたしますわ」

「私たちの買い物は雛の船を見送った後に致します、東京から弟二人も来ますしね。明日はお容様のスケジュールにあわさせていただきます。貴方それでよろしいですかしら」

「こらこら話しが前後しとるぞ。まぁ、その、なんだ、お任せいたします」
普段から美津が話の主導権を握っているようだ。

「其れと明日の晩は寅吉がフランス料理かシナ料理はいかがかと申して居ります。もし異国の物はというなら会席のお店を私に予約しろと言っておりました」

「わしはフランス料理は口に合わんですがシナ料理は長崎でも横浜でもはずれという店に入った事がありません。できればシナ料理でお願いいたします」

「承知いたしました料理は寅吉に任せていただけますかこってりした物、辛い物がお口に合わなければそう申し伝えますが」

「美津は顔に似合わず辛い物もこってりした物も自在ですぞ、なんせ横浜の水で育ったそうで何でも大丈夫だそうで、わしに隠れて横浜では西洋料理へ行くという話しだそうですからな」
雛は可笑しそうに笑っていたが美津は「貴方」と言いながら赤くなって静雄の洋服の袖を引っ張っていた。

「なに本当の事じゃないか。多美さんが姉さんの洋物好きには呆れてしまいますというて居ったぞ。マア其のおかげで雛が向こうへ行ってもナイフとフォークで苦労する事もあるまいと安心でもあるがね」
最後は美津を持ち上げる静雄は奥方にも子供たちにも優しい父親だ。

雛の2人の弟は14と12で明日の新橋2時発、横浜2時53分到着の列車で東京の下宿先から見送りにやってくる事になっていて招待するのにシナ料理は適していて賑やかな食卓になりそうだ。
約束の9時45分馬車が迎えに来て夫婦と別れて山手に戻ったがまだ寅吉達は戻っていなかった。

山手の家に戻った寅吉と従道は部屋へ入ると直ぐに「コタさんあの様子だと三菱は大分に共同の株を買った様だ」と言い出した。

「然様ですね。私の知ってる範囲でも100万は越しているでしょう。小さな参加会社の株を裏から手を回していると聞いていますから、其れと政府の役人にも合同したほうがよいと言わせるように仕組んでいますぜ」

「後藤さんの工作だろ、岡本とかいう土佐の人間がうろちょろしておるようだ。後藤さんが余りうろちょろするとまとまる話もまとまらんぞ」

「ケンゾーから話しをさせましょう」
気になる朝鮮の話になり清軍のユアンシーガイ(袁世凱)の動きや陸軍の一部が後押ししていると噂のキムオッキュン(金玉均)の動静も話し合った。

「じゃ今すぐ清国と戦にはならんのか」

「まだ10年はありましょうが私の覚えている話どおりに世の中が動いていくかよく判りません。先生は小さな違いは起きても大きな動きは変える事は出来ないだろうと話していますが」

公使館の武官達は袁の動きに危機感を覚えていたし、金の日本頼みの改革にも大きな期待はしていなかった。

井上卿の指示した通り、争いを起こさずに友好を保つことが出来るのかが従道たちの頭痛の種であった。

「今一度友好的に清国とも朝鮮とも付き合うように訓告を竹添公使に井上さんのほうからしてもらおう」
竹添は北京に居る榎本以上に清国いや中国に対しての思いが深く争いは好まぬはずと従道はそう言って三菱と福沢たちが革命の後押しをしたがる目的について話し出した。

福沢に岩崎、後藤はキムオッキュン達のグループへの支援を続けていたが武力を持たない革命勢力は横浜から見ている寅吉達にさえあぶなげに見えた。

清国は3営1500名規模の軍を漢城駐留に残していて日本は先月交代に派遣されたばかりの公使館護衛の仙台鎮台歩兵第4聯隊第1大隊から派遣された村上大尉指揮の中隊120名だと従道は寅吉に教えた。

「ほかに公使館つきの武官などがいるが相手をなめて掛かるとえらい事になる。革命勢力を応援するにしても大砲も連発銃も無い兵になにが出来るというんだ」

「私たちの時代には横浜にも多くの朝鮮から来た人たちが清国の人間に使われていましたし雑役や港湾労働で働く人は多く居ました。細かな事は勉強しませんでしたが国王は親日、政治の権を握る閔妃明成皇后一派の事大党は事が起きれば清国の袁の応援を仰ぐでしょう。福沢先生たちは王宮を抑えれば国民が応援に駆けつけると勘違いしているのだと思います」

「鳥羽伏見の時もそうだがあれは此方が準備した新式銃の兵の力と大砲の威力が大きかったんだ。思想だけで戦を制する事は出来ないよ」

「しかし山縣さんの息の掛かった陸軍の一部はすぐさま公使館の保全の為に軍を送れと騒ぐでしょう」

「海軍を動かさなければ兵を勝手に送る事も出来んよ。コタさんそれにわしが大山さんの留守の間は陸軍卿で川村さんが海軍卿だよ。今の情勢のままで兵の派遣は認める事はしないよ。世間では兄貴が征韓論を唱えたと信じて朝鮮が生意気を言うなら叩き潰せなぞとわしに言う奴がいるが飛んだ見当違いだ。わしが台湾へ出かけた明治7年とは状況が違うと言うことに世間は気が付いてくれんのだ」

牡丹社事件は明治4年10月宮古島の琉球御用船が台風による暴風で遭難台湾南端にて座礁し、乗組員69名中66名が漂着し3名は溺死したが、先住民に捕まり逃げようとした54名が虐殺された。

残る12名は漢人の移民に救い出され清国に対しての賠償交渉に対して管轄外地域であると拒否されたのを受けて1874年明治7年4月大隈重信を長官、西郷従道を事務総督に任命した。

この間には世に言う征韓論の論争があり西郷隆盛以下政府要人が辞職してしまう騒動が持ち上がっていた。

「あの時は後で知ったがパークスを中心に列強の反対が多かったそうだ」

「パークスは岩倉卿の使節団や其の頃の各国への公使派遣、鉄道の借款等自分を無視しだした日本政府を快く思っていなかったのですよ」

「つもり積もっていた不満の捌け口があの反対意見なのか」

「其れもありますしあの時岩倉様三条様は大久保様と図って清国に台湾出兵を通知してから船を出すべきだとパークスは教えたのだと思います。4月あれは幾日でしたかいったん派遣の中止が決まった時に長崎にいた西郷様が船を出航させてしまいましたね」

「あれは中止と連絡が来たのは18日だよ。5月2日に谷干城と赤松則良の両名が有功丸で先発しわしは4日に改めて決まった出征の決議を受けて高砂丸で18日に長崎を出たのさ。しかしあれは酷い戦いだったよ。戦には勝ち清国との交渉もイギリスの駐清公使ウェードのおかげで賠償金を50万テール取れたが、軍人以下3600人あまりのうち戦死者12人に対して傷病による死者が560人あまりも出てしまった。僅か半年で1割5分もの損害を出してまで行う意義はなんなのか今でも疑問なのさ、出来得る限りの外交交渉をするべきだと弥助ドンと意見を変えたのもそれ以来のことだよ」

寅吉もそうだが勝や西郷達でさえ日本の国内の話しがそのまま東洋近隣諸国に通じると誤解したままであった。

同じ漢字を使う事で話しが通じると誤解したままで西洋諸国の侵略から手をつないで防衛しようという話も、20年前には未開の国とまで思われていた日本から言われて其れに従う清国ではないのだ。

そして軍部の先行を政府が追認するという悪例をこのとき作ってしまった事を従道はまだ気づいていなかった。


明治17年(1884年)11月9日日曜日

朝日が昇ると山手の丘は小春日和とでも言うように温かくなった。
容の指図で2台馬車が借り出され、家の馬車は西郷のために残された。

その西郷は8時の列車で戻ると言うので7時にはあわただしく一同に見送られて出て行った。
容と了介、明子と雛に別れて2台の馬車は福井屋へ向かって出たのは8時、其れを見送った寅吉は従道を送った馬車が戻ると八十松と当番の信二を連れて根岸の牧場へ向かった。

マックはもう出てきていて畑蔵と打ち合わせをしていた。
この夏、治助から責任者として牧童頭から牧場長になって12頭の馬と10人の人間を率いて毎日忙しく働いていた。

リューセーは畑蔵自ら今でも手入れを人任せにせず行う毎日だ。
治助は石川村の牧場近くに隠居所と称した家を建て、ふたつの牧場の顧問として1日一度は馬の顔を見にやってくるのが楽しみだと話し、口出しは一切せず10分もいると牧場を後にするそうだ。

準之助は引退した馬や休養馬のための間門に作った留めさんたちと共同の牧場の管理を引き受けて乗馬を習う人たちの為に訪れる人の世話をして若い人に囲まれて幸せですとマックに話したそうだ。

容たちの馬車がやってきて了介がマックに「墨染に勝てる馬はいるの」と聞いてきた。

「あいつは強いからな。リューセーが若いときなら問題ないんだが、ハナタチバナとリューオーは一緒に走ることが出来ないのでほかの馬では無理かもよ」

「同じペデローテの孫なのに駄目なの」

「リューセーは両親がイギリスの馬だからなんだよ。ミカンは父親が日本の馬なので同じレースへの登録が出来ないんだ」
マックが地面に系図を書いて説明して了介も納得したようだが「3日間のうち1回位はどの馬でも登録出来るようにすれば良いのに」とマックに食い下がった。

「春にそういうレースが組まれたんだけど最初から諦めて参加してくれない人が出てしまって2頭でのレースや1頭しか登録がなくてレースが出来ない事があったんだよ。それで今度は日本の馬と外国の血が半分以上入った馬は同じレースに出られなくなったんだ。強い馬にハンディキャップで錘をつけるのもレースで他の馬に勝てるチャンスを与えるためなんだよ」

「ふうん、あんまり条件ばかりつけたレースではどの馬が本当に速いのか判りにくいね」

「最終日にチャンピオン戦と言うのがあるんだけど其処へ出すかどうかも馬主の人次第で出さなくても良いことになったから勝ちやすいレースに出す人もいるんだよ」
続けてマックは馬券を売るために工夫しているんだよと話したが明子や雛には理解できても了介には難しすぎたようだ。

容たちは競馬場へ入りたいと言うのでうちは明日の順番で今日は他の人たちの馬しか駆けるのを見られないがと言いながら寅吉の馬車と3台連ねて遠回りして競馬場へ入った。
その時間は丁度墨染が入ってきたがマックが聞き合わせたところ岩川は参加を取りやめたという噂で横浜へついていないそうだ。

共同競馬会社主催の不忍池競馬場で2回墨染に勝ったと言う岩川はなぜ出てこないのか様々な噂が飛び交いだしていた。
雑種馬はレースが3レースしかなく其のうちの2日目ハナタチバナと3日目リューオーとリューセーの仔の2頭を登録していた、3日目は別にチャンピオン戦があるので勝ち馬をそれに出すには初日にもと畑蔵が言うがマックは賛成しなかった。

ニッポン・レース・クラブの役員も顔を出して墨染を見に来ていた。
Mr.キングドンも顔をみせていたし前の県令で今は駅逓総監の野村靖も県令の沖と顔をみせていた。
駅逓は郵便業務を扱う役所で農商務省に所属する機関だ。

キンドンがマックたちのほうへやってきて「君のところの馬たちの調子はどうだね」と聞いてきた。

「明日の調教に登録した8頭全てを一回りさせるので今はまだ絶好調とまでは言えませんね」

「リューオーが親譲りの名馬の素質ありだとトメが教えてくれたがね」

「リューオーは良いですね。まだ若いので今回は1回だけですが来春からは参加を増やせそうです」

「まったく君のところは慎重すぎるよ。二日目の外務省挑戦は1着が500ドルだよ。どれで狙うんだね」

「今のところ有力馬が見当たりませんよ」

「中々本当のところを言わんな。墨染は岩川に負けてメーカーは2.5倍つけたが」

「ええ寅吉たちと仲間で全参加レースに其の条件で受けると言うので一レース50ドルで6回分を預けましたが出ないレースの分は返還と決まりました」

「そいつは良いな今日もそれで受けるならわしも賭けに乗るかな。あの走りなら3日間出てきても調子はもちそうだ」

マックはリューオーが3倍と言うので200ドル、ハナタチバナには4倍で50ドル賭けた。
そのほかの6頭には20ドルを賭けたので120ドル、670ドルを6人で112ドルずつ出し合ったが赤字にならなければ良いというくらいの気持ちのようだ。

容たちには寅吉が「鉄橋の富竹に5時だよ。食事は珠街閣だが其の前に圓朝の芝浜と圓生の文七元結(ぶんしちもっとい)を聞きに行くんだぜ。吉川さんはどうされますか」ととって付けたように聞いてみた。

「圓生は聞いた事がありますが圓朝を聞いた事がありません。師匠と弟子の競演ならぜひともご一緒に、其れと其の時間なら息子たちも着いて居りますので連れて行きたいのですが」

「ではそちら様が5名と此方が4名で5時に富竹の前でお会いいたしましょう」

容と吉川夫妻は子供たちと馬車を連ねて競馬場を後にして間門の牧場へ向かった。

途中不動坂を下り白滝不動尊の滝を見上げて「箱根と違い大きな山も無いのに水量が多いですな」と静雄は感心して見せた、全員で急階段は息をつきながら登って参詣した。

白滝山不動院と今は呼ばれていて荒沢不動と二つのお堂が並び坂で見ると昔ペリー達がつけた名前のミシシッピーベイの様子は今も変わりなく遠く冬の澄んだ空気に浮かび上がっていた。
不動尊の周りは大きな茶屋に小さな休みどころ、宿屋もありそのうちの看板も無い板塀に囲まれた家の前に止めてある馬車を目当てに其の家へ向かった。

お茶を頂き身じまいを整え間門に下り、牧場で引退した馬たちと遊び一の谷二の谷三の谷と廻って本牧の十二天へ参詣した。

山手公園へ向かい東屋で一休みしているとハンナが子供たちとやってきて合流して元町百段を上からでなく下から登ろうと話しが決まったためハンナは大人たち、子供たちは5人で詰めあって乗り込むと谷戸坂へ向かった。

谷戸坂から見る居留地は大きな建物がひしめき合っていた、元町は昔と違い明るい店が増えていてとらやの前はドーナツを買う人でにぎわっていた。
今はドーナツと和菓子の店になり義士焼きよりもドラ焼きを求める客が増えていた。

百段の前で馬車を降り階段を見上げて之を登るのかとハンナの顔を見る了介に「上の道から入って楽をするより苦労して上るからこそ、上で頂く大福にお茶が美味しいのよ。今日は何段有るか数えながら登りましょうね」とキャシーとエリカに「この間は96段しかなかったけど今日は何段有るかな」と明子にウィンクしてエリカの手を預けるとキャシーの手を引いて登りだした。

エリカが「OneTwo」と数えながら明子とのぼり雛は了介の手をとって登る事にした。

One hundred One。101段よ。また100段じゃなかったわ」
キャシーは不思議そうに明子に訊ねた。

「キャシーは101ね。エリカはどうだったの」

「私もone hundredとひとつ」

「それなら2人とも正確に数えられたのよ。この階段はよい娘が数えると101段あるのが正解なの」

「悪い子だと101段じゃなくなるの」

「途中で数えるのを面倒になる子は良い娘じゃないでしょ」
二人の子は明子の言葉に納得して嬉しそうに「ママ、私たちよい子だって」とハンナのスカートを揺すって踊りだした。

「まぁまこの娘達は」と言いながら3人でくるくる回りうれしそうに笑った。
茶屋のおかみさんたちも其の様子をほほえましく眺めていて容が皆さんに大福とお茶をお願いしますと声をかけると縁台にお茶の支度をして大福は大きなお皿ごと出してよこした。

容は水でハンカチを浸して子供たちの手をぬぐってそれぞれにひとつずつとるように勧めた。
食べ終わるとハンナがすばやく勘定を済ませていて、容は子供たちに手を洗わせて乾いたサビエットで綺麗にし、家に戻るハンナたちと別れると高田坂を元町へ下ると3時近くになっていて、いったん別れることにした。

「4時半頃福井屋へうかがいます」

「お待ちして居ります」

夕方の買い物に出てきた人を縫うように馬車は谷戸坂へ出て本通りから山手の家に戻ると明子の洋服を見立てて雛に着せ、ようやく気に入った2人をせかすように馬車に乗せたのは4時をすこし回った頃だった。

「お母様15分もあれば吉田橋までいけますのに」

「橋が混んでいると思ったより時間がかかるものよ」
それでもついたのは明子と雛の時計で4時31分、23分かかっていた。

寅吉とは5時の約束なので馭者台に乗ってきた長治に聞くと「圓朝と圓生は5時15分に始めて7時20分には話しが終わるそうです。其の時間にお迎えに伺って珠街閣へ7時45分と言うのがだんなのお考えです。お食事は8時と約束をしてあります」と何時の間に打ち合わせたのかと聞いていた吉川夫妻は不思議そうに聞いていた。

富竹は表まで人で溢れていて雛は席があるのかしらと心配そうだ。

「大丈夫よ、お店の人が先に着ていて私たちが来るまでよい席で楽しんでいて入れ替わって立ち見席へ移動してくださるの。お父様の一番の贅沢とお母様は言うけど其のおかげで自分たちも寄席で遊べますと嬉しそうに話していたわ」

長治が寄席の若い衆と話をして寅吉が中から出てきた「今英人ブラックの番が始まるから直ぐ案内させるよ」と長治と寄席のお茶子に頼んで前から7番目の席と8番目の席へ案内して顔なじみの店の人たちと入れ替わってもらった。

ブラックはヘンリー・ジェイムズ・ブラック、父親はあのジャパンヘラルドの元編集長でジャパン・ガゼットを創刊したMr.ブラックだ。

簡単な手品を見せながら居留地の可笑しな話しをして下がると軽快な出囃子に乗って圓朝がでてきた。

「師匠のあっしが先にでると可笑しいとお思いでしょうが、本日は他へも出ませんといけませんので席を暖めさせていただきますが、圓生の芝浜は私が言うのもなんでござんすが今ではわたくし以上の話に仕上げてくれました」
などと言っているうちに文七元結の話しが始まっていた。

「やりたかないよぅ、だってお前死ぬんだろ、娘は死にゃしない。変な目で見るなよぅ。こんな格好の者に五十両持っている事は無いよ、なぁー。この金は先ほど娘が仲に身を沈めて作ってくれた金だ。 やるから、何かの折には、仲の方に手を合わせてやってくれ」若い奴を横殴りに殴りつけて金を置いていった。

1時間を越す話は人をひきつけて離さず話し半ばで泣いているのかしゃくりあげる声がもれる人もいた。

若い男は文七お店の男気で身を沈めたという娘を身請けして文七と添わせ其の文七が工夫した元結で財をなしたと話が結ばれ、圓朝は飄々と高座をさがっていった。

座が落ち着くまで三味線の音が場内に流れ新内が楽屋で語られていて其れが終わると出囃子にのって圓生が出てきた。

芝浜の市場と日本橋の魚市場の違いについて一くさり話をして本題に移った。

もともと腕はいいし機転は利く。すぐに信用は回復し、離れた得意先も戻った上に増えて三年目、借金はなく蓄えはあり、春の支度もできているという景気のいい大晦日の晩、湯から帰ってみれば、畳まですっかり新しくなっている。
女房は古い方がいいと福茶(ふくじゃ)を飲みながら、人間働かなくてはいけないと感慨をもらすと、女房が見覚えのある古い革財布を取り出し、あければ中身は二分金で五十両、実は三年前に芝浜で拾ったもの。

圓朝の涙を流させる話に比べ人生のなんたるかを考えさせる話に人間、真正直に働けば道は開けるという思いがしたのはここに居る観衆の多くが感じていたのだろう。

「一口、どうだい。お前さんに話をして許してもらったら、祝いに飲んでもらおうと思って、前々から支度をしてたの」
「やっぱり、よそう」
「どうしてだい。あたしのお酌じゃいやなのかい」
「いいや。また、夢になるといけねえ」と話しが結ばれるとホッと溜め息が漏れ圓生が頭を下げ、客を送り出す太鼓が打ち出されると大きな拍手が巻き起こった。

混み合う人の中、下足札と履物を交換してもらい表に出ると八十松に長治が「人力は河岸でお待ちして居ります」と先に立って案内して並んで待つ人力に2人ずつ乗り込んで居留地へ向かった。

長治が話したとおり7時45分には珠街閣に着いた。
表には朱大人が出迎えに出てきて一同を温かい店に案内してくれた。

店は3年前に3階建てに作り変えられ料理長のジアン(基炎)が顔を出してお酒を出しますか料理も直ぐ出せますよと寅吉に尋ねた。

「上海料理と合うかどうかわからないがシャンパンで乾杯して其の後直ぐ料理を出してくれ。今日はお酒はそれだけで良いよ」

寅吉がビールといわないので不思議そうに下がっていった。

焼き豚やくらげ、トンポーロに野菜炒めが出てきてにぎやかに食事が始まった。

日本式に炊いた飯と饅頭が出され食事も進み、いよいよ料理長自慢の3品が出された。

陶盤上牛肉(タオバンシェンニュウロウニ)は中国野菜の上に薄切り牛肉を置き、沸騰させたスープをかけて食べた。

蟹粉排翅、上海蟹肉入りフカヒレの姿煮込み、珍味のフカヒレの元ビレと上海ガニの味噌と蟹肉を一緒に煮込んだものだ。

上湯刷龍蝦(シャンタンシュアロンシャー)伊勢海老のスープ。

食事が済むのを見計らって聖玉が3人の子供たちをつれて明子にお別れの挨拶に出てきた、2人の女の子たちは共立の生徒で明子とは顔なじみだ。

一番上は男ですでに上海で料理の勉強をさせようと半年ほど前に本国へ渡っていて一番下の男の子は了介と同じ明治10年生まれだ。


明治17年(1884年)11月10日月曜日

いよいよ明子のボストンへの旅立ちの日がやってきた。

寅吉はあの時了介が洩らしたシアトルの姉さんと言う言葉を思い出しもしかすると向こうで結婚して日本へはもう戻らぬかと思うと涙が出そうになるが、容たちに気取られぬよう表面上は明るく振舞っていた。

「もう、お父様は私たちの旅立ちの日にそんな顔をしないでくださいな」

「手紙を毎月1度は必ず書くんだよ」

「大丈夫よ、電信もフランス経由で横浜へ通じているのよ。長崎あたりへ行くのと変わりありませんわよ」
明子は正太郎さんが話してくれた大陸横断鉄道の10日間の旅が楽しみよと了介と嬉しげに話していた。

「貴方私がお屋敷奉公へ3年のあいだ勤めた事を思えばすこし行き先が遠いという違いだけですわよ。お琴さんがお見送りにこられなかったのが残念ですがお体の具合はよろしいのかしら心配ですわ。昨日いただいた電報では風邪をこじらせただけでもう元気になったと言うことですが本当ならよろしいのですが」

「大丈夫だよ琴は大げさなことも言わないが心配させまいと気を使っているわけでも無いさ」

「叔母様は大丈夫のようですがお父様がその様な顔で見送りに現れると皆様が心配致しますわよ。喜重郎の小父様が早くお帰りになられればよろしいのに」

「本当ですわね。パリが気に入ったとご夫婦で3ヶ月も正太郎のご厄介になったままで帰りはギリシャ、エジプト、ボンベイと3ヶ月かけて戻るだなんて電報が着た切り雀ですもの」
容と明子に慰められてしまう寅吉はやはり顔がさびしげに見えるようだ、相棒の喜重郎が居無い横浜は幾ら馬や犬と遊ぶと言ってもマックやカーチスでは穴埋めできない寂しさがあった。

ジラールがいればと思う寅吉はその日も昔の彼のことを思い出していた、ゲーラやゼラルドにジェラードそしてジェラールと様々に呼ばれても平気で返事をして着いた当時のように「俺の名前はAlfred Gerardアルフレッド・ジラールです。同じフランス語でも読み方が違います」とかたくなな事は言わなくなっていた。
「だがゲーラには返事してどうするんだ」
マックや亡くなったゴーンさんにさえ言われて「何でも良いのさ。息子に娘さえ自分の名前は正式にはジラールだと判っていればいいさ」と言う始末だ。
瓦やレンガの呼び名もジェラール瓦、ゼラルド煉瓦と其の時々で違う書かれ方をされる始末だ。
そのジラールも文久3年(1863年)に横浜に来て明治11年(1878年)に流行やまいでスジャンヌ夫人と息子のエルネストが亡くなると7月に飛び立つように事業を人に譲り横浜を後にしてふるさとのランスへ帰ってしまった。

9時半、手回りの荷を持って1台は子供たち、寅吉と容はお松津さんと元を乗せて税関へ向かった。

元は明子つきの子守で今日の別れに朝から泣きどおしだ、今は結婚した氷川商会の手代と末吉町にいるが朝早くに別れにやってきたのを寅吉が馬車に乗せたのだ。
10時についてみると桟橋は多くの人が沖の船に向かう人たちの見送りに来てみやげ物売りも大勢出ていてにぎわっていた。

明子が留学の決まった事を伝えにおつねさんに会いに神田へ出向いたとき「泣くと旅立ちに不吉だからあたしゃ行かないよ」と言っていたおつねさんが女中の雪や文崇と藤吉に付き添われて税関の前に来ていた。
明子が駆け寄り「嬉しいわ、おばあさま」と手を取ると「あたしゃ来たくなかったけど千代が迎えに来て是が非でもと言うので来たんだ」と強気な事を行ったが明子に抱きしめられると涙が一滴落ちた。

千代は昨日の非番を朝から東京へ出ていたのだそうで店の者たちと一緒に見送りの人の中に居て其処から出てこなかった。
寅吉達の一行は元が泣き止まず、明子が「それなら船でアメリカまで着いてくる」とまで言われてようやく涙が止まったのを見て「ハハハ、元はアメリカまでゲーリックに本当に乗せられるかと吃驚したようだぜ」と寅吉に笑われた。

「本当についていけるなら嬉しいのですが、今から乗せてくれるはずも無いですし、あたしなんかがついていけば足手まといになることぐらい承知しています」
元は船が怖いわけで泣き止んだわけではありませんと口を尖らせた。

其の様子に回りのもの一同は笑い転げた。
明子が小さな元を抱きしめて「2年で帰ってくるから元気にしているのよ。おそのちゃんにも会いたかったけど之を渡してね」と懐から手鏡を出すとハンカチにくるんで渡した。
薗は願西寺の脇の元の管理する長屋の娘だ。

いわれて子供のようにはにかんだ表情で「お嬢様もお健やかにお薗ちゃんもお別れに来たがっていましたがお師匠さんが学校のほうが大事ですと許してくださいませんでした」と別れの挨拶を言葉すくなに告げて寅吉や容の後ろに下がった。

「お父様、お母様。明子はボストンでも日本人の誇りを忘れず精進いたします」

「勉強も大事ですがたくさんのお友達を作ってボストンの街の事も手紙に書いてくるのですよ」
容はわが子の立派な別れの挨拶を誇りに思うのだった。

「明子は自分のことだけでなく周りの人たちの様子にも気を配ってできるだけ勉強のお手伝いをしてくれると嬉しいのだよ」

「はいお父様。お父様もお母様も明子が戻るまでお健やかにお過ごしください。了介も元気でね。おばあさまも明子が戻った時今日と変わらぬお元気な様子で出迎えてくださいね」
迎えの艀に別れの挨拶を済ませた6人の留学生は一緒に乗り込み、桟橋の人たちへ手を振って沖の船へ向かった。

この年に売り出された地図にはサンフランシスコまで四千二百里と記されていた。
四千二百里の数字の出所を寅吉は船の里では英海里が本当で日本で言う里とは違うと明子と了介に教えておいた。
この地図の里程をフランス式のメートルに直すと当時の1英海里1853.793mで7786キロになるが、21世紀の今、国際海里は1852mで4525海里(8400km)が最短距離といわれている。

サンフランシスコまで26日、到着予定日は12月5日、夏場と違い航路は南によるために日数が4日ほど多く掛かるのだ。
4200里に従えば1日161里半、平均時速6.73ノット、勝が品川を出てサンフランシスコ港へ入港するまで43日余りかかった事を思えば半分近くまでに短縮されていた。

ゲーリックは最後の乗客が乗り込んだのを確認して汽笛を鳴らすと12時丁度に港から出て行った。
港には外輪船、スクリュー船に混ざり帆船も数多くいてゲーリックの出航に汽笛を鳴らす船、銅鑼を打ち鳴らす船と賑やかに旅立ちを祝った。

寅吉と容は了介とおつねさんたちを千代に預けて山手に向かわせると元を連れて末吉町へ向かい元とは店の前で別れ三階へ2人であがると容は今まで我慢していた緊張から解き放たれたごとく寅吉の胸で声を押し殺してないた。

「声を出して泣いて良いんだ。此処には俺とお前しかいない」

「貴方」
容は其れしかいえずさめざめと泣く様子は長年連れ添った寅吉もいとおしく思うのだった。

朝と違い寅吉は覚悟が決まったようだ、明子が向こうで結婚したなら此方から会いに行けば良いさとまで容に冗談のように言うとさすがに容は笑い出して「まぁ、貴方は、今朝と之では反対ですわ」と寅吉の胸の中でクスクスと笑い出した。
容は下へ降りて湯沸かしで熱い湯を運んでくると紅茶にブランデーと氷砂糖を入れて寅吉と2人で気持ちが落ち着くまで其処にいてから山手に戻った。

おつねさん達は今晩此処へ泊まり明日は雪や文崇に藤吉と共に12時の列車で戻ることになった。
文崇は伝次郎達からお呼びが掛かっていると千代と野毛へ向かい、寅吉は藤吉を誘って富貴楼へ向かった。

「コタさんあんたがたは自分の馬じゃなくて人の馬に300ドルも投資したそうね」

「もう此処まで話しが来てるのかい」

「ふん、私の耳はだてじゃありませんよ」

「なら三菱の本音も聞いてみてくれよ」

「そんなの決まりきっていますよ。もう赤字は沢山だと思い出しているのは確かですよ、でも弥太郎さんの意地でやめる事が出来ないのよ」

「共同と三菱は其れで良いが他の荷役業者が日本からいなくならないうちに手打ちにしないと困るのは街の者だぜ。横浜どころか長崎、函館と今は息も出来なくなってるぜ。其れより此方は義理の兄さんだたんと遊ばせておくれよ」

「あい承知さ、5人も呼べば良いかしら」

「頼んだぜ」
直ぐに何人かの芸者が呼び集められて藤吉もご満悦で祝儀も弾まれ座は盛り上がった。

お文が顔を出して寅吉を呼んだ「コタさんお安くないぜ」其の声に芸者たちは喜んで藤吉に同調したが、寅吉はさっさと座敷を出てお文の後を奥の部屋へ向かった。

其の部屋には伊藤がいた「今朝西郷さんと会ったよ。共同と三菱の争いにはわしは関係ないのだが朝鮮の雲行きも怪しくなってきたし国内でこれ以上共同に無駄遣いさせる余裕も無いのだ。コタさんの言う今すぐ戦争が起きる可能性が無いと言うのは信用できる話かな」一気に畳み掛けるように其処まで言った。

「私が受けあうと言うのもおこがましいですが、わが国から兵を送らない限り清国から戦争を仕掛けてはこないでしょう。出先機関のユアンシーガイは血の気が多いですがミンビの一族が要請すればキムオッキュン達を駆逐はするでしょうがそれ以上争いを大きくはしないでしょう。キムオッキュンのグループさえいさかいを起こさなければあの国は緩やかですが我が国との協調路線を歩むはずです」

「するとやはり元凶は金玉均一派か、わが国の民権派という奴らはなぜ隣の国で争いごとを起こすやからの応援をするのか理解できんよ」

開明派と言われる福沢に軍部の一部が後押しして戸山学校で学んだ朝鮮の急進派が何時改革と称する暴挙に出るかを寅吉は知らなかったが、日本のように天子を味方につけたほうが勝ちだと誤った認識のままでは危ういのは目に見えていた。

「高島さんも大きな動きは無いがわが国には不利な条件がありすぎると卦が出たことを教えてくれたよ。西郷さんも今かの国に戦を仕掛ける余裕など何処にも無いというし、何を言われても戦に持ち込まないことを承知してもらった。良いですな」

ふすまの向こうから「俺は戦を起こす手伝いはしないと誓ったからには守るよ。共同もこれ以上は争わぬよう後ろからあおる事はしない」と声が聞こえた。

「あの時の金と時計の借りは必ず返させて貰う」
其の声は2人の井上だった。

「正式にコタさんに会って表立っての約束は出来ないのは承知してくれ。お倉を使ってでもこれ以上悪化しないように話しをまとめる方向へコタさんの伝をフルに使ってでも納めて欲しい。3月以内に社長の交代、共同歩調を取り料金のダンピングをやめるように農商務から通達を出してもらう」

「判りました。私のできる事は全ての手を使っても話しがまとまるように致します」

井上勝は工部大輔、今鉄道寮は大阪に置かれていて10日前から横浜と新橋を忙しく往来していたと寅吉は情報を得ていた。
同じ留学仲間の山尾とは馬が合わないようだったが工部卿が山尾から佐々木に移行した3年前からは水を得た魚のごとく次々に鉄道の建設を民間にも広げる助言をしていた。

「中仙道から東海道に鉄道の路線が変更されると噂ですが」

「まさか、まだ準備段階で根回しに佐々木さんに一部の物しか知らぬことをなぜ知っている。西郷さんもまだ知らないはずだ」

「でどこは吉田健三ですよ。長官が大阪から出てきた事は聞いていましたが其の話とは知りませんでした」

「山縣さんは反対だよ、だから変更は無いかもしれない」

「長官のほうで試算なさっておられるでしょうが、佐藤先生が昔試算された建設費用は中山道5割り増し、直通運転時間差6時間も山縣様はご承知なのですね」
ふすまから勝は出てきたが馨はそのまま向こう側にいる気配がした。

「寅吉、君の意見があるなら聞こう」

「之は私の娘の意見ですが二つ案があります。ひとつは今の横浜駅を抜けて大岡川沿いを藤沢へ抜ける路線、之は佐藤先生、小野先生の上申した案です。あとひとつは神奈川駅から程ヶ谷へ直通させる案です」

「其の後の案では横浜が寂れるぞ、それで寅吉は良いのか」

「私は先の案をお薦めしますが、其れですと程谷、戸塚の宿が潰れます。まず政府部内でも反対の声が上がるのは目に見えていて難しくなりましょう。そうすると横浜、程谷、戸塚、と結ぶためにはスィッチバックで機関車の付け替えで運行するしか無いでしょう」

「やはりそうなるか。わしのほうでの検討した案でもそうなる。現在中仙道路線の建設は進んでいて変更は難しい情勢だ」

「やはり大垣から名古屋へ入る線を静岡へつなげ此方からの線とつなげるなら遅くも5年で完成できるでしょう」

「寅吉がそう考えるなら実現可能な案のようだがまだ反対の人は多いが」

「清国との戦が将来起きるなら物資輸送は重要な課題になるでしょう。神奈川、程谷直通の貨物線計画とスィッチバック計画の2本立てでまず進めることをお薦めいたします。中山道は其れと平行して10年計画と期間を長くして緩やかに勧め全線廃止では無い様にされることをお薦めいたします」

ふすまの裏から「それなら山縣君も松方君も賛成するだろう。共同の片がついたら次は鉄道だ。勝さんの計画案の具体的な収支予想と建設期間予測、路線計画表を来年中に出してくれたまえ」そしてまた声は消えた。

「計画が正式決定する前に東海道を藤沢、大磯付近までの計画図を出して話しが決まれば其の先静岡までどうするかを話すだけだな」

「まだ長いトンネル工事はわが国では出来ません。とりあえず何処からか御殿場峠を越せるように引くことになります」

「判った其の実測のための予算はわしから佐々木さんへ話しをして予算を付けるから人を出せるようにしてくださいよ」

「伊藤さんにそう言っていただけると心強いですな」

勝はそういうとふすまの向こうに下がった。

「そういうことだコタさん」

伊藤は之で此方の話は終わりだがと寅吉に言って何か話しを聞かせてくれる事はあるかと聞いてきた。

「また鉄道のことですが、横浜駅通り抜けの線が難しい情勢だと横須賀への分岐駅を地勢のよい鎌倉よりへ戸塚から持っていくように考えて見てください。東海道という道に拘らず宿場、宿場のあいだはカーブさせても敷設に便利な地勢を優先したほうが工費も掛かりません。今此処まで鉄道敷設か進んでしまいました上は中々レール幅を広くするのは難しいでしょうからあえて言いませんが将来電気式の鉄道の時代が来るための研究もする用意をしていただきたいのです」

「オイオイコタさんよ。其れは君の千里眼かい」

「いえ、欧米でも地下を通る鉄道、長いトンネルを抜ける路線は今の蒸気の機関車より必ず電気の力のほうが有利だと結論が出るはずです」

「地下鉄道か、話に聞いたし近い将来わが国にも作れる技術者が揃えば実現できるだろう。家を動かすよりその下を通させてもらうなら法の整備さえ今からしておけば町の中でも問題も起き難いだろう。勝さん其の研究の人員も選んでおくようだな」

「承知」
其の声を聞いて寅吉は客を待たせていますのでと廊下へ出ると其処で待っていたお文に「寒いところで待たずとも良いのにお文ちゃんは辛抱強いな」と声をかけた。

「いえ此処にいませんと酔った方が此方へ迷ってお入りになることもありますので」

「ありがとうよ、今度フランスの人形を土産に持って来ような、どれが良いかな」

「この間はジュモーでしたわ。おねだりさせていただけるなら他のものを」

「良いとも、約束したぜ」
指切りをしているところをお倉に見つかった。

「ま、コタさんはもうお文になにを約束させました」

「反対さ、フランスの人形を持ってきてあげると約束したのさ」

「其れよりちょっと相談がありますのさ。お文も一緒に廊下には芳江を行かせますからね」
芳江を角に座らせに行かせお倉について部屋にはいると亀さんと下駄屋の彦さんがいた。

「此方は賑座の小林彦太郎さん。ご承知ですよね」

「太田町の下駄屋の頃はよくお付き合いをさせていただきましたのでね。火事では半焼けだそうで、てえ変な目に会いましたね」

「賑座を立ち上げたばかりでまいりました。コタさんや此方様のように保険と言う奴にはいる手立ても知りやせんで参りやした」
言うほど困った顔をしていないのは諦めの良いほうなのだろう。

「再建の話で見えたんだが、糸平さんがなくなって後援者も今のところ現れないので俺が相談に乗って新しく地所も広げてと其処までは決まったが資金の相談さ」

亀さんは其の後お倉と成駒屋(芝翫)播磨屋(時蔵)松島屋(我童)が来春三月横浜での興行が決まったが劇場がなくて困っているので其れを新しい賑座で行いたいと寅吉が現れたのを幸いと金の相談に呼び込んだようだ。

「糸平さんのような信玄袋に金を入れてはいないがこれだけあればどうにかできるだろう」
そういうと革財布から正金の手形5枚を出して渡した。

「何だ、コタさんはこんなのを持ち歩いているのか」

其れは200円の手形5枚で千円だ。

「こいつは年三分の10年貸し出しでよければ亀さんの保証人で貸し出そう。それで2年分は役者へのご祝儀に座元から使って賑わしてくだされば良いから」

「てえと今年と来年は要らないのかい」

「今年の分は勘定に入れなくて良いよ。証文に来年の十八年一月一日(ぴ)から二十七年十二月三十一日までと書き入れてくれ」

「二十年から年三分の利で八年間利を払うのかよ。そんな少ない利でもよいのかい」

「そうだよ。其れとこいつは亀さんに貸すから良いように使いなよ。團菊を呼んで相談するにも金は必要になるだろう」

無造作に包みをポケットから出して亀さんに渡した。

「随分重いな」

ハンカチを開くと10円金貨が20枚入っていた。

「何時返せば良い」

「ふん、亀さんに金儲けが出来るとは思っちゃいねえよ。返す事が出来るようになって返す気がおこったらで良いよ」

「ならもらったと同じだ」

「其れだと無駄に使うから貸すと言うのさ。お倉さんから返してもらう気は無いから精々親方と美味いもんでも食べてくれ」
2人のやり取りを彦太郎の呆れた顔が見つめていた。

「それから余分の事のようだが其の三人玄人には受けるが横浜では看板では通用しないぜ、其れを承知で次の看板を探しておくことだな」

「失敗だというのかい」

「まず無理だな」

「其れなのに金を出すのかい」

「だから二年分は捨てるのさ。次に呼ぶには客が喜ぶ出し物を演じる役者にすることだな」

お文に送られて藤吉が遊ぶ部屋に戻り小一時間で勘定を言いつけて芸者衆には五円金貨をそれぞれにぽち袋で祝儀に渡した、座敷にきたときと帰るときで十円のご祝儀は横浜では珍しくも無い話だ。

藤吉を温かくしてある本宅の部屋へ容と2人で送り込むと直ぐに布団で高いびきを掻いて寝てしまった。

「まぁ、兄さんたら相当飲まされたようですわね」

「どうもそうらしい。俺は彼方此方呼ばれた挙句お倉たちが後押しする燃えた芝居小屋へ投資させられたが、その間ずっと芸者たちと杯の交換をしていたらしい」
部屋へ戻りながら了介の寝床をみると行儀よくぐっすりと寝ていた。

「この様子なら明子がいなくともぐずることもなさそうだ」
2人は肯いて自分たちの部屋へはいると容が投資したという話しを聞きたがった。

「下駄屋の彦さんな」

「ああ、あの質屋を始めて儲けたお金で芝居小屋を開けたばかりなのに半焼けの眼にあった」

「そう其の彦さんと亀さんが組んでの再建話さ」

「危ないお話ですこと」

「そういうことだがね」
容が入れたブランデー入りの紅茶を飲みながら「千円分の手形と二百円分の金貨を置いてきたからまず何とかなるだろうさ」と話しの経緯などを話して聞かせてから歯を磨きにたった。

その彦さんと亀さんは夜を徹して寅吉が言った話と新しい芝居小屋について話しを続けていた。

「寅吉さんが言うようにあの3人では無理でしょうかねえ」

「良いと思ったが玄人受けしても籐四郎には無理というからには何か團菊とは違いが有るのかも知れねえな」

「初代の高島屋は如何でしょう」

「左團次かい、役者衆の中では群を抜いているが呼べるだろうかな。今から手を打ってみるかい。五代目と鋳かけ松も良いかも知れねえな」

「最初のは15日興行として当たればまた呼べば済みますし。寅吉さんを信用するなら次の手も打って於きませんと」

「そうするか明日にでも東京へ行って見るか、200円のお宝があるんだ半分持っていけば二人で良い思いもできるぜ」

亀さんには大事に使おうという頭は無いようだが半分置いていこうと言うのは上出来のうちだ。

早くも弁天のヒラキでは祭文語りなどの大道芸人が客を集めていて一銭の木戸銭で二時間は楽しめるので人気だ。

ヒラキは莚掛けの大道芸人の小屋で、青木勝之助はもう10年も横浜を本拠に活躍し歌舞伎の題材を判りやすい言葉で語りだしていた、祭文語りという呼び名から協会名の東京浪花節組合からの浪花節という呼び名も定着しだし、国定忠治、赤穂義士伝など講釈ネタも取り上げて定席の板こそ無いものの町になくてはならない芸能だ。

東京では10年ほど前から麻布の福井亭が後押ししていたが横浜ではまだ定席の寄席は実現していないのだが寅吉は其れも誰か行うなら後押しはするつもりだと勝には話していた。

「落語の寄席には大分金を使うようだな」

「まさか三軒にそれぞれ月一円を払って木戸ごめんを喜重郎さんと二人で行うくらいですよ、講釈と義太夫はあまり行きませんので其処までしませんがね」

「何だ二人で一円か」

「そうですよ。二時間ほどで三銭か五銭の木戸銭ですからね。毎日顔を出しても良いくらいですぜ」
寅吉の子供時分にはこの祭文語りの浪曲の全盛では無いかと思うくらい人気が高かったし、娘義太夫はこれから全盛だろうと東京へ上がる親娘を引き止めて応援していた。


明治17年(1884年)11月11日火曜日

「おそのちゃんは必ず一世を風靡するぜ」
そういって大阪から昔の伝でフッキローを訊ねて来た二人を自分が後押しすると東京へ出る前にお倉や亀さんと手をそろえて支度を引き受けた。

昔の胡蝶太夫にお春たちの衣装を思い出し、男髷に肩衣姿、母親役の叔母である鶴勝のお勝さんが脇で三味を引く様子まで形を整え3人が見台を含む支度一切を整えた。
鶴勝とお倉が話し合いまず語り口を浪速訛りから関東風に近づけようと新三のかみさんの芙蓉をつけて親娘共々願西寺脇の長屋に手を入れて住まわせ、そこで特訓が始まった。

東京からは芙蓉の師匠の竹本綾瀬太夫を週に一度は呼び寄せての練習風景に喜んだのは長屋のかみさん連中で朝の読み合わせ、夕の語りなど贔屓連まで出来上がって応援していた。
薗は玉之助の名をもらって学校を出たら東京へ出る事になった。

「再来年には東京かねこのまま横浜にいて欲しいものさ」
おかみさんたちは薗にいてもらいたいが東京で名をあげてもらいたいという思いもが交差していた。

学校は老松へ時間の節約のため人力で通いと忙しい毎日は過ぎ去り芙蓉の教え方も厳しさを増していたが母親も懸命に関東風にあわせて勉強に余念が無いので薗は「楽しいのに苦しいだの大変だのといわれると変だわ」と学校の友達にも言うそうだ。

今日は根岸競馬の開催日、朝から横浜はお祭り気分で浮きだっていた。

この日、根岸牧場の馬は良いところがなく第9レースの農商務省景物(国産馬)でも7頭立てで1着は岡治善騎乗の墨染だった。

翌12日の水曜日、雑種馬でのレースも一着金堀、2着鴻雲、3着にやっとハナタチバナが入賞した。

この日も墨染は強く第2レース県令花瓶賞(国産馬)1マイル6頭立て1着、第8レース外務省挑戦賞典(国産馬)3/4マイル3頭立1着、共に騎乗は岡治善で、このレースは根岸牧場と銀閣牧場からの2頭をものともせずにゴールを駆け抜けていた。

11月13日の木曜日第5レースでようやく根岸牧場はリューオーでマイル戦を制した。
第7レース三菱賞盃では墨染に挑戦したのは僅か3頭、4頭立て1着に墨染がなり参加した4レースを全て制して喝采を浴びた。

第9レースのチャンピオン戦のHalf-Bred Handicap は5頭立てで宮内省の所属馬の金堀を松村延勝名義で参加した陸軍軍馬局の鴻雲が制して頭を取った。
この鴻雲は鹿毛で岩手県から第二回内国勧業博覧会に出品されたのを陸軍が800円で落札したのだ。

3日間の祭りが終わり牧場に戻った一同に収支報告にマックがにこやかに現れた。

参加費160ドル賞金380ドル、ブックメーカからの配当金の内訳も紙に書いてきたのを読み上げた。
墨染は4回なので100ドルが返還され掛け金200ドルに対して配当金500ドルだったのでこの馬で300ドル儲かったというと歓声が上がった。

一同は自分たちの馬で無い事は承知でもミカンの仔と言うのは承知しているのだ。

そのほかに170ドルの掛け金で7頭が負けたがリューオーが200ドルを600ドルにしてくれたので差し引き230ドル儲けたというと万歳の声が上がった。

寅吉達6人は670ドルの掛け金で1100ドルの配当と100ドルの返還金を受け取り1人180ドルを受け取ると後を牧童たちに分け与えることになった。
1人68ドルといえ儲けが出たのは嬉しくおまけに牧童たちに感謝されるのは良い気持ちだ。

マックと寅吉は340ドルに足し前をして半分を公平に配当とし残りは慰労会を行う経費として畑蔵に「自分たちで好きなところで遊びな」と預けた。


話は正太郎のパリから大分ときも過ぎました。
横浜幻想のアンテロープ編の1872年(明治5年)からだと12年後の横浜です。
今回の話の中心は了介と明子になります。
2008年12月05日        阿井一矢
   

2008年12月30日 洋館 了

幻想と現代社会へ続く歴史の真実との狭間を探してくださいね。
教授からの原稿を小出しながら更新中 アイ

幻想明治 第一部 
其の一 洋館
其の二 板新道
其の三 清住
其の四 汐汲坂
其の五 子之神社
其の六 日枝大神
其の七 酉の市
其の八 野毛山不動尊
其の九 元町薬師
其の十 横浜辯天
其の十一
其の十二 Mont Cenis
其の十三 San Michele
其の十四 Pyramid

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明治4年1871年
 
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カズパパの測定日記


幻想明治ーピラミッド

妄想幕末風雲録ー1