項目別バックナンバー[6]:その他情報:12
社説
新聞は2面性があります。
ひとつは、客観的にニュースを報道することです。
もうひとつは、各新聞が主観的に意見を述べる事です。この代表が「社説」で
す。最近この社説が、他の新聞等の記事・社説を盗用している事が報道され
ています。
主観的に意見を載せる場所に、他の意見を盗用していたわけで、1:盗用、2:
主観的意見の放棄という二重の問題があります。
引用は通常に行われますが、当然ながら出典の明確化とそれから発展させた主
観的な意見が必要です。盗用はどちらも欠けますので責任は重大です。
偶然に内容が似る事はありますし、同じ意見もあります。ただし、対象とする
主題が一般的でなければ、同じという事は非常に希になります。社説は時事
の新しい話題が対象ですので類似性は生じにくいと考えられます。
新書ブーム
XX新書が沢山登場しています。読む方は選べばよいとはいえ、似た題名の本が
溢れています。そのごく一部がベストセラーになりますので新規参入が続きます。
岩波新書で育った世代ですので、ロングセラーがイメージになっている者から
は、ちょっと読み捨てイメージの本も多く全て歓迎とはいえません。
出版点数のキャパはあるはずですので、特定の種類のみが増えてしまうのは気
にはなります。
そもそも、文庫と新書の型サイズを変える理由はなにでしょうか。何か理由は
有るはずですが分かりません。鞄やブックカバーには文庫用が多いので、新
書サイズには何かメリットがある筈だとは思うのです。
10年後にどれくらいが生き残っているでしょうか。
無党派層
選挙が続く時期です。一時期は二大政党時代が近づいたとの説も流れましたが
今は「無党派層」が第1党??です。
勿論、そのような政党はないので、投票率や投票行動が一定した政党に向けて
行われないという状況が生まれます。
この事が、マスメデイアも影響を受けやすい危険性もいわれますが、逆にマス
メデイアも掴み切れない結果を生み出す事も多いです。
無党派は、政党の思惑もマスメデイアの思惑も崩す傾向があります。毎回、是
々非々な行動は、非常に大きな動力ともいえます。
準惑星
惑星の定義が話題になり、数が増えたり減ったりの議論の末に、冥王星が惑星
からはずれ準惑星となりました。
天体関連の発見や情報は、色々な所に文献や情報として残ります。小説・音楽
・絵画・その他色々なものに取り上げられます。
従って、その内容が現在と異なる事は間違いではなく、その時代の情報として
理解されます。
冥王星の発見から、惑星から外れた期間は惑星9この時代として登場します。
それ以前は登場せず、今以降は準惑星として登場します。
結構、専門外の所の記述からその時代が分かる事は興味があります。
リレーの引き継ぎ
本来は個人種目の競技を、団体化した競技がリレーです。色々な方法で引き継
ぎが行われます。
引き継ぎには独自のルールがあり、引き継ぎミスは競技上でマイナスになる時
と、ルール上で失格になる時があります。
これが、1+1が2にならない為にリレー競技が成立します。
駅伝での、次走者の待機遅れ・陸上トラックのバトン渡しミス・水泳のタッチ
と飛び込みのタイミングミス・ショートトラックスケートの進路妨害などリ
レーにまつわる意外性は無くなる事はありません。
ミスした選手の気持ちは複雑ですが、何故か日本人にはリレー団体競技は好ま
れる様に感じます。
指導者の輸入と競技者の輸出
人間をもののようにたとえるのは良くないですが、現在のプロ野球の状態です。
有力選手は大リーグに移籍して、かなり実績を上げています。
一方では、日本国内では外国人監督が急激に増加しました。
個人では国際レベルに達することが出来るが、チームとしてはそのレベルの指
導者が不足しているということでしょう。
もっと簡単にいえば、名選手と名監督は異なる事に気づいていないレベルが、
日本の野球レベルかと思えます。それがどの立場の人の問題かは意見は異な
ると思いますが。
マニュフェスト
マニュフェストは選挙の必要なものとして注目されていますが、一時のブーム
をすぎると建前や形のみなっている傾向が指摘されています。
いわく、内容がない・あいまいである・定性的で数値目標がない等です。
公約の具体的記述といわれた時期から、何故後退したのか不思議です。
まだ、単なる形だけと考えている人が多いと思われます。一時の道具としての
認識では、後に憂いを残さないためにあいまいにすると思います。
もっと、選ぶ側が監視する必要があるでしょう。
学力調査
学力の低下が問題になり、ゆとり教育の是非が問題になっています。その根拠
はという事で、国による学力の一斉調査が実施されました。
これに対して、個人情報管理との批判があります。
問題意識としては分からない事はないです。
しかし、それではそれ以前の学力やゆとり教育の議論は何を基にしたものだっ
たのでしょう。データによらない単なる推定か、あるいは小さなサンプルか
らの全体の類推だったのでしょうか。
調査・データ集めのみでは、批判はあります。如何にそれを生かす事ができる
かで今後のまともな議論が進む事を願います。
反復教育とゆとり教育
学力調査ばかり書いている気がします。しかし、漢字の読み書き調査の結果は
多くの人に衝撃を与えたと思います。いくら何でも・・・。
40年以上前の頃は、いわゆる反復教育の時代でした。同じ事を難解も唱和し
たり、実際に書いたりして憶えました。やっている時は時間の無駄と思わな
かった訳ではないです。しかし教育とは、そういうものと思っていました。
いわゆる予習・復習の繰り返しです。従って時間もかかり、あまりゆとり教育
とは言えない内容でした。
現在は、ゆとり教育とか、実社会で要請のある内容(10-20年後が予測出
来る事が前提で疑問ですが・)とかが主流と聞きます。その結果、学習側に
習得度の大きな違いが生じたと感じます。
これは基礎教育ですので、先にゆくと大きく差が開く可能性があります。所が
格差社会反対意見があります。義務教育で生じた基礎教育で既に差が生じさ
せてしまって後の、平等は無理な意見です。結果よりの、初期の原因の対策
が直ぐにも必要です。
審査員人数
賞と呼ばれるものには審査がつくものです。
そして、しばしば問題になるのが審査員人数です。人数が多い程、公平でしょ
うか。統計的には無限極限定理があるので人数が無限大ならば、誰が審査員
でも同じ(あたり前か)になります。誤差の範囲でそれに近づくには、構成
員が特殊な性質を持たなければ100人で充分、10人以上でもある程度は
充分可能とされています。
審査員の性格に偏りがない事を前提にしていますが、実際には無理と思うので
人数を増やす事で公平性を増すことは統計的には期待しにくいでしょう。
平均的能力ではなく、一部の特殊能力を持つ人による少数(含む1人)での審
査も無視できません。審査する内容が、特殊なものであれば逆に有効に働き
ます。
最近、中途半端な人数での審査であたかも公平な審査を装ったものが多くなり
ました。しかしそれを保証するものはありません。