第伍部-和信伝-陸拾陸

第九十七回-和信伝-

阿井一矢

 
 

  富察花音(ファーインHuā yīn

康熙五十二年十一月十八日(171414日)癸巳-誕生。

 
豊紳府00-3-01-Fengšenhu 
 公主館00-3-01-gurunigungju  

文化十二年五月六日(1815613日)四日市

伝馬町“ 小出太兵衛脇本陣 ”の朝飯は明け六つに頼んで於いた。

鶏飯の肉入りと無しを全(チュアン)の希望で両方出してもらった。

「宮宿では鶏肉を入れないが、薩摩や日向では鶏肉を入れるそうだ」

ュイミィー(玉米・玉蜀黍)を入れて炊くのだと江戸で聞いたが、薩摩は入れないという。

江戸で食べてこれなら是非本場の味と比べたいのだそうだ。

「鶏肉無しではつまらないね」

「味噌汁が付くので和国の者には十分だそうだ」

有松、鳴海の二軒の老舗の手代たちは五つ半近く(七時五十分頃)、荷と共に遣って来た。

叶庸(イエイオン)はそれぞれから一疋ずつ出させ、比べてみていたが「宜しい」と和信(ヘシィン)から八両ずつ出してもらった。

白木綿二十五反、絞二十五反、最上級絞二十疋を二軒分、竹で編まれた葛籠六荷に分けていれた。

昨晩脇本陣の前に有る葛籠屋に注文したら、御誂え向きのが有ると持ってきた。

渋紙で内張り、外張りまでしてある、模様は紋散し、一つ二朱は安く感じた。

「がさばらなけりゃこれをたくさん持ち帰りたいものですね」

和信(ヘシィン)が笑ってそう言っている。

木綿重量が約五十五貫と進藤常吾郎が川原幸三と向郷三郎兵衛に話している。

「桑名から本馬二頭増やすように加藤に頼みました」

朝の一番舟で会計方の加藤淳之助が桑名へ先行している。

「そうしてくれて助かる。西国街道は西の宮から黒崎湊まで船旅で馬次は要らないから」

向郷三郎兵衛が「親善使の人たち買い物と言えば本と布ばかりですな」と帳面を見ている。

「朝鮮使節や琉球使節が来るたびに百万両掛かると言うが、この人たちの総経費五千両で間に合いそうだな」

「江戸での買い物も千両用意したが二百両で済んだと叶庸(イエイオン)様が話していました」

「刀を売り込まれても断るくらいだ。欲しいのは絵草子に名所図会だそうだ。京(みやこ)に大坂でも知り合いに頼んでいた」

「太医の三人は薬を見て笑っていましたね。知らない薬剤は無さそうでした」

「皇帝の薬房から見れば大したものは無いのだろう」

脚気に虫下しが主な相談で「私たちは外科ではないので」と難しいのは知り合った各地の名医を紹介するくらいだと話す三人だ。

乗船時刻が近づき表に勢ぞろいしたのが四つ半(十時三十分頃)。

熱田奉行小山甚左衛門も見送りに船着きまで遣ってきた。

汐が引いているので小舟で借り切りの渡し舟へ乗り込んだ。

船頭が「風が良いので二刻は掛かりませんや」と言っている。

この時期だと五時間十分程に為る。

船は百石程度あり普段は五十人乗せるという。

値も上がり一人五十四文、馬一頭口取足付きで百四十八文、親善使一行は御定賃銭の貸し切りに、親善使から預かっている割増しを付けて頼んであると進藤常吾郎の話しだ。

昼食(ちゅうじき)は全(チュアン)が用意した粽を甘酒で食べた。

竹の皮を買い入れ、昨晩から脇本陣の厨房で支度をしていたのだ。

もち米、干し椎茸千切り、人参千切り、大根千切り、さすがに豚肉は無いので鶏肉を入れた。

胡麻油の香りがして旨い。

未の刻(十四時三十分)風が辰巳と替わり、順風になり桑名城が間近に見えだした。

叶庸(イエイオン)の時計で午後三時三十分に桑名の船番所へ着いた。

荷降ろしも済、荷駄も人足もそろえ、四日市へ向かったのが午後四時三十分過ぎ。

桑名宿から三里八町で四日市宿。

町屋川を渡ると縄生(なお)一里塚(九十七里目)

東富田の手前小川際に富田(とみだ)一里塚(九十八里目)。

向郷三郎兵衛の発案で焼き蛤を食べることにした。

焼きたての熱々が声をかけるのを待っていたとばかりに出されてきた。

「一人五個までにして置きなさい」

馬方にもそう言って四十文の括りを渡している。

加藤淳之助が先行して四日市二番本陣へ向かった。

三ツ谷一里塚(九十九里目)は東阿倉川村の橋手前三ツ谷立場にある。

三滝(三重)川の木橋を越えると四日市宿、陽は落ちている。

四日市代官所(陣屋)は天領三重郡二十五ケ村を支配している。

十五年前は大和郡山藩領だった。

一番本陣清水太兵衛 ”は札の辻の東側、二番本陣黒川彦兵衛は西側に為る。

今日の宿、南町“ 二番黒川彦兵衛本陣 ”は本陣に為って五年目、それ以前は太田本陣が有ったが没落、黒川彦兵衛は脇本陣から二番本陣になった。

酉の下刻(午後八時十分頃)に本陣へ入った。

文化十二年五月七日(1815614日)土山

四日市宿南町“ 黒川彦兵衛本陣 ”を明け六つ、卯の刻(四時三十五分頃)に旅立った。

土山宿の宿に変更が出たと山本仁之助が和信(ヘシィン)に話している。

「本陣、脇本陣に拘ることは有りませんよ。屋根が有るなら船旅の事を思えば極楽です」

「本陣の控えだと言いますから、大宿が格上げしたのでしょう」

土橋の続く立場の端に江戸から百里目の日永一里塚がある。

泊村を抜けると日永の追分。

杖衝坂の旧坂は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の伝説の坂。

「叶庸(イエイオン)殿」

「どうされました」

「松尾芭蕉の名はご存知でしょうか」

「俳句と云う物の大家と聞いて居りますが」

「此の坂で馬から転げ落ちたと自虐の句を残しました」

「居眠りでもしていたのですかな」

「そうらしいですな」

歩行ならば 杖つき坂を 落馬哉

宝暦六年、村田鵤州によって建立された句碑が有ると向郷三郎兵衛が教えてきた。

坂を下ると采女一里塚(百一里目)。

四日市宿から庄野宿までの街道沿いは天領に為る。

四日市宿から二里二十七町で石薬師宿だが「三時間ほど掛かりましたな」と向郷が訊いた。

「確かに時計は七時四十五分。三時間十五分は掛かり申しました」

坂を登り切ると石薬師宿、この地へ宿場が出来て二百年、此の宿には本陣が三軒有るが、旅籠は十五軒、脇本陣は無い。

中町に岡田庄兵衛本陣と岡田忠左衛門本陣。

本町に松本陣の小澤右衛門本陣、向かいが問屋場。

宿の京口先は下り坂、蒲川(がまがわ)の木橋先に石薬師一里塚(百二里目)。

石薬師宿から二十五町で庄野宿。

宿場の東周りに神戸(かんべ)藩一万五千石、藩主は本多忠升(ただたか)二十五歳。

質素倹約は米沢の上杉を凌ぐというほど藩の立て直しに励んでいる。

神戸城は鈴鹿川を越えた伊勢神戸にある。

宿の東の鉤手(曲尺手・かねんて)を曲がると加茂町、中町右手に本陣澤田兵左衛門。

先には高札場と問屋場、脇本陣楠与兵衛が街道右手に並んでいる。

庄野宿から二里で亀山宿。

庄野を出て川沿いを進むと汲川原に“ 従是東神戸領 ”石柱。

中富田の入口、曲がり角に中富田一里塚(百三里)。

川の手前に 従 是 西 亀 山 領 ”の石柱が有る。

西富田の先は椋川(むくかわ)、橋の先が和泉村。

和田道しるべは“ 従是神戸 白子若松道 ”裏に“ 元禄三 庚午年 ”とある。

街道鉤手(曲尺手・かねんて)に和田一里塚(百四里目)。

亀山宿の最も東に有るのが茶屋町、夜番のお小屋があり、その先に東海道から巡見道が右手へ分岐している。

此処の巡見道は中山道関ヶ原へ通じていると向郷三郎兵衛が叶庸(イエイオン)に教えている。

鍋町の夜番お小屋との間はあらゆる小見世が並んでいた。

東新町には大きな商店(あきないみせ)が軒を連ねている。

亀山宿の江戸口門(東の惣門)を抜けると東町、最初の夜番のお小屋から十三町あまり。

亀山領だが宿場は幕府道中奉行支配。

東町の脇本陣椿屋平左衛門、問屋を若林家と交互に務める本陣樋口太郎兵衛。

正面に大手門と高札場、鉤手(曲尺手・かねんて)で左へ進み、でころば坂までが横町。

「池の側」と呼ばれる亀山城の外堀、夜番のお小屋を境に西町、今は若林家が仕切る問屋場がある。

また鉤手(曲尺手・かねんて)で青木門への道脇に夜番のお小屋がある。

外堀の先に西新町があり、門へ通じる坂道は左右に屈曲している。

龍川左岸の崖の右手前に京口門(西の惣門)、京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所がある。

叶庸(イエイオン)の時計は十一時丁度。

亀山宿から一里十八町で関宿(せきじゅく)、先行は加藤淳之助が向かった。

野村一里塚(百五里目)は土塁が一丈は有る大きなものだ。

鈴鹿川の大岡寺畷(だいこうじなわて)は千九百四十六間半有ると向郷が教えてくれた。

関一里塚(百六里目)の先、関宿の東の追分に伊勢神宮一の鳥居が左側に有る。

伊勢別街道、伊勢外宮鳥居まで関の追分から十五里。

いせみち鳥居脇の二基の常夜燈には“ 元文五年 ”“ 享保七年 ”と彫られている。

問屋場に川北久左衛門本陣は中町街道右側。

街道の向かい側に伊藤本陣。

伊藤平兵衛本陣は間口十一間余、建坪二百六十九坪と進藤常吾郎が叶庸(イエイオン)に話している。

今日の昼食(ちゅうじき)は中町“ 伊藤平兵衛本陣 ”、時刻は十二時四十五分。

まず関宿名物の志ら玉で煎茶を喫した。

山菜おこわが出され叶庸(イエイオン)は「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋かと里謡に有るが此処の扱いもそれに負けて居りませぬ」と主を褒めた。

雑人たちも志ら玉(白玉)のもちっとした歯ごたえに三個の椀では物足りなさそうだ。

和信(ヘシィン)が「深川屋(ふかわや)陸奥大掾の関の戸を買いに人を出して下され」と頼んでいる、一町程西に店を構えている。

「夜の茶菓子に一人二つで二十人分」

そう言って南鐐二朱銀を三枚出した。

「一つ二十文、二朱で足りまする」

主がそういうので一枚取り下げ「では二朱で買えるだけお願いいたします」と頼んだ。

主は自分で出かけて買い入れてきた。

関宿(せきじゅく)は江戸初期には亀山藩領、慶長二十年・元和元年(1615年)に幕府領に為る。

寛永十三年(1636年)には再び亀山藩領に加えられた。

延享元年(1744年)三月、石川総慶が備中松山から伊勢亀山に六万石で移封されてくる。

伊勢亀山藩第六代藩主は石川総佐(いしかわふさすけ)二十一歳、九歳の時家督を継いだ。

叶庸(イエイオン)と和信(ヘシィン)の時計は午後の二時。

伊藤平兵衛本陣 ”を後に坂の下(坂下)宿へ向かった。

関宿(せきじゅく)から一里二十四町で坂の下(坂下)宿。

鈴鹿川を越え、一之瀬で道は緩やかだが上っている。

筆捨山を望む立場があった、四軒茶屋と呼ばれている。

また寄ってきた鈴鹿川を弁天橋で渡った。

辯天百七里目の一里塚は、坂の下一ノ瀬一里塚や沓掛一里塚と名が替わるので覚えにくいと向郷三郎兵衛が話している。

人家が増え、沓掛は二十町あまりの村で坂の下の助郷とされている。

百年ほど前、坂の下とともに一時は亀山藩領に組み込まれたこともある。

信楽代官の支配地で、多羅尾氏が鈴鹿郡では坂の下、石薬師、庄野、上野など広範囲にわたり支配している。

街道左手に松屋本陣、三軒おいて大竹屋本陣。

向かい側に問屋場、梅屋本陣と小竹脇本陣。

岩屋観音の先は元坂下、荒井谷 一里塚(百八里目)。

鈴鹿権現の鳥居から右手に急坂が有り休み茶見世が有る。

八町二十七曲がり ”というくらい道は急な上りを和らげる如くに折れている。

燈籠の並ぶ階段状の上り道が続き、馬の水飲み場では馬子も一服している。

澤の立場には堺屋、松葉屋、山崎屋、鉄屋、伊勢屋、井筒屋と休み茶見世六軒が甘酒にぜんざい餅を売っている。

先は下り坂で猪除けが目立つている。

山中一里塚(百九里目)は旧道に有り、道しるべは木の杭に“ ゐちいのくわんおん道 ”と出ている

下って猪鼻村立場は草餅、強飯(こわいい)が売り物、その先はかにが坂の下り坂“ かにがさかあめ ”は東海道名物だ。

田村川に架かる田村橋を渡る時、右斜め前方に見える社がある。

川原幸三が此処で先行した、時刻は午後七時に近い、暮れ六つの鐘が鳴っている。

「大分早い暮れ六つだね」

「陽がまだ落ち切っていませんよ。夕暮れ時で焦りましたかね」

提灯に灯を入れて進んだ。

安永四年に橋を架けた時、街道を動かして参道を横切るようになった。

土山一里塚(百十里目)は土山宿の手前。

江戸方入口の生里野(いくりの)は“ くしや ”が多い。

来見川は“ くるみはし ”が架かっていて、橋の先は旅籠が軒を連ねている。

街道左に脇本陣二階屋堤忠左衛門、建坪百九十六坪。

向かいに中町問屋場が有る。

街道の右手には土山喜左衛門本陣、建坪は三百二十五坪。

日野屋太郎左衛門は定飛脚問屋、叶庸(イエイオン)は草津への早飛脚を出した。
朝寅の刻には出るという、午の刻までには届けると二分で請け負った。

吉川町の鉤手(曲尺手・かねんて)右手に大黒屋立岡長兵衛本陣と問屋場に高札場。

向かい側に陣屋跡、土山は天領、陣屋は寛政二年(1800年)土山宿大火で類焼、多羅尾氏は信楽へ陣屋を移した。

土橋の大黒橋の先は旅籠も少なくなる。

土山宿は二十二町五十五間あると道中記には出ていた。

今日の宿は“ 大黒屋立岡長兵衛本陣 ”、進藤常吾郎も情報は無いようだ。

入った時刻は午後七時四十分、本陣の時計が暮れ六つを告げていた。

土山喜左衛門本陣へ泊まったのは松平讃岐守頼儀(まつだいらよりのり)四十一歳。

讃岐高松藩第八代藩主、借財が年の収入を越したとの噂だ。

参府の為の江戸下りだが、松の尾川が川止めで今日午後まで越せずにいたという。

土山は宿泊予定でなかったが前日六日に入れ替えを行ったと云う話だ。

四日市に居た山本仁之助まで今朝連絡が入るという事は、夜通しで連絡網が活動したようだ。

「どうやって川向こうと連絡をしたのでしょうね」

和信(ヘシィン)は疑問に思うのだった。

松の尾川は河原を入れれば渡し場付近が五十五間有ると向郷三郎兵衛が話してくれたが、連絡方法は知らないという。

宋太医、蔡太医、丹宝意医員、和信(ヘシィン)、叶庸(イエイオン)はそれぞれ八畳間。

全(チュアン)に雑人三人はそれぞれ六畳間。

山本仁之助他警護隊は八畳二間に六畳二間、四畳半三間が割り振られた。

食事は八畳二間、六畳二間を連ねたところに用意された。

彦根藩は本来亥年五月は参府の年だが、今年は日光東照宮へ将軍名代として詣でる為、昨年から江戸にいて帰国していない。

第十五代藩主井伊直亮(いいなおあき)二十二歳は三年前文化九年二月家督相続し、同年六月暇で帰国し(六月十八日初入部)、文化十年四月まで彦根にいた。

余談

弟の第十六代藩主井伊直弼はまだ生まれていない。

誕生 文化十二年十月二十九日(18151129日)。

第十四代藩主井伊直中は隠居後、四月には改修した槻御殿(けやきごてん)に移った。

隠居後の支給はほぼ一万石相当に達したという。

佐和山藩(当主)

井伊直政・初代(初代)慶長五年(1600年)~慶長七年(1602

井伊直継・二代(別家)慶長七年(1602)~慶長十一年(1606年)

彦根藩           (当主)

井伊直継・二代(別家)慶長十一年(1606年)~元和元年(1615年)

直継は実質彦根藩主の地位にあった。

家督の継承者としては分家の初代として本家の歴代当主としては数えないとされている。

直継は上野安中藩三万石を分知され、家系は三河西尾藩・遠江掛川藩・越後与板藩として廃藩置県まで継続。

井伊直孝・三代(二代)元和元年(1615年)~万治二年(1659年)

井伊直澄・四代(三代)万治二年(1659年)~延宝四年(1676

井伊直興-隠居後直治・五代(四代)延宝四年(1676)~元禄十四年(1701年)

井伊直通・六代(五代)元禄十四年(1701年)~宝永七年(1710年)

井伊直恒・七代(六代)宝永七年(1710年)

井伊直該-直治より改名・八代再勤-宝永七年(1710年)~正徳四年(1714年)

井伊直惟・九代(七代)正徳四年(1714年)~享保二十年(1735年)

井伊直定・十代(八代)享保二十年(1735年)~宝暦四年(1754年)

井伊直禔・十一代(九代)宝暦四年(1754年)

井伊直定・十二代再勤-宝暦四年(1754年)~宝暦五年(1755年)

井伊直英、直幸・十三代(十代)宝暦五年(1755年)~寛政元年(1789年)

井伊直中・十四代(十一代)寛政元年(1789年)~文化九年(1812年)

井伊直亮・十五代(十二代)文化九年(1812年)~嘉永三年(1850年)

井伊直弼・十六代(十三代)嘉永三年(1850年)~安政七年(1860年)

井伊直憲・十七代(十四代)安政七年(1860年)~明治四年(1871年)

廃藩置県

文化十二年五月八日(1815615日)草津

吉川町“ 大黒屋立岡長兵衛本陣 ”を 明け六つ、卯の刻(四時三十五分頃)に旅立った。

土山宿は東の田村橋から松の尾川の渡しまで、二十二町五十五間有ると向郷三郎兵衛が聞き込んできた。

松の尾川の渡しは川会所に札が出ていたが、乳下四十八文と有った。

松野尾村の立場は休む人で混雑していた、松の尾川の渡しの混雑が此処にも影響した。

土山宿から二里二十五町で水口宿。

水口藩は二万五千石、藩主は加藤明允(あきまさ)三十三歳。

前野、頓宮と過ぎ市場村、大日川の橋の手前に市場一里塚(百十一里目)。

三町ほど先、淀藩の飛領地が有るようだ“ 従是東淀領 ”の領界石が置いてある。

此の辺りから水口藩領に為るはずだと領境石柱を探したが見当たらないと向郷三郎兵衛が不審顔をしている。

従此川中西水口領 ”は今宿村の外れ稲川の西畔に見つかった。

今在家一里塚(百十二里目)を過ぎれば水口宿は近い。

小里(こざと)村と新城村の間、街道左手の野洲川に橋が有る、向こう岸は岩神と云う集落だ。

水口宿の東見附に入った。

山川に向かって下りの道は“ すべりさか ”と道中記にある。

作坂町(つくりさかまち)に、“ 鵜飼傳左衛門本陣 ”、“ 松葉屋文右衛門脇本陣 ”。

札の辻には高札場、道は真ん中に東海道、左右に分かれた三筋の道になる

旅籠町問屋場で荷駄の馬次をした。

正徳の定めでは、土山宿から二里二十五町の水口宿へ本馬百二十七文、人足六十一文。

水口宿より石部宿まで三里十八町で本馬百四十六文、人足七十文

川原幸三は五割増し(親善使持ち)で契約している。

和信(ヘシィン)は倍額まで出すと告げて有り、問屋場の出す計算書は二通、割増しの一通分は毎夜清算している。

水口石橋の東詰は三筋の道の合流点だ。

先には水口城天王口御門で街道は鉤手(曲尺手・かねんて)に右へ、左へ畝っている。

城を北から回り込むと真徳寺が右手、小坂町御門に百間長屋が左手にある。

江戸口から京口まで二十二町六間、また鉤手(曲尺手・かねんて)で西へ向かう。

林口一里塚(百十三里目)は神明社の参道に有る。

京口を出ると右手に伸びる若宮八幡の参道の鳥居が有る。

北脇畷(なわて)の両脇はかんぴょうの畑が続く。

泉一里塚(百十四里目)は泉村の出外れにある。

横田川に着いた、標柱には“ 従是東水口領 ”とある、此処までが水口藩ということに成る。

川岸の大燈籠、常夜燈は“ 安永八年建立 ”とある。

四面すべて“ 常夜燈 ”と彫られていて、基壇と二段目に、“ ”“ 東講中 ”とあった。

横田川は船高札に四人二十文と木札が下げてある。

船頭四人乗るというので渡船料は一人二十文だと向郷三郎兵衛が教えてくれた。

夏見一里塚(百十五里目)で叶庸(イエイオン)の時計は午前十時五十分。

「暑いですな」

和信(ヘシィン)に山本仁之助が話しかけた。

山夏見の立場からこの先の立場は心太(ところてん)が名物だ。

馬方五人、人足五人も含め、三軒の休み茶見世で冷えた心太を食べることにした。

黒蜜をかけて食べるのが流行に為った見世だという。

石部宿は東西十五町三間、道中奉行の管轄する本陣と膳所藩が管轄の本陣が有る。

東見附の木戸を抜けると左手に吉姫神社。

道中記は祭神に上鹿葦津姫神、吉比女大神二柱を書いてある。

街道右手に問屋場、並びに“ 三大寺小右衛門本陣 ”。

街道左に高札場、並びに膳所藩の管轄する“ 小島金左衛門本陣 ”。

鉤手(曲尺手・かねんて)先に石部一里塚(百十六里目)。

西の見附を出たのが十二時に五分前、九つの鐘が聞こえてくる。

石部宿から二里三十五町五十四間で草津宿。

林村に膳所藩の境界石が有る。

従是東膳所領 ”その先が六地蔵村。

この地蔵村は膳所藩の他に前橋藩(川越藩)、旗本領が有るという。

前橋藩(川越藩)はこの付近に飛領が多い。

向郷三郎兵衛が「入り組んだ藩域を調べたら何年も棒に振りましょう」と和信(ヘシィン)に話している。

「一度大整理でもすることになるでしょうね」

「反対が怖くて手を出しませんよ」

老中だって手を出せなくなるほど複雑怪奇だと思う和信(ヘシィン)だった。

六地蔵一里塚(百十七里目)は六地蔵村梅ノ木の立場。

梅ノ木の立場には石部へ一里、草津へ一里半と標柱が有る。

加藤淳之助が目川立場へ先行した。

小休み本陣の道中薬和中散ぜざい(是斎)の本家和中散大角弥右衛門。

梅木の和中散は権現様が腹痛を起こした時、ここの和中散を服用して以来街道で有名になった。

目川立場が近くなり上鈎(かみまがり)という鉤手(曲尺手・かねんて)に成っていてその先も右、左と曲がった。

この付近は近江三上藩一万石の領地、隣の岡村は膳所藩領。

近江三上藩の第五代藩主、遠藤胤統(えんどうたねのり)は二十三歳。

三上陣屋は有るが当主は在府大名。

目川一里塚(百十八里目)。

田楽茶屋が隆盛を誇っている、三町程の間に“ 元いせや ”隣が“ 古志まや ”一丁先に“ 京いせや ”。

元伊勢屋岡野五左衛門 ”では“ 田楽豆腐 ”と“ 菜飯 ”で昼食(ちゅうじき)と為った。

叶庸(イエイオン)の時計で午後二時三十分、草津へ向けて元伊勢屋を後にした。

川原幸三が、人足一人に叶庸(イエイオン)と全(チュアン)を連れて先行している。

東海道は草津川の北側を目川付近から通っていて、大路井(おちのい)で徒歩渡しとなる。

草津川の渡し場会所に三尺三十二文の札が下がっている。

中山道が草津川を越えて右手から合流、鉤手(曲尺手・かねんて)先の草津宿追分左手に 大黒屋弥助脇本陣 ”、“ 藤屋與左衛門脇本陣 ”、“ 仙台屋茂八脇本陣 ”、“ 田中九蔵本陣 ”、“ 柏屋十右衞門脇本陣 ”。

田中七左衛門本陣 ”は追分右手。

田中七左衛門本陣は別名草津本陣、もう一つの別名「木屋本陣」で知られている。

間口十四間半、奥行き六十二間、敷地千三百五坪、建坪四百六十八坪、二百六十八畳、部屋数三十九室。

その先右手に問屋場と貫目改所が有る。

川原幸三が先行したのは明日の荷駄と人足の手配も有るからだ。

此処、草津宿貫目改所は膳所藩の受け持ちに為っている。

土山宿から草津宿まで九里六町五十四間、草津宿は膳所藩領。

石部宿と草津宿の間は膳所藩領以外の飛領が複雑に組み合わさっている。

街道沿いは膳所藩領が多いと向郷三郎兵衛が話してくれた。

今日の宿は“ 田中九蔵本陣 敷地千三百十八坪、建坪二百八十八坪、建物の表間口十九間、奥行き五十八間半、部屋数四十一室と進藤常吾郎が木屋本陣と比較して和信(ヘシィン)へ告げている。

内玄関へ入ったのが午後三時三十分。

百二十人まで泊めることが可能だと主が胸を張って言う。

「お申しつけの食材は揃いました」

三月二十二日木曾路二日目草津を通り抜けた時、帰りの日時を告げ、食材費用二十二両預けたのはこのための仕度だ、必要な鍋を持ち歩くのは大荷物だ。

夕食は申の下刻(午後六時四十分頃)、台所近くの警護の武士の宿泊の間を繋げた大広間。

六畳二間、七畳半二間、八畳二間、四畳半二間、六畳二間が並んでいた。

叶庸(イエイオン)と全(チュアン)も支度の一端を担っている。

汁 湯葉と菜。

皿 若狭ぐじ干物。

皿 牛の味噌漬あぶり焼き。

皿 鶏のかえし焼き(ユーリンチー風)。

平 田楽、焼豆腐、隠元。

平 煮物、人参、大根、干し椎茸。

小鉢 鶏そぼろ煮。

小鉢 干瓢、牛蒡の煮物。

小鉢 大根浅漬け。

文化十二年五月九日(1815616日)京(みやこ)

草津宿“ 田中九蔵本陣 ”を六つ半・卯の下刻(五時二十五分頃)に旅立った。

日が昇るのが近頃同じで和信(ヘシィン)の時計で四時四十二分頃だ。

和国でも夏至の頃が一番早く陽が出るという。

此の年の夏至は五月十五日だと聞いている。

草津宿から三里二十四町で大津宿。

叶庸(イエイオン)は草津名物矢倉立場“ うばが餅 ”と大津名物大谷立場“ 走り井餅 ”を食べ比べるという。

昨日の内に持ち運び用の重箱二段を預けてあるという念の入れようだ。

「餅を餡で包むのと、餡を餅で包む差を食べ比べたい」

うばが餅 ”は一皿五個で二十文、“ 走り井餅 ”も同じだという。

街道を進むと木橋が有る、一町程先に追分の道しるべ。

寛政十年

右 やはせ道 これより廿五丁

渡し船なら矢橋湊より大津石場湊まで五十町。

正徳の定めでは草津宿から大津宿、荷物一駄(四十貫まで)百六十六文、乗掛荷(荷は二十貫まで)人共百六十六文、軽尻(からじり・荷は五貫まで)人共百九文、人足一人八十一文。

人足一人の荷の重さは五貫目まで。

草津と矢橋の間は、荷物一駄四十九文、乗掛荷人共四十九文、軽尻馬一疋が人共三十四文、人足一人二十五文。 

船賃は、荷物一駄二十九文、乗掛荷人共二十九文、馬一疋口附共十九文、乗客一人十九文。

うばが餅 ”の見世は卯の刻には注文の品を間に合わせる約束、叶庸(イエイオン)に風呂敷に包んだ重箱を渡した。

親善使は矢橋湊へは廻らず街道を先へ進んだ。

矢倉村の先、野路一里塚(百十九里目)。

野路の玉川、大亀川を越えた。

月輪池大萱(おおがや)一里塚(百二十里目)、此処は立場で休み茶見世が並んでいる。

しばらく行くと小さな道しるべ、街道右手の木の下にある。

右 せた

左 やばせ

神領の川を渡ると左手に建部大明神への参道が有る。

膳所藩の瀬田代官所が有る、唐橋東詰の休み茶見世は人で溢れている。

草津宿から三里二十四町で大津宿「此処でほぼ半分」だと向郷三郎兵衛が叶庸(イエイオン)に伝えた。

叶庸(イエイオン)の時計はまだ八時。

瀬田川を淡海の海へ向かうと松原となる。

鳥居川の集落の先が粟津一里塚(百二十一里目)“ 粟津の晴嵐 ”で有名な浜は山から吹き下ろす風で波立っていた。

橋の先に膳所の惣門。

北の惣門を抜けてしばらく行くと義仲寺門前に休み茶見世。

湖寄りの休み茶見世には鮓の暖簾がはためいている“ 御酒肴 名物源五郎鮒 御仕度 ”。

「鮒鮓はご存知かな」

「言葉の勉強で周った時に頂きました。美味しい物でしたが和信(ヘシィン)殿は二切れで飽きたようです」

叶庸(イエイオン)が二人前は食べ、銭五の手代に驚かれたのだ。

石場の先の鉤手(曲尺手・かねんて)を左に折れると一里塚が有る。

石場一里塚(百二十二里目)。

大津宿は南北一里十九町、東西十六町半、街道は和泉町から京町へ真っ直ぐと続いている。

大津宿から三里で京の三条大橋。

札の辻で左へ折れて下八町へ入った、右へ折れれば御蔵に代官所、直進は西近江路(北国街道)、京(みやこ)へ小関越えの街道が有る。

上西八間町松屋町通向かい側に肥前屋九左衛門本陣が有る、その先が逢坂越えの入口下関寺町になる。

大坂屋嘉右衛門(大塚本陣)先に牛車(うしぐるま)の轍石がひかれている、車石と言うそうだ。

京に向かって右側に車石を敷き、左側は人や馬の通る道としていた。

朝大津を出た牛車の最後尾は山科へ入る頃だ。

大津八町筋から京都三条大橋に至る三里に轍(わだち)を刻んだ花崗岩の切石を文化三年に施設した。

「噂では京(みやこ)の心学者・脇坂義堂が十年前、文化二年一万両の工費を出して作らせたそうです」

「一人で一万両は大げさではありませぬのか」

(一万両の費用のうち脇坂と近江国日野の商人中井源左衛門らが七百五十両を拠出との資料あり。その他の費用負担者は不詳)

幕府は牛車の禁止から運用の奨励へ舵を切った。

その手始めが大津から京(みやこ)への荷の運搬路だ。

主な荷は米俵だ、九俵積むと車とで二百貫を越えていた。

木食養阿(もくじきようあ)上人をはじめこの街道の整備をしたものは多い。

脇坂の資金提供は幕府を動かし、文化三年正月七日までに準備が整い、工事に取り掛った。

三里あまりの普請は三月二十一日までに完了した。

午前は京(みやこ)行き、午後は大津行きの牛車を通した。

二十三年前の寛政四年大津港に入港した米(七十四万俵)の内、京都に送られた「為登米(のぼせまい)」は三十九万俵、街道に車石がひかれていた文政十年には七十五万俵が送られている。

三十九万俵を三百日稼働で割ると一日平均千三百俵、九俵積んで百四十五台が往来した。

米だけでこの数字だ、道の傷みを補修するのも大変であったはずだ。

三里の峠道で午前中に京(みやこ)入りするには二刻(四時間)必要で、最後尾が大津宿を五つ(辰の刻)に出る必要がある。

京師(けいし)の人口は四十万人を超えている、米の需要は大きい。

峠の“ 逢坂常夜燈 ”には“ 寛政六年 ”の文字が彫られている。

走井が有り、立場に“ 走り井餅 ”の休み茶見世が有る。

遠くで九つの鐘が鳴る、和信(ヘシィン)の時計は鳴り終わりで十二時丁度。

山本仁之助は此処で一休みと休み茶見世へ声をかけた。

叶庸(イエイオン)重箱を出そうか悩んでいたが止めにしたようだ。

近江と山城の国境の標柱の先に走井一里塚(百二十三里目)が有る。

山科追分は髭茶屋追分(ひげちゃやおいわけ)、道しるべは“ ひだりハふしミみち ”“ みぎハ京のみち  ”参勤行列は京(みやこ)へ入ることが許されず伏見へ回ることに成る。

大津宿から伏見宿へは四里八町。

先には小関(こぜき)越えをして来た道と此処で行き会う追分。

正面“ 三井寺観音道

右面“ 願諸来者入玄門

左面“ 小関越

又追分が有る「五条別れ道標で御座る」。

右三條通

左ハ五条橋 ”その下は二行に“ ひがしにし六条大佛 ”“ 今ぐまきよみず道

「これは分かりにくいで御座ろう。東と西の本願寺、燃えてしまいましたが方広寺の大仏。今ぐまは今熊野で清水寺と同じ道と言うことで御座る」

向郷三郎兵衛は和信(ヘシィン)に細かく教えた。

一里塚は山科陵の御陵一里塚(百二十四里目)。

山科の奴茶屋は「文安四年と云いますから三百五十年以上も前から此処で休み茶見世を開いて居るそうですぞ」と往古からの見世と云う。

上り下りが続いて、京(みやこ)から戻りの牛車(うしぐるま)が列をなしている。

日ノ岡峠を降りると粟田口。

三条大橋は幅三間、長さが六十一間、三条、五条の橋は管理が京都奉行所の管轄。

三条大橋を渡り高瀬川の先を左へ、三条河原町下ル大黒町の海老屋村上専八へ入った。

時刻は午後の一時五十五分、六里二十四町は休憩を入れても八時間三十分。

六畳間が多く如何にも本陣造りとはかけ離れていた。

南に高瀬川の西側を入る五番目の舟入が有る。

舟入とは船溜所を言う、此処で高瀬舟は荷の積み下ろし、舳先の向きを変える。

一之舟入で東西四十四間五尺、南北五間という大きな堀だ。

水深は一尺、川幅四間、延長五千六百四十八間三尺の高瀬川、行き来する舟は船首が反り上っている。

高瀬舟は大きいもので十五石積、長さ六間一尺幅六尺八寸、小ぶりで十石積、長さ五間五尺幅六尺五寸に作られた。

淀川の過書船三十石船は全長九間二尺、幅八尺三寸有ったという。

慶長十九年に取り決められたのは舟一艘に対し、幕府納入金一貫文、舟の維持費二百五十文、角倉家手間賃一貫二百五十文。

一回の船賃は二貫五百文となる。

二条大橋西畔から鴨川の水が流入。(一之舟入)。

七番目の舟入下流、四条大橋の下流、どんぐり橋で鴨川への水路が有る。

東九条で鴨川と交叉、竹田街道を横切り、伏見へ入り宇治川へ注いでいる。

江戸の長崎屋の様に此処も薬種の小売りと問屋を兼ねていた。

主な看板に“ 龍脳取次所 ”歯磨き粉の原料の一部で珍重されていた。

江戸では丁字屋歯磨が房州砂(琢砂)に丁字、龍脳などの漢方薬(香料)を配合して大当たりした。

親善使九人と護衛十人は“ うばが餅 ”で茶を喫した。

餅をこし餡で包み、白餡と山芋の練り切りをのせた“ うばが餅 ”と羽二重餅で餡を包んである“ 走り井餅 ”の味の違いを話している。

 
 

 第九十七回-和信伝-拾陸 ・ 2026-02-15

   

・資料に出てきた両国の閏月

・和信伝は天保暦(寛政暦)で陽暦換算

(花音伝説では天保歴を参照にしています。中国の資料に嘉慶十年乙丑は閏六月と出てきます。
時憲暦からグレゴリオ暦への変換が出来るサイトが見つかりません。)

(嘉慶年間(1796年~1820年)-春分は2月、夏至は5月、秋分は8月、冬至は11月と定め、
閏月はこの規定に従った
。)

陽暦

和国天保暦(寛政暦)

清国時憲暦

 

1792

寛政4

閏二月

乾隆57

閏四月

壬子一白

1794

寛政6

閏十一月

乾隆59

甲寅八白

1795

寛政7

乾隆60

閏二月

乙卯七赤

1797

寛政9

閏七月

嘉慶2

閏六月

丁巳五黄

1800

寛政12

閏四月

嘉慶5

閏四月

庚申二黒

1803

享和3

閏一月

嘉慶8

閏二月

癸亥八白

1805

文化2

閏八月

嘉慶10

閏六月

乙丑六白

1808

文化5

閏六月

嘉慶13

閏五月

戊辰三碧

1811

文化8

閏二月

嘉慶16

閏三月

辛未九紫

1813

文化10

閏十一月

嘉慶18

閏八月

癸酉七赤

1816

文化13

閏八月

嘉慶21

閏六月

丙子四緑

1819

文政2

閏四月

嘉慶24

閏四月

己卯一白

1822

文政5

閏一月

道光2

閏三月

壬午七赤

       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
     
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       
       

第二部-九尾狐(天狐)の妖力・第三部-魏桃華の霊・第四部豊紳殷徳外伝は性的描写を含んでいます。
18歳未満の方は入室しないでください。
 第一部-富察花音の霊  
 第二部-九尾狐(天狐)の妖力  
 第三部-魏桃華の霊  
 第四部-豊紳殷徳外伝  
 第五部-和信伝 壱  

   
   
     
     
     




カズパパの測定日記