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文化十二年五月七日(1815年6月14日)土山
四日市宿南町“ 黒川彦兵衛本陣 ”を明け六つ、卯の刻(四時三十五分頃)に旅立った。
土山宿の宿に変更が出たと山本仁之助が和信(ヘシィン)に話している。
「本陣、脇本陣に拘ることは有りませんよ。屋根が有るなら船旅の事を思えば極楽です」
「本陣の控えだと言いますから、大宿が格上げしたのでしょう」
土橋の続く立場の端に江戸から百里目の日永一里塚がある。
泊村を抜けると日永の追分。
杖衝坂の旧坂は日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の伝説の坂。
「叶庸(イエイオン)殿」
「どうされました」
「松尾芭蕉の名はご存知でしょうか」
「俳句と云う物の大家と聞いて居りますが」
「此の坂で馬から転げ落ちたと自虐の句を残しました」
「居眠りでもしていたのですかな」
「そうらしいですな」
“ 歩行ならば 杖つき坂を 落馬哉 ”
宝暦六年、村田鵤州によって建立された句碑が有ると向郷三郎兵衛が教えてきた。
坂を下ると采女一里塚(百一里目)。
四日市宿から庄野宿までの街道沿いは天領に為る。
四日市宿から二里二十七町で石薬師宿だが「三時間ほど掛かりましたな」と向郷が訊いた。
「確かに時計は七時四十五分。三時間十五分は掛かり申しました」
坂を登り切ると石薬師宿、この地へ宿場が出来て二百年、此の宿には本陣が三軒有るが、旅籠は十五軒、脇本陣は無い。
中町に岡田庄兵衛本陣と岡田忠左衛門本陣。
本町に松本陣の小澤右衛門本陣、向かいが問屋場。
宿の京口先は下り坂、蒲川(がまがわ)の木橋先に石薬師一里塚(百二里目)。
石薬師宿から二十五町で庄野宿。
宿場の東周りに神戸(かんべ)藩一万五千石、藩主は本多忠升(ただたか)二十五歳。
質素倹約は米沢の上杉を凌ぐというほど藩の立て直しに励んでいる。
神戸城は鈴鹿川を越えた伊勢神戸にある。
宿の東の鉤手(曲尺手・かねんて)を曲がると加茂町、中町右手に本陣澤田兵左衛門。
先には高札場と問屋場、脇本陣楠与兵衛が街道右手に並んでいる。
庄野宿から二里で亀山宿。
庄野を出て川沿いを進むと汲川原に“ 従是東神戸領 ”石柱。
中富田の入口、曲がり角に中富田一里塚(百三里)。
川の手前に “
従 是 西 亀 山 領 ”の石柱が有る。
西富田の先は椋川(むくかわ)、橋の先が和泉村。
和田道しるべは“ 従是神戸 白子若松道 ”裏に“ 元禄三 庚午年 ”とある。
街道鉤手(曲尺手・かねんて)に和田一里塚(百四里目)。
亀山宿の最も東に有るのが茶屋町、夜番のお小屋があり、その先に東海道から巡見道が右手へ分岐している。
此処の巡見道は中山道関ヶ原へ通じていると向郷三郎兵衛が叶庸(イエイオン)に教えている。
鍋町の夜番お小屋との間はあらゆる小見世が並んでいた。
東新町には大きな商店(あきないみせ)が軒を連ねている。
亀山宿の江戸口門(東の惣門)を抜けると東町、最初の夜番のお小屋から十三町あまり。
亀山領だが宿場は幕府道中奉行支配。
東町の脇本陣椿屋平左衛門、問屋を若林家と交互に務める本陣樋口太郎兵衛。
正面に大手門と高札場、鉤手(曲尺手・かねんて)で左へ進み、でころば坂までが横町。
「池の側」と呼ばれる亀山城の外堀、夜番のお小屋を境に西町、今は若林家が仕切る問屋場がある。
また鉤手(曲尺手・かねんて)で青木門への道脇に夜番のお小屋がある。
外堀の先に西新町があり、門へ通じる坂道は左右に屈曲している。
龍川左岸の崖の右手前に京口門(西の惣門)、京口門は石垣に冠木門・棟門・白壁の番所がある。
叶庸(イエイオン)の時計は十一時丁度。
亀山宿から一里十八町で関宿(せきじゅく)、先行は加藤淳之助が向かった。
野村一里塚(百五里目)は土塁が一丈は有る大きなものだ。
鈴鹿川の大岡寺畷(だいこうじなわて)は千九百四十六間半有ると向郷が教えてくれた。
関一里塚(百六里目)の先、関宿の東の追分に伊勢神宮一の鳥居が左側に有る。
伊勢別街道、伊勢外宮鳥居まで関の追分から十五里。
いせみち鳥居脇の二基の常夜燈には“ 元文五年 ”“ 享保七年 ”と彫られている。
問屋場に川北久左衛門本陣は中町街道右側。
街道の向かい側に伊藤本陣。
伊藤平兵衛本陣は間口十一間余、建坪二百六十九坪と進藤常吾郎が叶庸(イエイオン)に話している。
今日の昼食(ちゅうじき)は中町“ 伊藤平兵衛本陣 ”、時刻は十二時四十五分。
まず関宿名物の志ら玉で煎茶を喫した。
山菜おこわが出され叶庸(イエイオン)は「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋かと里謡に有るが此処の扱いもそれに負けて居りませぬ」と主を褒めた。
雑人たちも志ら玉(白玉)のもちっとした歯ごたえに三個の椀では物足りなさそうだ。
和信(ヘシィン)が「深川屋(ふかわや)陸奥大掾の関の戸を買いに人を出して下され」と頼んでいる、一町程西に店を構えている。
「夜の茶菓子に一人二つで二十人分」
そう言って南鐐二朱銀を三枚出した。
「一つ二十文、二朱で足りまする」
主がそういうので一枚取り下げ「では二朱で買えるだけお願いいたします」と頼んだ。
主は自分で出かけて買い入れてきた。
関宿(せきじゅく)は江戸初期には亀山藩領、慶長二十年・元和元年(1615年)に幕府領に為る。
寛永十三年(1636年)には再び亀山藩領に加えられた。
延享元年(1744年)三月、石川総慶が備中松山から伊勢亀山に六万石で移封されてくる。
伊勢亀山藩第六代藩主は石川総佐(いしかわふさすけ)二十一歳、九歳の時家督を継いだ。
叶庸(イエイオン)と和信(ヘシィン)の時計は午後の二時。
“ 伊藤平兵衛本陣 ”を後に坂の下(坂下)宿へ向かった。
関宿(せきじゅく)から一里二十四町で坂の下(坂下)宿。
鈴鹿川を越え、一之瀬で道は緩やかだが上っている。
筆捨山を望む立場があった、四軒茶屋と呼ばれている。
また寄ってきた鈴鹿川を弁天橋で渡った。
辯天百七里目の一里塚は、坂の下一ノ瀬一里塚や沓掛一里塚と名が替わるので覚えにくいと向郷三郎兵衛が話している。
人家が増え、沓掛は二十町あまりの村で坂の下の助郷とされている。
百年ほど前、坂の下とともに一時は亀山藩領に組み込まれたこともある。
信楽代官の支配地で、多羅尾氏が鈴鹿郡では坂の下、石薬師、庄野、上野など広範囲にわたり支配している。
街道左手に松屋本陣、三軒おいて大竹屋本陣。
向かい側に問屋場、梅屋本陣と小竹脇本陣。
岩屋観音の先は元坂下、荒井谷 一里塚(百八里目)。
鈴鹿権現の鳥居から右手に急坂が有り休み茶見世が有る。
“ 八町二十七曲がり ”というくらい道は急な上りを和らげる如くに折れている。
燈籠の並ぶ階段状の上り道が続き、馬の水飲み場では馬子も一服している。
澤の立場には堺屋、松葉屋、山崎屋、鉄屋、伊勢屋、井筒屋と休み茶見世六軒が甘酒にぜんざい餅を売っている。
先は下り坂で猪除けが目立つている。
山中一里塚(百九里目)は旧道に有り、道しるべは木の杭に“ ゐちいのくわんおん道 ”と出ている
下って猪鼻村立場は草餅、強飯(こわいい)が売り物、その先はかにが坂の下り坂“ かにがさかあめ ”は東海道名物だ。
田村川に架かる田村橋を渡る時、右斜め前方に見える社がある。
川原幸三が此処で先行した、時刻は午後七時に近い、暮れ六つの鐘が鳴っている。
「大分早い暮れ六つだね」
「陽がまだ落ち切っていませんよ。夕暮れ時で焦りましたかね」
提灯に灯を入れて進んだ。
安永四年に橋を架けた時、街道を動かして参道を横切るようになった。
土山一里塚(百十里目)は土山宿の手前。
江戸方入口の生里野(いくりの)は“ くしや ”が多い。
来見川は“ くるみはし ”が架かっていて、橋の先は旅籠が軒を連ねている。
街道左に脇本陣二階屋堤忠左衛門、建坪百九十六坪。
向かいに中町問屋場が有る。
街道の右手には土山喜左衛門本陣、建坪は三百二十五坪。
日野屋太郎左衛門は定飛脚問屋、叶庸(イエイオン)は草津への早飛脚を出した。
朝寅の刻には出るという、午の刻までには届けると二分で請け負った。
吉川町の鉤手(曲尺手・かねんて)右手に大黒屋立岡長兵衛本陣と問屋場に高札場。
向かい側に陣屋跡、土山は天領、陣屋は寛政二年(1800年)土山宿大火で類焼、多羅尾氏は信楽へ陣屋を移した。
土橋の大黒橋の先は旅籠も少なくなる。
土山宿は二十二町五十五間あると道中記には出ていた。
今日の宿は“ 大黒屋立岡長兵衛本陣 ”、進藤常吾郎も情報は無いようだ。
入った時刻は午後七時四十分、本陣の時計が暮れ六つを告げていた。
土山喜左衛門本陣へ泊まったのは松平讃岐守頼儀(まつだいらよりのり)四十一歳。
讃岐高松藩第八代藩主、借財が年の収入を越したとの噂だ。
参府の為の江戸下りだが、松の尾川が川止めで今日午後まで越せずにいたという。
土山は宿泊予定でなかったが前日六日に入れ替えを行ったと云う話だ。
四日市に居た山本仁之助まで今朝連絡が入るという事は、夜通しで連絡網が活動したようだ。
「どうやって川向こうと連絡をしたのでしょうね」
和信(ヘシィン)は疑問に思うのだった。
松の尾川は河原を入れれば渡し場付近が五十五間有ると向郷三郎兵衛が話してくれたが、連絡方法は知らないという。
宋太医、蔡太医、丹宝意医員、和信(ヘシィン)、叶庸(イエイオン)はそれぞれ八畳間。
全(チュアン)に雑人三人はそれぞれ六畳間。
山本仁之助他警護隊は八畳二間に六畳二間、四畳半三間が割り振られた。
食事は八畳二間、六畳二間を連ねたところに用意された。
彦根藩は本来亥年五月は参府の年だが、今年は日光東照宮へ将軍名代として詣でる為、昨年から江戸にいて帰国していない。
第十五代藩主井伊直亮(いいなおあき)二十二歳は三年前文化九年二月家督相続し、同年六月暇で帰国し(六月十八日初入部)、文化十年四月まで彦根にいた。
余談
弟の第十六代藩主井伊直弼はまだ生まれていない。
誕生 文化十二年十月二十九日(1815年11月29日)。
第十四代藩主井伊直中は隠居後、四月には改修した槻御殿(けやきごてん)に移った。
隠居後の支給はほぼ一万石相当に達したという。
佐和山藩(当主)
井伊直政・初代(初代)慶長五年(1600年)~慶長七年(1602年)
井伊直継・二代(別家)慶長七年(1602年)~慶長十一年(1606年)
彦根藩 (当主)
井伊直継・二代(別家)慶長十一年(1606年)~元和元年(1615年)
直継は実質彦根藩主の地位にあった。
家督の継承者としては分家の初代として本家の歴代当主としては数えないとされている。
直継は上野安中藩三万石を分知され、家系は三河西尾藩・遠江掛川藩・越後与板藩として廃藩置県まで継続。
井伊直孝・三代(二代)元和元年(1615年)~万治二年(1659年)
井伊直澄・四代(三代)万治二年(1659年)~延宝四年(1676年)
井伊直興-隠居後直治・五代(四代)延宝四年(1676年)~元禄十四年(1701年)
井伊直通・六代(五代)元禄十四年(1701年)~宝永七年(1710年)
井伊直恒・七代(六代)宝永七年(1710年)
井伊直該-直治より改名・八代再勤-宝永七年(1710年)~正徳四年(1714年)
井伊直惟・九代(七代)正徳四年(1714年)~享保二十年(1735年)
井伊直定・十代(八代)享保二十年(1735年)~宝暦四年(1754年)
井伊直禔・十一代(九代)宝暦四年(1754年)
井伊直定・十二代再勤-宝暦四年(1754年)~宝暦五年(1755年)
井伊直英、直幸・十三代(十代)宝暦五年(1755年)~寛政元年(1789年)
井伊直中・十四代(十一代)寛政元年(1789年)~文化九年(1812年)
井伊直亮・十五代(十二代)文化九年(1812年)~嘉永三年(1850年)
井伊直弼・十六代(十三代)嘉永三年(1850年)~安政七年(1860年)
井伊直憲・十七代(十四代)安政七年(1860年)~明治四年(1871年)
廃藩置県
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